Coolier - 新生・東方創想話

死人に梔子

2021/05/18 18:46:55
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「もう、父さん!父さんったら!」

揺り動かす肩は樹の幹のようで、その人の華奢な体躯には不相応なほどに硬い。
日中は自分と同じくらいの重さの荷物を運び、夜は沈むまで本を枕にして眠る生活で形作られた歪な凝固。叩くと鞠のような鈍い反動があり、それは死後硬直の感触に似て嫌な想像を誘う。
事実、彼は私の呼びかけに全く反応することなく本当に死んでいるようにさえ思えた。

「起ーきーて!起きろー!」
「おわっ!」

苛立ちに任せて平手で頭を叩くと、跳ね上がるようにして彼は目を醒ます。
凝り固まった肩とは違い、薄く禿げた頭頂はまだ人としての感覚を保っているようだ。

「おはよう、父さん。そろそろお客さんが来るわよ」
「あぁ、もうそんな時間なのか」

父は枕にしていた本を閉じ、側の積み上がりに重ねる。大きな欠伸と共に、硬直した筋肉が弾けるような音をたてた。
私は空いた机に茶と麦飯を差し出し、早々にそれらを呑み込むように促す。私は客人、正確にはそれを率いる男が苦手で、彼を迎えるのは父の役目だった。

「たまにはちゃんと横になって寝たら?体、固まっちゃってるわよ」
「眠くなるまでには終えるつもりだったんだけどなあ」
「いつもそれ。いい加減自分の眠気の限界を弁えたら?」

父は苦笑しながら、さほど熱くもない茶をちびちびと舐めた。

「母さんに呆れられるよ」
……とは口に出さない。代わりに音を立てて溜息を吐く。
父がやろうとしていることについては暗黙の了解だった。
私はそれについて何も知らない。彼の努力が実るその時、大袈裟に驚いてやるために。
ふと、足元に独特の摩擦を感じる。重くなった荷車が屋外の道草を踏みしめる音が地面を伝うのだ。

「ああ、ほら。お客さんが来たわよ」
「よく分かるなあ」
「呑気にしてないの、私は出ないからね」

私は奥の部屋へ下がり、扉を閉めた。
それからすぐに玄関を叩く音がして、麦飯を口に含ませたままの声で父がそれに応える。
その男は毎朝決まってこの時間にやって来る。私は心の中で彼を"人さらい"と呼んでいた。
"人さらい"はとにかく人相が悪い。剥げて頭との境界を失った顔全体に皺を刻み、眼窩が極端に窪んでいる。頭蓋の谷は目元に深い影を落とし、必然その眼光を鋭いものにしていた。
見た目だけならまだしも、私を見ると卑俗な言葉で執拗にどこかへ誘い出そうとする性質があり、若い娘とあらば誰にでもそうしている風があった。
向こうの部屋で扉が開き、荷物が運び込まれてくる。そもそもあんなものを毎日運んでくるのだから、その素性もまともであるはずがない。
ともあれ父とは長い付き合いであるらしく、"人さらい"なくして私たちの生活は成り立たないのだから私たちも同じ穴の狢であるのだけれど。

「今日も多いなあ」
「世が世だからねえ。減らした方がいいかな」
「別にいいよ。最近は娘も頑張ってくれるから」

馬鹿。私は扉越しに父を呪った。

「おお、青娥ちゃんが。可哀相になあ、こんなこと手伝わされて」
「やらんぞ、可愛い一人娘で貴重な働き手だ」
「ひ、ひひ。悪いようにはしないよ。…………」

"人さらい"は父に何かを囁く。
誰もいないのに急に小声になるのは、悪巧みを好むものに染み付く癖なのだと思う。
父はすぐさま「馬鹿言うなよ」と下卑たものに違いない提案を一蹴したが、それなら最初から私のことを話題に出すんじゃない。
そんな会話を盗み聞くのも気が滅入る。私は物音を立てないように、奥の間へと退いた。
そこには母が、桐でできた櫃の中で不思議と枯れない白い花に囲まれて眠っている。

「…………」

彼女は私を産んだときに亡くなったという。
白く肌理細やかな皮膚をもつその人は、父が施した魔術的な処置により十余年を経てもなお美しい姿を保ち続けていた。それが自然に反する姿であると察したのは随分後になってからのことだ。
私はその冷たい手を握り、白く滑らかな肌触りと染み込んだ花の芳香を慈しむ。
幼い頃から、死は常に私の側にあった。
"人さらい"が運んでくるお客さん――荷車いっぱいの死体たち。
毎朝物言わぬ屍が我が家に運び込まれ、父の処理を経て夕刻に運び出されていく。
死穢にまみれた忌まわしい仕事だ。死者が放つ独特の臭気が家の隅々まで満ちて、おそらくそれは私の体にも染みている。おかげで私は未だに世俗というものを知らなかった。
父が毎日気を失うまで学んでいる技法は、いつか母を永い眠りから解放するためのものだ。それが俗世において禁忌であることは察しているが、幸い私たちはそれらと関わるような立場ではなかった。
父の献身によって母が目覚めるその瞬間から、私たちは初めて誰一人欠けることのない一つの家族としてやり直せるだろう。
母は、その美しい人はどんな声で囁き、どんな方法で私に触れてくれるのだろうか。その時を想像するだけで顔が綻んだ。
やがて足の裏に草の軋みを感じ、私は母の手を櫃の中に戻す。死体の運び込みが終わり、"人さらい"が去ったのだ。
奥の間を出て、仕事場への扉を開けるとその縁が父の鼻先を掠めた。

「うわっ、今呼ぼうとしたんだけど」
「なんとなくそんな気がしたの。さあ、仕事に取りかかりましょう」

今日の死体は十八体。ここ数年珍しいことではないが、十を超えてくると世相がよくない。
それは死体を見ても分かる。損傷が激しいものはもちろん、やけに状態がいいものも増える。口減らし目的だと推測された。
だが私は、そしておそらく父も、努めて彼らの生前の事情について考えない。過程はそれぞれにあれど結末だけは平等であり、私たちは等しくその無を、それゆえに敬意を持って相手取る。

「十八体か。急がなきゃね。夕刻までにこの数を送り出すのは大変だわ」
「十六でいいよ。ここの二人は明日にしよう」

父は悪戯に二つの死体の手首を持ちあげて私に向けて振った。
くたびれた指を陽気に揺らす彼らは父の研究の手伝いをすることになる。父にとってこの仕事は二つの実益を兼ねているのだ。
私は手元にある初老の男性の指を二本立てて了解の意を示した。
私は外を、父は内を処理する。
開いた目を閉じ泥や血を拭い、腐敗箇所を取り除いて簡単な外傷を針と糸で塞ぐ。
縫合に関しては私の方が明らかに優れており、傷の種類によっては痕跡をほぼ残さずに閉じることができた。
下流では父が内臓を取り除き、魔術的な手段で防腐処理と損傷の修復を行う。
祈るような所作を経て死者に触れると、青い光が死者の全身に拡がり死の侵食を止めるのだ。現世の理を超越した行いはとても神聖なものに見えた。
これについては完全に私の理解を超えており、どうやらその技術は夜な夜な書物と向き合い、人間らしい姿勢で眠ることと引き換えに得られる領分であるらしい。
母のそれと同様に、父の術を施された遺体には白い花が咲く。それは父の人となりに似て優しく甘い芳香を持ち、死者の安らかな姿によく似合った。
互いの分野が終われば二人で花咲く死体に布を巻き、荷車に載せて"人さらい"が彼らを回収していくのを待つ。それで私たちの仕事は完了だ。
慣れれば難しいことではなく、人々が忌み嫌う死穢もさほど気にならない。私に言わせれば腐った落ち葉や蚯蚓の糞にまみれた畑の土に触れることと何ら変わりないことだ。
そこから父はまた屈服するまで書物に向き合い、私は家事をこなして毛布で眠る。
今日も明日も。起伏なく穏やかに。
このようにして私たちの一日は過ぎていく。
やがて母が還る日に備えて、私たちは円くその環を整えるのだった。





夢は前触れもなく醒めることになる。
ある日の朝、父が姿を晦ませた。
父がこの時間から外出するということはほとんどなく、私に何の伝達も残さないというのはありえないといってよい。
争ったような痕はない。衣服、書物、仕事道具、食べ物からお金まで手付かずで、しかし母の遺体だけが失われている。それが何より事態の深刻さを物語っていた。
空になった櫃は最初から何も無かったかのように浚われ、不思議とあの花の甘やかな芳香すらも失せている。私は震える手で櫃の乾いた虚空を撫でた。
足元に伝う震え。今日も規則正しくやってきた"人さらい"とお客さん。私はようやく地続きの現実に立っていることを理解した。
そうだ、"人さらい"。あの得体の知れない男が父をどこかへ連れ去ったに違いない。
私の脳裏に、ひとたび小声で父に囁く悪人の姿が思い浮かぶと離れなくなった。その男は狡猾に歪んだ口元から発せられる言葉で無垢な父に付け込み、自身の浅ましい利益のためにその善性を歪ませるのだ。
気が付くと死体の腐食を削ぐ鉈の柄を握っていた。
扉を開くなり"人さらい"の手足を落として抵抗の余地を奪い、その黒い腹の底に秘めた父の居場所を吐かせる。躊躇いはなく、それは容易いことのように思えた。
扉を叩く音に、はっと我に返る。
その訪問も足元に伝う振動も、いつもと変わらない。
"人さらい"が父に何かをしたとしたならば、いつもと同じように父の処理を待つ死体を曳いて我が家を訪ねるだろうか。
私は鉈を、しかし手の届く卓台にそっと置いた。

「どうぞ、入って」
「おお、青娥ちゃん。珍しいねぇ」

"人さらい"が扉を開けると、死体が放つ饐えた臭いが吹き込んだ。
私の姿を見るなり蛞蝓のような粘っこい笑みを浮かべ、だがそこには父ではなく私が対応したことへの驚きの気配があった。先手を取って襲い掛からなかったのは正解のようだ。

「行き違いになったみたい。父さんはさっき水を汲みに行ったの。今日も多いんでしょう?しっかり流さないと血で下水が詰まっちゃう」

咄嗟に嘘を吐く。"人さらい"が父の失踪に関係している如何にかかわらず、そうしたほうがいいような気がした。悪くない嘘だったが、焦りからか不自然な饒舌が口から転がり出た。

「すぐ戻ってくると思うんだけど。ごめんなさい、それまで一人で運んでもらえるかしら」
「いいとも、かわいい娘の手は借りられないからねぇ」

今日のお客さんは十二体。自然な数。
"人さらい"が死体を運んで、屋内の処置台へと乗せていく。

「しばらくぶりだね、かわいくなったねぇ。お仕事、お仕事欲しくないかい」
「父さんに叱られますよ」

私は手元の台から例の鉈を取り、冗談めかして空を斬る。
"人さらい"の四肢を落とすためではなく死体を置く場所を確保するためだが、鋭利な刃の柄を握っていると安心できた。

「きっといいお仕事できるよ、お仕事、お仕事だよ」
「そのつもりはありません、やめてください」
「ひぃ、ひひ……」

威嚇が効いたのか"人さらい"はにやつきながらも口を噤む。まごつく口が不快な水音をたてた。
それから何度かの誘いを鉈の空振りで断るうちに、最後の死体が処置台の上に横たわる。
結局父は戻ってこなかった。
分かっていたことだが、心のどこかで本当に水を汲んだ壷を抱えてひょっこり現れる姿を期待した。頭の中で作り上げた父の不在に「遅いなあ」などとぼやいてみせる。
私の見立てでは"人さらい"は父の失踪に関与していない。その姿はいつもと変わらず蠢く邪悪で、けれどもその域を出てはいなかった。
いよいよ私は途方に暮れる。

「お父さん、心配だねえ。一緒に、一緒に探そうか」
「まったく、結構ですって。父は鈍間ですが丈夫ですから」

しつこくまとわりつく"人さらい"を扉の向こうに退ける。
少しの間も彼と同じ空間にいたくなかった。些細な綻びが露見することが恐ろしく、自ら墓穴を掘ることも大いにありうる。結局のところ私は優れた役者ではなかった。

「また夕刻に!」

そう告げて半ば強引に扉を閉める。
"人さらい"が去ると私はひどい静寂の中に取り残された。父がいないと、この場所はおそろしく静かだ。まるで私まで死体のひとつであるような気さえしてしまう。
呆然としている暇はない。"人さらい"の無実は無害であることと等号ではなく、今日の夕刻には父の失踪は彼の知るところとなるだろう。世間から隠れた一家と取り残された一人娘。自分の状況を理解できないほど私は愚かではない。
半日のうちに彼はまたやって来る。
もしかすると私の猿芝居を見抜き、あるいは全てを知っていて、陽が落ちるに紛れて強引に私を攫うかもしれない。そうなった場合、私に何ができるだろう。
世界は刻一刻と、十二の死体と共に腐敗し始めていた。
心臓が早鐘を打ち、血が熱く廻る脳で生きるための術を模索する。
母を伴っていった以上、父の行動には覚悟がある。理由を考えても今は何の役にも立たない。
私は父を理解しておらず、ただそれゆえに見捨てられたのだ。

「……やってやる」

今日の夕刻、"人さらい"を出し抜く。
繕おうとなどは思わない。きっと彼は私の防護を破るための、あらゆる計画を思いつく。私はさらにその向こう側に立たなければならない。
鉈を手にしたときの安堵が、握り締めた手の中に残っている。
必死に可能性を探る頭は、そこにひとつの天啓を見出した。
堆く積まれた書物の最上段を取り、厚く栞された箇所を開く。
父が布団代わりにしていた椅子に座り、私は彼が辿った道の上に降り立った。
右も左もなく、そこがどの地点であるかも分からない。だが摩擦に削れて手垢で黒く汚れた頁、朱が引かれた項目、いくつかの実験の痕と直筆の手記――父のあらゆる足跡が標となって私に指南の手を差し伸べた。
瀕した頭は狂気的な覚醒を見せ、血走った眼が鏤められた断片を次々と繋いでいく。
そこには途方も無い世界が広がっていたが、書物を枕に眠る時間はもはや残されていない。それでも私は父の導きに従ってその場所を確かに歩むことができた。理解できない箇所は前後の文脈から連想し、あるいは後の結論から逆算する。ありがたいことに父の筆跡は難解な語句のほとんどに注釈を添えていた。
死体に咲いた白い花の香りが記憶の中から吹き抜ける。父の見出した奇跡の一片、隣で見ていた神秘の光。数年をかけて見出された芽吹きを、私が今ここで成し遂げる。
道術なる理論は私の直感によく馴染み、ともすれば父から継いだ血そのものがひとつの導きであるのかもしれない。
霊魂の知覚、気の操作、地脈の解読、あらゆるものをひとつの円環として理解すること……普通の人間が何年もかけて身につけるであろう感覚を私は直接肌に触れるように、はっきりとした輪郭をもって見出すことができた。

「よく分かるなあ」

どこかで父の感嘆の声が聞こえた気がした。
私は振り返りもせず、書物が語る宇宙の理と魂の構造を読み解くと同時に自らの指先で再現していく。
時には正道を省略し、自分の直観に従う。それは概ねうまくいき、私自身も大いなる根源の一部であることを実証した。
凝縮された意識は時の経過を容易に忘れさせたが、"人さらい"はまだやって来ない。足元を伝う地の呼吸は穏やかで、外の道草は何物にも踏みしめられてはいなかった。
やがて私は本を置き、遂に十二の死体に向き合う。
既に幾つの文字を読んだだろうか。指紋が擦り切れ、堆く積まれていた書物は根から崩れて床に散らばっていた。
もはやそれらを顧みることはない。今や私自身がその大いなる知識の体現でありひとつの宇宙。それが継ぎ接ぎの上に成り立つ邪道であることは問題ではない。
両手に滾る熱は白い靄の形を取り、魂無き器との対話を求めていた。
安らかに眠る初老の男性の肩に手を置く。彼の魂は失われ、しかし一なる肉体と魂は惹かれあうものだ。死後硬直を保ったままの肩は懐かしい感触がした。

「勅命」

確信があった。
触れた死体は激しい痙攣を伴いながら冥府を漂う魂をその身に縫い合わせ、血と噴煙を吐いて処置台から転がり落ちた。
瞳孔の開ききった目を見開き、頭髪と爪が剥がれるほどに自身の頭を掻き毟る。苛烈に滾る仮初の命は、静かな死に親しんだ目に美しく映った。
突如弾け飛ぶように立ち上がった死体が私を床へと引き倒す。
焦点の合わない瞳で眠りを冒涜した私を虚ろに見据え、加減を知らぬ手を私の首に重ねて強く締めた。

「あはは……」

思わず笑みが溢れた。
ちらつく視界に狂う亡者を映し、私を縊るその胴へ腕を伸ばして抱き締める。冷たく硬く、残酷な肌触り。円くあれと願った日々。我が家に染み付いた腐肉の香り。
ああ、きっと。父もまた成し遂げたのだ。
白い花で腐敗を止め、優しい芳香をまとう愛すべき死体。私のような紛い物ではなく、純粋な心と努力による結実を宇宙の彼方に見たのだろう。
彼は櫃から母を抱えて去ったのではない。自ら立ちあがる母の手を取って歩き出したのだ。ともすれば、私が奪った日々を取り戻すために。
私はその旅路が幸せなものであるように願った。
今や私は生と死が隣り合う雄と雌であることを理解しており、ゆえに二人はきっと失った時間を取り戻せるだろう。
いつか、その果てに私を迎えてくれればいい。私は父を理解していなかったのではなく、順序が違っただけなのだ。
喉が軋み、罅割れるような音が鼓膜を内から響かせた。
私は謳うように祈りを掲げ、残る十一の使者に呼びかける。
それらは主の声なき声に応じて一斉に起き上がり、狂気に猛りながら錯乱する試作へと殺到しては瞬く間にその首を折った。
呼吸を取り戻すと同時に腐敗した肉のおぞましい臭気が気道に流れ込み、しかし私はそれらを噛み締めるように肺へと迎え入れる。ずっと親しんできた生温い泥みを体に流し、ゆるやかに吐いた。
床に伏したままの体が微細な振れを感じ、屋外に客人の到来を知る。
荷車の重い車輪が路傍の草を踏む。粗野な草履が砂利を噛む。
一人、二人、三人。死体を運ぶための助手とでも言うつもりだろうか。

「勅命――」

やがて叩かれる扉へ向けて、私は澄み渡る心のままに呟いた。





「青娥は」

宮古芳香が首をもたげて私を見た。
普段は固く硬直した関節も、この時ばかりは少し自由が利く。
私は暗く開いた瞳孔へ微笑みかけて、その頭を押し戻した。

「こらこら、動くと首が落ちちゃうわよ」
「あー」

芳香の頭を下げ、開いた背骨の中を這う神経を針先で刺す。
力なく項垂れていた彼女の両腕が持ち上がり、正面へ向かってぴんと伸びた。撓んだ神経を均すと十の指がそれに続く。
彼女の構造は、その性質と同じく素直で好感が持てた。

「それで、私がどうかしたの?」
「……?」
「忘れちゃったの、いい子ね」

背骨に触れ、正しく揃った神経に封をする。
芳香の頭に手を置き、再び見上げようとする首を事前に咎めた。

「忘れるって、いいことなのかー」
「ええ、とても素晴らしいことよ」

頭を抑えたまま、針を通してその首を縫い合わせていく。
神経と糸の硬直が全身を結び、芳香の体は本来の形を取り戻す。

「みんな何でも覚えてしまう。世の中は嫌なことや、辛いことでいっぱいなのにね」

その頭は文字通り空っぽで記憶の類を持たない。
忠実な死体はもはや上がらない首をまごつかせた。

あれから、どれだけの時間が経っただろう。
未だに、父が咲かせていた白い花のことを思い出す。
長い年月の間に多くの得難い業を修めたが、それに関する術を私は見つけられていない。
あるいは夢だったのかもしれない。愚かな少女が憧れた物語の、どこからか創り上げられた虚像。
皮肉にも今となっては、そうである方が正しいとさえ思える。

ぱちん。

鋏で糸を断ち、調整を終えた。
首が落ちるほどの切開の痕は瞬く間に失せて、ひとつなぎの肌は滑らかに続く。
命じるまでもなく大人しくしていた彼女を慈しみ、乾いた黒髪をそっと梳いた。

「ねえ、芳香」

この手の中で今も腐敗はゆるやかに進んでおり、いつしか黒く蕩けては指の隙間から腐り落ちるだろう。
永遠は遠い記憶の中で、死に根付いて揺れている。
失い続ける手で虚空を掻いて、私は今もあの日々を探していた。
お世話になっております、うつしのと申します。
何事も、終わってしまうというのは受け入れがたいことです。
永遠を求めるのはある種、人間の本能といえるかもしれません。そして同時に私たちはそれが叶わないことを知っています。
仮にその直観が歪められたとき、人は二度と終わりを受け入れられなくなるというのが自説です。あるいは終わりとは永遠なるものに縛られないためにあるのかもしれませんね。

小説とは全く関係ありませんが、普段は東方系グッズサークルを主催しています。
よければお見知りおきくださいませ。→Twitter:@Minamy_0606

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
うつしの
[email protected]
https://twitter.com/Minamy_0606
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コメント



0.210簡易評価
4.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
5.無評価名前が無い程度の能力削除
青娥って、成熟しきった奔放さや無邪気な無神経さが際立ちますが、そうですよね幼い頃はきっと彼女を支えていた家庭が在ったんですよね。小さい頃からお世話焼きなのは容易に想像出来ますね(笑)
7.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
扱っている物に反して総じて綺麗な文章と構成になっており、読了感が気持ち良かったです。
父との離別も、あくまで原点のように父を愛したままの、考えを理解できた別れであり、説得力のあるもので良かったです。
有難う御座いました。
9.100南条削除
面白かったです
青娥も昔はかわいかったんですねぇ
10.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。文章が綺麗で、緻密に青娥の人格が描かれているように感じました。
11.100ローファル削除
前半は純粋に母との再会を願い、父と共に死者と真摯な態度で接する青娥の姿が
想像出来て楽しく読めました。
また父親がいなくなってからの展開は、彼女がある意味純粋で賢過ぎたからこその
ことなのかもしれない、等色々考えさせられました。
面白かったです。