私はいつしか、「貴方の香りは、珈琲と煙草の香り」だと言った。
貴方は笑いながら口から煙を吐きだすと「随分昔の探偵映画のワンシーンみたいね」と言い、私に軽く口づけをした。私の口内にはつんとした香りが広がり、その風味を暫く味わいながらぼんやりと明りが灯っていない照明を見上げ、傍で感じる貴方の鼓動を感じながら微睡に滑り落ちていく。
微かに見える貴方の瞳、私を撫でる手、滑らかな肌、心音、香り、五感全てが幸福と認識してしまうのが、やや悔しいが、私はそれに抗うことが出来ず、貴方の名前を呟きながら意識は遠のいて行った。
〇
貴方の匂いが漂う空間で、しっぽりと贅沢な時間を過ごす。
それは私が知らない貴方の匂いだったので、随分と長い間共に過ごしてきたけれど、ここに来て貴方の新たな一面が垣間見えたような気がした。
多弁な貴方は今日ばかりは随分と静かで「なにか嫌なことでもあったのかしらん?」と少しからかってやろうかと思ったが、下手をすると火傷してしまいそうだから、貴方にバレないようにそっと手を引っ込めた。
殺風景な部屋に貴方と二人きり、とは行かず。何人か見知った顔もあるが、大多数は名前も顔も知らない人ばかりで、仕方ないとは言え正直つまらない。
群衆に囲まれている貴方を遠巻きに眺めていると改めて気づいたことがある。
貴方は存外細い体をしていたこと、貴方は小柄だということ、貴方は素っ気ないということ。貴方の瞳に私が居ないと寂しいと思うこと。
私の順番はまだだろうか、そう思いながらもじもじしていると、貴方の息子さんから「マエリベリーさん。どうぞ」と言われ、急いで貴方に駆け寄った。
随分と色白になった貴方は、静かに横たわり、ぼんやりと明るく照らされる照明を眺めている。「眩しくないのかしら」そう思ったが、その眼は既にないことを思い出した。
〇
あれだけ墓を荒らし、隙間をかいくぐり、好奇心に身を任せて前に進み、人外をそそのかし、挙句の果てに「何か」に襲われてもなお、貴方は飄々と天寿を全うした。
享年九五歳。貴方は年老いてもなお、好奇心に満たされた瞳を輝かせ、何時迄も出会った頃の輝きを魂に宿して、私の心を離さなかった。それ故、貴方が結婚すると知った時は酷く落ち込んだわ。
最後に会ったのはほんの数週間前。貴方は随分と上等な革張りの黒いチェアに座り、パイプを吸いながら、瑞々しく、眩しい程の青葉を眺めていた。
「ねぇ蓮子」
「なんだい、メリー?」
絹の様な柔らかい声が返事を寄越す。
「ごめんなさい。貴方は連れていけなくて」
「急に改まってどうしたの?メリーらしくもない」
いつの間にかに部屋に忍びこんでいた飼い猫は、気づけば貴方の膝を陣取り、ゴロゴロと心地いい声で鳴いている。
「その話は随分と昔に終わっていたと思うけど?」
「でも、やっぱり貴方を置いて行くのは」
「老いて枯れる、それは仕方のないことさ」
余裕のない、今にも両目に溜めた涙がこぼれ落ちそうな私とは対照的に、貴方は随分と落ち着いた声で、そして何かを悟ったような清らかな顔で私を見つめていた。
「大丈夫だよ。メリー」
貴方は猫を床に下すと、ゆったりと立ち上がり、私が座っているソファーの所までやってきて、私の隣に腰を掛けた。ポケットからハンカチを取り出すと、気取ったように私の涙をハンカチで拭う、そして枯れ木の枝のように角ばった手が、私の手を暖かく包み込んだ。
「私たちは、いつでも」
「二人(秘封俱)で一つ(倶楽部)だもんね」
貴方はしわだらけのになった顔を、更にくしゃくしゃにしながら笑った。私もつられてにっと笑えた。
「ねぇ、蓮子。最後に、わがままを言ってもいいかしら?」
「あぁ、この老体に出来ることならなんでもね」
私は貴方の耳元で囁く。それを聞いた貴方は、先程まで緩んでいたはずの瞼の筋肉をグッと上に持ち上げて私を見つめる。暫くすると、こみ上げてくる笑いに耐え切れなくなったのか、声を押し殺しながら笑う。
「親友の最後の頼みを笑うなんて失礼ね」
「いいやぁ、失敬。しかし、やっぱり君は最高だなぁ。良いよ、しかしバレたら面倒だ。慎重にやりな」
「勿論。何度も貴方と無茶やって来たんだから、それぐらい出来るわよ」
私たちは少女のように笑った。それが貴方との最期の思い出になるとは薄々勘付いていたけれど、口には出さなかった。
口に出してしまうと、矮小な私が泣き出してしまう、そう思ったからだ。
〇
ついに私の番が来た。
骨壺と言う小さなツボに詰められる貴方を私は不憫に思った。だからこそ、これはやり遂げなければならない。
「貴方の遺骨が欲しい」それが私の最期の願いだ。
すっかり骨だけになった貴方を見つめながら、骨を拾う。
そう見せかけて、私はさりげなく「隙間」を展開して、貴方の一番大きな遺骨を素早く鞄の中へ落とした。
粛々と式は終わり、蓮子の親族と別れを告げると私は蓮台野へ向かった。
〇
「ねぇ蓮子。懐かしいわね。随分と街並みは変わったけれど、ここだけは当時のまま」
蓮台野。秘封俱楽部最初の活動で訪れた場所だ。ここで墓荒らしを始めた蓮子に対してマエリベリーは「なんて恐れ知らずなやつ」と内心思ったのを昨日の様に思い出していた。
マエリベリーは先ほど掠め取った蓮子の遺骨の端を軽く折り、その一欠けらを口の中へ放り込む。
蓮子の味、香り、肌触り、瞳、心音、大学時代、秘封俱楽部、二人で日本全国を旅行したこと、私の実験に付き合い大けがした蓮子を看病したこと、蓮子は隙間の向こう側に行けないと知った日、そして日に日に強くなる力に怯える私を蓮子が抱きしめてくれた日。婚約前に私を優しく抱いてくれた夜。貴方の感触を思い出して泣いた夜。全てがその一欠けらに濃縮されているのを感じて、走馬灯のように思い出がマエリベリーの周りを通り過ぎていく。
やがて両目から零れ落ちる涙を袖で拭うと、先程まで壮年の女性であったはずのマエリベリーはもうそこには居ない。
古木のようであった肌は瑞々しさを取り戻し、乾ききった髪はしなやかに、瞳は怪しく煌めき、妖艶な美しさを纏うその姿は、言い表せない程に美しい。
「さぁ、行くわよ。蓮子。これからなんだからね」
「もちろんよ、メリー」
遥か彼方から微かに聞こえた声にマエリベリー、いや八雲紫は笑みで返して、目の前に開けた隙間に飛び込んでいった。
そのストレートな欲求が次作以降も出ることを期待します