京都と聞けば人は旧き良き日本家屋の街並みを連想する。
この科学世紀でも変わらない、ある種の枕詞のようなもので、実際未だに観光地に足を運べば保護された景観と情緒がいやでも目に入る。
けれど、それはあくまで『そうあるべき』と規定された区画の話で、中央に出れば首都機能の血管である交通網にめまいを起こしそうになるし、郊外ですらコンクリートで固められたアパート群が立ち並んでいる。
いやに秩序的に並んだ建築物には相応に世帯が押し込められていて、打ち捨てられた、いわゆる廃墟というものは珍しい(蓮子曰く東京では、それこそ見飽きる程らしいけれど)。
それでも例外はあるもので、大学からの帰路にも数軒は人の手を離れているであろう建物が点在していて。
そんなうちの一つにその境界は揺らいでいた。
§
「幽霊屋敷?」
ゼミの終わり、友人の言葉に不意をつかれ、つい首を傾げてしまう。
「うん、まあ、屋敷っていうほど大袈裟なものじゃないんだけど」
微妙に言葉を選び間違えたのか、バツが悪そうに軽い訂正を挟みながら話を続ける。
「ハーンさんちの方にね、出るって噂の空きアパートがあるの。住んでた人が出払う前に生活苦が原因の親子心中があったとかで」
確かに随分スケール感が小さくなった。
だけどその分却って生々しさが増した。なんとなく情景が想像できてしまう範疇に収まってしまった。
いわゆる事故物件というやつね。
「えっと、宇佐見さん、だっけ?二人でよくそういうの探してるって聞いて、どうかなって思って」
恐らく、彼女が想像しているものと私たちの活動は少しズレている。けれど、無理もない。結界暴きなんてともすれば法に触れるような行為だし、むしろよくあるホラースポット巡りと勘違いしてくれていた方がよっぽど有難い。
それに案外、こういう噂というのも侮れない。火のないところに煙は立たないと言うけれど、ありがちな怪談話が意外と不安定な結界の仕業だったりする。
「ありがとう、帰りにちょっと寄ってみるわ。詳しい場所、教えてくれる?」
幽霊アパート、か。
大学からの帰路、彼女から転送してもらったアプリの地図を都度確認しつつ、目的地に辿り着いた。コンクリート造りで四階建ての建物は思っていたよりも小綺麗だった。二階通路の欄干が壊れている以外は大きな損傷もなく、比較的最近住居としての管理から外れたようだった。
それでも事前に聞いた話と夕暮れ時特有の紫がかった空を合わせると少し気味が悪く感じたけれど。
蓮子も誘ってくるべきだったかしら。
とはいえ今日は忙しそうだったのと(実際声をかければ用事を放り出してくるだろうけれど)、明日が丁度休日だから急ぐこともないと思って半分下見の気持ちで覗きにきたのだから贅沢も言えない。
ただ少なくとも仄暗くなりつつあるなか、一人で侵入禁止のチェーンを越えていくバイタリティを私は持ち合わせていない。
出直そう、一息ついてなんとなしに見上げた。
「えっ」
それは、そのまま視線を上げなければ視界にすら入らなかっただろうし、併せて強烈な印象がなければ、それでも見逃してしまったかもしれない。
見えた境界の揺らぎには、その一瞬大きな翼が広がっていた。
§
日が変わって、夜。
「結局付き合わせちゃって悪いわね」
「いいのよ、なんなら置いていかれる方が嫌だわ。でも、ほんとにこんな住宅街に?」
隣を歩く私を横目に、後ろ手に組んで歩きながら蓮子が確認する。これまで暴いてきた結界というと、墓地だとか衛星(!)だとか、多少なりとも雰囲気のある場所だったから無理もないけれど。
「ええ、この目で見たんだもの」
「まあメリーが言うなら間違いないんだろうけど」
「大きな翼が見えたの、境界の隙間に」
「出る前にも聞いたわよ」
絶滅した動植物も少なくない現代の町中でそんなシルエットを見せられて、関心を抱くなというのが無理な話だわ。
「今更驚かないけどね、この合成食物の時代に天然物の山菜持ってこられるのに比べたら。どこから持ってくるのよ虎杖とか蕗なんて」
「夢で貰ったはいいけど扱いに困っちゃって、蓮子なら筍にも詳しかったし調理法が分かるかなと思ったの」
「私だって面食らったわよ。調べて煮物にしたら美味しかったけど」
面だけじゃなくてしっかり山菜も食べたようでよかった。今度残してある分も料理にしてもらおう。
「そのうち話に出てくる妖怪とか妖怪じみた女の子とかも連れて帰ってきそうで怖いわ」
「いまのところ身につけてたものしか持ち帰れないからそれはないと思うけど……」
現状、私が夢から持ち帰った実績があるものは所謂"モノ"に限られる。
一度犬を撫でているときに目覚めたことがあったが、勿論その犬を抱きかかえてはおらず、抜けた茶色の毛が指に絡まっているだけだった。恐らくだけど、植物でも竹林で根を伸ばしている竹を握って目覚めたところで、目の前に長い竹があるなんてこともないだろうし。
魔法の本とか、空飛ぶ絨毯とか、そういうアーティファクトなら或いは持ち帰れるかもしれないけれど。
「冗談よ、それはそれで面白そうではあるけど」
「好きで怖い目に遭ってるわけじゃないのよ。昨日も気になったけど、結局一人で入るのが嫌で尻込みしちゃったし」
蓮台野の時だって現地に着いて冷静になってから随分二の足を踏んでしまったし。勢いが乗っていないと普通はそんなものだと思う。
「で、それが此処と」
普通は、だけれど。
さすが蓮子と言うべきか、なんの躊躇もなくガチャガチャとチェーンを潜って中に入る。
「ほんと、思ってたよりは雰囲気ないわね、どの部屋?」
続いて私も敷地に入りつつ答える。
「二階の手前から二番目」
「二階か。いいなぁ、うちの下宿一階だから暑くなると小虫出るようになるし湿気るのよねぇ」
「そうなんだ、確かに私のとこは三階だからかあんまり気にならないかも」
特に気にしたことはなかったけど、確かにこれといったデメリットが思い当たらない。
強いて言えば階段を使うのと、階下に気を遣うことくらい。
「どう、今も見える?」
「ええ、ちょっと薄らしてるけど」
力が弱い、と言えばいいのかしら。
階を上がりながら蓮子が難しそうな顔をする。
「ふぅむ、とりあえず現場ね。鍵開いてれば、だけども」
……あっ。
失念していた。
よくよく考えたらわざわざ進入禁止を掲示している空き物件に鍵がかかっていないわけがない。なぜ思い至らなかったのだろうと頭を抱える私を尻目に蓮子が202と表記された部屋のノブに手をかけー
ガチャリ
……開いた。
「普通に開いちゃった。なに?空き家の管理ってこんなものなのかしら」
「古い建物なら分からないけど流石に……」
杜撰すぎる。
入れない可能性を考えてなかったこっちにしてはありがたい話かもしれない。
「一応針金とか持ってきてたんだけどな。なんにせよ入ってみましょうか」
物騒なことを言う。
墓荒らし紛いのことをやった身としては今更といえば今更だけど。
「で、どうなのメリー。何が見える?」
無造作に開け放たれた扉の先には、当然ながらもう生活感はなく、いわゆる1K、粗末なキッチンと白い壁とフローリングの一間だけ。
なにも、と返そうとしたとき、洋室の中心付近に天井からなにかが落下した。
「…………亀?」
恐らく、亀。
割とメジャーな爬虫類。
それを亀と推定するのに時間がかかったのには理由がある。
細かい種類までは分からないけれど、なんの変哲もない亀だった。
一点を除いて。
昨晩見えた豊かな翼が、脈絡もなく冗談みたいに甲羅から生えていた。
§
「鶴ね、たぶん」
鶴。
正確には鳥綱ツル目ツル科ツル属タンチョウ。
らしい、蓮子が調べたところによるとだけれど。
「私も動物に詳しいわけじゃないし、色だけならペリカンとかも出てくるけど、言ってた形ならこれでしょ、ほら」
端末に表示された画像を私に見せる。確かにさっき見た翼によく似ているように思う。
確実だと言い切れない理由は、当の謎物体が既に立ち消えているから。
ふつっと。ふわっと。
「むう、結局何だったのかしら。ほかにめぼしいものもないし」
洋室、トイレ、浴室とあらかた調べ終わったけれど、結局幽霊はもとより昨日聞いたような事件の痕跡も全く見当たらなかった。勿論実際の話だとしても、フローリングだとか壁紙だとか、まだ物件として機能していた頃に対処していない筈がないので、当然といえば当然なのだけど。
「メリーが見たそれは気になるけど、今回はハズレって感じかしらね」
「……そうね、すぐに消えちゃったし、本当に偶然見つけた小さな綻びだったのかもしれない」
こういう活動をしていると空振りも少なくないので特に気落ちはしないけれど、内容が内容だけに緊張があったからか、少し気が抜けてしまった。
「どうする?一応他の部屋も見ていく?」
「ううん、今日はもう帰りましょう。なんだか疲れちゃった」
そっか、と相槌を打って蓮子が扉の方に向かい、私もついていくように部屋を出る。
異変はそこで起きた。
「え……」
目の前で蓮子が消えた。
踊り場を回ったところで、まるで鏡の後ろに隠れたかのようにぷっつりと居なくなった。
「蓮子!?」
「……なにこれ」
頭上から小さく蓮子の声が聞こえたとき、私はもう蓮子を追って踊り場を越えるところだった。
「メリー、これって……」
目の前に蓮子が現れる。
安心する暇もなく、目の前の明らかに高度がおかしい景色に違和感を覚える。
階下は二階だった 。
何を言っているか分からないと思うけれど、実際私たちにも何が起こっているのか分からなかった。
§
それから、
「ダメね、やっぱり抜けられない」
十回を超えてリトライしてみたけれど、さながら両端が繋がっている骨董品じみたレトロゲームのように、はたまたループするアニメーションのように、上下の踊り場のちょうど中心を境い目として、この階段は袋小路の堂々巡りになっていた。
境い目に立ってみたら背中は階下、前半分は階上に現れるというちょっとした前衛芸術みたいな絵面になったりもした。
他に三つある空き部屋にも入れないか試しても、扉は固く閉ざされていて結局もぬけの殻である202号室に戻るしかなかった。
少し考えたところで、自然とここで見たものに思い至る。
「やっぱりアレが原因なのかしら……」
立ち消えた、翼の生えた亀。
もう少し正しく表現するならば、小さなキマイラのようななにか。
この部屋しか開かなかったのにも、なにか作為めいたものを感じる。
蓮子が少し考え込む。
「……ダメで元々かなぁ」
「え?」
何か呟いたようだった、しっかり聞き取れなかったけれど。
「メリー、こっち来てもらっていい?」
言われるがまま蓮子に歩み寄る。
「ちょっと失礼、よいしょっ」
右手が背中に、左手が足に。
突然蓮子の腕に横たわる形で抱きかかえられる。
「なっ、ちょっと、なに蓮子!?」
「さっき鶴と亀の話したじゃない?いろんなところでまた繋げられてるって」
確かに、聞いた話だけれど。
「どういう経緯でその話からこうなるのよ!」
「言葉とか迷信って馬鹿にできないものよ。鳥船遺跡に飛んだときみたいに結び付けで強引になんとかなっちゃうんだから。それでちょっと考えたんだけどね、京都って土地柄も考えるとやっぱりかごめ歌が一番妥当かなって」
「知ってる?かごめ歌っていろんな俗説があるのよ。財産狙いで突き落とされた母子の恨みだとか、遊女が自分を鳥に例えて囚われの身を嘆いてるとか、京都の通りを籠の目に見立てた言葉遊びとかとかとか、そういう逸話がない混ぜになってるんだと思うんだけど」
「いま私たちは、いわば籠の中に囚われてる状態なわけでしょ?なら――」
「飛び立てばいいんじゃないかって」
言葉を続けながら蓮子が欄干が壊れた部分の前に立つ。
「……は?」
「安心してメリー。二階だとそれほどの高さじゃないし、万が一うまく着地できなくてもメリーは怪我させないから」
抱きかかえられたのは。
私が止めるのを見越したのと。
最悪でも自分だけが痛い目をみるように。
「ちょっと待ってよ蓮ーー」
言い切る前に、一瞬の浮遊感。
思わず目を瞑ってしまったけれど、その瞬きほどの後にはもう景色が変わっていた。
「ほらね?」
§
囲み亀。
纏めるにあたって、私たちは今回の出来事にそう名付けた。少し憚られたけれど、既存の妖怪に当てはまるものがないのだから仕方がない。
籠目亀。
囲み亀、だ。
言葉遊びは一種の意趣返しということで。
あの異様な翼を持つ亀は、恐らくは例の噂が寄り場になったうえで土地特有の伝承とか伝説が乗っかかる形で発生した『現象』のイメージじゃないかという仮説に落ち着いた。
実際のところ凄惨な心中事件があったかどうかは、定かではないけれど。
「もう、ちゃんと相談してよね。ほんとにビックリしたんだから」
「だってメリーこういう時、押し切らないと止めちゃうじゃない?」
だったらもう止められる前にやっちゃえ、と。
暴論だと思う。
「怪我させなきゃいいかなって」
「むしろそういうところを相談してって言ってるの」
「悪かったってば、今度なにか埋め合わせするからさ」
「むう」
そういう話でもないのだけれど。
解決してくれたのは事実だし。
「……分かったわ。今後気をつけてくれたら、それで」
§
蓮子と別れて、一人での帰路についた。
本当にどっと疲れた。
休み明け、情報をくれた子にどう誤魔化したものか考えながら随分と深まってしまった夜道を歩き、階段を上り、
「……嘘でしょ」
――今日いやというほど味わった感覚だった。
上りきったはずのそこは、私の下宿に設置されている階段の、地面から数えて一段目だった。
呆然としていると、鞄の中に奇妙な動きを感じた。恐る恐る覗くとそこには
ミニチュアの亀がいた。
翼が生えた亀と目が合った。
ちょっと可愛らしいのが余計に腹立たしさを煽る。
どうやら今朝の蓮子の冗談通り、"連れて帰ってきて"しまったらしい。
異変というか、怪異の、一部分を。
生き物の姿をしていても、生き物ではないものを。
経験上、こういうものは物理的に対処しても意味がない。
放り捨てたところでまたいつの間にか私に引っ付いているのだろう。
起点が地上だったのは救いだけれど、三階の自室まで飛び上がる脚力も、それを実行しようとするバイタリティも私は持ち合わせていなかった。
一息、つく。
嘆息と言い換えてもいいわ。
そして項垂れたまま、端末を手で探り打電した。
「もしもし、蓮子?行きの話の続きだけど、やっぱり一階部屋の方が素敵だと思うの。それと埋め合わせの件ね、早速だけど、今日泊めてもらってもいいかしら」
なんというか。
オチてばっかりの、一日だった。
この科学世紀でも変わらない、ある種の枕詞のようなもので、実際未だに観光地に足を運べば保護された景観と情緒がいやでも目に入る。
けれど、それはあくまで『そうあるべき』と規定された区画の話で、中央に出れば首都機能の血管である交通網にめまいを起こしそうになるし、郊外ですらコンクリートで固められたアパート群が立ち並んでいる。
いやに秩序的に並んだ建築物には相応に世帯が押し込められていて、打ち捨てられた、いわゆる廃墟というものは珍しい(蓮子曰く東京では、それこそ見飽きる程らしいけれど)。
それでも例外はあるもので、大学からの帰路にも数軒は人の手を離れているであろう建物が点在していて。
そんなうちの一つにその境界は揺らいでいた。
§
「幽霊屋敷?」
ゼミの終わり、友人の言葉に不意をつかれ、つい首を傾げてしまう。
「うん、まあ、屋敷っていうほど大袈裟なものじゃないんだけど」
微妙に言葉を選び間違えたのか、バツが悪そうに軽い訂正を挟みながら話を続ける。
「ハーンさんちの方にね、出るって噂の空きアパートがあるの。住んでた人が出払う前に生活苦が原因の親子心中があったとかで」
確かに随分スケール感が小さくなった。
だけどその分却って生々しさが増した。なんとなく情景が想像できてしまう範疇に収まってしまった。
いわゆる事故物件というやつね。
「えっと、宇佐見さん、だっけ?二人でよくそういうの探してるって聞いて、どうかなって思って」
恐らく、彼女が想像しているものと私たちの活動は少しズレている。けれど、無理もない。結界暴きなんてともすれば法に触れるような行為だし、むしろよくあるホラースポット巡りと勘違いしてくれていた方がよっぽど有難い。
それに案外、こういう噂というのも侮れない。火のないところに煙は立たないと言うけれど、ありがちな怪談話が意外と不安定な結界の仕業だったりする。
「ありがとう、帰りにちょっと寄ってみるわ。詳しい場所、教えてくれる?」
幽霊アパート、か。
大学からの帰路、彼女から転送してもらったアプリの地図を都度確認しつつ、目的地に辿り着いた。コンクリート造りで四階建ての建物は思っていたよりも小綺麗だった。二階通路の欄干が壊れている以外は大きな損傷もなく、比較的最近住居としての管理から外れたようだった。
それでも事前に聞いた話と夕暮れ時特有の紫がかった空を合わせると少し気味が悪く感じたけれど。
蓮子も誘ってくるべきだったかしら。
とはいえ今日は忙しそうだったのと(実際声をかければ用事を放り出してくるだろうけれど)、明日が丁度休日だから急ぐこともないと思って半分下見の気持ちで覗きにきたのだから贅沢も言えない。
ただ少なくとも仄暗くなりつつあるなか、一人で侵入禁止のチェーンを越えていくバイタリティを私は持ち合わせていない。
出直そう、一息ついてなんとなしに見上げた。
「えっ」
それは、そのまま視線を上げなければ視界にすら入らなかっただろうし、併せて強烈な印象がなければ、それでも見逃してしまったかもしれない。
見えた境界の揺らぎには、その一瞬大きな翼が広がっていた。
§
日が変わって、夜。
「結局付き合わせちゃって悪いわね」
「いいのよ、なんなら置いていかれる方が嫌だわ。でも、ほんとにこんな住宅街に?」
隣を歩く私を横目に、後ろ手に組んで歩きながら蓮子が確認する。これまで暴いてきた結界というと、墓地だとか衛星(!)だとか、多少なりとも雰囲気のある場所だったから無理もないけれど。
「ええ、この目で見たんだもの」
「まあメリーが言うなら間違いないんだろうけど」
「大きな翼が見えたの、境界の隙間に」
「出る前にも聞いたわよ」
絶滅した動植物も少なくない現代の町中でそんなシルエットを見せられて、関心を抱くなというのが無理な話だわ。
「今更驚かないけどね、この合成食物の時代に天然物の山菜持ってこられるのに比べたら。どこから持ってくるのよ虎杖とか蕗なんて」
「夢で貰ったはいいけど扱いに困っちゃって、蓮子なら筍にも詳しかったし調理法が分かるかなと思ったの」
「私だって面食らったわよ。調べて煮物にしたら美味しかったけど」
面だけじゃなくてしっかり山菜も食べたようでよかった。今度残してある分も料理にしてもらおう。
「そのうち話に出てくる妖怪とか妖怪じみた女の子とかも連れて帰ってきそうで怖いわ」
「いまのところ身につけてたものしか持ち帰れないからそれはないと思うけど……」
現状、私が夢から持ち帰った実績があるものは所謂"モノ"に限られる。
一度犬を撫でているときに目覚めたことがあったが、勿論その犬を抱きかかえてはおらず、抜けた茶色の毛が指に絡まっているだけだった。恐らくだけど、植物でも竹林で根を伸ばしている竹を握って目覚めたところで、目の前に長い竹があるなんてこともないだろうし。
魔法の本とか、空飛ぶ絨毯とか、そういうアーティファクトなら或いは持ち帰れるかもしれないけれど。
「冗談よ、それはそれで面白そうではあるけど」
「好きで怖い目に遭ってるわけじゃないのよ。昨日も気になったけど、結局一人で入るのが嫌で尻込みしちゃったし」
蓮台野の時だって現地に着いて冷静になってから随分二の足を踏んでしまったし。勢いが乗っていないと普通はそんなものだと思う。
「で、それが此処と」
普通は、だけれど。
さすが蓮子と言うべきか、なんの躊躇もなくガチャガチャとチェーンを潜って中に入る。
「ほんと、思ってたよりは雰囲気ないわね、どの部屋?」
続いて私も敷地に入りつつ答える。
「二階の手前から二番目」
「二階か。いいなぁ、うちの下宿一階だから暑くなると小虫出るようになるし湿気るのよねぇ」
「そうなんだ、確かに私のとこは三階だからかあんまり気にならないかも」
特に気にしたことはなかったけど、確かにこれといったデメリットが思い当たらない。
強いて言えば階段を使うのと、階下に気を遣うことくらい。
「どう、今も見える?」
「ええ、ちょっと薄らしてるけど」
力が弱い、と言えばいいのかしら。
階を上がりながら蓮子が難しそうな顔をする。
「ふぅむ、とりあえず現場ね。鍵開いてれば、だけども」
……あっ。
失念していた。
よくよく考えたらわざわざ進入禁止を掲示している空き物件に鍵がかかっていないわけがない。なぜ思い至らなかったのだろうと頭を抱える私を尻目に蓮子が202と表記された部屋のノブに手をかけー
ガチャリ
……開いた。
「普通に開いちゃった。なに?空き家の管理ってこんなものなのかしら」
「古い建物なら分からないけど流石に……」
杜撰すぎる。
入れない可能性を考えてなかったこっちにしてはありがたい話かもしれない。
「一応針金とか持ってきてたんだけどな。なんにせよ入ってみましょうか」
物騒なことを言う。
墓荒らし紛いのことをやった身としては今更といえば今更だけど。
「で、どうなのメリー。何が見える?」
無造作に開け放たれた扉の先には、当然ながらもう生活感はなく、いわゆる1K、粗末なキッチンと白い壁とフローリングの一間だけ。
なにも、と返そうとしたとき、洋室の中心付近に天井からなにかが落下した。
「…………亀?」
恐らく、亀。
割とメジャーな爬虫類。
それを亀と推定するのに時間がかかったのには理由がある。
細かい種類までは分からないけれど、なんの変哲もない亀だった。
一点を除いて。
昨晩見えた豊かな翼が、脈絡もなく冗談みたいに甲羅から生えていた。
§
「鶴ね、たぶん」
鶴。
正確には鳥綱ツル目ツル科ツル属タンチョウ。
らしい、蓮子が調べたところによるとだけれど。
「私も動物に詳しいわけじゃないし、色だけならペリカンとかも出てくるけど、言ってた形ならこれでしょ、ほら」
端末に表示された画像を私に見せる。確かにさっき見た翼によく似ているように思う。
確実だと言い切れない理由は、当の謎物体が既に立ち消えているから。
ふつっと。ふわっと。
「むう、結局何だったのかしら。ほかにめぼしいものもないし」
洋室、トイレ、浴室とあらかた調べ終わったけれど、結局幽霊はもとより昨日聞いたような事件の痕跡も全く見当たらなかった。勿論実際の話だとしても、フローリングだとか壁紙だとか、まだ物件として機能していた頃に対処していない筈がないので、当然といえば当然なのだけど。
「メリーが見たそれは気になるけど、今回はハズレって感じかしらね」
「……そうね、すぐに消えちゃったし、本当に偶然見つけた小さな綻びだったのかもしれない」
こういう活動をしていると空振りも少なくないので特に気落ちはしないけれど、内容が内容だけに緊張があったからか、少し気が抜けてしまった。
「どうする?一応他の部屋も見ていく?」
「ううん、今日はもう帰りましょう。なんだか疲れちゃった」
そっか、と相槌を打って蓮子が扉の方に向かい、私もついていくように部屋を出る。
異変はそこで起きた。
「え……」
目の前で蓮子が消えた。
踊り場を回ったところで、まるで鏡の後ろに隠れたかのようにぷっつりと居なくなった。
「蓮子!?」
「……なにこれ」
頭上から小さく蓮子の声が聞こえたとき、私はもう蓮子を追って踊り場を越えるところだった。
「メリー、これって……」
目の前に蓮子が現れる。
安心する暇もなく、目の前の明らかに高度がおかしい景色に違和感を覚える。
何を言っているか分からないと思うけれど、実際私たちにも何が起こっているのか分からなかった。
§
それから、
「ダメね、やっぱり抜けられない」
十回を超えてリトライしてみたけれど、さながら両端が繋がっている骨董品じみたレトロゲームのように、はたまたループするアニメーションのように、上下の踊り場のちょうど中心を境い目として、この階段は袋小路の堂々巡りになっていた。
境い目に立ってみたら背中は階下、前半分は階上に現れるというちょっとした前衛芸術みたいな絵面になったりもした。
他に三つある空き部屋にも入れないか試しても、扉は固く閉ざされていて結局もぬけの殻である202号室に戻るしかなかった。
少し考えたところで、自然とここで見たものに思い至る。
「やっぱりアレが原因なのかしら……」
立ち消えた、翼の生えた亀。
もう少し正しく表現するならば、小さなキマイラのようななにか。
この部屋しか開かなかったのにも、なにか作為めいたものを感じる。
蓮子が少し考え込む。
「……ダメで元々かなぁ」
「え?」
何か呟いたようだった、しっかり聞き取れなかったけれど。
「メリー、こっち来てもらっていい?」
言われるがまま蓮子に歩み寄る。
「ちょっと失礼、よいしょっ」
右手が背中に、左手が足に。
突然蓮子の腕に横たわる形で抱きかかえられる。
「なっ、ちょっと、なに蓮子!?」
「さっき鶴と亀の話したじゃない?いろんなところでまた繋げられてるって」
確かに、聞いた話だけれど。
「どういう経緯でその話からこうなるのよ!」
「言葉とか迷信って馬鹿にできないものよ。鳥船遺跡に飛んだときみたいに結び付けで強引になんとかなっちゃうんだから。それでちょっと考えたんだけどね、京都って土地柄も考えるとやっぱりかごめ歌が一番妥当かなって」
「知ってる?かごめ歌っていろんな俗説があるのよ。財産狙いで突き落とされた母子の恨みだとか、遊女が自分を鳥に例えて囚われの身を嘆いてるとか、京都の通りを籠の目に見立てた言葉遊びとかとかとか、そういう逸話がない混ぜになってるんだと思うんだけど」
「いま私たちは、いわば籠の中に囚われてる状態なわけでしょ?なら――」
「飛び立てばいいんじゃないかって」
言葉を続けながら蓮子が欄干が壊れた部分の前に立つ。
「……は?」
「安心してメリー。二階だとそれほどの高さじゃないし、万が一うまく着地できなくてもメリーは怪我させないから」
抱きかかえられたのは。
私が止めるのを見越したのと。
最悪でも自分だけが痛い目をみるように。
「ちょっと待ってよ蓮ーー」
言い切る前に、一瞬の浮遊感。
思わず目を瞑ってしまったけれど、その瞬きほどの後にはもう景色が変わっていた。
「ほらね?」
§
囲み亀。
纏めるにあたって、私たちは今回の出来事にそう名付けた。少し憚られたけれど、既存の妖怪に当てはまるものがないのだから仕方がない。
籠目亀。
囲み亀、だ。
言葉遊びは一種の意趣返しということで。
あの異様な翼を持つ亀は、恐らくは例の噂が寄り場になったうえで土地特有の伝承とか伝説が乗っかかる形で発生した『現象』のイメージじゃないかという仮説に落ち着いた。
実際のところ凄惨な心中事件があったかどうかは、定かではないけれど。
「もう、ちゃんと相談してよね。ほんとにビックリしたんだから」
「だってメリーこういう時、押し切らないと止めちゃうじゃない?」
だったらもう止められる前にやっちゃえ、と。
暴論だと思う。
「怪我させなきゃいいかなって」
「むしろそういうところを相談してって言ってるの」
「悪かったってば、今度なにか埋め合わせするからさ」
「むう」
そういう話でもないのだけれど。
解決してくれたのは事実だし。
「……分かったわ。今後気をつけてくれたら、それで」
§
蓮子と別れて、一人での帰路についた。
本当にどっと疲れた。
休み明け、情報をくれた子にどう誤魔化したものか考えながら随分と深まってしまった夜道を歩き、階段を上り、
「……嘘でしょ」
――今日いやというほど味わった感覚だった。
上りきったはずのそこは、私の下宿に設置されている階段の、地面から数えて一段目だった。
呆然としていると、鞄の中に奇妙な動きを感じた。恐る恐る覗くとそこには
ミニチュアの亀がいた。
翼が生えた亀と目が合った。
ちょっと可愛らしいのが余計に腹立たしさを煽る。
どうやら今朝の蓮子の冗談通り、"連れて帰ってきて"しまったらしい。
異変というか、怪異の、一部分を。
生き物の姿をしていても、生き物ではないものを。
経験上、こういうものは物理的に対処しても意味がない。
放り捨てたところでまたいつの間にか私に引っ付いているのだろう。
起点が地上だったのは救いだけれど、三階の自室まで飛び上がる脚力も、それを実行しようとするバイタリティも私は持ち合わせていなかった。
一息、つく。
嘆息と言い換えてもいいわ。
そして項垂れたまま、端末を手で探り打電した。
「もしもし、蓮子?行きの話の続きだけど、やっぱり一階部屋の方が素敵だと思うの。それと埋め合わせの件ね、早速だけど、今日泊めてもらってもいいかしら」
なんというか。
オチてばっかりの、一日だった。
独特の怪異を独特の読み解き方で攻略するこの味わいがたいへんに正道秘封的で良いですね。メリーが蓮子を信頼している様子も良く出ていて楽しめました。好きです。
とても秘封らしい秘封で、面白かったです。
怪異に挑む秘封が素晴らしかったです