たぶん好みが激しく分かれると思う。燻製って。
私は好き。けっこう、いや、かなりかも。あんまり食欲ない日とか、三食スモークチーズだけで済ませたりするし。ビュッフェとか行くとスモークサーモンばっか食べちゃうし。なんだかこう、本能に訴えかけてくるんだ。あの香り。燻製が好きって、なんだかこう、きゃぴきゃぴした趣味じゃないから、ナイショだけどね。
夢も現も時節は梅雨。道すがらのアジサイが、手毬みたいにまぁるく咲いてるな、なんて思った矢先。私はもちろん夢の中。ふらふらっと歩いていた人間の里の一角に、それはあったんだ。『よろず燻し 加治屋』。
ポカンとした。屋号の書かれた看板を見て。第一印象、唖然。煙をもうもうと焚く店の屋号が『かじ』なんて、冗談じゃないわって。
そう、まったく冗談じゃないわって、思った。いったいぜんたい、どういう了見なんだって、ほとんど憤ってさえいた。煙のにおいがするんだ。長屋の壁から、ディストピアSF世界の狂ったキノコみたく、ツギハギだらけの煙突が伸びてて、そのてっぺんから棚引くのはもちろん、破廉恥なくらい濃密な白い煙。
そりゃ、そうだよね。よろず燻しだもの。何でもかんでも燻すから、煙は四六時中出てると思う。止まらない蒸気機関みたく。木製の長屋、止まらない煙、そして『かじ』、『加治屋』。勘違いしないでってほうが無理だし、連想しないでってのは酷。周辺住民は気が気じゃないはず。ここで火災保険の営業をやれば、きっと売り上げはトップになる。
そんな感じでプリプリしながら店に入る。でも、唾液の分泌量は向上してたし、消化管が蠕動運動して、お腹の虫が鳴いたんだ。うん、我ながらアンビバレンス。煙の臭い、スモーキーな、独特の、本能に訴えかけてくる感じの。理性は義憤の仮面を被ってたけど、体はとっても正直だった。お腹、空いてたんだ。本当は。
「らっしゃい」
覇気のない声が私を迎えた。でも、声の主の姿は見えなかった。
4つ、5つ椅子の並ぶカウンターの向こうに厨房があって、大きな寸胴が何かをグツグツに煮てた。どこかから、豆炭がパチパチ爆ぜる音。むせ返っちゃいそうなくらいの燻製のにおい! まるで、私が燻製にされてるみたい。きっとこの店にずっとずっと居座ってたら、そうなる。回転率向上のための策なのかも。
奥の座敷にひとりだけ客がいた。若い女の人だった。
明るい茶髪をツインテールにしていて、熱心にガラケーを見つめてる。あれ? って思う。どこかで見たことあるって。誰だっけ。見たことがあるって、現実で? それとも幻想郷で? どっちなのかも判らないけど。
彼女は片手でポチポチ、ガラケーのボタンを叩いて。空いてるほうの手で思い出したみたくチビチビ、日本酒を傾けて。そうして、さっきからずっと見ていた私の視線に気づいて、
「宇佐見菫子」
「へ?」
「……で、合ってるよね? 間違ってたらゴメン」
「合ってるけど、えっと……?」
「あぁ、私、はたて。新聞記者……って言ったら、判るかな」
言って彼女はナイショね? って付け足して、ピンと人差し指を立てる。
――天狗、ってコト?
パチパチ、瞬きしてはたてを見る。ツインテールにした長い髪はサラつやキューティクルで、薄紫の浴衣は牡丹と思しき白の花が散りばめられて、黒の帯には金糸の刺繍があしらわれて。控えめに言ってお姫様みたいで私はなんだか呆気にとられてしまう。座んなよって言われてフラリ夢遊病みたく彼女の前に座ると、金木犀とラベンダーを足して二で割ったみたいな芳香が漂った。こんなスモーキーな店なのに。
「このお店、変じゃない?」
キョロキョロしながら聞く私、おのぼりさんみたい。はたては落ち着いた様子で洗練されたイメージがあって、なんか雑誌の切り抜きみたいに見えた。
「何が?」
「だって、燻製屋なのに『加治』なんて」
「ひねくれてるわよねー。でも私は嫌いじゃないな。ほら、春夏冬、みたいな」
「秋ない。飽きない、商い。うぅん、でも言葉遊びにしてはちょっと刺激が――」
「これ食べる? 美味しいよ」
ベーコンの切れ端を爪楊枝で刺して、それをズイッと差し出してくる。あーん、って口を開けようか一瞬迷った。そうして食べさせてもらったら、きっと幸せの味が判る気がした。だけど遠慮が邪魔をしたから、普通に右手で受け取ってパクリ。
「わ、美味しい!」
「でしょ。自家製なんだって。ハーブの香りもそうだけど、私、燻製の香り、好きなんだ。でも御山で燻製って駄目なの。ほら、煙が立ちすぎるから」
「だから、里に?」
「うん。ナイショね?」
「なんで?」
「あんまりオシャレじゃないもん。燻製ってすごく美味しいのに、漢の世界って感じがする。女人禁制、みたいな。そういうイメージある」
「判る。でも、私も好き」
「ほんと?」
はたての顔がパッと明るくなった。それはすごく大げさに言って、地獄に垂らされた蜘蛛の糸を見つけたカンダタみたいな、少なからず救いを見出した人の輝きだった。
――何が好き?
私はチーズかな、スモークチーズ。
チーズってなんだっけ?
んーと、牛乳を発酵させて固めた食べ物、で判る?
あー、そうだそうだ。かなり昔に食べたことがあったような、無かったような……? でもあれって燻製なんてできるんだ。美味しいの?
うん、美味しい。けっこうハッキリと香りが出るの。
へぇ、いいなー、私も食べてみたーい。ところで菫子ってお酒吞めるんだっけ?
あ、まだ私は呑めないの。
うっそ、もったいない。相性抜群なのに。これこれ、美味しいよ。食べてみて。
あ、これ、たくあん? いぶりがっこ?
そうそう。食べて食べて。
ありがと! ……んん! これも美味しい!
良いよね、このしょっぱさが、お酒にキュッとね。
いい香りー。これ外で食べた奴より美味しいかもー。
美味しそうに食べるねー、何か嬉しくなっちゃうなー。これも食べてみて。
わ、卵だ! くんたまくんたま……んー! 美味しー!
わりと盛り上がった。貰った燻製はどれも香りが強くて食べてて幸せだったし、共通の思考がトリガーになって色んな話にシフトした。聞き上手なんだと思う。彼女。どんな話を振っても、しっかり相槌入れてくれるし、表情がコロコロ変わって、見てて楽しい。
どれくらい経ったかな。私がオカルト(そのときは水晶ドクロについて語ってたのだけど)の話をしてたときだった。
「――オカルトと言えば」
って、はたてがポンと手を叩いたのは。
「菫子って超能力使うじゃん? サイコキネシスとかパイロキネシスとか、テレポーテーション? っていうの?」
「あ、うん。そうそう。まぁ、こっちではかなり大っぴらに使ってるからねー」
「実はね、私も使えるんだ。いっこだけ。見てて」
言って、はたてはテーブルの上に置いてたガラケーを取って、ポチポチとボタンを押し始めた。何だろうって思ってたら、いきなりパシャ、とシャッターの音が鳴って、
「超能力って、念写?」
「ピンポーン。ほら見て、博麗神社」
と、彼女が見せてきた画面には、確かに参道からのアングルで撮影された博麗神社が写っていた。そして、写っていたらおかしいものも。
「あれ? なんで?」
写真には縁側に座る霊夢さんが写ってた。それはもちろん良いとして、不可解なのは、その隣に座る私が写っていたこと。
どういうこと? いまパシャっていったよね? また私のドッペルゲンガー? なんて首を傾げていた私を見て、はたてがクスクスッと笑って、
「ビックリしたよね。隠し撮りじゃないよ。正真正銘、いま念写で撮った写真」
「え、でも、私が写ってる……」
「これね、一時間前の光景なの。私の念写ってちょっぴり特殊で、過去の写真が撮れるの」
「過去の写真?」
「そう。現在でも未来でもなくて、過去。だいたい一週間くらいまでなら、自由に遡って写真に撮れるんだ」
へぇー、と感心しつつガラケーを受け取って写真を観察する。霊夢さんと私の間に、羊羹とお茶のセットが置かれている。珍しく霊夢さんが出してくれた羊羹。確かにだいたい一時間前。
過去の写真が撮れる念写。
もしかしてその能力って、とんでもないチートなんじゃないの? って思った。過去の写真が撮れるってことは、その場所で起きたことが全部まるっとお見通しってことだ。
有名人のスキャンダルは撮り放題。
密室殺人が起きても念写1枚で解決。
「……え、ヤバくない? 新聞記者として最強じゃない?」
「なんで?」
なんで、と来ましたか。
いや、なんでも何も、と返そうとしたけど、首を傾げた彼女は本気で判らない顔をしていて、何となく藪蛇になりそうな予感がしたので黙っとく。怒られそうな気がしたんだ。霊夢さんに。ブンヤに余計な入れ知恵するなって。
「そんなに凄くないよ。いまの写真は撮れないし、行ったことない場所の写真も撮れないから。そういうところ不便だし、新聞のネタとしては弱いんだよね。速さが足りないって。文にも言われたことあって、自覚してるんだけど……って、私が言いたかったのはそんなことじゃなくて」
はたては首を横に振ると、ひょいと私の手からガラケーをつまみ上げて、
「私が思ったのはさ、菫子もできるのかな、ってことなの。念写」
「あぁ、そういう……」
「どうなの? できる? できるんだったら、どんなの撮れるのか見てみたいなー」
「うん、できるよ」
制服のポケットからスマホを取り出す。
念写。はたてには悪いけど、地味な能力だと思ってた。距離的なモノ。撮れる対象。色々と制限が多いわりに、できることの幅が狭いなって。でもそれは念写という能力がパッとしないわけじゃなくて単に、私にできる念写が不完全だ、という話なのかも、って思った。
――まぁ、私の念写が少しおかしいのは、判ってはいたけど。
「ん~……」
頭の中の回路を発火させる。ぐにゃぐにゃな不定形の塊に、見えざる第三の腕で掴みかかるようなイメージ。アブラカタブラ、チチンプイプイ、アジャラカモクレンテケレッツのパー。パシャリ。
「撮れた」
「えー、見せて見せて」
「待って、ちょっと待って、私にも何が撮れたのか判んないから……」
キラキラ期待顔のはたてを左手で制しつつ、右手でスマホの画面を確認する。
写ってたのはお台所だった。鍋、包丁、まな板。まな板の上に大根の輪切り。鍋には水が張られてて、ゴボウのささがきが入ってる。包丁を握る右手、大根の葉を掴む左手。どちらも肉付き控えめなほっそりとした白い腕。少女の腕。
「うーん、なるほど……これ、私も博麗神社」
「どれどれ……んん?」
はたてにスマホを渡す。画面を見た彼女は怪訝な面持ち。そりゃそうだ。博麗神社だといいながら見せた写真が、調理の光景の主観画像でしかなければ、混乱も困惑もする。
「私の念写、ちょっと変なの。視界ジャックっていうか。どうやっても誰かの視点、つまり、誰かが今まさに目で見ているモノしか撮れなくて……」
「ってことは、これは博麗神社にいる誰かが、菫子が念写した瞬間に見てた光景が写ってるってわけね」
「そゆこと。だから私の念写って、扱いづらいのよねー。指定できるのって大まかな場所だけで、他は何にも自分の思い通りにならないんだもん」
「なに言ってるの! スゴいよこれ!」
急にはたてが熱っぽく声を大にして言ってきたものだから、ビックリ。声の大きさもそうだけど何より、私の半端な念写を見て、彼女が目を輝かせているということに。
「スゴいスゴい! 他人の視点を見れるなんて斬新! それに、今この瞬間の写真だなんて! どうやっても私にはできなかったのに! さすが稀代の超能力者ね!」
目を丸くする。純粋だ。まるでおとぎ話のプリンセスみたく無垢。スマホの画面に目を釘付けにして。
微妙な能力を貶しもせず、自分に不可能なことを嘆くでも妬むでもなく。
ちょっと今まで見たことないタイプ。なんだろう、すごくポジティブだ。しかもそのポジティブ加減が、ぜんぜん鼻につかない。まっすぐな称賛。私は近年稀に見るレベルでテレテレさせられる。
「そ、そんなでもないよぉ。そんな褒められても、なにも出ない出ない……」
「ねぇねぇ、もっとやってみて! 他のも見てみたいな! ほらほら!」
「い、いいけどぉ」
唇の端がニマニマしてくるのを手で隠しつつスマホを受け取る。料理中の霊夢さん視点と思しき写真を保存して、新しい写真を撮る準備。アジャラカモクレンテケレッツのパー。パシャリ。
「今度は香霖堂!」
「見せて見せて! ……あれ? どういうこと?」
「え?」
首を傾げるはたてが、渡したスマホの画面を、ほら、とこっちに向けてくる。あれ? と私も思った。だって写真には、安楽椅子に座って水煙草を吹かす霖之助さんの横顔が写っていたから。
「誰かの視点でしか念写できないんじゃなかったっけ? でもこれ、普通に撮れてるように見える」
「んー……」
と少しだけ考えたけれど、有り得そうな可能性と言えば、
「誰かがいるってことだと思う。香霖堂に、霖之助さん以外の誰かが」
「で、その誰かが店主を見てるってわけね。なるほど。ちなみにそれ、誰か判ったりしない?」
「うーん、鏡とかが視界に入ってれば判るかもだけど……私には念写しただけじゃ、誰の視点なのか、までは判んないんだよね」
「そっかー。でも、なんだかこれ、意味深じゃない?」
はたてが写真を見つめて意味ありげに微笑む。なんで? とクエスチョンマークを浮かべる私に、だって、とはたては声を潜めて、
「これさ、店主は明後日の方向を見てるよね? 水煙草なんか吸って。しかもこれ、会話するにはちょっと遠いと思うんだ。距離的に」
「うん、確かにそうかも」
「変でしょ。香霖堂の店主って、無愛想だけどさ、お客さんを放置はしないじゃん。私も会ったことあるから判るんだけど」
「まぁね、霖之助さんは変わってるけど、無視はしないかも。確かに、そうなると……」
はたてからスマホを受け取る。言われてみれば、確かに意味深。霖之助さんの横顔を見つめる誰か。見つめられる彼はと言えば、接客もせずにボンヤリ。それって逆に、無防備な姿を見られても構わないヒトってことなのかも、って。
「やー、なんかもうすっごいワクワクしちゃう! 菫子、アンタの念写ってすっごくセンセーショナル! 一緒に組んで新聞記者やる?」
「や、それは辞めとくかな、たはは……敵に回したくないヒトばっかだし……」
踊りだしそうなくらいのウキウキはたてに、言葉を濁す。そっかー、と彼女は肩を落としたけれど、すぐにまたアゲてきて、
「でも面白いなー、推理パズルみたいじゃない? ね、もう一枚撮ってよ」
「いいよいいよ。リクエストは?」
「うーん、お任せで♪」
はたてが指を立ててウィンクしつつ決めてくる。うーん、サマになってるなぁ。私が男だったら口説いてたかも。
「おっけー」
パチッとウィンク。ささやかな対抗意識。可愛いって思われたかな? なーんて。
スマホの画面を睨みつつ、頭の中の地図に幻想郷の座標を記していく。ダーツで狙いを澄ますイメージ。ダーツが突き立ったどこかに、面白さの種は眠っているはず。笑ってコラえて方式。どこが写るかな、神様の言う通り。りんぴょーとうしゃーかいじんれつざいぜん、パシャリ。
「……んー……?」
撮れた写真を見て、首をひねる。
松の意匠の欄間が写ってた。
欄間。
透かし彫りの向こう側は隣の部屋の天井。どこかがらんどうな印象のある、畳敷きの部屋。それが画面いっぱいに、どんと。
なにこれ?
「見せて見せて」
「うん、でも、私これ判んない」
「どれどれ――んー?」
2人して首を傾げる。目を見合わせて、肩を竦ませて、頭を横に振り振り。
ハズレか。
……っていう風に投げ出すには、何か……。
なにか。
「――あのさ」
はたてが難しい顔をして、ポツリと言う。
今までで一番、険のある声音だった。思わず彼女の顔を見てしまう。はたてはテーブルの上に置いていたスマホから、視線を逸らさない。
「な、」
って、言いかけた瞬間、グッと言葉が詰まった感覚があって、私は小さく喉を鳴らしてから、
「……なに?」
「もう一枚、撮れる? 同じ場所の、同じ視点の写真」
有無を言わせない口調。私の中のモヤモヤが深く影を落とす。
欄間。和風建築における、天井と鴨井との間を仕切るもの。規格があるのかどうかは知らない。だけど、天井と鴨井の間なんだから、当然、高い位置にある。
普通なら。
欄間が目の前にある状況なんて、そうはない。
「あ、その……」
サッと脳裏をよぎった不穏なイメージを遠ざけたくて、どうでもいい話題を振ろうとするけれど、とっさじゃ何も出てこない。あたふたと身振りして、あわあわと手振りして、逃げるための冴えたやり方を思いつかないまま。
「お願い」
と、はたてに言われ、逃げ道を封鎖された私は泣く泣く、「うん……」ってな具合で自分の引きの良さなんだか悪さなんだか、とにかく降って湧いた災難、怪異の類を、オカルトサークル秘封倶楽部の初代会長として、呪えばいいんだか祝えばいいんだか。
とにかく、お願いされたからには引き受けない道理はない。目を瞑って、精神を集中させて、微かに感じる怖気と吐き気を尻目にもう一枚。パシャリ。
さっきと同じ写真が撮れた。
いや、ほんの少しだけアングルが違う。傾いてる。
ほんのわずかに。
風に揺れる柳の枝みたく。
「……はたて、これって」
「うん、たぶん」
そうやり取りしたきり、私もはたても何も言わなくなる。具体的なことを舌の根から発さないまま。
たぶん、言葉にすることで何かが完成してしまうのが怖かったんだ。
私はもちろん、はたても。
怖かったんだ。
ふとすれ違ってしまったなにかの顔を検めるような行為が。
――首吊り。
「――菫子、この写真の場所、判る?」
意を決したように、はたてが立ち上がる。信じられない気持ちで、私は彼女の顔を見上げる。強張ってた。表情。なのに、視線に迷いは見えなくて。
「待って、待って……い、行くの?」
「行く」
「行くって、そんな……なんで?」
関わり合いになんてなりたくないって、私は思った。率直に。
だって怖いし、面倒だし、何もできることなんてないと思った。知らない人だし、私たちには関係ない、って。それは利口な立ち回りじゃない、まっすぐで愚かでダサい、って。
「はたて、里の人じゃないじゃん。私たちが何もしなくても、誰かが何とかしてくれると思うし、それが本当は自然な流れなんじゃない? その、私が念写なんてしなかったら、絶対に判らなかったんだしさ」
「行きたくないの? 菫子」
「い、行きたくないに決まってるよ。はたては違うって言うの?」
「違うよ。私も行きたくないよ。里のことは私の管轄じゃないし、人間じゃなくて私が首突っ込むのもどうかと思うし、私はあんまり人間の生き死にとか興味ないし」
「それじゃ――」
「――でも」
はたてが浴衣の袂からラインストーンでデコられたお財布を取り出して、そこからいくらかのお金を出してテーブルに置く。揃えて置いてあった草履を突っかけて、それから私の両目をジッと見つめて、
「私、念写で見たモノからだけは……逃げないって決めてるの。知らない、って逃げるのは簡単だけど、それを自分に許しちゃうと、私、強くないからさ、逃げ癖がついちゃうって、そうなるのが嫌だから」
まるで絞るようにひとつひとつ選ばれた言葉が、ドシンと重みをもって私の鼓膜に響いた。そういう気がした。
はたては逃げる、という言葉を使った。少し言い淀み、そして選んだ。
それが私に向けられたモノじゃないことは判ったけれど、だからと言って何も感じずにいられるほど、私の面の皮は厚くなかった。
負けん気が湧いた。逃げることで、他ならぬ自分自身から後ろ指を指されるなんてまっぴら。冗談じゃない。私は秘封倶楽部だ。そんな言葉。奮い立たせられ、自分自身が鼓舞される。そうだ、逃げてなんていられない。これは私の撒いた種だ。それを誰かが解決してくれることを祈るとか、私の矜持も秘封俱楽部の理念も許しはしない。
「ゴメン、私も行く」
「ほんと? 嬉しい。だって――」
立ち上がった私の手を、はたてがそっと握ってくる。
「私、震えてる」
カタカタ、手を震わせながら、はたては弱々しい笑みを浮かべた。彼女には悪いけれど、私は逆に勇気づけられた。烏天狗であるはたてが怖いと思うなら、私が怖いと思っても変じゃない。この感情は当たり前のもの、と整理ができて。
「行こ。写真の場所は、そんなに遠くない」
「……うん。ありがと、菫子」
「私こそ。言い訳ばっかりしか浮かばなかったから」
繋いだ手に、ちょっぴりの勇気を委ねて力を込める。はたては握り返してくれた。2人なら何も怖くないとナチュラルに感じた自分の感性に少し驚く。
はたてとは、まだ逢ったばかり。でも不思議なことに、手を繋いで往来を歩いていると、全然そんな気がしなかった。なんでだろう。魂の型が似ているのかもしれない。好きなもの嫌いなもの。生活習慣や行動理念。性格に能力に姿勢。共通点が多ければ多いほど、シンパシーというやつは上がるものだ。
私と似ている誰かの存在を、これまでの私は想像さえしなかった。
現実は退屈で、夢の中は楽しくて、それは一方で私が抱く完璧な途絶の感覚を、もう一方ではあまり強く意識しないから。決定的な差異は、自他を強固に区別する。超能力が使える子も、世界の神秘を暴く野心を持つ子も、外の世界には居ない。少なくとも私は見つけられてない。
はたてと手を繋いでいる私は、まるで私じゃないみたい。人生とは過去の集積であって、常識とはこれまで収集した偏見のインデックス。初めての経験に対する自己評価が、うまく機能してないんだなーって、私はそんなことを思った。これまでの私は、誰かと肩を並べて、歩幅を揃えて、手を繋いで。そうして歩く方法を知らなかったから。
村の外れに、一軒の木造建築が建っていた。黒い瓦、白い漆喰の壁。作りは立派だけど、良くも悪くも目立たないし、微妙に狭い。家というより、蔵に近いものを感じた。つまり、滅多に人が入ることはなさそう。人の気配とか生活感がないって言うか。
「ここ?」
「うん」
握っていた手を離す。辺りを見回したけれど、他には農具なんかを入れておく小屋があるばかりで、鴨居や欄間が設置されてそうな建造物はない。ここで間違いない。
入口の戸板は、いまにもカビが生えそうに湿気ている。鍵が掛かっているかどうかは、見る限りでは判らない。湿気た板の表面は、迂闊に手を伸べるのを躊躇うほど汚れている。
この向こうに。
「行く?」
「ちょっと待って、深呼吸したい……」
はたてが胸に手を当てて目を閉じる。カサカサ、伸び放題になった雑草が触れ合う音。その合間に、彼女が大きく息を吸って、吐く音が混じる。
スマホを取り出して、もう一度、神経を集中させる。対象はこの家。この建物、戸板の向こう。そこで待ち構えるモノ。その視界をジャックすることに生理的な嫌悪の念を覚えつつも、臆病の気が出て、もう一度、いまこの瞬間の状況を確認しておきたくなった。
念を込める。スマホカメラのシャッターを切る。パシャリ。スマホの画面にパッと画像が写りこんで――
「――ひぃっ!?」
悲鳴が漏れる。思わずスマホを取り落としそうになる。横ではたてが腰を抜かしそうなほど飛び上がる。
「な、なになになに、なんなの……っ!」
「こ、」
恐ろしくて。
うまく声が出せない。息が、息ができない。心臓も肺も縮みこんだまま広がらない。
欄間じゃない。写ったのは、欄間の写真じゃなかった。これは、これは、壁の隅だ。壁と壁と天井の境目。
視点が動いてる。
なにかが壁の隅を見てる。
見つめてる。
鼻先がつきそうなほどの至近距離から。
じぃっと。
「うそ、やだ、やだ! やだ! なんで、なんでよ!!」
はたてが叫んだ。もうほとんど泣き出しそうな声だった。彼女も見たんだ。スマホの画面。そして異常に気付いた。
意味が判らない。
意味が判らない。
動くわけなんてないのに。首吊り死体。ぶらさがる縄の長さに限りがあるから。もう死んでるから。重力だってあるはず。なのに。
首吊り死体が。
ダラリと手足を下ろしたまま。
天井の隅まで移動して。
じぃっと隅を見つめる光景が。脳裏で瞬いていた――。
パシャリ。
強張った指の震えで、そうしようとしたわけじゃないのに写真が撮れてしまう。新しい画像が写りこむ。
新しい画像――。
足の力が抜けて、地面に尻もちをついた。
まただ。また、画像は変わっていた。視点は変わっていた。
天井の隅から、部屋の向かい側を見下ろすような写真。
部屋の向かいは廊下。その先に戸板。
戸板の向こう。家の外には、私たち。
――私たちを、見てる。
「こ、これ……」
「うー、うぅう……!」
視界が滲んだことで、自分が泣いてることに気付いた。
私に縋りついてくるはたても泣いていた。あまりに怖くて泣いていた。私も私で、溺れてる人みたく、はたての身体に必死に捕まっていた。
来る。
来る。
私たちのところまで。
なにかが。
恐怖。パニック。喉から血が出そうなほど叫ぶ。私もはたても。
戸板が動いた。ミシミシと厭な音を立てながら横に滑った。
そして。
真っ赤な髪の娘が顔を覗かせて。
「……なにしてんの?」
と怪訝な表情を浮かべた。
私は好き。けっこう、いや、かなりかも。あんまり食欲ない日とか、三食スモークチーズだけで済ませたりするし。ビュッフェとか行くとスモークサーモンばっか食べちゃうし。なんだかこう、本能に訴えかけてくるんだ。あの香り。燻製が好きって、なんだかこう、きゃぴきゃぴした趣味じゃないから、ナイショだけどね。
夢も現も時節は梅雨。道すがらのアジサイが、手毬みたいにまぁるく咲いてるな、なんて思った矢先。私はもちろん夢の中。ふらふらっと歩いていた人間の里の一角に、それはあったんだ。『よろず燻し 加治屋』。
ポカンとした。屋号の書かれた看板を見て。第一印象、唖然。煙をもうもうと焚く店の屋号が『かじ』なんて、冗談じゃないわって。
そう、まったく冗談じゃないわって、思った。いったいぜんたい、どういう了見なんだって、ほとんど憤ってさえいた。煙のにおいがするんだ。長屋の壁から、ディストピアSF世界の狂ったキノコみたく、ツギハギだらけの煙突が伸びてて、そのてっぺんから棚引くのはもちろん、破廉恥なくらい濃密な白い煙。
そりゃ、そうだよね。よろず燻しだもの。何でもかんでも燻すから、煙は四六時中出てると思う。止まらない蒸気機関みたく。木製の長屋、止まらない煙、そして『かじ』、『加治屋』。勘違いしないでってほうが無理だし、連想しないでってのは酷。周辺住民は気が気じゃないはず。ここで火災保険の営業をやれば、きっと売り上げはトップになる。
そんな感じでプリプリしながら店に入る。でも、唾液の分泌量は向上してたし、消化管が蠕動運動して、お腹の虫が鳴いたんだ。うん、我ながらアンビバレンス。煙の臭い、スモーキーな、独特の、本能に訴えかけてくる感じの。理性は義憤の仮面を被ってたけど、体はとっても正直だった。お腹、空いてたんだ。本当は。
「らっしゃい」
覇気のない声が私を迎えた。でも、声の主の姿は見えなかった。
4つ、5つ椅子の並ぶカウンターの向こうに厨房があって、大きな寸胴が何かをグツグツに煮てた。どこかから、豆炭がパチパチ爆ぜる音。むせ返っちゃいそうなくらいの燻製のにおい! まるで、私が燻製にされてるみたい。きっとこの店にずっとずっと居座ってたら、そうなる。回転率向上のための策なのかも。
奥の座敷にひとりだけ客がいた。若い女の人だった。
明るい茶髪をツインテールにしていて、熱心にガラケーを見つめてる。あれ? って思う。どこかで見たことあるって。誰だっけ。見たことがあるって、現実で? それとも幻想郷で? どっちなのかも判らないけど。
彼女は片手でポチポチ、ガラケーのボタンを叩いて。空いてるほうの手で思い出したみたくチビチビ、日本酒を傾けて。そうして、さっきからずっと見ていた私の視線に気づいて、
「宇佐見菫子」
「へ?」
「……で、合ってるよね? 間違ってたらゴメン」
「合ってるけど、えっと……?」
「あぁ、私、はたて。新聞記者……って言ったら、判るかな」
言って彼女はナイショね? って付け足して、ピンと人差し指を立てる。
――天狗、ってコト?
パチパチ、瞬きしてはたてを見る。ツインテールにした長い髪はサラつやキューティクルで、薄紫の浴衣は牡丹と思しき白の花が散りばめられて、黒の帯には金糸の刺繍があしらわれて。控えめに言ってお姫様みたいで私はなんだか呆気にとられてしまう。座んなよって言われてフラリ夢遊病みたく彼女の前に座ると、金木犀とラベンダーを足して二で割ったみたいな芳香が漂った。こんなスモーキーな店なのに。
「このお店、変じゃない?」
キョロキョロしながら聞く私、おのぼりさんみたい。はたては落ち着いた様子で洗練されたイメージがあって、なんか雑誌の切り抜きみたいに見えた。
「何が?」
「だって、燻製屋なのに『加治』なんて」
「ひねくれてるわよねー。でも私は嫌いじゃないな。ほら、春夏冬、みたいな」
「秋ない。飽きない、商い。うぅん、でも言葉遊びにしてはちょっと刺激が――」
「これ食べる? 美味しいよ」
ベーコンの切れ端を爪楊枝で刺して、それをズイッと差し出してくる。あーん、って口を開けようか一瞬迷った。そうして食べさせてもらったら、きっと幸せの味が判る気がした。だけど遠慮が邪魔をしたから、普通に右手で受け取ってパクリ。
「わ、美味しい!」
「でしょ。自家製なんだって。ハーブの香りもそうだけど、私、燻製の香り、好きなんだ。でも御山で燻製って駄目なの。ほら、煙が立ちすぎるから」
「だから、里に?」
「うん。ナイショね?」
「なんで?」
「あんまりオシャレじゃないもん。燻製ってすごく美味しいのに、漢の世界って感じがする。女人禁制、みたいな。そういうイメージある」
「判る。でも、私も好き」
「ほんと?」
はたての顔がパッと明るくなった。それはすごく大げさに言って、地獄に垂らされた蜘蛛の糸を見つけたカンダタみたいな、少なからず救いを見出した人の輝きだった。
――何が好き?
私はチーズかな、スモークチーズ。
チーズってなんだっけ?
んーと、牛乳を発酵させて固めた食べ物、で判る?
あー、そうだそうだ。かなり昔に食べたことがあったような、無かったような……? でもあれって燻製なんてできるんだ。美味しいの?
うん、美味しい。けっこうハッキリと香りが出るの。
へぇ、いいなー、私も食べてみたーい。ところで菫子ってお酒吞めるんだっけ?
あ、まだ私は呑めないの。
うっそ、もったいない。相性抜群なのに。これこれ、美味しいよ。食べてみて。
あ、これ、たくあん? いぶりがっこ?
そうそう。食べて食べて。
ありがと! ……んん! これも美味しい!
良いよね、このしょっぱさが、お酒にキュッとね。
いい香りー。これ外で食べた奴より美味しいかもー。
美味しそうに食べるねー、何か嬉しくなっちゃうなー。これも食べてみて。
わ、卵だ! くんたまくんたま……んー! 美味しー!
わりと盛り上がった。貰った燻製はどれも香りが強くて食べてて幸せだったし、共通の思考がトリガーになって色んな話にシフトした。聞き上手なんだと思う。彼女。どんな話を振っても、しっかり相槌入れてくれるし、表情がコロコロ変わって、見てて楽しい。
どれくらい経ったかな。私がオカルト(そのときは水晶ドクロについて語ってたのだけど)の話をしてたときだった。
「――オカルトと言えば」
って、はたてがポンと手を叩いたのは。
「菫子って超能力使うじゃん? サイコキネシスとかパイロキネシスとか、テレポーテーション? っていうの?」
「あ、うん。そうそう。まぁ、こっちではかなり大っぴらに使ってるからねー」
「実はね、私も使えるんだ。いっこだけ。見てて」
言って、はたてはテーブルの上に置いてたガラケーを取って、ポチポチとボタンを押し始めた。何だろうって思ってたら、いきなりパシャ、とシャッターの音が鳴って、
「超能力って、念写?」
「ピンポーン。ほら見て、博麗神社」
と、彼女が見せてきた画面には、確かに参道からのアングルで撮影された博麗神社が写っていた。そして、写っていたらおかしいものも。
「あれ? なんで?」
写真には縁側に座る霊夢さんが写ってた。それはもちろん良いとして、不可解なのは、その隣に座る私が写っていたこと。
どういうこと? いまパシャっていったよね? また私のドッペルゲンガー? なんて首を傾げていた私を見て、はたてがクスクスッと笑って、
「ビックリしたよね。隠し撮りじゃないよ。正真正銘、いま念写で撮った写真」
「え、でも、私が写ってる……」
「これね、一時間前の光景なの。私の念写ってちょっぴり特殊で、過去の写真が撮れるの」
「過去の写真?」
「そう。現在でも未来でもなくて、過去。だいたい一週間くらいまでなら、自由に遡って写真に撮れるんだ」
へぇー、と感心しつつガラケーを受け取って写真を観察する。霊夢さんと私の間に、羊羹とお茶のセットが置かれている。珍しく霊夢さんが出してくれた羊羹。確かにだいたい一時間前。
過去の写真が撮れる念写。
もしかしてその能力って、とんでもないチートなんじゃないの? って思った。過去の写真が撮れるってことは、その場所で起きたことが全部まるっとお見通しってことだ。
有名人のスキャンダルは撮り放題。
密室殺人が起きても念写1枚で解決。
「……え、ヤバくない? 新聞記者として最強じゃない?」
「なんで?」
なんで、と来ましたか。
いや、なんでも何も、と返そうとしたけど、首を傾げた彼女は本気で判らない顔をしていて、何となく藪蛇になりそうな予感がしたので黙っとく。怒られそうな気がしたんだ。霊夢さんに。ブンヤに余計な入れ知恵するなって。
「そんなに凄くないよ。いまの写真は撮れないし、行ったことない場所の写真も撮れないから。そういうところ不便だし、新聞のネタとしては弱いんだよね。速さが足りないって。文にも言われたことあって、自覚してるんだけど……って、私が言いたかったのはそんなことじゃなくて」
はたては首を横に振ると、ひょいと私の手からガラケーをつまみ上げて、
「私が思ったのはさ、菫子もできるのかな、ってことなの。念写」
「あぁ、そういう……」
「どうなの? できる? できるんだったら、どんなの撮れるのか見てみたいなー」
「うん、できるよ」
制服のポケットからスマホを取り出す。
念写。はたてには悪いけど、地味な能力だと思ってた。距離的なモノ。撮れる対象。色々と制限が多いわりに、できることの幅が狭いなって。でもそれは念写という能力がパッとしないわけじゃなくて単に、私にできる念写が不完全だ、という話なのかも、って思った。
――まぁ、私の念写が少しおかしいのは、判ってはいたけど。
「ん~……」
頭の中の回路を発火させる。ぐにゃぐにゃな不定形の塊に、見えざる第三の腕で掴みかかるようなイメージ。アブラカタブラ、チチンプイプイ、アジャラカモクレンテケレッツのパー。パシャリ。
「撮れた」
「えー、見せて見せて」
「待って、ちょっと待って、私にも何が撮れたのか判んないから……」
キラキラ期待顔のはたてを左手で制しつつ、右手でスマホの画面を確認する。
写ってたのはお台所だった。鍋、包丁、まな板。まな板の上に大根の輪切り。鍋には水が張られてて、ゴボウのささがきが入ってる。包丁を握る右手、大根の葉を掴む左手。どちらも肉付き控えめなほっそりとした白い腕。少女の腕。
「うーん、なるほど……これ、私も博麗神社」
「どれどれ……んん?」
はたてにスマホを渡す。画面を見た彼女は怪訝な面持ち。そりゃそうだ。博麗神社だといいながら見せた写真が、調理の光景の主観画像でしかなければ、混乱も困惑もする。
「私の念写、ちょっと変なの。視界ジャックっていうか。どうやっても誰かの視点、つまり、誰かが今まさに目で見ているモノしか撮れなくて……」
「ってことは、これは博麗神社にいる誰かが、菫子が念写した瞬間に見てた光景が写ってるってわけね」
「そゆこと。だから私の念写って、扱いづらいのよねー。指定できるのって大まかな場所だけで、他は何にも自分の思い通りにならないんだもん」
「なに言ってるの! スゴいよこれ!」
急にはたてが熱っぽく声を大にして言ってきたものだから、ビックリ。声の大きさもそうだけど何より、私の半端な念写を見て、彼女が目を輝かせているということに。
「スゴいスゴい! 他人の視点を見れるなんて斬新! それに、今この瞬間の写真だなんて! どうやっても私にはできなかったのに! さすが稀代の超能力者ね!」
目を丸くする。純粋だ。まるでおとぎ話のプリンセスみたく無垢。スマホの画面に目を釘付けにして。
微妙な能力を貶しもせず、自分に不可能なことを嘆くでも妬むでもなく。
ちょっと今まで見たことないタイプ。なんだろう、すごくポジティブだ。しかもそのポジティブ加減が、ぜんぜん鼻につかない。まっすぐな称賛。私は近年稀に見るレベルでテレテレさせられる。
「そ、そんなでもないよぉ。そんな褒められても、なにも出ない出ない……」
「ねぇねぇ、もっとやってみて! 他のも見てみたいな! ほらほら!」
「い、いいけどぉ」
唇の端がニマニマしてくるのを手で隠しつつスマホを受け取る。料理中の霊夢さん視点と思しき写真を保存して、新しい写真を撮る準備。アジャラカモクレンテケレッツのパー。パシャリ。
「今度は香霖堂!」
「見せて見せて! ……あれ? どういうこと?」
「え?」
首を傾げるはたてが、渡したスマホの画面を、ほら、とこっちに向けてくる。あれ? と私も思った。だって写真には、安楽椅子に座って水煙草を吹かす霖之助さんの横顔が写っていたから。
「誰かの視点でしか念写できないんじゃなかったっけ? でもこれ、普通に撮れてるように見える」
「んー……」
と少しだけ考えたけれど、有り得そうな可能性と言えば、
「誰かがいるってことだと思う。香霖堂に、霖之助さん以外の誰かが」
「で、その誰かが店主を見てるってわけね。なるほど。ちなみにそれ、誰か判ったりしない?」
「うーん、鏡とかが視界に入ってれば判るかもだけど……私には念写しただけじゃ、誰の視点なのか、までは判んないんだよね」
「そっかー。でも、なんだかこれ、意味深じゃない?」
はたてが写真を見つめて意味ありげに微笑む。なんで? とクエスチョンマークを浮かべる私に、だって、とはたては声を潜めて、
「これさ、店主は明後日の方向を見てるよね? 水煙草なんか吸って。しかもこれ、会話するにはちょっと遠いと思うんだ。距離的に」
「うん、確かにそうかも」
「変でしょ。香霖堂の店主って、無愛想だけどさ、お客さんを放置はしないじゃん。私も会ったことあるから判るんだけど」
「まぁね、霖之助さんは変わってるけど、無視はしないかも。確かに、そうなると……」
はたてからスマホを受け取る。言われてみれば、確かに意味深。霖之助さんの横顔を見つめる誰か。見つめられる彼はと言えば、接客もせずにボンヤリ。それって逆に、無防備な姿を見られても構わないヒトってことなのかも、って。
「やー、なんかもうすっごいワクワクしちゃう! 菫子、アンタの念写ってすっごくセンセーショナル! 一緒に組んで新聞記者やる?」
「や、それは辞めとくかな、たはは……敵に回したくないヒトばっかだし……」
踊りだしそうなくらいのウキウキはたてに、言葉を濁す。そっかー、と彼女は肩を落としたけれど、すぐにまたアゲてきて、
「でも面白いなー、推理パズルみたいじゃない? ね、もう一枚撮ってよ」
「いいよいいよ。リクエストは?」
「うーん、お任せで♪」
はたてが指を立ててウィンクしつつ決めてくる。うーん、サマになってるなぁ。私が男だったら口説いてたかも。
「おっけー」
パチッとウィンク。ささやかな対抗意識。可愛いって思われたかな? なーんて。
スマホの画面を睨みつつ、頭の中の地図に幻想郷の座標を記していく。ダーツで狙いを澄ますイメージ。ダーツが突き立ったどこかに、面白さの種は眠っているはず。笑ってコラえて方式。どこが写るかな、神様の言う通り。りんぴょーとうしゃーかいじんれつざいぜん、パシャリ。
「……んー……?」
撮れた写真を見て、首をひねる。
松の意匠の欄間が写ってた。
欄間。
透かし彫りの向こう側は隣の部屋の天井。どこかがらんどうな印象のある、畳敷きの部屋。それが画面いっぱいに、どんと。
なにこれ?
「見せて見せて」
「うん、でも、私これ判んない」
「どれどれ――んー?」
2人して首を傾げる。目を見合わせて、肩を竦ませて、頭を横に振り振り。
ハズレか。
……っていう風に投げ出すには、何か……。
なにか。
「――あのさ」
はたてが難しい顔をして、ポツリと言う。
今までで一番、険のある声音だった。思わず彼女の顔を見てしまう。はたてはテーブルの上に置いていたスマホから、視線を逸らさない。
「な、」
って、言いかけた瞬間、グッと言葉が詰まった感覚があって、私は小さく喉を鳴らしてから、
「……なに?」
「もう一枚、撮れる? 同じ場所の、同じ視点の写真」
有無を言わせない口調。私の中のモヤモヤが深く影を落とす。
欄間。和風建築における、天井と鴨井との間を仕切るもの。規格があるのかどうかは知らない。だけど、天井と鴨井の間なんだから、当然、高い位置にある。
普通なら。
欄間が目の前にある状況なんて、そうはない。
「あ、その……」
サッと脳裏をよぎった不穏なイメージを遠ざけたくて、どうでもいい話題を振ろうとするけれど、とっさじゃ何も出てこない。あたふたと身振りして、あわあわと手振りして、逃げるための冴えたやり方を思いつかないまま。
「お願い」
と、はたてに言われ、逃げ道を封鎖された私は泣く泣く、「うん……」ってな具合で自分の引きの良さなんだか悪さなんだか、とにかく降って湧いた災難、怪異の類を、オカルトサークル秘封倶楽部の初代会長として、呪えばいいんだか祝えばいいんだか。
とにかく、お願いされたからには引き受けない道理はない。目を瞑って、精神を集中させて、微かに感じる怖気と吐き気を尻目にもう一枚。パシャリ。
さっきと同じ写真が撮れた。
いや、ほんの少しだけアングルが違う。傾いてる。
ほんのわずかに。
風に揺れる柳の枝みたく。
「……はたて、これって」
「うん、たぶん」
そうやり取りしたきり、私もはたても何も言わなくなる。具体的なことを舌の根から発さないまま。
たぶん、言葉にすることで何かが完成してしまうのが怖かったんだ。
私はもちろん、はたても。
怖かったんだ。
ふとすれ違ってしまったなにかの顔を検めるような行為が。
――首吊り。
「――菫子、この写真の場所、判る?」
意を決したように、はたてが立ち上がる。信じられない気持ちで、私は彼女の顔を見上げる。強張ってた。表情。なのに、視線に迷いは見えなくて。
「待って、待って……い、行くの?」
「行く」
「行くって、そんな……なんで?」
関わり合いになんてなりたくないって、私は思った。率直に。
だって怖いし、面倒だし、何もできることなんてないと思った。知らない人だし、私たちには関係ない、って。それは利口な立ち回りじゃない、まっすぐで愚かでダサい、って。
「はたて、里の人じゃないじゃん。私たちが何もしなくても、誰かが何とかしてくれると思うし、それが本当は自然な流れなんじゃない? その、私が念写なんてしなかったら、絶対に判らなかったんだしさ」
「行きたくないの? 菫子」
「い、行きたくないに決まってるよ。はたては違うって言うの?」
「違うよ。私も行きたくないよ。里のことは私の管轄じゃないし、人間じゃなくて私が首突っ込むのもどうかと思うし、私はあんまり人間の生き死にとか興味ないし」
「それじゃ――」
「――でも」
はたてが浴衣の袂からラインストーンでデコられたお財布を取り出して、そこからいくらかのお金を出してテーブルに置く。揃えて置いてあった草履を突っかけて、それから私の両目をジッと見つめて、
「私、念写で見たモノからだけは……逃げないって決めてるの。知らない、って逃げるのは簡単だけど、それを自分に許しちゃうと、私、強くないからさ、逃げ癖がついちゃうって、そうなるのが嫌だから」
まるで絞るようにひとつひとつ選ばれた言葉が、ドシンと重みをもって私の鼓膜に響いた。そういう気がした。
はたては逃げる、という言葉を使った。少し言い淀み、そして選んだ。
それが私に向けられたモノじゃないことは判ったけれど、だからと言って何も感じずにいられるほど、私の面の皮は厚くなかった。
負けん気が湧いた。逃げることで、他ならぬ自分自身から後ろ指を指されるなんてまっぴら。冗談じゃない。私は秘封倶楽部だ。そんな言葉。奮い立たせられ、自分自身が鼓舞される。そうだ、逃げてなんていられない。これは私の撒いた種だ。それを誰かが解決してくれることを祈るとか、私の矜持も秘封俱楽部の理念も許しはしない。
「ゴメン、私も行く」
「ほんと? 嬉しい。だって――」
立ち上がった私の手を、はたてがそっと握ってくる。
「私、震えてる」
カタカタ、手を震わせながら、はたては弱々しい笑みを浮かべた。彼女には悪いけれど、私は逆に勇気づけられた。烏天狗であるはたてが怖いと思うなら、私が怖いと思っても変じゃない。この感情は当たり前のもの、と整理ができて。
「行こ。写真の場所は、そんなに遠くない」
「……うん。ありがと、菫子」
「私こそ。言い訳ばっかりしか浮かばなかったから」
繋いだ手に、ちょっぴりの勇気を委ねて力を込める。はたては握り返してくれた。2人なら何も怖くないとナチュラルに感じた自分の感性に少し驚く。
はたてとは、まだ逢ったばかり。でも不思議なことに、手を繋いで往来を歩いていると、全然そんな気がしなかった。なんでだろう。魂の型が似ているのかもしれない。好きなもの嫌いなもの。生活習慣や行動理念。性格に能力に姿勢。共通点が多ければ多いほど、シンパシーというやつは上がるものだ。
私と似ている誰かの存在を、これまでの私は想像さえしなかった。
現実は退屈で、夢の中は楽しくて、それは一方で私が抱く完璧な途絶の感覚を、もう一方ではあまり強く意識しないから。決定的な差異は、自他を強固に区別する。超能力が使える子も、世界の神秘を暴く野心を持つ子も、外の世界には居ない。少なくとも私は見つけられてない。
はたてと手を繋いでいる私は、まるで私じゃないみたい。人生とは過去の集積であって、常識とはこれまで収集した偏見のインデックス。初めての経験に対する自己評価が、うまく機能してないんだなーって、私はそんなことを思った。これまでの私は、誰かと肩を並べて、歩幅を揃えて、手を繋いで。そうして歩く方法を知らなかったから。
村の外れに、一軒の木造建築が建っていた。黒い瓦、白い漆喰の壁。作りは立派だけど、良くも悪くも目立たないし、微妙に狭い。家というより、蔵に近いものを感じた。つまり、滅多に人が入ることはなさそう。人の気配とか生活感がないって言うか。
「ここ?」
「うん」
握っていた手を離す。辺りを見回したけれど、他には農具なんかを入れておく小屋があるばかりで、鴨居や欄間が設置されてそうな建造物はない。ここで間違いない。
入口の戸板は、いまにもカビが生えそうに湿気ている。鍵が掛かっているかどうかは、見る限りでは判らない。湿気た板の表面は、迂闊に手を伸べるのを躊躇うほど汚れている。
この向こうに。
「行く?」
「ちょっと待って、深呼吸したい……」
はたてが胸に手を当てて目を閉じる。カサカサ、伸び放題になった雑草が触れ合う音。その合間に、彼女が大きく息を吸って、吐く音が混じる。
スマホを取り出して、もう一度、神経を集中させる。対象はこの家。この建物、戸板の向こう。そこで待ち構えるモノ。その視界をジャックすることに生理的な嫌悪の念を覚えつつも、臆病の気が出て、もう一度、いまこの瞬間の状況を確認しておきたくなった。
念を込める。スマホカメラのシャッターを切る。パシャリ。スマホの画面にパッと画像が写りこんで――
「――ひぃっ!?」
悲鳴が漏れる。思わずスマホを取り落としそうになる。横ではたてが腰を抜かしそうなほど飛び上がる。
「な、なになになに、なんなの……っ!」
「こ、」
恐ろしくて。
うまく声が出せない。息が、息ができない。心臓も肺も縮みこんだまま広がらない。
欄間じゃない。写ったのは、欄間の写真じゃなかった。これは、これは、壁の隅だ。壁と壁と天井の境目。
視点が動いてる。
なにかが壁の隅を見てる。
見つめてる。
鼻先がつきそうなほどの至近距離から。
じぃっと。
「うそ、やだ、やだ! やだ! なんで、なんでよ!!」
はたてが叫んだ。もうほとんど泣き出しそうな声だった。彼女も見たんだ。スマホの画面。そして異常に気付いた。
意味が判らない。
意味が判らない。
動くわけなんてないのに。首吊り死体。ぶらさがる縄の長さに限りがあるから。もう死んでるから。重力だってあるはず。なのに。
首吊り死体が。
ダラリと手足を下ろしたまま。
天井の隅まで移動して。
じぃっと隅を見つめる光景が。脳裏で瞬いていた――。
パシャリ。
強張った指の震えで、そうしようとしたわけじゃないのに写真が撮れてしまう。新しい画像が写りこむ。
新しい画像――。
足の力が抜けて、地面に尻もちをついた。
まただ。また、画像は変わっていた。視点は変わっていた。
天井の隅から、部屋の向かい側を見下ろすような写真。
部屋の向かいは廊下。その先に戸板。
戸板の向こう。家の外には、私たち。
――私たちを、見てる。
「こ、これ……」
「うー、うぅう……!」
視界が滲んだことで、自分が泣いてることに気付いた。
私に縋りついてくるはたても泣いていた。あまりに怖くて泣いていた。私も私で、溺れてる人みたく、はたての身体に必死に捕まっていた。
来る。
来る。
私たちのところまで。
なにかが。
恐怖。パニック。喉から血が出そうなほど叫ぶ。私もはたても。
戸板が動いた。ミシミシと厭な音を立てながら横に滑った。
そして。
真っ赤な髪の娘が顔を覗かせて。
「……なにしてんの?」
と怪訝な表情を浮かべた。
燻製ガールズトークからの急な緊張感が凄かったです
二人のガールズトークが可愛くて、後半のシリアスさへのギャップと落ちの滑稽さがとても良かったです。
なんだかんだ二人の邂逅を示す上で、互いの共通点から親睦を深める事に関してとても丁寧に長く尺を取ってくれたお陰で、この作品内が初顔合わせであろうに中盤以降における仲睦まじさに説得力が生まれていたのもとても良かったものです。
燻製をとても美味しそうに食べる姿も可愛いし、はたての着物姿も可愛いし、おまけにラストの展開に至るどんでん返しも含めて読んでいる最中に微笑ましくも思えたという点も面白く読ませて戴きました。こういう仲良くなるまでの過程から描かれた作品として、その二人が楽しそうにしている姿が事細かに描写されているのはやはり凄く良いものですね。ありがとうございました。
お見事です。やられました。