「私、貴方のことが好きよ」
告白。
現代日本を生きる女子高生にとって、告白といえば異性への愛の気持ちを打ち明ける行為であることは、私にだってよく分かっている。
端的でややぶっきらぼうな、しかし頬を赤らめて笑みを浮かべながらの告白を受けて、ああ何だかとても〝らしい〟なって、そう思えた。
私が告白を受ける。その非現実的な現状に意識が私から離れて、そうしてぼうっと考える。
告白。そして恋愛。
私は、自分の事を恋愛というものとは縁遠い存在だと思っていた。
学校にいれば誰が誰を好きだ告白しただと惚れた腫れたの話は黙っていたって聞こえてきたけど、私はそこに入らなかった。人目をはばからず往来を男女二人手を繋いで仲睦まじく歩いているのを見れば心の中で爆発しろなんて呟いていた。同世代の男子なんてみんな頭が悪くて、そんな奴らとの恋愛にかまけるくらいならオカルトを追い掛けたいって、本気で思っていた。もちろん誰かから好きだと言われることも、誰かを好きだって言ったこともなかった。
どこまでも、恋愛には向かない思考の持ち主。それが私。
だけど、それでも自分が誰かの手を握って歩くということに憧れが無いわけではなかった。自分がそれとは縁遠い存在だと理解していても、それでも憧れを捨てられない私がいることは自分でも分かっていた。
なのに。
私は目の前を見る。
そこには、こんな私なんかに愛の告白まがいのことを言ってきたやつが立っていた。彼女は、私へ笑顔を向けながら返す言葉をじっと待っている。
彼女。
ああ、ただ同性というだけならまだよかった。レイムッチや妹紅さんなら私だってやぶさかじゃなかったのに。
彼女は、ルーン文字がプリントされたマントを背中に羽織り、頭にはやや明るい癖っ毛に赤い眼鏡を掛けていて、そして東深見高校の制服を着ていて。
それは私もよく見知った姿で。具体的には毎朝いつも鏡で見るそれで。
……ああ、もう目をそらすのは出来ないらしい。
目の前に立つのは、紛れもない私だった。
どうやら、私は私に告白されたらしいのだ。
§
「もういいかしら? 〝現〟の私」
『私』が言ったその言葉で、どこかへ飛んでいた意識が私の元へ帰ってくる。
いつの間に近付いたのか、私の顔を覗き込むように上目でこちらを見つめる『私』の顔がすぐそこにあった。自分の心臓が跳ねた。それが無性に腹が立って『私』を睨み付けると、『私』は不思議そうに小首をこくんと傾げた。自分と同じ顔なのに、その仕草が妙に可愛らしいと感じてしまう。
改めて周囲を見れば、空は絵の具をベタ塗りしたような紫で、遠くには絵本のような西洋風のお城の影。まるで悪夢のようなちぐはぐな世界。
何度か来たことのある、夢の世界だ。
「ドレミ―は?」
「告白したいから席をはずしてって言ったら、喜んでこの場所を貸してくれたわ」
その言葉に思わず頭を抱える。告白だのを軽々と夢の管理者に話すこいつもこいつだが、こんなことに嬉々として場所を貸し出すドレミ―もドレミ―だ。明日には夢人格を経由して、この自分が自分に告白しただなんて素っ頓狂なイベントが幻想郷中に広まっていないことを祈るばかりだ。あと場所を貸し出すならせめてもう少しムードある景色を作ってくれたっていいのに。
しかし、告白ねぇ。
私ことを好きだと言ってのけた目の前の『私』は、腰の後ろで手を組んで頬を赤らめ笑みを浮かべながらこちらを見ている。体は止まることなくもじもじと動き続けていて、落ち着きの無さを感じさせる。まるで初心な生娘だ。
その振る舞いの全てが、ああきっと同じ場面なら自分はこうするのだろうなと想起させられる。目の前の『私』を初心な生娘と称するなら、きっと私も初心な生娘だ。まるで自分を見ているような……いや、文字通り自分を見ているこの状況に気恥ずかしさをどうしても覚えてしまう。
だけど。
「……で、どういうつもり?」
「何が?」
「何が、じゃないでしょ」
また不思議そうに小首を傾げる『私』を見て、私は自分の目に敵意を宿す。
かつて『私』たちは自分こそが本物だと譲らず争い合った仲。お互いの肉体を奪い合った敵。
そんな『私』が、私に愛の告白だって? 愛の告白なんて、誰よりも私らしくない行為を、他でもない『私』が?
生憎だけど、それを真正面から受け止めて信じられるほど、私は純粋じゃない。『私』のことを信用しちゃいない。
「わざわざこんな場所に連れてきて、そんな愛の告白まがいのことを言って……何を企んでるのって、そう言ってるの」
スカートのポケットに手を入れ、そこにあったプリンター銃を引き抜き『私』へと突き付ける。『私』が何を企んでいるかは分からないが、これ以上、私の幻想郷ライフを邪魔されたくはない。こんな場所で自分の顔を見ながら時間を過ごすくらいなら、一秒でも早く幻想郷へ行きたい。
『私』のその厄介さ、諦めの悪さ。それは誰よりも分かっている。なんせ、私のことなのだから。
「ひどい、私の気持ちを疑ってるのね」
よよよとわざとらしく悲しげに俯く『私』を見て、自分の中に不信感と罪悪感が同時に湧いてくる。どうにも複雑な気分になり、どこか拍子抜けしている自分がいる。
プリンター銃で黙らせることも、無視することも、優しい言葉の一つを掛ける気にもならず、どうしていいか分からず私は所在無さげに頬を爪で掻く。『私』はしばらくそのあざとい仕草をしたのち、再び『私』は顔を上げ、大きな溜息をついた。
「分かった、分かった。ちゃんと話すから」
「ふん。ようやく、本性を現す気になったのね」
「違う違う。……どうして、私が好きになったかってこと。告白された相手にこんな事言わせるなんて、どんだけデリカシーがないのよ『私』って」
苦笑いを浮かべて『私』がゆるゆると首を振る。その仕草に自分の警戒心がゆっくりと鎌首を上げる。それを聞いたら何かが戻れないと、そんな予感がした。喋れないように今すぐ『私』のその口を塞いでしまうことも出来ただろう。だが、『私』が私を好きになった、その理由に興味がなかったかと聞かれれば嘘になる。
「私が『私』を好きになった……いや、気付いたのはつい最近」
「気付いた?」
「ええ。幻想郷で決して短くない時間を過ごして、ふと気付いたの。気付くと同時、それは私の中で疑いようのない事実となって、私を苦しめた」
そして『私』は、なんてことないことのように言ってのけた。
「——幻想郷が退屈だってことに」
「……は?」
その『私』の口から発せられた言葉が、私には理解できなかった。そんな言葉が他の誰でもない『私』の口から出たことが信じられなかった。
「だって、そんな……え?」
どうにか口を開こうとするが、口がひくついて上手く動かない。
だって、そうでしょ? 私が、幻想郷を、あの楽園を退屈だって。あの現実が退屈で、ずっと私が自由になれる場所を探していた私が、『私』が、あそこを退屈だって。
「それ……本気で言ってるの!?」
私は銃の引き金に指を掛ける。それが、私と同じ人間が言ったことが信じられなかったし、許せなかった。幻想郷を侮辱したことを、私は認められなかった。
「ええ、だって……見てきたんだから。誰よりも」
見てきた。誰よりも。
実感のこめられたその言葉が、私に否定を拒ませる。その言葉が、妙な真実味を私に突き付ける。
「へぇ……まるで自分だけが違うみたいな言い方ね。あんただって『私』なのに」
「ええ、だって私は誰よりも幻想郷を見て、そしてそこでの時間を過ごした『私』だから。私の中の誰よりもね」
私の中の、誰よりも。
その言葉で、ようやく腑に落ちた。
「ああ、あんた……ドッペルゲンガーなのね」
私の推理に、『私』はご名答とでも言いたげに肩を竦めた。
ドッペルゲンガー。私の怪異。私と同じで、そしてどこまでも鏡合わせのような存在。
幻想郷に出現する私は、現の私がそのまま転移しているのではない。幻想郷にいるのは、私の姿をした影、ドッペルゲンガーという存在だ。現の私と記憶と意識が共有されているため幻想郷にいる時にその違いを意識することはあまり無く、自分でも同一の存在なのか異なる存在なのか分からないところも多い。
だが、目の前の『私』を見るに、少なくとも『私』は別物と捉えている。現の私と、ドッペルゲンガーの『私』を、別物として捉えている。
「確かに、あの場所は現に比べたらよほど刺激的かもしれない。妖怪がいて、神様がいて、友達も出来た。超能力だって好きに使える」
けど。そう一息置いてから、『私』は再び話し始める。まるで認めたくない事実、受け入れざるを得なかった事実かのように、淡々と語る。
「この世界は、酷く退屈。ルールで固く縛られた、現と同じかそれ以上の、窮屈な世界。『私』も、本当は薄々気が付いてるんじゃないの?」
「そんなことない!」
激昂。
抑えきれない感情がとうとう溢れ、口から一気に破裂した。手が震え、『私』に突き付けたプリンター銃がかちかちと小さな音を立てる。
「だって、そんな、あの世界が」
しかし、理論的にその言葉を否定しようとしても、それは出来ずに嗚咽じみた言葉しか出てこなかった。
私は、知っている。
確かに、あの世界にはたくさんのルールがある。人は妖怪に怯えながら狭い人里で窮屈に生き、妖怪は無暗矢鱈に人を襲えない。私の嫌いな不文律であの世界は溢れ、そして成り立っている。
あの世界は楽園だ。けど、存在する全てが私の理想だけで構成された世界ではなかった。
「今は私があの世界にとって所詮ゲストの一人に過ぎず、だからこそ楽しませてもらっている。けど、それはいつまで続くの? 私は、いつまで歓迎してもらえるの?」
「みんな、きっと歓迎してくれるわよ。いつまでも」
「かもしれないわね。けど、そうじゃなくなったら。ゲストとして歓迎もされず、やがて居場所もなくなったら。……何にだって限界がある。それは幻想郷での私の限界かもしれないし、幻想郷そのものの限界かもしれない」
口では肯定したが、まるでそれを信じていないかのような言い方だった。
彼女は腕を広げ、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「だから、私は『私』が好きになった」
「……意味分からないんだけど」
幻想郷は理想郷じゃない。いつまでも歓迎されるか分からない。そこからどうして、私を好きだのなんだのという話に繋がるのか。
「ずっと、私は居場所を求めて戦ってきた。オカルトを追い掛け、幻想郷を探し出し、そして私同士で争って」
「まあ、そうね」
「けど、あれだけ私の居場所だと思っていた幻想郷もそうじゃないって知った。それで気付いたのよ。もう、私の居場所は私にしかないって。私こそ、私の居場所なんだって」
私の手が温もりに包まれる。『私』が、プリンター銃を構えていた私の手を握る。手からプリンター銃がぽろりと落ち、プラスチックの弾ける音が響いた。
それにびくりと私の心臓が跳ねた。
「私は、私こそが居場所なの。ずっと探していた居場所が、私」
「……まるで、私があの場所の代替品みたいな言い方ね」
私は皮肉を言った。そうでもしないと、『私』のペースに呑まれてしまいそうだったから。
「そんなことない。ずっと私は戦って、探してきた。私は分かったの。自分こそが、私こそが私の求めていたもの。それが『私』にも、分かるでしょ?」
「……そんなの、分かんない」
「私は、私が好き。それは単なる自惚れでもナルシズムでもない。こうして私と何度も出会って、戦った私だから言えるの」
「……ま、まって」
「『私』は自分に自信がないかもしれない。私だってそうだった。けど、そんなことない。私は、誰よりも強い。私は『私』が好きなの。誰よりも」
「……」
次第に、返す言葉が見つからなくなっていく。『私』の圧に呑み込まれていく。
その顔が近づいてくる。私の顔へと。
私はそれを拒めず、突き放すこともできず、その口がゆっくりと私の口へと迫る。『私』の唇が潤んでいることに場違いにも気付いてしまう。『私』が目を閉じる。
場の空気に流されるまま、私の唇が『私』の唇と触れ……
「人の顔で何やってんのよ!」
聞き覚えのある怒号と同時、顔いっぱいにまで迫っていたはずの『私』が横殴りに吹っ飛ばされた。
代わりに視界に現れたのは、足を突き出し、スカートとマントをなびかせた女性だった。彼女が、私に迫る『私』を横から凄まじい勢いで突っ込んで、そして蹴り飛ばしたのだ。
赤い眼鏡がアクセントの、その顔を私はよく知っている。
「わ、私?」
そこにあったのは、紛れもない私の顔だった。顔も服装も何もかも同じ、私……いや、『私』だった。
「……あ、えっと、夢?」
「普段はここが夢でも、私たちにとっちゃここだって現実でしょ!」
私は目の前で『私』を蹴り飛ばした『私』が夢人格のそれか聞きたかったのだが、『私』は違う意味で受け取ったらしい。だが、『私』が答えたそれは私にとって事実だった。
現も、幻想郷も、そしてこの夢の世界も。私にとっては全てが繋がった世界であり、切り捨てることの出来ない現実なのだから。
そう、切り捨てることなんてできないはずなのだ。
「ほら、さっさと逃げるわよ!」
私の手を『私』が引いたが、私はそれに対応できずつんのめる。苛立った『私』とは対照的に、きっと私の顔は随分と間抜けに呆けていたことだろう。
……逃げるって、何から?
「ああ、じれったい!」
いつまでも足を動かそうとしない私にしびれを切らしたのか、『私』は私を抱き抱えた。私の体を両手で支え、正面で抱き上げるこの体勢。いわゆるお姫様抱っこというやつか。
「わわ……!」
この体勢だと、抱き抱える『私』の顔がすぐそこにあって、思わず情けない声を漏らしてしまう。そこにあるのは自分と同じ、つい先ほどまで見ていた『私』と同じ顔のはずなのに、真っすぐに前を見つめる『私』の顔は、まるで別人みたいだった。
「ちょっと! 何すんのよ!」
後ろから抗議の声が響く。やはりその声は私と同じもので、先ほど『私』が蹴り飛ばした『私』のものだった。逃げながらもどうにかそちらへ首を向ければ、如何にも怒ってますと言わんばかりに手を振り上げ地団太を踏んでいる。
「うっさい! 誰が『私』なんかの言うこと聞くかっての!」
しかし『私』が私を抱えたまま器用に念動力でどこからかESPカードの束を取り出し手裏剣のように投げつけると、『私』は慌てたように念動力の盾を張る。カードは金属のような音を立てるが念動力の盾を破ることはできず、はらはらとカードが地面へと落ちていく。片手間に放った一撃は、牽制以上の意味を成していないように見えた。
「そっちがやる気なら、『私』相手だって容赦しないわよ!」
『私』は懐から青いおもちゃみたいな銃を抜くやいなや、私へと向ける。いや、正確には『私』にか。ぱんぱんと映画で聞くそれと比べれば軽い音が鳴るが、それでもちゃちなガス銃に比べれば遥かに威力の高い弾丸が発射されていることを私は知っている。なぜなら、それは私がついさっきまで持っていたものと同じだから。
弾丸の雨というにはしょぼいが、それでも当たればただでは済まない弾幕がばら撒かれる中、『私』は私を抱えて右へ左へ揺れるようにして飛ぶ。
「わわっ……わゎっ!」
他人に抱きかかえられながら飛ぶというのはこんな気分なのか。自分で飛ぶのとは全然違う感覚に、さっきから私は言葉にならない声しか出す事が出来ない。
「安心して、大丈夫だから」
「大丈夫だからって……」
慌てている私がよほど見るに堪えなかったのか、『私』がなだめてくる。……けど、こっちはいきなり告白されたかと思ったら私を奪って逃げて、これが動じずにいられるわけないじゃない!
そう抗議しようとしたが、私は『私』の一言で黙らせられた。
「私が、守るから」
それを聞いて、私の顔が耳まで赤くなるのが自分でも分かった。
目の前にいるのは私なのに。ただ人間かドッペルゲンガーが夢人格かの違いだけで、中身まで私と同じなのに。そのはずなのに。
それなのに、どうして私の心はこんなにも揺れているのか。
銃声が鳴る中、右へ左へ飛び回る中、それでも私には『私』の顔がはっきりと見えた。まるで時が止まったみたいに、ぶれ一つない彼女の顔だけが私の目に映った。
しばらく弾丸を回避しながら逃げていた『私』だったが、やがて
「ごめん、訂正。私だけで『私』を守り通すのは難しそう」
「え?」
ちらりと首を『私』の後ろへと向ければ、プリンター銃片手に突っ込んでくる『私』がいた。『私』と『私』の距離は時間が経つにつれて狭まっているように感じるが、それも必然だろう。なんせ、『私』が私を抱えているのに対し『私』はその身一つなのだから。『私』はカードを念動力で投げて牽制するが、念動力の盾を展開したまま飛んでくる『私』には大した効果は見られない。
「このままじゃ逃げきれない。跳ぶわよ」
「とぶって……」
今こうして飛んでいるのに?
「飛ぶじゃなくて跳ぶ! テレポートよ!」
よほど間抜けな顔だったのか、唾を飛ばさんばかりの強い口調でそこまで言われて、ああとようやく理解出来た。
そのまま飛んで逃げてはいずれ『私』に捕まる。だからテレポートで空間を跳んで行方を眩ませると。テレポートは人間一人まるごと跳ばすようなことが出来ないから、二人同時に跳んで、そうしてお互い散り散りに逃げれば、『私』の追跡から逃れられると。
……あれ、そういえばどうして私は『私』から逃げてるんだっけ?
「もう逃がさないわよ!」
弾が無くなったのか、『私』はプリンター銃を捨ててさらに速度を増す。まるで一つの弾丸のように真っすぐ突き進むその姿は、たとえ私たちが二人別々に飛んで逃げたとしてもどこまでも追ってきて私を容易く捕まえるのではと思わせてくる。
私と同じように『私』を見ていた『私』も同じ結論に達したのか、小声で言ったその言葉はやや早口になっていた。
「0、で跳ぶわよ。……3、2、1、……」
早いカウント、間近に迫る跳躍の瞬間に、私は先ほど湧いた疑問を処理する時間もなく、テレポートに備え心を少しでも落ち着かせる。
「……0!」
テレポート。
私たちの姿は、夢の世界から消えた。
§
「あいたっ!?」
お尻に衝撃が走り、叫び声が口から飛び出る。
強かに打ち付けたお尻から発される痛みが落ち着くまでしばらく見悶えてから、ようやく私は自分の目に映るものを認識できた。
数多の星が瞬く星空、そしてそんな空を半分ほど遮る木造の庇 。周囲は薄暗いが、それでもここがどこかはすぐに分かった。何故なら、これまで幾度となく見てきた景色だったから。
博麗神社、その縁側だ。
私は今、博麗神社の縁側に寝っ転がっていた。どうやら、テレポートで辿り着いた先はドレミ―の作った告白の舞台のどこかではなく幻想郷、それももはやすっかり顔馴染みになった博麗神社らしい。とっさに跳べと言われてろくに転移先もイメージしないままに跳んだからだろうか。いつもは慎重に転移先を決めてから跳ぶからか、こうして世界まで跳び越えてしまうなんてのは初めてだった。
……きれいな夜空。
ぼうと星空を見上げていると、私の視界を遮るものがぬっと現れる。
「何やってるの?」
「……レイムッチ?」
私の顔に影を落としたのは、レイムッチ……もとい、博麗霊夢だった。普段の派手な巫女服とは違う、白い寝間着に身を包み赤い髪飾りもリボンもない彼女を見るのは新鮮で、とっさに彼女だと分からなかった。
彼女は突然の来訪者である私に喜ぶでも怒るでもなく、ただ眠そうなぬぼっとした無表情でこちらを見ていた。
「あ……えっと……」
「まあ、あっちで眠っちゃったんでしょ。布団が欲しかったらいつものところにあるから」
私が何か言うよりも先に、レイムッチはそれだけ言ってすたすたと縁側を歩いていく。冷たい態度にも見えるがそれも仕方がないことだ。なんせ今は夜。普段なら寝ている時間なのに、それを私がいきなり大きな音と共に現れたのだから。ふぁと後ろ姿でも分かるくらい大きな欠伸をするレイムッチを見れば、むしろ小さな罪悪感すら湧いてくる。
私は眠れば幻想郷へ来る。それは夜であろうと例外はなく、こうして真夜中に博麗神社に訪れるのもいつものこと。そんな日はこうして布団を借りてこっちで寝たりすることもあるが、今はそんな気分ではなかった。
レイムッチが障子の奥へと消えていくのを寝っ転がったまま見届けた私は、また空を見上げる。そこには、変わらず星空がそこにあった。周囲は暗く、茂みから微かに聞こえる虫の鳴き声が、一層この場の静寂を引き立てていた。先ほどまで私同士で暴れまわっていたとは到底思えないほど、静かだった。
しばらくじっとその場で空を見上げていたが、二人の『私』が現れる気配はない。レイムッチも障子の奥へと消えた今、この場にいるのは私だけだ。
縁側に寝転がって星空を見上げたまま思うのは、つい先ほど『私』に言われた言葉。
『幻想郷が退屈だってことに』
本当に、私はそう思っているのだろうか。
今ここにいる私の肉体は、幻想郷にこうして存在している以上はドッペルゲンガーのもののはず。しかし、意思と記憶は紛れもない私のものだ。『私』でも、『私』でもない。夢の世界でいきなり『私』に告白されて、そして『私』と一緒に逃げた、私だ。
あいつが言うには、私に告白した『私』は、ドッペルゲンガーだ。そして私は現の私。
なのに、今は私が幻想郷で空を眺めている。
他の誰でもない、私が。
私は目の前の景色へと、意識を向ける。
目の前にあるのは、美しいはずの星空。外で、現では決して見ることの出来なかった、満天の星空。
この景色を見るまで、随分と苦労した。例えこれが偶然が幾重にも重なった結果だとしても、それでもこの景色は他の誰でもない私が掴み取ったものだ。
そのはずなのに。
……私は、幻想郷が退屈だって、本気で思っているの?
……どうして、私はこの美しい光景に心が躍らないの?
§
「また、会えたわね」
そうして、私の目の前には『私』がいた。後ろには、ロープでぐるぐる巻きにされて地面に転がされている『私』の姿も。眠っている……というよりは気を失っているのか目を閉じたまま身動ぎもしない『私』とは対照的に、『私』はまるで何もなかったみたいに笑顔を浮かべている。
どうやら、私は神社であのまま寝てしまい、また夢の世界へと戻って来たらしい。私があそこにいた間、どうやら『私』と『私』は争いを続け、そして『私』が勝った。……言葉にすると自分でもよく分からなくなってくるが、目の前の『私』が私に笑みを浮かべているのであれば、この『私』がついさっき私に告白まがいのことをしたドッペルゲンガーの『私』で、そこに縛られて放置されているのが夢の『私』に違いない。地面にはESPカードやプリンター銃の薬莢といった戦闘の跡らしきものがいくつも転がっている。
「どう? 幻想郷は楽しかった?」
変わらず笑みを浮かべながら『私』が問うてくる。しかしその顔はまるで私が返そうとする答えが既に分かっているかのように、どこか自信に満ちているようにも見える。
「聞かなくたって分かる。つまんなかったって、そんな顔してるわよ」
「……そんなことない」
自分でも、しょぼくれた声だなって思った。『私』もそれが分かったのか、柔らかい笑みへと変わる。
「……だから、私のことを好きって?」
「そう、私は『私』が好き」
頬を赤らめながらも、まっすぐこちらを見て『私』はそう言った。
そして、私は『私』に抱きしめられる。ぎゅっと、背中へと手を廻され、その体を押し付けられる。
きっと私の人生で初めて感じる、誰かに抱き着かれる柔らかい圧迫感。人の体の温かさ。
そこまでされて、しかし私の頭は別のことを考えている。
私が好き。
私は、そんなこと言われるなんて考えたこともなかった。それは単にドッペルゲンガーという自身の半身からという意味だけでなく、誰からも、自分が好かれるだなんて想像できなかった。
人付き合いは悪く、口だって悪い。容姿だってあんまり自信ないし、流行だって分からない。それに……。私が他人から好かれない理由を上げれば暇はないが、即ちそれは私への自信のなさの表れだった。
だからこそ、きっと私は人との関わりを避けていたのかもしれない。人を避け、他人を見下して、拒絶して。
そうして幻想郷を見つけて、そこで楽しい時間を過ごし、時に争った。その結果、連綿と続く過去の私がいて、きっと今の私がいる。それは同時に、目の前の『私』にも、当てはまる。
私は、『私』の肩に手を置く。『私』は私の体へ廻していた手をゆっくりと解き、ゆっくりと私の体から離れていく。そして至近距離で向かい合う。
目の前の『私』は、再び私の答えを待っている。その笑顔は、まるで自分のものとは思えないような、綺麗な顔だった。
だから、私は。
「お断りよ、そんなの」
その顔に吐き捨てるように言ってやった。
断られると思っていなかったのか、『私』のその綺麗な笑顔が貼り付いたように固まり、次いで歪んだ。
言葉を失ったみたいにぱくぱくと口を動かす彼女に変わり、私は言ってやった。
「幻想郷が退屈? だから裏切らない自分が好き? 勝手なこと言ってんじゃないわいわよ。『私』のその勝手な感情に、私を巻き込まないで」
そこでようやく自分が何を言われているのか理解したのか、『私』の顔から笑みが消え、徐々に怒りの色が増していく。
「私は、ずっと逃げてきた。嫌なものから逃げて逃げて、自分が自分でいられる場所を探してきた」
それは、私にとっても、『私』にとっても当てはまる、紛れもない事実。
幻想郷での戦い、都市伝説異変。それは同時に逃避でもあった。現状が受け入れられなくて、ここではない場所を探した。
「そして、やっと見つけたこの世界を、退屈だからって勝手に見限って! いつまで逃げるつもり!?」
うんざりだった。
逃げ続ける私も、現状に文句を垂れる私も。
「私は、私が嫌い」
それが、『私』の想いへの答えだった。
私は、私が好きじゃない。『私』が、嫌い。
だから、私は『私』の想いを受け入れられない。
「私は変わる。変わりたいの。だから、『私』とはいられない」
私は、『私』との離別を、あるいは拒絶を口にした。
私は、私をやめる。私であることを、私を拒絶する。
それが、私の想い。『私』への答え。
「たとえどれだけ『私』が幻想郷を諦めていても。退屈だと思っていても。私にとってあの場所はかけがえのない、私の居場所。私が、そうするの。私の居場所にしてみせる。だって、それがーー」
「そんなの……私だってそうよ!」
激昂。『私』が、私の声を遮って発したそれは、まるで喉から捻りだしたようだった。
「本気で、私があの場所を退屈だって、そう思ってるって信じたの!? 私のくせに!? ずっと見てきたくせに!?」
「は? 何言って……?」
「私だけが、私じゃない。『私』も、『私』も、どっちも私なのに、私だけが私じゃない。私は、ずっと私を見せつけられてきた。そんなのはもううんざり」
頭を抱え、支離滅裂な言葉を繰り返す。その目には涙を浮かべ、明らかに平常じゃない。
それでも、『私』は私を見ていた。そこには、私への明確な敵意があった。
「『私』がどれだけ私のことが嫌いでも、私は私が好き。だから、私は私になりたいの。ずっと私だった『私』には絶対に分からないだろうけど」
とっさに、肩に置いていた手で『私』を突き飛ばす。人並みの力で押された『私』は、よたよたとした動きで体勢を立て直し、こちらを睨み付けてくる。
「だから、『私』を殺してでも奪う。……絡め手なんて面倒臭い。最初からこうしてればよかった」
『私』が身に纏う空気の変化に悪寒を覚え、とっさに足を引くが、それよりも先に『私』が動いた。いや、私には『私』が体を動かすところを目で捉えることは出来なかったが、代わりに足に鋭い痛みが走った。
「つぅっ!?」
痛みに喘ぎ、立っていることが出来ずに盛大な尻餅をつく。投げ出されたその足を見れば、赤い線がいくつも刻まれていた。しばらくして、そこから赤い雫がいくつも滴り落ち、白いソックスを染めていく。
遅れて、この足の傷はESPカードによるものだと気付く。『私』が手を動かさず念動力だけで地面に落ちていたESPカードを操り、私の足へと目掛けて投擲したのだ。
血が流れる足で立ち上がろうとするが、思うように動かない。もしかしたら足の腱が切れたのかもしれない。あるいは、恐怖で足がすくんだのか。
「さあ、くだらない恋愛ごっこは終わり」
『私』がゆっくりと近づいてくる。そこには、前に見た笑顔も甘酸っぱい空気もなく、どこまでも冷たい目が私を見下ろしていた。『私』はその冷酷な目そのままに、私の腹をそのローファーで踏みつけ、プリンター銃を私の額へと向ける。
「最初から、私なんて見てなかったのね」
「その肉体をもらって、私は私になる。……残念、私を受け入れてくれたなら、たまにはその肉体を使わせてあげてもよかったのに」
「肉体って、あんたまさか……!」
「さようなら、そしてようこそ。『私』」
プリンター銃に掛けられた『私』の指が絞られようとしている。私は、念動力で防御することもテレポートで逃げることも思いつかず、ただ『私』の持つそれから弾が発射されるのをただ待ち続けている。
ああ、このまま私は眉間を撃ち抜かれて肉体を奪われるんだな……とどこか他人事みたいな思考が頭を過る。
しかし、そこから弾が発射されることはなく、私の頭がぶち抜かれることも無かった。
「こ……なくそっ!」
『私』が引き金を引くよりも先に、凄まじい勢いで棒状の何かが『私』の横っ腹に食い込み、そのままバットでボールを打つみたいに『私』を薙いだ。『私』が冗談みたいに錐揉み回転しながら宙を舞う。私が地面に倒れていなければ、私もろとも叩かれていたことだろう。
どこかデジャヴを感じる光景の中、『私』がいなくなったその場所に代わりに立っていたのは、地面に縛られていたはずの『私』だった。『私』は、まるで不良が手ごろな鉄パイプでも拾ったみたいに3メートルはあろうかという道路標識を肩に担いでいる。
『私』は、地面に倒れている私を一瞥したのち、視線と足を横へ向ける。そこには、脇腹を抱え地面に横たわる『私』がいた。必死に逃げようとしているのだろうが、脇腹への一撃が骨にまで到達したのか、浅い呼吸混じりで地面をのたうつことしか出来ないでいる。
そんな『私』に向けて、『私』は。
「ふん!」
いっそ勇ましさすら感じさせる息と共に、道路標識を振り下ろす。今度は支柱部分ではなく、通行止めのアイコンが描かれた標識の部分で。普段、道を歩いている時には想像することもないが、標識は大きな一枚の鉄板であり、同時に単なる鈍器で済ませられない凶器となる。そんなものを振り回すことが出来る人間なんて、私くらいだろうけど。
『私』の攻撃は、一度では終わらない。横たわる『私』へ向けて、何度も振り下ろす。振り下ろす度に、まるでコンクリートの地面を殴るような鈍い音が夢の世界に響く。私は、その背中をただ見ていることしか出来なかった。
しばらくして『処理』を終えた『私』がこちらへと向く。惨劇の光景を想像して身構えてしまったが、しかし意外にも彼女の衣服は綺麗で、ぐちゃぐちゃになったであろう『私』の遺体もなかった。ただ、ひび割れた地面とひしゃげた鉄柱があるだけだった。
「ありがとう、助かった。いつから起きてたの?」
「最初から」
私が『私』へとお礼を言うと、『私』は足早にこちらへと近づいて手を差し伸べる。私はその手を掴んで、ようやく立ち上がることが出来た。が、足はまだ思うように動かずよろけて『私』に体を預けてもたれ掛かってしまう。歩くことは難しそうだ。
「ほら、さっさと逃げるわよ」
そんな私が見ていられなかったのか、『私』が私に肩を貸す。『私』だって無傷ではないだろうに、半ば強引に肩を貸されたため断る暇もなかった。……う~む、『私』ながら驚かされるイケメンムーブ。
そして、よたよたと逃げるために歩き出す。逃げる先は私には分からないが、『私』の歩みには迷いがない。どこへ向かえばいいか理解している足だ。
既に敵であった『私』は『私』によって潰され肉体すら残っていないが、復活するのも時間の問題だろう。
なぜなら、あの『私』は夢人格の私なのだから。ドッペルゲンガーなどではなく。
夢人格。
肉体を持たず、現と表裏一体で存在する、夢の世界で生きる存在。
本来ならその存在を現で生きる私たちが認識することはない。
しかし、私は……私たちは別。私がこうして幻想郷を見ることが出来ているのも、夢の世界、そして『私』が関係している……と思う。詳しい原理は私もよく理解できていないが。
そして、現の私、ドッペルゲンガーの私との決定的な違いは、肉体の有無にある。夢人格の私……いや、夢人格は総じて肉体を持ち合わせていない。だからこそ、私の肉体を求めたのだ。
私が好き。私は私になる。『私』はそう言った。
現、ドッペルゲンガー。その二つは意識と記憶を共有した同じ人格だが、夢人格だけが、そこに属していない。『私』だけが、私じゃない。
だから、私の肉体を奪いに来た。この前の悪夢の時みたく強引な策ではなく、腹芸で私を誘惑した。愛の告白みたいなことを言って、幻想郷は退屈だなんて心にも思っていないことを言って、それでも上手くいかなかったから最後は強硬策までとって。
「……そういうことでしょ、『私』?」
「多分ね。ほら、さっさとドレミ―のとこへ行くわよ。早く帰りたいわ」
私の推理を、『私』が端的に肯定する。つまりはまぁ……私同士のしょうもない小競り合いだったということだ。
大方、この『私』もドレミ―か誰かにこの世界まで引っ張ってこられたんだろう。引っ張った張本人はきっと遊び半分だったろうに。それでも律儀に私を助けてくれた。
「……何?」
「いや、なんでもない」
私が『私』の顔を見ているのに気づいたからか、やや訝し気な視線をこちらへ向ける。適当に誤魔化すと、「そう」とだけ言ってまた『私』は前を向いた。
『私』が、私を助けてくれた。
きっと、そこには利害という側面が大きいのだろう。私の肉体が夢人格の『私』と一緒になった時、私に肩を貸す『私』がどうなるか分からないのだから。
にもかかわらず。
私は、どうして心が浮ついているのだろう。
隣の『私』、私を助けてくれた『私』を見ていると、やっぱりどうにも落ち着かない。心臓は鼓動を増し、心は跳ねる。しかしそれは不快なものではなく、私はその感情に身を委ねたいと思えた。
ついさっき、私は私の事が嫌いだと言ったばかりなのに。
まるでそれが本能だと言わんばかりに、私は『私』を求めていた。
ついさっき『私』に迫られた時に感じなかった感情の高ぶりを、今こうして肩を貸すために密着している『私』から感じている。
私は、『私』の事が……好き、なのだろうか。
「本当に?」
いや、違う。
私は分かった。私は変わりたいんだ。
逃げてきた私から。宇佐見菫子ではない存在に。
だから、私は『私』を求めているんだ。他の私じゃない、『私』が欲しいんだ。私に肩を貸してくれている『私』じゃないと、駄目なんだ。
私は、『私』を見るほど湧いてくるその衝動に、身を任せた。
『私』に肩を貸されて歩きながら、私はポケットに手を入れる。
そこには、一枚のESPカードがあった。私の持つ力、超能力の証明であると同時、相手を切り裂く武器でもあるそれを、『私』に気付かれないよう、そっと手に持つ。
手に取ったそれを、私は。
『私』の喉へ、すっと差し込んだ。
肉を裂く、手ごたえを感じた。
いきなりの出来事に驚く『私』の顔が、妙に印象に残った。声を発しようとしているのか口がぱくぱくと動くが、そこからはひゅうひゅうとした音しか聞こえてこない。
……どうして? 何で驚いているの?
だって、そういうものじゃない、私って。
「あ、え……?」
ようやく『私』……いや、私だった彼女はそんな言葉を漏らした。息と共に血が点々と地面に吐き出される。
「……あはっ」
自分の口から、笑い声が漏れる。出すつもりの無かった、それでも堪えられなかった、私の声。
目の前で宇佐見菫子が崩れ落ちる。その光景に、本能が満たされるような恍惚感を覚えた。自分へ、自分じゃない何かが流れ込んでくる。
私は屈んで彼女の顔を覗き込むと、彼女は胡乱な目を私に向けていた。既に抵抗することもできないが、それでもまだ息があるところを見るに、もしかしたら超能力か何かで血管でも繋げているのかもしれない。
今はその方が都合が良かった。最後の言葉を贈ることが出来るから。
「ねぇ、私は誰?」
「……私、じゃ……?」
宇佐見菫子が震える声で返す。私はそれを受けてゆるゆると首を横に振る。
……『私』はまだ分かっていないのね。
「いいえ、私はドッペルゲンガー。宇佐見菫子じゃない」
今日、ずっと私は勘違いをしていた。あるいはそれは、まだ何も分かっていなかった私を夢人格がそう思考を誘導したからかもしれない。
私は、ドッペルゲンガーだ。夢人格でも、現の宇佐見菫子でもない。
そして、ドッペルゲンガーは宇佐見菫子 じゃない。それは現の菫子とも夢人格とも違う、全く別の存在。都市伝説から生まれた、怪異。ドッペルゲンガーとは元となった人間を最後には殺す怪異なのだから。
ドッペルゲンガーとは、元となる人間 を殺してこそ、怪異、妖怪としてようやく一人前。だから、私は本物 を殺すのだ。私 を殺して、私はドッペルゲンガー になる。
「私を生んでくれてありがとう、宇佐見菫子さん」
私は、彼女を見下ろす。
そこには、文字通り息も絶え絶えで地面に横たわる彼女がいた。虚ろな目には涙が浮かんでいた。それを見て、私は震えた。彼女が私へと向ける感情が美味しくて、口の中に沸いた涎を呑み込み、唇を舐めて湿らせる。
それはきっと、妖怪としての喜び。人を怖がらせ、怯えさせ、その感情を喰う、喜び。天狗が人を攫うように、唐傘お化けが人を驚かせるように、私はドッペルゲンガーとして主である私を殺す。
自分という存在に牙を剥かれる恐怖というドッペルゲンガーが好む味を、妖怪としての自分が満たされていくこの甘美を目一杯楽しむ。
「そして……さようなら、私」
宇佐見菫子の首を踏みつける。
固いローファーの靴底が、喉に刺さったままだったESPカードを押し込む。
何かが千切れる感覚が、足を伝ってきた。
それで、かつての私だった『私』は、動かなくなった。
これまで味わったことの無い最上級の〝味〟に、体が震える。
私は、ドッペルゲンガー に満たされた。
そうして、この日、この瞬間。私は、私でなくなった。
ずっと逃げてきた私、私の影だった私は、もういない。
そこには、一人の妖怪が立っていた。
それが、他の誰でもない、私なのだ。
§
長い石段を登ると、そこには神社があった。
「おーい!」
日の差す博麗神社で、私は手を振る。
視線の先には、レイムッチが箒で境内を掃除している。
彼女が朝方にそうして掃除するのはいつもの日常らしいが、その姿を私が見るのはもしかしたら初めてかもしれない。
なんせ、この時間はいつもなら登校中。授業中に自席で眠ることは出来ても、登校中に歩きながら眠る事なんて流石の私には出来なかった。
けど、今なら。
レイムッチが私に気付いて顔を上げる。彼女は目を見開いて、心なしか驚いているようにも見えた。
今までは、私は現で眠っている間だけしかここにいられなかった。
でも、今は。
私はドッペルゲンガー。一人の妖怪だから。妖怪の楽園たるこの幻想郷にいたって何にもおかしくない存在だから。
私は、この世界の住民なのだから。
「これでずっと、一緒にいられるね!」
告白。
現代日本を生きる女子高生にとって、告白といえば異性への愛の気持ちを打ち明ける行為であることは、私にだってよく分かっている。
端的でややぶっきらぼうな、しかし頬を赤らめて笑みを浮かべながらの告白を受けて、ああ何だかとても〝らしい〟なって、そう思えた。
私が告白を受ける。その非現実的な現状に意識が私から離れて、そうしてぼうっと考える。
告白。そして恋愛。
私は、自分の事を恋愛というものとは縁遠い存在だと思っていた。
学校にいれば誰が誰を好きだ告白しただと惚れた腫れたの話は黙っていたって聞こえてきたけど、私はそこに入らなかった。人目をはばからず往来を男女二人手を繋いで仲睦まじく歩いているのを見れば心の中で爆発しろなんて呟いていた。同世代の男子なんてみんな頭が悪くて、そんな奴らとの恋愛にかまけるくらいならオカルトを追い掛けたいって、本気で思っていた。もちろん誰かから好きだと言われることも、誰かを好きだって言ったこともなかった。
どこまでも、恋愛には向かない思考の持ち主。それが私。
だけど、それでも自分が誰かの手を握って歩くということに憧れが無いわけではなかった。自分がそれとは縁遠い存在だと理解していても、それでも憧れを捨てられない私がいることは自分でも分かっていた。
なのに。
私は目の前を見る。
そこには、こんな私なんかに愛の告白まがいのことを言ってきたやつが立っていた。彼女は、私へ笑顔を向けながら返す言葉をじっと待っている。
彼女。
ああ、ただ同性というだけならまだよかった。レイムッチや妹紅さんなら私だってやぶさかじゃなかったのに。
彼女は、ルーン文字がプリントされたマントを背中に羽織り、頭にはやや明るい癖っ毛に赤い眼鏡を掛けていて、そして東深見高校の制服を着ていて。
それは私もよく見知った姿で。具体的には毎朝いつも鏡で見るそれで。
……ああ、もう目をそらすのは出来ないらしい。
目の前に立つのは、紛れもない私だった。
どうやら、私は私に告白されたらしいのだ。
§
「もういいかしら? 〝現〟の私」
『私』が言ったその言葉で、どこかへ飛んでいた意識が私の元へ帰ってくる。
いつの間に近付いたのか、私の顔を覗き込むように上目でこちらを見つめる『私』の顔がすぐそこにあった。自分の心臓が跳ねた。それが無性に腹が立って『私』を睨み付けると、『私』は不思議そうに小首をこくんと傾げた。自分と同じ顔なのに、その仕草が妙に可愛らしいと感じてしまう。
改めて周囲を見れば、空は絵の具をベタ塗りしたような紫で、遠くには絵本のような西洋風のお城の影。まるで悪夢のようなちぐはぐな世界。
何度か来たことのある、夢の世界だ。
「ドレミ―は?」
「告白したいから席をはずしてって言ったら、喜んでこの場所を貸してくれたわ」
その言葉に思わず頭を抱える。告白だのを軽々と夢の管理者に話すこいつもこいつだが、こんなことに嬉々として場所を貸し出すドレミ―もドレミ―だ。明日には夢人格を経由して、この自分が自分に告白しただなんて素っ頓狂なイベントが幻想郷中に広まっていないことを祈るばかりだ。あと場所を貸し出すならせめてもう少しムードある景色を作ってくれたっていいのに。
しかし、告白ねぇ。
私ことを好きだと言ってのけた目の前の『私』は、腰の後ろで手を組んで頬を赤らめ笑みを浮かべながらこちらを見ている。体は止まることなくもじもじと動き続けていて、落ち着きの無さを感じさせる。まるで初心な生娘だ。
その振る舞いの全てが、ああきっと同じ場面なら自分はこうするのだろうなと想起させられる。目の前の『私』を初心な生娘と称するなら、きっと私も初心な生娘だ。まるで自分を見ているような……いや、文字通り自分を見ているこの状況に気恥ずかしさをどうしても覚えてしまう。
だけど。
「……で、どういうつもり?」
「何が?」
「何が、じゃないでしょ」
また不思議そうに小首を傾げる『私』を見て、私は自分の目に敵意を宿す。
かつて『私』たちは自分こそが本物だと譲らず争い合った仲。お互いの肉体を奪い合った敵。
そんな『私』が、私に愛の告白だって? 愛の告白なんて、誰よりも私らしくない行為を、他でもない『私』が?
生憎だけど、それを真正面から受け止めて信じられるほど、私は純粋じゃない。『私』のことを信用しちゃいない。
「わざわざこんな場所に連れてきて、そんな愛の告白まがいのことを言って……何を企んでるのって、そう言ってるの」
スカートのポケットに手を入れ、そこにあったプリンター銃を引き抜き『私』へと突き付ける。『私』が何を企んでいるかは分からないが、これ以上、私の幻想郷ライフを邪魔されたくはない。こんな場所で自分の顔を見ながら時間を過ごすくらいなら、一秒でも早く幻想郷へ行きたい。
『私』のその厄介さ、諦めの悪さ。それは誰よりも分かっている。なんせ、私のことなのだから。
「ひどい、私の気持ちを疑ってるのね」
よよよとわざとらしく悲しげに俯く『私』を見て、自分の中に不信感と罪悪感が同時に湧いてくる。どうにも複雑な気分になり、どこか拍子抜けしている自分がいる。
プリンター銃で黙らせることも、無視することも、優しい言葉の一つを掛ける気にもならず、どうしていいか分からず私は所在無さげに頬を爪で掻く。『私』はしばらくそのあざとい仕草をしたのち、再び『私』は顔を上げ、大きな溜息をついた。
「分かった、分かった。ちゃんと話すから」
「ふん。ようやく、本性を現す気になったのね」
「違う違う。……どうして、私が好きになったかってこと。告白された相手にこんな事言わせるなんて、どんだけデリカシーがないのよ『私』って」
苦笑いを浮かべて『私』がゆるゆると首を振る。その仕草に自分の警戒心がゆっくりと鎌首を上げる。それを聞いたら何かが戻れないと、そんな予感がした。喋れないように今すぐ『私』のその口を塞いでしまうことも出来ただろう。だが、『私』が私を好きになった、その理由に興味がなかったかと聞かれれば嘘になる。
「私が『私』を好きになった……いや、気付いたのはつい最近」
「気付いた?」
「ええ。幻想郷で決して短くない時間を過ごして、ふと気付いたの。気付くと同時、それは私の中で疑いようのない事実となって、私を苦しめた」
そして『私』は、なんてことないことのように言ってのけた。
「——幻想郷が退屈だってことに」
「……は?」
その『私』の口から発せられた言葉が、私には理解できなかった。そんな言葉が他の誰でもない『私』の口から出たことが信じられなかった。
「だって、そんな……え?」
どうにか口を開こうとするが、口がひくついて上手く動かない。
だって、そうでしょ? 私が、幻想郷を、あの楽園を退屈だって。あの現実が退屈で、ずっと私が自由になれる場所を探していた私が、『私』が、あそこを退屈だって。
「それ……本気で言ってるの!?」
私は銃の引き金に指を掛ける。それが、私と同じ人間が言ったことが信じられなかったし、許せなかった。幻想郷を侮辱したことを、私は認められなかった。
「ええ、だって……見てきたんだから。誰よりも」
見てきた。誰よりも。
実感のこめられたその言葉が、私に否定を拒ませる。その言葉が、妙な真実味を私に突き付ける。
「へぇ……まるで自分だけが違うみたいな言い方ね。あんただって『私』なのに」
「ええ、だって私は誰よりも幻想郷を見て、そしてそこでの時間を過ごした『私』だから。私の中の誰よりもね」
私の中の、誰よりも。
その言葉で、ようやく腑に落ちた。
「ああ、あんた……ドッペルゲンガーなのね」
私の推理に、『私』はご名答とでも言いたげに肩を竦めた。
ドッペルゲンガー。私の怪異。私と同じで、そしてどこまでも鏡合わせのような存在。
幻想郷に出現する私は、現の私がそのまま転移しているのではない。幻想郷にいるのは、私の姿をした影、ドッペルゲンガーという存在だ。現の私と記憶と意識が共有されているため幻想郷にいる時にその違いを意識することはあまり無く、自分でも同一の存在なのか異なる存在なのか分からないところも多い。
だが、目の前の『私』を見るに、少なくとも『私』は別物と捉えている。現の私と、ドッペルゲンガーの『私』を、別物として捉えている。
「確かに、あの場所は現に比べたらよほど刺激的かもしれない。妖怪がいて、神様がいて、友達も出来た。超能力だって好きに使える」
けど。そう一息置いてから、『私』は再び話し始める。まるで認めたくない事実、受け入れざるを得なかった事実かのように、淡々と語る。
「この世界は、酷く退屈。ルールで固く縛られた、現と同じかそれ以上の、窮屈な世界。『私』も、本当は薄々気が付いてるんじゃないの?」
「そんなことない!」
激昂。
抑えきれない感情がとうとう溢れ、口から一気に破裂した。手が震え、『私』に突き付けたプリンター銃がかちかちと小さな音を立てる。
「だって、そんな、あの世界が」
しかし、理論的にその言葉を否定しようとしても、それは出来ずに嗚咽じみた言葉しか出てこなかった。
私は、知っている。
確かに、あの世界にはたくさんのルールがある。人は妖怪に怯えながら狭い人里で窮屈に生き、妖怪は無暗矢鱈に人を襲えない。私の嫌いな不文律であの世界は溢れ、そして成り立っている。
あの世界は楽園だ。けど、存在する全てが私の理想だけで構成された世界ではなかった。
「今は私があの世界にとって所詮ゲストの一人に過ぎず、だからこそ楽しませてもらっている。けど、それはいつまで続くの? 私は、いつまで歓迎してもらえるの?」
「みんな、きっと歓迎してくれるわよ。いつまでも」
「かもしれないわね。けど、そうじゃなくなったら。ゲストとして歓迎もされず、やがて居場所もなくなったら。……何にだって限界がある。それは幻想郷での私の限界かもしれないし、幻想郷そのものの限界かもしれない」
口では肯定したが、まるでそれを信じていないかのような言い方だった。
彼女は腕を広げ、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「だから、私は『私』が好きになった」
「……意味分からないんだけど」
幻想郷は理想郷じゃない。いつまでも歓迎されるか分からない。そこからどうして、私を好きだのなんだのという話に繋がるのか。
「ずっと、私は居場所を求めて戦ってきた。オカルトを追い掛け、幻想郷を探し出し、そして私同士で争って」
「まあ、そうね」
「けど、あれだけ私の居場所だと思っていた幻想郷もそうじゃないって知った。それで気付いたのよ。もう、私の居場所は私にしかないって。私こそ、私の居場所なんだって」
私の手が温もりに包まれる。『私』が、プリンター銃を構えていた私の手を握る。手からプリンター銃がぽろりと落ち、プラスチックの弾ける音が響いた。
それにびくりと私の心臓が跳ねた。
「私は、私こそが居場所なの。ずっと探していた居場所が、私」
「……まるで、私があの場所の代替品みたいな言い方ね」
私は皮肉を言った。そうでもしないと、『私』のペースに呑まれてしまいそうだったから。
「そんなことない。ずっと私は戦って、探してきた。私は分かったの。自分こそが、私こそが私の求めていたもの。それが『私』にも、分かるでしょ?」
「……そんなの、分かんない」
「私は、私が好き。それは単なる自惚れでもナルシズムでもない。こうして私と何度も出会って、戦った私だから言えるの」
「……ま、まって」
「『私』は自分に自信がないかもしれない。私だってそうだった。けど、そんなことない。私は、誰よりも強い。私は『私』が好きなの。誰よりも」
「……」
次第に、返す言葉が見つからなくなっていく。『私』の圧に呑み込まれていく。
その顔が近づいてくる。私の顔へと。
私はそれを拒めず、突き放すこともできず、その口がゆっくりと私の口へと迫る。『私』の唇が潤んでいることに場違いにも気付いてしまう。『私』が目を閉じる。
場の空気に流されるまま、私の唇が『私』の唇と触れ……
「人の顔で何やってんのよ!」
聞き覚えのある怒号と同時、顔いっぱいにまで迫っていたはずの『私』が横殴りに吹っ飛ばされた。
代わりに視界に現れたのは、足を突き出し、スカートとマントをなびかせた女性だった。彼女が、私に迫る『私』を横から凄まじい勢いで突っ込んで、そして蹴り飛ばしたのだ。
赤い眼鏡がアクセントの、その顔を私はよく知っている。
「わ、私?」
そこにあったのは、紛れもない私の顔だった。顔も服装も何もかも同じ、私……いや、『私』だった。
「……あ、えっと、夢?」
「普段はここが夢でも、私たちにとっちゃここだって現実でしょ!」
私は目の前で『私』を蹴り飛ばした『私』が夢人格のそれか聞きたかったのだが、『私』は違う意味で受け取ったらしい。だが、『私』が答えたそれは私にとって事実だった。
現も、幻想郷も、そしてこの夢の世界も。私にとっては全てが繋がった世界であり、切り捨てることの出来ない現実なのだから。
そう、切り捨てることなんてできないはずなのだ。
「ほら、さっさと逃げるわよ!」
私の手を『私』が引いたが、私はそれに対応できずつんのめる。苛立った『私』とは対照的に、きっと私の顔は随分と間抜けに呆けていたことだろう。
……逃げるって、何から?
「ああ、じれったい!」
いつまでも足を動かそうとしない私にしびれを切らしたのか、『私』は私を抱き抱えた。私の体を両手で支え、正面で抱き上げるこの体勢。いわゆるお姫様抱っこというやつか。
「わわ……!」
この体勢だと、抱き抱える『私』の顔がすぐそこにあって、思わず情けない声を漏らしてしまう。そこにあるのは自分と同じ、つい先ほどまで見ていた『私』と同じ顔のはずなのに、真っすぐに前を見つめる『私』の顔は、まるで別人みたいだった。
「ちょっと! 何すんのよ!」
後ろから抗議の声が響く。やはりその声は私と同じもので、先ほど『私』が蹴り飛ばした『私』のものだった。逃げながらもどうにかそちらへ首を向ければ、如何にも怒ってますと言わんばかりに手を振り上げ地団太を踏んでいる。
「うっさい! 誰が『私』なんかの言うこと聞くかっての!」
しかし『私』が私を抱えたまま器用に念動力でどこからかESPカードの束を取り出し手裏剣のように投げつけると、『私』は慌てたように念動力の盾を張る。カードは金属のような音を立てるが念動力の盾を破ることはできず、はらはらとカードが地面へと落ちていく。片手間に放った一撃は、牽制以上の意味を成していないように見えた。
「そっちがやる気なら、『私』相手だって容赦しないわよ!」
『私』は懐から青いおもちゃみたいな銃を抜くやいなや、私へと向ける。いや、正確には『私』にか。ぱんぱんと映画で聞くそれと比べれば軽い音が鳴るが、それでもちゃちなガス銃に比べれば遥かに威力の高い弾丸が発射されていることを私は知っている。なぜなら、それは私がついさっきまで持っていたものと同じだから。
弾丸の雨というにはしょぼいが、それでも当たればただでは済まない弾幕がばら撒かれる中、『私』は私を抱えて右へ左へ揺れるようにして飛ぶ。
「わわっ……わゎっ!」
他人に抱きかかえられながら飛ぶというのはこんな気分なのか。自分で飛ぶのとは全然違う感覚に、さっきから私は言葉にならない声しか出す事が出来ない。
「安心して、大丈夫だから」
「大丈夫だからって……」
慌てている私がよほど見るに堪えなかったのか、『私』がなだめてくる。……けど、こっちはいきなり告白されたかと思ったら私を奪って逃げて、これが動じずにいられるわけないじゃない!
そう抗議しようとしたが、私は『私』の一言で黙らせられた。
「私が、守るから」
それを聞いて、私の顔が耳まで赤くなるのが自分でも分かった。
目の前にいるのは私なのに。ただ人間かドッペルゲンガーが夢人格かの違いだけで、中身まで私と同じなのに。そのはずなのに。
それなのに、どうして私の心はこんなにも揺れているのか。
銃声が鳴る中、右へ左へ飛び回る中、それでも私には『私』の顔がはっきりと見えた。まるで時が止まったみたいに、ぶれ一つない彼女の顔だけが私の目に映った。
しばらく弾丸を回避しながら逃げていた『私』だったが、やがて
「ごめん、訂正。私だけで『私』を守り通すのは難しそう」
「え?」
ちらりと首を『私』の後ろへと向ければ、プリンター銃片手に突っ込んでくる『私』がいた。『私』と『私』の距離は時間が経つにつれて狭まっているように感じるが、それも必然だろう。なんせ、『私』が私を抱えているのに対し『私』はその身一つなのだから。『私』はカードを念動力で投げて牽制するが、念動力の盾を展開したまま飛んでくる『私』には大した効果は見られない。
「このままじゃ逃げきれない。跳ぶわよ」
「とぶって……」
今こうして飛んでいるのに?
「飛ぶじゃなくて跳ぶ! テレポートよ!」
よほど間抜けな顔だったのか、唾を飛ばさんばかりの強い口調でそこまで言われて、ああとようやく理解出来た。
そのまま飛んで逃げてはいずれ『私』に捕まる。だからテレポートで空間を跳んで行方を眩ませると。テレポートは人間一人まるごと跳ばすようなことが出来ないから、二人同時に跳んで、そうしてお互い散り散りに逃げれば、『私』の追跡から逃れられると。
……あれ、そういえばどうして私は『私』から逃げてるんだっけ?
「もう逃がさないわよ!」
弾が無くなったのか、『私』はプリンター銃を捨ててさらに速度を増す。まるで一つの弾丸のように真っすぐ突き進むその姿は、たとえ私たちが二人別々に飛んで逃げたとしてもどこまでも追ってきて私を容易く捕まえるのではと思わせてくる。
私と同じように『私』を見ていた『私』も同じ結論に達したのか、小声で言ったその言葉はやや早口になっていた。
「0、で跳ぶわよ。……3、2、1、……」
早いカウント、間近に迫る跳躍の瞬間に、私は先ほど湧いた疑問を処理する時間もなく、テレポートに備え心を少しでも落ち着かせる。
「……0!」
テレポート。
私たちの姿は、夢の世界から消えた。
§
「あいたっ!?」
お尻に衝撃が走り、叫び声が口から飛び出る。
強かに打ち付けたお尻から発される痛みが落ち着くまでしばらく見悶えてから、ようやく私は自分の目に映るものを認識できた。
数多の星が瞬く星空、そしてそんな空を半分ほど遮る木造の
博麗神社、その縁側だ。
私は今、博麗神社の縁側に寝っ転がっていた。どうやら、テレポートで辿り着いた先はドレミ―の作った告白の舞台のどこかではなく幻想郷、それももはやすっかり顔馴染みになった博麗神社らしい。とっさに跳べと言われてろくに転移先もイメージしないままに跳んだからだろうか。いつもは慎重に転移先を決めてから跳ぶからか、こうして世界まで跳び越えてしまうなんてのは初めてだった。
……きれいな夜空。
ぼうと星空を見上げていると、私の視界を遮るものがぬっと現れる。
「何やってるの?」
「……レイムッチ?」
私の顔に影を落としたのは、レイムッチ……もとい、博麗霊夢だった。普段の派手な巫女服とは違う、白い寝間着に身を包み赤い髪飾りもリボンもない彼女を見るのは新鮮で、とっさに彼女だと分からなかった。
彼女は突然の来訪者である私に喜ぶでも怒るでもなく、ただ眠そうなぬぼっとした無表情でこちらを見ていた。
「あ……えっと……」
「まあ、あっちで眠っちゃったんでしょ。布団が欲しかったらいつものところにあるから」
私が何か言うよりも先に、レイムッチはそれだけ言ってすたすたと縁側を歩いていく。冷たい態度にも見えるがそれも仕方がないことだ。なんせ今は夜。普段なら寝ている時間なのに、それを私がいきなり大きな音と共に現れたのだから。ふぁと後ろ姿でも分かるくらい大きな欠伸をするレイムッチを見れば、むしろ小さな罪悪感すら湧いてくる。
私は眠れば幻想郷へ来る。それは夜であろうと例外はなく、こうして真夜中に博麗神社に訪れるのもいつものこと。そんな日はこうして布団を借りてこっちで寝たりすることもあるが、今はそんな気分ではなかった。
レイムッチが障子の奥へと消えていくのを寝っ転がったまま見届けた私は、また空を見上げる。そこには、変わらず星空がそこにあった。周囲は暗く、茂みから微かに聞こえる虫の鳴き声が、一層この場の静寂を引き立てていた。先ほどまで私同士で暴れまわっていたとは到底思えないほど、静かだった。
しばらくじっとその場で空を見上げていたが、二人の『私』が現れる気配はない。レイムッチも障子の奥へと消えた今、この場にいるのは私だけだ。
縁側に寝転がって星空を見上げたまま思うのは、つい先ほど『私』に言われた言葉。
『幻想郷が退屈だってことに』
本当に、私はそう思っているのだろうか。
今ここにいる私の肉体は、幻想郷にこうして存在している以上はドッペルゲンガーのもののはず。しかし、意思と記憶は紛れもない私のものだ。『私』でも、『私』でもない。夢の世界でいきなり『私』に告白されて、そして『私』と一緒に逃げた、私だ。
あいつが言うには、私に告白した『私』は、ドッペルゲンガーだ。そして私は現の私。
なのに、今は私が幻想郷で空を眺めている。
他の誰でもない、私が。
私は目の前の景色へと、意識を向ける。
目の前にあるのは、美しいはずの星空。外で、現では決して見ることの出来なかった、満天の星空。
この景色を見るまで、随分と苦労した。例えこれが偶然が幾重にも重なった結果だとしても、それでもこの景色は他の誰でもない私が掴み取ったものだ。
そのはずなのに。
……私は、幻想郷が退屈だって、本気で思っているの?
……どうして、私はこの美しい光景に心が躍らないの?
§
「また、会えたわね」
そうして、私の目の前には『私』がいた。後ろには、ロープでぐるぐる巻きにされて地面に転がされている『私』の姿も。眠っている……というよりは気を失っているのか目を閉じたまま身動ぎもしない『私』とは対照的に、『私』はまるで何もなかったみたいに笑顔を浮かべている。
どうやら、私は神社であのまま寝てしまい、また夢の世界へと戻って来たらしい。私があそこにいた間、どうやら『私』と『私』は争いを続け、そして『私』が勝った。……言葉にすると自分でもよく分からなくなってくるが、目の前の『私』が私に笑みを浮かべているのであれば、この『私』がついさっき私に告白まがいのことをしたドッペルゲンガーの『私』で、そこに縛られて放置されているのが夢の『私』に違いない。地面にはESPカードやプリンター銃の薬莢といった戦闘の跡らしきものがいくつも転がっている。
「どう? 幻想郷は楽しかった?」
変わらず笑みを浮かべながら『私』が問うてくる。しかしその顔はまるで私が返そうとする答えが既に分かっているかのように、どこか自信に満ちているようにも見える。
「聞かなくたって分かる。つまんなかったって、そんな顔してるわよ」
「……そんなことない」
自分でも、しょぼくれた声だなって思った。『私』もそれが分かったのか、柔らかい笑みへと変わる。
「……だから、私のことを好きって?」
「そう、私は『私』が好き」
頬を赤らめながらも、まっすぐこちらを見て『私』はそう言った。
そして、私は『私』に抱きしめられる。ぎゅっと、背中へと手を廻され、その体を押し付けられる。
きっと私の人生で初めて感じる、誰かに抱き着かれる柔らかい圧迫感。人の体の温かさ。
そこまでされて、しかし私の頭は別のことを考えている。
私が好き。
私は、そんなこと言われるなんて考えたこともなかった。それは単にドッペルゲンガーという自身の半身からという意味だけでなく、誰からも、自分が好かれるだなんて想像できなかった。
人付き合いは悪く、口だって悪い。容姿だってあんまり自信ないし、流行だって分からない。それに……。私が他人から好かれない理由を上げれば暇はないが、即ちそれは私への自信のなさの表れだった。
だからこそ、きっと私は人との関わりを避けていたのかもしれない。人を避け、他人を見下して、拒絶して。
そうして幻想郷を見つけて、そこで楽しい時間を過ごし、時に争った。その結果、連綿と続く過去の私がいて、きっと今の私がいる。それは同時に、目の前の『私』にも、当てはまる。
私は、『私』の肩に手を置く。『私』は私の体へ廻していた手をゆっくりと解き、ゆっくりと私の体から離れていく。そして至近距離で向かい合う。
目の前の『私』は、再び私の答えを待っている。その笑顔は、まるで自分のものとは思えないような、綺麗な顔だった。
だから、私は。
「お断りよ、そんなの」
その顔に吐き捨てるように言ってやった。
断られると思っていなかったのか、『私』のその綺麗な笑顔が貼り付いたように固まり、次いで歪んだ。
言葉を失ったみたいにぱくぱくと口を動かす彼女に変わり、私は言ってやった。
「幻想郷が退屈? だから裏切らない自分が好き? 勝手なこと言ってんじゃないわいわよ。『私』のその勝手な感情に、私を巻き込まないで」
そこでようやく自分が何を言われているのか理解したのか、『私』の顔から笑みが消え、徐々に怒りの色が増していく。
「私は、ずっと逃げてきた。嫌なものから逃げて逃げて、自分が自分でいられる場所を探してきた」
それは、私にとっても、『私』にとっても当てはまる、紛れもない事実。
幻想郷での戦い、都市伝説異変。それは同時に逃避でもあった。現状が受け入れられなくて、ここではない場所を探した。
「そして、やっと見つけたこの世界を、退屈だからって勝手に見限って! いつまで逃げるつもり!?」
うんざりだった。
逃げ続ける私も、現状に文句を垂れる私も。
「私は、私が嫌い」
それが、『私』の想いへの答えだった。
私は、私が好きじゃない。『私』が、嫌い。
だから、私は『私』の想いを受け入れられない。
「私は変わる。変わりたいの。だから、『私』とはいられない」
私は、『私』との離別を、あるいは拒絶を口にした。
私は、私をやめる。私であることを、私を拒絶する。
それが、私の想い。『私』への答え。
「たとえどれだけ『私』が幻想郷を諦めていても。退屈だと思っていても。私にとってあの場所はかけがえのない、私の居場所。私が、そうするの。私の居場所にしてみせる。だって、それがーー」
「そんなの……私だってそうよ!」
激昂。『私』が、私の声を遮って発したそれは、まるで喉から捻りだしたようだった。
「本気で、私があの場所を退屈だって、そう思ってるって信じたの!? 私のくせに!? ずっと見てきたくせに!?」
「は? 何言って……?」
「私だけが、私じゃない。『私』も、『私』も、どっちも私なのに、私だけが私じゃない。私は、ずっと私を見せつけられてきた。そんなのはもううんざり」
頭を抱え、支離滅裂な言葉を繰り返す。その目には涙を浮かべ、明らかに平常じゃない。
それでも、『私』は私を見ていた。そこには、私への明確な敵意があった。
「『私』がどれだけ私のことが嫌いでも、私は私が好き。だから、私は私になりたいの。ずっと私だった『私』には絶対に分からないだろうけど」
とっさに、肩に置いていた手で『私』を突き飛ばす。人並みの力で押された『私』は、よたよたとした動きで体勢を立て直し、こちらを睨み付けてくる。
「だから、『私』を殺してでも奪う。……絡め手なんて面倒臭い。最初からこうしてればよかった」
『私』が身に纏う空気の変化に悪寒を覚え、とっさに足を引くが、それよりも先に『私』が動いた。いや、私には『私』が体を動かすところを目で捉えることは出来なかったが、代わりに足に鋭い痛みが走った。
「つぅっ!?」
痛みに喘ぎ、立っていることが出来ずに盛大な尻餅をつく。投げ出されたその足を見れば、赤い線がいくつも刻まれていた。しばらくして、そこから赤い雫がいくつも滴り落ち、白いソックスを染めていく。
遅れて、この足の傷はESPカードによるものだと気付く。『私』が手を動かさず念動力だけで地面に落ちていたESPカードを操り、私の足へと目掛けて投擲したのだ。
血が流れる足で立ち上がろうとするが、思うように動かない。もしかしたら足の腱が切れたのかもしれない。あるいは、恐怖で足がすくんだのか。
「さあ、くだらない恋愛ごっこは終わり」
『私』がゆっくりと近づいてくる。そこには、前に見た笑顔も甘酸っぱい空気もなく、どこまでも冷たい目が私を見下ろしていた。『私』はその冷酷な目そのままに、私の腹をそのローファーで踏みつけ、プリンター銃を私の額へと向ける。
「最初から、私なんて見てなかったのね」
「その肉体をもらって、私は私になる。……残念、私を受け入れてくれたなら、たまにはその肉体を使わせてあげてもよかったのに」
「肉体って、あんたまさか……!」
「さようなら、そしてようこそ。『私』」
プリンター銃に掛けられた『私』の指が絞られようとしている。私は、念動力で防御することもテレポートで逃げることも思いつかず、ただ『私』の持つそれから弾が発射されるのをただ待ち続けている。
ああ、このまま私は眉間を撃ち抜かれて肉体を奪われるんだな……とどこか他人事みたいな思考が頭を過る。
しかし、そこから弾が発射されることはなく、私の頭がぶち抜かれることも無かった。
「こ……なくそっ!」
『私』が引き金を引くよりも先に、凄まじい勢いで棒状の何かが『私』の横っ腹に食い込み、そのままバットでボールを打つみたいに『私』を薙いだ。『私』が冗談みたいに錐揉み回転しながら宙を舞う。私が地面に倒れていなければ、私もろとも叩かれていたことだろう。
どこかデジャヴを感じる光景の中、『私』がいなくなったその場所に代わりに立っていたのは、地面に縛られていたはずの『私』だった。『私』は、まるで不良が手ごろな鉄パイプでも拾ったみたいに3メートルはあろうかという道路標識を肩に担いでいる。
『私』は、地面に倒れている私を一瞥したのち、視線と足を横へ向ける。そこには、脇腹を抱え地面に横たわる『私』がいた。必死に逃げようとしているのだろうが、脇腹への一撃が骨にまで到達したのか、浅い呼吸混じりで地面をのたうつことしか出来ないでいる。
そんな『私』に向けて、『私』は。
「ふん!」
いっそ勇ましさすら感じさせる息と共に、道路標識を振り下ろす。今度は支柱部分ではなく、通行止めのアイコンが描かれた標識の部分で。普段、道を歩いている時には想像することもないが、標識は大きな一枚の鉄板であり、同時に単なる鈍器で済ませられない凶器となる。そんなものを振り回すことが出来る人間なんて、私くらいだろうけど。
『私』の攻撃は、一度では終わらない。横たわる『私』へ向けて、何度も振り下ろす。振り下ろす度に、まるでコンクリートの地面を殴るような鈍い音が夢の世界に響く。私は、その背中をただ見ていることしか出来なかった。
しばらくして『処理』を終えた『私』がこちらへと向く。惨劇の光景を想像して身構えてしまったが、しかし意外にも彼女の衣服は綺麗で、ぐちゃぐちゃになったであろう『私』の遺体もなかった。ただ、ひび割れた地面とひしゃげた鉄柱があるだけだった。
「ありがとう、助かった。いつから起きてたの?」
「最初から」
私が『私』へとお礼を言うと、『私』は足早にこちらへと近づいて手を差し伸べる。私はその手を掴んで、ようやく立ち上がることが出来た。が、足はまだ思うように動かずよろけて『私』に体を預けてもたれ掛かってしまう。歩くことは難しそうだ。
「ほら、さっさと逃げるわよ」
そんな私が見ていられなかったのか、『私』が私に肩を貸す。『私』だって無傷ではないだろうに、半ば強引に肩を貸されたため断る暇もなかった。……う~む、『私』ながら驚かされるイケメンムーブ。
そして、よたよたと逃げるために歩き出す。逃げる先は私には分からないが、『私』の歩みには迷いがない。どこへ向かえばいいか理解している足だ。
既に敵であった『私』は『私』によって潰され肉体すら残っていないが、復活するのも時間の問題だろう。
なぜなら、あの『私』は夢人格の私なのだから。ドッペルゲンガーなどではなく。
夢人格。
肉体を持たず、現と表裏一体で存在する、夢の世界で生きる存在。
本来ならその存在を現で生きる私たちが認識することはない。
しかし、私は……私たちは別。私がこうして幻想郷を見ることが出来ているのも、夢の世界、そして『私』が関係している……と思う。詳しい原理は私もよく理解できていないが。
そして、現の私、ドッペルゲンガーの私との決定的な違いは、肉体の有無にある。夢人格の私……いや、夢人格は総じて肉体を持ち合わせていない。だからこそ、私の肉体を求めたのだ。
私が好き。私は私になる。『私』はそう言った。
現、ドッペルゲンガー。その二つは意識と記憶を共有した同じ人格だが、夢人格だけが、そこに属していない。『私』だけが、私じゃない。
だから、私の肉体を奪いに来た。この前の悪夢の時みたく強引な策ではなく、腹芸で私を誘惑した。愛の告白みたいなことを言って、幻想郷は退屈だなんて心にも思っていないことを言って、それでも上手くいかなかったから最後は強硬策までとって。
「……そういうことでしょ、『私』?」
「多分ね。ほら、さっさとドレミ―のとこへ行くわよ。早く帰りたいわ」
私の推理を、『私』が端的に肯定する。つまりはまぁ……私同士のしょうもない小競り合いだったということだ。
大方、この『私』もドレミ―か誰かにこの世界まで引っ張ってこられたんだろう。引っ張った張本人はきっと遊び半分だったろうに。それでも律儀に私を助けてくれた。
「……何?」
「いや、なんでもない」
私が『私』の顔を見ているのに気づいたからか、やや訝し気な視線をこちらへ向ける。適当に誤魔化すと、「そう」とだけ言ってまた『私』は前を向いた。
『私』が、私を助けてくれた。
きっと、そこには利害という側面が大きいのだろう。私の肉体が夢人格の『私』と一緒になった時、私に肩を貸す『私』がどうなるか分からないのだから。
にもかかわらず。
私は、どうして心が浮ついているのだろう。
隣の『私』、私を助けてくれた『私』を見ていると、やっぱりどうにも落ち着かない。心臓は鼓動を増し、心は跳ねる。しかしそれは不快なものではなく、私はその感情に身を委ねたいと思えた。
ついさっき、私は私の事が嫌いだと言ったばかりなのに。
まるでそれが本能だと言わんばかりに、私は『私』を求めていた。
ついさっき『私』に迫られた時に感じなかった感情の高ぶりを、今こうして肩を貸すために密着している『私』から感じている。
私は、『私』の事が……好き、なのだろうか。
「本当に?」
いや、違う。
私は分かった。私は変わりたいんだ。
逃げてきた私から。宇佐見菫子ではない存在に。
だから、私は『私』を求めているんだ。他の私じゃない、『私』が欲しいんだ。私に肩を貸してくれている『私』じゃないと、駄目なんだ。
私は、『私』を見るほど湧いてくるその衝動に、身を任せた。
『私』に肩を貸されて歩きながら、私はポケットに手を入れる。
そこには、一枚のESPカードがあった。私の持つ力、超能力の証明であると同時、相手を切り裂く武器でもあるそれを、『私』に気付かれないよう、そっと手に持つ。
手に取ったそれを、私は。
『私』の喉へ、すっと差し込んだ。
肉を裂く、手ごたえを感じた。
いきなりの出来事に驚く『私』の顔が、妙に印象に残った。声を発しようとしているのか口がぱくぱくと動くが、そこからはひゅうひゅうとした音しか聞こえてこない。
……どうして? 何で驚いているの?
だって、そういうものじゃない、私って。
「あ、え……?」
ようやく『私』……いや、私だった彼女はそんな言葉を漏らした。息と共に血が点々と地面に吐き出される。
「……あはっ」
自分の口から、笑い声が漏れる。出すつもりの無かった、それでも堪えられなかった、私の声。
目の前で宇佐見菫子が崩れ落ちる。その光景に、本能が満たされるような恍惚感を覚えた。自分へ、自分じゃない何かが流れ込んでくる。
私は屈んで彼女の顔を覗き込むと、彼女は胡乱な目を私に向けていた。既に抵抗することもできないが、それでもまだ息があるところを見るに、もしかしたら超能力か何かで血管でも繋げているのかもしれない。
今はその方が都合が良かった。最後の言葉を贈ることが出来るから。
「ねぇ、私は誰?」
「……私、じゃ……?」
宇佐見菫子が震える声で返す。私はそれを受けてゆるゆると首を横に振る。
……『私』はまだ分かっていないのね。
「いいえ、私はドッペルゲンガー。宇佐見菫子じゃない」
今日、ずっと私は勘違いをしていた。あるいはそれは、まだ何も分かっていなかった私を夢人格がそう思考を誘導したからかもしれない。
私は、ドッペルゲンガーだ。夢人格でも、現の宇佐見菫子でもない。
そして、ドッペルゲンガーは
ドッペルゲンガーとは、元となる
「私を生んでくれてありがとう、宇佐見菫子さん」
私は、彼女を見下ろす。
そこには、文字通り息も絶え絶えで地面に横たわる彼女がいた。虚ろな目には涙が浮かんでいた。それを見て、私は震えた。彼女が私へと向ける感情が美味しくて、口の中に沸いた涎を呑み込み、唇を舐めて湿らせる。
それはきっと、妖怪としての喜び。人を怖がらせ、怯えさせ、その感情を喰う、喜び。天狗が人を攫うように、唐傘お化けが人を驚かせるように、私はドッペルゲンガーとして主である私を殺す。
自分という存在に牙を剥かれる恐怖というドッペルゲンガーが好む味を、妖怪としての自分が満たされていくこの甘美を目一杯楽しむ。
「そして……さようなら、私」
宇佐見菫子の首を踏みつける。
固いローファーの靴底が、喉に刺さったままだったESPカードを押し込む。
何かが千切れる感覚が、足を伝ってきた。
それで、かつての私だった『私』は、動かなくなった。
これまで味わったことの無い最上級の〝味〟に、体が震える。
私は、
そうして、この日、この瞬間。私は、私でなくなった。
ずっと逃げてきた私、私の影だった私は、もういない。
そこには、一人の妖怪が立っていた。
それが、他の誰でもない、私なのだ。
§
長い石段を登ると、そこには神社があった。
「おーい!」
日の差す博麗神社で、私は手を振る。
視線の先には、レイムッチが箒で境内を掃除している。
彼女が朝方にそうして掃除するのはいつもの日常らしいが、その姿を私が見るのはもしかしたら初めてかもしれない。
なんせ、この時間はいつもなら登校中。授業中に自席で眠ることは出来ても、登校中に歩きながら眠る事なんて流石の私には出来なかった。
けど、今なら。
レイムッチが私に気付いて顔を上げる。彼女は目を見開いて、心なしか驚いているようにも見えた。
今までは、私は現で眠っている間だけしかここにいられなかった。
でも、今は。
私はドッペルゲンガー。一人の妖怪だから。妖怪の楽園たるこの幻想郷にいたって何にもおかしくない存在だから。
私は、この世界の住民なのだから。
「これでずっと、一緒にいられるね!」
自己愛を語る描写がとても好きでした。