響子は拾った。ゲームを。かの名作――
――ドラゴンファンタジーオブデスティニーだ。
低俗遊戯
最後に笑ったのはいつのことだろう。そんな冷たい夜のことだ。行きなはれ。散歩行きなはれや。前頭連合の野原におわす環境大臣の推薦で森林浴に来ていた響子の足元にふと、それは落ちていた。アップルパイほどの四角形、手に取り判るアップルパイほどの厚み。アップルパイかな、と響子は思った。しかしアップルパイではないのだ。ゲームのカセットなのだ。月明かりを頼ってカセットを睨めば、マジックペンで書かれていたのだ。ドラゴンファンタジーオブデスティニーと。こりゃ冒険だな、と響子は思った。
「あの!」
カセットを持ち帰ろうとした響子に声をかける者があった。振り向くと少女がいた。少女はスカートをぎゅっと手で押さえ、響子に向かってなにか言おうと、けれど言い出せない様子でいた。泥棒かな、と響子は思った。
「……それ、わたしの。わたしの、だから……返して!」
やはり泥棒だ! 少女は響子に詰め寄り、強引にカセットを奪おうとした。響子はカセットを強く握り込み、強奪されまいとする。しかし、響子の込める力ぶん、少女も強く力を込めた。カセットがこわれてしまう! 焦った響子は、思わず少女の唇を奪った。
「……っ!」
思うよりも柔らかい感触に響子はたじろぐ。長い長い沈黙の末、少女は紅潮した顔を隠すよう背けながら小さく言った。
「……どろぼう」
響子はカセットと少女を家に持ち帰った。
少女は名を朱鷺子と云った。朱鷺子はかわいらしい羽を持っていたので、鳥かな、と響子は思った。荒れた部屋の中、カセットを動かすためのゲーム機を探す。傍ら、朱鷺子は気まずそうに立ちんぼうでいたので、響子はゲーム機の捜索を取りやめ、まずお茶を出すことにした。
座りなよ。響子は朱鷺子を座らせ、暖かいお茶を出した。ふかふかとした衣類の床に、朱鷺子は気まずそうにしているようだった。どうぞ、飲むがいいよ。響子の言葉に、朱鷺子はたじたじカップを啜る。甘い香りがした。それとなくジンジャーの効いたレモンティーだ。冬には嬉しかったかもしれない。それで君は鳥だね、と響子が聞くと、朱鷺子は不服そうに頷く。朱鷺子は鳥だった。響子がなにか思い出したような笑い方をして、朱鷺子のレモンティーはちょっといやな味がした。
ゲーム機はキッチン脇に積もったポスターカレンダーの山に埋もれてあった。おかげで、あまり埃を被っていないドリームファミリーサターンは、響子の瞳にさほどの懐かしさも与えなかった。接続のやり方も鮮明だ。テーブルにしていた電子レンジを引っ張り出して、低くなったブラウン管を上に積む。あれやこれやと線を突き刺してスイッチを引っ張れば、鈍く点灯した画面に鮮やかな色々が映り始めた。
電源入れるよ、と響子が言うと、朱鷺子はすこし楽しみになって話し始めた。
「わたし、ぜんぜん進めてなくて。最初の町から出られなかったから。だから……」
始まるオープニング・ムービーと朱鷺子の言葉に、響子は腕まくりをしてコントローラーを握った。コントローラーはアップルパイより薄く、またアップルパイよりも軽く、なんだか心許ない感じであった。
ドラゴンファンタジーオブデスティニー
それはまるで、爆速で走る夏の車窓!
ドラゴンファンタジーオブデスティニー
それはまるで、音速で閉まる電車の扉!
ドラゴンファンタジーオブデスティニー
それはまるで、消えてしまいそうな黄色い線!
それは異様なオープニングだった。二の腕からずり落ちる袖を、響子はもういちど捲り上げた。
やりかけの冒険の書を選択するとすかさず朱鷺子が電源を切るので、響子は愉快そうに何度も繰り返した。響子が繰り返すだけ朱鷺子も繰り返し電源を切る。
「はやく新しいデータ作ってったら! 消してよもう、古いやつはさあ!」
朱鷺子が怒り始めてようやく、響子は新しいデータを作った。その際に自動で消える古い冒険の書に、朱鷺子もようやくほっとした。よほど見られたくない何かがデータに残っていたかもしれない。朱鷺子自身も覚えていないが、過去の自分というのはいつも、見られるのも見るのもいやなものである。
物語の導入といえば簡素なもので、其処が剣と魔法の世界であることと、悪い魔王の存在を提示するのみでいた。ベッドで寝息を立てる頼りないドットの主人公が目を覚まし、いよいよゲームが始まる。かと思いきや、画面は暗転し、文字がつらつら表示される。主人公の名前と、職業を決めろと云う。トキコの職業は、と響子が尋ねた。トキコ、というのは、古い冒険の書に記されていたかつての主人公の名前だった。
「覚えてない! 覚えてませんー」
忘れたフリをしているが、トキコは魔法使いだった。響子はふうんと言いながら、器用に制限いっぱい五文字をカタカナで埋めた。
「えー。主人公、自分の名前にしないんですか」
しないよ。僧侶がないから、と言って、響子は主人公の職業を決めた。
勇者よ、目覚めなさい……。
覚醒の日がすぐそこまで迫っています。勇者よ……。
画面の中、目が覚めた勇者はベッドの傍ら、荒いドットのなにかを奏でた。一見するとわからないが、それはハープらしかった。短く軽薄な音がして、勇者はふいと左へ進んだ。あ、動かせる、と響子が呟く。すわメニューを開いて持ち物を確認する。100ゴールドとやくそう。装備は布の服とリコーダー。やっと操作を受け付けるようになった勇者ミスティアは、いまのところ、どうやら遊び人のようだった。
「ろくなやつじゃないよ。真昼間まで宿で寝てさ、リコーダーで犬いじめるやつなんて。勇者になんてなれないと思うけどな。だいたい遊び人ならよほど楽器を大事にすべきじゃんか。なんだよ。ミスティアは、リコーダーで、たたきつけた! って。痛くもないよそんなの」
「ち、違うじゃないですか。犬は犬でも、町の子供を脅かした狂犬ですよ。そういう正義感が、彼を勇者として覚醒させるんです、きっと。それに、リコーダーで叩かれたら痛いですよ、ぜったい」
「痛いかなぁ」
談笑を交えて旅は続く。最初の町を楽々と抜けたとき、響子はすこし得意になった。朱鷺子は「私のときはこんな簡単じゃなかった」と抗議したが、話しているうちに響子の放った「魔法使いでも選んだんじゃないの?」に口を噤むはめになった。とすれば諍いともない諍いの勝者はやはり響子で、響子はゲームを始める前に捲った袖のぶんだけ快かった。きちんと括弧のなかで喋るようになったのもそのおかげだ。
「ほら、わかる? ミスティアもいちおー魔法使えるっぽいけど。ほら、ここの習熟率って数字。この戦闘で三回使ってみたけど、まだ1%しか増えてない。たぶんこの数字上がんなきゃ威力でないんだよ。二回或いは三回使うごとに1%上がるのか、それとも与えたダメージの総量か、わかんないけどさ。この序盤で戦えない威力の魔法じゃ、そりゃ難しいよねえ」
「へえ、そんなシステムが……って、決めつけないでくださいー。言ってるじゃないですか、職業なに選んだか忘れましたーって」
話しながら、響子はボタンを押して遊び人ミスティアを操る。ミスティアは洞窟の中、理科系の男をリコーダーで殴打し続けていた。
「そんなに恥ずかしい? いいじゃん魔法使い」
「だって、なんか初心者っぽいじゃないですか。それも、自分は他とは一味ちがうぞ、とか思ってそうなタイプの」
洞窟の名はリスクル窟という、最初の村に隣接した洞窟だった。かんべんかんべん やくひん かんべん! と、村人が異臭を訴えるので、宿賃を滞納した遊び人ミスティアは、仕方なくリスクル窟の様子を見にいくはめになったのである。そこに現れたのが理科系の男だ。男は見るからに怪しい設備の中心に身を置いて、待ち構えるかのように佇んでいた。Aボタンのままにミスティアが話しかければ、それが戦闘の幕開けだった。ミスティアはわけもなくリコーダーを振るい、理科系の男はわけもなく振るわれ続け、たったいま、チリのように消滅した。
「えー、思ってたの?」
「ちょっとだけ……あれ? 犬でてきましたよ犬! さっきの狂犬!」
ふたりは目を丸くした。戦闘が終わるとフィールドから理科系の男は消え失せ、その代わりに、まるで最初からそこにいたようにして例の犬が佇んでいたのだ。「え、さっきの男は?」呟けどゲームは決して響子に応えることはない。しかし画面の中、遊び人ミスティアに向かって犬は吠えた。画面が点滅する。最初のダンジョンで二連戦というのは珍しい。響子は慌ててコントローラーを握り直した。
「うお、犬クビ増えてる! 三つに増えてる!」
唐突に増えていた犬の首に朱鷺子が爆笑すると、響子もそれにつられて笑った。持ったままのコントローラーは笑い声に合わせて震えるのみでいるから、遊び人ミスティアも三首の犬も、しばらく動けないままでいた。
『… オマエ ツヨイ … … オレ ツヨサ ノ … …
… ミカタ … … . 』
はてな。リコーダーの殴打に屈した犬のようわからんセリフにふたりは無言で首をひねる。ようわからんままにAボタンを押すと画面が暗転した。まさか! と口に出したのは響子か朱鷺子か、ともかく驚愕した。暗転した画面が切り替わると、そこには、なまえをきめてくださいのひらがな五十音と、三首な犬のいわゆる〝顔グラ〟があった。増やした首がそうさせたのだろうか、犬はリコーダーを振りかざす遊び人ミスティアの仲間になろうというのだ。「まじか、犬……」響子はあっけにとられる。握られていたコントローラーはだらり、と沈んだ。
かたわら、朱鷺子の手はゆっくりと動いていた。ゆらり、ゆらりと響子の手元へ伸びてゆく。ゆらり、ゆらり。パン、と手を叩かれて、朱鷺子は口を尖らせた。
「ちょっと、いいじゃないですか名前くらいー! だって響子さん犬でしょ、犬ー!」
「犬じゃないし、首三つもないし。おまえが犬だし」
妨害の間を許さず操られるコントローラーに、ミスティアの強さに付き従う三首狂犬はトキコと命名された。ちょっとー! と朱鷺子が電源に体ごと手を伸ばせば、響子も体ごと朱鷺子を制止して、ちゃんと飼うから、と笑いながらに繰り返した。
「てゆーかさ。帰んないの?」
「ちゃんと飼うって聞いたばっかなんですけどー」
朱鷺子が悪戯っぽく笑うと、響子はバツが悪そうに頭をかいた。怒ってんの、と響子が聞くと朱鷺子はあっけらかんとして応えた。
「なんのこと? ……いいから、ねえ? 続きやろうよ。ほら、やりましょー!」
響子は眉をしかめて下唇を噛んだ。それから、こっちも悪いぞ、と上唇も噛んだ。
「唇しまってないで。ほら、やりましょーってば」
カーテンに揺れる二つの影を、誰か笑うかもしれないなと響子は思った。青白くなった外のどこかでカラスが鳴いた。カァ、カァ、と。それはまるで、見ていないフリをするふうにして、カァ、カァ、と、何度も鳴いた。
そこは遊園地だ。太陽は見たこともないくらいに輝いて、世界を白っぽく染めている。響子は知らぬ間に綺麗な服を着てベンチに座ってミスティアを待っていた。たくさんの笑い声が響いていたから、響子もたのしげにそわそわとした。遠くにミスティアを見つけたと思えば、ミスティアはすぐに近づいてきて、響子にアイスクリームを手渡した。ミスティアの持つアイスクリームは白かった。自分の、手渡された方はなに色だろうか。視線を落とす。アイスクリームは白かった。夢だな、と響子は思った。
昼過ぎ、響子は目を覚ます。昨日ゲームを切り上げたのは空がすっかり明るくなって、雀の鳴き始めた頃だった。響子は目を擦りながらよたよたと、キッチンまで歩いて蛇口をひねる。春はもうすぐそこまできているようで、出始めの水はぬるまゆく、響子は二回、三回とコップに注いでは飲み干した。小窓から差し込む陽に照らされたシンクの一部分は、響子の手よりも暖かかった。なんか夢かも、と響子は思った。寝る前までの荒れた部屋はこざっぱりと整頓されていた。寒そうに布団に包まっていたはずの朱鷺子もどこかへ行っているようだった。
身支度を終えた響子はうらぶれた詩人のような風態で里を歩いて、そのまま、慣れた様子で定食屋の暖簾をくぐった。席に腰をかけ、なにか手続きを済ませるような素振りで注文を終える。対面にはすでに定食が運ばれている。おから定食だった。
「もっといいもん食べればいいじゃないですか。お金あるくせに」
「ちがうよ、安いからとかそういうんじゃないし。おいしいんだよ、味噌汁が。あ、味噌汁はどの定食にもついてるって思ったでしょ? ちがうんだなあ。よりおいしいんだよ。合う、ってやつ? 食べ合わせとか、よくわかんないけどさぁ。そっちこそいっつもカレーだし。お金ないくせに。カレー好き?」
まったく返答を待たず愉快そうに笑うのは九十九八橋という、響子がかつてバンドをやっていたころの知人だ。ここ最近、響子と八橋はこの定食屋でよく会った。偶然ではなく、都度予定を立てていた。八橋にとってそれは打ち合わせで、響子にとっては憂いの昼食だった。
「私やれませんよ、ボーカルなんて。弾けってんならわかりますけどお。何で歌なんか……いえ弾きませんけどお。だいたいプログレでしょう? インストやってりゃいいじゃないですか。プログレってのも、今のパンク一辺倒なシーンに対する挑戦、みたいなところがあるんでしょうけどお。結局ぅ、編成が同じじゃ無意味っていうかぁ、あんま変わんないっていうかぁ。前までのバーサスプリズムリバー! みたいな雰囲気には、ならないんじゃないかなーというかぁ……」
「じゃあ鳥獣伎楽やってよー! いいじゃんさー、盛り上がるよ、ぜったい! いやなに? もう解散したー、とかなんとなく気まずいーみたいなの、わかるよわたしも。でも響子が言ってやってよ、お前はプレイヤーだ! ってさー。レーベル立ち上げて後進育成というか、界隈への恩返し的なのやってるけど、そんなのお前の仕事じゃないーってさ。イチコロじゃんそれで。浮かぶもん、照れながらさ、まんざらでもない感じでギター担いでくるとこ」
八橋はかのミスティアを想起したのか、ふふふ、と笑った。駄洒落かな、と響子は思った。手をつけられず、味噌の沈殿した汁に浮かぶのは麩だった。八橋はいつも味噌汁を飲まなかった。とにかくやりませんから、念を押す響子に何か言おうと唇を尖らす八橋だったが、運ばれたきたカレーを息継ぎもなく運び続ける響子の異様には閉口せざるを得なかったようだ。このところの昼食に、響子はいつもこれをやった。見る見るうちに皿は空き、パン、と手のなる音がする。
「ごちそーさまでし、た!」
た、に強くアクセントを置いて、八橋が目をぱちくりさせているうち、響子はさっさと席を立った。暖簾をくぐるとき、響子は後ろ髪を引かれるように振り向いて、ぽかんとする八橋に、いー、とひとつの威嚇を見舞った。子供かな、と八橋は思った。
腹ごなしを済ませた響子は里の西部へと向かった。西には、東部のように飲食店こそないが、開けた道と民家がある。いわゆる人口密集地だ。ひとが多いので、墓も多い。二番目に広い墓地周辺はまったく人が歩かない。その墓地は西部妖災合祀墓地といい、晴れた日なら響子はそこへよく行った。今日にしてもそれらしい足取りで歩いている。行きがけの甘味処に団子なぞ包ませて、墓地で食べる腹積りでいるようだった。注文の際にふと、ミスティアは、と口を切る。
「え。どうしようかな。うーん。いいや、響子とおんなじので」
響子がミスティアと合流したのは、定食屋を出てすぐのことだった。
串だけになった団子※ を天に掲げるようにして、響子はうんと伸びをした。
※ 串に刺さっていない団子は餅。串に刺さっている餅を団子と呼ぶ。では串に刺さっていた餅はどうだろう。餅は現在、響子の腹の中にあるものとする。
「春だよ、春、春! 私好きだなー、天気もいいし。空気がおいしいよね。なんか、きもちいーじゃんか。のどかって感じもするよねぇ」
「まだ寒いよう。ぜんぜん春来てくれないもん。わたしも寒がりじゃなきゃよかったな」
墓地。言いながら、ミスティアは串をゴミ箱へとなんてことなく放り投げた。墓四つ分ほど距離があったが、ミスティアの放った串は見事ゴミ箱へストンと収まる。天才かな、と響子は言った。見様見真似、短い矢を投げるようにして響子も串を放ったが、串はゴミ箱の端にカランと当たり、無様地面に叩きつけられた。ほったらかせばいずれ蟻の肥やしになるだろうが、響子はのたのた近づいて、拾い上げては捨て直した。その様をみて、ふふ、と笑うミスティアの表情は、そのまま初春の穏やかさのようだった。
「それで? 八橋さんなんて?」
「なんかさー。あのひと、なんだろ。リバイバル? やろうとしてるんだよね。かつての、パンクが正しくパンクであった頃を再現したいんだよ。私たちがやってた頃って、能とか、それこそプリズムリバーとか、そういうコーショーっぽいのが強かったじゃん。所謂ザ・バンド編成! 的な、そんな新しいっぽいものは悪! みたいな向きがあってさあ。結局そんときに始めたギターが楽しくて、やめらんないんだよあのひと。プリズムリバーもいまや演芸でさ、『あ、縁日っすか? 演ります演りますー』って感じだし。そんでやり切れなくてプログレなんて分かりにくいもので、分かりにくいアプローチしようってわけ」
ふうん、とミスティアは相槌を打つ。響子はたのしかった。ゴミ箱の前で、ミスティアに背を向けて喋り続ける。
「でもあのひとも馬鹿じゃないから、わかってんだよねそういうの。プログレやるよーってのも結局、私たち引きずり出すためのポーズなんだよ。私からすれば困ってんだなーくらいだけど、イベントの主催からすればパンダに変なことやられたらたまったもんじゃないって、そう考えて私に声かけたのさ。折込済みだよ。私がミスティアとよく会ってること、知ってんだあのひと」
響子ふいと振り返り、どうする、とミスティアに問いかけた。
「ねえ? 私たちがまた鳥獣伎楽やったらさ。盛り上がると思う?」
「うーん、どうだろ。……出たがりーって、顰蹙買うかも。ふふ、だって。曲がりなりにも主催だもん、わたしって。若い子たちからしたら、ちょっとしたイベントのいっかいいっかいが一世一代の見せ場だよ。そんなことして、もし誰も演ってくれなくなったら河童さんたちみたく、箱こわさなきゃなくなっちゃう」
その通りかも、と響子は応えた。嘘だな、とも思った。空は気付けば曇っていた。灰色く雨が降りそうだった。そんな匂いの風が吹いた。笑われてるみたい、と響子はわらった。笑い始める響子に、ミスティアは、なにさー! と抗議した。ミスティアがなにさを繰り返すほど、響子は可笑しそうに笑い出す。ミスティアはむっとして立ち上がり、響子の脇腹をこれでもか! とくすぐった。次第にミスティアも笑い出した。墓地にはふたりの笑い声と、生暖かい、ぴゅうぴゅうという風の音ばかりが響いていた。響子はくすぐられながら、いろんなことばかりを考えていた。
びしょ濡れですわ! 誰にあたるともなくぷんすかし、響子は家の戸を開けた。鬱蒼たる森林と、雑然をそのまま地形にしたような塚の狭間、だだっ広い道の脇にポツンとある響子の家だ。響子は暗闇にいじめられながらに靴を脱いで、敷居を跨ぐ。深淵……。響子はぼそりと呟いて、笑いもせず、そのままひとつスイッチを押した。かちりかちりと明滅し、一寸して、蛍光灯は部屋を照らした。誰もいないし、何にもないし、快適じゃんか! シーンとしている。部屋は静かだ。喋ってもいないのに、響子はけたたましさを感じた。はやく家に帰る、はやく家に帰る……。帰途に繰り返し響いた言葉が、明るい部屋のなかに溢れた。気がつくと響子は布団に潜っていた。無数の雨粒はちいさくはじけて、響子は誰にも見つからず、いままさに、寝息を立てている。
深夜になる。明るい部屋のなか、響子はコントローラーのボタンを叩いていた。Aボタンはまほう、まほう、まほうと、そればかりを連打していた。画面のなかで遊び人ミスティアは冷たい魔法を放ちまくった。習熟度は47%まで上がっていた。三つ首の犬はガンガンいこうぜの命を受けガンガンいっている。遊び人と犬のいびつなパーティに殲滅される雑魚・モンスターの群れを響子は見るともなく眺めている。ぼんやり響子の頭の中で繰り返しリピートされる古いシーンは寺の団欒だ。村紗水蜜と封獣ぬえは嫌い合っている同士なのに、雲居一輪のしでかした失態に一緒になって笑っていた。ふたりが一緒に笑ってるところを初めてみて、そのとき響子もなんだか可笑しくなった。きっと村紗とぬえの笑顔は同族嫌悪の泥濘に咲いた一輪の花だった。意に反して笑ってしまったふたりを見たときの、異様な充足感についてを響子は思い出していた。冷たい魔法の習熟率は上がっていく。村のはずれにいたろうじんが魔王のじゃくてんを知っていた。まおうはさむさに弱いらしい。老人は一体なにものだろうか。例の充足感と老人の正体については無意識下3:7の比率で広がって、明るい部屋に薄らいでいる。
「えー。まほう……まほう弱いんじゃないんですか」
響子を十二時とすればブラウン管は六時、朱鷺子は九時だ。楕円とも四角形ともつかぬ時計版の上は卵の殻と塩の粒が散乱している。朱鷺子は自分の両腕に沈み込みそうになりながらゆで卵を頬張って、ブラウン管を横目にする。響子は無表情に沈黙を一寸やってから、おもむろに口を開いた。
「氷の魔法。なんか不自然だと思ってたんだ。さいしょからぽつんとひとつだけ覚えててさ、遊び人がだよ? 変じゃんか。イベント……みたいな匂いがする。ストーリー攻略の上で必ず使うから、たぶんこの魔法だけは全職業共通で最初から覚えてるみたいな、イベント魔法……そんな感じ」
わかんないっすね、魔法使いだし。朱鷺子は食べた卵七つぶん眠たさそうにして応える。
「魔王の弱点知ってる老人はなにさ」
「そんなの、もお。幼馴染でしょお。決まってるし……」
響子は一時間と二十分前に起床した。外から冷気がひゅうと足を撫でたかと思えば、不意に部屋の電気が点いて、響子の寝ぼけまなこをしばきまわした。朱鷺子の仕業だった。
「他人の名前でゲーム遊ぶのはどうかな」
「はんたい、はんたーい……感動がうすれるよ、やっちゃダメー」
ぺたん、とゆで卵の食べかけがテーブルに転がる。朱鷺子は今にも夢の中に沈んでしまいそうだ。
「ミスティアとトキコがさぁ、すっごい仲悪かったら変だよね」
「桃太郎が鳥、だからぁ……しらない。わたし朱鷺子じゃないし……」
朱鷺子は朱鷺子ではないようだった。響子の比率にトキコの正体についても加わった。明るい部屋にすーすーと寝息が響き始める。
「互いが互いにさ、うっすら……こいつきらいだなって思いながら旅を続けて。旅の中で起きためちゃくちゃ頓珍漢な出来事で思わずいっしょに笑っちゃって、なんか全部許せそうになる……そんな瞬間を引き延ばして、引き延ばして、引き延ばしたものが青春で、青春の光に魔王は打ち滅ぼされて、一旦平和になった世界で、やっぱこいつきらいだなって思う……」
ブラウン管がピコピコ鳴って、冷たい魔法の習熟率は上がっていく。それだけだった。
じりりり、と時計がなってトキコが目を覚ます。カーテンの薄明るさのなかにブラウン管の無機質な光が混ざっていた。部屋にはちいさく「通常戦闘:海」が流れている。おそらくブラウン管の向こうでミスティアはタコだかイカだかわからないモンスターと睨めっこしているに違いなかったが、トキコにそれを起き上がって確認することができなかった。朝の雀とちいさな戦闘曲のなか、穏やかな寝息が響いていた。トキコの胸に縋るように響く穏やかな寝息は祈りのようで、模糊とした不安のようでもあった。そんな寝息を立てていたのは遊び人ミスティアの創造主、幽谷響子に違いなかった。意味もなくなるアラームなどは存在しない。その後、響子がどのように目を覚ましてどのように仕事へ向かったのかは、遊び人と、タコイカ怪物と、早起きの雀だけが知っている。
和屋に昼間の風が吹く。食い扶持だなこりゃ。と響子は思った。響子はふたつの仕事をしている。ひとつは趣味、ひとつがその“食い扶持”である。響子が寺を出てから暫くが経つ。響子が一種のモラトリアムを過ごした寺で学んだのは人が死んだときに読む経と、法要が慈善事業のボランティアではないということ程度だ。生きるために必要な嘘と、死ぬために必要な本当はすべて村紗水蜜が教えてくれていた。周忌がなんのために存在するかを響子に教えたのも、もちろん村紗水蜜だった。幻想郷に所謂冠婚葬祭・ブライダル系なんて業種を作ったのは誰だっただろう。どっかのだれかさんの三回忌に斡旋された響子は「かんじーざいぼーさーぎょー」などと法要に無関係な経を読みながら、畳の上でそんなことばかりを考えていた。上の空ではやはり真昼の風が吹いていた。
食い扶持をこなせば趣味が始まる。昼食はいつかのリピートで、響子の頭のなかにはおから定食がリフレインしていた。同じ店、同じ定食、同じカレー、同じやり取り。そして同じ結論。鳥獣伎楽はやれない。しかし響子のなかでの“やれない”は曖昧に、されど確実に“演れない”に変化していた。店を出て、いつものようにミスティアと会ってもよかったのかもしれない。けれど、響子は八橋と共に里を歩いた。目的地はかつて鯨呑亭の在った地下。ミスティアローレライの小さな箱。ライブハウス『Rebounce』だ。響子はPAアンプや照明等、所謂そういった器具の調整をしなければいけなかった。無意味だなこりゃ。と響子は思った。リハーサルが始まって、照明を白黒させながら、遊び人の今後を考えていた。ドラゴンファンタジーオブデスティニー。遊び人は次の試練を乗り越えることができたなら、勇者へとクラスチェンジするらしい。はやく家に帰る、はやく家に帰る……。いつだって、頭の中はそればかりだ。八橋たちの奏でる育ちのいい鎌鼬を聞き流しながら、前頭連合野に帰宅大臣なんてのもいるかもしれないな、と響子は笑った。
「今日はありがとね。」
「河童さんたちがいれば、響子が裏方なんてやることないのにさ」
「今日はありがとね。」
「まあでも、趣味だからね」
「だって趣味でしょー?」
「今日はありがとね、ほんとうに。うれしいんだ、わたし!」
これらの言葉が誰の発言だったか、響子には判然としなかった。誰と誰の会話かもわからなかった。八橋が自分に、自分が八橋に、ミスティアが自分に、自分がミスティアに、ミスティアが八橋に、八橋がミスティアにと、そんなふうに交し合ったかもしれないし、そもそもこれらの会話すべて、実際に交わしたかどうかすら響子にはわからなかった。夕暮れの帰途には会話という抽象とカラスの鳴声が響いていた。ただひたすらに響いた。りふれいんかも、と響子は思った。響子はこの帰途を、自らの趣味と呼称していた。
「あはは」
ひとつ笑ってみるとなんだかとても疲れたような気になって、響子はゲームどころではなくなった。
ふーん、とトキコがため息を吐く。布団の中はあたたかいのを通り越してすこし蒸し暑いような感じがした。トキコは響子の腕から逃げるように寝返りを打って、また、ふーん、と息をついた。響子は「んー」だか「あー」だか、どっちともつかない声をあげてトキコに応えたつもりになる。しかしトキコは無視で応答。なんじゃいそりゃあ、と響子はぼんやり思った。
「……ゲーム」
「えー?」
響子に半ば背を向けて、退屈そうに爪やなんかを眺めながらトキコが言う。
「やんないんですね、最近。ゲーム」
「んー……」
布団あっつい、田畑ってなに、イオンモールて笑。かれこれ一時間ほど前から響子の頭のなかはこんな感じだった。空想にも満たないそれらが漏れ伝わったのか、トキコはいまいちど大きく息をついた。ふーん、ふーんといった鼻のため息ではなく、今度は、ハァ、だった。口を大きく開いて、ハァ、ですわ! こりゃたまらん! 響子は蒸し暑さを布団ごと蹴飛ばすようにして起き上がった。
「やるよ! ゲームやる! ……やるけどさーぁ?」
「なんですか、急に……。やりませんよぅ、わたしぃ……」
んだよこいつは! 響子は退屈なんだか眠たいんだかわからないトキコがやりづらかった。響子はもういちど横になる。布団を裏返せば冷たくて気持ちがよかった。そのままトキコの肩らへんに額をくっつけてちょっと甘えた声で言う。
「なんかさぁ、なんかー……やりたくないわけじゃないんだけどさぁ。なんてんだろ、なんかミスティア勇者になるじゃんか。ジョブチェンジよ、ジョブチェンジぃ……武器種も剣になってさあ。せっかく楽器の習熟率上げてきたのに、また一からだし。説明書わかりにくいからわかんないけど、魔法の習熟率もリセットされそうなんだもん。なんかそれ考えたら面倒になっちゃったよ」
「魔法はたしかそのままですよ」
えーでもさあ、と響子が口にしてからゼロコンマ数秒の間に、響子の頭にまたぼんやりが押し寄せる。めっちゃ岬、呉越同舟、犬くじら……。ハッとして響子は言葉を紡ぐ。
「いやぁ。ていうのもちがくて。なに? なんだろ。なんか、いたじゃん。トキコの云うとこの幼馴染み。ほら、魔王の弱点おしえてくれた老人。あれがさぁ、どんどんいろんなこと喋るわけ。魔王の生い立ちとか、魔王になる前のはなしとかさぁ。もちろんそんな直接的なこと言わないけど、わかるじゃん、なんとなく。あー、ミスティアもこうして魔王に近付いていくんだーみたいな。ああ、魔王ってのも氷の魔王だったわけ、魔王が。ね? 氷の魔王の弱点が氷! 遊び人ミスティア、氷の魔法使えます! 勇者やれます! みたいな。ほらなんか、なんかやる気出ないじゃんか。先の見える感じでさぁ」
トキコは呆れたように短く息を切って寝返りを打つ。今度はすっかり響子に背を向けてしまう。なんだかな、響子も仰向けになって天井を眺めた。またぼんやりとしてくる。牛乳牧場、ほら穴、紅鮭ワイン。はちみつ、足の裏、スーパーイグアナ……。ふ、と思いつきを口にした。
「ねえ、トキコってどんな子なのさ」
「えー? なんですかぁ、それ……。トキコちゃんはトキコちゃんですよ。かわいいでしょ、ふふふ……そっちこそぉ、ミスティアさんのこと教えてくださいよう」
よく笑う子だったよ、と響子が応えると、トキコはくるんと寝返りを打って、響子の脇腹をくすぐった。さほどのくすぐったさもなかったが、トキコの何か期待するような、そんな悪戯っぽい目つきに響子は降伏するみたいにして笑った。ちょっといいかも、と響子は思った。部屋は明るい。カーテンは閉じている。響子はトキコに触れてみたり、撫でてみたりした。不意に、いつか墓地で見た供花の色を思い出す。色は白かった。
「ねえ、ねえねえ。トキコさぁ。これからずっと布団の中にいるのってたのしそうだと思わない? なんか、ふわふわしてて、蒸し暑くって、いい感じでしょ」
「やだよーそんなの……だいたい昨夜の約束通りなら、今ごろお花見してるはずなのに。響子さんいっつも口だけー」
「あれ、行かないの?」
「え! 行くんですか!」
トキコは飛び起きて身支度を始めた。なんだかな、響子は鼻白む。起き上がりもせずに手のひらで時計を叩きつけてアラームを止めた。今日は八橋たちがライブをやる日だった。ちょっと前のリハーサルのときに「やります、ぼーかる」などと嘯いた響子の心はすこしだけちくりと痛むような感じもした。「よっしゃ、たくさん飲んじゃうぞ」響子も起き上がって身支度を始める。「え、響子さんけっこー強いんですか」最強だよ、着替えながら響子が言った。もちろん大嘘だった。
立ち並ぶ無数の桜の木に人々は群がる。はらはら舞う花弁はブルーシートに積もってゆく。喧騒を数の単位として赤ら顔と差し引けばちょうどゼロになりそうだ。響子は頭の芯がじんと熱くなっているような気がした。その熱さを捉えようと眉を潜めるが、響子の視界は赤ら顔と喧騒のなかを泳ぐばかりで、熱さの正体らしきものは掴めずにいた。あぐらのまま、地面につけた両手の片方を伸ばす。なんかぬるまゆい。響子が掴んだのは安っぽい透明のドリンクカップで、気泡の少なくなった小麦色の液体は頭のなかと同じ温度で揺れていた。
「ぬ、ぬるいよう。おいしくないよう」
ちびりと口をつけたはいいものの、春の陽気にぬるまったビールなど飲めたものではなかった。蝉……。響子が呟やけど季節は春だ。暖かさとアルコールで、なんだか頬が火照る感じがした。「う、うぅ……」響子は不意に悲しくなる。なにか悲しいことがあるわけじゃないが、顔の火照りを涙の出る前兆として脳が勘違いを起こしたのだ。「あっ」舞う桜のひとひらがカップのなかにゴールインすると響子はたちまち愉快になった。けれど、浮かぶひとひらの裏っ側から黒い粒のような虫が這い出てくると、響子はまた悔しくなって、悲しくなった。
「あ、あ、蟻……? 蟻じゃん……! なんで……なんでぇ……」
響子はしばらくしくしくとする。周りの赤ら顔はひとり悲しむ響子に怪訝そうな一瞥の他にはなにひとつを寄越さないでいた。しかし、しばらく泣いていると響子の陣取るブルーシートを跨ぐ者があった。だ、だれかきちゃった! 響子は焦って嗚咽を止めるが、足音は響子の後ろで二、三鳴って止まってしまった。足音の正体はトキコだった。なんか泣いてる。トキコは不思議でたまらなかった。屋台から戻ってくると上機嫌でビールを買ってこいと爆笑していた張本人がしくしくとしているではないか。意味がわからなかった。両手に安っぽい透明のカップを持っているせいで手が冷えた。えい、と片方を後ろから響子の頬に押し付ける。
「……う、うわああああ!」
響子はおどろきのあまりひっくり返った。場に似つかわしくない悲鳴に周りも驚いてこっちをみる。トキコは恥ずかしそうにきょろきょろしたあと両手のカップをシートに置いて、それから声を潜めて口を開いた。
「ちょっと、おっきい声ださないでくださいよう。買ってきましょうか? お茶とか……」
響子は未だ驚きが余ってしばし目のぱちくりをやっていたが、状況を飲み込むが早いか冷えたビールに手を伸ばした。
「冷えてんじゃん!」
それから響子はずっと笑顔だった。
一転。太陽が西へと傾き始めたころだ。里の中、響子はトキコに手を引かれながらごねまくっている。
「ねえ、これどこ行くの……? や、やだよぉ。つまんないよ、つまんないー。歩きたくない……つまりたいもん、歩きたくないもん、歩かないー!」
「つまる、とかつまらない、とか。そういうのもういいんです。帰るんですよ。ほらしゃんと歩いて……もう、みんな笑ってるじゃないですか」
「……はー? ぜったい帰んないし。ばかじゃん」
響子はトキコの手を振り払いその場に蹲み込んだ。んだよこいつは。トキコはようやくイラッとした。そもそも帰ると言い始めたのも響子だったし、帰りたくないとごねはじめたのも響子だった。帰りたいというからブルーシートなど帰り支度を始めたのに、支度を始めるや否や「なんで帰ろうとしてんの」とバグりだしたのだ。ならばそのまま帰らずにいようとも思ったトキコだったが、そのときにはもう俊敏な花見客によって先ほどまでのトキコたちの場所を陣取られていた。仕方ないので帰りましょうと説得するも響子は素直に応じることをしなかった。手繋いでくれたら帰るとか言うから繋いでみると、響子は「え。なんだっけ……なに、あれ? いまからなんかすんの?」などとバグりっぱなしだった。トキコは仕方なく繋ぎっぱなしの手を腕力を以て引くことにしたのである。
しかしトキコの手は振り払われ、響子は往来のど真ん中に蹲み込んでいる。トキコは響子よりもすこしだけ身長があったが、往来の人々からすればどっちも関係のないことのようで、がんばれおねえちゃん、などとトキコを冷やかす声すらあった。他人たちが見出したふたりの関係性は、少なからずトキコにとって望ましいものではなかった。
「帰らないよう、帰りません。ないもん、帰るとこなんて……うう、ムラサに会いたいよぅ」
「家あるじゃないですか」
ない、と響子は言った。いやあるだろ、とトキコは思った。
「こりゃちょっと無理かもしらん」
思わずトキコの心の声が漏れる。「え、なにが?」きょとん顔の響子を無視してトキコは腕を組み逡巡する。響子はトキコの様子が不安になって立ち上がってはトキコの腕を揺する。「おーい? トキコ、トキコ? あれ? ちょっと、ねえトキコぉ……」トキコは響子を完全に無視して思案にふけった。
「ムラサとかいう新キャラでてきたし……」
本当のところ、トキコは朱鷺子じゃないし、もちろんトキコですらなかった。トキコはずっとゲームをしていた。見ず知らずの他人に見ず知らずの他人を好きだと言わせるという低俗な遊びにトキコがのめりこんだのはもうずっと昔のことになる。本当の名前は誰も知らない。ただそんな遊びをするときに、トキコは必ず朱鷺子と名乗った。
「……飲みますか! どこか、適当な店で。ね、響子さん!」
「……ねえ、もしかしてトキコって……」
響子もそれをわかっていた。わかっていながらトキコとの時間を過ごしてきたのだ。しかし、酔っ払いの響子はけっこー本気だった。お茶目通り越してバグりまくるほどトキコにマジだったのだ。ひとは酔ったときに本音を吐くという。その後、響子が吐いたのは「わたしのこと大好きでしょ!」という馬鹿みてえな台詞と胃の内容物のみだった。
カウンターの上にはビールジョッキと胡瓜やなんやの小鉢があった。隣もその隣もそのまた隣にも似たような酒と肴が並んでいた。酔客たちは楽しそうに笑っていた。テーブル席の方からは箸で碗をちんどんやって歌っている声もした。暖簾の外の人々は薄青の夕陽に照らされながらそれぞれの家路を辿っていた。
それから、響子は帰途の暗闇に化け物をみたような気がしたが、次に目が覚めればみんなすっかり忘れてしまった。
しばらくが経って、響子は久しぶりにコントローラーを叩いていた。ミスティアはもう勇者になって、敵という敵に四桁のダメージを与えまくっている。ミスティアが勇者の試練を突破するころ、犬のトキコの言葉は流暢になっていた。トキコは勇者になったミスティアに「つよすぎてひくわ」と言い残してパーティを離脱した。魔王城に繋がる洞窟のボスを難なく撃破し、響子は、ふー、と息をつき、テーブルにコントローラーを置く。
コントローラーのわき、ちらり、と響子の視界に映った紙切れはことさら、響子に深いため息を吐かせた。それは先日上機嫌で訪ねてきた九十九八橋の残した不愉快な雑誌だった。
『プログレ・パンク戦争激化‼︎ 過熱する音楽シーン』
誌面には打倒プログレを掲げた若者たちのコメントが掲載されている。どうやら八橋たちは正しくカンフル剤をやっているようで、二、三の有望株が一緒くたになった特集も組まれていた。ページの最後の方には八橋のベテランぶったコメントがちょこんと載っていた。要するにこのところの箱ではプロレスじみた、ある意味では正しい姿の対バンが繰り広げられているのである。そんな冷やかしめいたシーンを創り出した当の仕掛け役は雑誌の裏っ側に八橋のそれよりも小さく、まるで後ろめたいことがあるかのように、ぽつりと名前が印字されているのみでいた。
響子はゲーム機の電源を切って手早くソフトを抜き取る。ブラウン管わきの段ボール箱をまさぐるとガチャガチャと音がした。段ボールの中はゲームソフトで氾濫していた。最近のお気に入りは『桃太郎ストリートファイト』だ。しかし無数のソフトに埋もれているのかなかなか見つからない。探しているうちに様々なタイトルが目についた。『へべれけメカボウル』、『ミステリーたまごサークル』、『氷のゴリラ兄弟』どれも二人で遊んだタイトルばかりだ。『旧・鬼ヶ島』の続きをみるのもたのしいかもしれない。響子はトキコの帰りが待ち遠しくなって、あれもこれもとソフトを散らかした。
「か、完璧なラインナップを揃えてしまった……」
響子はテーブルに置いた厳選に厳選を重ねた『ふたりでやるとたのしいタイトル』群にひとり感激していた。トキコもそろそろ帰り道だろう。響子はこれから起こるたのしみに震えながら座してトキコを待った。しかしトキコはまだ帰らない。響子は居た堪れず、今度は遊ぶ順番を紙に書き起こしていったが、それでもトキコは帰らなかった。次第に響子の頭の中はあらゆるたのしみに押しつぶされそうになる。ふ、と浮かぶのは苛々とする笑顔のリフレインだ。響子はテーブルに置いたソフトだけじゃ足りないような気になってすわ段ボールをひっくり返す。トキコは戻らない、軍鶏鍋の材料の買い出しに行ってる。響子は苛々とする。やったことない作詞なんかをしてみようかと筆を走らせるも二秒と続かない。筆を持つ手のパーツにさえ苛々とする。しかしトキコは帰らない。あれやこれやと居ても立ってもいられなくなる。トキコはまだまだ帰らない。
ま、ま、ま、待ちきれんわ! と響子は部屋を飛び出した。初めから、五分も経っていなかった。
帰りましたよーと呟きながらトキコは玄関をくぐる。短い廊下をぺたぺたと歩く。
「あれ?」
リビングを覗くと響子の姿はなく、代わりにテーブルにはゲームソフトが散乱していた。そのわきのぐちゃぐちゃに丸まった紙を広げると『この順番でたのしさ二倍』とあった。トキコはそれをゴミ箱に捨てて散らかったソフトを段ボールに片付ける。トキコはおおかた片付いたころ、ゲーム機のソフト挿入口に紙切れが挟まっていることに気がついた。広げてみると、今度は二文字、乱暴な筆致で『好き』とあった。やっとか、とトキコは思った。部屋を見渡すと整頓したはずの部屋も前のように荒れていて、まるで初めから何もなかったかのようだった。
ゆるく風が吹いている。世界は昼を過ぎても空を真っ青に染め上げていた。響子は里を走っている。香霖堂から買い戻した裸のPJタイプを抱えていた。頭のなかの村紗水蜜が「大人は走らんのよ」と嘯いても響子には関係がなかった。どうせ些細なきっかけで自分が表出してしまうなら、はなから人の真似をして生きるなんて無意味なのだと、響子は不思議と理解していた。響子は初対面の女の子を持ち帰ったりしないし、レモンティーなんか絶対飲まない。他人の名前でゲームを遊んだりしないし、他人の嘘を勘繰ったりしない。たとえ嘘だと分かっても分からないフリなんてしなかった。家に帰りたければそうするし、プログレだろうがなんだろうがステージに立てるならなんだってよかった。響子はやりたければなんだってひとりでやっていたし、一緒にやろうと声をかけられれば喜んでそうした。いつだって相手より先に相手に懐いた。響子は好きになる相手を選んだことなんて一度としてなかった。響子が寺を出たのは些細なきっかけだった。響子が鳥獣伎楽をやめたのは些細なきっかけだった。響子が村紗水蜜を模倣したのも些細なきっかけだった。ただ単に雀の鳴き声と気まぐれに突き動かされてきただけだった。それは今にしたって変わらない。響子は転がるように階段を駆け降りた。自分の手が扉を開けるのを待ちきれない。響子は今にも叫びたくて仕方がなかった。
早起きの雀の声がする。瞼に光があたっている。肌の上をさらさらと何かが滑る。そんな感覚に包まれて、響子はハッと目を覚ます。黄緑の遮光カーテンはくらくら揺れて、部屋に舞う埃を照らしたり、また隠したりを繰り返す。自分のすぐ近くで、すーすー、と誰かが寝息を立てていた。知らないマットレスの柔らかさに戸惑いながら寝返りを打つと、懐かしい狸寝入りのミスティア・ローレライがそこにいた。ミスティアは目を細く開いて、悪戯っぽく笑いかけた。やっちまったな、と響子は思った。覚えているのは二杯目までだった。響子が何も覚えてないことを悟ったか、ミスティアは皮肉っぽく言った。
「ゲームクリアおめでとー」
「ちがうよ、ちがう……わたしこんな、こんなこと」
「私さ、起きたら真っ先に言ってやろーと思ってさ。こんなひどい遊び、どこで覚えたんだー! って」
「それは、これとは関係なくて。その、ミスティアとは……」
「こうも言ってた。なんならそれを低俗と呼んでもいいし、どう呼んだって構わない。例えばこんな呼び方もある……。ほら、なんだっけ?」
「……コーゲキ的侵略」
応えるとミスティアはからかうように笑った。響子は自分の舌を噛み切りたくなりながらにため息をつく。
「ねえ、あれ。あんなのさぁ。あなたほんとに、私とオンガクやってた響子ちゃん?」
「ちがうかも。やったことないかも。興味はあるけど」
「やってみる?」
響子が、うん、と声に出してうなずくと、ミスティアは飛び起きて部屋の隅のギターを担いで、あられもない姿のまま、聞き覚えのあるワンフレーズを弾いたあと、恥ずかしそうに口を開いた。
「……レベルアップ! あなたはつよくなりましたー! ……こんなんだっけ?」
そしてミスティアはごまかすように関係ないフレーズを弾いて歌い始める。窓の向こうにカラスがやってきて、雀たちは小さな影の粒になって消えてゆく。ミスティアのキレーな声。うろ覚えをごまかすみたいな歌い方。なんだ、やってんじゃん。響子は思った。カーテンはミスティアの影を映して、一緒になって揺れている。ミスティアの歌はワンフレーズに満たないくらいで次から次へと消えてゆく。
「恥ずかしいこと言うようだけど……」
響子が呟けど、ミスティアは目を瞑ったまま、楽しそうに、はたまた祈るように演奏を続ける。
「……その。わたしさ、誰だっていいんだ。ミスティアが他の誰だったって関係ない。だからそのう。これでやっと言えるんだ、ミスティアが、好きってこと……これって変かな?」
ミスティアは響子にギターを投げつけた。響子は焦ってベッドの上で身を翻す。けれど、避けた先にはもうミスティアが待ち構えてて、響子はどこにも逃げられない。
それから二人はくすぐり合うように笑い合う。そんなこんなが昼前になんだか突然ばかばかしくなったときも、もちろんふたりは一緒に笑った。今がお決まりの最後ってやつかもしれないな、と響子は思ったし、こんな幸せは大きすぎてなんだか化け物じみている、なんてことも思った。
「ねえミスティア。わたし、わたしミスティアとまたやりたいよ、オンガク……」
「えー。でもなあ、響子ちゃんは私じゃなくてもいいって言うし、忙しいし。他に相手がいるならさあ、そっちとしたらいいじゃん。……まあでも、響子の……うん。響子の頑張り次第かな。えへへ。がんばるんだぞー、なんて」
頑張ろう、と素直に思えたその矢先に、Cだなこりゃ、と響子は思った。大きな化け物のそばに丸腰で横たわる自分の情けなさに響子はすこし苦笑する。
「それよりさぁ。こないだの夜に一緒に歩いてた子、だれさー?」
「……わ、わかんない」
そうしてまた、響子の日々は続いてゆく。
――ドラゴンファンタジーオブデスティニーだ。
低俗遊戯
最後に笑ったのはいつのことだろう。そんな冷たい夜のことだ。行きなはれ。散歩行きなはれや。前頭連合の野原におわす環境大臣の推薦で森林浴に来ていた響子の足元にふと、それは落ちていた。アップルパイほどの四角形、手に取り判るアップルパイほどの厚み。アップルパイかな、と響子は思った。しかしアップルパイではないのだ。ゲームのカセットなのだ。月明かりを頼ってカセットを睨めば、マジックペンで書かれていたのだ。ドラゴンファンタジーオブデスティニーと。こりゃ冒険だな、と響子は思った。
「あの!」
カセットを持ち帰ろうとした響子に声をかける者があった。振り向くと少女がいた。少女はスカートをぎゅっと手で押さえ、響子に向かってなにか言おうと、けれど言い出せない様子でいた。泥棒かな、と響子は思った。
「……それ、わたしの。わたしの、だから……返して!」
やはり泥棒だ! 少女は響子に詰め寄り、強引にカセットを奪おうとした。響子はカセットを強く握り込み、強奪されまいとする。しかし、響子の込める力ぶん、少女も強く力を込めた。カセットがこわれてしまう! 焦った響子は、思わず少女の唇を奪った。
「……っ!」
思うよりも柔らかい感触に響子はたじろぐ。長い長い沈黙の末、少女は紅潮した顔を隠すよう背けながら小さく言った。
「……どろぼう」
響子はカセットと少女を家に持ち帰った。
少女は名を朱鷺子と云った。朱鷺子はかわいらしい羽を持っていたので、鳥かな、と響子は思った。荒れた部屋の中、カセットを動かすためのゲーム機を探す。傍ら、朱鷺子は気まずそうに立ちんぼうでいたので、響子はゲーム機の捜索を取りやめ、まずお茶を出すことにした。
座りなよ。響子は朱鷺子を座らせ、暖かいお茶を出した。ふかふかとした衣類の床に、朱鷺子は気まずそうにしているようだった。どうぞ、飲むがいいよ。響子の言葉に、朱鷺子はたじたじカップを啜る。甘い香りがした。それとなくジンジャーの効いたレモンティーだ。冬には嬉しかったかもしれない。それで君は鳥だね、と響子が聞くと、朱鷺子は不服そうに頷く。朱鷺子は鳥だった。響子がなにか思い出したような笑い方をして、朱鷺子のレモンティーはちょっといやな味がした。
ゲーム機はキッチン脇に積もったポスターカレンダーの山に埋もれてあった。おかげで、あまり埃を被っていないドリームファミリーサターンは、響子の瞳にさほどの懐かしさも与えなかった。接続のやり方も鮮明だ。テーブルにしていた電子レンジを引っ張り出して、低くなったブラウン管を上に積む。あれやこれやと線を突き刺してスイッチを引っ張れば、鈍く点灯した画面に鮮やかな色々が映り始めた。
電源入れるよ、と響子が言うと、朱鷺子はすこし楽しみになって話し始めた。
「わたし、ぜんぜん進めてなくて。最初の町から出られなかったから。だから……」
始まるオープニング・ムービーと朱鷺子の言葉に、響子は腕まくりをしてコントローラーを握った。コントローラーはアップルパイより薄く、またアップルパイよりも軽く、なんだか心許ない感じであった。
ドラゴンファンタジーオブデスティニー
それはまるで、爆速で走る夏の車窓!
ドラゴンファンタジーオブデスティニー
それはまるで、音速で閉まる電車の扉!
ドラゴンファンタジーオブデスティニー
それはまるで、消えてしまいそうな黄色い線!
それは異様なオープニングだった。二の腕からずり落ちる袖を、響子はもういちど捲り上げた。
やりかけの冒険の書を選択するとすかさず朱鷺子が電源を切るので、響子は愉快そうに何度も繰り返した。響子が繰り返すだけ朱鷺子も繰り返し電源を切る。
「はやく新しいデータ作ってったら! 消してよもう、古いやつはさあ!」
朱鷺子が怒り始めてようやく、響子は新しいデータを作った。その際に自動で消える古い冒険の書に、朱鷺子もようやくほっとした。よほど見られたくない何かがデータに残っていたかもしれない。朱鷺子自身も覚えていないが、過去の自分というのはいつも、見られるのも見るのもいやなものである。
物語の導入といえば簡素なもので、其処が剣と魔法の世界であることと、悪い魔王の存在を提示するのみでいた。ベッドで寝息を立てる頼りないドットの主人公が目を覚まし、いよいよゲームが始まる。かと思いきや、画面は暗転し、文字がつらつら表示される。主人公の名前と、職業を決めろと云う。トキコの職業は、と響子が尋ねた。トキコ、というのは、古い冒険の書に記されていたかつての主人公の名前だった。
「覚えてない! 覚えてませんー」
忘れたフリをしているが、トキコは魔法使いだった。響子はふうんと言いながら、器用に制限いっぱい五文字をカタカナで埋めた。
「えー。主人公、自分の名前にしないんですか」
しないよ。僧侶がないから、と言って、響子は主人公の職業を決めた。
勇者よ、目覚めなさい……。
覚醒の日がすぐそこまで迫っています。勇者よ……。
画面の中、目が覚めた勇者はベッドの傍ら、荒いドットのなにかを奏でた。一見するとわからないが、それはハープらしかった。短く軽薄な音がして、勇者はふいと左へ進んだ。あ、動かせる、と響子が呟く。すわメニューを開いて持ち物を確認する。100ゴールドとやくそう。装備は布の服とリコーダー。やっと操作を受け付けるようになった勇者ミスティアは、いまのところ、どうやら遊び人のようだった。
「ろくなやつじゃないよ。真昼間まで宿で寝てさ、リコーダーで犬いじめるやつなんて。勇者になんてなれないと思うけどな。だいたい遊び人ならよほど楽器を大事にすべきじゃんか。なんだよ。ミスティアは、リコーダーで、たたきつけた! って。痛くもないよそんなの」
「ち、違うじゃないですか。犬は犬でも、町の子供を脅かした狂犬ですよ。そういう正義感が、彼を勇者として覚醒させるんです、きっと。それに、リコーダーで叩かれたら痛いですよ、ぜったい」
「痛いかなぁ」
談笑を交えて旅は続く。最初の町を楽々と抜けたとき、響子はすこし得意になった。朱鷺子は「私のときはこんな簡単じゃなかった」と抗議したが、話しているうちに響子の放った「魔法使いでも選んだんじゃないの?」に口を噤むはめになった。とすれば諍いともない諍いの勝者はやはり響子で、響子はゲームを始める前に捲った袖のぶんだけ快かった。きちんと括弧のなかで喋るようになったのもそのおかげだ。
「ほら、わかる? ミスティアもいちおー魔法使えるっぽいけど。ほら、ここの習熟率って数字。この戦闘で三回使ってみたけど、まだ1%しか増えてない。たぶんこの数字上がんなきゃ威力でないんだよ。二回或いは三回使うごとに1%上がるのか、それとも与えたダメージの総量か、わかんないけどさ。この序盤で戦えない威力の魔法じゃ、そりゃ難しいよねえ」
「へえ、そんなシステムが……って、決めつけないでくださいー。言ってるじゃないですか、職業なに選んだか忘れましたーって」
話しながら、響子はボタンを押して遊び人ミスティアを操る。ミスティアは洞窟の中、理科系の男をリコーダーで殴打し続けていた。
「そんなに恥ずかしい? いいじゃん魔法使い」
「だって、なんか初心者っぽいじゃないですか。それも、自分は他とは一味ちがうぞ、とか思ってそうなタイプの」
洞窟の名はリスクル窟という、最初の村に隣接した洞窟だった。かんべんかんべん やくひん かんべん! と、村人が異臭を訴えるので、宿賃を滞納した遊び人ミスティアは、仕方なくリスクル窟の様子を見にいくはめになったのである。そこに現れたのが理科系の男だ。男は見るからに怪しい設備の中心に身を置いて、待ち構えるかのように佇んでいた。Aボタンのままにミスティアが話しかければ、それが戦闘の幕開けだった。ミスティアはわけもなくリコーダーを振るい、理科系の男はわけもなく振るわれ続け、たったいま、チリのように消滅した。
「えー、思ってたの?」
「ちょっとだけ……あれ? 犬でてきましたよ犬! さっきの狂犬!」
ふたりは目を丸くした。戦闘が終わるとフィールドから理科系の男は消え失せ、その代わりに、まるで最初からそこにいたようにして例の犬が佇んでいたのだ。「え、さっきの男は?」呟けどゲームは決して響子に応えることはない。しかし画面の中、遊び人ミスティアに向かって犬は吠えた。画面が点滅する。最初のダンジョンで二連戦というのは珍しい。響子は慌ててコントローラーを握り直した。
「うお、犬クビ増えてる! 三つに増えてる!」
唐突に増えていた犬の首に朱鷺子が爆笑すると、響子もそれにつられて笑った。持ったままのコントローラーは笑い声に合わせて震えるのみでいるから、遊び人ミスティアも三首の犬も、しばらく動けないままでいた。
『… オマエ ツヨイ … … オレ ツヨサ ノ … …
… ミカタ … … . 』
はてな。リコーダーの殴打に屈した犬のようわからんセリフにふたりは無言で首をひねる。ようわからんままにAボタンを押すと画面が暗転した。まさか! と口に出したのは響子か朱鷺子か、ともかく驚愕した。暗転した画面が切り替わると、そこには、なまえをきめてくださいのひらがな五十音と、三首な犬のいわゆる〝顔グラ〟があった。増やした首がそうさせたのだろうか、犬はリコーダーを振りかざす遊び人ミスティアの仲間になろうというのだ。「まじか、犬……」響子はあっけにとられる。握られていたコントローラーはだらり、と沈んだ。
かたわら、朱鷺子の手はゆっくりと動いていた。ゆらり、ゆらりと響子の手元へ伸びてゆく。ゆらり、ゆらり。パン、と手を叩かれて、朱鷺子は口を尖らせた。
「ちょっと、いいじゃないですか名前くらいー! だって響子さん犬でしょ、犬ー!」
「犬じゃないし、首三つもないし。おまえが犬だし」
妨害の間を許さず操られるコントローラーに、ミスティアの強さに付き従う三首狂犬はトキコと命名された。ちょっとー! と朱鷺子が電源に体ごと手を伸ばせば、響子も体ごと朱鷺子を制止して、ちゃんと飼うから、と笑いながらに繰り返した。
「てゆーかさ。帰んないの?」
「ちゃんと飼うって聞いたばっかなんですけどー」
朱鷺子が悪戯っぽく笑うと、響子はバツが悪そうに頭をかいた。怒ってんの、と響子が聞くと朱鷺子はあっけらかんとして応えた。
「なんのこと? ……いいから、ねえ? 続きやろうよ。ほら、やりましょー!」
響子は眉をしかめて下唇を噛んだ。それから、こっちも悪いぞ、と上唇も噛んだ。
「唇しまってないで。ほら、やりましょーってば」
カーテンに揺れる二つの影を、誰か笑うかもしれないなと響子は思った。青白くなった外のどこかでカラスが鳴いた。カァ、カァ、と。それはまるで、見ていないフリをするふうにして、カァ、カァ、と、何度も鳴いた。
そこは遊園地だ。太陽は見たこともないくらいに輝いて、世界を白っぽく染めている。響子は知らぬ間に綺麗な服を着てベンチに座ってミスティアを待っていた。たくさんの笑い声が響いていたから、響子もたのしげにそわそわとした。遠くにミスティアを見つけたと思えば、ミスティアはすぐに近づいてきて、響子にアイスクリームを手渡した。ミスティアの持つアイスクリームは白かった。自分の、手渡された方はなに色だろうか。視線を落とす。アイスクリームは白かった。夢だな、と響子は思った。
昼過ぎ、響子は目を覚ます。昨日ゲームを切り上げたのは空がすっかり明るくなって、雀の鳴き始めた頃だった。響子は目を擦りながらよたよたと、キッチンまで歩いて蛇口をひねる。春はもうすぐそこまできているようで、出始めの水はぬるまゆく、響子は二回、三回とコップに注いでは飲み干した。小窓から差し込む陽に照らされたシンクの一部分は、響子の手よりも暖かかった。なんか夢かも、と響子は思った。寝る前までの荒れた部屋はこざっぱりと整頓されていた。寒そうに布団に包まっていたはずの朱鷺子もどこかへ行っているようだった。
身支度を終えた響子はうらぶれた詩人のような風態で里を歩いて、そのまま、慣れた様子で定食屋の暖簾をくぐった。席に腰をかけ、なにか手続きを済ませるような素振りで注文を終える。対面にはすでに定食が運ばれている。おから定食だった。
「もっといいもん食べればいいじゃないですか。お金あるくせに」
「ちがうよ、安いからとかそういうんじゃないし。おいしいんだよ、味噌汁が。あ、味噌汁はどの定食にもついてるって思ったでしょ? ちがうんだなあ。よりおいしいんだよ。合う、ってやつ? 食べ合わせとか、よくわかんないけどさぁ。そっちこそいっつもカレーだし。お金ないくせに。カレー好き?」
まったく返答を待たず愉快そうに笑うのは九十九八橋という、響子がかつてバンドをやっていたころの知人だ。ここ最近、響子と八橋はこの定食屋でよく会った。偶然ではなく、都度予定を立てていた。八橋にとってそれは打ち合わせで、響子にとっては憂いの昼食だった。
「私やれませんよ、ボーカルなんて。弾けってんならわかりますけどお。何で歌なんか……いえ弾きませんけどお。だいたいプログレでしょう? インストやってりゃいいじゃないですか。プログレってのも、今のパンク一辺倒なシーンに対する挑戦、みたいなところがあるんでしょうけどお。結局ぅ、編成が同じじゃ無意味っていうかぁ、あんま変わんないっていうかぁ。前までのバーサスプリズムリバー! みたいな雰囲気には、ならないんじゃないかなーというかぁ……」
「じゃあ鳥獣伎楽やってよー! いいじゃんさー、盛り上がるよ、ぜったい! いやなに? もう解散したー、とかなんとなく気まずいーみたいなの、わかるよわたしも。でも響子が言ってやってよ、お前はプレイヤーだ! ってさー。レーベル立ち上げて後進育成というか、界隈への恩返し的なのやってるけど、そんなのお前の仕事じゃないーってさ。イチコロじゃんそれで。浮かぶもん、照れながらさ、まんざらでもない感じでギター担いでくるとこ」
八橋はかのミスティアを想起したのか、ふふふ、と笑った。駄洒落かな、と響子は思った。手をつけられず、味噌の沈殿した汁に浮かぶのは麩だった。八橋はいつも味噌汁を飲まなかった。とにかくやりませんから、念を押す響子に何か言おうと唇を尖らす八橋だったが、運ばれたきたカレーを息継ぎもなく運び続ける響子の異様には閉口せざるを得なかったようだ。このところの昼食に、響子はいつもこれをやった。見る見るうちに皿は空き、パン、と手のなる音がする。
「ごちそーさまでし、た!」
た、に強くアクセントを置いて、八橋が目をぱちくりさせているうち、響子はさっさと席を立った。暖簾をくぐるとき、響子は後ろ髪を引かれるように振り向いて、ぽかんとする八橋に、いー、とひとつの威嚇を見舞った。子供かな、と八橋は思った。
腹ごなしを済ませた響子は里の西部へと向かった。西には、東部のように飲食店こそないが、開けた道と民家がある。いわゆる人口密集地だ。ひとが多いので、墓も多い。二番目に広い墓地周辺はまったく人が歩かない。その墓地は西部妖災合祀墓地といい、晴れた日なら響子はそこへよく行った。今日にしてもそれらしい足取りで歩いている。行きがけの甘味処に団子なぞ包ませて、墓地で食べる腹積りでいるようだった。注文の際にふと、ミスティアは、と口を切る。
「え。どうしようかな。うーん。いいや、響子とおんなじので」
響子がミスティアと合流したのは、定食屋を出てすぐのことだった。
串だけになった団子※ を天に掲げるようにして、響子はうんと伸びをした。
※ 串に刺さっていない団子は餅。串に刺さっている餅を団子と呼ぶ。では串に刺さっていた餅はどうだろう。餅は現在、響子の腹の中にあるものとする。
「春だよ、春、春! 私好きだなー、天気もいいし。空気がおいしいよね。なんか、きもちいーじゃんか。のどかって感じもするよねぇ」
「まだ寒いよう。ぜんぜん春来てくれないもん。わたしも寒がりじゃなきゃよかったな」
墓地。言いながら、ミスティアは串をゴミ箱へとなんてことなく放り投げた。墓四つ分ほど距離があったが、ミスティアの放った串は見事ゴミ箱へストンと収まる。天才かな、と響子は言った。見様見真似、短い矢を投げるようにして響子も串を放ったが、串はゴミ箱の端にカランと当たり、無様地面に叩きつけられた。ほったらかせばいずれ蟻の肥やしになるだろうが、響子はのたのた近づいて、拾い上げては捨て直した。その様をみて、ふふ、と笑うミスティアの表情は、そのまま初春の穏やかさのようだった。
「それで? 八橋さんなんて?」
「なんかさー。あのひと、なんだろ。リバイバル? やろうとしてるんだよね。かつての、パンクが正しくパンクであった頃を再現したいんだよ。私たちがやってた頃って、能とか、それこそプリズムリバーとか、そういうコーショーっぽいのが強かったじゃん。所謂ザ・バンド編成! 的な、そんな新しいっぽいものは悪! みたいな向きがあってさあ。結局そんときに始めたギターが楽しくて、やめらんないんだよあのひと。プリズムリバーもいまや演芸でさ、『あ、縁日っすか? 演ります演りますー』って感じだし。そんでやり切れなくてプログレなんて分かりにくいもので、分かりにくいアプローチしようってわけ」
ふうん、とミスティアは相槌を打つ。響子はたのしかった。ゴミ箱の前で、ミスティアに背を向けて喋り続ける。
「でもあのひとも馬鹿じゃないから、わかってんだよねそういうの。プログレやるよーってのも結局、私たち引きずり出すためのポーズなんだよ。私からすれば困ってんだなーくらいだけど、イベントの主催からすればパンダに変なことやられたらたまったもんじゃないって、そう考えて私に声かけたのさ。折込済みだよ。私がミスティアとよく会ってること、知ってんだあのひと」
響子ふいと振り返り、どうする、とミスティアに問いかけた。
「ねえ? 私たちがまた鳥獣伎楽やったらさ。盛り上がると思う?」
「うーん、どうだろ。……出たがりーって、顰蹙買うかも。ふふ、だって。曲がりなりにも主催だもん、わたしって。若い子たちからしたら、ちょっとしたイベントのいっかいいっかいが一世一代の見せ場だよ。そんなことして、もし誰も演ってくれなくなったら河童さんたちみたく、箱こわさなきゃなくなっちゃう」
その通りかも、と響子は応えた。嘘だな、とも思った。空は気付けば曇っていた。灰色く雨が降りそうだった。そんな匂いの風が吹いた。笑われてるみたい、と響子はわらった。笑い始める響子に、ミスティアは、なにさー! と抗議した。ミスティアがなにさを繰り返すほど、響子は可笑しそうに笑い出す。ミスティアはむっとして立ち上がり、響子の脇腹をこれでもか! とくすぐった。次第にミスティアも笑い出した。墓地にはふたりの笑い声と、生暖かい、ぴゅうぴゅうという風の音ばかりが響いていた。響子はくすぐられながら、いろんなことばかりを考えていた。
びしょ濡れですわ! 誰にあたるともなくぷんすかし、響子は家の戸を開けた。鬱蒼たる森林と、雑然をそのまま地形にしたような塚の狭間、だだっ広い道の脇にポツンとある響子の家だ。響子は暗闇にいじめられながらに靴を脱いで、敷居を跨ぐ。深淵……。響子はぼそりと呟いて、笑いもせず、そのままひとつスイッチを押した。かちりかちりと明滅し、一寸して、蛍光灯は部屋を照らした。誰もいないし、何にもないし、快適じゃんか! シーンとしている。部屋は静かだ。喋ってもいないのに、響子はけたたましさを感じた。はやく家に帰る、はやく家に帰る……。帰途に繰り返し響いた言葉が、明るい部屋のなかに溢れた。気がつくと響子は布団に潜っていた。無数の雨粒はちいさくはじけて、響子は誰にも見つからず、いままさに、寝息を立てている。
深夜になる。明るい部屋のなか、響子はコントローラーのボタンを叩いていた。Aボタンはまほう、まほう、まほうと、そればかりを連打していた。画面のなかで遊び人ミスティアは冷たい魔法を放ちまくった。習熟度は47%まで上がっていた。三つ首の犬はガンガンいこうぜの命を受けガンガンいっている。遊び人と犬のいびつなパーティに殲滅される雑魚・モンスターの群れを響子は見るともなく眺めている。ぼんやり響子の頭の中で繰り返しリピートされる古いシーンは寺の団欒だ。村紗水蜜と封獣ぬえは嫌い合っている同士なのに、雲居一輪のしでかした失態に一緒になって笑っていた。ふたりが一緒に笑ってるところを初めてみて、そのとき響子もなんだか可笑しくなった。きっと村紗とぬえの笑顔は同族嫌悪の泥濘に咲いた一輪の花だった。意に反して笑ってしまったふたりを見たときの、異様な充足感についてを響子は思い出していた。冷たい魔法の習熟率は上がっていく。村のはずれにいたろうじんが魔王のじゃくてんを知っていた。まおうはさむさに弱いらしい。老人は一体なにものだろうか。例の充足感と老人の正体については無意識下3:7の比率で広がって、明るい部屋に薄らいでいる。
「えー。まほう……まほう弱いんじゃないんですか」
響子を十二時とすればブラウン管は六時、朱鷺子は九時だ。楕円とも四角形ともつかぬ時計版の上は卵の殻と塩の粒が散乱している。朱鷺子は自分の両腕に沈み込みそうになりながらゆで卵を頬張って、ブラウン管を横目にする。響子は無表情に沈黙を一寸やってから、おもむろに口を開いた。
「氷の魔法。なんか不自然だと思ってたんだ。さいしょからぽつんとひとつだけ覚えててさ、遊び人がだよ? 変じゃんか。イベント……みたいな匂いがする。ストーリー攻略の上で必ず使うから、たぶんこの魔法だけは全職業共通で最初から覚えてるみたいな、イベント魔法……そんな感じ」
わかんないっすね、魔法使いだし。朱鷺子は食べた卵七つぶん眠たさそうにして応える。
「魔王の弱点知ってる老人はなにさ」
「そんなの、もお。幼馴染でしょお。決まってるし……」
響子は一時間と二十分前に起床した。外から冷気がひゅうと足を撫でたかと思えば、不意に部屋の電気が点いて、響子の寝ぼけまなこをしばきまわした。朱鷺子の仕業だった。
「他人の名前でゲーム遊ぶのはどうかな」
「はんたい、はんたーい……感動がうすれるよ、やっちゃダメー」
ぺたん、とゆで卵の食べかけがテーブルに転がる。朱鷺子は今にも夢の中に沈んでしまいそうだ。
「ミスティアとトキコがさぁ、すっごい仲悪かったら変だよね」
「桃太郎が鳥、だからぁ……しらない。わたし朱鷺子じゃないし……」
朱鷺子は朱鷺子ではないようだった。響子の比率にトキコの正体についても加わった。明るい部屋にすーすーと寝息が響き始める。
「互いが互いにさ、うっすら……こいつきらいだなって思いながら旅を続けて。旅の中で起きためちゃくちゃ頓珍漢な出来事で思わずいっしょに笑っちゃって、なんか全部許せそうになる……そんな瞬間を引き延ばして、引き延ばして、引き延ばしたものが青春で、青春の光に魔王は打ち滅ぼされて、一旦平和になった世界で、やっぱこいつきらいだなって思う……」
ブラウン管がピコピコ鳴って、冷たい魔法の習熟率は上がっていく。それだけだった。
じりりり、と時計がなってトキコが目を覚ます。カーテンの薄明るさのなかにブラウン管の無機質な光が混ざっていた。部屋にはちいさく「通常戦闘:海」が流れている。おそらくブラウン管の向こうでミスティアはタコだかイカだかわからないモンスターと睨めっこしているに違いなかったが、トキコにそれを起き上がって確認することができなかった。朝の雀とちいさな戦闘曲のなか、穏やかな寝息が響いていた。トキコの胸に縋るように響く穏やかな寝息は祈りのようで、模糊とした不安のようでもあった。そんな寝息を立てていたのは遊び人ミスティアの創造主、幽谷響子に違いなかった。意味もなくなるアラームなどは存在しない。その後、響子がどのように目を覚ましてどのように仕事へ向かったのかは、遊び人と、タコイカ怪物と、早起きの雀だけが知っている。
和屋に昼間の風が吹く。食い扶持だなこりゃ。と響子は思った。響子はふたつの仕事をしている。ひとつは趣味、ひとつがその“食い扶持”である。響子が寺を出てから暫くが経つ。響子が一種のモラトリアムを過ごした寺で学んだのは人が死んだときに読む経と、法要が慈善事業のボランティアではないということ程度だ。生きるために必要な嘘と、死ぬために必要な本当はすべて村紗水蜜が教えてくれていた。周忌がなんのために存在するかを響子に教えたのも、もちろん村紗水蜜だった。幻想郷に所謂冠婚葬祭・ブライダル系なんて業種を作ったのは誰だっただろう。どっかのだれかさんの三回忌に斡旋された響子は「かんじーざいぼーさーぎょー」などと法要に無関係な経を読みながら、畳の上でそんなことばかりを考えていた。上の空ではやはり真昼の風が吹いていた。
食い扶持をこなせば趣味が始まる。昼食はいつかのリピートで、響子の頭のなかにはおから定食がリフレインしていた。同じ店、同じ定食、同じカレー、同じやり取り。そして同じ結論。鳥獣伎楽はやれない。しかし響子のなかでの“やれない”は曖昧に、されど確実に“演れない”に変化していた。店を出て、いつものようにミスティアと会ってもよかったのかもしれない。けれど、響子は八橋と共に里を歩いた。目的地はかつて鯨呑亭の在った地下。ミスティアローレライの小さな箱。ライブハウス『Rebounce』だ。響子はPAアンプや照明等、所謂そういった器具の調整をしなければいけなかった。無意味だなこりゃ。と響子は思った。リハーサルが始まって、照明を白黒させながら、遊び人の今後を考えていた。ドラゴンファンタジーオブデスティニー。遊び人は次の試練を乗り越えることができたなら、勇者へとクラスチェンジするらしい。はやく家に帰る、はやく家に帰る……。いつだって、頭の中はそればかりだ。八橋たちの奏でる育ちのいい鎌鼬を聞き流しながら、前頭連合野に帰宅大臣なんてのもいるかもしれないな、と響子は笑った。
「今日はありがとね。」
「河童さんたちがいれば、響子が裏方なんてやることないのにさ」
「今日はありがとね。」
「まあでも、趣味だからね」
「だって趣味でしょー?」
「今日はありがとね、ほんとうに。うれしいんだ、わたし!」
これらの言葉が誰の発言だったか、響子には判然としなかった。誰と誰の会話かもわからなかった。八橋が自分に、自分が八橋に、ミスティアが自分に、自分がミスティアに、ミスティアが八橋に、八橋がミスティアにと、そんなふうに交し合ったかもしれないし、そもそもこれらの会話すべて、実際に交わしたかどうかすら響子にはわからなかった。夕暮れの帰途には会話という抽象とカラスの鳴声が響いていた。ただひたすらに響いた。りふれいんかも、と響子は思った。響子はこの帰途を、自らの趣味と呼称していた。
「あはは」
ひとつ笑ってみるとなんだかとても疲れたような気になって、響子はゲームどころではなくなった。
ふーん、とトキコがため息を吐く。布団の中はあたたかいのを通り越してすこし蒸し暑いような感じがした。トキコは響子の腕から逃げるように寝返りを打って、また、ふーん、と息をついた。響子は「んー」だか「あー」だか、どっちともつかない声をあげてトキコに応えたつもりになる。しかしトキコは無視で応答。なんじゃいそりゃあ、と響子はぼんやり思った。
「……ゲーム」
「えー?」
響子に半ば背を向けて、退屈そうに爪やなんかを眺めながらトキコが言う。
「やんないんですね、最近。ゲーム」
「んー……」
布団あっつい、田畑ってなに、イオンモールて笑。かれこれ一時間ほど前から響子の頭のなかはこんな感じだった。空想にも満たないそれらが漏れ伝わったのか、トキコはいまいちど大きく息をついた。ふーん、ふーんといった鼻のため息ではなく、今度は、ハァ、だった。口を大きく開いて、ハァ、ですわ! こりゃたまらん! 響子は蒸し暑さを布団ごと蹴飛ばすようにして起き上がった。
「やるよ! ゲームやる! ……やるけどさーぁ?」
「なんですか、急に……。やりませんよぅ、わたしぃ……」
んだよこいつは! 響子は退屈なんだか眠たいんだかわからないトキコがやりづらかった。響子はもういちど横になる。布団を裏返せば冷たくて気持ちがよかった。そのままトキコの肩らへんに額をくっつけてちょっと甘えた声で言う。
「なんかさぁ、なんかー……やりたくないわけじゃないんだけどさぁ。なんてんだろ、なんかミスティア勇者になるじゃんか。ジョブチェンジよ、ジョブチェンジぃ……武器種も剣になってさあ。せっかく楽器の習熟率上げてきたのに、また一からだし。説明書わかりにくいからわかんないけど、魔法の習熟率もリセットされそうなんだもん。なんかそれ考えたら面倒になっちゃったよ」
「魔法はたしかそのままですよ」
えーでもさあ、と響子が口にしてからゼロコンマ数秒の間に、響子の頭にまたぼんやりが押し寄せる。めっちゃ岬、呉越同舟、犬くじら……。ハッとして響子は言葉を紡ぐ。
「いやぁ。ていうのもちがくて。なに? なんだろ。なんか、いたじゃん。トキコの云うとこの幼馴染み。ほら、魔王の弱点おしえてくれた老人。あれがさぁ、どんどんいろんなこと喋るわけ。魔王の生い立ちとか、魔王になる前のはなしとかさぁ。もちろんそんな直接的なこと言わないけど、わかるじゃん、なんとなく。あー、ミスティアもこうして魔王に近付いていくんだーみたいな。ああ、魔王ってのも氷の魔王だったわけ、魔王が。ね? 氷の魔王の弱点が氷! 遊び人ミスティア、氷の魔法使えます! 勇者やれます! みたいな。ほらなんか、なんかやる気出ないじゃんか。先の見える感じでさぁ」
トキコは呆れたように短く息を切って寝返りを打つ。今度はすっかり響子に背を向けてしまう。なんだかな、響子も仰向けになって天井を眺めた。またぼんやりとしてくる。牛乳牧場、ほら穴、紅鮭ワイン。はちみつ、足の裏、スーパーイグアナ……。ふ、と思いつきを口にした。
「ねえ、トキコってどんな子なのさ」
「えー? なんですかぁ、それ……。トキコちゃんはトキコちゃんですよ。かわいいでしょ、ふふふ……そっちこそぉ、ミスティアさんのこと教えてくださいよう」
よく笑う子だったよ、と響子が応えると、トキコはくるんと寝返りを打って、響子の脇腹をくすぐった。さほどのくすぐったさもなかったが、トキコの何か期待するような、そんな悪戯っぽい目つきに響子は降伏するみたいにして笑った。ちょっといいかも、と響子は思った。部屋は明るい。カーテンは閉じている。響子はトキコに触れてみたり、撫でてみたりした。不意に、いつか墓地で見た供花の色を思い出す。色は白かった。
「ねえ、ねえねえ。トキコさぁ。これからずっと布団の中にいるのってたのしそうだと思わない? なんか、ふわふわしてて、蒸し暑くって、いい感じでしょ」
「やだよーそんなの……だいたい昨夜の約束通りなら、今ごろお花見してるはずなのに。響子さんいっつも口だけー」
「あれ、行かないの?」
「え! 行くんですか!」
トキコは飛び起きて身支度を始めた。なんだかな、響子は鼻白む。起き上がりもせずに手のひらで時計を叩きつけてアラームを止めた。今日は八橋たちがライブをやる日だった。ちょっと前のリハーサルのときに「やります、ぼーかる」などと嘯いた響子の心はすこしだけちくりと痛むような感じもした。「よっしゃ、たくさん飲んじゃうぞ」響子も起き上がって身支度を始める。「え、響子さんけっこー強いんですか」最強だよ、着替えながら響子が言った。もちろん大嘘だった。
立ち並ぶ無数の桜の木に人々は群がる。はらはら舞う花弁はブルーシートに積もってゆく。喧騒を数の単位として赤ら顔と差し引けばちょうどゼロになりそうだ。響子は頭の芯がじんと熱くなっているような気がした。その熱さを捉えようと眉を潜めるが、響子の視界は赤ら顔と喧騒のなかを泳ぐばかりで、熱さの正体らしきものは掴めずにいた。あぐらのまま、地面につけた両手の片方を伸ばす。なんかぬるまゆい。響子が掴んだのは安っぽい透明のドリンクカップで、気泡の少なくなった小麦色の液体は頭のなかと同じ温度で揺れていた。
「ぬ、ぬるいよう。おいしくないよう」
ちびりと口をつけたはいいものの、春の陽気にぬるまったビールなど飲めたものではなかった。蝉……。響子が呟やけど季節は春だ。暖かさとアルコールで、なんだか頬が火照る感じがした。「う、うぅ……」響子は不意に悲しくなる。なにか悲しいことがあるわけじゃないが、顔の火照りを涙の出る前兆として脳が勘違いを起こしたのだ。「あっ」舞う桜のひとひらがカップのなかにゴールインすると響子はたちまち愉快になった。けれど、浮かぶひとひらの裏っ側から黒い粒のような虫が這い出てくると、響子はまた悔しくなって、悲しくなった。
「あ、あ、蟻……? 蟻じゃん……! なんで……なんでぇ……」
響子はしばらくしくしくとする。周りの赤ら顔はひとり悲しむ響子に怪訝そうな一瞥の他にはなにひとつを寄越さないでいた。しかし、しばらく泣いていると響子の陣取るブルーシートを跨ぐ者があった。だ、だれかきちゃった! 響子は焦って嗚咽を止めるが、足音は響子の後ろで二、三鳴って止まってしまった。足音の正体はトキコだった。なんか泣いてる。トキコは不思議でたまらなかった。屋台から戻ってくると上機嫌でビールを買ってこいと爆笑していた張本人がしくしくとしているではないか。意味がわからなかった。両手に安っぽい透明のカップを持っているせいで手が冷えた。えい、と片方を後ろから響子の頬に押し付ける。
「……う、うわああああ!」
響子はおどろきのあまりひっくり返った。場に似つかわしくない悲鳴に周りも驚いてこっちをみる。トキコは恥ずかしそうにきょろきょろしたあと両手のカップをシートに置いて、それから声を潜めて口を開いた。
「ちょっと、おっきい声ださないでくださいよう。買ってきましょうか? お茶とか……」
響子は未だ驚きが余ってしばし目のぱちくりをやっていたが、状況を飲み込むが早いか冷えたビールに手を伸ばした。
「冷えてんじゃん!」
それから響子はずっと笑顔だった。
一転。太陽が西へと傾き始めたころだ。里の中、響子はトキコに手を引かれながらごねまくっている。
「ねえ、これどこ行くの……? や、やだよぉ。つまんないよ、つまんないー。歩きたくない……つまりたいもん、歩きたくないもん、歩かないー!」
「つまる、とかつまらない、とか。そういうのもういいんです。帰るんですよ。ほらしゃんと歩いて……もう、みんな笑ってるじゃないですか」
「……はー? ぜったい帰んないし。ばかじゃん」
響子はトキコの手を振り払いその場に蹲み込んだ。んだよこいつは。トキコはようやくイラッとした。そもそも帰ると言い始めたのも響子だったし、帰りたくないとごねはじめたのも響子だった。帰りたいというからブルーシートなど帰り支度を始めたのに、支度を始めるや否や「なんで帰ろうとしてんの」とバグりだしたのだ。ならばそのまま帰らずにいようとも思ったトキコだったが、そのときにはもう俊敏な花見客によって先ほどまでのトキコたちの場所を陣取られていた。仕方ないので帰りましょうと説得するも響子は素直に応じることをしなかった。手繋いでくれたら帰るとか言うから繋いでみると、響子は「え。なんだっけ……なに、あれ? いまからなんかすんの?」などとバグりっぱなしだった。トキコは仕方なく繋ぎっぱなしの手を腕力を以て引くことにしたのである。
しかしトキコの手は振り払われ、響子は往来のど真ん中に蹲み込んでいる。トキコは響子よりもすこしだけ身長があったが、往来の人々からすればどっちも関係のないことのようで、がんばれおねえちゃん、などとトキコを冷やかす声すらあった。他人たちが見出したふたりの関係性は、少なからずトキコにとって望ましいものではなかった。
「帰らないよう、帰りません。ないもん、帰るとこなんて……うう、ムラサに会いたいよぅ」
「家あるじゃないですか」
ない、と響子は言った。いやあるだろ、とトキコは思った。
「こりゃちょっと無理かもしらん」
思わずトキコの心の声が漏れる。「え、なにが?」きょとん顔の響子を無視してトキコは腕を組み逡巡する。響子はトキコの様子が不安になって立ち上がってはトキコの腕を揺する。「おーい? トキコ、トキコ? あれ? ちょっと、ねえトキコぉ……」トキコは響子を完全に無視して思案にふけった。
「ムラサとかいう新キャラでてきたし……」
本当のところ、トキコは朱鷺子じゃないし、もちろんトキコですらなかった。トキコはずっとゲームをしていた。見ず知らずの他人に見ず知らずの他人を好きだと言わせるという低俗な遊びにトキコがのめりこんだのはもうずっと昔のことになる。本当の名前は誰も知らない。ただそんな遊びをするときに、トキコは必ず朱鷺子と名乗った。
「……飲みますか! どこか、適当な店で。ね、響子さん!」
「……ねえ、もしかしてトキコって……」
響子もそれをわかっていた。わかっていながらトキコとの時間を過ごしてきたのだ。しかし、酔っ払いの響子はけっこー本気だった。お茶目通り越してバグりまくるほどトキコにマジだったのだ。ひとは酔ったときに本音を吐くという。その後、響子が吐いたのは「わたしのこと大好きでしょ!」という馬鹿みてえな台詞と胃の内容物のみだった。
カウンターの上にはビールジョッキと胡瓜やなんやの小鉢があった。隣もその隣もそのまた隣にも似たような酒と肴が並んでいた。酔客たちは楽しそうに笑っていた。テーブル席の方からは箸で碗をちんどんやって歌っている声もした。暖簾の外の人々は薄青の夕陽に照らされながらそれぞれの家路を辿っていた。
それから、響子は帰途の暗闇に化け物をみたような気がしたが、次に目が覚めればみんなすっかり忘れてしまった。
しばらくが経って、響子は久しぶりにコントローラーを叩いていた。ミスティアはもう勇者になって、敵という敵に四桁のダメージを与えまくっている。ミスティアが勇者の試練を突破するころ、犬のトキコの言葉は流暢になっていた。トキコは勇者になったミスティアに「つよすぎてひくわ」と言い残してパーティを離脱した。魔王城に繋がる洞窟のボスを難なく撃破し、響子は、ふー、と息をつき、テーブルにコントローラーを置く。
コントローラーのわき、ちらり、と響子の視界に映った紙切れはことさら、響子に深いため息を吐かせた。それは先日上機嫌で訪ねてきた九十九八橋の残した不愉快な雑誌だった。
『プログレ・パンク戦争激化‼︎ 過熱する音楽シーン』
誌面には打倒プログレを掲げた若者たちのコメントが掲載されている。どうやら八橋たちは正しくカンフル剤をやっているようで、二、三の有望株が一緒くたになった特集も組まれていた。ページの最後の方には八橋のベテランぶったコメントがちょこんと載っていた。要するにこのところの箱ではプロレスじみた、ある意味では正しい姿の対バンが繰り広げられているのである。そんな冷やかしめいたシーンを創り出した当の仕掛け役は雑誌の裏っ側に八橋のそれよりも小さく、まるで後ろめたいことがあるかのように、ぽつりと名前が印字されているのみでいた。
響子はゲーム機の電源を切って手早くソフトを抜き取る。ブラウン管わきの段ボール箱をまさぐるとガチャガチャと音がした。段ボールの中はゲームソフトで氾濫していた。最近のお気に入りは『桃太郎ストリートファイト』だ。しかし無数のソフトに埋もれているのかなかなか見つからない。探しているうちに様々なタイトルが目についた。『へべれけメカボウル』、『ミステリーたまごサークル』、『氷のゴリラ兄弟』どれも二人で遊んだタイトルばかりだ。『旧・鬼ヶ島』の続きをみるのもたのしいかもしれない。響子はトキコの帰りが待ち遠しくなって、あれもこれもとソフトを散らかした。
「か、完璧なラインナップを揃えてしまった……」
響子はテーブルに置いた厳選に厳選を重ねた『ふたりでやるとたのしいタイトル』群にひとり感激していた。トキコもそろそろ帰り道だろう。響子はこれから起こるたのしみに震えながら座してトキコを待った。しかしトキコはまだ帰らない。響子は居た堪れず、今度は遊ぶ順番を紙に書き起こしていったが、それでもトキコは帰らなかった。次第に響子の頭の中はあらゆるたのしみに押しつぶされそうになる。ふ、と浮かぶのは苛々とする笑顔のリフレインだ。響子はテーブルに置いたソフトだけじゃ足りないような気になってすわ段ボールをひっくり返す。トキコは戻らない、軍鶏鍋の材料の買い出しに行ってる。響子は苛々とする。やったことない作詞なんかをしてみようかと筆を走らせるも二秒と続かない。筆を持つ手のパーツにさえ苛々とする。しかしトキコは帰らない。あれやこれやと居ても立ってもいられなくなる。トキコはまだまだ帰らない。
ま、ま、ま、待ちきれんわ! と響子は部屋を飛び出した。初めから、五分も経っていなかった。
帰りましたよーと呟きながらトキコは玄関をくぐる。短い廊下をぺたぺたと歩く。
「あれ?」
リビングを覗くと響子の姿はなく、代わりにテーブルにはゲームソフトが散乱していた。そのわきのぐちゃぐちゃに丸まった紙を広げると『この順番でたのしさ二倍』とあった。トキコはそれをゴミ箱に捨てて散らかったソフトを段ボールに片付ける。トキコはおおかた片付いたころ、ゲーム機のソフト挿入口に紙切れが挟まっていることに気がついた。広げてみると、今度は二文字、乱暴な筆致で『好き』とあった。やっとか、とトキコは思った。部屋を見渡すと整頓したはずの部屋も前のように荒れていて、まるで初めから何もなかったかのようだった。
ゆるく風が吹いている。世界は昼を過ぎても空を真っ青に染め上げていた。響子は里を走っている。香霖堂から買い戻した裸のPJタイプを抱えていた。頭のなかの村紗水蜜が「大人は走らんのよ」と嘯いても響子には関係がなかった。どうせ些細なきっかけで自分が表出してしまうなら、はなから人の真似をして生きるなんて無意味なのだと、響子は不思議と理解していた。響子は初対面の女の子を持ち帰ったりしないし、レモンティーなんか絶対飲まない。他人の名前でゲームを遊んだりしないし、他人の嘘を勘繰ったりしない。たとえ嘘だと分かっても分からないフリなんてしなかった。家に帰りたければそうするし、プログレだろうがなんだろうがステージに立てるならなんだってよかった。響子はやりたければなんだってひとりでやっていたし、一緒にやろうと声をかけられれば喜んでそうした。いつだって相手より先に相手に懐いた。響子は好きになる相手を選んだことなんて一度としてなかった。響子が寺を出たのは些細なきっかけだった。響子が鳥獣伎楽をやめたのは些細なきっかけだった。響子が村紗水蜜を模倣したのも些細なきっかけだった。ただ単に雀の鳴き声と気まぐれに突き動かされてきただけだった。それは今にしたって変わらない。響子は転がるように階段を駆け降りた。自分の手が扉を開けるのを待ちきれない。響子は今にも叫びたくて仕方がなかった。
早起きの雀の声がする。瞼に光があたっている。肌の上をさらさらと何かが滑る。そんな感覚に包まれて、響子はハッと目を覚ます。黄緑の遮光カーテンはくらくら揺れて、部屋に舞う埃を照らしたり、また隠したりを繰り返す。自分のすぐ近くで、すーすー、と誰かが寝息を立てていた。知らないマットレスの柔らかさに戸惑いながら寝返りを打つと、懐かしい狸寝入りのミスティア・ローレライがそこにいた。ミスティアは目を細く開いて、悪戯っぽく笑いかけた。やっちまったな、と響子は思った。覚えているのは二杯目までだった。響子が何も覚えてないことを悟ったか、ミスティアは皮肉っぽく言った。
「ゲームクリアおめでとー」
「ちがうよ、ちがう……わたしこんな、こんなこと」
「私さ、起きたら真っ先に言ってやろーと思ってさ。こんなひどい遊び、どこで覚えたんだー! って」
「それは、これとは関係なくて。その、ミスティアとは……」
「こうも言ってた。なんならそれを低俗と呼んでもいいし、どう呼んだって構わない。例えばこんな呼び方もある……。ほら、なんだっけ?」
「……コーゲキ的侵略」
応えるとミスティアはからかうように笑った。響子は自分の舌を噛み切りたくなりながらにため息をつく。
「ねえ、あれ。あんなのさぁ。あなたほんとに、私とオンガクやってた響子ちゃん?」
「ちがうかも。やったことないかも。興味はあるけど」
「やってみる?」
響子が、うん、と声に出してうなずくと、ミスティアは飛び起きて部屋の隅のギターを担いで、あられもない姿のまま、聞き覚えのあるワンフレーズを弾いたあと、恥ずかしそうに口を開いた。
「……レベルアップ! あなたはつよくなりましたー! ……こんなんだっけ?」
そしてミスティアはごまかすように関係ないフレーズを弾いて歌い始める。窓の向こうにカラスがやってきて、雀たちは小さな影の粒になって消えてゆく。ミスティアのキレーな声。うろ覚えをごまかすみたいな歌い方。なんだ、やってんじゃん。響子は思った。カーテンはミスティアの影を映して、一緒になって揺れている。ミスティアの歌はワンフレーズに満たないくらいで次から次へと消えてゆく。
「恥ずかしいこと言うようだけど……」
響子が呟けど、ミスティアは目を瞑ったまま、楽しそうに、はたまた祈るように演奏を続ける。
「……その。わたしさ、誰だっていいんだ。ミスティアが他の誰だったって関係ない。だからそのう。これでやっと言えるんだ、ミスティアが、好きってこと……これって変かな?」
ミスティアは響子にギターを投げつけた。響子は焦ってベッドの上で身を翻す。けれど、避けた先にはもうミスティアが待ち構えてて、響子はどこにも逃げられない。
それから二人はくすぐり合うように笑い合う。そんなこんなが昼前になんだか突然ばかばかしくなったときも、もちろんふたりは一緒に笑った。今がお決まりの最後ってやつかもしれないな、と響子は思ったし、こんな幸せは大きすぎてなんだか化け物じみている、なんてことも思った。
「ねえミスティア。わたし、わたしミスティアとまたやりたいよ、オンガク……」
「えー。でもなあ、響子ちゃんは私じゃなくてもいいって言うし、忙しいし。他に相手がいるならさあ、そっちとしたらいいじゃん。……まあでも、響子の……うん。響子の頑張り次第かな。えへへ。がんばるんだぞー、なんて」
頑張ろう、と素直に思えたその矢先に、Cだなこりゃ、と響子は思った。大きな化け物のそばに丸腰で横たわる自分の情けなさに響子はすこし苦笑する。
「それよりさぁ。こないだの夜に一緒に歩いてた子、だれさー?」
「……わ、わかんない」
そうしてまた、響子の日々は続いてゆく。
それは胃の内容物です。
――串に刺さっていない団子は餅。串に刺さっている餅を団子と呼ぶ。では串に刺さっていた餅はどうだろう。餅は現在、響子の腹の中にあるものとする。
この一文だけで百点満点である。
響子のただれてるようなそうでもないようなラフな日常が素晴らしかったです
元の木阿弥感がすごい