春一番が吹き、啓蟄を迎えると、働き蟻たちがぞろぞろと地上へ出てくるように、人々の動きも活発になる。冬を越した者たちは、体力を昼に使い果たせず、陽気な風に誘われて、賑わいの夜へと繰り出す。あちらこちらに灯るあかりに虫のように集い、その甘美な光に捕らえられると、もう夜からは逃げられない。疫病神である依神女苑もそのあかりの一人であった。
今宵も自らの春を餌に、裕福な男衆を狙い撃つ。厭らしい視線はむしろ好都合、騙される方が悪いのさ、と甘い罠を仕掛けるのだ。
気配を殺して、薄い雪化粧が消えていない里の道を行き、人を見る。手に下げた鞄が上等ならば結構。手ぶらでもある程度身なりが整っていれば、獲物としては十分だ。女の匂いが残っている男ならさらに良い。キセルをふかしながら、燻っているカモを探した。
手頃な男を見つけると、女苑はキセルをコートの内ポケットにしまい、いかにも悲哀的に声をかけるのだ。
「ねえ、そこのおじさま。ちょっと助けてほしいの」
弱々しくも、蠱惑的な声色で、ほんのわずかに嗜虐心を刺激するように心がける。あからさまだと警戒されるから、先を期待させる程度に留め、忠実な犬に成り下がる気配だけを仄めかす。すると大抵は上手くいった。
「おお、どうしたんだい」
優しそうな下卑た声を聞いて、女苑はほくそ笑むのだった。
そして女苑はまた一人、破滅へと追い込んだ。今夜のカモはあまりにも隙が大きかった。見栄っ張りかつ頭に血が上りやすい性格で、タガが外れると見境なく富を振舞う間抜けである。春の夜長に吹く風には、どうにも気と財布のひもを緩める作用があるらしい。今まで羽振り良く生きてきたのが不思議なくらいであった。二つばかり夜を越えて、彼はすべてを吐き出した。疫病神と出会って二度目の零時を迎えた頃に、完全な無一文になっていたのだ。
女苑はそのまま夜中まで開いている居酒屋に行き、儲けた金で料理と酒を買った。彼女の姉である依神紫苑への差し入れである。女苑は気分が良くなると、こうやって最愛の姉に豪勢な食事をご馳走していた。持ち帰りの料理ができるまでの間、お通しの枝豆で一杯だけ日本酒をやった。ほんの少しのアルコールは火に注いだ油のように、高揚感を煽った。
紫苑は現在、里の外れにあるあばら家に住んでいた。周囲には何もなく、里の端にぽつねんと佇むあばら家は、割れた窓から隙間風が我が物顔で、まるでそこに遮蔽物など何もないとでも言いたげに容赦なく入り込み、ひとたび雨が降ればそのにおいと湿り気が建材に染み込んで、キノコとの共生を強制されるような有様である。近寄る者は皆無であり、幽霊ですら憑りつかないであろうこの家宅は、紫苑と女苑が里の若者から巻き上げたものだった。持ち主であった小金持ちの若者が居たのだが、あろうことか無知で好色家な彼は、依神姉妹を招き入れてしまった。不幸の種が芽吹き、素朴で可憐な花が咲いてしまうと、若者はあれよという間に奈落へ落ち、たったの三日で失踪した。行方を知る者はなく、土地と家宅だけが残った。活発に行動する女苑は住処を必要としなかったが、春眠暁健忘症の紫苑はその家に居着いた。管理が杜撰なものだから、一週間も経たないうちに、家宅はあばら家になり果てたのだ。
魚も虫も神も仏もへちまも眠る丑三つ時、手土産を持った女苑は、あばら家の扉を威勢よく叩いた。無論、夜中であるため紫苑が出てくるはずもない。
「姉さーん。入るわよ」
上機嫌の女苑は家に入るなり、火のついてない囲炉裏の傍で寝ていた紫苑を叩き起こした。
「んあ。女苑、何?」
「収穫よ、乾杯しましょ」
女苑はビールと日本酒の瓶を取り出した。きつけ薬だと言って、ビールをコップになみなみと注いだ。それを起き掛けにぐいと呑んだ紫苑は、咽が冷たく熱される感覚と、その苦みでたちまち目が覚めた。
「苦いよぉ」
「ほら、肉」
「うま」
「ほいビール」
「うま」
若鳥の山賊焼きに小さい口で噛みつき、肉の欠片を数度だけ咀嚼してからもう一度ビールを飲むと、苦みは清涼感をもたらす快楽に変わった。延々と繰り返せるような気がする。堕落の駄肉はこうやって蓄積されていくのだろう。しかし、もう一口肉をかじったところで、紫苑は満腹になってしまった。彼女の虚弱な胃袋では、贅を受け入れることは叶わないのだ。仕方がないので、日本酒に切り替え、キュウリの浅漬けをかじりながらちびちびとやった。
そんな、幸福そうなのにどこまで行っても貧乏な姉を見ながら、女苑はビールをひと瓶開け、つまみを貪り、盛大に酔っ払った。
紫苑に対してだけだが、時折、女苑はこのように、何の打算もなく羽振りが良くなることがあった。それは姉の体質や存在理由に同情しているのもあるが、やはり姉妹というつながりが、幸を分け与える十分な理由になっていた。
浮世の殺気立つ毒を流すには酒か泡が良い。女苑にとって手っ取り早いのは酒であって、解毒の快感を分かち合うことができ、しかもその姉は、無限の貧困という恐るべき毒に苛まれ続ける宿命である。延々と管を巻き続け、酔生夢死に浸ることは幸福に違いなかった。女苑は一晩中呑み続けて、死んだように眠った。
あばら家の窓からぼんやりと光が差し込み、わずかに意識を取り戻す。生と死の狭間にいるような感覚、この時間は睡眠という過程の中で最も尊く、心の内側に楔のように刻み込まれる心地良さがある。小さく囁く悪魔が宿るとすれば、間違いなくこの瞬間だ。起きる理由が見つからない女苑は、ゆっくりとまどろみに呑み込まれていく。
鼻孔をくすぐるイ草のにおいと、後頭部を支える柔らかい感触が、どこまでも心地良い。眩しい光から逃れるために、目を瞑ったままにしておくと、それらは他の感覚器へ、もっと寝ようと訴えかける。春にうつつを抜かす喜びを、引き延ばされた時間の中で、まどろみながら享受する。
時間が長いようで短い。目が覚めたと思ったら一時間が経っていて、もう一度目を瞑ると、今度は十分後に覚醒の波がやってくる。酔いに近いが、酔いよりも健康的である事実が、さらなる堕落へと導いた。睡魔の声はあまりにも蠱惑的である。
女苑が目を覚ましたのは、夕方頃であった。しぱしぱと瞬きをして、朱色の陽光に慣れると、下腹部の違和感を抱き、ようやく起きる気になった。
「寝すぎたわ」
そう言って腹筋に力を込めて起き上がる。これほど長く眠ったのはいつ以来だろうか、よほど疲れていたに違いない。そう思いながら厠へ向かった。
深酒をしたにも関わらず、吐き気やめまいが全くないのは、良質な睡眠がとれていた証拠だろう。厠から戻って、洗面所で手を洗うついでに顔で冷水を浴びた。ぼんやりとした思考は、一瞬で霧払いされ、意識が冴える。生きる活力がわいてくるのを感じた。今日も夜へと繰り出して、間抜けな猿顔から金を搾取し、そしてそのあぶく銭でまた小さな宴会を始めるつもりだった。
紫苑に出かけることを伝えようと、女苑は部屋に戻ったのだが、そこである種の違和感を抱いた。先ほどはぼんやりとして気づかなかったが、明らかにこの部屋に漂う空気が淀んでいて、その淀みは春の陽気を取り込んだ布団のように妙に暖かいのだ。
紫苑はその中心で腹ばいになって眠っている。周りには食い散らかした食べ物の皿や、酒瓶が転がっているだけで、その他には何もない。
「あれ、私、どこで寝てたんだっけ」
随分と長く眠っていたが、寝心地のよさそうな布団もなければ、頭部に感じたあの柔らかい感触を持つ枕もない。唯一、あるとするならば……
「もしや」
女苑はうつぶせで眠りこける紫苑の尻に、後頭部を乗せて、目を瞑ってみた。
その瞬間、睡魔が囁いた。さあ深いところへ落ちよう、と甘美に優しく耳を撫でた。汗を吸った古臭いイ草のにおいが立ち、不思議と心を宥めた。
女苑ははっとなって、誘惑を遮断し、飛び起きた。
紫苑の尻には、睡魔が宿っているというのか。あの寝心地の良さは、姉の尻のなせる業だというのか。
ぷにぷにと指で突いてみる。寝息を漏らすばかりの姉は、一向に起きる気配がない。一晩中、女苑の頭を乗せていても目覚めなかったのだ。
紫苑の尻の感触は、最高級の枕と同じだとでも言うのか。否、それは考えにくい。憐れみを抱くほど華奢な肉体で、尻のあたりが人並みと呼べる程度であり、安産型というにはおこがましい、謙虚な体型なのだ。確かに、富と名声を抱きしめるために肥大化した男の腕に比べれば、よっぽど上等ではあるが、それでも、値の張る良質な枕に比べれば、寝心地が良いとは到底思えない。つまり感触だけではないのだ。
尻というよりは、紫苑全体に漂う負のオーラ、古いイ草のにおいを発するそれが、人を眠りに誘うのだ。働く意欲を無くし、胎児が浸かる羊水のように暖かな夢の中へと閉じ込める。結果、堕落してしまう。人を不幸にする貧乏神の力によるものであった。
女苑は姉にそんな力があるとは知らなかったし、当の紫苑も自覚はしていない。まったく生産性のない能力であったが、女苑はふと商売の方法を思いついた。
「これは、眠り薬に使えるかも」
言葉よりも先に手が出る女苑である。思いついたら行動は早かった。まずは布屋に行って、とりあえず店先に並べてある分のきんちゃく袋を買い占めると、そのまま呉服屋に行き、小さな紫陽花があしらわれた浴衣を購入した。そしてあばら家に戻ると、丁度紫苑が起きていたので、買ってきた服を差し出してこう言った。
「姉さん、においひどいよ。買ってきたからさ、着替えたら」
「わ、ありがとう女苑。なんかこれ可愛いねぇ」
薄汚れたパーカーを脱ぎ、素肌に羽織るだけの簡素な浴衣に着替えると、化粧もしていないというのに、たちまち美人になったように思えた。彼女の華奢な体躯には、浴衣が良く似合った。
「似合ってるわよ」
「本当?」
「ええ、とても」
嬉しくなったのか、夜だというのに珍しく紫苑は外へと出かけて行った。天人に見せびらかすつもりだった。後ろ姿だけを見ると、里のうら若き乙女のようである。貧乏神でなければ、嫁の貰い手も現れるだろうに、などとみじめな父親のような思考回路に陥りながら、女苑は作業を始めた。
紫苑が脱いだパーカーとスカートを小さく切った。
「うえ、くさ」
はさみを入れると、布にしみ込んだ汗のにおいが鼻を刺し、気分が悪くなったが、それでも何とか堪えた。三寸程まで小さくなった布を丸め、きんちゃく袋に入れた。服のまま直接吸引すると流石にきついが、こうやって小さくして、におい袋にしてしまうと、むしろその芳香は線香のような、癖になる親しみやすさを持つようになった。
まずはそのにおい袋を三十個作った。
「いよおし、売りさばくわよ」
標的は、夜に囚われた人間たちである。眠れぬ夜をごまかし、朝を待つ苦痛に耐えるため、外へと繰り出す哀れな者たちに、惰眠という名の安らぎを与えるのだ。丁度良い小遣い稼ぎになるかもしれない。金になるようであれば、今の姉の服がボロボロになった時に譲り受け、におい袋に変えてしまおうと思った。
女苑は儲ける。紫苑は新しい服が手に入る。両者両得である。
「商品名、どうしようかな」
名前は重要である。ブランド化した時に模造品が出回らないよう、唯一無二を示すために必要なのだ。顎に手を当てて、考えた時、ひゅうと春の夜風があばら家を素通りした。
「良し、まんまだけど春紫苑、いや、片仮名にしてハルシオンにしよう。薬っぽいし、偽物感がいい感じじゃないかしら」
ハルシオンの売れ行きは上々であった。眠れぬ夜を過ごす者たちにとっての特効薬だった。
永遠亭の置き薬としての睡眠薬はいくつか出回ってはいたが、何せ古い慣習を好む風土であるから、薬で眠るということに抵抗感を覚える者が多く、里には普及していなかったのだ。科学に基づいた薬剤に比べ、ハルシオンはお守りやお札に近く、枕元に置くだけで効果を発揮するから、神通力を重んじる里の文化に馴染みやすかった。睡眠というものは自然に任せて、十分な量と質を確保することが肝要であるため、猜疑心や恐怖を抱きながら合理的な薬剤を飲むよりも、お守り一つで安堵を得られる方がよっぽど身体に良いのだ。そのことは竹林の薬剤師である永琳が、良くわかっていたため、無理にハルシオンを否定することはなかった。元々、睡眠薬はそこまで売り上げにつながっていなかったのだ。
女苑は大した宣伝もしなかったが、ハルシオンは言伝で広まり、定期的に買い求める声が聞こえるようになった。
儲けた金で女苑は姉の新しい服を買った。紫苑は喜んで古い服を脱ぎ捨て、新しくて華々しい服を着た。それを繰り返し、ハルシオンを生産し続けた。一張羅がボロボロになるまで、女苑は決して新しい服を買い与えなかった。必然的に、同じ服を毎日着るしかなかったので、いかに新しく上質な素材の服でも、すぐに薄汚れた色に変色してしまうのだ。
儲けた金でご馳走を買って、姉妹は二人だけの小さな宴会を何度も行った。
ある時女苑は酒に酔ってふと口を滑らせたことがあった。
「いやぁ姉さんのおかげね。もうがっぽがっぽよ」
「ん-、いや女苑はすごいよ。よく売れるなって思うもん」
紫苑は自身の服が商売に利用されていることには勘づいていたが、それを咎める理由もなかった。詳細を知らないため、マニアックな変態が居るものだ、という認識だった。あまりに自然な流れであったため、女苑は商売に利用している事実を隠していたことさえ忘れてしまい、そのあたりはいつの間にか、いい加減になっていた。
紫苑はビールを一口飲んで、こう呟いた。
「ずっとこんな生活が出来たらいいのに」
「まあ、難しいんじゃない」
女苑はにべもなくそう答えた。これが一過性のものであると、なんとなく思っていたから、厄介な誰かに目をつけられる前に撤退しようと考えていた。女苑は金儲けに関しては慎重であった。
しかし、女苑の想像とは裏腹に、ハルシオンの売り上げは伸び続けた。噂を聞きつけた夜行性の人間たちは、陽光の下に戻りたいという一心で、ハルシオンを買い求めた。案外、夜から逃げ出したい人間は沢山いるのだと知って、女苑はそこに付け込んだ。
噂は人から人へ、そして人から妖怪へと、波紋のように広がった。紫苑を気に入っている天子の耳にもその情報は入ってきて、試しに使ってみたところ、睡魔に囚われ、堕落する寸前に陥った。暁どころか昼すら忘れ、逢魔が時が過ぎ去るまで、ひたすらに眠りこけてしまったのだ。天人午睡である。
天子はハルシオンを悪戯の道具として、紫に送り付けた。しかし、元からよく眠る紫は、睡眠信奉者であったため、ハルシオンを大層気に入った。
「嗚呼、素晴らしき哉。深き射干玉の夜が降りてくるようだわ……」
さらに深く、さらに暗く、睡眠の心髄に至るには、欠かせない道具と化した。紫はハルシオンを定期購入し始めた。賢者のお墨付きを得たのだ。
儀式に使用される大幣や札、扇などが、次第に神とつながる糸になるように、ハルシオンは睡眠を司る神への道を示す媒体となった。そして、そのハルシオンを生み出した紫苑は、睡眠の神として崇められるようになった。ギリシャにはヒュプノスが居るが、日本には睡眠を司る神は存在しない。強いて言えば、大国主は夢の世界も支配していると言われるが、彼の持つ側面はあまりに多岐にわたっており、より具体的な柱として祀り上げるのならば、紫苑の方が適任であった。
「おお、神よ。我々に安らかな眠りを与えたもう!」
紫苑の住処を探り当てたある男は、あばら家に向かって祈りを捧げた。神々しい場所があると、そこの隙間を見つけて、矮小な己の想いを乗せた小銭を詰め込みたくなるのが人の性であるようで、彼は賽銭箱の代わりに、いくつも開いている壁の穴に、小銭を放り込み始めた。一人が先陣を切ると、誰もが真似をし始める。いつの間にやら、あばら家は神社と同じくらい神聖な領域と化していた。周囲に何もなく、また森がすぐ近くにあることも相まって、あばら家の一帯には自然信仰に近い神秘性が付与されていた。
「いて」
紫苑の頭にこつんと小銭が当たった。恵みの雨によって惰眠を邪魔されたので、不愉快さと喜びが同時にわいてきて、紫苑はその感覚を消化できずに戸惑うばかりであった。だが、何度かそれが続くと慣れるようで、次第に小銭が当たらない位置を見つけ出して、そこで眠るようになった。
「うふふ、金の山だ」
理由はわからなかったが、賽銭が投げ入れられるという事実だけに注目していたので、大して気にすることもなかった。そう言う巡り合わせもあるのだろう、今まで積み重ねてきた不幸を帳消しにするべく、自然の恒常性が働き始めたのかもしれない、と適当に考えていた。
ぼんやりとした意識で、触れ合う硬貨の音を聞き、積み重なる富を眺め続けた。寝ても覚めても夢見心地である。これほどに幸福を感じたことはなかった。紫苑はのそりを起き上がると、その小銭の山を集め、財布など持っていなかったから、転がっていた酒瓶に詰め込んで、外へと繰り出した。
そして食料と酒を購入して、さらには普段なら手を出せない嗜好品である紙巻き煙草と、それに火をつけるためのマッチを買った。
「今日は私がスポンサーだ」
思い浮かべたのは女苑の驚く顔であった。たまには姉らしいところを見せたいと、貧乏神とはかけ離れた欲求がわいていた。
あばら家に戻ると女苑が居て、また新しい服を買ってきていた。
「あ、おかえり姉さん。じゃーん。こんなのも似合うと思ってね」
女苑はどこで手に入れて来たのか、真っ白なワンピースを持っていた。飾り気はないが、その分清潔さが肝となる、以前の紫苑には着こなせない服であった。
「ただいま。こっちも、じゃーん。いろいろ買ってきたよ」
「え、どういうこと。私のへそくり盗んだ?」
薄情ながら、小遣いは与えていない(与えたところで何らかの不幸が重なって使えない)ため、女苑は不思議に思った。紫苑がいきさつを説明すると、女苑は目を丸くした。
「じゃあ姉さんの信者ができたってわけなのね。確かに飛ぶように売れるけど、信仰されるまでなんてね」
「え、どゆこと」
ここまで来たら適当にはぐらかすわけにはいかないと、女苑はハルシオンで儲けていることの詳細を述べ始めた。今度は紫苑が目を丸くして聞いていた。驚いてはいたが、不快感はまったくなく、むしろ妹の商才に感嘆符を漏らすばかりであった。
「なんかごめんね。黙ってて」
「別にいいけど。へえ、私の服が。なんか照れるね」
「だけど、もう潮時かもね」
「え、なんで」
「今の姉さんの服、大して汚れてないもの。最近ちょっと裕福になったからか、力が弱まっているのかもしれないわよ。無尽蔵ってわけでもないみたいだし」
「ふうん。なんか残念だなぁ」
「まあ引き際は大事よ。行きすぎると、戻れなくなるわ。何事もだけど」
多くの人間たちが、紫苑の力によって堕落していく様を眺めるのは痛快であった。神の力を存分に誇示しつつ、しかも、誰にも咎められないというこの状況が滑稽であり、欲の底を覗き込んだような愉悦を女苑は感じていた。しかし、番犬のように付きまとう危機感が、彼女の冷静さを失うきっかけを奪ってしまった。女苑は金を手にした時、自身が踊り狂って自殺する様を想像してしまう癖があり、そうならないよう努めてきた。浪費癖はその臆病さの表れでもあり、今は引き際を考えていた。
「まあいっか。とりあえず今日は飲もうよ。せっかく買ってきたんだから。この私が、お姉ちゃんが」
「そうね、ありがと。姉さん」
自慢げに話す姉の姿を見て、女苑はなんだか微笑ましいと感じた。先のことを危惧していても仕方がない。神や妖怪は長い寿命を持つ分、刹那に生きるのだ。今宵は存分に酔っ払って、楽しもうではないか。
姉妹はまた二人だけの宴会を始めた。ビールで乾杯し、つまみの焼き鳥を頬張った。紫苑は煙草に初めて火をつけてふかしたが、むせてしまった。病弱な肺は煙すら拒むようだった。
「げほっごほっ」
「慣れないことするから」
「うえ、もうやんない。あげる」
「ええー好きな銘柄じゃないんだけどな。まあ貰っとくけど」
紫苑が買ってきたのは天国に一番近い煙草とも呼ばれるラッキーストライクであった。Luckyの文字に惹かれたらしい。
基本的には女苑はキセルを嗜むため、紙巻き煙草は呑まないのだが、何せ姉からの初めての贈り物である。嬉しさをビールで濁し、女苑はコートの内ポケットに煙草の箱をしまった。
女苑の予想は外れ、ハルシオンの売れ行きは留まるところを知らず、向かうところ敵なし、竹を破る勢いかつ、昇龍の舞の如く、青天井を駆け巡る鳥を打ち落とさんばかりであった。
紫苑の貧乏神としての力は衰えたが、熱狂的な信仰心によって、安眠への導きを司る力が膨れ上がり、紫苑の本質を塗り替えようとしていたのだ。紫苑はそれでも構わなかった。惰性を貪り、空腹をごまかす生活に比べて、食料に満ちた今の生活はあまりに魅力的であった。
住処としていたあばら家は、妄信的で親切な大工たちが結集し、勝手に建て替えてしまった。豪奢とまではいかないものの、神社に似せて造られたその家の佇まいは、有権者の威光をじわりと滲ませるほどには、神々しく様変わりしていた。木造建築であったため、火災や地震などの災害には弱いが、湿度が一定であるため咽を痛めることがなく、巧妙な継手で組まれた壁からは隙間風一つない。
丁度、建て替えが済んだ頃に梅雨となり、霖に打たれたがびくともしなかった。以前のあばら家とは打って変わって、寒さも湿気も気にせず、快適な睡眠を堪能できる環境が整っていた。
ハルシオンの導きによって人々の睡眠時間は増えたが、それによって里が堕落したかといえば、そうでもなかった。夜間に十分な休養をとるため、日中の仕事の効率が増したのである。必然的に活動時間は減ってしまうが、だらだらと惰性で仕事をする非合理的な習慣を廃止しようとする動きがあった。働き方改革である。里には幸いにも権力を振りかざし、下々の者たちを奴隷のように働かせる有権者もなく、また金の力を得るために人を欺くことばかりを考えている狡猾な者も少なかった。金銭の力は外の世界に比べれば、絶対的ではなく、むしろ睡眠欲求は、食事や繁殖と同等に、必要でかつ労働や金銭よりもよっぽど尊いものであるという扱いをされるようになった。元来、睡眠をほとんど必要としない妖怪や人間もいたが、しかし、食事に快楽を見出し、美食を追求するのと同じで、夢の世界に落ちる行為そのものが信仰を得た以上、そういった必要に駆られての睡眠は、むしろ邪道であるとさえ言われるようになった。
夜が好きな異端者は、闇に紛れてコソコソと頭の黒い鼠のように過ごすしかなかった。さらには梅雨が追い打ちとなり、夜雨から逃れるため家に籠ることを余儀なくされた。彼らは夜行性であったが、家で起きていても仕方がないと思い至り、自分を騙すようにハルシオンを買い始めていた。
紫苑はよく眠り、よく食べた。以前は油分の多い揚げ物や、たんぱく質などは胃袋が拒絶して吐き気や下痢に襲われたものだが、食べ続けているうちに内臓が適応したのか、働き盛りの若者と同じくらいは常食していた。おかげで、骨と皮だけと称されるほど華奢だった身体には、むっちりとした女性らしい肉がつき、今や健康体そのものである。
虚ろだった目に光が灯り、希望にあふれた未来を見つめているようであった。
紫苑の眼が柔らかく輝き出した頃、それに伴ってハルシオンの質も変化し始めた。あの汗が染み込んだイ草のような、ひどいにおいがしなくなっていたのだ。だが眠りの神を包む衣が、神の加護を帯びるのは当然で、ハルシオンは変わらず、人々に安眠をもたらしてくれた。
箪笥が必要になるほど服が増え、汚れることが減っていたが、清潔なままでも十分ハルシオンの効果はあった。今では紫苑は毎日違う服を着て、お洒落をする喜びを見出していた。
ある日、子供の夜泣きがひどいと、目に隈をこしらえた母親が訪ねてきた時は、紫苑はその子供に子守唄を歌ってやった。
「ねんねんころりよ、おころりよ」
今まで人前で唄など歌ったこともなかったので、お世辞にも上手いとは言えなかったが、それでも子供は彼女の声に包まれて、唄のゆりかごの中でぐっすりと眠った。
それからは紫苑に子守唄をせがむ者が増えた。夜雀の透き通るような声でも、山彦の力強い声でもなかったが、彼女の唄もまた、夢への導きの役目を背負っていた。
プリズムリバー三姉妹の一番末っ子であるリリカがその噂を聞きつけ、自らの幻想の音と組み合わせようと提案した。
「唄なんてあんまり知らないよ」
「問題ないわ。唄も音も私が考える。あなたは歌ってほしい」
「だけど」
「コンサートをしましょう。それだけで十分、録音なんてしなくても間違いなく里に広がるわ。わらべうたのように、この地に根差す幻想の音色を響かせるのよ。素敵だと思わない?」
熱意を持ってリリカはそう語った。可視化できない幻想の音は、二人の姉の影に隠れて目立たない。それは仕方のないことであると理解していた。だが、自らが奏でる幻想の音は、唄を引き立たせるという意味では、心に浸透するという側面においては、絶対の自信があり、紫苑の存在は、またとない好機のように思えたのだ。姉より一歩先んじる。それがリリカの熱意の理由であった。
女苑がその場にいなかったので、紫苑は迷った。普段ならば、非生産的な行動が根底である紫苑が、積極的に何かを創造することはない。
「うん、わかった。やってみるわ」
「本当? やった!」
だが、この時初めて紫苑は、自らの意思で頷いたのだ。リリカの熱意にほだされた。妹が姉に対して抱く嫉妬など、経験したことがないため、わからなかったが、それでも、彼女の情熱は伝わった。
二人はさっそくコンサートの準備に取り掛かった。作詞作曲、さらには設備と場所の確保に、集客と、やることは山積みであり、またノウハウなど持ち合わせていなかったため、いつ実現できるかの目途すら立たなかったが、それでも、世のため、人のため、そして自分のために何かを生み出すという、貧乏神の本質には反する行為は、言いようもない達成感をもたらしてくれた。
驚くべき程の変貌を遂げた紫苑に対し、女苑はそれほど変わらなかった。相変わらずハルシオンを夜の里で売りさばきながら、裕福そうな男をたぶらかして、小さい愉悦を得ていた。
しかし、最近は夜の里の活気がなくなっていた。星のように煌々と灯っていたがあかりが消え、ぽつぽつと残る残火は、未練を捨てきれない人魂のようで、あまりにも寂しかった。
女苑は二階建ての風呂屋に入り、番台にハルシオンを売った。二階は所謂夜の遊び場になっているのだが、そこを住処とし、精を喰らって露の世を生きる胡蝶たちは今や、ハルシオンによって夢の中に帰ってしまった。ゆえに、まっとうに風呂屋として得た金以外は、得られなくなっていた。
女苑はハルシオンを掌でぽんぽんと弄びながら、嘲笑を込めてこう言った。
「随分としけてるわね。こいつのせいで商売あがったりでしょ」
番台は少しだけ自嘲的に答えた。
「なあに、仕方がないさ。夜は寝るもんだ。悪いことじゃない」
「へえ、よく言うわね。最初は商売を潰すなって言って、私に食って掛かろうとしたじゃない」
「怖かったんだ。寝るのが。何もかも失う気がして。だけど、今はもう怖くもなんともない、むしろ良いことなんじゃねえかな」
失うのが怖いと感じるのは睡眠が死と似ているからだ。睡眠は死のいとこであるとは、外の世界の大都市、ニューヨークで生まれた言葉であるが、死を恐れ、忌み嫌いながらも、その響きに儚げな美を想起し、焦がれてしまうのもまた人間らしさだとするならば、家族でも友人でもなく、いとこという距離感の表現は、存外本質に近いのかもしれない。普通の人間は死を克服することはできないが、それに近い何かを崇拝したり、寄り添うことで親近感を抱いたりするのは自然なことであった。
女苑は沈黙した。彼女が望んでいたのは罵詈雑言か、恨みに満ちた皮肉であった。
「もう帰んな。俺もそろそろ寝るよ」
あまりにも穏やかな返答に、自分が情けなくなって、番台の言葉を聞き終わる前に、女苑は店を出ていた。
寂しい夜を見たくなかったから、欲望が渦巻く夜に逃げ込みたかったから、女苑は走って住処へと帰った。紫苑はまだ起きていて、浴衣姿のまま足を崩して座り込み、ぼんやりと月を眺めていた。紺色の美しい浴衣に、青色の長い髪がしなだれかかり、得も言われぬ妖艶さを醸し出す装いとは裏腹に、その表情は穢れなき月への望郷を秘めたような、あどけないものだった。あまりにも絵になる儚げな姿は、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花と形容できるほど変貌を遂げていて、彼女が道端の春紫苑だったことが遠い過去のように思えて、女苑はどうしようもない追想の愛を抱いてしまった。
女苑の頬が紅をさした唇のように紅潮していた。泣きそうになって、靴を履いたままふらふらと姉の下へと歩み寄った。
「どうしたの」
「もう、疲れちゃって」
「そっか」
紫苑は正座して、腿をぽんぽんと軽く叩いた。紫苑の浮かべたやたらと柔和な笑みは、女苑にしてみれば苦楽の象徴たる菩薩のように映った。あの蓮の花を幻視した。優しさがどうしようもなく苦しかった。夢の世界への飛翔を行うため、ゆっくりと沈み込むように、紫苑の腿に頭を乗せた。
「ふふ」
腿に感じる確かな重量に、姉ゆえの法悦を見出して、紫苑は笑った。妹が眠るまで、この感触を手放すまいと、唄を歌い始めた。
「子守唄、最近練習してるんだ。ねんねんころりよ、おころりよ」
「……」
女苑は泣きそうになった。姉の声はこんなに美しくも優しくもなかった。姉の太ももはこんなに柔らかくなかった。姉はこんなに積極的ではなかった。姉は決して、私に慈愛に満ちた憐憫のまなざしを向けることはなかった。
「やめてよ!」
このままでは幸福に殺されてしまうと、そう思った。女苑は跳ね起きて、乱暴に玄関の扉を開けて、夜へと消えていった。
紫苑は戸惑うばかりで、何も言えなかった。追いかけるような真似はせず、持ち前の愚鈍さを発揮して、しばらく惚けたように女苑の行動の意味を考えてから、理解を諦めて眠ってしまった。妹の激情など、姉が知る由もないのだ。
紫苑は油の厭なにおいで目を覚ました。外はまだ暗かった。この時間では、起きるはずがないのに、なぜ目を覚ましたのか、わからなかった。布団からのそりと這い出ると、女苑が目の前にいて、家にいるのに寂しそうに立っていたので、なんとなく胸騒ぎがした。
「あ、起きたのね。丁度良かった。起こそうと思ったのよ」
「どうしたの」
「ううん、煙草でもふかそうと思ってね」
女苑は淀みない手つきで、コートの内ポケットから煙草の箱を取り出した。紫苑が渡した、好みではないと言ったあの煙草だった。一本を口にくわえ、マッチを擦り、火をつけた。
行動と言葉の意味がわからなくて、紫苑は困惑したが、女苑はどこ吹く風と言った調子で、煙を吐き出した。窓が開いていて、風が入ってくるものだから、その煙は風になびいて、外へと逃げた。
「夜は寒いわね」
女苑はそう呟いて、火のついた煙草をピンと指で弾いた。その仕草がやけに自然で、紫苑は女苑の行動が意味することに一抹の疑問も抱かなかった。
煙草はぽとりと落ち、メラメラと畳を燃やし始めた。その炎があまりにも激しく燃えるものだから、紫苑は一瞬惚けたように固まってしまった。
「え」
困惑の表情を浮かべた頃には、瞬く間に煙草の火は畳を焼き、植物が根を張るように領域を広げていった。夜風の煽りを受けたどこまでも情熱的な炎は、貪欲な蛇が獲物を呑み込むかのように、家の富を焼き尽くさんと、猛り狂った。今まで買った沢山の服も、貢物の食料も、それらを守る家すらも、火を肥やすための燃料であった。
「あ、あ、燃えてる、燃えてるよ」
慌てる紫苑を尻目に女苑は、水は下にしか流れないが、火はどこへでも行けるものだと、そう思った。そして、それは我々と同じだと、そう思った。
「逃げよう。姉さん」
紫苑の手を掴み、女苑は意図的に作った逃げ道を駆け抜けた。
裸足のまま外へ出て、振り返ると、煌々と光を放つ家は、真っ暗な闇を照らす唯一のあかりになっていた。
すべて女苑の仕業だった。女苑は服や紙、畳など燃えやすそうなものに油や酒をぶちまけ、酸素が供給され続けるように窓を開け、なおかつ玄関までの逃げ道を作り、そして火をつけたのだ。
「ああ、ああ。燃えちゃうよ。服が、ご飯がぁ」
紫苑は涙目になっていた。怒りの果てに湧き出す涙というものを初めて経験した。奇行を働く妹への怒りは爆発寸前だった。世界や運命と言った漠然としたものを呪うことは何度もあったが、妹を呪いたくなったのは初めてだった。唇を噛み締め、憤怒と侮蔑を込めた眼で睨みつけたが、そこには悪びれもせず、けらけらと渇いたように笑う女苑の姿があった。
女苑はまず指にはめたダイヤの指輪を一つずつ外し、火の中に放り込んだ。
「あはは、ダイヤモンドは良く燃えるわね」
宝石をすべて放り込んだ後は、羽織っている毛皮のコートを脱いで、火にくべた。
「熱いわ、こんなものいらないわね」
さらには肌着とスカートまで脱ごうとしたものだから、紫苑は止めるしかなかった。
「やめて、ダメだよそんなことしたら……」
紫苑に押さえつけられた女苑は、乾いた笑いを止めて、大きく叫んだ。
「いいじゃない! どうせ誰も見てないわ。皆、夢の中だもの!」
じたばたと藻掻く女苑を押さえつけているうちに、紫苑は怒りを忘れてしまった。
女苑は炎のようにどこまでも欲深で我儘だった。過食嘔吐を繰り返す中毒者のように、ため込んだ富を吐き出したくて仕方がないのだ。姉が変貌する様に我慢ならなかったのだ。そして彼女は、その感情を抑える術を知らなかった。
自然と涙が溢れ出た。理性を保ちながら、決して欲望に抗えない自分自身に、侮蔑と憐憫を向けつつも、溢れ出る涙を止める程度の潔さも彼女は持ち合わせていなかった。
「起きろよ皆、夜だぞ。ちくしょう……」
「女苑……」
そして、紫苑も女苑を咎めることはなかった。不幸を容易く受け入れること、神の本質が変化しかけていても、そこだけは揺らぐことがなかった。先ほどの怒りは自然と霧散した。すべてを失うことも、空腹と隣り合わせで過ごすことも、紫苑は辛いと思いながら、抗うことをしなかった。たとえ積み上げてきた砂の城が、一瞬で無に帰されようとも、そんな気まぐれな風を受け入れた。
沢山のものを失っても、女苑とのつながりだけは断ち切れない。彼女の欲にどこまでも付き合う。たとえそれが破滅への片道切符だとしても、紫苑は構わなかった。
女苑は大きく息を吸い込んでから、唐突にこう叫んだ。
「Wake Up People!」
そして続けざまに出鱈目な歌を歌い始めた。拡声器はない、メロディも音階もない、咆哮に似た歌を、唾をまき散らしながら叫んだ。
紫苑は囃すように手拍子を始めた。けたたましいばかりの歌にズレたリズムが加わると、それは一つの音楽として、歪ながら完成した。
炎のように産声を上げた夜の歌は、炎と共に辺りを照らし、のんきに眠る人間たちを春一番のように叩き起こした。
「火事だ、火事だ!」
「燃えてる、燃えてる!」
「誰だ、誰だ、歌うのは誰だ!」
「火消はどこだ、誰もいないのか!」
戸惑いと共に目覚めた人間たちは、混乱の輪を広めることに躍起になり、徒に騒ぐばかりであった。紫苑の眼には、誰もが炎を祝福しているように映った。この熱気は、以前経験したことがある。プリズムリバーのライブで、会場のボルテージが最高潮に達した時に似ている。ライブの一体感はないが、銘々に盛り上がる様だけは、同じだった。
「前衛的なことやってんね!」
リリカがやってきて、女苑の歌に幻想のメロディをつけた。子守唄の作曲ができたので来てみたところ、あまりにも熱量のあるライブが開催されていたので、飛び入りで参加したのだ。幻想のメロディは、大衆の鼓膜から潜り込んで脳を揺らした。誰かが脳に連動して体を揺らすと、周囲の皆も呼応して、出鱈目な踊りが始まった。
百鬼夜行の宴のように、炎に誘われて輪に入ろうとする住民を次々と取り込み、狂気の円環はさらに拡大した。現場を鎮めるためにやってきた自警団もその宴に組み込まれていた。
騒ぎの鎮静化に尽力するつもりだった慧音は、暴徒たちへの頭突きを延々と繰り返した。
「こらぁ! 貴様ら! 踊るのを止めんか!」
荒々しく叫びながら頭を振るその様は、まるで音楽に合わせてヘッドバンキングしているようである。ワーカホリック気味だった彼女は、この頃十分な休養を取れたので、体力を持て余していたのだ。暴力に訴えかける彼女のやり方は、火に油を注ぐばかりであったが、聡明なはずの慧音は知らないふりをして、正義の御旗の元に、頭を揺らし続けた。
騒ぎを聞きつけた小鈴が、阿求を誘って一緒にやってきた。小鈴は火を見て恐れ戦き、逃げ惑う民衆を演じていたが、本心では惨状を楽しんでいた。己が身に降りかかる火の粉以外、振り払う必要があるのだろうか。薄情と知りながら、小鈴は騒ぎの一端に加わろうとした。
「阿求、阿求! ヤバいって、これ! 燃えちゃう、全部燃えちゃうよ! 逃げなくちゃ!」
はしゃぐ小鈴を尻目に、阿求は絵仏師良秀の如く、感嘆の思考にふけりながら、ゆらゆら燃ゆる火を眺めていた。
「何を慌てているのよ。儲けものじゃない。私、絵が下手なんだ。特に炎は全くだめでね、ほら煙々羅とか、そう言うの、今度上手く書けそうだよ」
のんきにそう言う友人にあっけにとられた小鈴は、なるほどと納得し、幾千もの修羅場を潜り抜けた老女の諦念と、まったく同じ胆力を発揮した。
「それもそうだね。だけど凄いなぁ。こんな炎初めて見たかも」
小鈴は急に慌てふためいた自分自身が恥ずかしくなった。阿求の隣で、まるで夜空の月を眺めるかのような情緒を噛み締めながら、炎が消えるまでを見届けることにした。
混沌の輪に入りたがる者、静観を崩さぬ者、それぞれが久方ぶりに夜に灯ったあかりを享受する中、最初にその輪から抜け出したのは、火付け役である女苑であった。紫苑を連れて、空へと昇った。空はからりと晴れていて、星々が瞬いていることに気づいた。
燃え盛る火を俯瞰で眺めると、急に万能感がわいてきて、まるで神様になった気分だと、女苑は思った。
「あ、私、神様だった」
神様の悪戯だ。この炎は、夜を忘却してしまった人間への施しなのだ。女苑がふざけてそう言うと、紫苑は少しだけ沈黙した。なぜこんなことをしたのかと問い詰めるか、破滅を望みたがる心境を尋ねるか、幸せを奪うのが疫病神らしくて素敵だと皮肉を吐くか、言いたいことは山ほどあったが、そのどれもがガラス片となって、女苑の心を傷つけてしまう気がして、かけるべき言葉を見失った。
赤子や貧乏神のままの紫苑のような持たざる者のつぶやきは、風と同じで耳を撫でるだけだが、一度成功もしくは没落を経験した者の言葉は、確かな重量を持って、肺を潰すように圧し掛かる。決して経験則ではないが、紫苑はそのことを直感的に理解していた。
むせかえるほどの熱気の中で、紫苑は惚けたようにこう言った。
「あったかいね、もう春も終わるんだ」
まるで季節の移ろいにふと気づいた俳人の如く、間の抜けた風流人を演じて、のんきにおどけてみせた。梅雨が明け、夏が目の前に来ていた。
「そりゃあ終わるわよ。姉さん、ずっと寝てたから気づかなかったでしょ」
「うん、ずっと夢の中にいた」
女苑はあははと笑った。そして、そのうち、姉の優しさに気づいて、悲しくなってきた。気をつかって欲しくなかった。甲斐性なしで、自堕落で、施しを待つばかりの小鳥のように強欲ないつもの姉ならば、きっと自身の浪費の業に巻き込みながらも、高らかに笑って強がることができただろう。女苑は涙を堪えた声で、生まれて初めて心から謝った。
「姉さん、ごめんね、ずっと夢の中なら良かったのにね、ごめんね」
紫苑はまた沈黙してしまった。辛そうな妹にかける言葉などあるはずがなかった。怒っても、許しても、きっと悲しむのだろう。どう転がってもすべてを失う以外、ありえないのだ。
「どうしたの、なんで泣いてるの」
紫苑はおどけてみせることしかできなかった。ただ傍らで、突き放すでも抱きしめるでもなく立ちすくみ、どこまでも憑いていくだけ。たとえ破滅の道を辿ったとしても、それが紫苑の業であった。
「燃えてる、燃えてるねえ。雨も降らないねえ」
女苑はうんと頷いて、眼をこするのを止めた。
涙はすぐに枯れ果てた。炎がすべてを包み込んでしまった。
その後も、姉妹は燃え盛る炎をじっと見つめていた。
炎は一晩中燃え続け、朝が来る頃、強大な太陽から隠れるように鎮火した。周りには誰もいない。朝が来たから、皆、家に帰ったのだ。帰る家がないのは、貧乏神と疫病神の姉妹だけだった。
女苑はかつてあばら家だった場所に積もった灰の山を蹴飛ばした。去来したのは虚しさばかりで、後悔は胸の内に巣食っていたが、それでも構わなかった。
「あーあ、家なしの根なし草ね」
「女苑のせいだけどね、あーあ、せめて布団だけでも避難させるとよかった」
紫苑もようやく気をつかわずに話ができるようになっていた。
「ごめんって。まあ姉さんはどこでも寝れるでしょ」
「まあね。ほら、一緒に寝る?」
冗談めかして、紫苑は自身の丸みを帯びた太ももと尻をぺちぺちと叩いて見せた。
「やあよ。硬そうだもん」
「ひどいなぁ」
「今度いい枕買ってきたげるから」
「わかった。果報は寝て待つことにする」
紫苑は渇いた声でけらけらと笑っていた。とびきりの闇を混ぜたサファイアのように濁った瞳で、ありもしない夢想を見つめる彼女が、女苑にしてみれば希望に満ちた姿よりもよっぽど愛おしかった。
女苑は適当な住居を確保したら、真っ先に寝具をそろえることに決めた。
ハルシオンは独り占めするつもりだった。一つ拾って、一つ捨ててしまう悪癖、それを抑えるつもりは毛頭ないが、それでも、初めから持っていた姉とのつながりだけは、決して手放すものかと、今は何もない掌を閉じ、拳を固く握りしめた。
あの夜を経て、自然とハルシオンを欲する者は減った。あの強欲な炎は睡眠の信仰心すら喰らって灰に変えてしまった。さらには女苑が頑なに売らなくなったので、どうしても眠りたい者は永遠亭で睡眠薬を買い求めるようになった。それに伴って紫苑の身体も痩せていき、以前の貧乏神然とした様相に戻っていった。紫苑は、そのことに不満はあれど、もう一度、自ずからハルシオンを作る気にはならなかった。
喧しい夜の原因が追究されることはなかった。火事は異変ではないからだ。火付け役が居ただけで、それは些細なことだった。周りに燃え移る建物がなかったことも幸いした。あれだけ炎の近くに人が集まったというのに、火傷を負った者は極々少数であった。
春が過ぎれば夏が来る。季節が幾度となく巡るように、すべては円環の中にある。朝を迎えるため、人々はそれぞれの夜を過ごすようになった。眠る者、彷徨う者、矮小な春を売買する者、真夏の熱帯夜に情緒を見出す者、各々が夜を使い果たすために必死だった。
夢で見たまほろばは一夜で消え失せるが、うつつの炎は瞼の奥に焼き付いて離れない。一晩の馬鹿騒ぎが脳神経までを火傷させ、消えない記憶として残った者も大勢いて、彼らは機を持ちながら、夜の里を徘徊していた。
人が初めて火を支配した時、闇を克服した喜びで、同じような宴が行われたのではないだろうか。ならば、あの宴は喜びの儀式で、暇を持て余した神様がもたらした奇跡なのではないかと、そんなふうに考える者もいた。
破滅の道程には必ず炎が灯る。火傷するほど熱い道標は、どうにも人を虜にしてしまう。女苑も魅入られた一人であった。灰しか残らないことを知りながらも業火に苛まれることを是として、思いを焦がし続ければ、いずれその身に火が灯り、ろうそくのように夜を照らすあかりとなる。女苑はあの夜、火種となった。小さい火種は誰にも気づかれないが、あの宴は間違いなく女苑が生み出したものだった。
一晩の騒ぎは、後に火宴と名付けられ、伝説の夜として語り継がれた。
今宵も自らの春を餌に、裕福な男衆を狙い撃つ。厭らしい視線はむしろ好都合、騙される方が悪いのさ、と甘い罠を仕掛けるのだ。
気配を殺して、薄い雪化粧が消えていない里の道を行き、人を見る。手に下げた鞄が上等ならば結構。手ぶらでもある程度身なりが整っていれば、獲物としては十分だ。女の匂いが残っている男ならさらに良い。キセルをふかしながら、燻っているカモを探した。
手頃な男を見つけると、女苑はキセルをコートの内ポケットにしまい、いかにも悲哀的に声をかけるのだ。
「ねえ、そこのおじさま。ちょっと助けてほしいの」
弱々しくも、蠱惑的な声色で、ほんのわずかに嗜虐心を刺激するように心がける。あからさまだと警戒されるから、先を期待させる程度に留め、忠実な犬に成り下がる気配だけを仄めかす。すると大抵は上手くいった。
「おお、どうしたんだい」
優しそうな下卑た声を聞いて、女苑はほくそ笑むのだった。
そして女苑はまた一人、破滅へと追い込んだ。今夜のカモはあまりにも隙が大きかった。見栄っ張りかつ頭に血が上りやすい性格で、タガが外れると見境なく富を振舞う間抜けである。春の夜長に吹く風には、どうにも気と財布のひもを緩める作用があるらしい。今まで羽振り良く生きてきたのが不思議なくらいであった。二つばかり夜を越えて、彼はすべてを吐き出した。疫病神と出会って二度目の零時を迎えた頃に、完全な無一文になっていたのだ。
女苑はそのまま夜中まで開いている居酒屋に行き、儲けた金で料理と酒を買った。彼女の姉である依神紫苑への差し入れである。女苑は気分が良くなると、こうやって最愛の姉に豪勢な食事をご馳走していた。持ち帰りの料理ができるまでの間、お通しの枝豆で一杯だけ日本酒をやった。ほんの少しのアルコールは火に注いだ油のように、高揚感を煽った。
紫苑は現在、里の外れにあるあばら家に住んでいた。周囲には何もなく、里の端にぽつねんと佇むあばら家は、割れた窓から隙間風が我が物顔で、まるでそこに遮蔽物など何もないとでも言いたげに容赦なく入り込み、ひとたび雨が降ればそのにおいと湿り気が建材に染み込んで、キノコとの共生を強制されるような有様である。近寄る者は皆無であり、幽霊ですら憑りつかないであろうこの家宅は、紫苑と女苑が里の若者から巻き上げたものだった。持ち主であった小金持ちの若者が居たのだが、あろうことか無知で好色家な彼は、依神姉妹を招き入れてしまった。不幸の種が芽吹き、素朴で可憐な花が咲いてしまうと、若者はあれよという間に奈落へ落ち、たったの三日で失踪した。行方を知る者はなく、土地と家宅だけが残った。活発に行動する女苑は住処を必要としなかったが、春眠暁健忘症の紫苑はその家に居着いた。管理が杜撰なものだから、一週間も経たないうちに、家宅はあばら家になり果てたのだ。
魚も虫も神も仏もへちまも眠る丑三つ時、手土産を持った女苑は、あばら家の扉を威勢よく叩いた。無論、夜中であるため紫苑が出てくるはずもない。
「姉さーん。入るわよ」
上機嫌の女苑は家に入るなり、火のついてない囲炉裏の傍で寝ていた紫苑を叩き起こした。
「んあ。女苑、何?」
「収穫よ、乾杯しましょ」
女苑はビールと日本酒の瓶を取り出した。きつけ薬だと言って、ビールをコップになみなみと注いだ。それを起き掛けにぐいと呑んだ紫苑は、咽が冷たく熱される感覚と、その苦みでたちまち目が覚めた。
「苦いよぉ」
「ほら、肉」
「うま」
「ほいビール」
「うま」
若鳥の山賊焼きに小さい口で噛みつき、肉の欠片を数度だけ咀嚼してからもう一度ビールを飲むと、苦みは清涼感をもたらす快楽に変わった。延々と繰り返せるような気がする。堕落の駄肉はこうやって蓄積されていくのだろう。しかし、もう一口肉をかじったところで、紫苑は満腹になってしまった。彼女の虚弱な胃袋では、贅を受け入れることは叶わないのだ。仕方がないので、日本酒に切り替え、キュウリの浅漬けをかじりながらちびちびとやった。
そんな、幸福そうなのにどこまで行っても貧乏な姉を見ながら、女苑はビールをひと瓶開け、つまみを貪り、盛大に酔っ払った。
紫苑に対してだけだが、時折、女苑はこのように、何の打算もなく羽振りが良くなることがあった。それは姉の体質や存在理由に同情しているのもあるが、やはり姉妹というつながりが、幸を分け与える十分な理由になっていた。
浮世の殺気立つ毒を流すには酒か泡が良い。女苑にとって手っ取り早いのは酒であって、解毒の快感を分かち合うことができ、しかもその姉は、無限の貧困という恐るべき毒に苛まれ続ける宿命である。延々と管を巻き続け、酔生夢死に浸ることは幸福に違いなかった。女苑は一晩中呑み続けて、死んだように眠った。
あばら家の窓からぼんやりと光が差し込み、わずかに意識を取り戻す。生と死の狭間にいるような感覚、この時間は睡眠という過程の中で最も尊く、心の内側に楔のように刻み込まれる心地良さがある。小さく囁く悪魔が宿るとすれば、間違いなくこの瞬間だ。起きる理由が見つからない女苑は、ゆっくりとまどろみに呑み込まれていく。
鼻孔をくすぐるイ草のにおいと、後頭部を支える柔らかい感触が、どこまでも心地良い。眩しい光から逃れるために、目を瞑ったままにしておくと、それらは他の感覚器へ、もっと寝ようと訴えかける。春にうつつを抜かす喜びを、引き延ばされた時間の中で、まどろみながら享受する。
時間が長いようで短い。目が覚めたと思ったら一時間が経っていて、もう一度目を瞑ると、今度は十分後に覚醒の波がやってくる。酔いに近いが、酔いよりも健康的である事実が、さらなる堕落へと導いた。睡魔の声はあまりにも蠱惑的である。
女苑が目を覚ましたのは、夕方頃であった。しぱしぱと瞬きをして、朱色の陽光に慣れると、下腹部の違和感を抱き、ようやく起きる気になった。
「寝すぎたわ」
そう言って腹筋に力を込めて起き上がる。これほど長く眠ったのはいつ以来だろうか、よほど疲れていたに違いない。そう思いながら厠へ向かった。
深酒をしたにも関わらず、吐き気やめまいが全くないのは、良質な睡眠がとれていた証拠だろう。厠から戻って、洗面所で手を洗うついでに顔で冷水を浴びた。ぼんやりとした思考は、一瞬で霧払いされ、意識が冴える。生きる活力がわいてくるのを感じた。今日も夜へと繰り出して、間抜けな猿顔から金を搾取し、そしてそのあぶく銭でまた小さな宴会を始めるつもりだった。
紫苑に出かけることを伝えようと、女苑は部屋に戻ったのだが、そこである種の違和感を抱いた。先ほどはぼんやりとして気づかなかったが、明らかにこの部屋に漂う空気が淀んでいて、その淀みは春の陽気を取り込んだ布団のように妙に暖かいのだ。
紫苑はその中心で腹ばいになって眠っている。周りには食い散らかした食べ物の皿や、酒瓶が転がっているだけで、その他には何もない。
「あれ、私、どこで寝てたんだっけ」
随分と長く眠っていたが、寝心地のよさそうな布団もなければ、頭部に感じたあの柔らかい感触を持つ枕もない。唯一、あるとするならば……
「もしや」
女苑はうつぶせで眠りこける紫苑の尻に、後頭部を乗せて、目を瞑ってみた。
その瞬間、睡魔が囁いた。さあ深いところへ落ちよう、と甘美に優しく耳を撫でた。汗を吸った古臭いイ草のにおいが立ち、不思議と心を宥めた。
女苑ははっとなって、誘惑を遮断し、飛び起きた。
紫苑の尻には、睡魔が宿っているというのか。あの寝心地の良さは、姉の尻のなせる業だというのか。
ぷにぷにと指で突いてみる。寝息を漏らすばかりの姉は、一向に起きる気配がない。一晩中、女苑の頭を乗せていても目覚めなかったのだ。
紫苑の尻の感触は、最高級の枕と同じだとでも言うのか。否、それは考えにくい。憐れみを抱くほど華奢な肉体で、尻のあたりが人並みと呼べる程度であり、安産型というにはおこがましい、謙虚な体型なのだ。確かに、富と名声を抱きしめるために肥大化した男の腕に比べれば、よっぽど上等ではあるが、それでも、値の張る良質な枕に比べれば、寝心地が良いとは到底思えない。つまり感触だけではないのだ。
尻というよりは、紫苑全体に漂う負のオーラ、古いイ草のにおいを発するそれが、人を眠りに誘うのだ。働く意欲を無くし、胎児が浸かる羊水のように暖かな夢の中へと閉じ込める。結果、堕落してしまう。人を不幸にする貧乏神の力によるものであった。
女苑は姉にそんな力があるとは知らなかったし、当の紫苑も自覚はしていない。まったく生産性のない能力であったが、女苑はふと商売の方法を思いついた。
「これは、眠り薬に使えるかも」
言葉よりも先に手が出る女苑である。思いついたら行動は早かった。まずは布屋に行って、とりあえず店先に並べてある分のきんちゃく袋を買い占めると、そのまま呉服屋に行き、小さな紫陽花があしらわれた浴衣を購入した。そしてあばら家に戻ると、丁度紫苑が起きていたので、買ってきた服を差し出してこう言った。
「姉さん、においひどいよ。買ってきたからさ、着替えたら」
「わ、ありがとう女苑。なんかこれ可愛いねぇ」
薄汚れたパーカーを脱ぎ、素肌に羽織るだけの簡素な浴衣に着替えると、化粧もしていないというのに、たちまち美人になったように思えた。彼女の華奢な体躯には、浴衣が良く似合った。
「似合ってるわよ」
「本当?」
「ええ、とても」
嬉しくなったのか、夜だというのに珍しく紫苑は外へと出かけて行った。天人に見せびらかすつもりだった。後ろ姿だけを見ると、里のうら若き乙女のようである。貧乏神でなければ、嫁の貰い手も現れるだろうに、などとみじめな父親のような思考回路に陥りながら、女苑は作業を始めた。
紫苑が脱いだパーカーとスカートを小さく切った。
「うえ、くさ」
はさみを入れると、布にしみ込んだ汗のにおいが鼻を刺し、気分が悪くなったが、それでも何とか堪えた。三寸程まで小さくなった布を丸め、きんちゃく袋に入れた。服のまま直接吸引すると流石にきついが、こうやって小さくして、におい袋にしてしまうと、むしろその芳香は線香のような、癖になる親しみやすさを持つようになった。
まずはそのにおい袋を三十個作った。
「いよおし、売りさばくわよ」
標的は、夜に囚われた人間たちである。眠れぬ夜をごまかし、朝を待つ苦痛に耐えるため、外へと繰り出す哀れな者たちに、惰眠という名の安らぎを与えるのだ。丁度良い小遣い稼ぎになるかもしれない。金になるようであれば、今の姉の服がボロボロになった時に譲り受け、におい袋に変えてしまおうと思った。
女苑は儲ける。紫苑は新しい服が手に入る。両者両得である。
「商品名、どうしようかな」
名前は重要である。ブランド化した時に模造品が出回らないよう、唯一無二を示すために必要なのだ。顎に手を当てて、考えた時、ひゅうと春の夜風があばら家を素通りした。
「良し、まんまだけど春紫苑、いや、片仮名にしてハルシオンにしよう。薬っぽいし、偽物感がいい感じじゃないかしら」
ハルシオンの売れ行きは上々であった。眠れぬ夜を過ごす者たちにとっての特効薬だった。
永遠亭の置き薬としての睡眠薬はいくつか出回ってはいたが、何せ古い慣習を好む風土であるから、薬で眠るということに抵抗感を覚える者が多く、里には普及していなかったのだ。科学に基づいた薬剤に比べ、ハルシオンはお守りやお札に近く、枕元に置くだけで効果を発揮するから、神通力を重んじる里の文化に馴染みやすかった。睡眠というものは自然に任せて、十分な量と質を確保することが肝要であるため、猜疑心や恐怖を抱きながら合理的な薬剤を飲むよりも、お守り一つで安堵を得られる方がよっぽど身体に良いのだ。そのことは竹林の薬剤師である永琳が、良くわかっていたため、無理にハルシオンを否定することはなかった。元々、睡眠薬はそこまで売り上げにつながっていなかったのだ。
女苑は大した宣伝もしなかったが、ハルシオンは言伝で広まり、定期的に買い求める声が聞こえるようになった。
儲けた金で女苑は姉の新しい服を買った。紫苑は喜んで古い服を脱ぎ捨て、新しくて華々しい服を着た。それを繰り返し、ハルシオンを生産し続けた。一張羅がボロボロになるまで、女苑は決して新しい服を買い与えなかった。必然的に、同じ服を毎日着るしかなかったので、いかに新しく上質な素材の服でも、すぐに薄汚れた色に変色してしまうのだ。
儲けた金でご馳走を買って、姉妹は二人だけの小さな宴会を何度も行った。
ある時女苑は酒に酔ってふと口を滑らせたことがあった。
「いやぁ姉さんのおかげね。もうがっぽがっぽよ」
「ん-、いや女苑はすごいよ。よく売れるなって思うもん」
紫苑は自身の服が商売に利用されていることには勘づいていたが、それを咎める理由もなかった。詳細を知らないため、マニアックな変態が居るものだ、という認識だった。あまりに自然な流れであったため、女苑は商売に利用している事実を隠していたことさえ忘れてしまい、そのあたりはいつの間にか、いい加減になっていた。
紫苑はビールを一口飲んで、こう呟いた。
「ずっとこんな生活が出来たらいいのに」
「まあ、難しいんじゃない」
女苑はにべもなくそう答えた。これが一過性のものであると、なんとなく思っていたから、厄介な誰かに目をつけられる前に撤退しようと考えていた。女苑は金儲けに関しては慎重であった。
しかし、女苑の想像とは裏腹に、ハルシオンの売り上げは伸び続けた。噂を聞きつけた夜行性の人間たちは、陽光の下に戻りたいという一心で、ハルシオンを買い求めた。案外、夜から逃げ出したい人間は沢山いるのだと知って、女苑はそこに付け込んだ。
噂は人から人へ、そして人から妖怪へと、波紋のように広がった。紫苑を気に入っている天子の耳にもその情報は入ってきて、試しに使ってみたところ、睡魔に囚われ、堕落する寸前に陥った。暁どころか昼すら忘れ、逢魔が時が過ぎ去るまで、ひたすらに眠りこけてしまったのだ。天人午睡である。
天子はハルシオンを悪戯の道具として、紫に送り付けた。しかし、元からよく眠る紫は、睡眠信奉者であったため、ハルシオンを大層気に入った。
「嗚呼、素晴らしき哉。深き射干玉の夜が降りてくるようだわ……」
さらに深く、さらに暗く、睡眠の心髄に至るには、欠かせない道具と化した。紫はハルシオンを定期購入し始めた。賢者のお墨付きを得たのだ。
儀式に使用される大幣や札、扇などが、次第に神とつながる糸になるように、ハルシオンは睡眠を司る神への道を示す媒体となった。そして、そのハルシオンを生み出した紫苑は、睡眠の神として崇められるようになった。ギリシャにはヒュプノスが居るが、日本には睡眠を司る神は存在しない。強いて言えば、大国主は夢の世界も支配していると言われるが、彼の持つ側面はあまりに多岐にわたっており、より具体的な柱として祀り上げるのならば、紫苑の方が適任であった。
「おお、神よ。我々に安らかな眠りを与えたもう!」
紫苑の住処を探り当てたある男は、あばら家に向かって祈りを捧げた。神々しい場所があると、そこの隙間を見つけて、矮小な己の想いを乗せた小銭を詰め込みたくなるのが人の性であるようで、彼は賽銭箱の代わりに、いくつも開いている壁の穴に、小銭を放り込み始めた。一人が先陣を切ると、誰もが真似をし始める。いつの間にやら、あばら家は神社と同じくらい神聖な領域と化していた。周囲に何もなく、また森がすぐ近くにあることも相まって、あばら家の一帯には自然信仰に近い神秘性が付与されていた。
「いて」
紫苑の頭にこつんと小銭が当たった。恵みの雨によって惰眠を邪魔されたので、不愉快さと喜びが同時にわいてきて、紫苑はその感覚を消化できずに戸惑うばかりであった。だが、何度かそれが続くと慣れるようで、次第に小銭が当たらない位置を見つけ出して、そこで眠るようになった。
「うふふ、金の山だ」
理由はわからなかったが、賽銭が投げ入れられるという事実だけに注目していたので、大して気にすることもなかった。そう言う巡り合わせもあるのだろう、今まで積み重ねてきた不幸を帳消しにするべく、自然の恒常性が働き始めたのかもしれない、と適当に考えていた。
ぼんやりとした意識で、触れ合う硬貨の音を聞き、積み重なる富を眺め続けた。寝ても覚めても夢見心地である。これほどに幸福を感じたことはなかった。紫苑はのそりを起き上がると、その小銭の山を集め、財布など持っていなかったから、転がっていた酒瓶に詰め込んで、外へと繰り出した。
そして食料と酒を購入して、さらには普段なら手を出せない嗜好品である紙巻き煙草と、それに火をつけるためのマッチを買った。
「今日は私がスポンサーだ」
思い浮かべたのは女苑の驚く顔であった。たまには姉らしいところを見せたいと、貧乏神とはかけ離れた欲求がわいていた。
あばら家に戻ると女苑が居て、また新しい服を買ってきていた。
「あ、おかえり姉さん。じゃーん。こんなのも似合うと思ってね」
女苑はどこで手に入れて来たのか、真っ白なワンピースを持っていた。飾り気はないが、その分清潔さが肝となる、以前の紫苑には着こなせない服であった。
「ただいま。こっちも、じゃーん。いろいろ買ってきたよ」
「え、どういうこと。私のへそくり盗んだ?」
薄情ながら、小遣いは与えていない(与えたところで何らかの不幸が重なって使えない)ため、女苑は不思議に思った。紫苑がいきさつを説明すると、女苑は目を丸くした。
「じゃあ姉さんの信者ができたってわけなのね。確かに飛ぶように売れるけど、信仰されるまでなんてね」
「え、どゆこと」
ここまで来たら適当にはぐらかすわけにはいかないと、女苑はハルシオンで儲けていることの詳細を述べ始めた。今度は紫苑が目を丸くして聞いていた。驚いてはいたが、不快感はまったくなく、むしろ妹の商才に感嘆符を漏らすばかりであった。
「なんかごめんね。黙ってて」
「別にいいけど。へえ、私の服が。なんか照れるね」
「だけど、もう潮時かもね」
「え、なんで」
「今の姉さんの服、大して汚れてないもの。最近ちょっと裕福になったからか、力が弱まっているのかもしれないわよ。無尽蔵ってわけでもないみたいだし」
「ふうん。なんか残念だなぁ」
「まあ引き際は大事よ。行きすぎると、戻れなくなるわ。何事もだけど」
多くの人間たちが、紫苑の力によって堕落していく様を眺めるのは痛快であった。神の力を存分に誇示しつつ、しかも、誰にも咎められないというこの状況が滑稽であり、欲の底を覗き込んだような愉悦を女苑は感じていた。しかし、番犬のように付きまとう危機感が、彼女の冷静さを失うきっかけを奪ってしまった。女苑は金を手にした時、自身が踊り狂って自殺する様を想像してしまう癖があり、そうならないよう努めてきた。浪費癖はその臆病さの表れでもあり、今は引き際を考えていた。
「まあいっか。とりあえず今日は飲もうよ。せっかく買ってきたんだから。この私が、お姉ちゃんが」
「そうね、ありがと。姉さん」
自慢げに話す姉の姿を見て、女苑はなんだか微笑ましいと感じた。先のことを危惧していても仕方がない。神や妖怪は長い寿命を持つ分、刹那に生きるのだ。今宵は存分に酔っ払って、楽しもうではないか。
姉妹はまた二人だけの宴会を始めた。ビールで乾杯し、つまみの焼き鳥を頬張った。紫苑は煙草に初めて火をつけてふかしたが、むせてしまった。病弱な肺は煙すら拒むようだった。
「げほっごほっ」
「慣れないことするから」
「うえ、もうやんない。あげる」
「ええー好きな銘柄じゃないんだけどな。まあ貰っとくけど」
紫苑が買ってきたのは天国に一番近い煙草とも呼ばれるラッキーストライクであった。Luckyの文字に惹かれたらしい。
基本的には女苑はキセルを嗜むため、紙巻き煙草は呑まないのだが、何せ姉からの初めての贈り物である。嬉しさをビールで濁し、女苑はコートの内ポケットに煙草の箱をしまった。
女苑の予想は外れ、ハルシオンの売れ行きは留まるところを知らず、向かうところ敵なし、竹を破る勢いかつ、昇龍の舞の如く、青天井を駆け巡る鳥を打ち落とさんばかりであった。
紫苑の貧乏神としての力は衰えたが、熱狂的な信仰心によって、安眠への導きを司る力が膨れ上がり、紫苑の本質を塗り替えようとしていたのだ。紫苑はそれでも構わなかった。惰性を貪り、空腹をごまかす生活に比べて、食料に満ちた今の生活はあまりに魅力的であった。
住処としていたあばら家は、妄信的で親切な大工たちが結集し、勝手に建て替えてしまった。豪奢とまではいかないものの、神社に似せて造られたその家の佇まいは、有権者の威光をじわりと滲ませるほどには、神々しく様変わりしていた。木造建築であったため、火災や地震などの災害には弱いが、湿度が一定であるため咽を痛めることがなく、巧妙な継手で組まれた壁からは隙間風一つない。
丁度、建て替えが済んだ頃に梅雨となり、霖に打たれたがびくともしなかった。以前のあばら家とは打って変わって、寒さも湿気も気にせず、快適な睡眠を堪能できる環境が整っていた。
ハルシオンの導きによって人々の睡眠時間は増えたが、それによって里が堕落したかといえば、そうでもなかった。夜間に十分な休養をとるため、日中の仕事の効率が増したのである。必然的に活動時間は減ってしまうが、だらだらと惰性で仕事をする非合理的な習慣を廃止しようとする動きがあった。働き方改革である。里には幸いにも権力を振りかざし、下々の者たちを奴隷のように働かせる有権者もなく、また金の力を得るために人を欺くことばかりを考えている狡猾な者も少なかった。金銭の力は外の世界に比べれば、絶対的ではなく、むしろ睡眠欲求は、食事や繁殖と同等に、必要でかつ労働や金銭よりもよっぽど尊いものであるという扱いをされるようになった。元来、睡眠をほとんど必要としない妖怪や人間もいたが、しかし、食事に快楽を見出し、美食を追求するのと同じで、夢の世界に落ちる行為そのものが信仰を得た以上、そういった必要に駆られての睡眠は、むしろ邪道であるとさえ言われるようになった。
夜が好きな異端者は、闇に紛れてコソコソと頭の黒い鼠のように過ごすしかなかった。さらには梅雨が追い打ちとなり、夜雨から逃れるため家に籠ることを余儀なくされた。彼らは夜行性であったが、家で起きていても仕方がないと思い至り、自分を騙すようにハルシオンを買い始めていた。
紫苑はよく眠り、よく食べた。以前は油分の多い揚げ物や、たんぱく質などは胃袋が拒絶して吐き気や下痢に襲われたものだが、食べ続けているうちに内臓が適応したのか、働き盛りの若者と同じくらいは常食していた。おかげで、骨と皮だけと称されるほど華奢だった身体には、むっちりとした女性らしい肉がつき、今や健康体そのものである。
虚ろだった目に光が灯り、希望にあふれた未来を見つめているようであった。
紫苑の眼が柔らかく輝き出した頃、それに伴ってハルシオンの質も変化し始めた。あの汗が染み込んだイ草のような、ひどいにおいがしなくなっていたのだ。だが眠りの神を包む衣が、神の加護を帯びるのは当然で、ハルシオンは変わらず、人々に安眠をもたらしてくれた。
箪笥が必要になるほど服が増え、汚れることが減っていたが、清潔なままでも十分ハルシオンの効果はあった。今では紫苑は毎日違う服を着て、お洒落をする喜びを見出していた。
ある日、子供の夜泣きがひどいと、目に隈をこしらえた母親が訪ねてきた時は、紫苑はその子供に子守唄を歌ってやった。
「ねんねんころりよ、おころりよ」
今まで人前で唄など歌ったこともなかったので、お世辞にも上手いとは言えなかったが、それでも子供は彼女の声に包まれて、唄のゆりかごの中でぐっすりと眠った。
それからは紫苑に子守唄をせがむ者が増えた。夜雀の透き通るような声でも、山彦の力強い声でもなかったが、彼女の唄もまた、夢への導きの役目を背負っていた。
プリズムリバー三姉妹の一番末っ子であるリリカがその噂を聞きつけ、自らの幻想の音と組み合わせようと提案した。
「唄なんてあんまり知らないよ」
「問題ないわ。唄も音も私が考える。あなたは歌ってほしい」
「だけど」
「コンサートをしましょう。それだけで十分、録音なんてしなくても間違いなく里に広がるわ。わらべうたのように、この地に根差す幻想の音色を響かせるのよ。素敵だと思わない?」
熱意を持ってリリカはそう語った。可視化できない幻想の音は、二人の姉の影に隠れて目立たない。それは仕方のないことであると理解していた。だが、自らが奏でる幻想の音は、唄を引き立たせるという意味では、心に浸透するという側面においては、絶対の自信があり、紫苑の存在は、またとない好機のように思えたのだ。姉より一歩先んじる。それがリリカの熱意の理由であった。
女苑がその場にいなかったので、紫苑は迷った。普段ならば、非生産的な行動が根底である紫苑が、積極的に何かを創造することはない。
「うん、わかった。やってみるわ」
「本当? やった!」
だが、この時初めて紫苑は、自らの意思で頷いたのだ。リリカの熱意にほだされた。妹が姉に対して抱く嫉妬など、経験したことがないため、わからなかったが、それでも、彼女の情熱は伝わった。
二人はさっそくコンサートの準備に取り掛かった。作詞作曲、さらには設備と場所の確保に、集客と、やることは山積みであり、またノウハウなど持ち合わせていなかったため、いつ実現できるかの目途すら立たなかったが、それでも、世のため、人のため、そして自分のために何かを生み出すという、貧乏神の本質には反する行為は、言いようもない達成感をもたらしてくれた。
驚くべき程の変貌を遂げた紫苑に対し、女苑はそれほど変わらなかった。相変わらずハルシオンを夜の里で売りさばきながら、裕福そうな男をたぶらかして、小さい愉悦を得ていた。
しかし、最近は夜の里の活気がなくなっていた。星のように煌々と灯っていたがあかりが消え、ぽつぽつと残る残火は、未練を捨てきれない人魂のようで、あまりにも寂しかった。
女苑は二階建ての風呂屋に入り、番台にハルシオンを売った。二階は所謂夜の遊び場になっているのだが、そこを住処とし、精を喰らって露の世を生きる胡蝶たちは今や、ハルシオンによって夢の中に帰ってしまった。ゆえに、まっとうに風呂屋として得た金以外は、得られなくなっていた。
女苑はハルシオンを掌でぽんぽんと弄びながら、嘲笑を込めてこう言った。
「随分としけてるわね。こいつのせいで商売あがったりでしょ」
番台は少しだけ自嘲的に答えた。
「なあに、仕方がないさ。夜は寝るもんだ。悪いことじゃない」
「へえ、よく言うわね。最初は商売を潰すなって言って、私に食って掛かろうとしたじゃない」
「怖かったんだ。寝るのが。何もかも失う気がして。だけど、今はもう怖くもなんともない、むしろ良いことなんじゃねえかな」
失うのが怖いと感じるのは睡眠が死と似ているからだ。睡眠は死のいとこであるとは、外の世界の大都市、ニューヨークで生まれた言葉であるが、死を恐れ、忌み嫌いながらも、その響きに儚げな美を想起し、焦がれてしまうのもまた人間らしさだとするならば、家族でも友人でもなく、いとこという距離感の表現は、存外本質に近いのかもしれない。普通の人間は死を克服することはできないが、それに近い何かを崇拝したり、寄り添うことで親近感を抱いたりするのは自然なことであった。
女苑は沈黙した。彼女が望んでいたのは罵詈雑言か、恨みに満ちた皮肉であった。
「もう帰んな。俺もそろそろ寝るよ」
あまりにも穏やかな返答に、自分が情けなくなって、番台の言葉を聞き終わる前に、女苑は店を出ていた。
寂しい夜を見たくなかったから、欲望が渦巻く夜に逃げ込みたかったから、女苑は走って住処へと帰った。紫苑はまだ起きていて、浴衣姿のまま足を崩して座り込み、ぼんやりと月を眺めていた。紺色の美しい浴衣に、青色の長い髪がしなだれかかり、得も言われぬ妖艶さを醸し出す装いとは裏腹に、その表情は穢れなき月への望郷を秘めたような、あどけないものだった。あまりにも絵になる儚げな姿は、立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花と形容できるほど変貌を遂げていて、彼女が道端の春紫苑だったことが遠い過去のように思えて、女苑はどうしようもない追想の愛を抱いてしまった。
女苑の頬が紅をさした唇のように紅潮していた。泣きそうになって、靴を履いたままふらふらと姉の下へと歩み寄った。
「どうしたの」
「もう、疲れちゃって」
「そっか」
紫苑は正座して、腿をぽんぽんと軽く叩いた。紫苑の浮かべたやたらと柔和な笑みは、女苑にしてみれば苦楽の象徴たる菩薩のように映った。あの蓮の花を幻視した。優しさがどうしようもなく苦しかった。夢の世界への飛翔を行うため、ゆっくりと沈み込むように、紫苑の腿に頭を乗せた。
「ふふ」
腿に感じる確かな重量に、姉ゆえの法悦を見出して、紫苑は笑った。妹が眠るまで、この感触を手放すまいと、唄を歌い始めた。
「子守唄、最近練習してるんだ。ねんねんころりよ、おころりよ」
「……」
女苑は泣きそうになった。姉の声はこんなに美しくも優しくもなかった。姉の太ももはこんなに柔らかくなかった。姉はこんなに積極的ではなかった。姉は決して、私に慈愛に満ちた憐憫のまなざしを向けることはなかった。
「やめてよ!」
このままでは幸福に殺されてしまうと、そう思った。女苑は跳ね起きて、乱暴に玄関の扉を開けて、夜へと消えていった。
紫苑は戸惑うばかりで、何も言えなかった。追いかけるような真似はせず、持ち前の愚鈍さを発揮して、しばらく惚けたように女苑の行動の意味を考えてから、理解を諦めて眠ってしまった。妹の激情など、姉が知る由もないのだ。
紫苑は油の厭なにおいで目を覚ました。外はまだ暗かった。この時間では、起きるはずがないのに、なぜ目を覚ましたのか、わからなかった。布団からのそりと這い出ると、女苑が目の前にいて、家にいるのに寂しそうに立っていたので、なんとなく胸騒ぎがした。
「あ、起きたのね。丁度良かった。起こそうと思ったのよ」
「どうしたの」
「ううん、煙草でもふかそうと思ってね」
女苑は淀みない手つきで、コートの内ポケットから煙草の箱を取り出した。紫苑が渡した、好みではないと言ったあの煙草だった。一本を口にくわえ、マッチを擦り、火をつけた。
行動と言葉の意味がわからなくて、紫苑は困惑したが、女苑はどこ吹く風と言った調子で、煙を吐き出した。窓が開いていて、風が入ってくるものだから、その煙は風になびいて、外へと逃げた。
「夜は寒いわね」
女苑はそう呟いて、火のついた煙草をピンと指で弾いた。その仕草がやけに自然で、紫苑は女苑の行動が意味することに一抹の疑問も抱かなかった。
煙草はぽとりと落ち、メラメラと畳を燃やし始めた。その炎があまりにも激しく燃えるものだから、紫苑は一瞬惚けたように固まってしまった。
「え」
困惑の表情を浮かべた頃には、瞬く間に煙草の火は畳を焼き、植物が根を張るように領域を広げていった。夜風の煽りを受けたどこまでも情熱的な炎は、貪欲な蛇が獲物を呑み込むかのように、家の富を焼き尽くさんと、猛り狂った。今まで買った沢山の服も、貢物の食料も、それらを守る家すらも、火を肥やすための燃料であった。
「あ、あ、燃えてる、燃えてるよ」
慌てる紫苑を尻目に女苑は、水は下にしか流れないが、火はどこへでも行けるものだと、そう思った。そして、それは我々と同じだと、そう思った。
「逃げよう。姉さん」
紫苑の手を掴み、女苑は意図的に作った逃げ道を駆け抜けた。
裸足のまま外へ出て、振り返ると、煌々と光を放つ家は、真っ暗な闇を照らす唯一のあかりになっていた。
すべて女苑の仕業だった。女苑は服や紙、畳など燃えやすそうなものに油や酒をぶちまけ、酸素が供給され続けるように窓を開け、なおかつ玄関までの逃げ道を作り、そして火をつけたのだ。
「ああ、ああ。燃えちゃうよ。服が、ご飯がぁ」
紫苑は涙目になっていた。怒りの果てに湧き出す涙というものを初めて経験した。奇行を働く妹への怒りは爆発寸前だった。世界や運命と言った漠然としたものを呪うことは何度もあったが、妹を呪いたくなったのは初めてだった。唇を噛み締め、憤怒と侮蔑を込めた眼で睨みつけたが、そこには悪びれもせず、けらけらと渇いたように笑う女苑の姿があった。
女苑はまず指にはめたダイヤの指輪を一つずつ外し、火の中に放り込んだ。
「あはは、ダイヤモンドは良く燃えるわね」
宝石をすべて放り込んだ後は、羽織っている毛皮のコートを脱いで、火にくべた。
「熱いわ、こんなものいらないわね」
さらには肌着とスカートまで脱ごうとしたものだから、紫苑は止めるしかなかった。
「やめて、ダメだよそんなことしたら……」
紫苑に押さえつけられた女苑は、乾いた笑いを止めて、大きく叫んだ。
「いいじゃない! どうせ誰も見てないわ。皆、夢の中だもの!」
じたばたと藻掻く女苑を押さえつけているうちに、紫苑は怒りを忘れてしまった。
女苑は炎のようにどこまでも欲深で我儘だった。過食嘔吐を繰り返す中毒者のように、ため込んだ富を吐き出したくて仕方がないのだ。姉が変貌する様に我慢ならなかったのだ。そして彼女は、その感情を抑える術を知らなかった。
自然と涙が溢れ出た。理性を保ちながら、決して欲望に抗えない自分自身に、侮蔑と憐憫を向けつつも、溢れ出る涙を止める程度の潔さも彼女は持ち合わせていなかった。
「起きろよ皆、夜だぞ。ちくしょう……」
「女苑……」
そして、紫苑も女苑を咎めることはなかった。不幸を容易く受け入れること、神の本質が変化しかけていても、そこだけは揺らぐことがなかった。先ほどの怒りは自然と霧散した。すべてを失うことも、空腹と隣り合わせで過ごすことも、紫苑は辛いと思いながら、抗うことをしなかった。たとえ積み上げてきた砂の城が、一瞬で無に帰されようとも、そんな気まぐれな風を受け入れた。
沢山のものを失っても、女苑とのつながりだけは断ち切れない。彼女の欲にどこまでも付き合う。たとえそれが破滅への片道切符だとしても、紫苑は構わなかった。
女苑は大きく息を吸い込んでから、唐突にこう叫んだ。
「Wake Up People!」
そして続けざまに出鱈目な歌を歌い始めた。拡声器はない、メロディも音階もない、咆哮に似た歌を、唾をまき散らしながら叫んだ。
紫苑は囃すように手拍子を始めた。けたたましいばかりの歌にズレたリズムが加わると、それは一つの音楽として、歪ながら完成した。
炎のように産声を上げた夜の歌は、炎と共に辺りを照らし、のんきに眠る人間たちを春一番のように叩き起こした。
「火事だ、火事だ!」
「燃えてる、燃えてる!」
「誰だ、誰だ、歌うのは誰だ!」
「火消はどこだ、誰もいないのか!」
戸惑いと共に目覚めた人間たちは、混乱の輪を広めることに躍起になり、徒に騒ぐばかりであった。紫苑の眼には、誰もが炎を祝福しているように映った。この熱気は、以前経験したことがある。プリズムリバーのライブで、会場のボルテージが最高潮に達した時に似ている。ライブの一体感はないが、銘々に盛り上がる様だけは、同じだった。
「前衛的なことやってんね!」
リリカがやってきて、女苑の歌に幻想のメロディをつけた。子守唄の作曲ができたので来てみたところ、あまりにも熱量のあるライブが開催されていたので、飛び入りで参加したのだ。幻想のメロディは、大衆の鼓膜から潜り込んで脳を揺らした。誰かが脳に連動して体を揺らすと、周囲の皆も呼応して、出鱈目な踊りが始まった。
百鬼夜行の宴のように、炎に誘われて輪に入ろうとする住民を次々と取り込み、狂気の円環はさらに拡大した。現場を鎮めるためにやってきた自警団もその宴に組み込まれていた。
騒ぎの鎮静化に尽力するつもりだった慧音は、暴徒たちへの頭突きを延々と繰り返した。
「こらぁ! 貴様ら! 踊るのを止めんか!」
荒々しく叫びながら頭を振るその様は、まるで音楽に合わせてヘッドバンキングしているようである。ワーカホリック気味だった彼女は、この頃十分な休養を取れたので、体力を持て余していたのだ。暴力に訴えかける彼女のやり方は、火に油を注ぐばかりであったが、聡明なはずの慧音は知らないふりをして、正義の御旗の元に、頭を揺らし続けた。
騒ぎを聞きつけた小鈴が、阿求を誘って一緒にやってきた。小鈴は火を見て恐れ戦き、逃げ惑う民衆を演じていたが、本心では惨状を楽しんでいた。己が身に降りかかる火の粉以外、振り払う必要があるのだろうか。薄情と知りながら、小鈴は騒ぎの一端に加わろうとした。
「阿求、阿求! ヤバいって、これ! 燃えちゃう、全部燃えちゃうよ! 逃げなくちゃ!」
はしゃぐ小鈴を尻目に、阿求は絵仏師良秀の如く、感嘆の思考にふけりながら、ゆらゆら燃ゆる火を眺めていた。
「何を慌てているのよ。儲けものじゃない。私、絵が下手なんだ。特に炎は全くだめでね、ほら煙々羅とか、そう言うの、今度上手く書けそうだよ」
のんきにそう言う友人にあっけにとられた小鈴は、なるほどと納得し、幾千もの修羅場を潜り抜けた老女の諦念と、まったく同じ胆力を発揮した。
「それもそうだね。だけど凄いなぁ。こんな炎初めて見たかも」
小鈴は急に慌てふためいた自分自身が恥ずかしくなった。阿求の隣で、まるで夜空の月を眺めるかのような情緒を噛み締めながら、炎が消えるまでを見届けることにした。
混沌の輪に入りたがる者、静観を崩さぬ者、それぞれが久方ぶりに夜に灯ったあかりを享受する中、最初にその輪から抜け出したのは、火付け役である女苑であった。紫苑を連れて、空へと昇った。空はからりと晴れていて、星々が瞬いていることに気づいた。
燃え盛る火を俯瞰で眺めると、急に万能感がわいてきて、まるで神様になった気分だと、女苑は思った。
「あ、私、神様だった」
神様の悪戯だ。この炎は、夜を忘却してしまった人間への施しなのだ。女苑がふざけてそう言うと、紫苑は少しだけ沈黙した。なぜこんなことをしたのかと問い詰めるか、破滅を望みたがる心境を尋ねるか、幸せを奪うのが疫病神らしくて素敵だと皮肉を吐くか、言いたいことは山ほどあったが、そのどれもがガラス片となって、女苑の心を傷つけてしまう気がして、かけるべき言葉を見失った。
赤子や貧乏神のままの紫苑のような持たざる者のつぶやきは、風と同じで耳を撫でるだけだが、一度成功もしくは没落を経験した者の言葉は、確かな重量を持って、肺を潰すように圧し掛かる。決して経験則ではないが、紫苑はそのことを直感的に理解していた。
むせかえるほどの熱気の中で、紫苑は惚けたようにこう言った。
「あったかいね、もう春も終わるんだ」
まるで季節の移ろいにふと気づいた俳人の如く、間の抜けた風流人を演じて、のんきにおどけてみせた。梅雨が明け、夏が目の前に来ていた。
「そりゃあ終わるわよ。姉さん、ずっと寝てたから気づかなかったでしょ」
「うん、ずっと夢の中にいた」
女苑はあははと笑った。そして、そのうち、姉の優しさに気づいて、悲しくなってきた。気をつかって欲しくなかった。甲斐性なしで、自堕落で、施しを待つばかりの小鳥のように強欲ないつもの姉ならば、きっと自身の浪費の業に巻き込みながらも、高らかに笑って強がることができただろう。女苑は涙を堪えた声で、生まれて初めて心から謝った。
「姉さん、ごめんね、ずっと夢の中なら良かったのにね、ごめんね」
紫苑はまた沈黙してしまった。辛そうな妹にかける言葉などあるはずがなかった。怒っても、許しても、きっと悲しむのだろう。どう転がってもすべてを失う以外、ありえないのだ。
「どうしたの、なんで泣いてるの」
紫苑はおどけてみせることしかできなかった。ただ傍らで、突き放すでも抱きしめるでもなく立ちすくみ、どこまでも憑いていくだけ。たとえ破滅の道を辿ったとしても、それが紫苑の業であった。
「燃えてる、燃えてるねえ。雨も降らないねえ」
女苑はうんと頷いて、眼をこするのを止めた。
涙はすぐに枯れ果てた。炎がすべてを包み込んでしまった。
その後も、姉妹は燃え盛る炎をじっと見つめていた。
炎は一晩中燃え続け、朝が来る頃、強大な太陽から隠れるように鎮火した。周りには誰もいない。朝が来たから、皆、家に帰ったのだ。帰る家がないのは、貧乏神と疫病神の姉妹だけだった。
女苑はかつてあばら家だった場所に積もった灰の山を蹴飛ばした。去来したのは虚しさばかりで、後悔は胸の内に巣食っていたが、それでも構わなかった。
「あーあ、家なしの根なし草ね」
「女苑のせいだけどね、あーあ、せめて布団だけでも避難させるとよかった」
紫苑もようやく気をつかわずに話ができるようになっていた。
「ごめんって。まあ姉さんはどこでも寝れるでしょ」
「まあね。ほら、一緒に寝る?」
冗談めかして、紫苑は自身の丸みを帯びた太ももと尻をぺちぺちと叩いて見せた。
「やあよ。硬そうだもん」
「ひどいなぁ」
「今度いい枕買ってきたげるから」
「わかった。果報は寝て待つことにする」
紫苑は渇いた声でけらけらと笑っていた。とびきりの闇を混ぜたサファイアのように濁った瞳で、ありもしない夢想を見つめる彼女が、女苑にしてみれば希望に満ちた姿よりもよっぽど愛おしかった。
女苑は適当な住居を確保したら、真っ先に寝具をそろえることに決めた。
ハルシオンは独り占めするつもりだった。一つ拾って、一つ捨ててしまう悪癖、それを抑えるつもりは毛頭ないが、それでも、初めから持っていた姉とのつながりだけは、決して手放すものかと、今は何もない掌を閉じ、拳を固く握りしめた。
あの夜を経て、自然とハルシオンを欲する者は減った。あの強欲な炎は睡眠の信仰心すら喰らって灰に変えてしまった。さらには女苑が頑なに売らなくなったので、どうしても眠りたい者は永遠亭で睡眠薬を買い求めるようになった。それに伴って紫苑の身体も痩せていき、以前の貧乏神然とした様相に戻っていった。紫苑は、そのことに不満はあれど、もう一度、自ずからハルシオンを作る気にはならなかった。
喧しい夜の原因が追究されることはなかった。火事は異変ではないからだ。火付け役が居ただけで、それは些細なことだった。周りに燃え移る建物がなかったことも幸いした。あれだけ炎の近くに人が集まったというのに、火傷を負った者は極々少数であった。
春が過ぎれば夏が来る。季節が幾度となく巡るように、すべては円環の中にある。朝を迎えるため、人々はそれぞれの夜を過ごすようになった。眠る者、彷徨う者、矮小な春を売買する者、真夏の熱帯夜に情緒を見出す者、各々が夜を使い果たすために必死だった。
夢で見たまほろばは一夜で消え失せるが、うつつの炎は瞼の奥に焼き付いて離れない。一晩の馬鹿騒ぎが脳神経までを火傷させ、消えない記憶として残った者も大勢いて、彼らは機を持ちながら、夜の里を徘徊していた。
人が初めて火を支配した時、闇を克服した喜びで、同じような宴が行われたのではないだろうか。ならば、あの宴は喜びの儀式で、暇を持て余した神様がもたらした奇跡なのではないかと、そんなふうに考える者もいた。
破滅の道程には必ず炎が灯る。火傷するほど熱い道標は、どうにも人を虜にしてしまう。女苑も魅入られた一人であった。灰しか残らないことを知りながらも業火に苛まれることを是として、思いを焦がし続ければ、いずれその身に火が灯り、ろうそくのように夜を照らすあかりとなる。女苑はあの夜、火種となった。小さい火種は誰にも気づかれないが、あの宴は間違いなく女苑が生み出したものだった。
一晩の騒ぎは、後に火宴と名付けられ、伝説の夜として語り継がれた。
文章がまず面白く、読みやすかったです。
ギャグ調で上がるところまで上がる紫苑の隆盛と、そこからの破滅的で、それでも楽し気な急転直下が愉快で面白かったです。
女苑がいろんな意味で火付け役でした
素晴らしかったです
女苑によって作られたハルシオンが紫苑を眠りを司る神にまで変貌させ、それによって人々が紫苑に幸福を与えるようになりました。それを見た女苑の複雑な感情の描写が素晴らしいと思いました。姉は慈悲深く幸福を得るような者ではなく、無気力で自分に思いやりなど持つような者でなくてはならない。そういった姉に対する所有欲のような傲慢さとそれでも姉の幸福を純粋に受け止めたいという姉への思いやり(実際にそれが明言されていたわけではないのですが、家を燃やした後女苑が紫苑に何度も謝っていた事から一応罪悪感はあったと思われ、こう考えました)、そして何より幸福や財産を霧散させたいという厄病神としての本能に板挟みされている女苑の心情。自らの生活の破滅という結果を招く事になっても結果として女苑は姉への傲慢と厄病神としての本能に身を委ねました。それに至るまでの過程の描写が本当に素晴らしく、怒りを感じながらも破滅を選んで苦しむ女苑の姿を見て、破滅を受け入れた紫苑もとても魅力的に描かれていて良かったです。
ありがとうございました。とても面白かったです。
尚も、女苑が最初に感じた目覚めの快適さや入眠を一つの活動の境目としようとする人里での流れが、夜への畏れすらも喰わんとするばかりに展開し、人妖問わず夢と現実の境界線がハルシオンによって定められていく様とは対照的に、女苑と紫苑だけが普段味わえない程の恍惚――もしくは夢現の微睡みに浸り続けていたという構造とも言い換える事ができ、地の文で語られる女苑の心情と里の空気のギャップが面白くも悲壮的に描かれていたようにも感じられたものです。
一方で、睡眠への信仰によって力の性質を変えゆく紫苑のその姿と、それでも尚も変わらずに在った貧乏神然とした性格、そして元から変わりようの無かった姉妹関係の三位一体が綺麗に為されていたのも物語中で特徴的に描かれていた箇所だったとも思います。
紫苑の神格の変化によって生じた姉妹ふたり屋根の下での生活の変化が、それ以前の描写から連続的に仔細を綴られていた事を読者視点でもスッと理解させてくれるような軽快な文章が下地にあり、かつ女苑は描写される箇所よりも更に前から紫苑の姿を知っているであろうという事もあって、その唐突かつ誰も予想し得なかったはずの推移に困惑する女苑の機微が光るもので。
それが中盤で、子守唄という紫苑の恵愛表現に対し胸を劈くかのような痛烈な叫びを上げる姿となった時のその、行き場の無い感情が遁走という手段となってしまった部分にその感情の道理を感じずに居られなかったものでした。
かくして進行した火宴では栄枯盛衰の果てにおいて創造と破壊が表裏一体であるとも言いたげに火の手が轟々と燃え上がり、人は夢現を思い出して宴に酔い騒ぎ、それに対して女苑と紫苑が炎の中に全てを捨てて元の木阿弥に戻ろうとするそのやり取りに込められた優しさや虚しさに、姉妹という関わりの強さがはっきりと描かれていた事で物語が一件落着したのがとても良かったのだとも。
炎が燃え盛るのとは裏腹に『あったかいね、もう春も終わるんだ』から始まる一連の会話が柔らかなタッチで交わされていたのが、終盤の退廃的な中に希望を見出せるようにも感じられたのです。
全体的に比喩表現が多用されている事によって作中の夢見心地な雰囲気が伝わってきていたようであった地の文も雰囲気作りに貢献しており、享楽的に楽しく面白く読めました。ありがとうございました、おやすみなさい。
それがこの姉妹の生き方なんだろう、と思いました。溜めたい(けど貯められない)姉と(貯めようと思えば貯められるけど)溜めたくない妹、似ているようで対照的だなあと改めて感じさせられました。