鶯の囀りが耳に心地の良い振動を与え、葉脈の一筋まで透かされて顕にした葉緑を通して斑模様になった日光が爽やかに輝き、六角形の幾重かの虹が視界の一隅に居座る。気温はやや暑く、しかしこの景色と共なれば不快は感じ得ない。妖怪の山の傾きの最中に建つ質実剛健で頼りがいがあり、尚且つ隠者を思わせるひっそりとした佇まいの藁葺の邸の中庭に通ず縁側に片側の開かれた、内と外とが曖昧な、畳と木の匂いの染み付いた部屋にて、将棋台を挟み対局する二人。
一方は大天狗・飯綱丸龍。その眼は鋭く大局を見据える力を湛え、眉間はその思慮の深さを思わせ、胡座に肘を付いて盤面を見る様は、押しも押されもせぬ大貫禄を備え、微動だにせず次の一手を思考している。もう一方は管狐・菅牧典。彼女は今は辛うじてこの座に座っているが、注意と視線は中庭から入って来て動かない飯綱丸の頭に止まっている羽虫に向いており、いつ飛びかかって行ってしまうのか知れない。態度は対極、飯綱丸圧倒的勝利の図面がありありと浮かび上がっている。
大将棋用の広い盤の中でわざわざこじんまりと普通の将棋の駒がぎゅうぎゅう詰めに配置された盤面の上では、典率いる玉将軍団の飛車の成った龍が、未だ敵の駒を一つも取らない内の飯綱丸の王将軍団を蹂躙していた。最後に典が手を指してから実に三十分。その間ずっと龍は皮肉にも自身の名の字を冠する駒の打倒策を捻り出そうとしていたのであった。愈々我慢ならぬ様子の典が云う。
「飯綱丸様。もう四半刻、私はずーっとずぅーーっと待たされているのですが。これじゃ暇潰しが暇潰しになっていません。暇作りです。もう飯綱丸様が自分でこんな大層な将棋盤を持ち出して将棋を持ち掛けて来る癖に、初心者に完封負けするクソ雑魚なのは身に沁みて分かりましたよ。早く降参して下さい。早く、はーやーく!」
畳を諸手でバンバンと叩き、ぷくりと頬を膨らませて、怒りを全身で表現する典であったが、勝手に出て行ってしまわない辺り、ただ可愛らしいばかりのペットのじゃれつきである。
「ああ、煩い! 何か起死回生の一手がここまで浮かび上がって来ていたと言うのに、お前のせいで忘れてしまったじゃないか!」
「往生際が悪いですよ! 私の身にもなってみてくださいよ! もう足も痺れて限界、ほぼ勝ち確定みたいな状態で待たされる事四半刻! それだけあれば飯綱丸様の一人や二人籠絡して破滅させられますよ!?」
「じゃあ私はこうしていて得じゃないか。私は負けないし、破滅もさせられないのだから。」
典が一層頬を膨らませると、唐突にぴしゃりと戸が開き、幾分離れているにも関わらずがんがん耳に届く胴間声が響いた。家全体がビリビリと響き、羽虫が音を立てて飛んで行った。
「失礼、めぐむー! 風呂を借りるぞぉ! いやぁ、落盤に遭って汚れちまったよ、参った参った。」
返事を待つ事も無く、ずかずかと入り、服を脱ぎ、水を浴びる音が聞こえた。既に許可を出すタイミングを失っているにも関わらず、龍は不動の態勢を崩し、立ち上がるついでに将棋盤をひっくり返して勝負無しとして、声の主に許可を出した。典の呆れた視線も構う事は無い。
飛び散った駒を搔き集め、将棋盤を仕舞った辺りで水音が止まり、片付けが済んだ辺りでほかほかと湯気を纏って声の主、姫虫百々世が部屋に入って来た。背中には龍珠を山と盛った籠が背負われ、服には土汚れがちらほらと見える。龍は普段謀略と欺瞞に満ちた大天狗の表情とは思えない、心底からの心配を浮かべた。
「落盤だって? 大丈夫なのか?」
「ふふふ、お前は過保護だなあ。大丈夫に決まってるだろ、俺の甲殻の硬さを舐めて貰っちゃ困る。」
「ああ、そうか。それなら何よりだ。」
甲殻なぞ何処に在ると問いたげな典を置いて、二人は並んで縁側に腰掛けた。百々世は背負った籠を下ろし、目一杯に広がる美しき森を風流と思う気遣いも無く、満載された虹色の龍珠を食べ始めた。バリバリと煎餅の様な音を立てて、鉱石が歯に砕かれ欠片が嚥下されて行く。龍はふと、友人の食べている物がどんな味なのか気になり、夢中になっている百々世の目を盗んで一つ、一番小さな、串団子の一個分位の龍珠を選りすぐって齧ってみた。大き目の飴玉にも見える輝きに歯が到達した途端に襲う、顎に掌底を食らったかの様な痛み。少し涙目になった龍が舌で龍珠を転がそうとも、味覚はうんともすんとも龍珠に反応しない。龍珠を吐き出し、歯が欠けていないか確認する龍であったが、百々世と龍の間にぬるりと割って入った典に口を開けて閉じて歯を嚙み合わせる様子を笑われたので、龍は尾を思い切り握り絞め、典はぎゃあと叫んで転がり逃げた。
二人は他愛もない世間話を交わす。ジッパーと虹色の変な神について、龍珠に代わる安定食料源や金策について、大百足の戦闘意欲と食欲を満たせる強者について。百々世は目を疑う様な速さで龍珠を喰らい、そこまで話した所で山盛りの龍珠は全て百々世の胃袋に収まってしまった。口の寂しくなった百々世は、龍の左の人差し指をしゃぶり出した。
「やめてくれ百々世、こそばゆいよ。」
言葉とは裏腹に、龍は百々世の口から手を引っ込める事もせず、本当にこそばゆそうに笑うばかりでされるがままにされている。舌が指の形をなぞり、唾液が糸を引き、すっかり塗れさせ、口腔の温もりが指を温める。ふと龍は、彼女自身の人差し指を咥え、多少顔を赤らめ乍らも熱心に、恍惚として味わう百々世を見て、私とはそんなに心奪われる程美味なのかと思った。
「百々世、私って美味しいの?」
百々世は指をバリバリと煎餅の様な音を立ててゆっくりと咀嚼し、口の周りの汚れを全て舐め取り、指の全てを味わい尽くしてから答えた。龍は自分の歯が龍珠に文字通り歯が立たない強度であったのだから、それより下の強度の指を食べるオノマトペが龍珠と同じと言う事を可笑しく思った。
「ああ、旨い。この世に又と無い最高の食材さ。少なくとも俺は今までお前よりも美味い物を食べた事は無いし、これからも無いだろうな。」
掛け値無しの最高の賞賛を得て、龍は素直に、子供の様に喜んだ。飢饉の際に多くの命を救った飯綱権現として、美味いと呼ばれる事は、至上の賞賛と受け取れた。それと同時に、龍は具体的にはどんな味なのかも気になった。
「具体的にはどんな味?」
百々世はもう二の腕まで食べ進み、可愛らしい顔に似合わない鋭利な歯を使って肉を食い千切る。腕の本体から離れてもぷるんと形を戻す健康な弾力の肉を啜る様にして、目を輝かせ、ハムスターの様に頬張って舌鼓を打つ姿は、食べられる当の本人にすら美味しそうだと思わせた。肉が剥がされて剝き出しになった骨も、骨髄諸共に齧り取った。骨髄から旨味が口一杯に広がって、百々世の表情が綻んだ。龍が愛おしげに微笑む。
「口に入れるたび極楽な…膏でも無く、肉質とも言えなくて、味でも無く…うーん、心では分かってはいても、いざ口に出すとなると難しいな…」
完全に無くなった左腕から流れる、嫌になる程熱く命を宿した血液。百々世はポンプの如き勢いで吹き出る血を、顔が、服が、全身が真っ赤に染まるのも気にせずに飲む。ムラ無く紅くなった喉仏が血管の様にどくりどくりとせり下がる。
「凄く抽象的で、味の説明にもなっていないけれども…」
「うん。」
「友情、それを形にして飲み込むみたいで、暖かくて…優しくて…。そんな感じの、味がするんだ。」
「そうか……。」
言った後で照れて、恥ずかし気に百々世が顔を掻き、龍はか細く息を漏らした。今や盛んに噴出していた血の命脈もぽたりぽたりと滴が垂れるばかりに枯れ果てて、視界も何だか焦点が合わず、夢を見ている様なふわふわした気分であった。龍は降って湧いた様に堪らなく眠くなり、右側に寝転んだ。
「偶には昼間から、友人の隣で寝てみるのも、良いかも知れないな…。」
百々世は何も言わず、唯龍に寄り添って座っていた。その表情が果たしてどんなものであったのかすら、今の龍には分からなかった。
「おやすみ、ももよ。」
「おやすみ、めぐむ。」
その言葉を最後に、龍は朦朧としていた意識を手放した。
一方は大天狗・飯綱丸龍。その眼は鋭く大局を見据える力を湛え、眉間はその思慮の深さを思わせ、胡座に肘を付いて盤面を見る様は、押しも押されもせぬ大貫禄を備え、微動だにせず次の一手を思考している。もう一方は管狐・菅牧典。彼女は今は辛うじてこの座に座っているが、注意と視線は中庭から入って来て動かない飯綱丸の頭に止まっている羽虫に向いており、いつ飛びかかって行ってしまうのか知れない。態度は対極、飯綱丸圧倒的勝利の図面がありありと浮かび上がっている。
大将棋用の広い盤の中でわざわざこじんまりと普通の将棋の駒がぎゅうぎゅう詰めに配置された盤面の上では、典率いる玉将軍団の飛車の成った龍が、未だ敵の駒を一つも取らない内の飯綱丸の王将軍団を蹂躙していた。最後に典が手を指してから実に三十分。その間ずっと龍は皮肉にも自身の名の字を冠する駒の打倒策を捻り出そうとしていたのであった。愈々我慢ならぬ様子の典が云う。
「飯綱丸様。もう四半刻、私はずーっとずぅーーっと待たされているのですが。これじゃ暇潰しが暇潰しになっていません。暇作りです。もう飯綱丸様が自分でこんな大層な将棋盤を持ち出して将棋を持ち掛けて来る癖に、初心者に完封負けするクソ雑魚なのは身に沁みて分かりましたよ。早く降参して下さい。早く、はーやーく!」
畳を諸手でバンバンと叩き、ぷくりと頬を膨らませて、怒りを全身で表現する典であったが、勝手に出て行ってしまわない辺り、ただ可愛らしいばかりのペットのじゃれつきである。
「ああ、煩い! 何か起死回生の一手がここまで浮かび上がって来ていたと言うのに、お前のせいで忘れてしまったじゃないか!」
「往生際が悪いですよ! 私の身にもなってみてくださいよ! もう足も痺れて限界、ほぼ勝ち確定みたいな状態で待たされる事四半刻! それだけあれば飯綱丸様の一人や二人籠絡して破滅させられますよ!?」
「じゃあ私はこうしていて得じゃないか。私は負けないし、破滅もさせられないのだから。」
典が一層頬を膨らませると、唐突にぴしゃりと戸が開き、幾分離れているにも関わらずがんがん耳に届く胴間声が響いた。家全体がビリビリと響き、羽虫が音を立てて飛んで行った。
「失礼、めぐむー! 風呂を借りるぞぉ! いやぁ、落盤に遭って汚れちまったよ、参った参った。」
返事を待つ事も無く、ずかずかと入り、服を脱ぎ、水を浴びる音が聞こえた。既に許可を出すタイミングを失っているにも関わらず、龍は不動の態勢を崩し、立ち上がるついでに将棋盤をひっくり返して勝負無しとして、声の主に許可を出した。典の呆れた視線も構う事は無い。
飛び散った駒を搔き集め、将棋盤を仕舞った辺りで水音が止まり、片付けが済んだ辺りでほかほかと湯気を纏って声の主、姫虫百々世が部屋に入って来た。背中には龍珠を山と盛った籠が背負われ、服には土汚れがちらほらと見える。龍は普段謀略と欺瞞に満ちた大天狗の表情とは思えない、心底からの心配を浮かべた。
「落盤だって? 大丈夫なのか?」
「ふふふ、お前は過保護だなあ。大丈夫に決まってるだろ、俺の甲殻の硬さを舐めて貰っちゃ困る。」
「ああ、そうか。それなら何よりだ。」
甲殻なぞ何処に在ると問いたげな典を置いて、二人は並んで縁側に腰掛けた。百々世は背負った籠を下ろし、目一杯に広がる美しき森を風流と思う気遣いも無く、満載された虹色の龍珠を食べ始めた。バリバリと煎餅の様な音を立てて、鉱石が歯に砕かれ欠片が嚥下されて行く。龍はふと、友人の食べている物がどんな味なのか気になり、夢中になっている百々世の目を盗んで一つ、一番小さな、串団子の一個分位の龍珠を選りすぐって齧ってみた。大き目の飴玉にも見える輝きに歯が到達した途端に襲う、顎に掌底を食らったかの様な痛み。少し涙目になった龍が舌で龍珠を転がそうとも、味覚はうんともすんとも龍珠に反応しない。龍珠を吐き出し、歯が欠けていないか確認する龍であったが、百々世と龍の間にぬるりと割って入った典に口を開けて閉じて歯を嚙み合わせる様子を笑われたので、龍は尾を思い切り握り絞め、典はぎゃあと叫んで転がり逃げた。
二人は他愛もない世間話を交わす。ジッパーと虹色の変な神について、龍珠に代わる安定食料源や金策について、大百足の戦闘意欲と食欲を満たせる強者について。百々世は目を疑う様な速さで龍珠を喰らい、そこまで話した所で山盛りの龍珠は全て百々世の胃袋に収まってしまった。口の寂しくなった百々世は、龍の左の人差し指をしゃぶり出した。
「やめてくれ百々世、こそばゆいよ。」
言葉とは裏腹に、龍は百々世の口から手を引っ込める事もせず、本当にこそばゆそうに笑うばかりでされるがままにされている。舌が指の形をなぞり、唾液が糸を引き、すっかり塗れさせ、口腔の温もりが指を温める。ふと龍は、彼女自身の人差し指を咥え、多少顔を赤らめ乍らも熱心に、恍惚として味わう百々世を見て、私とはそんなに心奪われる程美味なのかと思った。
「百々世、私って美味しいの?」
百々世は指をバリバリと煎餅の様な音を立ててゆっくりと咀嚼し、口の周りの汚れを全て舐め取り、指の全てを味わい尽くしてから答えた。龍は自分の歯が龍珠に文字通り歯が立たない強度であったのだから、それより下の強度の指を食べるオノマトペが龍珠と同じと言う事を可笑しく思った。
「ああ、旨い。この世に又と無い最高の食材さ。少なくとも俺は今までお前よりも美味い物を食べた事は無いし、これからも無いだろうな。」
掛け値無しの最高の賞賛を得て、龍は素直に、子供の様に喜んだ。飢饉の際に多くの命を救った飯綱権現として、美味いと呼ばれる事は、至上の賞賛と受け取れた。それと同時に、龍は具体的にはどんな味なのかも気になった。
「具体的にはどんな味?」
百々世はもう二の腕まで食べ進み、可愛らしい顔に似合わない鋭利な歯を使って肉を食い千切る。腕の本体から離れてもぷるんと形を戻す健康な弾力の肉を啜る様にして、目を輝かせ、ハムスターの様に頬張って舌鼓を打つ姿は、食べられる当の本人にすら美味しそうだと思わせた。肉が剥がされて剝き出しになった骨も、骨髄諸共に齧り取った。骨髄から旨味が口一杯に広がって、百々世の表情が綻んだ。龍が愛おしげに微笑む。
「口に入れるたび極楽な…膏でも無く、肉質とも言えなくて、味でも無く…うーん、心では分かってはいても、いざ口に出すとなると難しいな…」
完全に無くなった左腕から流れる、嫌になる程熱く命を宿した血液。百々世はポンプの如き勢いで吹き出る血を、顔が、服が、全身が真っ赤に染まるのも気にせずに飲む。ムラ無く紅くなった喉仏が血管の様にどくりどくりとせり下がる。
「凄く抽象的で、味の説明にもなっていないけれども…」
「うん。」
「友情、それを形にして飲み込むみたいで、暖かくて…優しくて…。そんな感じの、味がするんだ。」
「そうか……。」
言った後で照れて、恥ずかし気に百々世が顔を掻き、龍はか細く息を漏らした。今や盛んに噴出していた血の命脈もぽたりぽたりと滴が垂れるばかりに枯れ果てて、視界も何だか焦点が合わず、夢を見ている様なふわふわした気分であった。龍は降って湧いた様に堪らなく眠くなり、右側に寝転んだ。
「偶には昼間から、友人の隣で寝てみるのも、良いかも知れないな…。」
百々世は何も言わず、唯龍に寄り添って座っていた。その表情が果たしてどんなものであったのかすら、今の龍には分からなかった。
「おやすみ、ももよ。」
「おやすみ、めぐむ。」
その言葉を最後に、龍は朦朧としていた意識を手放した。
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