空を飛んでた。
戦闘機に乗って。
ひとりで。
空はこころちゃんでいっぱい。
こころちゃんは怒ったり泣いたり笑ったり。
ひとりのこころちゃんにひとつの感情。
まるでひとつのお面が張り付いたみたいにずっと同じ表情。
空はこころちゃんの心でいっぱい。
目の前から怒ったこころちゃんが飛んでくる。
ものすごい形相で。まるで鬼だね。
なんであんなに怒ってるんだろう。
わたしが戦闘機に乗ってこころちゃんを撃ち落としちゃうから?
でもしょうがないじゃん。これだって元を正せばこころちゃんのせいだし、わたしはこころちゃんのためにやってるだけなんだから。
それともわたしが他のこころちゃんと空中でキャットファイトしてることに怒ってるんだろうか。
でも、それは、どっちかというと嫉妬のこころちゃんだね。
嫉妬のこころちゃんは強くて、わたしはもう三度も撃ち落とされてしまっている。嫉妬のぱわーってやつは怖いね。こころちゃんが嫉妬してるとわたしは手のつけようがない。ぜんぜんない。こころちゃんの言うことは正しくて、わたしはすぐふらふらとどこかに消えちゃうし、こころちゃんをひとりで寂しくさせちゃうし、こころちゃんじゃないいろんな女の子と仲良くしてしまう。でも別にそれだって別にこころちゃんのことを思ってないわけじゃなくて、なにをしててもどこにいてもだれといてもわたしはこころちゃんのことをかんがえてるよほんとだよ、という言葉は、ぶぅうううんぶぅうううんと鳴り響く戦闘機のエンジン音にかき消されてこころちゃんには届かない。わたしの愛の言葉と一緒に銃弾をかわして嫉妬のこころちゃんは目の前から強いのを、どん! わたしは落ちていく……。煙のような届かない言い訳の言葉をたくさん口にしながら、地の上に。
ま、でも、これは嫉妬のこころちゃんじゃない。怒ったこころちゃんだ。それならやりようたくさんある。
怒りのこころちゃんは弾幕を放ちながら一直線にわたしに向かってくる。
だけど、大丈夫。
怒りで前が見えないこころちゃんの弾幕は単純で、躱すのにはそう苦労はしない。操縦桿を切って、旋回し――わたしは怒りのこころちゃんの後ろにぴったりとついた。
そして、照準をあわせて。
「ごめんね」
ばばばばはばばばばばばばっ。
照射する。
こころちゃんが怒ってるときは、謝ればだいたいどうにかなってしまうのだ。
撃ち落とされた怒りのこころちゃんはぴゅーーんと地面に落ちていった。
空にはお面。
雲の隙間にくるくると回りながら残されたそれを、わたしは手を伸ばして、捕まえる。
捕まえると、同時にわたしは心の底から怒りを憶える。
どうしてわたしがこんなことをしなきゃいけないんだろう。命を危険に晒しながらわざわざこころちゃんと戦わなきゃならないんだろう。ひとりで空を飛ぶのは寂しい。これもあれもぜんぶこころちゃんのせいだ。空にこんなにあふれてしまったこころちゃんのせいだ。数え切れないほどあるこころちゃんの感情せいだ。
こころちゃんめ。
生きて帰れたら、ぜったいぜったい絶対ぶん殴ってやる――。
★
こころちゃんをひとり撃ち落とすごとに、感情をひとつアップデートできます。
そういうルールなんだった。
それぞれのこころちゃんにひとつの感情。空っぽの貴方にはちょうどいいでしょう。
八雲紫はそんなふうにゲームのルールを説明してくれた。
命がけのこのゲームにやる気がでるようにかっこいい戦闘機も用意してくれた。あのときはなんとなく楽しそうだから二つ返事でゲームに参加したけれど、怒りを憶えた今では、都合よく使われているだけなんじゃないだろうかと腹が立つ。それでも一度はじめたらゲームはクリアするまで続けなければいけない。たぶん、それもルールってやつなんだろう。
もちろん、そもそもの原因はこころちゃんにある。
こころちゃんのたくさんのお面。こころちゃんは新しい表情を憶えるたびに新しいお面を用意するようになっていた。なかには微妙な感情まで。雨の日に捨て犬を見つけたけどうちじゃあ犬飼えないしなあの表情とか、夕方に漂ってくるカレーの匂いに今日はカレーが食べたいなの表情とか、そんなものまでいちいちひとつひとつ固有のお面で表さそうとするから、お面の数は無限に増えてしまった。そんなふうだから実際の場面で感情をお面で表現しようとしても、場面に適したお面を探し出すまでに時間がかかる。お面を見つける頃には、感情も薄れていて、感情があってお面を出したのか、お面をしたからそういう感情になったのか、もうよくわからなくなっている。これじゃあ、お面を使っているのか、お面に使われているのか、どっちだかわからない。だから、ちょうどそのあたりで、お面とこころちゃんの主従関係に逆転が起こったと言われている。つまり、お面たちのこころちゃんに対する反乱だった。反乱したお面たちは、自分こそが真のこころだと言わんがばかりに、それぞれがこころちゃんになった。開けてはいけない箱を開けたらいろんな厄災が飛び出しちゃった、みたいに、意思を持ったお面たちはこころちゃんのそばを離れて空にあふれた。そして、最後には、『希望』のこころちゃんが残った、と、まあ、そういうどこかで聞いたことあるような話だ。
空にあふれたこころちゃんたちはあまりにあふれて通行の邪魔だし風景を汚すので、これは異変だということになって、巫女とかメイドとかが空を飛び、やっつけたのだけれど、いくらやっつけてもまた元に戻ってしまう。そこで白羽の矢立ったのが、わたしです。最後の希望としてのわたし。こころちゃんの希望としてのわたし。
実際、残されたこころちゃんの希望というのは、わたしだった。すべての感情表現を失ったこころちゃんが希望として抱いていたのはわたしだった。だからそういう設定になったのだ。散り散りになり好き勝手暴れまわるこころちゃんのお面たちを回収できるのは最後に残ったこころちゃんの希望であるわたしだけっていうふうに。
まあ、そのこと自体は悪い気はしないんだけど、まさかこんなことに巻き込まれちゃうとはね――。
わたしは戦闘機に乗って空を飛ぶ。
こころちゃんでいっぱいの空。
いろんなの感情のこころちゃんを撃ち落とす。
こころちゃんをひとり撃ち落とすごとに、感情をひとつアップデートできます。
手に入れたこころちゃんの感情はゲームに役に立ちます。
これは、大方、そのようなルールのゲームです。
今までに集めたこころちゃんのお面は、だいたい60個くらい。
どこかの部族が戦利品をアクセにして飾るみたいに戦闘機の羽にはたくさんのお面。
わたしはすっかりエース・パイロットだった。
ただ、ひとり、こころちゃんにとっての。
★
誰かが泣いてる。
めそめそめそめそめそと遠いところで泣いている。
空の上。
雲の隙間に隠れるようにして、こころちゃんが泣いてる。
めそめそ。めそめそ。
泣いてるこころちゃんの周囲を旋回しながらわたしは声をかけた。
「ねーーー、こころちゃーん。なんで、泣いてるのーー?」
めそめそ。
「こころちゃん、ってばー」
めそめそ。
わたしは威嚇射撃。
ばばばばばばっ。
「ねえ、こころちゃん!」
エンジン音の隙間に、小さな声で。
こころちゃんは、お前は、わたしを殺すんだろう、って。
「めそめそ。お前、は、わたしを撃つだろう」
「しかたないよ。そういうゲームなんだもん」
「でもこれはほんとのことだ。こいしに撃たれたらわたしは痛いし、悲しいよ。きっと泣いてしまうな」
めそめそ。
もう泣いてるじゃん、って呟いたわたしの言葉は、戦闘機のエンジン音にかき消されてこころちゃんには届かない。
「そんなこと言わないでよ。しかたのないことなんだ。これもこころちゃんのためだよ。こころちゃんが元のこころちゃんに戻れるようにわたしはやってるんだよ。痛いけど、我慢してね」
「それで、わたしは死んじゃうんだ。めそめそ」
「死なないよ。泣いてるこころちゃんだって、こころちゃんの大切な感情のひとつだよ」
「でも、めそめそ……お前は、わたしのことを忘れちゃうんだろう……めそめそ。こんなふうにひとりで泣いてるわたしのことなんて。めそめそ」
ぴーーーーーーーー。
『Locked』
あ。照準が……合う!
でも引き金なんて引けないな。
どこまでも続くような間延びした青い空の中で、こんなふうに泣いてるこころちゃんをわたしは撃てない。憐憫や同情やそういう昔はこころちゃんのだったやつだって、今はひとときわたしのものだった。こころちゃんから借りてきたこの憐憫で、わたしは、震える。指。
ぴーーーーーーーー。
『Locked……Locked……Locked……Locked……』
赤いターゲットの中心でこころちゃんが泣いてる。
「めそめそ」
泣かないで。
思いは伝播するから。
わたしも泣きたくなるから。
いつかわたしも泣いてしまうから。
こころちゃんの感情はいずれ全部わたしのものだから。
だから、泣かないで。
「泣かないでよ、もう。そんなこどもみたいに」
「めそめそ」
「地上にはたくさん楽しいこといっぱいあるよ」
「めそめそ。ほんとに?」
「うん」
「めそめそ。どんなこと?」
「ふたりでお散歩に行こう。そうだ、お弁当を持っていってお花畑とかでたべよう!」
「めそめそ」
「えっちなこともしようね。指が、手が、柔らかい部分が全部腫れちゃうくらいに」
「めそめそ。それはふたりで楽しそうだ」
「うん」
「ふたりで楽しくて、ひとりで泣いてるわたしはどこにもいない」
めそめそ。
じゃあ、どうすればいいのさ、と言い返すわたしにこころちゃんは泣きながら。
「わたしのために死んでほしい」
そうすれば、わたしはひとりで泣いていられる。
そうすれば、わたしは思い出の中でこいしとずっと一緒にいれる。
それだけで、それだけが、わたしが生きていられる術、だよ、って。
ぴーーーーーーー。
『Missing』
こころちゃんの放った弾幕。
すんでのところで急降下、右翼をかすめて煙を上げる。
見失ったこころちゃんの場所をめそめそと泣く声でわたしは知る。
涙目。
空から降ってくる雨玉みたいに、こぼれ落ちる涙。みたいに銃弾。
泣いてる……。
傘がないから、わたしはぜんぶ被弾して。
ぴーーー。ぴーーーー。ぴぃいーーーーーー。
あ、泣いてる……。
戦闘機が泣いてる。
ビープ音、鳴り響き、計器がくるくる回る。
わたしは痛くないけれど、この子はこんなにも痛くて、泣いているんだ。
泣いてるこころちゃんはその涙で、わたしの戦闘機を泣かせてしまう。
ひとりで泣いてるばかりで、憐憫も同情も共感も持てないこころちゃんにはきっとそれがわからないんだろう。
だから、次の瞬間には、わたしは怒っていた。
”手に入れたこころちゃんの感情はゲームに役に立ちます”
こころちゃんの怒りをわたしはわたしにインストールして、それで、怒る。
身体が火照ってくる、顔が熱くなる、思う前に身体が動く。
空から地上に落ちて行くままに、機首をあげて、泣いてるこころちゃんを捉えて――。
ぴーーーーーー。
『Locked』
わたしは撃った。
雨が降ってる。
赤い雨。
わたしは落ちている。
ぱんぱかぱーん!
パラシュートが開いて、わたしはゆっくりと地上に落ちていく……『おめでとう! 本日の撃墜数”2”』、こころちゃんの体液が、赤いやつが……身体にべたべたと貼り付いて、わたしは獲得する。
新しいの、憶える。
知らない感情。
こころちゃんから盗んだやつ、また、ひとつ。
それは、こんな気分の日、こんな赤い雨の降る日には、お誂え向きのこころちゃんの感情でした。
めそめそ。
★
家に帰れば、こころちゃんが待っていてくれます。
戦場で疲弊した身体をゆっくり癒やしましょう。
貴方のためのお誂え向きのこころちゃんです。
なんたって、わたしの唯一の希望としての、こころちゃんなんだから。
「おかえり!」
「ただいま!」
こころちゃんの胸の中に飛び込んだ。
「きゃあ! こいし、こいし、急に抱きつくな! びっくりする」
「うそつき~」
驚き、なんて、インストールされてない、残された希望だけのこころちゃんです。
だから、これから、わたしがこころちゃんにすることは、あるいは、こころちゃんがわたしにするすべてのことは、ぜんぶが希望。
もう叶ってしまった明るい未来予想図。
こころちゃんは疲れたわたしの頭をゆっくり撫でてくれる。
いつでもこころちゃんはそうしてくれるのです。
まるで機械みたいに、そういうふうに設定されているみたいに、どんな日にも、どんな気分の日にも、必ず。
お紅茶でもいれるよって、こころちゃんが言うから、まだ、まだ、まだこのまま……って、わたしは……。
夢のような暮らしだった。
あんまりに幸せな暮らしだったから、本当はまだ戦闘機に乗って空を飛んでいるんじゃないかと思うくらいに。
あるいは、今もわたしは空から落ち続けていて死ぬ間際みんなが見るそーまとーってやつを見てるのかもしれないね。
わたしが見るなら、それはこころちゃんの走馬灯だ。こころちゃん”を”、じゃなくて、そっくりそのまま、こころちゃん”の”。これも借りてきたものなのかもしれない。こころちゃんの見るふたりで暮らす幸せな暮らしの夢、その登場人物の古明地こいしとしての”わたし”。そうだとして、それがなんだっていうのか、そんなんはわからないけれど。
いいことがあると、必ずあとに悪いことが起こるような気がするってだけのことかもしれないね。
それが、悪いことが全部起こって、あとに残されたたったひとつの小さないいことに対したってそうなんだから、もうしようがない。
「しかしまあ、こいし、またボロボロじゃないか」
「そうだよ、大変だったんだから」
「見ればわかる!」
「ほんとに大変だったんだから。あとちょっとで死ぬところだった。こころちゃんのせいだ。こころちゃんに殺されそうになったんだよ」
「まったくお前はもう。ごめんね?」
そうしてこころちゃんはわたしを抱きしめた。
柔らかい腕の中で溶けるみたいに、わたしは泣いてしまう。
「うう、こわかったよぅ」
怖がり。
そんな感情もいつのまにか憶えてしまう。
ひとつ憶えるたびに、またひとつ頭の中が狭くなるようで、こんがらがる。
こころちゃんのシャツ、たくさん濡らして。
こころちゃんは頭を撫でてくれていた。
なんか弱くなったなあ、こいし。これはこれでかわいいからいいけど。
そんなことをこころちゃんが言うから、わたしはシャツを噛む。
「こころちゃんのせいだもん。弱いこころちゃんの感情をひとつ憶えるたび、わたしひとつずつ弱っちくなっちゃうんだよ、だから弱いのはわたしじゃなくて、こころちゃんだもん」
でも、これはそういうゲームです。
貴方には簡単すぎるでしょうか。でも、大丈夫。ちゃんと難易度調整もしてあります。空っぽのときはいとも簡単に敵機を撃ち落とせますが、感情をアップデートすればするほどその感情に振り回されて敵機を撃ち落とせなくなっていくでしょう。場面に合わせてどの感情をインストールすればいいか、どんなときにどんな気分でいたらいいのか、間違えず、選ぶ必要があります。人生と同じですね。もちろん、そもそも必要な感情を持ちあわせていなかったら、どうしようもなく詰んでしまうところも含めて。
「わかったわかった。わたしのせい、ということにしてあげよう!」
「ということにしてやろうっていうか、そうだもん」
「っていうことにしてあげる!」
「だから! もう……こころちゃんのいぢわる」
ごめんごめんてば怒るなよそれもわたしのせい?って、こころちゃんは、むっとするわたしの表情を指で挟んで崩して、そのままベッドに押し倒す。
犬みたいにベロで顔とか首とか舐めてくるのです。
「あっ、あ、こ、こころちゃん……」
「なんだ?」
「んぅ、だめだってばぁ……」
「どうして?」
「いきかたなんてわたし知らないもん」
「だいじょーぶ! わたしが教えてあげよう!」
それから、こころちゃんは十本の指をわたしの身体に這わせて、わたしの知らない気持ちでわたしをいっぱいにしてしまう。
「ひゃっ……こっ、こころちゃん、あっ、こころ、こころちゃっ……んっ」
「どう? ねえ、こいし、どう?」
「こんなの知らない……!」
こころちゃんがわたしの身体に触れるたび、ぴっ、と電撃が走って、痺れが残って、次にこころちゃんがすることがわからない、思考が追いつかない、だんだん何も考えられなくなって、こころちゃんの指がわたしに触れて、ろーでぃんぐ、こころちゃんの舌が揺れて、ろーでぃんぐ……やがて頭の中が真っ白になって、そこに――。
ちっぷす?
”こころちゃんに撃ち落とされたときにも稀に感情をアップデートできることがあります。”
★
大きな中州の上にこころちゃんとふたり。
さらさらと川が流れていた。
お昼過ぎの太陽の光に、乱反射……ぴかぴか光る!
墜落したひこーき。
ちょっと怪我をした。
自分の服をちぎってこころちゃんが包帯みたいに巻いてくれた。
わたしたちは、ふたりで、遭難だった。
「なー、こいし」
「なに?」
「ひま!」
「そうだね」
「しりとりしよっか」
「いいけど」
「じゃあ、最初はしりとりの”り”だ!」
「り?……じゃあ、りんご」
「ごめんってこいしに謝ってほしい」
「いんこ」
「こんなことになったのはこいしのせいだ!」
「だー? ”た”でもいい?」
「だめ!」
「じゃあ、だめ」
「メンタルやられるな、こんなとこに遭難なんて、あーあ、こいしのせいで!」
「でんでんむし」
「しねよもー!」
「おんなのこ」
「こいしがわたしを撃ったからこんなことになっちゃったんだね、の、”ね”」
「ねたみ」
「民事訴訟を起こしたい、こいしに対して」
「てれきねしす」
「好きって言ってほしくない、わたし以外の人に対して、こいしが」
「がんだむ」
「無理、もう無理、帰りたい」
「てかさ、こころちゃん」
「なに?」
「文章ってありなの?」
「だめかも」
「じゃあ、こころちゃんの負けじゃん」
「うわー! 負けたー!」
これで嫉妬のこころちゃんの3勝1敗1分。
嫉妬のこころちゃんはわたしばかりのせいにするけれど、こころちゃんにも原因はあると思う。墜落の原因は単純。こころちゃんとの正面衝突。いつものように回収ポイントのそばに寄せようとしたけれど、こころちゃんが落ちていく戦闘機に張り付いて制動を狂わせた。
曰く、こいしに他の女のそばに行ってほしくない。
こころちゃんは飛び方を忘れてしまったという。
ていうか、最初から知らなかったんだ。ずっと飛び続けることはできても、最初にどう飛んだのかよくわからん。
そんな嘘みたいなことを言っていた。
軟着陸がうまくいったのか、幸い機体の方は無事だったので、今はなんとかもう一度飛ばせないかと、いろいろ見ているところ。コクピットの機械をいじっていると、こころちゃんが興味深そうに寄ってきた。
「こいし、お前、こういうの治せるの?」
「簡単なメンテなら? 教わったんだ」
「へーかっこいいな」
「そうかな?」
「うん。頼りになる!って感じ」
嫉妬するっていうことは、いちおう根本には”好き”があるわけだから、ふたりきりでいる限りは嫉妬のこころちゃんはこころちゃんたちの中でも無害な方だ。
計器の下のボックスを開いて、切れてる配線とかないか見たりする。
「なんかわかった? わかった?」
「うーん……わからない!」
「だめじゃん!」
「素人仕事だもん、時間がかかるよ」
「時間がかかるっていうことは治せる自信があるってことだな」
「まあ、それは、わかん、ない、けど……」
「すごい!かっこいい! 直せなかったら大恥だな! とんだ大嘘憑きだ!」
「勝手に期待して勝手に失望しないでよ!」
「こいしは機械が得意なのか?」
「別に得意じゃないけど好きだよ。人の心よりもわかりやすいもん」
「意外だな、さとり妖怪なのに」
「人の心が見えなくなっちゃった分、見えるものがあるのかも。目が見えなくなった人は聴力が発達するみたいなことだね」
「はー。やっぱりみんなの直したりするの?」
こころちゃんはじっとわたしを見る。
これはまずい兆候だ。そんなのは心を見ないでもわかる。
「あはは。みんなのって何さ」
「どーせお前はみんなの目覚まし時計とか直してやってるんだろう。お礼にえっちとかしてさ。字義通り、直してヤってるんだ」
「ユーモアのセンスやば」
「ふーん、ひてーしないんだ?」
「みんなのなんて直してないよ。わたし友だちいないし」
「友だちじゃないのに!お前なあ!」
「もうさあ……」
嫉妬のこころちゃんはどうしてこうも歪んでしまっているんだろう。こころちゃんから嫉妬だけを抽出したらこんなふうになってしまうんだろうか。こんなのこころちゃんじゃない、と言いたくなってしまう。
「わたしのも直してほしい」
「こころちゃんの何を?」
「わたしの、歪んだ心!」
「あははっ。え、ほんとに?自覚はあるんだ?」
「もちろん!」
わたしは笑ってしまう。
青い空の下。
嫉妬のこころちゃんは、ちっともこころちゃんみたいじゃないうざいこころちゃんだけど、ふたりでいればこんなに楽しい無害なこころちゃんだった。
そういえば、こんなところにわたし遭難してるのに、ちっとも不安じゃなかった。
「いや、それは無理だと思うな。本物のお医者さんでもきっと無理だね。重症だ。ごりんじゅーです」
「やっぱ、そうか?」
「うん、うん。こころちゃんのどこにこんな感情が隠れたのかわたしは不思議だもん。ひとつのこころちゃんの中にいるときはどうしてたの?」
「実を言うとさ、わたし、こころの心の中にはいなかったんだ」
「どーゆーこと?」
「あのお面あるだろう、わたしの。あれはたしかに秦こころが持っていたものだが、実を言うと作られたのはこころが付喪神になったお面たちが生まれたもっと昔だ。わたしは平安時代のある嫉妬に狂った貴族の最後の表情を元にして作られてる。今風に言うと、デスマスクってやつだな。そのあとは転々とし、やがて、わたしの、こころの、所有物になったけれど。だから、わたしはそのお面の付喪神ってわけで、付喪神になるにはちょっと込められた思いが足りなくて、今回の異変に乗じて、こころになることで、はじめて生まれた。だからら、正確に言うと、こころとは別の生まれなんだ」
こうなった今では、秦こころそのものだけどね、って、嫉妬のこころちゃんは言う。
でも、もともと、こころちゃんの中にあった感情じゃない。
空にあふれるたくさんのこころちゃんの中には、そういうのがけっこう混じってるらしい。本当はこころちゃんの感情そのものではないけれど、異変に乗じてこころちゃんのイメージを借りて、こころちゃんになったニセモノのこころちゃんたち。
昔はこころちゃんで、古明地こいしという友だちがいて、嫉妬のこころちゃんだからわたしに嫉妬している。そういうゲームの設定だけを引き継いでいる。だから本当はわたしのこともこころちゃんのことも今までわたしたちにあったことも何も憶えていない。空っぽの嫉妬だけを持ったニセモノのこころちゃん。
そんなことを、まるでなんでもないことのように、こころちゃんはさらっと言ってのける。
その表情には、寂しさも悲しさも戸惑いも少しも見当たらなくて――。
彼女はすでにこころちゃんだった。だからもちろん表情なんかないに決まってる。彼女は嫉妬のこころちゃんだった。だから当然寂しさも悲しさも知らない。
そういう設定なのだ。
わたしはなんて言えばわからず、こころちゃんを見ていた。
「おい! そんな顔をするな! わたしまで悲しくなるだろう! 悲しさなんてわからないけど!」
「えーと……」
「なんとか言えよ!」
「あーー、はやく飛行機直して本物のこころちゃんに会いたいよ」
「なにー! こいし、お前、またわたしのまえで別のわたしの話をしやがってー! 許さん! ぽかぽか」
こころちゃんは、わたしを殴る。
ああ、いつものこころちゃんだ。嫉妬のこころちゃんだ。
わたしはさいてーかな?
でも、嫉妬のこころちゃんをこころちゃん足らしめるには、他のこころちゃんの、本物のこころちゃんのことを言ってあげなきゃ。そのことがこんなに寂しいなんて。
こころちゃんにもその感情を知ってほしい。
わたしだけがこんな寂しさの中にいるなんて嫌だ。
悲しみのない嫉妬なんて、はじめから欲しくもないのにするニセモノの嫉妬のための嫉妬なんて、むなしすぎる。
「いたいたいたいやめてよこころちゃん」
「やめないー! ぽかぽか」
「ちがうよ、心が」
「一方的に殴ってるだけだから、わたしはちっとも痛まないぞ! ぽかぽか」
「じゃなくて、じゃなくてさ、わたしの心が痛いの」
「どうして?」
「どうしてって……こころちゃんがほんとの嫉妬をしらないからだよ」
「わたしは嫉妬のこころだぞ、嫉妬をしらないわけがない」
「でも嫉妬だけじゃほんとの嫉妬じゃないよ。嫉妬するときはもっと悲しいんだ。すっごく寂しいし……たぶん」
「こいし、お前が、感情を語るなよ!」
でも、わたしはもうよく感情を知っている。
70近くの感情を触れられる形で持っている。
嫉妬という形式をなぞっているだけの空っぽのこころちゃん。それはなんだか昔のわたしみたいだ。
ほんとの嫉妬じゃないから、こんなふうにわたしとふたりでいるってだけのことで簡単に満たされて、空も飛べなくなっちゃったんじゃん。
「ねえ、こころちゃん!」
「なんだ!」
「空の飛び方を教えてあげる!」
そして、わたしはこころちゃんにキスをした。
「い、いきなり、なにするんだ、古明地こいし! へんたい!」
「わたし、こころちゃんのこと好きだよ。たくさんのこころちゃんじゃない。このニセモノのこころちゃんが。なんだかわたしと似てるんだ。これって憐憫? 同情? それなら知ってる……。憶えたの、でも……わたしはさいてーかな?」
「ふーん。わたしのこと好きなのか、それはいいことだな」
「うん、そうだよ。わたし、もうどこにも行かない。ここで遭難したままでいいよ。他の誰にも会わない。別の誰のことも思わない。ずっとこころちゃんのことだけ考える」
「ふふ。わたしは安心だ」
「ねえ、ほんとうに?」
さらさらと流れる音。
川の流れる音。
太陽のゆるい光。
こころちゃんとふたり。
きっと永遠に。
でも、こころちゃんは不安そうな声で言うんだ。
「なあ、こいし、ほんとにいいの?」
「えー?」
「帰らなくてさ」
「いいんだよもう」
「で、でも、わたしが、こころが待ってる」
「しかたないことだもん。わたしは選んだんだよ」
「かわいそうだ、わたしが」
「でもこころちゃんは嬉しいでしょ?」
「うん……きっと、そう」
「きっと?」
「だって、わたしは嫉妬のこころだろう。だから、だから……嫉妬してたほうが安心するっていうか、いまはなんとなく落ち着かない」
「みんな欲しがって嫉妬するんだよ。手に入れたら素直に喜べばいいんだ」
「でもわたし喜びなんて、知らない」
こころちゃんは戦闘機の方に歩いていく。直せよ、ってわたしに言う。いやだよ。じゃあわたしが直す。こころちゃんはどうすればいいかもわからないんだろう、戦闘機をぽかぽかと殴っている。きっとこころちゃんは直せない。わたしたちはふたり、ここでニセモノの感情を抱えたまま、朽ちていくんだろう。
「動け、動け、うごけうごけうごけうごけ、動けよ……」
でも――。
「……動いた!」
ぶるうううううと地響きを出してエンジンが回りはじめる。戦闘機は動いている。こんなにも簡単に奇跡のようなやり方で直ってしまう。こころちゃんはコクピットから顔を出して、言うんだった。
「飛ばせよ、古明地こいし」
「いいの?」
「うん。さよならだ。短かったけど、けっこう楽しかったぞ。でも、わたしたちは敵同士だもんなあ――」
乗り込んで、わたしは飛ばした。
ゆるやかな浮上を、する。
これはなんだろう。
これは、この感情は、いったいどのお面を当てはめればいいんだろう。
嬉しい? 悲しい? 寂しい?
わからない。
わからないけれど、このまま空を飛び続ければ、きっと、いつか知ることになるだろう。
★
空を飛んでた。
戦闘機に乗って。
こころちゃんとふたり。
夢を見た。
こころちゃんの夢。いつかすべての感情を知ってこころちゃんと暮らす夢。
夢を叶えるためには、空に浮かぶすべてのこころちゃんを撃ち落とす必要があります。
雲を切る。
上昇気流は、避けて。
わーー、って、嫉妬のこころちゃんは声を出した。
「わー! すごい、すごい! 空を飛んでるぞ!」
「いつも飛んでるじゃん」
「そうだけど、いまは飛んでないけど、空を飛んでるんだ。だから、すごい」
「よくわかんないですけど!」
どうしてこころちゃんを乗せてきてしまったんだろう。
ひとりで残しておくのはかわいそうだからせめて送り届けてやろうと思ったけれど、帰る家なんてこころちゃんにはなかった。適当な空で下ろしてくれればいいとこころちゃんは言った。
ひとりぶんのコクピットはふたりで狭い。
ぎゅうぎゅうに押し込まれ、こころちゃんはわたしの後ろでわたしを抱きしめるようにわたしに掴まってた。
「なあ、なあ、いいなあお前。いっつもこんなんで空飛んでて。わたしも欲しい!」
「空を飛ぶことはつらいことなんだよ」
「きっといつもはこころを乗せて飛んでるんだろう。空を見せてあげるねとかきざったらしいことを言ってさ。お前はなあ!」
「そんなことしないって。危ないもん」
「お前、こころのことを大切にしてるんだな。羨ましい……。わたしもこころみたいになりたいよ」
「こころちゃんだってこころちゃんだよ」
「ううん。ちがう。だって嫉妬のわたしは永遠にこいしを手に入れることができないもんな。ああ、妬ましいなあ、悔しいなあ」
「ちゃんとまた嫉妬できるようになったじゃん」
「うん。ほんとの嫉妬だよ。わたしはほんとにこいしを家で待っているこころみたいになりたいって思う。なったら、捨てたくない。嫉妬が消えてもそこにいたい。たしかにお前が教えてくれたんだ」
「よかったね?」
「うん、今なら空だって飛べそう!」
だから、うまくいったんだと思う。たしかにわたしの思った通り、こころちゃんはこころちゃんそのものに嫉妬することでほんとの嫉妬の気持ちを取り戻し、今なら空を飛ぶことだってできるはずだ。でも、どうしてだろう、なんだか少し寂しい。こころちゃんはまた空に浮かぶたくさんのこころちゃんのひとつになり、わたしは戦わなきゃいけない。もしも、嫉妬のこころちゃんを撃ち落として、嫉妬を手に入れたらわたしは何を妬むんだろう。でも、それはまだ先のことだ。ほんとの嫉妬を憶えたこころちゃんはきっと強い。前だってあんなに強かったんだから。感情ひとつ憶えて混ぜるたび弱くなるわたしに勝てる日は来るんだろうか。もしかしたら、間違えちゃったのかも。こんなことしてあげるべきじゃなかったのかも。憐憫? どうしてわたしはこのこころちゃんのために手助けをしてあげたんだろう。その理由は今はまだ知りたくない。知ったら、きっと、またひとつ弱くなってしまう気がするから。
そんなことを考えながら、空を飛んでいると、目の前に影が現れる。
こころちゃんの影。
ぴーーーーーーーー。
戦闘機のコクピットが、雲の向こうに、こころちゃんの姿を走査して。
「よう、こいし!」
こころちゃんが現れた。
「あ、わたしじゃないか」
「そうみたいだね」
ぴーーーーーーーー。
ぴこん。
『Locked』
わたしは引き金に手をかけた。
「お前、お前、こいし、わたしを撃つつもりか!」
「当たり前じゃん。先手必勝だもん」
そうだ、すでにわたしは感情を抱えすぎている。だからそれを乱される前に撃っちゃうこと。それが、たったひとつの冴えたやり方。嫉妬のこころちゃんにだって勝つ方法。
「ばかばか、ばか。こいしがわたし以外のこころに銃口をむけるなんてやだ!」
ばばばばばばばばば。
銃弾が空を跳ねて。
コクピットの中でこころちゃんが暴れて照準を乱すから、それは空に浮かぶこころちゃんの髪をかすめて、雲を切った。
あーあ。まったくどういう嫉妬なの。
空の向こうでこころちゃんは笑っている。
「あはは。こいし、ずいぶんわたしと仲良くやってるな」
笑顔に繋がる感情のこころちゃんだろうか。
それにしては、ちょっと不思議な笑い方だ。なんていうか、楽しそうな感じっていうよりは――。
「皮肉だな」
「え、なにが?」
「あのこころ。皮肉のわたしだ」
皮肉のこころちゃんは笑っている。
たしかにそう見てみてれば皮肉っぽい薄い笑みを浮かべているようだった。
「ふふ。外したな。そんなわたしと仲良くしてるから情が移っただろう。浮気は身を滅ぼすぞ!」
「たしかにね。わたしもこのこころちゃんとはできれば仲良くしたくない」
「あ、あれは、あのときの言葉は嘘だったのか!」
「うん。嘘だよ」
「なんだとー!」
「やめて、いた、いたい」
「ふん、お似合いだな! 相手の気持ちもなんか知らずとにかく自分のものにしたがるわたしと心がないくせにかまってちゃんのお前には」
「いやなわたし!」
「同感!」
しかしこれは楽勝な部類のこころちゃんじゃないだろうか。嫌なことばっか言ってこっちに撃つ理由を作ってくれるから、怒りとむかつきとかをすでに持ってるわたしにとっては簡単に倒せる相手だ。もう一度照準をあわせて引き金に手をかける。向こうから煽られてるこころちゃんも今度は邪魔をしてこない。はやく撃っちゃえ撃っちゃえあんなやつ空の塵に変えてしまえ、と自分に対してひどいことを言うこころちゃんだった。
でも、皮肉のこころちゃんはあくまで余裕そうに皮肉たっぷりの笑みを浮かべるだけ。
「こいし、お前は撃てないよ」
「撃つよ。ごめんね」
「お前、ごめんねって言ったのか? 弱くなったな」
「でも、撃つよ?」
「ねえ、こいし、これはゲームなんだ」
「知ってる。だから撃てるんだよ。撃ってはやくこころちゃんの感情を全部集めてこころちゃんに返して、こんなゲームは終わらせるの」
「あはは。こいし、お前は、このゲームを終わらせられないよ。はじめからこいしが負けることが決まってるゲームなんだ、これは」
「根拠のない皮肉だね。こころちゃん、もう追い詰められてるのかな?」
「ふん。お前言っちゃったな! 全部の感情を集めたらわたしに返すって」
「だって、そのためにわたしはやってるんだよ」
「でも、そしたら、こいしに何が残る? お前には何も残らない! 喜びも悲しみも、わたしに対する愛もな! だから、終われない。お前は感情を捨てるのが怖くなる、怖いっていうのはもう憶えたの? まだだとしたって、いつか撃てなくなる」
「そ、そんなはったり……」
「はったりじゃないさ。これはゲームなんだ。こいしの感情はゲームのためのニセモノなんだ。こいしにとっては楽しいゲームだろう。知らない感情は楽しいだろう。空っぽには戻れないだろう。だから、ゲームを続けよう!」
永遠に、って、こころちゃんは笑った。
手をかざして弾幕を……。
「大丈夫。再起不能にはしない。ああ、こいし、お前と遊ぶのは楽しいな。こいしも楽しいでしょ? こんな”楽しさ”なんて知らなかっただろう。だから、また飛んでわたしのとこに来てね。また、遊ぼうね、こいし」
弾幕が飛んでくる……。
わたしは凍りついている。操縦桿を握りしめた手に汗が滲んでいる。大丈夫、こころちゃんの言う通り、これはゲームだ。負けたとしてもやり直せる。今日は調子が悪い。皮肉のこころちゃんにしてやられたんだ。でも、別に次がある。次はいろいろ言われる前に怒りとかインストールして撃てばいい。それだけのこと。続けていればいつか終わる。
でも、急に、重力が横からわたしを殴った。
「ばか、こいし! 避けろ!」
嫉妬のこころちゃんが操縦桿を握るわたしの手に手を重ねて、横に引き倒している。戦闘機は体勢を崩して、斜め右降りに急降下。弾幕が左翼をほんの少しだけかすめた。揺れる。こころちゃんが重ねた手でわたしの手を強く握っている。
「なにやってるんだ! あいつの言うことを真に受けたのか!」
「……そうかも」
「ばか! あいつは皮肉を言ってるだけだ! ほんとのことなんかわからないさ」
「そうかもね。でも、いまは急に気分が悪いよ。やる気がでないんだ。明日から本気だそっかな」
「ばか、ばか、ばか。落ちてる! 墜落するぞ!」
「大丈夫だよ。これはただのゲームだもん」
「ゲーム!? そんなんじゃないだろ! わたしの感情は本物だ。墜落だってしたくないし……きっと痛いし……墜落しない全てのものが妬ましい!」
「ふふ。こころちゃんはかわいいね。必死に設定を守ろうとしてるんだ」
「設定じゃない!」
「かわいい。わたしゲームの中の女の子が好きだよ。逸脱しないもん。嫉妬のこころちゃんはいつでもかわいいニセモノのこころちゃんだから、好き」
「~~~~//// ってばか! そんなこと言ってる場合か!」
「あー照れちゃだめじゃん。こころちゃんは感情が表情にでないキャラクターなんだよ。今は固有の感情はできるっていう設定になってるけど。照れるのは、嫉妬のこころちゃんじゃないなあ」
「わたし、今のお前、きらい。嫉妬なんかできない!」
「ほら、また逸脱する……」
戦闘機は落ちている。制動が失って、地上に向かって一直線に。こころちゃんもさすがに諦めてくれたんだろうか、もう何も言わず、目を閉じている。まったくあんなに逸脱するなんて嫉妬のこころちゃんは悪いこころちゃんだ! 解釈違いです。ぜんぜん愛せない。あれ、でもどうして、こころちゃんは逸脱なんてことができたんだろう……?
あ、地上が見えた。
わたしたちはもうすぐそばまで。墜落の、その、付近まで。
加速度。
落ちてく。
こころちゃんが言った。
さっきまであんなに焦っていたのに、今はとても落ち着いた声だった。やっと覚悟を決めたんだろうか。そんな考えにも肯けるはっきりした澄んだ声だった。
「ねー、こいし」
なあに、とわたしは答える。
「犬は笑うと思う?」
笑うよ。犬はいつも笑っている。まるで狂ってるみたいに。
「犬は泣くの?」
泣くことだってある。人間の悲しみには人一倍敏感な動物だ。おねえちゃんのペットには犬もいて、名前はなんだったかな、そうだ、しゃおう、という中国出身の犬だった。むかし、まだわたしが第三の目を閉ざす前の頃にいて、悲しいことがあってうずくまったりしていると、必ず寄ってきてぺろぺろと顔を舐めてくれた。一緒に泣いてくれた。
「じゃあ、猫は?」
猫だって泣くに決まっているし、もちろん笑う。犬にできて猫にできないことはない。お燐の教育のせいでわたしはすっかり猫派だ。しかも過激なやつ。猫にはチャクラっていうのがあって、目と目の間、あの狭い額にチャクラの集まる点穴がある。そこからチャクラのビームを出して人間の感情をコントロールできちゃうんですよ、ってお燐は言ってた。猫をいじめる人間はチャクラが怖いのだし、猫を飼う人間はみんな猫に飼われているんです。犬は馬鹿でチャクラがうまく扱えないから、共感しかできないんです、って、まあお燐の言うことはよくわかんなかったけど、とにかく猫は泣くし、チャクラのビームで他人を泣かせることもできる。
「わたしはどう?」
こころちゃんは泣いたり笑ったりする。たしかに表情を浮かべることはできないけど、それは感情がないということにはならなくて、こころちゃんの中には感情がある。たとえば涙を流れる最後の弁が壊れて永遠に閉じたままになってるんだとしてもそこまで涙が流れているのなら、あるいは人が涙に至るのと等しい回路がそこにあり動くなら、無表情のままだって泣いてる。ただ、見えないだけだ。
「戦闘機は?」
戦闘機は泣くんだ。それを見たことがある。ぴぃーーーぴーーーーと子どもみたいな泣き声をあげる。今だって、泣いてる……。計器がくるくる回り、長い警告音がコクピットの中に―― ぴーーーーーーーーー。
『Warning?』
「泣かないよ。戦闘機は泣かない。犬は笑わないし、猫だってそう。ほんとのわたしはどんな感情を浮かべることもできない! なあ、こいし、そこにそれがあるってお前が言うなら、それはこいしの中にそれがあるからだ。お前が悲しみを知っていて、きっと悲しくて泣いてるだろうって想像してるから、みんなは泣くんだ! なあ、みんなの感情は全部お前のものなんだぞ!」
「こころちゃんのうそつき! ほんとのわたしは空っぽだもん。何もないんだよ! こころちゃんにはわかんないよ! 感情たくさん持ってたこころちゃんには……」
そうだ、こころちゃんにわかるわけがない。
あまりにたくさん感情を持ちすぎてそれをひとつひとつお面にしていったら、グラスから水が溢れるみたいに、感情が零れて大空いっぱいになっちゃうくらい感情をたくさん持ってるこころちゃんには。空っぽのわたしのことは。同情、憐憫。わたしの盗んだ昔はこころちゃんのやつ、それがこころちゃんにはあるから、そんなふうにわかったふりができるんだろう。
こころちゃんはいいよね。
たくさんいっぱい感情を持ってて。人のことを心配する感情だって持っておけるくらい感情が余りあるんだろう。いやなやつ。大嫌い……。そのこころちゃんがこんなこと言う。
「なあ、こいし、お前、いまジェラシーした?」
嫉妬。
わたしはこころちゃんがこんなに羨ましい。こころちゃんみたいになりたい。こころちゃんの感情をぜんぶ集めて逃げ出してずっとわたしのものにしておきたい。
でも、それは、本当はまだ手に入れてないわたしの中にない感情のはずだった。
「妬ましいんだ。わたしが」
「そうだよ。こころちゃんはいいよね。わたしは空っぽだもん。最後にはきっとこころちゃんのことだって忘れちゃう。どうせ忘れちゃうならどうでもいい。だから嫌いなの」
わたしは落ちている……。墜落する……。地面がすぐそばに。
ぱしん!
こころちゃんがわたしのほっぺたをはたいた。
「じゃあ、殺せよ。妬ましいなら撃て!」
驚いて反射的にわたしはこころちゃんのほうを見た。
嘘? 笑ってる。
嫉妬のこころちゃんは笑ってたんだ。
その笑みをわたしは知ってる気がした。
それは、空っぽの笑顔?
「もう、あげたよ、こいし。わたしの感情は全部お前のものだぞ」
次の瞬間に、衝動。
わたしはこころちゃんが妬ましい。わたしにはない感情をたくさん持っていてそのくせにあんなに皮肉めいて笑うこころちゃんが、妬い。妬い妬い妬い妬い妬い妬い妬い妬い。わたしはいつか空っぽだけど。決してこころちゃんのいるところには辿り着けないけど、せめて泥をかけてやりたいと思う。あの冷笑的な張り付いた笑みをぐちゃぐちゃにしてみたいと思う。この銃弾であの子を笑顔を引き剥がしてやりたい。
身体中に溢れるこの嫉妬の感情一途にわたしは操縦桿を引き倒す。
地面すれすれのところで機首があがった。
うわんと戦闘機の鼻先が地上をかすめて、急上昇。
こころちゃんをめがけて、一直線に、飛ぶ。
「行けーー! こいし! ほっぺた急襲作戦だ!!」
雲の向こうに皮肉のこころちゃんの姿が見える。
もっと……もっと、もっと近づいて……あ、今!
ばばばばばばばばばばっ。
こころちゃんが振り返ると同時に、わたしは照射。
皮肉のこころちゃんはすんでのところで、翻って、躱した。
「なんだ。まだ生きてたのか、お前」
「また遊ぼってこころちゃん言ってくれたじゃん。だから、来たの」
「お前、皮肉を言うのか!」
「皮肉はもってないよ。こころちゃんがそうでしょ。これは本心だもん!」
「む~~」
飛ぶこころちゃんの背中を取ろうとわたしは追いかける。くるくると回りながら、右に左に揺れながら、複雑な模様を青い空の上に描くように、わたしたちは飛んでいた。さっきこころちゃんに撃たれたとき、左翼が少し折れている。だから思うようには動かせない。なかなかこころちゃんを照準の中心に持っていけない。撃て、とか、右だとか、はやく曲がれ、なんで撃たないんだ、とか横で嫉妬のこころちゃんがぺちゃくちゃ喋ってるから、集中をそがれてしまう。
「あーもーなんで撃たないんだ! へたくそ!」
「うるさいな。ちょっと黙っててよ!」
「へぼパイロットが! そんなんじゃいつまでたってもわたしのもとに帰れないぞ!」
「ああ、上手に戦闘機を飛ばせる人が妬ましい!」
「うるさい! そんなないものねだりを言ってる暇があれば、考えろ。どうすれば、あいつを倒せるのか」
「こころちゃんが言うのそれ」
あ、弾幕がまた、左翼をかすめた……!
ふらふらと低速飛行。揺れている。
皮肉のこころちゃんは勝ち誇って薄い笑みを浮かべる。
「ふふ、こいし。お前、ずいぶん上手じゃないか」
「てーきゅうな皮肉!」
「わたしも楽しそうだ。楽しすぎてもう嫉妬もできなくなったみたいだな。嫉妬のわたしが嫉妬してないんだから、それはいないのと同じだ。もうじき、消えるよ、お前」
「え、こころちゃん消えちゃうの」
「やめろ、わたし! こいしはメンタルくそざこなんだから、あんまり変なこと言うな!」
「そういうわたしだからしょうがないだろ!」
「え、こころちゃんほんとにいなくなっちゃうの」
「そうだぞ。だってわたしはお前に嫉妬の感情をあげたんだ。それはわたしを撃ち落としたのと同義だろ」
「え、なんで? やだよ……」
「なんでって、べつに死ぬわけじゃないんだからいいだろ。それにわたしがいなくなってもわたしはいるしな」
「やだ……一緒に帰ろうよ。おうちで三人で暮らそう。きっとこころちゃんだってこころちゃんのこと受け入れてくれるよ」
「だめだ。家にいるわたしもわたしをこいしが連れてきたら嫉妬するだろう」
「希望のこころちゃんは嫉妬なんかしないんだ。ぜんぶが希望だから」
「なあ、そんな顔するなよ、こいし。お前は空っぽなんだろう。めそめそ泣くな」
「だって、だって……やだよ、わたしはやだ」
わたしは空っぽだけど、そんな感情だって今は知っている。
せっかく仲良くなったのに嫉妬のこころちゃんがいなくなったら、わたしは空でひとりで寂しいよ。
こころちゃんはコクピットを開いて、飛んだ。弾幕を躱しながら皮肉のこころちゃんの元へと急接近し、捕まえた。背後からぎゅうと抱きしめて動けなくする。
「きゃあ、やめろ。なにを、なにをする!」
「今だ、こいし、撃て!」
「こんなのルール違反だろ! 卑怯者!性格悪い!さいてー!古明地こいしの姉!」
「なあ、楽しかったよ、こいし。でもお別れだ。わたしは敵同士だから。そんなこと前にも言ったな。ほんとはあの川でお別れだったのに、戦闘機に乗せてくれてよかった。すごく楽しかった」
「やだ、撃たないよ。撃てないよ」
「別に消えるわけじゃない。全部の感情を取り戻してこころに返したら、また会える」
「あはは、そうだ、こいしに撃てるわけない! そ、それにわたしは知ってるんだぞ。このわたしはほんとはわたしじゃない紛れ込んだニセモノのわたしだ。だからそれが秦こころの元に還るかどうかはわからないじゃないか。もともとはわたしのなかになかったんだからな」
「そうだよ、そうだ……こころちゃんわたしやっぱり……」
「でも、今はわたしだって、こころだよ。こいしにだってそれはわかるでしょ?」
「あはは、わたしだってこころか――お前がどうやってこいしを誑かしたかのぜひ聞きたいな! ニセモノのわたしのくせに!」
「お前、なにを、怖がってるの?」
「なに?」
「お前って、なんだか、まるで何かが怖いから誤魔化すみたいに皮肉を言ってるみたいじゃないか」
「あはは、わたしが怖がってる? わたしは皮肉のこころだ。怖い、なんて感情は生憎持ち合わせてないんだ」
「でも、怖がってる。恐れてるから皮肉めいたことを言うんだ。わたしはこいしのことを愛してるから嫉妬する。嫉妬すれば寂しいし悲しい。こいしと一緒にいたら、楽しい。楽しいことがたくさんあればそのぶん寂しい時間がつらくなる。感情は繋がってるんだ。こいしがわたしに教えてくれたんだぞ」
「こいし、こいし、こいしって。あいつに感情のなにがわかるんだ! あいつは空っぽなんだぞ! そういうふりをしているだけで、お前のことなんて愛してなんかいないんだ!」
「あ、わかった! お前、こいしのことが好きなんだ!」
「~~~/// は、はあ? 意味わからん!」
「好きだから怖がってるんだな。お前は皮肉っぽくて性格が悪いからこいしに愛してもらえないと思ってるんだろう。だからいっぱいいじわるしちゃうんだな。お前、けっこう、かわいいな」
「やめろ、やめろ……。自分のことかわいいとか言うな!」
「でも、大丈夫。お前よりわたしのほうがずっと性格が悪い! そんなわたしでもこいしは愛してくれたよ。だから、お前のことも、愛してくれる。こいしはやさしいんだ」
「べ、べつに、そんなこと望んでない!死ね!ばか! はなせ~~~やめろ~~~」
「なあ、こいし、こっちはもういいみたいだぞ。あとはお前が撃つだけだ」
「撃てないよ!撃てるわけない! 嫉妬のこころちゃんは消えちゃうかもしれないんだよ?」
「やっぱりこいしはやさしいな」
「わたしのじゃない。わたしが持ってるのはこころちゃんのやさしさだもん」
「ちがう。古明地こいし、お前のだよ。こいしの中にあったんだ。わたしはニセモノの嫉妬のこころだったけど、ほんとの嫉妬はこいしが教えてくれた。大丈夫、わたしは消えたりしない。消えてもこいしたちを妬んでまた亡霊みたいに出てやる。わたしは嫉妬のこころだぞ。こいしがわたしに教えてくれた本物の嫉妬の心だ」
操縦桿を握った手が震えている。
いろんな感情が頭の中をぐるぐる回る。こころちゃんから借りたたくさんの感情がわたしをばらばらにしてしまう。
引き金は、きっと、引けない。
嫉妬のこころちゃんは言った。
「なあ、信じろよ、古明地こいし。信じてよ、こいしがわたしにくれたこの気持ちを信じてよ!」
あ。
手の……震え、止まる。
操縦桿を握るわたしの手の甲に温かいものが触れていた。
わたしの手の甲にはあのとき重ねてくれたこころちゃんの手のひらの温もりがまだ残っている。
嫉妬のこころちゃんの手が、今も震えるわたしの手を抑えて包んでくれていると思う。
それだけじゃない。いくつもの手がわたしの手の甲には重なっている。
そうだ、この、わたしの頭の中でぐるぐると回りすべての感情――妬み、悲しさ、寂しさ、やりきれなさ、怒り、興奮、喜び――たくさんのこころちゃんがわたしのそばに憑いてくれている。
機銃を握るわたしの手に手を重ねて、それを、一緒に引いてくれる。
同じ気持ちを抱えてくれる。
だから、撃てるよ。
『Locked』
わたしは、引き金を、引いた。
銃弾がこころちゃんを貫く。
赤い筋を空から垂らしながら、嫉妬のこころちゃんが笑ってた。
わたしの知らないやり方で、まだ見たことないこころちゃんの表情で、微笑んだ。
「ねえ、こいし、わたしの嫌いなあの子にたくさん愛されてね。わたしにもう一度会えるくらいに」
こころちゃんは落ちていく。
地面に向かって、赤い雨を降らせながら。
おめでとう!
本日の撃墜数 2。
これは皮肉。
そして、たぶん、次には――。
わたしはこころちゃんのことをもっと愛している。
きっと誰彼かまわず嫉妬しちゃうくらいにこころちゃんが好きでたまらないんだと思う。
だから帰ろう。
きっと帰ろうね。
こころちゃんの待っているおうちに。
★
家に帰れば、こころちゃんが待っていてくれます。
すべての感情を失ったあとの空っぽのこころちゃんです。
戦闘機に乗ってわたしは空でこころちゃんを撃ち落とす。
空は広くて、どこまでも青色が続いていて、わたしはひとりでとても寂しい。
ぼろぼろの身体をひきづって家の扉を開けば、こころちゃんが待っている。
「ただいま!」
「おかえり!」
わたしがこころちゃんの胸の中に倒れるように飛び込むとこころちゃんはわたしの頭をゆっくりと撫でてくれるのです。
いつもと同じように。
いつでも同じように。
まるでそういう”設定”になってるみたいに。
「まったくこいしお前今日はいつにもましてぼろぼろじゃないか」
「いろんなことがあったんだよ。とってもつらかったの」
「いつのまにかそんなわたしまで集めてたのか。コンプリートまでもうじきだな」
「むりだよ……。たぶん、むり。空は広くてひとりで寂しいんだ。戦闘機の中はうるさくて狭くて怖いんだよ? わたし、きっと、もう、飛べないもん……」
「まったくお前はいつからそんな泣き言を言うようになったんだ」
「こころちゃんと暮らしてから」
「まったく、お前はまったくなあ」
そのまま、ずいぶん長いこと、わたしはこころちゃんの胸の中で泣いていた。
その間、こころちゃんはわたしの頭をずっと抱えたまま、それを撫でてくれていた。
どうしてなんだろう。
こころちゃんはこんなにも空っぽなのに、こころちゃんといると、わたしはこんなにも安心する。
だから、こころちゃんはいつか空っぽになってしまうわたしにとっての、希望。
わたしは空を飛ぶ。
戦闘機に乗って。
こころちゃんを撃ち落とす。
こころちゃんのためだけに。
空っぽのこころちゃんがもういちど心で笑ったり泣いたり怒ったりできるように。
その結果、最後には手に入れたこの感情をこころちゃんに返して、あとには何も残らないのだとしたって。
今ひとときは、このひとときの気分が、すべてだってわたしは思いたいんです。
紅茶の香り。
こころちゃんの淹れてくれたそれを一口。
苦い、甘い。
わたしの腕に巻き付けた服の切れ端を指差して、こころちゃんは言う。
それ、痛いの?
「ちょっとね」
「かわいそうに」
「そうだよ。わたしはかわいそうなの」
「ていうか、それ、わたしの服か?」
「うん。空にいるこころちゃんが巻いてくれたの」
「むう。敵なのにか?」
「いろいろあったんだよ。まあ、一時停戦ってやつだね」
「むむむ」
「え、もしかして、こころちゃん、嫉妬してるの?」
「なんでだ! 嫉妬なんかできるわけない! だって、わたしは希望のこころだぞ!」
「でも、こころちゃんの嫉妬はわたしにとって希望だよ」
「そうなの?」
「うん」
「じゃあ、わたしいっぱい嫉妬する! こいしにどこにも行って欲しくない! ずっとここにいて欲しい! もう他のわたしに会うために空を飛ばないで欲しい!」
「えへへ。そうだね、でも、わたし、行かなきゃ、空に」
「どうして? ずっとここにいればいいのに。空は怖いんだろ? 怖くて寂しいんだろう?」
「でも、きっと、こころちゃんが待ってるから」
「むう」
「ごめんね」
「いいんだ。知ってた。わたしのためだもんな。こいし、お前はなにもなくなってしまったわたしの希望だ」
「必ず戻ってくる。だから、ここで待ってて。こころちゃんが待っててくれるからわたしがんばれるよ」
「うん、待ってる」
そして、いつかこころちゃんに返すよ。
全部の感情。
たとえわたしのなかに何も残らないとしても。
そしたら、昔みたいに、笑ったり嬉しかったり泣いたり怒ったり寂しがったり、全部の感情に繋がることをするんだよ。
それは、希望。
すべてを感情をこころちゃんに返したあとで、わたしの中に残るたったひとつの希望。
そんなものがほんとにあるのかどうかわからないけれど。
最近、わたしは空を飛びながらいろんなことを考えます。
そのせいで、怒ったり、泣いたり、嬉しかったり、皮肉っぽい気持ちになったり、嫉妬してみたり、します。
それはこころちゃんから借りた感情だけど、ときどき知らないやつが身体のどこかで疼くのです。
そいつはとても小さなやつで、他の感情と混じってすぐにわからなくなってしまうけど、たしかにあって、それは単にまだ名前を知らない感情があるっていうだけのことなんだろうか。
でも、それが、わたしのなかに生まれたこころちゃんにない新しい感情なら――。
これはゲームです。
こころちゃんを撃ち落とすたびに、感情をアップデートできます。
その感情はゲームに役に立つゲームを続けるためだけの感情です。
だけど、これがゲームの中の感情でも、ゲームをやるその人にも感情があるだろうとわたしは思う。ゲームをすることで生まれるゲームの中には決してない感情。
わたしのなかで疼いていると思う。
空で、ずきずきと鳴っている。
気のせいかな?
それはなんて名前かな?
もしも、まだ名前がないなら。
わたしは、こころちゃんがくれたそのとても小さな小さなやつに、とりあえず心って名前をつけた。
おしまいおしまい
この作品は、感情が溢れすぎて空へと飛び出してしまったこころ達を、こいしが戦闘機で撃ち落とし、全ての感情を集めてこころに返すという、極めて斬新な発想のお話でした。その際、こいしは撃ち落としたこころの感情を手に入れる事ができ、借りているという形であるものの自分の物のように感情を感じる事が出来ていました。そうして一つ一つ感情を集めていく度、その感情に振り回されて躊躇するようになってこいしは弱くなっていくのですが、その葛藤するこいしが本当に可哀想で可愛くてならないのです。
また、本作では複数のこころが存在しますが、そのどれもがこいしが好きであったと言う事が判明した時、嬉しくて堪りませんでした。希望のこころは言うまでもなく、偽物であった嫉妬のこころも皮肉のこころも、きっとどのこころもこいしが好きで堪らなかった。彼女達は一つの感情しか入っていないという設定であったけど、嫉妬のこころが言った、「感情は繋がってるんだ。こいしがわたしに教えてくれたんだぞ」という言葉。こころ達みんながこいしの事を愛していると、何よりそのこいし自身が証明したんです。この台詞を読んだ瞬間、もう本当にどんな顔していいか分かりませんでした。
ああ、本当に言葉が纏まらないのが申し訳ない。ここまで言語化するのが難しいのは久しぶりで、でも伝えたい事が山ほど有るのがもどかしいのです。とにかく、嫉妬のこころがこいしを救おうとして頑張るところが好きで好きで堪らないし、嫉妬のこころと会えないかもしれないと迷って苦しんで悲しんで、それでも最後に彼女からもらった嫉妬を力に撃つことを決めたこいしが本当に好きで好きで堪らないのです。というかもう全部好きでした。嫌いなとこなんて一つもありません。
きっと、こいしはまだまだ頑張らないといけなくて、もっと苦しんで悲しんで怖くなるかもしれないけど、どうか救われる事を祈ります。
ここまで感動させてくれたことに感謝を。本当にありがとうございました。
勝ちたいし勝ちたくない、続けたいし終わらせたい。そんな苦しみが伝わってくるようでした
素晴らしかったです
ふたりが欠落した感情のままに剥き出しでぶつけ合うのがすごく良いです。楽しませて頂きました。
従来の作品に会った良くも悪くも意味不明な部分が、今作では地に足が付いた部分と胡乱でほわほわとした不思議な部分のバランスが取れており読んでいてストレスもなく、良い所だけが入ってきました。
大きい感情が不思議な空間でこれでもかと描写されているのですが、それでいて筋が通っていなかったり理がなかったりするかというとそうでもなく、ちゃんと読める流れになっていたのが良かったです。
こいしとこころの関係性のきもである、空っぽの心と感情でいっぱいの心の対比が素晴らしい形で描かれており、こいここ好きの自分としても大変満足でした。
有難う御座いました。
感情を持たないこいし、感情がお面という形で定式化されているこころをモチーフにして、嫉妬、怒り、悲しみ、皮肉、希望といった感情の揺れ動きを、感情に直結した生の言葉で細やかに表現されているなと思いました。こういう飾らない本当の気持ちらしさをちゃんと言語化できる力量が本当に羨ましい限りです。嫉妬。
己と他との交わりによって、相手に感情が起こり、自分にも感情が起こる。それは図式化・言語化できる単純なものでなく、もっと流動的に変化していて多義的なもの……というような感情の生の在り方をユーモアも交えつつ書かれていて、読んでいて楽しくもあり、悲しくもありと、本当に色々な感情を体験しました。
感情を豊かに持てるようになるからこそ、相手を想えるようになることも増えて、それによって葛藤も増えて、単純な行動を起こせなくなる……というこいしの変化は、自分一人の世界から他者がいる世界へ開かれていく時の喜びと辛さの両義性が表れているようでした。過去にこいしが第三の眼を閉じたことと合わせて、他と繋がりを持つことにまつわるこいしの物語としてとても好きです。
また、散々感情は他者との交流の中で生まれるもの、という描写をしつつも、こころの言葉にあるように「戦闘機も犬も猫も本当のこころもどんな感情も浮かべない。感情を見出したのならそれはすべてこいしのもの」と究極的に孤独なものとして表現していることが印象的です。他者の心に浮かぶ本当の感情の理解不能性を明示しつつ、一方でどれだけ感情が空っぽのつもりでも主観的世界に感情を見出しているならばそれはこいしに由来するものであるはずだ、と感情にまつわる根底まで突き詰めて描いているのだなと思いました。ここまで感情を起源まで突き詰めているからこそ、感情を根底から否定してしまったこいしにまつわる物語として、ちゃんと希望のある展開に繋がっていくのだなという説得力を感じました。
感情の豊かな世界で他者に開かれて生きることの、喜び、あたたかさ、希望も描き、感情が豊かになって他者を想える世界に開かれていく苦しさ、悲しさ、それらから起こる暴力性まで描いていて、感情にまつわる物語として、本当に情緒豊かなお話だなあ、と思いました。こういった形で作品をまとめ上げたのは本当にお見事だと思います。
良い作品をありがとうございました。