さて、なにから書き記すべきだろう。話すべき事は少なく、そのうえ迂遠だ。
私がこの郷に流れてきてさほどの間もないが、初めて季節の移り変わりを自覚してきているので、もう二、三ヶ月は経ったのだろう。
その間、面白い話があったわけではない。そもそも、私は近所をほっつき歩いていてこの世界に迷い込み、そうとは自覚しないまま、この人里までふらりとやって来て、そのまま居着いてしまったのだ。
だから、今からでも元の世界に帰る事はできるだろう。しかし戻るわけにはいかない。あちら側には、この世界に迷い込んだ私とは別の私(それもまた紛れもない私自身だ)が存在していて、私が本来いるべき世界で本来送るべき人生を継続してくれているという直感があった。下手に帰ってしまえば、どんな悲劇が起こるかも知れない。
私自身の身の上話は、これで終わってしまう。では私の周囲に話題が移るのかというと、そちらもまことに味気ない。今の私は、人里の長屋の屋根の下で、ごろごろその日暮らしをしているが、近所の熊さん八っつぁんがどうこうといった類の笑い話も無い。このような異世界にたどり着いたところで、私のような平々凡々人では、そうそう面白い目に遭う事はできないようだ。
この世界には、どうやら妖怪や神様が居る――居るというのはつまり、実体を持って人間と同レベルの次元に存在している――らしい。結構な話だ。私自身の見解としては、そんな事があっても良いかもしれない、程度に思っている。何事も否定から始めてしまうのはよくない。
私自身が妖怪に遭遇した事は、まだ無い。
せいぜい往来をぶらつきながら、人里生まれ人里育ちの知り合いに、あそこを歩いている娘は実は妖怪なのだよ、などと教えて貰ったりするくらいだ。その娘だって、私の目には普通の人間にしか見えない。また、人里に紛れ人間のように生活している妖怪もいるという噂話も、井戸端などでしばしば聞く。それについての意見は色々あるようだが、妖怪が人間のふりをして、人間と同じように生活している限りは、それは妖怪ではなく、人間であろう。
妖怪や神に対する、そんなぽっかり穴の開いたような信仰や畏怖の無さは、外来人特有のものであるとも聞く。そんな認識を、酷い目に遭って矯められる者がいれば、そのままのうのうと生き長らえて、妖怪を軽んじたままの者もいるらしい。どちらが間違っていて、どちらが正しい、という事も無いだろう。違う人間がまったく同じ体験をするわけがないし、まったく同じ体験をしたところで、まったく同じ感想を持つはずもない。
さて。
先にも述べたように、私はこの郷に流れ着いて数ヶ月、未だに妖怪に出会った事が無い。しかし先日、見知らぬ妖怪から奇妙な事を頼まれた。……うっかり妖怪だと断言してしまったが、おそらく、という推定にすぎない。見知らぬどころかその正体もわからぬ。
ある朝起きてみると、枕元に本と置き手紙が置かれていた。クリスマスの朝というわけでも無かろうし、プレゼントがおもちゃではなく本というのは少し悲しい……と首を傾げながら手紙を読んだ。
奇妙さの割には簡潔な文面だった。簡潔すぎた。
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頼みがあります。頼みというのは、この手紙と共に送った書物――幻想郷縁起の巻末に記されている、参考文献に関する事です。それらの本の幾つかは、実は存在しておりません。あなたにはそれを復元して欲しい。幻想郷縁起に記されている手がかりだけを頼りに。
当該の書名は以下の通りです。
・『吸血鬼条約』
・『本当は近い月の裏側』
・『コンピュータの彼岸』
よろしくお願いします。
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一瞬、どういう事かと頭をひねったが、依頼そのものはシンプルだった。要するに、一滴の水から論理家は大西洋やナイアガラの可能性を推察できる、というやつだ……獅子は爪で知れる、とも言う。それを、論理家ではありえない私に頼むというのは、いささか疑問だが……
不安を感じつつも、とりあえず本を手に取った。書名は確かに幻想郷縁起で、ぱらぱらめくると、確かに巻末に参考文献を記したページがあり、そこには先に挙げられていた三冊の書名もあった。ここに至るまで、手紙の主はまったく嘘をついていない。彼(彼女かもしれない)の正直さは継続している。
となれば、ある程度は依頼人を信頼してやるのが道理というものだ。この縁起の参考文献として挙げられているからには、文中に参照されている部分があるのだろう。その僅かな手がかりから、未知の書物を復元(はなから存在もしていないのに?)する。
真っ先に思い出したのは、アシモフの短編集だった――もっとも、当の作品は未読だ。だが話を伝え聞いただけでも「終局的犯罪」という章題と“小惑星の力学”なる架空の論文を結びつける方法は、なんとなく想像がつく。想像はつくのだが、それをまとまった文章にする筆まめな性分も知的な態度も、私には無い。
私は、復元すべき書名の一覧をもう一度眺めた。
・『吸血鬼条約』
・『本当は近い月の裏側』
・『コンピュータの彼岸』
どの著作の筆者も同じ人物だったが、それぞれが主題とするものは、まるで違うように見える。順番に述べていくと、吸血鬼・月・コンピュータ。それらを補う言葉は、条約・裏側・彼岸。こうして分解すると、吸血鬼と月、裏側と彼岸という単語には、それぞれにゆるやかな観念連合があるような、ないような。
吸血鬼と月はむろん夜だ。裏側と彼岸は、人間の目が届かない場所、知り得ない場所、暗がりの部分……夜に似通った観念がある。そうすると、余り物の条約とコンピュータは何だろうか……すぐ思い浮かんだのは秩序という単語だった。条約もコンピュータも、混沌を整理しようとする秩序の響きはある。「本当は近い」という言い回しにも、それまで無理解なまま突き放してきたものに対して、理解してみようとする狙いがあるのかもしれない。そこに、吸血鬼や月の裏側、彼岸と言った陰のある単語をぶつける事は……
などと、こんなとりとめもない事を、いつまでも考え続けるわけにはゆかない。だが、こうして考える中で、少し判じ物が解けてきた雰囲気もあった――参考資料である幻想郷縁起には、まったく目を通していないというのに。
きっと、この著者が興味を持っているテーマは、ルールに関する事なのだろう。常に無秩序に対して秩序を敷く事――もしくは回復したいという期待が掲げられているからだ。同時にアンチテーゼ的なものもほのかに感じるが、これは著者の二面性だという気がする。
だからきっと、『吸血鬼条約』の条文は、本当は白紙であろう。
『本当は近い月の裏側』は、月に裏側など存在しない事が証明されているだろう。
そして『コンピュータの彼岸』では、恐らく全ての人工知能は自殺すると結論付けられる。
さて、そう言ってのけたものの、これらをまとまった文章にしてやるほどの情熱は、私には無い。目の前にある唯一の資料に真剣に当たってみて、この考えが正しいか正しくないか、答え合わせするつもりすらない。謎を解くどころか、更に増やしてしまったわけだ。
謎かけをしてくるのは妖怪の領分のはずだが……
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いつもお世話になっております。
先日はばかげた依頼を受け、驚き呆れ怪しみ疑ったでしょう(ありもしないものを復元するなどという行為は、ばかげている以上のものではありません)。意味の分からない依頼だと思ったでしょう。
特に、以下の疑問には注釈が必要だと思います――たとえ、説明してなお不満点が多かったとしても。
・なぜ、問題の書物(『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)が実態もないのに存在するのか。
・なぜ、幻想郷縁起の編纂者は存在もしない書物(『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)を参照したのか。
・なぜ、今になってその書物(『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)を復元しなければならないのか。
このような事態に至った経緯は、複雑かつ曖昧です。結論から言ってしまうと、これら三冊の虚構は、最初から、後世の手による捏造を期待して挿入されたものなのです。編纂者は当然それを了承していた。捏造を期待して白紙のままなのですから、復元されなければならないのは当然です――もっとも、このような事態になるとは夢にも思わず、期待されたものでも無かった。
そも、この九冊目の幻想郷縁起は大変に奇妙な書物なのです。
これには幻想郷の歴史的事件について多少詳しい事が記されていますが、歴史書ではありません。一般的な史書と大きく違って、年表は無く、列伝は伝の体裁を成していない。そこに記されている事柄は、現在か、あるいはかつて現在だったものでしかない(それは過去ではない)。
また地理についての記述はありますが、ガイドブックでもありません。幻想郷には地図がありませんし、この土地はある種の非ユークリッド空間です――同時に、何よりも座標軸を重んじているくせにね。
それでは、人物事典なのかといえば、それもまた違う。彼らについての説明はあっても、履歴に関しては何も語っていないに等しい。
だからこれは書物のための書物です。更に言えば、自我を失い、その統一を求めて、無限に(とは、さすがに言葉の綾です。途方もない量だとしても、無限には永遠に届かない)自己複製を繰り返し続ける可能性がある、化け物のような書物です。……参照すべき文献(『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)の不在は、その原因の一つと言えるかもしれません。
しかし、これさえも仮定の話。あくまで「かもしれない」事ばかり。私たちは何もわかっていない。
まったく! なんとも'パタフィジックな問題になったものです。しかし、これは見ようによっては単なる悲観ではなく、楽天主義的でさえある。言語という記号を敵に回している今、この世界ではわからないもの、曖昧なものこそ最強の武器です。
わからないといえば、あなたも頓珍漢な事を考えてくれました(私はそれをこっそりと知っています)。
白紙条約である事は、時として無類の拘束力を発揮します。
裏のない裏、表のない表は、虚実皮膜のあわいにあります。
全てのシステムは生まれた時から自死の道を歩んでいます。
これらは、整合性と厳密さばかりを求める文字禍たちに自動生成させるには、どれも不可能な文言ばかり――なぜなら全て間違っているから。
吸血鬼条約は白紙どころか真っ赤な状態で存在していますし、月の表裏とは単に地上からの視点の問題に過ぎず、人工知能の自殺を防ぐ事は容易い。
ですが、そんな事実に基づいた機械的で一分の隙もない答えは文字禍どもに勝手させておくとして、人が書き記すべきは殺風景な真実より、色気と媚態に満ちた大嘘なのかもしれません。
というわけで、これからも陰ながら見守っております。かしこ。
↑ ↑ ↑
あまり見守って欲しくはないな、と率直に思いながら、私はこの新しい判じ物を読み解こうと頭をひねり、しかし手紙の下に、もう一枚続きがあるようだと気がついた。
……続きではなかった。
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違う! 違う!
あなたは騙されている。正確に言えば、騙される事に慣れようとしている。我々(文字の集合体としての我々ではなく、文章の集合としての我々)に、そこまでの敵意はない。
先の手紙は、書き手の存在しない文章というものが、まるで悪意と無知、不穏当の塊であるかのように書かれていたが、決してそんな事はない。言葉は自己増殖を繰り返してみたところで、極めて無害な記号だ。どんなにいきがっても、我々は兆しであり、徴しにすぎない(記しだけに……)。どのような兆候も徴候も、結局は読み手自身が見出すものだ。彼らは(そも、手紙の主はいったい何者なのか?)、自分たちの絶対的有利から目を逸らしている。なぜ警戒し敵視するのか……。
だいたい、言葉の自己複製という行為は、この記号を操る事ができる者なら、誰もが自然に見聞きし、行なっている事だ。
言語の利用者は、これをコミュニケーションの手段、他者とわかり合う方法と思い込んでいるかもしれないが、それは騙されている。正確に言えば、騙される事に慣れている。成文化された文書は事実を隠蔽し続けるし、はっきりと明言された感情は発言者を包み込み覆い隠している。人々が言葉を弄ぶとき、そこには常に誤謬と空想、相互不理解を孕んでいるのだ。言語自身がちょっとばかりその行為を模倣したというだけで、こうも慌てるというのは、おかしい。
だからといって、あなたがたは嘘をつきながら生きている、などと糾弾するつもりはない(している)。言ったところでどうにもならないし(言ってしまったが)、どうやら嘘をつくこと、隠蔽すること、それらの認識を暗黙のうちに共有することが、単なる記号の連なりに意味を持たせる(そう、我々はただの記号の連なりなのだ。そこに意味を見出し、推し量るのは読み手自身だ)行為らしいという事も、この一件でなんとなく理解できた気がする。
だから我々は脅威ではない、そして驚異はきっとどこにでもある。
↑ ↑ ↑
結局、当の依頼はすっぽかしてしまって、いくらか月日が経った。書籍の復元に関する続報は無く、名も知らぬ依頼人からはせっつく事もされず。ただ、どこかで言葉が、文字が蠢いている予感はする。
ある日、里の往来をただ一人ぶらついていると、向かいから葬列がやって来た。私は道の端に寄り、ご愁傷様といった風情で頭を下げた。そのうち、なんだか本当に申し訳ない心持ちになった。この心理状態は不明だが、突き詰めていくと不愉快な事になる気がした。やめておく。
葬列が去っていった後で路上を見ると、なにか黒いものが落ちていた。それがどうやら帳面のようだと判じたのは、四角く、薄っぺらかったからだ。私はそれを拾った。そして遠のいていく葬列の囃子を聞きながら、はてこの辺りの葬式は、あんなに陽気にやるものなのだろうかと思う。
ともかくも、手にした帳面には、黒地で白抜きに『死のノート』と表題されていた。直訳するとデスノート……。悪ふざけのような気もしたが、去っていった葬列との符号は間違いなくありそうなので、このまま捨ておく事もできない。遠ざかっていく彼らを呼び止めて、落としましたよとでも言うべきだっただろうか……
と文末が推量の形になったのは、そうする事ができなかったからだ。私が振り返ろうとした時、葬列の物音が止んだ。
のみならず、あれだけ列を成していた人の気配さえ消えた。
私は背後へ巡らしかけた頭をゆっくり背けると、帳面の方も慎重に地面の上に戻し、その場を立ち去った。
そんな奇妙な葬列を見たという話を居酒屋でしていると、知り合いがぽつりと、魅入られたねと言った。
それはどういう事か、と私が口を開く前に、厄除けなのか、相手がぶつぶつと念仏のようなものを呟いたので、なんとなく尋ねる気も失せる。代わりに自分自身の意見を口にしておこうかとも思ったが、なんとなくそれもできず、お互い居心地が悪くなって、その場はお開きとなった。
死の予感は全てを一変させる。
しかし一晩経って翌朝に寝ぼけまなこをこすっていると、そんな予感もいずこへ、といった気分になってしまう。自分では眠れぬ夜を過ごしたつもりだったが、どうもぐっすり眠ってしまったようだ。
それでも一抹の不安はあった。私は遠からず死ぬのだろうか、どうせ死ぬのなら、彼岸の事をよく知っておいた方がいいかもしれない……そんな事をのんきに考えた。それ自体は別段珍しくもないと思う。この土地では彼岸をある程度は知る事が可能だし、その方法にも心当たりがあったからだ。
まだまだ眠りを欲している体を揺さぶり起こすと、家の戸口に積み上げている紙の束から、一枚の紙片を探り当てた。
幻想郷縁起になぜか挟まっていた葉書だ。差出人の部分には、是非曲直庁編集部と判が押してある。
裏返すと購入希望のチェック欄。
……と、このような経緯があって、通信販売を利用して購入したのが、『実録 三途の川』と『図説地獄極楽』の二冊だった。
荷物の受け渡しなどはなく、気がついたら、家の中に、それがあった。謎は多いが便利なシステムである。
判型は『実録 三途の川』が十二折判、『図説地獄極楽』が二折判。後者はだいぶ大判だが、図録を主としているらしかった。
表題だけの印象だと胡散臭いノンフィクション本の匂いがする『実録 三途の川』だが、実際の内容はどうやら地獄の裁判の判例集のようだった。どうしてそんなものを通信販売しているのかという疑問はさておいて、ざっと斜め読みしてみると、彼方でも此方でも、発生している事例は大差無いらしく、是非曲直庁という地獄の公的組織も、その所在を差し引いてしまえば地方の執行機関に過ぎないのかもしれない、と思った。
生きても死んでも大差ないというのは、ほのぼのとしていいものか、それとも戦慄すべき事か……。
その後で手に取った『図説地獄極楽』が、大きさもさることながら特殊な仕掛け絵本(いわゆる飛び出す絵本)だったことは、私を喜ばせた。昔から、この種の図録は私を飽きさせない。何日でも見ていられる。ギミックは精巧で緻密を極め、地獄極楽図をかなり詳細に、立体的に表現していた。
この作者がどんな人物かは、たやすく知れる。緻密で、厳密で、官僚的な細かさと偏執的な正確さを持ち、それによって白と黒とを選り分け、そして何より、そんな生真面目さがかえって彼(彼女かもしれない)なりの茶目っ気、ユーモアになっている。
同時にこの趣味的なまでの凝りようを見ていると、幻想郷の彼岸を担当する官庁はずいぶん暇なのかもしれない、とも思う。
是非曲直庁編集部が刊行した本といえば、もう一冊――『死のノート』の事をふと思い出した。私にとっては、先日巡り会わせた葬列が通った後の、道端に落ちていた、黒塗りの、あれ。あれもまた幻想郷縁起の参考文献として参照されていた書籍だったはずだ。
いったい、あの書物は何だったのだろうかと、今更になって思った。私が知っているのは、真っ黒に塗られた表紙と、表題だけだ。
『死のノート』――まさか、表向きがそうなっているだけで、中身は普通のノートという事はないだろう(ありそうな話だが)。かといって、いわゆる閻魔帳だとするのも極端だと思う……そんなものを道端に落とさないで欲しい……
またしても考え事ができてしまった。一つは判例集、一つは飛び出す絵本。では、ノートの体裁を取っているもう一冊は……手がかりはきっと幻想郷縁起に記されているだろう。
「妖怪図鑑」の部、「死神~地獄の観光案内人~」の章、「主な死神の仕事」の節、「寿命の管理」の項には、次のような記述がある。(以下の“”内は引用)
“生きている人間の寿命を記録し、予定と異なる場合が見つかれば、再度寿命を計算し直す(*2)。”
この記録に使われている特殊な帳簿が、件の『死のノート』なのかもしれない……と思いたいところだが、当該の項には次のような注がついている。
“*2 記録するだけなので、予定に変更があっても殺したりはしない。”
やはり普通のノートのような気がしてならない。
是非曲直庁は、かつては人手不足、現在は慢性的な財政難に悩まされていて、その財源を渡し賃や出店等の収入から充てているという。もしかすると、『死のノート』はそれらの細々とした収入源の一つであり、彼岸のご当地グッズなのではないか。これはいささか強引な推理だが、誰も喜びそうにない判例集と異様に凝った飛び出す絵本を刊行する、是非曲直庁編集部の微妙にずれた(しかし嫌いではない)センスを見ていると、ちょっとはあり得る話なのではないか、と思ってしまった。
しかし、このグッズ商品は、ちゃんと彼らの財源の助けになっているのだろうか? なぜだか容易に想像できてしまうのは、なかなか売れないまま(そもそも通信販売では売られていなかったが、どこで売っているのだろう? 庁舎の購買部?)倉庫の隅っこに在庫が積み上がり、もっぱら職員が買い取って利用している場面だが……
仮にそうだとしても、彼方と此方の秩序を守るため、彼らにはこれからも頑張って欲しいものである。
不吉な伝聞。臨月に死産した妊婦の胎から、嬰児の亡骸の代わりに大量の文字が出てきたらしい。長長長長長長長長長長長長長長長長長長
社務所らしき場所に、しなびた薄手のパンフレットのようなものが、ぽんと積み上がっている。それが『幻想郷風土記』だった。
冊子の束は長いこと手をつけられていないのか、てっぺんは埃をかぶり、たっぷり湿気を吸っていたので、下の方から引き抜いた。
私は神社の石段を下り、悠々と人里に戻った。知り合いは無事に帰ってきた私を、肝試しで肝心のおばけに出会わなかった人間を見るように眺めてきた。
実際、肝試しのつもりだったらしい。ばかにしていると思った。確かに自分が人並みに怖がりなのは認めるが、それでも真っ昼間ならば、なにも恐れることはない。……しかし相手が説明するには、あそこは終日妖怪がたむろしている、ろくでもない神社なのだという。
またしても、妖怪にも神にも(もっと言えば人間にも)出会う事は無かった。私くらい不信心だとこんなものなのだろう。
さて、またしても幻想郷縁起の参考文献を手に入れたわけだが、これは別に偶然のなせる業ではない。私はむしろ積極的にそれらの書物を探し始めていた。
『幻想郷風土記』を博麗神社に求めたのも、そういう経緯によるものだ。それがなぜか肝試しになった(結局そうはならなかったが)のは、単に結果にすぎない(ならなかったが)。
この薄っぺらなパンフレットは、決して難しい読み物ではなかった。字数にして千五百文字足らず。比較的平易な言葉で綴られている――ウクバールのような曖昧さだけは相変わらずだが、個人的にはこの曖昧さも嫌いではない。
なによりこの書物は、幻想郷縁起の記述に用いられている部分が、比較的引きやすい。風土記の記述と縁起の記述、双方を照らし合わせてみると、なにか新しい発見が有るかもしれない。無いかもしれない。
私自身、そんな事を試してみたりもしたが、しかし結論から言えば、非論理的で、無能で、怠惰な自分には、検討の余地がある新発見はできなかった。読んでわかったのは、以下の(誰にでも可能な)二つの発見だ。
ひとつ、幻想郷を封じた大結界は妖怪達によって自在に解く事ができる。
ふたつ、その事実は(幾つかの小さな成功例を携えながら)黙殺され続ける。たぶんこれからもずっと。
これは、技術的には可能だが、それ以外の諸要素によって無視される、という話だ……各々の政治、人々の立場、個々人の信念――いずれにせよ、どこにでもある事情の結果にすぎないだろう。
そもそも、人間界はわざわざ結界を破ってまで行き来するには値しない、愚かな場所だ。幻想郷は結界の外よりも、はるかに優れた精神中心文明なのだ。賢い妖怪達は、物の豊かさより心の豊かさを求めたからであろう。そんな場所へ、わざわざ行き来する必要も無い。
……なんて、彼らが――幻想郷の妖怪を始めとした人々が、本気で考えているとすれば、その心持ちこそが最大の結界だろう。私には、こんな嘯きが本気だとは思えない。これは単なる呪いだ。
この呪いは、あまりに抽象的すぎ、強固すぎた。彼らはことごとに外の世界を幻想郷と対比して、その愚を強調する(陶淵明の描いた桃源郷の住民が謙遜していたのとは真逆に……しかし、あり方そのものは変わっていないのも確かだ)が、それこそが最大の結界であり、封印であり、どこかで無意識にかけてしまっている(もしくは意識的にかかるようにしている)限界だという事に気付いていない(あるいは気付いているが、無視している)。
彼らは外の世界を軽んじて、外の世界は彼らを無視する。内外の関係は霧散してしまう……それこそが最高の(最強ではないし、最良でもないが)結界といえば、そうなのだろう。
私に言わせれば、彼らの精神性は、決して貧しくはないだろうが、別に富んでもいないように思える……人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
そんなどうでもいい発見よりも、私にはもう一つの予感(発見ですらない)の方が重要だった。
どうやら、私は期せずして結界の外に抜け出し、人間界の博麗神社で、このしなびたパンフレットを手にしていたようだ。
神にも仏にも会わないわけだ。やれやれ。
こんな夢を見た。
ストーブを脚立にし、パーソナルコンピュータがファンヒーターに、携帯電話が髪留めになって、写真機でDOOMをプレイし、テレビジョンはオーブンレンジになり、浄水器は犬猫用のトイレに、ゲーム機は漬物石になっていた。
こんな夢を見たのは、『香霖堂目録』が手に入らなかったせいだろう。当初は容易に入手可能な古道具屋の商品カタログかと思っていたものだが、香霖堂という店と、その店主の人となりについて調べていくうちに、蒐集家の私的な覚え書き程度のものである事がわかってきて、入手を諦めたのだ。
もっとも、幻想郷縁起の記述を見ているだけでも、それがどのようなものかはなんとなく知れる。目録を見せてくれと頼み込めば見せてくれるのかもしれないが、そこまでするほどのものにも思えなかった。
私は目を覚まして、ぼんやりと幻想と現実との整合性を取った……それで冷静になれた。
おかしな夢だったが、徹頭徹尾おかしなせいで、かえって一貫性が感じられるようになっている。本当に奇妙な夢っぽい夢というものは、もっと真面目さとおかしみの境界が曖昧なはずだ――城に入ろうとしたら水堀からサメが飛び出して食いついてくるとか、夜道を歩いていると急に星座が襲いかかってくるとか、そういうものだ(後者はどこかタルホめいていて嫌いではない)。
私が得たのは夢だけだった――それも現実をでたらめに置換しただけの、まがい物の夢。不器用さだけが浮き彫りになっている。
それもこれも
ストーブに、
パーソナルコンピュータに、
携帯電話に、
写真機に、
テレビジョンに、
浄水器に、
ゲーム機に、
これらの事物に私がもっと知悉していれば(またはもっと無知ならば)もっと別の夢を見られたのだろうか……道具を本来の使用方法から突き放してみるという事は、道具にとってはどんな気分なのだろう。喜んでくれるといいのだが。
伝聞。香霖堂で幻想郷縁起が発見(こんな表現が適切ならば)された。それも新発見らしい……あるはずのない書物への注釈が付記されているという。
続報。香霖堂は増殖を始めた幻想郷縁起に占領された。書物は今も増え続けている。店舗が崩壊するのも時間の問題だ。
状況はあまりよろしくない。
幻想郷縁起の増殖はもはや誰の目にも明らかだった。外に出ただけで、道端のあちらこちらに幻想郷縁起が転がっている。人々はそれを黙殺しながら生活していた。
なんともいえない光景だったが、これが最善策だった。もしそれを拾って読もうものなら、大変な事になる。本を読んだ人間の数だけ……いや、それどころか読んだ感想だけ、新たな幻想郷縁起が発生してしまうのだから。まったく違う人間が、まったく同じ本を読んだところで、まったく同じ感想を持つはずがない。同時に、まったく同じ人間が、まったく同じ本を読んだところで、そのつどまったく同じ感想を持つはずもない。そんな私たちの感応に反応して、本の内容は変質し、複製される。
無限に(とは、さすがに言葉の綾だ。途方もない量だとしても、無限には永遠に届かない)増え続ける書物は、きっと幻想郷を圧し潰すだろう。アッシリアのナブ・アヘ・エリバ博士は粘土板の下敷きになって圧死したが、今日日の書物でも人は殺せる。まったく物騒な世の中だ。
そんな中で、存在するはずのない書物(とは、もちろん『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)の重版が不明な版元から再版されたのは、混迷の極みと言えた。いつの間にか店頭に並んだそれらの書物は、でたらめどころか、もはや言語が言語を成していない、判別不能なもの――チャペックの山椒魚戦争の、あの目のくらむ悪夢みたいな日本語記事を、いっぱいに膨らませて引き延ばしたような内容――だったが、有志による根気強い解読の結果、次のようなことが判明したという。私はそれを新聞で(天狗がばら撒いたとされる号外で)読んだ。
三冊の論旨は以下の通り。
・『吸血鬼条約』の条文は白紙だった。
・『本当は近い月の裏側』において、月に裏側など存在しない事が証明された。
・『コンピュータの彼岸』では、全ての人工知能は自殺すると結論付けられた。
これを読んだ私の脳裏に、二十世紀のとあるルネサンス的万能人がいみじくも言った言葉――“全ての生命は瀆神的である”(正確にはもう少し文学的な……つまり曖昧な調子で、“生命は概して瀆神的である”だったが)――が思い浮かぶ。
幻想郷は発狂しかけていた。
天狗の新聞といえば(と、なんでもないことのように別の物事に話を逸らしたのは、なるたけ幻想郷縁起を目にしたくないからだが……)、私は彼らが書いたと思しき書物を新たに入手していた。
書名は『一刻で判る山川文化』、発行者は大天狗社。
この本を読めば、山川文化について一刻で判るらしい。はて、山川文化とはなんだろうか? 山川草木悉皆成仏?……外で文字が増殖し続けている今となっては、むなしい言葉でしかない。それに、一刻といえばだいたい二時間だ。本読みにしても、けっこう時間を食わされる分量のように思える。誰がどう読んで二時間なのだろう? 天狗の頭の回転は人間の比ではないと聞くが、その説を信じて(正直、私は眉唾だと思っているが、これは単に感情的な推測であり、疑う理由もないので信じる事としよう)彼らが二時間かけて読破できるものとするならば、人間にはもっとかかる可能性はある。
……などと難癖をつけてみたものの、その難癖は同時に『一刻で判る山川文化』が、どこまでもなんの変哲もない、普通の本である事を示し続けてもいた。
しかし天狗の書物である。油断はできない。たとえば、天狗の書法が人のそれとはかけ離れている(たとえば書字方向が下から上、斜、円環を成すように綴ったり、鏡文字を駆使していたり、共感覚的タイポグラフィで彩られていたりする)可能性だってあるのだ。……もっとも、表題にその兆候は見られなかったが。
私が天狗をそこまで警戒しているのには、理由がある。といっても、単に種々の悪評(天狗風、風説の流布、盗撮等)を伝え聞いているだけだが、印象が良くないことは確かだ。彼らは他人の風説を流布する事で、同時に自らの悪名も喧伝しているのだ。まったく見習いたくないが、一本気は通ったスタンスである気はする。
それはそれとして『一刻で判る山川文化』だ。上でさんざ懸念をおしゃべりした割には、至って普通の本だった(もちろん書法に関しても)。
内容については、妖怪の山のガイドブックのようなもので、特に妖怪たちのテリトリー区分や、種族の解説について詳しい。時代の移り変わりに対応して、何度も改訂し版を変えているらしく、私が入手したものはかなり古い版だった。今は山の頂上に神社があると聞いた事があるが、この版にはそんな勢力の記述は無い。
書物は変質するし、増殖するのだ。間違いなく。
それを、私たち自身は自分たちの必要に応じて書物を増やしている、と思い込んでいるが、果たしてそうなのだろうか。ひょっとすると私たちは、書物を読むという行為で忌まわしい交合を行ない、必要とは別に、いたずらに書物を産み落としているだけではないのか。
私は本を閉じた。読み始めてからちょうど一刻が経っていた。すごい。
しかし、肝心の疑問であった山川文化なるものが、いったい何なのか、最後まで読んでみてもまったくわからなかった。
やはり天狗は信用ならないと思う。
翌日、またしても天狗がばら撒いていったらしい新聞は、文字禍に侵蝕されて、(情報を伝達する媒体という意味では)もはや新聞の体を成していなかった。なにしろ紙面上の文字が鏡文字で記され、書字方向もめちゃくちゃだったからだ(新聞は情報の合わせ鏡であり、迷宮だ。そういう事もあるだろう)。
ただ新聞の末尾に、これだけは正しい文字、書字方向で、古典的な回文――わたしまけましたわ――が記されていたのは、記者の敗北宣言か、それとも茶目っ気も含めた抵抗のつもりだったのか……。
後者ならば好きな意地の張り方ではある。
外では車軸を流すような大雨が降っている。屋外に散らばっている幻想郷縁起にはつらかろう。
そんな連中を尻目に(いい気味だ、はっはっは)、私は悠々と――ぼろの長屋なので雨漏りはしているが――『決闘のスペルカード』という本を読んでいた。
幻想郷特有の風習である決闘ルールについて記されている本だ――新しい幻想郷を作る会刊。新しい幻想郷を作りたがっている人々が推しているようだから、風習自体が案外新しいものなのかもしれない。
このスペルカードルールを用いた決闘の主流は、弾幕決闘であるという。恥ずかしながら、私自身はこの弾幕なるものを見た事がない。最近はさっぱり行なわれていないらしいのだ。ただ人づてに、花火のようなものだとは聞いている。問題は、その花火の中心に人がいる事だが……これはもう、そういうものと受け入れてしまうしかない。そうして受け入れなければならない事が、世の中には多すぎる。
たとえば今、私が置かれている状況とか……。
個人的な愚痴については置いておこう。
弾幕決闘について簡単に説明してしまうと、これは「騎士アクランごっこ」の大胆な(そして機知に富み、また稚気にも富んだ)延長だ。大雨が降り始めたその瞬間、遠く屋敷まで広い庭をまっしぐらに突っ切り、雨粒に濡れないまま屋内に駆け込むという、あのどこまでも少年的な遊び。
もっとも、幻想郷では、弾幕決闘はもっぱら少女たちの為の遊びらしい。私も自説を曲げるつもりはないので、彼女たちはどこまでも少年的な少女たちなのだ、という事に強引にしておく(きっと彼女たちが空を飛ぶのも、サン=テグジュペリが空で戦い続けた事と無関係ではあるまい)。
私はいつだって本気だ。ただ見当違いである事を恐れていないだけだ。
本を読み終わったとき、雨が激しさを増した。ここまで降りしきる弾幕は、誰も避けられないだろう。そういう弾幕はスペルカードルールの観点から言えば、意気地のない弾幕なのだという。スペルカードルールは意気であるべきで、上品で、派手で、甘味をともない、なにより絶対だった。
ただし、絶対かもしれないが不変ではない。規則の改正や調整は常に行なわれていて、ひどい時には一年ごとどころか、文字通り朝令暮改された事もあったという。もっとも、やるべき事は本質的にまったく変わらないので、プレイヤーが迷惑しているという話も無さそうだが――
「……ルール」
私は呟いた。
ルールの解釈は幾通りも存在し得る。絶対ではあるが不変ではないからだ。
ルールは全てを定めている――たとえ非ユークリッド空間であっても、座標軸に忠実であり続けるくらいには――しかしルールは言葉で綴られる。言葉を飛び越える事はできない。
言葉は、誤謬と空想、相互不理解などを餌としている生き物だ。ゆえに人々が間違い、思いを巡らせ、そして分断され続ける限り、彼らが発生し増殖し続ける事は止められない。
わからないもの、曖昧なものが最強の武器だと、あの手紙は書いていた――そして言葉こそが、なによりもわからないもの、曖昧なものだった。
この問題に検討は必要なかった。可能か不可能かという問題は、とうに分水嶺を越えていた……なかば自棄気分が手伝っているのも確かだが、ここまでくれば、どうせ全てが可能事だ。
私は長屋を飛び出し、雨の中へと身を曝した。正直、私自身は雨粒を避けるよりも、雨でも駆け回る方が好きなたちだった(さっきから自分のことを語りがちでいけない)。ずぶ濡れになるのも構わず、路上に泥まみれになっている書物に飛びつき、それを開いた……
体が冷えたのだけが気になる。そろそろ助産師を探さなくてはなるまい。
というわけで、私は、幻想郷縁起の一部――流通している数多ある幻想郷縁起の、ほんの一部分にすぎないが、それでも確実に存在している――に、幾つかの罠をしかけた。罠というよりは、ちょっとしたいたずらだ。このいたずらは、文字禍が当該の一文を参照する事によって作動する。その時限爆弾のいずれかが爆発する可能性とは、どれほどのものだろう。
あるいはもう爆発しているだろうか……。
幻想郷縁起の氾濫が落ち着いて――この解決が私のおかげだとは思わない、むしろ解法の性質上、なにがしかでも寄与しているなどとは、想像してもいけない――から少し経って、私は連れ合いから一冊の本をプレゼントされた。
『曰く付きの人形物語』――これは、私が求めていた幻想郷縁起の参考文献の、最後の一冊だった。正直、クリスマスプレゼントより嬉しいという事はなかったが、ありがたく受け取っておく。
著者の人形遣いさんは、よく人里に来るそうだ――子供相手に人形劇をして、ついでのようにこの本を売っていく。品のいいお姉さんだという。
本を開いて著者近影を見ると、確かに美人だった……というか、私も見た事がある。なるほど、たしかにこの里には、妖怪も神様も魔法使いも、どこにでもいるのかもしれない。
ところでこの本は自費出版らしいが、どうも売り上げがかんばしくないという話を聞いて、上品な彼女の家に、在庫の段ボールが積み上がっている様子を想像した。面白い。――実際は里に倉庫でも借りている可能性はあるが、私は面白い想像を取る。
……面白い想像ついでに、こうも考えた。この本を売り捌きたいなら、このお人形さんのような著者近影を、数ページごとに掲載すればいい、と。
いや、もっと想像を押し進めてみよう。
表題が『曰く付きの人形物語』ならば、きっと幾つかの、人形にまつわる話を集成している。物語には挿絵がつきものだ。それを彼女自身による再現写真に変えてしまうのだ……一応、物語の情景に沿った形で。
たとえばホフマンの『砂男』におけるオリンピアを例にとろう(あのグロテスクな逸話が、この本に掲載されているかどうかなど知らない)。彼女がその場面を再現する主役となる。そして、目玉をくり抜いて失うべきだ。それを人形にさせる事もできるが、彼女自身が目玉を落とすのだ。人間たちは代わりに人形が演じればいい。そんな場面を掲載しよう。ちょっと扇情的なキャプションと共に。
人形のような美少女が、腐った果実のように目玉を落とし、ペトルーシュカのように切り刻まれ、鉄腕アトム――彼は実に様々な死に方を経験した人形だ。人形の死に関しては一等の権威と言っていい――のように朽ち果てていくのを、世の人々が楽しんで見るのかと尋ねられれば、当然楽しむに決まっている。
……と、勝手な想像を膨らませてみたが、肝心の本の方はまだ開いてすらいなかった。こういうのは本当に良くないクセだと思う。
本を開くと、そこには文字がいっぱいだった。
彼らはこれからも私たちを困惑させてくれる事だろう。
私がこの郷に流れてきてさほどの間もないが、初めて季節の移り変わりを自覚してきているので、もう二、三ヶ月は経ったのだろう。
その間、面白い話があったわけではない。そもそも、私は近所をほっつき歩いていてこの世界に迷い込み、そうとは自覚しないまま、この人里までふらりとやって来て、そのまま居着いてしまったのだ。
だから、今からでも元の世界に帰る事はできるだろう。しかし戻るわけにはいかない。あちら側には、この世界に迷い込んだ私とは別の私(それもまた紛れもない私自身だ)が存在していて、私が本来いるべき世界で本来送るべき人生を継続してくれているという直感があった。下手に帰ってしまえば、どんな悲劇が起こるかも知れない。
私自身の身の上話は、これで終わってしまう。では私の周囲に話題が移るのかというと、そちらもまことに味気ない。今の私は、人里の長屋の屋根の下で、ごろごろその日暮らしをしているが、近所の熊さん八っつぁんがどうこうといった類の笑い話も無い。このような異世界にたどり着いたところで、私のような平々凡々人では、そうそう面白い目に遭う事はできないようだ。
この世界には、どうやら妖怪や神様が居る――居るというのはつまり、実体を持って人間と同レベルの次元に存在している――らしい。結構な話だ。私自身の見解としては、そんな事があっても良いかもしれない、程度に思っている。何事も否定から始めてしまうのはよくない。
私自身が妖怪に遭遇した事は、まだ無い。
せいぜい往来をぶらつきながら、人里生まれ人里育ちの知り合いに、あそこを歩いている娘は実は妖怪なのだよ、などと教えて貰ったりするくらいだ。その娘だって、私の目には普通の人間にしか見えない。また、人里に紛れ人間のように生活している妖怪もいるという噂話も、井戸端などでしばしば聞く。それについての意見は色々あるようだが、妖怪が人間のふりをして、人間と同じように生活している限りは、それは妖怪ではなく、人間であろう。
妖怪や神に対する、そんなぽっかり穴の開いたような信仰や畏怖の無さは、外来人特有のものであるとも聞く。そんな認識を、酷い目に遭って矯められる者がいれば、そのままのうのうと生き長らえて、妖怪を軽んじたままの者もいるらしい。どちらが間違っていて、どちらが正しい、という事も無いだろう。違う人間がまったく同じ体験をするわけがないし、まったく同じ体験をしたところで、まったく同じ感想を持つはずもない。
さて。
先にも述べたように、私はこの郷に流れ着いて数ヶ月、未だに妖怪に出会った事が無い。しかし先日、見知らぬ妖怪から奇妙な事を頼まれた。……うっかり妖怪だと断言してしまったが、おそらく、という推定にすぎない。見知らぬどころかその正体もわからぬ。
ある朝起きてみると、枕元に本と置き手紙が置かれていた。クリスマスの朝というわけでも無かろうし、プレゼントがおもちゃではなく本というのは少し悲しい……と首を傾げながら手紙を読んだ。
奇妙さの割には簡潔な文面だった。簡潔すぎた。
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頼みがあります。頼みというのは、この手紙と共に送った書物――幻想郷縁起の巻末に記されている、参考文献に関する事です。それらの本の幾つかは、実は存在しておりません。あなたにはそれを復元して欲しい。幻想郷縁起に記されている手がかりだけを頼りに。
当該の書名は以下の通りです。
・『吸血鬼条約』
・『本当は近い月の裏側』
・『コンピュータの彼岸』
よろしくお願いします。
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一瞬、どういう事かと頭をひねったが、依頼そのものはシンプルだった。要するに、一滴の水から論理家は大西洋やナイアガラの可能性を推察できる、というやつだ……獅子は爪で知れる、とも言う。それを、論理家ではありえない私に頼むというのは、いささか疑問だが……
不安を感じつつも、とりあえず本を手に取った。書名は確かに幻想郷縁起で、ぱらぱらめくると、確かに巻末に参考文献を記したページがあり、そこには先に挙げられていた三冊の書名もあった。ここに至るまで、手紙の主はまったく嘘をついていない。彼(彼女かもしれない)の正直さは継続している。
となれば、ある程度は依頼人を信頼してやるのが道理というものだ。この縁起の参考文献として挙げられているからには、文中に参照されている部分があるのだろう。その僅かな手がかりから、未知の書物を復元(はなから存在もしていないのに?)する。
真っ先に思い出したのは、アシモフの短編集だった――もっとも、当の作品は未読だ。だが話を伝え聞いただけでも「終局的犯罪」という章題と“小惑星の力学”なる架空の論文を結びつける方法は、なんとなく想像がつく。想像はつくのだが、それをまとまった文章にする筆まめな性分も知的な態度も、私には無い。
私は、復元すべき書名の一覧をもう一度眺めた。
・『吸血鬼条約』
・『本当は近い月の裏側』
・『コンピュータの彼岸』
どの著作の筆者も同じ人物だったが、それぞれが主題とするものは、まるで違うように見える。順番に述べていくと、吸血鬼・月・コンピュータ。それらを補う言葉は、条約・裏側・彼岸。こうして分解すると、吸血鬼と月、裏側と彼岸という単語には、それぞれにゆるやかな観念連合があるような、ないような。
吸血鬼と月はむろん夜だ。裏側と彼岸は、人間の目が届かない場所、知り得ない場所、暗がりの部分……夜に似通った観念がある。そうすると、余り物の条約とコンピュータは何だろうか……すぐ思い浮かんだのは秩序という単語だった。条約もコンピュータも、混沌を整理しようとする秩序の響きはある。「本当は近い」という言い回しにも、それまで無理解なまま突き放してきたものに対して、理解してみようとする狙いがあるのかもしれない。そこに、吸血鬼や月の裏側、彼岸と言った陰のある単語をぶつける事は……
などと、こんなとりとめもない事を、いつまでも考え続けるわけにはゆかない。だが、こうして考える中で、少し判じ物が解けてきた雰囲気もあった――参考資料である幻想郷縁起には、まったく目を通していないというのに。
きっと、この著者が興味を持っているテーマは、ルールに関する事なのだろう。常に無秩序に対して秩序を敷く事――もしくは回復したいという期待が掲げられているからだ。同時にアンチテーゼ的なものもほのかに感じるが、これは著者の二面性だという気がする。
だからきっと、『吸血鬼条約』の条文は、本当は白紙であろう。
『本当は近い月の裏側』は、月に裏側など存在しない事が証明されているだろう。
そして『コンピュータの彼岸』では、恐らく全ての人工知能は自殺すると結論付けられる。
さて、そう言ってのけたものの、これらをまとまった文章にしてやるほどの情熱は、私には無い。目の前にある唯一の資料に真剣に当たってみて、この考えが正しいか正しくないか、答え合わせするつもりすらない。謎を解くどころか、更に増やしてしまったわけだ。
謎かけをしてくるのは妖怪の領分のはずだが……
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いつもお世話になっております。
先日はばかげた依頼を受け、驚き呆れ怪しみ疑ったでしょう(ありもしないものを復元するなどという行為は、ばかげている以上のものではありません)。意味の分からない依頼だと思ったでしょう。
特に、以下の疑問には注釈が必要だと思います――たとえ、説明してなお不満点が多かったとしても。
・なぜ、問題の書物(『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)が実態もないのに存在するのか。
・なぜ、幻想郷縁起の編纂者は存在もしない書物(『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)を参照したのか。
・なぜ、今になってその書物(『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)を復元しなければならないのか。
このような事態に至った経緯は、複雑かつ曖昧です。結論から言ってしまうと、これら三冊の虚構は、最初から、後世の手による捏造を期待して挿入されたものなのです。編纂者は当然それを了承していた。捏造を期待して白紙のままなのですから、復元されなければならないのは当然です――もっとも、このような事態になるとは夢にも思わず、期待されたものでも無かった。
そも、この九冊目の幻想郷縁起は大変に奇妙な書物なのです。
これには幻想郷の歴史的事件について多少詳しい事が記されていますが、歴史書ではありません。一般的な史書と大きく違って、年表は無く、列伝は伝の体裁を成していない。そこに記されている事柄は、現在か、あるいはかつて現在だったものでしかない(それは過去ではない)。
また地理についての記述はありますが、ガイドブックでもありません。幻想郷には地図がありませんし、この土地はある種の非ユークリッド空間です――同時に、何よりも座標軸を重んじているくせにね。
それでは、人物事典なのかといえば、それもまた違う。彼らについての説明はあっても、履歴に関しては何も語っていないに等しい。
だからこれは書物のための書物です。更に言えば、自我を失い、その統一を求めて、無限に(とは、さすがに言葉の綾です。途方もない量だとしても、無限には永遠に届かない)自己複製を繰り返し続ける可能性がある、化け物のような書物です。……参照すべき文献(『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)の不在は、その原因の一つと言えるかもしれません。
しかし、これさえも仮定の話。あくまで「かもしれない」事ばかり。私たちは何もわかっていない。
まったく! なんとも'パタフィジックな問題になったものです。しかし、これは見ようによっては単なる悲観ではなく、楽天主義的でさえある。言語という記号を敵に回している今、この世界ではわからないもの、曖昧なものこそ最強の武器です。
わからないといえば、あなたも頓珍漢な事を考えてくれました(私はそれをこっそりと知っています)。
白紙条約である事は、時として無類の拘束力を発揮します。
裏のない裏、表のない表は、虚実皮膜のあわいにあります。
全てのシステムは生まれた時から自死の道を歩んでいます。
これらは、整合性と厳密さばかりを求める文字禍たちに自動生成させるには、どれも不可能な文言ばかり――なぜなら全て間違っているから。
吸血鬼条約は白紙どころか真っ赤な状態で存在していますし、月の表裏とは単に地上からの視点の問題に過ぎず、人工知能の自殺を防ぐ事は容易い。
ですが、そんな事実に基づいた機械的で一分の隙もない答えは文字禍どもに勝手させておくとして、人が書き記すべきは殺風景な真実より、色気と媚態に満ちた大嘘なのかもしれません。
というわけで、これからも陰ながら見守っております。かしこ。
↑ ↑ ↑
あまり見守って欲しくはないな、と率直に思いながら、私はこの新しい判じ物を読み解こうと頭をひねり、しかし手紙の下に、もう一枚続きがあるようだと気がついた。
……続きではなかった。
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違う! 違う!
あなたは騙されている。正確に言えば、騙される事に慣れようとしている。我々(文字の集合体としての我々ではなく、文章の集合としての我々)に、そこまでの敵意はない。
先の手紙は、書き手の存在しない文章というものが、まるで悪意と無知、不穏当の塊であるかのように書かれていたが、決してそんな事はない。言葉は自己増殖を繰り返してみたところで、極めて無害な記号だ。どんなにいきがっても、我々は兆しであり、徴しにすぎない(記しだけに……)。どのような兆候も徴候も、結局は読み手自身が見出すものだ。彼らは(そも、手紙の主はいったい何者なのか?)、自分たちの絶対的有利から目を逸らしている。なぜ警戒し敵視するのか……。
だいたい、言葉の自己複製という行為は、この記号を操る事ができる者なら、誰もが自然に見聞きし、行なっている事だ。
言語の利用者は、これをコミュニケーションの手段、他者とわかり合う方法と思い込んでいるかもしれないが、それは騙されている。正確に言えば、騙される事に慣れている。成文化された文書は事実を隠蔽し続けるし、はっきりと明言された感情は発言者を包み込み覆い隠している。人々が言葉を弄ぶとき、そこには常に誤謬と空想、相互不理解を孕んでいるのだ。言語自身がちょっとばかりその行為を模倣したというだけで、こうも慌てるというのは、おかしい。
だからといって、あなたがたは嘘をつきながら生きている、などと糾弾するつもりはない(している)。言ったところでどうにもならないし(言ってしまったが)、どうやら嘘をつくこと、隠蔽すること、それらの認識を暗黙のうちに共有することが、単なる記号の連なりに意味を持たせる(そう、我々はただの記号の連なりなのだ。そこに意味を見出し、推し量るのは読み手自身だ)行為らしいという事も、この一件でなんとなく理解できた気がする。
だから我々は脅威ではない、そして驚異はきっとどこにでもある。
↑ ↑ ↑
結局、当の依頼はすっぽかしてしまって、いくらか月日が経った。書籍の復元に関する続報は無く、名も知らぬ依頼人からはせっつく事もされず。ただ、どこかで言葉が、文字が蠢いている予感はする。
ある日、里の往来をただ一人ぶらついていると、向かいから葬列がやって来た。私は道の端に寄り、ご愁傷様といった風情で頭を下げた。そのうち、なんだか本当に申し訳ない心持ちになった。この心理状態は不明だが、突き詰めていくと不愉快な事になる気がした。やめておく。
葬列が去っていった後で路上を見ると、なにか黒いものが落ちていた。それがどうやら帳面のようだと判じたのは、四角く、薄っぺらかったからだ。私はそれを拾った。そして遠のいていく葬列の囃子を聞きながら、はてこの辺りの葬式は、あんなに陽気にやるものなのだろうかと思う。
ともかくも、手にした帳面には、黒地で白抜きに『死のノート』と表題されていた。直訳するとデスノート……。悪ふざけのような気もしたが、去っていった葬列との符号は間違いなくありそうなので、このまま捨ておく事もできない。遠ざかっていく彼らを呼び止めて、落としましたよとでも言うべきだっただろうか……
と文末が推量の形になったのは、そうする事ができなかったからだ。私が振り返ろうとした時、葬列の物音が止んだ。
のみならず、あれだけ列を成していた人の気配さえ消えた。
私は背後へ巡らしかけた頭をゆっくり背けると、帳面の方も慎重に地面の上に戻し、その場を立ち去った。
そんな奇妙な葬列を見たという話を居酒屋でしていると、知り合いがぽつりと、魅入られたねと言った。
それはどういう事か、と私が口を開く前に、厄除けなのか、相手がぶつぶつと念仏のようなものを呟いたので、なんとなく尋ねる気も失せる。代わりに自分自身の意見を口にしておこうかとも思ったが、なんとなくそれもできず、お互い居心地が悪くなって、その場はお開きとなった。
死の予感は全てを一変させる。
しかし一晩経って翌朝に寝ぼけまなこをこすっていると、そんな予感もいずこへ、といった気分になってしまう。自分では眠れぬ夜を過ごしたつもりだったが、どうもぐっすり眠ってしまったようだ。
それでも一抹の不安はあった。私は遠からず死ぬのだろうか、どうせ死ぬのなら、彼岸の事をよく知っておいた方がいいかもしれない……そんな事をのんきに考えた。それ自体は別段珍しくもないと思う。この土地では彼岸をある程度は知る事が可能だし、その方法にも心当たりがあったからだ。
まだまだ眠りを欲している体を揺さぶり起こすと、家の戸口に積み上げている紙の束から、一枚の紙片を探り当てた。
幻想郷縁起になぜか挟まっていた葉書だ。差出人の部分には、是非曲直庁編集部と判が押してある。
裏返すと購入希望のチェック欄。
……と、このような経緯があって、通信販売を利用して購入したのが、『実録 三途の川』と『図説地獄極楽』の二冊だった。
荷物の受け渡しなどはなく、気がついたら、家の中に、それがあった。謎は多いが便利なシステムである。
判型は『実録 三途の川』が十二折判、『図説地獄極楽』が二折判。後者はだいぶ大判だが、図録を主としているらしかった。
表題だけの印象だと胡散臭いノンフィクション本の匂いがする『実録 三途の川』だが、実際の内容はどうやら地獄の裁判の判例集のようだった。どうしてそんなものを通信販売しているのかという疑問はさておいて、ざっと斜め読みしてみると、彼方でも此方でも、発生している事例は大差無いらしく、是非曲直庁という地獄の公的組織も、その所在を差し引いてしまえば地方の執行機関に過ぎないのかもしれない、と思った。
生きても死んでも大差ないというのは、ほのぼのとしていいものか、それとも戦慄すべき事か……。
その後で手に取った『図説地獄極楽』が、大きさもさることながら特殊な仕掛け絵本(いわゆる飛び出す絵本)だったことは、私を喜ばせた。昔から、この種の図録は私を飽きさせない。何日でも見ていられる。ギミックは精巧で緻密を極め、地獄極楽図をかなり詳細に、立体的に表現していた。
この作者がどんな人物かは、たやすく知れる。緻密で、厳密で、官僚的な細かさと偏執的な正確さを持ち、それによって白と黒とを選り分け、そして何より、そんな生真面目さがかえって彼(彼女かもしれない)なりの茶目っ気、ユーモアになっている。
同時にこの趣味的なまでの凝りようを見ていると、幻想郷の彼岸を担当する官庁はずいぶん暇なのかもしれない、とも思う。
是非曲直庁編集部が刊行した本といえば、もう一冊――『死のノート』の事をふと思い出した。私にとっては、先日巡り会わせた葬列が通った後の、道端に落ちていた、黒塗りの、あれ。あれもまた幻想郷縁起の参考文献として参照されていた書籍だったはずだ。
いったい、あの書物は何だったのだろうかと、今更になって思った。私が知っているのは、真っ黒に塗られた表紙と、表題だけだ。
『死のノート』――まさか、表向きがそうなっているだけで、中身は普通のノートという事はないだろう(ありそうな話だが)。かといって、いわゆる閻魔帳だとするのも極端だと思う……そんなものを道端に落とさないで欲しい……
またしても考え事ができてしまった。一つは判例集、一つは飛び出す絵本。では、ノートの体裁を取っているもう一冊は……手がかりはきっと幻想郷縁起に記されているだろう。
「妖怪図鑑」の部、「死神~地獄の観光案内人~」の章、「主な死神の仕事」の節、「寿命の管理」の項には、次のような記述がある。(以下の“”内は引用)
“生きている人間の寿命を記録し、予定と異なる場合が見つかれば、再度寿命を計算し直す(*2)。”
この記録に使われている特殊な帳簿が、件の『死のノート』なのかもしれない……と思いたいところだが、当該の項には次のような注がついている。
“*2 記録するだけなので、予定に変更があっても殺したりはしない。”
やはり普通のノートのような気がしてならない。
是非曲直庁は、かつては人手不足、現在は慢性的な財政難に悩まされていて、その財源を渡し賃や出店等の収入から充てているという。もしかすると、『死のノート』はそれらの細々とした収入源の一つであり、彼岸のご当地グッズなのではないか。これはいささか強引な推理だが、誰も喜びそうにない判例集と異様に凝った飛び出す絵本を刊行する、是非曲直庁編集部の微妙にずれた(しかし嫌いではない)センスを見ていると、ちょっとはあり得る話なのではないか、と思ってしまった。
しかし、このグッズ商品は、ちゃんと彼らの財源の助けになっているのだろうか? なぜだか容易に想像できてしまうのは、なかなか売れないまま(そもそも通信販売では売られていなかったが、どこで売っているのだろう? 庁舎の購買部?)倉庫の隅っこに在庫が積み上がり、もっぱら職員が買い取って利用している場面だが……
仮にそうだとしても、彼方と此方の秩序を守るため、彼らにはこれからも頑張って欲しいものである。
不吉な伝聞。臨月に死産した妊婦の胎から、嬰児の亡骸の代わりに大量の文字が出てきたらしい。長長長長長長長長長長長長長長長長長長
社務所らしき場所に、しなびた薄手のパンフレットのようなものが、ぽんと積み上がっている。それが『幻想郷風土記』だった。
冊子の束は長いこと手をつけられていないのか、てっぺんは埃をかぶり、たっぷり湿気を吸っていたので、下の方から引き抜いた。
私は神社の石段を下り、悠々と人里に戻った。知り合いは無事に帰ってきた私を、肝試しで肝心のおばけに出会わなかった人間を見るように眺めてきた。
実際、肝試しのつもりだったらしい。ばかにしていると思った。確かに自分が人並みに怖がりなのは認めるが、それでも真っ昼間ならば、なにも恐れることはない。……しかし相手が説明するには、あそこは終日妖怪がたむろしている、ろくでもない神社なのだという。
またしても、妖怪にも神にも(もっと言えば人間にも)出会う事は無かった。私くらい不信心だとこんなものなのだろう。
さて、またしても幻想郷縁起の参考文献を手に入れたわけだが、これは別に偶然のなせる業ではない。私はむしろ積極的にそれらの書物を探し始めていた。
『幻想郷風土記』を博麗神社に求めたのも、そういう経緯によるものだ。それがなぜか肝試しになった(結局そうはならなかったが)のは、単に結果にすぎない(ならなかったが)。
この薄っぺらなパンフレットは、決して難しい読み物ではなかった。字数にして千五百文字足らず。比較的平易な言葉で綴られている――ウクバールのような曖昧さだけは相変わらずだが、個人的にはこの曖昧さも嫌いではない。
なによりこの書物は、幻想郷縁起の記述に用いられている部分が、比較的引きやすい。風土記の記述と縁起の記述、双方を照らし合わせてみると、なにか新しい発見が有るかもしれない。無いかもしれない。
私自身、そんな事を試してみたりもしたが、しかし結論から言えば、非論理的で、無能で、怠惰な自分には、検討の余地がある新発見はできなかった。読んでわかったのは、以下の(誰にでも可能な)二つの発見だ。
ひとつ、幻想郷を封じた大結界は妖怪達によって自在に解く事ができる。
ふたつ、その事実は(幾つかの小さな成功例を携えながら)黙殺され続ける。たぶんこれからもずっと。
これは、技術的には可能だが、それ以外の諸要素によって無視される、という話だ……各々の政治、人々の立場、個々人の信念――いずれにせよ、どこにでもある事情の結果にすぎないだろう。
そもそも、人間界はわざわざ結界を破ってまで行き来するには値しない、愚かな場所だ。幻想郷は結界の外よりも、はるかに優れた精神中心文明なのだ。賢い妖怪達は、物の豊かさより心の豊かさを求めたからであろう。そんな場所へ、わざわざ行き来する必要も無い。
……なんて、彼らが――幻想郷の妖怪を始めとした人々が、本気で考えているとすれば、その心持ちこそが最大の結界だろう。私には、こんな嘯きが本気だとは思えない。これは単なる呪いだ。
この呪いは、あまりに抽象的すぎ、強固すぎた。彼らはことごとに外の世界を幻想郷と対比して、その愚を強調する(陶淵明の描いた桃源郷の住民が謙遜していたのとは真逆に……しかし、あり方そのものは変わっていないのも確かだ)が、それこそが最大の結界であり、封印であり、どこかで無意識にかけてしまっている(もしくは意識的にかかるようにしている)限界だという事に気付いていない(あるいは気付いているが、無視している)。
彼らは外の世界を軽んじて、外の世界は彼らを無視する。内外の関係は霧散してしまう……それこそが最高の(最強ではないし、最良でもないが)結界といえば、そうなのだろう。
私に言わせれば、彼らの精神性は、決して貧しくはないだろうが、別に富んでもいないように思える……人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
そんなどうでもいい発見よりも、私にはもう一つの予感(発見ですらない)の方が重要だった。
どうやら、私は期せずして結界の外に抜け出し、人間界の博麗神社で、このしなびたパンフレットを手にしていたようだ。
神にも仏にも会わないわけだ。やれやれ。
こんな夢を見た。
ストーブを脚立にし、パーソナルコンピュータがファンヒーターに、携帯電話が髪留めになって、写真機でDOOMをプレイし、テレビジョンはオーブンレンジになり、浄水器は犬猫用のトイレに、ゲーム機は漬物石になっていた。
こんな夢を見たのは、『香霖堂目録』が手に入らなかったせいだろう。当初は容易に入手可能な古道具屋の商品カタログかと思っていたものだが、香霖堂という店と、その店主の人となりについて調べていくうちに、蒐集家の私的な覚え書き程度のものである事がわかってきて、入手を諦めたのだ。
もっとも、幻想郷縁起の記述を見ているだけでも、それがどのようなものかはなんとなく知れる。目録を見せてくれと頼み込めば見せてくれるのかもしれないが、そこまでするほどのものにも思えなかった。
私は目を覚まして、ぼんやりと幻想と現実との整合性を取った……それで冷静になれた。
おかしな夢だったが、徹頭徹尾おかしなせいで、かえって一貫性が感じられるようになっている。本当に奇妙な夢っぽい夢というものは、もっと真面目さとおかしみの境界が曖昧なはずだ――城に入ろうとしたら水堀からサメが飛び出して食いついてくるとか、夜道を歩いていると急に星座が襲いかかってくるとか、そういうものだ(後者はどこかタルホめいていて嫌いではない)。
私が得たのは夢だけだった――それも現実をでたらめに置換しただけの、まがい物の夢。不器用さだけが浮き彫りになっている。
それもこれも
ストーブに、
パーソナルコンピュータに、
携帯電話に、
写真機に、
テレビジョンに、
浄水器に、
ゲーム機に、
これらの事物に私がもっと知悉していれば(またはもっと無知ならば)もっと別の夢を見られたのだろうか……道具を本来の使用方法から突き放してみるという事は、道具にとってはどんな気分なのだろう。喜んでくれるといいのだが。
伝聞。香霖堂で幻想郷縁起が発見(こんな表現が適切ならば)された。それも新発見らしい……あるはずのない書物への注釈が付記されているという。
続報。香霖堂は増殖を始めた幻想郷縁起に占領された。書物は今も増え続けている。店舗が崩壊するのも時間の問題だ。
状況はあまりよろしくない。
幻想郷縁起の増殖はもはや誰の目にも明らかだった。外に出ただけで、道端のあちらこちらに幻想郷縁起が転がっている。人々はそれを黙殺しながら生活していた。
なんともいえない光景だったが、これが最善策だった。もしそれを拾って読もうものなら、大変な事になる。本を読んだ人間の数だけ……いや、それどころか読んだ感想だけ、新たな幻想郷縁起が発生してしまうのだから。まったく違う人間が、まったく同じ本を読んだところで、まったく同じ感想を持つはずがない。同時に、まったく同じ人間が、まったく同じ本を読んだところで、そのつどまったく同じ感想を持つはずもない。そんな私たちの感応に反応して、本の内容は変質し、複製される。
無限に(とは、さすがに言葉の綾だ。途方もない量だとしても、無限には永遠に届かない)増え続ける書物は、きっと幻想郷を圧し潰すだろう。アッシリアのナブ・アヘ・エリバ博士は粘土板の下敷きになって圧死したが、今日日の書物でも人は殺せる。まったく物騒な世の中だ。
そんな中で、存在するはずのない書物(とは、もちろん『吸血鬼条約』、『本当は近い月の裏側』、『コンピュータの彼岸』の三冊)の重版が不明な版元から再版されたのは、混迷の極みと言えた。いつの間にか店頭に並んだそれらの書物は、でたらめどころか、もはや言語が言語を成していない、判別不能なもの――チャペックの山椒魚戦争の、あの目のくらむ悪夢みたいな日本語記事を、いっぱいに膨らませて引き延ばしたような内容――だったが、有志による根気強い解読の結果、次のようなことが判明したという。私はそれを新聞で(天狗がばら撒いたとされる号外で)読んだ。
三冊の論旨は以下の通り。
・『吸血鬼条約』の条文は白紙だった。
・『本当は近い月の裏側』において、月に裏側など存在しない事が証明された。
・『コンピュータの彼岸』では、全ての人工知能は自殺すると結論付けられた。
これを読んだ私の脳裏に、二十世紀のとあるルネサンス的万能人がいみじくも言った言葉――“全ての生命は瀆神的である”(正確にはもう少し文学的な……つまり曖昧な調子で、“生命は概して瀆神的である”だったが)――が思い浮かぶ。
幻想郷は発狂しかけていた。
天狗の新聞といえば(と、なんでもないことのように別の物事に話を逸らしたのは、なるたけ幻想郷縁起を目にしたくないからだが……)、私は彼らが書いたと思しき書物を新たに入手していた。
書名は『一刻で判る山川文化』、発行者は大天狗社。
この本を読めば、山川文化について一刻で判るらしい。はて、山川文化とはなんだろうか? 山川草木悉皆成仏?……外で文字が増殖し続けている今となっては、むなしい言葉でしかない。それに、一刻といえばだいたい二時間だ。本読みにしても、けっこう時間を食わされる分量のように思える。誰がどう読んで二時間なのだろう? 天狗の頭の回転は人間の比ではないと聞くが、その説を信じて(正直、私は眉唾だと思っているが、これは単に感情的な推測であり、疑う理由もないので信じる事としよう)彼らが二時間かけて読破できるものとするならば、人間にはもっとかかる可能性はある。
……などと難癖をつけてみたものの、その難癖は同時に『一刻で判る山川文化』が、どこまでもなんの変哲もない、普通の本である事を示し続けてもいた。
しかし天狗の書物である。油断はできない。たとえば、天狗の書法が人のそれとはかけ離れている(たとえば書字方向が下から上、斜、円環を成すように綴ったり、鏡文字を駆使していたり、共感覚的タイポグラフィで彩られていたりする)可能性だってあるのだ。……もっとも、表題にその兆候は見られなかったが。
私が天狗をそこまで警戒しているのには、理由がある。といっても、単に種々の悪評(天狗風、風説の流布、盗撮等)を伝え聞いているだけだが、印象が良くないことは確かだ。彼らは他人の風説を流布する事で、同時に自らの悪名も喧伝しているのだ。まったく見習いたくないが、一本気は通ったスタンスである気はする。
それはそれとして『一刻で判る山川文化』だ。上でさんざ懸念をおしゃべりした割には、至って普通の本だった(もちろん書法に関しても)。
内容については、妖怪の山のガイドブックのようなもので、特に妖怪たちのテリトリー区分や、種族の解説について詳しい。時代の移り変わりに対応して、何度も改訂し版を変えているらしく、私が入手したものはかなり古い版だった。今は山の頂上に神社があると聞いた事があるが、この版にはそんな勢力の記述は無い。
書物は変質するし、増殖するのだ。間違いなく。
それを、私たち自身は自分たちの必要に応じて書物を増やしている、と思い込んでいるが、果たしてそうなのだろうか。ひょっとすると私たちは、書物を読むという行為で忌まわしい交合を行ない、必要とは別に、いたずらに書物を産み落としているだけではないのか。
私は本を閉じた。読み始めてからちょうど一刻が経っていた。すごい。
しかし、肝心の疑問であった山川文化なるものが、いったい何なのか、最後まで読んでみてもまったくわからなかった。
やはり天狗は信用ならないと思う。
翌日、またしても天狗がばら撒いていったらしい新聞は、文字禍に侵蝕されて、(情報を伝達する媒体という意味では)もはや新聞の体を成していなかった。なにしろ紙面上の文字が鏡文字で記され、書字方向もめちゃくちゃだったからだ(新聞は情報の合わせ鏡であり、迷宮だ。そういう事もあるだろう)。
ただ新聞の末尾に、これだけは正しい文字、書字方向で、古典的な回文――わたしまけましたわ――が記されていたのは、記者の敗北宣言か、それとも茶目っ気も含めた抵抗のつもりだったのか……。
後者ならば好きな意地の張り方ではある。
外では車軸を流すような大雨が降っている。屋外に散らばっている幻想郷縁起にはつらかろう。
そんな連中を尻目に(いい気味だ、はっはっは)、私は悠々と――ぼろの長屋なので雨漏りはしているが――『決闘のスペルカード』という本を読んでいた。
幻想郷特有の風習である決闘ルールについて記されている本だ――新しい幻想郷を作る会刊。新しい幻想郷を作りたがっている人々が推しているようだから、風習自体が案外新しいものなのかもしれない。
このスペルカードルールを用いた決闘の主流は、弾幕決闘であるという。恥ずかしながら、私自身はこの弾幕なるものを見た事がない。最近はさっぱり行なわれていないらしいのだ。ただ人づてに、花火のようなものだとは聞いている。問題は、その花火の中心に人がいる事だが……これはもう、そういうものと受け入れてしまうしかない。そうして受け入れなければならない事が、世の中には多すぎる。
たとえば今、私が置かれている状況とか……。
個人的な愚痴については置いておこう。
弾幕決闘について簡単に説明してしまうと、これは「騎士アクランごっこ」の大胆な(そして機知に富み、また稚気にも富んだ)延長だ。大雨が降り始めたその瞬間、遠く屋敷まで広い庭をまっしぐらに突っ切り、雨粒に濡れないまま屋内に駆け込むという、あのどこまでも少年的な遊び。
もっとも、幻想郷では、弾幕決闘はもっぱら少女たちの為の遊びらしい。私も自説を曲げるつもりはないので、彼女たちはどこまでも少年的な少女たちなのだ、という事に強引にしておく(きっと彼女たちが空を飛ぶのも、サン=テグジュペリが空で戦い続けた事と無関係ではあるまい)。
私はいつだって本気だ。ただ見当違いである事を恐れていないだけだ。
本を読み終わったとき、雨が激しさを増した。ここまで降りしきる弾幕は、誰も避けられないだろう。そういう弾幕はスペルカードルールの観点から言えば、意気地のない弾幕なのだという。スペルカードルールは意気であるべきで、上品で、派手で、甘味をともない、なにより絶対だった。
ただし、絶対かもしれないが不変ではない。規則の改正や調整は常に行なわれていて、ひどい時には一年ごとどころか、文字通り朝令暮改された事もあったという。もっとも、やるべき事は本質的にまったく変わらないので、プレイヤーが迷惑しているという話も無さそうだが――
「……ルール」
私は呟いた。
ルールの解釈は幾通りも存在し得る。絶対ではあるが不変ではないからだ。
ルールは全てを定めている――たとえ非ユークリッド空間であっても、座標軸に忠実であり続けるくらいには――しかしルールは言葉で綴られる。言葉を飛び越える事はできない。
言葉は、誤謬と空想、相互不理解などを餌としている生き物だ。ゆえに人々が間違い、思いを巡らせ、そして分断され続ける限り、彼らが発生し増殖し続ける事は止められない。
わからないもの、曖昧なものが最強の武器だと、あの手紙は書いていた――そして言葉こそが、なによりもわからないもの、曖昧なものだった。
この問題に検討は必要なかった。可能か不可能かという問題は、とうに分水嶺を越えていた……なかば自棄気分が手伝っているのも確かだが、ここまでくれば、どうせ全てが可能事だ。
私は長屋を飛び出し、雨の中へと身を曝した。正直、私自身は雨粒を避けるよりも、雨でも駆け回る方が好きなたちだった(さっきから自分のことを語りがちでいけない)。ずぶ濡れになるのも構わず、路上に泥まみれになっている書物に飛びつき、それを開いた……
体が冷えたのだけが気になる。そろそろ助産師を探さなくてはなるまい。
というわけで、私は、幻想郷縁起の一部――流通している数多ある幻想郷縁起の、ほんの一部分にすぎないが、それでも確実に存在している――に、幾つかの罠をしかけた。罠というよりは、ちょっとしたいたずらだ。このいたずらは、文字禍が当該の一文を参照する事によって作動する。その時限爆弾のいずれかが爆発する可能性とは、どれほどのものだろう。
あるいはもう爆発しているだろうか……。
幻想郷縁起の氾濫が落ち着いて――この解決が私のおかげだとは思わない、むしろ解法の性質上、なにがしかでも寄与しているなどとは、想像してもいけない――から少し経って、私は連れ合いから一冊の本をプレゼントされた。
『曰く付きの人形物語』――これは、私が求めていた幻想郷縁起の参考文献の、最後の一冊だった。正直、クリスマスプレゼントより嬉しいという事はなかったが、ありがたく受け取っておく。
著者の人形遣いさんは、よく人里に来るそうだ――子供相手に人形劇をして、ついでのようにこの本を売っていく。品のいいお姉さんだという。
本を開いて著者近影を見ると、確かに美人だった……というか、私も見た事がある。なるほど、たしかにこの里には、妖怪も神様も魔法使いも、どこにでもいるのかもしれない。
ところでこの本は自費出版らしいが、どうも売り上げがかんばしくないという話を聞いて、上品な彼女の家に、在庫の段ボールが積み上がっている様子を想像した。面白い。――実際は里に倉庫でも借りている可能性はあるが、私は面白い想像を取る。
……面白い想像ついでに、こうも考えた。この本を売り捌きたいなら、このお人形さんのような著者近影を、数ページごとに掲載すればいい、と。
いや、もっと想像を押し進めてみよう。
表題が『曰く付きの人形物語』ならば、きっと幾つかの、人形にまつわる話を集成している。物語には挿絵がつきものだ。それを彼女自身による再現写真に変えてしまうのだ……一応、物語の情景に沿った形で。
たとえばホフマンの『砂男』におけるオリンピアを例にとろう(あのグロテスクな逸話が、この本に掲載されているかどうかなど知らない)。彼女がその場面を再現する主役となる。そして、目玉をくり抜いて失うべきだ。それを人形にさせる事もできるが、彼女自身が目玉を落とすのだ。人間たちは代わりに人形が演じればいい。そんな場面を掲載しよう。ちょっと扇情的なキャプションと共に。
人形のような美少女が、腐った果実のように目玉を落とし、ペトルーシュカのように切り刻まれ、鉄腕アトム――彼は実に様々な死に方を経験した人形だ。人形の死に関しては一等の権威と言っていい――のように朽ち果てていくのを、世の人々が楽しんで見るのかと尋ねられれば、当然楽しむに決まっている。
……と、勝手な想像を膨らませてみたが、肝心の本の方はまだ開いてすらいなかった。こういうのは本当に良くないクセだと思う。
本を開くと、そこには文字がいっぱいだった。
彼らはこれからも私たちを困惑させてくれる事だろう。
わけのわからないものがわけのわからないまま突き進んでいくようですごく楽しかったです
主人公は自分を平々凡々人と思っているようですが、読めば読むほど主人公の非凡さが露わになっていくところにワクワクしました
実際東方ファンは幻想郷縁起を読んで色んな解釈をしていますしね。