1
中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
2
中卒メリーがマエリベリー・ハーンじゃないように、わたしたちは秘封倶楽部じゃないのです。
3
だから、これは中卒メリーがマエリベリー・ハーンになるまでのお話であり、あるいは、わたしが秘封倶楽部を取り戻すための物語だということになる。
4
わたしたちは、それを、やり直すために語るんだろうか?
すでに過ぎ去ってしまった様々な出来事を、並べ直して、それらしく見えるようにして、証明するために。
わたしが秘封倶楽部風の文体を失ってしまったのはいったいいつの頃だったんだろう?
幼いわたしの中にはたしかにそれがあった。『秘封倶楽部活動記録』に記されたその文体が。それがあまりに身体的でわたしに近すぎたから、こうして失ったあとでは、もうそれがどんなものだったのかわたしはうまく思いだすことができないのです。
『秘封倶楽部活動記録』の中には今でもそれが残っている。でも、今のわたしにとってその文字列はなんだか魔法の呪文ようにさえ思える。昔は知っていた。そこにある連結も文脈も、自分のもののように扱い理解できたのに、今では、見えない。
遠い町では煙が上がっている。工場の煙。黒い雪の降る町に住んでいたとメリーは言うのです。それは小さな田舎町で、大きな自動車工場があって、その煙突からは日がな煙がもくもくと上がり続けていたから、雪が降るときは黒く濁る。
それはマエリベリー・ハーンが生きていた町、中卒メリーが育った町。わたしの知らないメリーの故郷。
きっと、そんなものたちを記すために8歳からの十数年を秘封倶楽部風の文体を憶えるためにわたしら過ごした。そして、大学に入学しメリーに出会えずひとりで暮らした数ヶ月の間に、その文体をばらばらにしてしまった。
そして、それからは?
やっぱり、わたしは、それを、もう一度やり直すために語るんだろうか?
5
だから、これは、”それから”のお話です。
8歳の学校帰りにマエリベリーに出会い、空想の中でメリーと暮らし続けたわたしがマエリベリー・ハーンを失ったそのあとの物語。
6
中卒メリーは鉄パイプを担いでやって来た。
午前一時半、墓場行き急行に。
墓場行き急行は海底を走る。みたいな感じ。
くらり、くらり、と揺れているのです。
暗いトンネルの中。
中卒メリーが足元に転がした鉄パイプは凶器だった。
両方の足で踏んでころころと転がして――きっと隠しているつもりなんだろうか。
猫のように無邪気な鉄パイプを演じさせている。
向こうの窓ガラスに映るメリーの表情。
恥ずかしそうに微笑んで。
くすくすと笑いながら、こんなこと言うんだ。
「わたし、間違えちゃったね」
電車が揺れている。
わたしたちは知らない場所へと運ばれていく。
メリーの足元で、鉄パイプが、からからと鳴っている。
7
たぶん、中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
その意味でわたしたちは秘封倶楽部ではない。
わたしは中卒メリーについて、彼女の発生や性質、あるいはその微細な態度まで秘封倶楽部的に語ることができると思う。中卒メリーが中卒メリーであることについて、それがまるでこれからわたしたちの間に幾度となく現れることになる奇怪な現象のただひとつのように、わたしは語ることができる思うし、メリーとそのことについてアイスコーヒーの中の氷が溶けてしまうまで何時間だって議論することができるような気がする。中卒メリーはマエリベリー・ハーンのひとつのパターンに過ぎないといったようなことをメリーは主張し、わたしはタイム・パラドクスに関するいくつかの議論を例に出して反論する。
この大学に通うたくさんのマエリベリー・ハーン。それにそっくりそのまま付随するように、まるきり同じ数のわたしたち。この世界には30人のマエリベリー・ハーンがいて、それと同じだけの宇佐見蓮子が存在する。
でも、わたしのメリーはみんなのとはちょっとちがってる。頭だってそんなによくないし、そもそも大学に通ってさえいないし、手の指もなんだか長い。そのせいだろうか、指笛がとても上手でわたしを遠くから呼ぶときなんかに、吹いたりする。中卒メリーの長い人差し指は、彼女の楽器なのだ。
そもそも本当のところ、あらゆる意味で、中卒メリーはマエリベリー・ハーンではない。それをマエリベリー・ハーンと同一視するにはあまりにも齟齬が多すぎる。それをメリーだってするなら、そこらを歩く野良犬だってメリーで別にいい。犬のマエリベリー・ハーンだっているかもしれないじゃない、ってメリーは言う。メリー犬、メリケン、アメリカ生まれだねわたしと同じで、とか、ひとりで言ってくすくす笑う。別にメリーが犬であってはいけない理由はないけれど、それと同じくらいに犬がメリーでなければならない理由もない。
わたしは犬を飼うことにする。そいつにメリーって名前をつける。朝と夜にご飯をあげて暇な時には撫でてやって休日には公園でフリスビーとか投げて遊ぶ。ほら、メリー、メリー、取ってこい、ほら、行けってば、あはは、メリーは馬鹿だなあ、とか言ったりする。たぶん、メリーが先に死ぬ。十年後にわたしは泣くだろう。もうここにはいないメリーのことを思って。犬のメリーと宇佐見蓮子の秘封倶楽部物語は、きっと寂しい物語になるんだろう。マエリベリー・ハーンを見つけられなかったわたしと、とりあえずメリーと名付けられた犬っころ。まるで直交するふたつの直線のように、はじめからわたしたちはまったく別の軸に立っていて、傍目には通じ合うように見えても三次元的角度から眺めれば、なにひとつ交わるところがない。そのくせ別れだけはきっとこんなにも悲しい。だからメリーは犬じゃない。
結局のところ、中卒メリーについて語ろうとすることが、ぜんぜん中卒メリー的な態度ではない、ということなのだろう。
中卒メリーはありのままに受け入れることで生きている。起こりうるすべてのことを、当たり前も不思議も、ただ単にそれがここに起こったという理由で、すべてをそれはそうだと納得してしまう。もし、秘封倶楽部として何かを語ろうとするなら、起源を遡ることは必須事項だ。この世界にある既存の理論によっては解明できない怪奇、その真実に迫ろうとするのが秘封倶楽部的な態度だといってもいい。
もしも、わたしたちが本物の秘封倶楽部であるならば、中卒メリーが中卒メリーであることはできない。
そのふたつはアマゾンの奥地とヒューストンの電光市街くらいに隔たっている。ある面では同様のものが互いに見いだせるといったような構造学的反論はちょっと受け付けられない。メリー曰く。
「ねえ、蓮子、アマゾンとヒューストンはぜんぜんちがうわ。だって、ヒューストンに、サメとかいないじゃん!」
そもそもアマゾンを象徴的に語るのにサメという生き物が適しているのかどうか、それはずいぶん怪しいところだけれど、つまり、それが中卒メリー的な態度だということだったのだ。つまり、とてもシンプルに、別種のものは単に別種である。
そう、わたしのメリーは他のメリーたちとはちがってる。頭もそんなにはよくないし、そもそも大学にも通ってないし、議論を成立させる集中力も足りない。「あ、ねえ、でも、アメリカでサメを見たわ。空、飛んでたの」ヒューストンではサメはモニターの電光の中を泳ぐらしい。
だから、わたしが中卒メリーについて秘封倶楽部のように語ることは決して叶わない。
わたしたちが秘封倶楽部であるとき、中卒メリーは中卒メリーじゃない。
あるいは、中卒メリーがマエリベリー・ハーンがじゃないのとおんなじくらいに、わたしたちは秘封倶楽部じゃない。
それは壺と女の騙し絵のようなものだ。白と黒、影と光。ふたつはキャンパスの上でそれぞれを相補しあい、こっちを見れば、あっちが見えなくなる。
そして、結局のところ、わたしにとってメリーとは中卒メリー以外にありえないのだった。
わたしのメリーは人のとはちがうけど、でも、わたしの大切なメリーだよ。たとえそのせいで永遠にわたしたちが秘封倶楽部になれないとしても。
だから、まずはそこからはじめようね。
8
8歳の頃、小学校からの帰り道に、わたしはメリーを拾った。
『秘封倶楽部活動報告書』
そんな名前の本だった。
その本にはわたしのことが書いてあった。わたしの未来のこと。これからわたしに起こることが日記のような形で記されていた。わたしが大学生になるところからはじまり、秘封倶楽部というサークルを結成し、この世界にある怪異を解き明かしていく。そんなお話。
本の中には、メリーがいた。
本の中でメリーはわたしのいちばんの親友だった。
わたしたちはいつも一緒に過ごした。色んな場所にふたりで行って怪異を解き明かした。わたしたちにはそれぞれに固有の秘密があり、お互いだけがそれを了承していた。
その日記のような物語を読み終える頃には、わたしはすっかりメリーのことが大好きになっていた。8歳のわたしにとってメリーはたったひとりの親友だった。まだ、出会ったこともないのに。
メリーのことをいつも考えてた。
本の中でメリーのことは”マエリベリー・ハーン”という名前としてしか記述されていなかったので、いったいどんな姿をしたらどんなふうな女の子なんだろうって、ひとりでずっとそのことばかり考えてた。
本の中でわたしたちは二人でたくさんのことをした。
8歳のわたしの頭の中で、わたしたちはそれ以上のたくさんのことをした。
わたしの行く場所にはいつもメリーがいた。
学校の帰り道も、校舎の渡り廊下でも、遠足に行くときも、メリーはいつもそばにいてくれた。
ふたりで、育った。
大きくなってわたしは本の中のような宇佐見蓮子になり、メリーはいつのまにかわたしのまったく知らないメリーになっていた。
9
『秘封倶楽部活動記録』に書いてあるわたしの最初の講義、メリーとわたしが出会うことになるその講義の教室は、その本を大切そうに抱えた30人のわたしで埋め尽くされていた。
30人のわたしに対して、29人のメリー。
こんなことはあの記録にはちっとも書かれていない事態だった。わたしは混乱した。混乱しているうちに、メリーを見つけ損なった。他のわたし――蓮子たちは、みんないつのまにか各々のメリーと一緒になっていた。
ねえ、メリー実はさ、わたしひとつアイデアがあるの……。
そんな声が教室のそこらじゅうから聞こえてきた。もちろん、その先をわたしはよく知っている。だってそれはわたしが本の中で何度も読み、頭のなかで何百回も繰り返し唱え続けた言葉だったんだから。
「メリー、わたしたち秘封倶楽部になろうよ!」
わたしにはメリーがいない。
どうして他のたくさんのわたしにはメリーがいて、わたしにだけはメリーがいないんだろう。わたしは何か間違ってしまったんだろうか。そんなことばかり考えて悲しくなった。部屋に籠もってあんまり大学にもいかなくなった。ときどき講義に顔を出すとわたしの取った講義はもちろん別のわたしたちも取っていたから、たくさんのメリーとわたしに囲まれて、わたしはひどく孤独な気持ちになった。メリーとわたしがなにやらくだらない話をしながら笑っているのを見て、泣きそうになった。講義を抜け出した。でも、講義をサボるのはわたしたち、つまりわたしとメリーにとっては日常茶飯事で、だから講義じゃない場所にもたくさんのわたしたちがいた。
いちど階段の踊り場でなにやら近い距離でひそひそと話しているわたしたちを見たことがある。そこを通るわけにもいかず、陰から眺めていたら、ふたりはキスをした。それはほんのひとときのことだったのに、まるで永遠のようにわたしには感じられた。こんなのわたしたちじゃない、とわたしは思った。こんなふうにちゅっちゅするわたしたちなんて間違ってる。わたしたちの本質はこの世界にある怪異と向き合いその秘密を解き明かすことであり、こんなちゅっちゅっの快楽に溺れてるようではこの世界の”秘密”にはいつまでたっても辿り着くことはできない。
だからあのわたしたちはニセモノだと思った。 『秘封倶楽部活動報告書』に記されているわたしたちではない。その真似事をしているだけだ。その意味じゃ、わたしにメリーがいないことはいいことなのかもしれない。少なくとも他の29人の蓮子とわたしは違っている。それは、わたしこそが本物の蓮子だという証明じゃないだろうか。メリーがいないこと、それはすべてのわたしの中で、わたしだけが体験できる怪奇。だからわたしのメリーは特別な本物のメリーなんだ。今はまだ現れていないけれど。
逃げるようにアパートに帰ってからそんなことを考えた。ずいぶん泣いたあとのことだった。
わたしにはメリーがいない。それでもわたしが蓮子であり続けるためには、理由が必要だった。それが、砂のお城のような触れたら崩れてしまう理由でも。
10
中卒メリーは鉄パイプを担いでやってきた。
午前一時半、墓場行き急行に。
墓場で起こる怪奇の謎の解き明かすのに、鉄パイプはたぶんいらない。
「ごめんね。ゾンビとか出るかなとか思って……」
わたしたち秘封倶楽部の活動っていうのはそういうフィジカルなやつじゃなくて、もっと象徴的なやつなんだってこと、メリーに言ったってしょうがない。こうして一緒に着いてきてくれるだけできっと嬉しい。こうやって他のわたしたちが気にもとめないような小さな怪奇を探してふたりで丁寧に向き合い続ければ、いつかはこんなメリーも秘封倶楽部風の女の子になるかもしれない。
ならないかもしれない。
どっちにしたって、間違っちゃったものはしょうがないよね、って。
人のほとんど乗っていない時刻とは言え、周りの目も気になるんだろろう、メリーは恥ずかしそうに鉄パイプを足で転がしている。
「これ、猫だったら、いいのにね」
「猫? なんで?」
「猫だって電車にいたら違和感あるけど、かわいいからみんな許してくれるもの」
「まあ、そうかもね」
「大丈夫。誰かに怒られたらちゃんと言うからね。ほんとはかわいい猫のつもりだったんです。間違って持ってきちゃったんです」
「絶対許されないと思うけど」
「どうして? こんなにかわいいのに……」
「だって、凶器じゃない、それ」
「蓮子、蓮子、見て」
「なに?」
「見て、ほら、猫がいるわ。かわいいね。足にすりすりしてるわ」
「馬鹿じゃないの?」
「にゃあ」
「どうしたの?」
「って、言ってる」
「言ってないよ?」
ほら、ほら、聞いててね。
メリーは足の上に乗っけて、落とした。
からんころん、とメリーの足元で鉄パイプが鳴いた。
11
中卒メリーの人生は、いくつかの取り違えによって支配されている。
アメリカ生まれの彼女を、いつかマエリベリー・ハーンという名前の女の子に変えてしまったのは、彼女のお婆ちゃんの孤独と狂気だった。中卒メリーは6つの歳までアメリカで育った。両親や生まれ育った土地のことはあまりよく憶えていないと言う。幼いメリーにとってはやはり不明瞭な理由によって、彼女は日本に住む祖母のもとに預けられることになった。メリーの祖母はその頃にはとっくに気が狂っていた。頭がおかしくなってた。早いうちに夫――つまり中卒メリーの祖父に先立たれ、夫婦で流されるように住み着いた知らない田舎町の片隅で孤独に暮らすうちに、頭の中の遠い記憶が白昼夢と混じり合いながらばらばらと崩壊し、もはや自分がわからなくなっていた。
彼女の広くて寂しい一軒家の近くには巨大な自動車工場があった。工場には高い煙突があり、そこから朝も夜も止むことなく煙が上がっていた。だからその土地に降る雪は黒いのだと前にメリーが教えてくれたことがある。そんな町の小学校に中卒メリーは通うようになり、それとまったく同じ瞬間に、別のメリー、『秘封倶楽部活動記録』に記された正しい意味でのメリーも同じ学校に通った。
中卒メリーの人生を支配するのは取り違えである。彼女の祖母は狂っていた。彼女の隣の家には同じような、しかし健康的な老婆が住んでおり、老婆は異国に住む孫娘について彼女によく語ったものだった。孫娘はマエリベリー・ハーンという名前の年のわりに聡明な少女で、大好きなおばあちゃんによく手紙を寄越してくれ、一家の教育方針によって7歳になったあかつきには祖母の元で暮らすことになっていた。すでに狂気が脳みその中枢まで溶け込んでいた中卒メリーの祖母は、マエリベリー・ハーンのことを自分の孫娘だと信じた。
中卒メリーのほうが先にやってきた。新しい家で中卒メリーは徹底的に無視されていた。ほとんど存在しないものとして扱われた。もちろん、物事の外面だけを語ろうすれば、中卒メリーはとても可愛がられたのだ。彼女の祖母は中卒メリーのことを溺愛した。その祖母に許される半径に存在するものは、おおよそすべて、中卒メリーに与えれた。でも、それは本当は中卒メリーに対して注がれた愛情ではない。彼女が愛していたのは隣家の孫娘であるマエリベリー・ハーンその子であり、だから、彼女は中卒メリーの中のマエリベリー・ハーン的ではない全ての部分に向き合おうとはしなかった。そして、悲しいことに、それは中卒メリーを構成するほとんど全ての部分だった。
少しあとでマエリベリー・ハーン本人もその土地にやって来る。中卒メリーとマエリベリー・ハーンは同じ学区の同じ小学校に通うようになる。彼女たちはすぐ近いところに存在したが、関わり合うことはなかった。彼女たちが異国の少女であり、似たような来歴を持っていること、それは単なる偶然であり、何も符牒もない純然たる事実の羅列である。しかし、中卒メリーの祖母にとってはそうではない。狂った彼女にとって自分の孫娘はマエリベリー・ハーンでしかありえなかった。マエリベリー・ハーンは聡明で、無邪気な、良き少女である。中卒メリーの祖母にとって、ふたりの善行はすべてマエリベリー・ハーンのものであり、一方でその悪辣は中卒メリー――マエリベリー・ハーンに取り憑いたと彼女が信じた悪魔の所業だった。やがて、その歳のこどもにとっては当然の反発心により、中卒メリーはあらゆる反マエリベリー・ハーン的行為を行うようになる。中卒メリーは9歳にして不良少女であり、14歳には肩に天使を飼いはじめた。いつだったか、そのタトゥーをメリーは見せてくれたことがある。あまり造形のよくない小さな天使だった。ハーンだよ、と彼女はくすくす笑った。良き天使なんだ。わたしの中には天使がいる、そうやってお婆ちゃんは言ったの。もちろん、それは彼女流の皮肉なんだと思う。彼女の祖母にとって、自分の孫娘はマエリベリー・ハーンであり、中卒メリーそのものがマエリベリー・ハーンに取り憑いた悪魔だったのだから。
メリーの16の歳に彼女の祖母は死んだ。最後まで夢を見ながら、この世界から煙のように消えてしまった。メリーは定時制の高校を辞めて、町に出て、働きはじめた。職を転々とし、やがて小さなカフェテラスのウェイトレスに落ち着いた。
そんなふうにしてメリーは中卒メリーになった。
12
「ねえ、わたしマエリベリー・ハーンになりたかったし、そうなれたらいいなと思ったよ。でも上手くいかなかったなあ。ごめんね?」
13
だから、わたしは”それから”のお話をしたいんです。
14
「でも、別に強制するとか矯正するとか、そういうんじゃないの。メリーはメリーの好きなように生きてほしいし……こうやって一緒に来てくれるだけでも嬉しくて、そりゃあ子供の頃からずっと憧れてたから秘封倶楽部はわたしの夢よ。でも、そのせいで、メリーに苦しんでほしくはないし、だって、友だちだもんね、わたしたち。それ以前に。だからこういうの嫌なら帰ってもいいのよ? わたしがメリーを無理やりメリーにしようとしちゃってると感じるなら、帰っても……」
夜の霊園をふたりで歩きながらわたしの喋る言葉は全部言い訳みたいだ。
メリーはくすくすと笑っている。
「こんな怖いところからひとりで帰そうとするなんて蓮子ってひどいね」
「そんなこと言ったって……」
「わたしのことになると蓮子ってなんだか蓮子じゃなくなっちゃうみたい。もっと断定していのよ。貴方はメリーなのよ。マエリベリー・ハーンよ、マエリベリー・ハーン。ほら、だんだんその気になってくる、貴方はメリー……メリー」
「なにその催眠術みたいなやつは」
「オカルトだもの。どう、秘封倶楽部っぽい?」
「ぜんぜん」
いつでも”取り違え”が彼女の人生を彼女の予期しないところに連れて行く。マエリベリー・ハーンがたくさん住むこの町で、中卒メリーはわたしに出会って、再びマエリベリー・ハーンに戻ろうとしている。
わたしは、メリーが、ひどく物理的の距離の近いことによってかえってマエリベリー・ハーンにはなることのできなかったこの中卒メリーが、『秘封倶楽部活動記録』に記されたマエリベリー・ハーンのようになってしまうことを、きっと望んでいる。
15
夢を見る。
黒い雪が降っている。
貴方が貴方がある理由、わたしがわたしだったことのその名残。
街角には天使が潜んでいる。それを探してわたしは彷徨い歩く。切れかけた電燈の光、かちかち、かち、と最後の電波のように鳴っている。今夜、すべての放送が停波すると言う。最後の電波は、犬について喋っている。「メール、けっこう集まってきてますね。えーと、なんて読むんだろう、さんかな?……こんにちは。わたしは犬は笑うと思います。実際、わたしの飼ってる犬は怒られてる時へらへら笑うんです。かわいいんですけど、そのときばかりはちょっとむかつきますね。……あーいますよねえ、怒られてる時へらへら笑っちゃう人、わたしの後輩にもいてぇ、なんか別にバカにしてるわけじゃないらしいですよ。反射? 防衛本能っていうやつのかなぁ、なんかそういう、ふふ、そういうやつじゃないかな、って、思うんです……ああ、暑い……空調壊れた話は先週しましたよね、修理……まだ来てないらしくて、なんか型が古くて部品がなくて、ここは暑いし、笑えないね……」
そういえば、天使は帽子を被っていると言うのです。それはどんな類の帽子だろう。シルクハットとかだったらなんだかやだな。病院の光。気がつけば、吸い込まれるようにしてわたしはその前に立っていた。古い大きな総合病院だ。急患を受け入れるために夜でも灯りがついている。わたしはそのガラス戸に触れてみた。氷のように冷たい。そっと押して開いた。天使だ。天使だった。受付のところに幼い少女が立っている。帽子をかぶってた。変なやつ。くしゃくしゃになった洋菓子みたいなやつ。マエリベリー・ハーンの被ってるやつ。あんなのどこに売ってるんだろう。天使だったら生成だってできるだろうが……。メリー風の少女は微笑んでいた。それから帽子を脱いで、わたしにくれた。
「これが、わたしがわたしである理由。あげるね。今日から貴方がメリー!」
わたしはその帽子を受け取った。逆さになった帽子の中にはキャンディーが入ってた。キャンディーが4つ。赤と赤と白と緑の包装。
次に気がつくとわたしはパチンコ屋の駐車場にいた。古い、もう誰も寄り付かないようなパチンコ屋だ。キャンディーが手の中に残っていた。そのひとつの包装を解いてわたしは口の中に入れてみる。味はわからなかった。そこで夢から醒めてしまったから。目が醒めると喉が渇いていた。コップの中の水道水を2杯飲んで、それから夢について思い出そうした。最後の電波、病院、天使。結局、その味を知らずに終わってしまったキャンディー。それはいったいどんな味だったんだろう。
でも、それは、予め失われてしまっていた味だった。
時刻は夜の二時半。
メリーに電話をした。
16
「どうしたの、蓮子? こんな時間に……」
「メリーの夢を見たの」
「実はわたしも蓮子の夢を見てたわ」
「え、ほんとに?」
「うん。深夜二時半に蓮子が電話をかけてくるの。こんな時間に何の話だろうと思って、眠いし、明日は早番なのに、課題が終わらなくてつらいようみたいなくだらない用事だったらきっと殺してやろうと思って電話に出たら、蓮子が喋る前に夢が終わっちゃった。で、何の話なの?」
「あの……えと……」
「当ててあげよっか?」
「え、わかる?」
「課題が終わらなくてつらいのよね」
「ちがう」
「じゃあ、なんかまた変なこと思いついたの?」
「じゃなくて、じゃなくてね、メリーの夢を見たから」
「それで?」
「それで……なんとなく」
「え、わたしのこと好きなの?」
「なんでそうなるの!」
「だって普通夢で見たからって電話かけないよ」
「たしかに……好きなのかもしれない」
「くすくす、なんでよ。どんな夢見たの?」
「よく憶えてないけど、小さなメリーが出てきて帽子をくれるの。中には飴が入ってる」
「それって、大学のメリーさんたち? それとも、わたし?」
「わかんない。ちっちゃいメリーだったから。昔のメリーをわたし知らないな」
「たしかにね。でも、それならなんで、わたしだと思ったわけ?」
「夢だから? あ、帽子がメリーの帽子だったからかも」
「じゃあ、わたしじゃないのね。メリーさんたちが被ってる帽子、わたしは持ってないもの」
「うん。ああいうのどこで買うのかな」
「そういう店」
「どういう店?」
「ああいう帽子がいっぱいある店」
「どこにあるの?」
「さあ……。遊園地とか?」
「なんで、遊園地?」
「メリーランドみたいな。たくさんメリーさんがいて、メリーさんグッズとか売ってるの。メリーさんたちが着るようなああいうふわふわの服とか。秘封倶楽部体験アトラクションとかもあるよ。きっとメリーさんはそこからやってきたのね。みんなキャストだよ。夢の国ね。たぶん蓮子さんたちしか行かないけど。蓮子さんたちはみんなメリーさんのことが好きだから、会いに行く」
「なんか夢の国っていうか、キャバクラみたいね」
「くすくす、そね。ともかくわたしじゃないメリーさんの夢なら、ほかのメリーさんに電話をかけるべきだったわね」
「わたしの電話できるメリーってメリーだけだもん」
「うん」
「あ、メリーはパチンコやったことある?」
「うん、昔ね。けっこうやってたわ」
「夢にはパチンコ屋も出てきた。だからやっぱりメリーだったのかも」
「そうなんだ。予知夢かもね。今度パチ屋いっしょに行ってみようよ。北斗無双の7とか打と?」
「北斗って北斗の拳?」
「知ってる?」
「世紀末の……お前は二秒後に必ず死ぬ!みたいなやつでしょ?」
「ま、そうね」
「勝てた?」
「なにが?」
「やってた頃、パチンコ」
「きっと車が買えたな」
「そんなに? すごいね」
「負けたお金でよ」
「まじで? 馬鹿じゃない」
「あはは。そう、そう」
「夢の国?」
「帰りはいつも寂しいものね」
「ごめんね。こんな時間に」
「そうよ。まあ、いいけど」
「おやすみ。明日お仕事がんばってね」
「うん。おやすみ、おやすみ……」
ぷち。
つーつー。
17
カフェテラス”良き犬たちのための天国”には、たくさんのメリーたちがいる。
そこはわたしたちが待ち合わせやオカルトに関する議論やもっとくだらない話をするのに、よく使うお気に入りの場所だった。『秘封倶楽部活動報告書』にそうやって書いてあるのだ。だからわたしたちはそうした。わたしたち――つまり、わたし以外の蓮子とメリーたち。
わたしはそのカフェの周辺を意図的に避けるように暮らしていた。できる限り、ニセモノのわたしたちには会いたくなかった。
でも、その午後に、はじめてわたしは”良き犬たちのための天国”で過ごしていた。『秘封倶楽部活動報告書』によればこの午後に、わたしたちある怪奇の噂を手に入れ、それを解明するために少し離れた町まで出征する予定になっていた。だから今日は別のわたしに会わずにすむと考えていた。
わたしはコーヒーを飲んで待ってた。
わたしのメリーを。
ここで出会える理由なんか知らなかった。
でもここで出会えたらいいなと思ってた。
それはなんだか運命的な出会いじゃないだろうか。ホンモノのわたしたちにおあつらえ向きの、他のわたしとメリーとはちがう、わたしたちだけの特別な出会い。
その店内にはカフェのウェイトレスがひとりいるだけで、あとは空っぽだった。わたしの予想したとおりだ。わたしがメリーに特別な出会いを果たすのには申し分ない映画の中みたいな静かな午後。
コーヒーを9杯とサンドウィッチを2つ、クッキーを18切れ、あくびを27つ、読み進めた本のページが31ページ、時計の長針が185回倒れた。まだメリーはやって来ない。追加のコーヒーを持ってきたウェイトレスがわたしに話しかけてきた。
「ふふ、メリーさんを待ってるんですか?」
「え」
「お客さん蓮子さんでしょう。たくさん来るから覚えちゃったんですよ。たまに話もするし。でも不思議ですね。みんな同じ蓮子さんみたいなのにたくさんいるですもん」
「流行ってるのよ、こういうスタイルが。みんな真似事をしてるだけですよ」
「でも蓮子さんもやってるじゃないですか」
なんのつもりだろうと思ってその女を見返すと、彼女はいたずらっぽい笑みをたたえている。不快な笑みだ。まるで蓮子といるときにメリーが見せるような笑顔。わたしじゃないわたし宛のメリーの笑顔。
彼女はわたしの前の席に座った。
「なにしてるんですか。こんなふうにお客さんと話してていいんですか。仕事中でしょう」
「いいんです。今日は店長もいないし、ワンオペだから。復讐です。暇なんですよ」
「それは大変ね。でも悪いけど、どいてよ。本を読むのに邪魔ですから」
「でもさっきからぜんぜんページ進んでないですよ」
「何が言いたいんですか?」
彼女は笑った。
またあの笑顔だ――わたしの嫌いな、見たくないメリー風の笑い方。
「お客さん、なんだか寂しそうなんですもん」
「余計なお世話です。いつからこのカフェは精神分析をサービスするようになったの?」
「ふふ。いつからって、お客さん、今日が来るのはじめてじゃないですか」
わたしは赤面してしまう。
このウェイトレスの女にはわたしとわたしの区別なんてついていないんだろうと思って、まるで常連の蓮子のふりをしていたのに、それが見透かされているなんて。まるでわたしがニセモノの蓮子だっていうことを、指摘されたような気持ちだった。
でかい扇風機みたいなやつが、天井で、くるくる回ってる。
オーブンの中で焼かれるアップル・パイみたいに、時間がわたしをじりじりと焦がしてしまう。
「ねえ、メリーさん、来ませんね」
「うん、そう……」
わたしは曖昧に誤魔化す。何かを喋れば喋るたび、それがほころびになって、わたしにメリーがいないことが、本当はわたしがニセモノの蓮子だっていうことが、彼女に暴かれてしまう気がしてた。はやくここから逃げ出さなくては。遠い場所へ。誰もわたしとメリーのことを知らない場所へ。微笑み、笑ってる……彼女がメリーみたいに微笑んでいる。
「それにしても珍しいですよね。メリーさんが遅れてやって来るなんて。だって、いつも遅れてくるのは、蓮子さんだって決まってるのに――」
か、いけい、会計、会計してくださいもう帰るから、零れだすみたいに言葉があふれて、逃げ出すみたいに財布を持って立ち上がると、からんからんとベルが鳴った。
メリーがやって来た。
わたしのメリーじゃないメリーだ。わたし似た、わたしじゃない蓮子とふたりで、何やら熱を込めて話しながら、ドアを開いてこのカフェテラスの中に入ってくる。
いらっしゃいませえ、と間延びした声でウェイトレスの女が言う。だからふたりはこっちを見て――。わたしは椅子の背に隠れるみたいにしゃがみこんだ。バレてしまう。暴かれてしまう。怪異の正体が明るみになるように、わたしが本物の蓮子じゃないことが、メリーとわたしに確かめられてしまう。まるでわたし自身がひとつの怪異になり、それを、わたしじゃないわたし、わたしのじゃないメリーに暴かれて、ふたりの活動報告書の一ページになってしまうみたいに。ウェイトレスが女の子が喋っていた。
「あ、メリーさん、蓮子さん、こんにちは。来てくれてうれしいです。今日はお客さんが来なくて、ひとりで退屈してたんですよ。だからさっきも仕事なんかしないでずっと本を読みながらクッキー食べてコーヒーを飲んでてね。あ、そうだ。おふたりが好きそうな話があるんです。えーと、あ、これ、このハンカチなんですけど。夜になると変身するんです。夜にふと目を覚ますとこのハンカチが不思議な形に折りたたまれて、宙をふわふわと飛んでいるんです。昨日は鳥、一昨日は蝶々だった……。不思議じゃないですか? ほら、これ、きっとおふたりなら、どうしてこんなことなってしまうのかわかると思います。どうですか、暇つぶしに」
椅子の背に隠れてわたしは彼女の喋る言葉を聞いていた。まるでこの場所からわたしが消えて失くなってしまったみたいだ。実際、もう消えちゃったのかもね。だって、ウェイトレスの女の子が言うことには、さっきまでわたしがいた場所には彼女がひとりいて、わたしはどこにもいないんだから。消えてしまったと思うと安心する。なくなったら落ち着く。わたしはもう誰にも見つからない。
でも、彼女は椅子の後ろで小さくなったわたしのところまでやって来て、腰をかがめてわたしのことを見ていたのだ。
そして、笑った。
「おいで」
彼女はわたしの手を引いてカウンターの後ろまでわたしを連れて行った。もうひとりのわたしとメリーは彼女の手渡したハンカチに集中していてわたしには気が付かない。
カウンターの後ろにわたしは座り込んだ。
ちょっと待っててね、とウェイトレスの女の子が微笑む。彼女は別の蓮子とメリーのところに行って注文をとり、わたしの見上げる場所でコーヒーを淹れていた。3つ分。それからしゃがんでわたしにコーヒーをくれた。
彼女はお盆に乗せたコーヒーとサービスのクッキーを別のわたしたちのところに持っていき、なにやら笑いながら話しこんでいた。その声が聞こえてくる。わたしは座り込んだまま彼女を待っていた。そうする他になかったのだ。夕暮れの赤い光がさしこんで、わたしを茜色に染めていた。コーヒー豆のたくさん混じった不思議な匂いがする。彼女の淹れてくれたコーヒーのマグカップが温かい。飲んだら、苦かった。砂糖とミルクも入ってないのだ。少しずつ飲み、ぬるくなった頃に、やっと彼女が戻ってくる。彼女がわたしの横に座るから、わたしは彼女を見て呟く。どうして? 彼女はまた微笑んだ。小さな笑顔。あんなにも嫌だったのに、今は見ると安心する。かすかな声で彼女は囁いた。
「だって、貴方は蓮子さんとメリーさんを見たとき、びっくりするほど怯えた顔をしてたもの。だから見つかりたくないんだと思ったんです。逆にどうしてなんですか。何か彼女たちに悪いことでもしたんです?」
「そうじゃなくて……わたし、ただ」
「あ、わたし知ってますよ。ドッペルゲンガーってやつでしょう。もうひとりの自分を見たら消えちゃう!ってやつ。くすくす、不思議。どう見たって貴方のほうがドッペルゲンガーみたいに、貴方はこんなにも怖がってる。ふつーはドッペルゲンガーのほうが、堂々と構えてるものなのにね」
「ちがうの。わたし、ただ、彼女たちに会いたくなくて……」
「わかりますよう。だってドッペルゲンガーだからじゃないですか。でも、怖がらなくてもいいんですよ。大丈夫、ここにいればきっと見つかりません。わたしが守ってあげます。ドッペルゲンガーさんはひとりで寂しいわたしの暇つぶしの相手になってくれた、だからこれはお返しです」
なんていえばわからずに、ありがとう、とだけわたしは言った。
それからわたしは、4杯のコーヒを飲み、2つケーキを食べて、147回時計の長針が倒れるのを見て、5回あくびをして、1度だけ夜が来て、18回メリーの足を避けた。
そしたら、彼女が屈んでわたしに、笑った。
「もう、出ても大丈夫よ」
ずっと狭いところに座っていたから、立ったら、くらついた。
メリーが支えてくれた。
ありがとう、って、わたしは言った。時刻は8時すぎ。外は薄暗い。わたしたちの他に誰もいないカフェテラスの中は、なんだか寂しかった。
ねえ、片付け手伝ってよ。ウェイトレスの女の子が言うから、わたしはお皿とマグカップを洗った。冷たい水。カフェの中を掃除している彼女を見ていた。彼女は振り返り、また笑った。
それが、メリーみたいな笑顔だった?
わたしは今ではメリーの笑顔よりも彼女のそれのほうをよく知っているので、それがメリーのものだったかどうか、もうわからない。だから、彼女の笑うところを見ても、寂しい気持ちにはならなかった。わたしも笑った。
「ねえ」
「なぁに?」
「つめたい!」
「お湯、でるよ」
「え、まじ」
「あはは。まじまじ。蓮子さんってけっこー抜けてるんですね」
お店の片付けが全て済んでしまうと、わたしたちはそこを出た。
彼女が鍵を締めるの見ていた。
もうすっかり夜だ。星が綺麗だった。
今日はありがとう、と彼女が言ったけど、お礼を言うのはわたしのほうだった。
ケーキとコーヒーもおごってもらっちゃったし。
「今日はありがとう。そうだ、名前、聞かせてもらってもいいですか。こんなにいろいろしてもらったのに、わたし、貴方の名前も知らなくて」
彼女は笑った。
いたずらっぽい、くすくすと笑う彼女に固有のやつ。
「メリー」
って、彼女は言った。
「マエリベリー・ハーン。みんなはメリーって呼ぶわ」
「え、嘘」
「くすくす。ねえ、驚いた? わたしメリーって言うんです。あんなにメリーさんがたくさんいるのに、わたしもメリーだなんて、なんだかおかしいですよねえ」
「うそ……。わたしメリーのことをずっと待ってた」
「知ってますよ。でも今日は来なかった。忙しかったんですねたぶん、きっと明日は会えますよ」
「ちがう――。ちがうんです。わたし、ずっと貴方を探してたの」
はじめて見るメリーの困惑する表情。
でもやがて笑った。
「もしかして、口説いてます?」
何をいえばいいんだろう。
なんていえばいいんだろう。
秘封倶楽部活動記録。
そこに書かれたわたしとメリーの出会い。
8歳のわたしがそうなるだろうと想像して、ずっとやって来るのを待っていた未来。
わたしはずっとメリーのことを知っていて、同じ本を読み返すみたいに何度も出会って、でも本当は会えなくて、寂しくて、ひとりで部屋でメリーのことを考えていた。
そして、やっとメリーに会えたのに。
なんて言えばいいんだろう。
これまでのわたしの全てを説明するのには今は時間がないから。
これはわたしの知らない、活動記録にはない、わたしたちの出会いだから。
変なことを言って、メリーを失いたくない。
でも――わたしはそれを、使ってしまう。
それだけを信じて生きてきたから、こんなふうにまったくそぐわない場所でも、結局のところ、わたしはそれに頼るしかなかった。
寂しいことに。
ねえ、メリー。
メリー……。
「ねえ、メリー、わたしと一緒に秘封倶楽部をやらないかしら……?」
「秘封倶楽部? 蓮子さんとメリーさんたちがやっているサークル活動ですか?」
「うん」
「だめです」
「あ……。あはは、それは、そう、ですよね」
「だって、わたしは大学生じゃないです。高校も出てないんです。それなのにサークル活動なんて恥ずかしくて嫌ですよ。それに仕事もしてるんです。知ってます? 蓮子さんはいつも怪異が現れたとか言ってメリーさんを連れ回すんです。授業もサボって。大学生ならいいけど、社会人が仕事をサボってたら暮らしていけないですよ」
「うん」
「でも、わたしたち、友だちになれますよ」
「友だち?」
「そう。休みの日なら、秘封倶楽部みたいなことをしてもいいですし、わたしのカフェにもまた遊びに来てほしいな。コーヒーを飲みながらお話したり、ふたりでね」
そしてメリーは言ったのだ。
「じゃあ、明日午後2時に”良き犬たちの天国”で待ってるから」
だから、わたしは、あのカフェテラスに行った。
それからも毎日、メリーに会うために通い続けた。
いつでもメリーはその店でわたしを待っていて、わたしは必ず遅れてやって来る。
なんだかそれはいつものわたしたちの活動風景のようだったから、それを口に出してみれば、カウンターの向こうでメリーがくすくす笑う。
「いつものわたしたちみたいって、実際、いつものわたしたちじゃない」
そんなふうにしてわたしはメリーに出会った。
わたしのメリーは人のとはちがってる。
頭だってよくないし、大学にも行ってないし、秘封倶楽部だって一緒にやってくれない。
でも、とってもやさしいわたしの友だちだから、べつにいいのだ。
たぶんね。
18
中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
じゃあ、何か、と問われると答えにはひどく窮することになる。それは一人の人間を端的に語ることの難しさに起因している。
中卒メリーはアメリカ生まれのクォーターで、中学生の頃は不良少女で、大学近くのカフェテラスで働いていて、16歳のとき地元のスナックで働いていたせいか歌うのがとても上手で、指笛も上手くて、案外インドア派で疲れるのが嫌だから旅行が嫌いで動物が好きで猫が好きで犬が好きで一番好きなのはかばで熱帯魚を飼っていて推理のドラマとスポーツを見るのが好きで野球が好きで贔屓は阪神タイガースで食べるのは好きでも嫌いでもなくてお酒はほとんど飲まない。
たとえば、中卒メリーを構成する多様なものから、マエリベリー・ハーン的じゃない要素を挙げてみることはいくらでもできるけれど、それと同じくらいマエリベリー・ハーンみたいなところを言ってみることだってできる。中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃないけれど、マエリベリー・ハーン的なところもたくさんあるし、実際のところよく似ている。なんていうか、感じ、のようなものが。まったくの他人だと言い切ってしまうには、中卒メリーの発生にマエリベリー・ハーンは深く関わりすぎているけれど、その深い連結がかえって中卒メリーがマエリベリー・ハーンそのものではないひとつの証明でもある。
中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
中卒メリーはマエリベリー・ハーンではない誰かです。
でも、中卒メリーはマエリベリー・ハーンになってしまうには十分すぎるくらいのものを抱え込んでいる。
19
だから、これは中卒メリーがマエリベリー・ハーンになるまでのお話です。
20
夜の墓場でわたしたちは二人。
まるで天使を求めて彷徨う巡礼者たちのように列なして歩く。
幽霊を探して。
メリーが呟いた。
「それにしても幽霊なんてちっとも出ないね。つまんないわ」
あそこの墓場には幽霊が出てきます。
そんな使い古されたオカルト。21世紀のはじまりにはすでに擦られすぎて誰も信じなくなってしまったようなそんなうわさ話を頼ってわたしたちはこうして墓場までやってきた。
実際、怪奇としては程度が低いし、あんまり興味だって惹かれない。『秘封倶楽部活動記録』の中で、メリーとわたしが出会うことになる怪奇のように、その内容を聞いただけでなんだか胸が高鳴り、その真実を知りたくて夜も眠れなくなってしまうようなお話ではきっとない。
こんな怪奇ばかりわたしたちが追ってしまうのは、メリーがオカルトにたいして興味がないせいじゃない。どちらかといえば原因はわたしにある。何事もそうだし、『秘封倶楽部活動記録』の中でさえそうなっているのだけれど、はじめの頃から複雑で精彩のある出来事に巡り会えるはずがない。そういうのは積み重ねというかステップアップというか、簡単なものをひとつひとつ乗り越えているうちに、次第に難しくてやりがいのあるものが解けるようになるし、また見つけられるようになる。その意味じゃ、やっと秘封倶楽部として活動しはじめたわたしはとても出遅れている。出遅れているくせに、他と比べて、憧ればかり重ねているから単純なものにさえちゃんと向き合えていない。
「きっとこういうつまんないことが大事なのよ。下積みっていうか。こういうの地道にこなしていっていつか素敵な怪奇を見つけられるんだ」
「なんだか売り出しはじめのアイドルみたいだね」
「あるいは最初のお城のまわりでぐるぐるしてる勇者」
「ねえ、蓮子、ちゅっちゅしてみようよ」
「へぇ?」
「いいじゃない。ほかの蓮子さんたちはみんなやってるよ」
「いやよ」
「どうして?」
「そういうのにうつつを抜かしていたら世界の秘密にはいつまでたっても届かないの」
「ヘー」
「なによ?」
「かわいいなあって」
「なにが」
「蓮子が。ってそこまで言って欲しいのね? こわ、ほしがり」
「うるさい」
夜の下。
月の光が淡白く霊園を包んでいた。
ねえ疲れた腕、痛くなってきた……ってメリーが言うから、わたしたちは階段に並んで座った。
そんな鉄パイプなんか持ってるから腕とか痛くなるんじゃん、って、言わないけど。
月の光に照らされて闇の中に浮かび上がる無数の墓石は、なんだかたしかな恐怖感を持っているけれど、それはただなんとなく怖い気がするというだけのことだった。
恐怖に関する中卒メリー風の解釈。
怖いものは、べつに理由とかなく怖いのだ。
ほんとに幽霊がいたらいいのに、とわたしは思う。
このほのかなわたしの恐怖心に確かな理由があったらよかったのに。
なんだか少しだけ眠かった。
風が吹いて、木々が揺れる音がする。
なんか甘いものとかいっぱい食べたい気分だった。
お酒とかたくさん飲んだら変なものが見えたりするだろうか。
そんなものに頼りたくなってしまうくらいに――。
ここには、描写すべきものが、べつに何もない。
メリーの声だけがあった。
「じゃあ、そういうんじゃない話をしてみましょうよ」
「それってなに?」
「オカルトの話。最近蓮子のまわりにあった不思議な話して」
「いや、そんな急に言われても……」
「はい、宇佐見蓮子のわたしにこんな不思議がありました話、まずは大学編!」
「いや、あの、えー? ないって」
「でも、秘封倶楽部はみんなしてるよ? 蓮子さんたちとかよくカフェでさ。あれー、もしかして、蓮子って、秘封倶楽部とかほんとはできないのかしら? くすくす。おかしいなあ。わたしはこんなに秘封倶楽部的な提案をしてるのに?」
「わかった、やればいいんでしょう!」
「やればいいっていうか、蓮子はすすんでやるのよ。さあ!どうぞ! 蓮子さんのとっても不思議なおもしろい話です!」
「えとね、この前さ、大学に行ったときなんだけど」
「うん。何しにいったの?」
「そりゃもちろん、講義よ」
「蓮子は真面目ね。すごい!」
「うん。それでね、講堂があったのね。今は使われていない講堂」
「お。いい出だしだ。期待できる」
「うちの学校は建築様式においては当時の主流に則っているだけで特に主題がないと思っているんだけど、その講堂だけはなんていうか西洋風っていうか。もっといえばキリスト教風の感じなの」
「どんな感じ? シンデレラ城みたいな?」
「そんな立派じゃなくて、寂れた教会のもっと小さい……みたいな?」
「あ、蓮子は、シンデレラ城見たことある?」
「あるよ」
「じゃあさ、じゃあ、シーとランド、どっち派? わたしはシーかな。雰囲気がいいもの。一回しか行ったことないけど」
「シー」
「おお。いいよね」
「うん。で、話戻すけど、そこはずいぶん前から使われていないみたいで、だいぶ寂れていて、それに入り口には錠前がかかってる。大きな錠前でね、鎖でぐるぐる巻きにしてあるの」
「映画のソウみたいな感じね。中でデスゲームとかやってそう。蓮子、あれ、シリーズ全部見たことある? わたし最後まで見てないのよね。最後どうなるのかな?」
「一個も見たことない」
「え、ほんとに。もったいないわ。1番最初の見たほうがいい。おもしろい」
「わざと話の邪魔してるでしょ」
「あれ、ばれちゃった」
「話すのやめます」
「ごめん、ごめんね。もうしないから。その講堂が怪しい感じだったのよね?」
「うん、そうなの。いかにも怪しい感じ。ずっと気になってて、この前、何かあるかもしれないと思ってよくその周りをぐるぐるしてたんだけど……なかなか入れるような場所も見つからなくて、そりゃあそうよね、学生が入らないように錠とかしてあるんだから。ほかの入り口もちゃんと閉ざされてて、いろいろ探したら気づいたらあたりも薄暗くなってて、一時間以上そこにいたと思うけど……で、結局中には入れなかったんだけど」
「でも?」
「いや、結局ただ入れなくて、家帰って、でも秘封倶楽部活動記録とかほかの蓮子たちの話盗み聞きしたりするとどうやら本来入れないはずの場所に秘密の入り口みたいなもの見つけたりして、そこで怪奇に出会ったりするんだけど、わたしはそもそもそれすら見つけられないってことで、でもそれって知識とか経験とか関係ないただの運じゃない、だから、なんか? 怪奇に出会うのもそれ自体に才能がいるんだなあって思って、悲しくなりました、おわり!」
「なにそれ、なにもないじゃん! 小学生の絵日記でも許されないわ。こんな内容のない話」
「だってぇ……。ほんとになにもないんだからしかたないじゃない」
「でも蓮子たちはカフェでいつも不思議話してるよ。毎日のように新しいの出してくるのに」
「それは、あれじゃないの、脚色とかしてるのよ。ほんとはちょっと影を見た程度の話を、想像力で補って幽霊見たとかそんな感じだもん絶対」
「あーあ、蓮子はすっかりオカルト否定派ね。敵だ敵、オカルトの敵。この科学の子!理系脳!」
「うるさいな。いじわる言わないでよ」
「くすくす。楽しいね」
「ぜんぜん楽しくなんかないもん」
わたしにはわからない。
こうやって真似事で怪奇の噂を調べに行ったとしても、わたしたちはなにひとつ秘封倶楽部には近づくことができない。メリーのせいじゃない。冗談を言いながらも、ほとんど何もわからないままで、やさしいメリーは秘封倶楽部に付き合ってくれる。
わたしには恐怖心がある。
この墓場が怖いのではない。わたしが中卒メリーをマエリベリー・ハーンであるように求めることによって、本当はメリーを苦しめてしまうんじゃないかということが怖い。わたしの願いがメリーの呪いになってしまうなら、そんなことを願いたくはない。メリーは遠いところにいると思う。唯一の肉親に別の人間であることを求められ続けたメリーの孤独はあまりに深くわたしの届かないところにあるから、わたしにはどうしたらいいかわからない。
きっとわたしはひどいことをしてしまったんだろう。。
でも、今となっては戻ることもできないのだ。
秘封倶楽部がわたしの願いだということをメリーはちゃんと知っている。知っているからメリー風をやろうとしてくれるのだし、こんな何もない墓場まで一緒に来てくれるのだ。だから今さら普通に戻ろうとしたってそうはいかない。すでに秘封倶楽部がわたしたちの普通なのだ。それはなんだか呪いみたいだった。秘封倶楽部についてそんなふうに思うことになるなんてわたしは思ってもみなかった。
21
8歳のわたしには夢がありました。
学校の帰り道、本を拾ったあの日から、ずっと。
秘封倶楽部になること。
メリーとふたりで秘封倶楽部をやること。
7歳のメリーには夢があったんだろうか。
どちらにしろ、その夢は消えてしまった。まるで夜に見る夢のように。今では思い出せない形になってしまった。
7歳のメリーは天使に出会った。
メリーの肩に刻まれて今でも消えることのない墨色の天使。
”マエリベリー・ハーン”という名前なのです。
『秘封倶楽部活動記録』に出会ったあの日にわたしの運命が決まってしまったように、マエリベリー・ハーンに出会った時に中卒メリーの人生は消えてしまった。
14歳のメリーはそれをタトゥーにして刻んだ。
それがあの家でメリーの生きる術だったんだろう。
すべてをジョークに変えてしまうこと。
中卒メリーはくすくすと笑う。
どうしてメリーは最初にわたしと出会った時にわたしを拒絶しなかったんだろうと思う時がある。そうしたっておかしくはなかったのに。
それもやっぱりジョークだったからなんじゃないだろうか。たくさんのマエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子と秘封倶楽部。マエリベリー・ハーンにならざるを得なかった少女。ひとりの蓮子が彼女の前に現れて、秘封倶楽部をやろうと言う。中卒メリーにとってそれは壮大な冗談だった。
それが冗談なら、わたしたちはきっと消えてしまうだろう。はじめからそんなものはなかったかのうように。
中卒メリーはくすくすと笑う。
メリーが笑うと、わたしは嬉しい。
マエリベリー・ハーンじゃない、メリーの笑い方がわたしは好きだと思う。
たとえ、メリーが”マエリベリー・ハーン”じゃないんだとしても、わたしたちが秘封倶楽部になれないのだとしたって、メリーが消えてしまったら、それはひどく悲しいことだとわたしは思う。
22
これは中卒メリーがマエリベリー・ハーンになるまでのお話で、わたしたちが秘封倶楽部であるための物語です。
23
わたしたちの出会いは戦闘機の形をしていて、別れは象の形をしている。
完璧なまでに象形的に。
わたしたちの物語はすべて『秘封倶楽部活動記録』に記されている。それを読んで、そうなるために、わたしは生きてきた。少なくとも中卒メリーに出会うまでは。
でも、わたしがメリーを見つけ損なった数ヶ月の間に、わたしは『秘封倶楽部活動記録』をばらばらにしてしまった。ずっと信じて生きてきたのにそうなれなかったから、逆恨みのような形でわたしは『秘封倶楽部活動記録』の背表紙に鋏を差し込んでそれを裁断してしまった。ばらばらになった『秘封倶楽部活動記録』のページたち。叶わずに分解してしまったわたしの未来。白い紙の海に囲まれてわたしは泣いた。いつまでもそうしていた。順序を失ったページたちの海では、時間の流れも同様にばらばらになり、わたしはメリーに出会う前にメリーを失った。それならまだわたしは秘封倶楽部でいられる。失ったあとでメリーに出会える。そんなふうに信じたかった。
わたしたちは別れによって終わる。秘封倶楽部としてわたしたちは怪奇を追い続け、やがてメリーは別の世界を見るようになる。ここではない幻想の世界。そして、最後にはメリーは幻想の世界に取り込まれてしまう。そこで本は終わっている。たぶん、悲しい結末だ。でもそれは本の中の物語。本当のわたしの物語はそこからはじまると思っていた。わたしはメリーにまた会うためにあらゆる怪奇を調査し、幻想に立ち向かっていくのだと信じていた。メリーを失い、もういちど取り戻すための物語。メリーを失ってなお、わたしたちが秘封倶楽部であるための物語。
”それから”のお話をわたしはしたかった。
もちろん、実際にはそんなふうにはならなかった。こうして『秘封倶楽部活動記録』のページはばらばらになり、わたしはメリーに出会うその前にすでにメリーを失い、中卒メリーに出会った。
中卒メリーはばらばらになったページの海に沈みゆくわたしを救ってくれた。中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃないけれど、そんなわたしのそばにいてくれて、新しい毎日をくれた。今、わたしの恐怖心はわたしが秘封倶楽部になれないんじゃないかということにはない。わたしのせいでもういちど中卒メリーがマエリベリー・ハーンに囚われてしまうんじゃないかということを恐れている。『秘封倶楽部活動記録』の中でマエリベリー・ハーンが幻想に攫われて消えてしまったように、中卒メリーも”マエリベリー・ハーン”に囚われて消えてしまうんじゃないか、そんなことを思うと怖くてたまらない。
本当は捨ててしまおうと思っていた『秘封倶楽部活動記録』を残したのはわたしじゃなくてメリーの方だ。
それは、ある秋のはじまりの涼しい風の吹く午後のことだった。『秘封倶楽部活動記録』に興味を持ったらしいメリーはわたしのアパートの部屋でばらばらになったそのページたちを読んでいた。読んでいたといってもすぐに興味の移り変わってしまうメリーのことだ、その中に出てくるわたしの行為とかをあげては、蓮子こんなんしたら半分犯罪じゃんとか、へーこういうことしたいんだへんたいねとか、くすくす笑っていた。もう捨ててしまうつもりなのだとわたしが言うと、どうしてとメリーは聞いた。蓮子にとってはとても大事なものなんでしょう。メリーがいるからもういらないんだとは恥ずかしくて言えなかった。いらないならもらっていいとメリーが聞くからわたしは肯いた。
するとメリーは、たくさんのページの中から一枚を手に取り、器用な手付きで折りはじめたのだ。
それから、出来上がったそいつを手のひらの上に置いてわたしに見せた。そこには鶴がいた。大きな折り鶴。メリーは笑った。
「蓮子の夢、鶴になった。千羽折ったらきっと叶うよ」
蓮子も折ってよ、とメリーはさらにもう一枚を折りはじめている。途中で、あ、と声を出して、何かを思いついたとき特有のメリーのきらきらした子供っぽい目でわたしを見た。
いいこと考えたわ。
そして、メリーは新しいページを折りはじめたのだ。
「ほら、見て見て、戦闘機」
メリー手のひらの上にあったのは、たしかに戦闘機だった。紙製のちゃっちぃやつ。でもとても複雑に綺麗に折られているから、なんだかほんとにそう見えた。
メリーは様々な種類の折り紙を作り上げてみせた。
象、東京タワー、手裏剣、金魚、やっこさん、ガーベラ、にわとり。
メリーの手の中で『秘封倶楽部活動記録』が次から次へと新しい形に組み上げられていく。完成するたびにそれをわたしに見せてくれる。
メリーは折り紙が上手だった。
たくさんの折り方を知っていた。
「おばあちゃんが教えてくれたの。幼い頃はいつも一緒に遊んでくれた。忘れちゃったかもと思ったけど、ちゃんと憶えてる――」
メリーに教わってわたしも折った。
たくさんの形をつくった。
メリーみたいには上手くいかなかったけれど。
いつのまにか熱中していて、気がつけば、夕暮れ。
カーテンの隙間から差し込む赤い西日の中を戦闘機が飛んでいる。
結局、折り鶴は千枚も折らなかったから、わたしの夢は叶わないのかもしれない。
でも、それでもよかった。わたしたちの出会いは戦闘機の形をしていて、別れは象の形をしている。わたしの未来だったはずのものは、今、わたしたちの手によって、様々な形へと移り変わっていく。白い紙が夕暮れに赤く染まる。
象、東京タワー、手裏剣、金魚、やっこさん、ガーベラ、にわとり、ヘラクレスオオカブト、天使、女の子、男の子、ひまわり。
床の上に並べられた、それらの形は見ているだけでもなんだか楽しくて、こんな未来の形なんてちっとも想像もしなかったなと思って、わたしはこっそり笑った。
24
中卒メリーはマエリベリー・ハーンではない。
だから、『秘封倶楽部活動記録』に記されたメリーとわたしのお別れはわたしたちのお別れじゃない。
25
でも、深夜二時半。
霊園。
月の光は青白く、わたしたちの輪郭をなぞる。
中卒メリーは、鉄パイプを揺らしていた。
退屈そうに、でもなんだか楽しそうに。
いったいどうやってメリーはその微妙な態度を身に着けたんだろうか。
メリーの中には常にふたつの相反するものが同居しているようにわたしは思う。
この世界に対する淡い諦観と猫のような不思議な好奇心、幼さと大人っぽさ、これほどまでに中卒メリーは非マエリベリー・ハーン的なのに時折メリーはまるきりそのように見える。まるで本物のメリーかのように。
それは仮面に象徴されるような二面性なんだろうか。ある本性を隠すために別の、かえってそうではないように見えるものを身にまとうような。たしかにメリーには人にはあんまり言えないような思い出がたくさんある。
でもわたしは――やっぱりこれもメリーの微妙な態度のひとつによるものなのだろうか――メリーはそもそもそんな二面性を抱えているようにさえ思う。メリーがマエリベリー・ハーンに出会うその前から、メリーは不思議な少女だった。
マエリベリー・ハーンに出会う前のメリー。
彼女がいったいどんな類の女の子だったのか知りたいな、とわたしは最近よく思うのだ。
メリーの揺らす鉄パイプが月の下で大きな弧を描いた。
その切っ先をわたしは見ていた。
なんだかひどく疲れているような気がした。
「ごめんね、メリー」
「え、なにが?」
「こんなことまで来たのに幽霊も出なくてさ」
「べつに蓮子のせいじゃないわ。きっと幽霊は怯えているんでしょう。なにがそんなに怖いのかしら?」
「鉄パイプ、絶対」
「くすくす。そうね」
幽霊になりたいな。
幽霊になってここに出て、メリーを驚かせてあげたい。
ううん、もっと、ずっとずっと昔の話。
幼いメリーに不思議を見せてあげたいな。
小さな頃にわたしが本で見てそれからずっと見続けた素敵な夢を子供の頃のメリーにも見せてあげたい。マエリベリー・ハーンになってしまうことは決して悲しい物語じゃないんだってこと、メリーに知ってほしい。
わたしたちが同じ夢の中にいたら、よかったのにね。
でも、わたしの見る夢は、メリーにとってはきっと悪夢だろう。
「ごめんね、メリー」
「いいわよ、ほんとに」
「せっかく秘封倶楽部やってくれたのになにもなくて」
わたしたちは黙ってしまう。
静寂、風の音。
鉄パイプが空を切って。
やがてメリーは言った。
「そうだ、今度わたしのお婆ちゃんのお墓にふたりで行かないかしら? ここからは少し遠いところだけど、わたしのお婆ちゃん変わった人だったからきっと幽霊になって出てきてくれるわ」
「会ったら、メリーはどうするの?」
殴るの?
その鉄パイプでさ。
「なんでよ。わたし愛してるのよ。そりゃあのときはいろんなことが嫌だったわ。でも、とてもやさしい人だった。死ぬときもわたしのことばかりを話してた。メリー、メリー、ってわたしのこと、なんども呼んだ。そのとき、わたし、マエリベリー・ハーンでいればよかった、って、思った。べつにむずかしいことじゃないのよ。ちょっといい子にしていればいいだけ。おばあちゃんはたしかに少し壊れちゃってたけど、それでもマエリベリー・ハーンになれなかったわたしをちゃんと16の歳まで育ててくれた。どうしてかな。その意味じゃマエリベリー・ハーンに囚われていたのはわたしのほうだったのかもね。おばあちゃんはわたしにたくさんのことをしてくれたのに、たったひとつの取り違えに囚われてわたしは彼女になにひとつしなかったの。おばあちゃんがわたしのことが見えてなかったように、わたしもお婆ちゃんが見えてなかった。おばあちゃんにわたしがメリーだと信じさせればよかった。そんなこと考えたのはずっとあとだわ」
それから、メリーは笑ったんだ。
「信じさせてみたいな、わたし、蓮子に、メリーだってこと」
26
あのようにして『秘封倶楽部活動記録』はもはや本来の形を失ってしまったけれど、それで花火の最後の名残の光みたいにいつまでもわたしの中に残っている。目を閉じれば、それを思いだす。だから、わたしは、わたしたちに関するこの物語をそのように語る。
ばらばらになった『秘封倶楽部活動記録』のように。
決してはじまりがはじまりではなく、終わったあとからはじまり、途中ではじまりがやってきて、終わりに続く、そんな文体で。
ばらばらになった『秘封倶楽部活動記録』の中で、本物のわたしたちは永遠だ。
もの悲しいお別れのそのあとに、出会う。
出会う前から、ばいばいをして、別れのそのあとに、おはよう……って。
ニセモノのわたしたちなら、どうだろう。
そもそもはじまることもなく、だから終わらないわたしたちなら。
まるで”それ”をやり直すみたいにわたしたちは語られる。
ばらばらになってしまった『秘封倶楽部活動記録』のように、わたしたちの物語はとてもあこべこになってしまっている。わたしたちはお互いまったく別のところからはじまっている。わたしが秘封倶楽部であろうとするときにメリーはマエリベリー・ハーンからとても遠いところにいるのに、お互いを知って通じ合い相手のために何かをなそうとするとき、わたしはメリーのためにもはや秘封倶楽部を夢見ず、メリーはわたしのためにマエリベリー・ハーンになろうとする。
これは悲しい物語だろうか?
『秘封倶楽部活動記録』のように、わたしたちはいつかすれ違って別の世界へと囚われ、お互いの姿が見えなくなってしまうんだろうか?
だから、わたしは、この物語をもはや物悲しい終着点を失ったばらばらの『秘封倶楽部活動記録』のように語ろうとするんだろうか?
でも、わたしのためにマエリベリー・ハーンになってあげるってメリーが笑ってくれることが、わたしはこんなに嬉しい。
それはほんとに悲しい物語だろうか?
27
中卒メリーはマエリベリー・ハーンではない。
だから、『秘封倶楽部活動記録』に記されたメリーとわたしのお別れはわたしたちのお別れじゃない?
26
いつかわたしたちにお別れが来て蓮子がいなくなったらこの匂いを嗅ぐたびに蓮子のことを思いだすな、とメリーは言った。
煙草の煙。
うん、とわたしは答えた。
透明な煙を吐き出す。
メリーも吸ってみる、とわたしは笑う。
「蓮子は悪い子ね。わたしはもうやめたのに」
「じゃあ、でも、メリーがいなくなったら、わたしは何でメリーを思い出せばいいかな?」
「全部。わたしがいなくなったあとで、いつでもわたしのことだけ考えてよ」
「不均衡じゃん、愛が」
「くすくす」
メリーは箱の中の煙草を手にとって指で弄んでた。
不思議なやり方でくるりと回した。
「どうしてお別れで終わるのかしら?」
「なにが?」
「わたしたちのお話が」
『秘封倶楽部活動記録』の中のわたしたちのお別れ。
メリーはもう一度だけ煙草を回した。
くるり。
「悲しいね」
「それからのお話をするためだとわたしはずっと思ってたの」
「それからのお話?」
「そうよ。わたしがメリーを失うまでが、本にあるところ、そこからはじまってわたしはメリーをもういちど見つけるの。それが続きなんだ」
ふうん、とメリーは言った。
ライターを取って、新しい煙草を咥えたわたしに、火をくれた。
「じゃあ、わたしたちはそれをするのね」
「それってなに?」
「いなくなっちゃった本物のメリーを見つけるの」
「見つけたらメリーはどうするの?」
「殴る! そんなの決まってるじゃない。わたしの蓮子に近づくな、って」
「さいあく……」
「くすくす」
でも、とメリーは笑いながら続けた。
「でも、最初の蓮子さんは本当に蓮子の言う通りのことを考えてその活動記録を残したのかもしれないよね」
「メリーを見つけて欲しいって?」
「うん。メリーさんと悲しいお別れで終わっちゃったから、それを変えたくて過去の蓮子にメッセージを残したのかも」
「ふむむ。時間遡行もののパターンか。たくさんわたしがいるのは?」
「それは……いっぱいいたほうが楽しいでしょ、なんでも」
「なにそれ! あ、でも……メリーはいいことを言ったかも」
「そうよね、そうよね」
「どこが、とか聞かないの?」
「うん、蓮子お得意の長話がはじまりそうだから」
「いや、どこがって言うとさ」
「短くまとめてね」
わたしはならべく端的に言いました。
「つまり、最初のわたし――オリジナルのわたしはマエリベリー・ハーンと秘封倶楽部を結成し、この世界の様々な幻想や怪奇を調査するうちに、メリーは幻想を取り込まれていなくなってしまった。きっとオリジナルのわたしはメリーを取り戻すためにいろんな方法を試したんでしょう。でも、うまくいなかった。結局ひとりの人間に考えつくアイデアには限界があるからね。だから他の自分に力を借りることにした。過去の様々な可能性――蓮子になることのできる可能性を持つ様々な人間に、どうやってかは知らないけれど秘封倶楽部活動記録を送り、彼女たちを蓮子に育て上げ、メリーと出会わせ、少しずつちがった彼女たちの中でメリーを失わずにすむわたしを見つけようとした。つまり、わたしたちは箱の中の蓮子、実験台として蓮子なの。そうやって自分の運命を変える方法を見つけようとしたのよ」
「蓮子の言うことよくわかんないけど、わたしお腹すいたわ」
何か食べにいきましょと言うメリーに、わたしはため息。
メリーは立ち上がりひとりで先に行ってしまう。
途中で振り返って、メリーが笑った。
「でも、運命、変わったね」
煙草の残り香。
少しだけ甘い。
29
幽霊の出ない深夜の墓場、午前3時。
わたしたちはコンビニエンスストアに、行った。
コンビニエンスストアは夜の光だった。
霊園から少し離れた街角にそれはあった。
アイスのコーナーでアイスを見てると、メリーが言った。
アイスが食べたいの?
ううん、見てるだけ。
あはは、見てるだけって、そんな、動物園じゃないんだから。
わたしはメリーに話しかけられるのがうざいのでATMに逃げて必要のないお金を下ろした。
コンビニエンスストアから出るとメリーは地べたに座ってた。
広い駐車場の片隅であぐらをかいてわたしを待っている。
転がった鉄パイプを足先で弄びながら。
電灯の青い光。
中卒のメリーの夢は、いつかマエリベリー・ハーンじゃない女の子になることだった。それは叶ったんだろうか。わたしは呪いのようにメリーの周りを漂っている。
幽霊になれたらいいのに。
フェンスに背中を寄せるときいきいと鳴った。
メリーはくすくすと笑っている。
「煙草買った?」
「吸わないもん」
「うん」
「でも、買えばよかったかも」
「うん」
「わたしに似合うかな」
「どうかな。蓮子には……きっと」
「メリーは吸ってた?」
「10代の頃ね。楽しい時代だった。精算しなきゃね、いつかさ」
「メリーは煙草を吸わないよ」
「うん。だからやめたの」
「ほんとに?」
きいきいと軋む。
ヘッドライトの光、遠く。
大通りを流れる車の色は、赤だった。
ぱきり。
メリーが鳴らした音は、アイスの割れる音だ。
チョコレートの、プラスチックの容器に入ってるふたつに分かれるやつ。
「蓮子にもひとつあげるわ。あまいから」
「かたい!」
「くすくす。待たなきゃだね。今日は暑いから、すぐよ」
「夏かあ」
「甲子園に行こうよ」
「連れてってくれるの?」
「ばか。ふたりで見に行くのよ」
「野球、好きなんだ」
「阪神タイガーズが贔屓よ。今年は調子がいいから……」
「嬉しい?」
「毎日が楽しいよ」
「うん。ニュースで見るわ。ときどきね」
「マエリベリー・ハーンならどこを応援するかしら?」
「ニューヨーク・ヤンキース」
「ニューヨーカーなの、わたしさ?」
「阪神よりはそれっぽいわ」
「かもしれないね」
「あ……溶けてきた!」
それを吸うと甘い味がする。
チョコレートの、冷たいやつが。
ふわふわと舌の上で溶ける。
「えーわたしのまだだわ」
「きっと体温がちがうからよ」
「あるの? そんなの関係……」
「事実だもん」
「蓮子のちょうだいよ」
「え、いやよ」
「わたしが買ったんだよ」
しょうがないから、パピコの半分のやつをわたしはメリーに渡す。
メリーはそれを見ていた。
「蓮子、噛み癖あるのね。ほら、口先のとこ。子どもみたい」
「うるさいな、文句言うなら返してよ」
「ちう……あ。甘いな。でも溶け具合わたしのと変わんないな。返すわ」
「メリーが待ち過ぎなのよ」
「もっと溶けてからがおいしいのよ」
「いつまで待つつもりなの?」
「水になるまで」
じゃあ、冷たい飲み物を買えばいいじゃん、言ってから後悔した。
メリーがくすくす笑うから。
ねえ、それなら、マエリベリー・ハーンはどれくらい待つの?
あの子にとってはどれだけパピコが溶けたら食べるに値するの。
「もしかして、メリー怒ってる?」
「どうして怒るの?」
「秘封倶楽部なんてものにわたしがメリーを巻き込んじゃったから」
「かもしれないな」
「それならごめんね。もう二度と……」
「やめてよ。もう二度となんて言わないでー、って言ってるわ」
「え、誰が?」
「ハーンが」
「マエリベリー・ハーン?」
「うん。わたしの頭の中のハーンがさ」
中卒メリーの中にはマエリベリー・ハーンが生きている。
彼女のおばあちゃんがそこにいると信じ、中卒メリーのすべてをそうさせたマエリベリー・ハーンが。
「ねえ、蓮子、幽霊は見つからなかったけど、天使には会えたわ」
顔を上げて見たけど、そんなのは見えない。
メリーは笑って、Tシャツの袖をまくって見せた。
ねえ、ほら、飛んでる。
天使。
メリーの肩の上に。
「ハーンって名前なの。やさしくてとってもいい子なのよ。勝手な蓮子のことだってきっと許してくれる」
街灯に照らされて、青色に発光。
天使が笑っている。
変な微笑みだ。
狂った犬みたいに笑っている。
「ねーねーれんこー。れんこがそんなしんぱいすることないわ、だってひふうくらぶなんてとってもすてきじゃない。わたしずっとそうなりたかった。って、ハーンが言ってるよ」
「言ってないよ」
「れんこといるとたいくつしないな。たくさんふしぎなことにであえるんだもん。あんまりふしぎなことをいっぱいみつけてくるから、ふしぎなことをぜんぜんみつけてこないなんてもうれんこじゃないってかんじ! それにね、いっぱいちゅっちゅっしてくれるし、めっせーじをおくってもへんしんおそいし、でんわをしてもおりかえてくれないし、そのくせじぶんはよるおそいじかんにきゅうにでんわをかけてくるし、だいがくのかだいがおわってないってだけでこのよのおわりみたいなきぶんをみせてくれるし……」
「ごめん、怒らないでよ」
「わたしは何も言ってないわ。ハーンが言ってるの。あ、また、なんか言ってるみたい……れんこ、すきだよ。ふしぎをいっぱいみつけてくるれんこがすき。ふしぎをぜんぜんみつけてこないれんこはきらい。だってれんこじゃないもん。ひふうくらぶやってないひとたちはかわいそうね。ひふうくらぶでいるとしあわせよ。わたしたちずっとひふうくらぶでいよ……ひゃあ、冷たい!」
わたしはメリーの肩にアイスを押し当てた。
そこで笑っている天使に。
メリーはくすくす笑いながら。
「つめたい! つめたいってば、蓮子! やめてー」
「あんたは冷たくないわ。わたしはこのむかつく天使にアイスを押し付けてるんだもん」
「あ、蓮子も見えてるんだ、ハーンが」
「そうよ! ふたりでこいつを黙らせよう!」
「あはは。いいアイデア!」
「ねえ、メリー、そこにいて……動かないで……じっとしてて……」
わたしは転がった鉄パイプを拾い上げ、振りかぶる。
「殺してやるから!」
メリーは両方の手を顔の前にかざして。
「ちょ、ちょっと、蓮子やめなさいよ、危ないって!」
「大丈夫。貴方のことは傷つけたりしない。だって、喋ってるのはハーンでしょ。だから……」
「でも、でも、一心同体だもの!」
じりじりと逃げるメリーをわたしは追いかけて、わたしたちはコンビニエンスストアの駐車場を転がるように、月の光の下で、天使を追った。
7歳のある夏の日に、中卒のメリーの肩に降り立って、そこで生きた墨色の天使を。
一周して、また同じ青い街灯の下で立ち止まり、メリーが捲くった肩に天使……笑ってる……なんだかとっても馬鹿らしくなって、やめて、わたしたちは駐車場に寝転んだ。空には星空。満天の暑い夏の季節。時刻は3時25分。
憶えたんだ。星の形で夜の時間が分刻みでわかるように。『秘封倶楽部活動報告書』にはそんなわたしの姿があったから。そうなれるように勉強した。
メリーはくすくす笑う。
「それ、役立った?」
「役立つとかじゃないもの。それがわたしがわたしでいることの証になるの」
「そんなんしなくても蓮子は蓮子よ」
「どうして?」
「だってマエリベリー・ハーンの隣にいるのは、いつでも蓮子でしょ?」
「でも、貴方、ニセモノのマエリベリー・ハーンじゃない」
「そう……。でも、なるよ。7歳の小さなわたしの前に天使が降ってきて、その日から、わたしはマエリベリー・ハーンになることを運命づけられたんだもの」
「悲しい話ね」
「これまではね……だからさ」
「なに?」
「蓮子が楽しいお話に変えてよ!」
そしてメリーはわたしの上に覆いかぶさった。
すぐ近いところに顔が、メリーの髪がわたしに触れて、メリーは……。
わたしの口の中にパピコの先端を突っ込んだ。
わたしがなにひとつ喋れないように、それらすべてがあまりに正しいことであるがゆえにわたしが一言も発せなくなってしまうかのように。
「へ、へりー、ほわい」
「whyって、なんでって、それはもちろん貴方がわたしを選んだからに決まってるでしょう」
「ひがう、はわいって」
「ハワイ? そうよ。わたしはアメリカ生まれのマエリベリー・ハーンよ。暴力で支配するやり方なら慣れてる……。慣れてる」
「はわひぃって、ひって」
「え、かわいい……。照れるなあ。でも蓮子もかわいいわ。特にこうしてわたしに押し倒さちゃって何もできなくなって震えてる蓮子は……」
「ほひい、へ!」
「欲しい? くすくす何をほしいのかしら……蓮子のへんたい」
「ちがう、怖いって、言ってんのばか!!」
メリーを押し返して、向き合って座る格好でわたしはメリーを見つめていた。
静寂。
羽虫たちの街灯に寄り集まるぢぢぢという音。
パピコ。
って、メリーは笑った。
「溶けるまで待ってて。水になるまで。それがいちばんおいしいんだから」
だから、わたしは待っていた。
朝が来るまでコンビニエンスストアの駐車場で、ふたりきり。
通り過ぎる車のヘッドライトの光。
ボディの色は、赤色。
日が昇って星が見えなくなるともう時間がわからなくなる。
わたしがわたしでいる理由がなくなってしまう。
それでも、完璧に溶け切ってしまうまで、待っていた。
右の手にアイスを握って、もう片方の肩に鉄パイプを担いで。
鉄パイプがこんなに重いものなんてわたしは知らなかった。
でも、心地の良い重さだったと思う。たぶん。
やがてメリーは言うんだ。
朝に、こんなことを、こんなふうに。
「ねえ、とけたよ」
あまい――甘い、チョコレート・ミルクの味。
30
中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
31
それは天使。
中卒メリーの肩には天使の入れ墨がある。
”ハーン”と彼女が呼ぶ天使。
7歳のメリーの前に降ってきて、すべてを変えてしまった。
中卒メリーはいつか天使に触れて、マエリベリー・ハーンになった。
ずっと昔の話、わたしに出会うもっと前の話。
32
これは、中卒メリーがマエリベリー・ハーンになるまでのお話です。
33
「溶けるまで待っててね。水になるまで。それがいちばんおいしいんだから」
34
中卒メリーがマエリベリー・ハーンになったのはたぶん彼女のおばあちゃんが死んだその日だった。
中卒メリーの祖母は狂ったまま天使の夢を見ながら死んでいった。
マエリベリー・ハーンの夢。
黒い雪の降る、本物のマエリベリー・ハーンの生まれ育った町で。
でも、彼女が死ぬ時に、彼女のそばにいたのは中卒メリーだった。彼女の隣にいたのはずっと中卒メリーだった。それが、最期まで彼女にはわからなかった。メリーのおばあちゃんは孤独の中にひとりで死んでいったのだろうか。小さな病室。彼女の隣には中卒メリーがいた。誰も知らなかったけれど、中卒メリーはやさしい女の子だった。自分の祖母の病状が悪化してからはずっとそばにいた。祖母の手を握り続けていた。ときどき祖母はその手を握り返した。メリー、メリー、わたしのかわいいメリー、とうわ言のように繰り返していた。
彼女の望みに反してマエリベリー・ハーンになることを拒み、あらゆる非マエリベリー・ハーン的な悪辣を行った中卒メリーは、彼女の終わりになんて言ったんだろう。それはわからないけれど、きっとメリーは、マエリベリー・ハーンのふりをしたんじゃないかとわたしは思う。
わたしのおばあちゃんは最期まで夢を見ながら死んだの、とメリーは言った。
その夢を見せたのは、きっと、中卒メリーだ。たとえ、途中でどんな反抗的な態度をとったしたって、最期にはきっとマエリベリー・ハーンになってしまうんだろう。中卒メリーは、本当はやさしい女の子だ。愛する誰かのためになら、まったくちがう女の子にだってなれてしまう。
メリー、メリー、と彼女の祖母は言った。
なぁに、なぁに、と中卒メリーは言った。
「メリー、メリー、お前はわたしの自慢の孫娘だよ。愛してる」
それが彼女の最期の言葉だった。
死に際にしてはずいぶんはっきりした口調だったとメリーは言う。
そして、彼女の祖母は煙のようにこの世界から消えてしまった。
中卒メリーは涙を流さなかった。ずっとその手を握り続けていた。
「ねえ、おばあちゃん、わたしマエリベリー・ハーンになりたかったし、そうなれたらいいなと思ったよ。でも上手くいかなかったなあ。ごめんね?」
そのとき、中卒メリーの元に天使が降ってきた。
彼女の祖母を天国に連れ去るためだったんだろうか?
ともかく、その午後に中卒メリーは天使に触れてもういちどマエリベリー・ハーンになった。
その日を境に、定時制の高校を辞めて、煙草をやめて、非マエリベリー・ハーン的な悪辣をやめて、幼い言葉遣いをやめて、新しい町で暮らした。
いくつかの仕事を転々としたのち、大学のそばのカフェテラスで働いた。
そうして、中卒メリーはマエリベリー・ハーンになった。
35
でも、わたしは”それから”のお話をしたいんです。
36
だから、わたしは待っていた。
朝が来るまでコンビニエンスストアの駐車場で、ふたりきり。
煙草に火をつけてみる。
「けほけほ」
「くすくす、大丈夫?」
「死んじゃいそう」
「蓮子が死んだらお墓に煙草を供えてあげるね」
「あはは。死因だよ?」
「一気に吸いすぎよ。もっとゆっくり吸わないと」
「ゆっくり、ゆっくり……けほけほっ」
「あはは。それ強いやつでしょ? はじめて吸うには向かないわ」
「煙草なんかどれがどれとかわかんないもの。メリーはどんなの吸ってたの?」
「ピアニッシモ」
「弱く、弱く?」
「うん」
「メリーのやつわたしも吸おうかな」
「同じ煙草とか。わたしのこと好きなの?」
「ばか。でも……メリーみたいになりたいって思うときがある。ときどきだけどね」
「どうして?」
「メリーは強いから」
「しゅっしゅっ。喧嘩はね。けっこう自信あるわ。あ、でも、今は蓮子が鉄パイプ持ってるから勝てないなあ」
「そうじゃなくてさあ」
「なに?」
「メリーのこと、好きだよ」
「うん、知ってる」
でも、きっと、その意味をメリーは知らない。
少なくとも今はまだ。
吸い方を教えてあげる、とメリーは煙草に火をつけた。
煙を吐いた。
街灯の下でそれは青い色をしていた。
メリーには煙草がとてもよく似合っている。
わたしのメリーはみんなのとはちょっとちがうけど、でも、やさしくて強いメリーだから、ほんとはいつもわたしの自慢だ。
37
模造桜が散る。
夜のプラットフォーム。
桜の花びらが月の光に照らされて白色に発光。
まるで天使の羽みたい。
8歳の帰り道でわたしがメリーに出会う少し前に、あの子はすでにマエリベリー・ハーンだった。あの子は天使を見つけたと言う。それから数年わたしが探して結局みつけることができなかったハーンと呼ばれる天使を。その意味じゃわたしが中卒メリーに出会ったその日には、彼女はすべての物語を終えていた。メリーに出会い、メリーを失い、もういちどメリーを取り戻す、秘封倶楽部のために用意されたその物語を。すべてが終わったあとで中卒メリーとわたしは出会ったのだ。
わたしがわたしである理由、あの子があの子じゃないその由縁。
考えてもわからないことは考えない。まるでマエリベリー・ハーンがそうするみたいにね。
だから、わたしはメリーをただ待っている。
中卒メリーは鉄パイプを担いでやってきた。
このプラットフォームまでひとりで。
夏の夜、模造桜の散る中を、中卒メリーは鉄パイプを肩に担いで歩く。少しずつ近づいてくる。舞う桜の中を堂々と歩く中卒メリーは、まるで映画の中から出てきたみたいに、なんだかとてもそれらしい。わたしの横に来て、真剣な顔で言う。
「持ってきたよ。これで安心」
「それ、たぶん、間違ってると思うけど」
わたしが言うと、メリーは弾けるみたいに笑った。
「ほんとに!?」
空の上を光の粒が渡っている。
時折、赤色に点滅。
ひこーき。
わたしの見ている空にメリーも視線を移して、言う。
「戦闘機?」
「きっとアメリカ生まれね」
メリーとおんなじで。
戦闘機は星の瞬く夜を渡って模造桜のひとひらのように消えてしまう。
これ、どうしよう。
メリーは恥ずかしそうに鉄パイプをゆらゆらと揺らす。
わたしは思う。
きっと、中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
だから、わたしたちは、いつか──。
38
これはわたしたちが秘封倶楽部になるための物語です?
39
わたしたちの出会いは戦闘機の形をしていて、別れは象の形をしている。
字義通り。
わたしが捨ててしまうつもりだった『秘封倶楽部活動記録』を残しておいたのは、メリーの方だった。蓮子にとってはきっと大切なものだからと笑った。メリーはそれを折って様々な形に変えてくれた。
ガーベラや猫や犬や東京タワーみたいなものに。
今は、薄暗い夕暮れの下を、戦闘機が飛んでいる。
メリーは野球中継を見ていた。
阪神タイガースと巨人の試合だ。伝統の一戦、と言うらしい。
メリーの贔屓のチームは今年は調子がいい。スポーツのことは何もわからないけれど、メリーの応援するチームが勝つとメリーが喜ぶからわたしもなんとなく同じのを応援している。
メリーは上着でばしばしとわたしのことを何度も叩いた。
「ほーむらん、ほーむらん!三連発!」
ちょっと、痛い、痛いって、とわたしはメリーを抑え込む。
別に自分じゃないぜんぜん他人の結果にこんなにもはしゃいだり悲しんだりできるなんて、意味がまったくわからない。それは他人のお話なのに──。そこまで考えてわたしも同じかもしれないな、と、ふと思った。
秘封倶楽部活動記録。
それはあらゆる意味で、もはやわたしの物語じゃない。それでもメリーの言うように、それは、わたしにとっては今でも大切なお話で、その中にある感情はまるで自分のもののようにちゃんとわたしの中に残っている。こうして目を閉じれば、それが本当にあったかのことにように感じられるくらいに。
メリーと出会ったあの日の喜びやメリーを失ってからの悲しみ。
わたしたちの出会いは戦闘機になり、別れは象になった。
あの物語の続きをわたしは生きている。
だから、これは一度秘封倶楽部を失ったわたしが、また秘封倶楽部を取り戻すまでの物語。
だから、これはマエリベリー・ハーンが、そうではないものに囚われて、もういちどマエリベリー・ハーンに戻るまでの物語。
だけど、もしもわたしたちが本物の秘封倶楽部になったのなら、それらの物語は『秘封倶楽部活動記録』のように、すでにばらばらになってそのはじまりも終わりもわからなくなり、あるいは金魚やガーベラや東京タワーに姿を変えて窓際に佇みながら今も月の光を浴びているんだろう。
40
たとえば、こんなふうに。
41
だから、これは、戦闘機にも象にも東京タワーにもなれなかった、わたしたちの”それから”のお話です。
そんなお話を、わたしはこれからしたいんです。
おしまい
中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
2
中卒メリーがマエリベリー・ハーンじゃないように、わたしたちは秘封倶楽部じゃないのです。
3
だから、これは中卒メリーがマエリベリー・ハーンになるまでのお話であり、あるいは、わたしが秘封倶楽部を取り戻すための物語だということになる。
4
わたしたちは、それを、やり直すために語るんだろうか?
すでに過ぎ去ってしまった様々な出来事を、並べ直して、それらしく見えるようにして、証明するために。
わたしが秘封倶楽部風の文体を失ってしまったのはいったいいつの頃だったんだろう?
幼いわたしの中にはたしかにそれがあった。『秘封倶楽部活動記録』に記されたその文体が。それがあまりに身体的でわたしに近すぎたから、こうして失ったあとでは、もうそれがどんなものだったのかわたしはうまく思いだすことができないのです。
『秘封倶楽部活動記録』の中には今でもそれが残っている。でも、今のわたしにとってその文字列はなんだか魔法の呪文ようにさえ思える。昔は知っていた。そこにある連結も文脈も、自分のもののように扱い理解できたのに、今では、見えない。
遠い町では煙が上がっている。工場の煙。黒い雪の降る町に住んでいたとメリーは言うのです。それは小さな田舎町で、大きな自動車工場があって、その煙突からは日がな煙がもくもくと上がり続けていたから、雪が降るときは黒く濁る。
それはマエリベリー・ハーンが生きていた町、中卒メリーが育った町。わたしの知らないメリーの故郷。
きっと、そんなものたちを記すために8歳からの十数年を秘封倶楽部風の文体を憶えるためにわたしら過ごした。そして、大学に入学しメリーに出会えずひとりで暮らした数ヶ月の間に、その文体をばらばらにしてしまった。
そして、それからは?
やっぱり、わたしは、それを、もう一度やり直すために語るんだろうか?
5
だから、これは、”それから”のお話です。
8歳の学校帰りにマエリベリーに出会い、空想の中でメリーと暮らし続けたわたしがマエリベリー・ハーンを失ったそのあとの物語。
6
中卒メリーは鉄パイプを担いでやって来た。
午前一時半、墓場行き急行に。
墓場行き急行は海底を走る。みたいな感じ。
くらり、くらり、と揺れているのです。
暗いトンネルの中。
中卒メリーが足元に転がした鉄パイプは凶器だった。
両方の足で踏んでころころと転がして――きっと隠しているつもりなんだろうか。
猫のように無邪気な鉄パイプを演じさせている。
向こうの窓ガラスに映るメリーの表情。
恥ずかしそうに微笑んで。
くすくすと笑いながら、こんなこと言うんだ。
「わたし、間違えちゃったね」
電車が揺れている。
わたしたちは知らない場所へと運ばれていく。
メリーの足元で、鉄パイプが、からからと鳴っている。
7
たぶん、中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
その意味でわたしたちは秘封倶楽部ではない。
わたしは中卒メリーについて、彼女の発生や性質、あるいはその微細な態度まで秘封倶楽部的に語ることができると思う。中卒メリーが中卒メリーであることについて、それがまるでこれからわたしたちの間に幾度となく現れることになる奇怪な現象のただひとつのように、わたしは語ることができる思うし、メリーとそのことについてアイスコーヒーの中の氷が溶けてしまうまで何時間だって議論することができるような気がする。中卒メリーはマエリベリー・ハーンのひとつのパターンに過ぎないといったようなことをメリーは主張し、わたしはタイム・パラドクスに関するいくつかの議論を例に出して反論する。
この大学に通うたくさんのマエリベリー・ハーン。それにそっくりそのまま付随するように、まるきり同じ数のわたしたち。この世界には30人のマエリベリー・ハーンがいて、それと同じだけの宇佐見蓮子が存在する。
でも、わたしのメリーはみんなのとはちょっとちがってる。頭だってそんなによくないし、そもそも大学に通ってさえいないし、手の指もなんだか長い。そのせいだろうか、指笛がとても上手でわたしを遠くから呼ぶときなんかに、吹いたりする。中卒メリーの長い人差し指は、彼女の楽器なのだ。
そもそも本当のところ、あらゆる意味で、中卒メリーはマエリベリー・ハーンではない。それをマエリベリー・ハーンと同一視するにはあまりにも齟齬が多すぎる。それをメリーだってするなら、そこらを歩く野良犬だってメリーで別にいい。犬のマエリベリー・ハーンだっているかもしれないじゃない、ってメリーは言う。メリー犬、メリケン、アメリカ生まれだねわたしと同じで、とか、ひとりで言ってくすくす笑う。別にメリーが犬であってはいけない理由はないけれど、それと同じくらいに犬がメリーでなければならない理由もない。
わたしは犬を飼うことにする。そいつにメリーって名前をつける。朝と夜にご飯をあげて暇な時には撫でてやって休日には公園でフリスビーとか投げて遊ぶ。ほら、メリー、メリー、取ってこい、ほら、行けってば、あはは、メリーは馬鹿だなあ、とか言ったりする。たぶん、メリーが先に死ぬ。十年後にわたしは泣くだろう。もうここにはいないメリーのことを思って。犬のメリーと宇佐見蓮子の秘封倶楽部物語は、きっと寂しい物語になるんだろう。マエリベリー・ハーンを見つけられなかったわたしと、とりあえずメリーと名付けられた犬っころ。まるで直交するふたつの直線のように、はじめからわたしたちはまったく別の軸に立っていて、傍目には通じ合うように見えても三次元的角度から眺めれば、なにひとつ交わるところがない。そのくせ別れだけはきっとこんなにも悲しい。だからメリーは犬じゃない。
結局のところ、中卒メリーについて語ろうとすることが、ぜんぜん中卒メリー的な態度ではない、ということなのだろう。
中卒メリーはありのままに受け入れることで生きている。起こりうるすべてのことを、当たり前も不思議も、ただ単にそれがここに起こったという理由で、すべてをそれはそうだと納得してしまう。もし、秘封倶楽部として何かを語ろうとするなら、起源を遡ることは必須事項だ。この世界にある既存の理論によっては解明できない怪奇、その真実に迫ろうとするのが秘封倶楽部的な態度だといってもいい。
もしも、わたしたちが本物の秘封倶楽部であるならば、中卒メリーが中卒メリーであることはできない。
そのふたつはアマゾンの奥地とヒューストンの電光市街くらいに隔たっている。ある面では同様のものが互いに見いだせるといったような構造学的反論はちょっと受け付けられない。メリー曰く。
「ねえ、蓮子、アマゾンとヒューストンはぜんぜんちがうわ。だって、ヒューストンに、サメとかいないじゃん!」
そもそもアマゾンを象徴的に語るのにサメという生き物が適しているのかどうか、それはずいぶん怪しいところだけれど、つまり、それが中卒メリー的な態度だということだったのだ。つまり、とてもシンプルに、別種のものは単に別種である。
そう、わたしのメリーは他のメリーたちとはちがってる。頭もそんなにはよくないし、そもそも大学にも通ってないし、議論を成立させる集中力も足りない。「あ、ねえ、でも、アメリカでサメを見たわ。空、飛んでたの」ヒューストンではサメはモニターの電光の中を泳ぐらしい。
だから、わたしが中卒メリーについて秘封倶楽部のように語ることは決して叶わない。
わたしたちが秘封倶楽部であるとき、中卒メリーは中卒メリーじゃない。
あるいは、中卒メリーがマエリベリー・ハーンがじゃないのとおんなじくらいに、わたしたちは秘封倶楽部じゃない。
それは壺と女の騙し絵のようなものだ。白と黒、影と光。ふたつはキャンパスの上でそれぞれを相補しあい、こっちを見れば、あっちが見えなくなる。
そして、結局のところ、わたしにとってメリーとは中卒メリー以外にありえないのだった。
わたしのメリーは人のとはちがうけど、でも、わたしの大切なメリーだよ。たとえそのせいで永遠にわたしたちが秘封倶楽部になれないとしても。
だから、まずはそこからはじめようね。
8
8歳の頃、小学校からの帰り道に、わたしはメリーを拾った。
『秘封倶楽部活動報告書』
そんな名前の本だった。
その本にはわたしのことが書いてあった。わたしの未来のこと。これからわたしに起こることが日記のような形で記されていた。わたしが大学生になるところからはじまり、秘封倶楽部というサークルを結成し、この世界にある怪異を解き明かしていく。そんなお話。
本の中には、メリーがいた。
本の中でメリーはわたしのいちばんの親友だった。
わたしたちはいつも一緒に過ごした。色んな場所にふたりで行って怪異を解き明かした。わたしたちにはそれぞれに固有の秘密があり、お互いだけがそれを了承していた。
その日記のような物語を読み終える頃には、わたしはすっかりメリーのことが大好きになっていた。8歳のわたしにとってメリーはたったひとりの親友だった。まだ、出会ったこともないのに。
メリーのことをいつも考えてた。
本の中でメリーのことは”マエリベリー・ハーン”という名前としてしか記述されていなかったので、いったいどんな姿をしたらどんなふうな女の子なんだろうって、ひとりでずっとそのことばかり考えてた。
本の中でわたしたちは二人でたくさんのことをした。
8歳のわたしの頭の中で、わたしたちはそれ以上のたくさんのことをした。
わたしの行く場所にはいつもメリーがいた。
学校の帰り道も、校舎の渡り廊下でも、遠足に行くときも、メリーはいつもそばにいてくれた。
ふたりで、育った。
大きくなってわたしは本の中のような宇佐見蓮子になり、メリーはいつのまにかわたしのまったく知らないメリーになっていた。
9
『秘封倶楽部活動記録』に書いてあるわたしの最初の講義、メリーとわたしが出会うことになるその講義の教室は、その本を大切そうに抱えた30人のわたしで埋め尽くされていた。
30人のわたしに対して、29人のメリー。
こんなことはあの記録にはちっとも書かれていない事態だった。わたしは混乱した。混乱しているうちに、メリーを見つけ損なった。他のわたし――蓮子たちは、みんないつのまにか各々のメリーと一緒になっていた。
ねえ、メリー実はさ、わたしひとつアイデアがあるの……。
そんな声が教室のそこらじゅうから聞こえてきた。もちろん、その先をわたしはよく知っている。だってそれはわたしが本の中で何度も読み、頭のなかで何百回も繰り返し唱え続けた言葉だったんだから。
「メリー、わたしたち秘封倶楽部になろうよ!」
わたしにはメリーがいない。
どうして他のたくさんのわたしにはメリーがいて、わたしにだけはメリーがいないんだろう。わたしは何か間違ってしまったんだろうか。そんなことばかり考えて悲しくなった。部屋に籠もってあんまり大学にもいかなくなった。ときどき講義に顔を出すとわたしの取った講義はもちろん別のわたしたちも取っていたから、たくさんのメリーとわたしに囲まれて、わたしはひどく孤独な気持ちになった。メリーとわたしがなにやらくだらない話をしながら笑っているのを見て、泣きそうになった。講義を抜け出した。でも、講義をサボるのはわたしたち、つまりわたしとメリーにとっては日常茶飯事で、だから講義じゃない場所にもたくさんのわたしたちがいた。
いちど階段の踊り場でなにやら近い距離でひそひそと話しているわたしたちを見たことがある。そこを通るわけにもいかず、陰から眺めていたら、ふたりはキスをした。それはほんのひとときのことだったのに、まるで永遠のようにわたしには感じられた。こんなのわたしたちじゃない、とわたしは思った。こんなふうにちゅっちゅするわたしたちなんて間違ってる。わたしたちの本質はこの世界にある怪異と向き合いその秘密を解き明かすことであり、こんなちゅっちゅっの快楽に溺れてるようではこの世界の”秘密”にはいつまでたっても辿り着くことはできない。
だからあのわたしたちはニセモノだと思った。 『秘封倶楽部活動報告書』に記されているわたしたちではない。その真似事をしているだけだ。その意味じゃ、わたしにメリーがいないことはいいことなのかもしれない。少なくとも他の29人の蓮子とわたしは違っている。それは、わたしこそが本物の蓮子だという証明じゃないだろうか。メリーがいないこと、それはすべてのわたしの中で、わたしだけが体験できる怪奇。だからわたしのメリーは特別な本物のメリーなんだ。今はまだ現れていないけれど。
逃げるようにアパートに帰ってからそんなことを考えた。ずいぶん泣いたあとのことだった。
わたしにはメリーがいない。それでもわたしが蓮子であり続けるためには、理由が必要だった。それが、砂のお城のような触れたら崩れてしまう理由でも。
10
中卒メリーは鉄パイプを担いでやってきた。
午前一時半、墓場行き急行に。
墓場で起こる怪奇の謎の解き明かすのに、鉄パイプはたぶんいらない。
「ごめんね。ゾンビとか出るかなとか思って……」
わたしたち秘封倶楽部の活動っていうのはそういうフィジカルなやつじゃなくて、もっと象徴的なやつなんだってこと、メリーに言ったってしょうがない。こうして一緒に着いてきてくれるだけできっと嬉しい。こうやって他のわたしたちが気にもとめないような小さな怪奇を探してふたりで丁寧に向き合い続ければ、いつかはこんなメリーも秘封倶楽部風の女の子になるかもしれない。
ならないかもしれない。
どっちにしたって、間違っちゃったものはしょうがないよね、って。
人のほとんど乗っていない時刻とは言え、周りの目も気になるんだろろう、メリーは恥ずかしそうに鉄パイプを足で転がしている。
「これ、猫だったら、いいのにね」
「猫? なんで?」
「猫だって電車にいたら違和感あるけど、かわいいからみんな許してくれるもの」
「まあ、そうかもね」
「大丈夫。誰かに怒られたらちゃんと言うからね。ほんとはかわいい猫のつもりだったんです。間違って持ってきちゃったんです」
「絶対許されないと思うけど」
「どうして? こんなにかわいいのに……」
「だって、凶器じゃない、それ」
「蓮子、蓮子、見て」
「なに?」
「見て、ほら、猫がいるわ。かわいいね。足にすりすりしてるわ」
「馬鹿じゃないの?」
「にゃあ」
「どうしたの?」
「って、言ってる」
「言ってないよ?」
ほら、ほら、聞いててね。
メリーは足の上に乗っけて、落とした。
からんころん、とメリーの足元で鉄パイプが鳴いた。
11
中卒メリーの人生は、いくつかの取り違えによって支配されている。
アメリカ生まれの彼女を、いつかマエリベリー・ハーンという名前の女の子に変えてしまったのは、彼女のお婆ちゃんの孤独と狂気だった。中卒メリーは6つの歳までアメリカで育った。両親や生まれ育った土地のことはあまりよく憶えていないと言う。幼いメリーにとってはやはり不明瞭な理由によって、彼女は日本に住む祖母のもとに預けられることになった。メリーの祖母はその頃にはとっくに気が狂っていた。頭がおかしくなってた。早いうちに夫――つまり中卒メリーの祖父に先立たれ、夫婦で流されるように住み着いた知らない田舎町の片隅で孤独に暮らすうちに、頭の中の遠い記憶が白昼夢と混じり合いながらばらばらと崩壊し、もはや自分がわからなくなっていた。
彼女の広くて寂しい一軒家の近くには巨大な自動車工場があった。工場には高い煙突があり、そこから朝も夜も止むことなく煙が上がっていた。だからその土地に降る雪は黒いのだと前にメリーが教えてくれたことがある。そんな町の小学校に中卒メリーは通うようになり、それとまったく同じ瞬間に、別のメリー、『秘封倶楽部活動記録』に記された正しい意味でのメリーも同じ学校に通った。
中卒メリーの人生を支配するのは取り違えである。彼女の祖母は狂っていた。彼女の隣の家には同じような、しかし健康的な老婆が住んでおり、老婆は異国に住む孫娘について彼女によく語ったものだった。孫娘はマエリベリー・ハーンという名前の年のわりに聡明な少女で、大好きなおばあちゃんによく手紙を寄越してくれ、一家の教育方針によって7歳になったあかつきには祖母の元で暮らすことになっていた。すでに狂気が脳みその中枢まで溶け込んでいた中卒メリーの祖母は、マエリベリー・ハーンのことを自分の孫娘だと信じた。
中卒メリーのほうが先にやってきた。新しい家で中卒メリーは徹底的に無視されていた。ほとんど存在しないものとして扱われた。もちろん、物事の外面だけを語ろうすれば、中卒メリーはとても可愛がられたのだ。彼女の祖母は中卒メリーのことを溺愛した。その祖母に許される半径に存在するものは、おおよそすべて、中卒メリーに与えれた。でも、それは本当は中卒メリーに対して注がれた愛情ではない。彼女が愛していたのは隣家の孫娘であるマエリベリー・ハーンその子であり、だから、彼女は中卒メリーの中のマエリベリー・ハーン的ではない全ての部分に向き合おうとはしなかった。そして、悲しいことに、それは中卒メリーを構成するほとんど全ての部分だった。
少しあとでマエリベリー・ハーン本人もその土地にやって来る。中卒メリーとマエリベリー・ハーンは同じ学区の同じ小学校に通うようになる。彼女たちはすぐ近いところに存在したが、関わり合うことはなかった。彼女たちが異国の少女であり、似たような来歴を持っていること、それは単なる偶然であり、何も符牒もない純然たる事実の羅列である。しかし、中卒メリーの祖母にとってはそうではない。狂った彼女にとって自分の孫娘はマエリベリー・ハーンでしかありえなかった。マエリベリー・ハーンは聡明で、無邪気な、良き少女である。中卒メリーの祖母にとって、ふたりの善行はすべてマエリベリー・ハーンのものであり、一方でその悪辣は中卒メリー――マエリベリー・ハーンに取り憑いたと彼女が信じた悪魔の所業だった。やがて、その歳のこどもにとっては当然の反発心により、中卒メリーはあらゆる反マエリベリー・ハーン的行為を行うようになる。中卒メリーは9歳にして不良少女であり、14歳には肩に天使を飼いはじめた。いつだったか、そのタトゥーをメリーは見せてくれたことがある。あまり造形のよくない小さな天使だった。ハーンだよ、と彼女はくすくす笑った。良き天使なんだ。わたしの中には天使がいる、そうやってお婆ちゃんは言ったの。もちろん、それは彼女流の皮肉なんだと思う。彼女の祖母にとって、自分の孫娘はマエリベリー・ハーンであり、中卒メリーそのものがマエリベリー・ハーンに取り憑いた悪魔だったのだから。
メリーの16の歳に彼女の祖母は死んだ。最後まで夢を見ながら、この世界から煙のように消えてしまった。メリーは定時制の高校を辞めて、町に出て、働きはじめた。職を転々とし、やがて小さなカフェテラスのウェイトレスに落ち着いた。
そんなふうにしてメリーは中卒メリーになった。
12
「ねえ、わたしマエリベリー・ハーンになりたかったし、そうなれたらいいなと思ったよ。でも上手くいかなかったなあ。ごめんね?」
13
だから、わたしは”それから”のお話をしたいんです。
14
「でも、別に強制するとか矯正するとか、そういうんじゃないの。メリーはメリーの好きなように生きてほしいし……こうやって一緒に来てくれるだけでも嬉しくて、そりゃあ子供の頃からずっと憧れてたから秘封倶楽部はわたしの夢よ。でも、そのせいで、メリーに苦しんでほしくはないし、だって、友だちだもんね、わたしたち。それ以前に。だからこういうの嫌なら帰ってもいいのよ? わたしがメリーを無理やりメリーにしようとしちゃってると感じるなら、帰っても……」
夜の霊園をふたりで歩きながらわたしの喋る言葉は全部言い訳みたいだ。
メリーはくすくすと笑っている。
「こんな怖いところからひとりで帰そうとするなんて蓮子ってひどいね」
「そんなこと言ったって……」
「わたしのことになると蓮子ってなんだか蓮子じゃなくなっちゃうみたい。もっと断定していのよ。貴方はメリーなのよ。マエリベリー・ハーンよ、マエリベリー・ハーン。ほら、だんだんその気になってくる、貴方はメリー……メリー」
「なにその催眠術みたいなやつは」
「オカルトだもの。どう、秘封倶楽部っぽい?」
「ぜんぜん」
いつでも”取り違え”が彼女の人生を彼女の予期しないところに連れて行く。マエリベリー・ハーンがたくさん住むこの町で、中卒メリーはわたしに出会って、再びマエリベリー・ハーンに戻ろうとしている。
わたしは、メリーが、ひどく物理的の距離の近いことによってかえってマエリベリー・ハーンにはなることのできなかったこの中卒メリーが、『秘封倶楽部活動記録』に記されたマエリベリー・ハーンのようになってしまうことを、きっと望んでいる。
15
夢を見る。
黒い雪が降っている。
貴方が貴方がある理由、わたしがわたしだったことのその名残。
街角には天使が潜んでいる。それを探してわたしは彷徨い歩く。切れかけた電燈の光、かちかち、かち、と最後の電波のように鳴っている。今夜、すべての放送が停波すると言う。最後の電波は、犬について喋っている。「メール、けっこう集まってきてますね。えーと、なんて読むんだろう、さんかな?……こんにちは。わたしは犬は笑うと思います。実際、わたしの飼ってる犬は怒られてる時へらへら笑うんです。かわいいんですけど、そのときばかりはちょっとむかつきますね。……あーいますよねえ、怒られてる時へらへら笑っちゃう人、わたしの後輩にもいてぇ、なんか別にバカにしてるわけじゃないらしいですよ。反射? 防衛本能っていうやつのかなぁ、なんかそういう、ふふ、そういうやつじゃないかな、って、思うんです……ああ、暑い……空調壊れた話は先週しましたよね、修理……まだ来てないらしくて、なんか型が古くて部品がなくて、ここは暑いし、笑えないね……」
そういえば、天使は帽子を被っていると言うのです。それはどんな類の帽子だろう。シルクハットとかだったらなんだかやだな。病院の光。気がつけば、吸い込まれるようにしてわたしはその前に立っていた。古い大きな総合病院だ。急患を受け入れるために夜でも灯りがついている。わたしはそのガラス戸に触れてみた。氷のように冷たい。そっと押して開いた。天使だ。天使だった。受付のところに幼い少女が立っている。帽子をかぶってた。変なやつ。くしゃくしゃになった洋菓子みたいなやつ。マエリベリー・ハーンの被ってるやつ。あんなのどこに売ってるんだろう。天使だったら生成だってできるだろうが……。メリー風の少女は微笑んでいた。それから帽子を脱いで、わたしにくれた。
「これが、わたしがわたしである理由。あげるね。今日から貴方がメリー!」
わたしはその帽子を受け取った。逆さになった帽子の中にはキャンディーが入ってた。キャンディーが4つ。赤と赤と白と緑の包装。
次に気がつくとわたしはパチンコ屋の駐車場にいた。古い、もう誰も寄り付かないようなパチンコ屋だ。キャンディーが手の中に残っていた。そのひとつの包装を解いてわたしは口の中に入れてみる。味はわからなかった。そこで夢から醒めてしまったから。目が醒めると喉が渇いていた。コップの中の水道水を2杯飲んで、それから夢について思い出そうした。最後の電波、病院、天使。結局、その味を知らずに終わってしまったキャンディー。それはいったいどんな味だったんだろう。
でも、それは、予め失われてしまっていた味だった。
時刻は夜の二時半。
メリーに電話をした。
16
「どうしたの、蓮子? こんな時間に……」
「メリーの夢を見たの」
「実はわたしも蓮子の夢を見てたわ」
「え、ほんとに?」
「うん。深夜二時半に蓮子が電話をかけてくるの。こんな時間に何の話だろうと思って、眠いし、明日は早番なのに、課題が終わらなくてつらいようみたいなくだらない用事だったらきっと殺してやろうと思って電話に出たら、蓮子が喋る前に夢が終わっちゃった。で、何の話なの?」
「あの……えと……」
「当ててあげよっか?」
「え、わかる?」
「課題が終わらなくてつらいのよね」
「ちがう」
「じゃあ、なんかまた変なこと思いついたの?」
「じゃなくて、じゃなくてね、メリーの夢を見たから」
「それで?」
「それで……なんとなく」
「え、わたしのこと好きなの?」
「なんでそうなるの!」
「だって普通夢で見たからって電話かけないよ」
「たしかに……好きなのかもしれない」
「くすくす、なんでよ。どんな夢見たの?」
「よく憶えてないけど、小さなメリーが出てきて帽子をくれるの。中には飴が入ってる」
「それって、大学のメリーさんたち? それとも、わたし?」
「わかんない。ちっちゃいメリーだったから。昔のメリーをわたし知らないな」
「たしかにね。でも、それならなんで、わたしだと思ったわけ?」
「夢だから? あ、帽子がメリーの帽子だったからかも」
「じゃあ、わたしじゃないのね。メリーさんたちが被ってる帽子、わたしは持ってないもの」
「うん。ああいうのどこで買うのかな」
「そういう店」
「どういう店?」
「ああいう帽子がいっぱいある店」
「どこにあるの?」
「さあ……。遊園地とか?」
「なんで、遊園地?」
「メリーランドみたいな。たくさんメリーさんがいて、メリーさんグッズとか売ってるの。メリーさんたちが着るようなああいうふわふわの服とか。秘封倶楽部体験アトラクションとかもあるよ。きっとメリーさんはそこからやってきたのね。みんなキャストだよ。夢の国ね。たぶん蓮子さんたちしか行かないけど。蓮子さんたちはみんなメリーさんのことが好きだから、会いに行く」
「なんか夢の国っていうか、キャバクラみたいね」
「くすくす、そね。ともかくわたしじゃないメリーさんの夢なら、ほかのメリーさんに電話をかけるべきだったわね」
「わたしの電話できるメリーってメリーだけだもん」
「うん」
「あ、メリーはパチンコやったことある?」
「うん、昔ね。けっこうやってたわ」
「夢にはパチンコ屋も出てきた。だからやっぱりメリーだったのかも」
「そうなんだ。予知夢かもね。今度パチ屋いっしょに行ってみようよ。北斗無双の7とか打と?」
「北斗って北斗の拳?」
「知ってる?」
「世紀末の……お前は二秒後に必ず死ぬ!みたいなやつでしょ?」
「ま、そうね」
「勝てた?」
「なにが?」
「やってた頃、パチンコ」
「きっと車が買えたな」
「そんなに? すごいね」
「負けたお金でよ」
「まじで? 馬鹿じゃない」
「あはは。そう、そう」
「夢の国?」
「帰りはいつも寂しいものね」
「ごめんね。こんな時間に」
「そうよ。まあ、いいけど」
「おやすみ。明日お仕事がんばってね」
「うん。おやすみ、おやすみ……」
ぷち。
つーつー。
17
カフェテラス”良き犬たちのための天国”には、たくさんのメリーたちがいる。
そこはわたしたちが待ち合わせやオカルトに関する議論やもっとくだらない話をするのに、よく使うお気に入りの場所だった。『秘封倶楽部活動報告書』にそうやって書いてあるのだ。だからわたしたちはそうした。わたしたち――つまり、わたし以外の蓮子とメリーたち。
わたしはそのカフェの周辺を意図的に避けるように暮らしていた。できる限り、ニセモノのわたしたちには会いたくなかった。
でも、その午後に、はじめてわたしは”良き犬たちのための天国”で過ごしていた。『秘封倶楽部活動報告書』によればこの午後に、わたしたちある怪奇の噂を手に入れ、それを解明するために少し離れた町まで出征する予定になっていた。だから今日は別のわたしに会わずにすむと考えていた。
わたしはコーヒーを飲んで待ってた。
わたしのメリーを。
ここで出会える理由なんか知らなかった。
でもここで出会えたらいいなと思ってた。
それはなんだか運命的な出会いじゃないだろうか。ホンモノのわたしたちにおあつらえ向きの、他のわたしとメリーとはちがう、わたしたちだけの特別な出会い。
その店内にはカフェのウェイトレスがひとりいるだけで、あとは空っぽだった。わたしの予想したとおりだ。わたしがメリーに特別な出会いを果たすのには申し分ない映画の中みたいな静かな午後。
コーヒーを9杯とサンドウィッチを2つ、クッキーを18切れ、あくびを27つ、読み進めた本のページが31ページ、時計の長針が185回倒れた。まだメリーはやって来ない。追加のコーヒーを持ってきたウェイトレスがわたしに話しかけてきた。
「ふふ、メリーさんを待ってるんですか?」
「え」
「お客さん蓮子さんでしょう。たくさん来るから覚えちゃったんですよ。たまに話もするし。でも不思議ですね。みんな同じ蓮子さんみたいなのにたくさんいるですもん」
「流行ってるのよ、こういうスタイルが。みんな真似事をしてるだけですよ」
「でも蓮子さんもやってるじゃないですか」
なんのつもりだろうと思ってその女を見返すと、彼女はいたずらっぽい笑みをたたえている。不快な笑みだ。まるで蓮子といるときにメリーが見せるような笑顔。わたしじゃないわたし宛のメリーの笑顔。
彼女はわたしの前の席に座った。
「なにしてるんですか。こんなふうにお客さんと話してていいんですか。仕事中でしょう」
「いいんです。今日は店長もいないし、ワンオペだから。復讐です。暇なんですよ」
「それは大変ね。でも悪いけど、どいてよ。本を読むのに邪魔ですから」
「でもさっきからぜんぜんページ進んでないですよ」
「何が言いたいんですか?」
彼女は笑った。
またあの笑顔だ――わたしの嫌いな、見たくないメリー風の笑い方。
「お客さん、なんだか寂しそうなんですもん」
「余計なお世話です。いつからこのカフェは精神分析をサービスするようになったの?」
「ふふ。いつからって、お客さん、今日が来るのはじめてじゃないですか」
わたしは赤面してしまう。
このウェイトレスの女にはわたしとわたしの区別なんてついていないんだろうと思って、まるで常連の蓮子のふりをしていたのに、それが見透かされているなんて。まるでわたしがニセモノの蓮子だっていうことを、指摘されたような気持ちだった。
でかい扇風機みたいなやつが、天井で、くるくる回ってる。
オーブンの中で焼かれるアップル・パイみたいに、時間がわたしをじりじりと焦がしてしまう。
「ねえ、メリーさん、来ませんね」
「うん、そう……」
わたしは曖昧に誤魔化す。何かを喋れば喋るたび、それがほころびになって、わたしにメリーがいないことが、本当はわたしがニセモノの蓮子だっていうことが、彼女に暴かれてしまう気がしてた。はやくここから逃げ出さなくては。遠い場所へ。誰もわたしとメリーのことを知らない場所へ。微笑み、笑ってる……彼女がメリーみたいに微笑んでいる。
「それにしても珍しいですよね。メリーさんが遅れてやって来るなんて。だって、いつも遅れてくるのは、蓮子さんだって決まってるのに――」
か、いけい、会計、会計してくださいもう帰るから、零れだすみたいに言葉があふれて、逃げ出すみたいに財布を持って立ち上がると、からんからんとベルが鳴った。
メリーがやって来た。
わたしのメリーじゃないメリーだ。わたし似た、わたしじゃない蓮子とふたりで、何やら熱を込めて話しながら、ドアを開いてこのカフェテラスの中に入ってくる。
いらっしゃいませえ、と間延びした声でウェイトレスの女が言う。だからふたりはこっちを見て――。わたしは椅子の背に隠れるみたいにしゃがみこんだ。バレてしまう。暴かれてしまう。怪異の正体が明るみになるように、わたしが本物の蓮子じゃないことが、メリーとわたしに確かめられてしまう。まるでわたし自身がひとつの怪異になり、それを、わたしじゃないわたし、わたしのじゃないメリーに暴かれて、ふたりの活動報告書の一ページになってしまうみたいに。ウェイトレスが女の子が喋っていた。
「あ、メリーさん、蓮子さん、こんにちは。来てくれてうれしいです。今日はお客さんが来なくて、ひとりで退屈してたんですよ。だからさっきも仕事なんかしないでずっと本を読みながらクッキー食べてコーヒーを飲んでてね。あ、そうだ。おふたりが好きそうな話があるんです。えーと、あ、これ、このハンカチなんですけど。夜になると変身するんです。夜にふと目を覚ますとこのハンカチが不思議な形に折りたたまれて、宙をふわふわと飛んでいるんです。昨日は鳥、一昨日は蝶々だった……。不思議じゃないですか? ほら、これ、きっとおふたりなら、どうしてこんなことなってしまうのかわかると思います。どうですか、暇つぶしに」
椅子の背に隠れてわたしは彼女の喋る言葉を聞いていた。まるでこの場所からわたしが消えて失くなってしまったみたいだ。実際、もう消えちゃったのかもね。だって、ウェイトレスの女の子が言うことには、さっきまでわたしがいた場所には彼女がひとりいて、わたしはどこにもいないんだから。消えてしまったと思うと安心する。なくなったら落ち着く。わたしはもう誰にも見つからない。
でも、彼女は椅子の後ろで小さくなったわたしのところまでやって来て、腰をかがめてわたしのことを見ていたのだ。
そして、笑った。
「おいで」
彼女はわたしの手を引いてカウンターの後ろまでわたしを連れて行った。もうひとりのわたしとメリーは彼女の手渡したハンカチに集中していてわたしには気が付かない。
カウンターの後ろにわたしは座り込んだ。
ちょっと待っててね、とウェイトレスの女の子が微笑む。彼女は別の蓮子とメリーのところに行って注文をとり、わたしの見上げる場所でコーヒーを淹れていた。3つ分。それからしゃがんでわたしにコーヒーをくれた。
彼女はお盆に乗せたコーヒーとサービスのクッキーを別のわたしたちのところに持っていき、なにやら笑いながら話しこんでいた。その声が聞こえてくる。わたしは座り込んだまま彼女を待っていた。そうする他になかったのだ。夕暮れの赤い光がさしこんで、わたしを茜色に染めていた。コーヒー豆のたくさん混じった不思議な匂いがする。彼女の淹れてくれたコーヒーのマグカップが温かい。飲んだら、苦かった。砂糖とミルクも入ってないのだ。少しずつ飲み、ぬるくなった頃に、やっと彼女が戻ってくる。彼女がわたしの横に座るから、わたしは彼女を見て呟く。どうして? 彼女はまた微笑んだ。小さな笑顔。あんなにも嫌だったのに、今は見ると安心する。かすかな声で彼女は囁いた。
「だって、貴方は蓮子さんとメリーさんを見たとき、びっくりするほど怯えた顔をしてたもの。だから見つかりたくないんだと思ったんです。逆にどうしてなんですか。何か彼女たちに悪いことでもしたんです?」
「そうじゃなくて……わたし、ただ」
「あ、わたし知ってますよ。ドッペルゲンガーってやつでしょう。もうひとりの自分を見たら消えちゃう!ってやつ。くすくす、不思議。どう見たって貴方のほうがドッペルゲンガーみたいに、貴方はこんなにも怖がってる。ふつーはドッペルゲンガーのほうが、堂々と構えてるものなのにね」
「ちがうの。わたし、ただ、彼女たちに会いたくなくて……」
「わかりますよう。だってドッペルゲンガーだからじゃないですか。でも、怖がらなくてもいいんですよ。大丈夫、ここにいればきっと見つかりません。わたしが守ってあげます。ドッペルゲンガーさんはひとりで寂しいわたしの暇つぶしの相手になってくれた、だからこれはお返しです」
なんていえばわからずに、ありがとう、とだけわたしは言った。
それからわたしは、4杯のコーヒを飲み、2つケーキを食べて、147回時計の長針が倒れるのを見て、5回あくびをして、1度だけ夜が来て、18回メリーの足を避けた。
そしたら、彼女が屈んでわたしに、笑った。
「もう、出ても大丈夫よ」
ずっと狭いところに座っていたから、立ったら、くらついた。
メリーが支えてくれた。
ありがとう、って、わたしは言った。時刻は8時すぎ。外は薄暗い。わたしたちの他に誰もいないカフェテラスの中は、なんだか寂しかった。
ねえ、片付け手伝ってよ。ウェイトレスの女の子が言うから、わたしはお皿とマグカップを洗った。冷たい水。カフェの中を掃除している彼女を見ていた。彼女は振り返り、また笑った。
それが、メリーみたいな笑顔だった?
わたしは今ではメリーの笑顔よりも彼女のそれのほうをよく知っているので、それがメリーのものだったかどうか、もうわからない。だから、彼女の笑うところを見ても、寂しい気持ちにはならなかった。わたしも笑った。
「ねえ」
「なぁに?」
「つめたい!」
「お湯、でるよ」
「え、まじ」
「あはは。まじまじ。蓮子さんってけっこー抜けてるんですね」
お店の片付けが全て済んでしまうと、わたしたちはそこを出た。
彼女が鍵を締めるの見ていた。
もうすっかり夜だ。星が綺麗だった。
今日はありがとう、と彼女が言ったけど、お礼を言うのはわたしのほうだった。
ケーキとコーヒーもおごってもらっちゃったし。
「今日はありがとう。そうだ、名前、聞かせてもらってもいいですか。こんなにいろいろしてもらったのに、わたし、貴方の名前も知らなくて」
彼女は笑った。
いたずらっぽい、くすくすと笑う彼女に固有のやつ。
「メリー」
って、彼女は言った。
「マエリベリー・ハーン。みんなはメリーって呼ぶわ」
「え、嘘」
「くすくす。ねえ、驚いた? わたしメリーって言うんです。あんなにメリーさんがたくさんいるのに、わたしもメリーだなんて、なんだかおかしいですよねえ」
「うそ……。わたしメリーのことをずっと待ってた」
「知ってますよ。でも今日は来なかった。忙しかったんですねたぶん、きっと明日は会えますよ」
「ちがう――。ちがうんです。わたし、ずっと貴方を探してたの」
はじめて見るメリーの困惑する表情。
でもやがて笑った。
「もしかして、口説いてます?」
何をいえばいいんだろう。
なんていえばいいんだろう。
秘封倶楽部活動記録。
そこに書かれたわたしとメリーの出会い。
8歳のわたしがそうなるだろうと想像して、ずっとやって来るのを待っていた未来。
わたしはずっとメリーのことを知っていて、同じ本を読み返すみたいに何度も出会って、でも本当は会えなくて、寂しくて、ひとりで部屋でメリーのことを考えていた。
そして、やっとメリーに会えたのに。
なんて言えばいいんだろう。
これまでのわたしの全てを説明するのには今は時間がないから。
これはわたしの知らない、活動記録にはない、わたしたちの出会いだから。
変なことを言って、メリーを失いたくない。
でも――わたしはそれを、使ってしまう。
それだけを信じて生きてきたから、こんなふうにまったくそぐわない場所でも、結局のところ、わたしはそれに頼るしかなかった。
寂しいことに。
ねえ、メリー。
メリー……。
「ねえ、メリー、わたしと一緒に秘封倶楽部をやらないかしら……?」
「秘封倶楽部? 蓮子さんとメリーさんたちがやっているサークル活動ですか?」
「うん」
「だめです」
「あ……。あはは、それは、そう、ですよね」
「だって、わたしは大学生じゃないです。高校も出てないんです。それなのにサークル活動なんて恥ずかしくて嫌ですよ。それに仕事もしてるんです。知ってます? 蓮子さんはいつも怪異が現れたとか言ってメリーさんを連れ回すんです。授業もサボって。大学生ならいいけど、社会人が仕事をサボってたら暮らしていけないですよ」
「うん」
「でも、わたしたち、友だちになれますよ」
「友だち?」
「そう。休みの日なら、秘封倶楽部みたいなことをしてもいいですし、わたしのカフェにもまた遊びに来てほしいな。コーヒーを飲みながらお話したり、ふたりでね」
そしてメリーは言ったのだ。
「じゃあ、明日午後2時に”良き犬たちの天国”で待ってるから」
だから、わたしは、あのカフェテラスに行った。
それからも毎日、メリーに会うために通い続けた。
いつでもメリーはその店でわたしを待っていて、わたしは必ず遅れてやって来る。
なんだかそれはいつものわたしたちの活動風景のようだったから、それを口に出してみれば、カウンターの向こうでメリーがくすくす笑う。
「いつものわたしたちみたいって、実際、いつものわたしたちじゃない」
そんなふうにしてわたしはメリーに出会った。
わたしのメリーは人のとはちがってる。
頭だってよくないし、大学にも行ってないし、秘封倶楽部だって一緒にやってくれない。
でも、とってもやさしいわたしの友だちだから、べつにいいのだ。
たぶんね。
18
中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
じゃあ、何か、と問われると答えにはひどく窮することになる。それは一人の人間を端的に語ることの難しさに起因している。
中卒メリーはアメリカ生まれのクォーターで、中学生の頃は不良少女で、大学近くのカフェテラスで働いていて、16歳のとき地元のスナックで働いていたせいか歌うのがとても上手で、指笛も上手くて、案外インドア派で疲れるのが嫌だから旅行が嫌いで動物が好きで猫が好きで犬が好きで一番好きなのはかばで熱帯魚を飼っていて推理のドラマとスポーツを見るのが好きで野球が好きで贔屓は阪神タイガースで食べるのは好きでも嫌いでもなくてお酒はほとんど飲まない。
たとえば、中卒メリーを構成する多様なものから、マエリベリー・ハーン的じゃない要素を挙げてみることはいくらでもできるけれど、それと同じくらいマエリベリー・ハーンみたいなところを言ってみることだってできる。中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃないけれど、マエリベリー・ハーン的なところもたくさんあるし、実際のところよく似ている。なんていうか、感じ、のようなものが。まったくの他人だと言い切ってしまうには、中卒メリーの発生にマエリベリー・ハーンは深く関わりすぎているけれど、その深い連結がかえって中卒メリーがマエリベリー・ハーンそのものではないひとつの証明でもある。
中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
中卒メリーはマエリベリー・ハーンではない誰かです。
でも、中卒メリーはマエリベリー・ハーンになってしまうには十分すぎるくらいのものを抱え込んでいる。
19
だから、これは中卒メリーがマエリベリー・ハーンになるまでのお話です。
20
夜の墓場でわたしたちは二人。
まるで天使を求めて彷徨う巡礼者たちのように列なして歩く。
幽霊を探して。
メリーが呟いた。
「それにしても幽霊なんてちっとも出ないね。つまんないわ」
あそこの墓場には幽霊が出てきます。
そんな使い古されたオカルト。21世紀のはじまりにはすでに擦られすぎて誰も信じなくなってしまったようなそんなうわさ話を頼ってわたしたちはこうして墓場までやってきた。
実際、怪奇としては程度が低いし、あんまり興味だって惹かれない。『秘封倶楽部活動記録』の中で、メリーとわたしが出会うことになる怪奇のように、その内容を聞いただけでなんだか胸が高鳴り、その真実を知りたくて夜も眠れなくなってしまうようなお話ではきっとない。
こんな怪奇ばかりわたしたちが追ってしまうのは、メリーがオカルトにたいして興味がないせいじゃない。どちらかといえば原因はわたしにある。何事もそうだし、『秘封倶楽部活動記録』の中でさえそうなっているのだけれど、はじめの頃から複雑で精彩のある出来事に巡り会えるはずがない。そういうのは積み重ねというかステップアップというか、簡単なものをひとつひとつ乗り越えているうちに、次第に難しくてやりがいのあるものが解けるようになるし、また見つけられるようになる。その意味じゃ、やっと秘封倶楽部として活動しはじめたわたしはとても出遅れている。出遅れているくせに、他と比べて、憧ればかり重ねているから単純なものにさえちゃんと向き合えていない。
「きっとこういうつまんないことが大事なのよ。下積みっていうか。こういうの地道にこなしていっていつか素敵な怪奇を見つけられるんだ」
「なんだか売り出しはじめのアイドルみたいだね」
「あるいは最初のお城のまわりでぐるぐるしてる勇者」
「ねえ、蓮子、ちゅっちゅしてみようよ」
「へぇ?」
「いいじゃない。ほかの蓮子さんたちはみんなやってるよ」
「いやよ」
「どうして?」
「そういうのにうつつを抜かしていたら世界の秘密にはいつまでたっても届かないの」
「ヘー」
「なによ?」
「かわいいなあって」
「なにが」
「蓮子が。ってそこまで言って欲しいのね? こわ、ほしがり」
「うるさい」
夜の下。
月の光が淡白く霊園を包んでいた。
ねえ疲れた腕、痛くなってきた……ってメリーが言うから、わたしたちは階段に並んで座った。
そんな鉄パイプなんか持ってるから腕とか痛くなるんじゃん、って、言わないけど。
月の光に照らされて闇の中に浮かび上がる無数の墓石は、なんだかたしかな恐怖感を持っているけれど、それはただなんとなく怖い気がするというだけのことだった。
恐怖に関する中卒メリー風の解釈。
怖いものは、べつに理由とかなく怖いのだ。
ほんとに幽霊がいたらいいのに、とわたしは思う。
このほのかなわたしの恐怖心に確かな理由があったらよかったのに。
なんだか少しだけ眠かった。
風が吹いて、木々が揺れる音がする。
なんか甘いものとかいっぱい食べたい気分だった。
お酒とかたくさん飲んだら変なものが見えたりするだろうか。
そんなものに頼りたくなってしまうくらいに――。
ここには、描写すべきものが、べつに何もない。
メリーの声だけがあった。
「じゃあ、そういうんじゃない話をしてみましょうよ」
「それってなに?」
「オカルトの話。最近蓮子のまわりにあった不思議な話して」
「いや、そんな急に言われても……」
「はい、宇佐見蓮子のわたしにこんな不思議がありました話、まずは大学編!」
「いや、あの、えー? ないって」
「でも、秘封倶楽部はみんなしてるよ? 蓮子さんたちとかよくカフェでさ。あれー、もしかして、蓮子って、秘封倶楽部とかほんとはできないのかしら? くすくす。おかしいなあ。わたしはこんなに秘封倶楽部的な提案をしてるのに?」
「わかった、やればいいんでしょう!」
「やればいいっていうか、蓮子はすすんでやるのよ。さあ!どうぞ! 蓮子さんのとっても不思議なおもしろい話です!」
「えとね、この前さ、大学に行ったときなんだけど」
「うん。何しにいったの?」
「そりゃもちろん、講義よ」
「蓮子は真面目ね。すごい!」
「うん。それでね、講堂があったのね。今は使われていない講堂」
「お。いい出だしだ。期待できる」
「うちの学校は建築様式においては当時の主流に則っているだけで特に主題がないと思っているんだけど、その講堂だけはなんていうか西洋風っていうか。もっといえばキリスト教風の感じなの」
「どんな感じ? シンデレラ城みたいな?」
「そんな立派じゃなくて、寂れた教会のもっと小さい……みたいな?」
「あ、蓮子は、シンデレラ城見たことある?」
「あるよ」
「じゃあさ、じゃあ、シーとランド、どっち派? わたしはシーかな。雰囲気がいいもの。一回しか行ったことないけど」
「シー」
「おお。いいよね」
「うん。で、話戻すけど、そこはずいぶん前から使われていないみたいで、だいぶ寂れていて、それに入り口には錠前がかかってる。大きな錠前でね、鎖でぐるぐる巻きにしてあるの」
「映画のソウみたいな感じね。中でデスゲームとかやってそう。蓮子、あれ、シリーズ全部見たことある? わたし最後まで見てないのよね。最後どうなるのかな?」
「一個も見たことない」
「え、ほんとに。もったいないわ。1番最初の見たほうがいい。おもしろい」
「わざと話の邪魔してるでしょ」
「あれ、ばれちゃった」
「話すのやめます」
「ごめん、ごめんね。もうしないから。その講堂が怪しい感じだったのよね?」
「うん、そうなの。いかにも怪しい感じ。ずっと気になってて、この前、何かあるかもしれないと思ってよくその周りをぐるぐるしてたんだけど……なかなか入れるような場所も見つからなくて、そりゃあそうよね、学生が入らないように錠とかしてあるんだから。ほかの入り口もちゃんと閉ざされてて、いろいろ探したら気づいたらあたりも薄暗くなってて、一時間以上そこにいたと思うけど……で、結局中には入れなかったんだけど」
「でも?」
「いや、結局ただ入れなくて、家帰って、でも秘封倶楽部活動記録とかほかの蓮子たちの話盗み聞きしたりするとどうやら本来入れないはずの場所に秘密の入り口みたいなもの見つけたりして、そこで怪奇に出会ったりするんだけど、わたしはそもそもそれすら見つけられないってことで、でもそれって知識とか経験とか関係ないただの運じゃない、だから、なんか? 怪奇に出会うのもそれ自体に才能がいるんだなあって思って、悲しくなりました、おわり!」
「なにそれ、なにもないじゃん! 小学生の絵日記でも許されないわ。こんな内容のない話」
「だってぇ……。ほんとになにもないんだからしかたないじゃない」
「でも蓮子たちはカフェでいつも不思議話してるよ。毎日のように新しいの出してくるのに」
「それは、あれじゃないの、脚色とかしてるのよ。ほんとはちょっと影を見た程度の話を、想像力で補って幽霊見たとかそんな感じだもん絶対」
「あーあ、蓮子はすっかりオカルト否定派ね。敵だ敵、オカルトの敵。この科学の子!理系脳!」
「うるさいな。いじわる言わないでよ」
「くすくす。楽しいね」
「ぜんぜん楽しくなんかないもん」
わたしにはわからない。
こうやって真似事で怪奇の噂を調べに行ったとしても、わたしたちはなにひとつ秘封倶楽部には近づくことができない。メリーのせいじゃない。冗談を言いながらも、ほとんど何もわからないままで、やさしいメリーは秘封倶楽部に付き合ってくれる。
わたしには恐怖心がある。
この墓場が怖いのではない。わたしが中卒メリーをマエリベリー・ハーンであるように求めることによって、本当はメリーを苦しめてしまうんじゃないかということが怖い。わたしの願いがメリーの呪いになってしまうなら、そんなことを願いたくはない。メリーは遠いところにいると思う。唯一の肉親に別の人間であることを求められ続けたメリーの孤独はあまりに深くわたしの届かないところにあるから、わたしにはどうしたらいいかわからない。
きっとわたしはひどいことをしてしまったんだろう。。
でも、今となっては戻ることもできないのだ。
秘封倶楽部がわたしの願いだということをメリーはちゃんと知っている。知っているからメリー風をやろうとしてくれるのだし、こんな何もない墓場まで一緒に来てくれるのだ。だから今さら普通に戻ろうとしたってそうはいかない。すでに秘封倶楽部がわたしたちの普通なのだ。それはなんだか呪いみたいだった。秘封倶楽部についてそんなふうに思うことになるなんてわたしは思ってもみなかった。
21
8歳のわたしには夢がありました。
学校の帰り道、本を拾ったあの日から、ずっと。
秘封倶楽部になること。
メリーとふたりで秘封倶楽部をやること。
7歳のメリーには夢があったんだろうか。
どちらにしろ、その夢は消えてしまった。まるで夜に見る夢のように。今では思い出せない形になってしまった。
7歳のメリーは天使に出会った。
メリーの肩に刻まれて今でも消えることのない墨色の天使。
”マエリベリー・ハーン”という名前なのです。
『秘封倶楽部活動記録』に出会ったあの日にわたしの運命が決まってしまったように、マエリベリー・ハーンに出会った時に中卒メリーの人生は消えてしまった。
14歳のメリーはそれをタトゥーにして刻んだ。
それがあの家でメリーの生きる術だったんだろう。
すべてをジョークに変えてしまうこと。
中卒メリーはくすくすと笑う。
どうしてメリーは最初にわたしと出会った時にわたしを拒絶しなかったんだろうと思う時がある。そうしたっておかしくはなかったのに。
それもやっぱりジョークだったからなんじゃないだろうか。たくさんのマエリベリー・ハーンと宇佐見蓮子と秘封倶楽部。マエリベリー・ハーンにならざるを得なかった少女。ひとりの蓮子が彼女の前に現れて、秘封倶楽部をやろうと言う。中卒メリーにとってそれは壮大な冗談だった。
それが冗談なら、わたしたちはきっと消えてしまうだろう。はじめからそんなものはなかったかのうように。
中卒メリーはくすくすと笑う。
メリーが笑うと、わたしは嬉しい。
マエリベリー・ハーンじゃない、メリーの笑い方がわたしは好きだと思う。
たとえ、メリーが”マエリベリー・ハーン”じゃないんだとしても、わたしたちが秘封倶楽部になれないのだとしたって、メリーが消えてしまったら、それはひどく悲しいことだとわたしは思う。
22
これは中卒メリーがマエリベリー・ハーンになるまでのお話で、わたしたちが秘封倶楽部であるための物語です。
23
わたしたちの出会いは戦闘機の形をしていて、別れは象の形をしている。
完璧なまでに象形的に。
わたしたちの物語はすべて『秘封倶楽部活動記録』に記されている。それを読んで、そうなるために、わたしは生きてきた。少なくとも中卒メリーに出会うまでは。
でも、わたしがメリーを見つけ損なった数ヶ月の間に、わたしは『秘封倶楽部活動記録』をばらばらにしてしまった。ずっと信じて生きてきたのにそうなれなかったから、逆恨みのような形でわたしは『秘封倶楽部活動記録』の背表紙に鋏を差し込んでそれを裁断してしまった。ばらばらになった『秘封倶楽部活動記録』のページたち。叶わずに分解してしまったわたしの未来。白い紙の海に囲まれてわたしは泣いた。いつまでもそうしていた。順序を失ったページたちの海では、時間の流れも同様にばらばらになり、わたしはメリーに出会う前にメリーを失った。それならまだわたしは秘封倶楽部でいられる。失ったあとでメリーに出会える。そんなふうに信じたかった。
わたしたちは別れによって終わる。秘封倶楽部としてわたしたちは怪奇を追い続け、やがてメリーは別の世界を見るようになる。ここではない幻想の世界。そして、最後にはメリーは幻想の世界に取り込まれてしまう。そこで本は終わっている。たぶん、悲しい結末だ。でもそれは本の中の物語。本当のわたしの物語はそこからはじまると思っていた。わたしはメリーにまた会うためにあらゆる怪奇を調査し、幻想に立ち向かっていくのだと信じていた。メリーを失い、もういちど取り戻すための物語。メリーを失ってなお、わたしたちが秘封倶楽部であるための物語。
”それから”のお話をわたしはしたかった。
もちろん、実際にはそんなふうにはならなかった。こうして『秘封倶楽部活動記録』のページはばらばらになり、わたしはメリーに出会うその前にすでにメリーを失い、中卒メリーに出会った。
中卒メリーはばらばらになったページの海に沈みゆくわたしを救ってくれた。中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃないけれど、そんなわたしのそばにいてくれて、新しい毎日をくれた。今、わたしの恐怖心はわたしが秘封倶楽部になれないんじゃないかということにはない。わたしのせいでもういちど中卒メリーがマエリベリー・ハーンに囚われてしまうんじゃないかということを恐れている。『秘封倶楽部活動記録』の中でマエリベリー・ハーンが幻想に攫われて消えてしまったように、中卒メリーも”マエリベリー・ハーン”に囚われて消えてしまうんじゃないか、そんなことを思うと怖くてたまらない。
本当は捨ててしまおうと思っていた『秘封倶楽部活動記録』を残したのはわたしじゃなくてメリーの方だ。
それは、ある秋のはじまりの涼しい風の吹く午後のことだった。『秘封倶楽部活動記録』に興味を持ったらしいメリーはわたしのアパートの部屋でばらばらになったそのページたちを読んでいた。読んでいたといってもすぐに興味の移り変わってしまうメリーのことだ、その中に出てくるわたしの行為とかをあげては、蓮子こんなんしたら半分犯罪じゃんとか、へーこういうことしたいんだへんたいねとか、くすくす笑っていた。もう捨ててしまうつもりなのだとわたしが言うと、どうしてとメリーは聞いた。蓮子にとってはとても大事なものなんでしょう。メリーがいるからもういらないんだとは恥ずかしくて言えなかった。いらないならもらっていいとメリーが聞くからわたしは肯いた。
するとメリーは、たくさんのページの中から一枚を手に取り、器用な手付きで折りはじめたのだ。
それから、出来上がったそいつを手のひらの上に置いてわたしに見せた。そこには鶴がいた。大きな折り鶴。メリーは笑った。
「蓮子の夢、鶴になった。千羽折ったらきっと叶うよ」
蓮子も折ってよ、とメリーはさらにもう一枚を折りはじめている。途中で、あ、と声を出して、何かを思いついたとき特有のメリーのきらきらした子供っぽい目でわたしを見た。
いいこと考えたわ。
そして、メリーは新しいページを折りはじめたのだ。
「ほら、見て見て、戦闘機」
メリー手のひらの上にあったのは、たしかに戦闘機だった。紙製のちゃっちぃやつ。でもとても複雑に綺麗に折られているから、なんだかほんとにそう見えた。
メリーは様々な種類の折り紙を作り上げてみせた。
象、東京タワー、手裏剣、金魚、やっこさん、ガーベラ、にわとり。
メリーの手の中で『秘封倶楽部活動記録』が次から次へと新しい形に組み上げられていく。完成するたびにそれをわたしに見せてくれる。
メリーは折り紙が上手だった。
たくさんの折り方を知っていた。
「おばあちゃんが教えてくれたの。幼い頃はいつも一緒に遊んでくれた。忘れちゃったかもと思ったけど、ちゃんと憶えてる――」
メリーに教わってわたしも折った。
たくさんの形をつくった。
メリーみたいには上手くいかなかったけれど。
いつのまにか熱中していて、気がつけば、夕暮れ。
カーテンの隙間から差し込む赤い西日の中を戦闘機が飛んでいる。
結局、折り鶴は千枚も折らなかったから、わたしの夢は叶わないのかもしれない。
でも、それでもよかった。わたしたちの出会いは戦闘機の形をしていて、別れは象の形をしている。わたしの未来だったはずのものは、今、わたしたちの手によって、様々な形へと移り変わっていく。白い紙が夕暮れに赤く染まる。
象、東京タワー、手裏剣、金魚、やっこさん、ガーベラ、にわとり、ヘラクレスオオカブト、天使、女の子、男の子、ひまわり。
床の上に並べられた、それらの形は見ているだけでもなんだか楽しくて、こんな未来の形なんてちっとも想像もしなかったなと思って、わたしはこっそり笑った。
24
中卒メリーはマエリベリー・ハーンではない。
だから、『秘封倶楽部活動記録』に記されたメリーとわたしのお別れはわたしたちのお別れじゃない。
25
でも、深夜二時半。
霊園。
月の光は青白く、わたしたちの輪郭をなぞる。
中卒メリーは、鉄パイプを揺らしていた。
退屈そうに、でもなんだか楽しそうに。
いったいどうやってメリーはその微妙な態度を身に着けたんだろうか。
メリーの中には常にふたつの相反するものが同居しているようにわたしは思う。
この世界に対する淡い諦観と猫のような不思議な好奇心、幼さと大人っぽさ、これほどまでに中卒メリーは非マエリベリー・ハーン的なのに時折メリーはまるきりそのように見える。まるで本物のメリーかのように。
それは仮面に象徴されるような二面性なんだろうか。ある本性を隠すために別の、かえってそうではないように見えるものを身にまとうような。たしかにメリーには人にはあんまり言えないような思い出がたくさんある。
でもわたしは――やっぱりこれもメリーの微妙な態度のひとつによるものなのだろうか――メリーはそもそもそんな二面性を抱えているようにさえ思う。メリーがマエリベリー・ハーンに出会うその前から、メリーは不思議な少女だった。
マエリベリー・ハーンに出会う前のメリー。
彼女がいったいどんな類の女の子だったのか知りたいな、とわたしは最近よく思うのだ。
メリーの揺らす鉄パイプが月の下で大きな弧を描いた。
その切っ先をわたしは見ていた。
なんだかひどく疲れているような気がした。
「ごめんね、メリー」
「え、なにが?」
「こんなことまで来たのに幽霊も出なくてさ」
「べつに蓮子のせいじゃないわ。きっと幽霊は怯えているんでしょう。なにがそんなに怖いのかしら?」
「鉄パイプ、絶対」
「くすくす。そうね」
幽霊になりたいな。
幽霊になってここに出て、メリーを驚かせてあげたい。
ううん、もっと、ずっとずっと昔の話。
幼いメリーに不思議を見せてあげたいな。
小さな頃にわたしが本で見てそれからずっと見続けた素敵な夢を子供の頃のメリーにも見せてあげたい。マエリベリー・ハーンになってしまうことは決して悲しい物語じゃないんだってこと、メリーに知ってほしい。
わたしたちが同じ夢の中にいたら、よかったのにね。
でも、わたしの見る夢は、メリーにとってはきっと悪夢だろう。
「ごめんね、メリー」
「いいわよ、ほんとに」
「せっかく秘封倶楽部やってくれたのになにもなくて」
わたしたちは黙ってしまう。
静寂、風の音。
鉄パイプが空を切って。
やがてメリーは言った。
「そうだ、今度わたしのお婆ちゃんのお墓にふたりで行かないかしら? ここからは少し遠いところだけど、わたしのお婆ちゃん変わった人だったからきっと幽霊になって出てきてくれるわ」
「会ったら、メリーはどうするの?」
殴るの?
その鉄パイプでさ。
「なんでよ。わたし愛してるのよ。そりゃあのときはいろんなことが嫌だったわ。でも、とてもやさしい人だった。死ぬときもわたしのことばかりを話してた。メリー、メリー、ってわたしのこと、なんども呼んだ。そのとき、わたし、マエリベリー・ハーンでいればよかった、って、思った。べつにむずかしいことじゃないのよ。ちょっといい子にしていればいいだけ。おばあちゃんはたしかに少し壊れちゃってたけど、それでもマエリベリー・ハーンになれなかったわたしをちゃんと16の歳まで育ててくれた。どうしてかな。その意味じゃマエリベリー・ハーンに囚われていたのはわたしのほうだったのかもね。おばあちゃんはわたしにたくさんのことをしてくれたのに、たったひとつの取り違えに囚われてわたしは彼女になにひとつしなかったの。おばあちゃんがわたしのことが見えてなかったように、わたしもお婆ちゃんが見えてなかった。おばあちゃんにわたしがメリーだと信じさせればよかった。そんなこと考えたのはずっとあとだわ」
それから、メリーは笑ったんだ。
「信じさせてみたいな、わたし、蓮子に、メリーだってこと」
26
あのようにして『秘封倶楽部活動記録』はもはや本来の形を失ってしまったけれど、それで花火の最後の名残の光みたいにいつまでもわたしの中に残っている。目を閉じれば、それを思いだす。だから、わたしは、わたしたちに関するこの物語をそのように語る。
ばらばらになった『秘封倶楽部活動記録』のように。
決してはじまりがはじまりではなく、終わったあとからはじまり、途中ではじまりがやってきて、終わりに続く、そんな文体で。
ばらばらになった『秘封倶楽部活動記録』の中で、本物のわたしたちは永遠だ。
もの悲しいお別れのそのあとに、出会う。
出会う前から、ばいばいをして、別れのそのあとに、おはよう……って。
ニセモノのわたしたちなら、どうだろう。
そもそもはじまることもなく、だから終わらないわたしたちなら。
まるで”それ”をやり直すみたいにわたしたちは語られる。
ばらばらになってしまった『秘封倶楽部活動記録』のように、わたしたちの物語はとてもあこべこになってしまっている。わたしたちはお互いまったく別のところからはじまっている。わたしが秘封倶楽部であろうとするときにメリーはマエリベリー・ハーンからとても遠いところにいるのに、お互いを知って通じ合い相手のために何かをなそうとするとき、わたしはメリーのためにもはや秘封倶楽部を夢見ず、メリーはわたしのためにマエリベリー・ハーンになろうとする。
これは悲しい物語だろうか?
『秘封倶楽部活動記録』のように、わたしたちはいつかすれ違って別の世界へと囚われ、お互いの姿が見えなくなってしまうんだろうか?
だから、わたしは、この物語をもはや物悲しい終着点を失ったばらばらの『秘封倶楽部活動記録』のように語ろうとするんだろうか?
でも、わたしのためにマエリベリー・ハーンになってあげるってメリーが笑ってくれることが、わたしはこんなに嬉しい。
それはほんとに悲しい物語だろうか?
27
中卒メリーはマエリベリー・ハーンではない。
だから、『秘封倶楽部活動記録』に記されたメリーとわたしのお別れはわたしたちのお別れじゃない?
26
いつかわたしたちにお別れが来て蓮子がいなくなったらこの匂いを嗅ぐたびに蓮子のことを思いだすな、とメリーは言った。
煙草の煙。
うん、とわたしは答えた。
透明な煙を吐き出す。
メリーも吸ってみる、とわたしは笑う。
「蓮子は悪い子ね。わたしはもうやめたのに」
「じゃあ、でも、メリーがいなくなったら、わたしは何でメリーを思い出せばいいかな?」
「全部。わたしがいなくなったあとで、いつでもわたしのことだけ考えてよ」
「不均衡じゃん、愛が」
「くすくす」
メリーは箱の中の煙草を手にとって指で弄んでた。
不思議なやり方でくるりと回した。
「どうしてお別れで終わるのかしら?」
「なにが?」
「わたしたちのお話が」
『秘封倶楽部活動記録』の中のわたしたちのお別れ。
メリーはもう一度だけ煙草を回した。
くるり。
「悲しいね」
「それからのお話をするためだとわたしはずっと思ってたの」
「それからのお話?」
「そうよ。わたしがメリーを失うまでが、本にあるところ、そこからはじまってわたしはメリーをもういちど見つけるの。それが続きなんだ」
ふうん、とメリーは言った。
ライターを取って、新しい煙草を咥えたわたしに、火をくれた。
「じゃあ、わたしたちはそれをするのね」
「それってなに?」
「いなくなっちゃった本物のメリーを見つけるの」
「見つけたらメリーはどうするの?」
「殴る! そんなの決まってるじゃない。わたしの蓮子に近づくな、って」
「さいあく……」
「くすくす」
でも、とメリーは笑いながら続けた。
「でも、最初の蓮子さんは本当に蓮子の言う通りのことを考えてその活動記録を残したのかもしれないよね」
「メリーを見つけて欲しいって?」
「うん。メリーさんと悲しいお別れで終わっちゃったから、それを変えたくて過去の蓮子にメッセージを残したのかも」
「ふむむ。時間遡行もののパターンか。たくさんわたしがいるのは?」
「それは……いっぱいいたほうが楽しいでしょ、なんでも」
「なにそれ! あ、でも……メリーはいいことを言ったかも」
「そうよね、そうよね」
「どこが、とか聞かないの?」
「うん、蓮子お得意の長話がはじまりそうだから」
「いや、どこがって言うとさ」
「短くまとめてね」
わたしはならべく端的に言いました。
「つまり、最初のわたし――オリジナルのわたしはマエリベリー・ハーンと秘封倶楽部を結成し、この世界の様々な幻想や怪奇を調査するうちに、メリーは幻想を取り込まれていなくなってしまった。きっとオリジナルのわたしはメリーを取り戻すためにいろんな方法を試したんでしょう。でも、うまくいなかった。結局ひとりの人間に考えつくアイデアには限界があるからね。だから他の自分に力を借りることにした。過去の様々な可能性――蓮子になることのできる可能性を持つ様々な人間に、どうやってかは知らないけれど秘封倶楽部活動記録を送り、彼女たちを蓮子に育て上げ、メリーと出会わせ、少しずつちがった彼女たちの中でメリーを失わずにすむわたしを見つけようとした。つまり、わたしたちは箱の中の蓮子、実験台として蓮子なの。そうやって自分の運命を変える方法を見つけようとしたのよ」
「蓮子の言うことよくわかんないけど、わたしお腹すいたわ」
何か食べにいきましょと言うメリーに、わたしはため息。
メリーは立ち上がりひとりで先に行ってしまう。
途中で振り返って、メリーが笑った。
「でも、運命、変わったね」
煙草の残り香。
少しだけ甘い。
29
幽霊の出ない深夜の墓場、午前3時。
わたしたちはコンビニエンスストアに、行った。
コンビニエンスストアは夜の光だった。
霊園から少し離れた街角にそれはあった。
アイスのコーナーでアイスを見てると、メリーが言った。
アイスが食べたいの?
ううん、見てるだけ。
あはは、見てるだけって、そんな、動物園じゃないんだから。
わたしはメリーに話しかけられるのがうざいのでATMに逃げて必要のないお金を下ろした。
コンビニエンスストアから出るとメリーは地べたに座ってた。
広い駐車場の片隅であぐらをかいてわたしを待っている。
転がった鉄パイプを足先で弄びながら。
電灯の青い光。
中卒のメリーの夢は、いつかマエリベリー・ハーンじゃない女の子になることだった。それは叶ったんだろうか。わたしは呪いのようにメリーの周りを漂っている。
幽霊になれたらいいのに。
フェンスに背中を寄せるときいきいと鳴った。
メリーはくすくすと笑っている。
「煙草買った?」
「吸わないもん」
「うん」
「でも、買えばよかったかも」
「うん」
「わたしに似合うかな」
「どうかな。蓮子には……きっと」
「メリーは吸ってた?」
「10代の頃ね。楽しい時代だった。精算しなきゃね、いつかさ」
「メリーは煙草を吸わないよ」
「うん。だからやめたの」
「ほんとに?」
きいきいと軋む。
ヘッドライトの光、遠く。
大通りを流れる車の色は、赤だった。
ぱきり。
メリーが鳴らした音は、アイスの割れる音だ。
チョコレートの、プラスチックの容器に入ってるふたつに分かれるやつ。
「蓮子にもひとつあげるわ。あまいから」
「かたい!」
「くすくす。待たなきゃだね。今日は暑いから、すぐよ」
「夏かあ」
「甲子園に行こうよ」
「連れてってくれるの?」
「ばか。ふたりで見に行くのよ」
「野球、好きなんだ」
「阪神タイガーズが贔屓よ。今年は調子がいいから……」
「嬉しい?」
「毎日が楽しいよ」
「うん。ニュースで見るわ。ときどきね」
「マエリベリー・ハーンならどこを応援するかしら?」
「ニューヨーク・ヤンキース」
「ニューヨーカーなの、わたしさ?」
「阪神よりはそれっぽいわ」
「かもしれないね」
「あ……溶けてきた!」
それを吸うと甘い味がする。
チョコレートの、冷たいやつが。
ふわふわと舌の上で溶ける。
「えーわたしのまだだわ」
「きっと体温がちがうからよ」
「あるの? そんなの関係……」
「事実だもん」
「蓮子のちょうだいよ」
「え、いやよ」
「わたしが買ったんだよ」
しょうがないから、パピコの半分のやつをわたしはメリーに渡す。
メリーはそれを見ていた。
「蓮子、噛み癖あるのね。ほら、口先のとこ。子どもみたい」
「うるさいな、文句言うなら返してよ」
「ちう……あ。甘いな。でも溶け具合わたしのと変わんないな。返すわ」
「メリーが待ち過ぎなのよ」
「もっと溶けてからがおいしいのよ」
「いつまで待つつもりなの?」
「水になるまで」
じゃあ、冷たい飲み物を買えばいいじゃん、言ってから後悔した。
メリーがくすくす笑うから。
ねえ、それなら、マエリベリー・ハーンはどれくらい待つの?
あの子にとってはどれだけパピコが溶けたら食べるに値するの。
「もしかして、メリー怒ってる?」
「どうして怒るの?」
「秘封倶楽部なんてものにわたしがメリーを巻き込んじゃったから」
「かもしれないな」
「それならごめんね。もう二度と……」
「やめてよ。もう二度となんて言わないでー、って言ってるわ」
「え、誰が?」
「ハーンが」
「マエリベリー・ハーン?」
「うん。わたしの頭の中のハーンがさ」
中卒メリーの中にはマエリベリー・ハーンが生きている。
彼女のおばあちゃんがそこにいると信じ、中卒メリーのすべてをそうさせたマエリベリー・ハーンが。
「ねえ、蓮子、幽霊は見つからなかったけど、天使には会えたわ」
顔を上げて見たけど、そんなのは見えない。
メリーは笑って、Tシャツの袖をまくって見せた。
ねえ、ほら、飛んでる。
天使。
メリーの肩の上に。
「ハーンって名前なの。やさしくてとってもいい子なのよ。勝手な蓮子のことだってきっと許してくれる」
街灯に照らされて、青色に発光。
天使が笑っている。
変な微笑みだ。
狂った犬みたいに笑っている。
「ねーねーれんこー。れんこがそんなしんぱいすることないわ、だってひふうくらぶなんてとってもすてきじゃない。わたしずっとそうなりたかった。って、ハーンが言ってるよ」
「言ってないよ」
「れんこといるとたいくつしないな。たくさんふしぎなことにであえるんだもん。あんまりふしぎなことをいっぱいみつけてくるから、ふしぎなことをぜんぜんみつけてこないなんてもうれんこじゃないってかんじ! それにね、いっぱいちゅっちゅっしてくれるし、めっせーじをおくってもへんしんおそいし、でんわをしてもおりかえてくれないし、そのくせじぶんはよるおそいじかんにきゅうにでんわをかけてくるし、だいがくのかだいがおわってないってだけでこのよのおわりみたいなきぶんをみせてくれるし……」
「ごめん、怒らないでよ」
「わたしは何も言ってないわ。ハーンが言ってるの。あ、また、なんか言ってるみたい……れんこ、すきだよ。ふしぎをいっぱいみつけてくるれんこがすき。ふしぎをぜんぜんみつけてこないれんこはきらい。だってれんこじゃないもん。ひふうくらぶやってないひとたちはかわいそうね。ひふうくらぶでいるとしあわせよ。わたしたちずっとひふうくらぶでいよ……ひゃあ、冷たい!」
わたしはメリーの肩にアイスを押し当てた。
そこで笑っている天使に。
メリーはくすくす笑いながら。
「つめたい! つめたいってば、蓮子! やめてー」
「あんたは冷たくないわ。わたしはこのむかつく天使にアイスを押し付けてるんだもん」
「あ、蓮子も見えてるんだ、ハーンが」
「そうよ! ふたりでこいつを黙らせよう!」
「あはは。いいアイデア!」
「ねえ、メリー、そこにいて……動かないで……じっとしてて……」
わたしは転がった鉄パイプを拾い上げ、振りかぶる。
「殺してやるから!」
メリーは両方の手を顔の前にかざして。
「ちょ、ちょっと、蓮子やめなさいよ、危ないって!」
「大丈夫。貴方のことは傷つけたりしない。だって、喋ってるのはハーンでしょ。だから……」
「でも、でも、一心同体だもの!」
じりじりと逃げるメリーをわたしは追いかけて、わたしたちはコンビニエンスストアの駐車場を転がるように、月の光の下で、天使を追った。
7歳のある夏の日に、中卒のメリーの肩に降り立って、そこで生きた墨色の天使を。
一周して、また同じ青い街灯の下で立ち止まり、メリーが捲くった肩に天使……笑ってる……なんだかとっても馬鹿らしくなって、やめて、わたしたちは駐車場に寝転んだ。空には星空。満天の暑い夏の季節。時刻は3時25分。
憶えたんだ。星の形で夜の時間が分刻みでわかるように。『秘封倶楽部活動報告書』にはそんなわたしの姿があったから。そうなれるように勉強した。
メリーはくすくす笑う。
「それ、役立った?」
「役立つとかじゃないもの。それがわたしがわたしでいることの証になるの」
「そんなんしなくても蓮子は蓮子よ」
「どうして?」
「だってマエリベリー・ハーンの隣にいるのは、いつでも蓮子でしょ?」
「でも、貴方、ニセモノのマエリベリー・ハーンじゃない」
「そう……。でも、なるよ。7歳の小さなわたしの前に天使が降ってきて、その日から、わたしはマエリベリー・ハーンになることを運命づけられたんだもの」
「悲しい話ね」
「これまではね……だからさ」
「なに?」
「蓮子が楽しいお話に変えてよ!」
そしてメリーはわたしの上に覆いかぶさった。
すぐ近いところに顔が、メリーの髪がわたしに触れて、メリーは……。
わたしの口の中にパピコの先端を突っ込んだ。
わたしがなにひとつ喋れないように、それらすべてがあまりに正しいことであるがゆえにわたしが一言も発せなくなってしまうかのように。
「へ、へりー、ほわい」
「whyって、なんでって、それはもちろん貴方がわたしを選んだからに決まってるでしょう」
「ひがう、はわいって」
「ハワイ? そうよ。わたしはアメリカ生まれのマエリベリー・ハーンよ。暴力で支配するやり方なら慣れてる……。慣れてる」
「はわひぃって、ひって」
「え、かわいい……。照れるなあ。でも蓮子もかわいいわ。特にこうしてわたしに押し倒さちゃって何もできなくなって震えてる蓮子は……」
「ほひい、へ!」
「欲しい? くすくす何をほしいのかしら……蓮子のへんたい」
「ちがう、怖いって、言ってんのばか!!」
メリーを押し返して、向き合って座る格好でわたしはメリーを見つめていた。
静寂。
羽虫たちの街灯に寄り集まるぢぢぢという音。
パピコ。
って、メリーは笑った。
「溶けるまで待ってて。水になるまで。それがいちばんおいしいんだから」
だから、わたしは待っていた。
朝が来るまでコンビニエンスストアの駐車場で、ふたりきり。
通り過ぎる車のヘッドライトの光。
ボディの色は、赤色。
日が昇って星が見えなくなるともう時間がわからなくなる。
わたしがわたしでいる理由がなくなってしまう。
それでも、完璧に溶け切ってしまうまで、待っていた。
右の手にアイスを握って、もう片方の肩に鉄パイプを担いで。
鉄パイプがこんなに重いものなんてわたしは知らなかった。
でも、心地の良い重さだったと思う。たぶん。
やがてメリーは言うんだ。
朝に、こんなことを、こんなふうに。
「ねえ、とけたよ」
あまい――甘い、チョコレート・ミルクの味。
30
中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
31
それは天使。
中卒メリーの肩には天使の入れ墨がある。
”ハーン”と彼女が呼ぶ天使。
7歳のメリーの前に降ってきて、すべてを変えてしまった。
中卒メリーはいつか天使に触れて、マエリベリー・ハーンになった。
ずっと昔の話、わたしに出会うもっと前の話。
32
これは、中卒メリーがマエリベリー・ハーンになるまでのお話です。
33
「溶けるまで待っててね。水になるまで。それがいちばんおいしいんだから」
34
中卒メリーがマエリベリー・ハーンになったのはたぶん彼女のおばあちゃんが死んだその日だった。
中卒メリーの祖母は狂ったまま天使の夢を見ながら死んでいった。
マエリベリー・ハーンの夢。
黒い雪の降る、本物のマエリベリー・ハーンの生まれ育った町で。
でも、彼女が死ぬ時に、彼女のそばにいたのは中卒メリーだった。彼女の隣にいたのはずっと中卒メリーだった。それが、最期まで彼女にはわからなかった。メリーのおばあちゃんは孤独の中にひとりで死んでいったのだろうか。小さな病室。彼女の隣には中卒メリーがいた。誰も知らなかったけれど、中卒メリーはやさしい女の子だった。自分の祖母の病状が悪化してからはずっとそばにいた。祖母の手を握り続けていた。ときどき祖母はその手を握り返した。メリー、メリー、わたしのかわいいメリー、とうわ言のように繰り返していた。
彼女の望みに反してマエリベリー・ハーンになることを拒み、あらゆる非マエリベリー・ハーン的な悪辣を行った中卒メリーは、彼女の終わりになんて言ったんだろう。それはわからないけれど、きっとメリーは、マエリベリー・ハーンのふりをしたんじゃないかとわたしは思う。
わたしのおばあちゃんは最期まで夢を見ながら死んだの、とメリーは言った。
その夢を見せたのは、きっと、中卒メリーだ。たとえ、途中でどんな反抗的な態度をとったしたって、最期にはきっとマエリベリー・ハーンになってしまうんだろう。中卒メリーは、本当はやさしい女の子だ。愛する誰かのためになら、まったくちがう女の子にだってなれてしまう。
メリー、メリー、と彼女の祖母は言った。
なぁに、なぁに、と中卒メリーは言った。
「メリー、メリー、お前はわたしの自慢の孫娘だよ。愛してる」
それが彼女の最期の言葉だった。
死に際にしてはずいぶんはっきりした口調だったとメリーは言う。
そして、彼女の祖母は煙のようにこの世界から消えてしまった。
中卒メリーは涙を流さなかった。ずっとその手を握り続けていた。
「ねえ、おばあちゃん、わたしマエリベリー・ハーンになりたかったし、そうなれたらいいなと思ったよ。でも上手くいかなかったなあ。ごめんね?」
そのとき、中卒メリーの元に天使が降ってきた。
彼女の祖母を天国に連れ去るためだったんだろうか?
ともかく、その午後に中卒メリーは天使に触れてもういちどマエリベリー・ハーンになった。
その日を境に、定時制の高校を辞めて、煙草をやめて、非マエリベリー・ハーン的な悪辣をやめて、幼い言葉遣いをやめて、新しい町で暮らした。
いくつかの仕事を転々としたのち、大学のそばのカフェテラスで働いた。
そうして、中卒メリーはマエリベリー・ハーンになった。
35
でも、わたしは”それから”のお話をしたいんです。
36
だから、わたしは待っていた。
朝が来るまでコンビニエンスストアの駐車場で、ふたりきり。
煙草に火をつけてみる。
「けほけほ」
「くすくす、大丈夫?」
「死んじゃいそう」
「蓮子が死んだらお墓に煙草を供えてあげるね」
「あはは。死因だよ?」
「一気に吸いすぎよ。もっとゆっくり吸わないと」
「ゆっくり、ゆっくり……けほけほっ」
「あはは。それ強いやつでしょ? はじめて吸うには向かないわ」
「煙草なんかどれがどれとかわかんないもの。メリーはどんなの吸ってたの?」
「ピアニッシモ」
「弱く、弱く?」
「うん」
「メリーのやつわたしも吸おうかな」
「同じ煙草とか。わたしのこと好きなの?」
「ばか。でも……メリーみたいになりたいって思うときがある。ときどきだけどね」
「どうして?」
「メリーは強いから」
「しゅっしゅっ。喧嘩はね。けっこう自信あるわ。あ、でも、今は蓮子が鉄パイプ持ってるから勝てないなあ」
「そうじゃなくてさあ」
「なに?」
「メリーのこと、好きだよ」
「うん、知ってる」
でも、きっと、その意味をメリーは知らない。
少なくとも今はまだ。
吸い方を教えてあげる、とメリーは煙草に火をつけた。
煙を吐いた。
街灯の下でそれは青い色をしていた。
メリーには煙草がとてもよく似合っている。
わたしのメリーはみんなのとはちょっとちがうけど、でも、やさしくて強いメリーだから、ほんとはいつもわたしの自慢だ。
37
模造桜が散る。
夜のプラットフォーム。
桜の花びらが月の光に照らされて白色に発光。
まるで天使の羽みたい。
8歳の帰り道でわたしがメリーに出会う少し前に、あの子はすでにマエリベリー・ハーンだった。あの子は天使を見つけたと言う。それから数年わたしが探して結局みつけることができなかったハーンと呼ばれる天使を。その意味じゃわたしが中卒メリーに出会ったその日には、彼女はすべての物語を終えていた。メリーに出会い、メリーを失い、もういちどメリーを取り戻す、秘封倶楽部のために用意されたその物語を。すべてが終わったあとで中卒メリーとわたしは出会ったのだ。
わたしがわたしである理由、あの子があの子じゃないその由縁。
考えてもわからないことは考えない。まるでマエリベリー・ハーンがそうするみたいにね。
だから、わたしはメリーをただ待っている。
中卒メリーは鉄パイプを担いでやってきた。
このプラットフォームまでひとりで。
夏の夜、模造桜の散る中を、中卒メリーは鉄パイプを肩に担いで歩く。少しずつ近づいてくる。舞う桜の中を堂々と歩く中卒メリーは、まるで映画の中から出てきたみたいに、なんだかとてもそれらしい。わたしの横に来て、真剣な顔で言う。
「持ってきたよ。これで安心」
「それ、たぶん、間違ってると思うけど」
わたしが言うと、メリーは弾けるみたいに笑った。
「ほんとに!?」
空の上を光の粒が渡っている。
時折、赤色に点滅。
ひこーき。
わたしの見ている空にメリーも視線を移して、言う。
「戦闘機?」
「きっとアメリカ生まれね」
メリーとおんなじで。
戦闘機は星の瞬く夜を渡って模造桜のひとひらのように消えてしまう。
これ、どうしよう。
メリーは恥ずかしそうに鉄パイプをゆらゆらと揺らす。
わたしは思う。
きっと、中卒メリーはマエリベリー・ハーンじゃない。
だから、わたしたちは、いつか──。
38
これはわたしたちが秘封倶楽部になるための物語です?
39
わたしたちの出会いは戦闘機の形をしていて、別れは象の形をしている。
字義通り。
わたしが捨ててしまうつもりだった『秘封倶楽部活動記録』を残しておいたのは、メリーの方だった。蓮子にとってはきっと大切なものだからと笑った。メリーはそれを折って様々な形に変えてくれた。
ガーベラや猫や犬や東京タワーみたいなものに。
今は、薄暗い夕暮れの下を、戦闘機が飛んでいる。
メリーは野球中継を見ていた。
阪神タイガースと巨人の試合だ。伝統の一戦、と言うらしい。
メリーの贔屓のチームは今年は調子がいい。スポーツのことは何もわからないけれど、メリーの応援するチームが勝つとメリーが喜ぶからわたしもなんとなく同じのを応援している。
メリーは上着でばしばしとわたしのことを何度も叩いた。
「ほーむらん、ほーむらん!三連発!」
ちょっと、痛い、痛いって、とわたしはメリーを抑え込む。
別に自分じゃないぜんぜん他人の結果にこんなにもはしゃいだり悲しんだりできるなんて、意味がまったくわからない。それは他人のお話なのに──。そこまで考えてわたしも同じかもしれないな、と、ふと思った。
秘封倶楽部活動記録。
それはあらゆる意味で、もはやわたしの物語じゃない。それでもメリーの言うように、それは、わたしにとっては今でも大切なお話で、その中にある感情はまるで自分のもののようにちゃんとわたしの中に残っている。こうして目を閉じれば、それが本当にあったかのことにように感じられるくらいに。
メリーと出会ったあの日の喜びやメリーを失ってからの悲しみ。
わたしたちの出会いは戦闘機になり、別れは象になった。
あの物語の続きをわたしは生きている。
だから、これは一度秘封倶楽部を失ったわたしが、また秘封倶楽部を取り戻すまでの物語。
だから、これはマエリベリー・ハーンが、そうではないものに囚われて、もういちどマエリベリー・ハーンに戻るまでの物語。
だけど、もしもわたしたちが本物の秘封倶楽部になったのなら、それらの物語は『秘封倶楽部活動記録』のように、すでにばらばらになってそのはじまりも終わりもわからなくなり、あるいは金魚やガーベラや東京タワーに姿を変えて窓際に佇みながら今も月の光を浴びているんだろう。
40
たとえば、こんなふうに。
41
だから、これは、戦闘機にも象にも東京タワーにもなれなかった、わたしたちの”それから”のお話です。
そんなお話を、わたしはこれからしたいんです。
おしまい
中卒メリーがくすくすと笑うとドキドキします。
素敵なお話でした。
難解ではありましたが強烈なものを読み手に叩きつけてこられた気分です。大変楽しませて頂きました。
本物になれなかった二人が、彼女らならではの結論を出そうとしているところに感動しました
素晴らしかったです
毎度毎度、物語を形作っている発想に驚かされています。秘封倶楽部への皮肉にもとれるこの物語ですが、蓮子の感情の表現に強い説得力があり、皮肉というコンセプトに関わらず、充分に楽しめる作品だった思います。とても良かったです。ありがとうございました。
凄い作品でした。お見事でした。
秘封倶楽部らしさからはみ出したふたりの“それから”がより良いものであることを願っています。