栄えある豪徳寺の招き猫一族の中でも、私の母はとりわけ高貴な家柄の出自であったと聞いている。嫁に行った女が通例名乗ることになっている分家筋の名字である山下や宮坂ではなく、一族の長にあたる本家の名字、すなわち豪徳寺そのものを生涯名乗ることが出来るほどに高い霊力の持ち主であった。開祖のタマもしのぐと言われるほどだが、その能力の強大さ故に逆にあからさまにしてご公儀に咎められることを恐れたのか、寺の歴史において明示的に記された記録はない。
彼女の能力のとりわけ優れたところは、単に富を招くばかりでなく、良縁や昇進、豊穣な土地といった、継続的に富を運び続けるツールをも招き入れることが出来る点にあり、とりわけ血筋や禄高にこだわる武家に重宝されたという。
母は、その曇り一つない白い毛皮と特徴的な風貌のために、猫たちの間で白面の君と呼ばれた。目は常に細められて他者に表情を気取られないようにしており、耳の中の毛が濃く、内側が見えないほどであった。白猫ならば鼻や口元は血の気が透けて桜色を帯びるのが常であろうが、まるで白磁で出来た置物のようにただうっすらと透かし彫りのような模様が浮かんでいるだけのように見えた。
能力の高い招き猫はいたずらに前足を上げることはない。それどころか、母は平素からほとんど彫像のように動かなかった。一族の誰も、母が鼠を追ったり、雀をいじめたりするところを見たことがなかったという。生まれた豪徳寺の和尚やその時々の飼い主たちに勧められた時だけ、鰹節や煮干しの混ざった猫飯を申し訳程度にひと舐めして、後は遠慮がちに皿を遠ざけて屋敷の隅の方でじっとしていた。
能力があまりに強力すぎるので、母は一定の期間のみ有償で借り受けられ、特定の飼い主というものを持たなかったようだ。母の方もどこかの家に居着くということをせず、人間の都合のままに転々とすることを良しとしたようである。
伝え聞いた話の一つにこんなものがある。
とある御家人が寺に高い謝礼を払って白面の君を借り受けた。彼女がやってきてまもなく、その者の上役に当たる者が中風に倒れ、代理を仰せつかることになった。急な昇進に喜ぶよりは戸惑っていたのもつかの間、今度は隣の敷地の大名から縁談の話が舞い込んできた。塀の破れ目から迷い込んだ猫をたどってのご縁だという。
わずか数日の間に二つもの富を手に入れた御家人は、そのあまりに急な勢いに恐ろしくなり、猫を寺に帰したという。
しかしこの話には裏があり、寺の側も貸す相手のことはよく見定めていて、あまり欲をかきすぎない相手にしか白面の君は貸されなかったということだ。
武家社会は嫉妬深い。急な出世は要らぬ疑いで周りに足を引っ張られる可能性が高かった。次々に富を集めてその家ごと滅んでしまうようでは、富の象徴どころか凶兆の徴の黒猫にも劣ることになる。寺の方も尋常ならざる能力は特別に重宝し、また警戒していたようだった。寺の方では否認し続けたが、幸運の噂を聞きつけて白面の君を求める客は止まなかったというから、寺自身にもその神通力は及んでいたのだろう。
当の猫はそんなことは素知らぬ顔で、陶器のような顔を澄まし、両足をしっかり地面につけて、じっと門前の客を待っていたという。
さて、そんな得体の知れない雌猫もいつの間にか年頃を迎えたらしく、ある早春の日に気がつけば腹が膨れていた。父親はどこの猫かも知らない。それどころか発情期らしい鳴き声を出したところも、他の猫と絡んでいる様子も、誰も見たこともなかった。
処女でなくなればこの強すぎる神通力もほどよく減るだろうと、根拠のない期待で和尚たちも一安心していた。白面の君の底知れぬ力に薄ら恐ろしいものを感じていたのである。
いくらか経ち、山桜も盛りとなった頃、おぼろ月夜の晩春に生まれた猫は五匹いた。基本的には母によく似た白猫に見えたが、右の足首であったり、左耳の付け根であったり、その身体のどこかには必ず茶色い汚れのような染みが出来ていた。雪のような純白の毛皮をよしとする豪徳寺の招き猫には相応しくないと、猫たちの間で話し合いが行われ、人間たちの知らぬ間にそっと首筋を咥えられ、分家に養子に出されていった。
最後に生まれた子猫は、ぱっと見ただけの印象では純白に近い毛色であり、その猫だけが豪徳寺の本家に残されることになった。
その猫は自分を取り巻く状況を知らぬまま、母の乳を独り占め出来ることの幸運を味わっていた。その子猫の一生のうちで、目が開かぬうちが一番幸福であったかもしれぬ。
豪徳寺一族の猫たちは代わる代わるに白面の君のお見舞いに来ては、手土産の鼠一匹、川魚一匹を枕元において、まあなんて愛らしい白ちゃん、お母様にそっくりだわねえ、などとおべんちゃらを言っては産後の疲労を隠しきれない母に冷たい一瞥をされて退散する、ということを繰り返していた。
口さがない親戚の一匹が、ところでこの子のお父さんは……などと言いかけようものなら、たちまちにその猫は豪徳寺の門を二度とくぐれないようになった。
親戚が来ている時、母はよく私の毛皮を舐めて掃除をしていた。今思うに、白い毛の中に、茶色や黒の混じっていないことを常に確認していたのだろう。あるいは、その気配が少しでもあればその毛を猫のざらざらした舌で削り取ろうとして、目を光らせていたのかもしれない。
しかしその子猫は気付いていた。誰からも見られないような場所、両前足の手首にある手根球の近くにぽつりと墨の汚れのような染みがあるということを。
育つにつれてその汚れは少しずつ広がっていって、くるりと輪を描くように手首を覆った。その黒い模様は運命を縛る手錠のように思えた。
その忌まわしい穢れが誰の目に見ても明らかになった時、母はおそらく静かに何かをあきらめたのだろう。
ある初夏の夜に、母はぽつりと言葉を落とした。
「やはりお前も浅草商人の仔か。白に混ぜ物をしてはいけなかった」
どういう意味かと問うたが、答えはなかった。まだ小さな子猫には、浅草というのが江戸のどこかの場所の名前であるということしか分からなかった。
この頃の私は招き猫としての修行を始めたばかりであった。座学が中心であったせいか、豪徳寺本家の仔として猫かぶりをしていたせいか分からないが、前足以外の毛の色がさほど目立たないうちはまだ、疎まれるというほどではなかった。母の仔として、豪徳寺の名字を名乗る子猫をあからさまに邪険に扱うほどの勇気のある者はいなかった、ということかもしれない。
猫は本能的に臆病で卑怯な生き物である。恐ろしいものには近づかない。好奇心のゆえに死ぬことをよく知っている。
一部の例外を除いては、ということだが。
例外であるその子猫は明くる朝、宮坂の親戚に頼み込んで浅草までの道を教えてもらうことにした。
「浅草? そりゃずいぶん遠いですぜ。歩いて行ったんじゃあ、四つの足が全部すり減ってなくなっちまう。お嬢さんの小さな柔こい足ならなおさらだ」
「私は全部歩くとは言ってないわ。人間たちが大根だの瓜だのを船で運んでいるじゃないの」
「はあ、こりゃよう見ていなさる」
分家筋の白猫はごまかすように前足の肉球を舐めた。
「確かに烏山用水で目黒川まで出てしまえば江戸までは早い。しかしうっかり水の上に落ちてしまったら一巻の終わりでしょうに。猫は泳げないものと相場が決まってらァ」
「そんなへまはしないわよ。魚を追わなけりゃいいんでしょう」
「そんな危ない道のり、誰もお嬢さんについてはいきませんぜ。命が九つあっても足りない」
「かまわないわ。道さえ教えてもらえばそれでいいんだから」
「どうせ旅に出るんなら、海まで出て品川あたりで遊ぶのが楽しい道のりになると思いますがねえ。女子供は白猫が大好きと相場が決まってる。飯盛旅籠のきれいなおべべのお姉さんがたいそう猫かわいがりしてくれるに違いねえ」
「そういうものかしら」
私は懐疑的だった。人間というものがそんなに違うものか、というのが分からなかったのだ。世田谷の田舎暮らしでは墨染めの僧侶か、藍染めの百姓か、それぐらいしか人間を知らなかったのだから無理もない。
ふと、分家筋の猫は何か思いついたようにはっと一点を見つめた。
「ああ、そうだ。品川に立ち寄ることがあったら、伊勢屋の井出野という女中さんを訪ねなさい。ここだけの話だが、あの姐さんは化け猫の仲間だからきっと助けになるでしょうよ」
「猫が人間に混ざって働いているの?」
「まあ修行の一種だそうな。人間についての見聞を広めてナントカコントカ……化け猫と招き猫は生き方が違うからあっしも良くは知りませんが、花街にはだいたいそういうのがいるって聞くねえ」
分家筋の猫は前足を軽く舐めて、話の終わりとした。
「さあ、呆っとしてないで、そろそろ支度をしないと。朝一の船便はもう出ちゃってるだろうけど、明るい内に船つき場まで行って、ちょうどいい大きさの船を見繕っておくんだね。夜になったら大根に紛れて船に忍び込んでおいたが良い。本家の毛皮は白いから夜目にはよく洗った夏大根と見分けがつかねえでしょう。流れている船に飛び乗るにはお嬢さんは小さすぎる」
「そうかしら」
自分としてはそれなりに敏捷いつもりでいるのだが。
「お嬢さんみたいなふわふわの毛玉ちゃんが橋から落ちてきたら、船頭もびっくりして舵を誤っちまうだろう。そうしたら野菜もヒトもお前さんもどんぶらこだ。西瓜ならまだしも、大根生まれじゃあ鬼退治も出来やしない」
私は少し不服ではあったが、一応は年長者の言うことに従うことにした。
寺からちょっと坂を下っただけで烏山川まではすぐに着く。そのあたりは昔はご立派なお城があったそうだが、今は代官屋敷だから猫がのんびり過ごすのには悪くない場所だ。日当たりのいい縁側もあるし、穀倉の鼠をからかって遊んでもいい。
次にいつ満足なご飯にありつけるか分からないぞ、と脅されて、私は出来るだけ胃袋を万端にしておくことにした。野鼠や栗鼠、川魚に干し魚、雀、それから土鳩……どれも春を過ぎて、かすかな苦みとともに骨張って味わい深い。
日暮れ前の船着き場には果たして何隻かの舟が江戸から戻ってきていた。また翌朝には川を下って荷を運んでいくのだろう。手頃な、出来るだけ丈夫そうな船を選んで潜り込んだ。五本ずつまとめて括られた夏大根はしっかりと身が詰まっていて重そうだった。積み荷を風よけとしてその下に潜り込み、翌朝を待つことにした。
眠りにつく前、母に何も告げずに出てきたことに気がついたが、改めて寺に帰るのも面倒で、まあ、帰ってから説明すればいいだろうと横着することにした。
深い眠りについた時、はたして夢を見た。
夢の中で私は知らない場所――多くの人間でごった返す門前にいた。何匹もの猫をつなぎ合わせても直径に満たないほどの大釜の中に妙な香りのする白い煙を炊いて、それをやはり大勢の人間たちが頭だの腰だのに付けてありがたがっていた。
「ここが浅草寺だよ」
不意に声が聞こえて、振り返ると、これまでに見たこともないほどに美しい三毛猫がそこにたたずんでいた。
「お前が僕の娘だね。こんにちは。いや、それともこんばんはかな。すまないね、夢の世界は時間が曖昧で」
不思議な調子でその雄猫は鳴いた。高いとも低いとも分からないが、鐘や音楽のように心地よい調べだった。
「あなたは私のお父さんですか」
「うん、まあ」
彼は照れくさそうに小さく顔を洗った。
「白面の君がそう名乗ることを許してくれれば、だけれど」
細君とは対照的に、目鼻立ちがくっきりとした美猫であった。雄の三毛猫はじっと大きな目を見開いて、私を見据えた。
「君は僕のところに来るつもりなのかい」
そう訊ねられて、私は小さくうなずいた。
「お母さんは浅草商人としか言わなかったけれど、きっともう少し深い仔細があると思うの。私はそれを知りたい。お母さんはどうせ教えてくれないから」
「ふうむ」
彼は口元をむにゃむにゃと動かして、何か言いたげだったが、結局何も言わずにぺろりと口の周りを舐めるだけにとどめた。
「分かった。うちは貧乏だからたいしたおもてなしも出来ないと思うが、君が来たいんなら来なさい。お母さんには僕から伝えておこう」
大釜からの煙がもうもうと立ちこめて、辺り一面を覆い隠そうとしていた。
「道中、くれぐれも気をつけなさいね。君に何かあったら怒られるのは僕の方なんだから」
「待って!」
私は大声で彼を呼んだ。まだ聞きたいことがたくさんあった。
自分の大声で目が覚めた。
飛び起きるともうとっくに夜は明け、日が高く昇っていた。船はすでに動き出しており、見たこともないほど大きな幅の川をゆったり進んでいた。
「あれ、あれ。いつの間に忍び込んだんだい」
ふんどし一丁の船頭がこちらをのぞき込んで問うた。私は取り繕うように顔を掃除して、それから出来るだけ可愛く見えるように、にゃあ、と人にも聞こえる高さで鳴いてみせた。
「まあ、いまさら岸に着けるわけにもいくめえ。暴れて川に落ちたり、荷に悪さしたりするんでねえぞ」
どうにかごまかされてくれたようだった。船頭は口元がゆるむのを押さえきれない様子で、私の同乗を許してくれた。
風にはかすかに潮の匂いが交じっていた。初夏の日差しを受けた水面はきらきらとまぶしく、目がくらみそうだった。
船頭の足下へすり寄ると、にぎりめしをほおばっていた彼は相好を崩して喜び、米粒の中に雑じっていた稚鮎の佃煮を少しだけ分けてくれた。それは起き抜けの猫にはいささか塩からすぎたが、遅めの朝食としてはそれなりに満足のいくものだった。
いよいよ潮の香りはぷんと鼻をつくほどになり、波が高くなって船がずいぶんと揺れるようになった。
「ほうれ、真っ白ちゃん。あそこが品川だよう」
船頭が文字通りの猫なで声でそう言って指さしたのは遠い遠い海岸沿いであった。
「もう少ししたら潮干狩りでねえ、美人が大勢で江戸から来るんだよう。絵にも描かれたような盛況ぶりでねえ」
にゃあ、と一声鳴いてみせると、船頭は小さくうなずいてみせた。
「品川は帰りに寄ろうねえ。のんびり寄り道してたら、今日みたいな陽気じゃあ野菜が悪くなっちまう。それにああいうところは、神田で荷をさばいて、お金持ちになってから遊びに行くのがいいんだよ」
私は物わかりのいい猫の顔をして、ぷるりと身を震わせると、船頭の腕からするりと抜け出した。そして、日の当たらない涼しい場所を探して身を潜めた。
「ああでも、銭が入ったら帰る前にそばをつるりとたぐるのもいいなあ、こんな良い陽気だものなあ。一度ぐらい自分の運んだ大根で辛い辛いと文句を垂れてみたいよなあ」
船頭は独り言の多い性質のようだった。寝物語のようにして私はそれを聞きつつ二度寝をした。
次に目を覚ました時には、船はゆっくりと川岸に着くところだった。私は船頭が船をもやっている間にひょいと岸に飛び降りた。
河岸は目が回るほど人がたくさん駆け回っていて、私は危うく蹴飛ばされるところだった。棒手振も荷駄馬も荷車もひしめきあっていて、どうにか路地に身を隠して息をつくのが精一杯だった。
「やっちゃ場は初めてかい?」
頭の上から声がした。
振り仰ぐと、栗毛の面長な馬が興味深そうにこちらを見下ろしていた。
路地と思ったのはどうやらこちらの方のつなぎ場だったらしい。
私は慌ててうなずき、顔を小さく洗ってから両足をそろえて居住まいを正した。
「すみません、誰かいると思わなくって。失礼しました」
栗毛の馬は優しい目をして訊ねた。
「どこから来たんだい、すてきな毛並みのご令嬢は」
「豪徳寺って分かるかしら? 世田谷の方なんだけど」
「おやまあ、ずいぶん遠いところから」
「浅草寺へ行きたいのだけど、どうしたらいいかしら?」
私がそう言うと、栗毛の馬は下あごだけをぐるんぐるんと動かして考え込んだ。
「浅草寺かあ。適当な船が見つかればすぐなんだろうけど、それを見つけるのが大変だなあ。歩いた方が案外早いかもしれない。ひとの足ならのんびり歩いても半刻ぐらいで着くよ」
「ありがとう。どちらへ行ったらいいのかしら」
「神田川を両国の方に少し下って隅田川に出たら蔵前方面……といっても分からないよねえ。説明が難しいな」
とがった耳を小さく横に回して、説明を探す。
「私も今日は仕事が入るかもしれないし、人に交じって勝手に連れ回せないしなあ。どうしようかしらん」
尻尾を振って蠅を追い払う。
私はふと思いついて訊ねた。
「伊勢屋の井出野さんという方はご存じ? あの方みたいに人に交ざっているお方がいるといいと思うのだけど」
「伊勢屋って、あの品川の?」
「そう。花街にはだいたいそういう方がいらっしゃると聞いたの」
「そうかそうか、猫族や狢の類はそういう伝手もあるんだったね。あたしのような昼職には及びもつかなかった。確かにここらは本所も近いから誰か暇なのがいるかもしれない」
馬はそう言うと、ぐるりと頭をめぐらせて、屋根の上から様子をうかがっていた一匹の雀を見つけて微笑みかけた。
「えっ、おいらかい。嫌だよ、猫の相手なんか」
「なにもあんたに道案内をしてもらおうなんざ思ってないよ。ちょいと使いっ走りをしてくれればそれでいいのさ」
「それにしたって嫌だよ。猫の便宜を図ったりしたら黑八に喰われて死んだ叔父が化けてでるよ」
「馬鹿言ってんじゃないよ。あんただっていつかどこかに旅に出るかもしれないだろ。あんたじゃなくたって、あんたの子でも孫でもいいけどさ。そんときはこの白猫ちゃんに助けてもらえるかもしれない。旅は道連れ、世は情けだからね」
馬も雀もいっこうに引く気配がない。
私はどうにもいたたまれなくて、右前足を軽く上げ、顔を洗った。そして小さく独り言を言うように、にゃあ、と鳴いた。
と。
にらみ合っていた雀はあきらめたようにそっぽを向いた。
「姐さんにそう言われたんじゃ、しょうがねえ」
雀は小さくかぶりを振り、それからどこかへ飛んでいった。
しばらく待っていると、黒い上等な羽織を着た商人とおぼしき中年の男が通りがかってこちらをじろじろと見た。
「ええと、お呼びですかね」
男は丸々と太ったお腹をさすりながら、自分が場違いでないことを確かめるように尋ねた。
馬はさも当然のように商人に答えた。
「待ってたよ。駕籠を呼んで、この子を浅草まで連れていってもらえると助かるんだがね」
「へえ、そりゃ構いませんが。どういったご用向きで」
「仔細はこの子に聞いとくれ。私はただ無性にこの子を助けたいと思っただけだよ」
「はは、姐さんの気まぐれにゃあ困ったもんだ」
商人は笑ってから、馬の顔を愛おしげにそっと撫でた。
「じゃあ、ま、あの辺についでの用事でもこさえて行くことにしましょうかね」
男はそうっと私を抱き上げて、歩き出した。
「おじさんは狸なの? それとも猫?」
私がそう尋ねると、男は小さく笑った。
「そういうことはあんまり他者に訊くもんじゃありませんよ。特に商いをするんだったらね。ふてえ野郎だと思われるから」
「はあい」
私は小さく口を舐めた。
男はまっすぐには駕籠屋へ向かわずに、一度自分の商家へ戻って、自分の雇い主に丁寧に行き先を告げたようだった。ちょうどそのあたりに商いの相談ごとやら挨拶伺いがあるのだという。
書き物をしていた旦那はその申し出を承諾して、それから顔を上げて尋ねた。
「ところで、お前さん、その足下の猫は一体どうしたい?」
「いや、ちょっと撫でたらどうも懐かれちまって。そのうちどっかに行くと思うんですが」
へへへと愛想笑いをして、男はその場をしのいだ。
私は出来るだけお行儀の良い猫に見えるように、前足をちゃんと地面に置いてから軽く顔を洗い、そして、あどけない声色を作ってにゃあと鳴いた。
「ふむ。まあ、居着いてしまったのなら、追い払うこともねえか」
旦那はそうつぶやくと、くるりと後ろを向いた。
「まあ、お前もこのところ働きづめだったろうから、少しお寺にお参りでもして、一息ついてきなさい」
そう言って茶箪笥の中をごそごそとやり始めた。男はあわてて手を振って断った。
「いやいや、そんな。もう小僧じゃありませんし」
「そうかえ。まあ、逆に失礼か。すまんねえ、長いこと勤めてもらったから、俺が死ぬ前にお前にはよくしてやりたくてねえ」
「お言葉だけありがたくいただきやす」
深々と頭を下げて、男はその場を辞した。
そのようなわけで、辻駕籠をつかまえて浅草までのんびりと移動することになった。
道中、商人は静かに私を撫でているだけだった。私が、あれはナニ、これはナニと聞いても知らんぷりをしていて、どうにも腹立たしかった。
浅草に着いて駕籠を降りてから、そっと耳打ちしてくれた。
「ごめんよ、猫に向かって話しかけたりしたら、駕籠舁に変に思われるのが嫌でねえ」
「それでも何かもう少しあるんじゃない。仔細を話してくれなかったら不安に思うじゃないの」
「それはそうだった。どうも私は人の間に染まりすぎてしまって」
男は腹を小さく撫でた。
「私は、美味いものに目がなくてねえ、若い頃に馬鹿貝を味噌で煮込んで飯にかけた奴を一口喰ってから、もうこのお江戸から離れられんのさ。必死で働いて、美味いもの、美味いものをと生き急いでいたらもうこの有様よ。今じゃあ自分が一体狢だったのか狸だったのかさえも覚えちゃいないんだ」
「貝の食べ過ぎで馬鹿になっちゃったんだわ」
「いやもう、本当にそう。お嬢さんにはかなわないねえ」
鼻の横をぽりぽりと掻いた。
「さ、浅草だよ。帰りはどうするね?」
「なんとかするわ。おじさんも良いことがありますように」
私はそう言って顔を洗おうとした。
「あ、おやめ」
男は私の前足をつかんで止めた。
「お前さん、もしかして招き猫だろう。そう軽々に前足を上げるもんじゃあないよ」
「猫がちょっとしたことで顔を洗うのは当たり前のことだわ」
「そうかもしれないが、ちったぁ我慢を覚えた方が良い。そうやってむやみやたらと福を呼ぶのはおやめなさい。今は良いかもしれないが、全ての福が上手く働くとは限らないからね」
「そうなの? 福ってみんな良いものだと思ってたわ」
「まあ、招き猫はそういう生き物だから仕方ないがね。とにかく、不思議なものはちょっとあるから不思議でいいのさ」
そういうものか、と思わないではなかった。
さて、猫の場合、夢の中そのままに人通り激しい門前町の、往来をそのまま行くというわけにはいかない。忙しい人々の足下でうろちょろしていては蹴飛ばされる恐れがある。
私はひとまず手頃な屋根の上にのぼり、黒山の人だかりを上から見下ろすことにした。大きな朱塗りの門があり、大きく雷門と書かれた提灯がぶら下がっている。ほとんどの人々はそこへ向かっているようだった。
屋根伝いに歩いていく。まだ五月だというのに陽気は激しく瓦屋根を照らし、くらくらするような暑さだった。門前の一つの店の前に通りがかると、はっと視線を奪われた。
そこには焼き物の三毛猫が誇らしげに前足を上げて、こちらを見据えていたのだった。
私は目をまん丸くして、その猫と相対するように座った。そして挨拶をするように前足を掲げた。
焼き物の猫がこちらへ向けて微笑んだように見えた、その瞬間、私の体中にびりびりと何か、得体の知れないしびれるような感覚が走った。
まるで時が止まったようになって、人だかりの喧噪もかき消えたようになった。私はほとんど気を失って、白昼夢の中にいるようだった。
「やあ、来たんだね」
夢の中そのままの、音楽のような心地よい声で、猫は語った。
「お父さん……?」
ぽつりと言葉を落とした。
「そうだよ。よく無事にここまで来た。まだ小さい君が、本当に来られるとは。この世のご縁も捨てたもんじゃないね」
父は嬉しそうに言った。
「お父さんは悪い人間に焼き物にさせられちゃったの?」
「いやいや、そうじゃないよ。僕はね、一度死んでいるんだ」
父が語ったところによればこうである。
世にも珍しい雄の三毛猫として生まれた父は、生まれながらにして幸運を呼び寄せられる存在として珍重され、可愛がられていたが、飼い主の家がある日悪い者にだまされて金品を奪われてしまった。役立たずと罵られ、追い出されたところを老婆に拾われ、また愛されたが、貧しい暮らしの故にまた彼女も手放さざるを得なかった。二度も人間に見放された父は傷心し、その身を隅田川に投げた。
「まあ、僕もまだ若かったんだな」
照れくさそうに額にしわをよせた。
「珍しいものが幸運を呼び寄せるなんて言い始めたのは一体誰なんだろうな。ただの猫にそんな力はないのは分かっているだろうのに」
勝手な願いを押しつけられ、勝手に失望されて。
なんと人間とは手前勝手なものなのか。
「それでもやっぱり僕は人間のことが好きだったんだなあ」
飼われている間は少なくとも幸せだったのだ。
「まだ魂がぼんやりと浅草のあたりをうろついていたとき、最後に愛してくれた彼女の夢の中に入ったんだ。別れの挨拶のつもりでね」
老婆は夢の中で心から詫びた。
――お前がいなければ生きる意味がない。どうか戻ってきておくれ。
――お前を取り戻すためなら何でもする。
――そうだ、お前のことを忘れないために、お前の姿を焼き物の人形で止めておこう。
夢から覚めた老婆は、三毛猫の姿の人形を何体も何体も作った。自分の中にある理想の猫の姿を記憶にとどめるために、作らずにはいられなかった。
余った人形を売り物としたところ、幸運の象徴としてたちまちに評判となった。
「そして僕はこの今戸焼の軛から逃れられなくなった」
魂が吸い寄せられ、三毛猫の焼き物の中に閉じ込められてしまった。自由に動くことが出来るのは夢の中だけだった。
「僕の人形たちが幸運を呼び寄せることが出来たのかどうかは分からない。でも貧乏だったおばあちゃんは、お金持ちになった」
招き猫の焼き物は今では浅草名物として有名である。
「それはそれで幸せなことかもしれない」
「どうかしら。お父さんはやっぱり悪い人間に焼き物にさせられちゃったのと同じことよ」
私は憤慨していた。
「まあ、それでもいいさ。この姿を得たことで、僕もただの猫から妖怪猫の仲間入りを果たしたわけだからね。おかげで子孫を残すことも出来た」
生身の身体を持っていようが持っていまいが、妖怪猫には妖怪猫の付き合いというものがある。
「お母さんを――白面の君を見初めたのは、そういうちょっとした集まりでのことだった」
夢と現の境界線上――後の世で幻想郷と呼ばれる空き地での猫の集会である。地域の猫同士でゆるやかな円を描いて集まり、毛繕いをしたり、顔合わせをしたり、手ぬぐいをかぶって踊ったり、そういうことをする。猫又もいれば猫娘も化猫遊女もいる中で、豪徳寺の招き猫一族を代表して顔を出しているのが白面の君だった。
「もう、一目惚れだったよ。僕は気がついたら全力で彼女を口説いていて、本当に夢中だった」
「そうして、私が生まれたということなのね」
「そうだ。白面の君が何を考えて僕を選んでくれたのかは分からない。あまり口数の多い女ではないからね。でも君がこうして僕に会いに来てくれて本当にうれしい。きっと旅の途中でもたくさんの幸運を運んでくれたと思うよ」
彼はそう言って、長い物語を終えた。
「……分かったけど、分からないわ」
私は不満だった。
「お母さんはいったい何を考えていたのかしら」
控えめに言っても、確かに父は器量よしの猫である。でもたぶんそれだけだ。老婆が金持ちになったのはたまたまだし、どこまで幸運を呼び寄せる力があるかは怪しいところがある。
「そればかりは直接訊くしかないね」
父がそう言ったところで、すっとあたりが暗くなったように思われた。
「え、」
風にさらわれるように、首根っこを何かに力強く捕まれていた。気がつけば私はくらりと平衡を失っていた。
次に目を覚ました時には、懐かしい豪徳寺の門前だった。のんびりした世田谷村の寺は浅草寺の喧噪とは比べものにならない。のどかに暮れ六つの鐘が鳴り、鴉がねぐらへと急いでいた。
「気がついたか」
冷たい声がした。見上げれば能面のような顔をして、白猫が座っていた。
「お母さん……」
「遠くへ行く時はひとこと言いなさい。夢の経絡を生身で押し通るのは本当に苦労したのだから」
「なんでお母さんは私を産んだの」
私は真っ先に浮かんだ言葉を口にした。
「……あの宿六め。自分の尻ぐらい自分で舐めろ」
母はため息交じりにそう悪態をついた。
「お前には分からないだろうが、黒船があと一月で来る。我々はそれに備えなければならなかった」
「黒船?」
「あと一月で、この国の危機が始まる。大いなる災難には、大いなる福徳を以て応じなければならない。武家の本分は元来は武にこそあるが、外つ国の敵は商いごとをも武器として攻めてくる。己の不得手を補うのも兵法の一つ。上喜撰などと戯れを口にしている暇はない」
「……何を言っているのか分からないわ」
私は小さくかぶりを振った。
「結構。いずれ分かるようになる。お前は井伊の御家のためには無くてはならぬものだ」
母はそれだけ言って、霞のようにどこかへかき消えてしまった。
私は取り残されたような気分で落ちていく日を見つめた。
何が何だか分からなかったが、ただ分かったのは、母は何か大きな目的のために父と交わり、私たちを産み落としたということだった。そして、己の神通力を使って何かの野望を成し遂げようとしているということも。
「……させない」
あまりにも身勝手だ。その身勝手さは父を殺した人間たちのものと同種のように思われた。
燃えるような夕陽に向かって誓った。
「私はいずれ生え替わる己の毛の色をものともせず、自らの名として背負って、日の本一の、ううん、世界一の、宇宙一の、この世で一番の招き猫になってやる」
母の名字を受け継ぎ、父の毛並みを名に負って、二つの招き猫種族の頂点に立つ。
そうして母を超え、豪徳寺一族を超え、全ての幸運の象徴を超えて、己の為すべき真実の幸運を引き寄せる存在になってやると心に決めたのだった。
(了)
彼女の能力のとりわけ優れたところは、単に富を招くばかりでなく、良縁や昇進、豊穣な土地といった、継続的に富を運び続けるツールをも招き入れることが出来る点にあり、とりわけ血筋や禄高にこだわる武家に重宝されたという。
母は、その曇り一つない白い毛皮と特徴的な風貌のために、猫たちの間で白面の君と呼ばれた。目は常に細められて他者に表情を気取られないようにしており、耳の中の毛が濃く、内側が見えないほどであった。白猫ならば鼻や口元は血の気が透けて桜色を帯びるのが常であろうが、まるで白磁で出来た置物のようにただうっすらと透かし彫りのような模様が浮かんでいるだけのように見えた。
能力の高い招き猫はいたずらに前足を上げることはない。それどころか、母は平素からほとんど彫像のように動かなかった。一族の誰も、母が鼠を追ったり、雀をいじめたりするところを見たことがなかったという。生まれた豪徳寺の和尚やその時々の飼い主たちに勧められた時だけ、鰹節や煮干しの混ざった猫飯を申し訳程度にひと舐めして、後は遠慮がちに皿を遠ざけて屋敷の隅の方でじっとしていた。
能力があまりに強力すぎるので、母は一定の期間のみ有償で借り受けられ、特定の飼い主というものを持たなかったようだ。母の方もどこかの家に居着くということをせず、人間の都合のままに転々とすることを良しとしたようである。
伝え聞いた話の一つにこんなものがある。
とある御家人が寺に高い謝礼を払って白面の君を借り受けた。彼女がやってきてまもなく、その者の上役に当たる者が中風に倒れ、代理を仰せつかることになった。急な昇進に喜ぶよりは戸惑っていたのもつかの間、今度は隣の敷地の大名から縁談の話が舞い込んできた。塀の破れ目から迷い込んだ猫をたどってのご縁だという。
わずか数日の間に二つもの富を手に入れた御家人は、そのあまりに急な勢いに恐ろしくなり、猫を寺に帰したという。
しかしこの話には裏があり、寺の側も貸す相手のことはよく見定めていて、あまり欲をかきすぎない相手にしか白面の君は貸されなかったということだ。
武家社会は嫉妬深い。急な出世は要らぬ疑いで周りに足を引っ張られる可能性が高かった。次々に富を集めてその家ごと滅んでしまうようでは、富の象徴どころか凶兆の徴の黒猫にも劣ることになる。寺の方も尋常ならざる能力は特別に重宝し、また警戒していたようだった。寺の方では否認し続けたが、幸運の噂を聞きつけて白面の君を求める客は止まなかったというから、寺自身にもその神通力は及んでいたのだろう。
当の猫はそんなことは素知らぬ顔で、陶器のような顔を澄まし、両足をしっかり地面につけて、じっと門前の客を待っていたという。
さて、そんな得体の知れない雌猫もいつの間にか年頃を迎えたらしく、ある早春の日に気がつけば腹が膨れていた。父親はどこの猫かも知らない。それどころか発情期らしい鳴き声を出したところも、他の猫と絡んでいる様子も、誰も見たこともなかった。
処女でなくなればこの強すぎる神通力もほどよく減るだろうと、根拠のない期待で和尚たちも一安心していた。白面の君の底知れぬ力に薄ら恐ろしいものを感じていたのである。
いくらか経ち、山桜も盛りとなった頃、おぼろ月夜の晩春に生まれた猫は五匹いた。基本的には母によく似た白猫に見えたが、右の足首であったり、左耳の付け根であったり、その身体のどこかには必ず茶色い汚れのような染みが出来ていた。雪のような純白の毛皮をよしとする豪徳寺の招き猫には相応しくないと、猫たちの間で話し合いが行われ、人間たちの知らぬ間にそっと首筋を咥えられ、分家に養子に出されていった。
最後に生まれた子猫は、ぱっと見ただけの印象では純白に近い毛色であり、その猫だけが豪徳寺の本家に残されることになった。
その猫は自分を取り巻く状況を知らぬまま、母の乳を独り占め出来ることの幸運を味わっていた。その子猫の一生のうちで、目が開かぬうちが一番幸福であったかもしれぬ。
豪徳寺一族の猫たちは代わる代わるに白面の君のお見舞いに来ては、手土産の鼠一匹、川魚一匹を枕元において、まあなんて愛らしい白ちゃん、お母様にそっくりだわねえ、などとおべんちゃらを言っては産後の疲労を隠しきれない母に冷たい一瞥をされて退散する、ということを繰り返していた。
口さがない親戚の一匹が、ところでこの子のお父さんは……などと言いかけようものなら、たちまちにその猫は豪徳寺の門を二度とくぐれないようになった。
親戚が来ている時、母はよく私の毛皮を舐めて掃除をしていた。今思うに、白い毛の中に、茶色や黒の混じっていないことを常に確認していたのだろう。あるいは、その気配が少しでもあればその毛を猫のざらざらした舌で削り取ろうとして、目を光らせていたのかもしれない。
しかしその子猫は気付いていた。誰からも見られないような場所、両前足の手首にある手根球の近くにぽつりと墨の汚れのような染みがあるということを。
育つにつれてその汚れは少しずつ広がっていって、くるりと輪を描くように手首を覆った。その黒い模様は運命を縛る手錠のように思えた。
その忌まわしい穢れが誰の目に見ても明らかになった時、母はおそらく静かに何かをあきらめたのだろう。
ある初夏の夜に、母はぽつりと言葉を落とした。
「やはりお前も浅草商人の仔か。白に混ぜ物をしてはいけなかった」
どういう意味かと問うたが、答えはなかった。まだ小さな子猫には、浅草というのが江戸のどこかの場所の名前であるということしか分からなかった。
この頃の私は招き猫としての修行を始めたばかりであった。座学が中心であったせいか、豪徳寺本家の仔として猫かぶりをしていたせいか分からないが、前足以外の毛の色がさほど目立たないうちはまだ、疎まれるというほどではなかった。母の仔として、豪徳寺の名字を名乗る子猫をあからさまに邪険に扱うほどの勇気のある者はいなかった、ということかもしれない。
猫は本能的に臆病で卑怯な生き物である。恐ろしいものには近づかない。好奇心のゆえに死ぬことをよく知っている。
一部の例外を除いては、ということだが。
例外であるその子猫は明くる朝、宮坂の親戚に頼み込んで浅草までの道を教えてもらうことにした。
「浅草? そりゃずいぶん遠いですぜ。歩いて行ったんじゃあ、四つの足が全部すり減ってなくなっちまう。お嬢さんの小さな柔こい足ならなおさらだ」
「私は全部歩くとは言ってないわ。人間たちが大根だの瓜だのを船で運んでいるじゃないの」
「はあ、こりゃよう見ていなさる」
分家筋の白猫はごまかすように前足の肉球を舐めた。
「確かに烏山用水で目黒川まで出てしまえば江戸までは早い。しかしうっかり水の上に落ちてしまったら一巻の終わりでしょうに。猫は泳げないものと相場が決まってらァ」
「そんなへまはしないわよ。魚を追わなけりゃいいんでしょう」
「そんな危ない道のり、誰もお嬢さんについてはいきませんぜ。命が九つあっても足りない」
「かまわないわ。道さえ教えてもらえばそれでいいんだから」
「どうせ旅に出るんなら、海まで出て品川あたりで遊ぶのが楽しい道のりになると思いますがねえ。女子供は白猫が大好きと相場が決まってる。飯盛旅籠のきれいなおべべのお姉さんがたいそう猫かわいがりしてくれるに違いねえ」
「そういうものかしら」
私は懐疑的だった。人間というものがそんなに違うものか、というのが分からなかったのだ。世田谷の田舎暮らしでは墨染めの僧侶か、藍染めの百姓か、それぐらいしか人間を知らなかったのだから無理もない。
ふと、分家筋の猫は何か思いついたようにはっと一点を見つめた。
「ああ、そうだ。品川に立ち寄ることがあったら、伊勢屋の井出野という女中さんを訪ねなさい。ここだけの話だが、あの姐さんは化け猫の仲間だからきっと助けになるでしょうよ」
「猫が人間に混ざって働いているの?」
「まあ修行の一種だそうな。人間についての見聞を広めてナントカコントカ……化け猫と招き猫は生き方が違うからあっしも良くは知りませんが、花街にはだいたいそういうのがいるって聞くねえ」
分家筋の猫は前足を軽く舐めて、話の終わりとした。
「さあ、呆っとしてないで、そろそろ支度をしないと。朝一の船便はもう出ちゃってるだろうけど、明るい内に船つき場まで行って、ちょうどいい大きさの船を見繕っておくんだね。夜になったら大根に紛れて船に忍び込んでおいたが良い。本家の毛皮は白いから夜目にはよく洗った夏大根と見分けがつかねえでしょう。流れている船に飛び乗るにはお嬢さんは小さすぎる」
「そうかしら」
自分としてはそれなりに敏捷いつもりでいるのだが。
「お嬢さんみたいなふわふわの毛玉ちゃんが橋から落ちてきたら、船頭もびっくりして舵を誤っちまうだろう。そうしたら野菜もヒトもお前さんもどんぶらこだ。西瓜ならまだしも、大根生まれじゃあ鬼退治も出来やしない」
私は少し不服ではあったが、一応は年長者の言うことに従うことにした。
寺からちょっと坂を下っただけで烏山川まではすぐに着く。そのあたりは昔はご立派なお城があったそうだが、今は代官屋敷だから猫がのんびり過ごすのには悪くない場所だ。日当たりのいい縁側もあるし、穀倉の鼠をからかって遊んでもいい。
次にいつ満足なご飯にありつけるか分からないぞ、と脅されて、私は出来るだけ胃袋を万端にしておくことにした。野鼠や栗鼠、川魚に干し魚、雀、それから土鳩……どれも春を過ぎて、かすかな苦みとともに骨張って味わい深い。
日暮れ前の船着き場には果たして何隻かの舟が江戸から戻ってきていた。また翌朝には川を下って荷を運んでいくのだろう。手頃な、出来るだけ丈夫そうな船を選んで潜り込んだ。五本ずつまとめて括られた夏大根はしっかりと身が詰まっていて重そうだった。積み荷を風よけとしてその下に潜り込み、翌朝を待つことにした。
眠りにつく前、母に何も告げずに出てきたことに気がついたが、改めて寺に帰るのも面倒で、まあ、帰ってから説明すればいいだろうと横着することにした。
深い眠りについた時、はたして夢を見た。
夢の中で私は知らない場所――多くの人間でごった返す門前にいた。何匹もの猫をつなぎ合わせても直径に満たないほどの大釜の中に妙な香りのする白い煙を炊いて、それをやはり大勢の人間たちが頭だの腰だのに付けてありがたがっていた。
「ここが浅草寺だよ」
不意に声が聞こえて、振り返ると、これまでに見たこともないほどに美しい三毛猫がそこにたたずんでいた。
「お前が僕の娘だね。こんにちは。いや、それともこんばんはかな。すまないね、夢の世界は時間が曖昧で」
不思議な調子でその雄猫は鳴いた。高いとも低いとも分からないが、鐘や音楽のように心地よい調べだった。
「あなたは私のお父さんですか」
「うん、まあ」
彼は照れくさそうに小さく顔を洗った。
「白面の君がそう名乗ることを許してくれれば、だけれど」
細君とは対照的に、目鼻立ちがくっきりとした美猫であった。雄の三毛猫はじっと大きな目を見開いて、私を見据えた。
「君は僕のところに来るつもりなのかい」
そう訊ねられて、私は小さくうなずいた。
「お母さんは浅草商人としか言わなかったけれど、きっともう少し深い仔細があると思うの。私はそれを知りたい。お母さんはどうせ教えてくれないから」
「ふうむ」
彼は口元をむにゃむにゃと動かして、何か言いたげだったが、結局何も言わずにぺろりと口の周りを舐めるだけにとどめた。
「分かった。うちは貧乏だからたいしたおもてなしも出来ないと思うが、君が来たいんなら来なさい。お母さんには僕から伝えておこう」
大釜からの煙がもうもうと立ちこめて、辺り一面を覆い隠そうとしていた。
「道中、くれぐれも気をつけなさいね。君に何かあったら怒られるのは僕の方なんだから」
「待って!」
私は大声で彼を呼んだ。まだ聞きたいことがたくさんあった。
自分の大声で目が覚めた。
飛び起きるともうとっくに夜は明け、日が高く昇っていた。船はすでに動き出しており、見たこともないほど大きな幅の川をゆったり進んでいた。
「あれ、あれ。いつの間に忍び込んだんだい」
ふんどし一丁の船頭がこちらをのぞき込んで問うた。私は取り繕うように顔を掃除して、それから出来るだけ可愛く見えるように、にゃあ、と人にも聞こえる高さで鳴いてみせた。
「まあ、いまさら岸に着けるわけにもいくめえ。暴れて川に落ちたり、荷に悪さしたりするんでねえぞ」
どうにかごまかされてくれたようだった。船頭は口元がゆるむのを押さえきれない様子で、私の同乗を許してくれた。
風にはかすかに潮の匂いが交じっていた。初夏の日差しを受けた水面はきらきらとまぶしく、目がくらみそうだった。
船頭の足下へすり寄ると、にぎりめしをほおばっていた彼は相好を崩して喜び、米粒の中に雑じっていた稚鮎の佃煮を少しだけ分けてくれた。それは起き抜けの猫にはいささか塩からすぎたが、遅めの朝食としてはそれなりに満足のいくものだった。
いよいよ潮の香りはぷんと鼻をつくほどになり、波が高くなって船がずいぶんと揺れるようになった。
「ほうれ、真っ白ちゃん。あそこが品川だよう」
船頭が文字通りの猫なで声でそう言って指さしたのは遠い遠い海岸沿いであった。
「もう少ししたら潮干狩りでねえ、美人が大勢で江戸から来るんだよう。絵にも描かれたような盛況ぶりでねえ」
にゃあ、と一声鳴いてみせると、船頭は小さくうなずいてみせた。
「品川は帰りに寄ろうねえ。のんびり寄り道してたら、今日みたいな陽気じゃあ野菜が悪くなっちまう。それにああいうところは、神田で荷をさばいて、お金持ちになってから遊びに行くのがいいんだよ」
私は物わかりのいい猫の顔をして、ぷるりと身を震わせると、船頭の腕からするりと抜け出した。そして、日の当たらない涼しい場所を探して身を潜めた。
「ああでも、銭が入ったら帰る前にそばをつるりとたぐるのもいいなあ、こんな良い陽気だものなあ。一度ぐらい自分の運んだ大根で辛い辛いと文句を垂れてみたいよなあ」
船頭は独り言の多い性質のようだった。寝物語のようにして私はそれを聞きつつ二度寝をした。
次に目を覚ました時には、船はゆっくりと川岸に着くところだった。私は船頭が船をもやっている間にひょいと岸に飛び降りた。
河岸は目が回るほど人がたくさん駆け回っていて、私は危うく蹴飛ばされるところだった。棒手振も荷駄馬も荷車もひしめきあっていて、どうにか路地に身を隠して息をつくのが精一杯だった。
「やっちゃ場は初めてかい?」
頭の上から声がした。
振り仰ぐと、栗毛の面長な馬が興味深そうにこちらを見下ろしていた。
路地と思ったのはどうやらこちらの方のつなぎ場だったらしい。
私は慌ててうなずき、顔を小さく洗ってから両足をそろえて居住まいを正した。
「すみません、誰かいると思わなくって。失礼しました」
栗毛の馬は優しい目をして訊ねた。
「どこから来たんだい、すてきな毛並みのご令嬢は」
「豪徳寺って分かるかしら? 世田谷の方なんだけど」
「おやまあ、ずいぶん遠いところから」
「浅草寺へ行きたいのだけど、どうしたらいいかしら?」
私がそう言うと、栗毛の馬は下あごだけをぐるんぐるんと動かして考え込んだ。
「浅草寺かあ。適当な船が見つかればすぐなんだろうけど、それを見つけるのが大変だなあ。歩いた方が案外早いかもしれない。ひとの足ならのんびり歩いても半刻ぐらいで着くよ」
「ありがとう。どちらへ行ったらいいのかしら」
「神田川を両国の方に少し下って隅田川に出たら蔵前方面……といっても分からないよねえ。説明が難しいな」
とがった耳を小さく横に回して、説明を探す。
「私も今日は仕事が入るかもしれないし、人に交じって勝手に連れ回せないしなあ。どうしようかしらん」
尻尾を振って蠅を追い払う。
私はふと思いついて訊ねた。
「伊勢屋の井出野さんという方はご存じ? あの方みたいに人に交ざっているお方がいるといいと思うのだけど」
「伊勢屋って、あの品川の?」
「そう。花街にはだいたいそういう方がいらっしゃると聞いたの」
「そうかそうか、猫族や狢の類はそういう伝手もあるんだったね。あたしのような昼職には及びもつかなかった。確かにここらは本所も近いから誰か暇なのがいるかもしれない」
馬はそう言うと、ぐるりと頭をめぐらせて、屋根の上から様子をうかがっていた一匹の雀を見つけて微笑みかけた。
「えっ、おいらかい。嫌だよ、猫の相手なんか」
「なにもあんたに道案内をしてもらおうなんざ思ってないよ。ちょいと使いっ走りをしてくれればそれでいいのさ」
「それにしたって嫌だよ。猫の便宜を図ったりしたら黑八に喰われて死んだ叔父が化けてでるよ」
「馬鹿言ってんじゃないよ。あんただっていつかどこかに旅に出るかもしれないだろ。あんたじゃなくたって、あんたの子でも孫でもいいけどさ。そんときはこの白猫ちゃんに助けてもらえるかもしれない。旅は道連れ、世は情けだからね」
馬も雀もいっこうに引く気配がない。
私はどうにもいたたまれなくて、右前足を軽く上げ、顔を洗った。そして小さく独り言を言うように、にゃあ、と鳴いた。
と。
にらみ合っていた雀はあきらめたようにそっぽを向いた。
「姐さんにそう言われたんじゃ、しょうがねえ」
雀は小さくかぶりを振り、それからどこかへ飛んでいった。
しばらく待っていると、黒い上等な羽織を着た商人とおぼしき中年の男が通りがかってこちらをじろじろと見た。
「ええと、お呼びですかね」
男は丸々と太ったお腹をさすりながら、自分が場違いでないことを確かめるように尋ねた。
馬はさも当然のように商人に答えた。
「待ってたよ。駕籠を呼んで、この子を浅草まで連れていってもらえると助かるんだがね」
「へえ、そりゃ構いませんが。どういったご用向きで」
「仔細はこの子に聞いとくれ。私はただ無性にこの子を助けたいと思っただけだよ」
「はは、姐さんの気まぐれにゃあ困ったもんだ」
商人は笑ってから、馬の顔を愛おしげにそっと撫でた。
「じゃあ、ま、あの辺についでの用事でもこさえて行くことにしましょうかね」
男はそうっと私を抱き上げて、歩き出した。
「おじさんは狸なの? それとも猫?」
私がそう尋ねると、男は小さく笑った。
「そういうことはあんまり他者に訊くもんじゃありませんよ。特に商いをするんだったらね。ふてえ野郎だと思われるから」
「はあい」
私は小さく口を舐めた。
男はまっすぐには駕籠屋へ向かわずに、一度自分の商家へ戻って、自分の雇い主に丁寧に行き先を告げたようだった。ちょうどそのあたりに商いの相談ごとやら挨拶伺いがあるのだという。
書き物をしていた旦那はその申し出を承諾して、それから顔を上げて尋ねた。
「ところで、お前さん、その足下の猫は一体どうしたい?」
「いや、ちょっと撫でたらどうも懐かれちまって。そのうちどっかに行くと思うんですが」
へへへと愛想笑いをして、男はその場をしのいだ。
私は出来るだけお行儀の良い猫に見えるように、前足をちゃんと地面に置いてから軽く顔を洗い、そして、あどけない声色を作ってにゃあと鳴いた。
「ふむ。まあ、居着いてしまったのなら、追い払うこともねえか」
旦那はそうつぶやくと、くるりと後ろを向いた。
「まあ、お前もこのところ働きづめだったろうから、少しお寺にお参りでもして、一息ついてきなさい」
そう言って茶箪笥の中をごそごそとやり始めた。男はあわてて手を振って断った。
「いやいや、そんな。もう小僧じゃありませんし」
「そうかえ。まあ、逆に失礼か。すまんねえ、長いこと勤めてもらったから、俺が死ぬ前にお前にはよくしてやりたくてねえ」
「お言葉だけありがたくいただきやす」
深々と頭を下げて、男はその場を辞した。
そのようなわけで、辻駕籠をつかまえて浅草までのんびりと移動することになった。
道中、商人は静かに私を撫でているだけだった。私が、あれはナニ、これはナニと聞いても知らんぷりをしていて、どうにも腹立たしかった。
浅草に着いて駕籠を降りてから、そっと耳打ちしてくれた。
「ごめんよ、猫に向かって話しかけたりしたら、駕籠舁に変に思われるのが嫌でねえ」
「それでも何かもう少しあるんじゃない。仔細を話してくれなかったら不安に思うじゃないの」
「それはそうだった。どうも私は人の間に染まりすぎてしまって」
男は腹を小さく撫でた。
「私は、美味いものに目がなくてねえ、若い頃に馬鹿貝を味噌で煮込んで飯にかけた奴を一口喰ってから、もうこのお江戸から離れられんのさ。必死で働いて、美味いもの、美味いものをと生き急いでいたらもうこの有様よ。今じゃあ自分が一体狢だったのか狸だったのかさえも覚えちゃいないんだ」
「貝の食べ過ぎで馬鹿になっちゃったんだわ」
「いやもう、本当にそう。お嬢さんにはかなわないねえ」
鼻の横をぽりぽりと掻いた。
「さ、浅草だよ。帰りはどうするね?」
「なんとかするわ。おじさんも良いことがありますように」
私はそう言って顔を洗おうとした。
「あ、おやめ」
男は私の前足をつかんで止めた。
「お前さん、もしかして招き猫だろう。そう軽々に前足を上げるもんじゃあないよ」
「猫がちょっとしたことで顔を洗うのは当たり前のことだわ」
「そうかもしれないが、ちったぁ我慢を覚えた方が良い。そうやってむやみやたらと福を呼ぶのはおやめなさい。今は良いかもしれないが、全ての福が上手く働くとは限らないからね」
「そうなの? 福ってみんな良いものだと思ってたわ」
「まあ、招き猫はそういう生き物だから仕方ないがね。とにかく、不思議なものはちょっとあるから不思議でいいのさ」
そういうものか、と思わないではなかった。
さて、猫の場合、夢の中そのままに人通り激しい門前町の、往来をそのまま行くというわけにはいかない。忙しい人々の足下でうろちょろしていては蹴飛ばされる恐れがある。
私はひとまず手頃な屋根の上にのぼり、黒山の人だかりを上から見下ろすことにした。大きな朱塗りの門があり、大きく雷門と書かれた提灯がぶら下がっている。ほとんどの人々はそこへ向かっているようだった。
屋根伝いに歩いていく。まだ五月だというのに陽気は激しく瓦屋根を照らし、くらくらするような暑さだった。門前の一つの店の前に通りがかると、はっと視線を奪われた。
そこには焼き物の三毛猫が誇らしげに前足を上げて、こちらを見据えていたのだった。
私は目をまん丸くして、その猫と相対するように座った。そして挨拶をするように前足を掲げた。
焼き物の猫がこちらへ向けて微笑んだように見えた、その瞬間、私の体中にびりびりと何か、得体の知れないしびれるような感覚が走った。
まるで時が止まったようになって、人だかりの喧噪もかき消えたようになった。私はほとんど気を失って、白昼夢の中にいるようだった。
「やあ、来たんだね」
夢の中そのままの、音楽のような心地よい声で、猫は語った。
「お父さん……?」
ぽつりと言葉を落とした。
「そうだよ。よく無事にここまで来た。まだ小さい君が、本当に来られるとは。この世のご縁も捨てたもんじゃないね」
父は嬉しそうに言った。
「お父さんは悪い人間に焼き物にさせられちゃったの?」
「いやいや、そうじゃないよ。僕はね、一度死んでいるんだ」
父が語ったところによればこうである。
世にも珍しい雄の三毛猫として生まれた父は、生まれながらにして幸運を呼び寄せられる存在として珍重され、可愛がられていたが、飼い主の家がある日悪い者にだまされて金品を奪われてしまった。役立たずと罵られ、追い出されたところを老婆に拾われ、また愛されたが、貧しい暮らしの故にまた彼女も手放さざるを得なかった。二度も人間に見放された父は傷心し、その身を隅田川に投げた。
「まあ、僕もまだ若かったんだな」
照れくさそうに額にしわをよせた。
「珍しいものが幸運を呼び寄せるなんて言い始めたのは一体誰なんだろうな。ただの猫にそんな力はないのは分かっているだろうのに」
勝手な願いを押しつけられ、勝手に失望されて。
なんと人間とは手前勝手なものなのか。
「それでもやっぱり僕は人間のことが好きだったんだなあ」
飼われている間は少なくとも幸せだったのだ。
「まだ魂がぼんやりと浅草のあたりをうろついていたとき、最後に愛してくれた彼女の夢の中に入ったんだ。別れの挨拶のつもりでね」
老婆は夢の中で心から詫びた。
――お前がいなければ生きる意味がない。どうか戻ってきておくれ。
――お前を取り戻すためなら何でもする。
――そうだ、お前のことを忘れないために、お前の姿を焼き物の人形で止めておこう。
夢から覚めた老婆は、三毛猫の姿の人形を何体も何体も作った。自分の中にある理想の猫の姿を記憶にとどめるために、作らずにはいられなかった。
余った人形を売り物としたところ、幸運の象徴としてたちまちに評判となった。
「そして僕はこの今戸焼の軛から逃れられなくなった」
魂が吸い寄せられ、三毛猫の焼き物の中に閉じ込められてしまった。自由に動くことが出来るのは夢の中だけだった。
「僕の人形たちが幸運を呼び寄せることが出来たのかどうかは分からない。でも貧乏だったおばあちゃんは、お金持ちになった」
招き猫の焼き物は今では浅草名物として有名である。
「それはそれで幸せなことかもしれない」
「どうかしら。お父さんはやっぱり悪い人間に焼き物にさせられちゃったのと同じことよ」
私は憤慨していた。
「まあ、それでもいいさ。この姿を得たことで、僕もただの猫から妖怪猫の仲間入りを果たしたわけだからね。おかげで子孫を残すことも出来た」
生身の身体を持っていようが持っていまいが、妖怪猫には妖怪猫の付き合いというものがある。
「お母さんを――白面の君を見初めたのは、そういうちょっとした集まりでのことだった」
夢と現の境界線上――後の世で幻想郷と呼ばれる空き地での猫の集会である。地域の猫同士でゆるやかな円を描いて集まり、毛繕いをしたり、顔合わせをしたり、手ぬぐいをかぶって踊ったり、そういうことをする。猫又もいれば猫娘も化猫遊女もいる中で、豪徳寺の招き猫一族を代表して顔を出しているのが白面の君だった。
「もう、一目惚れだったよ。僕は気がついたら全力で彼女を口説いていて、本当に夢中だった」
「そうして、私が生まれたということなのね」
「そうだ。白面の君が何を考えて僕を選んでくれたのかは分からない。あまり口数の多い女ではないからね。でも君がこうして僕に会いに来てくれて本当にうれしい。きっと旅の途中でもたくさんの幸運を運んでくれたと思うよ」
彼はそう言って、長い物語を終えた。
「……分かったけど、分からないわ」
私は不満だった。
「お母さんはいったい何を考えていたのかしら」
控えめに言っても、確かに父は器量よしの猫である。でもたぶんそれだけだ。老婆が金持ちになったのはたまたまだし、どこまで幸運を呼び寄せる力があるかは怪しいところがある。
「そればかりは直接訊くしかないね」
父がそう言ったところで、すっとあたりが暗くなったように思われた。
「え、」
風にさらわれるように、首根っこを何かに力強く捕まれていた。気がつけば私はくらりと平衡を失っていた。
次に目を覚ました時には、懐かしい豪徳寺の門前だった。のんびりした世田谷村の寺は浅草寺の喧噪とは比べものにならない。のどかに暮れ六つの鐘が鳴り、鴉がねぐらへと急いでいた。
「気がついたか」
冷たい声がした。見上げれば能面のような顔をして、白猫が座っていた。
「お母さん……」
「遠くへ行く時はひとこと言いなさい。夢の経絡を生身で押し通るのは本当に苦労したのだから」
「なんでお母さんは私を産んだの」
私は真っ先に浮かんだ言葉を口にした。
「……あの宿六め。自分の尻ぐらい自分で舐めろ」
母はため息交じりにそう悪態をついた。
「お前には分からないだろうが、黒船があと一月で来る。我々はそれに備えなければならなかった」
「黒船?」
「あと一月で、この国の危機が始まる。大いなる災難には、大いなる福徳を以て応じなければならない。武家の本分は元来は武にこそあるが、外つ国の敵は商いごとをも武器として攻めてくる。己の不得手を補うのも兵法の一つ。上喜撰などと戯れを口にしている暇はない」
「……何を言っているのか分からないわ」
私は小さくかぶりを振った。
「結構。いずれ分かるようになる。お前は井伊の御家のためには無くてはならぬものだ」
母はそれだけ言って、霞のようにどこかへかき消えてしまった。
私は取り残されたような気分で落ちていく日を見つめた。
何が何だか分からなかったが、ただ分かったのは、母は何か大きな目的のために父と交わり、私たちを産み落としたということだった。そして、己の神通力を使って何かの野望を成し遂げようとしているということも。
「……させない」
あまりにも身勝手だ。その身勝手さは父を殺した人間たちのものと同種のように思われた。
燃えるような夕陽に向かって誓った。
「私はいずれ生え替わる己の毛の色をものともせず、自らの名として背負って、日の本一の、ううん、世界一の、宇宙一の、この世で一番の招き猫になってやる」
母の名字を受け継ぎ、父の毛並みを名に負って、二つの招き猫種族の頂点に立つ。
そうして母を超え、豪徳寺一族を超え、全ての幸運の象徴を超えて、己の為すべき真実の幸運を引き寄せる存在になってやると心に決めたのだった。
(了)