「スマホを導入しようと考えている」
ついにこの時が来てしまった。文は大天狗の短い言葉に頭を抱えるのだった。
幻想郷にそびえる妖怪の山を事実上支配しているのは天狗組織である。種族国籍もバラバラで少数の繋がりしか持たない妖怪達の中では非常に珍しい、縦社会が完全に構築された集団だ。そう、上下関係がきちんと決められている。
そして、妙なことを言い出して組織をかき回すのは上の立場の人間だと相場は決まっている。
天狗の中では天魔と平天狗に挟まれる中間管理職の立場の大天狗、飯綱丸龍。それが今回の話の発端だった。
「いえ~い、待ってました~!」
木々もまばらな高所の山中に建てられた東屋の下、机一つに椅子三つ。
椅子の一つに座って能天気に囃し立てるは、若手のホープを自称する烏天狗、姫海棠はたて。酒が入れば上司もどつくと評判の怖いもの知らずはここでも口を慎まない。
「いえーい、じゃありません。大天狗様は正気でいらっしゃるんでしょうかね?」
はたてよりよっぽど口を慎んでいない万年平の烏天狗、射命丸文がしらけ顔で異を唱える。さりとて文の失言も理解できないことはない。今までポケベルもピッチもケータイも無かった組織にいきなりスマホなのだから。
「私はいつだって正気さ。姫海棠が前々から熱望していたのもあって、私も組織改革の一環として検討は続けていたのでな」
「はあ、貴方は本当にはたてに甘いですよねえ……」
「何よー、龍様はみんなに優しいでしょ。だいたい一番甘やかされてるのは文じゃない!」
三流新聞記者同士でライバル関係にある文とはたて。よくネタの奪い合いで争っているが仲は決して悪くなく、必要とあらば気軽に協力を頼める間柄だ。
「まあまあ、まずは聞け。開発を依頼していた河童がついに試作機が出来たと持ってきてね。だから忌憚の無い意見を聞けるお前達にまずは来てもらった次第だ」
そんな二人の直属の上司に当たる龍が、涼しい顔で木箱を机に置いた。それに合わせてはたての瞳が輝く。なにしろ、その中身がずっと要望を出していた憧れの物に違いないのだから。
「開発はもちろんだが山童も基地局の建設でだいぶ苦労したようだ。正直、報酬もなかなか嵩んだよ」
「おお……おおぉ~……!」
ゆっくりと蓋を持ち上げた箱の中には、光り輝く(ようにはたてには見えた)スマートフォンが収められていた。それも四つ。
「ほほう、これはこれは……」
あまり乗り気ではなかった文もこれには目を引かれた。スマホ自体はたまに人里で見かける女子高生が持ち歩いているので初見ではない。
しかしあの河童が、ゴテゴテとコミカルな外見にしがちな河童が真っ当なスマホを、しかも四つも用意したのだから驚かざるを得なかった。
「一台では意味が無いからな。最低でも三台と言ってあったが頑張ったようだ」
「これ、もちろん私が使っていいんですよね!?」
「無論。お前と射命丸と私で一台ずつだ。それでしばらく使ってみて開発にフィードバックするからよろしく頼む」
「ぃやったー!」
全身を使って豪快に万歳をする、はたての喜びようは尋常ではなかった。"今どきの念写記者"なのにまだガラケー使ってるんですね、と例の女子高生から取材の際に言われて早幾年、もとい女子高生は女子高生のままなので年は過ぎていない。ともかくプライドが傷付けられたはたての念願がついに叶う時が来たのである。
「……それは良いんですが、もう一台余ってますね。誰かあと一人呼ばなかったんですか?」
「うむ、それだ。知っての通り天狗は……まあその、頭が固い連中ばかりだからね。スマホなんて使えない、使いたがらない奴ばかりで、頼めるのがお前達くらいなのよ」
机に肘を付いて、体を前に乗り出しての発言。龍も情けなくて大きな声では言えなかったらしい。作ったところでスマホ普及までの道のりは遥か彼方といったところか。
「なので希望者が出るまでこれは保管しておく。お前たちが使っていて興味を持った者がいたら推薦してほしい」
「あ、それなら私から推薦していいですか? ぜひ一緒に使ってほしい子がいるんです!」
はたてが手を一回、そして二回と挙げて猛烈なアピールをする。本当に遠慮を知らないが、龍としてはその方が姫海棠らしくて安心すると、優しい笑みを浮かべる。よって残りの一台はそのままはたてに委ねられた。
(はたてが推薦するってことはあいつなんでしょうね……)
文は小さくため息をついた。
基本的に誰とも親しげに会話するはたてだが、特に距離が近い天狗となると思い浮かぶのは数名。そして文とその予想された人物は、険悪でこそないが噛み合わない仲であったからだ。(噛まれたことはあったが)
◇
「──はあ、すまぁとほん、ですか」
「ふふふふ、そうだよー」
はたてが思わず笑ってしまったのは、目の前の白狼天狗の反応が予想通りすぎたからだ。
天狗組織では哨戒任務を務める犬走椛。飯綱丸が言う所のガチガチに頭が固い連中の一人であるが、それもむしろはたての気に入るポイントの一つだったらしい。
「つまりは多機能な電信のような物ですよね? はたてさんの頼みですから受け取りますけど……」
「電信って、椛は古いなあ。でも安心して、はたてお姉さんが手取り足取り使い方教えてあげるから!」
「はい、ご指導よろしくお願いします」
「堅い! 堅いよもみちゃんはー。コミュニケーションツールなんだからもっと気楽に!」
「はあ……」
これ、要返却の支給品のはずなのに、姫海棠様は私物だと思ってないだろうか。椛はそんな事を考えていた。
さらに言えば三羽烏の中に狼一匹。白狼天狗は身分が低く、本来は椛も烏天狗全員を様付けで呼ぶべき立場だ。さん付けで呼んでくれるようになるまでとっても苦労したんだよね、とははたての弁だが肩身が狭いのは全く変わらない。
「はいはい、これがアプリケーションだよ! まだまだ全然少ないけど、山童班が今がんばってるから増えていくはずで……もみちゃん?」
椛は石になっていた。はたてが言葉通り手を取って教えようと真横に密着してきたからだ。新緑を思わせる青々とした香りが鼻をくすぐり、温かく柔らかな感触が腕から椛を侵食する。
「……あ、はい。油軽食ですね」
「アプリ、アプリケーション! 油軽食って何なの、天ぷらとか!?」
はたては突っ込みつつも笑顔を絶やさず自身をぐいぐい押し付けてくる。よって椛はいっぱいいっぱいだ。
これが他の天狗だったらセクハラ野郎とぶった切りそうになるが、はたてにだけは全くそのような気分にならない。嫌ではないのだ。むしろこの時間がずっと続いてくれればとすら思う。別に自分だけが特別なのではない、姫海棠様は誰にでもこのように親しげな態度を取る方だから、と自身に言い聞かせるが胸の鼓動は収まらなかった。
事実から言うと、椛は特別扱いされている。確かにはたては他の高圧的な烏天狗と比べれば白狼天狗にも気さくで下からの人気が高い。だがそれは『白狼天狗のみんな』にであり、椛に構っている時間は他のそれより遥かに長かった。
文も一度、椛の何がそんなに、と聞いたことがあった。その時の答えは『んー、悩んでる時に優しかったから?』である。人が誰かを好きになるのはその程度で十分なのかもしれない。
「……はい、これがチャットツールだよ。軽い伝令ならここでも良いって龍様も言ってたから使ってね。個人通話もできるから」
「顔の見えない相手と会話するのはしっくりきませんね。大した距離でもないですし直接言った方が楽そうです」
もっと言うなら、はたてと会話するなら顔を見ながらの方がいい、である。椛にとって。
「それじゃスマホ普及の為に龍様が頑張ってるのも無駄になっちゃうでしょ、使ってあげて! あ、画像も送れるんだよこれ。試しに私ともみちゃんの画像を貼ってみようか。はいこっち寄ってー……」
「は、はたてさんっ……!?」
顔が近い。はたてのふわふわな髪の毛が椛の頬を撫でる。単にツーショット写真を撮るだけなのにこれほど顔を近づけて密着する必要があるのか。答えは、『ある』だ。ただし、はたてだけに。
カシャ。
はたてのスマホに画像が一枚、そして椛自身のメモリーにも忘れられない思い出が保存された。
◇◇◇
『姫海棠はたて:龍様に報告があります。
姫海棠はたて:スマホは椛に持たせましたのでよろしくお願いします。』
『犬走椛:姫海道様からの午睡せんによりすまーとほんを使わせていただきます。
犬走椛:すみませんまちがえました。
犬走椛:よろしくお願いします。』
『姫海棠はたて:もみちゃん誤変換多すぎ(笑)
姫海棠はたて:(真っ赤な椛と爛々な笑顔のはたてのツーショット自撮り画像)
姫海棠はたて:ラブラブでーす。』
『犬走椛:やめてくださあ』
『姫海棠はたて:フラれちゃった(涙)』
『犬走椛:ちがいます。』
『飯綱丸龍:仲が良くて結構。犬走も、使い方で分からない事があれば我々の誰かに相談しなさい。』
『射命丸文:私は無理ですよ。』
『姫海棠はたて:えー、文つめたーい。最悪ー。』
『射命丸文:私だってスマホ使うの初めてなんですから。』
『飯綱丸龍:じゃあ私か姫海棠のどちらかにな(笑)』
『犬走椛:はい。お願いします。』
◇◇◇
「……この二人、目の前に居ないからって好き勝手言ってる感じがするわねえ」
文はスマホの液晶を両手指で叩きながらその動作の確認を続けていた。はたてが率先してチャットツールを使ってくれたのはありがたいのだが、その中身はノロケである。
「お前な、一応は上司に当たるのだからもう少し優しい言葉をかけてやれ」
「あの犬っころとはどうも反りが合わないんですよ。写真撮ろうとすると生意気に噛み付いてきますし」
「どうせ無断で撮って変な煽り文でも付ける気だったんだろう?」
そういうところだぞ、と龍は心の中で呆れつつ苦笑した。
はたてが椛の所へ飛び去った後、残った二人もマニュアル片手にこっそりとスマホの使い方を勉強していた。その理由はただ一つ、自分より下の者に機械音痴だとは絶対に思われたくないという意地である。
「まあお前ならこの程度の操作くらい簡単に覚えるさ。だが私はダメだな。無駄に齢を重ねると新しい事が入ってこない」
「私と大して変わらない年代のくせになーに言ってるんですか、だ・い・て・ん・ぐ・サマ。新しい事を始めようとしてお祓い棒で殴られたばっかりでしょう」
「ああ、アレは痛かったな。お前はいつもあんなのを喰らっていたのか」
「少しは我々の気持ちが分かりましたか。でも、言っておきますけど貴方の三脚の方がよっぽど痛いですからね。パワハラですよパワハラ」
龍は普段から撮影用の三脚を持ち歩いているが、そこにはカメラ等の機器は付いておらず、もっぱら部下を叱責する為の鈍器として使われている。金属製のしっかりした棒を天狗の膂力で振るのだから殺人級の痛さだと評判だった。
「喰らうほどのおイタをするお前が悪い。殴られているのはほとんどお前と、たまに姫海棠くらいだな」
「はたてにはだいぶ手加減してるように見えますが? 酒の席で貴方をどついた時だってお咎め無しですし」
「あいつは頭が柔らかそうだから仕方あるまい。叩いても罪悪感をあまり感じないお前にも問題があるぞ」
「うわー出ましたよ、いじめっ子の屁理屈。記事にして炎上させてやろうかしら」
文は懐から愛用のカメラを取り出し、意地悪な笑みを浮かべる龍に焦点を合わせた。無論、身内の記事などよほどの特ダネでないと数字は稼げないので撮影自体が単なる嫌がらせである。むしろ龍の言葉をそのまま載せれば筆者の株が落ちかねない。
「待て、せっかくスマホがあるのだから撮るならそっちにしろ。せっかくだから姫海棠に対抗して私達もツーショットでも撮るか?」
「……お断りします」
文は口を真一文字に結んでシャッターを切った。記事にする価値など皆無の面白みのない表情が一枚、カメラから吐き出される。
「はあ、またつまらぬ物を撮ってしまった」
「それはお前がつまらない顔をしているせいだな。撮影者の気持ちは被写体にも伝わるものだ」
「でしたらもう少しお優しい言葉をいただきたいですね、大天狗様」
「でもなあ、ツーショットを嫌がるような部下だものなあ」
「そこは別に嫌だと言ってませんよ。全然伝わってないじゃないですか、全くもう!」
閑静な山間に石畳をカンカンと蹴る高下駄の音が響く。いつも飄々とした文がこのようにムキになる相手は数少ない。ましてそれが本来は頭の上がらないはずの大天狗なのだから。
「そのカメラ以外で写真を撮る気はない、か? ふふ、強情っぱりめ」
核心。
文の体がぴたりと静止した。饒舌な文が完全に沈黙するのも非常に珍しい事だった。
黙秘を貫いたまま代わりに上目遣いで龍をじっと睨むが、やがて肺の中で渋滞する空気の圧に耐えきれなったかゆっくりと長い息を吐き出した。
「……分かってるなら無駄に部下を困らせないでほしいものですね」
「それはあくまで写真も撮れるというだけだ。カメラでの撮影を否定したわけではないよ」
「分かってます。分かってますが……」
受け入れたくはない。記者として幻想郷の住人としてこのカメラと共に戦ってきた文が、おまけでカメラも付いている電子機器に取って代わられるのを受け入れるには時間が必要だった。
「……私自身、このカメラにここまで愛着を持ってしまうなんて思わなかったわ」
「くれてやった側としては冥利に尽きるよ。ありがとう、文」
龍が文を名前で呼んだ。かつて、立場が同じであった頃のように。
「文が変なところで頑固なのは全く変わらんな。しかし、自分で写真を撮らなくなってどれほど経ったか」
「勿体ない話よ。大…いえ、龍さんの写真は誰よりも鮮明な一瞬を写していたのに、さっさと出世して、カメラも置いちゃって」
「写真に収まるような切り取られた狭い範囲よりも、広く公平な視野で見る立場を選んだだけさ。それに、星空は自分の眼で見るのが一番だろう?」
文が新聞記者として絶対負けたくないと対抗意識を燃やした相手こそ、目の前の龍だった。彼女の新聞は目の付け所で斬新で、天狗らしい偏向やでっち上げが一切無いにも関わらず常に番付の上位に位置し続けた。それが上層部の目に止まって幹部の席に収まったのだ。
「文ならすぐ私と同じ所に来てくれると思ったんだがなあ。寂しいよ、私は」
「ご冗談を。私はどこにでもいるタイプの天狗ですよ。実際万年ヒラでしょうに」
「わざと、ね。無駄に規律違反を起こさなかったらとっくに推しているよ。全く、お前の不始末を誰が処理すると思ってるのやら」
「そんなの、龍さんに決まってる。だから私は安心して活動できるんです」
龍と文の間にまた沈黙が訪れる。だがこれは決して居心地の悪いものではなかった。
どうせ文の事だから。龍ならきっとこうしてくれるはずだから。プライベートでの交友はめったに見られない二人だが、その間には長い付き合いが為せる確かな信頼があった。
「……で、そこのお二人さんはどうして隠れているのかな?」
飯綱丸が首を右に曲げる。その声は開けた山間でも不思議とよく響いた。
「あ!」
「ん!?」
不自然に揺れる草むら、パキっと折れる小枝の音。
木陰に居た二人が阿吽の呼吸で驚きの声を上げた。それに釣られてちらりと見えたツインテールと真っ白の豊かな尻尾。言うまでもなく先ほどまでじゃれあっていたはたてと椛の両名だ。
「見つかっちゃったねー。椛はどうしてだと思う?」
「まあ、はたてさんだからだと思います」
はたてはいたずらっ子の如く舌をペロリと出しながらひょこひょこと草むらをかき分けて来た。その後ろを椛がばつの悪い顔で歩く。
椛の言は『姫海棠様の良さは隠れていても隠しきれない』的なニュアンスだったのだが、言葉足らずすぎて嫌味に聞こえたのではと後で自責の念に駆られる事になる。
「レンズで見える範囲は限られる。大事なのはこことここよ」
龍はトン、トンと順に耳と鼻を指差した。目に映った物だけしか撮れないのは三流記者。ささいなネタも逃さない地獄耳と嗅覚も龍の出世街道を後押しした強力な武器なのだ。
「そんな事はどうでもいいのよ。覗き見してた理由は何? 用事があったんじゃないの?」
こそこそ聞かれていたら、別にそんな事もないのに恥ずかしい話をしていたようではないか。文の苛立った口調はそれが理由だ。
「そーそーそれそれ。龍様ぁ、このスマホ記憶容量が少なすぎます! いっぱい写真撮ってたらもう全部埋まっちゃったんですけど!」
はたてが差し出したスマホの画面には、まあ短い間によくもこんなと画像がズラリ。
妖怪の山の全景から始まって、鳥や虫や草花、そして大量の自撮りと椛の写真。しかも変なところに拘っているのかポーズはほぼ同じで、椛もだんだんと疲れていくのが分かるパラパラ漫画のようであった。
ちなみにトドメを刺したのは椛のスペルカードの録画である。ムービーは容量をバカ食いするのだ。
「私もそれは私物ではないですよとは申し上げたのですが、どうしても直談判したいと……」
そしてしっかり付いてくるところに椛の忠犬っぷりが出てしまった。
「……必要ないのは消してやり繰りしなさい。容量の増設は河童に言っておく」
一応擁護しておくと、河童がリバースエンジニアリングした機器の年代ではこれでも大容量だったのだ。現代っ子に紅霧異変が起きた頃のコンピューターの記憶容量を教えたら悲鳴が上がるに違いない。それほど科学の進歩は目まぐるしいのである。
結局、隠れた理由も何となくであろうと文は結論付けた。はたてがはたてなので考えるのも無駄なのだ。そのくせ新聞を書くと教養の深さを見せつけてくるので少し嫌になる。
「……はあ。大天狗様、今日はこれぐらいにしておきますか」
「あー、もう龍さんって呼ばないの? あの時の二人、とってもいい感じだったのに!」
聞かれたくないところを的確に突いてくるのは流石新聞記者だ。文は縋るように龍を横目で見る、つもりがすぐ視線をはたてに戻した。見たところでどうにもならないからだ。
「おお、そうだ。ツーショット写真は嫌だと言われてたんだったな。つまり二人でなければいいのだろう。特に何も無いが記念写真でも撮るからお前達も横に並べ」
「はあ!? だからそれは嫌じゃないって……」
ほら、これだ。
「そういえば龍様や文と一緒に写真に写るなんて今までなかったですよね。はーい、お供しまーす!」
「はい、お言葉のままに」
はたてはノリノリで、椛は上司の上司命令とあって断れるはずもなく龍の横に移動した。
左から椛、はたて、龍。そして文も、流れには逆らえずモジモジと気恥ずかしそうに龍の隣に立った。幻想郷の雄大な自然をバックにしての記念撮影だ。
「文、カメラを貸せ。それで撮るなら文句はあるまい?」
龍の手が文に向けて伸びる。貸せも何もない。文句ならいくらでもあるが、龍がカメラを使う今だけは些細な事だ。文がカメラを掌に乗せて差し出し、龍がそれを包み込むように大事に受け取る。その間、二人の顔はとても穏やかだった。
「……あれ、そのカメラでみんなを撮るんですか?」
もっともな疑問がはたての口をついた。流石にレトロタイプのカメラで四人をまとめて自撮りは厳しい。
「なあに、その為のこいつだろう?」
龍は満を持してと言わんばかりに前に出ると、机に置いていた三脚をしっかりと地面に突き立てた。この動作をするのも何十年ぶりか。龍の胸にも懐かしさがこみ上げる。
「やっぱり、そのカメラはそこにあるのが一番落ち着きますね」
文のカメラは慣れた手付きで龍の三脚に取り付けられた。記者でもあり一流カメラマンでもあった飯綱丸龍、一度限りの復活だ。
「んー……? おい文、ちょっと来てくれ。久々すぎてタイマーの使い方を忘れてしまったよ」
と思いきや、大天狗もブランクには勝てなかったらしい。
「困った大天狗様ですねえ。はいはいご指導しますよ」
指導と言っても、かつて龍から教えてもらった使い方をそのままお返しするだけだ。やはり自分はこのカメラを使い続けるべき、文は改めてそう思った。でないと使い方を覚えている者が誰も居なくなってしまうから。
「……はい、あと十秒ですよ。急いで急いで、龍さん」
急かした所でここに居るのは皆スピード自慢の天狗である。龍はカメラから集合位置までを一歩で飛び移った。その背中を追って、文も龍の隣に。かつては遠く思っていた龍の背中が今はこんなにも近い。
憧れがあった。嫉妬をしたこともあった。その想いが二人の間に距離を作った。いや、文が勝手に離れたと思い込んでいただけで、二人は常に互いの意識の中に居たのだ。龍が大天狗になる前も、今も。
時間は記憶を風化させる。かつての龍が生んだ写真も記事も、月日の中で褪せていく。やがては大天狗である龍が当たり前で、それ以前の彼女を覚えている者も居なくなるかもしれない。だからこそ、文はこのカメラを使い続けるのだ。龍の過去も自分の初心も刻み込んだ証となる、掛け替えのないカメラを。
その日のカメラには、いつもの取材とは違う心からの笑顔が記憶された。
◇
後日。
「……私がどうして怒っているか分かる?」
握りしめた三脚ともう片方の手でポン、ポンとリズムを作る。
二本の足で地面に真っ直ぐ立つ龍。そして正座をさせられている二人の天狗、はたてと文。
もちろん怒っているのは前者で怒られているのが後者である。
「はい、分かりません……」
「そんな面倒くさい彼女みたいな事言わないでくださいよ、龍さん……」
「今は大天狗様と呼べッ!」
「ハイっ!」
軽く丸まっていた二人の背中が鉄棒を差し込んだかの如くピンと伸びる。
「スマホの使い方についてだ。犬走に聞いたら案の定だったからな!」
「まず姫海棠。お前は犬走と雑談しすぎ! 深夜までメッセージが来ると困ってるぞ!」
龍は椛から預かったスマホの画面を顔に突き付けた。そこには今日の出来事、美味しかったスイーツ、新聞の愚痴、感動した本などなど、はたてからのダイレクトメッセージが山のように表示されていた。
「丑三つ時にスイーツの話など嫌がらせに近いわ! 相手の私生活も考慮しろ!」
「はい、ごめんなさい……」
ちなみに『姫海棠様からいっぱいお話されて困ってるんですよぉー』と、聞き取りした際の椛がデレデレであった事はここに述べておく。ぶっちゃけた話、こっちは怒る必要も感じなかったが惚気に当てられたら何となく腹が立ったので。
「次、射命丸! お前も犬走にいろいろ押し付けすぎ!」
龍が再び椛のスマホをいじる。今度は文とのメール記録だ。
『魔理沙が来たから追っ払っといて。』『承知しました。』
『萃香が来るから宴会の準備しといて。』『承知しました。』
『鞍馬様が巡視に来るから誤魔化しといて。』『承知。』
『芋羊羹買ってきて。』『承知。』
『烏にエサやっといて。』『はい。』
「自分でやれ! あと巡視を誤魔化せとかログに残るもんで言うなバカタレ!」
「残らなければいいんですか……」
「良くないわ!」
こちらは椛が相談にこそ来なかったが、はたてとのやり取りを見たついでに発覚した。つまりはたてのせいである。
「はあ……スマホを導入したのは私で、こうなる事も予想はしていた。そこを鑑みて今回は大目に見るがな」
龍が肩に担いでいた三脚を机に置くと、二人もほっと息を吐いた。あれは本当に痛いのだ。殺人級なので人より強い天狗の命に支障はないが、痛いものは痛い。
「だから今日はこれだ!」
握りしめた右手がはたての脳天に刺さる。
「はぐっ……!」
ズンとヘビーなサウンドが脳をシェイクし、一発でノックダウンさせた。
「やだやだパワハラですよ。だから天狗組織は一向に古臭いままで……」
文も自分のパワハラを棚に上げてこれである。上も上だし下も下。燃えたものは大炎上させないと気が済まないのが新聞記者だ。
「これはパワハラではなく愛のムチだ。姫海棠には私の愛が伝わってるよな。ハイと言え」
「ハイ……」
はたては頭を押さえたままぷるぷると震えている。
「次は射命丸だが……やはりお前はこいつの方が愛が伝わるだろう。ありがたく思え」
「ひっ……」
手に取るは伝家の宝刀、三脚。龍と文を結ぶ思い出の道具だからこそ、その頭を殴るのに相応しい。
「……わけないでしょう……」
「まあ安心しろ。三脚とはカメラをセットする物であるから少し加減をしていく事に決めた。撮れなくなっては困るからね」
だったら殴るなとしか言いようがないが、実は文も同じ痛みなら三脚の方が、と思っていたのは内緒だ。拳と鉄の棒では後者の方がどうやっても痛いに決まっている。
「はっはっは。愛してるぞー、射命丸!」
全く感情の籠もってない笑い声と共に三脚が振り下ろされ、文の意識は星空へと飛び立っていった。
道具を使うのは人である。今回の件もスマホではなく使う人物が悪かったのが原因だ。
スマホがどうこうの前に天狗の意識改革の方が急務だなと、古臭い鉄拳制裁精神を抱えたままの龍も決意するのであった。
◇◇◇
『飯綱丸龍:やっぱり痛かったよね? ごめんね。』
『射命丸文:大天狗様も殴られてみますか? 嫌なら一杯奢りでもいいですが。』
『飯綱丸龍:じゃあ姫海棠と三人でどこか行こう。』
『射命丸文:はたては今頃椛に泣きついてますよ。たまにはサシ飲みがしたいですね。』
『飯綱丸龍:はいはい、文のお望み通りに。』
『射命丸文:楽しみにしてますよ、龍さん。』
◇◇◇
ついにこの時が来てしまった。文は大天狗の短い言葉に頭を抱えるのだった。
幻想郷にそびえる妖怪の山を事実上支配しているのは天狗組織である。種族国籍もバラバラで少数の繋がりしか持たない妖怪達の中では非常に珍しい、縦社会が完全に構築された集団だ。そう、上下関係がきちんと決められている。
そして、妙なことを言い出して組織をかき回すのは上の立場の人間だと相場は決まっている。
天狗の中では天魔と平天狗に挟まれる中間管理職の立場の大天狗、飯綱丸龍。それが今回の話の発端だった。
「いえ~い、待ってました~!」
木々もまばらな高所の山中に建てられた東屋の下、机一つに椅子三つ。
椅子の一つに座って能天気に囃し立てるは、若手のホープを自称する烏天狗、姫海棠はたて。酒が入れば上司もどつくと評判の怖いもの知らずはここでも口を慎まない。
「いえーい、じゃありません。大天狗様は正気でいらっしゃるんでしょうかね?」
はたてよりよっぽど口を慎んでいない万年平の烏天狗、射命丸文がしらけ顔で異を唱える。さりとて文の失言も理解できないことはない。今までポケベルもピッチもケータイも無かった組織にいきなりスマホなのだから。
「私はいつだって正気さ。姫海棠が前々から熱望していたのもあって、私も組織改革の一環として検討は続けていたのでな」
「はあ、貴方は本当にはたてに甘いですよねえ……」
「何よー、龍様はみんなに優しいでしょ。だいたい一番甘やかされてるのは文じゃない!」
三流新聞記者同士でライバル関係にある文とはたて。よくネタの奪い合いで争っているが仲は決して悪くなく、必要とあらば気軽に協力を頼める間柄だ。
「まあまあ、まずは聞け。開発を依頼していた河童がついに試作機が出来たと持ってきてね。だから忌憚の無い意見を聞けるお前達にまずは来てもらった次第だ」
そんな二人の直属の上司に当たる龍が、涼しい顔で木箱を机に置いた。それに合わせてはたての瞳が輝く。なにしろ、その中身がずっと要望を出していた憧れの物に違いないのだから。
「開発はもちろんだが山童も基地局の建設でだいぶ苦労したようだ。正直、報酬もなかなか嵩んだよ」
「おお……おおぉ~……!」
ゆっくりと蓋を持ち上げた箱の中には、光り輝く(ようにはたてには見えた)スマートフォンが収められていた。それも四つ。
「ほほう、これはこれは……」
あまり乗り気ではなかった文もこれには目を引かれた。スマホ自体はたまに人里で見かける女子高生が持ち歩いているので初見ではない。
しかしあの河童が、ゴテゴテとコミカルな外見にしがちな河童が真っ当なスマホを、しかも四つも用意したのだから驚かざるを得なかった。
「一台では意味が無いからな。最低でも三台と言ってあったが頑張ったようだ」
「これ、もちろん私が使っていいんですよね!?」
「無論。お前と射命丸と私で一台ずつだ。それでしばらく使ってみて開発にフィードバックするからよろしく頼む」
「ぃやったー!」
全身を使って豪快に万歳をする、はたての喜びようは尋常ではなかった。"今どきの念写記者"なのにまだガラケー使ってるんですね、と例の女子高生から取材の際に言われて早幾年、もとい女子高生は女子高生のままなので年は過ぎていない。ともかくプライドが傷付けられたはたての念願がついに叶う時が来たのである。
「……それは良いんですが、もう一台余ってますね。誰かあと一人呼ばなかったんですか?」
「うむ、それだ。知っての通り天狗は……まあその、頭が固い連中ばかりだからね。スマホなんて使えない、使いたがらない奴ばかりで、頼めるのがお前達くらいなのよ」
机に肘を付いて、体を前に乗り出しての発言。龍も情けなくて大きな声では言えなかったらしい。作ったところでスマホ普及までの道のりは遥か彼方といったところか。
「なので希望者が出るまでこれは保管しておく。お前たちが使っていて興味を持った者がいたら推薦してほしい」
「あ、それなら私から推薦していいですか? ぜひ一緒に使ってほしい子がいるんです!」
はたてが手を一回、そして二回と挙げて猛烈なアピールをする。本当に遠慮を知らないが、龍としてはその方が姫海棠らしくて安心すると、優しい笑みを浮かべる。よって残りの一台はそのままはたてに委ねられた。
(はたてが推薦するってことはあいつなんでしょうね……)
文は小さくため息をついた。
基本的に誰とも親しげに会話するはたてだが、特に距離が近い天狗となると思い浮かぶのは数名。そして文とその予想された人物は、険悪でこそないが噛み合わない仲であったからだ。(噛まれたことはあったが)
◇
「──はあ、すまぁとほん、ですか」
「ふふふふ、そうだよー」
はたてが思わず笑ってしまったのは、目の前の白狼天狗の反応が予想通りすぎたからだ。
天狗組織では哨戒任務を務める犬走椛。飯綱丸が言う所のガチガチに頭が固い連中の一人であるが、それもむしろはたての気に入るポイントの一つだったらしい。
「つまりは多機能な電信のような物ですよね? はたてさんの頼みですから受け取りますけど……」
「電信って、椛は古いなあ。でも安心して、はたてお姉さんが手取り足取り使い方教えてあげるから!」
「はい、ご指導よろしくお願いします」
「堅い! 堅いよもみちゃんはー。コミュニケーションツールなんだからもっと気楽に!」
「はあ……」
これ、要返却の支給品のはずなのに、姫海棠様は私物だと思ってないだろうか。椛はそんな事を考えていた。
さらに言えば三羽烏の中に狼一匹。白狼天狗は身分が低く、本来は椛も烏天狗全員を様付けで呼ぶべき立場だ。さん付けで呼んでくれるようになるまでとっても苦労したんだよね、とははたての弁だが肩身が狭いのは全く変わらない。
「はいはい、これがアプリケーションだよ! まだまだ全然少ないけど、山童班が今がんばってるから増えていくはずで……もみちゃん?」
椛は石になっていた。はたてが言葉通り手を取って教えようと真横に密着してきたからだ。新緑を思わせる青々とした香りが鼻をくすぐり、温かく柔らかな感触が腕から椛を侵食する。
「……あ、はい。油軽食ですね」
「アプリ、アプリケーション! 油軽食って何なの、天ぷらとか!?」
はたては突っ込みつつも笑顔を絶やさず自身をぐいぐい押し付けてくる。よって椛はいっぱいいっぱいだ。
これが他の天狗だったらセクハラ野郎とぶった切りそうになるが、はたてにだけは全くそのような気分にならない。嫌ではないのだ。むしろこの時間がずっと続いてくれればとすら思う。別に自分だけが特別なのではない、姫海棠様は誰にでもこのように親しげな態度を取る方だから、と自身に言い聞かせるが胸の鼓動は収まらなかった。
事実から言うと、椛は特別扱いされている。確かにはたては他の高圧的な烏天狗と比べれば白狼天狗にも気さくで下からの人気が高い。だがそれは『白狼天狗のみんな』にであり、椛に構っている時間は他のそれより遥かに長かった。
文も一度、椛の何がそんなに、と聞いたことがあった。その時の答えは『んー、悩んでる時に優しかったから?』である。人が誰かを好きになるのはその程度で十分なのかもしれない。
「……はい、これがチャットツールだよ。軽い伝令ならここでも良いって龍様も言ってたから使ってね。個人通話もできるから」
「顔の見えない相手と会話するのはしっくりきませんね。大した距離でもないですし直接言った方が楽そうです」
もっと言うなら、はたてと会話するなら顔を見ながらの方がいい、である。椛にとって。
「それじゃスマホ普及の為に龍様が頑張ってるのも無駄になっちゃうでしょ、使ってあげて! あ、画像も送れるんだよこれ。試しに私ともみちゃんの画像を貼ってみようか。はいこっち寄ってー……」
「は、はたてさんっ……!?」
顔が近い。はたてのふわふわな髪の毛が椛の頬を撫でる。単にツーショット写真を撮るだけなのにこれほど顔を近づけて密着する必要があるのか。答えは、『ある』だ。ただし、はたてだけに。
カシャ。
はたてのスマホに画像が一枚、そして椛自身のメモリーにも忘れられない思い出が保存された。
◇◇◇
『姫海棠はたて:龍様に報告があります。
姫海棠はたて:スマホは椛に持たせましたのでよろしくお願いします。』
『犬走椛:姫海道様からの午睡せんによりすまーとほんを使わせていただきます。
犬走椛:すみませんまちがえました。
犬走椛:よろしくお願いします。』
『姫海棠はたて:もみちゃん誤変換多すぎ(笑)
姫海棠はたて:(真っ赤な椛と爛々な笑顔のはたてのツーショット自撮り画像)
姫海棠はたて:ラブラブでーす。』
『犬走椛:やめてくださあ』
『姫海棠はたて:フラれちゃった(涙)』
『犬走椛:ちがいます。』
『飯綱丸龍:仲が良くて結構。犬走も、使い方で分からない事があれば我々の誰かに相談しなさい。』
『射命丸文:私は無理ですよ。』
『姫海棠はたて:えー、文つめたーい。最悪ー。』
『射命丸文:私だってスマホ使うの初めてなんですから。』
『飯綱丸龍:じゃあ私か姫海棠のどちらかにな(笑)』
『犬走椛:はい。お願いします。』
◇◇◇
「……この二人、目の前に居ないからって好き勝手言ってる感じがするわねえ」
文はスマホの液晶を両手指で叩きながらその動作の確認を続けていた。はたてが率先してチャットツールを使ってくれたのはありがたいのだが、その中身はノロケである。
「お前な、一応は上司に当たるのだからもう少し優しい言葉をかけてやれ」
「あの犬っころとはどうも反りが合わないんですよ。写真撮ろうとすると生意気に噛み付いてきますし」
「どうせ無断で撮って変な煽り文でも付ける気だったんだろう?」
そういうところだぞ、と龍は心の中で呆れつつ苦笑した。
はたてが椛の所へ飛び去った後、残った二人もマニュアル片手にこっそりとスマホの使い方を勉強していた。その理由はただ一つ、自分より下の者に機械音痴だとは絶対に思われたくないという意地である。
「まあお前ならこの程度の操作くらい簡単に覚えるさ。だが私はダメだな。無駄に齢を重ねると新しい事が入ってこない」
「私と大して変わらない年代のくせになーに言ってるんですか、だ・い・て・ん・ぐ・サマ。新しい事を始めようとしてお祓い棒で殴られたばっかりでしょう」
「ああ、アレは痛かったな。お前はいつもあんなのを喰らっていたのか」
「少しは我々の気持ちが分かりましたか。でも、言っておきますけど貴方の三脚の方がよっぽど痛いですからね。パワハラですよパワハラ」
龍は普段から撮影用の三脚を持ち歩いているが、そこにはカメラ等の機器は付いておらず、もっぱら部下を叱責する為の鈍器として使われている。金属製のしっかりした棒を天狗の膂力で振るのだから殺人級の痛さだと評判だった。
「喰らうほどのおイタをするお前が悪い。殴られているのはほとんどお前と、たまに姫海棠くらいだな」
「はたてにはだいぶ手加減してるように見えますが? 酒の席で貴方をどついた時だってお咎め無しですし」
「あいつは頭が柔らかそうだから仕方あるまい。叩いても罪悪感をあまり感じないお前にも問題があるぞ」
「うわー出ましたよ、いじめっ子の屁理屈。記事にして炎上させてやろうかしら」
文は懐から愛用のカメラを取り出し、意地悪な笑みを浮かべる龍に焦点を合わせた。無論、身内の記事などよほどの特ダネでないと数字は稼げないので撮影自体が単なる嫌がらせである。むしろ龍の言葉をそのまま載せれば筆者の株が落ちかねない。
「待て、せっかくスマホがあるのだから撮るならそっちにしろ。せっかくだから姫海棠に対抗して私達もツーショットでも撮るか?」
「……お断りします」
文は口を真一文字に結んでシャッターを切った。記事にする価値など皆無の面白みのない表情が一枚、カメラから吐き出される。
「はあ、またつまらぬ物を撮ってしまった」
「それはお前がつまらない顔をしているせいだな。撮影者の気持ちは被写体にも伝わるものだ」
「でしたらもう少しお優しい言葉をいただきたいですね、大天狗様」
「でもなあ、ツーショットを嫌がるような部下だものなあ」
「そこは別に嫌だと言ってませんよ。全然伝わってないじゃないですか、全くもう!」
閑静な山間に石畳をカンカンと蹴る高下駄の音が響く。いつも飄々とした文がこのようにムキになる相手は数少ない。ましてそれが本来は頭の上がらないはずの大天狗なのだから。
「そのカメラ以外で写真を撮る気はない、か? ふふ、強情っぱりめ」
核心。
文の体がぴたりと静止した。饒舌な文が完全に沈黙するのも非常に珍しい事だった。
黙秘を貫いたまま代わりに上目遣いで龍をじっと睨むが、やがて肺の中で渋滞する空気の圧に耐えきれなったかゆっくりと長い息を吐き出した。
「……分かってるなら無駄に部下を困らせないでほしいものですね」
「それはあくまで写真も撮れるというだけだ。カメラでの撮影を否定したわけではないよ」
「分かってます。分かってますが……」
受け入れたくはない。記者として幻想郷の住人としてこのカメラと共に戦ってきた文が、おまけでカメラも付いている電子機器に取って代わられるのを受け入れるには時間が必要だった。
「……私自身、このカメラにここまで愛着を持ってしまうなんて思わなかったわ」
「くれてやった側としては冥利に尽きるよ。ありがとう、文」
龍が文を名前で呼んだ。かつて、立場が同じであった頃のように。
「文が変なところで頑固なのは全く変わらんな。しかし、自分で写真を撮らなくなってどれほど経ったか」
「勿体ない話よ。大…いえ、龍さんの写真は誰よりも鮮明な一瞬を写していたのに、さっさと出世して、カメラも置いちゃって」
「写真に収まるような切り取られた狭い範囲よりも、広く公平な視野で見る立場を選んだだけさ。それに、星空は自分の眼で見るのが一番だろう?」
文が新聞記者として絶対負けたくないと対抗意識を燃やした相手こそ、目の前の龍だった。彼女の新聞は目の付け所で斬新で、天狗らしい偏向やでっち上げが一切無いにも関わらず常に番付の上位に位置し続けた。それが上層部の目に止まって幹部の席に収まったのだ。
「文ならすぐ私と同じ所に来てくれると思ったんだがなあ。寂しいよ、私は」
「ご冗談を。私はどこにでもいるタイプの天狗ですよ。実際万年ヒラでしょうに」
「わざと、ね。無駄に規律違反を起こさなかったらとっくに推しているよ。全く、お前の不始末を誰が処理すると思ってるのやら」
「そんなの、龍さんに決まってる。だから私は安心して活動できるんです」
龍と文の間にまた沈黙が訪れる。だがこれは決して居心地の悪いものではなかった。
どうせ文の事だから。龍ならきっとこうしてくれるはずだから。プライベートでの交友はめったに見られない二人だが、その間には長い付き合いが為せる確かな信頼があった。
「……で、そこのお二人さんはどうして隠れているのかな?」
飯綱丸が首を右に曲げる。その声は開けた山間でも不思議とよく響いた。
「あ!」
「ん!?」
不自然に揺れる草むら、パキっと折れる小枝の音。
木陰に居た二人が阿吽の呼吸で驚きの声を上げた。それに釣られてちらりと見えたツインテールと真っ白の豊かな尻尾。言うまでもなく先ほどまでじゃれあっていたはたてと椛の両名だ。
「見つかっちゃったねー。椛はどうしてだと思う?」
「まあ、はたてさんだからだと思います」
はたてはいたずらっ子の如く舌をペロリと出しながらひょこひょこと草むらをかき分けて来た。その後ろを椛がばつの悪い顔で歩く。
椛の言は『姫海棠様の良さは隠れていても隠しきれない』的なニュアンスだったのだが、言葉足らずすぎて嫌味に聞こえたのではと後で自責の念に駆られる事になる。
「レンズで見える範囲は限られる。大事なのはこことここよ」
龍はトン、トンと順に耳と鼻を指差した。目に映った物だけしか撮れないのは三流記者。ささいなネタも逃さない地獄耳と嗅覚も龍の出世街道を後押しした強力な武器なのだ。
「そんな事はどうでもいいのよ。覗き見してた理由は何? 用事があったんじゃないの?」
こそこそ聞かれていたら、別にそんな事もないのに恥ずかしい話をしていたようではないか。文の苛立った口調はそれが理由だ。
「そーそーそれそれ。龍様ぁ、このスマホ記憶容量が少なすぎます! いっぱい写真撮ってたらもう全部埋まっちゃったんですけど!」
はたてが差し出したスマホの画面には、まあ短い間によくもこんなと画像がズラリ。
妖怪の山の全景から始まって、鳥や虫や草花、そして大量の自撮りと椛の写真。しかも変なところに拘っているのかポーズはほぼ同じで、椛もだんだんと疲れていくのが分かるパラパラ漫画のようであった。
ちなみにトドメを刺したのは椛のスペルカードの録画である。ムービーは容量をバカ食いするのだ。
「私もそれは私物ではないですよとは申し上げたのですが、どうしても直談判したいと……」
そしてしっかり付いてくるところに椛の忠犬っぷりが出てしまった。
「……必要ないのは消してやり繰りしなさい。容量の増設は河童に言っておく」
一応擁護しておくと、河童がリバースエンジニアリングした機器の年代ではこれでも大容量だったのだ。現代っ子に紅霧異変が起きた頃のコンピューターの記憶容量を教えたら悲鳴が上がるに違いない。それほど科学の進歩は目まぐるしいのである。
結局、隠れた理由も何となくであろうと文は結論付けた。はたてがはたてなので考えるのも無駄なのだ。そのくせ新聞を書くと教養の深さを見せつけてくるので少し嫌になる。
「……はあ。大天狗様、今日はこれぐらいにしておきますか」
「あー、もう龍さんって呼ばないの? あの時の二人、とってもいい感じだったのに!」
聞かれたくないところを的確に突いてくるのは流石新聞記者だ。文は縋るように龍を横目で見る、つもりがすぐ視線をはたてに戻した。見たところでどうにもならないからだ。
「おお、そうだ。ツーショット写真は嫌だと言われてたんだったな。つまり二人でなければいいのだろう。特に何も無いが記念写真でも撮るからお前達も横に並べ」
「はあ!? だからそれは嫌じゃないって……」
ほら、これだ。
「そういえば龍様や文と一緒に写真に写るなんて今までなかったですよね。はーい、お供しまーす!」
「はい、お言葉のままに」
はたてはノリノリで、椛は上司の上司命令とあって断れるはずもなく龍の横に移動した。
左から椛、はたて、龍。そして文も、流れには逆らえずモジモジと気恥ずかしそうに龍の隣に立った。幻想郷の雄大な自然をバックにしての記念撮影だ。
「文、カメラを貸せ。それで撮るなら文句はあるまい?」
龍の手が文に向けて伸びる。貸せも何もない。文句ならいくらでもあるが、龍がカメラを使う今だけは些細な事だ。文がカメラを掌に乗せて差し出し、龍がそれを包み込むように大事に受け取る。その間、二人の顔はとても穏やかだった。
「……あれ、そのカメラでみんなを撮るんですか?」
もっともな疑問がはたての口をついた。流石にレトロタイプのカメラで四人をまとめて自撮りは厳しい。
「なあに、その為のこいつだろう?」
龍は満を持してと言わんばかりに前に出ると、机に置いていた三脚をしっかりと地面に突き立てた。この動作をするのも何十年ぶりか。龍の胸にも懐かしさがこみ上げる。
「やっぱり、そのカメラはそこにあるのが一番落ち着きますね」
文のカメラは慣れた手付きで龍の三脚に取り付けられた。記者でもあり一流カメラマンでもあった飯綱丸龍、一度限りの復活だ。
「んー……? おい文、ちょっと来てくれ。久々すぎてタイマーの使い方を忘れてしまったよ」
と思いきや、大天狗もブランクには勝てなかったらしい。
「困った大天狗様ですねえ。はいはいご指導しますよ」
指導と言っても、かつて龍から教えてもらった使い方をそのままお返しするだけだ。やはり自分はこのカメラを使い続けるべき、文は改めてそう思った。でないと使い方を覚えている者が誰も居なくなってしまうから。
「……はい、あと十秒ですよ。急いで急いで、龍さん」
急かした所でここに居るのは皆スピード自慢の天狗である。龍はカメラから集合位置までを一歩で飛び移った。その背中を追って、文も龍の隣に。かつては遠く思っていた龍の背中が今はこんなにも近い。
憧れがあった。嫉妬をしたこともあった。その想いが二人の間に距離を作った。いや、文が勝手に離れたと思い込んでいただけで、二人は常に互いの意識の中に居たのだ。龍が大天狗になる前も、今も。
時間は記憶を風化させる。かつての龍が生んだ写真も記事も、月日の中で褪せていく。やがては大天狗である龍が当たり前で、それ以前の彼女を覚えている者も居なくなるかもしれない。だからこそ、文はこのカメラを使い続けるのだ。龍の過去も自分の初心も刻み込んだ証となる、掛け替えのないカメラを。
その日のカメラには、いつもの取材とは違う心からの笑顔が記憶された。
◇
後日。
「……私がどうして怒っているか分かる?」
握りしめた三脚ともう片方の手でポン、ポンとリズムを作る。
二本の足で地面に真っ直ぐ立つ龍。そして正座をさせられている二人の天狗、はたてと文。
もちろん怒っているのは前者で怒られているのが後者である。
「はい、分かりません……」
「そんな面倒くさい彼女みたいな事言わないでくださいよ、龍さん……」
「今は大天狗様と呼べッ!」
「ハイっ!」
軽く丸まっていた二人の背中が鉄棒を差し込んだかの如くピンと伸びる。
「スマホの使い方についてだ。犬走に聞いたら案の定だったからな!」
「まず姫海棠。お前は犬走と雑談しすぎ! 深夜までメッセージが来ると困ってるぞ!」
龍は椛から預かったスマホの画面を顔に突き付けた。そこには今日の出来事、美味しかったスイーツ、新聞の愚痴、感動した本などなど、はたてからのダイレクトメッセージが山のように表示されていた。
「丑三つ時にスイーツの話など嫌がらせに近いわ! 相手の私生活も考慮しろ!」
「はい、ごめんなさい……」
ちなみに『姫海棠様からいっぱいお話されて困ってるんですよぉー』と、聞き取りした際の椛がデレデレであった事はここに述べておく。ぶっちゃけた話、こっちは怒る必要も感じなかったが惚気に当てられたら何となく腹が立ったので。
「次、射命丸! お前も犬走にいろいろ押し付けすぎ!」
龍が再び椛のスマホをいじる。今度は文とのメール記録だ。
『魔理沙が来たから追っ払っといて。』『承知しました。』
『萃香が来るから宴会の準備しといて。』『承知しました。』
『鞍馬様が巡視に来るから誤魔化しといて。』『承知。』
『芋羊羹買ってきて。』『承知。』
『烏にエサやっといて。』『はい。』
「自分でやれ! あと巡視を誤魔化せとかログに残るもんで言うなバカタレ!」
「残らなければいいんですか……」
「良くないわ!」
こちらは椛が相談にこそ来なかったが、はたてとのやり取りを見たついでに発覚した。つまりはたてのせいである。
「はあ……スマホを導入したのは私で、こうなる事も予想はしていた。そこを鑑みて今回は大目に見るがな」
龍が肩に担いでいた三脚を机に置くと、二人もほっと息を吐いた。あれは本当に痛いのだ。殺人級なので人より強い天狗の命に支障はないが、痛いものは痛い。
「だから今日はこれだ!」
握りしめた右手がはたての脳天に刺さる。
「はぐっ……!」
ズンとヘビーなサウンドが脳をシェイクし、一発でノックダウンさせた。
「やだやだパワハラですよ。だから天狗組織は一向に古臭いままで……」
文も自分のパワハラを棚に上げてこれである。上も上だし下も下。燃えたものは大炎上させないと気が済まないのが新聞記者だ。
「これはパワハラではなく愛のムチだ。姫海棠には私の愛が伝わってるよな。ハイと言え」
「ハイ……」
はたては頭を押さえたままぷるぷると震えている。
「次は射命丸だが……やはりお前はこいつの方が愛が伝わるだろう。ありがたく思え」
「ひっ……」
手に取るは伝家の宝刀、三脚。龍と文を結ぶ思い出の道具だからこそ、その頭を殴るのに相応しい。
「……わけないでしょう……」
「まあ安心しろ。三脚とはカメラをセットする物であるから少し加減をしていく事に決めた。撮れなくなっては困るからね」
だったら殴るなとしか言いようがないが、実は文も同じ痛みなら三脚の方が、と思っていたのは内緒だ。拳と鉄の棒では後者の方がどうやっても痛いに決まっている。
「はっはっは。愛してるぞー、射命丸!」
全く感情の籠もってない笑い声と共に三脚が振り下ろされ、文の意識は星空へと飛び立っていった。
道具を使うのは人である。今回の件もスマホではなく使う人物が悪かったのが原因だ。
スマホがどうこうの前に天狗の意識改革の方が急務だなと、古臭い鉄拳制裁精神を抱えたままの龍も決意するのであった。
◇◇◇
『飯綱丸龍:やっぱり痛かったよね? ごめんね。』
『射命丸文:大天狗様も殴られてみますか? 嫌なら一杯奢りでもいいですが。』
『飯綱丸龍:じゃあ姫海棠と三人でどこか行こう。』
『射命丸文:はたては今頃椛に泣きついてますよ。たまにはサシ飲みがしたいですね。』
『飯綱丸龍:はいはい、文のお望み通りに。』
『射命丸文:楽しみにしてますよ、龍さん。』
◇◇◇
コミカルでとても面白かったです
最近追加された龍がの三脚どつきネタも上手に昇華していますね。
とても面白かったです。
椛のキャラが解釈違いでしたがこれこれもという感じで。
有難う御座いました。
なんだかんだスマホをエンジョイしている天狗たちがとてもよかったです
文と龍が馴染みな設定とてもいいと思います
天狗それぞれ周りの設定の扱い方が軽快で楽しかったです。
>「困った大天狗様ですねえ。はいはいご指導しますよ」
>「そんな面倒くさい彼女みたいな事言わないでくださいよ、龍さん……」
この辺のセリフから感じられる関係性がめっちゃよかったです。