Coolier - 新生・東方創想話

歩くような速さで

2021/05/30 18:40:15
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 夕刻の館に、弦が打ち鳴らす音響がこだまする。
 領域にして二百から二千五百ヘルツ。それらを奏でるグランドピアノの傍らに、奏者ではなく指導者として立つ。
 斜陽の中を泳ぐ音波は空気を震わせて、一室を満遍なく満たすべく空間へ散らばっていく。
 令嬢が奏でる曲を聴きながら、振動が肌を打つ感覚に身を任せる。最中に流れた、異質な音。
 それを記憶するために、組んだ腕の先で人差し指を立てた。
 
 
 ● 弥生
 
 
 余韻を秘めた空気の振動が止み、室内は再び静かになる。
 一区切り演奏を終えた目の前の令嬢は、満足そうに鍵盤から手を引き、自信ありげにこちらへ振り返る。
「どうかしら。短期間にしては、技術は良い方じゃないかしら」
 見返りにそう自己評価したのは、吸血鬼の令嬢、レミリア・スカーレット。
 それに答えるは、この部屋に講師として居る私以外ない。
 出来るだけ客観的に聞こえるよう、言葉を選んで所感を説明する。
「言葉を選ばないのなら、表層の技術は良くなったわ。次は手癖を抑えて一つずつ丁寧に演奏すること」
 相手が認識したかを確認するため、一度言葉を切る。
 数秒置いて、目の前の令嬢は自信気な表情をぶすりと崩した。
「ルナサ・プリズムリバー様は歯に絹着せないのね」
「『遠慮無く』というのは、契約の際、そちらから申し出られた要求と記憶しているけど」
「ああまあ、そう言ったっけ」
 あっさりと自らの発言を認めながら、レミリア嬢は鍵盤と譜面に向き直る。それから「手癖。手癖ねえ、うん」と独りごちて譜面の中身を眺め始めた。
 私からの意見は、もう一つだけ。
「それともう少し落ち着いて弾くこと。自分の好きなパートに入ると打鍵が強くなる。総評として、現状ではただ落ち着きがないだけよ」
 こちらを眺める横目はそのままに、目の前の生徒は、ぷう、と頬を膨れさせてみせた。
 吸血鬼の威厳は、おおよそ感じられない。
「はい率直な指導ありがとう、先生様。具体的にどこかしら」
 詳細に説明するため、椅子の傍らに立つ。
「少し失礼」
 断ってから、レミリア嬢の右手に重ねるようにして指の運びを伝えようと試みる。
「四十、八小節目から」
「ん」
 彼女は、無闇に自分の肌に触れられることを好まない。
 出来る限り点接触となるよう、爪に指を吸い付かせるようにして指先を運んでやる。
 一巡だけ、先行して指を運び打鍵する。
「少し意識して筋肉を弛緩させて、急かないで。次の鍵に力が入ってしまう」
 引き上げるような指の運びに合わせて、ごく僅かに遅れて、レミリア嬢の指が追従する。
「ふうん」
 接する部分の少ない手の取り方だが、彼女自身が協力的なため、さほど疎通に苦労はしない。
 レミリア嬢は納得したように声を漏らし、私の手が離れた後に、指示された指の動きの再現を試みる。
 先程よりも緩やかな、足元を踏みしめるような打鍵の音が響く。
「まあ確かに、この方が正しいし疲れない」
「左手が付くと忘れがちだから気を付けて」
「おっと」
 思い出したように、彼女は左手を鍵盤の上に乗せる。それから左手だけ音を出し、動きを確かめてから先程の指の運びを試みる。
 集中した指先がニス塗りの鍵盤と擦れ合い、時折特徴的な爪音を立てる。
 二度、三度。
 黙々と確認したレミリア嬢は、突如両手を上げて集中を解いた。
 アドバイスをしようと伸ばした指を、彼女の視界の外で引っ込める。
「ああ、今日はおしまい。詰め込みの末に一曲と反省会とか、頭こんがらがって来るわ」
 振り子時計の時刻は夕刻を指している。早くて昼頃に起床する吸血鬼にとってみれば、ブランチ時といったところだろうか。
「はい、というわけでギブアップですよ、講師殿。いつも時間が流動的で悪いわね」
「私は構わないですよ。契約自体が時間でなくて月契約ですし」
 定刻の間講師役を行うスタイルは定職に着いている者や人間に近い幽霊等には評判が良い。しかし妖怪や自由人が多い幻想郷では、より流動的な注文の仕方の方が多い傾向にある。
 契約の話をして思い出したのか、レミリア嬢は背もたれに体重を預けたまま指を立てて勘定を始める。
「そろそろ一月になるのか。どうだい、講師から見て私の伸びのほどは」
 中途半端な物言いは好まないだろうと見当は付いているので、率直に評価を述べる。
 そうだろうそうだろう、と。口にこそしないが満足気に頷く様子から、彼女は一定の自信を持ってこの話題を持ちかけたようだ。
「ただ」
「んむ」
「全体的に先走る傾向はあるわ。一般的な奏者として伸びたいのであれば、貴女は少し基礎を抑えるべきだわ。もう少し譜面通りに」
 彼女が教科書通りの奏者になりたいだろうとも思えないが、基礎が疎かでは独創的もただの無作法と化す。何か例えがないかを思考して、一人思い当たる者が居た。
「その点において、ご友人を見習うべき」
 私が名を挙げるまでもなく、レミリア嬢は目を丸くする。
「パチュリーを? どうして」
 同じ館に住む魔女であり、長年の友人である彼女も現在、私からピアノの指導を受けている。競争心をくすぐるようなやり方は好まなかったが、タイプの違う同時期の生徒が、片方の例になる事は珍しい。
「パチュリー・ノーレッジは譜面通りに物事を進めることに関して非常に長けている。一度譜面を分解して読み込んで、それから自分の演奏に移るタイプね」
 彼女は譜面を読み込み、打鍵の長さ一つを気にする典型的な知識タイプだ。その分鍵に触れている時間はレミリア嬢より短いのが気になるが、語り始めれば一長一短。加えて、生徒のやり方をとやかく比較するやり方は指導者として好むものではなかったので、これ以上の話は切り上げる。
「まあ、納得ね。理論を知らずに手を動かすタイプでは無いのは分かってる」
 友人の弾く姿を想像してから、開いた手はそのままに、ふと気が付いたような顔をする。
「パチェが練習し始めてから、弾いてるのを聞いたことがないわね」
 レミリア嬢はパーティーホールのグランドピアノを使用しているが、パチュリー嬢は自らのテリトリーに用意したアップライトピアノを使用している。お互い普段の行動圏に含まれておらず、わざわざ練習を覗きに行くこともなかったため、互いの状況を知らなかったのだろう。
 彼女は名案とばかりに指を立てて進言する。
「パチェのピアノをこっちに持ってこさせて、今度まとめて演奏してみる、ってのはどうだい。効率的じゃないかい」
 率直に言えば、とても有効的とは思えない内容だ。
 集中力は変わり、もう一人の音に釣られ、重奏用の演奏内容が必要になる。加えて耳は一対で、指導者は一人だ。まともに指導が立ち行かなくなる可能性がある。
 言葉を選んで却下する内容を伝える。それから本来の価値である、根本的なことを補足する。
「デュエットは奏者の技量と息が合っている場合に効果的なのよ」
 少しだけ、間が空いた。
 言葉の意味を理解するような沈黙の後、レミリア嬢はひとつ鼻を鳴らす。
「ふん。まあ、まだ先の話だろうな」
 彼女は何故か、満足気な顔をして胸を反らしている。
 
 
 ○
 
 
「魔理沙さん、ありました!」
 声を上げてから、坂下の人影に見えるように腕を振る。
 冬の空を切った手のひらは、情報伝達の代償に私の体温をぐんと奪っていく。彼女が気付いたのを確認してから、素肌同士を擦り合わせて体温を戻しにかかる。
 弥生の寒空は、陽射しの元でも一段と寒い。
「なに、早苗。何だって?」
 聞き逃していたらしい魔理沙さんは、ポケットに突っ込んだ手をぱたぱた遊ばせながら坂を登ってくる。
 それまでの間に私は目標の物に向き直り、一つ手を合わせてお地蔵様に申告する。
 御供え物を回収すること、お許しください。
 それからコートの裾を押さえて屈み込み、持参した花と菓子を置いてから先に備えてあった物を回収する。
 冬の大気に晒された、金属物の冷たさが伝わる。
「へえ、今回のは板状のやつか」
 白い息が視界に入り振り向くと、魔理沙さんの顔がすぐそこにあった。手のひらに収まった板状を転がして、表と裏を見せるようにしてから、彼女に差し出す。
「大きさは違うが、見た目は似てるな」
 彼女はお守りより一回りか二回り大きいそれを、上下にくるくると回し、とりあえず上と認識した向きから順にたどり始める。
 天面のボタン、ガラス窓、十時のボタン、周囲のボタン、底面の穴。
「まあ、間違いないかな」
「年代は違えど、同じ物ですかね」
 再び私の手に渡ったそれに向き直り、電源ボタンを探して、一通り押してみる。それから再び、今度は長押しで全てのボタンを試してみる。
 反応はない。
「電池切れか」
「まあ、やっぱりです」
「なあ早苗、前に聞いたかもだけど、これって電池に繋いで動かないのか?」
 魔理沙さんは、横倒しの電池にコードを繋ぐようなジェスチャーをする。
「残念ながら、私達が探しているものは電池式より新しいのです。中に専用の電池が入っているので、もっと専用の、充電器みたいなのに繋がないと」
「発電機に繋いでも駄目か」
「たぶん、壊れます。ショートしたものは引き取ってもらえないかも知れませんよ」
 そりゃ本末転倒だな。と零して、魔理沙さんは持参したハンカチで機器を拭き始める。ぐしぐしと両手で揉むように拭く様を眺めながら、機器の回収業務に付き添ってどれくらいが経つのか思い出そうと試みる。
 自負するのも恥ずかしいけれども、自分は普段から日付が曖昧になりやすい類の人間だ。咄嗟に正しい数字は出てこないが、間もなく弥生も終わることを踏まえると、こうした捜索の手伝いもおおよそひと月になるはずだ。
 私と同世代の、外界で暮らす少年少女なら一度は目にしたことのあるであろう携帯音楽再生機器。私の知っている物品がちょこまかと流れ着き幻想郷で貴重品として価値を見出していると、なんだか不思議な感情になる。
「でも、やっぱり気になります。イヤフォンも、繋ぐ先もないのに、単体でも価値があるんでしょうか」
 本体だけでは本来の役目を機能しない。この幻想郷で音楽機器を指定した注文も聞いたことがないが、使用用途については本当にわからない。
「なんでもいいさ。私としては、配送込みとはいえ貴重な顧客だ」
 魔理沙さんは息を吐いて磨きそうな勢いで製品を綺麗にする。機能に期待できない分外観を取り戻そうとする様は、魔法店としてきちんとした業者のように見える。
 それから思い出したのか機器が安置されていた地蔵に目をやり、お供え物が既に完了していることを確認すると、安心したように一つ頷いた。
「よし、じゃあ早速納品だ」
「またすぐ、業者さんのとこですか? そんなに急がなくても、ナマモノじゃあないんですし」
 魔理沙さんはピタリと歩を止めると、誰も居ない山道で、周囲を見渡して警戒する素振りをとる。
 それでもなおこちらに首を伸ばし小声で話したそうにしていたので、私からも顔を寄せてみる。
「大きな声じゃ言えないが、ツケが溜まってるんだ。返済は早いほうが良い」
 跳ね上がって声を上げるような真似はしない。
 どちらかといえば「今更ですか」と口にしたくて、魔理沙さんに真偽を問う目線を送る。
 彼女は何時になく真剣な顔付きをしながら、唇の前で指を立てた。
 
 
 ●
 
 
 レミリア嬢が音を上げてから盤の掃除をして今日の分の指導を終えると、珍しいことに彼女から誘いがあった。
「使用人が良い豆を手に入れたらしい。ゆっくりして行かないか」
 そう話す彼女の目は鍵に集中力を断たれた時とは比べ物にならないほどスッキリとしている。声にもすっかり力が戻っており、私の提案を却下するはずがない、といった自信すら感じさせた。
 人のテリトリーに長居して気を使わせるのは、個人的に好むところではない。ただ吸血鬼の令嬢も、自らの館に人を長居させるのが好きとも思えなく、何か理由があるのだろうと判断してその提案を了承した。
 ところが拍子抜けしたことに、彼女から持ちかけられたのは純粋な雑談だった。他愛もない話や血縁に対する愚痴、友人の発明による喜劇を披露する彼女は、若さ相応に外部との接点を求める少女に感じた。
「はいルナサ先生、淹れ直しましたよ」
 相応に話が弾んでいると、傍らについていたメイド妖精が満面の笑みで珈琲のおかわりを勧めてくれた。
 それとは対象的に、視界の端のレミリア嬢は眉を困ったように曲げ、メイド妖精にかけるべき言葉を探しているようだ。
「あのねお前。主人と客人が話してるんだから、そこは静かに換えるべきだろう。メイド長からどういう教育を受けてるんだ」
「だってだって、憧れのプリズムリバー楽団が居られるんですよ! 定期的に拝見できるのは勿論、給仕できるなんてこんな機会めったに無いんです!」
「お前が普段から給料をどう使おうが自由だが、無駄に埃を立てたら減給させるぞ」
 トレーを胸に抱えて小躍りするメイドに合わせて長い栗色の髪が揺れ、足元から小さな着地音が聞こえる。小言を呈するレミリア嬢の声色は、淡々とこそしているが比較的明るい。彼女自体が給仕係の中でも出来が良いようで、これまで訪問した間でも、レミリア嬢と一定の会話を交わしているのを見かけてきた。
 カップを口に運びながら横目を走らせ、脱力している際のレミリア嬢を眺める。
「はー、悪いね。お宅の使用人と違って、うちは変わり者が多いだろう」
 騒霊のルナサ・プリズムリバーは姉妹での生活のためメイドの類は基本的に居ないのだが、彼女には知る由もない。
「変わり者は必ずしも、悪いこととは限らないわ」
「そうね。変わっているかどうかは正直、評価に値しないくらいどうでもいい。大体、幻想郷で外部の目を気にしている者のほうが少ないだろうよ」
 底の知れない、目の前の吸血鬼を眺める。
 私が珈琲の方を好むと記憶されているのだから、ある程度の価値には分類されているのだろう。
 講師役に対する評価付けは、大概一時的な枠組みなのだが。
「だからこ、そ」
 彼女の言葉を遮ったのは、小さな異音。
 中身の減ったレミリア嬢のティーカップが、カタカタと小さな打刻音を鳴らす。
 確認のために、自分の重心に意識を向ける。するとごく僅かだが、椅子ごと自分の体が揺れていたのを感じた。
 しかし一時的だ。長い揺れは来ず、揺れる感覚ももう収まっている。
「地震かしら」
 何気なく呟いてレミリア嬢へ向き直ると、目線は私ではなく、隣のメイド妖精の方を向いていた。その眉は、先程より幾ばくか険しい。
 メイド妖精の方も、睨まれたからではなく、緊張して確認する表情を見せた。彼女のこういった表情は珍しい。
「すまない、客人よ。少し用が出来てしまった」
 レミリア嬢はそう言って身を捻ると、テーブルに手を着いて気怠そうに腰を上げる。
「私は外すが、ゆっくりしていってくれ」
「お嬢様、私が様子を見て来ましょう、か」
 メイド妖精が言い切る前に、レミリア嬢が片手で言葉を遮る。それから見せた手の平を体の前に戻すついでに、メイドに小さくハンドサインを送る。
 人差し指をメイドに向け。
 床に向け。
 親指を下に向ける。
「ひぃ」
 私の視界に映らないよう体の影に隠す配慮はしたのだろうが、最後に手首を捻った彼女の手の動きは明らかにそれだった。
 "行けば一回休み"を暗に示されたメイド妖精はその場であやふやに見送りの言葉をかけ、レミリア嬢は聞こえた様子もなく、ぽすぽすと絨毯の上を去っていった。
 日が沈む夕暮れ時。
 誰も言葉を発しなくなってから、ゆっくりと珈琲を口にする。
 小さい歩幅が完全に視界から外れてから、ようやくメイド妖精が再起動を果たした。
「す、すみません、たまに起こる急用なのでご容赦ください」
「別に気にしてないわ。十分堪能したし、お暇時かしら」
 顔を戻してメイド妖精の表情を確認すると、動揺こそあるが、下方を意識する様子はない。急用の心配は、もうしていなさそうだ。
「美味しい珈琲をありがとう。ご馳走様」
「ありがとうございます。ルナサ様のためなら張り切っちゃいますよ!」
「そこはお嬢様のために張り切りなさいな」
「うち、来客時以外は基本的に紅茶派ばかりなので」
 中身を確認してハンドバッグを閉じていると、メイド妖精が「次にいらっしゃるのはパチュリー様の日ですかねえ」と鼻歌でも鳴らしそうなトーンで笑顔を見せる。
 同調する余裕がなく「そうね」と返すだけに留まってしまう。
 パチュリー・ノーレッジ。
 紅魔館に住まう魔法使い。知識を求める理論派。私のもう一人の顧客。
 予想以上に言葉が続かず、気を引いてしまっただろうかと意識を向けた際には既に、メイド妖精は私に不思議そうな目線を送っていた。優秀なメイド妖精の彼女は、私がぼうってしていただけではないことに、感づいてしまったようだ。
「パチュリー様がどうかしましたか」
 ん。と繋ぎの発声をしながら、私の持ちかける話の深刻さと、会話の相手を検討にかける。
 然程時間をかけずに、私の脳は情報を開示する方を選択した。話題としても、不自然なタイミングではないだろう。
「別に、貴女に愚痴を言うつもりではないし、ただ真実を話すのだけれど」
 言い訳ではなく、本心からの予防線だった。
 恐らく私は、これから話題に挙がる当人に対しても、訊ねられれば真実を話せるだろう。
「パチュリー・ノーレッジ嬢について。私、彼女のことを苦手に感じているのよ」
 目の前の大人びた妖精が睫毛をぱちぱちと揺らし、言葉を飲み込むのを待った。
 
 
 ○ 卯月
 
 
 子供の頃から、図書館は好きな場所の一つだった。
 人よりも、本が優先される空間。
 現在よりも、過去が優先される場所。
 そういった特別性を抱えた空間が好きなのは子供の共通項。私もその例に漏れず、集団遊びもお役目もない日は、ほぼほぼ寺子屋に併設された空間に席を置いていた。
 背が伸びた今でも、紙の匂いを蓄えた図書館の空気を吸うのは心地良い。
 足音すら吸収されるような静寂。さらには、吸いきれなかった足音を悔やむような、歩幅を気にしてしまう独特の雰囲気に包まれていたい。
「そんなにそろそろ歩かなくても、滑りませんよう」
 背後から聞こえてきた声に振り向くと、栗色の髪をしたメイド妖精さんが本を抱えて降下して来ていた。
 感情に浸っていた経緯を辿るのも手間なので、一番最初に頭を過ぎった理由を口にする。
「柔らかかったものでつい、絨毯を、踏み締めていたのです」
「ああ、最近入れ替えたばかりですからね」
 自称妖精メイド隊最優秀層という彼女は、時たま図書館の司書にまで仕事を広げていた。当人曰く「アルバイトですよアルバイト」とのことだが、この館のメイドに副業は許されているのだろうか。
 飛行中だとあまり気にならないが、横に立って並ぶと、やはり妖精らしく体躯は小さめに感じる。
「思っていたのですが、司書さんたち、本を浮かせて運んだりしないんですね」
「大切に扱えとの指示があるのと、魔術書になると、何かしら誘発の危険があるので」
 世間話のつもりが、危険物の話になってしまった。
 感嘆の相槌を打ちながら彼女と本棚の間をぽそぽそと歩いて、ラウンジスペースへ戻ってくる。
 開けた空間に四つ並んだ机は既に二つが埋まっている。
 入り口の扉から奥側の机、私達が出てきた本棚から右手前には、机一つを占拠するようにスクロールや本が広がり、図書館の館長である魔女、パチュリーさんが何かの研究作業をしていた。
 その斜め向こう、対角の机では、魔理沙さんがメモ用紙とペンを広げながら、おとなしく本を読んでいる。集中しているのか頭を悩ませているのか、顎に手を添えて目線を走らせる姿を見ると、彼女がれっきとした魔法使いなのだと再認識する。
「パチュリー様、言われた本持ってきましたよ、一部の偉人のものはありませんでしたが。あとこの間一緒に読んでた本も」
 私よりも一足先に折れて曲がり、抱えた本の背表紙を見せて運搬報告をするメイド妖精さん。魔理沙さんの隣に戻るまでなんとなく会話を聴くと、有名な作曲家の名前が聞こえて来た。私も知っているような偉人だ。
 元の座席まで戻り、引きずる音を立てないよう、僅かに持ち上げるように椅子を引く。
 それからふと、館長に報告しておこうと意識が向いた。この館の図書館は閉鎖的だ。禁帯出はもとより、そもそも読み進めてはいけない罠のような本まで存在する。
 私が手に取るような文学系のエリアは問題が無いことが多数だが、表紙を偽ったものが紛れてしまっている危険性もある。余裕がありそうだったので彼女の視界の端に入るよう表紙を立てて、パチュリーさんの判定を仰ぐ。
 遠距離から表題が読めたのかは不明だが、扉絵や本の装飾で状態を把握したのだろうか。すぐさま片手が上がり、問題ない旨が示された。
 暫くして。
 本を数ページ捲った辺りで、パチュリーさんが椅子を引いたのが見えた。
 横目を向けると、首を伸ばして振り返ったメイド妖精さんと何やら話している。
「今日の準備してくるわ」
「え、私がやりますよう」
「いいの。実験の準備は自分でしたいでしょう」
 聞こえてきた会話に、手を止めて考えてしまう。そういうものだろうか。そして、実験と同じという表現は何やら物騒に聞こえてしまうのだが。
 ちらと目をやると、メイド妖精さんも似た疑問に至ったのか、パチュリーさんの背中を見送りながら首を傾げていた。
 私の目線を感じたのか、何となくか。メイド妖精さんは首を傾げた角度のままこちらへ向き直る。それから遅れて首の向きを戻し、長い髪が揺れる。
「パチュリー様も、急に思い立って始められたんですよ。あの様子だと、結構熱が入っている時の動きです」
 なんとも意外、というのが正直な感想だった。パチュリーさんはあまり冒険したり新しいことに手を出すタイプに思えなかったからだ。それとも、何かしらの有用性を見出したり、必要に駆られたりしたのだろうか。
「実際に手を動かすのは、正直イメージできてなかったです」
「やっぱり、性格的に、毎回座学を要求するそうです。なんでも"納得しないと手が動かない"だそうで」
 疑問点の解消は大事だろうが、ピアノがある環境で講師が居るならば、ひたすら手を動かすものなのだと思っていた。
 そう話すと、メイド妖精さんは「そうなのですよ」と頷いた。
「パチュリー様と、講師様の反りが合うか不安なのですけれども」
 それからメイド妖精さんは「わわ」と小さく声に出して卓上の片付けに急いで戻った。目線のあった先を見ると、図書館入り口の扉が開かれ一人の来客の姿があった。
 シャツに黒いベストとスカート、黒いハットを被った姿は見覚えがある。ルナサ・プリズムリバーさんだった。
 メイド妖精さんはルナサさんに今気づいたように、向き直ってお辞儀をした。
「パチュリー様は今準備されてます。定刻までに戻るのでお待ちください」
「分かったわ」
 ルナサさんはどこかの会合で私に会ったことを覚えていてくれたのか、こちらの座席ににっこりと微笑んだ。
「ご機嫌よう早苗さん」
「こんにちは」
 隣の魔理沙さんは普段通りトリッキーに、頭の隣に敬礼のように当てた手を振って挨拶に代える。魔理沙さんが発声を控える時は、集中したい時だ。それを知ってか、ルナサさんも軽く手を上げるのみに留める。
 何となく、パチュリーさんがピアノの準備をして、机の上に譜面を広げる様を想像する。座学から入るというのも、学校の授業とはまた別なのだろうか。
 思えば以前から、音楽の話をする人は身の回りに居なかった。友人にも演奏が好きな子は居たが、あまりそれについて話す機会もない。よく考えてみると、意外と、音楽関係は聴く音楽以外の話題を持ち合わせていない事に気が付いた。
 少し迷ったが、機を逃すよりはずっと良いだろう。それくらいの理由で、私は発言に踏み切るに至る。
「ルナサさん、もし良ければなんですけど」
 応答の返事を返しながら、それでも蔑ろにすることなく、彼女が体ごと向き直る。
「今度、お茶でもしに行きませんか」
 声を上げるでもなく、後ずさるでもなく。
 ルナサさんは不思議そうな目をしたまま、ゆっくりと首を傾けた。
 
 
 ●
 
 
 人里の喧騒をできるだけ回避して、目的の通りへと向かう。
 自分が有名人だという自惚れは無いが、元来人混みを好まない性格に加えて騒霊は確実に人間とは異なる存在だ。無駄に人里に影響を与えるような真似は、幻想郷のマナーとしては避けたい。
 路地を一本入った、歩き慣れた飲食通りを歩く。道中誰の目にも目立つことなく、目的の西洋風のドアを押し開く。
 ベルの音と共に、木目の香りが流れ出してくる。
「こんにちは」
 馴染みの喫茶店では、若い女性のマスターが目を閉じて微笑んでくれる。それからグラスを拭く手は止めずに、目配せをして店の奥を指し示す。
 指定席のつもりはないのだが、空席であれば選ぶいつもの席に、今日は先客が居た。
 東風谷早苗だ。
 ワックス越しの床板が鳴らす靴音に、彼女ははっとした様子は見せなかった。窓際席から、通りを歩く私の姿を認識していたのだろう。
 早苗さんは長い髪を揺らしながら、挨拶を口にした。
「こんにちは」
「ええ、こんにちは」
 待たせただろうか、といった類の言葉は口にしなかった。
 互いに時間より前に来ているのだし、私個人がそういった会話を一言目として好まないのもあった。
 椅子を引いて向かいの席に座ると、店員が静かな足音で近づいてくる。
 少し考えてから、普段と同じ珈琲を注文した。
 違うのは、会話に備えて、Sにサイズに代えるのみとして。
「ここへは、迷わずに来られた?」
 言葉をかけながら彼女の手元に目をやると、暖を取るようにカップを包んだ影から、仄かに湯気が見て取れる。さほど時間差はないようだ。
「実はルナサさんにご紹介いただいてから、事前に一度、こちらに来てみまして」
「あら、慎重派なのね」
「まさか。人並みですよ」
 早苗さんは自分で笑ってから手元を持ち上げようとして、すぐに動作を取りやめた。
 私の飲物が来るのを待つことにしたのだろう。置き直された陶器のカップの底が、小さな音を立てる。
「人並みに、女の子してるだけです」
 すっかり霊慣れした彼女の笑顔に目線を戻すと、先に向こうが口を開いた。
「ルナサさんの私服姿、初めて見ました」
 まじまじという様子ではないが、彼女の目線は私の胸元から袖口辺りにさっと動く。
 言われてから、自分がどんな格好をして来たのかに意識が向く。
 なんてことはない、春物の黒いワンピースに、色を合わせたチョーカー。それとせいぜい真っ黒になるのを避けたブレスレットだ。見慣れない格好が、彼女の目に留まっただけだろう。
「今日は別に、家庭教師でもないのでね」
 目の前の彼女が着ている服装の呼称を思い出す。確か、セーラーといったか。
 そういえば、彼女とは私服で出歩いている時に出会ったことはないかも知れない。
 色外しの黄色いブレスレットに目をやりながら、ぼんやりと記憶を辿る。手の届く範囲の記憶では、紅魔館以外で彼女との接触は思い当たらなかった。
「それにしても今日は珍しいお誘いだったわ。そんなに何か、訊ねたいことでも?」
「図書館のお客さん同士、お話してみたいと思ったんですよう」
「私は口下手だし、神職の知識はないから楽しいかは分からないわよ」
 私達を客観的に配置すると、音楽関係者とも、指導相手とも重ならない立ち位置になる。早苗さんはその事実を認めた上で、微笑みながら続ける。
「私、違う分野の方とお話ししてる時間が好きなんです。自分が神社育ちなのもあって、どの方も魅力的で」
「珍しい考えね」
 爪を触りながら言葉を反芻していると、誤解を招いただろうかという考えに至る。彼女が回答する前に、続けて言葉を紡いだ。
「別に否定しているわけではないわ。私もこういう時間は好きだし、普段関わらない関係性は、なんていうのかしら」
「刺激になる?」
 合点がいったようで、二の句が継がれる。
 彼女にとっても理解できる点だったようで、二人そろってにっこりと笑って頷いた。
 調度良くやって来たカップに指を巻き付ける。
「よく、ここで曲を書いたり、原稿を考えたりしてるのよ」
 彼女に笑ってからカップを口元に運び、湯気を吸い込む。それから少しだけ傾けて、温かい珈琲を喉の手前まで迎え入れる。
 豆の香りを蓄えた温水が、じんわりと粘膜に広がってゆく。
 音が立たない程度に飲み込んで、カップを戻す。それから、いつの間にか閉じていた瞼を開ける。
 湿気を含んだ睫毛は、先度よりごく僅かばかり重たく感じる。
「うん」
 一つ溢してから、早苗さんに私がこの店を好んでいる理由を話そうか考える。が、それも野暮に思えて、彼女がカップを傾けるのを眺めるのみにした。
 目線があった彼女は口元を隠したまま、朗らかに笑う。
「ええ。ルナサさん行きつけなの分かる気がします。落ち着きます」
 それから、他愛もない話をした。
 珈琲の話、お茶の話。図書館で読む本の話、霧雨魔理沙の話。
 話題の一つで、彼女が切り出した。
「今のあの、館さんで、講師を始めたきっかけって何だったんですか。売り込みとか?」
 彼女は周囲を気にしてか、紅魔館を変わった伏せ方で呼称した。
「いえ、家主の方からオファーの手紙が届いたのよ」
「直々ですか。指導のお仕事してるのって、ルナサさんだけなんですか?」
「妹達も分野によって振り分けてやってるわ。ピアノに関して言えば、私より妹の方が得意だけど」
 早苗さんは丁度カップを口に運んだタイミングだった。目線だけを使って「それではどうして」という意思が帰ってくる。
「技術の秀でている者が指導者に適しているとは限らない。端的に、私の方が指導に向いているらしいのよ。学ぶのと教えるのとはまだ別というか」
 伝わるかしら? と念押ししてみる。早苗さんは頬に指を当てて「なるほどなるほど」と口に出して理解を試みている。
 そこからもう一つ首を傾けたことで、指先がもうひとつ頬肉を押し込む。
「とすると、お館さんは、ルナサさんが出向くような大事な、顧客?」
「もう一つ。令嬢の講師経験はあっても、種族的には初めてだったから妹は萎縮するかと思ってね」
 結果として、後者の点は杞憂に終わった。それを踏まえた上で、彼女は笑ってくれる。 
「あの方も自由だけど真面目で、不思議な方ですよね。ピアノを始めるっていうのも急だったんでしょうね」
 珈琲を喉に通しながら、彼女が口にした点について考える。
 レミリア嬢が楽器に手を出した動機を、私は知らないままだ。
 時期を逃したといえばそれまでだが、特別明言される機会もなかった。改まって聞くことも出来たが、特別それをする理由も見つからない。
 自分から来ないなら、無闇に踏み込む必要もない。
 そんな私の思想が、その話題の解答を得る機会を見つけられずにいた。
「どうかしました?」
 彼女の声に目線を上げてから、片手を添えたカップを口元に運ぶ。
「ううん、なんでもないわ」
 生徒にどんな課題を出そうか考えていたのよ、と話すと、彼女は冗談と捉えたのか「スパルタ指導なんですかあ」とおどけた。
 彼女を眺めながら、ふと、頭に過ぎる。
「外の世界の音楽」
 私の言葉に彼女は疑問符を浮かべた。
「外の音楽の話を教えて。貴女の聴いてきた、幻想郷の外の音楽」
「ええ、よろこんで」
 それから早苗さんはふふふと声に出して笑った。
「なんだかこうして話していると、放課後デートみたいですね」
 接頭語の意味は分からなかったが、どうやら彼女はこの時を楽しんでいるようだ。
 曖昧に微笑むと、彼女は満足そうににっこりと笑った。
 
 
 ○
 
 
『記憶の私は泣き虫なれども、せめて最後に笑顔を刻もう』
 ふむ。
 小説の一行から目線を上げて、小休止のために本を丁寧に閉じた。
 なるほど。
 それから長めの瞬きをして、登場人物の感情を想像する。
 なんと情熱的で劇的なんだろう。
 読んでいるこっちの気持ちまでムズムズしてしまう。
 文字の世界から現実に帰ってきて、落ち着くために周囲に目線を向ける。私が座るのは学生の集う教室でも大人がグラスを傾けるバーでもなく、四方に知識を蓄える大図書館。
 そのラウンジに居ることを確かめるように、背もたれに身を預けて表紙を撫でる。
 先程までの文章が描いた情景を夢想しながら、登場人物ではなく、本の心配をする。これだけの感情をインクにして刻まれて、本の方は恥ずかしさを感じたりしないのだろうか。淡々と刻印された文字を提示しているだけなのか、それとも、ときめかせてやったぞと誇らしげなのか。
 それから連動して、ふと、先日のルナサさんとの会話を思い出す。
 物に宿る感情。
 そして物が与えられてきた記憶について。
 たしか、私物の好みについて話していた流れだったか。
 対面に座り日差しに照らされたルナサさんは、あの時静かに私に訊ねたのだった。
「早苗さんは、物の記憶って信じるかしら」
 その時の私は、カップに唇を付けたまま考えた。記憶力とか、物品に対する認識を聞かれているのではないのだろうな、と。
「付喪神、的なことでしょうか」
 下唇を付けたままの吐息はカップの中に流れ込み、甘いラテに波紋を作った。
「闊歩してるのも見ますし、神職としても信じてます。私物に宿ったことは、齢上ないですが」
「そうね、それとは、少し違うかも」
「少し違うのですか」
 私の言葉にルナサさんは、伏せた睫毛を持ち上げた。
「物に宿る意思というより、物が持つ記憶。それが経験してきた、蓄えてきた記憶。何となくだけど、分かるのよ。手に取ると、流れ込んでくるものがある」
 自分の身の回りで思い返してみたが、自分の記憶が蘇るケースを除き、該当する経験はなかった。
「これは私が奏霊だからなのかしら」
 彼女は悔いたトーンではなく、ノートにかき出した疑問点を読み上げるように、静かに口にした。
「でもでも、素敵なチカラだと思います」
 ルナサさんは「うん、便利だ」と笑みを溢してカップを傾けた。
「ルナサさんが気がつくってことは、音楽関係のものなんでしょうか」
「そうね。私だけでは気に留めなかった音や旋律が、物の記憶を伝って教えてくれる。それは興味と形を変えるし、私の場合においては、それも曲作りの最中は特に」
「刺激になる」
 私が言葉を継ぐと、彼女は噛み締めるように微笑んだ。
「そうなのよ」
 窓の外に目線を向けながらだったが、ルナサさんはハッキリとした声で話した。
「そうやって人の記憶を分けてもらうことは、至極幸福な事柄なのよ」
 その横顔は演奏者として誇らしげで。
 尚かつ一人の少女として密かな喜びを感じているような、幸せそうな微笑みだった。
 私が日常で出会える記憶は、巫女の神事として具現化されたものを除けば、こうした本に明確に残された記憶、あるいは記録だけ。
 手元の本を眺めながら、やはり人間の大きな発展は文字と書記にあるのだなあと、少し大げさな考えに至る。
 図書館の空気はひんやりとしていて、呼吸の度に思考を冷静にしてくれた。その最中。
 がたん、と。
 視界の端で人影が動いた。角机で羽ペンを手に取っていたパチュリーさんが立ち上がったのだ。
 片脇に二冊本を抱え、ぽすぽすと通路側へ歩いてくる。本を書庫に戻しに行くのだろうか、思案はしているようだが、気配は鋭くない。
 今日は機嫌は悪くなさそうだ。
 傍らを通るタイミングで、彼女に話しかけてみることにした。
「パチュリーさんって、どうして楽器を始めようと思ったんですか?」
 唐突な私の質問に、パチュリーさんはゆっくりと首を回して私に目線を向ける。
 二度瞬きをして質問の意味を噛み締めるように間を持つと、正面に向き直りながら答えてくれる。
「解読に、必要だったから」
 話題を返す声に、戸惑いは感じられない。
 失礼な話、今日は調子が良さそうで、世間話に乗じてくれそう、と感じたのは間違っていなかった。
 体調によるものか機嫌によるものかは分からないが、最近見分けが付くようになってきた様子を眺めていると、続きを話してくれた。
「よくあるのよ。セキュリティの為に一定の知識を持ち合わせないと文字の認識すらさせない魔法のかかった書物が。それを解読し、パスするために必要な知識を入れる」
 入りが未知の言語で書かれた文書を読むのに近い、かも。と彼女は補足した。
 納得していると、傍らの本を一冊、片手で開いてこちらに見せた。
「例えば、これ。あなたは何章まで読める?」
 突然の流れと出題に驚いたが、開かれた本に目を向けると、何やら目次のような頁が開かれていた。始まりの数ページにあることと、改行しつつ見開きに文字が並んでいることから恐らくそうだ。
 反射的に、左上に目を向ける。残念ながら履修したことのない外国語が綴られていたので狼狽えたが、すぐそばでギリシャ数字が章数を示してくれたので助かった。
 左側の頁、三分の二程度までは順に数字が増えていくのが分かった。それ以降は文字が潰れているような、急に言語が変わったかのように何も読み取れない。
「えっと、ここ、までは数字が読めます。それ以降は、数字なのかも分からないです」
 私がおずおずと指で指した行を目で追い、パチュリーさんは一つ頷いた。
「なるほどね。少なくとも今の時点で、私よりあなたの方が演奏学についての知識があるのは分かるわ」
 私が驚いているとパチュリーさんは「私はその前の章の時点で読めないの」と目次に目をやった。
 それは悔しさも嫌味も感じさせず、客観的に検討するような声だった。
 パチュリーさんにもそんな分野が。と言いたかったが、イメージで話すのは失礼な感じがして、飲み込むことにした。
 あれ、でも。
「読むためなら解説書とか楽譜の解読でも、なんとかなりそうな気も」
 パチュリーさんは私の言葉に、黙って一回頷く。
「実際に手を動かすほど、興味が湧いてきたって感じですか?」
 決してパチュリーさんが演奏について目を輝かせるのを想像できなかったとかでは、ない。
「そうね、四分の一くらいは」
 結構少なかった。
 パチュリーさんは付け加える。
「ただ、レミィが始めてたから」
「レミリアさんが」
 今度はあっさりと、腑に落ちた。
 彼女は率先して新しいことに着手するだろう。そして独学で始めようとするには、十分すぎる書庫が敷地内にある。
 行けると踏んで始めて、思ったより難しく、プリズムリバーさんに話をつけた。
 比較的よく聞く話で、自然な流れだ。
 いつの間にか傍に来ていたメイド妖精さんが語りかける。
「早苗さんは、弾かれないんですか?」
 メイド妖精さんの目線はこちらを向いていた。
 少しばかり期待を含んだ目に応えられず、先に笑いが溢れてしまう。
「私は、駄目だったんですよね。子供の頃興味はあったんですけど、難しくて」
 ぎこちない指を表現しようとして。その広げた指さえも小恥ずかしくなって、すぐに引っ込めた。
 メイド妖精さんと小さく笑っていると、ドアが開かれ、誰かが入ってきたことを告げる。
「あ、来た」
 パチュリーさんの声に目線を辿ると、本棚の間から足音が聞こえて来た。
「おお、今日はお客が居たのか」
 記憶に残っているが、決して馴染み深くはない、鋭い音だ。
 声の主はさっと目線を走らせはしたが、あまりこちらを気にする様子もなく、つかつかとパチュリーさんに近づく。
「色んな客が来るなら有料にしたらどうだ。魔女は慈善事業じゃないだろう」
「嫌よ。徴収と会計は誰が行うのよ」
「私以外の、数字に強い奴だ。ねこばばしない保証があるならもっと良い」
 レミリアさんの視界に、魔理沙さんが映ったようだ。首を回してそちらを眺めてから、私の方へも目線を向ける。
「ま、贔屓の業者なら別に構わないのかな」
「お気遣いありがとうございます」なのか「お邪魔してます」なのか、自分でもハッキリとしない会釈をそれとなく返す。
 レミリアさんは片手を上げた魔理沙さんに軽く返事を返し、それ以上発展させることも、嫌味を言うこともなく、パチュリーさんと何やら相談し始めた。
 私は会話が終わったこともあり、座席に向き直って再び本を開いた。
 原則として静寂である図書館の空気。それを介して、盗み聞くつもりはなかったが、グランドピアノを物置から引っ張り出すとか、こちらでも練習してみたいがピアノは何処にあるのかという旨の話をしているのが聞こえた。
 気になって目線をやると、パチュリーさんが片手で後ろの方、本棚の奥を指差しており、その方角の扉へレミリアさんが歩いていくのが見えた。間取りからして、小ラウンジか書庫があるのだろうか。
 暫くして、扉の向こうから適当な鍵を押さえた音と「ペダルってどれがどれ?」という声が聞こえる。
「ドアを開けたまま弾かないで」
 諦めたような声でパチュリーさんが踵を返し、水魔法を手に灯しながら本棚の奥へと消えていった。
 
 
 ● 皐月
 
 
 継続は力なり。
 地味で曖昧模糊な格言だが、私の信じる言葉の一つだ。
 私は自分の信条を人に押し付ける類の騒霊ではないのだが、目の前の彼女は、先の言葉に当て嵌まる進歩を見せたのではないか。
「どうした、見違えた様に魅了されたか」
 私がぼんやりと考えていると、レミリア嬢が挑戦的に目を細める。丁重に否定しておく。
「いいえ、魅了はかかっていませんし、目線を置いていただけです」
「当然だ。はなから行使もしていないさ」
「ただ、辛抱強い方なのだと、思いを改めはしたわ」
 私の言葉に、目の前のお嬢様は意外そうな、無防備な表情を一瞬見せた。
 無礼に物申そうとしたのか口を開きかけたが、立てた指を下げると共に、それを取り止めたようだ。
「物怖じしない講師様で助かったわよ」
 アイスティーに口をつけながら、レミリア嬢がある程度の評価を下してくださる。
 顧客からの評判が悪くないのは、大事な事だ。
 からん。と。
 彼女の置いたグラスの中で、氷が滑って音を立てる。彼女の紅茶も私の珈琲も、最近は冷たいものに替わっていた。
 夏が始まるのだ。
「氷が溶けきる前に本題を話しておこうか」
 レミリア嬢の言葉に目線を戻す。
「コレの話だよ、コレ」
 レミリア嬢は渋そうな顔をしながら、親指と人差指で輪を作っていた。
「コーチングフィーの、授業料の確保が底をついたらしい」
 それから「こっちの方が表現が良いか?」と手の平の上に何かを握るような仕草をした。
 授業料も無限ではない。さして驚くことでもないし、パチュリー嬢からもそれとなく在庫を示唆されていた記憶もある。
「そう。数に限りがあるものでしょうしね」
 外来の電子的な音楽の記憶媒体。
 古道具屋の店主曰く、名をウォークマン。
 それを複数月に渡り紅魔館が用意出来たのも、紅魔館の幻想郷における影響力の高さを示す証拠なのだろう。
「霧雨魔理沙に捜索させてたんだけど、もう無理だの、あるわけないだの、逆ギレ状態でさ。パチェがうんざりして購買契約を解いたのよ」
「想像に容易いわね」
 成る程、やけに紅魔館で霧雨魔理沙を見かけると思っていたら、入荷先は彼女だったのか。
 ストローを咥えながら、彼女の魔法店主としての評価を改める。
 冷たい珈琲を喉に通してから、提示された情報に回答を組み立てた。
「仕方がないけれど、物が無いのなら、契約内容を見直さないといけないわ。端的に、物を変えるか、内容を変えるかなのだけど」
「ありがたい申し出だけど、レッスンは一区切りとしようと思ってるの。私もパチェも、まあ困らない程度にはなったし」
 文句の感情は無い。彼女の自己評価通り、ちゃんと準備期間を設ければ、一般的な演奏は出来る範囲に収まっているだろう。
 先ほど頭を過ぎった継続と成果を結び付ける言葉が浮かぶ。
 それから、以前東風谷早苗に言われた言葉を思い出す。口に出して褒めてやらねば、生徒は知らないままだと。
 少し言葉を考える。
「短期間だけど良く伸びたのは、言葉を理解して、自己練習を続けた成果よ。貴女は、良い生徒だったわ」
 レミリア嬢は「はは、そうだろうそうだろう」と満足気だ。
 それから落ち着いた表情に戻り、じっとこちらを眺める様子を見せる。それからふっと目線を細めて笑みを浮かべた。
「その様子、他人を褒め慣れてないだろう。ぎこちない先生は新鮮だなあ」
「ぐむ」
 指摘され、反射的に声が出る。
 紅潮しそうになる頬を落ち着けるため、深呼吸で整えにかかる。目を瞑って息を吸い、鼻から吐いた。
 続くレミリア嬢の様子からすると、怒っていると勘違いされたのかも知れない。
「冗談だ、気を悪くするな。だが、パチェには是非言ってやってくれ。奴は特に褒められることに慣れてないからな」
 パチュリー嬢が他人と評価し合う情景を想像しようとして、失敗した。
「さて、今日呼び止めたのは、授業料じゃなくてある物を渡さればならなくってな」
 レミリア嬢は横目で傍らを見ると、メイドが用意したカートの中から一通の洋封筒を指先で拾い上げる。
「招待状だ」
 渡し際に二回反転させ、何処にも宛名のない封筒であることを示す。
 直々に直接渡すつもりだった、ということだろう。
 受け取った封筒は軽い。
 外観から何かが足りないと思ったが、すぐに封蝋がないことに気が付いた。
「拝見します」
 断ってから開くと、中には薄い便箋が一枚。
 慎重に取り出して広げると、中身にはすぐ目が通った。紛れもなく、演奏会の招待状だ。
 日時は月末の夜。場所は紅魔館。奏者はレミリア・スカーレットとパチュリー・ノーレッジ。
 反射的に、頭の中の暦表を指でなぞる。
「都合はいかがかな?」
「ええ、空けておきました。こちらのメイド妖精さんからしきりにスケジュールを聞かれていた日だったので」
「奴め、もう少しそれとなく確認できなかったのか」
 これだから妖精は。
 館の外に目線をやりながらそう溢すレミリア嬢は、決して不機嫌な様子ではない。
「まあ忘れずに押さえた時点で及第点か。とにかく、私らが終わった後はパーティーでもと考えている。取捨選択して人は呼ぶつもりだから、妹殿も連れて来るといい」
 その際に、気分が良ければ是非一曲。とレミリア嬢が付け足す。
「妹達と来ると楽団という扱いになるから、講演料を頂かなくてはいけないわ」
「ならばこちらは、設備相応の会場費を頂こう」
 反射的に、幾らぐらいだろうと周りに目線を走らせる。大規模なホールのように専用施設ではないが、家具の一品一品がレア物なため、相当を言い張れそうな空間だ。
 私が目線を戻すと、レミリア嬢は、納得だろう、と言わんばかりに少し背筋を伸ばす。
 それから硬直を解いて椅子に背を預けると、紅茶に手を伸ばす。
「まあ公演の件は、気が向いたらで構わないよ。うちも意外と、理由を付けて人付き合いさせなければならない奴らが居るんだ」
 指折りこそしなかったが、彼女は対象を複数形で呼んだ。
 パチュリー嬢を指しての言葉にしては、不自然だ。とすると、彼女の周囲には他の対象者が居るらしい。恐らくその発言に自身は含まれないだろう。
 少し表情を眺めてみたが、詮索も無駄だと思い、意識を外した。
 無闇に踏み込むことではない。
 話してくれたら、真摯に応じればいい。
 
 
 ○
 
 
 月末の夜。
 区切りが良いのか、意味合いがあるのか。行事物に指定されやすい日の夜に、私と魔理沙さんは紅魔館にお邪魔していた。
 比較的急に伝えられた、紅魔館でのレミリアさんとパチュリーさんの演奏会。
 どういうわけかウォークマン回収の労いという名目で関係者に含んでもらったので、いきなり会場にて待機というようではないようだった。そこそこのドレスコードで、メイド妖精さんに先導されて関係者室を目指して廊下を歩いていた。
「さあさあどうぞどうぞ」
 そう言って扉が開かれたのだから、てっきりレミリアさんとパチュリーさんが居るものと思い込んでいた。ところが予想に反して、関係者室として通された部屋に居たのは、ルナサさんだった。
「おや、部屋間違えたか?」
「間違えていないわ。御二方は御召替えの最中とのことよ」
 手元の文庫本を閉じ、ルナサさんはこちらへ顔を向ける。
 彼女の服装は私服やドレスではなく、いつかのステージで見たような黒いベスト姿だった。
 恰好をお揃いだと笑う魔理沙さんの横から、卓上に置かれた、アクセサリーケースのようなものが目に付いた。落ち着いた外装の色を見るに、ルナサさんの私物だろうか。
「あ、それ」
 声に出してしまってから、急いで口を閉じた。別に盗み見るつもりはなかったが、意外なものが目についたのだ。
 ケースの中には、魔理沙さんと捜索した、あのウォークマンが並んでいた。
「これね」
 ルナサさんは気に留める様子もなく、並んだ鮮やかな機器に目をやる。
「聞くところによると貴女達が見つけて来てくれたんでしょう。折角だからお礼を言おうと思って」
「ああ、まあ別にそんくらい」
 お礼を言われたものの、魔理沙さんは電源を入れる術がないことを知っているからか、少し複雑そうだ。
 事情は分からないが、魔理沙さんが紅魔館に渡していた回収物を、ルナサさんが引き取っていたようだ。恐らく騙すようなことはしないだろうから、機器として機能しないのは承知の上だろう。
 ケースの様子からすると、機械屋に持っていき修理する様子でもなさそうだ。見た目の趣味等で集めているのだろうかと考える。ルナサさんのイメージにしては、少し意外にも感じる。
 そんなことを考えていると、別の妖精さんと話していた栗色のメイド妖精さんが、綺麗そうな白いハンカチに包んで何かを持ってきた。
「ルナサ・プリズムリバー様、お持ち致しました」
 粛々とテーブルに置かれたハンカチが彼女の手で広げられると、中からは更に二台、ウォークマンが出てきた。
「確かに。有難う」
 ルナサさんは一台ずつ手に取り、じっと手の中で見つめてから、ケースの中に並べていく。
 液晶と十字ボタンを持つものが二台。棒状の表面を押す、またはひねる操作のものが四台。
 前者は外界人にとってはすっかり見慣れた意匠であり、機械的という印象が強い。一方液晶を持たないタイプは、見方を変えれば、私からも珍しい香水か染料の瓶にも見えた。
 何となく眺めていると、ルナサさんは「綺麗よね」と溢す。
 確かにデザインとか、カラーとかの見た目の好みはあるが、私は集めて眺めるほどだったろうか。
「それに、いい思い出が詰まってる」
 ルナサさんが自然にそう続けたものだから、驚いた。聞き間違いかと思ったほどだ。
「中身、聴けるんですか?」
「直接は聴けないが、私には分かるよ」
 ルナサさんは静かに指を伸ばし、魔理沙さんに一番近いウォークマンを指差す。
「それの持ち主は恐らく年頃の一途な女性だろう。比較的若い頃にそれを手放した」
 隣の魔理沙さんが硬直したのが分かる。
 それからおずおずと、少し遠慮するように、ゆっくりとウォークマンから一歩離れる。その様子から怯えの感情が見えたので、思わずといった様子でルナサさんが笑う。
「別に霊とかオカルトとか、そういう話じゃないわ。中に蓄積されている音楽のジャンルと、それから推察される人物像よ」
 並んだ機器を順に一つ一つを指さして読み上げる。
 曲の年代が幅広く多くの音が詰まっている、流行曲を追う人だったのだろう。拙いが自作で練り上げている音が聴こえる、作曲家、あるいは奏者を志すものだろう。恋に関する音やラバーフレーズが多く聴こえる、柄からして女性だ。シールの残り糊から悪戯の跡が見える、家族と暮らす者、それも年少者を持つ家だろう。
「触れた指先から僅かに伝わる音楽の鼓動。そして外観から推察される、持ち主の個性と、感情の推移。出鱈目でも透視でもなく、立派な情報に基づく回答よ」
 音楽をデータに変換して詰め込んだ瓶。それを指でなぞるルナサさんを見ながら、持ち主である彼ら彼女らの歴史に思いを馳せる。
「私には全然分からないです」
「当然だろ、私らは音楽関係者でも念能力者でもないんだし」
 そういう魔理沙さんも顎に指を添え、同じ判断に至ろうと推察を試みている。ただ、しかめた眉から察するに、上手く行かないようだ。
 顔を突き合わせて眺めるウォークマン。幻想郷においては落とし物で、ここに来る以前は、誰かの所有物。不思議な感覚だ。
「人の記憶を分けてもらうことは、至極幸福なことなの」
 彼女はいつか話したような内容を、ゆっくりと噛み締めるように呟いた。
「そしてそれは文字でも、記号でも、口頭でも構わない。記録と記憶。近いようで違う。少なからず確かな意思と共に集められた内容は、ただの情報の束と比べて価値が大きく上がる」
 視界の端で、魔理沙は「なるほど」と頷く。隣のメイド妖精さんは、言葉を静かに飲み込んでいる。
「全ての情報が記録であるなら、私達は知性を持つ意味を失う。私達は楽譜や、辞書や教科書で事済んでしまう。それ以外の、例えば取捨選択に意味があるために、著者は物語を記し、学者は再考し、画家は写真から描写し、音楽を好む者は自分の好む音を揃えるために再編集する。奏者も記録の再演という意味では、その一つ」
 何となく訪れた沈黙に身を預けていると、ふとルナサさんが目線を上げた。魔理沙さんもそうだが、後ろに立っていたメイド妖精さんも、瞬きを繰り返してルナサさんを見ていた。
「どうかしたかしら、皆してそんな顔をして」
「私は純粋に、興味深い話でしたので」
「悪気はないが、そこまで饒舌なのが、珍しいなって」
 饒舌か、そうか。と独りごちてから、ルナサさんが小さく深呼吸する。
「高揚しているのかもしれないな」
 少し長めの瞬きは、一段、彼女の気持ちが落ち着いたことが伺える。
 背後に居たメイド妖精さんが手を合わせ、楽しそうな声を出す。
「その高揚感、がっかりはさせませんよ。ルナサ様はまだ会場見られてないですけど、お嬢様達の公演、舞台の方にも力入れてますから!」
 魔理沙が「この館に舞台なんてあったのか?」と尋ねるとメイド妖精さんは「メインホールの一角をあれしてそれして有り合わせました。本当に大変でしたよう」と大げさに汗を拭う所作をしてみせた。彼女と魔理沙さんがけらけらと笑い合う。
 ルナサさんと目を合わせて微笑んでいると、背後の方から声が聞こえてきた。
「私の舞台の準備を、その場しのぎってのかい?」
 レミリアさんの声だ。
 反射的に硬直して背筋が伸びるメイド妖精さんを見て、魔理沙さんが声を抑え、改めて笑う。
「やあ先生、ご機嫌麗しゅう」
「今宵の御来場、感謝致します」
 振り返った私達に対して自然な様子のレミリアさんと、意外にも慣れた様子のパチュリーさんが、ドレスの裾をつまんでお辞儀する。対するルナサさんもスカートの裾をつまみ、膝を曲げて丁寧にお辞儀をした。
 この時初めて、ルナサさんが以前の公演とは異なるロングスカートを選んでいることに気が付いた。 
「悪いが、私達はすぐ行くよ。まだ時間もあるから、関係者ラウンジってことでゆっくりしておいてくれ」
 それから二人は、パチュリーさんの集合が遅いとか、いつまでも記号の読み方が間違っているとか、調整に時間がかかったことを好き放題静かに言い合った。
 ひとしきり仲の良さを感じさせた後、開場の方に入るために二人は立ち去ろうとした。
 去り際にレミリアさんは何かに気づいた顔をし、パチュリーさんの後ろで一歩足を止めた。
「ま、不安には思わんでくれ。妖精の有り合わせと評するにはよく出来ているよ」
 彼女はいつもの調子でフランクに片手を上げ、控室を出ていった。
 恐らく褒められたであろうメイド妖精さんの方を向くと、彼女は私の思った以上に感動してしまっていたのか、両手で鼻を覆っていた。
「もう、お客様が居るときだけ格好つけるんですから。普段ならけちょんけちょんに言うのに」
 そんなこと言うとまた叱られますよ。
 そう言いかけて慌てて扉の方に目をやったが、荒々しく開かれる様子はない。流石にもう主の耳には届かなかったようだ。
 
 
 ●
 
 
 メイド妖精に開けられた扉を抜けると、メインホールは今宵に相応しい空間に様変わりしていた。
 いつかのだだ広い間という印象はなく整然と卓が並び、それでも行き違いやすい程度に間隔が開かれている。導線の先には一段高くなった舞台が有り、カーテンの吊るしを工夫した袖も見受けられる。
 そして壇上には、今日の主役達に奏でられるグランドピアノが2台並んでいる。
 メイド妖精に着いていき、最前列の関係者席へ魔理沙や早苗さんと共に向かう。
 開場には既に多くの妖霊が入っていた。
 顔ぶれに目をやると、有名な者から、交友の無い者まで様々だ。幾つかの円卓には控えめにグラスが並べられ、各々グループや顔見知りで集まって、中には既にワインに口をつける者もいた。少し遠くの方に妹達が手を振っているのを見かけたので、見えるように頷いて、目配せをしておく。
 舞台に対して真正面に。図々しいかもしれないが、舞台の中心線辺りの席を引いてもらう。
 別のメイド妖精さんによって、今日は珈琲ではなく、スパークリングワインが用意された。
 喧騒の中で名前を呼ばれた気がして振り向いたが、こちらに近づく人影はなかった。誰かの会話の中で私の名前が挙がっただけのようだ。
 居住まいを正す直前。閉じたと思っていた入り口から、静かに一組の人物が入ってくるのが見えた。
 気品のありそうなドレス姿の金髪の少女。隣には銀髪のメイドが並んでいる。
 遠くから顔は伺えないが、彼女達は人の居る場所を避け、隅の方の座席にひっそりと座った。服装と雰囲気からして、彼女達も別の関係者だろうか。
 今度こそ名前を呼ばれ正面へ向き直ると、メイド妖精さんがそろそろ時間である旨を私や早苗さんに告げた。
 コンサート会場ではないため、音響設備やライトアップの類はない。代わりに魔法のランプが調整されたのか、光量が落ち、ピアノの周りだけに明かりが残る。
 自然と絞られる周囲の音量。
 悪酔いする無法者でも、静寂を楽しめないほど無粋ではない。
 やがて袖口から二人の奏者が姿を表し、明かりの前に躍り出る。恭しく下げた頭に、抑えた理性的な拍手がふりかかる。
 上げた顔に不安の色はない。
 自信に満ちた吸血鬼の顔。
 冷静に思考を続ける魔女の顔。
 二人は別れてピアノの座に向かい、背筋を伸ばして息を吐く。流石に僅かながら、緊張を解す動作が見受けられる。令嬢が指を組み、手首を内側に向けて、筋肉を解す。
 ふいに彼女達は目線を遊ばせ、私の辺りを捉えた。私の形相が可笑しかったのか、小さく笑ったように唇が動いた。
 仕方ない。
 これ程集中して音を聴くのは、久しぶりかもしれない。
 揃えた指先に芯が通っているような感覚。肌の一片も無駄にせず、全身で振動を受け取るような準備。
 一つの波紋も逃さぬよう、指先にまで力が入る。
 舞台で指を揃える教え子二人に伝わるよう、自然と上がっていた口角とともに、一つ頷いた。
 彼女らは客席を見て、互いの顔を見て、それから小さく顎を引くと。
 意思の灯った指先に力を込め、鍵を叩いた。
 
 最近は携帯や動画で音楽を聴くことが殆どになり、音楽を聴くための道具を使うことが減りました。
 カセット、CD、アルバム。色々ありますが、自分の好きな選曲をひたすら流す道具として、あれは非常に優秀な気がします。

 というわけで、人の個性が出るってなんだろう。新しいことを始めるって大事なこと。そんなこんなを混ぜて練って一つにしたら、こうなりました。
 いろいろ考えましたが、彼女らの動きが一区切りついたので投稿。

 なお、彼女たちが数ヶ月で演奏できるようになるのは幻想少女のスキルとセンスあってのものだと思います。
 実際はもっとかかりそうな気も。
くろさわ
https://twitter.com/KRSW_063
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コメント



0.90簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白く良かったです
2.90名前が無い程度の能力削除
落ち着いた空気の中に心地よい緊張が通うルナサらしさがよく感じられる一作でした。
3.100名前が無い程度の能力削除
香水瓶型ウォークマン、大好きでした…籠められた数々の音楽の記憶に口が滑らかになるルナサお姉さん素敵です
4.100ヘンプ削除
ピアノを巡るとても良いお話でした。
物の記憶というのがとても良いですね。面白かったです!
5.100Actadust削除
文章の美しさに引きつけられました。物の記憶をたどる、どこか幻想的で素敵な作品でした。楽しませて頂きました。
6.90夏後冬前削除
ハイセンスで煌びやか、洒落た世界観がとても素敵でした。文章にも洗練された感覚があって好きです。
7.100めそふ削除
とてもお洒落なお話でした。
文章の洗練具合が美しくて、その情景を想像する事が楽しくなるようなお話でした。
8.100南条削除
面白かったです
めちゃくちゃおしゃれで読んでいて気持ちのいい話でした
音楽っていいものだと改めて思えた気がします
素敵でした
9.無評価くろさわ削除
>奇声を発する程度の能力様
長く雰囲気メインな話、ご読了いただきありがとうございます。励みになります。

>2様
ルナサは勝手なイメージで固めてしまった気がしますが、悪い方向に捉えられなくてよかったです。ありがとうございます!

>3様
ガワがまず良いですよね、あれ。正直podよりあっち派でした。

>ヘンプ様
不慣れな話題でしたが、何とかまとまったようで良かったです。
分かりそうと分かってほしいなのラインが難しかったです。

>Actadust様
毎回雰囲気だけで乗り切ってます。
少しふわっとしたお話の自覚はありましたが、ご読了ありがとうございました。

>夏後冬前様
嬉しいお言葉ありがとうございます! 励みになります。

>めそふ様
お洒落だなんてありがとうございます……当面がんばれます……。

>南条様
不慣れな音楽観も混ざってますが、ナンダコレという思いをさせることなくまとめられて一安心です。ご読了ありがとうございました。
12.100サク_ウマ削除
二つの視点がゆっくりと絡み合っていく様子がとても心地よく感じます。お見事でした。
13.100福哭傀のクロ削除
少しだけ読者に不親切というか読みにくさを感じる作りになってるところがあった気がしました。
視点とか話の順番とか細かいところで。
ただそれを補って余りある表現力と構成が本当に素晴らしかったです。
ルナサと早苗の独自での表現や考え方
早苗とルナサのおしゃれな会話
どこかそれぞれの場面で美しい一枚絵を眺めているような素敵な作品でした。
読み終えたときはここで終わるのかーと思いましたが
筆を投げたもしくは折ったのではなく
ここまで書けばこれ以上はもういらないだろうという思いを感じましたし、
現に必要な情報はすべて出揃っていると思います。
情報が十分な上での後はご想像にお任せしますというのがいかに美しいかをわかった上で
あえてそれでもここまでの実力の方であれば演奏会を終えたところまで見たい気持ちはありました。
お見事。