Coolier - 新生・東方創想話

特効薬

2021/06/08 20:54:10
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 あくびを一つした後、鈴仙・優曇華院・イナバは二度目を噛み殺し、眠気を追い払いながら、病室へと向かった。永遠亭の病床は四人部屋と個室が二つずつあるのだが、満床になることはほとんどなかった。
 病魔に侵され、死を待つのみの五兵衛という老人一人と、退院間近の若者二人が寝ている大部屋に行き、「おはようございます」と言いながら窓を開けて、朝陽を取り入れた。まどろみの中にいる患者たちは、一様に布団をかぶっていたが、春の風が涼しいので、目覚めるのは時間の問題であった。鈴仙はほとんど寝たきりの五兵衛の様子を見た。
 彼は腹膜癌であり、痴呆症も患っていたため、治療の自己判断はできなかった。八意永琳は薬剤のみで末期癌すら治してみせると宣言したが、彼の家族はそれを望まなかった。むしろ、安らかな死を迎えられるようにして欲しい、と希望したため、痛みの緩和のみに留めている。

「あ、点滴、もうないや」

 痛み止めが混入された点滴は、一日に一回交換するのだが、鈴仙は次で指示分が無くなってしまうことに気づいた。在庫もなかったため、新たに調合する必要があることも思い出した。ペンを取り出し、手の甲にメモを残して部屋を立ち去ろうとした瞬間、五兵衛が口を開いた。

「み、水を」

 渇いた唇を開けると、口内には粘性の唾液が糊のように付着していた。その口で彼は懸命に訴えていた。点滴により水分は確保しているが、口から何かを摂り入れるという行為に意義がある。鈴仙はすぐにコップに持ってきて、ぬるい水を汲み、とろみをつけた。病室に戻ってきてから、彼の痩せた身体を起こした。

「はい、水ですよ」

 鈴仙はその体勢を片腕で支え、ゆっくりと水を飲ませてやった。
 喉を小さく鳴らし、五兵衛は慎重に、決して溢さないように、時間をかけて水を飲んだ。
 鈴仙は彼が健気で、あまりにもか弱く思えた。一杯の水ですら大事に飲むその姿は、生きることに執着した人間の象徴のようで、死への抵抗の訴えのようにも見えた。しかし、彼は行く場所がない。技術があっても、本人や家族の「生きたい」という言葉がなければ、手を差し伸べるわけにはいかないのだ。
 鈴仙は己よりも弱い存在に同情し、自己憐憫と同様の感情で愛でるきらいがあった。哀れな人が好きだったし、悲劇の主人公に憧れてもいた。それは月にいた頃から抱いており、しかし、鈴仙は周りの兎に比べればそこそこに優秀である自覚もあったため、その感情は常に憧れと現実の狭間にあった。自分は不憫だ、しかし絶望の中にいるわけではないと、そう思っていた。唯一月から逃げ出した時は、己が悲劇の渦中にいることを実感したが、永遠亭に居着いてからは、また月にいた頃と同じような感覚に戻っていた。むしろ平和で安らかな時が竹林に流れているせいか、優越感に浸るほどの余裕ができ、患者や哀れな人々に向ける同情は、次第に強くなっていった。
 コップ一杯の水を何とか飲み干した五兵衛に、鈴仙は優しいまなざしを向け、今にも崩れてしまいそうな身体を、慎重に寝かせてやった。表情は変わらないが、先ほどよりおだやかになった彼の波長を見て、鈴仙は小さく満足した。
 少しの動作ですら苦痛を感じる彼の波長は、いつも不安定であった。
 狂気の瞳を持つ鈴仙は、病気の者の波長は揺れやすく、刺激に敏感であることをよく知っていた。脳が健全な患者であっても、一粒の薬を嫌がり、一切の干渉を拒むことさえあるのだから、鈴仙は常に波長を見て、対応を変えるよう努めていた。それゆえ、彼女はあまり気遣いが上手くなかったが、傍にいて不快だと思われることは少なかった。
 換気を行いつつ各部屋を回った。そうしていると、眠気はまだあったが、ようやく清々しい朝を迎えた実感がわいてきていた。最後に診察室も同様に窓を開けたのだが、丁度その時、永琳が入ってきて「寒いわ」と腕をさすりながら言った。
 本日は週に二度の診察の日ではあったが、患者が来るまでには時間があった。永琳は普段ならこの時間は、まだ眠っているか、調剤室に閉じこもっているので、鈴仙としては予想外だった。

「あ、おはようございます。換気してます」
「まったく、冷えは大敵ね。患者にしても、医者にしても」
「すみません。あったかいコーヒーでも淹れましょうか」
「いただこうかしら」

 朝の寒さに愚痴を吐く永琳に対して、鈴仙は謝りつつも心の中で、ならば何か羽織れば良いのに、と毒づいた。だが一向にもう一枚服を羽織るようなそぶりを見せないので、それを口にする必要はまったくないと理解した。合理的な行動がすべてではなく、何気ない無意味な会話も必要であることを、鈴仙はよくわかっていた。
 季節の変わり目というものは体調を崩しやすく、またそれに伴って精神も不安定になりやすいから、もしかすると蓬莱人も当てはまるのかもしれない、と考えながらコーヒーを淹れた。
 時間をかけてコーヒーを飲み、ついでにと近くにあったクッキーの缶を開けてしまったので、二人はそれを朝食とした。窓から外を見ると、兎たちも起きてきたようで、数匹は朝っぱらから元気に庭を跳ね回っていた。
 永琳が過去のカルテを見始めたので、鈴仙は朝の仕事にとりかかった。軽く掃除をしたり、大部屋の患者の検温に行ったりしているうちに時間は過ぎ、診察室に戻る頃には、一人目の診察が始まっていた。患者を見たが、その顔に見覚えはなかった。右腕に家族がしてくれたと思しき、少し雑な副木がなされており、骨折を疑った。永琳は触りもせずにそれを閉鎖骨折だと断定して、こう言った。

「お薬出しておきますね。ウドンゲ、三番のろを出しておいて」
「はいー。少しお待ち下さいね」

 隣の部屋に行き、鈴仙は三番目の棚の一番上にある、右から二番目の瓶をとった。瓶にはろとだけ書かれたラベルが張られていて、蓋に小さく骨折と記載されていた。ラベルには成分が記載されていないが、永琳が基本的に全部覚えているか、複雑なものは記録に残しているため、その必要がなかった。
 三番のろとは永琳が調合したまだ名前を付けていない薬の一つである。永琳は毎日と言っていいほど新薬を作り出しているのだが、それらにいちいち命名するのが面倒であったため、番号を振った棚に分け、いろはで区別していた。様々な薬剤があるが、安全に患者に使用できるものはごく一部であり、処方する頻度の高い薬剤だけ、診察室の隣の部屋に置いてある。ここにない薬剤はというと、ほとんどは廃棄していて、膨大な薬の製法は永琳の頭の中だけにあった。
 鈴仙も一部の薬剤の調合方法は学んでいたが、永琳が熱心に教えるつもりがなかったので、自己学習の範疇からは抜け出せていない。以前、人の狂気を引き出す薬という自身の能力を閉じ込めたような丸薬を作ったことがあったが、それには使用後に鬱傾向に陥りやすいという副作用があった。それでも、軍人時代の経験や、狂気という自身のオリジナルを巧く調合し、苦心して完成させたので喜びはそれなりに大きかった。しかし、嬉々として永琳に見せたところ「なかなか上手にできたじゃない」と褒めた後に、短所を克服した上位互換の薬を、いともたやすく調合されてしまった。永琳にしてみれば師匠として、お手本を示したつもりらしく、むしろ弟子の成長を微笑ましく思ったくらいなのだが、当の鈴仙にしてみれば、最初から師匠に任せた方が良い、という結論を突き付けられたような気分であり、なんとなく萎えてしまった。
 それ以来、鈴仙はあまり調剤に関わることはない。それでも簡単な痛み止めなどは調合できるので、優秀であることに変わりはないのだが、あまりにも永琳の存在が大きすぎた。
 そんな永琳が調合した名もなき薬を患者に手渡して、診察は終了である。
 基本的に彼女は、病気を告げた後は「お薬出しておきますね」としか言わなかった。
 最後の患者の診察を終えて、永琳は大きく伸びをした。時計を見ると、針は二本とも十二を指していた。

「うーん、終わりね。お昼にしましょうか」
「はい、あ、そう言えば五兵衛さんの点滴、そろそろ切れそうなんですけど、またモルヒネでいいですか」
「それでいいわ。出してきて」

 麻薬を投与した場合、急に止めると中毒症状が起こるので、基本的には同じものを継続して投与するのだが、鈴仙は一応毎回確認していた。というのも、そう言った中毒症状を起こさずに同等以上の鎮痛効果がある薬を、永琳が開発している可能性があるからだ。彼女は外界で流通している薬剤のうち、ほとんどの上位互換と呼べるものを作る実力と才能があった。とはいえ如何せん、行動指針が気まぐれであるため、調剤の優先順位は永琳の興味によるものであった。最近は兎眼薬(仮)というものに凝っていた。眼が真っ赤に充血するという無意味な代物だった。普段なら鈴仙が実験台にされるのだが、彼女は元々赤い瞳であるため、効果のほどは確認できずにいた。
 すべての薬剤が名無しというわけではない。モルヒネという名前が生まれた時、永琳は人類の進歩に敬意を表し、自らがすでに作っていた同成分の薬剤にその名を与えた。他にはペニシリンなど、人類が自らの力で作り上げた薬品には、その名前を付けて管理していた。外界で新薬が完成したという情報が入ってくるたびに、永琳はまるで弟子の成長を見た時と同様に喜ぶのだ。彼女は薬剤師として頂点に立っている自負があった。そして弟子は師匠を越えるものである。いつの日か、人類が蓬莱の薬を越える薬を生み出してくれることを、ありえないと知りながら願っていた。
 さて、様々な薬の中でも、人類の英知として名高いモルヒネは、コントロールさえ間違えなければ鎮痛薬として優秀であり、また永琳は己の処方に絶対の自信を持っていたため、あくまで外界で使用されている他の薬に比べればだが、処方される頻度は高かった。

「あの師匠、モルヒネ今切らしているので、新しいやつをですね」
「え、なんでよ」
「なぜと言われましても……」

 鈴仙は口ごもってしまった。疑問符で返されるとは想定していなかったのだ。

「モルヒネくらい、あなた調合できるでしょう?」
「え」
「あとで見てあげるからやってみなさいな」
「はぁ、わかりました」

 無理難題とまでは言わないが、唐突な指示に鈴仙はため息を漏らすしかなかった。薬に関してはそこそこに知識があったが、いざ調合となると骨が折れそうだと、そう思った。
 所謂モルヒネと呼ばれる薬は、アヘンに含まれるモルヒネという成分を抽出したものであり、そのことは鈴仙も理解はしていた。
 アヘンの原料となるケシの果実も、現在は風見幽香の花畑から定期的に購入しているため、在庫はあった。ケシは様々な薬剤の実験に使用する上でも優秀な原料である。永遠亭の庭で栽培を試みたこともあったのだが、どこかで知恵をつけた兎が嗜好品として吸い始めたので、収拾がつかなくなった。その場を収めたのは以外にも因幡てゐであった。彼女は真っ先に犯人だと疑われたが、潔白を証明するために珍しく兎たちの長らしい振舞いで、アヘンを回収し、破棄したのだ。犯人はわからなかったが、その後、ケシの花壇を撤廃してからは同じようなことは起こらなかった。
 メディスンを通じて幽香と知り合った永琳は、ケシの実を分けてほしいと頼みこんだ。交渉には時間がかかったが、メディスンの仲介もあって、最終的にはメディスンへの定期的な毒の補充と、植物への負担が少ない良質な農薬を交換条件に、永遠亭はケシの果実を手に入れることができた。
 そのため材料は豊富にあった。しかし、鈴仙は抽出の方法を知らなかった。書庫にあるいくつかの文献を漁れば、記載はあるだろうが、大して整理されていないため、探すのが面倒であった。

「あ、そうそう、今日は純狐が来るから、もてなしよろしくね。夕方頃だと思うわ」
「あ、はい。わかりました」

 言伝だけを残して、永琳は調剤室に戻ってしまった。調合だけではなく、食事の準備や掃除、そして純狐のもてなしと、鈴仙がやることは山積みである。特に純狐のもてなしは一番おろそかにできないことであった。純狐は月の異変後に随分と落ち着いたようで、永琳が様子を見たいという理由から、永遠亭には定期的に招かれていた。純狐としても、断る理由もなく、またお気に入りの鈴仙に会うことができるため、探りを入れられていることを承知で、むしろ気にも留めず、永遠亭に足を運んでいた。

「これはもう徹夜かなぁ。充血してルナティックレッドアイズになるわ、もう赤いけど、なんて」

 一人で言っても虚しいだけだが、諦念を茶化すには十分だった。ため息に若干の憐憫を込めて、ふうと吐き出してから、鈴仙はまず昼食の準備をした。




2
 私は竹藪の中を歩いている。
 竹は高いが、隙間からは赤い太陽の光が差し込んでいる。竹によって仕切られた道は、入り組んでいて、右へ、左へと、平坦な土の道を、案内板が示す矢印に従って歩いた。
 半刻歩くと、永遠亭の屋敷が見えた。入口の周りには、十を超える数の兎たちが居て、こちらを見たり、太陽を背に受けて眠ったりしていた。真っ直ぐに玄関に向かうと、兎たちは跳ねて、避けた。
 私は玄関の扉を三度叩いた。

「こんにちは、うどんちゃんいるかしら。逢いに来たわ」

 そう言うと、足音が聞こえてきて、それが近づいてきて、引き戸が横にガラガラと音を立てて開いた。目の前にはうどんちゃんがいた。

「ああ、純狐さん。そんな、私に逢いになんて、お師匠様に呼ばれてきたのでしょう」
「まあうどんちゃん。ごきげんよう、今日も可愛らしいわ」

 白い肌、うなだれた耳、赤い瞳。私が赤い瞳をのぞき込んでそう言うと、彼女は耳朶を赤くして、目を逸らした。

「どうぞおあがりください。師匠がお待ちです」
「ええ」

 玄関の敷居をまたぎ、靴を脱いで、屋敷に上がった。木目の床に沿って、足を動かすと、みしりみしりと音がした。
 白い襖を十枚越えてから、右側の襖を開いた。欄間には兎が彫られていた。四畳半の畳の部屋には二枚の座布団が敷かれていて、奥に八意女医が正座していた。背後の掛け軸は竹の花の水彩画である。その真下にはジギタリスの入った花瓶があった。私は手前の座布団に座った。

「お茶汲んできますね」

 うどんちゃんはそう言って、襖を開けて部屋の外に出てから、襖を閉めた。襖の滑る音が止むと同時に、八意女医は口を開いた。

「まあ特に大事な用事があるわけじゃないのだけれども、調子はどうかしらとね。定期健診みたいなものだと思って欲しいわ」
「でしたら、すこぶる快調です。以前にも増して、これもうどんちゃんのおかげかもしれないわ」

 八意女医は細目になり、口元を緩ませた。

「そう、なら良かった。話はこれで終わりなんだけど、何かあるかしら」
「いいえ、特にはないわ。随分と短い診察ね。つける薬もないというわけかしら」
「ふふ、そうね。とは言っても、むやみやたらに薬を出すのは藪なのよ」

 襖が滑る音がした。そちらを見ると、うどんちゃんがいて、緑茶の入った湯呑を二つ乗せた盆を持っていた。うどんちゃんは近づいてきて、私の左斜め前に座ってこう言った。

「お茶です。どうぞ」

 湯呑をこちらへ一つ、八意女医の方へもう一つを置いた。透き通った黄緑色の緑茶からは湯気が立っていた。私はうどんちゃんを見た。

「ありがとう」
「ありがと、ウドンゲ。だけど私はいらないわ。用事はもう済んだのよ」
「え、もうですか。早すぎませんか」
「言葉は多ければいいわけじゃないわ。ということで、そのお茶はあなたが飲んでいいわよ」
「はあ」

 八意女医はそう言うと、立ち上がり、うどんちゃんを自分が居た座布団に座るように伝えて、部屋から出て行った。私はうどんちゃんが勧めてきたお茶を飲んだ。するとうどんちゃんも私を見てから、座布団に正座し、湯呑を唇に当てて、息を吹きかけ湯気を散らして、お茶を啜った。

「あー、純狐さん。用事というのは何だったんですか」
「診察よ。診療所ですることと言えばそのくらいでしょう」
「あ、そうですか……」

 そう言うとうどんちゃんは三秒俯いてから、顔を上げて、周囲を見た。

「お茶、どうですか」

 お茶には甘みと苦みと渋さが含まれていた。

「美味しいわ」
「良かったです。最近姫様がお茶に凝ってるんですよ。なんかいろいろブレンドしてるみたいで、番茶と玉露を混ぜてみたり、あんまり私は詳しくないんですけど、それってどうなんだろうって思っちゃうんですよ」
「面白いじゃない。純粋なものよりも、よっぽどね。混沌こそ人間、そして地上、そうでしょう」
「あ、そ、そうですね……」

 うどんちゃんは目をそらして、お茶を啜った。そのまま全部飲み切ると、空の湯呑を置いた。そして両の拳を握り、膝の上に乗せた状態で私の方を見ていたが、目はきょろきょろと上下左右に動いていた。
 私がお茶を飲み切ると、うどんちゃんは右の掌に、左の拳をとんと当てて、こう言った。

「あ、そうだ。純狐さん、もしよければなんですけど、あの、本当にあれなんですけど、ちょっと手伝ってもらえませんか」

 うどんちゃんからの初めての要望だった。私は承諾した。

「いいわ。何?」
「え、あ、ありがとうございます。まだ何も言ってないけど、いいんですか」
「うどんちゃんの頼みだもの」

 私は唇の端を少し動かし、微笑を浮かべた。うどんちゃんは頬を赤くして、両耳を垂直に立てた。

「ありがとうございます。あのですね、アヘンを純化してみて欲しいんです。というのもですね、アヘンの中のモルヒネを取り出したいんですけど、方法がちょっと今わからなくて、もしかしたら純化すればできるんじゃないかなって思ったんですけど」
「やってみるわ。アヘンはどこかしら」
「私の部屋に持ってきてるんです。じゃあ、お願いします!」

 うどんちゃんは笑顔で立ち上がり、襖を開けて廊下に出た。私も立ち上がり、うどんちゃんの後ろをついていった。
 三つの襖を通り過ぎて、次の部屋で立ち止まった。うどんちゃんが襖を開き、部屋の中に入った。私も中に入った。先ほどの部屋より狭い。足元にはしわくちゃになった布団が敷かれていた。南側に小窓がある。奥には私の背丈と同じ高さの箪笥があった。その隣には木製の机があり、埃をかぶった顕微鏡、ピンセット、磁器製の乳鉢と乳棒、本、人差し指ほどの瓶が置かれていた。私がこの部屋を見るのは初めてだった。

「ここがうどんちゃんの部屋?」
「そうです。すみません、散らかってますが。ええと、あ、これなんですけど」

 うどんちゃんは机の上に置かれていた乳鉢を見せた。乳鉢には白い粉末が入っていた。

「これに純化をかけて欲しいんですけど……あ、すみません、呼び鈴がなったのでちょっと行ってきます」

 そう言うと、うどんちゃんは乳鉢を置いて、部屋を出て行った。呼び鈴の音は私には聞こえなかった。うどんちゃんは私より耳が良いのだ。
 私はうどんちゃんが置いていった乳鉢の上に手をかざし、白い粉末に純化を施した。見た目は変わらないが、量もひとさじしかないので、これで純化されたのだ。
 私は時計を見た。針が規則的に進むのを眺めた。
 長針が十五回動いたところで、襖が滑る音がしたので振り向いた。うどんちゃんが戻ってきた。肩で息をしながら、耳をうなだれさせていた。

「す、すみません。患者からの呼び出しで」
「待ったわ。随分と長い間ね、それこそ望月が半分に欠けるほど」

 私は頬を膨らませた。うどんちゃんはさらに耳をしわしわにして、深く頭を下げた。

「すみません!」
「冗談よ」

 私は微笑みの表情を浮かべた。

「純狐さんの冗談は洒落にならないんですよう」
「ふふふ、はいこれ。お望みのものよ」

 私は純化させた白い粉末の入った乳鉢を渡した。

「え、わあ。ありがとうございます。やっていてくれたんですね」
「うどんちゃんの頼みだもの。これで良かったのかしら」
「ばっちりです! 良かったーこれで徹夜しないで済むかも」

 うどんちゃんの耳がピンと立った。乳鉢を机の上に置き、こちらへ向き直る。私はこう言った。

「あまり徹夜は良くないわ。大変、眼が真っ赤よ」
「あはは」

 頭を手で掻いて、うどんちゃんは笑った。そして窓の方を見る。

「あ、もう暗くなってますよ。まだまだ陽が落ちるのは早いですね」
「そうね。そろそろおいとましようかしら」
「何もお構いできず、すみません……」
「いいのよ。うどんちゃんに会えただけで満足だわ」
「そんなまた、純狐さんたら」

 今日の夕焼けと同じくらい、うどんちゃんの顔に朱が差した。うどんちゃんは部屋の襖を開けて、私に来るよう促した。そのまま木目の廊下を歩き、玄関まで来た。靴を履いてから一度振り返り、こう言った。

「じゃあね。また来るわ」
「はい! いつでもいらしてくださいね」

 微笑みに微笑みで返すと、私は玄関の扉を開けて外へと出た。永遠亭を出ると、外は夜だった。竹藪の中へと歩いた。うどんちゃんは見えなくなるまで手を振っていた。
 いくつもある竹の隙間を縫って歩いた。
 月を見上げた。黄色い満月だった。
 嫦娥殺したいなと、そう思った。




3
 純狐さんが帰ってから、生あくびを一つして、なんとなく月を見上げた。望郷の念とは少し違うと思うけど、今日みたいに忙しい日にこうやってふとした空き時間が生まれると、どうにも感傷に浸りたくなる。今宵の月も綺麗だった。きっと過去の思い出というものは、地上から見た月みたいなもので、無限に美化されるのだろう。
 さて、夕食の準備をしなければ。まだやることは山積みだ。料理に、風呂の準備に、薬も補充しなけらばならない。なんて忙しい。月にいた頃よりはいろいろと楽だけど、それでも私は姫様のような徒然なるままぐうたらと過ごす、風流な隠居生活を満喫するわけにはいかないらしい。
 それと、忘れないうちにこの純化モルヒネを師匠に見せなければ。しかし、こんなにうまくいくとは思わなかった。アヘンの成分で一番多いのはモルヒネだから、もしかするとあっさり成功するのではないかという思いつきだったが、ツキに恵まれているようだ。今日は徹夜をしないで済みそうである。
 純狐さんと知り合ってから余計忙しさに拍車がかかった気がする。別にそれが嫌なわけじゃない。あの方は私よりもよっぽど長く生きていて、狂気的で、それでいてずっと強い。一介の元玉兎である私など、指先一つで塵芥も残さずに葬れるだろう。逆鱗に触れてないか、いつもハラハラしてしまう。だから会話をするとちょっと疲れてしまうけど、それでも逃げたり、適当に流したりできないのは、単純に純狐さんが私のことを気に入っていることが嬉しいというのもあるが、たぶんそれだけじゃない。
 純狐さんとどんな話をしていても、波長の揺れが一切見られない。それが少し寂しいと、傲慢にもそう思ってしまうのだ。彼女の方が私より圧倒的に強いのに。
 時折微笑みも、私をからかう冗談とその時に見せた怒りの表情も、すべて過去の記憶のリフレインに過ぎないのではないか。私も同じようなことをする。患者に笑顔を作る時、過去の記憶を引っ張ってきて、温もりを分け与えるための感情のない暖かな笑みを浮かべる。心がこもってないわけじゃないけど、波長の揺らぎはとても小さい。
 きっと純狐さんは完全なる虚無ではないのだ。だけれどそれに近い。わずかな記憶はあって、それは例えば笑ったことだったり、悲しんだことだったり、鮮明に覚えているわけじゃないんだろうけど、消えたわけではない。だけど、虚構の表情を見ると、寂しくなる。
 ただ偶に、純狐さんが見せる無表情の中には、波長の揺らぎが玉響に浮かびあがることがある。今日、このモルヒネを作って欲しいと言った時、そうなった。まるで寝たきりで会話も成り立たない患者が、何かを伝えようとしている時と同じように、精神の波長に身体が追いついていないような、そんな瞬間がある。あれが不思議だ。理由はわからないけど、たぶん、怒りが純化して、薄まってしまった他の感情の残滓なのではないだろうか。あの揺らぎを失ってほしくない。私は万能薬じゃないけれど、たぶん純狐さんの波長を一番揺らせるのは、精神病薬とかじゃなくて私なんだと思う。それだけは自負していた。
 私の背中は、純狐さんの恨みを全部背負えるほど広くないけど、幸い足腰は頑丈だから、肩を貸して、一緒に歩くくらいはできるんじゃないかな。
 夕食を終えて、色々と雑務をこなした後、私は純化モルヒネを薬包紙で包み、師匠に見せに行った。時刻はすでに二十二時を回っていた。
 この時間帯は師匠はいつも調剤室に籠って怪しげな薬を作っている。夜はどうにも気分が高まるのは蓬莱人も同じなようで、ひときわ変な効果の薬ばかりが完成してしまうそうだ。実験台にされるのは嫌だから、夜はあまり近づかないのだが、今日ばかりは仕方がない。できるだけ手早く済ましてしまおう。

「師匠ー入りますよー」

 襖を開けると、師匠は机に向かって椅子に座り、顕微鏡をのぞいていた。

「あら、どうしたの」
「あのですね。昼言ってたモルヒネができたんですけど、見てもらってもいいですか」
「やればできるじゃない。わかったわ」

 私は薬包を渡した。師匠はそれを開き、中の白い粉末をまじまじと見つめていた。かと思うと、急に今まで見ていたシャーレを乱暴に退けて、純化モルヒネを高性能の顕微鏡で見始めた。十秒ほどそうしてから、師匠は手招きした。いやな予感がした。

「え、何か不味かったですか」

 そう言うと、頭に強い衝撃がきた。私はへたりと座り込んでしまう。かなりの力で殴られたのだ。物凄い痛い。これほど強い拳骨を喰らったのは久しぶりだった。

「純狐に何かさせたでしょ」
「へ、あ、その手伝ってもらったと言いますか。純化してもらったと言いますか」
「あのね、薬とは何か、もう一度よく考えてごらんなさい。ヒトや動物、妖怪、植物、なんだってかまわないけど、それに何らかの作用をもたらす物体の内、基本的に治療に用いるものを薬というわ。所謂毒物だって用途次第では薬になりえる。それはわかるでしょう。薬剤師の役目はクランケに合わせた薬を作り、投薬し、コントロールすること。あなたは誰のためにそのモルヒネを調合したのか、思い出しなさい」
「……五兵衛さんのためです。癌患者の」
「そうでしょう。純化されたアヘンがどうなるか、快楽作用に鎮痛作用、睡眠誘発作用、腸蠕動抑制作用、それらのうちのどれか、もしくはすべてが人類には制御不可能なまでに強化されるわ。さて、あなたが作ったこれだけど、あなたに制御できるのかしら。不可能よ。純化の力、知っているでしょう。コントロールできないものを使うなんて、愚かとしか言えないわね。そうね、ヘロインなんて良い例ね。あれは人間が作り出したものだけど、人の手では制御が難しい代物だった。狂気を誘発する薬は、まぁ戦争時には役に立つけど、癌の治療薬として用いる愚か者はそうそういないわね。五兵衛さんだけど、戦地に赴く予定はあったかしら、それとも自殺を望んでいたかしら。違うわよね。あなたならわかっていると思うけど」
「はい。生きたがっているように、見えました」

 顔にも声にも出せないが、彼の波長は確かに生命の鼓動に呼応していた。

「じゃあこれは使えないわね。あなたは少し、病人を見下す気があるわ。そのこと自体は別に咎めるつもりもないけど、その傲慢さが油断となり、事故を招くのよ。注意なさい。いいかしら、何事も線引きが大事。それはあなたの物差しでしか測れないけど、少なくとも、これはあなたが測れる代物じゃない。とういうわけで、没収します」
「はい、すみません……」

 なんとなく失敗の予想はしていたけど、こんなに怒られるとは思っていなかった。涙が勝手に溢れ出る。決して悪いことをしたつもりじゃなかった。ちょっと楽しようとは思ったけど、そこを見透かされて咎められているようで、胸が苦しくなる。

「作り直してきます」
「そうなさい」

 頭を深く下げてから、調剤室を後にした。
 部屋に戻ってから、罪悪感に苛まれた。涙を押さえつけるように布団に顔を埋めても、思考は巡り、絶えず太い針で胸を抉ってくる。その度に悲愴が混じった怒りが込み上げてきて、それを宥めようとする自分の妙な理性に腹が立った。行き所のない感情が、涙腺をこじ開けて、涙となって滲み出てくる。
 叱られることにも慣れているし、師匠が決して私を貶めるために言ったわけじゃないのもわかる。あくまで倫理に則った、正当な説教だ。だけど、あんまりだ。確かに危ないものを作ってしまったかもしれないけど、師匠だって変な薬は作るじゃないか。五兵衛さんに投与してから報告したのならまだしも、それ以前の相談と確認なのだから、インシデントにすらなっていないではないか。そもそも患者を見下してなんてないし、だって彼らは弱いんだから、どうしても立場的にそう見えるし、なんなら師匠の方こそ自分以外の生物を見下してるくらいなのに、私ばっかり咎められるなんて、酷い仕打ちではないか。

「ぐすっ」

 何とか机に向かう。乳鉢を手元に寄せる。散らばった本がたくさんある。この中から、モルヒネの製法が記載された資料を探さなければならないのに、眼の焦点が合わない。思考はどうしても先の説教から逃れようとして、余計に深く潜り込んでしまう。
 あんなに露骨な怒りを見せなくてもいいじゃないか。以前、狂気を誘発する薬を作った時は怒りどころか、むしろ喜んでくれたのに、今回に限っては怒り心頭だった。わけがわからない。師匠の考えに常人が及ぶわけないのはわかっているし、師匠なりに線引きもしてあるんだろうけど、あんなに取り乱したように、怒りを見せたのは初めてかもしれない。それこそ、まるで若くして不治の病を告げられた患者のような、冷静さを欠いたものだ。普段の冷静な、折檻の意味を含んだ声色ならば、私は口をとがらせて不機嫌になるだけで、こんなに怯えて涙を流すこともなかったのに。あんなに暴力的な怒りを露わにされては――

「ん」

 一冊の本の下に、純化モルヒネの薬包が一つだけ残っていた。どうやら先ほど持っていく時に忘れたらしい。これも師匠に預けなければ。私には扱いきれない代物だから。

「あれ」

 おかしい。経験上、私が何かやらかして、それを咎める時、師匠は何かしらのお仕置きをするのではなかったか。説教と拳骨一つで済ませるなんて、信じられない。激怒するような事態なら、それこそ月にいた頃のような拷問すら覚悟しなければならないはずで、なのにほとんどお咎めなしというのは、なんというか違和感がある。

「あ」

 違和感の正体がわかってしまった。師匠は、取り乱していたのだ。私の純化モルヒネを見て、冷静さを欠いてしまうほどに狼狽したのだ。理由はわからないけど、この薬が予想を超えたものだったから、驚いてしまったに違いない。まるで普通の人間の医者みたいに生命倫理を語っていたけど、それだけならあんなに波長が乱れるはずがない。

「ふふ」

 つまりは師匠の予想を超えるものを作ったのだ。度肝を抜いたのだ。純狐さんの力を借りて、それも偶発的なものだけど、それでも嬉しかった。
 この純化モルヒネはとっておくことにした。誰にも見つからないように隠しておくつもりだ。これが手元にあるだけで、俄然やる気がわいてくる。薬の用途は何も服用するだけじゃない。純狐さんとのつながりを感じ、さらにちょっぴり優越感をもたらしてくれるこれは、お守りのように大事に持つだけで、気分が高揚する。カフェインの錠剤なんかよりよっぽど効果的だ。プラセボ効果とは少し違うけど、ただそこに在るだけで十分な、私だけの特効薬だ。

「よし」

 頬を両手で叩いた。真夜中だけどあくびは出ない。徹夜なんてなんともない。今なら、なんでもできる気がした。本を開くと、文字が滲んで見えた。先の涙のせいだ。眼が赤く腫れてるだろうか、まあいいや、徹夜でなったことにしよう。不毛な涙を拭って、私は片っ端から資料を読み続けた。
「何よ、輝夜と私の蓬莱の薬の方がこんなのより凄いし……」

うど純です。純狐の一人称視点ってどうなるんだろうかと想像して書いてみました。
灯眼
https://twitter.com/tougan833
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雑に突っ込まれる嫦娥殺したいで笑った
個人的には純文学みたいな地の文が好き
4.100夏後冬前削除
純狐の一人称という野心的な作品であることが見事に功を奏していると思いました。うど純パワーが師匠を凌駕したところも面白かったです。
5.100名前が無い程度の能力削除
対純狐としての特効薬の立場を師匠として上回る永琳を思い浮かべていたのですが、図らずとも逆の構図で弟子に上回られて内心たじろいでいたであろう永琳が見られたのは僥倖かな、とても楽しく読ませて戴きました。
6.90名前が無い程度の能力削除
よかったです
7.100名前が無い程度の能力削除
うど純はいいぞ
8.100名前が無い程度の能力削除
うど純いいですね。
うどんちゃんから純狐さんへの感情の向け方が不器用で良いですね。純狐さんはうどんちゃんを好いているのに、それをありのまま受け取れていないうどんちゃんが良かったです。
9.100南条削除
面白かったです
優曇華と純狐もさることながら取り乱してる永琳も素敵でした
10.100めそふ削除
うど純パート、とても可愛らしくて良かったです。
鈴仙が純狐の波長の変化具合も良くわかっていて、彼女の感情を一番動かせるのは自分であるという自覚を持っているところが好きでしたね。純狐も純狐で、鈴仙を照れさせるのほんと上手いのなんなんですかねえ。
あと、永琳に叱られて泣いてる鈴仙の場面が一番好きでした。叱られた後って罪悪感に駆られてそれで凄く悲しくなるんですけど、どういう訳かその辛さから逃れようとして自分を正当化しようとか相手にも非があるみたいな考えに発展するんですよね。鈴仙が泣いているのも可愛いし、すごく共感出来ちゃうし、本当にあの場面良かったです。
11.100名前が無い程度の能力削除
これは良いうど純
13.90クソザコナメクジ削除
面白かったです
14.90名前が無い程度の能力削除
感情と思考が溢れるような鈴仙の一人称と、淡々と事実を並べる純狐の一人称、それぞれがお互いの内面の様子を強調していてお見事でした。
15.100ローファル削除
鈴仙の心理描写に読んでいてとても引き込まれました。
面白かったです。