「……里乃、起きてる?」
背後から舞が尋ねてくる。
まるで春先に降る細雪みたいな、か細く遠慮がちな声。
私は舞と同じ毛布の中、彼女に背を向けて寝息を演出する。尋ねる声には返事をしない。実のところ、舞は別に、寝付けなくて私とお喋りがしたいわけじゃない。私が能天気に返事をした方が、舞にとっては都合が悪い。それが判ってるから。
大きく、呼吸を繰り返す。一度、二度、三度。
そしてややあって、まるで存在しないタイミングでも見計らう風に、舞の手が私の背中に触れる。はぁ、とため息に酷似した震える息を吐いて。
「……起きてるんでしょ?」
私の背中を上下に擦りながら、舞が尋ねてくる。
まるで秋口に残る余炎みたいに、たっぷりの熱を内包して。
問いに意味はない。舞は私が寝ていることを、再三再四に渡って確認しているだけだから。
実のところ、私はとっくに気付いている。判っていながら素知らぬ風を装っている。いまの舞の脈拍が、金曜日の夜のジャズみたく速くなっているのも。
私の背中を撫でていた舞の手が、意を決したように私を抱いてくる。控えめな肉付きの肢体は私の背に密着し、指先は私の胸肉をそっと歪める。熱い、と感じる。舞の体温、太陽に近付きすぎた哀れなイカロスみたいだ。
「……ハァ、ッは……」
零れる吐息。うなじを撫でて、くすぐったい。もぞもぞ、舞の指が蠢く。パン生地をこねるように。胸の形、寝間着越しの手の動きに合わせて変えられて。
こうして舞におっぱいを揉まれているとき、私はいつもショーペンハウアーのことを考える。
ヤマアラシのジレンマ。
身を寄せ合いたいのに、身体の棘が邪魔をする寓話。
私たちと真逆。
「……っ」
舞が私の乳房を強く握ってくる。痛い。声、思わず出そうになって。声を出したらどうなるんだろう、という破滅願望が微かに顔を覗かせる。
破滅?
違う、私たちはこんなことでは破滅しない。破滅できない。
私たちは、私たちという単一の個体だから。私たちはコインの表と裏で、私たちは後天的な一卵性双生児で、私たちは単一の概念をなす陰と陽に過ぎないから。
あるいは、寝ている片割れの身体に不義を働くくらいで壊れる関係性なら、私たちはまだ何者かになれるのかもしれなかった。
「――お、起きない里乃が、悪いんだからね……っ」
肌着の内側に滑り込んでくる舞の指を感じながら、私は目を閉じる。
皮肉。私は悪くないし、舞も悪くない。私たちの間に悪いことなんて、ひとつも存在しない。私たちを繋ぐ絆の間には、善も悪も存在し得ない。いや、そもそも私たちを繋ぐ絆という物の仮定自体がナンセンス。
私は舞だし、舞は私。
お師匠様の能力という、同じモノから延びる影法師。
始まりはどうあれ、あたかも別個体であるかのように存在しているだけ。
だから私は拒絶しない。
たとえ舞の指が、裸の私の最奥の、さらにその向こう側まで這い進んで来たとしても。
◆
お味噌汁の匂いがする。
くぅ、とお腹が鳴ってお布団から身体を起こす。
「あ、おはよう、里乃」
エプロン姿でお台所に立つ舞が、こちらに振り向いて微笑んだ。まだ重たい瞼を擦りつつ、お布団から出る。
「おはよぉ、舞。お腹空いたよぉ」
「今朝は茄子とお豆腐のお味噌汁と鮎の塩焼き、キュウリの酢の物だよ」
「えへぇ、美味しそう~。できた? もうできた?」
「まーだ。それに、先にやることあるだろ? 顔を洗って、歯を磨いて」
舞が腰に手を当てて、人差し指を振り振り言う。うーん、と伸びをして欠伸をひとつ。ちゃんと聞いてる? と舞がお小言モードの顔になる。
「聞いてるよぉ。私、起きたばっかりなんだよー?」
「僕だって起きたばかりだよ。さ、洗面所に行って」
「はいはーい」
「里乃、『はい』は1回」
「はぁい」
ヒラヒラ、手を振って。私は洗面所へ延びる廊下へ一歩踏み出す。途端、
「あ痛っ――!」
「舞?」
カラン。包丁がまな板に落ちる音。左手を押さえる舞。指でも切ったのかな。私は舞の方へと近寄って、
「舞、大丈夫?」
「痛たた……うん、ありがと、里乃。僕は大丈夫」
「血、出てる」
舞の左手の人差し指からジワジワ血は滲み、ポタリと床に雫を落とす。舞は何でもないように笑っていたけど、その唇は少し引きつっていた。
「舞」
「ぼ、僕、平気だから……!」
「じっとして?」
私から隠そうとする舞の左手を掴み、指の傷の具合を見る。舞は何か言いたげな、子犬みたいな目で私を見てくるけれど、それには構わない。
傷は深くなかった。すぐに血も止まりそう。ツバでもつけておけば治るって感じ。ぐぐぐ、と舞の手を引き寄せると、舞は小さくイヤイヤをして、
「だ、駄目だよ、里乃……汚いよ……?」
「舞に汚いところなんて無いよ?」
言って、はむ、と舞の人差し指を咥える。
ちょっぴりしょっぱいお味噌の味。そして血の匂い。傷口を舌で舐めると、ピクンと舞の指が反応した。上目遣いで舞を見ると、彼女は穴が開きそうなくらいに私の口元を見ながら、頬を紅潮させていた。
ちゅるり。音を立てて舞の指をしゃぶる。
ぺろぺろ。舞の人差し指に舌を絡ませる。
くちゅ、と涎を纏わせて、薄まった舞の血液を飲み下す。舞はぎゅっと目をつむって、唇を静かに振るわせていた。ほんのり湿ったまつ毛が、黒曜石みたいに。
「止まったよ。血」
舞の指を口から出す。つ、と唾液が糸を引く。数秒、潤んだ瞳で自分の指を見つめていた舞は、やがてハッとした風にエプロンに左手を擦り付けて、
「さ、里乃は……っ!」
そこまで勢いに任せるように言ったかと思うと、失くしてしまった言葉を探すみたく二度、三度と視線を移ろわせて、
「……過保護、だよ」
やっと絞り出したその単語に、舞自身が納得してない。そんな顔。
「えー。そうかなぁ」
唇に人差し指を当てて、首を傾げる。ふい、と舞が私から視線を逸らして、
「は……早く洗面台、行きなよ」
「はーい」
耳まで赤くなった舞を尻目に、今度こそ洗面台へ。
ふんふん、鼻歌を口ずさむ。リズムに合わせてツーステップ。背中に舞の視線が刺さるのを感じる。
自覚はある。
私の一挙手一投足が、舞の衝動を掻き立てていることも。
我ながら結果に頓着が無さ過ぎることも。
――でも、果てを想うことに何の意味があるだろう。
私はもちろん、舞だって、お師匠様の下に在る限り、不変は約束されている。死ぬことはない、老いることはない、成長することはない。舞が私の胸を揉もうが、私が舞の胸を刺そうが、何も変わらない明日は当然のように訪れる。
不変を祝福だと捉えるには、私は成熟しすぎていた。
不変を呪いだと捉えるには、私は未熟すぎた。
空中へ放り投げた林檎が放物線の頂点で重力から解き放たれるように、私の精神は興隆と破滅の狭間をフワフワと漂う。時計の針は止まったまま。箱の中の猫は観測されないまま。私は何処まで行っても爾子田里乃のまま。
顔を洗う。歯を磨く。口をゆすいで、鏡の中の不変の私に笑いかける。
うん、私、今日も可愛いぞ。
◆
人形と木の家。ぬいぐるみ。絵本。ビー玉におはじき。クレヨンとスケッチブック。マジックテープで貼り付けられた木製の野菜や果物。
私と舞の部屋には、そういう知育玩具が山ほど用意してあって、私は時々それらがどうしようもなく抑圧の象徴にしか感じられないことがある。二童子(私たち)の精神が、お師匠様の予測圏内から外れないように穿つ楔。あるいはお師匠様は、まったくそんなことを気にしたことがないのかもしれないけれど。
お師匠様は留守にしてる。どこに行ったのかは知らされてない。きっとまた何か企んでる。昨日、そんな顔をしてた。お師匠様はいつも楽しそう。うまく行っても行かなくても。
「ねぇ、舞~?」
クレヨンを放り投げて、ころんと畳に寝転がって舞を呼ぶ。
「何だい、里乃」
ぬいぐるみのクマに聴診器を当てる舞が、振り向いて言う。
「暇だよぉ。ヒマ、ヒマ。暇すぎてヒマラヤ山脈になっちゃうよぅ」
「里乃がヒマラヤ山脈になったら、僕は面白いかな」
「え~、登るのぉ? 私という山脈の踏破、目指しちゃう感じ?」
「目指す目指す。しかも僕は、一番の難関とされるサトノK2を登っちゃうね」
舞が自信ありげに髪の毛を掻き上げながら言う。その様子がちょっと可愛く見えて、私はへらっと笑った。
「あはは、サトノK2ってどこ~?」
「そりゃ、里乃の身体で二番目に標高が高い所さ」
「あれれ、一番難しいのに、一番高い所じゃないんだ」
「実際のヒマラヤ山脈がそうなんだよ。一番高い山がエベレスト。次がK2。でも、K2は山脈の奥まったところにあって、到達が難しいんだ。麓に辿り着くのだって、バルトロ氷河っていう氷の川の上を、一週間も歩かなきゃいけない」
「ほぇ~、そうなんだぁ。舞は物知りさんだねぇ。じゃあさ、じゃあさ――」
私は両手を投げ出して、畳の上に大の字になる。木枠で間仕切りされた天井は、そこここに正体不明の染みがあった。
「やってみて」
「え?」
「こうやって仰向けになった私がサトノヒマラヤ山脈で~、ここがエベレストかな?」
言って、自分の鼻の頭をちょんとつつき、
「奥まった場所にないし、一番高いところだもんね。サトノエベレストはここ。そうでしょ?」
「あ、うん」
「じゃ、次に高い所は、ここ」
言って、自分の右胸のてっぺんを指す。ちょうど乳首が位置するところ。舞の方へ視線を投げる。ポカンとした表情をしてた。クス、と笑みを零す。
「奥まったところだし、二番目に高いもんね。ここがサトノK2だよね?」
「あぁ……うん。あー、そう、かな? そうなるかな、うん」
「だよね。良かったぁ、間違ってなくて」
「う、うん……そうだね、あはは」
「だからさ」
ポンポン、と畳を叩いて舞を呼ぶ。舞は首に掛けてた聴診器を外し、恐る恐るといった感じで私のところに来てくれた。腰を下ろした舞の首に、食虫植物みたいにサッと手を回して引き寄せる。
「わっ……!」
バランスを崩した舞が、私に覆い被さるような格好になった。私は舞の無防備な耳元に唇をそっと寄せ、声の振動で舞の耳をくすぐるように、
「やってよ」
「……」
舞が小さく喉を鳴らす。その初心な反応が楽しくて、私はさらに声を落として、もっと唇を近付けて囁いて、
「今日、お師匠様、いないよ?」
「で、でも、僕……」
「サトノK2、踏破しちゃうんでしょ? ほら」
舞の手をきゅっと握って、投げ出した左腕の上に添えさせる。すすす、と指先で腕をなぞるよう導いて。おずおずと、舞が私の腕をなぞり始めたのを見て、手を離す。
「ふふ、くすぐったい」
「ご、ごめん、僕……」
耳まで真っ赤になった舞が、パッと私の腕から手を引いてしまう。私はとっさに身体を起こして舞の手を掴み、再び自分の左腕へグイと引き寄せて、
「どうして謝るの? 続きしてよ。ここがバルトロ氷河でしょ?」
「う、うぅ……」
舞が目の端に、うっすらと涙を滲ませて睨んでくる。小刻みに震える様は小動物のようで、そわそわ視線を移ろわせる様は迷子のようで、私はまるで女神さまにでもなったかと錯覚するくらいに、舞の何もかもを受け止めてしまいたくなる。求められれば、きっと奈落の果てにだって喜んで降りていきそうな心地。
舞が遠慮がちに、私の腕の上で指を滑らせる。舞に触られた肌は感覚が鋭敏になって、もどかしい痺れを残響のように残していく。インモラルが下腹部をクルクルと刺激して、ユーロビートみたく鼓動が早まる。両目がトロリとほぐれるのを感じる。
そう、踊るときの胸の高鳴りに似ていた。
音楽に合わせて動く身体は自律的で、しばしば自分のモノじゃないような感覚を味わう。そんな感じ。身体の主導権を、自分ではない何かに委ねる悦楽。舞の唇が震える。幻のバルトロ氷河を踏破した指先は、肩口から胸元へと延びて。舞がゴクリと喉を鳴らして。
「――あっ」
サトノK2が踏破される。甘い浮遊感に漏れる声。その私の声に打たれるように、舞が小さく身を震わせる。
躊躇うように顔を俯かせて。叫ぶのを堪えるように唇を噛んで。
やがて跳ね上がるように両手で私の肩を掴んで。その勢いのまま私に馬乗りになる。
「――っ、里乃、僕……、里乃を」
「うん」
「いけないことだって、判ってるのに」
「いけないこと、しよ?」
「悪いことだって、思うのに」
「いいよ。しちゃお?」
「里乃を汚したい」
「うん。汚して」
「いいの?」
「いいよ」
舞の頬をするりと撫でる。呼吸を荒げる舞が、雨の中の捨て犬みたいな目で私を見下ろしてきて、その弱々しい視線にゾクゾクする。へらっと笑って舞を見上げる。彼女の瞳に映る私は、ひどくヤらしい表情をしていた。無機質で、退廃的で、そのくせ蠱惑的で。
――あぁ、私、女だ。
こうして私は再確認する。私は私の定義を、舞を通じて理解する。退廃の炎に身をくべて、罪科の奈落へバンジージャンプ。もちろん、ゴムは無し。
二人で一人の私たちは、私たちを持て余している。表と裏であること。陰と陽であること。舞は自分に付与された男性性を。私は私に与えられた女性性を。きっと私も舞も、一人でひとつの何かとして存在する欲求から抗えない。だから舞は私に欲情するし、私はそんな舞を受け入れる自分に耽溺する。私たちは私たちとして在り続けるだけで完成し続けられるけれど、完成した存在という欺瞞そのものが歪みなのだ。
もちろん私も舞も女の子だから、私たちがひとつになる日なんか永遠に来ない。
だから茶番。ぜんぶ茶番。無い物ねだりのごっこ遊び。どこにも辿り着かない逃避行。尻尾を噛んだ蛇の循環。でもそれを永遠だと自負するには、足りないものが多すぎる。
舞が、たどたどしく私のハイソックスを脱がせる。いつものパターン。こうして私たちは欠落した契りを交わし、永遠不変を確かめ合う。
健やかなときも。
病めるときも。
私たちが私たちであり続ける限り、クレイジーバックダンスは終わらない。
背後から舞が尋ねてくる。
まるで春先に降る細雪みたいな、か細く遠慮がちな声。
私は舞と同じ毛布の中、彼女に背を向けて寝息を演出する。尋ねる声には返事をしない。実のところ、舞は別に、寝付けなくて私とお喋りがしたいわけじゃない。私が能天気に返事をした方が、舞にとっては都合が悪い。それが判ってるから。
大きく、呼吸を繰り返す。一度、二度、三度。
そしてややあって、まるで存在しないタイミングでも見計らう風に、舞の手が私の背中に触れる。はぁ、とため息に酷似した震える息を吐いて。
「……起きてるんでしょ?」
私の背中を上下に擦りながら、舞が尋ねてくる。
まるで秋口に残る余炎みたいに、たっぷりの熱を内包して。
問いに意味はない。舞は私が寝ていることを、再三再四に渡って確認しているだけだから。
実のところ、私はとっくに気付いている。判っていながら素知らぬ風を装っている。いまの舞の脈拍が、金曜日の夜のジャズみたく速くなっているのも。
私の背中を撫でていた舞の手が、意を決したように私を抱いてくる。控えめな肉付きの肢体は私の背に密着し、指先は私の胸肉をそっと歪める。熱い、と感じる。舞の体温、太陽に近付きすぎた哀れなイカロスみたいだ。
「……ハァ、ッは……」
零れる吐息。うなじを撫でて、くすぐったい。もぞもぞ、舞の指が蠢く。パン生地をこねるように。胸の形、寝間着越しの手の動きに合わせて変えられて。
こうして舞におっぱいを揉まれているとき、私はいつもショーペンハウアーのことを考える。
ヤマアラシのジレンマ。
身を寄せ合いたいのに、身体の棘が邪魔をする寓話。
私たちと真逆。
「……っ」
舞が私の乳房を強く握ってくる。痛い。声、思わず出そうになって。声を出したらどうなるんだろう、という破滅願望が微かに顔を覗かせる。
破滅?
違う、私たちはこんなことでは破滅しない。破滅できない。
私たちは、私たちという単一の個体だから。私たちはコインの表と裏で、私たちは後天的な一卵性双生児で、私たちは単一の概念をなす陰と陽に過ぎないから。
あるいは、寝ている片割れの身体に不義を働くくらいで壊れる関係性なら、私たちはまだ何者かになれるのかもしれなかった。
「――お、起きない里乃が、悪いんだからね……っ」
肌着の内側に滑り込んでくる舞の指を感じながら、私は目を閉じる。
皮肉。私は悪くないし、舞も悪くない。私たちの間に悪いことなんて、ひとつも存在しない。私たちを繋ぐ絆の間には、善も悪も存在し得ない。いや、そもそも私たちを繋ぐ絆という物の仮定自体がナンセンス。
私は舞だし、舞は私。
お師匠様の能力という、同じモノから延びる影法師。
始まりはどうあれ、あたかも別個体であるかのように存在しているだけ。
だから私は拒絶しない。
たとえ舞の指が、裸の私の最奥の、さらにその向こう側まで這い進んで来たとしても。
◆
お味噌汁の匂いがする。
くぅ、とお腹が鳴ってお布団から身体を起こす。
「あ、おはよう、里乃」
エプロン姿でお台所に立つ舞が、こちらに振り向いて微笑んだ。まだ重たい瞼を擦りつつ、お布団から出る。
「おはよぉ、舞。お腹空いたよぉ」
「今朝は茄子とお豆腐のお味噌汁と鮎の塩焼き、キュウリの酢の物だよ」
「えへぇ、美味しそう~。できた? もうできた?」
「まーだ。それに、先にやることあるだろ? 顔を洗って、歯を磨いて」
舞が腰に手を当てて、人差し指を振り振り言う。うーん、と伸びをして欠伸をひとつ。ちゃんと聞いてる? と舞がお小言モードの顔になる。
「聞いてるよぉ。私、起きたばっかりなんだよー?」
「僕だって起きたばかりだよ。さ、洗面所に行って」
「はいはーい」
「里乃、『はい』は1回」
「はぁい」
ヒラヒラ、手を振って。私は洗面所へ延びる廊下へ一歩踏み出す。途端、
「あ痛っ――!」
「舞?」
カラン。包丁がまな板に落ちる音。左手を押さえる舞。指でも切ったのかな。私は舞の方へと近寄って、
「舞、大丈夫?」
「痛たた……うん、ありがと、里乃。僕は大丈夫」
「血、出てる」
舞の左手の人差し指からジワジワ血は滲み、ポタリと床に雫を落とす。舞は何でもないように笑っていたけど、その唇は少し引きつっていた。
「舞」
「ぼ、僕、平気だから……!」
「じっとして?」
私から隠そうとする舞の左手を掴み、指の傷の具合を見る。舞は何か言いたげな、子犬みたいな目で私を見てくるけれど、それには構わない。
傷は深くなかった。すぐに血も止まりそう。ツバでもつけておけば治るって感じ。ぐぐぐ、と舞の手を引き寄せると、舞は小さくイヤイヤをして、
「だ、駄目だよ、里乃……汚いよ……?」
「舞に汚いところなんて無いよ?」
言って、はむ、と舞の人差し指を咥える。
ちょっぴりしょっぱいお味噌の味。そして血の匂い。傷口を舌で舐めると、ピクンと舞の指が反応した。上目遣いで舞を見ると、彼女は穴が開きそうなくらいに私の口元を見ながら、頬を紅潮させていた。
ちゅるり。音を立てて舞の指をしゃぶる。
ぺろぺろ。舞の人差し指に舌を絡ませる。
くちゅ、と涎を纏わせて、薄まった舞の血液を飲み下す。舞はぎゅっと目をつむって、唇を静かに振るわせていた。ほんのり湿ったまつ毛が、黒曜石みたいに。
「止まったよ。血」
舞の指を口から出す。つ、と唾液が糸を引く。数秒、潤んだ瞳で自分の指を見つめていた舞は、やがてハッとした風にエプロンに左手を擦り付けて、
「さ、里乃は……っ!」
そこまで勢いに任せるように言ったかと思うと、失くしてしまった言葉を探すみたく二度、三度と視線を移ろわせて、
「……過保護、だよ」
やっと絞り出したその単語に、舞自身が納得してない。そんな顔。
「えー。そうかなぁ」
唇に人差し指を当てて、首を傾げる。ふい、と舞が私から視線を逸らして、
「は……早く洗面台、行きなよ」
「はーい」
耳まで赤くなった舞を尻目に、今度こそ洗面台へ。
ふんふん、鼻歌を口ずさむ。リズムに合わせてツーステップ。背中に舞の視線が刺さるのを感じる。
自覚はある。
私の一挙手一投足が、舞の衝動を掻き立てていることも。
我ながら結果に頓着が無さ過ぎることも。
――でも、果てを想うことに何の意味があるだろう。
私はもちろん、舞だって、お師匠様の下に在る限り、不変は約束されている。死ぬことはない、老いることはない、成長することはない。舞が私の胸を揉もうが、私が舞の胸を刺そうが、何も変わらない明日は当然のように訪れる。
不変を祝福だと捉えるには、私は成熟しすぎていた。
不変を呪いだと捉えるには、私は未熟すぎた。
空中へ放り投げた林檎が放物線の頂点で重力から解き放たれるように、私の精神は興隆と破滅の狭間をフワフワと漂う。時計の針は止まったまま。箱の中の猫は観測されないまま。私は何処まで行っても爾子田里乃のまま。
顔を洗う。歯を磨く。口をゆすいで、鏡の中の不変の私に笑いかける。
うん、私、今日も可愛いぞ。
◆
人形と木の家。ぬいぐるみ。絵本。ビー玉におはじき。クレヨンとスケッチブック。マジックテープで貼り付けられた木製の野菜や果物。
私と舞の部屋には、そういう知育玩具が山ほど用意してあって、私は時々それらがどうしようもなく抑圧の象徴にしか感じられないことがある。二童子(私たち)の精神が、お師匠様の予測圏内から外れないように穿つ楔。あるいはお師匠様は、まったくそんなことを気にしたことがないのかもしれないけれど。
お師匠様は留守にしてる。どこに行ったのかは知らされてない。きっとまた何か企んでる。昨日、そんな顔をしてた。お師匠様はいつも楽しそう。うまく行っても行かなくても。
「ねぇ、舞~?」
クレヨンを放り投げて、ころんと畳に寝転がって舞を呼ぶ。
「何だい、里乃」
ぬいぐるみのクマに聴診器を当てる舞が、振り向いて言う。
「暇だよぉ。ヒマ、ヒマ。暇すぎてヒマラヤ山脈になっちゃうよぅ」
「里乃がヒマラヤ山脈になったら、僕は面白いかな」
「え~、登るのぉ? 私という山脈の踏破、目指しちゃう感じ?」
「目指す目指す。しかも僕は、一番の難関とされるサトノK2を登っちゃうね」
舞が自信ありげに髪の毛を掻き上げながら言う。その様子がちょっと可愛く見えて、私はへらっと笑った。
「あはは、サトノK2ってどこ~?」
「そりゃ、里乃の身体で二番目に標高が高い所さ」
「あれれ、一番難しいのに、一番高い所じゃないんだ」
「実際のヒマラヤ山脈がそうなんだよ。一番高い山がエベレスト。次がK2。でも、K2は山脈の奥まったところにあって、到達が難しいんだ。麓に辿り着くのだって、バルトロ氷河っていう氷の川の上を、一週間も歩かなきゃいけない」
「ほぇ~、そうなんだぁ。舞は物知りさんだねぇ。じゃあさ、じゃあさ――」
私は両手を投げ出して、畳の上に大の字になる。木枠で間仕切りされた天井は、そこここに正体不明の染みがあった。
「やってみて」
「え?」
「こうやって仰向けになった私がサトノヒマラヤ山脈で~、ここがエベレストかな?」
言って、自分の鼻の頭をちょんとつつき、
「奥まった場所にないし、一番高いところだもんね。サトノエベレストはここ。そうでしょ?」
「あ、うん」
「じゃ、次に高い所は、ここ」
言って、自分の右胸のてっぺんを指す。ちょうど乳首が位置するところ。舞の方へ視線を投げる。ポカンとした表情をしてた。クス、と笑みを零す。
「奥まったところだし、二番目に高いもんね。ここがサトノK2だよね?」
「あぁ……うん。あー、そう、かな? そうなるかな、うん」
「だよね。良かったぁ、間違ってなくて」
「う、うん……そうだね、あはは」
「だからさ」
ポンポン、と畳を叩いて舞を呼ぶ。舞は首に掛けてた聴診器を外し、恐る恐るといった感じで私のところに来てくれた。腰を下ろした舞の首に、食虫植物みたいにサッと手を回して引き寄せる。
「わっ……!」
バランスを崩した舞が、私に覆い被さるような格好になった。私は舞の無防備な耳元に唇をそっと寄せ、声の振動で舞の耳をくすぐるように、
「やってよ」
「……」
舞が小さく喉を鳴らす。その初心な反応が楽しくて、私はさらに声を落として、もっと唇を近付けて囁いて、
「今日、お師匠様、いないよ?」
「で、でも、僕……」
「サトノK2、踏破しちゃうんでしょ? ほら」
舞の手をきゅっと握って、投げ出した左腕の上に添えさせる。すすす、と指先で腕をなぞるよう導いて。おずおずと、舞が私の腕をなぞり始めたのを見て、手を離す。
「ふふ、くすぐったい」
「ご、ごめん、僕……」
耳まで真っ赤になった舞が、パッと私の腕から手を引いてしまう。私はとっさに身体を起こして舞の手を掴み、再び自分の左腕へグイと引き寄せて、
「どうして謝るの? 続きしてよ。ここがバルトロ氷河でしょ?」
「う、うぅ……」
舞が目の端に、うっすらと涙を滲ませて睨んでくる。小刻みに震える様は小動物のようで、そわそわ視線を移ろわせる様は迷子のようで、私はまるで女神さまにでもなったかと錯覚するくらいに、舞の何もかもを受け止めてしまいたくなる。求められれば、きっと奈落の果てにだって喜んで降りていきそうな心地。
舞が遠慮がちに、私の腕の上で指を滑らせる。舞に触られた肌は感覚が鋭敏になって、もどかしい痺れを残響のように残していく。インモラルが下腹部をクルクルと刺激して、ユーロビートみたく鼓動が早まる。両目がトロリとほぐれるのを感じる。
そう、踊るときの胸の高鳴りに似ていた。
音楽に合わせて動く身体は自律的で、しばしば自分のモノじゃないような感覚を味わう。そんな感じ。身体の主導権を、自分ではない何かに委ねる悦楽。舞の唇が震える。幻のバルトロ氷河を踏破した指先は、肩口から胸元へと延びて。舞がゴクリと喉を鳴らして。
「――あっ」
サトノK2が踏破される。甘い浮遊感に漏れる声。その私の声に打たれるように、舞が小さく身を震わせる。
躊躇うように顔を俯かせて。叫ぶのを堪えるように唇を噛んで。
やがて跳ね上がるように両手で私の肩を掴んで。その勢いのまま私に馬乗りになる。
「――っ、里乃、僕……、里乃を」
「うん」
「いけないことだって、判ってるのに」
「いけないこと、しよ?」
「悪いことだって、思うのに」
「いいよ。しちゃお?」
「里乃を汚したい」
「うん。汚して」
「いいの?」
「いいよ」
舞の頬をするりと撫でる。呼吸を荒げる舞が、雨の中の捨て犬みたいな目で私を見下ろしてきて、その弱々しい視線にゾクゾクする。へらっと笑って舞を見上げる。彼女の瞳に映る私は、ひどくヤらしい表情をしていた。無機質で、退廃的で、そのくせ蠱惑的で。
――あぁ、私、女だ。
こうして私は再確認する。私は私の定義を、舞を通じて理解する。退廃の炎に身をくべて、罪科の奈落へバンジージャンプ。もちろん、ゴムは無し。
二人で一人の私たちは、私たちを持て余している。表と裏であること。陰と陽であること。舞は自分に付与された男性性を。私は私に与えられた女性性を。きっと私も舞も、一人でひとつの何かとして存在する欲求から抗えない。だから舞は私に欲情するし、私はそんな舞を受け入れる自分に耽溺する。私たちは私たちとして在り続けるだけで完成し続けられるけれど、完成した存在という欺瞞そのものが歪みなのだ。
もちろん私も舞も女の子だから、私たちがひとつになる日なんか永遠に来ない。
だから茶番。ぜんぶ茶番。無い物ねだりのごっこ遊び。どこにも辿り着かない逃避行。尻尾を噛んだ蛇の循環。でもそれを永遠だと自負するには、足りないものが多すぎる。
舞が、たどたどしく私のハイソックスを脱がせる。いつものパターン。こうして私たちは欠落した契りを交わし、永遠不変を確かめ合う。
健やかなときも。
病めるときも。
私たちが私たちであり続ける限り、クレイジーバックダンスは終わらない。
文章にめちゃくちゃ色気が漂ってきて、もうなんというか。