[Side:M]
シャカシャカシャカシャカ……。
酒瓶が一面に並んだ壁をバックに、金髪の女性が如才なくシェイカーを振っている。間接照明の落ち着いた店内で、女性の立つ場所だけはスポットライトが当てられていた。
装飾や建築様式のすべてが日常と違う洋風のもの。光るほど磨かれた大きな一枚板のカウンターには、何に使うのか分からないけれどお洒落なアイテムが並んでいる。
そんな非日常の中、幼い私はラウンジチェアから立ち上がり、女性の一挙手一投足を食い入るように見つめていた。
シャカ……。キュッ……。
シェイカーを振る腕が止まると一拍置いてその蓋が開けられ、綺麗な逆三角形のグラスへ中身が注がれていく。
トクッ……トクッ……。
山吹色の液体がゆっくりとグラスを満たしていくのに呼応して、私の鼓動も早くなっていく。そして、もう少しでこぼれそうというところでぴったり、シェイカーは空になった。
『どうぞ、小さなシンデレラさん』
カウンターの上を滑るように目の前に押し出されたそれは、紛れもなく魔法の霊薬。興奮に震える手を押さえるようにしてグラスの脚をつまみ、恐る恐る口元に近づける。啜るようにして口に含んだ霊薬の味は想像より甘くそれでいて酸っぱい、思い描いていた大人の味。もっと、と二口目を口にしようとしたとき、横から父の腕が伸びてきてグラスを追いやった。
『大人なら、ちゃんと座って飲みなさい』
返事をする前に私は抱き上げられ、チェアに深く座らされる。きょとんとした私の前にそっと差し出されるグラス。それを両手で大事に受け取ると、父はわしゃわしゃと頭を撫でてきた。乱雑だけど嫌じゃないその感触に思わず笑顔になる。
二口目はまるで盃を煽るように仰々しく。お酒って美味しいね、と口に出す私に女性はあらあらと微笑んで、種明かし。
『実はね、それにお酒は入っていないの。お酒入りのはもっと大人になってから、ね』
そんなのずるい、と抗議する私。大人の仲間入りができると思っていたのに騙された気分だ。問い詰めようと父を振り向くと、また頭を撫でられて思わず口をつぐんでしまう。負けまいとキッと睨みつけた先には私と同じ色の瞳があって、
『十五の誕生日に、また来ような』
じっと見つめながら優しい声色でそう言われた。
ぐっと言葉に詰まる。やっぱり大人はずるい。そんな風に言われたら、もう何も言い返せない。約束だからね、と不承不承小指を差し出し、指切りを交わす。
『誕生日おめでとう、―――』
・・・
我ながら重症だな、と私はベッドの中で寝返りを打った。魔法に手を出さなければ今も変わらず笑顔が向けられていたのだろうか。無知で裕福なお姫様のまま。
「やめだやめだ!」
寝起きの無防備な心の隙間に入り込もうとする後悔を、声を出すことで追い払いつつベッドから起き上がる。
カーテンを閉め切っているにも関わらず部屋の中は薄っすらと明るい。窓辺に近づくと空気が熱を帯びており、布を隔てた向こう側の陽射しの強さが感じられる。梅雨の谷間の狂い晴れといったところか。えいや、と思い切りカーテンを開け放つと真っ白な日光が目を焼いた。その上には真っ青な空と森の緑。
眩しさに思わず閉じた瞼をゆっくりと開きながら、自然と気分が高揚するのを感じていた。
今日は私の、十五歳の誕生日だ。
十五歳というのは幻想郷では大きな意味がある。男女問わず一人前として認められ、生きることに責任が伴うようになるのだ。参加していないが、元日には当年に十五歳を迎える者を集めた式典もある。仕事に成果が求められるようになり、親方衆の指導も厳しくなる一方で、借金や男女の付き合いも認められ、そして何より、大手を振って酒が飲めるようになる。
私にとってそんなルールは無用に思うかもしれない。実際、博麗神社に紅魔館、守矢神社に白玉楼と、宴会のたびに盃を煽っているのが常だ。だがそれは人里の外の話。人里の中では、そして何より、胸中で燻る後悔の残滓を洗い流すには、ルールに則ったやり方が必要なのだ。
とはいえ、そんな女々しさは普段の私には似合わない。これは魔法を知らない女の子の話であり、魔法を知った私の話ではない。だから、これからのことは誰にも知られてはいけないのだ。
枕元の時計は午後三時半を示している。徹夜で自問自答と準備を続けた結果、変な時間に目覚めてしまったようだ。だけど今日に限っては好都合、目的の店は夜からだ。
よし、と自分に一声かけると、壁にかけた藍色の小袖(着物)を手に取った。瑠璃色の帯のそれは、普段なら着ることのないものだ。誰も私とは気づくまい。袖を通すと新品特有の糊の感覚が心地よく、改めて気が引き締まった。
続けて鏡台に座り、髪にブラシをかける。ゆっくりと、
手癖で三つ編みにしそうなところをポニーテールにまとめると、毛束を捩じってシニョンを作った。昨夜、リハーサルで悪戦苦闘した経験は無駄ではなかったみたい。仕上げに星飾りのかんざしを着け、前髪を少し落として完成だ。
姿見に全身を移すと、見慣れない女性がそこにいた。自分でも分かる違和感に不思議と笑いがこみあげるが、これなら完璧だ。最後に慣れない足袋と草履を履いて外に出る。
いつもの箒も和服では跨がれない。横向きに腰かけ、視認阻害の魔法を念入りに重ね掛け。さあいよいよだ。目指すは人里。セットした髪が崩れないよう、いつもよりゆっくりと飛び立った。
今宵の私はリサ、魔法を知らない女の子だ。
・・・
人気のない路地裏に降り立ち、箒を縁の下に隠す。魔法を解除し、一呼吸おいて表通りに出た。本当にバレやしないか、おっかなびっくりで歩き始めるが誰も気にした様子はなく、一安心。慣れない足元に新鮮さを感じつつ、背筋を伸ばした。
目的の店は飲み屋街のはずれにあるバー、エイトクラウド。人里には珍しい西洋風の建築は、あの頃の私には切り取られた別世界のように映っていた。重厚な玄関扉は一人では開けられない重さだったっけ。
経営者はその名の通り八雲紫。『西洋妖怪が息抜きできる場所を』という陳情に好奇心をくすぐられてしまった結果だといつしか八雲藍がぼやいていた。紫が店に立つのは気まぐれで、主に取り仕切っているのは彼女とのことだ。その割に短くない年月続いているのは、その気まぐれなり、藍の生真面目な応対なりに華があるからだろう。落ち着いた瀟洒な雰囲気は若衆の喧騒が飛び交う居酒屋とはまるで違うのだ。
飲み屋街が近づいてきた。ここには子供が一人で立ち入ることを禁じる暗黙の了解があり、一度かくれんぼの拍子に入った時にはこっぴどく怒られたものだ。習わしともいえる結界の力は存外に強く、人里を離れた以降も今日までなぜか立ち寄ることは出来なかった。私も人の子、誕生日の持つ魔力には勝てなかったといえるのだろうか。
角を曲がればいよいよ大人の世界。ちりちりと鳥肌が立つのを感じる。異変や拝借の時に覚える、他人の領分に飛び込むときの不安と高揚混じりの武者震い。あと一歩のところで止まって深呼吸し、気持ち大きめに踏み出した。
黄昏時を迎えたばかりで往来はまばら。ぽつぽつとある赤提灯に火を入れる姿が見える。道の端では小鳥が残飯をつつき、時折炭火の香りが鼻をくすぐる。二度往復すれば飽きるだろう、凡庸な風景。でもそれを大人が必死になって守っていたと思うと滑稽で、自然と足取りも軽くなった。何事も一期一会。今日だけの新鮮さなら楽しまなきゃ損だ。
一区画先にエイトクラウドの看板が見えた。途端に記憶が蘇る。さっきの夢はやはり現実だ。あの金髪の女性は紫か藍か。いずれにしても最高のもてなしをしてくれるだろう。
ファーストオーダーは決めている。生まれ年のシャンパンにフルーツを付けてもらうのだ。フルーツはイチゴがいい。果物の甘酸っぱさが加わってとても美味だとレミリアが自慢げに語っていた。ご丁寧に紅魔の図書館から本まで持ってきて。あの時以来気になっていた味は今日にこそふさわしい。
その後は、カクテルにしよう。私のイメージで作られるカクテルだ。早苗が持ってきた外の世界の小説に出てきた素敵なシーン。どんなのが出てくるのだろう。綺麗な色だったら嬉しい。
気付けばエイトクラウドは目の前だった。記憶通りの重たげな扉が威圧感を醸し出している。でも躊躇はしない。雲のような意匠のハンドルを掴むと一気に引く。
そして、ドアは開かなかった。
あれ? 重たくて開けられなかったのは昔の話だ。もう一度力を入れて引いてみるが、それでも開かない。ではと押してみてもガタガタと鍵が音を立てるばかり。この時間にはオープンしているはずなのにどうしてか。焦りながらノックをしても返事はなかった。
もしや店休日。だとしたら道化が過ぎる。嫌な想像を振り払うように再度ノックをしたときだった。
「ちょっとうるさいよ」
隣の店のドアが開き、緑髪の少女が不満げに顔を出す。頭頂部から突き出た二本の触角。リグル・ナイトバグだった。
「本店は開店前です……って魔理沙じゃん、なにしてんの?」
知った顔が出てきたことと、正体を看破されたことでうまく頭が回らず、まじまじと見つめる形で固まってしまった。
「あ、この服はバイト。似合いそうだからって声かけられたんだ。っていうか拉致られた」
勘違いしたリグルが聞いてもいないのに状況を説明してくる。
「いや、私は魔理沙じゃなくて」
「何言ってんの、私が匂いを間違えるわけないでしょ」
「だから、私はリサで、魔理沙じゃないの」
「はあ?」
蟲の妖怪は格別にハナが利く。ごまかせなくても押し切るしかないと三回ばかり問答を繰り返したところで相手が折れた。
「わかった、わかったわ。あんたはリサで、魔理沙の友達ね」
納得していない様子だが、一先ずよしとする。
「えっとね、エイトクラウドは会員制なの。会員証が無いと中に入れないわ」
「え」
「お客が増えて嫌になったからって言ってたな。それで隣に新しくお店を作って私が任されてる。客は誰彼構わずよ」
話の後半は聞こえていなかった。待ってよ、ここまできて門前払いなんて全く笑えない。
「エイトクラウドにはどうやっても入れないの?」
「んー、魔理沙なら入れると思うけど……。魔理沙の友達ってだけだと難しいかなあ」
食い下がったところで意趣返しをくらい、万事休す。悔しくて思わず歯を食いしばる。
「とりあえずウチに入る? しばらくしたら紫さんも出てくる……かもしれないし」
見かねたリグルが出した助け舟。正直気乗りしないが、そうも言っていられない。一旦仕切り直しだ。
「分かった、そうする」
「はーい、それじゃ一名様ご案内っと」
エイトクラウドの扉とは対照的な、華奢でありふれたデザインのドア。風情なく軋む音に気乗りしないまま、私は初めてのバー・ファーストステップへ足を踏み入れた。
・・・
入ったところは八席ばかりのカウンター、その奥は少し開けていて四人掛けのテーブルが二脚。それがファーストステップのすべてだった。うなぎの寝床という表現がぴったりはまる、こじんまりとした雰囲気。照明は店主に合わせたのか蛍火のようなグロウライト。夢の中のエイトクラウドにはかなわないが、それなりに良い雰囲気だった。
一番奥のカウンターチェアを引き、腰かける。座面にクッションはなく、長居は腰に悪そうだ。座って一息つくと水とおしぼりが出てきた。どちらも冷えていて、蒸し暑い中歩いて来た身に染みわたる。
「その水、おいしい?」
グラスを指さすリグル。言われてみれば普段の水より飲み心地が良いようにも感じる。そう伝えると、ぱあっと笑みが広がった。
「やった! 私も蛍だからさ、水にはこだわってるんだよね。分かってくれるお客は少ないんだけどさ」
正直期待していなかったが、仮にも紫の口利きだし意外と真面目な店なのかもしれない。少し思惑が狂ったが、いつ出てくる紫を待つよりも建設的に思える。
「それで、何にする?」
逡巡したが物は試しでぶつかってみることにした。
「十五年物のシャンパンってある?」
「いや、ないけど」
間髪を入れない即答。沈黙が流れ、リグルが気まずそうにそれを破った。
「えっとね魔理沙、じゃなくてリサ? シャンパンって飲んだことある?」
「リサでいいよ。ないけど、バーなら置いてるんじゃないの?」
「シャンパンはとても高いのでウチにはございません……」
困った顔でリグルが告げる。ハッとして見回せば、カウンターの中の壁に並んでいる酒瓶の半分近くは河童印のどぶろくや天狗マークの焼酎で、洋酒主体のお洒落な光景とは程遠かった。
「気付いたかもしれないけど、こっちは大衆向けなの。それに、年数指定までしたシャンパンなんて普通は飛び込みで用意できないよ」
噛んで含めるような口調に顔がカッと赤くなる。相手があのリグルだというのが恥ずかしさに拍車をかける。
「じゃ、じゃあカクテルを作ってよ! 私のイメージで!」
「は」
ぽかんと口を開けた表情で固まったリグルは、次の瞬間、堰を切ったように笑い出した。
「あっははは! 私のイメージって、あはは! そんな注文初めて聞いたよ」
ひぃひぃとカウンターに突っ伏して笑うリグル。これも間違いだったのだろうか、顔の熱さはもう分からないくらいだ。
「あー可笑しい、リサって意外に乙女だったんだね」
そう言ってなおも笑うリグルに、段々と別の感情が湧き上がる。勇気を出して色々準備したというのに、この嘲笑。むかっ腹が立ってきた。
「なによ、結局あんたじゃ何もできないじゃない。カクテル一つも作れないの?」
言ったところでリグルの笑いが止まった。こちらを見る目に苛立ちが浮かんでいる。
「お酒を語るくらいしてみたらどうなのよ? 水だけが自慢なんて山の河童のほうがまだマシよ」
「いいわ、やってやろうじゃない」
流石にプライドを傷つけたようで、そう言うが早いかリグルはオレンジと緑の洋酒瓶をカウンターに並べ、綺麗な手際でシェイカーに放り込んでいく。呆気にとられる私をよそに、シャカシャカと振られたシェイカーから足の長いグラスに琥珀色のカクテルが注がれた。
「まだよ」
伸ばしかけた私の手を制止し、リグルが何か取り出す。広口瓶から金のスプーンに掬い取ったのは蜂蜜のようだ。それを小皿に載せると、グラスと一緒にこちらに突き出した。
「オリジナルカクテル”人生”よ。一息で楽しんで」
ドクン、と胸が高鳴る。作法は分からないが、一気に口に含めばいいのだろう。不安定なグラスを恐る恐る持ち上げる。一気に傾け、啜りこむ。初めてのカクテル、ときめき弾ける瞬間。
だが、口中に弾けたのは苦味と熱だった。煎じ慣れた魔法薬の臭い。好き好んで口にはしない不快臭が口内鼻腔を蹂躙し、飲み込めない。そうかと閃いて蜂蜜を舐めようとしたとき、それはリグルにかすめ取られた。
「ん~、やっぱり幽香さんとこの蜂蜜は絶品ね」
驚いてむせると、アルコールが気管を焼いた。痛みに咳が止まらない。噴き出さないように口を押えて悶絶する。ちくしょう、騙された。
「正直、カクテルの話とか言われても興味無いわ。だってあれ、全部私が生まれた後の話なんだもの。どこぞの子供が好きな酒でしたって言われて何か響くものがある?」
反射的に出た涙とは別の涙がこみあがってくる。もう認める。私はなんだかんだで今日を楽しみにしていたんだ。なのに、どうしてこんな目にあわなきゃいけないのか。
「結局歴史が浅い、そういう風にしか見えないのよ」
しかも相手が相手。いつかの異変でボコボコにしたこいつなんかに。
だめだ、泣いちゃだめ、魔理沙は泣かない。
でも、今は?
思った瞬間、決壊した。
・・・
涙と共に思い出が走馬燈のように溢れてきた。
霧雨道具店の前で転んで泣いている私。店内を掃除してほめられている私。エイトクラウドに連れられてきてご満悦な私。
そして、勘当された私。
今日の私の原動力は弱さだった。
・・・
コトン。
傍にグラスが置かれる音で我に返った。どれくらい泣いていたのだろう。入口のガラス越しに見える通りはすっかり暗くなっている。
グラスには水が注がれており、一口飲んでやっと落ち着いた。情けなくて恥ずかしくて、逃げ出したくてたまらない。
その時だった。小気味良くシェイカーを振る音が聞こえてきて、思わず正面を向き直った。
「さっきはごめんなさい。知り合いと間違えてしまったの。お詫びに受け取ってもらえるかしら」
言いながら出てきたカクテルは、オレンジ色だった。
「シンデレラ。ノンアルコールのカクテル。お口直しになればいいけど」
一口含んで分かる。あの時、エイトクラウドで飲んだ味だ。でも、どこかが違う。
「下手っぴ。紫のはもっと爽やかだった」
そう言って中身の残ったグラスをぶっきらぼうに突き返す。
「分かったわ。じゃあこっちはどうかしら」
別のシェイカーが出てきて、また手際よく材料が放り込まれていく。程なくしてまたもオレンジ色のカクテルが現れた。若干前のものより色味が薄く、濁りがある。口内に滑らせると酸味と爽やかさは前のものより弱かったが、味に深みがあった。酒としての纏まりはいいが、シンデレラとしては悪くなっている。
「やっぱり下手ね。もっとダメになってる」
こちらも突き返すと、勢い余ってこぼれた雫が手の甲とカウンターを濡らした。最悪だ。うつむいて、おしぼりで手を拭う。リグルは黙ってそれを見ていた。ねばつくような空気。もう帰ってしまおうか。そう思って立ち上がりかけたときだった。
「実はね、最初のシンデレラのレシピは紫さんのと同じなの」
一つ目のグラスを指さしてリグルが口を開いた。
「シンデレラはシェイクするだけだから、同じジュースで作れば誰がやっても殆ど味は変わらない」
そこでリグルがこちらを見た。緑の瞳がやけに大きく感じる。
「だからね、味が違うのはあなたの味覚が変わったってこと」
あ、と声が漏れる。
「シンデレラの三分の一はレモンジュース。飲み物全体の中でも酸っぱいほうね。でもそんな酸っぱさだからこそ、アルコールの特別感に似た感じを出せるんだと思う。特に味覚が鋭い子供には、ね」
続いてリグルは二つ目のグラスを指さした。
「そっちのはシンデレラのレモンジュースを少しレモンリキュールにしたもの。名前は無いけど……そうね、ミセスシンデレラなんてどうかしら」
大人になったシンデレラは昔の家には戻れない。
リグルがそこまで考えているはずもないだろうけど、まるで自分のことを見透かされたようで言葉に詰まる。
「もっとレモンを入れれば思い出の味に近づけることもできるけど、それはやらなくていいかな?」
小さく、けれどしっかりと首肯し、一つ目のグラスをもう一度手に取った。澄んだ山吹色を一気に含み、咀嚼するように口全体で味わう。酸っぱくて、甘くて、ちょっとだけ懐かしい。
飲み干した余韻はアルコールとはまた違った浮遊感。その心地良さのまま席を立ち、リグルを振り向いた。
「もちろんお代はいりません。今日は本当にごめんなさい。……でも、よかったらまた来てね」
下げた頭の上で、触角が何かを代弁するように揺れていた。
・・・
ドアを開けるとあちらこちらの店に灯がともっていた。今からが本当の大人の時間。
でも、未練はなかった。
まだまだ成長はこれからだ。また今度、片意地を張らずにありのままで訪れて、ありのままで楽しもう。
夜風が通りを涼やかに駆け抜けていく。
それに乗せて一言、ごちそうさまと呟いた。
[Side:W]
魔理沙を送り出した私はドアに背をもたれてへたり込んだ。思わず大きな溜息が漏れる。危なかった、ギリギリ助かった。
魔理沙といえば霊夢とねんごろの間柄。それを泣かせたとなれば命に係わる。子熊に手を出せば母熊に殺されるのは自然の道理だ。そもそも今日の魔理沙は最初からおかしかった。バレバレの変装で別人と言い張るし、そんなのをからかうのが間違っていたのだ。
とはいえ、間一髪切り抜けたのも事実。魔理沙が泣いている間に必死に調べた甲斐があった。カクテルのレシピ本、シンデレラのところに付箋が貼ってあるのを見つけたときは九死に一生を得た気分だった。紫さんのサインと”魔理沙の飲み代は天引きね”という文言は癪だったが、背に腹は代えられない。
とっさに作ったミセスシンデレラも上手くいった。魔理沙は美味いと言っていたし、今度からメニューに入れておこう。
しかしながら、恐るべきはバーと酒の魔力。それっぽいことを言っていたらあの魔理沙が満足して帰っていった。半ば無理やり始めさせられたバイトだったが、経験は無駄ではなかったようだ。こんな時にだけ成長を感じるのも複雑だが、素直に喜んでおこう。
「いやー、私もやるじゃん」
そう言った瞬間ドアが急に開かれ、背中の支えを失った私は通りに仰向けに投げ出された。
「ご機嫌だなリグル。誰が”やる”って?」
眼前には見知った顔に黒の帽子。見送ったばかりの魔理沙がそこにいた。
「は? え、魔理沙? 今帰ったはずじゃ」
「おかしいなあリグル。今日は初対面だろ」
声色は殺意で研いだように澄んでいる。全身が総毛立ち、本能が逃げろと告げてくる。無視して飛び出そうとした瞬間、襟首を掴まれて壁に押し付けられた。
「ところで、だ。私の友達にリサってのがいるんだけど、さっき面白い話を聞かされてね」
首が絞まって苦しむ私を無視して魔理沙が続ける。
「この店でとんでもなく不味いカクテルを飲まされて泣かされたんだと。挙句店主はそれを笑ってた、と」
「あは……は……。勘違いじゃないかなあ」
「リサは嘘をつかないんだよ、誰かと違ってね」
「ほ、ほら! エイトクラウドも開店してるしさ、一緒に飲もうよ! 今日は奢りでいいから! ね!」
命乞いも聞いちゃいない。目が据わってる。これはもうだめだ。逃げなきゃ、今すぐ。
「謝ったじゃん! ばか!」
「けじめはつけないといけないよなあ?」
突き出された八角形の魔道具。キュインとエネルギーが集まる気配。全力で飛び上がった私の背後から、殺意が束でやってきた。
「恋符、マスタースパーク!!」
お酒と煽りは楽しく、ほどほどに。
[Side:?]
『――――!!』
黄色い声に続いて、強風が吹きつけたような衝撃がエイトクラウドのドアを震わせた。カウンターの男性客がハッと扉を見やる一方、バーテンダーは素知らぬ顔でグラスを拭いている。まだ宵の入り時、店内はふたりだけだ。
「まったく最近のおなごはお転婆が過ぎる。なあ紫さん?」
身体の向きを戻しながら、どこか寂し気に客が問いかける。
「いつの時代も親の心子知らず。逆もまた然り、ですわ」
大賢者の言葉には諭すような調子があった。
「それも……そうだな」
しばしの沈黙の後、客がグラスを煽った。薄まったウィスキーのロックを一息に飲み込むと、残った丸氷をじっと眺めながらゆっくりとカウンターに置く。
「次は何にいたしましょう? 霧雨の旦那様」
客はすぐには答えない。一度大きく息を吐き、笑うなよとの前置きの後、上ずった声で一言。
「シンデレラをやってくれ」
【 了 】
シャカシャカシャカシャカ……。
酒瓶が一面に並んだ壁をバックに、金髪の女性が如才なくシェイカーを振っている。間接照明の落ち着いた店内で、女性の立つ場所だけはスポットライトが当てられていた。
装飾や建築様式のすべてが日常と違う洋風のもの。光るほど磨かれた大きな一枚板のカウンターには、何に使うのか分からないけれどお洒落なアイテムが並んでいる。
そんな非日常の中、幼い私はラウンジチェアから立ち上がり、女性の一挙手一投足を食い入るように見つめていた。
シャカ……。キュッ……。
シェイカーを振る腕が止まると一拍置いてその蓋が開けられ、綺麗な逆三角形のグラスへ中身が注がれていく。
トクッ……トクッ……。
山吹色の液体がゆっくりとグラスを満たしていくのに呼応して、私の鼓動も早くなっていく。そして、もう少しでこぼれそうというところでぴったり、シェイカーは空になった。
『どうぞ、小さなシンデレラさん』
カウンターの上を滑るように目の前に押し出されたそれは、紛れもなく魔法の霊薬。興奮に震える手を押さえるようにしてグラスの脚をつまみ、恐る恐る口元に近づける。啜るようにして口に含んだ霊薬の味は想像より甘くそれでいて酸っぱい、思い描いていた大人の味。もっと、と二口目を口にしようとしたとき、横から父の腕が伸びてきてグラスを追いやった。
『大人なら、ちゃんと座って飲みなさい』
返事をする前に私は抱き上げられ、チェアに深く座らされる。きょとんとした私の前にそっと差し出されるグラス。それを両手で大事に受け取ると、父はわしゃわしゃと頭を撫でてきた。乱雑だけど嫌じゃないその感触に思わず笑顔になる。
二口目はまるで盃を煽るように仰々しく。お酒って美味しいね、と口に出す私に女性はあらあらと微笑んで、種明かし。
『実はね、それにお酒は入っていないの。お酒入りのはもっと大人になってから、ね』
そんなのずるい、と抗議する私。大人の仲間入りができると思っていたのに騙された気分だ。問い詰めようと父を振り向くと、また頭を撫でられて思わず口をつぐんでしまう。負けまいとキッと睨みつけた先には私と同じ色の瞳があって、
『十五の誕生日に、また来ような』
じっと見つめながら優しい声色でそう言われた。
ぐっと言葉に詰まる。やっぱり大人はずるい。そんな風に言われたら、もう何も言い返せない。約束だからね、と不承不承小指を差し出し、指切りを交わす。
『誕生日おめでとう、―――』
・・・
我ながら重症だな、と私はベッドの中で寝返りを打った。魔法に手を出さなければ今も変わらず笑顔が向けられていたのだろうか。無知で裕福なお姫様のまま。
「やめだやめだ!」
寝起きの無防備な心の隙間に入り込もうとする後悔を、声を出すことで追い払いつつベッドから起き上がる。
カーテンを閉め切っているにも関わらず部屋の中は薄っすらと明るい。窓辺に近づくと空気が熱を帯びており、布を隔てた向こう側の陽射しの強さが感じられる。梅雨の谷間の狂い晴れといったところか。えいや、と思い切りカーテンを開け放つと真っ白な日光が目を焼いた。その上には真っ青な空と森の緑。
眩しさに思わず閉じた瞼をゆっくりと開きながら、自然と気分が高揚するのを感じていた。
今日は私の、十五歳の誕生日だ。
十五歳というのは幻想郷では大きな意味がある。男女問わず一人前として認められ、生きることに責任が伴うようになるのだ。参加していないが、元日には当年に十五歳を迎える者を集めた式典もある。仕事に成果が求められるようになり、親方衆の指導も厳しくなる一方で、借金や男女の付き合いも認められ、そして何より、大手を振って酒が飲めるようになる。
私にとってそんなルールは無用に思うかもしれない。実際、博麗神社に紅魔館、守矢神社に白玉楼と、宴会のたびに盃を煽っているのが常だ。だがそれは人里の外の話。人里の中では、そして何より、胸中で燻る後悔の残滓を洗い流すには、ルールに則ったやり方が必要なのだ。
とはいえ、そんな女々しさは普段の私には似合わない。これは魔法を知らない女の子の話であり、魔法を知った私の話ではない。だから、これからのことは誰にも知られてはいけないのだ。
枕元の時計は午後三時半を示している。徹夜で自問自答と準備を続けた結果、変な時間に目覚めてしまったようだ。だけど今日に限っては好都合、目的の店は夜からだ。
よし、と自分に一声かけると、壁にかけた藍色の小袖(着物)を手に取った。瑠璃色の帯のそれは、普段なら着ることのないものだ。誰も私とは気づくまい。袖を通すと新品特有の糊の感覚が心地よく、改めて気が引き締まった。
続けて鏡台に座り、髪にブラシをかける。ゆっくりと、
手癖で三つ編みにしそうなところをポニーテールにまとめると、毛束を捩じってシニョンを作った。昨夜、リハーサルで悪戦苦闘した経験は無駄ではなかったみたい。仕上げに星飾りのかんざしを着け、前髪を少し落として完成だ。
姿見に全身を移すと、見慣れない女性がそこにいた。自分でも分かる違和感に不思議と笑いがこみあげるが、これなら完璧だ。最後に慣れない足袋と草履を履いて外に出る。
いつもの箒も和服では跨がれない。横向きに腰かけ、視認阻害の魔法を念入りに重ね掛け。さあいよいよだ。目指すは人里。セットした髪が崩れないよう、いつもよりゆっくりと飛び立った。
今宵の私はリサ、魔法を知らない女の子だ。
・・・
人気のない路地裏に降り立ち、箒を縁の下に隠す。魔法を解除し、一呼吸おいて表通りに出た。本当にバレやしないか、おっかなびっくりで歩き始めるが誰も気にした様子はなく、一安心。慣れない足元に新鮮さを感じつつ、背筋を伸ばした。
目的の店は飲み屋街のはずれにあるバー、エイトクラウド。人里には珍しい西洋風の建築は、あの頃の私には切り取られた別世界のように映っていた。重厚な玄関扉は一人では開けられない重さだったっけ。
経営者はその名の通り八雲紫。『西洋妖怪が息抜きできる場所を』という陳情に好奇心をくすぐられてしまった結果だといつしか八雲藍がぼやいていた。紫が店に立つのは気まぐれで、主に取り仕切っているのは彼女とのことだ。その割に短くない年月続いているのは、その気まぐれなり、藍の生真面目な応対なりに華があるからだろう。落ち着いた瀟洒な雰囲気は若衆の喧騒が飛び交う居酒屋とはまるで違うのだ。
飲み屋街が近づいてきた。ここには子供が一人で立ち入ることを禁じる暗黙の了解があり、一度かくれんぼの拍子に入った時にはこっぴどく怒られたものだ。習わしともいえる結界の力は存外に強く、人里を離れた以降も今日までなぜか立ち寄ることは出来なかった。私も人の子、誕生日の持つ魔力には勝てなかったといえるのだろうか。
角を曲がればいよいよ大人の世界。ちりちりと鳥肌が立つのを感じる。異変や拝借の時に覚える、他人の領分に飛び込むときの不安と高揚混じりの武者震い。あと一歩のところで止まって深呼吸し、気持ち大きめに踏み出した。
黄昏時を迎えたばかりで往来はまばら。ぽつぽつとある赤提灯に火を入れる姿が見える。道の端では小鳥が残飯をつつき、時折炭火の香りが鼻をくすぐる。二度往復すれば飽きるだろう、凡庸な風景。でもそれを大人が必死になって守っていたと思うと滑稽で、自然と足取りも軽くなった。何事も一期一会。今日だけの新鮮さなら楽しまなきゃ損だ。
一区画先にエイトクラウドの看板が見えた。途端に記憶が蘇る。さっきの夢はやはり現実だ。あの金髪の女性は紫か藍か。いずれにしても最高のもてなしをしてくれるだろう。
ファーストオーダーは決めている。生まれ年のシャンパンにフルーツを付けてもらうのだ。フルーツはイチゴがいい。果物の甘酸っぱさが加わってとても美味だとレミリアが自慢げに語っていた。ご丁寧に紅魔の図書館から本まで持ってきて。あの時以来気になっていた味は今日にこそふさわしい。
その後は、カクテルにしよう。私のイメージで作られるカクテルだ。早苗が持ってきた外の世界の小説に出てきた素敵なシーン。どんなのが出てくるのだろう。綺麗な色だったら嬉しい。
気付けばエイトクラウドは目の前だった。記憶通りの重たげな扉が威圧感を醸し出している。でも躊躇はしない。雲のような意匠のハンドルを掴むと一気に引く。
そして、ドアは開かなかった。
あれ? 重たくて開けられなかったのは昔の話だ。もう一度力を入れて引いてみるが、それでも開かない。ではと押してみてもガタガタと鍵が音を立てるばかり。この時間にはオープンしているはずなのにどうしてか。焦りながらノックをしても返事はなかった。
もしや店休日。だとしたら道化が過ぎる。嫌な想像を振り払うように再度ノックをしたときだった。
「ちょっとうるさいよ」
隣の店のドアが開き、緑髪の少女が不満げに顔を出す。頭頂部から突き出た二本の触角。リグル・ナイトバグだった。
「本店は開店前です……って魔理沙じゃん、なにしてんの?」
知った顔が出てきたことと、正体を看破されたことでうまく頭が回らず、まじまじと見つめる形で固まってしまった。
「あ、この服はバイト。似合いそうだからって声かけられたんだ。っていうか拉致られた」
勘違いしたリグルが聞いてもいないのに状況を説明してくる。
「いや、私は魔理沙じゃなくて」
「何言ってんの、私が匂いを間違えるわけないでしょ」
「だから、私はリサで、魔理沙じゃないの」
「はあ?」
蟲の妖怪は格別にハナが利く。ごまかせなくても押し切るしかないと三回ばかり問答を繰り返したところで相手が折れた。
「わかった、わかったわ。あんたはリサで、魔理沙の友達ね」
納得していない様子だが、一先ずよしとする。
「えっとね、エイトクラウドは会員制なの。会員証が無いと中に入れないわ」
「え」
「お客が増えて嫌になったからって言ってたな。それで隣に新しくお店を作って私が任されてる。客は誰彼構わずよ」
話の後半は聞こえていなかった。待ってよ、ここまできて門前払いなんて全く笑えない。
「エイトクラウドにはどうやっても入れないの?」
「んー、魔理沙なら入れると思うけど……。魔理沙の友達ってだけだと難しいかなあ」
食い下がったところで意趣返しをくらい、万事休す。悔しくて思わず歯を食いしばる。
「とりあえずウチに入る? しばらくしたら紫さんも出てくる……かもしれないし」
見かねたリグルが出した助け舟。正直気乗りしないが、そうも言っていられない。一旦仕切り直しだ。
「分かった、そうする」
「はーい、それじゃ一名様ご案内っと」
エイトクラウドの扉とは対照的な、華奢でありふれたデザインのドア。風情なく軋む音に気乗りしないまま、私は初めてのバー・ファーストステップへ足を踏み入れた。
・・・
入ったところは八席ばかりのカウンター、その奥は少し開けていて四人掛けのテーブルが二脚。それがファーストステップのすべてだった。うなぎの寝床という表現がぴったりはまる、こじんまりとした雰囲気。照明は店主に合わせたのか蛍火のようなグロウライト。夢の中のエイトクラウドにはかなわないが、それなりに良い雰囲気だった。
一番奥のカウンターチェアを引き、腰かける。座面にクッションはなく、長居は腰に悪そうだ。座って一息つくと水とおしぼりが出てきた。どちらも冷えていて、蒸し暑い中歩いて来た身に染みわたる。
「その水、おいしい?」
グラスを指さすリグル。言われてみれば普段の水より飲み心地が良いようにも感じる。そう伝えると、ぱあっと笑みが広がった。
「やった! 私も蛍だからさ、水にはこだわってるんだよね。分かってくれるお客は少ないんだけどさ」
正直期待していなかったが、仮にも紫の口利きだし意外と真面目な店なのかもしれない。少し思惑が狂ったが、いつ出てくる紫を待つよりも建設的に思える。
「それで、何にする?」
逡巡したが物は試しでぶつかってみることにした。
「十五年物のシャンパンってある?」
「いや、ないけど」
間髪を入れない即答。沈黙が流れ、リグルが気まずそうにそれを破った。
「えっとね魔理沙、じゃなくてリサ? シャンパンって飲んだことある?」
「リサでいいよ。ないけど、バーなら置いてるんじゃないの?」
「シャンパンはとても高いのでウチにはございません……」
困った顔でリグルが告げる。ハッとして見回せば、カウンターの中の壁に並んでいる酒瓶の半分近くは河童印のどぶろくや天狗マークの焼酎で、洋酒主体のお洒落な光景とは程遠かった。
「気付いたかもしれないけど、こっちは大衆向けなの。それに、年数指定までしたシャンパンなんて普通は飛び込みで用意できないよ」
噛んで含めるような口調に顔がカッと赤くなる。相手があのリグルだというのが恥ずかしさに拍車をかける。
「じゃ、じゃあカクテルを作ってよ! 私のイメージで!」
「は」
ぽかんと口を開けた表情で固まったリグルは、次の瞬間、堰を切ったように笑い出した。
「あっははは! 私のイメージって、あはは! そんな注文初めて聞いたよ」
ひぃひぃとカウンターに突っ伏して笑うリグル。これも間違いだったのだろうか、顔の熱さはもう分からないくらいだ。
「あー可笑しい、リサって意外に乙女だったんだね」
そう言ってなおも笑うリグルに、段々と別の感情が湧き上がる。勇気を出して色々準備したというのに、この嘲笑。むかっ腹が立ってきた。
「なによ、結局あんたじゃ何もできないじゃない。カクテル一つも作れないの?」
言ったところでリグルの笑いが止まった。こちらを見る目に苛立ちが浮かんでいる。
「お酒を語るくらいしてみたらどうなのよ? 水だけが自慢なんて山の河童のほうがまだマシよ」
「いいわ、やってやろうじゃない」
流石にプライドを傷つけたようで、そう言うが早いかリグルはオレンジと緑の洋酒瓶をカウンターに並べ、綺麗な手際でシェイカーに放り込んでいく。呆気にとられる私をよそに、シャカシャカと振られたシェイカーから足の長いグラスに琥珀色のカクテルが注がれた。
「まだよ」
伸ばしかけた私の手を制止し、リグルが何か取り出す。広口瓶から金のスプーンに掬い取ったのは蜂蜜のようだ。それを小皿に載せると、グラスと一緒にこちらに突き出した。
「オリジナルカクテル”人生”よ。一息で楽しんで」
ドクン、と胸が高鳴る。作法は分からないが、一気に口に含めばいいのだろう。不安定なグラスを恐る恐る持ち上げる。一気に傾け、啜りこむ。初めてのカクテル、ときめき弾ける瞬間。
だが、口中に弾けたのは苦味と熱だった。煎じ慣れた魔法薬の臭い。好き好んで口にはしない不快臭が口内鼻腔を蹂躙し、飲み込めない。そうかと閃いて蜂蜜を舐めようとしたとき、それはリグルにかすめ取られた。
「ん~、やっぱり幽香さんとこの蜂蜜は絶品ね」
驚いてむせると、アルコールが気管を焼いた。痛みに咳が止まらない。噴き出さないように口を押えて悶絶する。ちくしょう、騙された。
「正直、カクテルの話とか言われても興味無いわ。だってあれ、全部私が生まれた後の話なんだもの。どこぞの子供が好きな酒でしたって言われて何か響くものがある?」
反射的に出た涙とは別の涙がこみあがってくる。もう認める。私はなんだかんだで今日を楽しみにしていたんだ。なのに、どうしてこんな目にあわなきゃいけないのか。
「結局歴史が浅い、そういう風にしか見えないのよ」
しかも相手が相手。いつかの異変でボコボコにしたこいつなんかに。
だめだ、泣いちゃだめ、魔理沙は泣かない。
でも、今は?
思った瞬間、決壊した。
・・・
涙と共に思い出が走馬燈のように溢れてきた。
霧雨道具店の前で転んで泣いている私。店内を掃除してほめられている私。エイトクラウドに連れられてきてご満悦な私。
そして、勘当された私。
今日の私の原動力は弱さだった。
・・・
コトン。
傍にグラスが置かれる音で我に返った。どれくらい泣いていたのだろう。入口のガラス越しに見える通りはすっかり暗くなっている。
グラスには水が注がれており、一口飲んでやっと落ち着いた。情けなくて恥ずかしくて、逃げ出したくてたまらない。
その時だった。小気味良くシェイカーを振る音が聞こえてきて、思わず正面を向き直った。
「さっきはごめんなさい。知り合いと間違えてしまったの。お詫びに受け取ってもらえるかしら」
言いながら出てきたカクテルは、オレンジ色だった。
「シンデレラ。ノンアルコールのカクテル。お口直しになればいいけど」
一口含んで分かる。あの時、エイトクラウドで飲んだ味だ。でも、どこかが違う。
「下手っぴ。紫のはもっと爽やかだった」
そう言って中身の残ったグラスをぶっきらぼうに突き返す。
「分かったわ。じゃあこっちはどうかしら」
別のシェイカーが出てきて、また手際よく材料が放り込まれていく。程なくしてまたもオレンジ色のカクテルが現れた。若干前のものより色味が薄く、濁りがある。口内に滑らせると酸味と爽やかさは前のものより弱かったが、味に深みがあった。酒としての纏まりはいいが、シンデレラとしては悪くなっている。
「やっぱり下手ね。もっとダメになってる」
こちらも突き返すと、勢い余ってこぼれた雫が手の甲とカウンターを濡らした。最悪だ。うつむいて、おしぼりで手を拭う。リグルは黙ってそれを見ていた。ねばつくような空気。もう帰ってしまおうか。そう思って立ち上がりかけたときだった。
「実はね、最初のシンデレラのレシピは紫さんのと同じなの」
一つ目のグラスを指さしてリグルが口を開いた。
「シンデレラはシェイクするだけだから、同じジュースで作れば誰がやっても殆ど味は変わらない」
そこでリグルがこちらを見た。緑の瞳がやけに大きく感じる。
「だからね、味が違うのはあなたの味覚が変わったってこと」
あ、と声が漏れる。
「シンデレラの三分の一はレモンジュース。飲み物全体の中でも酸っぱいほうね。でもそんな酸っぱさだからこそ、アルコールの特別感に似た感じを出せるんだと思う。特に味覚が鋭い子供には、ね」
続いてリグルは二つ目のグラスを指さした。
「そっちのはシンデレラのレモンジュースを少しレモンリキュールにしたもの。名前は無いけど……そうね、ミセスシンデレラなんてどうかしら」
大人になったシンデレラは昔の家には戻れない。
リグルがそこまで考えているはずもないだろうけど、まるで自分のことを見透かされたようで言葉に詰まる。
「もっとレモンを入れれば思い出の味に近づけることもできるけど、それはやらなくていいかな?」
小さく、けれどしっかりと首肯し、一つ目のグラスをもう一度手に取った。澄んだ山吹色を一気に含み、咀嚼するように口全体で味わう。酸っぱくて、甘くて、ちょっとだけ懐かしい。
飲み干した余韻はアルコールとはまた違った浮遊感。その心地良さのまま席を立ち、リグルを振り向いた。
「もちろんお代はいりません。今日は本当にごめんなさい。……でも、よかったらまた来てね」
下げた頭の上で、触角が何かを代弁するように揺れていた。
・・・
ドアを開けるとあちらこちらの店に灯がともっていた。今からが本当の大人の時間。
でも、未練はなかった。
まだまだ成長はこれからだ。また今度、片意地を張らずにありのままで訪れて、ありのままで楽しもう。
夜風が通りを涼やかに駆け抜けていく。
それに乗せて一言、ごちそうさまと呟いた。
[Side:W]
魔理沙を送り出した私はドアに背をもたれてへたり込んだ。思わず大きな溜息が漏れる。危なかった、ギリギリ助かった。
魔理沙といえば霊夢とねんごろの間柄。それを泣かせたとなれば命に係わる。子熊に手を出せば母熊に殺されるのは自然の道理だ。そもそも今日の魔理沙は最初からおかしかった。バレバレの変装で別人と言い張るし、そんなのをからかうのが間違っていたのだ。
とはいえ、間一髪切り抜けたのも事実。魔理沙が泣いている間に必死に調べた甲斐があった。カクテルのレシピ本、シンデレラのところに付箋が貼ってあるのを見つけたときは九死に一生を得た気分だった。紫さんのサインと”魔理沙の飲み代は天引きね”という文言は癪だったが、背に腹は代えられない。
とっさに作ったミセスシンデレラも上手くいった。魔理沙は美味いと言っていたし、今度からメニューに入れておこう。
しかしながら、恐るべきはバーと酒の魔力。それっぽいことを言っていたらあの魔理沙が満足して帰っていった。半ば無理やり始めさせられたバイトだったが、経験は無駄ではなかったようだ。こんな時にだけ成長を感じるのも複雑だが、素直に喜んでおこう。
「いやー、私もやるじゃん」
そう言った瞬間ドアが急に開かれ、背中の支えを失った私は通りに仰向けに投げ出された。
「ご機嫌だなリグル。誰が”やる”って?」
眼前には見知った顔に黒の帽子。見送ったばかりの魔理沙がそこにいた。
「は? え、魔理沙? 今帰ったはずじゃ」
「おかしいなあリグル。今日は初対面だろ」
声色は殺意で研いだように澄んでいる。全身が総毛立ち、本能が逃げろと告げてくる。無視して飛び出そうとした瞬間、襟首を掴まれて壁に押し付けられた。
「ところで、だ。私の友達にリサってのがいるんだけど、さっき面白い話を聞かされてね」
首が絞まって苦しむ私を無視して魔理沙が続ける。
「この店でとんでもなく不味いカクテルを飲まされて泣かされたんだと。挙句店主はそれを笑ってた、と」
「あは……は……。勘違いじゃないかなあ」
「リサは嘘をつかないんだよ、誰かと違ってね」
「ほ、ほら! エイトクラウドも開店してるしさ、一緒に飲もうよ! 今日は奢りでいいから! ね!」
命乞いも聞いちゃいない。目が据わってる。これはもうだめだ。逃げなきゃ、今すぐ。
「謝ったじゃん! ばか!」
「けじめはつけないといけないよなあ?」
突き出された八角形の魔道具。キュインとエネルギーが集まる気配。全力で飛び上がった私の背後から、殺意が束でやってきた。
「恋符、マスタースパーク!!」
お酒と煽りは楽しく、ほどほどに。
[Side:?]
『――――!!』
黄色い声に続いて、強風が吹きつけたような衝撃がエイトクラウドのドアを震わせた。カウンターの男性客がハッと扉を見やる一方、バーテンダーは素知らぬ顔でグラスを拭いている。まだ宵の入り時、店内はふたりだけだ。
「まったく最近のおなごはお転婆が過ぎる。なあ紫さん?」
身体の向きを戻しながら、どこか寂し気に客が問いかける。
「いつの時代も親の心子知らず。逆もまた然り、ですわ」
大賢者の言葉には諭すような調子があった。
「それも……そうだな」
しばしの沈黙の後、客がグラスを煽った。薄まったウィスキーのロックを一息に飲み込むと、残った丸氷をじっと眺めながらゆっくりとカウンターに置く。
「次は何にいたしましょう? 霧雨の旦那様」
客はすぐには答えない。一度大きく息を吐き、笑うなよとの前置きの後、上ずった声で一言。
「シンデレラをやってくれ」
【 了 】
良い作品を読ませていただきました。ありがとうございました!
魔理沙がかわいそうでしたが、案外吹っ切れたみたいでよかったです
このちょっと恥ずかしい思い出も、いつか親父さんと語り合える日が来るでしょうか。独り立ちしたつもりでも、親はいつまでも子を見守っているものなのかも知れません。