この人差し指程の大きさを持つ瓶には、『恋の薬(はぁと)』と、巫山戯ているにも関わらず達筆な、輝夜様の字で書かれたラベルが貼られている。中身はくすんだ黄味がかった粉。なんてことはない、ただ蒲の花粉を集めただけのものだ。
資料には、古来より傷薬や止血剤として用いられた、と、書かれるこの蒲黄。最近の私の仕事の一つとして、傷を付けたネズミにこの薬を塗布し、その効果を確かめる、という実験がある。なんてほのぼのしたミッションなのだろうか。なにせ、本の記述にも書かれ、XX様にも保証された事実を再確認するだけなのだ。目と鼻の先の相手を狙撃しろと言われているのに等しい。笑っちゃう程簡単な任務、のはずである。
だが、請け負ってからどうにも上手くいかないのは、何故だろうか。客観的に見れば、それは私の怠慢であると断定出来るだろう。だって、私はこのネズミ達と触れ合っては殺すという事実しか積み上げていないのだから。薬を使ってやった事も無いし、ノートを開いて傷の経過を一字一句書き留めた事も無い。作り出したのは、無為な死体の山だけ。
ここに弁解の余地は無いけれど、あえて内心の私に向けて主観的な理由を与えるとすれば、とても実験を行える状況ではない、ということが挙げられる。
実験を成功させるにあたって、私とネズミの間では明確な実験者と被験者の契約を結んでおく必要がある、のだが。この前提条件を、私達は明らかに満たしていない。この実験室にいるのは、学術的な研鑽を求める科学者と検体ではなく、殺し合う兎とネズミなのだ。飼育をしていたその手で掴んでも、実験台に向かった矢先、掌の中は敵で充満する。
そう、ネズミは言っているのだ。殺せ、と。
その震えた手で握られるメスの切っ先を胸の真ん中に持ってきて、自分の心臓を切り開いてくれ、と。
けれどもそれは私の幻聴だ。だってネズミはそんな複雑な波長を発する声帯を持っていないのだから。喋る化け兎が居るのだから喋る化けネズミも居るのだろうが、ここにいる奴らは全て永遠亭産。どいつもこいつも模様に見覚えがあって、私の腕に一度はしがみついてきた事を覚えている。
「くっ……殺せ」
今度はいやにハッキリと聞こえてしまった。これはいけない。憎たらしいくらいに頬を膨らませ、肉に埋もれて細まった眼で私をじっと見つめている。ああ、覚えているよ、私の不手際で檻の鍵を閉め忘れたとき、鬼ごっこの最後の一匹になったのが、あんただってこと。
(そう急くな。何度も銃口を向け合った仲じゃあないか。お前も私達と同じだろう?)
勝手に返答の声まで聞こえ始めた。いよいよ問題なんじゃあ、ないか。これは。声帯、イヤ、生体を取り替えて仕切り直しを図った方がいいのかもしれない。今日ばかりは死体を増やすつもりはなかったのだけれど、ここで殺してしまおうか。無駄な思い出があるとやりにくいし。うん、一匹だけ。一匹だけだから。ほんとに。この次のネズミが奇跡的な良固体で、今度こそきっと実験は上手くいくはずだ。
一旦、殺してしまおうと決めると、自分が下手に出てネズミの戯言に付き合っていた時間に急に腹が立ってくる。実験動物として生まれた存在を殺して、何が悪いというのだ。きっとこいつも、今日この日まで生き存えた幸運に感謝しこそすれ、私に恨み言を言うことはないだろう。
……ねえ、ほら、あんたはどう思うのよ。あの日、そのまま脱走して、永遠亭の外に逃げた方が幸せだった?
でも、大変よ。竹林で生きるのも。そこら辺をほっついている、妖怪や獣に食べられてしまうかもしれないし。捕食者の牙に殺されるよりも、ここで理性的な私に命を委ねた方がいいんじゃない?
「いいや、違う。お前達のような、薄汚い茶色の毛並みを持つ連中とは違う。私は誇り高き玉兎の戦士。身体を弄ばれようが、指を切り落とされようが、頭をほじくられようが、私は決して屈しない」
ちゅう、ちゅう。忠、忠。馬鹿みたいに繰り返して。ネズミは私の指先にふさふさした感触を残す。いくら洗っても白にならない、汚れた模様の下で、生意気にも血の暖かさを保っている。
(……ああ。やはりこいつも同じ事を言う)
尾を右に左に忙しなく振り回し、巡る脈の波長は絶え間なく山を送り出す。
「さあ殺せ。早く殺せ」
自分勝手だ、と。死に急ぐそのネズミを見てそんな感想が浮かんだ。
(綿月の犬はそんなに心地いい身分かい)
どうだっただろうか。昼も夜も光度が変わらぬ部屋で、取り決められた水と食料をただ貪るだけの生活は。時たま身体測定として檻の外に掴み出されるその時。私の手に、何らかの感傷を抱いたのだろうか。今、強く締められている私の手と、何が違うのだろうか。
この毛皮は答えない。忠義を発語するばかりで、其処に私が求めている答えは無い。当たり前だ、こんな一匹のネズミから、普遍的な答えを導けるはずが無い。
「ここで縛り付けられているよりはよっぽど、ね」
尻尾の付け根を親指と人差し指で押し潰す位に強く摘まむ。神経が集中した敏感な箇所を奪われたネズミは、身体をぶりぶりと振って脱出を試みた。まるで心臓を握られたかのように、生死を賭した形相で。
その反乱を抑え込むために、尻尾を摘まむのとは反対の手で、毛を逆撫でるように背骨を絞っていき、首回りで母指球と子指球とを組み合わせてトンネルを作る。断面の狭さに窒息を感じ始めたのか、ネズミは濁音を混ぜてぎい、ぎいと叫んだ。
はてさて、何故ネズミは今になってこんな声で啼くのだろう。さっきまではあんなに甲高い声でひよこの如く鳴いたじゃあ、ないか。あれは本気ではなかったというのか。それならば、最初からこんな風に死力を尽くして逃げた方がまだマシだったはずなのに。
(月人にとって、私達玉兎になんの差異もありはしない。お前は錯覚しているだけだよ、甘い甘い毒薬を……)
閉塞していくトンネルの出口で、ネズミに噛むべき肉は無い。先程まで触れられた、私の手首から先の世界は、全て頭の反対側だ。ネズミを完全に固定できたことを確認すると、尻尾の付け根と首の骨という二点に握力を集中する。
「錯覚?……私はそう感じたことは一度も無いけれど」
ぎ、ぎ、と発される波長を引き延ばすように、私は二点間の距離を二倍に延ばすつもりで引っ張った。キリンじゃあないのだから、ネズミの背骨が耐えられるはずがない。引張応力を送る場所が無くなった断面から、徐々に抵抗をなくしていった。
(褒められたり、撫でられたり、抱かれたり、そういうことが愛だって。きっとお前はそう言うんだろう)
じ、じ、じじっ。そういう音が耳に伝わる訳では無いけれど。指骨で聞いた背骨の幕切れはきっとそんな声。引張の力がゼロになると、最初よりも随分と細長くなったネズミは、もう動くことはなかった。
「ええ。そこでほんの少し、睦言のまどろみの中で愛情を囁かれれば、他にはもう何もいらない。私はそれだけで命を捨てることが出来る」
目の前のネズミは完全に死んでいた。
(その命を虚しいとは思わんかね、悔しいとは思わんかね。お前の言葉通り、こうして兎の死体が積み上がった山で踊り狂う月人を見て、お前はどう思う)
半身不随にならないよう、力一杯で殺した。
「私がどう思うか、なんて関係ない」
生き返る事が無いように、最後まで手を緩めなかった。
(……ああ、完全にいかれているな。思考が止まっている)
目の前のネズミは完全に死んでいる。
「それでも、私の方が幸せだ」
何故死体が喋る?
……いや、死体は喋らない。そんなことは、赤子だって知っている。
(……今はそれでいい。だが、よく覚えておくことだな、私達の敵は地上でも他家の玉兎でもなく、月人だということを)
今、喋っているのはどの口だ?
(お前のその感情が結実する日は、決して訪れないということを)
そろそろ黙れよ。
「ウドンゲ」
ああ、この実験室のネズミを全て殺し尽くしたと思ったけれど、まだ生き残りが居たようだ。私の両手で掴んでも頸がすっぽり収まらない……くそ、素手で殺せないのは計算違いだ。こんな大きいネズミが居たとは知らなかった。赤に青に、随分と毒々しい毛皮の色をしちゃって。こんな奇天烈なものを身に纏っていて恥ずかしくないのだろうか。
「ウドンゲというのは……っ、貴方の名前の一種を……指し示すものよ」
ヒュウヒュウと喉を荒げながら、このネズミはウドンゲという私の知らない単語を繋げた。自然に後退するネズミの脚を蹴飛ばし、股の間に腿を割り込ませて、無理矢理に実験室の壁際に押しつける。頸椎を折れないなら、ほうら、メスで垂直面に手足を縫い付ければ、もう暴れる事はない。なおも言葉を紡ごうとしたところを、額からガツンと、薪を割るようにメスの一撃を押しつけた。そのまま喰らった肉を引き裂いて、腹まで身体を真っ二つに割ってやれば、破けた先から鮮血が爆発したように迸り出て、白い壁一面に薔薇が咲いた。
そのちぐはぐなダッサイ真ん中分け衣装、赤一面に染めてやったわよ。感謝してよね。アハハ、アア、ハハ。
「……ウドンゲ」
……?
おかしいな、私のワイシャツも絞れる位に血を吸っているんだけど、一向にくたばる気配がない。それどころか、心臓の波長が回復してきている。ものの数秒で、死亡一歩手前から午後三時のおやつでも食べるような心持ちに戻っているのはどういうことだ。
……何故死なない?
「ウドンゲ。今日のお仕事はどうかしら」
これではミッションは失敗もいいところだ。何の見せ場も無い。実験室の硝子器具を悉く破壊し尽くしているし、撒き散らされた汚れもひどいものだ。いよいよ無所属の野良兎になる日も近いのかもしれない。
「……うん、メスの切り傷は無いみたいね。でもさっきの組み合いで脚を壁に擦ったでしょう。ほら、これ。使いなさい」
『恋の薬(はぁと)』の瓶が開けられた。まだ神経が繋がっていないのか、私を撫ぜるその手は時折不自然に震えを帯びる。多量の蒲黄を床に零しながらも、脚に花粉がじゃれついてくる。私の心臓が、目の前のコーヒーブレイクをしに行く心音に呑まれていった。
【蒲黄】ネズミに対する治癒効果は不明。だが、玉兎には効くようだ。恋に関しては全くの未知数。
「『このたび、一身上の都合により、勝手ながら明朝をもって退職いたしたく、ここにお願い申し上げます』……ねえ。はい、却下」
びりびりと紙が破ける音と共に、数刻分の労力が泡と消える。くずかごにポイと捨てられてしまえば、辞職願いは塵紙となんら差異は無かった。私はゴミだから当然ではあるが、やはりゴミはゴミを作り出すのが上手いらしい。
「私が居ても皆を傷つけるだけでしょう。もう、ここから叩き出してください」
「無理。あんまり自分勝手なこと言わないよーに」
輝夜様の居場所は、何処に行ってもひんやりとしていて、蝉時雨が遠い後背に移ったように感じられる。汗と血が洗い流され、乾いたばかりの私の身には少し寒い位だった。
「私なんぞ、存在するだけで迷惑でしょう」
「勝手に抜け出される方が万倍迷惑よ」
ぽん、ぽん、と寝所の端の掛布がはたかれる。私は反射的にその音に反応し、畳の溝を越えた。倒れ込んだ布団は、私が今までに月面で横たわったどんな寝具よりも柔らかい。綿月の家で経験したものよりも、上等だった。
「たしかに今の脱走兵くんには壊れづらい抱き枕としての用途しかないけど。でも、玉兎の反応が途絶えた先は地上の密閉された竹林でした、その中を探ったら玉兎の行方は知れません、って明らかにまずいでしょうよ」
「野良兎が野垂れ死ぬのがそんなにまずいですか」
輝夜様は、天井を見上げていた顔を私の方に移すと、月面の夜空よりも多くの星を持つ眼を見開いて、私を絡め取った。
「政治的理由ってのを全く考えてないわね、この核弾頭は」
腰骨にほっそりした手が回される。背を探る勢いのままに、輝夜様は私の尻尾をぎちりと掴むと、ぐいぐい引っ張った。
「曲がりなりにも、貴方は綿月の玉兎筆頭だったんでしょ。なら、知っているはずよね。あの姉妹が完全な反八意派じゃない事を」
「はあ」
どうだっただろうか。なにせ、任務とその次に待つ寵愛の事以外なんにも考えていなかったから、脳に霞がかかったように記憶が不鮮明なのだ。戸惑う私を尻目に、耳の横でため息が漏れた。
「……ペットに抱く愛情ってのは複雑なのよ。鎖が完全に解けるまで、貴方の身柄は確保させて貰うから。とにかく貴方は人質なりの高い自己評価をしてちょうだい。無意味に卑下せずに。それが私達への報いだと思って、ね」
輝夜様とXX様は、私にこういうことをよく言ってくる。
「……よく分かりません。私が役立たずなのは事実じゃあないですか」
「なら、もっと単純でいい。愛するペットが、他人に勝手に傷つけられるのはイヤなの。貴方には、その無意味に傷を生み出す他人になって欲しくない。そして、貴方にも愛を返して欲しい」
どうも、私が認識していた抱かれたり愛そのものを囁かれたり、ということが一意に愛と変換出来ないらしいことは最近知った。伸び縮みする尻尾に神経が反応しないように、今の私の思考はその定義に対して臆病だった。
逃げられない星のまなこに追われ、必死に自身の感情を回想する。何処を探しても冷たい水ばかりで、やっとの事で見付けた回答は、つい最近の出来事だった。
「……XX様に、薬を塗って貰った時。あんな顔をさせたくない、と思ったのは愛でしょうか?」
「……かもね。どう、効いた?」
「はい。すっかりアザも消えて……ただ、恋の方は不明ですが」
「信じてないと効かないのよ、恋の薬としては」
尾を弄くる手が、とん、とん、と私の腰骨を心地よく揺らす音に変わってしばらく時間が経った。六割ほど閉じていた輝夜様の瞼をじいっと見つめていると、震えるように下方の果実が歪んだ。
「そうそう、てゐの方への処置も今度よろしく」
「またですか」
「この季節はサカリがついちゃって、抱くときにうるさいのよね」
「ほんとに効くんですか、恋に」
「さあ」
「……恋ってそんな適当に放られるものなんですか」
「私も恋なんてよく知らないし。百戦錬磨のオンナって自称してるてゐが信じてるから、いいのよ」
いいのか、本当にそんなので。
「ああ、でも……あの求婚合戦をしているときは楽しかったわね。あれも恋と呼べるのかしら。地上に降り立って経験したこと全てが興味深いものだったけれど。あんなに胸が高鳴って、興奮したのは。後にも先にもあれが初めて」
そのお話は罪人の経歴として見たことがあるが。ああいうのが恋なのだろうか。
「あの中に、好きな殿方がいらっしゃったのですか」
「愛憎たっぷりよ。皆に等しく」
「恋……なんでしょうか。それは」
「あら。それじゃあいけないの。だって……恋する乙女は皆、心臓を取り合っているものでしょう?」
全く、余計に分からない。
少しでも目の前の女性が考えていることを読み取りたくて、私は瞳に幕を下ろす。二つの心音を重ねるように、脈を操った。
中身がなんとなく気にくわない瓶は、自然と扱いも雑になる。小指と薬指の付け根に瓶を挟んで持つ、なんて横着、普段なら絶対にしないだろう。そうやって薬品取り扱い法違反な状態で、今回の治療に必要な道具を集めていく。口の大きな容器、薬さじ数本、二枚重ねの薬包紙、鮫皮のヤスリ。こういう時に限って、うっかり瓶を落として割ってしまわないのは何故だろうか。
厨房に向かい、容器にたっぷりの氷を入れて、塩壺を抱えたら準備は完了。私は患者の元へと赴いた。
「……ねえ、鈴仙。今回の水、ちょっと冷え過ぎじゃないの?」
それはそうだ。わざわざ氷を山程入れた、冷え冷えの水を運んできたのだから。皮膚の感覚を失くすくらいの、とびっきりの氷水を。
「少しでも冷静でいたいの」
面倒くさそうに投げられた私の言葉に、てゐは何らかの抗弁を用意したそうだったが、塩壺を開いて投入量を聞くと、壺一杯分、とだけ応えが帰ってくる。てゐの求めに応じて、私が溶かした氷よりも多く、塩がどさどさと水面に降下しては溶解していった。
海水の濃度も、飽和食塩水の濃度も飛び越えて。溶けきれなかった塩が寄り集まってダマとなっていく。それでも塩壺の底は見えない。
「それにしても、当時の山陰の海ってのはこんなにしょっぱいもんなの?」
「うん。最近の甘い海を基準にしてもらっちゃあ困るよ」
大和政権は海に砂糖でも溶かしたのだろうか。そんな歴史の出来事は私の知識には無いが、兎に角こんな濃度の海が有れば、出雲は地方豪族に成り下がる事は無かっただろう。殆ど手間のかからない塩田で、莫大な利益を得ていただろうから。そうなったら、月人も土着神もひっくり返って、案外このてゐなんかも相応の位置の神様になっていたのかもしれない。
「皮を剥がれた所に、こんなしょっぱい海水を漬け込むなんてさ。馬鹿じゃないの」
「うん。馬鹿だよ。馬鹿だったんだ、わたしゃ」
一番馬鹿らしいのは、今私がやっていることだ。ああ、いっそのこと、このままこの塩水が氷結してしまえば良いのに。そうしたら、私はこの容器いっぱいにしょっぱいアイスキャンディーを作るだけで良かったのだ。
けれども、この硝子をも溶かすような炎天下の処置室でそんな願いが叶うはずもなく。マイナス二十一度を下回らない塩水は、ただただ表面に波を浮かべて液体の相を呈していた。
「……本当に全部入れるの?」
「ん」
こくり、と。何度も聞いた質問に、やっぱりてゐは頷いた。
塩の出が悪くなったら、塩壺の傾きを大きくして、匙で底を引っ掻き回しながら往生際の悪い塩塊を落としていく。この時、壺の底で、ぎぃ、ぎぃ、と陶器が刮がれる音は、耳が痛くなるので、私は嫌いだ。
「前回は自傷しなかったんだってね」
てゐは、匙の先っぽを眺めながら、思い出すように言った。ネズミの実験のことを、XX様から聞いていたらしい。
「でも、代わりにXX様を傷つけてしまった」
「あんたが自らを切り刻むより億倍いい」
この永遠亭での生活は、時折命の価値が曖昧になる。月面では、一向に低いままだった私の価値が、浮動する点のように揺らいで、酷く不安定だ。計算出来ないこの問題に、愛や恋と同じく、世界は簡単な答えを返さない。
「ほんとさあ、いきなりヤスリ握って叫びだして、あんた自分の首をガシュガシュッ!……ってアレ。やられると血の気が引けるからさあ、もうやめてよね」
その時の事を思い出して冷や汗をかいたのか、元々の暑さのせいか。私の額に凝集した汗が、前髪を通して一滴の雫となった。
「あっ、」
壺と匙で両手が塞がっていて、判断が遅れた。その水滴を拭おうとした矢先に、露は塩水の一部へと姿を変えてしまった。
「ありゃ、油断したねぇ鈴仙」
全くその通りだ。いくら暑いからと言って、気を抜き過ぎた。てゐ相手だから良かったものを、普通の患者の前でこんなうっかりミスをしていたらXX様から大目玉を喰らっていただろう。
「ごめん」
たとえ一滴の泥だろうと、一樽のワインを台無しにする。溜め息をつきながらこの塩水の処理について考えていると、
「……ま。私は気にしないよ」
と、てゐは言った。
「不純物が入っていた方が、それっぽいからね」
……だから。余計にしょっぱくなるから、こういう失敗はしたくないのだ。
壺の中から白色が消えて無くなった。
今まで沈黙していた瓶の蓋を開けて、薬さじで蒲の花粉を掬う。包紙の上にそれを広げる作業を二回ほど繰り返すと、瓶の中の粉が尽きてしまった。
「終わっちゃったけど。前に、私が使いすぎたせいかも」
「いーよ、今回の量としては十分。丁度花の季節だし、また採取しに行くから」
辛いほど辛い塩水も、何の変哲もない傷薬も。準備を終えてしまった。此処からが本当の治療になる。
ぴちゃ、ぴちゃ、とてゐの手首を撫ぜ擦りながら塩水を塗っていると、ドロドロとした罪悪感が浸透する様に私に伝わってくる。だって、私の親指と人差し指で作った輪っかで一周出来てしまうほど、てゐの手首は細いのだ。
「そんなに青い顔しなくても大丈夫。ネズミと違って、私はいつも、ちゃんとあんたに話しかけているでしょう」
「……うん」
「ちゃんと区別出来てる。大丈夫、大丈夫だから、ね」
無抵抗の者を拷問にかけるという事は良くあることだったが、自ら拷問にかけてくれ、と言ってくる方がタチが悪いと思う。目の前で泣き叫んでくれれば割り切れるものの、目尻にうっすら涙を浮かべて唇を引き締める表情を見せつけられると、どうしようもなく悪いことをしている気分になる。
それでも私は分けなければならない。拷問をする私。拷問をされた私。ネズミを殺したこと。てゐを傷つけること。その全てを。
「どう。染みない?」
「平気。鈴仙の手際が良いおかげかな?」
「見え透いたお世辞は辞めてね」
という事は、前回の痕も完全に癒えているし、日常生活で手首に付いた傷も無いのだろう。そろそろ氷の効果が薄れて、私の指先に血流の感覚が戻って来ている。これ以上無為に時間を引き伸ばしたら、てゐも素の感覚で傷を引き受けることになる。
頃合いだった。私は覚悟を決めて、ヤスリをぎゅっと握りしめる。てゐの背後に掛けられている処置室の時計を見ると、丁度兎の耳を摸した長針が一番下にやって来ていた。
「……じゃあ、四半刻。あの時計の針が上に行くまで」
「鈴仙、あんたまた時計を弄ったりしてないよね?」
「してないよ」
この鮫皮ヤスリは、本来山葵などを擦り下ろすのに使う。鮫と言いつつ鮫皮が使われていない事も多いらしいが、これは正真正銘の本物から採られたものだ。海の暴君が持つ肌に相応しく、包丁みたいな並の刃物じゃ傷も付かない。逆に刃こぼれさせてしまう位だ。擦れ味を確認するために、表面を人差し指で少し逆撫でただけで、指の腹が毛羽立ち、指紋がずたずたに引き裂かれる。永遠亭ではこんな機会にしか使われない癖に、憎たらしいほどにしっかりとヤスリとしての能力を保っていた。
ちりちりと、浅い痛みの感覚が残り続けている中で、この何倍もの痛みを想像する。どう考えても、羽毛を持たない生物の肌を擦るものとしては適していなかった。
「……いくよ」
「うん。お願い」
私は輝夜様をエスコートする時みたいに、優しく柔らかくてゐの手を取る。そんな事をしても何の意味も無いと知っているのに。それでも、手首を固定してヤスリが引かれるその時まで、私は力加減を変えることが出来なかった。
清流に洗われる、川底に転がる玉石の、表面に付着している気泡。そんなちいさな泡達を、きち、きち、と轢き潰していく感覚。もし、今の私に伝わる神経信号を形容するならば、きっとそんな感じ。
最初の一擦りはまだ楽でいい。何てったって、血が出ていないのだから。
「ッ……」
「……ごめん、早いかな?」
「いやッ……だいじょ、ぶ。それくらいで良い」
てゐの耳が普段の半分ほどに縮こめられ、頰には玉のような汗を幾つも流していた。
肌を擦るのに早いも遅いも無い気がするが、早過ぎると傷の深度を誤りやすいのも、経験から知っている。なるべくこの地獄の時間を長引かせないように、焦らず丁寧に、かつ迅速に肌を擦り下ろした。
ヤスリの面を端まで使い切ると、二擦り目に入る。ぬる、とヤスリの抵抗が緩和され、滑りが良くなっていくこの瞬間は、毎度気が遠くなる。引き切ってからてゐの手首を確認すると、赤色はうっすらと混じっているのみで、まだほとんどは浸出液のようだった。
始めの頃などは、この時点でリストカットをした様に血がボタボタ垂れ落ちていたので、自身の技術が向上している事が分かる。
「……上手く……フ、ウ、なったねえ、鈴仙。褒めて、やろう」
息を詰まらせながら、てゐは感慨深そうに唇を歪めた。こんなことを今の状況で言われても嬉しくない。先程の、区別出来ている、という言葉の方が有難かった。
てゐの急かす声のままにヤスリを何度も往復させていると、段々と狂気に呑まれてくる。時々、手首が鰹節に見えてくるくらいだ。精神の防衛機構としては中々に上等だが、そのまま呑み込まれてしまう訳にはいかない。このまま骨まですりおろしてしまえば、それはネズミの前の私と同じだ。
てゐに何度も何度も、大丈夫か、大丈夫か。と問いた。心配というよりは、どちらかというと私の精神を安定させるために。その度に、てゐは、大丈夫、と震える声で答えた。勿論大丈夫な訳が無いのだけれど。その切実な声を聞く度に、私の靄がかかっていた視界がクリアになり、どうしようもない現実を直視させてくれた。
どくん、どくん、と早鐘を打つ私の心筋の表面を、汗が滑り落ちていく。横隔膜に落ちたその雫は蒸気となって、喉から噴き出た。
てゐの手首から流れ出る血がいよいよ一筋の流れを作り出して、目の前の顔色は赤くなったり青くなったりと目まぐるしく入れ替わる。この小さな身体で拍動する心臓は、きっと私の何倍もの負担がかかっているだろう。少しでもそれを送らせられるように、私はヤスリを進めるペースを自分の鼓動に合わせた。この血を通して繋がる共鳴で、僅かながらでもてゐの周波数を低くしてくれるように。
四半刻たっぷり。橈骨のカーブの起点迄。てゐの手首を虐めに苛め抜いた私は、ふう、と息を吐いて、ヤスリを擦り終わった事を告げる。今回は今まででも一番上手くいった方だ。大きな血管を一つも破らなかったし、てゐの痛みも相対的に薄いはずだった。
「っう……水、頂戴。早く」
「はい、はい」
てゐの目の前に置かれた塩水容器に、生皮を剥がれた手首が飛び込む。まるで川遊びに興じる子供達みたいに、堪え切れない、という様子で。
「あ゛あ゛っ!」
悲鳴が、久々に甲高い調子で上がった。表皮を剥がした上で海水に浸される、その痛みの感覚は想像を絶するものなのだろう。痛みの感覚をスイッチ出来る、拷問の訓練を受けた私ならまだしも、一般兎の手に負えるものでは無いはずだ。
「う……っ、く……」
てゐは、血が滲むくらいに唇を噛み締めながら、涙をぽろぽろと溢していた。一体どこからそんな水量が湧いてくるのか、分からないくらいに。こんこんと、こんこんと。
湧き出しの下流である容器の中を覗くと、赤色の傘が時折膨らみながら、白いダマの勢力を制圧していく途中だった。私が流した汗はもはや何処に居るのか分からない。それくらいの混沌の坩堝だ。ヤスリを握りしめていた手のひらの赤より、ずっとずっと深い赤。
「……痛い?」
「痛い」
そりゃそうだ。
「血管、切ってないから。いつもより安全だと思うけど。気分悪くなったら、言って」
「……うん」
むしろ、失血で失神させた方がてゐの為なのかもしれなかった。針で突き刺すような痛みを、麻酔なしでこのまま受け続けるのは、身体に毒なのだから。よくもまあ、脳裏に刻みつけるように、毎度毎度耐えるものだ。
「……追加の氷持ってこようか」
「いらない」
「私があっついの」
「……れーせんはさぁ。患者を一人にする気?」
そう言われると手も足も出ない。立ち上がりかけた腰を再び椅子に下ろして、てゐの隣に留まった。その振動が伝わったのか、水の中の塩だまりが崩れて、ぼろりと幾つかの塊に分裂する。
「……てゐも暑いなら暑いって言いなよ?」
「……うん……ありがと、れーせん」
有り難がらないでよ。こんな事をしている相手に。
全てが赤く染まった紅海から手首が揚がると、水気を拭く暇も挟まず、蒲黄の粉が皮を剥がれた肌に降りかかる。
その瞬間、てゐは今まで受けた苦痛を忘れたかのように、穏やかな顔を浮かべていた。
【蒲黄】地上の兎に関してはもう何度も試したが、傷薬と恋の薬の双方の効果が重なって発現するため、各効能の詳細については現在も不明。
ネズミの骨が大量に埋められた塚の頂上には、ネズミのばか、と刻まれた一節の竹が刺さっている。私はこの竹を用意した覚えさえ無いので、どうやら兎たちの手により二段階に渡ってこの首塚に悪戯が加えられたらしい。
「れーせーーん、終わったー?」
十分ほど、ぼうっと立っていた私に堪えかねたのか、暑さに圧された声でてゐが急かしてきた。その手首に赤い鎖を抱えているのを悟らせない、いかにも生意気な声色で。
「……うん」
「やっとかい。んじゃ、蒲狩りにでも行きますか」
今日も朝から起きたく無くなる位に暑い日だった。笠の下に長い耳をすっぽり隠して竹林を歩く私の姿は、仮に月から見ても普通の人間の様に見えるだろう。竹林を割るように流れる小さな渓流から冷気を補充するように、私とてゐは川縁の岩場を歩いていた。
此方の岸に蒲の群生地を見つけるには、あと数十分ほど川沿いを歩いて行く必要がある。
……対岸には幾つも蒲の叢が見えているのに。
「ねえ、てゐ」
「んー?」
「てゐは、この川を渡りたいって思ったことはないの?」
「……この川の向こうは、もう月から隠された範囲の外だから。あの二人と契約を交わしてからは、一度も無いねえ」
蒲よりも水深の深い所に棲む、蛇のような水草が川底を這っている。決して大きい草という訳では無いけれど、水中の魚達が一応の頼りにはするくらいの。そんな水草だった。水生昆虫達は、底の水草と蒲の浅瀬を往復するように、忙しなく気管の方向を変えていた。
「この閉じられた竹林には、大国主命はいないのに?」
「外の世界に行っても、見つかるとは限らない。それに、私は別に大国主様に一声掛けて貰いたい訳じゃあないんだ。思うだけでも幸せなんだよ」
向こう岸に見える蒲の穂が、列をなして揺れている。風に乗って、実った穂ほど頭を垂れて。
「あんなに苦しんで、恋の薬を塗っているのに?」
「あれだけ苦しまないと、私は忘れてしまうのさ。兎ってのは、一人じゃあ生きられないから。寂しさよりも、もっともっと熱いもので埋めないと」
「輝夜様や、XX様ではいけなかったの?」
「うん」
「……それが恋、なの?」
「うん」
そっかあ。
「いいなあ」
私は、この隠された竹林の外に出たら、綿月様が気づいてくれるんじゃあないか。殺される前に、一言言葉を掛けていただくことだってあるかもしれない。そんなことを何時も何時も思っている。あの蒲の粉に巻かれて、死体になっても安らかな顔のままなんじゃあないか、とも思っている。
「いいって、何がさ」
「……奇麗な恋をするてゐが羨ましいの。私の心って、やっぱり汚いなあ、って」
逃げ出したのも、見つけて欲しいと思っているのも、殺して欲しいと思っているのも。みんなみんな、私の事しか考えていない。
「自分勝手なんだ、私」
道中の藪が濃くなり、私は手に鉈を握る。川方向に大きく突き出ている竹を真っ二つに割り、川にはたき落とすと、随分と視界がよくなった。
何度かてゐの背丈に合わせて藪を刈り払っていると、背後から、それは違う、という声が聞こえた。
「そりゃあね、鈴仙、あんたがまだ若いから。心を定める方法を知らないだけさ」
「心?」
「自分の心をありのままに受け止めるのが、心を理解する方法だと思っちゃいないかい」
「違うの?」
「違うんだわ、これが」
古い倒木を乗り越え、前方の小さな滝を迂回するように、蓬莱竹の林に入る。樹冠の下はひんやりと冷たい影が広がっていた。まるで輝夜様の寝所のように。
「死んだワニの心臓が、海水を動力として動くのを見たことがある?」
「……玉兎のなら」
「……まあ、それくらいでいいんだよ、それくらい適当で。兎を殺しても、ネズミを殺しても、私を殺しても……その時心臓に流れる血の色を、誰も知らないんだから」
枯れた葉がさくさくと足下で音を立てる。後ろから続いてくるてゐの足音が、その小気味よい音を追った。
「心臓を切り開くっていう歴然たる証拠が現れない限り、私達はどんな血を心に流したってバレやしない。自分に都合のいい事実だけを記憶して、其処のストーリーに合う心情を奏でればいい。生まれながらに奇麗な心なんて無いんだ」
「……そうかなあ?」
「そーなの。年長者には従いなさい」
てゐの方を振り返ると、先程藪に開けてきた穴がやけにぽっかり浮き出ている。私達の帰り道はここだ、と、誇らしげに木漏れ日を輝かせている。
「……だから、さ!……この林を抜けたら、鈴仙は……うん、恋をしている鈴仙になる。ってのはどう?」
「ふ……なに、それ」
目の前で恋に瞳を輝かせる小さな兎は、私も一緒に踊ろうと引き込んでくれる。見ているだけで、私も幸せになっちゃう位に。きらきらと、揺れ動く川面のような眼。多分、この恋の狂気は、私でさえも操作出来ない。
有難いけれども、きっと私なんかには叶わないし、断ろう、と、思った瞬間。この問題に、私よりも先に疑問を投げかけた三人の心臓を思い出した。
そして今、この瞬間も。てゐと私は枯葉のリズムを通して、脈動を共有していた。愛も恋もまだまだ分からないけれども、この波長はしっかりと覚えている。てゐの心臓から流れてきた血液が、私の胸を少しだけ後押しした。
「……私、何にも知らないけど。いいのかな、恋、しちゃって」
「お恋道初段でも取りに行く?」
「一生かかるよ、そんなの」
「んじゃ、実践あるのみでしょ!」
自分どころか、他人に勝手に決められてしまった心が、何故だか今は少し軽い。
「恋、恋かあ」
この光の向こう、川縁に出れば、私はその心の在りようを恋と定義する。
そう、恋ならば、私の今までの行為をひっくり返して、その時々にあったストーリーを考えなきゃあね。月の玉兎として生きた話。地上の兎として生きる話。惨めな脱走兵ではなく、恋に生きた兎が主人公。それは、何だか少しだけ、面白そうだ。
思案にふける私を置いて、てゐが林の外に向かって走り始める。眩しい光の先には、群生地から外れたはぐれものの蒲が、ぽつりと立っていた。
面白かったです
発狂寸前の鈴仙やその狂気をものともせず受け入れる住人たちがとても素晴らしかったです
描写の一つ一つがとても丁寧で臨場感があって素晴らしく辛かったです
読んでるだけで痛かったです