お姉様が望むなら、私は神だって、運命だって壊してみせよう。
姉も私も、その権能は瞳に関わる。正確を期すなら、手で触れることにも。目で観測し、手で干渉するその能力が姉とお揃いであることが、私は殊に自慢だった。
そしてそれとは別に、私には姉と同じ視界を見られないことが不満だった。
私の視界には罫線がある。三方向の細い補助線で区切られた私の世界では、視線の届くあらゆるものが私の手の届く内にある。けれど、それだけだ。記録も運命も他人の心も、私の瞳には決して映ることはない。
お姉様の見る視界のことは、よく知らない。興味はあれども知って何になるわけでもなし、その程度のことでお姉様の手を煩わせるほうが腹立たしい。
推測できることはある。お姉様が見ているのは運命。手で弄ぶそれはさながら虚空より垂れる無数の糸。より好ましい糸を集め、それらを撚り合わせることで、最も望ましい運命への筋道をその目に映し出すらしい。
そしてその、より良い糸の選定に、お姉様は常に苦しんでいる。
なにせお姉様は凄まじいのだ。普通は四百年も生きているなら、罪の意識など当に擦り切れる筈なのに。それでも未だにお姉様は、選ばなかった選択を、切り捨てた犠牲を胸に抱えて生きている。
それはとても残酷なことだ。かつて私が、それだけ無数に抱え込んでいて苦しくないのかと問うたとき、お姉様は、お前がいなければ当に死んでいたかもしれないなと、それ程に苦しく、けれど必要な重みなのだと、そのような言葉で私に応えた。
思えばその時が私の本当の転換点だったのだろうと思う。
お姉様が苦しんでいるのは私のせいだ。それは私がお姉様を生の執着に縛り付けているためだ。ならば私はお姉様のその苦しみを、出来得る限り取り除かねばならないだろう。
当時の私がそう思ったかは既に曖昧で定かではないが、その時を境に私が一層お姉様によく従うようになったということは間違いない。
私の権能が目に見えぬものにも干渉することを知ったのは最近のことだ。概ね、美鈴が館に根付いた頃の話であり、咲夜が拾われてきた頃の話である。
門番が夜の挨拶代わりと「気」なるものを私に向けて飛ばしてきたのを、見えないながらも演算と直観で握り潰したのが契機だったか。彼女の目にはその経過がよく見えていたらしく、興奮しながらどうやったのかと問われたことを覚えている。
少し後、その次に私が壊したのは自身の視界の罫線だった。破砕された補助線が修復されるまでの数日の間、能力の制御がまったく上手くいかなくなったのは実に得難い経験だった。
そしてその更に暫し後、私は運命の糸を壊した。できるような気はしていたが、これについては実際に壊すまで流石に確証を持てずにいた。お姉様の呆然とした顔は新鮮で、同時に驚かせたことについての申し訳ない心地があった。
けれど仕方がないことだろう。お姉様はその頃常に、酷く思い詰めた瞳をしていた。暇さえあれば、どころかもはや暇さえなくとも手慰みに、傍目に見えぬ糸を撚ってはこうでもないと溜息を吐いた。何かしら良からぬ運命が見えていることは明白で、それからは逃れ得難いことも、私は薄々察していた。
「ねえお姉様、何か困っていることはないかしら」
私がそう問うようになったのも、凡そこの頃のことだった。
お姉様の見る視界のことは、興味こそあれど尋ねようとまでは思わない。けれどもそれは、お姉様の邪魔になりたくないが為であって、つまり力になれる算段があるならその限りではないということだ。
「お前が心配するようなことは何もないさ」
何度問うてもお姉様は、そう言って微笑むだけだった。けれどその笑みはぎこちなく、下瞼には隈ができていた。
最初はお姉様がそう言うのならと引き下がった。けれど三日経ち一週間経ち一ヶ月経ったその頃にはもう、私の方が耐えられなくなった。お姉様がその身を削り続けている姿を見守るしかないということに、我慢できなくなったのだ。
「お姉様、隠さないで」
同じ問答が五十の前後を数えた頃、私は遂にそう告げた。
「お姉様は、望む運命を選び取れないことに苦しんでいるのでしょう。まさか私が気付かないとでも思っているのかしら。これだけ毎日顔を合わせて話しているのに」
「すまない」
お姉様は申し訳なさそうな顔で、悔恨の色を浮かべた顔で、けれど強い決意を瞳に宿してそう言った。
「すまないフラン、だがお前をこれに巻き込むことはできないんだ。これは私の選ぶべきことだ。私が背負うべき罪であり犠牲だ。お前が心配することではないし、お前の選ぶべきものでもないんだ。だから」
「だから、お姉様が憔悴していく様を唯々指を咥えて見ていろと? それこそ冗談にもならないわね」
言い切る前に口を挟めば、お姉様は怯んだ様に口を噤んだ。その隙を逃さず更に私は畳みかける。
「そもそもお姉様がそこまで悩むこと自体がおかしいのよ。私の知っているお姉様は情に篤いし責任感も強いのだけど、でもそれ以上に払うべき犠牲は冷徹に払える性格だもの。なのにここまで思い悩むのは当然理由があるのでしょう。そしてそれは、望むべき運命がそこにないから、ではないかしら」
お姉様は暫し呆然として、それから大きく息を吐いた。
「……いや、すまない。お前が相当の傑物であるのは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。甘く見ていて悪かったよ」
「ええ、なにせ私はお姉様の妹だもの。これだけ偉大な背を見せられて、愚物に育つ方が驚きね」
「そうか。いや、そうだな。確かにこんな情けない背中をお前に見せていては、申し訳が立たないな」
お姉様は一体何を言っているのだろうか、と私は思った。
いや、確かに苦しむお姉様の姿を見ていることは辛いことなのだけれども、そのお姉様の姿を情けないなどと思ったことは一度たりとてないのだが。むしろその、苦痛に喘ぎつつも足掻く姿に、強く感銘を受けていたのだが。
けれど、まあ、良いか。
お姉様も、どうやら元気が出たようだし。
「だが、それが分かったところでどうするんだ。如何に優れたお前の頭でも、知らぬ命題の最適解を知っているなどとは言わないだろう。それともなんだ、私も一緒に考えます、とでも言うのかい」
「どちらでもないわ。とりあえずお姉様、運命の糸……糸で良いのよね? いつも手慰みに撚っているあれを、軽く手元で束ねて貰っても良いかしら」
「うん? うん、それは構わないんだが」
お姉様が、虚空の糸を集めて掴むかの如き仕草をした。
実際に何を掴んでいるかは分からない。知る必要もない。何かがそこにある、それだけ分かれば十分だ。
「お姉様の障碍となるなら、私は神だって、運命だって壊してみせるわ」
「フラン? それは一体、」
見て、引き寄せて、手を握る。
指した座標は空洞なれど、確かに何かを引き裂いたような感覚があった。
お姉様は、一瞬ばかり呆然として、見る間に顔色を青くして、そしてその内に僅かばかりに、安堵の色を滲ませた。
「すまない」
お姉様が言う。
「すまない、フラン。流石にこれは受け止めきれない。少し、一人にさせてくれないか」
その後三日三昼の間、お姉様の部屋には明かりが点いていた。
四日目の日の沈んだ頃、お姉様はぐったりとした顔をして、自分の棺桶に潜り込んだ。
そうして、疲れが頂点に達したのだろう、丸四日ほど眠り続けた。
数年ほどして、私達は東洋の街を訪れていた。
それはその街の高名な魔女に用があった為であり、それは美鈴が瀕死の重傷を負ったことに由来していた。
本当に運が悪かったとしか言いようがないのだ。敵が今どき珍しい、龍殺しの神器を持ち出したこと。敵が当時最先端であった、施条砲を持ち出してきたこと。それでも尚も命中率はそれなり程度であった筈の、神器を埋め込まれたその一発の砲弾が、見事に美鈴に命中したこと。美鈴が、龍殺しの神器に対し、酷く相性が悪かったこと。
それらはどうしようもない不運であり、それはつまりお姉様の選んだ運命であった。そしてそれだけではないことを、私はよくよく理解していた。
「これが、運命を選ぶということなんだ」
私が即座に視認した敵を握り潰し、幼い咲夜がその全霊で美鈴の時間を凍結したところで、その総てを指揮したお姉様は申し訳なさそうに眉尻を下げて私に言った。
「お前が壊す前の運命に、こうなる未来の道筋はなかった。お前が壊したその後に私が撚った運命では、これが最も被害の少ない結末だった。勿論それを選んだのは私だ。私が美鈴に瀕死の重傷を齎すことを良しとした。けれど、なあフラン。運命を選ぶということは、それでもやはり重いだろう」
「ええ」
私は、美鈴から目を離さないまま、言った。
「そうだろう。だから、背負わなくて良いんだ。お前が背負う必要はないんだよ」
「お姉様も背負う必要はないのよ」
そう来るだろうなとは想像が付いていた。お姉様は案外単純なのだ。自分が全ての罪科を背負えば良いと思っている。全く呆れた傲慢ぶりだ。見ているこちらが苦痛なのだと、そのことが何故分からないのだろう。
「運命を選ぶのは重いけれど、それでもお姉様がその重圧に苦しむのなら、私も苦楽を共にするわ。お姉様の望む運命がないなら、そんな運命は何度でも私が壊してみせる。だからお姉様、もう全ての運命を一人で抱え込むのは止めにして頂戴」
「……ああ」
お姉様は暫し呆然として、その様相は私が運命を壊したときのそれよりも数段深い驚き様であったから、私は少しだけ愉快だった。そのうちにお姉様は目を閉じ、目頭を押さえて俯きながら、言った。
「ああ。すまないなフラン。これだけできた妹を持てて、私は本当に果報者だ」
そうしてお姉様は暫し佇み、それからぱんと自身の両頬を叩いて気を切り替えた。
「さあ、行くとしよう。安心してくれ、美鈴を救う目星は既についている。知識の名を冠するかの大魔女……未だ会ったことこそないが、彼女なら必ずや力になってくれるはずだ」
思い返せば、つい百年ほどの前のことだ。私達の基準からすればそこまで昔の話ではない。けれどそれから随分経ったように思うのは、やはり大きな変化があったからだろう。
あれから私達は三度の引っ越しを経て幻想郷に移住した。一度の戦争と一つの異変を経て無事に住人と受け入れられた私達を待ち受けていたのは、毎年のように訪れる異変の数々、そして神と妖怪と人間どもの織り成す賑やかで愉快な日々だった。私自身は余り混ざろうとも思えないが、お姉様は毎日実に幸せそうであるものだから、素晴らしいことだと思っている。かく言う私にも数日おきに現れる友人ができたものだから、本当に分からないものだと思う。
だがまあそれでも、最も変わったことは、別にある。
「ねえお姉様、何か困っていることはないかしら」
夕刻、日のとっぷりと暮れた頃。
目覚めの夕食を嗜みながら、私は対面に座ったお姉様にそう問うた。
「ああ、何もないよ。お前がいてくれれば、それで十分だ」
お姉様は不敵に、けれど気を緩めたような様子で私に微笑んだ。
最も変わったこと。それは、お姉様が殆ど能力を使わなくなったことだ。
元々お姉様は不確定要素を楽しむ質だ。好んでいた娯楽を見れば、そのことは容易に察しがつく。生活環境も人妖関係も構築できた今となっては、態々運命を見てまで危険を排する必要性は薄い。だから普段の下らない不確定要素も、全てはお姉様の娯楽の内だ。
そしておそらくそのお陰で、お姉様の表情からは随分と険が取れたように思う。実際、私に向ける微笑みも、昔に比べれば随分と緩んだものになっているのだし。
残念ながら、一方の私は大して変わったとも言えないだろう。
お姉様が望むなら、私は神だって、運命だって壊してみせる。友人を除いた他人に話せば余りに過激だと呆れられるようなその激情は、未だに衰えることを知らない。寧ろ対象が異なりこそすれ、似た精神性を抱える友人ができたことにより、嘗てより更に過激になっているやも知れない。
けれど恐らく、この衝動を振るうことは、この先滅多にないに違いない。
何せ、お姉様は既に十分に幸福であるのだろうから。
姉も私も、その権能は瞳に関わる。正確を期すなら、手で触れることにも。目で観測し、手で干渉するその能力が姉とお揃いであることが、私は殊に自慢だった。
そしてそれとは別に、私には姉と同じ視界を見られないことが不満だった。
私の視界には罫線がある。三方向の細い補助線で区切られた私の世界では、視線の届くあらゆるものが私の手の届く内にある。けれど、それだけだ。記録も運命も他人の心も、私の瞳には決して映ることはない。
お姉様の見る視界のことは、よく知らない。興味はあれども知って何になるわけでもなし、その程度のことでお姉様の手を煩わせるほうが腹立たしい。
推測できることはある。お姉様が見ているのは運命。手で弄ぶそれはさながら虚空より垂れる無数の糸。より好ましい糸を集め、それらを撚り合わせることで、最も望ましい運命への筋道をその目に映し出すらしい。
そしてその、より良い糸の選定に、お姉様は常に苦しんでいる。
なにせお姉様は凄まじいのだ。普通は四百年も生きているなら、罪の意識など当に擦り切れる筈なのに。それでも未だにお姉様は、選ばなかった選択を、切り捨てた犠牲を胸に抱えて生きている。
それはとても残酷なことだ。かつて私が、それだけ無数に抱え込んでいて苦しくないのかと問うたとき、お姉様は、お前がいなければ当に死んでいたかもしれないなと、それ程に苦しく、けれど必要な重みなのだと、そのような言葉で私に応えた。
思えばその時が私の本当の転換点だったのだろうと思う。
お姉様が苦しんでいるのは私のせいだ。それは私がお姉様を生の執着に縛り付けているためだ。ならば私はお姉様のその苦しみを、出来得る限り取り除かねばならないだろう。
当時の私がそう思ったかは既に曖昧で定かではないが、その時を境に私が一層お姉様によく従うようになったということは間違いない。
私の権能が目に見えぬものにも干渉することを知ったのは最近のことだ。概ね、美鈴が館に根付いた頃の話であり、咲夜が拾われてきた頃の話である。
門番が夜の挨拶代わりと「気」なるものを私に向けて飛ばしてきたのを、見えないながらも演算と直観で握り潰したのが契機だったか。彼女の目にはその経過がよく見えていたらしく、興奮しながらどうやったのかと問われたことを覚えている。
少し後、その次に私が壊したのは自身の視界の罫線だった。破砕された補助線が修復されるまでの数日の間、能力の制御がまったく上手くいかなくなったのは実に得難い経験だった。
そしてその更に暫し後、私は運命の糸を壊した。できるような気はしていたが、これについては実際に壊すまで流石に確証を持てずにいた。お姉様の呆然とした顔は新鮮で、同時に驚かせたことについての申し訳ない心地があった。
けれど仕方がないことだろう。お姉様はその頃常に、酷く思い詰めた瞳をしていた。暇さえあれば、どころかもはや暇さえなくとも手慰みに、傍目に見えぬ糸を撚ってはこうでもないと溜息を吐いた。何かしら良からぬ運命が見えていることは明白で、それからは逃れ得難いことも、私は薄々察していた。
「ねえお姉様、何か困っていることはないかしら」
私がそう問うようになったのも、凡そこの頃のことだった。
お姉様の見る視界のことは、興味こそあれど尋ねようとまでは思わない。けれどもそれは、お姉様の邪魔になりたくないが為であって、つまり力になれる算段があるならその限りではないということだ。
「お前が心配するようなことは何もないさ」
何度問うてもお姉様は、そう言って微笑むだけだった。けれどその笑みはぎこちなく、下瞼には隈ができていた。
最初はお姉様がそう言うのならと引き下がった。けれど三日経ち一週間経ち一ヶ月経ったその頃にはもう、私の方が耐えられなくなった。お姉様がその身を削り続けている姿を見守るしかないということに、我慢できなくなったのだ。
「お姉様、隠さないで」
同じ問答が五十の前後を数えた頃、私は遂にそう告げた。
「お姉様は、望む運命を選び取れないことに苦しんでいるのでしょう。まさか私が気付かないとでも思っているのかしら。これだけ毎日顔を合わせて話しているのに」
「すまない」
お姉様は申し訳なさそうな顔で、悔恨の色を浮かべた顔で、けれど強い決意を瞳に宿してそう言った。
「すまないフラン、だがお前をこれに巻き込むことはできないんだ。これは私の選ぶべきことだ。私が背負うべき罪であり犠牲だ。お前が心配することではないし、お前の選ぶべきものでもないんだ。だから」
「だから、お姉様が憔悴していく様を唯々指を咥えて見ていろと? それこそ冗談にもならないわね」
言い切る前に口を挟めば、お姉様は怯んだ様に口を噤んだ。その隙を逃さず更に私は畳みかける。
「そもそもお姉様がそこまで悩むこと自体がおかしいのよ。私の知っているお姉様は情に篤いし責任感も強いのだけど、でもそれ以上に払うべき犠牲は冷徹に払える性格だもの。なのにここまで思い悩むのは当然理由があるのでしょう。そしてそれは、望むべき運命がそこにないから、ではないかしら」
お姉様は暫し呆然として、それから大きく息を吐いた。
「……いや、すまない。お前が相当の傑物であるのは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。甘く見ていて悪かったよ」
「ええ、なにせ私はお姉様の妹だもの。これだけ偉大な背を見せられて、愚物に育つ方が驚きね」
「そうか。いや、そうだな。確かにこんな情けない背中をお前に見せていては、申し訳が立たないな」
お姉様は一体何を言っているのだろうか、と私は思った。
いや、確かに苦しむお姉様の姿を見ていることは辛いことなのだけれども、そのお姉様の姿を情けないなどと思ったことは一度たりとてないのだが。むしろその、苦痛に喘ぎつつも足掻く姿に、強く感銘を受けていたのだが。
けれど、まあ、良いか。
お姉様も、どうやら元気が出たようだし。
「だが、それが分かったところでどうするんだ。如何に優れたお前の頭でも、知らぬ命題の最適解を知っているなどとは言わないだろう。それともなんだ、私も一緒に考えます、とでも言うのかい」
「どちらでもないわ。とりあえずお姉様、運命の糸……糸で良いのよね? いつも手慰みに撚っているあれを、軽く手元で束ねて貰っても良いかしら」
「うん? うん、それは構わないんだが」
お姉様が、虚空の糸を集めて掴むかの如き仕草をした。
実際に何を掴んでいるかは分からない。知る必要もない。何かがそこにある、それだけ分かれば十分だ。
「お姉様の障碍となるなら、私は神だって、運命だって壊してみせるわ」
「フラン? それは一体、」
見て、引き寄せて、手を握る。
指した座標は空洞なれど、確かに何かを引き裂いたような感覚があった。
お姉様は、一瞬ばかり呆然として、見る間に顔色を青くして、そしてその内に僅かばかりに、安堵の色を滲ませた。
「すまない」
お姉様が言う。
「すまない、フラン。流石にこれは受け止めきれない。少し、一人にさせてくれないか」
その後三日三昼の間、お姉様の部屋には明かりが点いていた。
四日目の日の沈んだ頃、お姉様はぐったりとした顔をして、自分の棺桶に潜り込んだ。
そうして、疲れが頂点に達したのだろう、丸四日ほど眠り続けた。
数年ほどして、私達は東洋の街を訪れていた。
それはその街の高名な魔女に用があった為であり、それは美鈴が瀕死の重傷を負ったことに由来していた。
本当に運が悪かったとしか言いようがないのだ。敵が今どき珍しい、龍殺しの神器を持ち出したこと。敵が当時最先端であった、施条砲を持ち出してきたこと。それでも尚も命中率はそれなり程度であった筈の、神器を埋め込まれたその一発の砲弾が、見事に美鈴に命中したこと。美鈴が、龍殺しの神器に対し、酷く相性が悪かったこと。
それらはどうしようもない不運であり、それはつまりお姉様の選んだ運命であった。そしてそれだけではないことを、私はよくよく理解していた。
「これが、運命を選ぶということなんだ」
私が即座に視認した敵を握り潰し、幼い咲夜がその全霊で美鈴の時間を凍結したところで、その総てを指揮したお姉様は申し訳なさそうに眉尻を下げて私に言った。
「お前が壊す前の運命に、こうなる未来の道筋はなかった。お前が壊したその後に私が撚った運命では、これが最も被害の少ない結末だった。勿論それを選んだのは私だ。私が美鈴に瀕死の重傷を齎すことを良しとした。けれど、なあフラン。運命を選ぶということは、それでもやはり重いだろう」
「ええ」
私は、美鈴から目を離さないまま、言った。
「そうだろう。だから、背負わなくて良いんだ。お前が背負う必要はないんだよ」
「お姉様も背負う必要はないのよ」
そう来るだろうなとは想像が付いていた。お姉様は案外単純なのだ。自分が全ての罪科を背負えば良いと思っている。全く呆れた傲慢ぶりだ。見ているこちらが苦痛なのだと、そのことが何故分からないのだろう。
「運命を選ぶのは重いけれど、それでもお姉様がその重圧に苦しむのなら、私も苦楽を共にするわ。お姉様の望む運命がないなら、そんな運命は何度でも私が壊してみせる。だからお姉様、もう全ての運命を一人で抱え込むのは止めにして頂戴」
「……ああ」
お姉様は暫し呆然として、その様相は私が運命を壊したときのそれよりも数段深い驚き様であったから、私は少しだけ愉快だった。そのうちにお姉様は目を閉じ、目頭を押さえて俯きながら、言った。
「ああ。すまないなフラン。これだけできた妹を持てて、私は本当に果報者だ」
そうしてお姉様は暫し佇み、それからぱんと自身の両頬を叩いて気を切り替えた。
「さあ、行くとしよう。安心してくれ、美鈴を救う目星は既についている。知識の名を冠するかの大魔女……未だ会ったことこそないが、彼女なら必ずや力になってくれるはずだ」
思い返せば、つい百年ほどの前のことだ。私達の基準からすればそこまで昔の話ではない。けれどそれから随分経ったように思うのは、やはり大きな変化があったからだろう。
あれから私達は三度の引っ越しを経て幻想郷に移住した。一度の戦争と一つの異変を経て無事に住人と受け入れられた私達を待ち受けていたのは、毎年のように訪れる異変の数々、そして神と妖怪と人間どもの織り成す賑やかで愉快な日々だった。私自身は余り混ざろうとも思えないが、お姉様は毎日実に幸せそうであるものだから、素晴らしいことだと思っている。かく言う私にも数日おきに現れる友人ができたものだから、本当に分からないものだと思う。
だがまあそれでも、最も変わったことは、別にある。
「ねえお姉様、何か困っていることはないかしら」
夕刻、日のとっぷりと暮れた頃。
目覚めの夕食を嗜みながら、私は対面に座ったお姉様にそう問うた。
「ああ、何もないよ。お前がいてくれれば、それで十分だ」
お姉様は不敵に、けれど気を緩めたような様子で私に微笑んだ。
最も変わったこと。それは、お姉様が殆ど能力を使わなくなったことだ。
元々お姉様は不確定要素を楽しむ質だ。好んでいた娯楽を見れば、そのことは容易に察しがつく。生活環境も人妖関係も構築できた今となっては、態々運命を見てまで危険を排する必要性は薄い。だから普段の下らない不確定要素も、全てはお姉様の娯楽の内だ。
そしておそらくそのお陰で、お姉様の表情からは随分と険が取れたように思う。実際、私に向ける微笑みも、昔に比べれば随分と緩んだものになっているのだし。
残念ながら、一方の私は大して変わったとも言えないだろう。
お姉様が望むなら、私は神だって、運命だって壊してみせる。友人を除いた他人に話せば余りに過激だと呆れられるようなその激情は、未だに衰えることを知らない。寧ろ対象が異なりこそすれ、似た精神性を抱える友人ができたことにより、嘗てより更に過激になっているやも知れない。
けれど恐らく、この衝動を振るうことは、この先滅多にないに違いない。
何せ、お姉様は既に十分に幸福であるのだろうから。
おもしろかったです
大好きな人に苦労させたくないのはどこでもそうなのかもしれませんね。とても良かったです。
楽しく読ませていただきました。
健気で残酷で手段を択ばないフランちゃんがかわいらしくてとてもよかったです