一
「龍ちゃんがムカデに取られちゃうよぉ!」
庭園の柔らかい朝の日差しが差し込む質素な畳部屋に、低いテーブルを囲んで、ふたつの者があった。
どちらもウェーブがかった小麦色の髪をしていて、小麦色の眼を持ち、白いラフな装束を身に纏っており、小麦色の髪の毛の間からは、小麦色の獣耳がふさふさと生えているところまで共通していた。
ここまでは目が悪ければ同一人物と見間違えてもおかしくないほど似通っている両者だったが、決定的にわかりやすく見た目で違うところがあった。
それは、座布団から伸びる小麦色の尻尾が、片方は一尾で、片方は九尾だという点だった。特に九尾の方は圧倒的存在感があったので、二者が別の者であるのは目が悪くても一目瞭然だった。
「龍ちゃんって……」器に濁り酒を注ぎながら、呆れっぽく九尾の方が言った。「あんたの御主人のことよね」
「そう。私のご主人の素晴らしき大天狗・飯綱丸龍様」
「取られちゃうって?」
「そう!」
一尾の方は興奮と苛立ちをアルコールによって自ら増幅させているようだった。
「いくら親友だからって。いや。そもそも親友だというのが気に食わん。龍ちゃんのお側には私だけがおればよいのだ」
「落ち着きなさいよ。なんで、取られるだとか取られないだとかの話になってんのよ」
「だって、聞いちゃったんだもん。聞いてよ。こないだよう。あの、ムカデのやつが、なんだかわかんないけど、蛍だとか土蜘蛛だとかと集会してるっていうもんだから、なんか弱味でも握れないかな〜って使い魔飛ばして盗聴してやったのよ」
「うん」
「そしたらよ!」
二
「あー、龍食いてー」
三
「なんて口走っていやがったのよ!」
憎々しげに言うと、一尾の方は酒をかっ込んだ。
「くぅーっ! 言うにことかいて! 食いてえですって! 許せん……。許せ……許せねーー!!!」
「龍と聞き違えたんじゃないの。ムカデって龍を食べるって言うし」
「メグムって言ってたもん!」
冷静な返事を返す九尾に構わず、一尾は「あーっ!」とか「ぐううーっ!」とか奇声を発しながら愚痴をし続けた。
「龍ちゃんを食らうのはなぁ! ムカデには出過ぎた真似なのよ。この私なのよ!」
「…………?」
一尾の言ったことを一瞬飲みきれずに逡巡する九尾だったが、聡明な九尾はすぐに手をぽんと叩いてみせた。
「……ああ、ムカデが龍を食うのはお門違いで、なぜならあんたが龍を食うからってこと?」
「そう。そう!」
「ちょっと待て。お前、ご主人を食う気かよ」
「正確には違うわ。そう。そこも腹立たしい! 果実には食べ頃というのがあるのよ。そこをあのムカデはわかっておらん! 龍ちゃんはまだ食べ頃果実じゃないの。食べ頃になるまで大事に育てなきゃいけないの。……蟲ってやつぁまったく美学も哲学もない! 当たり前だ。あのようなちっちぇぇぇえ〜〜〜脳では! ひっく。当たり前だろうがよ」
一尾は顔面が全体的にRGBで言うとR値が増したような色をしていた。九尾はため息がちに言った。
「我々の脳は巨大だもんねー。果実で思い出したんだけどー、桃食べる? 紫様の御知り合いの天人から分けてもらったのよ」
「食べるっ」
一尾が獣耳をぴこぴことさせながら言うので、九尾も獣耳をぴこぴことさせた。
「ちょっと待っておれ」
九尾がそう言って席を立つと、一尾もそれに続こうとするので、九尾は訝しんだ。
「なんでついてこようとしてるの」
「お客様を一人で待たせないでよー。喋りたくて喋りたくて死ぬのよー」
「飲みすぎなんだよ」
「いいじゃん、桃取りに行くのについてくくらい」
「よくない。あっちの部屋は重要機密だから」
「重要機密」一尾は目を輝かせた。そして甘ったるい声を出しねっとりと九尾にすり寄った。「八雲どの、一緒に参りましょう……典、離れたくありませぬ……一匹にせんで下さい……」
九尾は一尾を座椅子に座らせると、手近な本棚から『駄狐でもわかる数学〈著・八雲藍〉』という本を出し、一尾の腕に握らせた。
「それを私だと思って」
「けちー! いけず! 主人想い!」
ブーイングを背にして九尾は一旦その場を去った。
***
皿に盛り付けられた桃を手に九尾が部屋に戻ると、一尾はちゃっかりと『駄狐でもわかる数学〈著・八雲藍〉』を読んでいた。
「お。戻ったのね。ねぇ、この本、あんたが書いたのよね」
「そうだけど?」
九尾は皿をテーブルに置くと、座椅子に座った。
「なんで自分の本にこんなにマーカー引いたりルビ振ったりするわけ?」
「橙に読ませるためよ」
「ああ」一尾は頷くと、屋敷を見渡した。「橙ちゃん、今日も来てないのね。会ってみたいのに」
「絶ッッッ」長ぁく溜めて九尾は言った。「ッッッ対会わせん」
「ひど〜。食べていい? 桃」
「よいよ」
本を一旦脇に置くと、楊枝の刺さった桃の一片をひょいっとつまみあげ、口に放り込み、一尾は顔を綻ばせた。
「美味ぁ。瑞々しいわぁ」
「お口にあってようござんした」
そう言うと九尾は酒を煽り、自分も桃にぱくついた。
一尾が言った。
「龍ちゃんにも食べさしてあげたいわ」
「そう、その龍ちゃんの話よ」九尾は一尾に人差し指を向けて言った。「あんたご主人を食う気かって」
「食うというのは適切な言葉ではないかも」
「と言うと?」
「私はね、飯綱丸様が落ちぶれるところを見たいの。ううん。それだけではないのよ。私にはビジョンがあるのよ。叶えなければならない夢があるのよ」
「夢ェーっ?」
一尾が胡散臭いことを言い始めたので九尾は素っ頓狂な声を上げた。
ふふん、と一尾は鼻を鳴らした。
「まずは、こうよ。驕り高き大天狗であらせられる飯綱丸様をその座から蹴り落とし辛酸を舐めさせ惨めに地べたを這いつくばらせる。ああかわいそうな飯綱丸様。次に、そこに私が颯爽と駆け付け、這い上がる手助けをして差し上げる。龍ちゃんの懸命な努力と私の必死の助力の甲斐あり、再び大天狗に返り咲く龍ちゃん! かっこいい! ご立派でございます! やはり飯綱丸様はこうでなくては! そして、次に、再び龍ちゃんを絶望の淵に追いやり地の底まで突き落とす。そうしたら、私が現れて、やはり大天狗に返り咲く手助けをして差し上げる。……これを命続く限り延々と繰り返す。するとどうなる? ボロ雑巾のように擦り切れ果てた龍ちゃんの心にはもはや私という救世主の姿しか残らないわ! さすがだ典! いい部下だ典! お前は私になくてはならないよ! 永久に私の隣にいておくれ! そうしたところで、私は飯綱丸様のことなんかもう知りませぇ〜んってポイッと捨てちゃう。龍ちゃんは残り少ない余生で死ぬまで私のことしか考えられなくなるだろうね。そうして死んでいくだろうね」
一気にまくし立てると、一尾は得意げな笑みをニタニタと浮かべてみせた。
「これを、食うと表現するのであれば、龍ちゃんを骨までしゃぶり尽くすのは、私でなければいかん。ムカデなどがむしゃむしゃと品もなく龍ちゃんの血肉を貪ることなど決して許されないのだ」
「………………………」
九尾は呆然としていた。
「………………あんたって……」
「なによ」
「あんた……」
九尾は肩を震わせ、顔を手で覆った。
「…………あんた、狐の鑑だわ」
九尾は感激していた。
本当に感銘を受けてそう言っていた。
一尾はきょとんとした。
「あんたが私を褒めるなんて珍しいわね」
「今の私には、お前さんみたいにはなれんと思うと、圧倒されるばかりになってしまったのよ」
「何を仰る。そんな立派な尾っぽを九本も持っているというのに。一本分けてほしいくらいだわ」
「ねえ、その夢、絶対に叶えてね。あなたが大願成就するところ、是が非でも見届けたくなったわ」
「そこまで言われると逆に歯がゆいわー」
一尾は所在なさげに尻尾をうねうねとさせて、頭をぽりぽりと指で掻いた。
「じゃあさ、大願成就のために、もうちょっと話付き合ってよ。ムカデもそうなんだけど、龍ちゃんってば最近なんかようわからん神様とつるんでるみたいで……」
「神様ねぇ」
どこか遠い世界の御伽噺を聞くような気持ちで、九尾は一尾の愚痴に没入し始めた。
四
「紫様」
「なぁに? 藍」
八雲紫は気まぐれな妖怪である。直属の式神の藍にもその所在は常に知るところではなく、こうして二人の時間を過ごす機会は周囲が二人に対して抱いているイメージよりは少なかった。
屋敷の縁側でお茶を飲んでほっとした笑みを浮かべる主人の優雅さに心ときめかせながら藍は言った。
「私って狐としてどう思います?」
「んん……?」
「先日、友達の狐に会ったのですよ」
「藍って友達なんかいたんだ」
「そいつは自分の主人をハチャメチャに裏切る計画を持っていて、そのことを楽しげに語ってくれました」
「まあ」
「私はそれを聞いて痛み入りました。狐かくあるべしを強烈なまでに感じたのです」
「ふむ」
「紫様にお仕えするようになってからもう随分と経ちます。他の狐から“おまえは主人に媚びへつらうばっかりで狐として全然なっとらん”的なことを言われたこともあります。どうでしょう。紫様。私も反旗を翻してみたりした方がよいのでしょうか」
「それは面白い考えね、藍」
そう言うと紫は、ずい、と藍に顔を近付けた。
「でも駄目」
妖しい笑みが藍を射抜いた。
「そういうのはね……」
すっと藍から顔を離し、くすくすと紫は笑った。
「暇なやつが道楽ですることよ。いい? 私は今──めっちゃ忙しい。ってことは、部下であるあなたもめっちゃ忙しいはず。私はこれから反獄王のことを聞きに地底に行かなきゃいけないし、夢の世界についてドレミーが教えてくれるっていうからそっちも行かなくちゃいけないし、霊夢の様子も見なきゃいけないし、菫子のことも気になるし、それに、見てこれ」
「なんですか」
「隠岐奈からの茶会の招待状よ。これを断る文面も考えなきゃなんないのよ。あーあだわ」
「はあ」
「だから結局結界の世話はあんたがしなくちゃなんないのよ。幻想郷滅んじゃうよ」
「やだぁ」
「やでしょ」
紫色のドレスを翻し、紫は庭園に立つと、藍の方を見て傘を開いた。
「本当にやること何もなくなって、超すっごい暇ができたら──そうね。反旗でもなんでも付き合うよ。かかってらっしゃい。ボコボコに叩きのめして“愚か者めが!”って言ってあげるわ」
後光が差していた。
藍は、この方に勝てることはたぶん一生ないんだろうな、と思った。
「紫様の仰ること、よくわかりました。まったくもってその通りでございます」
「話がわかる子で助かるわぁ」
「私達は今めっちゃ忙しい、ええ、まったくもってその通り──実はお耳に入れたいことがありまして」
「ふうん? 何かしら?」
「その友達の狐から聞いたのですが。どうも、山の方で一騒ぎ起きそうです。龍珠を仕込んだマジックアイテムを幻想郷中で流行らせて、経済を牛耳る魂胆だとか。混乱が起きるかもしれません」
「………………」
紫は藍の顔をまじまじと見つめた。そして笑いだした。
「あっはっは!」
「ゆ。紫様?」
「藍! あんた、心配しなくったって、小賢しく狡猾な狐そのものよ! だって、それってつまり、友達を私に売ったってことでしょ? あっはっはっはっは……」
五
扉を優しくノックして、こしょこしょとした声で小さく言う。
「飯綱丸様。飯綱丸様。戻りましたよ。あなたの典が只今戻りましたよ」
うきうきそわそわした様子の典の前で、がちゃりと扉が開かれ、中からお待ちかねの龍が姿を現す。
「ああ……。お前、こんな時間まで、どこをほっつき歩いていたの」
龍は目に隈を作って疲れた顔をしていた。
典はニコニコとした。
「申し訳ありません。私を心配するあまり目に隈まで作らせて……」
「私そんなひどい顔してる? そんなことより見て、これ」
龍は典を部屋の中に入れると、デスクの上に散乱した紙──アビリティカードと呼ばれる予定のものだ──を見せびらかした。
「完成したのですか」
「ええ。なんとか締切に間に合わせたわ。月虹市場は今夜開かれる……私はこれのために徹夜して、ああ……ちょっとキツいのよ……仮眠をするから、夕方になったら起こして欲しい……」
「わかりました、お任せあれ。ごゆっくりお休み下さい」
「ふふ……今夜が楽しみね、典……きっとものすごいことが起こるわ……」
「はい。一緒に行きましょうね」
「うん……」
ふらふらとした龍の体を支えて、布団に寝かせてやると、龍はすぐにすうすうと寝息を立て始めた。よほど疲れていたらしい。
「………………」
典は──龍の寝顔を見て微笑を浮かべると、体に毛布をかけてあげて、そっと部屋をあとにした。
……口惜しい……。
……虚しい……。
……寂しい……。
……あんな紙切れなどではなく、私のために体を壊してほしかった……。
……私のために徹夜をして、その美しい顔を疲労で歪めてほしかった……。
……私のために……。
扉の前で立ち尽くしながら、茫漠とした気持ちになっていたが、ある四字が典の脳裏に浮かび上がり、すると同時に全ての気力が戻った。
「(“大願成就“!)」
典はうきうきそわそわした気分を取り戻すと、軽い足取りで龍の向かいの、自分の部屋へ入っていった。
「(私のために体を壊してほしかった、などと嘆くのではなく、私のために体を壊す龍ちゃんを作ることが、夢への第一歩よ! そしてそれは、今夜の月虹市場を境に、大きくステップアップするだろう! ムカデだろうが神様だろうが邪魔させはしない。飯綱丸龍のすべて……そうすべては、私のものだ!)」
ぼふりと布団に身体を埋めると、典は龍の心と体のことを想い、幸福に満たされた。
「ですから、飯綱丸様のことは私がお守りしますからね……私の飯綱丸様……ふふふ……」
【了】
「龍ちゃんがムカデに取られちゃうよぉ!」
庭園の柔らかい朝の日差しが差し込む質素な畳部屋に、低いテーブルを囲んで、ふたつの者があった。
どちらもウェーブがかった小麦色の髪をしていて、小麦色の眼を持ち、白いラフな装束を身に纏っており、小麦色の髪の毛の間からは、小麦色の獣耳がふさふさと生えているところまで共通していた。
ここまでは目が悪ければ同一人物と見間違えてもおかしくないほど似通っている両者だったが、決定的にわかりやすく見た目で違うところがあった。
それは、座布団から伸びる小麦色の尻尾が、片方は一尾で、片方は九尾だという点だった。特に九尾の方は圧倒的存在感があったので、二者が別の者であるのは目が悪くても一目瞭然だった。
「龍ちゃんって……」器に濁り酒を注ぎながら、呆れっぽく九尾の方が言った。「あんたの御主人のことよね」
「そう。私のご主人の素晴らしき大天狗・飯綱丸龍様」
「取られちゃうって?」
「そう!」
一尾の方は興奮と苛立ちをアルコールによって自ら増幅させているようだった。
「いくら親友だからって。いや。そもそも親友だというのが気に食わん。龍ちゃんのお側には私だけがおればよいのだ」
「落ち着きなさいよ。なんで、取られるだとか取られないだとかの話になってんのよ」
「だって、聞いちゃったんだもん。聞いてよ。こないだよう。あの、ムカデのやつが、なんだかわかんないけど、蛍だとか土蜘蛛だとかと集会してるっていうもんだから、なんか弱味でも握れないかな〜って使い魔飛ばして盗聴してやったのよ」
「うん」
「そしたらよ!」
二
「あー、龍食いてー」
三
「なんて口走っていやがったのよ!」
憎々しげに言うと、一尾の方は酒をかっ込んだ。
「くぅーっ! 言うにことかいて! 食いてえですって! 許せん……。許せ……許せねーー!!!」
「龍と聞き違えたんじゃないの。ムカデって龍を食べるって言うし」
「メグムって言ってたもん!」
冷静な返事を返す九尾に構わず、一尾は「あーっ!」とか「ぐううーっ!」とか奇声を発しながら愚痴をし続けた。
「龍ちゃんを食らうのはなぁ! ムカデには出過ぎた真似なのよ。この私なのよ!」
「…………?」
一尾の言ったことを一瞬飲みきれずに逡巡する九尾だったが、聡明な九尾はすぐに手をぽんと叩いてみせた。
「……ああ、ムカデが龍を食うのはお門違いで、なぜならあんたが龍を食うからってこと?」
「そう。そう!」
「ちょっと待て。お前、ご主人を食う気かよ」
「正確には違うわ。そう。そこも腹立たしい! 果実には食べ頃というのがあるのよ。そこをあのムカデはわかっておらん! 龍ちゃんはまだ食べ頃果実じゃないの。食べ頃になるまで大事に育てなきゃいけないの。……蟲ってやつぁまったく美学も哲学もない! 当たり前だ。あのようなちっちぇぇぇえ〜〜〜脳では! ひっく。当たり前だろうがよ」
一尾は顔面が全体的にRGBで言うとR値が増したような色をしていた。九尾はため息がちに言った。
「我々の脳は巨大だもんねー。果実で思い出したんだけどー、桃食べる? 紫様の御知り合いの天人から分けてもらったのよ」
「食べるっ」
一尾が獣耳をぴこぴことさせながら言うので、九尾も獣耳をぴこぴことさせた。
「ちょっと待っておれ」
九尾がそう言って席を立つと、一尾もそれに続こうとするので、九尾は訝しんだ。
「なんでついてこようとしてるの」
「お客様を一人で待たせないでよー。喋りたくて喋りたくて死ぬのよー」
「飲みすぎなんだよ」
「いいじゃん、桃取りに行くのについてくくらい」
「よくない。あっちの部屋は重要機密だから」
「重要機密」一尾は目を輝かせた。そして甘ったるい声を出しねっとりと九尾にすり寄った。「八雲どの、一緒に参りましょう……典、離れたくありませぬ……一匹にせんで下さい……」
九尾は一尾を座椅子に座らせると、手近な本棚から『駄狐でもわかる数学〈著・八雲藍〉』という本を出し、一尾の腕に握らせた。
「それを私だと思って」
「けちー! いけず! 主人想い!」
ブーイングを背にして九尾は一旦その場を去った。
***
皿に盛り付けられた桃を手に九尾が部屋に戻ると、一尾はちゃっかりと『駄狐でもわかる数学〈著・八雲藍〉』を読んでいた。
「お。戻ったのね。ねぇ、この本、あんたが書いたのよね」
「そうだけど?」
九尾は皿をテーブルに置くと、座椅子に座った。
「なんで自分の本にこんなにマーカー引いたりルビ振ったりするわけ?」
「橙に読ませるためよ」
「ああ」一尾は頷くと、屋敷を見渡した。「橙ちゃん、今日も来てないのね。会ってみたいのに」
「絶ッッッ」長ぁく溜めて九尾は言った。「ッッッ対会わせん」
「ひど〜。食べていい? 桃」
「よいよ」
本を一旦脇に置くと、楊枝の刺さった桃の一片をひょいっとつまみあげ、口に放り込み、一尾は顔を綻ばせた。
「美味ぁ。瑞々しいわぁ」
「お口にあってようござんした」
そう言うと九尾は酒を煽り、自分も桃にぱくついた。
一尾が言った。
「龍ちゃんにも食べさしてあげたいわ」
「そう、その龍ちゃんの話よ」九尾は一尾に人差し指を向けて言った。「あんたご主人を食う気かって」
「食うというのは適切な言葉ではないかも」
「と言うと?」
「私はね、飯綱丸様が落ちぶれるところを見たいの。ううん。それだけではないのよ。私にはビジョンがあるのよ。叶えなければならない夢があるのよ」
「夢ェーっ?」
一尾が胡散臭いことを言い始めたので九尾は素っ頓狂な声を上げた。
ふふん、と一尾は鼻を鳴らした。
「まずは、こうよ。驕り高き大天狗であらせられる飯綱丸様をその座から蹴り落とし辛酸を舐めさせ惨めに地べたを這いつくばらせる。ああかわいそうな飯綱丸様。次に、そこに私が颯爽と駆け付け、這い上がる手助けをして差し上げる。龍ちゃんの懸命な努力と私の必死の助力の甲斐あり、再び大天狗に返り咲く龍ちゃん! かっこいい! ご立派でございます! やはり飯綱丸様はこうでなくては! そして、次に、再び龍ちゃんを絶望の淵に追いやり地の底まで突き落とす。そうしたら、私が現れて、やはり大天狗に返り咲く手助けをして差し上げる。……これを命続く限り延々と繰り返す。するとどうなる? ボロ雑巾のように擦り切れ果てた龍ちゃんの心にはもはや私という救世主の姿しか残らないわ! さすがだ典! いい部下だ典! お前は私になくてはならないよ! 永久に私の隣にいておくれ! そうしたところで、私は飯綱丸様のことなんかもう知りませぇ〜んってポイッと捨てちゃう。龍ちゃんは残り少ない余生で死ぬまで私のことしか考えられなくなるだろうね。そうして死んでいくだろうね」
一気にまくし立てると、一尾は得意げな笑みをニタニタと浮かべてみせた。
「これを、食うと表現するのであれば、龍ちゃんを骨までしゃぶり尽くすのは、私でなければいかん。ムカデなどがむしゃむしゃと品もなく龍ちゃんの血肉を貪ることなど決して許されないのだ」
「………………………」
九尾は呆然としていた。
「………………あんたって……」
「なによ」
「あんた……」
九尾は肩を震わせ、顔を手で覆った。
「…………あんた、狐の鑑だわ」
九尾は感激していた。
本当に感銘を受けてそう言っていた。
一尾はきょとんとした。
「あんたが私を褒めるなんて珍しいわね」
「今の私には、お前さんみたいにはなれんと思うと、圧倒されるばかりになってしまったのよ」
「何を仰る。そんな立派な尾っぽを九本も持っているというのに。一本分けてほしいくらいだわ」
「ねえ、その夢、絶対に叶えてね。あなたが大願成就するところ、是が非でも見届けたくなったわ」
「そこまで言われると逆に歯がゆいわー」
一尾は所在なさげに尻尾をうねうねとさせて、頭をぽりぽりと指で掻いた。
「じゃあさ、大願成就のために、もうちょっと話付き合ってよ。ムカデもそうなんだけど、龍ちゃんってば最近なんかようわからん神様とつるんでるみたいで……」
「神様ねぇ」
どこか遠い世界の御伽噺を聞くような気持ちで、九尾は一尾の愚痴に没入し始めた。
四
「紫様」
「なぁに? 藍」
八雲紫は気まぐれな妖怪である。直属の式神の藍にもその所在は常に知るところではなく、こうして二人の時間を過ごす機会は周囲が二人に対して抱いているイメージよりは少なかった。
屋敷の縁側でお茶を飲んでほっとした笑みを浮かべる主人の優雅さに心ときめかせながら藍は言った。
「私って狐としてどう思います?」
「んん……?」
「先日、友達の狐に会ったのですよ」
「藍って友達なんかいたんだ」
「そいつは自分の主人をハチャメチャに裏切る計画を持っていて、そのことを楽しげに語ってくれました」
「まあ」
「私はそれを聞いて痛み入りました。狐かくあるべしを強烈なまでに感じたのです」
「ふむ」
「紫様にお仕えするようになってからもう随分と経ちます。他の狐から“おまえは主人に媚びへつらうばっかりで狐として全然なっとらん”的なことを言われたこともあります。どうでしょう。紫様。私も反旗を翻してみたりした方がよいのでしょうか」
「それは面白い考えね、藍」
そう言うと紫は、ずい、と藍に顔を近付けた。
「でも駄目」
妖しい笑みが藍を射抜いた。
「そういうのはね……」
すっと藍から顔を離し、くすくすと紫は笑った。
「暇なやつが道楽ですることよ。いい? 私は今──めっちゃ忙しい。ってことは、部下であるあなたもめっちゃ忙しいはず。私はこれから反獄王のことを聞きに地底に行かなきゃいけないし、夢の世界についてドレミーが教えてくれるっていうからそっちも行かなくちゃいけないし、霊夢の様子も見なきゃいけないし、菫子のことも気になるし、それに、見てこれ」
「なんですか」
「隠岐奈からの茶会の招待状よ。これを断る文面も考えなきゃなんないのよ。あーあだわ」
「はあ」
「だから結局結界の世話はあんたがしなくちゃなんないのよ。幻想郷滅んじゃうよ」
「やだぁ」
「やでしょ」
紫色のドレスを翻し、紫は庭園に立つと、藍の方を見て傘を開いた。
「本当にやること何もなくなって、超すっごい暇ができたら──そうね。反旗でもなんでも付き合うよ。かかってらっしゃい。ボコボコに叩きのめして“愚か者めが!”って言ってあげるわ」
後光が差していた。
藍は、この方に勝てることはたぶん一生ないんだろうな、と思った。
「紫様の仰ること、よくわかりました。まったくもってその通りでございます」
「話がわかる子で助かるわぁ」
「私達は今めっちゃ忙しい、ええ、まったくもってその通り──実はお耳に入れたいことがありまして」
「ふうん? 何かしら?」
「その友達の狐から聞いたのですが。どうも、山の方で一騒ぎ起きそうです。龍珠を仕込んだマジックアイテムを幻想郷中で流行らせて、経済を牛耳る魂胆だとか。混乱が起きるかもしれません」
「………………」
紫は藍の顔をまじまじと見つめた。そして笑いだした。
「あっはっは!」
「ゆ。紫様?」
「藍! あんた、心配しなくったって、小賢しく狡猾な狐そのものよ! だって、それってつまり、友達を私に売ったってことでしょ? あっはっはっはっは……」
五
扉を優しくノックして、こしょこしょとした声で小さく言う。
「飯綱丸様。飯綱丸様。戻りましたよ。あなたの典が只今戻りましたよ」
うきうきそわそわした様子の典の前で、がちゃりと扉が開かれ、中からお待ちかねの龍が姿を現す。
「ああ……。お前、こんな時間まで、どこをほっつき歩いていたの」
龍は目に隈を作って疲れた顔をしていた。
典はニコニコとした。
「申し訳ありません。私を心配するあまり目に隈まで作らせて……」
「私そんなひどい顔してる? そんなことより見て、これ」
龍は典を部屋の中に入れると、デスクの上に散乱した紙──アビリティカードと呼ばれる予定のものだ──を見せびらかした。
「完成したのですか」
「ええ。なんとか締切に間に合わせたわ。月虹市場は今夜開かれる……私はこれのために徹夜して、ああ……ちょっとキツいのよ……仮眠をするから、夕方になったら起こして欲しい……」
「わかりました、お任せあれ。ごゆっくりお休み下さい」
「ふふ……今夜が楽しみね、典……きっとものすごいことが起こるわ……」
「はい。一緒に行きましょうね」
「うん……」
ふらふらとした龍の体を支えて、布団に寝かせてやると、龍はすぐにすうすうと寝息を立て始めた。よほど疲れていたらしい。
「………………」
典は──龍の寝顔を見て微笑を浮かべると、体に毛布をかけてあげて、そっと部屋をあとにした。
……口惜しい……。
……虚しい……。
……寂しい……。
……あんな紙切れなどではなく、私のために体を壊してほしかった……。
……私のために徹夜をして、その美しい顔を疲労で歪めてほしかった……。
……私のために……。
扉の前で立ち尽くしながら、茫漠とした気持ちになっていたが、ある四字が典の脳裏に浮かび上がり、すると同時に全ての気力が戻った。
「(“大願成就“!)」
典はうきうきそわそわした気分を取り戻すと、軽い足取りで龍の向かいの、自分の部屋へ入っていった。
「(私のために体を壊してほしかった、などと嘆くのではなく、私のために体を壊す龍ちゃんを作ることが、夢への第一歩よ! そしてそれは、今夜の月虹市場を境に、大きくステップアップするだろう! ムカデだろうが神様だろうが邪魔させはしない。飯綱丸龍のすべて……そうすべては、私のものだ!)」
ぼふりと布団に身体を埋めると、典は龍の心と体のことを想い、幸福に満たされた。
「ですから、飯綱丸様のことは私がお守りしますからね……私の飯綱丸様……ふふふ……」
【了】
紫様は反旗を翻されても大丈夫そうな雰囲気だけれども、食われない強さを持ってるかどうか分からないこの世界線の龍ちゃんの明日はどっちだ
藍の微妙なポンコツさがとても好きでした
相変わらずキャラの可愛らしさを引き立てるのが上手いこと上手いこと……主人を想っているようで自分の欲望に忠実な典ちゃんが最高に可愛かったです。今回も楽しませて頂きました。
夢に向かって邁進する典が素敵でした
信じて進めば夢はきっと叶うはずです
一方で典ちゃんは早すぎる異変の終幕に情報漏れを疑って、何食わぬ顔で称賛してた藍様の裏切りに気付いて変なリスペクト抱えそうですね
紫様めちゃくちゃ狐の乗りこなし方が上手いしこれはカリスマゆかりんですわ。いつかにこにこ笑顔で藍と裏切りごっこ裏切られごっこして遊ぶんやろなあと考えると実に趣深いです。
しかしゆかりん藍に「友達を売るなんて」って言ってるけどその計画失敗して一番喜ぶのそのお友達だと思うんですよね。つまりらんさまは友達想いだった……(ここで首を傾げる)