具体的な生活
一
【第一のメモ】
雪の“しみ”でよごされた
どこかの誰かの青春のメモに
こんな伝承が記されている
それは妖怪の山の伝承
烏天狗の祖先。天逆鳥(アマサカドリ)の伝承
天逆鳥はヤツデの葉で巣を建てると、そこに烏天狗の卵を産みおとした
しかし、その気性の荒くれぶりを危惧されると
天握山防剣(アマツカヤマモリノツルギ)の力により
子供たちに冬の山を追放されたと言う
そして山の東の果たてにある、まっぷたつの岩石は剣の痕跡であり、だから“先祖岩”と呼ばれるのだ
今は誰も信じたがらない
御伽噺だ
ときに昔の花果子念報を読むと妙な気分にさせられる。無理もない。過去の情熱の痕跡はいつでも滑稽に決まっているのだ。あの文章に、あの写真に。自分は何を期待していたのだろうか?
記事の不人気を悟ったとき、記者はペンとカメラを捨てようとする。もちろん記事が印刷されたときの、あの無上の悦びも捨てさってしまうわけである。
姫海棠はたてが机の上に肘を乗せて、愛用のペンを指で弄んでいると、不意に窓の外にひとりの烏の姿が見えた。
外では雪が冬の空を染めていた。白色の景色にあの黒羽はうつくしい。そのうち烏は雪を風で吹きちらすと東の空へと消えていった。
「よくやる」
はたては椅子に凭れるとだるそうに呟いた。
「書くこと……ない」
烏の飛びっぷりが頭によぎり、自分がいやに滑稽と思われた。
玄関の外に出るとまずは寒さにうなった。いかに厚着をしようとも山の寒さは耐えがたい。特に顔面が冬風にぶちのめされていた。
師走である。終わりの季節が山の樹木を枯れさせていた。それでもヤツデだけが玄関の前で、冬の花を放射状に咲かせていた。はたてはヤツデの葉をもぎりとるとそれを“ピイーー”と口で鳴らした。
ヤツデの葉は人間の口では笛にできない。天狗たちには独特の鳴管と咽頭があり、それだけがヤツデの葉を鋭利な空気で吹きならすのである。
南のほうで応じるように“ピイーー”と音がした。はたてはその方角へ飛ばずに歩きはじめた。
外世の人間たちがやたらと岩に名前をつけたがるように、天狗たちも似たような風習を持っていた。山の巨石は“扇岩”だの“剣岩”だの、こじつけの名前に余念がない。
犬走椛が座っているところもそうだった。それは下部を年月で削られて、あたかも口をひらいているようなので、白狼天狗たちからは“狼岩”と呼ばれていた。岩には信奉の証に麻縄の帯が巻かれているので、それに座るのはまさに不敬ではあるけれども、彼女は信仰に拘らないほうなのだ。
はたての匂いを嗅ぎとると椛は振りかえる。
「おはようございます」
「いつもの装束……薄着で寒くない?」
「そうでもないです」
「そうでもないのか……」
はたても狼岩の上に座った。岩からは山の景色を眺められた。
滝は凍りつき。
木々はすべての色を失い。
生きものは土の寝床で春を待っている。
山が眠りに囚われていた……。
はたては活気のあるほうが好きだ。感傷的な冬の景色は何かとやりきれない。白色の溜息を吐いたあと、彼女は椛に話しかけられた。
「今日はどうしました」
「どうと言うこともないよ。その……暇してさ」
「フーーン」
「フーーンとは何よ。友達に対して」
「なんでもないです」
いつから椛としたしくなったのか、はたては特におぼえていなかった。おそらく“気がついたら”と言うやつなのだろう。暇をするとヤツデの葉で呼びあうくらいの仲になっていた。
ただ……それにはふたりの通力の共通点が由来しているのかもしれない。つまり念写と千里眼には似たところがある。どちらも風景を切りとって、瞳の内に俯瞰するのである。
そんな視点があるからだろうか。はたては同族に特有の別種を侮るような態度に欠けており、同時に同族のそう言うところを軽蔑してさえいるのだった。
「あんたも禿山の監視は暇でしょう?」
「退屈はしていません。禿山なりに情緒は感じますよ」
「フーーン。なら……いつもの勝負をしよう」
「飽きないですね」
「ほら! 紙をちょうだい!」
椛は渋々と二枚の紙を取りだした。
渋々ながらも紙を持ちあるいてくれるのがはたてには嬉しいところである。彼女は紙を受けとるとそれを眺めた。椛も同じようにした。
しかし、ふたりは別に紙を眺めるだけの酔狂な遊びをしているわけではない。ふたりの天眼通は瞳へ思い々いの景色を連れてくるのである。
それを“審美眼の勝負”とでも呼ぼう。つまり椛は千里景を木炭で紙に描き、はたては念写で紙に景色を描きこんで、それを互いに品評すると言うわけだ。この通力を発展させたような遊びが意外とふたりにはこのましいのだ。なぜなら両者には山の観察者として、美への感受性にそれなりの自負があるからだ。
……はたては目をとじていた。木炭の筆写音が耳に快い。
「……まずいわ」
「降参ですか?」
椛がにやついているのは声の色で明白だった。
はたては冬が得意ではない。岩の上で景色を眺めたとき、思うところがなかったように、どうしても冬に感性が合わないのだ。
……頭の中に影像(Image)が浮かんでこなかった。
「できた!」
そのうち椛は快活に言った。
はたては目を開けると椛の絵を見た。そこには氷の滝がえがいてあった。来たときも岩の上で眺められた、南西のほうのあの滝である。
絵の視点は氷の滝の真下。仮に水がいつものように流れているなら、水瀑に飲まれかねないような位置である。滝は一本の巨大な柱に見えた。その仰ぎみるような視点は氷瀑の荘厳さを雄弁に語っていた。そして木炭の黒と紙の白の、強烈な対比は取りもなおさず、過酷な冬の心の表出である。
「やるね……」
とはたては嘆息を漏らした。
あの氷の滝を直下に捉えようとは思いつきもしなかった。椛のその広範な感受性はまちがいなく、職務で山を見つめていることに由来していた。記者の立場で考えてみると千里眼よりも羨ましいことはない。おそらく彼女のまなこは山の四季を様々な角度で眺めつくしているはずだった。それはすべての記者が望む、まさに至上の通力なのである。
また目をとじた。何もえがきたいことが浮かばないなら、ときにはでたらめに念じるのもわるくない。
きれいなこと、きれいなこと……はたては一心に祈りはじめた。いつも記者なりに痛感しているのは、自他の美観はつうじあわないと言うことだ。このときでさえもふたりは一緒に景色を見ているのに、冬への向きあいかたがこんなにもちがっている。それこそが自他の感覚の差の明確な証拠なのである。
はたてが記事にするのはつねに凡庸なことだった。念写はいつも既知の風景を描きこむからである……だからこそ用心しなければならない。
日常の中の繊細な美景。そして“きれい”なこと。それを見つけられるように気をつけるのだ。はたてが記事に書きたいのはまさにそう言うことなのである。
……そうだ。まさに今朝……きれいな烏の姿を見たような気がした。
「これは?」
椛の声で目をひらいた。気がつくと念写が終わっていたようである。それから手の中の念景に驚かされた。写っているのは今朝の烏だ。
窓をフレームに翼がはためき、烏は宙空の只中に佇んでいる。その孤独な横顔は一心に東を見つめている。今にも帰りたくなるような寒空の中で、その決意の瞳だけが熱を持っていた。
「なんでもない!」
はたての頬が深紅に染まった。すぐに紙をふところへ隠した。
「……フーーン……」
「何よ……その“間”は」
「別に」
椛の視線には含みがあった。こんなに失礼な白狼天狗がほかにいるのだろうか? 仮に友達ではなかったなら、吹きとばしているところだ。
「帰る!」
はたては急に立ちあがった。彼女の通力は多少の流動性を持っているので、以前の景色を切りとることが稀にある。
それにしても射命丸文の姿が写るとは考えもしなかった。こんなことはあまりに恥ずかしすぎた……それはそうだろう。はたては“きれい”なことが写るように祈っていたのである。
……。
文。
はたての友達。
そして商売の好敵手。
はたてはきびすを返すと場を去ろうとした。
「あなたは知っているのですか? あれがどこに行っているのか」
しかし椛の質問がはたての足を縫いとめた。彼女は振りかえらずに返事を返す。そわそわと指が落ちつかなかった。
「……取材でしょう」
「東のほうにあるのは先祖岩だけですよ」
「あんたは知っているの? 文が何をしているのか」
はたては我慢ができずに振りかえった。椛が事情を知ったふうに微笑していた。それを見ると彼女は胸中をくすぐられているように感じた。
「まあ……私の目は見えすぎますから」
「……教えてくれるの?」
「いやです」
「えっ」
はたてが頓狂な声を漏らしたとき、椛は急に岩を跳びおりるように去っていった。彼女が岩の下を覗いたころには、姿はすでに下方の崖へ失せていた。
「この……犬ーー!」
はたては下方に叫ぶしかなかった。
はたては別に怠けるために椛と暇をしていたのではない。まず冬でも取材に熱心な文のほうが珍しいのだ。この時期は人妖の活力も減るので、あまり記事の種は見つからない。そして何よりも冬の空は致命的に寒すぎた。冬空で速度をだすのは屈強な白狼天狗でさえも遠慮したがるくらいである。そして烏天狗たちは高速で飛行するからこそ、冷気の壁にぶちのめされてしまうのだ。だから冬の新聞と言うのは休みがちであり、ほかの記者たちもそれを休暇くらいに考えていた。
この時期にあくせくと取材をするのはまさに文だけなのである。
椛と話してから、八日を過ごした。
蝋燭の光をたよりにしながら、はたては例の念紙を見ていた。
「あいつ……何をしているんだろう」
はたての呟きはちびていた。
文が冬になると毎年のように東へ向かうのは知っていた。しかし理由を聞いたことはなかった。彼女が熱心に向かうからには取材が理由のはずであり、同時に他者の取材を掘りさげようとするのは記者のあいだの御法度である。記者が々々に情報を与えるはずがないのだ。
それにしても文は先祖岩の何を調べていると言うのだろうか? ……岩のほかには何もないと聞いている。はたてが“聞いている”と形容するのはそれを見たことがないからだ。
無理もない。先祖岩には“烏天狗が絶対に行きたがらない”だけの理由があったのだ。
羽折岩(ハオリイワ)
と先祖岩には別名がついている。その別名が示すとおりに烏天狗は岩の付近で空を飛べなくなってしまうのである。原因は呪いだと聞いている。
天逆鳥がそれを残していったのだ
自分を天握山防剣で斬ろうとした
子供たちのその々々たちまで
地に墜落してしまうように
烏天狗たちはそのように信じていた。
信じていて、怖れている。
だから御伽噺として。
忘れたがっているのである。
……。
そんなふうにはたてが長考しているとき。
急に隣室でばきばきといやな音がした。
「えっ……」
はたては目を丸くした。
屋根が壊れたのだろうか? ……屋根の雪は三日前に風で落としたはずだった。文ほどではないとしても操風くらいわけはない。
「何よ……」
立ちあがると隣室への戸をひらいた。隣室には埃が舞っていた。そして屋根の穴が冬の風を通している……しかし、それだけではなかった。
「えっ」
「落ちるところを……まちがえた」
空から。
荷袋と一緒に文が落ちてきた。
「えっ」
「ごめん!」
それだけ言うと文は意識を失った。
二
【第二のメモ】
天逆鳥がその力を振るうとき
それは強大な神々さえもしりぞかせ
雲をも千里の果たてに吹きとばしたと言う
そして頑強なくちばしはあまねくを砕き
血には万死の猛毒が流れているのだ
まさにいにしえの怪鳥である
また別名に迦楼羅鳥(カルラチョウ)と呼ばれており
特に竜と蛇を常食していたと言う
その影響からなのだろうか?
天逆鳥は金色の炎を吐きだし
炎の光背を持っていると伝えられている
まさに竜の力の簒奪者である
目を覚ますと全身がずきずきと痛んでいた。疲労しているときに特有の、頭が揺れているような感じもした。冬の文にはいつものことだ。
普段とちがうのは自分の寝室ではないこと。
そして体に包帯が巻かれていることである。
「起きた?」
そのうち隣室への戸が開いて、ようやく家のあるじを悟った。
「はたて? どうして私はあんたの家に……」
「おぼえてないの」
「……ごめん」
「三日も寝てたのよ」
はたては溜息を吐くと言う。
「朝の食事にでもしましょうか?」
はたては文の食べっぷりに肝を潰した。米が見る々るうちに腹の中へ消えてゆくので、冬の備蓄がなくなるのではと思ってしまう。それに彼女の気位を加味すると誰かの前で米をかつがつと喰らっているのも異様だった。
「これが“きれい”か……」
「なんだって?」
「米粒!」
はたては怒りぎみに文の頬へ指を向けた。彼女が食事を食べてしまうと珈琲も淹れた。山では貴重な黒豆を屋根の破壊者のために使ってやったのである。
「ふウーー……」
文は珈琲を口にすると宇宙一の水でも飲んだような嘆息を漏らしていた。だらだらとふたりで珈琲を飲み、湯気が薄まるころに彼女は言った。
「屋根のこと……わるかったわよ。疲れてさ……家に着くまえに力が尽きたのよ」
「弁償してよね」
「……聞かないの?」
「何が」
「落ちたわけ」
「言わないでしょう?」
「……」
文の無言は実質的な肯定だった。
「予想はできるよ」
「へえ?」
「あんたは天逆鳥を撮影しようとしている。そうでしょう? あんたの行くところと趣味を考えるとそれしかない」
「同類の詮索は記者の御法度でしょう」
「これは友達なりの心配なのよ」
「フフフフ、フフ……困った」
文は自嘲するように笑っていた。そして笑いがはたての回答を雄弁に肯定してもいた。彼女はさらに質問を突きこむことにした。
「あんたが毎年のようにあそこへ向かうのは知っている。でも……理由が分からない。どうして昔の御伽噺に拘るの」
「いるのよ」
文はどこまでも穏やかに言った。
「天逆鳥はどこかにいる。私はそれを信じたい」
「……ヘンよ。あんた」
「そうだ。私の荷袋は?」
「……うしろの箪笥」
「中は見た?」
「無頼なことはしない」
文は箪笥をひらいた。荷袋の中には野営の道具がはいっていた。彼女が山に帰ってきたのはそこに食料を詰めこむためである。
「行かないと」
「……怪我は」
はたての声はいらだちと心配が錯綜していた。
「ごめん」
文は申しわけなさそうに言う。
らしくなかった。
何かに執着することも。
自分に本意で謝るのも。
その妙な態度が余計にはたてを不安にした。
「ごめんね」
これはまったく、きれいではない。
また数日が過ぎさった。
はたてはうらぶれの朝に珈琲を飲んでいた。
おそらく文はすでに東へ行ってしまったのだろう。はたては彼女のらしくなさに失望を感じ、同時に勝手な自分を恥じるしかなかった。
「気分を変えよう」
はたては呟くと不意に氷の滝を追想した。あれを近くに見るのもわるくない。きれいな景色は気分をよくしてくれるはずである。外に出ると彼女は雪空に飛びあがった。
「寒いーー!」
たちまち絶叫することになった。それなりに厚着をしたのにこれである。どうして文はこの寒さに耐えられているのだろうか? ……こう言うときは逆に“ぶっとばす”のが賢明だ。飛行の時間を減らしてしまえば、それだけ冷気を浴びることもないのである。それでも氷の滝へ着いたころには寒さで関節がきしんでいた。
氷の滝は無妖の領域に属しており、高さも四間ほどの矮小さなので、それほど誰も寄りつかなかった。しかし椛の絵の中では偉大に見えていたのである。まさに画力の魔法だった。
「……絵のほうがよかったな」
はたては滝壺のほうへ歩いていった。もちろん滝壺も凍りついていた。
「おはようございます」
「……椛?」
すると滝壺の上に椛が立っていた。
山は広い。偶然に会うのは珍しかった。
「どうしたのよ」
「自分の描いたところを見にくるのはおかしいですか?」
「フーーン。奇遇よね」
「ほかにも理由はありますが……」
そのとき椛の右手が握っている、奇妙な両刃の武器に気がついた。
刀身は一寸。柄は二寸。刀剣のたぐいと言うよりは槍のいでたちである。しかし槍と言うにも小さすぎる。両刃であることを考えると長巻とも呼びがたい。
さらにそれだけでも珍しいのに、刀身は瑠璃の色に染まっていた、鍔があるはずのところには代わりに烏の羽があしらわれていた。
その深緑の色は奇しくも他季の山のみどりと類似しており、はたてはそれを見ていると吸いこまれそうな気分になった。
「へえ……工芸品? そんな趣味があったんだ」
「天握山防剣ですよ。うつくしいでしょう?」
「フーーン。天握山防剣……。
……天握山防剣!、!、?、?」
はたては驚愕した。そんな彼女とは対照的に椛はどこもでも平静だった。そして刃の片側を向けるとそこに刻みこまれている、天握山防剣の文字を見せびらかしてくるのだった。
「……本物?」
「解きはなってみましょうか?」
椛は急に滝のほうへ振りかえった。
「えい」
そして素人のように剣を粗雑に振ると。
氷の滝へ一文字が縦に刻まれた。
まさに一刹那のできごとだった。突風が吹いたかと思ったころには、すでに裂傷が滝に残っていた。しかも裂傷の周りには罅がない。完璧な破壊。力が一線に収束している。
はたては唖然と剣と氷の滝を交互に見ることしかできなかった。
「まさに啓示物。これはいにしえの言葉ですね」
「……いつ?」
「百年前くらいですかね。ほら……滝の裏には洞窟があると言うでしょう? 暇なときに千里眼で見たら……そう言うわけです」
「そんな……簡単に」
あまりの単純さに言葉を失いながらもはたては二の句を振りしぼった。
「どうして……それを使わなかった? それがあれば……どんなことでも」
「自分の言葉の意味を理解しているのですか?」
はたては神妙に首を縦へ振った。
「ふん」
椛が鼻を鳴らすと剣のことを一瞥した。だるそうに剣を氷へ突きさしたあと、だるそうに逡巡すると口をひらいた。
「たしかに……これには烏天狗の怖れがある。これはあなたがたの天敵なのです。それでも私は興味がありません。あなたがたが大層に好きな……権力とか……争いとか……そう言うのは。
それにこの剣が公表されたら、これは奪いあわれることになる。それはこの剣のうつくしさをそこねるでしょう? まあ……最初は山の平穏のために折ってしまおうとも考えたのですが」
「頑丈だったの?」
「いや……あまりにうつくしすぎる。
だから折れない」
話しているうちにはたてにも平静が戻ってきた。彼女はさらに椛に聞いた。
「普通は見つかりそうだけどね……滝の裏なんて」
「烏天狗には無理ですよ」
「どうして」
「烏天狗は天逆鳥の伝承を忘れたがっている。怖ろしいからでしょう? うつくしいことは求められるときに現れる。あなたがたが伝承を忘れたがっているかぎり、天握山防剣は絶対にあなたがたの手にはいらない」
「……文は求めていた」
「見つけられなかったのは、まだ怖れているからでは?」
途端にはたては椛のことを睨みつけた。文の努力を侮辱されているように感じたのだ。彼女は一歩を踏みだすと言う。
「渡しなさい。文に見せる」
文は“信じたい”と言っていた。それは伝承を求めながらも完全に信じきれていないからだろう。無理もない……証拠もなしにそれを信じきることができはずがないのだ。
……証拠ならある。まさに今、すぐ傍に。
椛の横にそれがあるのだ。
「言っておきますが」
椛は天握山防剣を引きぬいた。剣のみどりは烏の血を求めるようにぎらついていた。
「知られたからには生かしませんよ」
「友達でも?」
「……そうですよ」
はたては剣の先端を向けられた。すると彼女は急に全身が恐怖に支配された。
皮膚がけばだち、息の根が詰まる。
何もかもが怖ろしくなる。それまで優雅に空を飛ぶことができたのに、雨雲からの落雷に貫かれたような気分だった。
そして唐突に理解した。あれは天逆鳥を斬るためだけに打たれたけれども、それは同時に烏天狗の天敵さえをも産みだしたのである。あまりに滑稽な発見だった。
「……逃げないのですか?」
どれだけの時間が経ったのだろうか?
相も変わらず……恐怖が骨身を這いまわる。
踏みだすことさえもできない。
しかし、はたては逃げもしなかった。
「分からない。
でも……この機会をのがしたら……文は天逆鳥を見つけられない……そんなふうに感じるのよ」
「そのためには命も捨てると言うのですか」
「命は欲しい! でも……それも欲しい!」
「……アハハハ、ハハ!」
椛の性格(Style)では理解が及ばない。
理解が及ばなかったのは特定の性格。
その特定の性格を持っているなら……。
絶対的なこと……真実とか……友情とか……。
ときにはそれに献身したいと言うような気分になる。そのために恐怖を克服しようとさえも思うのである。
これは記者なりの意地なのだ。
「さあ……渡せ!」
「どうぞ」
「えっ」
椛が急に剣をほうりなげた。
傍に剣が落ちていた。
まるで理解が追いつかない。追いつかないなりにはたては剣を拾いあげた。幻ではない。掌の内に“それ”があった。
「……今の流れはなんだったのよ」
「フフフフ、フフ……からかいとか?」
嘘だと思った。目が本気だった。
おそらく椛は自分が剣を握るに適当であるかを試していたと推定された。そして彼女の優秀な眼鏡に適わなければ、はたてを本当に“ぶったぎった”にちがいない。
「私がぶったぎられた」
椛はすがすがしそうに言った。
「あなたは友情に命を賭けた。私にそれはできない……無理です。その想いにぶったぎられたからには剣を渡すしかないでしょう」
「分からない……それは禅の道理?」
「いつもはね。剣を見るときは周囲を監視するのですが……どうしてかな……忘れてたんだ。
私はあなたが現れたとき、すぐに“これはおかしいぞ”と思いました。自分がこのような“へま”をするのがおかしかったのです。
その理由が分かりましたよ。私はへまをしたのではない。剣がそうさせたのです。あなたはそれに選ばれたのですよ」
「分からないけど……。
貰えるからには々うからね」
「うつくしい」
椛は氷の滝のほうを眺めた。
「うつくしいことは求められるときに現れる。
今日は剣よりも滝よりもうつくしいことが見られた」
三
【第三のメモ】
天握山防剣の情報は少ない
深緑の刀身を持っているとは伝わっている
なんの力も宿っていないことはないだろう
伝承の武器は大抵の場合
特別な力を持っているのである
しかし、そんなことに興味はない
重要なのはそれが実在することで
天逆鳥の実在の証明にもなると言うことだ
一度でも……それを見ることができるなら
荷袋をまとめるとはたては東へ飛んでいった。荷袋には食料と必要そうな道具を詰めた。もちろん天握山防剣も忘れない。
飛んでいると急に浮力が失われた。予想していたことなので、はたては悠々と滑空して、上手に雪上へ着地できた。
はたては森丘の前にいた。先祖岩が鎮座しているのは森丘をいくつも越えたところであると言う。それが山の東の果たてだ。文はそこにいるはずである。
その気があるなら……歩くしかない。
「よし……出かけよう」
しかし、はたては知らずにいた。
仮に力や度胸があったとしても、慎重さを欠いてしまえば、それは無にも等しいのである。一瞬の不注意がすべてをだいなしにすると忘れてはならない。特に烏天狗と言うやつは致命的なまでに歩行のことを知らないのだ。
森丘の木々は凍りついていた。辺りにはいにしえの土地の感傷がさまよっていた。はたてを待ちうけていたのは氷樹たちの持てなしだった。
白、々、々、々、々、々、々、々……。
見えるかぎりに白。目がおかしくなりそうだ。
雪風がいやに強まってきて、氷樹のあいだを通ってくる。木々は闇雲に互いに絡まりあり、わずかの暖を取ろうとしていた。
すべてが静まりかえっている。生物の姿も見かけない。あまりの寒さと寂しさにはたてはそれを悲しむことさえもできなかった。
この感情はなんなのだろうか? ……はたての道はたしかに先祖岩へつうじていたけれども、それは同時に彼女の内部へもつうじていた……歩きだすと早いうちから、彼女は歩行の労苦を知る。思考は考えることを放棄したがり、彼女はこう言うときの単純な欲望……つまり“帰りたい”と叫んでいる、自分の執拗な欲求と争っていた。
氷樹の曲線に笑いを見た。それは能面のように陰気な笑いであり、はたての努力をからかっているのだ。
冬がみどりを占領してていた……。
はたては歩きながらに畏怖の想いがこらえがたくなり、いにしえの土地が何を表現しているのかを辺りに求めた。冬が表現しているのは非創造と無関心の塊だった。この場所に彼女の居場所はない。氷は不寛容に辺りの時を止めている。彼女は写真を撮るときに感じるように……この土地に心をつうじあわせることができなかった。この場所には伝承の迷信と冷気の嘲笑が跋扈していた。
人間たちのように妖怪も幽霊も恐くはない。
自分もそのうちのひとりだからだ。
しかし迷信をこわがることはある。
一度でもそれに囚われると。
不安になってしまうのである。
この一面を完全に満たしている。
迷信の異臭はなんなのだろうか?
分からないことばかりだった……。
雪の中での生活を考えるのだ。
冷酷な雪風を。々々な土地を。々々な景色を。
山には“呪われの土地の伝承”がある。
天逆鳥が残したそれは烏天狗をくるしめる。
思慮と平静があれば、先祖岩に辿りつける。
しかし、この土地はいつもの山ではない。
さらに言えば……。
この土地は冬の荒野なのである。
この感情はなんなのだ。
自分はどこを歩いているのだ。
はたてはうしろを振りかえった。
自分の足跡はすでに雪で埋もれていた。
……気がつくと方向の感覚がなくなっていた。
「飛べ!」
はたては狂ったように叫びだした。
急に深刻な恐怖に満たされた。剣を向けられたときとはちがう、さらに本質的な怖ろしさだった。
つまり有翼類に特有の恐怖……それは“飛べないこと”への恐怖だった。その単純なことがはたてはあまりに怖ろしくなったのだ。
それもそうだろう……烏が空へ向かえないのは手足を引きちぎられるも同然だからだ。
「うう、うう……飛べーー! 々べーー!」
滑稽な声が迷信の土地に染みわたる。
「文!」
はたては急にがむしゃらに走りだした。
怖ろしかった。
何もかもが怖ろしかった。
焦燥は容易に判断を鈍らせる。
ふたつの丘を越えたところで。
急傾の雪で足を滑らせた。
その先には崖が口をひらいていた。
烏の肉をむさぼるために……。
夢を見た。
氷の滝の前でひざまずいていた。
全身を屈辱が貫いた。立ちあがろうとしているのに、右の手足が鉛のように重かった。何度も立ちあがろうとしながら、ようやく体がわずかに動いたとき、猛烈な痛みがはたてを覚醒させた。
崖の底にいた。
起きるとすでに体の表面が雪で埋まっていた。
ずりずりと蛇のように這いうごいて、ようやく崖に背中を凭れさせられた。
「ちくしょう! ……折れてる」
右の手足が腫れあがっていた。下には雪の毛布がある。落ちるときに半身を岩に打ちつけたのだろう。
はたては上を眺めた。崖の高さは八間ほどに見えた。今の彼女には途方もなかった。
崖の幅は二間ほどだ。この場所は崖と言うよりは亀裂だった。じわれが何百年も風雨に削られるとこんなふうになると聞いたことがある。
「文……」
涙をこらえられなかった。自分の愚かさをぼろくずのように感じていた。
歩行への無知。
自分への過信。
何もかもが恥ずかしかった。
そして悔恨のあとに身をむしばむのは、強烈な眠りへのいざないだった。疲労と低体温は容易に死を連れてくる。これには妖怪さえも抵抗しがたい。
死は冬のさきぶれ。
平等に来たる、終わりの季節。
……。
朦朧の端に何かを見つけた。
崖の表面で凍りついている。
ヤツデの卑小な花と葉だった。
「……こんなところにも」
はたては手を伸ばすとヤツデの葉をもぎりとった。掌でそれを溶かすと奇しくも色は天握山防剣と同じだった。あるいは剣のほうがその葉の色と同じなのだ。
「……見せないと」
その色がはたてに当初の目的を追想させた。
はたては力を振りしぼると。
何度も々々もできるかぎりに笛を吹いた。
……。
大空に祈っている。
笛の音色が伝わるように。
先祖岩へ向かったことが。
愚考で終わらないように。
これを見せなければ。
いつ友達が報われると言うのだろうか?
さあ……眠りが訪れる。
……。
音がする。
何かをはたきおとしている。
はたての体の表面の雪を。
はたての頬に触れると文は上を見た。
「降りるだけでも大変だったのに……」
文句を言っても仕方がない。文は上着を脱ぐと帯状にそれを引きさいた。はたてを背中に担ぎあげると帯で彼女を固定した。
「我慢してね」
上を見た。
距離は降りるときと相も変わらない。
約八間。
角度は垂直。
はたての呼吸は微風よりも小さかった。
「よし……やるか」
文の両手が岩を掴んだ。
四
【第四のメモ】
何十年も前のことなので
自分がどのような心境で森丘を歩いたのか
それを明確に書くことはできない
怯えながらに歩いていたことはおぼえている
雪の中で完全に迷ってしまったのだ
この場所は烏天狗を寄せつけない
どうしたらよいのか、分からなくなるのだ
呪いを断ちきり
何時間も歩いたあとに
ようやく先祖岩へ辿りついた
その岩石は烏天狗の血のためだろうか
肌がけばだつほどに怖ろしくて
異常なまでに荘厳に見えた
木が焼けるような音で目を覚ました。
布製の天井が見えた。毛布を剥がすと右の手足の包帯のほかに、室へ温風が流れこんでいると気がついた。はたてはその風の流れを知っていた。彼女がよろよろと野営を出ると文が焚火の前に座っていた。
「おはよう。と言っても夜だけどね」
はたては返事ができなかった。そして返事ができないなりに文の指爪のほとんどに、血だらけの包帯が巻かれていると知ったのである。彼女はすべての事情を悟った。
嬉しいやら。申しわけないやら。
ほかにも無数の感情がはたての内に攻めぎあい、彼女を文に謝らせようとしたけれども、口をひらくまえにぼろぼろと涙が溢れだした。彼女を落涙させたのは、自分が生きていると言う、あまりに単純な真実だった。
「こわかったよう、こわかったよう」
はたては文の胸に跳びつくと幼子のように泣きじゃくった。
「生きているのよ」
文が微笑した。
誰かの胸の中は信じられないくらいに優しかった。はたては冬の只中に秋の匂いを感じていた。
はたてが泣きやむと以前の礼をするように、文が雪水で珈琲を淹れてくれた。珈琲を顔に寄せるだけで、骨身に香りが染みとおった。彼女の珈琲とはちがっていて、大量の蜂蜜が入れられており、しつこすぎるくらいに甘かった。それが喉を通りすぎるたびに活力が湧き、絶対に無事で家に帰ってやろうと思わせられた。
珈琲がなくなるころに文がふところをさぐった。
「ほら」
そしてヤツデの葉をはたてに返した。文はこれを聞いたのだろう。まさにみどりの奇跡である。
しかし、はたてが助かったのは文の尽力のためにほかならない。それを奇跡と形容するのはちがうような気がしていた。
はたては無意識に葉を握りしめていた。
「音を聞いたの」
文は火をいじくりながらに言った。
「最初は気のちがいかと思った。それでも音が何度も聞こえるの。まるで何かを伝えるように。私は……“もしかしたら”とも思ったし……“はたてじゃないように”とも思ったわ。
……馬鹿ね。私もあんたも」
「……こわかった。私は“飛べないこと”に恐怖していた……と思う。分からない。あの恐怖はなんと言うのか……純粋だった。それに本質的だった」
「飛ぶことは烏天狗の本質よ。それを中心にすべてが成りたつ。あんたは拠りどころの中心を呪われたのよ」
「……呪い。天逆鳥の」
「今は平気?」
「うん。独りじゃないから」
「なら……見なさい」
野営は森丘の頂上に接していた。そこから文が三十間は向こうの崖に指を向けた。今度は本当の崖である。
崖はねずみがえしのようにえぐれており、その頂上は茸のように突きだしていた。波に削りとられたように反りかえった、その崖の“突きだしの”ところには、竜の上牙のように岩石がぶらさがっていた。まるで鍾乳石のいでたちである。
その岩石に目を凝らすと夜の闇に一筋の縦線がまぎれていた。
文が畏怖の呟きを漏らす。
「あれが先祖岩。
天逆鳥が去った。
最後の居場所」
……。
それから。
一緒に話した。
文は求めているだけに天逆鳥に詳しかった。
強大な神々さえもしりぞかせるほどの力を持っていること。雲をも千里の果たてに吹きとばすこと。頑強なくちばしはあまねくを砕きこと。血には万死の猛毒が流れていること。
別名に迦楼羅鳥と呼ばれていること。特に竜と蛇を常食していたと言うこと。天逆鳥は金色の炎を吐きだすこと。炎の光背を持っていること。
……そして冬の空に去ったと言うこと。
すべてがはたての知らないことだった。文はそれを雄弁に語ってくれた。これほどまでに饒舌な彼女は見たことがなかった。
はたてが実質的にたのしんでいたのは会話ではなく、文の熱心な表情の変化のほうだったのかもしれない。
それに些末なことも話した。
普段はおもしろくないことでも笑えた。
文もそうだ。
些末なことがおもしろかった。
……たのしかった。
このときが永久であってほしかった。
それでも体の内の疲労の残滓は彼女にまどろみを呼びよせてきた。
今度の眠りは亀裂の下とはちがっていて。
柔らかな炎にくるまれているような。
幸福と安心の微睡だった。
そのうち不意に目を覚ますと膝が目前にあった。自分の膝下を掌で押さえながら、猫のように丸まっていたらしい。
まだ火が焚かれているようで、外なのに寒くは感じなかった。はたては横目で文のいるであろうところを見ると……たちまち彼女の表情に目を奪われた。
その横顔は一心に先祖岩のほうを眺めていた。
……瞳が特にうつくしかった。
情熱的な集中力に満ち々ちていて、弓矢が獲物を狙っているさまを幻惑する。深紅の虹彩が火の光を反射しており、本来は陰気なはずの目の下の隈が、むしろ瞳のうつくしさを助けていた。姿勢は立膝で勇猛さを連想させた。しかし立膝の上で両手は祈るように組まれていて、それが文の奥底の不安の象徴のように見えていた。
情熱。
平静。
忍耐。
祈念。
すべてが瞳の内にあった。
「……きれい」
はたては知らず々らずに呟いていた。
こんなにうつくしいと思えることは一生に何度も見られないだろう。あまりに眠くさえないのなら、写真を撮影するために動きたかった。
自分が見た。
この世で最も。
うつくしいことを。
……そうだ。
大切なことを忘れていた。
当初の目的を果たさなければならない。
荷袋はどこにあるのだろう。
文は荷袋を……。
あれを持ってきてくれたのだろうか?
目を覚ましたときには雲間のわずかな光が朝を告げていた。
「……寝てた」
最近は中々に晴れてくれない。それだけでも陰鬱な気分になった。しかし胸中にあるのは何も陰鬱だけではなかった。昨日は非常にすばらしいことがあったのだ。尤も友達はそのために骨折してしまったし、自分の指爪もずたずたになってしまったので、それを堂々と“すばらしい”と言うのは気が引ける。
それでも文は嬉しかったのだ。言葉にすることこそないけれども、はたてが来たのが嬉しかったのだ。
文にも弱さくらいはある。冬に独りでいるのは過酷なことだ。おそらく彼女は自分を心配して、こんなところへ来たのだろう。彼女は無自覚らしいけれども、あの地の亀裂へ辿りつくには、半日も時間が要るのである。
いかに友達が心配だとしても普通は極寒の中は歩けない。友達のために必死になるなど……文は考えついたこともなかった。
「あの子は……本当に……」
文は火を焚くために左を向いた。
「えっ」
すると自分の横に棒状の物が突きたてられているのに気がついた。
刀身は深緑。
こしらえは両刃。
鍔の位置には烏の羽。
そして文はそれを引きぬいたとき。
刀身の文字でそれの名前を知ったのだ。
「……本当は」
すでに野営で眠っているらしく。
横にはたての姿は見かけなかった。
「荷袋は重いし……置いていこうと思ったのよ。
でも……困るでしょう? 大切な……あんたの大切な物がはいっていたら……だから」
文にはありがたいことだ。
誰かの前で泣くのは好きになれない。
この涙は永久に凍土の秘密となるだろう。
「はたて……。
あんたは“これ”を見せたかったの?
……ありがとう」
うつくしいことは求められるときに現れる。
刀身には“天握山防剣”と掘られていた。
それこそが剣の銘である。
何日も先祖岩を観察しながら、天逆鳥が現れるのを待っていると、ふたりは段々と寡黙になっていった。何日も話さなくても平気でいられた。はたては文の涙の痕跡を指摘しなかったし、彼女のほうでも剣の出所を聞くことはなかった。
その心理はなんなのだろうか? あるいは不粋に振るまうことをいやがったのかもしれない。ときには黙っていることこそ、友情の最高の報いなのである。
相も変わらず……深刻な雪風が吹きすさび、ふたりの体をくるしめた。疲れているためなのか、怪我の治りも遅かった。周期的にはたての骨折の患部が熱を持ち、それが冷めてゆくたびに彼女は回復した。
はたてはこう言うふうに一ヶ所で冬景色を眺めているうちに、段々と冬の意志と心をかよわせられているような気がした。
無限の白……その光景は大胆で、暗示的でさえある。冬の精神は寒さの昏さ、風の乾燥で説いている。
豪雪と氷樹は檻となり。
自分たちを取りかこみ。
いかにも荘厳で怖ろしい。
雲は重厚感を持ちながら。
空の果たてを満たしている。
怖ろしい。
この只中で飛べずにいるのは怖ろしい。
しかし同時に景色は異常なまでに静謐だった。
ふたりは孤独ではなかった。
「……つらかった」
文が何日目かに寡黙を破った。
「自分が選んだことなのに……独りでカメラを携えて、何十時間もそこにいると……寒くて……々くて……死にたくなる」
「……死ぬ?」
「もちろん本気で言っているわけじゃない。つらいときはそんな気分になるでしょう? 原稿をなくしてしまったときとかに……それと同じよ」
「原稿に珈琲をこぼしたときも?」
「……うん」
ふたりはくすくすと笑いあった。同時にはたてのほうは苦笑しながらも“あること”を考えていた。
それは文が伝承に執着しているわけである。この数日で彼女の様々な一面を見たけれども、ついにその肝心なところは聞いていなかった。
ふたりは寡黙になっていたし、食料もわずかになってきていた……はたてはこれを最後の機会だと直感した。
「どうして天逆鳥を撮影したいの?」
気がつくとはたては愚直に聞いていた。この裸の土地で回りくどいことを言うのも気が引けたのである。
「それ……聞いちゃうの」
「知りたい……教えて?」
はたてのおねだりに文は窮した。
考えてみると自分が理由を説明してさえいたならば、はたてがこの場所にくることはなかったように思うのだ。それなら即日に剣を見せようとはしないで、素直に文の帰還を待ってくれたのかもしれない。そう言うふうに考えると彼女は責任を感じてしまった。
文は横目ではたてと目を合わせた。その目は真剣な好奇心に満ち々ちていた。その無邪気さに毒を抜かれると彼女は観念したのだった。
「記者になるまえは……何をしていた?」
「急に何よ」
「教えて」
文の神妙さに押されるとはたては渋々ながらも答えた。
「そんなにおぼえていない……毎日を適当に生きていたような気がする。熱中することもなかったから」
「そう……私もよ。いや……ほとんどの妖怪はそうなのかもしれない」
長命種の時が心に余裕を与えているのは否定されるべきではない。しかし長命の裏にはいつも怠惰と愚鈍の声が控えている。それは永久の退屈と結びつき、非創造の精神にいざなうのだ。
肉体は強靱だったけれども、以前の文は神経が細くて、魂も何事かに飢えていた。彼女は具体的な生活(Reality Life)を求めていた。まるで自分の生活は具体性がないとでも言うように……。
それから文が何をしているのか、すでに誰もが知っているだろう。記者になっていたのである。
「私は変化を求めている。安全な生活を求めてはいない。刺激と危険……それを記事にするための機会を求めている。
体の中には狂暴な体力がありあまっているのに、昔の私にはそれを消費するだけの趣味がなかった。だから……山に新聞がはやりだしたとき……不思議と即座に“これだ”と思った。そして“一生”の趣味にしようと思ったのよ」
妖怪に“一生”と言わせるのは並ではない。それは“何千年もそれと向きあう”と言うことである。
「私は一生の趣味にいつでも全力で向かいたい。記者なりにこの世で最強の記事を創造したい。だから……天逆鳥の伝承に目をつけたのよ」
退屈からの脱却だけではない。その趣味はロマンティックな精神の礼拝の舞台でもあったのだ。伝承はそれに御膳を立てたのである。
文は冬が好きだった。それはあまりに過酷であり、過酷は刺激を呼び込むのだ。
畢竟……創造的な精神が病的な方向へ邁進するのは危険なことなのかもしれない。それは非凡な悦びを与えてくれはするけれども、同時に破滅を呼びこむことも珍しくはないのだ。
それでも気がつくと文の道は東の冬へと繋がっていた。々の々へと繋がっていたのである。
はたては熱に浮かされたように呆然とした。おそらく文の情熱的な側面に触れてしまったからだろう。この高慢な友達がそのような想いを秘めているとは考えつきもしなかったのである。
「話しなさいよ……何か」
文が照れくさそうに言うとはたてはぽつぽつと声を漏らした。
「うん……なんと言うのか……驚愕した」
「笑いなさいよ。らしくないって」
「笑わない! 私は絶対に笑わない! どこかに笑うやつがいたら……そいつの家に月を投げつけてやる」
「アハハハ、ハハ……そのときはよろしく」
ほかの烏天狗たちはそれを鼻で笑うにちがいない。その陰険な世間に於いて、文の熱意は嘲笑の種になる。周囲を意に介さずに堂々とできないのは、彼女も陰気な烏天狗の性根を持っているからだった。こればかりはどうしようもないのである。
それでも文はついにはたてへ秘密を話してくれた。それは信頼の最大の報いだった。
「文」
「何? はたて」
「文……天逆鳥を見ようよ」
ふところのヤツデの葉を取りだした。それを冬の果たてへ“ピイーー”と吹いた。
はたては祈っていた。
文がその音で自分を見つけてくれたように。
伝承もその音で我々の前に現れてくれと。
……。
それから十分ほどしたときだ。
頭上をけわいが通りすぎた。
ふたりの周りを陰影が満たした。
上を見ると。
巨大な烏が空の支配者のように。
翼を雄大にはためかせていた。
先祖岩へ。
天逆鳥がさかさまに舞いおりた。
五
【失伝】
天逆鳥は笛の歌声をこのんだと言う
自分の子供たちが吹いてくれる
ヤツデの葉のその音を
ふたりが最初にしたのは目を丸くすることよりも全力で雪上へ臥せることだった。ほとんど記者としての反射的な行動である。
「……いた」
文の声はふるえていた。ふところのカメラに手を伸ばすこともおぼつかない。
その烏の全長は三間ほどに見えた。黒とむらさきを混合したような羽を全身にまとい、蝙蝠のようにさかさまの姿勢で先祖岩に足爪を突きたて、その背後ではつねに黄金の炎の光背が揺らめいていた。
あれが天逆鳥。
先祖岩に舞いおりた。
我々の祖先。
その巨体は先祖岩の下で動きもしない。それが儀式であるとでも言うように、その身を悠々と岩に休ませている。鳥肌が立つような荘厳さだった。
「文! カメラ! シャッター!」
はたての小さくも鋭利な声でカメラを取りだし、文はフレームの向こうに天逆鳥の姿を捉えた。
うつくしい。あれが我々の先祖。数十年の冬の労苦がついに報われるのだ。
しかし右手の指はシャッターの直前で動かなかった。
それは動かないのではない。
文はそれを“動かしたくない”のだ。
二筋の涙が雪を溶かしていた。
「文……?」
「ごめんなさい……今になって……あれを公表したくない!」
はたては言葉を飲みこんだ。
それにこの剣が公表されたら、これは奪いあわれることになる。それはこの剣のうつくしさをそこねるでしょう?
急に椛の言葉が脳裏に追想された。
公表はいつも被写体の破壊の危険を含んでいる。記者はつねに美の公表者であり、同時に美の破壊者でもあるのだ。天逆鳥が本当にいると知られたら、この光景はどうなるのだろうか?
文の精神はこの光景を壊したくなかったのだ。
「撮影するだけなら……!」
「無理よ……写真を手にいれてしまったら、私は絶対に記事を書いてしまう。
できない……私には……できない」
はたては両歯を喰いしばった。こんなに悔しいことはない。そこに目標がいると言うのに、文はそれを撮れないと言うのだ。
あるいは文よりもはたてのほうが悔しがっていたのかもしれない。彼女は本当に友達が報われてほしかったのだ。
「なら……あんたはなんのために!」
その一刹那!
天逆鳥がふたりのほうを向いた。はたての声を聞いたからではない。それはふたりのあいだに突きたてられている、かつて自分の子供たちに振るわれた、天握山防剣のけわいに気がついたからである。
天逆鳥は翼をはためかせると。
一瞬の間でふたりの目前に着地した。
嵐のように突風が吹いた。
その速度は未経験の領域。
いにしえよりの風である。
ふたりは野営と一緒に吹きとばされていた。文は宙空で咄嗟に体勢を立てなおしたけれども、一方のはたては背後の氷樹へ背中をぶっつけた。
「はたて!」
文は横目ではたてを一瞥しながらも、天逆鳥を厳重に視界へ捉えていた。全身の皮膚がいやにけばだち、ひたいに脂汗がしみだしていた。
無理もない。文は速さに絶対の自負を持っているのに……今の動きはなんなのだろうか? ……速さへの自負と慢心に賭けて、こんなことは認めがたかった。
つまり文は天逆鳥の動きが見えなかった。
一瞬も見えなかったのである。
「すごい」
それでも文が口にしたのは悔しさよりも賛嘆の声だった。
天逆鳥の羽は冬の風を受けて、雪の間に々にたなびいている。その堅牢な足爪は雪下の岩へ喰らいつき、くちばしは黒の内に“つや”を走らせる。なんの感情も読みとれない、夜の入口のような漆の瞳が、文を静寂の内に眺めていた。
天逆鳥の巨体の陰影の内にいると文はぞくぞくと決意がむきだしになった。
「インタビューをよろしいですか?」
むらむらと冷静な記者としての文ではなく、好戦的な烏天狗としての彼女が牙を見せた。
「風で勝負を願います」
……これが短絡的な行動であるのは理解していた。それに天逆鳥はふたりの傍へ着地したに過ぎなかった。ふたりが吹きとばされたのは単に現象の余波である。
天逆鳥は何をしに傍へ来たのだろうか?
攻撃? ……それとも対話?
あるいは特に理由も存在せず、ふたりが視界にはいったので、興味で近づいたかもしれない。
……すでにどうでもよいことだった。
すでに撮影の機会は失われてしまった。今はいにしえの風を理解しようと努めることしかできないのだ。そして挑戦(Interview)でこれまでの労苦に報いるのである。
この空域が翼を呪うとしても。
風だけは絶対に失われない。
文の通力が周囲に秋風を満たしはじめた。
氷樹に背中を凭れながら、はたては蚊帳の外にいた。それでも文の風が痛烈に吹きはじめたときには、両者に“やりとり”が発生したのを悟ってはいた。
風が吹いている。
それは暴風と言うにはあまりに鋭利で、ヤツデの薄葉のように繊細だった。余分な風は辺りに散らされ、背後の氷樹を斬りきざんだ。文の前に過剰な風は吹いておらず、濃厚で精密な風が一点に渦を巻く。
おそらく渦風が解きはなたれたとき、無意味な破壊が傷を残すことはない。それは奇しくも天逆鳥の傍にある、天握山防剣の裂傷と似ているのだ。
やがて渦風ができあがったとき。
辺りに一瞬の無風が産まれた。
「解きはなつ!」
それを合図に文の秋風が解きはなたれた。
天逆鳥を貫くような文の眼力。
はたての顔も瞬時にこわばる。
未体験の風速の呼吸。
疾風迅雷、紫電一閃。
渦風は中心を解放されると一直線に天逆鳥へ駆けぬけた。
……。
しかし風は天逆鳥の目前までくると、急に左右へ分散されてしまったのだ。
まるで風が山に衝突したとき、壮大な姿に傷をつけられずに、山の両脇へ流れてゆくように。
それが“現象の結果”だった。
文もはたても唖然とした。
「……ありえない」
文が驚愕の呟きを漏らした。
そして途端に天逆鳥の前にある、別の風の流れに気がつかされた。そこには流麗で穏やかな風が吹いていた……文は理解した。天逆鳥のその風は左右へ緩やかな曲線をえがいて、渦風を誘導するための通路になっていたのである。
強風は微風を誘導できる。誘導すると言うよりは飲みこむことができるだろう。しかし微細な風がけちらされずに強風を弄んでしまうのは見たことがない。そんなことは風の摂理の逆を向くことだ。単に暴風を創りだすより、何倍も高等な御業である。
……風の規模(Scale)がちがいすぎた。
「フフフフ、フフ……やられた」
自分が速さと風で負ける。
文はそんなことを考えたこともなかった。
これが天逆鳥。
先祖岩に舞いおりた。
我々の祖先。
そんなふうに諦念を感じているときだった。
「文を殺すな!」
急にはたてが文の前に踊りでた。
はたては文を庇うように立ちふさがった。
「はたて。天逆鳥は別に……」
「一緒に無事で帰るんだから!」
文は天逆鳥が伝承とちがい、穏健であると確信していた。あの規模の風を巧みに操れるとすれば、自分たちを打ちころすのも朝飯前だろう。繊細な技量は大抵の場合、大胆な技量の証明でもある。それをされなかったのはまさに穏健の証拠ではないのだろうか? ……。
しかし蚊帳の外のはたてには見えかたがちがっていたようである。外側の彼女が目にしたのは“文が敗北した”と言う、あまりに単純な真実だけでしかなかったのである。
このような未開の環境で、本来は敗者がどうなるか……それは言うまでもないことである。
はたては必死だった。友達のために必死だった。彼女は怖れながらも勇猛に天逆鳥を睨んでいた。
天逆鳥はそれに何も返さない。その双眸は相も変わらず、何も感情が読めなかった。
しかし微笑するように穏やかな風が吹いたのもたしかである……。
やがて邂逅の終わりは訪れる。
そのうち急に天逆鳥は身をよじった。
はたては両目をとじきった。
……何も起こらない。そして目をひらいたころには天逆鳥がふたりに背中を向けていた。その背中は炎の光背で日の光のように眩しかった。
すると次の一刹那!
天逆鳥は金属音のように鋭利な声で空に吠えた。
尋常の烏のおたけびを何倍も増幅したような高音が、ふたりの鼓膜と腹部にびりびりと衝撃を伝えていた。
それから天逆鳥は神速の速さで。
翼を剣のように振りぬいた。
すると神風が空に向かい。
空で破裂するような音がした。
ふたりがまばたきをしたころには。
すでに雪雲が地平線の果たてへ消えていた。
空が晴れていた。
すがすがしいほどの青空。
目もくらむような太陽の光。
まるで夏の光景だ。
大地は雪が溶けるときを待っている。
「信じられない……どれほどの風を吹かすことができるなら……」
文は言葉を絞りだすことさえも苦労した。
天逆鳥は足元の天握山防剣を口に挟み、すでに空の果たてへと向かっていた。
遙かな空に我々の祖先が飛んでいる。
分からないことばかりだった。自分たちの前に現れたことも。自分の挑戦に応じたことも。雪雲を吹きとばしたことも。すべての行動が理解の範疇の外にある。
それもそうだろう。あれはいにしえの啓示的な生命であり、それを今代の文に理解できるはずがなかったのだ。
それでも後悔はない。文はうつくしいと思ったことを単純に“うつくしい”と言うだけだ。それで何もかまわなかった。
自分に正直に行動して、誤ったことは一度もない。それが一旦の青春の終わりだとしても、まだ残念な結末とは言えないだろう。それは青春の行動と結果だからである。
この経験がのちに活かされ、いずれ青春の形見になるなら、それは本当に幸福なことだ。
文の今回の収穫はあの啓示的な生命のように漠然としている。もちろん物質的な報酬はひとつとしてない。得たのは記憶の底に残る、自分の青春の面影である。
文は倒れた。雪のしとねに背中を任せた。
そして呆れるように言った。
「すがすがしい」
「なんと言うのか……見せつけられたね」
「見せつけられた? ……たしかに。私たちは見せつけられたのかもしれない」
天逆鳥の姿はすでになかった。
空には太陽と青空だけが残されていた。
文は満面の笑顔で叫んでいた。
「やられた!」
六
【未達の想い】
うつくしいことは求められるときに現れる
はたてが言うにはあの白狼天狗の言葉らしい
にくたらしい……
しかし認めなければならないだろう
私はそれを体験したのだ
はたて
あんたが来てくれなかったら
私は天逆鳥に会えたのだろうか?
……ありがとう
「それで剣は持っていかれたわけですか」
「ごめん……」
はたては椛に狼岩の上で事情を話した。
そうなると必然的に天握山防剣の喪失が露見するわけである。彼女のひらあやまりが青空に溶けていった。
「別にかまいませんよ。あれはあまりに過ぎている。山にあるべきではなかったのです」
「……思うんだ」
急にはたては神妙に言った。
「天逆鳥が去ると私たちも帰路へ向かった。そのときに見たのよ……帰路の氷樹だけが炎でも浴びたように溶けていたの。
もしかすると……天逆鳥には子供が遭難しているように見えていたんじゃないのかな。
だから雪雲を吹きとばしてくれたのかも」
「伝承では狂暴だと聞いていますが……」
はたてはそれにも検討をつけていた。
どんな理由があったとしても天逆鳥が山を追放されたのは伝わっているのだ。それは敗者の歴史である。のちの性格の触れこみは単に嘘の悪評(Gossip)なのかもしれないのだ。
記者なりに“書きほうだい”と言うやつのことは理解していた。いかにも烏天狗のやりそうなことである。
しかし、それも想像でしかないのだった。
本当に天逆鳥が狂暴でないと言うのなら、なんのために呪いを残したのだろうか? ……それだけはどうしても説明がつかなかった。
「そうだ。あなたなら……過去の念写で記事を書けるのでは?」
「あのね……」
はたてはその提案に呆れかえった。
文は証拠の写真を撮りのがしているので、はたてがあの衝撃的な過去を念写して、記事を書くことはできるかもしれない。それでも友達の青春を掠めとるなど、彼女にできるはずがないのである。
「そんな不粋なことはしないわ」
「冗談です」
「いーーや……本気だった。あんたにそう言うところがあるのは痛いほどに知っているのよ」
それを聞くと椛はからからと笑っていた。
「それに今回は……ほかの収穫があったから。それでよしとしておくわ」
「収穫?」
「……秘密」
……。
文とはたてが知ることはないだろう。
啓示的な生命でさえも故郷に焦がれ。
ときにはそこへ帰るために。
ひとばらいの領域を残し。
独りになるための居場所とするのだ。
それから数日が経つと椛は知らず々らずのうちに氷の滝へ足をはこんでいた。
「……惜しいことをした」
椛は道中でぶつぶつと言った。
じつはあの剣が惜しいと思わないでもなかったのだ。はたてに“かまいませんよ”と言ったのは単に強がりからである。
それはそうだろう。伝承の中の啓示物が手を放れて、誰が嬉しいと言うのだろうか? ……その惜しさが椛を必然的に氷の滝へ誘導するのだった。
しかも友達のためだけならよいとしても、あの苦手な烏天狗の目的が果たされるとは、椛は想像さえもしていなかったのである。敵に塩とはこのことだった。
辿りつくとそれは数日間の日光で溶けだし、すでに“氷の滝”とは呼べなくなっていた。
「おや?」
すると妙な光景を見た。
滝壺の近くの岩場に巨大な烏が羽を休めていたのである。そして烏の足元の岩場にはまちがいなく、あの天握山防剣が突きたてられていた。
そのうち烏は椛のことを気にもせず、悠々と東の方角へ飛びさっていった。
「へえ……あんなに巨大な烏がいるんだな」
椛は烏に興味がなかったので、そんな感想を言うだけだった。そんな畜生よりも大切なのは天握山防剣のほうである。彼女は岩場に立つと剣を引きぬいた。剣を青空にかざすと刃が若葉の色にきらめいた。光の具合で様々なみどりに変わるのがこの剣のうつくしいところである。
椛は踊りだしたいような気分で言った。
「天握山防剣。あるべきところに帰ったのか?」
剣を振ると。
みどりの風が山の間に々に吹きぬけた。
はたての机の上には一枚の過去の念紙が置かれていた。彼女の収穫は“美”と表現できる。彼女は記者なりの観察眼で美を理解した。
おそらく文がその念紙を見れば、頬が深紅に染まるにちがいない。しかし発見者の立場としては、これには天逆鳥の写真よりも、遙かに価値があると誇らしい。
ふたりの目的と収穫が別々のことを意味するかぎり、そのうつくしさに優劣をつけるべきではないのである。
はたては今回の体験で学んでいた。
ときに誰かの青春は。
啓示的な生命の美を。
遙かに凌駕するのである。
不意にはたては窓の外に烏を見つけた。
その烏の道はすでに東になく。
誰も見たことがないような記事を書くために。
別の方角へ飛びさっていった。
八
【過去の念紙】
記事の種にすることはない
それを記事とするにはうつくしすぎる
はたてはそれを占有するだろう
その横顔は一心に先祖岩のほうを眺めていた
……瞳が特にうつくしかった
情熱的な集中力に満ち々ちていて、弓矢が獲物を狙っているさまを幻惑する
深紅の虹彩が火の光を反射しており、本来は陰気なはずの目の下の隈が、むしろ瞳のうつくしさを助けていた
姿勢は立膝で勇猛さを連想させた
しかし立膝の上で両手は祈るように組まれていて、それが文の奥底の不安の象徴のように見えていた
情熱
平静
忍耐
祈念
すべてが瞳の内にあった
念紙の裏には
こんなふうに書いてある
……
私が見た
この世で最も
うつくしいことを
具体的な生活 終わり
一
【第一のメモ】
雪の“しみ”でよごされた
どこかの誰かの青春のメモに
こんな伝承が記されている
それは妖怪の山の伝承
烏天狗の祖先。天逆鳥(アマサカドリ)の伝承
天逆鳥はヤツデの葉で巣を建てると、そこに烏天狗の卵を産みおとした
しかし、その気性の荒くれぶりを危惧されると
天握山防剣(アマツカヤマモリノツルギ)の力により
子供たちに冬の山を追放されたと言う
そして山の東の果たてにある、まっぷたつの岩石は剣の痕跡であり、だから“先祖岩”と呼ばれるのだ
今は誰も信じたがらない
御伽噺だ
ときに昔の花果子念報を読むと妙な気分にさせられる。無理もない。過去の情熱の痕跡はいつでも滑稽に決まっているのだ。あの文章に、あの写真に。自分は何を期待していたのだろうか?
記事の不人気を悟ったとき、記者はペンとカメラを捨てようとする。もちろん記事が印刷されたときの、あの無上の悦びも捨てさってしまうわけである。
姫海棠はたてが机の上に肘を乗せて、愛用のペンを指で弄んでいると、不意に窓の外にひとりの烏の姿が見えた。
外では雪が冬の空を染めていた。白色の景色にあの黒羽はうつくしい。そのうち烏は雪を風で吹きちらすと東の空へと消えていった。
「よくやる」
はたては椅子に凭れるとだるそうに呟いた。
「書くこと……ない」
烏の飛びっぷりが頭によぎり、自分がいやに滑稽と思われた。
玄関の外に出るとまずは寒さにうなった。いかに厚着をしようとも山の寒さは耐えがたい。特に顔面が冬風にぶちのめされていた。
師走である。終わりの季節が山の樹木を枯れさせていた。それでもヤツデだけが玄関の前で、冬の花を放射状に咲かせていた。はたてはヤツデの葉をもぎりとるとそれを“ピイーー”と口で鳴らした。
ヤツデの葉は人間の口では笛にできない。天狗たちには独特の鳴管と咽頭があり、それだけがヤツデの葉を鋭利な空気で吹きならすのである。
南のほうで応じるように“ピイーー”と音がした。はたてはその方角へ飛ばずに歩きはじめた。
外世の人間たちがやたらと岩に名前をつけたがるように、天狗たちも似たような風習を持っていた。山の巨石は“扇岩”だの“剣岩”だの、こじつけの名前に余念がない。
犬走椛が座っているところもそうだった。それは下部を年月で削られて、あたかも口をひらいているようなので、白狼天狗たちからは“狼岩”と呼ばれていた。岩には信奉の証に麻縄の帯が巻かれているので、それに座るのはまさに不敬ではあるけれども、彼女は信仰に拘らないほうなのだ。
はたての匂いを嗅ぎとると椛は振りかえる。
「おはようございます」
「いつもの装束……薄着で寒くない?」
「そうでもないです」
「そうでもないのか……」
はたても狼岩の上に座った。岩からは山の景色を眺められた。
滝は凍りつき。
木々はすべての色を失い。
生きものは土の寝床で春を待っている。
山が眠りに囚われていた……。
はたては活気のあるほうが好きだ。感傷的な冬の景色は何かとやりきれない。白色の溜息を吐いたあと、彼女は椛に話しかけられた。
「今日はどうしました」
「どうと言うこともないよ。その……暇してさ」
「フーーン」
「フーーンとは何よ。友達に対して」
「なんでもないです」
いつから椛としたしくなったのか、はたては特におぼえていなかった。おそらく“気がついたら”と言うやつなのだろう。暇をするとヤツデの葉で呼びあうくらいの仲になっていた。
ただ……それにはふたりの通力の共通点が由来しているのかもしれない。つまり念写と千里眼には似たところがある。どちらも風景を切りとって、瞳の内に俯瞰するのである。
そんな視点があるからだろうか。はたては同族に特有の別種を侮るような態度に欠けており、同時に同族のそう言うところを軽蔑してさえいるのだった。
「あんたも禿山の監視は暇でしょう?」
「退屈はしていません。禿山なりに情緒は感じますよ」
「フーーン。なら……いつもの勝負をしよう」
「飽きないですね」
「ほら! 紙をちょうだい!」
椛は渋々と二枚の紙を取りだした。
渋々ながらも紙を持ちあるいてくれるのがはたてには嬉しいところである。彼女は紙を受けとるとそれを眺めた。椛も同じようにした。
しかし、ふたりは別に紙を眺めるだけの酔狂な遊びをしているわけではない。ふたりの天眼通は瞳へ思い々いの景色を連れてくるのである。
それを“審美眼の勝負”とでも呼ぼう。つまり椛は千里景を木炭で紙に描き、はたては念写で紙に景色を描きこんで、それを互いに品評すると言うわけだ。この通力を発展させたような遊びが意外とふたりにはこのましいのだ。なぜなら両者には山の観察者として、美への感受性にそれなりの自負があるからだ。
……はたては目をとじていた。木炭の筆写音が耳に快い。
「……まずいわ」
「降参ですか?」
椛がにやついているのは声の色で明白だった。
はたては冬が得意ではない。岩の上で景色を眺めたとき、思うところがなかったように、どうしても冬に感性が合わないのだ。
……頭の中に影像(Image)が浮かんでこなかった。
「できた!」
そのうち椛は快活に言った。
はたては目を開けると椛の絵を見た。そこには氷の滝がえがいてあった。来たときも岩の上で眺められた、南西のほうのあの滝である。
絵の視点は氷の滝の真下。仮に水がいつものように流れているなら、水瀑に飲まれかねないような位置である。滝は一本の巨大な柱に見えた。その仰ぎみるような視点は氷瀑の荘厳さを雄弁に語っていた。そして木炭の黒と紙の白の、強烈な対比は取りもなおさず、過酷な冬の心の表出である。
「やるね……」
とはたては嘆息を漏らした。
あの氷の滝を直下に捉えようとは思いつきもしなかった。椛のその広範な感受性はまちがいなく、職務で山を見つめていることに由来していた。記者の立場で考えてみると千里眼よりも羨ましいことはない。おそらく彼女のまなこは山の四季を様々な角度で眺めつくしているはずだった。それはすべての記者が望む、まさに至上の通力なのである。
また目をとじた。何もえがきたいことが浮かばないなら、ときにはでたらめに念じるのもわるくない。
きれいなこと、きれいなこと……はたては一心に祈りはじめた。いつも記者なりに痛感しているのは、自他の美観はつうじあわないと言うことだ。このときでさえもふたりは一緒に景色を見ているのに、冬への向きあいかたがこんなにもちがっている。それこそが自他の感覚の差の明確な証拠なのである。
はたてが記事にするのはつねに凡庸なことだった。念写はいつも既知の風景を描きこむからである……だからこそ用心しなければならない。
日常の中の繊細な美景。そして“きれい”なこと。それを見つけられるように気をつけるのだ。はたてが記事に書きたいのはまさにそう言うことなのである。
……そうだ。まさに今朝……きれいな烏の姿を見たような気がした。
「これは?」
椛の声で目をひらいた。気がつくと念写が終わっていたようである。それから手の中の念景に驚かされた。写っているのは今朝の烏だ。
窓をフレームに翼がはためき、烏は宙空の只中に佇んでいる。その孤独な横顔は一心に東を見つめている。今にも帰りたくなるような寒空の中で、その決意の瞳だけが熱を持っていた。
「なんでもない!」
はたての頬が深紅に染まった。すぐに紙をふところへ隠した。
「……フーーン……」
「何よ……その“間”は」
「別に」
椛の視線には含みがあった。こんなに失礼な白狼天狗がほかにいるのだろうか? 仮に友達ではなかったなら、吹きとばしているところだ。
「帰る!」
はたては急に立ちあがった。彼女の通力は多少の流動性を持っているので、以前の景色を切りとることが稀にある。
それにしても射命丸文の姿が写るとは考えもしなかった。こんなことはあまりに恥ずかしすぎた……それはそうだろう。はたては“きれい”なことが写るように祈っていたのである。
……。
文。
はたての友達。
そして商売の好敵手。
はたてはきびすを返すと場を去ろうとした。
「あなたは知っているのですか? あれがどこに行っているのか」
しかし椛の質問がはたての足を縫いとめた。彼女は振りかえらずに返事を返す。そわそわと指が落ちつかなかった。
「……取材でしょう」
「東のほうにあるのは先祖岩だけですよ」
「あんたは知っているの? 文が何をしているのか」
はたては我慢ができずに振りかえった。椛が事情を知ったふうに微笑していた。それを見ると彼女は胸中をくすぐられているように感じた。
「まあ……私の目は見えすぎますから」
「……教えてくれるの?」
「いやです」
「えっ」
はたてが頓狂な声を漏らしたとき、椛は急に岩を跳びおりるように去っていった。彼女が岩の下を覗いたころには、姿はすでに下方の崖へ失せていた。
「この……犬ーー!」
はたては下方に叫ぶしかなかった。
はたては別に怠けるために椛と暇をしていたのではない。まず冬でも取材に熱心な文のほうが珍しいのだ。この時期は人妖の活力も減るので、あまり記事の種は見つからない。そして何よりも冬の空は致命的に寒すぎた。冬空で速度をだすのは屈強な白狼天狗でさえも遠慮したがるくらいである。そして烏天狗たちは高速で飛行するからこそ、冷気の壁にぶちのめされてしまうのだ。だから冬の新聞と言うのは休みがちであり、ほかの記者たちもそれを休暇くらいに考えていた。
この時期にあくせくと取材をするのはまさに文だけなのである。
椛と話してから、八日を過ごした。
蝋燭の光をたよりにしながら、はたては例の念紙を見ていた。
「あいつ……何をしているんだろう」
はたての呟きはちびていた。
文が冬になると毎年のように東へ向かうのは知っていた。しかし理由を聞いたことはなかった。彼女が熱心に向かうからには取材が理由のはずであり、同時に他者の取材を掘りさげようとするのは記者のあいだの御法度である。記者が々々に情報を与えるはずがないのだ。
それにしても文は先祖岩の何を調べていると言うのだろうか? ……岩のほかには何もないと聞いている。はたてが“聞いている”と形容するのはそれを見たことがないからだ。
無理もない。先祖岩には“烏天狗が絶対に行きたがらない”だけの理由があったのだ。
羽折岩(ハオリイワ)
と先祖岩には別名がついている。その別名が示すとおりに烏天狗は岩の付近で空を飛べなくなってしまうのである。原因は呪いだと聞いている。
天逆鳥がそれを残していったのだ
自分を天握山防剣で斬ろうとした
子供たちのその々々たちまで
地に墜落してしまうように
烏天狗たちはそのように信じていた。
信じていて、怖れている。
だから御伽噺として。
忘れたがっているのである。
……。
そんなふうにはたてが長考しているとき。
急に隣室でばきばきといやな音がした。
「えっ……」
はたては目を丸くした。
屋根が壊れたのだろうか? ……屋根の雪は三日前に風で落としたはずだった。文ほどではないとしても操風くらいわけはない。
「何よ……」
立ちあがると隣室への戸をひらいた。隣室には埃が舞っていた。そして屋根の穴が冬の風を通している……しかし、それだけではなかった。
「えっ」
「落ちるところを……まちがえた」
空から。
荷袋と一緒に文が落ちてきた。
「えっ」
「ごめん!」
それだけ言うと文は意識を失った。
二
【第二のメモ】
天逆鳥がその力を振るうとき
それは強大な神々さえもしりぞかせ
雲をも千里の果たてに吹きとばしたと言う
そして頑強なくちばしはあまねくを砕き
血には万死の猛毒が流れているのだ
まさにいにしえの怪鳥である
また別名に迦楼羅鳥(カルラチョウ)と呼ばれており
特に竜と蛇を常食していたと言う
その影響からなのだろうか?
天逆鳥は金色の炎を吐きだし
炎の光背を持っていると伝えられている
まさに竜の力の簒奪者である
目を覚ますと全身がずきずきと痛んでいた。疲労しているときに特有の、頭が揺れているような感じもした。冬の文にはいつものことだ。
普段とちがうのは自分の寝室ではないこと。
そして体に包帯が巻かれていることである。
「起きた?」
そのうち隣室への戸が開いて、ようやく家のあるじを悟った。
「はたて? どうして私はあんたの家に……」
「おぼえてないの」
「……ごめん」
「三日も寝てたのよ」
はたては溜息を吐くと言う。
「朝の食事にでもしましょうか?」
はたては文の食べっぷりに肝を潰した。米が見る々るうちに腹の中へ消えてゆくので、冬の備蓄がなくなるのではと思ってしまう。それに彼女の気位を加味すると誰かの前で米をかつがつと喰らっているのも異様だった。
「これが“きれい”か……」
「なんだって?」
「米粒!」
はたては怒りぎみに文の頬へ指を向けた。彼女が食事を食べてしまうと珈琲も淹れた。山では貴重な黒豆を屋根の破壊者のために使ってやったのである。
「ふウーー……」
文は珈琲を口にすると宇宙一の水でも飲んだような嘆息を漏らしていた。だらだらとふたりで珈琲を飲み、湯気が薄まるころに彼女は言った。
「屋根のこと……わるかったわよ。疲れてさ……家に着くまえに力が尽きたのよ」
「弁償してよね」
「……聞かないの?」
「何が」
「落ちたわけ」
「言わないでしょう?」
「……」
文の無言は実質的な肯定だった。
「予想はできるよ」
「へえ?」
「あんたは天逆鳥を撮影しようとしている。そうでしょう? あんたの行くところと趣味を考えるとそれしかない」
「同類の詮索は記者の御法度でしょう」
「これは友達なりの心配なのよ」
「フフフフ、フフ……困った」
文は自嘲するように笑っていた。そして笑いがはたての回答を雄弁に肯定してもいた。彼女はさらに質問を突きこむことにした。
「あんたが毎年のようにあそこへ向かうのは知っている。でも……理由が分からない。どうして昔の御伽噺に拘るの」
「いるのよ」
文はどこまでも穏やかに言った。
「天逆鳥はどこかにいる。私はそれを信じたい」
「……ヘンよ。あんた」
「そうだ。私の荷袋は?」
「……うしろの箪笥」
「中は見た?」
「無頼なことはしない」
文は箪笥をひらいた。荷袋の中には野営の道具がはいっていた。彼女が山に帰ってきたのはそこに食料を詰めこむためである。
「行かないと」
「……怪我は」
はたての声はいらだちと心配が錯綜していた。
「ごめん」
文は申しわけなさそうに言う。
らしくなかった。
何かに執着することも。
自分に本意で謝るのも。
その妙な態度が余計にはたてを不安にした。
「ごめんね」
これはまったく、きれいではない。
また数日が過ぎさった。
はたてはうらぶれの朝に珈琲を飲んでいた。
おそらく文はすでに東へ行ってしまったのだろう。はたては彼女のらしくなさに失望を感じ、同時に勝手な自分を恥じるしかなかった。
「気分を変えよう」
はたては呟くと不意に氷の滝を追想した。あれを近くに見るのもわるくない。きれいな景色は気分をよくしてくれるはずである。外に出ると彼女は雪空に飛びあがった。
「寒いーー!」
たちまち絶叫することになった。それなりに厚着をしたのにこれである。どうして文はこの寒さに耐えられているのだろうか? ……こう言うときは逆に“ぶっとばす”のが賢明だ。飛行の時間を減らしてしまえば、それだけ冷気を浴びることもないのである。それでも氷の滝へ着いたころには寒さで関節がきしんでいた。
氷の滝は無妖の領域に属しており、高さも四間ほどの矮小さなので、それほど誰も寄りつかなかった。しかし椛の絵の中では偉大に見えていたのである。まさに画力の魔法だった。
「……絵のほうがよかったな」
はたては滝壺のほうへ歩いていった。もちろん滝壺も凍りついていた。
「おはようございます」
「……椛?」
すると滝壺の上に椛が立っていた。
山は広い。偶然に会うのは珍しかった。
「どうしたのよ」
「自分の描いたところを見にくるのはおかしいですか?」
「フーーン。奇遇よね」
「ほかにも理由はありますが……」
そのとき椛の右手が握っている、奇妙な両刃の武器に気がついた。
刀身は一寸。柄は二寸。刀剣のたぐいと言うよりは槍のいでたちである。しかし槍と言うにも小さすぎる。両刃であることを考えると長巻とも呼びがたい。
さらにそれだけでも珍しいのに、刀身は瑠璃の色に染まっていた、鍔があるはずのところには代わりに烏の羽があしらわれていた。
その深緑の色は奇しくも他季の山のみどりと類似しており、はたてはそれを見ていると吸いこまれそうな気分になった。
「へえ……工芸品? そんな趣味があったんだ」
「天握山防剣ですよ。うつくしいでしょう?」
「フーーン。天握山防剣……。
……天握山防剣!、!、?、?」
はたては驚愕した。そんな彼女とは対照的に椛はどこもでも平静だった。そして刃の片側を向けるとそこに刻みこまれている、天握山防剣の文字を見せびらかしてくるのだった。
「……本物?」
「解きはなってみましょうか?」
椛は急に滝のほうへ振りかえった。
「えい」
そして素人のように剣を粗雑に振ると。
氷の滝へ一文字が縦に刻まれた。
まさに一刹那のできごとだった。突風が吹いたかと思ったころには、すでに裂傷が滝に残っていた。しかも裂傷の周りには罅がない。完璧な破壊。力が一線に収束している。
はたては唖然と剣と氷の滝を交互に見ることしかできなかった。
「まさに啓示物。これはいにしえの言葉ですね」
「……いつ?」
「百年前くらいですかね。ほら……滝の裏には洞窟があると言うでしょう? 暇なときに千里眼で見たら……そう言うわけです」
「そんな……簡単に」
あまりの単純さに言葉を失いながらもはたては二の句を振りしぼった。
「どうして……それを使わなかった? それがあれば……どんなことでも」
「自分の言葉の意味を理解しているのですか?」
はたては神妙に首を縦へ振った。
「ふん」
椛が鼻を鳴らすと剣のことを一瞥した。だるそうに剣を氷へ突きさしたあと、だるそうに逡巡すると口をひらいた。
「たしかに……これには烏天狗の怖れがある。これはあなたがたの天敵なのです。それでも私は興味がありません。あなたがたが大層に好きな……権力とか……争いとか……そう言うのは。
それにこの剣が公表されたら、これは奪いあわれることになる。それはこの剣のうつくしさをそこねるでしょう? まあ……最初は山の平穏のために折ってしまおうとも考えたのですが」
「頑丈だったの?」
「いや……あまりにうつくしすぎる。
だから折れない」
話しているうちにはたてにも平静が戻ってきた。彼女はさらに椛に聞いた。
「普通は見つかりそうだけどね……滝の裏なんて」
「烏天狗には無理ですよ」
「どうして」
「烏天狗は天逆鳥の伝承を忘れたがっている。怖ろしいからでしょう? うつくしいことは求められるときに現れる。あなたがたが伝承を忘れたがっているかぎり、天握山防剣は絶対にあなたがたの手にはいらない」
「……文は求めていた」
「見つけられなかったのは、まだ怖れているからでは?」
途端にはたては椛のことを睨みつけた。文の努力を侮辱されているように感じたのだ。彼女は一歩を踏みだすと言う。
「渡しなさい。文に見せる」
文は“信じたい”と言っていた。それは伝承を求めながらも完全に信じきれていないからだろう。無理もない……証拠もなしにそれを信じきることができはずがないのだ。
……証拠ならある。まさに今、すぐ傍に。
椛の横にそれがあるのだ。
「言っておきますが」
椛は天握山防剣を引きぬいた。剣のみどりは烏の血を求めるようにぎらついていた。
「知られたからには生かしませんよ」
「友達でも?」
「……そうですよ」
はたては剣の先端を向けられた。すると彼女は急に全身が恐怖に支配された。
皮膚がけばだち、息の根が詰まる。
何もかもが怖ろしくなる。それまで優雅に空を飛ぶことができたのに、雨雲からの落雷に貫かれたような気分だった。
そして唐突に理解した。あれは天逆鳥を斬るためだけに打たれたけれども、それは同時に烏天狗の天敵さえをも産みだしたのである。あまりに滑稽な発見だった。
「……逃げないのですか?」
どれだけの時間が経ったのだろうか?
相も変わらず……恐怖が骨身を這いまわる。
踏みだすことさえもできない。
しかし、はたては逃げもしなかった。
「分からない。
でも……この機会をのがしたら……文は天逆鳥を見つけられない……そんなふうに感じるのよ」
「そのためには命も捨てると言うのですか」
「命は欲しい! でも……それも欲しい!」
「……アハハハ、ハハ!」
椛の性格(Style)では理解が及ばない。
理解が及ばなかったのは特定の性格。
その特定の性格を持っているなら……。
絶対的なこと……真実とか……友情とか……。
ときにはそれに献身したいと言うような気分になる。そのために恐怖を克服しようとさえも思うのである。
これは記者なりの意地なのだ。
「さあ……渡せ!」
「どうぞ」
「えっ」
椛が急に剣をほうりなげた。
傍に剣が落ちていた。
まるで理解が追いつかない。追いつかないなりにはたては剣を拾いあげた。幻ではない。掌の内に“それ”があった。
「……今の流れはなんだったのよ」
「フフフフ、フフ……からかいとか?」
嘘だと思った。目が本気だった。
おそらく椛は自分が剣を握るに適当であるかを試していたと推定された。そして彼女の優秀な眼鏡に適わなければ、はたてを本当に“ぶったぎった”にちがいない。
「私がぶったぎられた」
椛はすがすがしそうに言った。
「あなたは友情に命を賭けた。私にそれはできない……無理です。その想いにぶったぎられたからには剣を渡すしかないでしょう」
「分からない……それは禅の道理?」
「いつもはね。剣を見るときは周囲を監視するのですが……どうしてかな……忘れてたんだ。
私はあなたが現れたとき、すぐに“これはおかしいぞ”と思いました。自分がこのような“へま”をするのがおかしかったのです。
その理由が分かりましたよ。私はへまをしたのではない。剣がそうさせたのです。あなたはそれに選ばれたのですよ」
「分からないけど……。
貰えるからには々うからね」
「うつくしい」
椛は氷の滝のほうを眺めた。
「うつくしいことは求められるときに現れる。
今日は剣よりも滝よりもうつくしいことが見られた」
三
【第三のメモ】
天握山防剣の情報は少ない
深緑の刀身を持っているとは伝わっている
なんの力も宿っていないことはないだろう
伝承の武器は大抵の場合
特別な力を持っているのである
しかし、そんなことに興味はない
重要なのはそれが実在することで
天逆鳥の実在の証明にもなると言うことだ
一度でも……それを見ることができるなら
荷袋をまとめるとはたては東へ飛んでいった。荷袋には食料と必要そうな道具を詰めた。もちろん天握山防剣も忘れない。
飛んでいると急に浮力が失われた。予想していたことなので、はたては悠々と滑空して、上手に雪上へ着地できた。
はたては森丘の前にいた。先祖岩が鎮座しているのは森丘をいくつも越えたところであると言う。それが山の東の果たてだ。文はそこにいるはずである。
その気があるなら……歩くしかない。
「よし……出かけよう」
しかし、はたては知らずにいた。
仮に力や度胸があったとしても、慎重さを欠いてしまえば、それは無にも等しいのである。一瞬の不注意がすべてをだいなしにすると忘れてはならない。特に烏天狗と言うやつは致命的なまでに歩行のことを知らないのだ。
森丘の木々は凍りついていた。辺りにはいにしえの土地の感傷がさまよっていた。はたてを待ちうけていたのは氷樹たちの持てなしだった。
白、々、々、々、々、々、々、々……。
見えるかぎりに白。目がおかしくなりそうだ。
雪風がいやに強まってきて、氷樹のあいだを通ってくる。木々は闇雲に互いに絡まりあり、わずかの暖を取ろうとしていた。
すべてが静まりかえっている。生物の姿も見かけない。あまりの寒さと寂しさにはたてはそれを悲しむことさえもできなかった。
この感情はなんなのだろうか? ……はたての道はたしかに先祖岩へつうじていたけれども、それは同時に彼女の内部へもつうじていた……歩きだすと早いうちから、彼女は歩行の労苦を知る。思考は考えることを放棄したがり、彼女はこう言うときの単純な欲望……つまり“帰りたい”と叫んでいる、自分の執拗な欲求と争っていた。
氷樹の曲線に笑いを見た。それは能面のように陰気な笑いであり、はたての努力をからかっているのだ。
冬がみどりを占領してていた……。
はたては歩きながらに畏怖の想いがこらえがたくなり、いにしえの土地が何を表現しているのかを辺りに求めた。冬が表現しているのは非創造と無関心の塊だった。この場所に彼女の居場所はない。氷は不寛容に辺りの時を止めている。彼女は写真を撮るときに感じるように……この土地に心をつうじあわせることができなかった。この場所には伝承の迷信と冷気の嘲笑が跋扈していた。
人間たちのように妖怪も幽霊も恐くはない。
自分もそのうちのひとりだからだ。
しかし迷信をこわがることはある。
一度でもそれに囚われると。
不安になってしまうのである。
この一面を完全に満たしている。
迷信の異臭はなんなのだろうか?
分からないことばかりだった……。
雪の中での生活を考えるのだ。
冷酷な雪風を。々々な土地を。々々な景色を。
山には“呪われの土地の伝承”がある。
天逆鳥が残したそれは烏天狗をくるしめる。
思慮と平静があれば、先祖岩に辿りつける。
しかし、この土地はいつもの山ではない。
さらに言えば……。
この土地は冬の荒野なのである。
この感情はなんなのだ。
自分はどこを歩いているのだ。
はたてはうしろを振りかえった。
自分の足跡はすでに雪で埋もれていた。
……気がつくと方向の感覚がなくなっていた。
「飛べ!」
はたては狂ったように叫びだした。
急に深刻な恐怖に満たされた。剣を向けられたときとはちがう、さらに本質的な怖ろしさだった。
つまり有翼類に特有の恐怖……それは“飛べないこと”への恐怖だった。その単純なことがはたてはあまりに怖ろしくなったのだ。
それもそうだろう……烏が空へ向かえないのは手足を引きちぎられるも同然だからだ。
「うう、うう……飛べーー! 々べーー!」
滑稽な声が迷信の土地に染みわたる。
「文!」
はたては急にがむしゃらに走りだした。
怖ろしかった。
何もかもが怖ろしかった。
焦燥は容易に判断を鈍らせる。
ふたつの丘を越えたところで。
急傾の雪で足を滑らせた。
その先には崖が口をひらいていた。
烏の肉をむさぼるために……。
夢を見た。
氷の滝の前でひざまずいていた。
全身を屈辱が貫いた。立ちあがろうとしているのに、右の手足が鉛のように重かった。何度も立ちあがろうとしながら、ようやく体がわずかに動いたとき、猛烈な痛みがはたてを覚醒させた。
崖の底にいた。
起きるとすでに体の表面が雪で埋まっていた。
ずりずりと蛇のように這いうごいて、ようやく崖に背中を凭れさせられた。
「ちくしょう! ……折れてる」
右の手足が腫れあがっていた。下には雪の毛布がある。落ちるときに半身を岩に打ちつけたのだろう。
はたては上を眺めた。崖の高さは八間ほどに見えた。今の彼女には途方もなかった。
崖の幅は二間ほどだ。この場所は崖と言うよりは亀裂だった。じわれが何百年も風雨に削られるとこんなふうになると聞いたことがある。
「文……」
涙をこらえられなかった。自分の愚かさをぼろくずのように感じていた。
歩行への無知。
自分への過信。
何もかもが恥ずかしかった。
そして悔恨のあとに身をむしばむのは、強烈な眠りへのいざないだった。疲労と低体温は容易に死を連れてくる。これには妖怪さえも抵抗しがたい。
死は冬のさきぶれ。
平等に来たる、終わりの季節。
……。
朦朧の端に何かを見つけた。
崖の表面で凍りついている。
ヤツデの卑小な花と葉だった。
「……こんなところにも」
はたては手を伸ばすとヤツデの葉をもぎりとった。掌でそれを溶かすと奇しくも色は天握山防剣と同じだった。あるいは剣のほうがその葉の色と同じなのだ。
「……見せないと」
その色がはたてに当初の目的を追想させた。
はたては力を振りしぼると。
何度も々々もできるかぎりに笛を吹いた。
……。
大空に祈っている。
笛の音色が伝わるように。
先祖岩へ向かったことが。
愚考で終わらないように。
これを見せなければ。
いつ友達が報われると言うのだろうか?
さあ……眠りが訪れる。
……。
音がする。
何かをはたきおとしている。
はたての体の表面の雪を。
はたての頬に触れると文は上を見た。
「降りるだけでも大変だったのに……」
文句を言っても仕方がない。文は上着を脱ぐと帯状にそれを引きさいた。はたてを背中に担ぎあげると帯で彼女を固定した。
「我慢してね」
上を見た。
距離は降りるときと相も変わらない。
約八間。
角度は垂直。
はたての呼吸は微風よりも小さかった。
「よし……やるか」
文の両手が岩を掴んだ。
四
【第四のメモ】
何十年も前のことなので
自分がどのような心境で森丘を歩いたのか
それを明確に書くことはできない
怯えながらに歩いていたことはおぼえている
雪の中で完全に迷ってしまったのだ
この場所は烏天狗を寄せつけない
どうしたらよいのか、分からなくなるのだ
呪いを断ちきり
何時間も歩いたあとに
ようやく先祖岩へ辿りついた
その岩石は烏天狗の血のためだろうか
肌がけばだつほどに怖ろしくて
異常なまでに荘厳に見えた
木が焼けるような音で目を覚ました。
布製の天井が見えた。毛布を剥がすと右の手足の包帯のほかに、室へ温風が流れこんでいると気がついた。はたてはその風の流れを知っていた。彼女がよろよろと野営を出ると文が焚火の前に座っていた。
「おはよう。と言っても夜だけどね」
はたては返事ができなかった。そして返事ができないなりに文の指爪のほとんどに、血だらけの包帯が巻かれていると知ったのである。彼女はすべての事情を悟った。
嬉しいやら。申しわけないやら。
ほかにも無数の感情がはたての内に攻めぎあい、彼女を文に謝らせようとしたけれども、口をひらくまえにぼろぼろと涙が溢れだした。彼女を落涙させたのは、自分が生きていると言う、あまりに単純な真実だった。
「こわかったよう、こわかったよう」
はたては文の胸に跳びつくと幼子のように泣きじゃくった。
「生きているのよ」
文が微笑した。
誰かの胸の中は信じられないくらいに優しかった。はたては冬の只中に秋の匂いを感じていた。
はたてが泣きやむと以前の礼をするように、文が雪水で珈琲を淹れてくれた。珈琲を顔に寄せるだけで、骨身に香りが染みとおった。彼女の珈琲とはちがっていて、大量の蜂蜜が入れられており、しつこすぎるくらいに甘かった。それが喉を通りすぎるたびに活力が湧き、絶対に無事で家に帰ってやろうと思わせられた。
珈琲がなくなるころに文がふところをさぐった。
「ほら」
そしてヤツデの葉をはたてに返した。文はこれを聞いたのだろう。まさにみどりの奇跡である。
しかし、はたてが助かったのは文の尽力のためにほかならない。それを奇跡と形容するのはちがうような気がしていた。
はたては無意識に葉を握りしめていた。
「音を聞いたの」
文は火をいじくりながらに言った。
「最初は気のちがいかと思った。それでも音が何度も聞こえるの。まるで何かを伝えるように。私は……“もしかしたら”とも思ったし……“はたてじゃないように”とも思ったわ。
……馬鹿ね。私もあんたも」
「……こわかった。私は“飛べないこと”に恐怖していた……と思う。分からない。あの恐怖はなんと言うのか……純粋だった。それに本質的だった」
「飛ぶことは烏天狗の本質よ。それを中心にすべてが成りたつ。あんたは拠りどころの中心を呪われたのよ」
「……呪い。天逆鳥の」
「今は平気?」
「うん。独りじゃないから」
「なら……見なさい」
野営は森丘の頂上に接していた。そこから文が三十間は向こうの崖に指を向けた。今度は本当の崖である。
崖はねずみがえしのようにえぐれており、その頂上は茸のように突きだしていた。波に削りとられたように反りかえった、その崖の“突きだしの”ところには、竜の上牙のように岩石がぶらさがっていた。まるで鍾乳石のいでたちである。
その岩石に目を凝らすと夜の闇に一筋の縦線がまぎれていた。
文が畏怖の呟きを漏らす。
「あれが先祖岩。
天逆鳥が去った。
最後の居場所」
……。
それから。
一緒に話した。
文は求めているだけに天逆鳥に詳しかった。
強大な神々さえもしりぞかせるほどの力を持っていること。雲をも千里の果たてに吹きとばすこと。頑強なくちばしはあまねくを砕きこと。血には万死の猛毒が流れていること。
別名に迦楼羅鳥と呼ばれていること。特に竜と蛇を常食していたと言うこと。天逆鳥は金色の炎を吐きだすこと。炎の光背を持っていること。
……そして冬の空に去ったと言うこと。
すべてがはたての知らないことだった。文はそれを雄弁に語ってくれた。これほどまでに饒舌な彼女は見たことがなかった。
はたてが実質的にたのしんでいたのは会話ではなく、文の熱心な表情の変化のほうだったのかもしれない。
それに些末なことも話した。
普段はおもしろくないことでも笑えた。
文もそうだ。
些末なことがおもしろかった。
……たのしかった。
このときが永久であってほしかった。
それでも体の内の疲労の残滓は彼女にまどろみを呼びよせてきた。
今度の眠りは亀裂の下とはちがっていて。
柔らかな炎にくるまれているような。
幸福と安心の微睡だった。
そのうち不意に目を覚ますと膝が目前にあった。自分の膝下を掌で押さえながら、猫のように丸まっていたらしい。
まだ火が焚かれているようで、外なのに寒くは感じなかった。はたては横目で文のいるであろうところを見ると……たちまち彼女の表情に目を奪われた。
その横顔は一心に先祖岩のほうを眺めていた。
……瞳が特にうつくしかった。
情熱的な集中力に満ち々ちていて、弓矢が獲物を狙っているさまを幻惑する。深紅の虹彩が火の光を反射しており、本来は陰気なはずの目の下の隈が、むしろ瞳のうつくしさを助けていた。姿勢は立膝で勇猛さを連想させた。しかし立膝の上で両手は祈るように組まれていて、それが文の奥底の不安の象徴のように見えていた。
情熱。
平静。
忍耐。
祈念。
すべてが瞳の内にあった。
「……きれい」
はたては知らず々らずに呟いていた。
こんなにうつくしいと思えることは一生に何度も見られないだろう。あまりに眠くさえないのなら、写真を撮影するために動きたかった。
自分が見た。
この世で最も。
うつくしいことを。
……そうだ。
大切なことを忘れていた。
当初の目的を果たさなければならない。
荷袋はどこにあるのだろう。
文は荷袋を……。
あれを持ってきてくれたのだろうか?
目を覚ましたときには雲間のわずかな光が朝を告げていた。
「……寝てた」
最近は中々に晴れてくれない。それだけでも陰鬱な気分になった。しかし胸中にあるのは何も陰鬱だけではなかった。昨日は非常にすばらしいことがあったのだ。尤も友達はそのために骨折してしまったし、自分の指爪もずたずたになってしまったので、それを堂々と“すばらしい”と言うのは気が引ける。
それでも文は嬉しかったのだ。言葉にすることこそないけれども、はたてが来たのが嬉しかったのだ。
文にも弱さくらいはある。冬に独りでいるのは過酷なことだ。おそらく彼女は自分を心配して、こんなところへ来たのだろう。彼女は無自覚らしいけれども、あの地の亀裂へ辿りつくには、半日も時間が要るのである。
いかに友達が心配だとしても普通は極寒の中は歩けない。友達のために必死になるなど……文は考えついたこともなかった。
「あの子は……本当に……」
文は火を焚くために左を向いた。
「えっ」
すると自分の横に棒状の物が突きたてられているのに気がついた。
刀身は深緑。
こしらえは両刃。
鍔の位置には烏の羽。
そして文はそれを引きぬいたとき。
刀身の文字でそれの名前を知ったのだ。
「……本当は」
すでに野営で眠っているらしく。
横にはたての姿は見かけなかった。
「荷袋は重いし……置いていこうと思ったのよ。
でも……困るでしょう? 大切な……あんたの大切な物がはいっていたら……だから」
文にはありがたいことだ。
誰かの前で泣くのは好きになれない。
この涙は永久に凍土の秘密となるだろう。
「はたて……。
あんたは“これ”を見せたかったの?
……ありがとう」
うつくしいことは求められるときに現れる。
刀身には“天握山防剣”と掘られていた。
それこそが剣の銘である。
何日も先祖岩を観察しながら、天逆鳥が現れるのを待っていると、ふたりは段々と寡黙になっていった。何日も話さなくても平気でいられた。はたては文の涙の痕跡を指摘しなかったし、彼女のほうでも剣の出所を聞くことはなかった。
その心理はなんなのだろうか? あるいは不粋に振るまうことをいやがったのかもしれない。ときには黙っていることこそ、友情の最高の報いなのである。
相も変わらず……深刻な雪風が吹きすさび、ふたりの体をくるしめた。疲れているためなのか、怪我の治りも遅かった。周期的にはたての骨折の患部が熱を持ち、それが冷めてゆくたびに彼女は回復した。
はたてはこう言うふうに一ヶ所で冬景色を眺めているうちに、段々と冬の意志と心をかよわせられているような気がした。
無限の白……その光景は大胆で、暗示的でさえある。冬の精神は寒さの昏さ、風の乾燥で説いている。
豪雪と氷樹は檻となり。
自分たちを取りかこみ。
いかにも荘厳で怖ろしい。
雲は重厚感を持ちながら。
空の果たてを満たしている。
怖ろしい。
この只中で飛べずにいるのは怖ろしい。
しかし同時に景色は異常なまでに静謐だった。
ふたりは孤独ではなかった。
「……つらかった」
文が何日目かに寡黙を破った。
「自分が選んだことなのに……独りでカメラを携えて、何十時間もそこにいると……寒くて……々くて……死にたくなる」
「……死ぬ?」
「もちろん本気で言っているわけじゃない。つらいときはそんな気分になるでしょう? 原稿をなくしてしまったときとかに……それと同じよ」
「原稿に珈琲をこぼしたときも?」
「……うん」
ふたりはくすくすと笑いあった。同時にはたてのほうは苦笑しながらも“あること”を考えていた。
それは文が伝承に執着しているわけである。この数日で彼女の様々な一面を見たけれども、ついにその肝心なところは聞いていなかった。
ふたりは寡黙になっていたし、食料もわずかになってきていた……はたてはこれを最後の機会だと直感した。
「どうして天逆鳥を撮影したいの?」
気がつくとはたては愚直に聞いていた。この裸の土地で回りくどいことを言うのも気が引けたのである。
「それ……聞いちゃうの」
「知りたい……教えて?」
はたてのおねだりに文は窮した。
考えてみると自分が理由を説明してさえいたならば、はたてがこの場所にくることはなかったように思うのだ。それなら即日に剣を見せようとはしないで、素直に文の帰還を待ってくれたのかもしれない。そう言うふうに考えると彼女は責任を感じてしまった。
文は横目ではたてと目を合わせた。その目は真剣な好奇心に満ち々ちていた。その無邪気さに毒を抜かれると彼女は観念したのだった。
「記者になるまえは……何をしていた?」
「急に何よ」
「教えて」
文の神妙さに押されるとはたては渋々ながらも答えた。
「そんなにおぼえていない……毎日を適当に生きていたような気がする。熱中することもなかったから」
「そう……私もよ。いや……ほとんどの妖怪はそうなのかもしれない」
長命種の時が心に余裕を与えているのは否定されるべきではない。しかし長命の裏にはいつも怠惰と愚鈍の声が控えている。それは永久の退屈と結びつき、非創造の精神にいざなうのだ。
肉体は強靱だったけれども、以前の文は神経が細くて、魂も何事かに飢えていた。彼女は具体的な生活(Reality Life)を求めていた。まるで自分の生活は具体性がないとでも言うように……。
それから文が何をしているのか、すでに誰もが知っているだろう。記者になっていたのである。
「私は変化を求めている。安全な生活を求めてはいない。刺激と危険……それを記事にするための機会を求めている。
体の中には狂暴な体力がありあまっているのに、昔の私にはそれを消費するだけの趣味がなかった。だから……山に新聞がはやりだしたとき……不思議と即座に“これだ”と思った。そして“一生”の趣味にしようと思ったのよ」
妖怪に“一生”と言わせるのは並ではない。それは“何千年もそれと向きあう”と言うことである。
「私は一生の趣味にいつでも全力で向かいたい。記者なりにこの世で最強の記事を創造したい。だから……天逆鳥の伝承に目をつけたのよ」
退屈からの脱却だけではない。その趣味はロマンティックな精神の礼拝の舞台でもあったのだ。伝承はそれに御膳を立てたのである。
文は冬が好きだった。それはあまりに過酷であり、過酷は刺激を呼び込むのだ。
畢竟……創造的な精神が病的な方向へ邁進するのは危険なことなのかもしれない。それは非凡な悦びを与えてくれはするけれども、同時に破滅を呼びこむことも珍しくはないのだ。
それでも気がつくと文の道は東の冬へと繋がっていた。々の々へと繋がっていたのである。
はたては熱に浮かされたように呆然とした。おそらく文の情熱的な側面に触れてしまったからだろう。この高慢な友達がそのような想いを秘めているとは考えつきもしなかったのである。
「話しなさいよ……何か」
文が照れくさそうに言うとはたてはぽつぽつと声を漏らした。
「うん……なんと言うのか……驚愕した」
「笑いなさいよ。らしくないって」
「笑わない! 私は絶対に笑わない! どこかに笑うやつがいたら……そいつの家に月を投げつけてやる」
「アハハハ、ハハ……そのときはよろしく」
ほかの烏天狗たちはそれを鼻で笑うにちがいない。その陰険な世間に於いて、文の熱意は嘲笑の種になる。周囲を意に介さずに堂々とできないのは、彼女も陰気な烏天狗の性根を持っているからだった。こればかりはどうしようもないのである。
それでも文はついにはたてへ秘密を話してくれた。それは信頼の最大の報いだった。
「文」
「何? はたて」
「文……天逆鳥を見ようよ」
ふところのヤツデの葉を取りだした。それを冬の果たてへ“ピイーー”と吹いた。
はたては祈っていた。
文がその音で自分を見つけてくれたように。
伝承もその音で我々の前に現れてくれと。
……。
それから十分ほどしたときだ。
頭上をけわいが通りすぎた。
ふたりの周りを陰影が満たした。
上を見ると。
巨大な烏が空の支配者のように。
翼を雄大にはためかせていた。
先祖岩へ。
天逆鳥がさかさまに舞いおりた。
五
【失伝】
天逆鳥は笛の歌声をこのんだと言う
自分の子供たちが吹いてくれる
ヤツデの葉のその音を
ふたりが最初にしたのは目を丸くすることよりも全力で雪上へ臥せることだった。ほとんど記者としての反射的な行動である。
「……いた」
文の声はふるえていた。ふところのカメラに手を伸ばすこともおぼつかない。
その烏の全長は三間ほどに見えた。黒とむらさきを混合したような羽を全身にまとい、蝙蝠のようにさかさまの姿勢で先祖岩に足爪を突きたて、その背後ではつねに黄金の炎の光背が揺らめいていた。
あれが天逆鳥。
先祖岩に舞いおりた。
我々の祖先。
その巨体は先祖岩の下で動きもしない。それが儀式であるとでも言うように、その身を悠々と岩に休ませている。鳥肌が立つような荘厳さだった。
「文! カメラ! シャッター!」
はたての小さくも鋭利な声でカメラを取りだし、文はフレームの向こうに天逆鳥の姿を捉えた。
うつくしい。あれが我々の先祖。数十年の冬の労苦がついに報われるのだ。
しかし右手の指はシャッターの直前で動かなかった。
それは動かないのではない。
文はそれを“動かしたくない”のだ。
二筋の涙が雪を溶かしていた。
「文……?」
「ごめんなさい……今になって……あれを公表したくない!」
はたては言葉を飲みこんだ。
それにこの剣が公表されたら、これは奪いあわれることになる。それはこの剣のうつくしさをそこねるでしょう?
急に椛の言葉が脳裏に追想された。
公表はいつも被写体の破壊の危険を含んでいる。記者はつねに美の公表者であり、同時に美の破壊者でもあるのだ。天逆鳥が本当にいると知られたら、この光景はどうなるのだろうか?
文の精神はこの光景を壊したくなかったのだ。
「撮影するだけなら……!」
「無理よ……写真を手にいれてしまったら、私は絶対に記事を書いてしまう。
できない……私には……できない」
はたては両歯を喰いしばった。こんなに悔しいことはない。そこに目標がいると言うのに、文はそれを撮れないと言うのだ。
あるいは文よりもはたてのほうが悔しがっていたのかもしれない。彼女は本当に友達が報われてほしかったのだ。
「なら……あんたはなんのために!」
その一刹那!
天逆鳥がふたりのほうを向いた。はたての声を聞いたからではない。それはふたりのあいだに突きたてられている、かつて自分の子供たちに振るわれた、天握山防剣のけわいに気がついたからである。
天逆鳥は翼をはためかせると。
一瞬の間でふたりの目前に着地した。
嵐のように突風が吹いた。
その速度は未経験の領域。
いにしえよりの風である。
ふたりは野営と一緒に吹きとばされていた。文は宙空で咄嗟に体勢を立てなおしたけれども、一方のはたては背後の氷樹へ背中をぶっつけた。
「はたて!」
文は横目ではたてを一瞥しながらも、天逆鳥を厳重に視界へ捉えていた。全身の皮膚がいやにけばだち、ひたいに脂汗がしみだしていた。
無理もない。文は速さに絶対の自負を持っているのに……今の動きはなんなのだろうか? ……速さへの自負と慢心に賭けて、こんなことは認めがたかった。
つまり文は天逆鳥の動きが見えなかった。
一瞬も見えなかったのである。
「すごい」
それでも文が口にしたのは悔しさよりも賛嘆の声だった。
天逆鳥の羽は冬の風を受けて、雪の間に々にたなびいている。その堅牢な足爪は雪下の岩へ喰らいつき、くちばしは黒の内に“つや”を走らせる。なんの感情も読みとれない、夜の入口のような漆の瞳が、文を静寂の内に眺めていた。
天逆鳥の巨体の陰影の内にいると文はぞくぞくと決意がむきだしになった。
「インタビューをよろしいですか?」
むらむらと冷静な記者としての文ではなく、好戦的な烏天狗としての彼女が牙を見せた。
「風で勝負を願います」
……これが短絡的な行動であるのは理解していた。それに天逆鳥はふたりの傍へ着地したに過ぎなかった。ふたりが吹きとばされたのは単に現象の余波である。
天逆鳥は何をしに傍へ来たのだろうか?
攻撃? ……それとも対話?
あるいは特に理由も存在せず、ふたりが視界にはいったので、興味で近づいたかもしれない。
……すでにどうでもよいことだった。
すでに撮影の機会は失われてしまった。今はいにしえの風を理解しようと努めることしかできないのだ。そして挑戦(Interview)でこれまでの労苦に報いるのである。
この空域が翼を呪うとしても。
風だけは絶対に失われない。
文の通力が周囲に秋風を満たしはじめた。
氷樹に背中を凭れながら、はたては蚊帳の外にいた。それでも文の風が痛烈に吹きはじめたときには、両者に“やりとり”が発生したのを悟ってはいた。
風が吹いている。
それは暴風と言うにはあまりに鋭利で、ヤツデの薄葉のように繊細だった。余分な風は辺りに散らされ、背後の氷樹を斬りきざんだ。文の前に過剰な風は吹いておらず、濃厚で精密な風が一点に渦を巻く。
おそらく渦風が解きはなたれたとき、無意味な破壊が傷を残すことはない。それは奇しくも天逆鳥の傍にある、天握山防剣の裂傷と似ているのだ。
やがて渦風ができあがったとき。
辺りに一瞬の無風が産まれた。
「解きはなつ!」
それを合図に文の秋風が解きはなたれた。
天逆鳥を貫くような文の眼力。
はたての顔も瞬時にこわばる。
未体験の風速の呼吸。
疾風迅雷、紫電一閃。
渦風は中心を解放されると一直線に天逆鳥へ駆けぬけた。
……。
しかし風は天逆鳥の目前までくると、急に左右へ分散されてしまったのだ。
まるで風が山に衝突したとき、壮大な姿に傷をつけられずに、山の両脇へ流れてゆくように。
それが“現象の結果”だった。
文もはたても唖然とした。
「……ありえない」
文が驚愕の呟きを漏らした。
そして途端に天逆鳥の前にある、別の風の流れに気がつかされた。そこには流麗で穏やかな風が吹いていた……文は理解した。天逆鳥のその風は左右へ緩やかな曲線をえがいて、渦風を誘導するための通路になっていたのである。
強風は微風を誘導できる。誘導すると言うよりは飲みこむことができるだろう。しかし微細な風がけちらされずに強風を弄んでしまうのは見たことがない。そんなことは風の摂理の逆を向くことだ。単に暴風を創りだすより、何倍も高等な御業である。
……風の規模(Scale)がちがいすぎた。
「フフフフ、フフ……やられた」
自分が速さと風で負ける。
文はそんなことを考えたこともなかった。
これが天逆鳥。
先祖岩に舞いおりた。
我々の祖先。
そんなふうに諦念を感じているときだった。
「文を殺すな!」
急にはたてが文の前に踊りでた。
はたては文を庇うように立ちふさがった。
「はたて。天逆鳥は別に……」
「一緒に無事で帰るんだから!」
文は天逆鳥が伝承とちがい、穏健であると確信していた。あの規模の風を巧みに操れるとすれば、自分たちを打ちころすのも朝飯前だろう。繊細な技量は大抵の場合、大胆な技量の証明でもある。それをされなかったのはまさに穏健の証拠ではないのだろうか? ……。
しかし蚊帳の外のはたてには見えかたがちがっていたようである。外側の彼女が目にしたのは“文が敗北した”と言う、あまりに単純な真実だけでしかなかったのである。
このような未開の環境で、本来は敗者がどうなるか……それは言うまでもないことである。
はたては必死だった。友達のために必死だった。彼女は怖れながらも勇猛に天逆鳥を睨んでいた。
天逆鳥はそれに何も返さない。その双眸は相も変わらず、何も感情が読めなかった。
しかし微笑するように穏やかな風が吹いたのもたしかである……。
やがて邂逅の終わりは訪れる。
そのうち急に天逆鳥は身をよじった。
はたては両目をとじきった。
……何も起こらない。そして目をひらいたころには天逆鳥がふたりに背中を向けていた。その背中は炎の光背で日の光のように眩しかった。
すると次の一刹那!
天逆鳥は金属音のように鋭利な声で空に吠えた。
尋常の烏のおたけびを何倍も増幅したような高音が、ふたりの鼓膜と腹部にびりびりと衝撃を伝えていた。
それから天逆鳥は神速の速さで。
翼を剣のように振りぬいた。
すると神風が空に向かい。
空で破裂するような音がした。
ふたりがまばたきをしたころには。
すでに雪雲が地平線の果たてへ消えていた。
空が晴れていた。
すがすがしいほどの青空。
目もくらむような太陽の光。
まるで夏の光景だ。
大地は雪が溶けるときを待っている。
「信じられない……どれほどの風を吹かすことができるなら……」
文は言葉を絞りだすことさえも苦労した。
天逆鳥は足元の天握山防剣を口に挟み、すでに空の果たてへと向かっていた。
遙かな空に我々の祖先が飛んでいる。
分からないことばかりだった。自分たちの前に現れたことも。自分の挑戦に応じたことも。雪雲を吹きとばしたことも。すべての行動が理解の範疇の外にある。
それもそうだろう。あれはいにしえの啓示的な生命であり、それを今代の文に理解できるはずがなかったのだ。
それでも後悔はない。文はうつくしいと思ったことを単純に“うつくしい”と言うだけだ。それで何もかまわなかった。
自分に正直に行動して、誤ったことは一度もない。それが一旦の青春の終わりだとしても、まだ残念な結末とは言えないだろう。それは青春の行動と結果だからである。
この経験がのちに活かされ、いずれ青春の形見になるなら、それは本当に幸福なことだ。
文の今回の収穫はあの啓示的な生命のように漠然としている。もちろん物質的な報酬はひとつとしてない。得たのは記憶の底に残る、自分の青春の面影である。
文は倒れた。雪のしとねに背中を任せた。
そして呆れるように言った。
「すがすがしい」
「なんと言うのか……見せつけられたね」
「見せつけられた? ……たしかに。私たちは見せつけられたのかもしれない」
天逆鳥の姿はすでになかった。
空には太陽と青空だけが残されていた。
文は満面の笑顔で叫んでいた。
「やられた!」
六
【未達の想い】
うつくしいことは求められるときに現れる
はたてが言うにはあの白狼天狗の言葉らしい
にくたらしい……
しかし認めなければならないだろう
私はそれを体験したのだ
はたて
あんたが来てくれなかったら
私は天逆鳥に会えたのだろうか?
……ありがとう
「それで剣は持っていかれたわけですか」
「ごめん……」
はたては椛に狼岩の上で事情を話した。
そうなると必然的に天握山防剣の喪失が露見するわけである。彼女のひらあやまりが青空に溶けていった。
「別にかまいませんよ。あれはあまりに過ぎている。山にあるべきではなかったのです」
「……思うんだ」
急にはたては神妙に言った。
「天逆鳥が去ると私たちも帰路へ向かった。そのときに見たのよ……帰路の氷樹だけが炎でも浴びたように溶けていたの。
もしかすると……天逆鳥には子供が遭難しているように見えていたんじゃないのかな。
だから雪雲を吹きとばしてくれたのかも」
「伝承では狂暴だと聞いていますが……」
はたてはそれにも検討をつけていた。
どんな理由があったとしても天逆鳥が山を追放されたのは伝わっているのだ。それは敗者の歴史である。のちの性格の触れこみは単に嘘の悪評(Gossip)なのかもしれないのだ。
記者なりに“書きほうだい”と言うやつのことは理解していた。いかにも烏天狗のやりそうなことである。
しかし、それも想像でしかないのだった。
本当に天逆鳥が狂暴でないと言うのなら、なんのために呪いを残したのだろうか? ……それだけはどうしても説明がつかなかった。
「そうだ。あなたなら……過去の念写で記事を書けるのでは?」
「あのね……」
はたてはその提案に呆れかえった。
文は証拠の写真を撮りのがしているので、はたてがあの衝撃的な過去を念写して、記事を書くことはできるかもしれない。それでも友達の青春を掠めとるなど、彼女にできるはずがないのである。
「そんな不粋なことはしないわ」
「冗談です」
「いーーや……本気だった。あんたにそう言うところがあるのは痛いほどに知っているのよ」
それを聞くと椛はからからと笑っていた。
「それに今回は……ほかの収穫があったから。それでよしとしておくわ」
「収穫?」
「……秘密」
……。
文とはたてが知ることはないだろう。
啓示的な生命でさえも故郷に焦がれ。
ときにはそこへ帰るために。
ひとばらいの領域を残し。
独りになるための居場所とするのだ。
それから数日が経つと椛は知らず々らずのうちに氷の滝へ足をはこんでいた。
「……惜しいことをした」
椛は道中でぶつぶつと言った。
じつはあの剣が惜しいと思わないでもなかったのだ。はたてに“かまいませんよ”と言ったのは単に強がりからである。
それはそうだろう。伝承の中の啓示物が手を放れて、誰が嬉しいと言うのだろうか? ……その惜しさが椛を必然的に氷の滝へ誘導するのだった。
しかも友達のためだけならよいとしても、あの苦手な烏天狗の目的が果たされるとは、椛は想像さえもしていなかったのである。敵に塩とはこのことだった。
辿りつくとそれは数日間の日光で溶けだし、すでに“氷の滝”とは呼べなくなっていた。
「おや?」
すると妙な光景を見た。
滝壺の近くの岩場に巨大な烏が羽を休めていたのである。そして烏の足元の岩場にはまちがいなく、あの天握山防剣が突きたてられていた。
そのうち烏は椛のことを気にもせず、悠々と東の方角へ飛びさっていった。
「へえ……あんなに巨大な烏がいるんだな」
椛は烏に興味がなかったので、そんな感想を言うだけだった。そんな畜生よりも大切なのは天握山防剣のほうである。彼女は岩場に立つと剣を引きぬいた。剣を青空にかざすと刃が若葉の色にきらめいた。光の具合で様々なみどりに変わるのがこの剣のうつくしいところである。
椛は踊りだしたいような気分で言った。
「天握山防剣。あるべきところに帰ったのか?」
剣を振ると。
みどりの風が山の間に々に吹きぬけた。
はたての机の上には一枚の過去の念紙が置かれていた。彼女の収穫は“美”と表現できる。彼女は記者なりの観察眼で美を理解した。
おそらく文がその念紙を見れば、頬が深紅に染まるにちがいない。しかし発見者の立場としては、これには天逆鳥の写真よりも、遙かに価値があると誇らしい。
ふたりの目的と収穫が別々のことを意味するかぎり、そのうつくしさに優劣をつけるべきではないのである。
はたては今回の体験で学んでいた。
ときに誰かの青春は。
啓示的な生命の美を。
遙かに凌駕するのである。
不意にはたては窓の外に烏を見つけた。
その烏の道はすでに東になく。
誰も見たことがないような記事を書くために。
別の方角へ飛びさっていった。
八
【過去の念紙】
記事の種にすることはない
それを記事とするにはうつくしすぎる
はたてはそれを占有するだろう
その横顔は一心に先祖岩のほうを眺めていた
……瞳が特にうつくしかった
情熱的な集中力に満ち々ちていて、弓矢が獲物を狙っているさまを幻惑する
深紅の虹彩が火の光を反射しており、本来は陰気なはずの目の下の隈が、むしろ瞳のうつくしさを助けていた
姿勢は立膝で勇猛さを連想させた
しかし立膝の上で両手は祈るように組まれていて、それが文の奥底の不安の象徴のように見えていた
情熱
平静
忍耐
祈念
すべてが瞳の内にあった
念紙の裏には
こんなふうに書いてある
……
私が見た
この世で最も
うつくしいことを
具体的な生活 終わり
伝承と対峙したときの文の横顔の美しさ、やり取りのカッコよさ、はたての思い
全てが非常な熱量でよかったです
はたてと文と……どうしてだろううつくしいものを見た二人がとても良かったです。
描写が綺麗でよかったです
上位存在との邂逅とか喧嘩腰も何もかもを愛する母なるものの愛情とかあやはたとかにとはたとか、とにかく良さが溢れていて素晴らしいと思います。
良かったです
綺麗な世界で繰り広げられる文とはたての美しい物語。
ストーリーもすっと入って来る素直なものながら、ありきたりさは全くない素晴らしさがありました。
有難う御座いました。
ロマンを追い求める文も友のために命を張ったはたても2人とも素敵でした
強大な先祖との邂逅を果たした喜びが伝わってくるようでした
冬の山の美しさを堪能させていただきました
まず、「信じたい」という言葉にひっかかりを覚えていると、ちゃんとそれをすぐに解決してくれると言ったようなそのメイキングに惚れ惚れします。
記者でもなんでも、他人に表現するいかな何者であっても、最終的に心に本当に響くロマンティックなものは誰にも明かさないだろうという共感があります。その上で更に、彼女たちは悠久を過ごす存在なので、人間との寿命差と同じくらいの倍数、うつくしさや、特に「負い目」に関して非常に目ざとく取り除かんとする生き方を選ぶのだろうと思いました。
文とはたて、お互いの感情の表現が本当に美しかったです。初めのうち、冬の情景にはたては合わなかったのに、文と天逆鳥を待っている時には、その冬の情景に馴染んできていたのが、個人的にはかなり好きなところで、はたてにとって、文との関わりが何よりも大切で、自分の気持ちを良い方向に持っていてくれる、それを象徴している場面のように感じました。文の情熱具合もとても好きで、新聞に力を注ぐ為に、他人が嫌うようなことも乗り越えようとする彼女の強かさを感じる事ができたのが本当によかったです。
本当に面白かったです。ありがとうございました。
冬の冷たくも厳しい描写もそうですが、こちらを揺さぶってくる感情描写にすごく引き込まれました。
文が天逆鳥と出会ったシーン、撮影することを拒み、真正面から相対したシーン。決してそこ自体の文章量は多くないにもかかわらず、それまでの積み重ねと強い文体も相まって、文が美しい存在を前にした羨望と恐れがひしと伝わってきました。素晴らしい作品で、楽しませて頂きました。
何かと美化されて険しさを削がれてしまいかねない峻烈さに対して瀝と向かい時には過激に記し、はたての内面と絡めて酷に描いているのも良く。
特に顕著だったのが崖下の描写でした。ヤツデは秋の深まる頃に花期を迎え冬に結実し春に成熟させる植物であるにも関わらず、それが花期の間に凍り付いているという悍ましさは、まさしくはたての感じた深刻な恐怖や死への強烈な肉薄そのものだったのでしょう。
その一方で、天狗と相対する存在が白黒の閉じた世界に彩を齎すかのように描かれていたのも印象深い物でした。
常磐色に輝く天握山防剣の剣身も、天逆鳥の全身の眩耀も、白銀の雪景色の中で自らの存在を誇示するかのように。この対比はもしかすれば数十年の辛苦を耐え忍んだ文に差し込んだ光明であるかもしれないとすらも感じられたものです。
この作品の主軸とも取れるはたてと文の関係性についてですが、やはり誰かの為に怒れる、友の努力が報われて欲しい一心で行動を起こす、そういった言動は椛に認めて貰わなくてもはたてが既に持っていた美しさで。だから彼女は中盤生を拾うという形でまず報われたのでしょう。
はたては『日常の中の繊細な美景』を至上としあるがままの文をきれいだと評し、墜落後の気品さえ繕わずいつにない態度を見せる文を『きれいではない』と言い表しもしましたが、そんな彼女がいざ同じ立場に置かれた時、鰾膠も無く謝るよりも先にまず泣くのです。それも文の献身の痕を目の当たりにして。
この互いが互いを慮り思い遣る関係を友愛と呼ばずして何となりましょうか。『独りじゃないから』というはたての台詞はそれを愛おしく物語っていて清々しく。そこから経て描かれる冬天下の文の横顔に至っては、言葉で飾るのが全てに悖ると思わされてしまう程に綺麗なものでした。
『情熱。平静。忍耐。祈念。』この改行を通して淡々と語られる情景描写には最早平伏しかありません。
公表によって"うつくしさ"を損なう剣、氷瀑の実物を見て『絵のほうがよかった』と言う姿、凍土の秘密となった落涙。
作中で具に語られたこれらはどれも、そのまま語られずに想像の余地を残す事こそに意味が有る、儚月抄で語られスタンスそのものに通じる『旧友の雨月』そのものです。
だからこそ、記事に出来ない鳥のその威光が啓示という形で文の胸に刻まれた事が途轍も無く大団円のように思えました。
強大さ幽玄さを記憶という形のみで残せば記事として消費される事も無く、その時に起こった感情はまさしく一生物として色褪せないのだろうという確信に、視界をはたてと共有出来ていたという事実が合わさる事で、この邂逅が二人の思い出として有り得ない程の質量を帯びさせていたのです。
この一貫した美への感受性の描写が、最終的にはたてと文の友愛を彩り形作る展開となり、やがては『この世で最もうつくしいこと』が更新されて欲しいという読者としての切望さえも築き上げられたような気もします。それが満更でも無いのだから末恐ろしい。
総じて烏天狗の存在そのものに圧し掛かる呪いは寧ろ、冬が残酷な季節であるというバイアスそのものだけだったのかもしれません。
はたてと文が二人寄せ合って冬の荘重さを打ち破り、そして記事を書くという烏天狗生活の根底にある原風景に向き合ったこの物語は鸞鳳の棲む所にあらずとも、冬の神々しい枳棘とただただ圧巻の美しさのみで構成されていたに違いありません。
とてもきれいな作品をどうもありがとうございました。
感情に揺さぶられました……
ただタイトルだけはちょっと解せなかったです
この分量で頭のてっぺんから爪先まで面白いのはちょっとびっくりする。
審美眼の勝負・天握山防剣・先祖岩・天逆鳥
どれもそれだけで作品が書けるような濃度の題材が
ちゃんときれいに溶け合ってまとまりあって一つの文章になってる。
自然を力強くて綺麗に描いてるゆえに先祖岩と天逆鳥が引き立ち
それに魅了される文、そんな文に魅了されるはたての描写への説得力がある。
あれ?これって原作にあったっけ?ってなるようなリアル感がすごい。
いちいち描写がおしゃれで素敵。
いろんな要素があってタイトルをどうつけるか迷いそうなところでこのタイトルを持ってくるのは作者さんのセンス。
お見事でした。