櫓の上に、一人の少女が立っていた。
少女が見下ろすのは観客。彼女の舞を目的に、神社に集った人々と、それ以外の存在だった。
だけど、その少女の心には、一つの姿しか浮かんではいない。
べつに、その他大勢のことがどうでもよいと思っているわけではない。友達のことは大切だし、よく顔を合わせる馴染の相手だっている。
――それでも、今の彼女には、一番の存在がいたという、それだけの話だ。
彼女は言った。
「皆様驚かずに聞いてください。――私、秦こころはこの度入籍の運びとなりました」
彼女の眼下が騒めく。困惑の声を聴く少女の無表情からは、誰も何も読み取れない。
彼女を見る多くの人間にも、精神の機敏に聡い妖怪達にも、勘の鋭い神社の巫女にも。
そして、彼女の視線が捉える先――彼女の親友である、瞳を閉じた親友にも。
わずかに――誰にも気が付かれない程わずかに、彼女は眉尻を下げた。
(これも、こいしが悪いんだから)
秦こころは、心の中で独りごちる。
(こいしが何も言ってくれないから、こうするしかなかったの)
続けて思う心の声を聴く者は、ここには誰もいなかった。
ああ、とこころは思う。
そうだ、せめてあの一ヵ月前。
あのときこいしが、自分のことに気が付いてくれればよかったのに、と。
◇◇◇
「――えっ。こころちゃん、また知らない人に告白されたの?」
「知らない人じゃないよ、何度か公演に来てくれた人」
「ふ、ふうん。それでどうしたの?」
「勿論断ったよ。前から言ってるでしょ、私には心に決めた人がいるって」
「そ、そっかあ良かったー」
――心地の良い風が、博麗神社の中に吹いていた。
薫風と呼ぶには少しばかり季節外れの、真夏の風だった。緑に覆われた神社の空気からは、濃い自然の匂いが感じられた。
神社の外を意識してみると、新緑を風が撫でる音に交じり、カンカンと木と釘を打つ音が聴こえた。一月後のお祭りに使う、櫓を立てている音だろう。確か妖怪の誰かが仕事を請け負っていたはずだ。
……気持ちいいね。
夏を切り取ったかのような風情に爽やかさを得ながら、こころは麦茶を飲み干す。暑くても涼やかでも、やはりこの季節は麦茶に限る。グラスを傾ければ、氷が奏でる響きが尚更に心地いい。
ゆっくりと麦茶を飲み干し、小さな音を立ててグラスをちゃぶ台に置く。
……さて。
「ねえねえこいし、そっかあ良かったーって……なんでこいしが嬉しそうなの?」
「え? あーいやいやなんでもないよ? あーうんうん、こころちゃんに告白する身の程知らずがまだいるなんて、困る困るー」
なにやら早口で捲し立てるこいしと裏腹に、こころの心は落ち着いていた。
努めて冷静に口を開いて、
「確かに少し困ってるけど、好きだと言われて悪い気はしないよ?」
「そう、なの?」
「まあ誰が来ようと私は本命一筋だけど」
「そうなんだ、へええ……」
こころの目には、一見してこいしが焦っているようにも見えた。慌てふためくさまは、あたかもこちらの言葉に動揺しているようにも思える。
しかしこころには、それが全て気のせいだということを知っている。
なにせ、
……こいしの眼は、まだ閉じたままだもんね。
古明地こいし。こころの最大のライバルにして、最高の友人。だけれどその心は、彼女の特性から未だ閉じたままだった。
未だ、という言葉が適切かどうかもこころにはわからない。なにせ閉じた眼が――心が、再び開くものなのかをこころは知らない。ひょっとすると、こいしは永遠にこのままなのかもしれなかった。
悟り妖怪の眼が閉じたことによる影響は、決して心が読めなくなるだけではない。今やこいしの意識は胸の奥に沈んで、心や思考が存在していない状況なのだ。
正常なこいしのことを、こころは知らない。こいしにそんな時代があったということを人伝に聞いただけであって、心を開いたこいしがどんな性格なのかはこころにもわからなかった。
だから。今こころが話していることも、こいしの意識に留まってはいないはず。有り体に言って、全てを忘れられていると言っていい。そのことを、こころは知っていた。
……初めて知ったときはびっくりしたけどね。
「ねえねえこころちゃん、そろそろこころちゃんが心に決めた相手ってのを教えてくれないかな?」
「ん」
思考に沈んでいたこころの意識を、こいしの言葉が引き上げた。しかしこころは、
「どうしてお前に教えなきゃいけないんだ。そのときになったら私から言うから、精々待っているんだな」
「う、厳しいよー」
ぴしゃりといってこいしを黙らせる。こいしが眉尻を下げるのを見て、思わずこころは思ってしまう。
この感情が本物であればいいのにな、と。
悲し気な表情が本物ならば良いなんて、思ってはいけないのはわかっている。それでもこころは、こいしに心を開いてもらいたかった。
だからこそこころは、こいしに自分が告白されたことを報告しているのだ。
自分のことを記憶してくれないことは悲しいことだけれど。
それでも呼びかければ、意識の底から返事が来るかもしれない、と。
もっとも、
……残念ながらずーっと進展なし。現実はキビシー。
「はあ、こいしにはガッカリだ。もう少し成長してくれることを私は望みます」
「い、いきなり罵倒されてる?」
「事実を無くして成長はないんだぞこいし。悔しかったらその第三の眼でこころの心を覗いてみてごらんなさい」
「それができたら苦労しないよーだ」
ふん、とこいしがそっぽを向く。どうやら拗ねているらしいリアクションだが、その反応も本当に感情の伴ったものなのか怪しいものだった。
と、
「こらあんた達、なに私のいない間にいちゃついてるのよ」
「おやこんにちは霊夢さん。でも私は悪くない。私は夏祭りの打ち合わせに来ただけなのに、こいしが勝手に付いて来たのです」
「だってー、こころちゃんがまた告白されたってー」
「はいはい。こころ、阿求が近くまで来てるはずだから迎えに行って来てくれない? 三人そろったら打ち合わせにしましょ」
呆れたように――もしくは何かを諦めたように、霊夢がかぶりを振って言う。
「おっけー任せて、急いで行ってくるね」
「別にゆっくりでいいわよ」
項垂れて机に突っ伏すこいしを置いて、こころは玄関へと向かう。
何やら背後に霊夢の視線を感じながら――それでもなんの違和感も覚えず、こころは神社を後にしたのだった。
◆◆◆
こいしは机から頭を上げた。
すると背後の霊夢がこちらの肩を叩いて、
「――で?」
「……う、今回も駄目だったよ」
続けて背後から音が響いた。それはこころが出ていった玄関とは真逆に位置する、縁側の襖が開いた音で、
「おいおいこいし、今日こそ言うんじゃなかったのか?」
「ああ、魔理沙も来てたんだ。いやほらその、心の用意が間に合わなかったというかー」
こいしは、一瞬で二人に左右を挟まれていた。
……ああもう、仕方ないじゃんー。
こいしはそう思い――心の内で思考をして――帽子を深くかぶり直した。
「そろそろ決断しないと、取り返しのつかないなるかもだぞ?」
「あーもーうるさーい。だってしょうがないでしょー」
好き勝手に言う二人から顔を隠すように、帽子の上から頭を抱えて、
「――とっくに私の意識が戻ってるなんて、今更言えるわけないもん!」
全ては半年前から始まった。
睦月の終わり、博霊神社で催された冬のお祭り。当然のように秦こころは神社で舞を踊っていて、こいしはそれをぼうっと眺めていたらしい。
らしい、というのはこいし自身その記憶がないからだ。
こいしの様子を不審に思った霊夢が声をかけた瞬間、こいしは、はたと意識を浮上させたのだ。まるで、まどろみから目を覚ますように。
こいしは、今の自分が始まったその記憶を鮮明に覚えていた。
……あのときは慌てたなあ、驚くのも混乱するのも久々だったし。
そうやって意識と感情を取り戻したこいしは、しかし第三の眼を開いてはいない。意識はあり、思考もあり、おぼろげながらも昔の記憶は有り――それでいて、心を読む能力だけは喪失したままだったのだ。
故に親友たるこころの心の内まではわからず、こいしは彼女にどう接するかを考えあぐねていた。
もっともこいしにとっては、わからないのは自分の心のことも同じなのだが。
「――別にさ、昔の私がおかしいとは思わないけどー、恥も外聞も戻ってきちゃうと戸惑っちゃうっていうかー」
「はあ。なんだっていいじゃない、さっさとバラしたら?」
「気軽に言うけどさ、こころちゃんってば私がなんでも忘れるからって攻めっ気が強すぎるんだもん。フツー告白されたからって毎回報告に来ないよね?」
呻いて返すが、霊夢は頬杖をついて半目を向けるだけだった。
意識を取り戻してからというもの、何故かこいしは霊夢に面倒を見られていた。正確には、こころに付いていくと自然に博霊神社に辿りつくので、自然と霊夢とも顔を合わせるといったところだ。
こちらは妖怪の身なのだから追い返せばいいものを、何故か霊夢は毎回お茶を出してくれるのだ。
「しかしまあ、こころは皆のアイドルだからなあ。早い方がいいと思うぜ?」
そして、以前からこいしと親交のあった魔法使いは言うまでもない。魔理沙は興味本位を隠すことなく、横から好き勝手に言ってくる有様だ。
「ああもう、大丈夫だって。こころちゃんの方から業を煮やして告白してくるってば」
「ほー、こころが心に決めてる奴がお前だっていう根拠があるのか」
「え」
魔理沙の言葉に、こいしは無言を返さざるを得なかった。
確かに魔理沙の言う通り、こころの思惑の根拠となるものはない。心の中は誰にも見通せず、唯一視ることのできる瞳は沈黙しているのだから。
「で、でもこころちゃんやけに私にアピールしてくるし」
「ああ、典型的な勘違いさんの台詞だな。今から振られたときのことを考えておくのが賢明だな」
「じゃあ魔理沙はこころちゃんの本命って誰かわかるの……?」
「そりゃあこいしだろ」
「もー!」
魔理沙は口元の笑いを隠そうともせず、こいしが上げた怒りの声にも表情を崩さない。
だが、心の読めない今のこいしでも、その笑いに悪意が無いのはわかった。むしろ逆だ。まるで友達同士がふざけているかのような、嫌気の無い笑いだった。
……私が眼を閉じる前って、こんな感じじゃなかった気がするんだけどー。
目を閉じていたときのことは、ぼんやりと覚えている。しかしその前、かつて眼を閉じ心を閉ざしたときよりも前の記憶は、未だに蘇ってはいなかった。
だけれどこいしはこう思う。どう考えても、こんな穏やかな感じじゃなかったよね、と。
自分の本質は変わっていないのに。
自分が知らない間に周りの環境だけが変わっていた。
そのことを喜ぶべきなのだろうけれど。
今のこいしには、素直に喜ぶことができなかった。
「……もうわかったから、私のことはほっといて。次こそ、次こそこころちゃんとしっかり話すから!」
「次っていつだよ」
「あー、じゃあうちでやる夏祭りのどっかで話したら? こころに踊ってもらう予定だけど、演るのは昼と夜の二回だけの予定だから」
「えっ」
先延ばしにしたつもりが死期を早めてしまった。このあたり、どうも会話の機敏に疎くて仕方がない。
「いやほらでも、タイミングってものがあるからさー」
「私から言っておくわよ。こいしがあんたのこと呼んでたから、神社裏に行ってきなさいって」
「あーそれ菫子から聴いたことがあるぞ。校舎裏への呼び出しってやつだろそれ」
「や、やめてよ? こころちゃんには私のタイミングで言うからね?」
こいしは慌てて言うが、魔理沙は笑みを――今度はやや意地悪な笑みを――たたえて、無言のままだった。
「もしこころにお前の気持ちを伝えなかったら、罰ゲームだな。内容は考えておくぜ」
「霊夢ー、魔理沙がいじめるよー」
「嫌ならあんたがどうにかしなさいよ。神社に妖怪が入り浸るのは困るから、早く解決してほしいわね」
「つ、つめたい……」
何をいまさらと思うが、そっぽを向いた霊夢はそれ以上何も言わない。どうやら、これ以上助けを求めても無駄のようだった。
と、神社の外から二人分の足音が聞こえた。こころが阿求を連れて戻ってきた音に違いなかった。
「――もうっ、二人とも好き勝手言ってー! 私今日は帰る!」
「こころと顔を合わせるのが恥ずかしいのね」
「感情を味わうのは知的生命体の特権だな。ところでその感情が甘酸っぱいって本当か?」
「うぁ……とにかく帰るから!」
足音が大きくなる前に縁側から外に飛び出す。こんなこともあろうかと、靴は縁側に置いていて正解だった。
「お祭りはひと月後だから適当に遊びに来なさいよねー」
「わ、わかったー」
既に身を宙に投じさせたこいしに、霊夢が声をかける。
……妖怪相手に冷たいようで、やけに優しいんだよねー霊夢って。
短い付き合いでも、そのことくらいはこいしにもわかった。霊夢本人にそのことを問うたとて、認めはしないのだろうけど。
「じゃあなあこいし、お祭りは期待してるぜー」
「うるさーい!」
結局はそんな叫びを浴びせながら、こいしは神社を後にした。
◇◇◇
それから一月後、博霊神社は祭りの時期を迎えていた。
本殿までの道端には出店が並び、妖怪と妖精が各々の商品を並べている。彼女らは人妖の隔てなく商品を売り込み、はしゃいで楽しむことに余念が無い。
その喧騒の中を進むと、境内奥に一つの高い建築物があった。
それは、櫓だ。
この祭りのために、地底の伝手を頼って建てられたものだった。
言うまでもなく、こころが躍るための舞台だ。
櫓の周りには椅子が並べられており、その大半に人や妖怪が座っている。
既に時間は正午を大きく回り、皆が昼食を取った後の時間帯だ。舞を踊るには絶好のタイミングであり、座る客達も今か今かと待ちわびていた。
その中ざわめきの中、前列側に座る二人組がいた。
一人は巫女の姿をしていて。
もう一人は、黄色いリボンのついた帽子をかぶった姿だった。
その片方、黒髪の巫女は呆れた様子で口を開くと、
「……で、罰ゲームは受けなくて済みそう?」
「うーんと……難しいかも」
◆◆◆
霊夢は、右に座るこいしを眺めた。
どこかそわそわと落ち着かない様子で、かつてのこいしとは似ても似つかない。化けた狸や狐だと言われたら、信じてしまうかもしれなかった。
……まあ、私はこいつの元の姿なんて知らないわけだけど。
こいしは第三の眼を閉じ、無意識の住人になったという。当然その前と後では人格も違うし、受ける印象だって違うのだろう。とすれば、今のこいしを「違う」と感想するのは、少しずれた考えたかもしれない。
「ま、私としては今のあんたが問題起こさなければそれでいいんだけど」
「えー私なんか変なことしたー?」
「沢山したでしょ、この間もこっそり里に忍び込もうとしたりして」
「だってー」
こいしが頬を膨らませて抗議をするが、里のルールを破ろうとしたのは頂けない。
仮にも人里は妖怪の侵入を禁止しているのだ。寺子屋の教師やら、寺の奴らやら、それこそこころなんかの例外はあるし考えてみると基準がおかしい気もするが、それでも一応ルールはルールである。
「あんたね、昔とは違うんだから勝手に入ろうとしないの」
「わかったわかったって。あーあー、誰にも気づかれなかった昔が懐かしいわ」
「私の許可さえあれば入ってもいいから。入りたいときは私に言いなさい」
「保護者同伴ってことだね。りょーかい霊夢ママ」
「誰がママよ誰が!」
思わず声を荒げると、周りに座る客が引いた。
慌てて様子を窺えば、周囲からはひそひそと囁きが聴こえて、
「えっ巫女様子持ちになったんですか……?」
「妖怪神社と聞いてたけどついに妖怪の子供を手籠めにしたのね……」
「これ阿求ちゃんに報告した方がいいかな……」
「いつかやると思ってたぜ。これからは神社には近づかない方がいいよな、ほら周りもこう言ってるぜ」
「ちょ、違いますから! 誤解ですから! 博霊神社は今も昔も清廉潔白ですから! ……っていうか最後の魔理沙でしょ! 出てきなさい!」
すると背後から衝撃が来た。背後方面に座っていたらしい魔理沙は、こちらとこいしの肩を抱くようにして腕を伸ばすと、
「私がいない間、こいしの面倒は霊夢が見ていてくれたんだな」
「何よあんた、ここ最近顔も見せないで。一体何してたのよ」
「いや? 別に何でもないぜ」
「ふーん」
博霊の勘が魔理沙の言葉を嘘だと断定していたが、今のところ証拠が無い。
じと眼で睨んでみても、魔理沙は音の無い口笛を吹いて誤魔化すだけだった。
「えーっと魔理沙、最近こころちゃんを見ないんだけど、何してたの?」
「気になるか?」
「うん。だって全然こころちゃん捕まらないし、人里の中で打ち合わせしてるのかなーって忍び込もうとしても霊夢に止められちゃうんだもん」
「あんたが勝手なことするとうちの評判に関わるのよ」
「ママだもんな」
「ママのいじわるー」
「うっさいわ!」
じゃれて腕に引っ付くこいしのことが、一瞬可愛く思えてしまったのは一生の不覚だ。じゃれて肩に引っ付く魔理沙はただ邪魔としか思えなかったので強めにどついておく。
「私も何度かこころと打ち合わせしたけど、なーんか引っかかるのよね」
「私は知らないぜ。どつかれた痛みで記憶が飛んでしまったからな」
「うーん」
呻いてみるが、定刻が近いのは嘘ではない。見上げてみれば、宙に舞ったこころが櫓の上に飛び乗ったところだった。
ざわざわと騒がしかった周囲が、自然と静かになっていく。魔理沙も元の席に戻ったのか、気配が消えていた。
そしてこいしはといえば、
「ぁ――」
……完全に見惚れてるわね、これ。
恋する乙女という奴だろうか。その手の感情は未だに理解が無いが、魔理沙や早苗ならば何かわかるのかもしれない。
……ま、私の知ったこっちゃないけどね。
霊夢はそう思って、改めてこころを見上げた。
◆◆◆
音が聞こえる。
それは肉体が空気を割る身振りの音。弾くように身体が飛べば、木張りの床を踏んで跳ねる硬音が鳴りもする。
と思えば、割るというより裂くと呼ぶべき音が聴こえた。いつの間にか彼女が手にしていた薙刀が、空間を通り抜けた音だった。
彼女が飛んで跳ねて回って踊れば、その度に心地の良い音が聴こえる。
そしてその音の発生源を――秦こころを見て、こいしは思う。
……きれい。
綺麗。美しい。きらびやかできらきらしていて、可愛くて最高で尊いやったあ。などと言葉が頭の中を巡り、改めてこいしは認識する。今自分は、感情を得ているのだと。
この半年は、自分が生まれてきた中で一番感情豊かな時期だったに違いない。こころの一挙手一投足に心が躍り、魔理沙の弄りに怒りながらも楽しさを覚えた。霊夢の冷たくも、やっぱり暖かい感触を体感したりもした。
――だからこそ、こいしは重ねて思うのだ。
……こころちゃんは、どうして前の私を受け入れてくれたんだろう。
なにせ、意識が戻る前の自分には何も無かった。無意識という無いという概念だけがあり、心も感情も意志も無かったのだ。
そんな空虚な妖怪を、好いてくれる相手がいるとは思えなかった。そして同時に、
……昔の私は、無意識でどう思っていたの?
今の自分が、こころに惹かれているのは目を逸らせない事実だ。これを恋心と言うならば、そうなのだろう。
でも、こころと出会って交友したのは、あくまで昔の自分だ。
昔の自分は、彼女のことをどう思っていたのだろう。否、思うことすらできなかったはずなのだ。
なら、今の自分の想いは――。
「――以上。昼の部はこれにて終了になります。ご観覧いただき有難う御座います」
「……あ」
気が付くと、舞台が終わっていた。目を逸らしていたわけではないのに、そのことにすらこいしは気が付いていなかった。
……こんな調子で、本当にこころちゃんに伝えられるのかなあ。
見惚れていて、呆けてしまうようでは先が思いやられる。
「はあ、感情ってやっぱり苦しいね」
と、こいしが呟いたときだった。
櫓から降りずにいたこころが突然手を叩いたのだ。
……え?
「実は今日は皆さんに、ビッグニュースがあります」
「こころちゃん?」
さも何かを思い出したかのように振る舞うこころに、こいしはまともな反応ができなかった。
こころは大きく深呼吸をすると、眼下をぐるりを見渡した後に、
「皆様驚かずに聞いてください。――私、秦こころはこの度入籍の運びとなりました」
と、そう言った。
「……今、なんて」
「なお、式は明日を予定しております。お祭りが終わったらすぐいうことですね」
耳が捉えた言葉を、脳が理解してくれなかった。
一瞬後に意味を嚥下して、
……まって。
「待って、今なんて――」
「ちょっと待ちなさいこころ! 私聞いてないわよ!」
思わず立ち上がろうとしたこいしを制したのは、隣に座る霊夢だった。
飛び上がる勢いで立ち上がった霊夢は大声を上げながら、
「そんなのやるなら私にも話しなさいよ! 準備とか色々あるじゃない!」
「おや霊夢さん心配どうも。でも気にしなくて大丈夫。式は人里のほうで挙げる予定なので」
「な、何言ってるのよ。里でそんなことできるわけないじゃない!」
「安心して霊夢さん。阿求さんには許可を取っているから」
「それに里でやったんじゃ神社に利益が入らないわよ!?」
「うわっ」
周囲の白い目で霊夢が黙り込むが、こいしとしてはそれどころではなかった。
「待ってよこころちゃん!」
「……ああ、こいしか。どうしたの?」
「どうしたのって……だって、その、なんで……結婚する、なんて」
「なんで、かあ。うーん、そろそろいい頃合いだから、かな?」
変わらないこころの真顔が、こいしにはどこか違って思えた。まるで惚けているように、こちらの言葉に向き合わないような、そんな印象を受けたのだ。
「だってこころちゃん、前から心に決めた人がいるって言ってたのに!」
「うん、そうだよ。だから、そうすることにしたの」
「そう、って」
「だから、その相手と一緒になることにしたの」
「――うそ」
一瞬、全ての感情が再び消え失せたかと思った。
否、違った。そう思えるほどに、心が冷たさを感じただけだった。
腹の底から重いものが湧き出し、胃を満たすのがわかる。
今までの生で感じたことの無い――もしくは感じたことを忘れている昏い感情が、頭の中を刺し貫いていた。
「ええっと、おーいこいし、大丈夫かー?」
こころの声が、辛うじて届いた。何を言っているのかはわからず、それでもこころがこちらを心配してくれていることだけはわかった。
だけど。数日後にはその心配も他人に向けられるのだ。こいしは咄嗟にそう思ってしまった。
そこに自分はいなくて、自分の知らない誰かが、こころの気持ちを独占していて――。
「と、とにかくそういうことだから。それじゃあ皆、また夜の部も宜しくー」
「あっ待って!」
声が届いていないのかどうなのか。こころはさっと櫓を降りて、息付く間もなく消えてしまった。
今から駆け出せば十分に捕まるはず、とこいしは思った。だけどどうしてか、身体は動いてくれなかった。
「……顔が真っ青よ。本当に大丈夫?」
「……うん」
一瞬誰の声か解らなかった。だけどすぐに霊夢のものだとわかって、
「ほら、こっちきなさい」
「へ?」
「保護者の言うことは聞くものよ。いいから神社で休みなさい」
「え、うん、ありがと」
霊夢に手を引っ張られるようにして、こいしは歩く。
ちらりと周りを見渡すが、こころの姿は見つけられなかった。
「言っておくけど、あんたに倒れられたら騒ぎになってお祭りが中止になるかもしれないってだけだから」
「なにが?」
「……なんでもない」
ぶつぶつと霊夢が言うが、今のこいしには気にする余裕もない。
「こころにも疲れたら神社で休んでていいわよって言ってたんだけど、この調子じゃこないかもね」
「…………」
「一回人里に戻ってるのかも。結婚式だかの用意もあるんでしょうし」
「……ぐす」
「って何泣いてるのよ! 私が泣かしたみたいじゃないの、あーもうほら」
かちゃ、がらり、と戸が開く音が聴こえた。いつの間にか玄関に着いていたらしい。そのまま手を引かれて居間まで連れていかれると、
「ったくもう、しばらくここにいていいから。寝るなら服脱いだ方がいいわよ皺になるから。お布団持ってこようか? ああ、今お茶入れて来るから待ってなさい」
言うだけ言って、霊夢は部屋から出ていってしまう。いつもながら、やけに面倒を見てくれるのが謎だ。
しかし、そんな霊夢のおかげかどうかはわからないが、少しだけ思考に余裕が出た。先ほどのことを考えることも、できそうだった。
とはいえ、
「こころちゃん、どうしてあんなことを……?」
◆◆◆
……まったく、こいしも子供なんだから。
薄々気が付いていたが、どうやらこいしの精神は幼い子供のそれらしい。感情が豊かなのは良いことだが、放っておくと何をするかわからないのが面倒なところだ。
湯呑にお茶を注ぎながら、霊夢は思考する。
……大体、何を躊躇しているんだか。
霊夢自身、自分が子供である自覚はある。だからこそだろうか。こいしがこころに気持ちを伝えられない気持ちが理解できなかった。
湯呑を盆に乗せて、襖を開ける。こいしを見ると、どうやら少しは落ち着いた様子のようだ。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがと」
こいしの向かいに座ってお茶を啜る。暑いときでも、熱いお茶は良い。どこか心を落ち着かせてくれる気がする。
「ま、夜までゆっくりしてなさい」
「夜までって、お祭りが終わるまでってこと?」
「え、何言ってんのよ。こころの舞が始まるまでってことよ。夜の部は日が落ちてからになるから、暗くなってきたら外に出なさいよね」
言ってこいしの顔を見ると、何故か彼女は呆けた表情を浮かべていた。
「何よ、その顔は。ここままじゃ、あんた魔理沙の罰ゲームを受けることになるわよ」
「えっ、だってもうこころちゃんは……」
「それとこれとは関係ないでしょ。というか、当然こころを引き留めるつもりだと思ってたけど」
「――――」
こいしが、今度は動揺の表情を見せる。
本当に、子供みたいに表情が変わる。正直可愛いと思うけれど、今は言わないことにしておく。
「あのねえ、前のあんたはもう少し積極的っていうか、押せ押せキャラじゃなかったっけ?」
「……だって、もしこころちゃんに受け入れてもらえなかったらと思うと、怖いんだもん」
「じゃあこのままでいいの?」
「……やだ」
力なくこいしが首を振る。言っていることが矛盾しているのも、また子供らしい。もっとも本当に子供の精神なら、怖いだのなんだのと思うことすらしないのだろうが。
「前からよくわかんないんだけど、なんでそんな後ろ向きなのよ。傍から見てても、こころの奴はこいしのこと気に入ってると思うけど?」
「私も、そう思う。だけど」
「だけど?」
「それは、前の私だから」
「なにそれ」
「だからさ。こころちゃんが知ってる私は昔の私で、今の私じゃ……ないから」
「……ふーん、そういうこと」
こいしの声が尻つぼみになって、最後は消え入るような小ささになった。
それほどまでに声に出して言うのが恐ろしいらしい。
きっとこいしはこう言いたいのだ。
意識を取り戻す前の自分と。
意識を取り戻した後の自分がいて。
その二人は別人なのだから、今の自分は受け入れられないのではないか。
おおよそ、そんなところだろう。
……馬鹿ねえ。
馬鹿。本当に馬鹿だ。思わず苦笑が浮かんできて、気が付かないうちにこいしの頬を撫でていた。
こいしが光の灯った眼で霊夢を見る。悲し気な、それでいて穏やかな瞳は一見して無害な子供にも見える。
そして霊夢は、
「――あんたねえ、自分が嫌な性格だって自覚無いわけ?」
「へ?」
「今昔も、こいしは嫌な奴だって言ったのよ」
◆◆◆
……やっぱり、優しいのか冷たいのかわかんないなー霊夢は。
「私、嫌な子かな?」
「他人の気持ち考えずに、ずけずけ言うところとかね」
「う」
「この間の異変のとき、紫の奴に友達いないとか言ったんでしょ? 結構傷付いてたわよアイツ」
「ごめんなさい。つい本当のことを」
「真実は時に相手を傷つけるのよ。覚えておきなさい」
「うん」
「それと盗み食いの癖は今の直ってないようね。私の秘蔵の御煎餅食べたのこいしでしょ?」
「言い出せなかったんだけど、実は何枚も」
「まあ今の方が痕跡を残す分まだましね。口に粉が付いてるけど言わないであげたのよ」
「そ、そうだったんだ」
「あと本命がいる癖して魔理沙と距離が近い」
「へ?」
「……ごめん今のナシ。とにかく――」
霊夢は言った。言葉を区切り、胸の中から面倒くささを吐き出すように息を吐いて、
「こいしは前から変わんないのよ。無遠慮さは今の方がましだけど、嫌なことから逃げてるところは一緒ね」
「ストレートに言うね」
「言わないとわかんないでしょ。どうせ大昔に眼を閉じたときだって、大した事件があったわけじゃないんでしょ?」
「うう、相変わらず鋭い」
遥か昔の記憶が無いこいしにとって、第三の眼を閉じた理由も同様に喪失していた。姉に聞いても適当な理由を言われるだけで、具体的な事件があったと聞かされていなかった。
本当に、ちょっと嫌なことがあっただけで、簡単に眼を閉じてしまったのだろう。こいしは昔の自分を、そんな弱い子だったのだと推測していた。
だけど。そんな性格の自分でも、昔と今が変わらないのなら――
「……こころちゃんも、そう思ってくれるかな」
「知らないわよ、私こころじゃないし。本人に聴いてみたらいいでしょ」
「霊夢の話を聞いてると、私って嫌な子だなあって気持ちが後ろを向いちゃうよ」
「こころは嫌な性格を好む変態だって可能性はあるでしょ」
「うーんポジティブ」
「だからまあ、適当に伝えてきなさい。玉砕したら、一晩くらいやけ酒に付き合ってあげるわよ」
どこまで冗談なのかはわからない。だけど少なくとも、最後の一事は本気で言ってくれているように、こいしは思った。
「……でも、もうこころちゃんは結婚するって言ってたよね」
「別にどうでもいいでしょそんなこと。ああほら、私としては里人と妖怪がくっつくのは困るから、うん、こいしがこころのこと奪ってくれると助かるのよ」
うんうんと腕を組んで頷く霊夢の言葉は、今度こそ冗談かどうかわからなかった。
けれども大事なのはそこではない。きっと霊夢は、こちらのことを励まそうとしているのだ。こいしは、そう確信する。
「……有難う、霊夢。元気出たよ」
「はいはい。じゃあ私は外の様子を見てくるから、時間になったら外に出てきなさい」
「はーいそーする」
「一人にするけど暴れないでよ? 勝手な事したらあんたの姉にも責任とってもらうから」
「声の温度が低いよ霊夢」
冷えた語気で告げる霊夢に、こいしが思わず苦笑を浮かべる。
そんなこいしの反応を気にしたふうもなく、ひらひらと手を振って霊夢が外に出ていった。ふと机の上を見ると、玄関の鍵が置いてあることに気が付く。やっぱり変なところで、妖怪のことを信頼しているらしい。
……お姉ちゃんもそう言ってたっけ。
少し前、姉に霊夢のことを聞いてみたことがある。あの妖怪に厳しくも優しい巫女の本心は、一体どこにあるのかと。かつての異変で顔を合わせた姉ならば、その心の内を知っていると思ったのだ。
そしてそのとき、姉はこう言っていた。
「“妖怪なんて嫌いよと思ってるみたい――うわべの思考の上ではだけど”だっけ」
含み笑いで言う姉は、何かを伏せているようにも見えた。
それを聞いたとき、結局霊夢の本心はわからないものなのだと思っていた。けれど――きっと、どちらも本音なのだろう。
意識と無意識が両方本心であるように。
昔と今の古明地こいしが、連続しているように。
霊夢は霊夢で、どっちの霊夢も本当の霊夢なのだろう。
そんなことを考えていると、無性におかしくなってくる。
霊夢の性格の豹変ぶりから考えれば、自分のことなんて気にするほどのことでは無いように思えたからだ。
結局、こころがどうして昔の自分を気にかけてくれたのかはわからないままだ。
そして何を彼女に言ったところで、今更心変わりをさせることはできないのだろう。
でもそれでもいい。言うだけ言って、駄目でも何度でも言えばいいのだ。
こころがこっちを向いてくれるまで。
ライバルが潰れてこころを諦めてくれるまで。
――そんなことを思っているから、性格が悪いと言われるのだろうけれど。
私は昔から嫌な子だもんねと、今のこいしは納得できるのだった。
◆◆◆
「……それで、話って何? 私、この後夜の部があるんだけど」
「えっと」
「こいしも存分に見て行ってね。私とこいしが親友である最後の夜なんだから」
「――うぅ」
無表情で――いつもと違う冷たさで、こころが告げる。
櫓の上。照明を落とした舞台上。そこにこいしとこころは立っていた。
冷たく言い捨てたこころを前に、こいしは自分の気持ちが後ろ向きになっているのを感じる。
そんな言い方をしなくてもいいじゃないか、とこいしは思う。
だけどこころの言うことは正しいのだろう。傍から見れば、きっと古明地こいしという存在は、彼女に取って邪魔にしかならないのだろう。
……ふう。
心の中で深呼吸。今、櫓の上に乗っているのは、こいしとこころだけ。
距離にしてみれば大したことが無いはずの地上は、どうしてかはるか遠くに思えた。まるでここが、二人だけの世界になってしまったかのようだった。
もう数分後には、こころの舞が始まる。だからその前に、伝えようと思った。
たとえ、これが最後になってしまっても。
「じゃあ、単刀直入に言うね。こころちゃん」
「うん」
「こころちゃん――は、ええと、その、私のことをどう思ってますか?」
「は?」
この期に及んで曖昧な質問をしてしまった。
こころが呆れを隠しもせず、般若のお面を振りかぶるのが眼に映る。
「まってまって! 今の無し!」
「うんわかった。それでは残機が残り一つとなったこいしさん、リテイクをどうぞ」
「ミスは一回までとは厳しいー……」
まあこれも仕方がない。これまで逃げてきたツケが回って来ただけの話だろう。
「大丈夫? 緊張してる? しかしながら次がラストチャンスです。頑張れ頑張れ」
「う、わかってるよーもう」
と、そんな軽口を叩いていると、思わず笑い出しそうになる。こんなときなのに、自分達は昔から変わらないなあとこいしは思う。
ふと思い出したのは、初めて自分達がであったときのことだった。
かつての異変。こころの感情が暴走して、人里全てが騒ぎに包まれていた頃。感情豊かなこころを前に、感情の無かった自分は飄々とこころの言葉を躱しては受け取らなかった。
……私と違って、こころちゃんは変わらないなあ。
異変の最中、こころの感情は乱れていて、不安で寂しく心細かったに違いない。それでも彼女は、相手の心配ばかりをしていたのだ。
それは現在も変わらない。表面上は冷たくあしらって、どこかふざけてはいるけれど、昼だって夜だって、こころはこいしの心配ばかりをしてくれていた。
もしかしたら、古明地こいしという存在が、秦こころに惹かれているのは、優しくしてくれただのなんだのと、極々平凡な理由に過ぎないのかもしれない。
こいしが眼を閉じた理由が、きっと大したことじゃないように。
惹かれた理由なんて、一々考えなくてもいいのだろう。
こいしがこころに伝えたい想いがあるならば、そこに特別な理由なんて要らないのだ。
「――よし」
ぱちん、と両手で頬を叩く。
緊張、という感覚を味わうのも久しぶりのことだ。覚えは無いが、眼を閉じる前はいろんな感情に振り回されていたのだろう。
かつての自分は、きっとそれから逃げてしまった。なんてことのないストレスから、種族の特性を利用して逃げてしまったのだ。
眼を閉じて勿体ないことをしたな、とは思わない。その過去があってこその、今なのだから。
でも、今だけは逃げないようにしよう。
だって自分の心がもう、伝えたいと叫んでいるんだから。
「こころちゃん、聴いて欲しいの」
「…………」
もはやこころは何も言わなかった。
だからこいしは、大きく前に歩いてこころの肩を掴むと、
「私は――古明地こいしは、こころちゃんのことが大好きです」
だから。だから、
「私と一緒になって、駆け落ちしてください!」
◆◆◆
いやいや駆け落ちってなんだ嗚呼そうか私が結婚するって言ったからかだとか、顔が近いだとか、声が大きい息が当たってるだとか、こころの中から言いたいことが溢れては消えていった。
それよりも問題がある。こいしの言葉に――大好きという言葉に、胸の奥から込み上げる感情が湧いては沸騰していたからだ。
感情を操る能力を使いこなすこころにして、久々に扱いきれない熱量であることが自覚された。
……いやいやおかしい。私もこいしのことが好きなんだから大好きと言われたくらいでこんなに熱が込み上げてくるのはおかしいおかしいいやいや。
そう思考をすれども、現実はそれに反していて、消えない熱が身体の中を満たして治まらない。色で言えば緑と赤。喜の感情に代表される緑色に、感情の炬火たる怒りにも似た赤色が混じっている。でもこれは、憤怒ではなく、どちらかと言えば――、
「……こころちゃん、顔が真っ赤だよ?」
「え?」
「もしかして……照れてる?」
「――ぁ」
こいしに言われて自覚する。ああそうだ、これは恥じらいの感情だ。
「照れてない!」
「えーでも」
「照れてないって! ああもう貴様が大好きだなんていうから!」
「んーやっぱりそれ照れてるんじゃ」
「違う! それにそういうこいしこそ顔真っ赤だぞ!」
「あーうん。私はとっても照れてるよ? 大好きな人に想いを伝えたんだもん」
「最悪! 最悪の逆切れだ!」
こう開き直られると反撃の手段が無い。なにせ何を言おうが全て肯定されてしまうのだ。一方的に殴られるしかないという現実を、受け入れるほか無いのだ。
「もう、なんでいきなりそんなこと言い出すんだお前は! 折角私がリードしてたのに!」
「だってこころちゃんが冷たくするから……でもでも、私を心配してくれてたのはちゃんと伝わったよ?」
「うぐぐ。だ、騙されないぞ。きっとそんなこと言っておいて、いつも通り感情は眠ったままなんだろう?」
勢いで喋ってしまったが、徐々に頭が冷えて来る。そうだなんてことはない。こいしは変わらず無意識の住民で、今見えている――ように見える感情だって、きっと偽物のはずなのだ。
……ふう。
急激に心が落ち着いて、冷えるを通り越して凍り付くのがわかった。
すん、と思考を働かせてみれば、なんてことはない独り相撲をしていたにすぎないのだ。
こいつに照れることなんて何もないじゃないか――。
「えーっとねこころちゃん。ごめんね」
「は、なにが?」
「私とっくに意識を取り戻してるんだ」
瞬間的に心が噴火した。
……いやいや待って待って!
「え、じゃあ、こいしの言葉は」
「うん。全部、私の本心」
「……いつから?」
「半年くらい前から」
「じゃあ私の告白についての話は……」
「ずっと正気で聴いてたよ。その度に心臓がドキドキしちゃった」
「…………ちなみにこのことは誰か――」
「霊夢と魔理沙が知ってる。あ、勿論お姉ちゃんも」
「――おい! 魔理沙! 聴いてるんだろう! 出て来い!」
すると物音が真下から鳴ったので、
「そこか!」
「うわ!」
薙刀を手元に現してずぶりと突き刺す。続いて白黒の姿が転げるように櫓から這い出たので、
「ねえねえこれはどういうこと? こいしの意識を取り戻すために、人里で式を挙げるお芝居を打つはずじゃなかったの? ねえねえ」
「……あ、お芝居だったんだ」
「まあ待て話せばわかる」
じり、と魔理沙が背後ににじり下がる。
「私もいい加減お前らにはハッピーエンドを迎えて欲しかったんだ。決して面白そうだなんて興味本位でこころを騙――誘導したわけじゃあないんだぜ?」
「――それはいいけど、あんた私にも声かけなさいよね」
「あ、霊夢さん」
気が付けば、観客席から霊夢が出てきていた。
霊夢は魔理沙に抱き着くように――或いは腕で首を絞めるように、背後から身体を密着させていた。
「上手くいったからいいようなものの、こいしのやつ泣いてたのよ?」
「いや、それに関しては悪かったと思ってる。いやほら、いつもの私達からしたらあれくらいで泣くとは思わないだろ?」
魔理沙の言いたいことはわかる。色々と過激なことを叫んでは弾幕ごっこに興じるのが自分達の毎日だ。軽く思い出すだけでも、ひどいことを言ったり言われたりする日々が想起された。
そんな自分達の関係を想えば、いくら心の機微に聡い魔理沙とて、こいしの心を読みそこなったとしても仕方がないのだろう。たぶん。
「はあ、まあいっか。魔理沙だって、友達の為にしてくれただけだもんね」
「私も気にしてないよ。私とこころちゃんの為にしてくれたことだもんね」
こいしが困ったようにはにかむ。それは呆れと疲れを孕みながらも、しかし幸いを隠していないような、温かい表情だった。
……本当に、感情があるんだ。
霊夢が魔理沙を絞め落とすのを見届けると、こころはこいしに向き直った。
「こいしに感情があるの、私嬉しい」
「うん、そうだね。私も、そう思う」
「だから、私もお返しに言っておこうと思う」
咳ばらいを一つ。こころは、こいしの眼を見て、
「私も、秦こころも――古明地こいしのことが大好きです」
「――あ、あ。これ、凄いね」
こいしが胸を手で押さえて、ぎゅっと力を込めた。
どうだお返しだと思ったけれど、こいしの身体が緑と赤の色で包まれる程、こちらの身体を支配する色も、また濃くなるだけだった。
「ちなみにこころちゃん、一つ聞いてもいい?」
「なあに?」
「私のどんなところが好き? ええとできれば昔と今の両方で――」
……?
「変なことを聞く奴だな。希望に溢れた姿が愛しかった、ころころ変わる動きと表情が興味深かった、私の希望を大事にしてくれたのが嬉しかった、忠告を受け入れない姿を守りたいと思った、瞳が綺麗で声が可愛くて髪が艶やかで、ああそうだ勿論弾幕戦の良きライバルとしても魅力的で、最近は表情豊かで超かわいい思っていたけど、思えば感情が戻っていたからだったんだ。
――うーんなんか言語化すると寺子屋の読書感想文みたいに味気なくなるね。でも私がこいし大好きなのは本当だから――」
「わかったわかったよ! 信じてないわけじゃないから! 伝わってるから!」
「じゃあなんでそんなこと聞くの?」
「いやほら、昔と今の私って違うから、その」
「え? こいしはこいしでしょ?」
そういうと、こいしはぺたりと床にへたり込んでしまった。どうやら自分では立ち上がれないらしい。
完全に脱力したこいしは疲れ切った表情で、
「……はあ、悩むだけ馬鹿だったってことかー」
「何の話?」
「いやうん。思ったより、私って素敵なんだなーって」
「……今更?」
疑問を素直に口にすると、またこいしが静かになってしまった。
まったくよくわからない。感情を理解して相手の気持ちを限定的に視ることができるようになった身であっても、まだまだ修行は必要らしい。
「まあうん、今日のところはこころちゃんが結婚するっていうのが嘘で良かったよー」
「いや、それは嘘じゃないぞ? 人里でってところがお芝居なだけで」
「え?」
こいしが疑問すると同時、櫓周りの照明が輝いて、こころとこいしを照らし出した。いつの間にか霊夢が照明のスイッチを手にしていたのが見えたけれど、霊夢なりのサービスのつもりだろうか。
「こころちゃん、何が……嘘じゃないの?」
「――結婚するのは、嘘じゃないって言ったの」
そしてこころは、こいしを抱き上げるように、抱きしめるように、両腕で持ち上げて顔を寄せる。そして、
「――――」
眼下から、歓声が響いた。
いつの間にか集まっていた観客が、こころとこいしを見て、上げたものだった。
そしてこころはこいしから顔を離して、
「――秦こいしになったら、さとりさんが寂しがるかな?」
告げた先、こいしは今度こそ全身真っ赤になっていて。
きっと自分も同じくらい赤いのだろうと心が察していたけれど。
それでも、こころはこいしから手を離さなかった。
ずっと前からの一番を抱きしめながら。
この感情に今も昔もないと、そう思いながら。
少女が見下ろすのは観客。彼女の舞を目的に、神社に集った人々と、それ以外の存在だった。
だけど、その少女の心には、一つの姿しか浮かんではいない。
べつに、その他大勢のことがどうでもよいと思っているわけではない。友達のことは大切だし、よく顔を合わせる馴染の相手だっている。
――それでも、今の彼女には、一番の存在がいたという、それだけの話だ。
彼女は言った。
「皆様驚かずに聞いてください。――私、秦こころはこの度入籍の運びとなりました」
彼女の眼下が騒めく。困惑の声を聴く少女の無表情からは、誰も何も読み取れない。
彼女を見る多くの人間にも、精神の機敏に聡い妖怪達にも、勘の鋭い神社の巫女にも。
そして、彼女の視線が捉える先――彼女の親友である、瞳を閉じた親友にも。
わずかに――誰にも気が付かれない程わずかに、彼女は眉尻を下げた。
(これも、こいしが悪いんだから)
秦こころは、心の中で独りごちる。
(こいしが何も言ってくれないから、こうするしかなかったの)
続けて思う心の声を聴く者は、ここには誰もいなかった。
ああ、とこころは思う。
そうだ、せめてあの一ヵ月前。
あのときこいしが、自分のことに気が付いてくれればよかったのに、と。
◇◇◇
「――えっ。こころちゃん、また知らない人に告白されたの?」
「知らない人じゃないよ、何度か公演に来てくれた人」
「ふ、ふうん。それでどうしたの?」
「勿論断ったよ。前から言ってるでしょ、私には心に決めた人がいるって」
「そ、そっかあ良かったー」
――心地の良い風が、博麗神社の中に吹いていた。
薫風と呼ぶには少しばかり季節外れの、真夏の風だった。緑に覆われた神社の空気からは、濃い自然の匂いが感じられた。
神社の外を意識してみると、新緑を風が撫でる音に交じり、カンカンと木と釘を打つ音が聴こえた。一月後のお祭りに使う、櫓を立てている音だろう。確か妖怪の誰かが仕事を請け負っていたはずだ。
……気持ちいいね。
夏を切り取ったかのような風情に爽やかさを得ながら、こころは麦茶を飲み干す。暑くても涼やかでも、やはりこの季節は麦茶に限る。グラスを傾ければ、氷が奏でる響きが尚更に心地いい。
ゆっくりと麦茶を飲み干し、小さな音を立ててグラスをちゃぶ台に置く。
……さて。
「ねえねえこいし、そっかあ良かったーって……なんでこいしが嬉しそうなの?」
「え? あーいやいやなんでもないよ? あーうんうん、こころちゃんに告白する身の程知らずがまだいるなんて、困る困るー」
なにやら早口で捲し立てるこいしと裏腹に、こころの心は落ち着いていた。
努めて冷静に口を開いて、
「確かに少し困ってるけど、好きだと言われて悪い気はしないよ?」
「そう、なの?」
「まあ誰が来ようと私は本命一筋だけど」
「そうなんだ、へええ……」
こころの目には、一見してこいしが焦っているようにも見えた。慌てふためくさまは、あたかもこちらの言葉に動揺しているようにも思える。
しかしこころには、それが全て気のせいだということを知っている。
なにせ、
……こいしの眼は、まだ閉じたままだもんね。
古明地こいし。こころの最大のライバルにして、最高の友人。だけれどその心は、彼女の特性から未だ閉じたままだった。
未だ、という言葉が適切かどうかもこころにはわからない。なにせ閉じた眼が――心が、再び開くものなのかをこころは知らない。ひょっとすると、こいしは永遠にこのままなのかもしれなかった。
悟り妖怪の眼が閉じたことによる影響は、決して心が読めなくなるだけではない。今やこいしの意識は胸の奥に沈んで、心や思考が存在していない状況なのだ。
正常なこいしのことを、こころは知らない。こいしにそんな時代があったということを人伝に聞いただけであって、心を開いたこいしがどんな性格なのかはこころにもわからなかった。
だから。今こころが話していることも、こいしの意識に留まってはいないはず。有り体に言って、全てを忘れられていると言っていい。そのことを、こころは知っていた。
……初めて知ったときはびっくりしたけどね。
「ねえねえこころちゃん、そろそろこころちゃんが心に決めた相手ってのを教えてくれないかな?」
「ん」
思考に沈んでいたこころの意識を、こいしの言葉が引き上げた。しかしこころは、
「どうしてお前に教えなきゃいけないんだ。そのときになったら私から言うから、精々待っているんだな」
「う、厳しいよー」
ぴしゃりといってこいしを黙らせる。こいしが眉尻を下げるのを見て、思わずこころは思ってしまう。
この感情が本物であればいいのにな、と。
悲し気な表情が本物ならば良いなんて、思ってはいけないのはわかっている。それでもこころは、こいしに心を開いてもらいたかった。
だからこそこころは、こいしに自分が告白されたことを報告しているのだ。
自分のことを記憶してくれないことは悲しいことだけれど。
それでも呼びかければ、意識の底から返事が来るかもしれない、と。
もっとも、
……残念ながらずーっと進展なし。現実はキビシー。
「はあ、こいしにはガッカリだ。もう少し成長してくれることを私は望みます」
「い、いきなり罵倒されてる?」
「事実を無くして成長はないんだぞこいし。悔しかったらその第三の眼でこころの心を覗いてみてごらんなさい」
「それができたら苦労しないよーだ」
ふん、とこいしがそっぽを向く。どうやら拗ねているらしいリアクションだが、その反応も本当に感情の伴ったものなのか怪しいものだった。
と、
「こらあんた達、なに私のいない間にいちゃついてるのよ」
「おやこんにちは霊夢さん。でも私は悪くない。私は夏祭りの打ち合わせに来ただけなのに、こいしが勝手に付いて来たのです」
「だってー、こころちゃんがまた告白されたってー」
「はいはい。こころ、阿求が近くまで来てるはずだから迎えに行って来てくれない? 三人そろったら打ち合わせにしましょ」
呆れたように――もしくは何かを諦めたように、霊夢がかぶりを振って言う。
「おっけー任せて、急いで行ってくるね」
「別にゆっくりでいいわよ」
項垂れて机に突っ伏すこいしを置いて、こころは玄関へと向かう。
何やら背後に霊夢の視線を感じながら――それでもなんの違和感も覚えず、こころは神社を後にしたのだった。
◆◆◆
こいしは机から頭を上げた。
すると背後の霊夢がこちらの肩を叩いて、
「――で?」
「……う、今回も駄目だったよ」
続けて背後から音が響いた。それはこころが出ていった玄関とは真逆に位置する、縁側の襖が開いた音で、
「おいおいこいし、今日こそ言うんじゃなかったのか?」
「ああ、魔理沙も来てたんだ。いやほらその、心の用意が間に合わなかったというかー」
こいしは、一瞬で二人に左右を挟まれていた。
……ああもう、仕方ないじゃんー。
こいしはそう思い――心の内で思考をして――帽子を深くかぶり直した。
「そろそろ決断しないと、取り返しのつかないなるかもだぞ?」
「あーもーうるさーい。だってしょうがないでしょー」
好き勝手に言う二人から顔を隠すように、帽子の上から頭を抱えて、
「――とっくに私の意識が戻ってるなんて、今更言えるわけないもん!」
全ては半年前から始まった。
睦月の終わり、博霊神社で催された冬のお祭り。当然のように秦こころは神社で舞を踊っていて、こいしはそれをぼうっと眺めていたらしい。
らしい、というのはこいし自身その記憶がないからだ。
こいしの様子を不審に思った霊夢が声をかけた瞬間、こいしは、はたと意識を浮上させたのだ。まるで、まどろみから目を覚ますように。
こいしは、今の自分が始まったその記憶を鮮明に覚えていた。
……あのときは慌てたなあ、驚くのも混乱するのも久々だったし。
そうやって意識と感情を取り戻したこいしは、しかし第三の眼を開いてはいない。意識はあり、思考もあり、おぼろげながらも昔の記憶は有り――それでいて、心を読む能力だけは喪失したままだったのだ。
故に親友たるこころの心の内まではわからず、こいしは彼女にどう接するかを考えあぐねていた。
もっともこいしにとっては、わからないのは自分の心のことも同じなのだが。
「――別にさ、昔の私がおかしいとは思わないけどー、恥も外聞も戻ってきちゃうと戸惑っちゃうっていうかー」
「はあ。なんだっていいじゃない、さっさとバラしたら?」
「気軽に言うけどさ、こころちゃんってば私がなんでも忘れるからって攻めっ気が強すぎるんだもん。フツー告白されたからって毎回報告に来ないよね?」
呻いて返すが、霊夢は頬杖をついて半目を向けるだけだった。
意識を取り戻してからというもの、何故かこいしは霊夢に面倒を見られていた。正確には、こころに付いていくと自然に博霊神社に辿りつくので、自然と霊夢とも顔を合わせるといったところだ。
こちらは妖怪の身なのだから追い返せばいいものを、何故か霊夢は毎回お茶を出してくれるのだ。
「しかしまあ、こころは皆のアイドルだからなあ。早い方がいいと思うぜ?」
そして、以前からこいしと親交のあった魔法使いは言うまでもない。魔理沙は興味本位を隠すことなく、横から好き勝手に言ってくる有様だ。
「ああもう、大丈夫だって。こころちゃんの方から業を煮やして告白してくるってば」
「ほー、こころが心に決めてる奴がお前だっていう根拠があるのか」
「え」
魔理沙の言葉に、こいしは無言を返さざるを得なかった。
確かに魔理沙の言う通り、こころの思惑の根拠となるものはない。心の中は誰にも見通せず、唯一視ることのできる瞳は沈黙しているのだから。
「で、でもこころちゃんやけに私にアピールしてくるし」
「ああ、典型的な勘違いさんの台詞だな。今から振られたときのことを考えておくのが賢明だな」
「じゃあ魔理沙はこころちゃんの本命って誰かわかるの……?」
「そりゃあこいしだろ」
「もー!」
魔理沙は口元の笑いを隠そうともせず、こいしが上げた怒りの声にも表情を崩さない。
だが、心の読めない今のこいしでも、その笑いに悪意が無いのはわかった。むしろ逆だ。まるで友達同士がふざけているかのような、嫌気の無い笑いだった。
……私が眼を閉じる前って、こんな感じじゃなかった気がするんだけどー。
目を閉じていたときのことは、ぼんやりと覚えている。しかしその前、かつて眼を閉じ心を閉ざしたときよりも前の記憶は、未だに蘇ってはいなかった。
だけれどこいしはこう思う。どう考えても、こんな穏やかな感じじゃなかったよね、と。
自分の本質は変わっていないのに。
自分が知らない間に周りの環境だけが変わっていた。
そのことを喜ぶべきなのだろうけれど。
今のこいしには、素直に喜ぶことができなかった。
「……もうわかったから、私のことはほっといて。次こそ、次こそこころちゃんとしっかり話すから!」
「次っていつだよ」
「あー、じゃあうちでやる夏祭りのどっかで話したら? こころに踊ってもらう予定だけど、演るのは昼と夜の二回だけの予定だから」
「えっ」
先延ばしにしたつもりが死期を早めてしまった。このあたり、どうも会話の機敏に疎くて仕方がない。
「いやほらでも、タイミングってものがあるからさー」
「私から言っておくわよ。こいしがあんたのこと呼んでたから、神社裏に行ってきなさいって」
「あーそれ菫子から聴いたことがあるぞ。校舎裏への呼び出しってやつだろそれ」
「や、やめてよ? こころちゃんには私のタイミングで言うからね?」
こいしは慌てて言うが、魔理沙は笑みを――今度はやや意地悪な笑みを――たたえて、無言のままだった。
「もしこころにお前の気持ちを伝えなかったら、罰ゲームだな。内容は考えておくぜ」
「霊夢ー、魔理沙がいじめるよー」
「嫌ならあんたがどうにかしなさいよ。神社に妖怪が入り浸るのは困るから、早く解決してほしいわね」
「つ、つめたい……」
何をいまさらと思うが、そっぽを向いた霊夢はそれ以上何も言わない。どうやら、これ以上助けを求めても無駄のようだった。
と、神社の外から二人分の足音が聞こえた。こころが阿求を連れて戻ってきた音に違いなかった。
「――もうっ、二人とも好き勝手言ってー! 私今日は帰る!」
「こころと顔を合わせるのが恥ずかしいのね」
「感情を味わうのは知的生命体の特権だな。ところでその感情が甘酸っぱいって本当か?」
「うぁ……とにかく帰るから!」
足音が大きくなる前に縁側から外に飛び出す。こんなこともあろうかと、靴は縁側に置いていて正解だった。
「お祭りはひと月後だから適当に遊びに来なさいよねー」
「わ、わかったー」
既に身を宙に投じさせたこいしに、霊夢が声をかける。
……妖怪相手に冷たいようで、やけに優しいんだよねー霊夢って。
短い付き合いでも、そのことくらいはこいしにもわかった。霊夢本人にそのことを問うたとて、認めはしないのだろうけど。
「じゃあなあこいし、お祭りは期待してるぜー」
「うるさーい!」
結局はそんな叫びを浴びせながら、こいしは神社を後にした。
◇◇◇
それから一月後、博霊神社は祭りの時期を迎えていた。
本殿までの道端には出店が並び、妖怪と妖精が各々の商品を並べている。彼女らは人妖の隔てなく商品を売り込み、はしゃいで楽しむことに余念が無い。
その喧騒の中を進むと、境内奥に一つの高い建築物があった。
それは、櫓だ。
この祭りのために、地底の伝手を頼って建てられたものだった。
言うまでもなく、こころが躍るための舞台だ。
櫓の周りには椅子が並べられており、その大半に人や妖怪が座っている。
既に時間は正午を大きく回り、皆が昼食を取った後の時間帯だ。舞を踊るには絶好のタイミングであり、座る客達も今か今かと待ちわびていた。
その中ざわめきの中、前列側に座る二人組がいた。
一人は巫女の姿をしていて。
もう一人は、黄色いリボンのついた帽子をかぶった姿だった。
その片方、黒髪の巫女は呆れた様子で口を開くと、
「……で、罰ゲームは受けなくて済みそう?」
「うーんと……難しいかも」
◆◆◆
霊夢は、右に座るこいしを眺めた。
どこかそわそわと落ち着かない様子で、かつてのこいしとは似ても似つかない。化けた狸や狐だと言われたら、信じてしまうかもしれなかった。
……まあ、私はこいつの元の姿なんて知らないわけだけど。
こいしは第三の眼を閉じ、無意識の住人になったという。当然その前と後では人格も違うし、受ける印象だって違うのだろう。とすれば、今のこいしを「違う」と感想するのは、少しずれた考えたかもしれない。
「ま、私としては今のあんたが問題起こさなければそれでいいんだけど」
「えー私なんか変なことしたー?」
「沢山したでしょ、この間もこっそり里に忍び込もうとしたりして」
「だってー」
こいしが頬を膨らませて抗議をするが、里のルールを破ろうとしたのは頂けない。
仮にも人里は妖怪の侵入を禁止しているのだ。寺子屋の教師やら、寺の奴らやら、それこそこころなんかの例外はあるし考えてみると基準がおかしい気もするが、それでも一応ルールはルールである。
「あんたね、昔とは違うんだから勝手に入ろうとしないの」
「わかったわかったって。あーあー、誰にも気づかれなかった昔が懐かしいわ」
「私の許可さえあれば入ってもいいから。入りたいときは私に言いなさい」
「保護者同伴ってことだね。りょーかい霊夢ママ」
「誰がママよ誰が!」
思わず声を荒げると、周りに座る客が引いた。
慌てて様子を窺えば、周囲からはひそひそと囁きが聴こえて、
「えっ巫女様子持ちになったんですか……?」
「妖怪神社と聞いてたけどついに妖怪の子供を手籠めにしたのね……」
「これ阿求ちゃんに報告した方がいいかな……」
「いつかやると思ってたぜ。これからは神社には近づかない方がいいよな、ほら周りもこう言ってるぜ」
「ちょ、違いますから! 誤解ですから! 博霊神社は今も昔も清廉潔白ですから! ……っていうか最後の魔理沙でしょ! 出てきなさい!」
すると背後から衝撃が来た。背後方面に座っていたらしい魔理沙は、こちらとこいしの肩を抱くようにして腕を伸ばすと、
「私がいない間、こいしの面倒は霊夢が見ていてくれたんだな」
「何よあんた、ここ最近顔も見せないで。一体何してたのよ」
「いや? 別に何でもないぜ」
「ふーん」
博霊の勘が魔理沙の言葉を嘘だと断定していたが、今のところ証拠が無い。
じと眼で睨んでみても、魔理沙は音の無い口笛を吹いて誤魔化すだけだった。
「えーっと魔理沙、最近こころちゃんを見ないんだけど、何してたの?」
「気になるか?」
「うん。だって全然こころちゃん捕まらないし、人里の中で打ち合わせしてるのかなーって忍び込もうとしても霊夢に止められちゃうんだもん」
「あんたが勝手なことするとうちの評判に関わるのよ」
「ママだもんな」
「ママのいじわるー」
「うっさいわ!」
じゃれて腕に引っ付くこいしのことが、一瞬可愛く思えてしまったのは一生の不覚だ。じゃれて肩に引っ付く魔理沙はただ邪魔としか思えなかったので強めにどついておく。
「私も何度かこころと打ち合わせしたけど、なーんか引っかかるのよね」
「私は知らないぜ。どつかれた痛みで記憶が飛んでしまったからな」
「うーん」
呻いてみるが、定刻が近いのは嘘ではない。見上げてみれば、宙に舞ったこころが櫓の上に飛び乗ったところだった。
ざわざわと騒がしかった周囲が、自然と静かになっていく。魔理沙も元の席に戻ったのか、気配が消えていた。
そしてこいしはといえば、
「ぁ――」
……完全に見惚れてるわね、これ。
恋する乙女という奴だろうか。その手の感情は未だに理解が無いが、魔理沙や早苗ならば何かわかるのかもしれない。
……ま、私の知ったこっちゃないけどね。
霊夢はそう思って、改めてこころを見上げた。
◆◆◆
音が聞こえる。
それは肉体が空気を割る身振りの音。弾くように身体が飛べば、木張りの床を踏んで跳ねる硬音が鳴りもする。
と思えば、割るというより裂くと呼ぶべき音が聴こえた。いつの間にか彼女が手にしていた薙刀が、空間を通り抜けた音だった。
彼女が飛んで跳ねて回って踊れば、その度に心地の良い音が聴こえる。
そしてその音の発生源を――秦こころを見て、こいしは思う。
……きれい。
綺麗。美しい。きらびやかできらきらしていて、可愛くて最高で尊いやったあ。などと言葉が頭の中を巡り、改めてこいしは認識する。今自分は、感情を得ているのだと。
この半年は、自分が生まれてきた中で一番感情豊かな時期だったに違いない。こころの一挙手一投足に心が躍り、魔理沙の弄りに怒りながらも楽しさを覚えた。霊夢の冷たくも、やっぱり暖かい感触を体感したりもした。
――だからこそ、こいしは重ねて思うのだ。
……こころちゃんは、どうして前の私を受け入れてくれたんだろう。
なにせ、意識が戻る前の自分には何も無かった。無意識という無いという概念だけがあり、心も感情も意志も無かったのだ。
そんな空虚な妖怪を、好いてくれる相手がいるとは思えなかった。そして同時に、
……昔の私は、無意識でどう思っていたの?
今の自分が、こころに惹かれているのは目を逸らせない事実だ。これを恋心と言うならば、そうなのだろう。
でも、こころと出会って交友したのは、あくまで昔の自分だ。
昔の自分は、彼女のことをどう思っていたのだろう。否、思うことすらできなかったはずなのだ。
なら、今の自分の想いは――。
「――以上。昼の部はこれにて終了になります。ご観覧いただき有難う御座います」
「……あ」
気が付くと、舞台が終わっていた。目を逸らしていたわけではないのに、そのことにすらこいしは気が付いていなかった。
……こんな調子で、本当にこころちゃんに伝えられるのかなあ。
見惚れていて、呆けてしまうようでは先が思いやられる。
「はあ、感情ってやっぱり苦しいね」
と、こいしが呟いたときだった。
櫓から降りずにいたこころが突然手を叩いたのだ。
……え?
「実は今日は皆さんに、ビッグニュースがあります」
「こころちゃん?」
さも何かを思い出したかのように振る舞うこころに、こいしはまともな反応ができなかった。
こころは大きく深呼吸をすると、眼下をぐるりを見渡した後に、
「皆様驚かずに聞いてください。――私、秦こころはこの度入籍の運びとなりました」
と、そう言った。
「……今、なんて」
「なお、式は明日を予定しております。お祭りが終わったらすぐいうことですね」
耳が捉えた言葉を、脳が理解してくれなかった。
一瞬後に意味を嚥下して、
……まって。
「待って、今なんて――」
「ちょっと待ちなさいこころ! 私聞いてないわよ!」
思わず立ち上がろうとしたこいしを制したのは、隣に座る霊夢だった。
飛び上がる勢いで立ち上がった霊夢は大声を上げながら、
「そんなのやるなら私にも話しなさいよ! 準備とか色々あるじゃない!」
「おや霊夢さん心配どうも。でも気にしなくて大丈夫。式は人里のほうで挙げる予定なので」
「な、何言ってるのよ。里でそんなことできるわけないじゃない!」
「安心して霊夢さん。阿求さんには許可を取っているから」
「それに里でやったんじゃ神社に利益が入らないわよ!?」
「うわっ」
周囲の白い目で霊夢が黙り込むが、こいしとしてはそれどころではなかった。
「待ってよこころちゃん!」
「……ああ、こいしか。どうしたの?」
「どうしたのって……だって、その、なんで……結婚する、なんて」
「なんで、かあ。うーん、そろそろいい頃合いだから、かな?」
変わらないこころの真顔が、こいしにはどこか違って思えた。まるで惚けているように、こちらの言葉に向き合わないような、そんな印象を受けたのだ。
「だってこころちゃん、前から心に決めた人がいるって言ってたのに!」
「うん、そうだよ。だから、そうすることにしたの」
「そう、って」
「だから、その相手と一緒になることにしたの」
「――うそ」
一瞬、全ての感情が再び消え失せたかと思った。
否、違った。そう思えるほどに、心が冷たさを感じただけだった。
腹の底から重いものが湧き出し、胃を満たすのがわかる。
今までの生で感じたことの無い――もしくは感じたことを忘れている昏い感情が、頭の中を刺し貫いていた。
「ええっと、おーいこいし、大丈夫かー?」
こころの声が、辛うじて届いた。何を言っているのかはわからず、それでもこころがこちらを心配してくれていることだけはわかった。
だけど。数日後にはその心配も他人に向けられるのだ。こいしは咄嗟にそう思ってしまった。
そこに自分はいなくて、自分の知らない誰かが、こころの気持ちを独占していて――。
「と、とにかくそういうことだから。それじゃあ皆、また夜の部も宜しくー」
「あっ待って!」
声が届いていないのかどうなのか。こころはさっと櫓を降りて、息付く間もなく消えてしまった。
今から駆け出せば十分に捕まるはず、とこいしは思った。だけどどうしてか、身体は動いてくれなかった。
「……顔が真っ青よ。本当に大丈夫?」
「……うん」
一瞬誰の声か解らなかった。だけどすぐに霊夢のものだとわかって、
「ほら、こっちきなさい」
「へ?」
「保護者の言うことは聞くものよ。いいから神社で休みなさい」
「え、うん、ありがと」
霊夢に手を引っ張られるようにして、こいしは歩く。
ちらりと周りを見渡すが、こころの姿は見つけられなかった。
「言っておくけど、あんたに倒れられたら騒ぎになってお祭りが中止になるかもしれないってだけだから」
「なにが?」
「……なんでもない」
ぶつぶつと霊夢が言うが、今のこいしには気にする余裕もない。
「こころにも疲れたら神社で休んでていいわよって言ってたんだけど、この調子じゃこないかもね」
「…………」
「一回人里に戻ってるのかも。結婚式だかの用意もあるんでしょうし」
「……ぐす」
「って何泣いてるのよ! 私が泣かしたみたいじゃないの、あーもうほら」
かちゃ、がらり、と戸が開く音が聴こえた。いつの間にか玄関に着いていたらしい。そのまま手を引かれて居間まで連れていかれると、
「ったくもう、しばらくここにいていいから。寝るなら服脱いだ方がいいわよ皺になるから。お布団持ってこようか? ああ、今お茶入れて来るから待ってなさい」
言うだけ言って、霊夢は部屋から出ていってしまう。いつもながら、やけに面倒を見てくれるのが謎だ。
しかし、そんな霊夢のおかげかどうかはわからないが、少しだけ思考に余裕が出た。先ほどのことを考えることも、できそうだった。
とはいえ、
「こころちゃん、どうしてあんなことを……?」
◆◆◆
……まったく、こいしも子供なんだから。
薄々気が付いていたが、どうやらこいしの精神は幼い子供のそれらしい。感情が豊かなのは良いことだが、放っておくと何をするかわからないのが面倒なところだ。
湯呑にお茶を注ぎながら、霊夢は思考する。
……大体、何を躊躇しているんだか。
霊夢自身、自分が子供である自覚はある。だからこそだろうか。こいしがこころに気持ちを伝えられない気持ちが理解できなかった。
湯呑を盆に乗せて、襖を開ける。こいしを見ると、どうやら少しは落ち着いた様子のようだ。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがと」
こいしの向かいに座ってお茶を啜る。暑いときでも、熱いお茶は良い。どこか心を落ち着かせてくれる気がする。
「ま、夜までゆっくりしてなさい」
「夜までって、お祭りが終わるまでってこと?」
「え、何言ってんのよ。こころの舞が始まるまでってことよ。夜の部は日が落ちてからになるから、暗くなってきたら外に出なさいよね」
言ってこいしの顔を見ると、何故か彼女は呆けた表情を浮かべていた。
「何よ、その顔は。ここままじゃ、あんた魔理沙の罰ゲームを受けることになるわよ」
「えっ、だってもうこころちゃんは……」
「それとこれとは関係ないでしょ。というか、当然こころを引き留めるつもりだと思ってたけど」
「――――」
こいしが、今度は動揺の表情を見せる。
本当に、子供みたいに表情が変わる。正直可愛いと思うけれど、今は言わないことにしておく。
「あのねえ、前のあんたはもう少し積極的っていうか、押せ押せキャラじゃなかったっけ?」
「……だって、もしこころちゃんに受け入れてもらえなかったらと思うと、怖いんだもん」
「じゃあこのままでいいの?」
「……やだ」
力なくこいしが首を振る。言っていることが矛盾しているのも、また子供らしい。もっとも本当に子供の精神なら、怖いだのなんだのと思うことすらしないのだろうが。
「前からよくわかんないんだけど、なんでそんな後ろ向きなのよ。傍から見てても、こころの奴はこいしのこと気に入ってると思うけど?」
「私も、そう思う。だけど」
「だけど?」
「それは、前の私だから」
「なにそれ」
「だからさ。こころちゃんが知ってる私は昔の私で、今の私じゃ……ないから」
「……ふーん、そういうこと」
こいしの声が尻つぼみになって、最後は消え入るような小ささになった。
それほどまでに声に出して言うのが恐ろしいらしい。
きっとこいしはこう言いたいのだ。
意識を取り戻す前の自分と。
意識を取り戻した後の自分がいて。
その二人は別人なのだから、今の自分は受け入れられないのではないか。
おおよそ、そんなところだろう。
……馬鹿ねえ。
馬鹿。本当に馬鹿だ。思わず苦笑が浮かんできて、気が付かないうちにこいしの頬を撫でていた。
こいしが光の灯った眼で霊夢を見る。悲し気な、それでいて穏やかな瞳は一見して無害な子供にも見える。
そして霊夢は、
「――あんたねえ、自分が嫌な性格だって自覚無いわけ?」
「へ?」
「今昔も、こいしは嫌な奴だって言ったのよ」
◆◆◆
……やっぱり、優しいのか冷たいのかわかんないなー霊夢は。
「私、嫌な子かな?」
「他人の気持ち考えずに、ずけずけ言うところとかね」
「う」
「この間の異変のとき、紫の奴に友達いないとか言ったんでしょ? 結構傷付いてたわよアイツ」
「ごめんなさい。つい本当のことを」
「真実は時に相手を傷つけるのよ。覚えておきなさい」
「うん」
「それと盗み食いの癖は今の直ってないようね。私の秘蔵の御煎餅食べたのこいしでしょ?」
「言い出せなかったんだけど、実は何枚も」
「まあ今の方が痕跡を残す分まだましね。口に粉が付いてるけど言わないであげたのよ」
「そ、そうだったんだ」
「あと本命がいる癖して魔理沙と距離が近い」
「へ?」
「……ごめん今のナシ。とにかく――」
霊夢は言った。言葉を区切り、胸の中から面倒くささを吐き出すように息を吐いて、
「こいしは前から変わんないのよ。無遠慮さは今の方がましだけど、嫌なことから逃げてるところは一緒ね」
「ストレートに言うね」
「言わないとわかんないでしょ。どうせ大昔に眼を閉じたときだって、大した事件があったわけじゃないんでしょ?」
「うう、相変わらず鋭い」
遥か昔の記憶が無いこいしにとって、第三の眼を閉じた理由も同様に喪失していた。姉に聞いても適当な理由を言われるだけで、具体的な事件があったと聞かされていなかった。
本当に、ちょっと嫌なことがあっただけで、簡単に眼を閉じてしまったのだろう。こいしは昔の自分を、そんな弱い子だったのだと推測していた。
だけど。そんな性格の自分でも、昔と今が変わらないのなら――
「……こころちゃんも、そう思ってくれるかな」
「知らないわよ、私こころじゃないし。本人に聴いてみたらいいでしょ」
「霊夢の話を聞いてると、私って嫌な子だなあって気持ちが後ろを向いちゃうよ」
「こころは嫌な性格を好む変態だって可能性はあるでしょ」
「うーんポジティブ」
「だからまあ、適当に伝えてきなさい。玉砕したら、一晩くらいやけ酒に付き合ってあげるわよ」
どこまで冗談なのかはわからない。だけど少なくとも、最後の一事は本気で言ってくれているように、こいしは思った。
「……でも、もうこころちゃんは結婚するって言ってたよね」
「別にどうでもいいでしょそんなこと。ああほら、私としては里人と妖怪がくっつくのは困るから、うん、こいしがこころのこと奪ってくれると助かるのよ」
うんうんと腕を組んで頷く霊夢の言葉は、今度こそ冗談かどうかわからなかった。
けれども大事なのはそこではない。きっと霊夢は、こちらのことを励まそうとしているのだ。こいしは、そう確信する。
「……有難う、霊夢。元気出たよ」
「はいはい。じゃあ私は外の様子を見てくるから、時間になったら外に出てきなさい」
「はーいそーする」
「一人にするけど暴れないでよ? 勝手な事したらあんたの姉にも責任とってもらうから」
「声の温度が低いよ霊夢」
冷えた語気で告げる霊夢に、こいしが思わず苦笑を浮かべる。
そんなこいしの反応を気にしたふうもなく、ひらひらと手を振って霊夢が外に出ていった。ふと机の上を見ると、玄関の鍵が置いてあることに気が付く。やっぱり変なところで、妖怪のことを信頼しているらしい。
……お姉ちゃんもそう言ってたっけ。
少し前、姉に霊夢のことを聞いてみたことがある。あの妖怪に厳しくも優しい巫女の本心は、一体どこにあるのかと。かつての異変で顔を合わせた姉ならば、その心の内を知っていると思ったのだ。
そしてそのとき、姉はこう言っていた。
「“妖怪なんて嫌いよと思ってるみたい――うわべの思考の上ではだけど”だっけ」
含み笑いで言う姉は、何かを伏せているようにも見えた。
それを聞いたとき、結局霊夢の本心はわからないものなのだと思っていた。けれど――きっと、どちらも本音なのだろう。
意識と無意識が両方本心であるように。
昔と今の古明地こいしが、連続しているように。
霊夢は霊夢で、どっちの霊夢も本当の霊夢なのだろう。
そんなことを考えていると、無性におかしくなってくる。
霊夢の性格の豹変ぶりから考えれば、自分のことなんて気にするほどのことでは無いように思えたからだ。
結局、こころがどうして昔の自分を気にかけてくれたのかはわからないままだ。
そして何を彼女に言ったところで、今更心変わりをさせることはできないのだろう。
でもそれでもいい。言うだけ言って、駄目でも何度でも言えばいいのだ。
こころがこっちを向いてくれるまで。
ライバルが潰れてこころを諦めてくれるまで。
――そんなことを思っているから、性格が悪いと言われるのだろうけれど。
私は昔から嫌な子だもんねと、今のこいしは納得できるのだった。
◆◆◆
「……それで、話って何? 私、この後夜の部があるんだけど」
「えっと」
「こいしも存分に見て行ってね。私とこいしが親友である最後の夜なんだから」
「――うぅ」
無表情で――いつもと違う冷たさで、こころが告げる。
櫓の上。照明を落とした舞台上。そこにこいしとこころは立っていた。
冷たく言い捨てたこころを前に、こいしは自分の気持ちが後ろ向きになっているのを感じる。
そんな言い方をしなくてもいいじゃないか、とこいしは思う。
だけどこころの言うことは正しいのだろう。傍から見れば、きっと古明地こいしという存在は、彼女に取って邪魔にしかならないのだろう。
……ふう。
心の中で深呼吸。今、櫓の上に乗っているのは、こいしとこころだけ。
距離にしてみれば大したことが無いはずの地上は、どうしてかはるか遠くに思えた。まるでここが、二人だけの世界になってしまったかのようだった。
もう数分後には、こころの舞が始まる。だからその前に、伝えようと思った。
たとえ、これが最後になってしまっても。
「じゃあ、単刀直入に言うね。こころちゃん」
「うん」
「こころちゃん――は、ええと、その、私のことをどう思ってますか?」
「は?」
この期に及んで曖昧な質問をしてしまった。
こころが呆れを隠しもせず、般若のお面を振りかぶるのが眼に映る。
「まってまって! 今の無し!」
「うんわかった。それでは残機が残り一つとなったこいしさん、リテイクをどうぞ」
「ミスは一回までとは厳しいー……」
まあこれも仕方がない。これまで逃げてきたツケが回って来ただけの話だろう。
「大丈夫? 緊張してる? しかしながら次がラストチャンスです。頑張れ頑張れ」
「う、わかってるよーもう」
と、そんな軽口を叩いていると、思わず笑い出しそうになる。こんなときなのに、自分達は昔から変わらないなあとこいしは思う。
ふと思い出したのは、初めて自分達がであったときのことだった。
かつての異変。こころの感情が暴走して、人里全てが騒ぎに包まれていた頃。感情豊かなこころを前に、感情の無かった自分は飄々とこころの言葉を躱しては受け取らなかった。
……私と違って、こころちゃんは変わらないなあ。
異変の最中、こころの感情は乱れていて、不安で寂しく心細かったに違いない。それでも彼女は、相手の心配ばかりをしていたのだ。
それは現在も変わらない。表面上は冷たくあしらって、どこかふざけてはいるけれど、昼だって夜だって、こころはこいしの心配ばかりをしてくれていた。
もしかしたら、古明地こいしという存在が、秦こころに惹かれているのは、優しくしてくれただのなんだのと、極々平凡な理由に過ぎないのかもしれない。
こいしが眼を閉じた理由が、きっと大したことじゃないように。
惹かれた理由なんて、一々考えなくてもいいのだろう。
こいしがこころに伝えたい想いがあるならば、そこに特別な理由なんて要らないのだ。
「――よし」
ぱちん、と両手で頬を叩く。
緊張、という感覚を味わうのも久しぶりのことだ。覚えは無いが、眼を閉じる前はいろんな感情に振り回されていたのだろう。
かつての自分は、きっとそれから逃げてしまった。なんてことのないストレスから、種族の特性を利用して逃げてしまったのだ。
眼を閉じて勿体ないことをしたな、とは思わない。その過去があってこその、今なのだから。
でも、今だけは逃げないようにしよう。
だって自分の心がもう、伝えたいと叫んでいるんだから。
「こころちゃん、聴いて欲しいの」
「…………」
もはやこころは何も言わなかった。
だからこいしは、大きく前に歩いてこころの肩を掴むと、
「私は――古明地こいしは、こころちゃんのことが大好きです」
だから。だから、
「私と一緒になって、駆け落ちしてください!」
◆◆◆
いやいや駆け落ちってなんだ嗚呼そうか私が結婚するって言ったからかだとか、顔が近いだとか、声が大きい息が当たってるだとか、こころの中から言いたいことが溢れては消えていった。
それよりも問題がある。こいしの言葉に――大好きという言葉に、胸の奥から込み上げる感情が湧いては沸騰していたからだ。
感情を操る能力を使いこなすこころにして、久々に扱いきれない熱量であることが自覚された。
……いやいやおかしい。私もこいしのことが好きなんだから大好きと言われたくらいでこんなに熱が込み上げてくるのはおかしいおかしいいやいや。
そう思考をすれども、現実はそれに反していて、消えない熱が身体の中を満たして治まらない。色で言えば緑と赤。喜の感情に代表される緑色に、感情の炬火たる怒りにも似た赤色が混じっている。でもこれは、憤怒ではなく、どちらかと言えば――、
「……こころちゃん、顔が真っ赤だよ?」
「え?」
「もしかして……照れてる?」
「――ぁ」
こいしに言われて自覚する。ああそうだ、これは恥じらいの感情だ。
「照れてない!」
「えーでも」
「照れてないって! ああもう貴様が大好きだなんていうから!」
「んーやっぱりそれ照れてるんじゃ」
「違う! それにそういうこいしこそ顔真っ赤だぞ!」
「あーうん。私はとっても照れてるよ? 大好きな人に想いを伝えたんだもん」
「最悪! 最悪の逆切れだ!」
こう開き直られると反撃の手段が無い。なにせ何を言おうが全て肯定されてしまうのだ。一方的に殴られるしかないという現実を、受け入れるほか無いのだ。
「もう、なんでいきなりそんなこと言い出すんだお前は! 折角私がリードしてたのに!」
「だってこころちゃんが冷たくするから……でもでも、私を心配してくれてたのはちゃんと伝わったよ?」
「うぐぐ。だ、騙されないぞ。きっとそんなこと言っておいて、いつも通り感情は眠ったままなんだろう?」
勢いで喋ってしまったが、徐々に頭が冷えて来る。そうだなんてことはない。こいしは変わらず無意識の住民で、今見えている――ように見える感情だって、きっと偽物のはずなのだ。
……ふう。
急激に心が落ち着いて、冷えるを通り越して凍り付くのがわかった。
すん、と思考を働かせてみれば、なんてことはない独り相撲をしていたにすぎないのだ。
こいつに照れることなんて何もないじゃないか――。
「えーっとねこころちゃん。ごめんね」
「は、なにが?」
「私とっくに意識を取り戻してるんだ」
瞬間的に心が噴火した。
……いやいや待って待って!
「え、じゃあ、こいしの言葉は」
「うん。全部、私の本心」
「……いつから?」
「半年くらい前から」
「じゃあ私の告白についての話は……」
「ずっと正気で聴いてたよ。その度に心臓がドキドキしちゃった」
「…………ちなみにこのことは誰か――」
「霊夢と魔理沙が知ってる。あ、勿論お姉ちゃんも」
「――おい! 魔理沙! 聴いてるんだろう! 出て来い!」
すると物音が真下から鳴ったので、
「そこか!」
「うわ!」
薙刀を手元に現してずぶりと突き刺す。続いて白黒の姿が転げるように櫓から這い出たので、
「ねえねえこれはどういうこと? こいしの意識を取り戻すために、人里で式を挙げるお芝居を打つはずじゃなかったの? ねえねえ」
「……あ、お芝居だったんだ」
「まあ待て話せばわかる」
じり、と魔理沙が背後ににじり下がる。
「私もいい加減お前らにはハッピーエンドを迎えて欲しかったんだ。決して面白そうだなんて興味本位でこころを騙――誘導したわけじゃあないんだぜ?」
「――それはいいけど、あんた私にも声かけなさいよね」
「あ、霊夢さん」
気が付けば、観客席から霊夢が出てきていた。
霊夢は魔理沙に抱き着くように――或いは腕で首を絞めるように、背後から身体を密着させていた。
「上手くいったからいいようなものの、こいしのやつ泣いてたのよ?」
「いや、それに関しては悪かったと思ってる。いやほら、いつもの私達からしたらあれくらいで泣くとは思わないだろ?」
魔理沙の言いたいことはわかる。色々と過激なことを叫んでは弾幕ごっこに興じるのが自分達の毎日だ。軽く思い出すだけでも、ひどいことを言ったり言われたりする日々が想起された。
そんな自分達の関係を想えば、いくら心の機微に聡い魔理沙とて、こいしの心を読みそこなったとしても仕方がないのだろう。たぶん。
「はあ、まあいっか。魔理沙だって、友達の為にしてくれただけだもんね」
「私も気にしてないよ。私とこころちゃんの為にしてくれたことだもんね」
こいしが困ったようにはにかむ。それは呆れと疲れを孕みながらも、しかし幸いを隠していないような、温かい表情だった。
……本当に、感情があるんだ。
霊夢が魔理沙を絞め落とすのを見届けると、こころはこいしに向き直った。
「こいしに感情があるの、私嬉しい」
「うん、そうだね。私も、そう思う」
「だから、私もお返しに言っておこうと思う」
咳ばらいを一つ。こころは、こいしの眼を見て、
「私も、秦こころも――古明地こいしのことが大好きです」
「――あ、あ。これ、凄いね」
こいしが胸を手で押さえて、ぎゅっと力を込めた。
どうだお返しだと思ったけれど、こいしの身体が緑と赤の色で包まれる程、こちらの身体を支配する色も、また濃くなるだけだった。
「ちなみにこころちゃん、一つ聞いてもいい?」
「なあに?」
「私のどんなところが好き? ええとできれば昔と今の両方で――」
……?
「変なことを聞く奴だな。希望に溢れた姿が愛しかった、ころころ変わる動きと表情が興味深かった、私の希望を大事にしてくれたのが嬉しかった、忠告を受け入れない姿を守りたいと思った、瞳が綺麗で声が可愛くて髪が艶やかで、ああそうだ勿論弾幕戦の良きライバルとしても魅力的で、最近は表情豊かで超かわいい思っていたけど、思えば感情が戻っていたからだったんだ。
――うーんなんか言語化すると寺子屋の読書感想文みたいに味気なくなるね。でも私がこいし大好きなのは本当だから――」
「わかったわかったよ! 信じてないわけじゃないから! 伝わってるから!」
「じゃあなんでそんなこと聞くの?」
「いやほら、昔と今の私って違うから、その」
「え? こいしはこいしでしょ?」
そういうと、こいしはぺたりと床にへたり込んでしまった。どうやら自分では立ち上がれないらしい。
完全に脱力したこいしは疲れ切った表情で、
「……はあ、悩むだけ馬鹿だったってことかー」
「何の話?」
「いやうん。思ったより、私って素敵なんだなーって」
「……今更?」
疑問を素直に口にすると、またこいしが静かになってしまった。
まったくよくわからない。感情を理解して相手の気持ちを限定的に視ることができるようになった身であっても、まだまだ修行は必要らしい。
「まあうん、今日のところはこころちゃんが結婚するっていうのが嘘で良かったよー」
「いや、それは嘘じゃないぞ? 人里でってところがお芝居なだけで」
「え?」
こいしが疑問すると同時、櫓周りの照明が輝いて、こころとこいしを照らし出した。いつの間にか霊夢が照明のスイッチを手にしていたのが見えたけれど、霊夢なりのサービスのつもりだろうか。
「こころちゃん、何が……嘘じゃないの?」
「――結婚するのは、嘘じゃないって言ったの」
そしてこころは、こいしを抱き上げるように、抱きしめるように、両腕で持ち上げて顔を寄せる。そして、
「――――」
眼下から、歓声が響いた。
いつの間にか集まっていた観客が、こころとこいしを見て、上げたものだった。
そしてこころはこいしから顔を離して、
「――秦こいしになったら、さとりさんが寂しがるかな?」
告げた先、こいしは今度こそ全身真っ赤になっていて。
きっと自分も同じくらい赤いのだろうと心が察していたけれど。
それでも、こころはこいしから手を離さなかった。
ずっと前からの一番を抱きしめながら。
この感情に今も昔もないと、そう思いながら。
こいしちゃんは保護者多めだしこころちゃんも両親がいらっしゃるのできっと幸せになってくれるでしょう。霊夢を裏表の例として使うのが凄い好き…
あと霊夢と魔理沙の傍観者具合が何気に好きで、そういう立場のキャラクターがあってこそこいしやこころに華を持たせていたのでしょうか、良かったです。
『あと本命がいる癖して魔理沙と距離が近い』ってセリフが特に好き。
この話の中で甘くないところが無い!!まるで14キロの砂糖水を一気飲みしたかのように!!
いちゃついてるこいここがかわいらしかったです
こいここ、可愛かったです。