一 天狗の里上層 射命丸邸宅
トンテンカンと木槌の音が響く。天狗の里において競争率が激しい職と言えば文官、武官についで建築業があがる。
妖怪の山の広大な土地と膨大な人的資源の流入を背景に、天狗の里の官僚制と住居区画は無軌道に拡張し続けている。天狗というのは元来天空を重んじるものであるから、より高い位置の懸造ほど望ましい。博麗大結界が敷かれてこの120年、天狗の里中枢の地価は上昇の一途であった。
「それで。場所を見繕うためにも書類が必要で三か月待ち。見繕っても部署をたらい回しにされて三か月。業者はそもそも木工共で固まってて棟梁にコネがなきゃ話が通らん。結局裸一貫で家を建てるのに五年はかかりそうな始末なのだが」
繁文縟礼が進んだ巨大な官僚機構は外様に冷酷であり"慣例による拒絶"は必然的に流入民に文字通り地を這う生活を強いる。住居の高低は即ちその家の格を示し、階層社会が形成される。
仮にも大妖怪に名を連ねる黒駒もここ数か月で幻想入りしたばかりの新参者。天狗の里は節用を美徳とし政と儀礼の簡素を謳うが、役所仕事は様式の尊重と前例主義を前提とした儀礼の肥大化を続けており、足踏みを喰らうのである。
「あー……うん。我々天狗の社会はまずもって諸子の思想の延長線上にあり、十論のことわりに基づいて成り立ちます。すなわち天帝が定めるところ誰もが等しく、相争うことは嘆かれなければなりません。非攻思想はこと建築において顕著です。パラ・ベラム! かつて屋敷とは野戦築城の要塞であり、軍事拠点でした。暴力はすべて天魔とその手足である文民のもとに統制されなくてはいけない。これらはシビリアン・コントロールなんですよ」
射命丸文は古く役行者の近縁の傍系であり、"長生きである"という一点で政治力を保持する妖怪の典型と言える。即ち、こと日本妖怪たちが積み重ねる教養素養を抜群に精通するエリートに他ならない。
対して黒駒は典型的な猪武者の類であるから、政治がわからない。
「えーと、つまり?」
「賄賂を贈るといいですよ?」
黒駒はドン引きした。
「……天知る、地知る、我が知る。なるほど鬼に愛想をつかされるわけだ。わたしの性に合わんわ」
「良心が許しませんか? いいと思いますよ、王昭君みたいで」
「あーいえばこう言うな! ……この歳になるとかえって飢えるということがなくなってきてな。禽息鳥視と言うが、飢えが我々を獣にするのか、獣であるから飢えるのか。なまじっか自制ができるからよくない。昔は刀を抜いてスパっとやって終わりだったんだよ。わたしはキレた蛮刀だった……」
今度は射命丸がドン引きした。
「あやややや…………まぁ、天狗の里は若い衆ばかりが担ってますからね。……収賄が流行って一番得をするのは酒屋と言います。行きますか?」
「……行く」
そういうことになった。
二 天狗の里中層 呑み処『鹿鷺』
例えば天狗の里の軍事は元々天魔直属の白狼隊と、評定が動員権限を持つ兵部の二重構造にあったが、白狼隊が専ら哨戒に当たり、兵部が肥大化しすぎたために動けないというので刑部の権限が拡大した。建築バブルに伴って工部が雇用枠の増員を繰り返したが、むしろ素人が余った結果、民兵もどきの工兵隊がこしらえられた。こんな調子で六部を中心にした衛星部署がやたらめったら増えていく。
天魔がこれを抑えられぬうちに縦割り行政が極まって、権限争いの紙爆弾と責任の押し付けあいが酷いというので場当たり的な解決として部署間を調整するための部署がまた増設された。
射命丸が結局黒駒に斡旋してやった官職は、そうした部署間の連絡部署の一つである。
とはいえ、キャリアを積む気のない射命丸や黒駒は手に職を持っていても登庁することは皆無である。こうした天狗は手ごろな代官を捕まえて、専ら新聞などの享楽に興じている。黒駒の場合はこの享楽が美食巡りになった。
別所の異界へ通じている地獄周辺を除けば、幻想郷の主要な経済圏は人里、妖怪の山、旧地獄の三つから成る。当然飲食店もその三つに集中するので、黒駒は大概いずれかで管を巻いている。
はたてを拾って三人になった酒飲みたちは近場の呑屋に転がり込んでいた。
「礼銭といえば昨今じゃ聞こえは悪いですが、酒肴料じゃないですか? やっぱり酒精にはお肉で……あ、馬刺し食べます? すいません馬刺し追加お願いしまーす!」
「ふふ、お金は官僚の潤滑油。でも天魔は潔癖症だから、腐敗と粛正を寄せては返す波のように繰り返すのが天狗社会の伝統にもなっている。明治のころはわたしんとこ……姫海棠家も楽しかったのよ? まさに役得ってねー♪ 今はまだ天魔が手綱をうまく取ってる方なの。ほら最近も転運使のとこの首が飛んだじゃない。あ、芋河童(妖怪の山の地酒)を常温で三追加よろしくー」
「わたしは日本酒てきとーに、あとウズラの卵とほうれん草のお浸しと……これと同じ肉も頼む。やっぱり組織人として生きてこなかったことのツケなのかなぁ。どうも馴染まん。でもその……高いとこの家、欲しいんだよね。高いとこって景色いいし……」
御三家である姫海棠家の一人娘、姫海棠はたて。ノンポリの重鎮、射命丸文。天魔とほぼ同年齢の大妖怪、黒駒――三羽鴉、無党派の要害である。
女三人寄れば姦しい。無党派ゆえに寄り集まった結果彼女たちの集会そのものが火薬庫であるし、元より派閥から疎まれているのだから舌禍というものを恐れない。店主からすれば目の上のたんこぶであるから、特盛のスターゲイジーパイをそっと差し出す。
「お、サービスかな。海産物はご無沙汰だからね。イワシー♪ イワシー♪」
射命丸と姫海棠は冷や汗をかいた。妖怪の山の文化として必然、鰯はご法度である。伝統に疎い黒駒は素直に喜んでいるが、含意を知れば店主を切り捨てるやもしれん。コイツはそういう女であるから。
0.1秒のアイコンタクトを挟んで二人は話題を変えにかかった。
「海産物といえばほら、あの双子! なんでも地底でやらかしたとか。鬼相手に賭博詐欺を働いて、大騒動だったそうですよ。周りの妖怪を巻き込んで乱痴気乱闘、結局一区画丸ごと吹き飛んだとか……今回の記事で取り上げています」
「あー? あれねぇ。太夫が一枚噛んでたらしいわよ。裏にいるのはいつもの大天狗連中ね。依神の姉妹は哀れな走狗。あわよくば旧都の電信利権に差し込むつもりだったんでしょうけど、案の定。地上と地底の不可侵なんてどうでもいいみたい」
「相変わらず耳聡いですね。実家には勘当されてるんでしょう? どこから?」
「ひーみつ。ていうかアンタはトバシが多すぎんのよ。政治筋くらい網張っときなさい」
相変わらず政治と時事に疎い黒駒は二人が何を話しているのかわからない。パイを切り分けてもきゅもきゅ咀嚼している。
「私は鬼とかあんまし知らない世代だからさー。お上が鬼共のあれこれにご執心なのがわからないのよね。接触するなとも言われてるし? 何が怖いの?」
「むぐっ……もぐもぐ……ごくん。……私に言わせれば、鬼の格が高いというよりも天狗の格が下なのさ。ほら、鬼の首……って言うだろう? あいつらは手を斬れば生えてこないし、首を落とせばそのまま死ぬんだね」
「む。ちょっと意味するところが取れません、続けてください」
この手の老人の衒学は得るところが多いと考えて、射命丸は続きを促した。だってここで聞いたことをそのまま若い衆に話すだけで博識なフリをできるから。
「……私たち天狗の身体はつぶしが効くだろ? 四肢がもげても五臓が潰れてもすぐ治る。代わりがあるんだよ」
「おー……おー……? なんか逆説めいてるような……そういうものですかね?」
「そういうもんなの。例えばこの天狗の里。そもそも鴉天狗とか、白狼天狗とか言うし……この里の人口動態とか比率とか詳しい話は知らないけれど、この店の店主は山童だ。向かいの雑貨屋は猩々で、そこで飲んでるのは大蜘蛛に蛙の妖怪じゃないか」
「んんっ……妖怪の山の多様性は、博麗結界によって霊峰が習合された結果です。須弥山、不死山、泰山……そういったものが同時に重なっているんですよ」
「なんで急に多様性なんて……すまん、話が飛んでたな。ええと、外部からここが天狗の里だと呼ばれて、またそのために身内でも天狗の里を自称している……のが肝要なんだ。『大工が笙を吹かず、楽士が鑿を持たないのはなぜなのか? それは問いかけが間違っているのだ』と……この言い回しは受け売りだがね」
つまらなそうに話を聞いていた姫海棠はたてはここにきて困惑した。
「あんた……話飛びすぎじゃない!? というか、人の移り変わりで妖怪のありようを語ろうとすな! それ誰の受け売りよ! ……言わなくていいわよ、わかるから。頼むからもう少し外聞というものを知って――」
店頭の戸がピシャリと開かれる。一瞬で静まり返った屋内に天狗下駄がカツカツと音を響かせる。白い白狼装束を引き締めながら、3名の座敷席の前に彼女は来た。
「まさしく、その通りだなァ、姫海棠。外聞というのを少しは知るべきだよ、定職にも就かないロクデナシが……。それに、三文のデマゴーグをばら撒くブン屋。年増のコネ女。外聞もなにもあったものではないな! おい店主! ここは呑み屋じゃなくて見世物小屋なのか!? あっはっはっはっはっ……」
犬走椛。天魔直属の白狼隊隊長にして東廠長官――秘密警察の長である。
三 同上 呑み処『鹿鷺』
「妖言、怪辞、危険思想の流布、怪文書の発行、享楽華奢偏愛…………お前らの刑罰は何がいいと思う? 魔界に島流しなんてどうだ?」
「魔界か……ポルタサンタがあるからワインが安いんだよね、あそこ」
「黒駒さんちょっと黙ってて……あやややや、犬っころがまた大きく出ましたねぇ。いいことでもありましたか? 先日の地底での騒動で白狼共は大忙しと聞きましたが」
ささ駆け付け一杯どうぞ、般若湯ですと射命丸は犬走に盃を差し出した。
犬走はといえば、それを受け取ると黒駒の隣に腰を下ろした。
「……文と椛ってさぁ。仲いいの? 悪いの? デキてんの?」
はたての言葉を両名は努めて無視して、何杯か酒を入れるとぽつぽつと語りだす。
「(射命丸は当然承知しているだろうが、と犬走は断って)博麗大結界の分有に拠った経済的繁栄の矛盾の解決を、天魔は物資・人的資源を問わない外部異界への輸出依存によって解決を図った。つまるところ、二十重還暦(ハタエ。1200歳のこと)の天下りの慣習がその一つだ。実際、是非曲直庁へのポストを繋げたのは将来を見据えれば成功だった……あそこはいつまで経っても人手不足だからな。我々天狗というありあまるパンをあまねく五千の亡者へ分配するやんごとなき御業だよ。真言を唱え、働けといった具合だな」
そういって犬走は黒駒の皿から奪い取った野菜天ぷらを口に運ぶ。
古参の射命丸は重々承知の話であったが、若手の姫海棠や新参の黒駒にとって里の政治構造はいまいちピンとくるところがなかった。
「ふぅん……だからなに? あたしら無職には関係ないんですけど?」
"いや、わたしと黒駒さんは一応官職持ちなんですが"という言葉を射命丸は飲み込んだ。
「……わからんか? それでも御三家の令嬢かね……これだから政界に揉まれてない奴は……まぁいい、人口ピラミッドだよ。ここ120年間の里の政治は明治17年の戦後処理だった。そのために広げられた裾野は将来的に……上級官僚と熟練工の不足、そしてなによりも妖怪の山に巨大な軍事的空白を産むだろう。世も末だなぁ姫海棠、わたしは秘密警察なんだぜ?」
とはいえ今晩の幹事である射命丸は中庸や温和からほど遠い人格者であるから、犬走の挑発を我慢する気もなく。
「犬走……あまり調子に乗るなよ」
酔い覚ましの冷水を口に含んだ射命丸の眼光は鋭かった。
「……鬼に吸血鬼に太陽の畑……媚びへつらうばかりが能の里ですから。第一ここに出向いてきたのがお前だというのが気に食わない。場内平和とか、挙国一致とか……結局その、お前が言ったところの戦後処理のツケが終わってないだけでしょう。詐欺的な繁栄の成果物だけは手にして、賢者連中に押し付けられたツケを回りまわってこちらに投げやるだと? 馬鹿にしてやがる。使いッ走りが、お前の素ッ首叩き斬って栖鴻楼に投げ込もうか? 帰れ帰れ!」
射命丸の言動が自分をかばうものであると気が付くと、姫海棠はとたんに顔が熱くなった。
「待て射命丸……そんなことより私の天ぷらがないんだが。対角のお前じゃないことは確かだから……姫海棠かこの白狼天狗のどちらかが、私の天ぷらを盗んだんだよ!」
「……」
射命丸は黒駒の狂態を見て本当に馬鹿らしくなった。そして目配せして犬走が盗み食いしたことを白状した。
「お前が……お前が私の天ぷらを盗んだのか!? 呆れた妖怪だ。生かして置けぬ。」
「あっ……」
食い物の恨みはマリアナ海溝より深い。瞠目する間もなく黒駒は刀を抜いていた。というよりすでに犬走の首を落としていた。
黒駒が専ら用いる刀はおよそなまくらの鋳造蛮刀であるが、厄神から簒奪した厄の権能を纏わせることでほとんど妖刀と化す。世の恨みつらみが募った悪意ある剣筋は血を求め、振るった先から切り落としたという結果を引き出す魔剣の類である。
血が噴き出した。遠巻きから見守っていた店主や周りの客は巻き込まれたくない一心で自身らを抑えていた。
犬走は落ちた自分の首を拾うと忌々しそうに黒駒を見る。
「……お前、後で訴える」
「は、はぁ!? この世に盗人の手首を切り落として断罪される刑吏があるか!? 自力救済というのだこういうのは! や、まぁ、確かに私は手首じゃなくて首を切り落としたかもしれんが……それは不幸な錯誤だ。矮小なるお前の身の五体のどこが手で、どこが頭かなんて私の預かり知るところではないし?」
連なるように姫海棠も声をあげた。
「ばっ、おっ、おまえ! ばか! おばか! 東廠に手出すやつがあるか! ……はわわ、どうしよう文!? ここにいるやつら全員山に埋める? 埋める?」
「お前の方が馬鹿ですよはたて! 皆殺しは足がつきます、だからええと、うーん、とりあえず犬走は埋めましょう。あとはそれから、それからです」
「ええいええい、お前ら全員逮捕じゃい! 天魔直属の白狼に手を出した意味を教えてやるからな!」
いよいよ持って酒飲みたちは騒ぎ出す。結局、くんずほぐれつ二軒目の呑み屋に転がり込んだ。
そこからの記憶というのは誰も彼も覚えていないのだ。飲み過ぎで。
四 翌日 黒駒宅 荒屋
"――しばらく政界で動くのでご飯にお付き合いできません。生活費はこれを使ってください 射命丸より"
書置きと共に数ヶ月分の小遣いを回収して黒駒はほくほく顔だった。
もとより半ば無職であるから、黒駒は生活の諸経費を射名丸に依存している。黒駒はこれを「食客の身分である」というが、射命丸の見解は「餌付け」であり、姫海棠が評して曰く「ヒモ」だという。
ペペペッと札束を勘定しながら下層を歩けば、行き交う妖怪たちは黒駒を避けて通る。厄神の情婦であるという噂だから当然だった。
とはいえ里の下層は貧民に忌み者ばかりであるし、腐っても実力は大妖怪の黒駒はいつの間にやら地元の互助組織の用心棒の席に座っている。
右手には愛宕通り。その一つ横には秋葉通り。向かいには比叡通り、蔵馬通り……という具合に六つの通りが重なる下層の中心は、ちょうど十数年前の火事で土地が空いてから市場が開かれるようになった。人呼んで豊国市、官僚共の手の届かないブラックマーケットである。
珍しいことに寺からきた名も知れぬ男僧が説法をしている。豊国市には仏門に悪事を働こうという驚くべき不届き者も少なくないから、黒駒も目を光らせて刀と金具を打ち鳴らす。
――伏魔殿の官僚共は怪しげな修験道と有職故実にしか関心がない。かといって山の端から端に手を伸ばそうとすることに余念もない。この里はまるで終わりのない坂道を転げ落ちる車輪だ。止まれば横に倒れるし、どころか止まる手立てすらないのだから。
三千世界から神秘が流れ込み膨れ上がる妖怪の山。とはいえ目の前の悪事を見過ごしてはいけないのだと黒駒は教わってきた。行いの聡さは必ずしも重要ではない。私は妖怪であり、相応な領分を守ればよいのだと。
黒駒は少なからず篤信の徒である。知らぬことは知らぬし、天に任せるのがよいことだと考える。
小刀を振るうと目の前の妖怪が血を噴いて倒れこむ。托鉢に手を付ける恥知らずである。
僧は説法を止めて"何事でございましょう"と尋ねてきた。
「先日刀を新調しまして、据物です。お気になさらず」
僧は澄まして説法を再開する。
人も妖怪も死ねば仏。物事の価値は常に相対的で、許容量というものが存在する。
とくに地獄というのは三千世界に跨る異界であるから、里に比べてずいぶん広い。
あるいはそれは人口密度の話なのかもしれない。
里への人口流入は止まらない。今年退職した上級官僚は幾人ほどであったか。
知らぬ存ぜぬ、腹が満ちて喉につっかえるものがなければ黒駒はそれでよいのである。
陽に中てられて、ふわとあくびをした。
トンテンカンと木槌の音が響く。天狗の里において競争率が激しい職と言えば文官、武官についで建築業があがる。
妖怪の山の広大な土地と膨大な人的資源の流入を背景に、天狗の里の官僚制と住居区画は無軌道に拡張し続けている。天狗というのは元来天空を重んじるものであるから、より高い位置の懸造ほど望ましい。博麗大結界が敷かれてこの120年、天狗の里中枢の地価は上昇の一途であった。
「それで。場所を見繕うためにも書類が必要で三か月待ち。見繕っても部署をたらい回しにされて三か月。業者はそもそも木工共で固まってて棟梁にコネがなきゃ話が通らん。結局裸一貫で家を建てるのに五年はかかりそうな始末なのだが」
繁文縟礼が進んだ巨大な官僚機構は外様に冷酷であり"慣例による拒絶"は必然的に流入民に文字通り地を這う生活を強いる。住居の高低は即ちその家の格を示し、階層社会が形成される。
仮にも大妖怪に名を連ねる黒駒もここ数か月で幻想入りしたばかりの新参者。天狗の里は節用を美徳とし政と儀礼の簡素を謳うが、役所仕事は様式の尊重と前例主義を前提とした儀礼の肥大化を続けており、足踏みを喰らうのである。
「あー……うん。我々天狗の社会はまずもって諸子の思想の延長線上にあり、十論のことわりに基づいて成り立ちます。すなわち天帝が定めるところ誰もが等しく、相争うことは嘆かれなければなりません。非攻思想はこと建築において顕著です。パラ・ベラム! かつて屋敷とは野戦築城の要塞であり、軍事拠点でした。暴力はすべて天魔とその手足である文民のもとに統制されなくてはいけない。これらはシビリアン・コントロールなんですよ」
射命丸文は古く役行者の近縁の傍系であり、"長生きである"という一点で政治力を保持する妖怪の典型と言える。即ち、こと日本妖怪たちが積み重ねる教養素養を抜群に精通するエリートに他ならない。
対して黒駒は典型的な猪武者の類であるから、政治がわからない。
「えーと、つまり?」
「賄賂を贈るといいですよ?」
黒駒はドン引きした。
「……天知る、地知る、我が知る。なるほど鬼に愛想をつかされるわけだ。わたしの性に合わんわ」
「良心が許しませんか? いいと思いますよ、王昭君みたいで」
「あーいえばこう言うな! ……この歳になるとかえって飢えるということがなくなってきてな。禽息鳥視と言うが、飢えが我々を獣にするのか、獣であるから飢えるのか。なまじっか自制ができるからよくない。昔は刀を抜いてスパっとやって終わりだったんだよ。わたしはキレた蛮刀だった……」
今度は射命丸がドン引きした。
「あやややや…………まぁ、天狗の里は若い衆ばかりが担ってますからね。……収賄が流行って一番得をするのは酒屋と言います。行きますか?」
「……行く」
そういうことになった。
二 天狗の里中層 呑み処『鹿鷺』
例えば天狗の里の軍事は元々天魔直属の白狼隊と、評定が動員権限を持つ兵部の二重構造にあったが、白狼隊が専ら哨戒に当たり、兵部が肥大化しすぎたために動けないというので刑部の権限が拡大した。建築バブルに伴って工部が雇用枠の増員を繰り返したが、むしろ素人が余った結果、民兵もどきの工兵隊がこしらえられた。こんな調子で六部を中心にした衛星部署がやたらめったら増えていく。
天魔がこれを抑えられぬうちに縦割り行政が極まって、権限争いの紙爆弾と責任の押し付けあいが酷いというので場当たり的な解決として部署間を調整するための部署がまた増設された。
射命丸が結局黒駒に斡旋してやった官職は、そうした部署間の連絡部署の一つである。
とはいえ、キャリアを積む気のない射命丸や黒駒は手に職を持っていても登庁することは皆無である。こうした天狗は手ごろな代官を捕まえて、専ら新聞などの享楽に興じている。黒駒の場合はこの享楽が美食巡りになった。
別所の異界へ通じている地獄周辺を除けば、幻想郷の主要な経済圏は人里、妖怪の山、旧地獄の三つから成る。当然飲食店もその三つに集中するので、黒駒は大概いずれかで管を巻いている。
はたてを拾って三人になった酒飲みたちは近場の呑屋に転がり込んでいた。
「礼銭といえば昨今じゃ聞こえは悪いですが、酒肴料じゃないですか? やっぱり酒精にはお肉で……あ、馬刺し食べます? すいません馬刺し追加お願いしまーす!」
「ふふ、お金は官僚の潤滑油。でも天魔は潔癖症だから、腐敗と粛正を寄せては返す波のように繰り返すのが天狗社会の伝統にもなっている。明治のころはわたしんとこ……姫海棠家も楽しかったのよ? まさに役得ってねー♪ 今はまだ天魔が手綱をうまく取ってる方なの。ほら最近も転運使のとこの首が飛んだじゃない。あ、芋河童(妖怪の山の地酒)を常温で三追加よろしくー」
「わたしは日本酒てきとーに、あとウズラの卵とほうれん草のお浸しと……これと同じ肉も頼む。やっぱり組織人として生きてこなかったことのツケなのかなぁ。どうも馴染まん。でもその……高いとこの家、欲しいんだよね。高いとこって景色いいし……」
御三家である姫海棠家の一人娘、姫海棠はたて。ノンポリの重鎮、射命丸文。天魔とほぼ同年齢の大妖怪、黒駒――三羽鴉、無党派の要害である。
女三人寄れば姦しい。無党派ゆえに寄り集まった結果彼女たちの集会そのものが火薬庫であるし、元より派閥から疎まれているのだから舌禍というものを恐れない。店主からすれば目の上のたんこぶであるから、特盛のスターゲイジーパイをそっと差し出す。
「お、サービスかな。海産物はご無沙汰だからね。イワシー♪ イワシー♪」
射命丸と姫海棠は冷や汗をかいた。妖怪の山の文化として必然、鰯はご法度である。伝統に疎い黒駒は素直に喜んでいるが、含意を知れば店主を切り捨てるやもしれん。コイツはそういう女であるから。
0.1秒のアイコンタクトを挟んで二人は話題を変えにかかった。
「海産物といえばほら、あの双子! なんでも地底でやらかしたとか。鬼相手に賭博詐欺を働いて、大騒動だったそうですよ。周りの妖怪を巻き込んで乱痴気乱闘、結局一区画丸ごと吹き飛んだとか……今回の記事で取り上げています」
「あー? あれねぇ。太夫が一枚噛んでたらしいわよ。裏にいるのはいつもの大天狗連中ね。依神の姉妹は哀れな走狗。あわよくば旧都の電信利権に差し込むつもりだったんでしょうけど、案の定。地上と地底の不可侵なんてどうでもいいみたい」
「相変わらず耳聡いですね。実家には勘当されてるんでしょう? どこから?」
「ひーみつ。ていうかアンタはトバシが多すぎんのよ。政治筋くらい網張っときなさい」
相変わらず政治と時事に疎い黒駒は二人が何を話しているのかわからない。パイを切り分けてもきゅもきゅ咀嚼している。
「私は鬼とかあんまし知らない世代だからさー。お上が鬼共のあれこれにご執心なのがわからないのよね。接触するなとも言われてるし? 何が怖いの?」
「むぐっ……もぐもぐ……ごくん。……私に言わせれば、鬼の格が高いというよりも天狗の格が下なのさ。ほら、鬼の首……って言うだろう? あいつらは手を斬れば生えてこないし、首を落とせばそのまま死ぬんだね」
「む。ちょっと意味するところが取れません、続けてください」
この手の老人の衒学は得るところが多いと考えて、射命丸は続きを促した。だってここで聞いたことをそのまま若い衆に話すだけで博識なフリをできるから。
「……私たち天狗の身体はつぶしが効くだろ? 四肢がもげても五臓が潰れてもすぐ治る。代わりがあるんだよ」
「おー……おー……? なんか逆説めいてるような……そういうものですかね?」
「そういうもんなの。例えばこの天狗の里。そもそも鴉天狗とか、白狼天狗とか言うし……この里の人口動態とか比率とか詳しい話は知らないけれど、この店の店主は山童だ。向かいの雑貨屋は猩々で、そこで飲んでるのは大蜘蛛に蛙の妖怪じゃないか」
「んんっ……妖怪の山の多様性は、博麗結界によって霊峰が習合された結果です。須弥山、不死山、泰山……そういったものが同時に重なっているんですよ」
「なんで急に多様性なんて……すまん、話が飛んでたな。ええと、外部からここが天狗の里だと呼ばれて、またそのために身内でも天狗の里を自称している……のが肝要なんだ。『大工が笙を吹かず、楽士が鑿を持たないのはなぜなのか? それは問いかけが間違っているのだ』と……この言い回しは受け売りだがね」
つまらなそうに話を聞いていた姫海棠はたてはここにきて困惑した。
「あんた……話飛びすぎじゃない!? というか、人の移り変わりで妖怪のありようを語ろうとすな! それ誰の受け売りよ! ……言わなくていいわよ、わかるから。頼むからもう少し外聞というものを知って――」
店頭の戸がピシャリと開かれる。一瞬で静まり返った屋内に天狗下駄がカツカツと音を響かせる。白い白狼装束を引き締めながら、3名の座敷席の前に彼女は来た。
「まさしく、その通りだなァ、姫海棠。外聞というのを少しは知るべきだよ、定職にも就かないロクデナシが……。それに、三文のデマゴーグをばら撒くブン屋。年増のコネ女。外聞もなにもあったものではないな! おい店主! ここは呑み屋じゃなくて見世物小屋なのか!? あっはっはっはっはっ……」
犬走椛。天魔直属の白狼隊隊長にして東廠長官――秘密警察の長である。
三 同上 呑み処『鹿鷺』
「妖言、怪辞、危険思想の流布、怪文書の発行、享楽華奢偏愛…………お前らの刑罰は何がいいと思う? 魔界に島流しなんてどうだ?」
「魔界か……ポルタサンタがあるからワインが安いんだよね、あそこ」
「黒駒さんちょっと黙ってて……あやややや、犬っころがまた大きく出ましたねぇ。いいことでもありましたか? 先日の地底での騒動で白狼共は大忙しと聞きましたが」
ささ駆け付け一杯どうぞ、般若湯ですと射命丸は犬走に盃を差し出した。
犬走はといえば、それを受け取ると黒駒の隣に腰を下ろした。
「……文と椛ってさぁ。仲いいの? 悪いの? デキてんの?」
はたての言葉を両名は努めて無視して、何杯か酒を入れるとぽつぽつと語りだす。
「(射命丸は当然承知しているだろうが、と犬走は断って)博麗大結界の分有に拠った経済的繁栄の矛盾の解決を、天魔は物資・人的資源を問わない外部異界への輸出依存によって解決を図った。つまるところ、二十重還暦(ハタエ。1200歳のこと)の天下りの慣習がその一つだ。実際、是非曲直庁へのポストを繋げたのは将来を見据えれば成功だった……あそこはいつまで経っても人手不足だからな。我々天狗というありあまるパンをあまねく五千の亡者へ分配するやんごとなき御業だよ。真言を唱え、働けといった具合だな」
そういって犬走は黒駒の皿から奪い取った野菜天ぷらを口に運ぶ。
古参の射命丸は重々承知の話であったが、若手の姫海棠や新参の黒駒にとって里の政治構造はいまいちピンとくるところがなかった。
「ふぅん……だからなに? あたしら無職には関係ないんですけど?」
"いや、わたしと黒駒さんは一応官職持ちなんですが"という言葉を射命丸は飲み込んだ。
「……わからんか? それでも御三家の令嬢かね……これだから政界に揉まれてない奴は……まぁいい、人口ピラミッドだよ。ここ120年間の里の政治は明治17年の戦後処理だった。そのために広げられた裾野は将来的に……上級官僚と熟練工の不足、そしてなによりも妖怪の山に巨大な軍事的空白を産むだろう。世も末だなぁ姫海棠、わたしは秘密警察なんだぜ?」
とはいえ今晩の幹事である射命丸は中庸や温和からほど遠い人格者であるから、犬走の挑発を我慢する気もなく。
「犬走……あまり調子に乗るなよ」
酔い覚ましの冷水を口に含んだ射命丸の眼光は鋭かった。
「……鬼に吸血鬼に太陽の畑……媚びへつらうばかりが能の里ですから。第一ここに出向いてきたのがお前だというのが気に食わない。場内平和とか、挙国一致とか……結局その、お前が言ったところの戦後処理のツケが終わってないだけでしょう。詐欺的な繁栄の成果物だけは手にして、賢者連中に押し付けられたツケを回りまわってこちらに投げやるだと? 馬鹿にしてやがる。使いッ走りが、お前の素ッ首叩き斬って栖鴻楼に投げ込もうか? 帰れ帰れ!」
射命丸の言動が自分をかばうものであると気が付くと、姫海棠はとたんに顔が熱くなった。
「待て射命丸……そんなことより私の天ぷらがないんだが。対角のお前じゃないことは確かだから……姫海棠かこの白狼天狗のどちらかが、私の天ぷらを盗んだんだよ!」
「……」
射命丸は黒駒の狂態を見て本当に馬鹿らしくなった。そして目配せして犬走が盗み食いしたことを白状した。
「お前が……お前が私の天ぷらを盗んだのか!? 呆れた妖怪だ。生かして置けぬ。」
「あっ……」
食い物の恨みはマリアナ海溝より深い。瞠目する間もなく黒駒は刀を抜いていた。というよりすでに犬走の首を落としていた。
黒駒が専ら用いる刀はおよそなまくらの鋳造蛮刀であるが、厄神から簒奪した厄の権能を纏わせることでほとんど妖刀と化す。世の恨みつらみが募った悪意ある剣筋は血を求め、振るった先から切り落としたという結果を引き出す魔剣の類である。
血が噴き出した。遠巻きから見守っていた店主や周りの客は巻き込まれたくない一心で自身らを抑えていた。
犬走は落ちた自分の首を拾うと忌々しそうに黒駒を見る。
「……お前、後で訴える」
「は、はぁ!? この世に盗人の手首を切り落として断罪される刑吏があるか!? 自力救済というのだこういうのは! や、まぁ、確かに私は手首じゃなくて首を切り落としたかもしれんが……それは不幸な錯誤だ。矮小なるお前の身の五体のどこが手で、どこが頭かなんて私の預かり知るところではないし?」
連なるように姫海棠も声をあげた。
「ばっ、おっ、おまえ! ばか! おばか! 東廠に手出すやつがあるか! ……はわわ、どうしよう文!? ここにいるやつら全員山に埋める? 埋める?」
「お前の方が馬鹿ですよはたて! 皆殺しは足がつきます、だからええと、うーん、とりあえず犬走は埋めましょう。あとはそれから、それからです」
「ええいええい、お前ら全員逮捕じゃい! 天魔直属の白狼に手を出した意味を教えてやるからな!」
いよいよ持って酒飲みたちは騒ぎ出す。結局、くんずほぐれつ二軒目の呑み屋に転がり込んだ。
そこからの記憶というのは誰も彼も覚えていないのだ。飲み過ぎで。
四 翌日 黒駒宅 荒屋
"――しばらく政界で動くのでご飯にお付き合いできません。生活費はこれを使ってください 射命丸より"
書置きと共に数ヶ月分の小遣いを回収して黒駒はほくほく顔だった。
もとより半ば無職であるから、黒駒は生活の諸経費を射名丸に依存している。黒駒はこれを「食客の身分である」というが、射命丸の見解は「餌付け」であり、姫海棠が評して曰く「ヒモ」だという。
ペペペッと札束を勘定しながら下層を歩けば、行き交う妖怪たちは黒駒を避けて通る。厄神の情婦であるという噂だから当然だった。
とはいえ里の下層は貧民に忌み者ばかりであるし、腐っても実力は大妖怪の黒駒はいつの間にやら地元の互助組織の用心棒の席に座っている。
右手には愛宕通り。その一つ横には秋葉通り。向かいには比叡通り、蔵馬通り……という具合に六つの通りが重なる下層の中心は、ちょうど十数年前の火事で土地が空いてから市場が開かれるようになった。人呼んで豊国市、官僚共の手の届かないブラックマーケットである。
珍しいことに寺からきた名も知れぬ男僧が説法をしている。豊国市には仏門に悪事を働こうという驚くべき不届き者も少なくないから、黒駒も目を光らせて刀と金具を打ち鳴らす。
――伏魔殿の官僚共は怪しげな修験道と有職故実にしか関心がない。かといって山の端から端に手を伸ばそうとすることに余念もない。この里はまるで終わりのない坂道を転げ落ちる車輪だ。止まれば横に倒れるし、どころか止まる手立てすらないのだから。
三千世界から神秘が流れ込み膨れ上がる妖怪の山。とはいえ目の前の悪事を見過ごしてはいけないのだと黒駒は教わってきた。行いの聡さは必ずしも重要ではない。私は妖怪であり、相応な領分を守ればよいのだと。
黒駒は少なからず篤信の徒である。知らぬことは知らぬし、天に任せるのがよいことだと考える。
小刀を振るうと目の前の妖怪が血を噴いて倒れこむ。托鉢に手を付ける恥知らずである。
僧は説法を止めて"何事でございましょう"と尋ねてきた。
「先日刀を新調しまして、据物です。お気になさらず」
僧は澄まして説法を再開する。
人も妖怪も死ねば仏。物事の価値は常に相対的で、許容量というものが存在する。
とくに地獄というのは三千世界に跨る異界であるから、里に比べてずいぶん広い。
あるいはそれは人口密度の話なのかもしれない。
里への人口流入は止まらない。今年退職した上級官僚は幾人ほどであったか。
知らぬ存ぜぬ、腹が満ちて喉につっかえるものがなければ黒駒はそれでよいのである。
陽に中てられて、ふわとあくびをした。
ろくでもないのにとてつもない熱量を感じました
語彙で強烈に殴ってくる感じの読ませ方も良くて、清廉な事の喩え話に王昭君を持ち出す所や烏天狗に禽息鳥視と言わせる所といった、そういうユーモラスの使われ方が上手かったのだとも思えます。
言葉の回し方、語彙、軽妙なやり取りなどそれらがありながら、どうしてこの続きを書かれなかったのかというのは個人的にとてもとても気になるところではあります。