「今日もおにぎりか……」
金と紅とで彩色されたサルバー――その上に乗せられた六つの握り飯とそれに添えられた沢庵を見つめ、彼女は独りごちる。
そのひどく不釣合いな組み合わせも、気付けば今日でもう八日目であった。
「確かに好きって言ったけど……まあ、美味しいから、いっか」
自分の好物を一生懸命握る少女の姿が浮かび、彼女はかぶりを振って足を踏み出した。
蝉時雨も久しい林の中を、黙々と歩く。
長く、燃えるようにたなびく赤い髪。細身だが、生半可なことでは突き崩せそうにない物腰。最盛の青楓に気後れするような新緑の色合いを基調としたチーパオから、ちらちらと覗く生足を外気に晒している。
前の冬に積もった落ち葉の上を、次の冬には落ちてしまうだろう青々と茂った木々の葉から零れ落ちてくる陽光を浴びながら歩みを進める彼女の横を、盆に乗せられた湯飲みから揺蕩う湯気が通り過ぎては消えてゆく。
林の中に通った一本の道。
それは、幾年も繰り返し往復してきた、彼女の一歩一歩が作り上げたものだった。
「そういえば、最初は道なんてなかったな」
ここを歩くのが日課となって、もう何年だろう。そんな、たかだか数年間を感慨深げに想起する自分に気付き、
「……でも、そんなにおかしなことではない、か」
すぐさま肯定する。
他の生物と比べ遥かに長い寿命を持つ妖怪が体感する時間の流れは、人間のそれとは比較にならないほどのろいと聞く。
妖怪――人間ではないという意味だが――の端くれである彼女が今日までのたった数年に感じ入ることは、普通の妖怪からしてみればおかしなことなのかもしれない。
この数年――
この道が、この道となるまでの数年。
最初は手に取るだけで崩れてしまっていた握り飯が、この握り飯となるまでの数年。
この数年、一人の少女をずっと見守ってきた。
その人間の少女に捧げたと言っても過言ではない、そんな数年だったからだろう。日に日に成長するその少女に接した時間は、彼女の長い一生におけるほんの一部かもしれないが、彼女の中で最も濃厚な時間であった。
だから、たった数年ではあるけれど、それを身に染みて感じることは別段おかしなことではないのだ。
盆に乗った握り飯に一人の少女の成長を見ていた自分に気付いた頃には、林を抜け、広大な湖の前に立っていた。
軽く伸びをして、遥か頭上で湖よりも広がる蒼昊に向けて、呟く。
「今日はどんな一日になるのかな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「と、いうわけで――」
蝙蝠の羽をそのままでかくしたようなものをその小さな背に携えた女が、改まるように言う。
「今日からこの娘がメイド長やるから」
「……は?」
間の抜けた声を上げる彼女に対し、女が再び告げる。
「だからぁ、美鈴。今日からこの娘をメイド長にするって言ってるの」
彼女――紅美鈴は自分の開いた口を閉じるのに精一杯で、とてもではないがその女の隣に立った人間の子供を視界に納める余裕はなかった。
「見えてんじゃん」
「地の文に突っ込むのはよして、レミリア」
美鈴は嘆息してから、もう一度件の、レミリアが言うところの新メイド長とやらを見やる。
年は若い、というより幼い。水分を欲している痛んだ銀髪。勿忘草を連想させる色彩の双眸。齢に不釣合いの端整な――例えるなら短刀のように端正な、しかし相応に稚さを残した容貌。
と、ここで終わればちょっと変わった娘で済んだのだが。気になったのは、嫌でも目に付く彼女の装いだった。
足首に届きそうな白のワンピースはところどころが裂け、血が滲んでいる場所も一つや二つではない。だがそれの比ではないほどの返り血の跡は、そのワンピースが本当に白だったのかどうかを疑わせるには十分だった。
「……ったく、どっからかっ攫ってきたのよ、こんなかわいい娘」
「この娘の方からわたしのとこへ来たんだよ」
相変わらず、レミリアの冗談は面白くない。
それはさておき、この館――紅魔館の主であるレミリア・スカーレットが、この娘を新たにメイド長とすると言っているのだ、誰が何と言おうとこの娘はたった今からメイド長ということになる。
「ていうか正気? こんなそこらの湖にいる妖精と十把一絡げの子供が、使用人ですって?」
「メ・イ・ド長。見た目に騙されたら酷い目に遭うよ」
レミリアは少女の肩に手を置きつつ、続ける。
「危うく殺されかけちゃってねぇ。いやいや、よくやるよ、人間にしては」
レミリアの感慨深げな物言いから察するに、先程の冗談は冗談ではなかったようだ。となれば、この返り血はレミリアのものと判断すべきか。
さらに突拍子もないことを聞かされ、美鈴はせっかく閉じた口をあんぐりさせた。
「はぁ?」
先も言ったように、ここは紅魔館。その名の通り悪魔の巣食う館である。館の規模にそぐう使用人――もれなく悪魔か妖怪だ――らが常駐しており、それらを束ねるメイド長には相応の実力が求められる。実力というのは、主に戦闘能力だ。使用人たちを屈服させ統率しうる純粋な武力が必要なのだ。なのに、
――人間だなんて……。
「いいじゃん、人間。わたしはわりと好きだけど」
一般的な妖怪、特に吸血鬼にとって人間は単なる食料である。血肉は言うに及ばず、その断末魔までもが。しかも間違いなく処女の少女など、吸血鬼の好物ではないか。
「あんたもわたしも、パチェだって処女だけどね」
レミリアの言葉が本当なら、彼女を殺しかける程度の力をこの少女は持っている。それ自体を驚愕することに迷いはないが、
――だからって、わざわざ化物の群れの中にこんな子供を放り込むなんて。
「おーい無視かー」
「うっさい。今考え事してるんだから。分かってるでしょ」
「なら考える人のポーズくらい取りなよ」
「あれは考えてるんじゃなくて地獄を見下ろしてんのよ」
「どーでもいいよ、そんなの」
肩を竦め、レミリアは再び言う。
「とにかく、この娘が今日からメイド長よ。文句は一切受け付けないわ」
傍らの少女をぽんぽんと叩くレミリアに諦観しつつ、美鈴は頭を抱えていた手を腰に当てた。そして、素朴な疑問を彼女に投げかける。
「それで、元メイド長のわたしはどうしろと?」
「あー、美鈴は今日から門番ね。きりきり働いてね」
まさか、前任者のいない新部署まで作ってくるとは。
「……」
美鈴が、にべもなく答えるレミリアを真正面から睨めつけてみるも、むかつくほど愛らしいその微笑を崩すことは望むべくもなく。
仕方なく美鈴は目元を緩め、人間の少女の前に屈む。
何日も湯浴みをしていないような様相ながらも、将来を約束されたかのような彼女の明眸を覗き込んで、美鈴は訊く。
「ねえあなた、お名前は?」
「……咲夜」
ぶっきらぼう、とまではいかないが平板な口調で、咲夜は答えた。
無愛想ではなく、もとより愛想を知らない人見知りの女の子――咲夜の無垢な表情に、美鈴はそんな印象を持った。だからというわけではないが、元来人間のことを嫌いではない美鈴は、優しく頷く。
「そっか。で、咲夜ちゃんは、メイド長ってどういうことするか知ってるのかな?」
「……ふ」
「なっ」
疲れたような吐息、疲れたような目でこちらを見つめ、咲夜は言い放つ。
「しってる。そんなこときく暇あったら、とっとと仕事について」
その小さな口から出た言葉と抑揚のない声音に、美鈴は返す言葉を見つけられなかった。
ただ一つ分かったことは、このガキは既にメイド長であるということだった。
前言撤回。こいつは間違いなく無愛想だ。
一つの疑問が浮かぶ。門番とは何をすればよいのか。目的だけなら簡単だ、門を番すればいい。
着の身着のまま巨大な正門前で、美鈴は自問自答していた。
では門を番するとはどういったことなのか。これも簡単だ、侵入者を排除すればいい。
「ふむ」
目的と手段が出揃った。
最後の疑問――侵入者が来訪してくれるまで何をしていればいいのか。
「暇ね」
そんな都合よく侵入者が現れるはずもなく、つまるところ彼女は暇だった。
これが本当に最後の疑問だが、暇はどう潰すべきか。
「いい天気ねぇ」
美鈴は青空を仰いだ。世界の果てまで澄み渡るような快晴だ。
彼女の立つ門前は少し開けた場所になっており、その先は森に近い鬱蒼とした林となっている。そしてそれを越えると、広大な湖が現れる。
その湖から漂う弱々しい風が、彼女の頬を撫でる。
「こんなときはあれだ」
ぴんと閃き、門番である美鈴は特に躊躇することなくいとも簡単に門を離れた。
物置にしまってあった道具は、誰も使った気配がなく、しまったときと同じ姿でそこにあった。
道具一式を持ち出し、門前に広がる林を突っ切る。誰も通らないため、道らしい道はない。落ち葉が積もり、木の根も遠慮なく地面から盛り上がる。
適当に歩きやすそうな部分を踏み慣らしながら、彼女はその先を目指す。
十分ほど歩くと、目的の湖に到着した。
対岸を視認できないほど広大なその湖が反射する陽光に、美鈴は目を細める。
彼女たちが住処とする館――紅魔館は、湖に孤立した静謐な島に建っており、どの方角であれ外へ向かって歩けば湖と出会える。では美鈴がなぜこの場所を選んだのかというと、正門を出て直進した場所がここだったという単純な理由だった。
「さて、と」
荷物を降ろし、適当に広げていく。といっても大した量があるわけではない。
竿、小物入れ、椅子、魚籠。そんなところだ。
糸の状態を確認し、大丈夫そうだと見るや竿先に取り付ける。その糸に針、錘、浮きを付け、餌はその辺の地面を掘り返して出てきたミミズを拝借。
目の前の杭が立っているあたりに適当に放ると、すぐさま当たりがきた。
即座にあわせ引き上げると、食べごろサイズのニジマスが釣れた。ヤマメの方がよかったのだが、こんな流れ込みの一つもないところで釣れるわけもないため、まあよしとする。
釣れた魚を魚籠に入れ、再度仕掛けを投入。釣り上げ、魚籠に放り込む。それを何回か繰り返すと、さすがに同じ場所なので当たりが遠のく。
なんだか開幕から忙しかったが、これで少しぼーっとできる。ついさっきまでメイド長としてばたばたした日々を送ってきたが、美鈴は本来こうしてのんびり過ごすことが嫌いではないのだ。
「そもそも侵入者なんて来るのかね」
近くの水面で列を成して泳ぐアイガモの親子に問いかける。
一向に来ない侵入者から門を守護する門番――無用の長物を絵に描いたらこんな感じだろう。
美鈴の記憶では、最後に侵入者が来たのは数十年前だ。そもそもこの館の主の強さは知れ渡っている。それとセットで、侵入者の全てがそこまで辿り着けずその生涯を終えていることも。館に侵入した賊をもれなく叩き潰してきたのは、何を隠そう美鈴だった。
「もしかしてと思うけど……」
あのレミリアが自分のことを労うために、慰安としてこの采配を下したのか。
いや、と否定する。であるとして、あんな人間の子供を後任に据える意図が分からない。
物思いに耽っていると、お腹がその音でもって補給を促してきた。手をかざし、太陽の位置を確認する。
「もうお昼か……てか、ご飯とかどうすんの?」
誰かに頼んで持ってきてもらうかと考えるが、今の自分はメイド長ではなく門番だ。門番が職制上どの位置にいるのかは定かでないが、多分メイド長はおろか直下の使用人のさらに下だと考えて断念する。
と、背後から何かが接近する気配を感じた。美鈴は意識をそちらへ向け、その動きから正体を推し量る。
レミリアでも、ましてや他の使用人でもなさそうだ。図書館に引きこもっている友人がこんなところを徘徊しているわけもない。この島の林に野鳥以外の野生動物は棲息していない。そしてここは結界のぎりぎり内側なので、侵入者とも考え難い――もしそうであるなら、門番などに構わずとっとと館へ向かうだろう。
正体は掴めないが危険も感じないため、首を傾げていると、
「なにしてるの」
今朝聞いたばかりの、どこかあどけないのに無愛想な少女の声が届く。確か咲夜とかいったか。
美鈴は振り返らないまま、答える。
「門番だよ。見りゃわかんでしょ」
「……?」
咲夜が疑問符をあげるのを、背中越しに感じる。
「一見釣りしてるように見えるでしょ」
「つり? しらない。門にもどって」
言葉のわりに苛立っているわけではない、およそ子供らしからぬ平板な口調で咲夜が咎めてくる。その余りの子供らしさの無さに美鈴の方が苛立ちを覚えた。
「あのさぁ、パチェが結界張ってんのに、そのど真ん中で待ち構えてどーすんのよ」
パチェとは、図書館に棲息する魔法遣いだ。彼女がこの島に結界を展開して以降、それを突破してきた者を美鈴は知らない。
「こえてくるようなのを追いはらうのが門番の仕事」
「仮にそんなことになったら、超えられるような結界張ってる方に問題あるんじゃない」
「そのときは――」
「わたしがその境界付近にいて、越えるやつも越えないやつも全部叩き伏せる」
咲夜の言葉を遮って、美鈴は自信を持って言う。
そこで初めて、美鈴は振り向いた。その先に、今朝と変わらない表情をし、ぼさぼさの髪もそのままに服だけを着替えた咲夜を見つける。
薄い紫のワンピースに白の前掛け――美鈴の身につけているものと同じ、紅魔館で標準的なメイド服姿であった。
こんな子供サイズなんてどこにあったのかと思いつつ、念押しするように言い放つ。
「これで万事丸く収まるわね」
「……そんなの、へりくつ……」
納得のいかない様子で、けれどやはり口調も表情もそのままに、咲夜がこぼす。
魚の踊る魚籠を水中から乱暴に引き上げ、美鈴は咲夜に歩み寄る。
「ヘリクツも理屈よ。理解しなくてもいいし、納得しなくてもいい。ただ、私たちは自分より弱いやつに従わない。それだけはここに置いときなさい」
私たちという単語を強調し、咲夜の胸元を指で小突く。そんな美鈴を見上げて、咲夜が訊く。
「……どんな方法でも?」
どんなことを思いついたのか、表情からは全く読めない。美鈴は構わず告げる。
「自分で考えなさい」
「なら――」
咲夜が臨戦態勢に入った、正確には入ろうとした刹那、美鈴は持っていた魚籠を彼女の無表情に押し付ける。
「ふぎゃ」
なかなかに間の抜けた声が漏れたのは予想外だった。
「これ持って帰りなさい」
鼻を押さえる咲夜に改めて魚籠を持たせてやり、続ける。
「みんな、それ好きだから」
納得いかず後ろ髪を引かれた面持ちで、咲夜は言われた通り魚籠を提げてもと来た道を戻っていった。
その姿が林の向こうへ消えたところで、美鈴は気付く。
並べられた釣り道具のそばに、金と紅とで彩色された見慣れた盆と、それに盛られた野菜や果物が置いてあることに。
「いったい誰が……」
こんなことを自分に気付かれずやってのける知り合いはそう多くないし、こんな無意味な趣向をこらすような知り合いとなったらほぼ皆無と言っていい。
「あの娘が?」
判然としない。が、一つ確かなことは、この採れたて皮付きの生野菜と捥ぎたて果物が、本日の美鈴の昼食だということだった。
昨日は釣りをしていて見つかってしまったので、今日は適当な樹木の上でのんびりしてみることにした。
正門前の林に入り、暖かくなったせいかそこかしこに張られた蜘蛛の巣を適当な枝で掃いながら、散策する。
これはと目星を付けた木に登っては寝心地を確かめるといったことを繰り返す。鳥の子供が集う洞があったり枝の強度が足りなそうな樹を避け、四本目でようやく収まりのよい場所を発見した。
高さにして地上から七、八メートルといったところか。
枝先へと足を伸ばし、幹に身体を預けてみる。足先がやや上を向き、上体は後方に傾く。目を閉じてみると、鳥たちの囀りや虫の音、そして春先の暖かい木漏れ日がやんわりと彼女を包む。メイド服のスカートが鬱陶しいことを除けば、期待以上の寝心地だった。
目を開くと、美鈴はおもむろに一冊の本を手に取る。
「こういうときは、昼寝か読書に限るってね」
図書館から借りてきた本だった。持ち主の許可は得ていないが、発覚する前に戻せばどうということはない。
美鈴は鳥たちに便乗して鼻歌など歌いつつ、分厚い表紙をめくる。
内容も確かめずに持ち出してきたが、どうやら技術書の類だったらしい。内容が全く頭に入ってこないどころか単語の意味からして分からないところが多々あるものの、とりあえず読み進める。
解読不能な文章にいい感じの睡魔が襲ってきたところで、
「……ここでもか」
見知った気配が近づいてくることに気付く。
まだ距離は開いているが、迷いなく歩いてくる。到着までにさして時間はなさそうだった。
その間にそそくさと逃げ出すかとも思うが、手放すには惜しい環境だったためマーキングでもしておこうかと逡巡する。
「なにしてるの」
思案しているうちに時間切れになってしまった。
ぱたんと本を閉じ地上を見下ろすと、昨日よりはマシになったがまだ萎びれた髪のまま、咲夜がこちらを見上げてきていた。
「なにしてるように見える」
「つりはしてない……くつろいでる?」
しばし考えた後、咲夜が的確な回答を示した。特に否定する理由もなかったため、美鈴は素直に首肯する。
「正解」
「門番は」
「やってるよ、っと」
背中で幹を叩き軽く反動をつけて、美鈴は虚空へ身を躍らせる。
落下途中にあった蜘蛛の巣を避けつつ体勢を整え、ろくな音も立てずしなやかに着地する。ふわりと、少し遅れてスカートが追いついた。
立ち上がって裾を正し、腕組みして見下ろす。咲夜が先刻と同じ顔で見上げてきていた。
これ以上詰問されるのも面倒なので、美鈴は別の話題を振る。
「そうれはそうと、魚、どうだった?」
「……なまぐさかった」
少しもったいぶって、咲夜が答える。
「あい?」
期待していたものとはかけ離れた感想を耳にし、美鈴は眉根を寄せる。
塩焼きが一番なのだが、もしかして生で食べたのだろうか。寄生虫とか厄介な問題を抜きにすれば、確かに刺身で食べられないこともない。そこまで魚臭さのない魚種だったので、軽く薬味を添えれば気にならないはずだ。
ふと、美鈴は昨日の昼食と夕食を思い起こした。
昨日、日が落ちてからは他にすることもないため、美鈴は門前にいた。そして夕食の時分、咲夜は姿こそ現さなかったが、昼食と同様いつの間にやら生野菜と果物が置かれていたのだ。果物はともかく野菜はさすがに火を通して食べたが、それを置いたのが予想通り咲夜であるならば、
――まさか……。
あの魚を丸齧りにでもしたというのか。だが、この娘が綺麗に盛り付けた刺身を上品に頂く姿も想像に難い。どちらかと言えばきっぱりと、暴れる魚に喰らいつく姿の方がしっくりくる。それも好んでというわけではなく、他に食べ方を知らずに。
「……」
お腹は大丈夫なのだろうかと見つめていると、咲夜が再び訊いてくる。
「門番は」
どうやら何かしらこじつけてやらないと帰ってくれないらしい。美鈴は腕組みしたまま、手放してしまった憩いの場を振り返った。
「監視の基本は、高所からの俯瞰なのよ」
「さっき、くつろいでるって」
またもや的確な指摘を飛ばしてくる咲夜に、美鈴はぐうの音も出ない。よし、話題を変えよう。
「あんたこそこんなとこで何してんの。仕事は?」
自分のことはまるで棚上げして、咲夜からの質問をそのまま返す。
すると、咲夜は何かを指差した。
「それ」
どこか嫌な予感を覚えつつ、美鈴は彼女が指し示す先を目で追う。はたして、樹の根元あたりに置かれた野菜と果物があった。
それを見て、これまでの疑惑が確信に変わった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「レミィ……貴女、自分が何をしたのか分かっているの?」
棲息しているなどと揶揄される巨大な図書館。そこに彼女はいた。
そこは紅魔館の地下に建造されていた。規模に見合う大量の蔵書はそのところどころが整理しきれておらず、棚からあぶれた本がそこらの床に積み上げられている。その整理と、放っておくとどんどん積もってしまう埃への対処のため、図書館専属の使用人である小悪魔が忙しなく飛び回る。地下であるため窓はなく、換気も採光も叶わない。図書館の環境維持はもっぱら小悪魔と、天井や壁に配置されたいくつかのランプに頼りきりだった。
そんな図書館の一角に置かれた丸テーブルが、彼女――パチュリー・ノーレッジの住所となっている。
「んー? 別に悪魔の館に飼われる人間の一人くらいいてもいいと思うけど」
パチュリーの問いに、対面から応答が返ってくる。
変な形状の帽子――人のことは言えないのだろうが――、真紅の瞳、蝙蝠然とした両翼、そして幼学と見間違えてしまう容貌風姿。そこにいるのは正しく吸血鬼であり、パチュリーの友人であるレミリア・スカーレットだった。
カップに注がれた紅茶にスプーンを立てかちゃかちゃとかき回すレミリアに、パチュリーは訊き直す。
「なんでその飼われているはずの人間がうちを仕切る立場にいるのか、って訊いたつもりだったのだけれど? 暇つぶしというわけでもないでしょう」
「まーね」
言いつつ、レミリアはパチュリーの手許にあった皿からラスクをひとつ掻っ攫う。レミリアの皿は既に空だった。
「そのうち殺されるわよ、彼女」
ここ紅魔館は、悪魔の館である。これまで人間など一時も存在したことがない、妖怪の巣窟だ。
パチュリーの言葉を、館の主人であるレミリアが理解していないはずがない。
「わたしは吸血鬼だよ」
「人を殺さない吸血鬼だと認識していたのだけれど」
レミリアのことを、別に慈悲深い悪魔だとか言っているのではない。ただこの友人は無意味に無責任なことだけはしないと、パチュリーは信頼していた。だから、現状がどういう奸計のもとなのか知りたかったのだ。
一口では食べられないため、レミリアはラスクをバラしつつ答える。
「殺さない、じゃなくて殺せないんだけどね。ほら、こんなちっちゃいナリして人一人の血液を全部飲めると――」
茶化すレミリアの言を、パチュリーは半眼で制す。
「レミリア」
「……んもー、分かったから。そんな怖い顔しないでよ」
「怖い顔させてるのは貴女でしょ! いいからなんでこんなことしたのか訳を言いなさい!」
両手でテーブルを叩く。ばんと響き、テーブルに置かれたカップがかたかたと震えた。
「あんたはわたしのオカンか――分かったごめんちゃんと話します」
とうとう身を乗り出して顔を覗き込んでやると、レミリアは居住まいを正した。
椅子に座り直し、パチュリーは吐息を一つ漏らすと、改めて続きを促す。
「……で?」
「まあ、一種の職場改善ね」
「しょくばかいぜん?」
予想だにしない単語に、変換が追いつかない。
レミリアはラスクの最後の一片を口に放り込むと、ゆっくりと咀嚼する。
「ほら、美鈴っていつもつんけんしてるじゃない。それでメイド達も常にピリピリしてて。正直みんな居心地悪いと思うわけよ。フランのこともあるしね」
今度はパチュリーがレミリアの言葉を咀嚼する。
業務外でそんなことはないのだが、確かにメイド長としての美鈴はどこか近寄りがたい空気を纏っていた。ただ、それをあの使用人達が本当に居心地悪いと感じていただろうか。唯一確かなことは、
「一般的な見解を言わせてもらうわよ」
「どぞ」
「悪魔の館って得てしてそういうものでしょう」
和気藹々とした悪魔の館なんて、聞いたことも読んだこともない。
「わたしはアットホームな悪魔の館を目指してるの」
どうやら聞いたことも読んだこともない場所を、レミリアは目指しているらしい。
「……まあいいけど。で、それが咲夜のこととどう繋がるの」
「美鈴に妹みたいな友達の一人でもできたら、ちょっとはデレてくれるんじゃないかなと」
「フランがいるじゃない」
妹という言葉にパチュリーは、レミリアの妹であるフランドール・スカーレットの姿を思い浮かべた。日頃は実姉のレミリアによって図書館とは別の地下室に幽閉されている、狂気を具現化したようなあの妹を。
パチュリーの返答に、注意深く観察しないと分からないくらい小さく、レミリアは目を伏せた。
「美鈴はそうと思っていないもの」
今のままじゃフランがかわいそうだし。
表情の変化よりも小さいレミリアの呟きを、パチュリーは聞き逃さなかった。
――それが本音か。まったく、過保護なんだから。
おおよそのところ虚偽は声高らかに、真実は小声で囁かれる。本心もまた、そうなのかもしれない。
パチュリーは聞こえなかったふりをすると、小悪魔に監視させて得た情報を頭の中に並べる。
「でも、当の美鈴はあの様子で、咲夜はそのだらけた門番姿しか見たことないのに」
「あの二人、ああ見えて意外と気が合うと思うよ」
自信ありげなレミリアに、パチュリーは眉をひそめる。
「何を根拠に」
「そう囁くのよ、わたしの第六感が」
レミリアがそう言うのだったら、実際にそうなのだろう。少なくとも、咲夜に対しては自分よりも多くのことを知っているに違いない。そしてレミリアがこういった言い回しをするのは、これ以上の情報を相手に漏らさないという意思表示であることを、長年の付き合いからパチュリーは知っていた。
「そう」
結局その職場改善とやらでレミリアがどういった未来を創造したいのか、判然としないままだった。
釈然としないパチュリーの顔色に気付いたのか、レミリアがぼそりと呟く。
「それに……」
まだ続きがあったのか。パチュリーは本に伸ばそうとしていた手を止めて訊き返す。
「それに?」
彼女の反応を見てレミリアは、とっておきの玩具を見せびらかすような笑みを浮かべる。
「人間技を極めた化物と、化物染みた力を持つ人間と、どっちが強いのか見てみたくない?」
「む……」
前者は、もちろん美鈴のことだ。ではあの咲夜が、このレミリアをして化物と言わしむる力を持つというか。
紅い魔の棲む館――紅魔館。その中心において遜色のない力を持つのか、あの幼い人間が。
レミリア同様、美鈴とも長い付き合いだ。彼女の強さは疑う余地もない。対して咲夜とは現状、図書館に茶菓子を持ってくるくらいの接点しかない。
強さを一概に表すことはできないが、もしレミリアがあの元メイド長と新メイド長との白兵戦を望んでいるのだとしたら。もしそれが現実のものとなったとして、やはり美鈴の優位は、いや咲夜の情報が皆無なので実際どうなるか……
「ほーら、パチェも興味が湧いてきましたよー」
どのくらい黙考していたのか。思考の海を漂っていたところをレミリアに呼び戻され、パチュリーは隠し切れない狼狽をどうにか隠そうと口元に手をやる。
「そんなことっ――ただ気になって考えてただけよっ」
「今度ここの辞書で興味って単語を引いてごらん」
レミリアは勝ち誇ったような笑みを浮かべるも、すぐにそれを消すと、神妙な面持ちで口を開く。
「まあ、さ。本音言うと、パチェには傍観者でいてもらいたのよ」
傍観者――二人に、いやこの館にこの先何が起ころうと一切の口出しをしてくれるな、ということか。家族の問題だからお前は口を出すな、ということか。
そんなことを友人の口から言われて、疎外感を覚えないといえば嘘になる。
「よろしくね」
レミリアはいったいどんな未来を視ているというのか。
ただパチュリーにできることは、
「わかったわ、レミィ」
この友人を、友人たちを信じることだけだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
春の香りをのせた大気が、彼女の頬を撫でていた。
無数の煉瓦が積み上がった鐘塔。それは紅魔館に根を生やし、まるで遥か天空を目指すかのように聳え立っている。
――それは言いすぎか。
とかくそこはこの島における最高所であり、全てを見渡せる場所だった。
眼下には正面玄関の屋根、正門へと続く石畳、巨大な正門、林、湖、そして向こう岸に広がる世界。あの辺には人間の集落が、向こうの山には天狗が住んでいただろうか。
そんな塔の縁に腰掛け、髪の間をさらさらと抜けていく微風を楽しみつつ、美鈴は久しく足を運んでいない外の世界に思いを馳せていた。
一昨日は釣りをしていて見つかり、昨日は木の上にいたところをあっさり見つかった。
別段逃げ隠れしているわけではないのだが、邪魔されずにのんびりできる場所を探した結果、ここに落ち着いたわけだ。
ぽかぽかとした陽気が運んできた眠気に、美鈴は身体を後方へ放り出す。煉瓦の床が、彼女を受け止めてくれた。
煉瓦の冷たさが彼女の背中からこっそりと体温を抜き取っていき、降り注ぐ陽光が失った分を補填してくれる。
どのくらいそうしていただろうか。寝ぼけ気味な瞼を開くと、太陽がその位置でもって正午近いことを告げていた。
「……」
なんとはなしにある予感を覚え、美鈴は上体を起こす。
周囲を見回して何も置かれていないことを確認し、次に正門の方へ目をやると、
「いるし」
遠目だが間違いない。咲夜だった。
なにやらきょろきょろと周囲を窺っているようだが、まさかこんな場所から当の探し人本人に観察されているとは夢にも思うまい。
美鈴は笑みを浮かべ頬杖を付いて、そんな咲夜を眺める。
が、すぐにその笑みも消えた。
「……うそ」
不意に咲夜が振り向き、こちらを見上げてきたのだ。
美鈴から、咲夜は米粒よりも小さく見える。それは咲夜からも同じはずなのに、この距離で完全に目が合った。逆光のはずだがそう確信できるくらい、咲夜はこちらを凝視している。
いったいどんな勘の良さだ。ここに来て数日の者が、どういう思考回路をしていればここを選択肢に挙げられるというのか。
しばしこちらを見上げた後、咲夜は門をくぐり、玄関へと入っていく。
そんなに時間はかからないだろう。気配を追わずとも分かる。
はたして数分後、背後から、
「こうしょからのふかん?」
言葉の意味を理解できているのか定かではない、変換しきれていない色の声が届く。
そして気がつくと、美鈴のすぐそばにいつもの食事が置かれていた。
あまねく生き物は植物由来の食物のみに生きるにあらず。そう、例えばたんぱく質が、特に動物性たんぱく質とかが必要なのだ。重要なのはバランスだ。
草食動物? 肉食動物? そんなの知らん。
拳など握りつつ、美鈴は独りよがりな思いのたけを熱く語っていた。
語りかけていたその先には、もはや景色の一部となって黙々と読書に勤しむ友人――パチュリーがいた。
「つまり何が言いたいのよ、門番さんは」
本に熱中しているようでしっかりと聞いていてくれたらしく、パチュリーが訊ねてくる。
彼女の対面に腰掛け、嘆息して答える。
「お肉は美味しい、ってことよ」
咲夜による強制野菜生活が始まって、かれこれ一週間が経過していた。
釣りをしては見つかり、木の上で昼寝をしては見つかり、塔に潜んでも見つかり、湖畔でランニングをしたら先回りされ、自室に篭っていたら迎えに来られる。余暇の過ごし方にさほどの選択肢があるわけでもないこの島で、美鈴はついにネタ切れを起こしていた。
どこにいようと見つけ出しては新鮮な野菜を提供してくる少女。あれはなんなのだ、新手の妖怪か。
頭を抱えて唸っていると、パチュリーが告げてくる。
「さっきからうだうだとたんぱく質とか肉とか言っているけれど、昨日の夕食は黒豚バラの生姜焼きだったじゃない。忘れたの」
「なによそれっ!」
聞いただけでご飯が進むようなおかずに、美鈴は椅子を蹴って立ち上がった。パチュリーは不思議そうに首を傾げる。
「そうよね、おかしいわよね。なんで悪魔の館で下町の食堂めいたメニューが出るのかしら」
「そうじゃなく! わたしはそんなの食べてない!」
ばんばんとテーブルを叩いて訴える。
迷惑そうな顔をしてようやく本から視線を外すと、パチュリーは得心したように頷く。
「ああそうか。貴女、今門番をやっていたのよね」
「さっきわたしのこと門番って呼んだくせして何言ってんの」
「遅れてしまったけれど、降格おめでとう」
「やっぱり降格なんだ」
大してショックでもないが、その響きはなんだか心にくるものがある。他人の口から聞くと殊更に。美鈴は椅子に座り直し、テーブルに頭をのせて呻いた。
パチュリーは本に向き直ると、改まるように訊いてくる。
「それで、今日は何用なの? 本の返却なら元の場所へ戻しておいてね」
無断持ち出しの件はバレていたらしい。別段怒っているわけではないようなので素直に了解して、美鈴は顔を上げた。そして彼女にここ一週間ほどの食糧配給事情を説明する。
「そろそろ調理のレパートリーもネタ切れなのよ。それに、心なしか変に痩せてきた気もするし」
ちらと、パチュリーの目がこちらを向く。視線はどういうわけか美鈴の顔ではなく胸元の方へ届いていたが。
「萎んでしまえ……」
「? なに?」
「いいええ」
意味が分からず訊き返すが、パチュリーははぐらかすとまた読書に戻ってしまう。
特に気にせず、美鈴は続ける。
「そう? で、待ってても出てこないなら、こっちからお肉を狩りに行こうと思って」
「それで?」
「結界の外に出たいの」
パチュリーの張った結界は外部からの侵入を頑なに拒んでおり、それは内部から外へ出ることに対しても同様だった。一度出てしまったら入れなくなってしまうからそうしているのだろう。故に、そんなに機会もないが島の外へ出る用ができたときには結界を管理する彼女にお伺いを立てることになっている。
「ほう」
気乗りのしない相槌が返ってきた。
「もういっそのこと、わたしだけ自由に出入りできるように改修できない?」
どんな生物をも通さない結界だが、唯一鳥だけは何ら支障なく出入りしている。過去に気になって訊ねたところ、かわいそうだから、とパチュリーは答えた。そんな例外処理が組み込めるのならそこに自分を追加することも可能なのでは、と提案したのだが。
「無理よ」
パチュリーはにべもなく即答する。
できるのか、という質問に対しすぐに否定を重ねるのは、プライドの高い彼女にしては珍しいことだった。
「なんで? そんな難しいことなの?」
「貴女、魔法に関しては門外漢だから言っておくけれど」
「うん」
どんな理由なのだろう。言われる通り自分は素人だが、興味をそそられた。鳥などとは勝手が違い、パチュリーにとっても相当に複雑なものなのだろうか。
「めんどい」
「素人でもぶっ壊すことくらいならできるんだけど」
美鈴は笑顔で指を鳴らす。試したことはないが、今の気分ならなんとかなる気がする。
「そんなにお肉が食べたいのなら、咲夜に直接言えばいいじゃないの」
さすがに壊されたら困るのか、パチュリーが正論を投げてくる。
美鈴とて、これまでそれを考えなかったわけではない。
「いやでも、わたしの食事を気にかけてくれてるのあの娘だけっぽいし、気づかないうちに置かれてることのが多いし」
そしてあまり考えたくはないことなのだが、他の使用人たちは何も言わないのだろうか。
「門番としてどうなの、それは」
そう、メイド長という肩書きを失い門番となった自分は、使用人たちにどう思われているのだろう。時には自分でも厳しすぎたかなと思わないこともない態度を取ったりしたこともあるが、まさか嫌われているなんてことは……降格万歳とか、お局様左遷祝賀会とかされていたらどうしよう。
考えれば考えるほど負の思考に陥っている自分に気付き、美鈴はふるふるとかぶりを振る。使用人たちのことはひとまず置いておいて、咲夜の話に戻る。
「あの娘、なんだか苦手なのよね」
「目に余る程度に人間贔屓の貴女が、珍しいこともあるものね」
パチュリーは紅茶を一口啜る。
「どうしてまた?」
それが何故なのか、美鈴自身もよく理解できていない。パチュリーの評価通り、美鈴は人間を好意的に思っている化物の一人だった。だが、あの咲夜相手にはどうしてか険のある、というより素っ気ない態度を取ってしまう。
パチュリーへ解答を求める気分で、美鈴は吐露する。
「どう接していいか分かんないのよ。顔見ると、まともに受け答えできなくなるっていうか」
そんな美鈴の悄然な様子に、パチュリーは頭上を仰ぐ。その先では、図書館の掃除と蔵書の整理に追われる小悪魔がぱたぱたと飛び回っている。
しばしして視線が戻ってきた。
「……好意も行き過ぎると裏返える、とか?」
「ぶっとんだ解釈しないでよ知識人」
からかっている様子はなかった。パチュリーは当てが外れたのか美鈴の否定にふむと相槌を打つと、また考え込む。美鈴がパチュリーの次の言葉を待っていると。
こんこん。
外の廊下へと続く扉がノックされた。
パチュリーが返事をすると、軋んだ音を立てて開いた扉から、目下話題となっている咲夜が姿を見せる。
「あら、今日は何のご用?」
パチュリーが問う。
咲夜はとことこといつもの歩調で近づいて来ると、美鈴たちの数歩手前で立ち止まった。
「めーりんをむかえに来ました。あとそれ」
最後の一言は、美鈴に向けてのものだった。本日咲夜が指し示すはテーブルの上。
もはや見ずとも知れている。美鈴は今日の食事を確かめるためではなく、パチュリーの顔色を窺うために振り返る。
「え、いつの間に……」
はたしてそこには、突然の奇術に面食らい目をぱちくりさせている彼女がいた。
「ほら、ね」
さもありなんと、美鈴は囁きかける。
「門番は」
「はいはい、分かってるわよ」
いつもの言葉を投げてくる咲夜に、美鈴は抗うこともなく立ち上がる。
そんなやり取りを見て二人の関係を理解したのか、背後からパチュリーが問いかけた。
「咲夜、これは美鈴の昼食ということでいいのよね?」
「はい」
パチュリーが、それまでずっと開いていた本を閉じる。これは読書をやめて別のことに注意を向けるときの彼女なりの事前準備なのだと、美鈴は知っていた。
まっすぐに咲夜を見返すパチュリー。見たことのない、優しく諭すような表情だった。子供相手だとこんな柔和な物腰になるのか。
「咲夜、人に物をあげるときの基本は、相手が好きなものをあげることよ」
「すきなもの……」
咲夜が復唱し、パチュリーが頷く。
「そう。好きなものをもらったり、好きなものを食べたりしたとき、人は幸せになるものよ」
教え子を導くようなパチュリーの言葉を受け、咲夜は美鈴を見上げる。
「なに」
「え? え、っと……おにぎり、とか?」
唐突に率直な質問を投げられ、美鈴は当惑しながらも最初に頭に浮かんだ食べ物を伝える。
咲夜はしばし考えるような素振りを見せると、
「おにぎり……」
そう呟きを残し、くるりと踵を返して図書館を後にした。
扉が閉まりきるのを待ってから振り向くと、パチュリーが怪訝な顔を向けていた。
「お肉が食べたいんじゃなかったの?」
どうやら美鈴の希望を叶えようと誘導してくれたようだ。初めて目にした彼女の態度に気を取られていて、そこまで気が回らなかった。
「だって、急に好きなものとか言うから」
「そう」
パチュリーは再度、本を開いた。
「まあでも、なんとなく理解したわ。貴女の言っていること」
図書館を後にした美鈴は食事を済ませ、正門前に戻っていた。
職務に勤しむことはなく門塀に背中を預け、脚を抱えるように座り込む。
美鈴は、ある懸案に取り組んでいた。それはそれまで奥底にしまいこんでいたが、パチュリーとの会話をきっかけに浮上したものだった。
この数日まともに考えないよう努めてきたのは、どうせすぐにでもレミリアあたりが、
「やっぱ戻って」
などとあっけらかんと言ってくるだろうと見積もっていたからだ。だが、さすがにこれだけ時間が経過して音沙汰がないと、否応なく考えさせられる。
「門番かぁ……再就職、考えた方がいいのかな」
自分で発した冗談に、乾いた笑みを浮かべる。
――お金や寝床が欲しくて、ここにいるんじゃないんだよ。
単語としての知識はあっても、妖怪や化物には本質的に労働という概念――他者に自身の時間という存在の一部を捧げ、他者からその対価を得るというシステムが理解できないのだ。労働とは、美鈴が過去に積み重ねた、自己を研鑽しその対価として強さを得るという行為とはまるで異なる性質のものである。
傍から見れば上下関係のもと勤労する妖怪もそれを使役する妖怪も、夜道で人間を襲う化物も、日がな一日水辺で戯れる妖精も、もとより対価を得ようとそうしているわけではない。それがその者の存在理由であり、この世界における役割なのだ。九分九厘の者らはただ本能に従って己の役割を全うしているだけで、そこまで考えて行動している者は極々少数だ。そうでなければ、この幻想郷という世界は今頃別の様相を呈していたはずである。
――でも、だからって次は何になればいい?
故に、己の役割を奪われた、あるいは自ら放棄した化物は、それまでとは違う存在にならざるを得ない。それは美鈴自身が、過去に幾度か経験したものだった。
――最初のわたしなら、こんなことで悩まなかったんだけどな。
一度変わってしまったものは取り戻せない。少なくとも美鈴に取り戻せたことはない。
そしてそれを経験した者は、こう考える。
「わたしは、なんのためにここにいたんだろ……」
遥か頭上を仰ぐと、宵も過ぎ帳の下りた空に、無数の星が瞬いていた。
そのどれでもいいから教えて欲しい。そう願う。
と――
「あれ? 夜?」
少しの間ぽかんとして、状況を探る。
考え事を始めたのが、確か昼過ぎだった。日が陰るどころか沈みきるまで気付かないとは、どれだけ熱中していたのだろう。
とまれ、応えてくれそうにない星から目を逸らし足を崩すと、美鈴の手に何かが触れた。
「なんだこれ」
見慣れないものがそこにはあった。いつもの盆のことではなくその上に置かれたものを、美鈴はまじまじと観察する。
「おにぎり……?」
おそらくそれは、握り飯だった。付け合せもなにもなく、二口もあれば消えてしまいそうな、まるで子供の手で握られたような大きさの、形の不揃いな握り飯が五つほど。
美鈴は盆を手に取ると、その内の一つに手を伸ばす。
「おっとと」
軽くつまんだ途端、指先がおにぎりを崩しそうになった。どうにか崩さぬよう慎重に手のひらへ移し、今一度観察する。
美鈴の指が食い込んだためさらに歪な形になってしまったが、それは白米を握り固めたもの――握り飯と見て間違いなさそうだ。
「あの娘……」
作ってくれたのだろう。美鈴に気付かれずに置いていったことからも、紛れもなくあの少女の仕業であることが窺える。
表面が多少乾いてしまっているところを見ると、彼女が膝に顔を埋めていた間に置いていってくれたようだ。
美鈴は大口を開けて、手のひらの握り飯を放り込む。
塩気はなく、具も入っていない。握り飯としてはどんなに下駄を履かせても合格点には届かない。
けれど、
「……おいし」
それは久しぶりの白米だったからか、それとも脳が糖分を欲していたからか。
なんにせよ美鈴は、少女の心遣いを堪能することにした。
明らかに量は不足していたはずだがどこか満たされた気分で、塀に背を預けたまま美鈴は脚を投げ出していた。傍らに置かれた盆には、一粒の米も残っていない。
「……健気よね」
ぽそりと、こぼした。
あの吸血鬼のお嬢様が連れてきた、年端もいかぬ少女。
無精な門番を、それを預かる身として監督しようとする少女。
そうでありつつも、かいがいしく食事を世話する少女。
諭されれば愚直に従う少女。
「はあ……」
頭を抱えて嘆息する。
手に取れば崩れてしまう、塩も具も入っていない、歪んだ造形の握り飯。綺麗になった盆に、もうその影はない。
――このままじゃ駄目なのは分かってる。
でも、あの少女と相対して自然に振舞っている自分の姿が想像できない。
パチュリーに言われたような、好きが高じて嫌悪する、愛しすぎて憎悪する、そういった感情ではないと断言できる。さりとて、どういった感情が引き起こす反応なのか分かっているわけでもない。
何かをしなければならないのは分かっているのに、何をすればいいのか分からない。
――こんな歳して、何も分からないのね、わたし。
先刻の満ち足りた気分は、もうどこかへ行ってしまった。
考え事は苦手だった。やはり、こうして頭を使うことは性に合わないらしい。
「はあ」
本日何度目になるだろう嘆息を漏らしていると、ふと何かの気配を感じた。咲夜ではないと直感する。
美鈴は夜間を門前で過ごしていたが、門番が門前にいる間は注意をしないのだろう、咲夜は食事を置いていくだけでその姿を見せなかったからだ。そしてもう一つ、その気配は美鈴の背後――見上げるほどに高く、よじ登るにはとっかかりも何もない平坦な塀の上にいた。
「よっ」
声を掛けられ見やると、自分をこの境遇に配置してくれた元凶――紅魔館の主であるレミリアが塀の上から身を乗り出し、片腕を上げていた。
「……」
ここんところのいろんなものを全部込めて、思い切り睨め上げてやる。
ちゃんと伝わっているくせに、彼女は照れくさそうな顔でぱたぱたと手を振った。
「そんな見つめないでよ。照れるじゃん」
「睨んでんのよ」
「よせやいっ」
さらに照れたような仕草でいやいやをする彼女に、呆れた眼差しを向ける。
「いや、意味わかんないから」
「よっと」
レミリアは――おそらく飽きたのだろう――すぐにやめ、塀を乗り越えた。今度はその蝙蝠然とした羽をぱたぱたさせながらふわりと着地すると、腰に手を当てる。
「様子を見ようと思ってね。どうだい、少しは慣れたかい」
新人を気遣う上役のような物言いだが、彼女が言っても斜に構えたようにしか見えなかった。そんな上司に、美鈴は座ったまま答える。
「どう慣れろってのよ。パチェがいるのに門番なんて」
「さながら月夜に提灯だよね」
提げた本人がそれを言うかと言葉には出さず、美鈴は非難の視線を注ぐ。が、レミリアは気付いた様子も見せずに、
「別に門番に慣れたか、って訊いたわけじゃないんだけどねぇ」
などと言いつつ、美鈴のすぐ隣に腰を下ろす。
彼女の頭の位置がぐんと低くなって、首が痛いため美鈴は、投げ出した自分の足先を眺めつつ続きを待つ。対してレミリアは、美鈴の顔を覗き込む。
「てかさ、あんた、なんでずっとここにいんの?」
「はぁ?」
あまりにもあんまりな吸血鬼の質問に、美鈴は覗き込んでくるその双眸に苛立ちを覚えた。
「あんたが門番してろって言ったんじゃないの。ボケてんの?」
「失礼なやっちゃな。ボケるならそっちのが先だろ。いったい何千年生きてんだよ」
レミリアも眉を立てるが、その可愛らしい相貌のせいで険は感じない。そんな彼女から、美鈴は視線を外す。
「さーね。二千から先は覚えてないわよ」
「二千まで数えてたあんたに驚愕だよ。なに、二千歳までは毎年誕生日祝ってたの? うけるー」
足をバタつかせる仕草が、冷たい地面を通して伝わってくる。
「黙れちんちくりん。じゃああんたは祝ってないの」
「祝ってるよ?」
「おい」
たまらず、美鈴は再びレミリアを睨む。
「わたしはかわいくてちんちくりんだから、そういうのも許されるのさ」
「うっざ」
「ちなみに明日は咲夜の誕生日だよ」
「……興味ないね」
唐突すぎる報せに、即答できなかった。それが何故か、美鈴には分からなかった。
「まあまあ、話を戻そうか」
そして唐突に閑話休題。
レミリアは覗き込むのをやめ、美鈴と同じように自分の足先を見つめる。その姿に、それまでの茶化すような態度は微塵もなかった。
「なんのためにここにいるの」
「それは……」
美鈴自身、今しがた自問していたところだ。レミリアはなんの意図もなくこんな質問を投げてくる吸血鬼ではない。相手をからかう際を除いては。
「美鈴はさ、人間のこと気に入ってるじゃん。人間たちの中で暮らすっていう生活も考えたことくらいあるでしょ。なんでそうしないの」
「……わたしみたいな化物が、ずっと人間たちの中にいられるわけないでしょ。人間ってのは変化を恐れるけど、変化しないことも同じくらい怖がるのよ」
自分よりも遥かに若いレミリアからの提案――それは美鈴がとうに実践したものだった。そして、既に自身で折り合いをつけていたことでもあった。いくら切望しても、叶わないことなどいくらでもあると。
「ふぅん」
美鈴の、いや体験した者が口にする言葉には、聞きかじった者が口にするそれにはない重みがある。レミリアは美鈴のそれを肯定するように相槌を入れ、続けて否定した。
「怖がってるのは、美鈴の方じゃないの?」
美鈴はぴたと動きを止める。否定も肯定もできなかった。自己完結して納得済みのはずなのに、どうしてこうも揺さぶられるのか。
「私が思うに、あんたは人間たちの中でも十分やってけるよ」
「……出てけって言ってるの」
自分でも驚くほど掠れた声が出た。
レミリアが美鈴の肩をばしんと叩く。吸血鬼の腕力で、わりと強く。
「あいたっ」
「んなわけないじゃん。もし家族がいなくなったら、全力で取り戻すさ」
「あ、そ……」
今度は本当に怒っているように見える彼女に申し訳なさと気恥ずかしさを感じ、美鈴はたじろいだ。
レミリアは眉を元の場所に収め、あとを続ける。
「あんたはわたしたちと同じ化物だけど、咲夜は人間だよ」
「そうね」
「でも咲夜はここじゃないと生きてけないんだよ。わたしたち化物の巣の中じゃないとね」
「知らないわよ」
人間の中に化物はいられないのに、その逆がどうして成り立とう。
「でなくとも勘付いてはいたでしょ。でなきゃ、わたしが咲夜を連れてきた日、美鈴ならあの娘を元の世界に戻そうとしたはずよ」
「そうかもね」
やはり咲夜のことになると無意識に対応が粗野になってしまうことを、美鈴は自認した。そんな自分を見るのが嫌で、頭を使うことに辟易していたところへまた新たな問題を投げ入れてくるレミリアに、話を逸らそうと持ちかける。
「話が見えないんだけど、それでわたしが何を怖がってるって」
「咲夜のこと」
話が逸れていなかったことに、美鈴は頭を抱える。
「……てんで意味が分からない」
「脳筋のあんたが考えてるような、よーいどんで殴りあった末の勝った負けたの話をしてるんじゃないよ」
「さっきからなに――」
「変わるのが、変わられるのが怖いんだよ、美鈴は」
確信という意思のこもったレミリアの声が、美鈴のそれを遮る。
本当に怖がっていたのは人間たちの方ではなく、美鈴だったのだと。折り合いをつけていたと思っていたものは、美鈴の逃避だったのだと。
「ここは変わらないからね。だから、ここにいるんじゃないの」
「変わらない……」
その言葉の意味を、確かめるように繰り返す。
レミリアの言とは裏腹に、紅魔館は変わっていた。
最初の紅魔館は、レミリアとフランドール、そして美鈴だけだった。そこから徐々に使用人が増えパチュリーも加わり、今の紅魔館となったのだ。住人が増えれば、自ずと個々の関係性も増えていくし、変わってもいく。
間違いなく変わっている。レミリアの言う変化とは、そういったものとはまた別のものを指しているのだろうか。
「でもさ」
突然、何も返せないでいる美鈴の手に、レミリアの手がそっと重なる。
甘く撫でるように指が絡んできて、美鈴はびくりと肩を震わせる。
「え、なにっ――」
「今日は少しだけ、冒険してみない?」
悪魔的な上目遣いで身体を寄せ、脚を絡められる。彼女のひやりとした肌の感触が、美鈴の脚を這いずった。
彼女の浮かべる恍惚とした微笑に、美鈴は思い出す。
本能が告げる役割を簡単に放棄し、自他のそれまでに一切の未練を持たず、己の存在理由など一顧だにせず、苦悩の湧く隙も見せない、手が届く限りの全てを得ようとする。運命を操り支配するという途方もない力を持っていて、されどそれにすら固執しない。
目の前にいるのは、そういうアレでアレな、我が儘吸血鬼だったと。
「変わるってのはいいことばかりじゃないけど、だからって悪いことばかりでもないさ」
地面に横たわった美鈴のお腹に頭を乗せ、夜空と向かい合ったレミリアが囁いてくる。
「こうして二人でだらだらするなんて、前までならあり得なかったっしょ」
彼女の声を聞きつつ、美鈴は湯呑みに注がれた血のように紅いワイン――その液面に映る月を無言で眺めていた。
傍らには、レミリアが持ってきたワインボトルが置かれている。湯呑みもだが、その小さな身体のいったいどこに隠していたのか。それよりもなぜ自分は地面に寝転んで、お腹を枕にされているのか。さっきは一瞬覚悟――何に対するものかは自分でも分からないが――を決めたというのに、この状況はなんなのだ。
風情もへったくれもあったものではないその状況に、表には出さないが、美鈴は自分でも不思議なほどの心地よさを感じていた。
酒など呑むのはいつ以来だろう。
呑んで大丈夫かなと不安を覚えつつも、好奇心から一口啜ってみる。
「そう思わない?」
甘えるような声音で、回答を求められる。
冷たく硬い地面に寝転んで。
何かがお腹をもぞもぞと這い回って。
肴と呼べるのは夜空に浮かぶ点々とした明かりだけ。
そんな中でも――
「かも、ね……」
家族と呑む酒は、悪くはない味だった。
朝を告げる澄んだ啼鳥が、優しく耳に入った。
凍て返ったような肌寒さに身震いしながら、美鈴は知らぬ間に下りていた瞼を上げ、周囲を検める。
空の色が薄くなっており、空になったボトルと湯呑みがその辺に転がっていた。
「あー、そうだった……」
その光景に、美鈴は昨夜のことを思い出す。
湯呑みが空になれば注がれて、空になっていなくとも注がれて、もう無理と訴えたところで容赦なく注がれた。そのまま意識を失ったのか。道理で地面が近いわけだ。
「……ん?」
他人の吐息が耳に入り、頭痛に耐えながら首をもたげた。
いつもより胸が重いと思ったら、レミリアがしがみつくように顔を埋めて寝入っている。
そういえば、注ぐばかりで彼女自身はあまり呑んでいなかった気がする。
「こんにゃろ」
腕を振り上げるが、気持ちよさそうに寝息を立てるレミリアに振り下ろすことなどできず、仕方なく彼女の体を軽く揺すってやる。
「もう朝よ。ほら、寝るなら部屋に戻りなさい」
「うー」
「うーじゃな――それは枕じゃないっ」
唸りつつさらに奥へと顔を押し付けてくるレミリアに、叫んだ。彼女の首根っこを掴み、引き剥がす。
「このままだと灰になるわよあんた」
「おっとそりゃいかん」
一瞬で覚醒し明瞭な声を上げるレミリアを、本当に眠っていたのかと半眼で見やりつつ、こちらも起き上がる。
それを待ってから、レミリアが片手を上げた。
「んじゃ、ぐっない」
「だから朝だっての……あ、ちょっとレミリア」
出入りのために配置した本人なのに門を通らず塀を飛び越えようとする彼女に、反射的に声をかける。
空中で停止し、なにと振り返った彼女と目が合い、美鈴はさっと顔を伏せた。
名残を惜しんだわけではない。飲酒を強要したことに不平をもらそうとしたわけでもない。ただ、彼女に伝えなければならないことがあった。
地面に視線を落としたまま、言う。
「えと、昨日はその……ありがと。少しすっきりした気がする」
頬が熱くなる。家族だからこそ、改まって礼を言うのは照れくさい。
「……おぉ……」
「……?」
空から、感嘆の声が降ってきた。眉をひそめ、再び顔を上げる。
「なに?」
「めーりんが……デレたっ!」
固く握った両拳を震わせながら、そろそろ深刻に明るくなってきた空に向かってレミリアが叫ぶ。美鈴は先刻よりも顔が熱くなるのを感じた。
「っ! てないっ!」
「きたわぁー!」
「うっさい! とっとと巣に帰れ!」
レミリアはくるくると宙返りなどしながら塀の向こうへ消えていく。が、すぐに顔だけがにょきっと戻ってきた。
「そうそう」
「今度はなに!」
忘れ物でもしたのか、怪訝に思う美鈴を見下ろし、レミリアが言う。
「おめでとう、くらい言ってあげてもいいと思うな」
「……あい?」
「んじゃ、ぐもーにん」
「いや確かに朝だけどさ……」
さらに眉根を寄せて疑問符をあげる美鈴に構わず、レミリアは朝日から逃げるように館へ戻っていった。
「ところで貴女、今さらなのだけれどその格好で門番をしているの?」
とりとめもない会話の最中、唐突に飛んできたパチュリーからの疑問に、クッキーを口に運ぼうとしていた手が止まる。
レミリアが自室に帰ってから、二日酔いに襲われた美鈴はとりあえず水分を補給するため図書館を訪れていた。
二日酔いは早々に治まったが今度は小腹が空いて、茶菓子をねだっているうちについ長居してしまった。
クッキーを皿に戻して、メイド服の胸元を摘みながら答える。
「仕方ないじゃない。館の中で不自然じゃない服といったらこれしか持ってないもの」
「外でしょうに。それに見合った服装をしたら」
それまで疑問にすら思っていなかったが、自分の今の職場は館の敷地内ですらなかった。言われてみると確かに場違いではある。
「見合った、ねぇ。これの他は他所行きの分しか……ちと探してみるか」
思い当たる節があり、美鈴は席を立つ。
クッキーはそのまま残しておくよう念を押してから、足早に図書館を後にする。
紅魔館の使用人には各々部屋が割り振られている。そのほとんどはベッドとワードローブが置いてあるだけの簡素なものだったが、美鈴の部屋はそれと異なる造りになっていた。
彼女の自室には他に比べて広い間取りだけでなく、クローゼットとさらには浴室まで設けられていた。それは、最古参である彼女が当初よりその部屋を独占していたためである。が、使用人が増えるにつれメイド長待遇という色が濃くなっていた。
「早く引越ししないとなぁ」
引越し作業が滞っているそんな自室に戻り、美鈴は呟いた。門番となった今、この部屋の占有を続けるわけにもいくまい。
滞っているどころか全く進めていない理由は、何百年使ったか分からない部屋に愛着があるから、ということではない。身だしなみに人一倍気を遣う美鈴は、どんなに忙しくとも日々の湯浴みを欠かしたことがなかった。時刻を気にせずお風呂に入れるという特権は、そんな彼女にとって渡りに舟なのである。
実を言うと、表向きは既に咲夜の部屋ということになっている。しかし次に入るべき咲夜がどういうわけかここを使っていないため、美鈴は今でもここの浴室やクローゼットをこっそり使い続けていた。
「まあそのうち、ね」
真剣に考えるのはモラトリアムが明けてからにするとして、美鈴はクローゼットを開くと、吊り下げられた衣服を掻き分けて作った隙間に頭を突っ込んだ。
「この辺にしまったと思うんだけど」
目的の物を探すため、手前の物をぽいぽいと外に出していく。さすがに数百年ともなれば物も増えていたようだ。今さらながら、多少の愛着が芽生える。
と、突然ノックもなしに部屋の扉が開く。
とうとう咲夜がこの部屋に移ってきたかと思うも、入ってきたのは使用人の一人だった。
クローゼットから顔を出すと、仕事中である咲夜の部屋から漏れる物音を怪訝に思ったのだろうか――されとて、ノックくらいするべきだと思うが――、その使用人が部屋を見回して物音の正体を暴こうとしているところだった。
さして時間もかからず、二人の目が合うや、
「ひっ!」
夜道で化物と出会ったかのように顔をひきつらせ、使用人が背筋を振るわせた。
「顔見るなりひはないでしょ」
「す、すみませんメイド長!」
その反応に少なからずショックを受けて半眼で皮肉を飛ばしてやると、使用人は背筋を伸ばし、直立不動で声を張り上げた。
美鈴は嘆息しつつ、言う。
「もうあんたたちの上司じゃないんだから。普通に振舞えばいいわよ」
「そ、そういうわけにもっ」
脂汗など流して、なんだか必要以上に狼狽している様子だが深くは考えず、美鈴は肩を竦める。
「確かに、どん底付近まで降格させられたもんに普通に接しろってのも無理か」
「そんなこと……!」
「とりあえず、今はあの娘がメイド長なんだから、わたしのことはそれ以外で好きに呼んでちょうだい。あと悪かったわね、まだ荷物が整理できてなくて。なるべく早く引き払うから」
他の子たちにも伝えておいてと告げ、美鈴は発掘作業を再開した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……なにそれ」
戻ってきた彼女の姿に、パチュリーはページをめくろうとしていた手を止めた。
「なにって、あんたが着替えろっつったんじゃない」
そう答える彼女が身に纏っている衣装は、先刻までの標準的なメイド服とはかけはなれたものだった。
第一印象は、新緑の色合いを基調とした、遠目に見ても上質な生地で仕立てられたチーパオだった。が、よくよく見ると細工が少々異なる。シンプルな構造ながらも腰周りが絞られ胸元が強調されたところは一般的なそれであるが、動きやすさを考慮してか上下が分けられている。何より目に付く部分は、
「そんな無駄に色気だだ漏らしのスリットを着ろなんて言った覚えはないわよ」
下着が見えるか見えないかというぎりぎりを攻めるかのように深々と入れられた切れ込みだった。
「これしかないんだもん」
口を尖らせる彼女の、そのスリットを睥睨する。
白くすらりと伸び、余計な凹凸はなく、光沢すら窺えそうなほど瑞々しく張りがあり、細すぎず太すぎない妖艶に描かれたラインが、そこから惜しげもなく覗いていた。
メイド服は丈の長いスカートであるためお目にかかるのは初めてだが、これほどの美脚を隠していたとは。
いったいどうやればこんな究極形の一つのようなものが生えるのか気になるが、そんなことはおくびにも出さず、パチュリーは言う。
「あなた、二言目にはそればかりね」
「何百年前に買った服かも覚えてないけど、虫食い一つないのは奇跡だと思わない」
言いつつ、くるくると回ってみせる美鈴。
服よりもまず驚愕すべきはその安定性だ。ゆっくり回っているはずなのに、まるで高速回転するコマのように身体の芯がブレない。
「袖とかないから関節の自由度もすごい」
言いつつ、軽く屈伸や跳躍をしてみせる。
驚愕すべきは、彼女の動きにワンテンポ遅れつつも必死についていこうとする無駄肉の塊だった。遅れた分だけ揺れるわけで、パチュリーは思わず凝視してしまう。
「どしたの」
声をかけられ、パチュリーの硬直が解ける。
「垂れてしまえ……」
ぼそりと呻く。
「なんか言った?」
「いいええ」
そらとぼけつつ、改めて美鈴の纏う衣服に視線を戻す。
数百年を押入れの奥底で過ごしたというその服に虫食いどころか風化の痕跡さえ見て取れないのは、おそらくしまう前に彼女がその能力で保護したためだろう。数百年も入手時の状態を維持させるほどには気に入っていたのだろうが、どれだけ念入りに封をしたのか。
ふと考える。果たして、自分の魔法で再現できるだろうか、と。
自信はない。しかしすぐに、はいできません、と降参できるほど安い矜持は持ち合わせていない。
――今度実験してみるか……やっぱやめときましょう。
対抗心を刺激されはするが、結果が出るのは数百年後だ。それまで待てるほど忍耐強くはないし、なにより実験したこと自体を忘れてしまっているだろう。
自身の余計な一言をきっかけに、お蔵入り実験項目がまた一つ増えた。
動き回ったせいで乱れた着衣を整える美鈴を尻目に、パチュリーは好奇心にそっと蓋をした。
「それにこれなら汚れても大丈夫だし、ちょうどよくない?」
「まあ貴女がそれでいいのなら何も言わないけれど」
気に入っていたのではなかったのかという指摘が漏れそうになったが、彼女の服をどう扱おうが彼女の自由ではある。
「ところで、それは?」
パチュリーはテーブルに置かれた小箱を示す。大きさは手のひら大、桃色の紙で包装され、薄い黄色のリボンで封されている。
美鈴が図書館へ戻ってきた際に持っていたものだったが、服やら何やらに気を取られて存在を忘れていた。
「ああ、大したもんじゃないわよ。クローゼット漁ってるときに、一緒に見つけたの」
「そのわりには綺麗にラッピングされているのね」
「パチェが気にするようなもんじゃないって」
「ふうん?」
そう言われると尚更気にはなったが、あまり詮索されたくはない様子なのでそれ以上の追求はしないでおいた。
「さて、そろそろ戻ろうかな」
言いつつ、美鈴はさっと小箱を回収する。ついでに残っていたクッキーを平らげた。
「あら、お迎えは待たないの?」
あと小一時間もすれば正午――つまり咲夜が美鈴を迎えに来る時間である。
できればもう一度彼女の奇術を見てみたかったのだが、美鈴が行ってしまうのであればそれは叶いそうにない。
「今日はいいの」
そんなパチュリーの思惑を知る由もなく、美鈴はそそくさと退室してしまった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
門塀に背を預けて瞼を閉ざし、春光を浴びながら、彼女は考えていた。
思えば門番となってから、この時間帯にこの場所に立っているのは初めてのことではないだろうか。
暇を潰すために釣りをしたり湖畔を走ったりもしたが、こうしてただ待っている時間も悪いものではない。
何かを計画し実行する際、人はその計画段階において最も愉楽を感じるのだと何かの本で読んだことがある。その通りかもしれない。
周囲に意識を配ることもなく、流れてくる鳥の囀りや葉擦れにただ耳を傾けていると、そこに別の音が紛れ込んできた。
刻んだ年月に相応な金属の擦れる音――それとともに、門が開く。
瞼を上げて見やると、待ち人がそこに立っていた。
「なによ、文句ある」
門を出てすぐに立ち止まった咲夜が、小さく首を振る。
「ない。おどろいただけ」
外見上の変化はほとんど見受けられないが、いないはずの相手がいたことに――あるいは美鈴の装いに――驚いてくれたらしい。それだけでも待った甲斐があった。
美鈴は満足して塀から離れると、咲夜へ歩み寄る。
「今日のお昼は?」
「……そこ」
咲夜は美鈴の顔を、正確には彼女の頭上を指差す。頭に重みを感じて、美鈴はそれを落とさぬよう慎重に両手を持っていった。
「……驚かせた仕返し?」
「……」
咲夜はいつもと変わらない表情で見上げてきていたが、心なしかその小さな唇を尖らせているようにも見え、美鈴はこぼれそうになる笑みをなんとか堪えた。
盆を落とさぬよう注意深く回収し、本日の昼食を確認する。
メニューは昨日と同じ握り飯だった。手に取るだけで崩れてしまいそうなところも、昨日と同じだ。
その一つを掴み、咲夜に見えるよう掲げてから、
「いただきます」
彼女の目を真っ直ぐ見つめて、言う。そうしないと、食べ終える前に去ってしまいそうな気がして。
彼女が動かないのを確認して、一つ二つと口に放り込む。もともと大きくはない握り飯だったため、五つ全てを胃に納めるのにさして時間はかからなかった。
足止めには成功していたようで、相変わらずの顔のまま、咲夜は食事が終わるのを待っていてくれた。
一息ついて、そんな彼女に視線を戻す。
「ごちそうさま」
「……」
その挨拶に返す言葉を知らないのだろう、咲夜は無言で見つめ返してきた。
そんな彼女にくるりと背を向け、美鈴は両手を空に突き出して大きく伸びをする。
「さ、空振りさしたしお腹も膨れたところで、キリもいいしサボるとするか」
「なんでそうなるの」
背後で咲夜が非難の声をあげるが無視し、振り返る。
「あんたも付き合いなさいよ」
「なんでそうなるの」
美鈴は再度無視して咲夜の前に屈みこみ、咲夜の瞳を覗き込む。
「その前に、ずっと気になってたんだけど、あんた……」
彼女とこうして間近で向かい合うのは初めてだった。
近くで見つめていると惹き込まれそうになる、澄んでいて、けれど儚げな色彩の瞳。
ずっと見つめていたい気持ちが湧くもそれより優先すべき問題があり、美鈴は両手でおもむろに、咲夜の小さな頭を鷲掴みにした。
「?」
行動の意図が分からないと疑問符を上げる彼女の、その萎びれた髪に鼻を近づける。
「くさい」
ばん、という大きな音と共に、正門と同様無駄に背の高い正面玄関が開く。
「わっ――ひっ!」
近くにいた使用人の一人が突然開け放たれた扉に驚き、次いで現れた、現メイド長を小脇に抱えた元メイド長の姿を見て顔をひきつらせる。
そんな彼女には一瞥もくれず、美鈴は咲夜を抱えたまま館の中を突き進んだ。
もはや目を閉じても進める、慣れ親しんだ道順で目的地に辿り着くと、そのままの勢いで元自室であり未だ自室の扉を乱暴に開き、そのさらに奥へと押し進む。
空になった盆をベッドに放り、その奥にある最後の扉を開くと、そこには彼女が毎日欠かさず世話になってきた場所があった。
入ってすぐのところに大きな鏡のついた洗面台があり、脱衣場を経て、その奥が浴室となっている。
そこでようやく、美鈴は咲夜を解放した。
「ほら、おとなしく両手をあげなさい」
カビ一つ許したことのない浴室に拉致してきた咲夜を立たせ、衣服を順序良くてきぱきと剥いでは洗濯籠に放り込む。多少の抵抗はあるかと予想していたが、彼女は終始されるがままだった。
脱がすものがなくなると今度は自分が脱ぐ。もちろん脱いだ服はきちんと畳んで別の籠に入れた。
「それっ」
予め張っておいた湯船に、まるで洗濯物を籠に放り込むかのように咲夜を投げ入れる。ここまでやっても無抵抗のまま、彼女は湯船に沈んでいった。
「ホントは体を流してからだけど、今日は特別よ」
言いつつ、美鈴はブラシやタオルなど必要なものを探し始める。
石鹸などは同じものでいいとして、椅子は二つ必要だ。あと子供用に柔らかい素材の、例えば絹か何かのタオルがこの辺になかったろうか。
自分の段取りの悪さを呪いつつもどうにか必要と思われる物を揃え、髪をまとめたところで、美鈴はようやく気付いた。
「……なんで!?」
沈んだまま浮いてきていない咲夜に。
「ちょちょちょ! あんたなにやってんのっ!」
両脇に腕を差し込み抱えるようにして、湯船の底から掬い出す。
どうやら間に合ったようで、咳き込む咲夜に安堵する。そして同時に、あまり良くはない予感を覚え、訊く。
「もしかして、お風呂とか知らない?」
咳き込みつつも頷く彼女の仕草が、腕の中で伝わってきた。
前後に並べた椅子にそれぞれ座り、咲夜の背中を流してやる。
「ほら、耳の裏とかもちゃんと洗いなさい」
彼女の手からタオルを奪い、銀髪をかき上げて耳の裏やうなじを擦る。
「……うん」
「爪を立てないで、髪はもっと丁寧に洗いなさい」
彼女の洗い方に我慢できず、頭皮に優しく指を這わせてやる。
「……うん」
「ちゃんと髪は乾かしなさい。そんなだから傷むの」
「……うん」
「だからってそんなごしごししない。拭き方はこう、タオルで挟むように」
再度タオルを奪い、彼女の銀髪を包み込むように優しく圧をかける。
「……うん」
「風呂上りに冷たいものはだめよ。こういうのにしときなさい」
タオル一枚でベッドに腰掛けた彼女に、こっそり拝借してきたパチュリー秘蔵のハーブティーを淹れてやる。
「……うん」
「今日のところはこんなもんか」
ドタバタとした一連の湯浴みを終え、美鈴は達成感を覚えつつ頷いた。
鏡の前に座らせた咲夜の銀髪を櫛で梳かしつつ、新しいメイド服に着替え淡い石鹸の香りを漂わせる彼女の背後から、鏡越しに改めて観察する。
これまでの積もり積もった不摂生が一度や二度の湯浴みで払拭できるわけもないため、今はこれで我慢しておく。
美鈴はまた一つ頷くと櫛を置き、鏡の向こうから見つめてくる咲夜の銀髪をいじり始めた。
「あと身だしなみには気をつけなさい。着飾れとまでは言わないけど、多少の洒落っ気くらいは持ちなさい。これはメイド長とか関係なく、人としてよ」
慣れた手つきで銀髪を整え、結わえていく。何百年どころではない幾星霜の中繰り返してきた動きだけに、無駄はない。比喩ではなくあっという間に仕上げてしまう。
「……いまの、どうやったの」
彼女の熟達した指先の動きに付いてこれなかったのか、ここにきて初めて相槌以外の言葉を発した咲夜に、美鈴は次に取り掛かろうとしていた手を止める。
顔を上げると、結わえられた自身の髪を不思議そうに眺めている彼女がいた。
「ただの三つ編みじゃない。知らないの」
「…………しらない」
言われ、咲夜は鏡の中の美鈴と目が合うや、すぐに逸らすように顔を伏せた。
たったそれだけの小さな動作であったが、これまでどんなときでも無感情に美鈴を見つめ返してきた彼女からしてみれば実に感情のこもった動きに見えた。
咲夜が初めて見せた少女らしい反応に、美鈴はその死角でこっそり微笑むと、ラッピングされた小箱を手に取る。
今朝、パチュリーが気にしていたあの小箱である。服を発掘した際一緒に出土したものに、改めて包装を施したものだった。
咲夜に封を切らせるつもりでいたが、あまり拘らず、薄い黄色のリボンを解いて桃色の包みを破り、その中に忍ばせていたものを取り出す。
「じゃあ今度教えたげる。あとこれもあげるから、いつか自分でできるようになんなさい」
取り出したものを、出来上がった三つ編みの先に結んでやる。それは美鈴の服と同じ、新緑の色合いをしたリボンだった。
「……ひも?」
「紐はないでしょ。リボンって言いなさい」
言いつつ、反対側にも三つ編みを作って、リボンを結ぶ。
「リボン……」
「まあ、あれよ…………おめでと」
「?」
誕生日というものを知らないのか、それとも自分の誕生日を知らないのか。レミリアが言っていたのだから、今日で間違いはないはずなのだが。
どちらにせよ気恥ずかしくなり、美鈴は誤魔化すように咲夜を立たせ、振り向かせる。
と――
「ほ、ほら、もう終わったか……ら……?」
美鈴は絶句した。
眼前に、仕上がった一人の美少女が立っていた。
なんということだろう。あれだけ傷々しい様相であった銀髪は美鈴の手によって本来の姿を思い出したかのように艶を見せ、十分な湯浴みによって肌や唇は血色と張りを取り戻し、下ろし立てのメイド服がその愛らしさをさらに引き立てているではないか。
美鈴の手により生まれ変わったかのような――いや、これが生来彼女が持っていた資質なのだろう――見る者を惹き付けて放さないその佇まいに、美鈴は思わず抱き締めたくなる衝動を必死に抑えた。
十年もすれば、きっと自分など及びもつかないような美女となっているだろう。そう思わせるほど、将来を確約されたかのような素養が止め処なく溢れている。
なんてものを生み出してしまったのか。
これが女としての防衛機制か。愛惜と、いっそなかったことにしてしまいたいという嫉妬とが、彼女の内で激しく渦巻いていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「美鈴がオカンになった」
いつもの図書館のいつものテーブルを、レミリアがどんと叩く。
「あらそう。そのこととテーブルを叩くこととの因果関係も、少しは気にしてみたら?」
最近とみに叩かれるようになった愛用のテーブル――よりにもよって叩くのがもっぱら規格外の腕力を持った二人であったため、近々壊されるんじゃないかと真剣に懸念しつつ、パチュリーは非難を含んだ諫言を投げた。
レミリアは気付いた様子も見せず、両手を付いて身を乗り出してくる。
「身だしなみとか掃除とかから始まって、最近はテーブルマナーまで教えてるんだよ。一緒に料理したりお風呂入ったり、しまいには並んで歯磨きとかまでしちゃってさ」
何かを訴えているようだがいまいち何を訴えたいのか理解できず、パチュリーは集中を乱されて本を閉じる。
美鈴と咲夜が度々会っていることは、使用人たちから聞き及んでいた。
「まるで見てきたような物言いね。覗き見は趣味が悪いわよ」
「観測するという行為によって物体が減少することはないけど、わたしは充足するんだよ。全世界が幸せになるロジックだと思う」
腕など組みつつ、否定するどころか全肯定する彼女に、パチュリーは半眼を向ける。
「何の受け売りか知らないけれど、貴女って本当にアレね。見られる方は単純に嫌よ」
「とにかく、美鈴があそこまで世話焼きだったとは」
彼女が何を訴えていたのかようやく理解し、嘆息する。
「館内にいたときからそんな節はあったけれど」
館内――紅魔館のメイド長として、実質的に館全体を仕切っていた彼女の姿を思い出す。
部下のことを想うあまり厳格に接しながら、時には彼女らの好物を食卓に上げるためだけに休日を釣りに費やす。侵入者の闖入やフランドールの暴走に際しては、誰かに危害が及ぶ前に全力でこれを制す。何事にも妥協なく接するその凛々しくもある立ち居姿や、個としての純粋な強さに、畏怖とともに憧憬を抱く者もいた。
本人がどういった考えの下メイド長という役割を担っていたのかは分からないが、使用人やパチュリーの視点からは、紅美鈴という女はそういった存在だった。
「でもちょっとテコ入れしただけであそこまでなるなんてねぇ。本人に自覚が芽生えたのかな」
「もともとそうだって言ったでしょう。変わったというなら、むしろ咲夜の方じゃないかしら」
もはや読書に戻ることは望めそうになく、パチュリーは諦めて焼き菓子に手を伸ばす。が、寸前でレミリアに横取りされてしまった。
手持ち無沙汰に、空振りした指先の行き場を求め、仕方なくその隣に手をつける。
パチュリーが使用人らから聞いた話では、咲夜と美鈴は頻繁に逢引しているらしい。といっても、別段隠れてというわけでもなく。
咲夜が抜けている間の雑務は他の使用人が負担しているらしいが、相手がメイド長とはいえ幼子とあっては、これに不満を抱く者もいないようだった。ただ、日を追うごとに見違えるような可憐さを備えていく咲夜が美鈴の許へ赴く様に、妬み含みの羨望を向ける者は掃いて捨てるほどいるようではあるが。
門前に立っている美鈴を咲夜が毎日のように訪ね、そのまま二人でどこかに消えてしまう、というところで話は終わっていた。まさかベッドで愛やら何やら語らっている、などと邪推してはいなかったが、先にレミリアが言ったようなことをしていたのか。
なんら示し合わせもなく、毎日のように誰かが訪ねてくる――自分がその立場になったらどう感じるだろう。ひどく煩わしく思うかもしれないが、存外に楽しんでしまうのではなかろうか。
「他の子たちのフォローがあるとはいえ、役割をこなしながら足しげく通っているみたいね。以前とは違う目的で。端から見ていても微笑ましい光景だと思うわよ」
「……咲夜が美鈴に懐いた、って?」
「?」
横取りした菓子を弄ぶ彼女に、違うの、と目で問いかける。
「あれはただ――」
レミリアは菓子を口に放り込むと、ろくに味わいもせずに紅茶で押し流した。
「まだ、新しい依存先を見つけただけだよ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
門前に立ち、そもすれば一生現れないかもしれない侵入者ではなく、門の向こうから姿を見せる彼女を待つ。
そんな日課が生まれて、彼女にものを教えるようになって、もう幾日経過したろうか。
家事全般の飲み込みは早かった。それは彼女が持ってくる食事にも色濃く反映されている。が、手先は器用で要領もいいはずなのに、どういうわけか三つ編みだけは習得の兆しが見えていなかった。
毎日、一緒にいられる最後の時間に、咲夜は三つ編みの練習をしていた。しかしちっとも上達せず、時間切れ間近になると、
「……やって」
と、無表情なのにどこか憮然とした様子で言ってきて、結局美鈴が彼女の髪を整える。それも日課の内だった。
咲夜のあの顔を思い出すだけで、自然と口元が緩む。
彼女が持参した食材で、料理を教え。
湖で釣りを教え。
木の登り方を教え。
食事の作法を教え。
日々を、これほど長く感じたことはなかった。
過ぎ行く時間を、これほど名残惜しく感じたことはなかった。
そして、ただ待つという時間を、こんな気分で過ごせたことはなかった。
「さて、今日は何をしようかな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
なんとなく、これ以上は読書を続けられない予感がして、彼女は本に栞を挟み、席を立った。
壁際に置いてある、少し離れた食器棚まで歩き、カップを選ぶ。
薄い緑色の地に、銀色の花のような結晶が散りばめられた陶器――今日はこれがちょうどよい。そんな気がした。
「わたしがやりますよー」
頭上から、若干間延びした印象の声が降ってきた。
見上げると、分厚い本を何冊か抱え、悪魔然とした両翼をぱたぱたさせている小悪魔がこちらを見下ろしてきていた。
パチュリーは、いいの、と片手を上げて制す。忙しなく飛び回る彼女にあまり負担をかけないように、というわけではなくたまには自分でやろうと思うのだ。やはり、なんとなくだが。
カップに埃が付着していないことを確認してから、新しい茶葉も手にテーブルへ戻ると、自分のカップの隣へ、新しいカップを静かに置く。
ポットの茶葉を入れ換え、湯を注いだところで、軋んだ音を扉が立てた。
前置きなしにここへ入ってくるのは、紅魔館においては二人しか心当たりがない。一人は吸血鬼の友人で、もう一人は――
「パチェ、お茶ちょうだい」
「あら、久しぶりね」
カップと似た色の衣服に身を包み、包みきれていない脚をちらちらと覗かせながら、美鈴が歩み寄ってくる。
咲夜と会うようになってからはちっとも顔を見せなくなっていた彼女の訪問に、顔を綻ばせながら非難してやる。
「近頃はとんと立ち寄らなくなったから、忘れられたかと思っていたところよ」
「いろいろ忙しかったのよ」
「あの娘と重ねる逢瀬とか?」
「お……そんなふうに言わないでよ」
目を背けながら、美鈴は席に着く。テーブルの茶菓子に手を伸ばそうとしたところで、先程のカップに目をとめて訊いてくる。
「いい趣味ね、これ。こんなの持ってた?」
「普段は使っていなかったら。どうぞ」
茶菓子のかわりに彼女が手に取ったカップへ、ちょうど頃合になった紅茶を注いでやる。
「本を持ってないのは珍しいね」
「ちょうどお茶が切れたところに、貴女が来ただけよ」
湯気とともにカップから立ち上る香りを楽しむ美鈴。その様子を眺めつつ、パチュリーは自分の分も用意する。
椅子に腰掛け、彼女と同じように香りを楽しんでから、口をつける。
「やっぱパチェの淹れるお茶は美味しいね」
「ありがとう。でも、やっぱりあの子たちが淹れてくれるものの方が美味しいわよ」
「それはあれじゃない? おにぎりとかも、自分で握ったやつより他人が作ったものの方が美味しく感じるような」
「ふむ……」
言われてみると、そうかもしれない。学術的根拠はないし、情を感じるからということでもないのだ。言い得て妙だと、パチュリーは感じた。
やはり小悪魔にお願いするべきだったと嘆息し、カップを置いて訊ねる。
「咲夜も、貴女が淹れるお茶を美味しいって?」
「あの娘はあんまし、というかぜんぜん自分から感想とか言わないのよ。だからこっちで勝手に判断してる」
「顔に出るの?」
「いやまったく」
好物を口にして頬を緩ませる咲夜も想像できないが、では他にどういった判断材料があるのだろう。パチュリーは小首を傾げるようにして、美鈴に解答を求めた。
「そうね、例えば料理。出されたものは全部食べるんだけど、好き嫌いが食べ方に表れるの」
「好きなものは後に残して、ゆっくり味わうとか?」
「パチェもわたしもそうだけど、あの娘は逆ね。好きなものからさっさと食べちゃうの。ちゃんと味わってはいるみたいだけど、なんだか急ぎ気味に」
当初は接し方が分からないなどと悩んでいたわりに、よく見ているようだ。美鈴の語り口は、客観的な見解の陳述というより、むしろ親が子供のことを他人に話して聞かせる様子に近かった。
――レミィが言っていたのはこれか。
とまれ、食べ方には個々の性格が如実に表れがちだ。パチュリーは好物を口にする瞬間よりも、それまでの過程を楽しむ傾向にあると自分でも感じている。それは読書や魔法の研究にも通ずるものであった。きちんと成果は求めるが、それよりもその道程を重要視する。
「……貴女に取られると思っているんじゃない?」
「他人のもの取ったりなんてしないわよ」
あっさりと答える彼女に、パチュリーは半眼を向ける。
「あらそう。先日、楽しみに取っておいた茶葉を誰かさんに無断で持ち出されちゃったのだけれど」
「ぐぅ……!」
美鈴の口からぐうの音が漏れた。
パチュリーが言ったのは、何かの折に皆に振舞おうと戸棚の奥に隠していた、この辺りではあまり手に入らない茶葉のことだった。
戸棚を開いて、あるはずのものがそこにないと気付いたときの喪失感と、同時に湧いた憤怒は計り知れない。草の根分けても下手人を捕らえ、生物を対象とするには憚られるいくつかの魔法の被験者になってもらおうと、一時は本気で計画したほどだった。
しかし冷静になって考えてみると、下手人の心当たりはそう多くなかった。大体、自分の私物をそれと分かって無断で持ち出すような者は、紅魔館において二人くらいしかいないのだ。その内の一人は動揺など微塵も悟らせないであろうから、もう一人にかまをかけてみたのだが、どうやら当たりを引いたらしい。
時間の経過とともに忘れかけていた惆悵が、再燃した。
「美味しかったかしら? わたしが独りで陰鬱に楽しむよりは、幾分有用に使ってくれたのかしら?」
「ごめんなさい美味しかったですあの娘と全部飲んじゃいましたっ」
がばとテーブルに手を付き低頭して早口で懺悔する彼女に、パチュリーは嘆息する。咲夜と飲んだなどと言われては、それ以上怒気を維持できなくなってしまった。そもそもそこまで怒ってはいなかったのだが。
「美味しかったのならいいわ。次はもっと多めに仕入れておくから、欲しいときは一声かけてちょうだいね」
「ホント? じゃあ次はあれの倍くらいお願い。あの娘も気に入ったみたいだから」
「……まったく、貴女というのは本当に……まったくだわ」
咲夜を出汁にすればある程度の融通が利くと解してしまったのか、ふてぶてしく要求してくる彼女に、まったくその通りなので、頭を抱えるしかなかった。
これ以上何かを付け加えられる前に、パチュリーは美鈴が食いつきそうな話題を提示する。
「それで最近、咲夜の様子はどうなの?」
「様子って言われてもね、相変わらずよ」
美鈴が差し出してきた空になったカップへ、おかわりを注いでやる。
紅い液体が再度満たされたカップを手に、彼女は浅く座り直し、背もたれに体重をかけるようにして天井を仰いだ。
「無表情のままだし口数も増えないから、いつもわたしばっか喋ってる。髪いじりを教えてやっても一向に上達しないし」
「それは貴女の教え方に問題が? それとも咲夜のもの覚えが悪いのかしら?」
「いやいやいやそんなことないよ? 他のこと、そうたとえば掃除とか料理とかでいうと教えたことはすぐできるようになるんだよ? 意外と手先は器用だし要領もいいみたいで、結構なんでもやれちゃう娘なのよ。ただなんでか髪をいじるのだけは下手くそなのよね。まあそんなとこも可愛いからいいんだけど。そうそう近いうちに読み書きも始めようと思ってるからたぶんここの本なんてすぐ理解できるようになっちゃうわよ」
がばと身を乗り出すような勢いでまくし立てる彼女に、しばし呆気に取られる。
――……これが親バカというやつかしらね。
思いがけずスイッチを押してしまったか。微笑ましいやら鬱陶しいやら。
「……」
やっぱり鬱陶しいので、とにかく一息つかせようと、菓子の乗った皿を美鈴の方へ押しやる。
しかし彼女は、差し出された菓子に手を付けず逡巡するように見つめてから、次いで別の方を見やる。その視線の先では、壁に掛けられた振り子時計の針が正午近いことを指していた。
「……もう少しでお昼ご飯だし、そろそろ戻ろうかな」
「あらそう?」
昼夜を問わず菓子を残して去ったことなどなかった彼女に、揶揄しつつ別れを告げる。
「今度はおたくの、利発で可憐な咲夜ちゃんも連れて来なさいな」
からかわれて自分の親バカぶりに気付いたのか、美鈴は服とお揃いの帽子を目深に被るも、紅潮した頬までは隠せていなかった。誤魔化すように言ってくる。
「ま、まあわたしが見れてないところ――わたしの後任とかがちゃんと務まってるのかは疑問だけどね」
そそくさと席を立つ美鈴。
パチュリーもテーブルの隅に置いていた本を手繰り寄せた。挟んでいた栞を頼りに読みかけの行を探す。
そのとき不意に――呟いてしまった。
「そうかしらね?」
後に続く言葉を用意していたわけではなかったし、彼女の足を止めようとしたわけでもなかった。本人でさえ意識せず発した声だったため、ただの相槌として受け取ってもらえればそれで済んでいた。
しかし美鈴は、扉の把手に手を掛けた姿勢で、足を止めた。顔だけ振り返る。
「……え?」
距離が開いていたため、彼女はただ聞き取れずに振り向いただけなのかもしれない。だが、無意識に発していた自身の声に一番驚いていたパチュリーがそのことに気付いたのは、続きを促されたと思いそれに盲従してしまった後だった。
「貴女がメイド長というものにどんな認識を持っていたのかは知らないけれど、あの娘はあの娘でメイド長として十二分な働きをしていると思うわ」
一度口にしたら、もう後戻りはできなかった。
体力的に、あまり長く言葉を紡ぐことを得意とはしていない。パチュリーは本を持ったまま、呼吸を整えるため間を取るように顔を上げ、美鈴を見ないよう別の方向へ視線を送る。
眺めていて楽しいとも思えない図書館の風景を流し見つつ視線を泳がせていくと、はたきを持って書棚の埃を掃っていた小悪魔と目が合った。
彼女の目が、干渉していいんですか、と問いかけてきているような気がした。
――いいのよ……どうせ何をしようと、織り込み済みでしょうから。
心中で、彼女に詭弁を返す。
傍観者でいてほしいと友人に頼まれ、了承し、約束していた。だがその友人は、パチュリーが結果的になにを選択し実行するのか、視て知っているはずだ。友人の破滅を今際の際まで傍観することなどできず、かといって友人との約束を反故にすることもできないパチュリーのジレンマでさえも。
――それを詭弁だというのよ。
そんなのは建前だ。
自分は、彼女たちの話をほとんど一方的に聞くだけの地蔵か何かか? その思いが日に日に育ち、先日はつい咲夜を誘導するような言動をしてしまった。それからずっと我慢してきたのに、今日久しぶりに美鈴と会って、咲夜のことを楽しそうに話す彼女に、とうとう耐えられなくなったのだろう。
美鈴を咲夜に取られたとか、そういう浅ましい嫉妬の類ではない。我慢できないのは、変わっていく彼女たちを独り蚊帳の外から見続けることしかできない、自身の境遇だった。
十分すぎるほど間を置いて、パチュリーは独白するようにあとを続ける。
「咲夜を連れてきた少し後、レミィがね、職場改善と言っていたのよ。最初はどんな奸計を巡らせたのかと思ったけれど、近頃の館内の様子を見て、なんとなく分かった気がするわ。貴女は何も気付かない?」
ここでようやく、パチュリーは美鈴を視界に捉える。
扉の前に立ったまま、完全にこちらを振り向いていた。目を細めて、しかし睨んでいる様子はなく訊き返してくる。
「気付く、って……なにに?」
「館内の雰囲気が、以前とは比べ物にならないくらい明るくなっていることに。住人の大半を占める使用人たちの所作に活気が湧いているのだから、当然よね。ああ、勘違いしないでもらいたいのだけれど、閑職に追いやられた貴女に清々している、ということでは決してないのよ? 逆に、貴女という確固不動な存在を失ったことで、自己研鑽に励む者もいるわ。それらの中心にいるのが、彼女」
「……咲夜」
ほとんど口元を動かさず、まるで銅像のように美鈴が答える。
彼女がその名を口にしたのを、初めて聞いたような気がした。頷きを返す。
「貴女にできることを、とりもなおさず咲夜ができるというわけではない――それがあの子たちの総意。だから咲夜に足りない部分はあの子たち自身が補う。先の職場改善に使用人の意識改革という宿謀があるのだとしたら、紅魔館ならではの成果と言わざるを得ないわ。常識的に、化物の群れに人間を放り込んだらどうなるか。どんなに良い結果を探っても、結局のところその方法が少し違うだけで、殺されることに変わりはない――だというのに、あの子たちときたら、今では率直に咲夜を愛でる者までいる始末よ……アレでアレな主人を持ったせいかしら? あの子たちも、かなり毒されていたようね」
「……今日は、すごく饒舌ね」
「そういう気分のときも、たまにはあるわ。でもそろそろ喉が限界」
パチュリーはカップを手に取り、口元へ運ぶ。が、どんなに傾けても紅茶は流れてこなかった。
「……」
空だったことがバレないようにカップを元の場所へ戻し、咳払いをしてから、独白を締めくくる。
「親バカも結構だけれど、もう少し咲夜と、他の子たちの内面にも目を向けたほうがいいんじゃないかしら」
「…………そうね」
入ってきたときのような軋んだ音は立てず、ひどく静かに扉が開き、閉まった。
扉の向こうへ消えたはずの彼女の背中がまだそこにあるかのように、パチュリーは扉を見つめる。
――パチェには傍観者でいてもらいたいのよ。
悪魔の囁きが、パチュリーの脳裏で非難がましく木霊していた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
この館の構造は、誰よりも熟知している。足を運んだことのない場所はないし、目的地までの最短経路はもちろん、遠回りした際の所要時間まで感覚で把握できる。
急がなければ間に合いそうになかったが、美鈴は少し遠回りをして玄関を目指していた。
図書館からしばらく進んだ先で足を止め、周囲を睥睨する。
そこは玄関から最も離れた区画であった。過去に幾度か壊滅的な損傷を受けており、その度に修復されてきたため、他の区画に比べて壁面の塗装に劣化が少ない。
そこは使用人たちが――レミリアも――立ち入りを避けている区画であった。その理由は、この区画に図書館とは別の地下室が用意されていたためである。
彼女が足を止めたのは、その地下室へと続く階段の前だった。だがその地下室に、ましてやそこへ閉じ込められた者に用があったわけではない。
美鈴は階段の側に飾ってあった、花の活けられていない白い陶器の花瓶を見やる。自分の影が映るほどに光沢を放つその花瓶には、埃一つ見受けられなかった。
花瓶を手に取り持ち上げてみる。それが立っていた木製の台にも、同様に拭き掃除が行き届いていた。
無言のまま、花瓶を元の位置に戻す。
この区画は、誰も近づかない場所だった。理由は単純で、使用人たちにとっての危険区域だったからだ。自らの生命を危機に晒してまで清掃作業をしに来る酔狂な者などいるはずもなく、そのため自然と美鈴の担当になっていた場所であった。
以前までは、そうだった。
美鈴は、今度は手近な窓枠へ歩み寄る。念入りに磨かれたガラスに目を凝らし、窓枠の四隅を指で撫で、開閉してみる――ここにも埃一つ見つけられなかった。
「……あの娘の仕業じゃない」
この場所を後任の咲夜が引き継いだということでないのは、仕上がりから一目瞭然だった。咲夜に掃除を教えはしたが、まだここまで丁寧な仕事はできない。
パチュリーの言った通りだった。おそらく、咲夜をここへ近づけまいとする意志が働いているのだろう。
以前と今とでは、違う。
遠回りの目的は果たした。美鈴は急ぐこともなく、ゆっくりと歩を進めた。
――嫌われてるだけじゃなく、怖がられてる……?
門番となってから館内で出会った使用人たちの反応を思い返して、そんな懸念が生じていた。
目が合うやびくりと背筋を震わせ道を譲りながら、お疲れ様です、と声を張り上げる彼女たち。異動して日が浅いとはいえ、あれが格下の門番に対する態度といえるのか。
以前はメイド長として、彼女らに対し厳格に接してきた。それで嫌われるなら分かる。が、彼女たちに恐怖まで植え付けた覚えは……
――もしかして……。
思い当たる節があり、過去の自分を客観的に捉えてみる。
侵入した賊のほぼ全てを、素手の一撃で葬る自分。
レミリアの妹であるフランドール――あの狂気の吸血鬼が起こす癇癪を、素手で制する自分。
メイド長として、己の役割としてそれを躊躇なく実行してきたが、そんな自分を目の当たりにしてきた彼女らはどう捉えていただろう。何か粗相でもして目を付けられた際の自身の未来を、あの斃れた侵入者の姿に重ねていたのではないか。
――人間じゃない彼女たちからも、わたしは化物に見えてる?
先日、自室のクローゼットを漁っている際に邂逅した彼女の挙動はどうだ。自分という化物と遭遇して、まさに恐怖していたのではないか。
――わたしじゃ、ダメだった……? わたしは、あの子たちを怖がらせてただけ……?
先刻立ち寄った、あの場所の仕上がりからも分かる。
――わたしは……要らなかった? あの子たちに必要だったのは……。
どれだけぐずぐずと時間を稼いだところで、早晩辿り着いてしまうもので。
気付くと、そこは自分の職場だった。
心情とは裏腹に安穏な日差しが、不躾に彼女を照らしている。
吸血鬼でなくとも、たまには気まぐれで灰にしてくれたりはしないだろうか。そんな願望混じりの冗談を思い浮かべていると、
「門番は」
低い位置から声をかけられ、美鈴は思考を中断させられた。
見下ろすと、咲夜が立っていた。
清潔感のある子供用のメイド服に身を包み、健康的な艶を見せる銀髪に、光沢すら放ちそうな張りのある肌。その小さな顔に拙い三つ編みのようなものを提げて、愛想も無い双眸でこちらを見上げている。
懐かしささえ覚える、挨拶代わりのような彼女の諫言。反射的に間を空けまいとし、美鈴は謝罪していた。
「ごめん、遅刻した」
唐突に、頭に重みを感じた。すぐにいつもの奇術だと推察する。
最初はいたずらのような意味合いだったが、今では違っていた。食べ物を無闇に地面へ置かないよう教えてからは、そこが盆の現れる定位置となっていたためだ。
美鈴は片手を自分の頭へ、もう片方を咲夜の小さな頭へ置く。
「ごめん……今日は何も思いつかなかったから、また明日にしよう。考えておくから」
「…………」
咲夜はしばし考えるようにしてから、うん、と頷くと、門の方へ歩いていく。その後ろ姿を、美鈴はただぼんやりと見送った。
彼女の小さな手から覗いていた緑色のリボンに気付いたときには、彼女の姿は門の向こうへ消えてしまっていた。
哀調を帯びた金属の擦れる音が響き、巨大な門が閉ざされる。
そこでようやく、頭に盆を乗せたままであると思い出し、下ろす。
咲夜が持ってくる食事には法則のようなものができていた。握り飯を始めとした料理の場合は、それがそのまま美鈴の食事に。未調理の食材が乗っていた場合は、今日はこれを使った料理を教えろという暗喩であると、美鈴は解釈していた。
今日は、練習の成果が如実に現れている握り飯が置かれていた。
それを見て、安堵の吐息を漏らしている自分がいた。
なにに安堵したのか。
咲夜が素直に去ってくれたことにか。盆に乗っているのが食材ではなかったことにか。それとも、それら全てにか。
――貴女は何も気付かない?
パチュリーの問いかけが脳裏を過ぎる。
何にも気付けるはずがない。何も見えなかったことにしていたのだから。心の平衡を保つため、口当たりのよい現実しか認めていなかったのだから。
今ここに至ってさえ、咲夜に嫌われていないと己に言い聞かせて安心しようとしている自分がいる。
本当に、なんて弱い化物だ。
周囲から受けている評価に気付いて、子供に嫉妬して、それを認めたくなくて、咲夜を避けて、それでも嫌わないでほしいと願っている――あんな子供に、縋っている。
本当に、心底駄目な化物だ。
何千年生きてきたのか、自分でも分からない。気の遠くなるような年月、もはや記憶はおぼろげだが、そのほとんどを鍛錬に費やしてきたように思う。
確かに強さは手に入れた。身内にすら恐怖を与えるほどの。だが、そんなものは当然の帰結だった。なぜなら、馬鹿みたくそれしかやってこなかったのだから。
と――
お腹が鳴き声をあげた。
苦悩に没頭していても、お腹は空くらしい。脳みその普段使わない領域を使っていたためか、一段と強い空腹感に襲われる。
「……いただきます」
握り飯が餉になってしまう前に食べようと、口を開けた瞬間だった。
一瞬、空が陰ったようにすら感じる。大気が震撼し、木々が狂乱しざわめく。
林の中にいた鳥たちが、我先にと一斉に飛び立つ。おそらく一羽残らずこの島から――あの悪魔の凶行から避難するために。
渦巻く狂気と破壊の衝動が、膨れ上がっていた。睡眠中の使用人たちでも悉く飛び起きるであろう、どす黒く洗練された圧迫感。
それは、この紅魔館が当初より抱える厄災であり、まさに何の前触れもなく発生する自然災害だった。
考え事や食事どころではなくなって、美鈴は盆を置く。
発生源は、やはりあの場所だった。ここから一番遠い館内の、あの地下室。
不幸にも居合わせた使用人がいないか気配を探る。と、付近に誰かの気配を見つけた。が、これは使用人のものではない。
――嘘でしょっ……!
何かの間違いであってほしいと、もはや自分で感じたことですら受け付けられなくなって、心中で叫ぶ。
丹念に磨き上げた自身の感覚に疑問を投げる。しかし何度確認しても、返ってくる答えは変わらなかった。
狂気と脅威が湧き出す先――そこにいないはずの見知った気配を感じて、総毛立つ。
刹那、美鈴は地を蹴り、見上げるほどに聳える塀を跳び越えた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
箒の先に括りつけたチリトリをカタカタと言わせながら、咲夜は廊下を歩いていた。
手にしている箒もバケツも、他のメイドたちが咲夜用にと拵えてくれたものだ。バケツの縁に掛けられた真新しい雑巾までもが、彼女らの扱うものより一回り小さい仕様になっている。
この時間に一人で行動するのは、美鈴といっしょにいないのは久しぶりだった。
今日の美鈴は、なんだか様子が違っていた。いつもは黙っていても手を引いてくれるのに、今日の美鈴は目を合わせてもくれなかった。
足を踏み出すたびに、ひとりで作ってみた三つ編みが頬をくすぐる。今日は、緑色のリボンは付いていない。
「……」
三つ編みのようなものは作れても、まだリボンを結ぶことはできなかった。美鈴にやってもらわないと、まだできなかった。
三つ編みもリボンがないと落ち着かないらしく、いつもより頬をくすぐって不平を訴えてくる。
美鈴は、なんで今日はいっしょにいてくれなかったのだろうか。
いつも待ってくれていた美鈴が、なんで今日はいなかったのだろうか。
先に着いていた自分を見て、なんであんな迷惑そうな顔をしたのだろうか。
もしかして、美鈴にはもう、要らなくなってしまったのだろうか……
「っ……!」
ふるふると頭を振る。三つ編みが絡みつくように鼻を叩いた。
そんなことない。と自分に言い聞かせる。
頭を撫でてくれた。だからまだ大丈夫。と自分に言い聞かせる。
と、視界の隅に何かが映り、咲夜は足を止めた。
廊下の壁からせり出した柱の陰に目を凝らすと、角度によってはまったく見えないくらい細い糸で張られた蜘蛛の巣があった。
柱や調度品の陰には常に気を配るよう言われていた。美鈴に。
こいつらはどこでもすぐに巣を張ってしまう。巣の真ん中にいる茶色をした小さな蜘蛛を摘み上げてから、糸を取り除く。
朝蜘蛛は殺生したらダメ、と言われていた。これも美鈴に。
今はお昼過ぎなので問題ない気もしたが、なんとなく窓から逃がしてやろうとして――届かないので諦めて、その辺に解放する。
と、数歩先の床にまた蜘蛛を見つける。今逃がしたやつより少し大きめで、黒い体に白い線が一本入った蜘蛛だった。こいつは巣を張らないやつだ。
こいつらは害虫を食べてくれるから、あとなんかかわいいから殺生したらダメ。美鈴が言っていた。
咲夜が歩み寄ると、逃げるようにぴょんぴょん跳ねていく。
「……」
別に追い立てるつもりはないのだが、進む方向が同じなので、その姿を眺めながら後に付いていく。
カタカタというチリトリの鳴き声に合わせるように跳ねるそいつの動きは、見ていて飽きなかった。
どれくらい歩いただろうか。そいつが急に向きを変えたため、咲夜は足を止めた。
気付くと、初めて来る場所に立っていた。
ここの廊下はどこも同じように見えるが、窓から見える景色や、壁の色合いがいつもと異なっている。なにより、廊下の空気が違っていた。重いような軽いような、寒いような暑いような。
咲夜は窓の外の景色を再度観察した。
外壁の走り方や中庭に植えられた樹木の配置から、そこが、メイドたちから近づかないよう釘をさされていた場所なのだと気付く。
「……」
それよりもさっきのあいつはどこに行っただろうか。
美鈴が言っていたように、あいつの跳ねる姿はなんかかわいい――かわいいという言葉がよく分からないが、見ていて飽きないというような意味なのだろう。
周囲の壁や天井に目を凝らして探す。窓ガラスにとまっているところを見つけた。
外に出たいのだろうか。でも自分では窓を開けてやれない。
そんなことを考えていると、
「あれ?」
初めて聞く声が耳に入り、咲夜は声のした方を振り向いた。
廊下の途中に突然現れるかのように作られた階段――そこから顔を出すように、一人の少女らしきものが立っていた。
らしきもの、というのはそれが自分と同じものには決して見えなかったためだ。
背丈は自分と同じくらい。金色の髪に変な帽子を乗せて、背中から生えた枝のようなものにいろんな色の石をぶら下げ、真っ赤な瞳に不服の色を浮かべている。
「なんか久しぶりにめーりんの匂いがしたと思ったのに……あんた誰よ」
悪魔の言うめーりんとは美鈴のことだろうか。言われてみれば、なんとなく廊下に美鈴の匂いが残っている気がした。
「咲夜」
「こんなとこでなにしてんの」
顔つきや悪魔のような見た目がレミリアお嬢様に似ていたので、咲夜はそれ用の口調に切り替える。
「くもを見てます」
窓辺にいるあいつを指差して答えるが、その悪魔の視線は微妙にズレているようだった。
「雲?」
「くもです」
「……変なヤツね。じゃなくて、なんでここにこどもがいるの」
そう言う悪魔こそこどもにしか見えなかったが、咲夜は気にせず役職を名乗る。
「メイド長をしてます」
「メイド長? あんたが?」
悪魔は歩み寄ると、目を細めて顔を覗き込んできた。
「はい」
「……めーりんをどこにやった」
「門番をしてます」
実際に門番をしているところはほとんど見たことがなかったが、美鈴の役職を指して答えた。
「あんたがめーりんの代わりってこと?」
「はい」
「ふーん……じゃあ、あんたを壊せば帰ってくるかな」
「こわす……?」
意味が分からず、訊き返す。
悪魔は腰に手をやり、得意げな笑みを浮かべた。
「そうよ。あたしはなんでも壊せるの」
そう言うと、悪魔は手近に飾ってあった花瓶を見やった。
打つわけでも突くわけでもなく、空の花瓶に指先をそっと触れさせる。
「こんなふうにね」
瞬間、花瓶に無数の亀裂が走った。
が、異変はそれだけではなかった。次いで花瓶を乗せていた木製の台にも亀裂が入る。さらには周囲の床や壁などにも瞬く間に伝染していく――まるで破壊そのものが意思を持ったかのように、悪魔の指先を起点に自壊の衝動が連鎖する。
悪魔が静かに指を離すと、花瓶と台がその亀裂をなぞるようにして崩れ落ちた。まるで、いつ終わるのかも分からない苦痛から解放されて歓喜するかのように。
不思議なことに床や壁は、いつ崩壊してもおかしくないほど亀裂が入っているにもかかわらず、その兆候を見せない。
どうやって片付けようかとその様子を見つめている咲夜に、悪魔がケタケタと鳴き声をあげた。
「あたしはなんでも壊せるし、なんでも壊さないでいられるの。壊すのも自由、壊さないのも自由。壊すのに相手は選ばない。壊すのに場所も時間も関係ない。全部あたしの思ったとーりにできるの。でも、壊しすぎるとお姉さまやパチェに怒られちゃうし、めーりんに嫌われちゃうから、たまにしかやらないの。この世界にあるものぜんぶ、あたしがまだ壊してないから壊れてないだけ」
昂ぶる気分を抑えようともせず大仰に両腕を振る悪魔だったが、不意に先程までの表情に戻ると、咲夜の髪に――拙く不恰好な三つ編みに触れる。
「これ、めーりんとお揃いのつもり?」
言下、悪魔の身体が宙に浮く。どうやっても枝にしか見えない、背中から生えている翼を羽ばたかせて。
悪魔が、何かを担ぎ上げるように右手を振り上げると、まるで最初からそこにあったかのように、その手の中に黒い棒のようなものが現れた。
ゆらゆらと禍々しい陽炎が立ち上るその棒を振りかぶると、悪魔は咲夜を見下ろして、冷たく静かに言い放つ。
「ぶっ壊してあげる」
おそらく少なくとも悪魔的な破壊力を有するのだろうその棒が振り下ろされるのを、咲夜は他人事のように見上げていた。ただ、リボンを付けていなかったのは幸いだったと、それだけを考えていた。
次の瞬間には来るだろうと思っていた破壊は、訪れなかった。
「くっ!」
眼前に、今日はもう会えないと思っていた背中があった。
燃え上がるように鮮やかで、手入れの行き届いた赤い髪。いつも見上げていた、緑色の装束を纏った、いい匂いのする後姿。
「あ! めーりんだぁ!」
美鈴だった。
先ほどまでとは打って変わって嬉々とした表情を浮かべる悪魔に構わず、美鈴は左腕で棒を受けたまま、空いた右手を悪魔の胴体に密着させていた。音も気配もなく、いつからそうしていたのかも分からない。
刹那――
けたたましい衝突音が響いた。
咲夜の立っている床が、屋敷全体が震えたかと思うと、悪魔の体が廊下の先にある壁に激突していた。それほどの衝撃が伝わっても、亀裂の入っていた廊下は崩れないままだった。
悪魔が壁に沈み、その周囲の石壁が音を立てて崩れ落ちる。
何が起こったのか分からなかったが、音と震動の正体はすぐに知れた。美鈴の左足が、足首辺りまで石の床にめり込んでいる。
「今のうちに下がりなさい!」
振り向かず、美鈴が叫ぶ。
下ろした彼女の左腕からは、肉の焦げる異臭が漂っていた。
咲夜がきょとんとしていると、美鈴は振り返って苛立った声を上げた。
「あんたには無理だから――邪魔だから離れてろって言ってんの!」
「え……」
今、美鈴はなんと言った?
邪魔?
あたしは必要ない?
「ぷはー! さっすがめーりん!」
瓦礫を押しのけて、元気な悪魔が嬉しそうに声を上げる。
美鈴はもうこちらを見ていない。見ないまま、硬直している咲夜の胸倉を掴むと、そのまま悪魔から遠ざけるように放り投げた。
一瞬の浮遊感。そこに美鈴の声だけが追いついてくる。
「そいつ連れて離れてて!」
「はいっ!」
自分を受け取ったメイドへ美鈴が命じ、メイドもまたそれが当然というように、咲夜を抱きかかえたまま迷うことなく踵を返した。
振り返ることなく駆けるメイドに担がれ、まるで糸の切れた人形のように脱力したまま、咲夜はぼそりと呟く。
「また、いわれた……」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
半分に欠けた月を、湖面がゆらゆらと浮かべていた。
肌を刺すように凍て返った夜気に包まれた鐘塔からそれを見下ろしながら、美鈴は表面の乾いてしまった握り飯をもそもそと啄ばむ。
フランドールの癇癪を鎮め、地下室で寝かしつけて門前に戻ったときには、もうすっかり日が落ちてしまっていた。
食事の場所としてここを選んだことに、さしたる理由があったわけではなかった。久方ぶりの戦闘――と呼べるほど大仰なものではないが――で火照った体を落ち着かせられるのなら、どこでもよかった。要するに、ただなんとなく、ここにいた。
咲夜を、手前勝手な都合で避けてしまった。守ることばかりに気を取られ、無配慮な言葉を投げてしまった。
咲夜に謝りたかった。でも、自分から会いに行くのが怖い。
咲夜を庇って傷めた左腕に目を落とす。もう痛みはなかった。今はまだ赤黒く爛れているが、明日の昼頃には痕すら残っていないだろう。
明日の昼、咲夜はまた会いにきてくれるだろうか。
このままここにい続けたら、また見つけ出してくれるだろうか。
それもまた手前勝手な、都合のよい願望だとは承知している。
けれど、臆病で、寂しがりな化物の自分には、そうするしかなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ひどく息苦しかった。
それは備品の収納された、黴臭く埃の積もった物置の隅で、シーツに包まっているせいではない。
これまでも、こういうことはたくさんあった。
ここに来てから、仕事中以外はここにいた。部屋は宛がわれていたが、その部屋には他の人――美鈴が住んでいたから、ここにいた。いつもここでひとり、薄いシーツに包まっていた。
わがままを言ってはいけない。
お喋りをしてはいけない。
役立たずと思われてはいけない。
感情を出してはいけない。
これまでのたくさんの失敗から知った。それが、生まれながらに課せられたルールだと。
自分が生きていくためのルールではなく、必要とされ続けるための、不必要と言われないためのルールだった。
破ったつもりはなかった。が、知らず知らずのうちに破っていたのだろうか。それとも、まだ何か足りないのだろうか。
いずれにせよ、もう手遅れだった。
「いらない……」
だって、美鈴に言われてしまったのだから。
まだかろうじて形を保っていた三つ編みを、右手で掻き毟るようにしてほどく。
「いらない……」
だって、美鈴は言ってしまったのだから。
左手にひやりとした感触が伝わる。一振りのナイフが、そこにあった。
「もう、いらない……」
最後のときには、いつもそこにあった。
美鈴なんて、もう、いらない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
煉瓦の床に寝そべって、ただ一方的に体温を搾取されるがまま、美鈴は頭上を見上げていた。
鐘塔なのに、頭上には何もない。床と同じ素材でできた屋根があるだけだ。
昔はきちんと鐘を吊るしていたのだが、うるさいからという理由でレミリアが取っ払ってしまった。
鐘のない鐘塔に、誰も来ない門を守る門番。似たもの同士なのかもしれないと思うと、妙な親近感が湧いた。
太陽のように熱を補ってくれるわけでもなく、ただそこに浮かんでいるだけの月に視線を移す。こいつも仲間に入れてやろうかと考えるが、少なくとも夜闇を薄闇に変える程度には働いている彼からしてみれば、いささか不名誉だろう。
心中で詫びつつ、ごろんと体を転がす。空になった盆が目に入った。
「また、食べたいな……」
名残惜しさをそのまま、口から吐く。
あれが最後の握り飯だったのかもしれないのだから、もっと味わって食べるべきだったと、今さらながら悔恨の念を抱いていると、
「……ん?」
身体へ伝わる微かな振動に、美鈴は身を起こした。
気配で分かる。あの娘が階段を登ってきている。
自分のことを見つけ出して、遅い夕食を持ってきてくれたのか。と淡い期待を持つも、階段から姿を見せた少女の様相が、それを儚く砕いた。
腕をだらんと垂らし、ゆらゆらと左右に揺れるような足取りで階段を登りきると、咲夜はゆっくりとこちらを振り向いた。
服装こそ普段のメイド服であるが、ほどけてしまったのか片側だけになった三つ編みを夜風に揺らし、口を半開きにしたまま俯いている。
明らかにいつもの彼女ではなかったが、注視すべきは外見ではなかった。
これまで感情らしい感情を発したことのなかった彼女が、今はある種の感情をその小さな体から発露している。
それは、信じたくはなかったがそれは、美鈴に対する明確な意志――夜気を切り裂くかのようにして向けられた、殺意だった。
「…………え?」
まさかそんなものを向けられるなど夢にも思わず、たじろいだ美鈴の足が盆を蹴飛ばした。盆はそのまま塔の外へ投げ出される。
と、耳の中に雑音を生んでいた風が止み、かわりに何かが耳に入った。咲夜の声だったような気がして、彼女の口元に視線を向ける。
半開きだと思っていた口が何かをぼそぼそとこぼすように、小刻みに動いている。
それを聞き取るために退いた分だけ近づこうと、足を踏み出した瞬間だった。盆が地面に落下して砕け散る乾いた音と重なるように、咲夜は美鈴を見上げ、明瞭な声で告げた。
「めーりんなんて、いらない」
「なにを――」
問おうとして、相手の姿が消えていたことに気付く。咲夜が消えるのと同時に、目の前に何かが現れていた。
殺気の込められたそれは、眼前で徐々にその大きさを増していく。
質量が増大しているのではなく向かってきているのだと頭が判断するのに先んじて、身体が動く。
右手がそれを掴むと、頭上からまた別の何かが迫った。掴んだそれで、別のそれを受け止める。
「え――」
そこで初めて認識する。
右手で掴んでいるものが短剣――いや、ナイフか――で、それで受け止めたものは、咲夜が振り下ろしてきた別のナイフだった。
殺傷を目的とした攻撃を受けているのだと脳が認めるや、瞬時に頭の中がクリアになっていく。先刻までの余計なもの煩いが消え、戦闘状況を考察する思考に切り替わる。
条件反射で切り替わった頭で考える――咲夜の動きを、全く視認できなかった。
彼女はいったいいつ投げた? いつ移動した?
長身である自分の頭上から凶刃を振り下ろす跳躍力もだが、それよりもこちらの反射速度を凌駕する咲夜の動きに驚愕する。
「どうやって――」
また問おうとすると、咲夜を支えていたナイフから彼女の重みが消えている。
二度目ともなれば、途中の気配は追えないまでも、斬撃の瞬間は感知できた。
左下段から迫る咲夜のナイフを半身を捩って避けつつ、不可解な点に気付く。
移動手段は検討もつかないが直接的な動作に関しては、一切の躊躇なく斬りかかってくる点を除いて、子供のそれだった。腰が入っていないため動きに切れはなく、これではナイフ自体の凶器としての威勢しか与えられない。
持っていたナイフを捨て、咲夜の背後に回りながら考える。
――わたしの知らない特殊な歩法を体得している? それともこの娘の能力?
前者は、咲夜の年齢や運動能力を考えれば、まあないだろう。では後者だろうか。
幻想郷において、固有の能力の所持は妖怪を始めとした化物に限ったことではない。人間の中にも、幻想郷の調停者である博麗の巫女を筆頭に、極々少数ではあるがそれを有している者はいた。
仮に咲夜の動きが能力によるものだったとして、攻撃動作の未熟さが不可解だった。まるでこれまでは初撃で目的を達成できていたというような、そんな甘さが垣間見える。
考えているうちに、咲夜の背後を取った。
こうなってしまえば、制する手段はいくらでもある。失神させてもいいし、一時的に四肢の自由を奪ってもいい。だが、
――本当にそれでいいの?
消えたはずの苦悩が、邪魔をする。
それで終わらせていいのか。本当にそれで終わりになるのか。
一瞬の逡巡により、本来あったはずの選択肢がゼロになった。
咲夜の姿が消える。右前方からの刺突。
三度目ともなると、もう身体の方が黙っていなかった。
ナイフを持つ咲夜の腕を、右手が弧を描くように弾く。時を同じくして左拳が咲夜の胸部に触れ、右足が床を踏み込む準備をしている。
それらの動作は全て反射だった。昼間にフランドールへ放ったものと同じ、受けと同時の、肉薄状態からの心臓打ち――悠久の時をかけてそれを刻み込まれた五体が、咲夜という未知の脅威を前に美鈴の指示を経ず、とうとうその習性を、一打一殺の理念を実行しようとしていた。
――やめてっ!
自分の身体が行おうとしていることに気付き、咄嗟に叫ぶ。美鈴の意思と肉体の意志とが真正面から衝突し、結果、動きが止まる。
打撃が実行されなかったことに安堵している時間はなかった。止まっている間に、突き出したままの左腕が切り裂かれている。
腕を引き戻しつつ、左拳を労わる。
――無防備に出しっぱなしなんてどこのトーシロよ……でもよくやった。
そうこうしているうちに、後方から咲夜と斬撃の気配が迫る。
振り向かないまま、美鈴は軽く前方に跳躍して回避すると、そのまま床を蹴り続けた。
――仕方ないか。
最後にいっとう強く蹴り、虚空へ身を投げる。
月が照らす薄闇の中を、冷たい大気を押しのけながら重力に逆らうことなく突き進む。
とにかく、一旦距離を取るしかない。あの狭い場所であんなことをされ続ければ、いつ反射的に咲夜を傷つけてしまうか分からない。
地面はまだ遠い。もどかしい自由落下に加速をつける方法もなく、歯噛みする。
そんな中、あることに気付く。
「……え?」
咲夜の気配が、全く離れていないどころか距離を縮めてすらいる。
背後を振り返り、美鈴は目を見開いた。
「な――なにやってんの!」
闇の中を追いかけてきていた咲夜に、思わず叫ぶ。彼女は、既に肉薄するほど接近していた。
こんなことはあり得ない。いくら素早く動けようと空中では意味がないし、いくら自分よりも抵抗が少なかろうとこんな短時間で追いつけるはずがない。
動揺しつつも、逆手に握られた二本のナイフが首元へ到達する前に、彼女の細い両腕を掴む。受け止めることは造作もないが、だからといって子供が発揮していい膂力ではなかった。
咲夜の目元を隠していた前髪が、大気により捲くり上げられている。その目を間近で見て、悪寒が背筋を突き抜ける。
咲夜は自身の生死などまるで顧みていない。美鈴の髪が眼球をくすぐるも瞬きすらせず、猫科動物のごとく瞳孔を拡大したその瞳に、ただただ彼女への殺意のみを滾らせている。
自分の言動が彼女をここまで突き動かしているのか。それとも、何か別に動機があるのか。
気にはなるが、目下のところ着地をどうするかの方が大きな問題だった。
この程度の高さであればどんな体勢だろうと問題なく着地はできる。が、それは自分一人の話であって、その衝撃を無傷で耐えることなど咲夜には望めないだろう。
どうにか減速しなければ。
鐘塔の壁面に手が届くのならば減速どころか停止まで可能だったろうが、生憎と届きそうにない上、両手がふさがっている。
――足ならなんとか届くか。
迷うことなく壁面に蹴りを入れる。
正門側ではなく中庭へ向かって飛び降りたのが幸いした。体勢を整えながら、中庭に植えられた最寄の樹木へ飛び込む。
その後は簡単だった。陽の光を欲してあらゆる角度に伸びた枝先が咲夜を傷つけないよう庇いつつ中心部へ到達し、適当な枝を蹴るなり樹皮を削るなりして減速すればいい。
そのはずだったのだが、
「は?」
樹木が広げる枝先に触れた瞬間、目の前に幹が現れ、間の抜けた声を上げた。
混乱しつつも、咲夜を庇おうと咄嗟に身を捻る。肩から幹に衝突し体勢を崩したところへ、追い討ちをかけるかのように周囲の枝に叩きつけられた。
最後は地面に背中を強打され、肺から空気が搾り取られる。
咲夜を庇うのに精一杯で、そもそも両手がふさがった状態でろくな受身が取れるはずもない。どれだけ自分が頑丈にできているとはいえ、無抵抗で地面へ叩きつけられるのは少々こたえた。
――いったいなんだってのよ……。
頭上に伸びる樹木を睨む。
飛び込んだと思ったら眼前に樹幹だなど、まるで意味が分からない。枝先から幹までの過程はどこにいったのだ。都合よくその間だけ失神していたとでもいうつもりか。
乱れた呼吸を整え、ひとまず寝たまま損傷を確認する。さすがに鍛え上げた化物の肉体というだけあって、軽い打ち身と擦り傷が数箇所あるだけで、動くのに支障はなさそうだ。強いて言うなら咲夜に斬られた傷が一番の深手であった。
と、
――……あの娘は!?
咲夜が腕の中から消えていることに気付き、跳ね起きつつ周囲を検める。
少し離れたところに、咲夜を見つけた。
減速という当初の目的は達成していたようで、露出していた肌に多少の擦り傷は見られるものの、立ち上がろうとしている彼女に安堵する。
が、彼女が無事だったというだけで、状況に大した進展があったわけではない。
落下の最中に目の当たりにした咲夜の形相を思い浮かべる。どんなに楽観視しても、この程度のことで止まるとは到底思えない。
――何かが分かるまでの間、付き合うしかないか……。
美鈴は今宵初めて構えを取る。といっても仰々しいものではなく、ただ右足を半歩後方へ退き、右手を開かず握らずのまま腰に添えただけであったが。
彼女の予想を裏切ることなく、起き上がった咲夜の姿が消える。
また斬りかかってくるかと気配を探るが、咲夜は接近してはこなかった。それどころかさらに距離を開いた位置に現われていた。
そのかわり、空間に突然ナイフが現れる。
初撃と同様であったが、数が増えていた。複数のナイフが、投擲されたような軌道で迫ってくる。
美鈴は一歩分横に移動する。全てが自分に向かって来ているのなら、それを回避するのにそれ以上の動きは必要なかった。
通り過ぎていくナイフを横目に捉えつつ、考える。
――もう近づいてこない、ってこと?
接近戦では勝てないどころか返り討ちに遭うことを学んだのか。咲夜が再び姿を消すと、また別の空間にナイフが現れる。そちらも最小限の動作で躱す。
――いったい、あの体のどこに持ってるの。
疑問が湧く。が、しかし現実に飛来するナイフを否定したところでその実体が消えてくれるわけでもないため、何の意味もない疑問ではあった。
――それよりも、何をやっているのか、ね。
咲夜にナイフを投げたような素振りはないのに、投げられたとしか思えないそれらが突如眼前に現れる。
美鈴は知人の、八雲紫という大妖怪の能力を想起した。
彼女は、任意の空間や事象を捻じ曲げたり無闇に繋げたりする化物であった。が、それとは全く違う。運動している物体が空間から飛び出してきているのではないし、現れてから動き出すのでもない。運動したままの状態でなんら前兆もなく空間に現出するのだ。
――どんな手品よ……。
まるで奇術であるが、数も少なければ速度も大したことはない。これくらいならば問題にもならない。
咲夜が消えては現れるナイフを、美鈴は余裕を持って回避していく。
そんなことを何度か繰り返していると、
「おっと」
避けた先に、避けたものとは別組のナイフがあった。
単なる偶然かと思いつつそれも避けるが、
「また!」
さらに避けた先へ別のナイフが用意されていた。
二度も続いて偶然と言い張れるほど、甘い読みのできる状況ではない。
単調に投げているものとばかり思っていたが、どうやら違っていたようだ。美鈴が飛来物をどのタイミングでどの方向に避けるのか、それを読んでいないとできない芸当だ。
――わたしの動きを読むために、最初はわざと……?
鍛錬とは、反復練習である。ひとつの動作をひたすらに繰り返すことで徹底的に無駄を削り、最後に残ったものが技となる。そしてその技の連なりが、呼吸や足運びといった独特のリズムを生み出す。
疑念を抱きつつさらに避ける。が、やはりその先には新たなナイフがあった。
明らかに学習し、狙ってやっている。美鈴の動きを読み、さらにその先まで読み進めて。
戦闘とはいわばリズムの取り合いだ。咲夜は自分のリズムという動きの癖を少なからず見抜いたということか――あんな子供にそんなことができるのかと驚きつつ、同時にその学習の目的を考えて鬱屈とした気持ちになる。
――それほどに、か……。
なんにせよイタチごっこに付き合わされている気分であったが、その見込みは間違っていた。一度に出現するナイフが徐々に増えてきている。
増え続けるということは次第に広範囲を補うようになるということであり、それはすなわち回避運動にも限界が出てくるということだった。
それほど時間はかからず、とうとう回避が間に合わない瞬間が訪れる。
回避不能となった数本のナイフを、手で弾く。その間にも、出現するナイフは増える一方であった。
イタチごっこから、こっちが一歩遅れた分相手は進むという見たままのジリ貧状態へ移行する。
――……仕方ない。
一度こうなったら、もう全てを回避するのは不可能だった。美鈴は即座に認め、自身に、自身の五体に命令する。
――感じろ。大気の流れを、大地の震動を。
四方八方から脅威が殺到する。
目で見るばかりでは対処できない。全身で感じ、対応しなければ。己に言い聞かせる。
奇術のタネは分からないままだ。まったく唐突にここまでされている理由も皆目検討が付かない。
そんな状況だが、久しぶりに全開で身体を使ってやれそうなことだけは確かで、不測の事態の中、美鈴は小さく笑った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「よっ。陰気に自己嫌悪してた?」
図書館に入ってくるなり片手を上げつつ、レミリアが言ってきた。
テーブルにもたれるように抱えていた頭を上げると、パチュリーは八つ当たり気味に、というか八つ当たりで、どんとテーブルを叩く。
「……誰のせいだと?」
睨め上げるパチュリーの視線をまったく意に介さず、いつものようにレミリアは彼女の対面に腰掛ける。
「テーブルがかわいそうだよ」
言われ、愛用のテーブルに手を這わせて謝罪する。
「…………ごめんなさい。でも、貴女にだけは言われたくないわ」
覇気のないパチュリーの不平に、レミリアは慰撫するような表情を浮かべる。
「あのさ、パチェに傍観なんてできるわけないじゃん」
「……おい」
傍観者でいてほしいと言ってきた本人の、あまりにもあんまりな慰めの言葉に、パチュリーはたまらず犬歯を見せて唸った。
「美鈴に負けず劣らずの世話焼きなんだから」
「じゃあ何故あんなことを」
「それを破るくらいおせっかいな友達が、わたしみたいなのにはちょうどいいんだよ」
友人に真正面からそんなことを言われると、さすがのパチュリーも言葉を詰まらせる。レミリアも、それを分かっていて言ったのだろうが。
再度睨み、呻く。
「……この悪魔」
「そうだよ。吸血鬼だけど。それよか、気付いてるよね?」
彼女が示したのは、無論美鈴と咲夜のことだろう。
気付いていないわけがない。自分が張った結界の内部で、自分の家の敷地内で親しい間柄の二人が『ごっこ』ではない戦闘を行っているのだから。
「正直に言って、すぐにでも止めたいわ」
「二人きりにしてあげよう。わたしたちが止めたところで、何が解決するわけでもないしね」
言われるまでもなく、それは分かっていた。自分がこの状況の一因を作ってしまったということも。だからこんな夜中に一人、本を読むでもなく紅茶を飲むでもなく、図書館で頭を抱えていたのだ。
「無茶しないといいんだけれど……」
「咲夜のことが心配?」
「美鈴の方よ」
あの美鈴のことだ、いかなる状況に陥ったところで咲夜をどうこうするなどあり得ない。だからこそ、美鈴自身がどうなることか分からない。
「大丈夫なのよね?」
縋るような気持ちで訊ねるが、レミリアはあっけらかんと肩を竦めた。
「さあ?」
「さあって……貴女、結果まで視えているんじゃないの?」
「そんなつまらないことしないよ。それに視ようとしても上手くいかないし」
「……え?」
嘆息するレミリアに――運命を操る程度の能力を持つ吸血鬼に、パチュリーはぽかんと口を開いた。
運命を操る程度の能力。それは他者を含める全ての運命を支配するということだった。
認識し――
理解を経て――
支配に至る。
つまるところレミリアの真紅の双眸は、他者の過去を視、現在を視、未来を視通す。
そんな彼女が、あとを続ける。
「咲夜の能力に阻害されてるっぽいんだよね」
「貴女が、化物と評価していた?」
「能力に優劣は付けられないけど、相性ってのはあるさ。ま、咲夜があの奇術しか使わないんであれば、どうやっても美鈴が窮地に立つことはないから安心しなよ」
奇術というのは、先日咲夜が美鈴の食事を持ってきた際に見せたあれのことだろう。
一度見ただけではタネがさっぱり分からないのでもう一度見せてもらいたいと思っていたが、やはり固有の能力だったのか。どういった能力かまでは分からないが、確かにあの程度であればどれほど巧みに駆使したところで、相手が美鈴である以上どうなることもあるまい。
「ただひとつ気になるのは、咲夜は一度、わたしっていう妖怪とやりあってるってことなんだよね」
「と、いうと?」
「人間ばかりを相手にしてきた咲夜が、人間のようには殺しきれない化物がいる、ってことを知っちゃったってこと」
やれやれ、と再び嘆息するレミリアの言葉に聞き捨てならないものを見つけて、パチュリーは眉間に皺を寄せた。
「……まるで、咲夜がこれまで何度も人間を殺してきた、というような物言いね」
「その通りだよ」
「そんな……」
愕然として、パチュリーは背もたれに体重を預ける。あんな人間の子供が、それでは、自分たちのような化物と変わらないではないか。
「ま、わたしたちがそうだったように、防衛本能みたいなもんだった、と付け加えてあげなきゃだけどね」
「……殺されそうになって仕方なく、ってこと? あんな幼い子が、そう何度も?」
「そら違うよ。咲夜は自分の生死よりも、もっと別のことに執着してる。あの歳で、いやあの歳だからそうなっちゃったのか」
「それはどんな――」
反射的に問おうとしたパチュリーを、レミリアが手で制した。
「美鈴に任せよう。わたしたちがここであーだこーだ言ったところで、どうなるもんでもなし」
言いつつ、レミリアも椅子にもたれる。
もったいぶるように間を空けてから、彼女は続けた。
「ま、自分の生死に頓着しない咲夜が、あの能力をどこまで掘り下げてしまうかが気懸かりだけどね」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「つっ――!」
咲夜の淡々とした攻めに慣れてきたと感じていた矢先、受けを失敗した。
手を抜いていたわけではない。
同じタイミングで出現し、同じ速度で迫る大量のナイフ。その中に一本だけ、他とは全く異なるものが混じっていた。慣れたのではなく慣らされていたのだと気付いたときには、脇腹を切り裂かれていた。
美鈴はここでようやく、レミリアの言葉を思い出す。
あの時、咲夜を初めて連れてきたあの日、殺されかけたと言ったのだ。あの吸血鬼が。
今の今まで忘れていた。あいつは、そんな嘘や世辞をのたまうような奴じゃない。
――そりゃ殺されそうにもなるって。いったいどんな生活送ってきたらこんな攻め手を思いつくのよ。
通常の戦闘であれば、容易に想定して対処できていたはずだった。相手が人間でなければ、子供でなければ。
あどけない少女の外見に、舌足らずな少女の言動に手前勝手なイメージを抱いていた。この状況を作り出している時点で普通の子供でないのは明白なのに、いったいあの少女に何を期待していたのか。
――認識を改めないとね。
次々に飛来するナイフを捌きながら、美鈴は鉢巻を締め直す。
腹部への一撃を皮切りに、咲夜の攻めが一変していた。
速度が変わる。出現するタイミングが変わる。そもそも美鈴を狙ってこないものまである。まるで神経衰弱のように同じものを探すほうが困難になってくる。不規則が規則になっていた。
――でも、もう遅い。
やるのであれば、さっきこうしていなければならなかった。美鈴に自戒させるきっかけを、その暇を与えてはいけなかった。
もう被弾しない。一滴の血も流してやらない。
だが、最大の懸案事項は残ったままだった。今現在美鈴を足止めしている、この奇術のタネだ。
過去に戦ってきたどんな相手とも違う現象だった。しかし、であるにもかかわらず、美鈴は似たようなものを見たことがある気がしていた。それもごく最近に。
――既視感……じゃないな。
思い至る。これまで咲夜が美鈴へ届けた食事――納得いかなかったのはその殆どが食事でなく食料だったということではなく、その届け方だった。
当初はどんな手品を使ったのかと訝しんだが、毎日のように見せられ続けたことで疑問にすら思わなくなっていた。今にして思えば、これに通ずる現象ではないか。
美鈴は、自身の戦闘経験に、咲夜の情報を照会してみる。経験とは財産だ。財産は貯めるのではなく使うことに意義がある。
これと似たような状況はなかったか、似たような攻撃や能力を使用してくる相手はいなかったか。枚挙に暇がない経験の一つ一つを考察し、いくつか候補を挙げた。
――空間転移?
最初に考え至り、一番近そうなのはそれだった。
魔法だろうと固有の能力だろうと、空間転移とは任意の物体を別の空間座標にある物体と入れ換えるという行為ないしはその現象を指す。
落下時に叩きつけられた樹木も咲夜から仕掛けられたことであると仮定して、それとあの食事だけならばそれを解としてもよいが、今眼前に広がる光景とは矛盾する。咲夜の投げたナイフが転移してきているのであれば、なぜ投げるという動作が欠落しているのか。さらにナイフが現れた瞬間、咲夜の位置だけではなく体勢まで変わっている。
――じゃあ、擬似空間転移は?
次の候補は、空間転移とは作用自体が根源的に異なるものだった。
物体を強制的に加速させ、あたかも転移したかのような結果を残すのが擬似空間転移である。これであればどんなに鍛えた感覚をもってしても、その過程を捉えるのは不可能だ。
――いや、ぜんぜん違う。
移動方法だけならばそれで説明は付くが、しかし障害物は越えられないし、その移動距離にも限度があるはずだった。せいぜいが数メートル――それ以上は物体の方が耐えられない。さらに言及するなら、加速の最中に別の動作を入れるなどという行為は、どんな生物であろうと体現できるはずがない。
――二重身は?
気配と実体を分離するという能力だった。しかし実体の無い気配も、気配の無い実体も容易に看破できる。実際にそうだった。
――他には何かない?
自問と否定を繰り返していくが、似通った以上のものは出てこなかった。
考察は一旦諦め、せめて糸口だけでもと、美鈴はこれまでよりも深く、咲夜の動作という気配を探る。
結果に変わりはなかった。つまり、どんなに注意を払っても、彼女の動作は全く読み取れなかった。
新たな情報は得られなかったが、代わりに再確認はできた。咲夜の、投擲や移動という気配そのものが目の前の現実から、美鈴のいる世界から完全に消失している。
――転移や加速とは根本的に違うのは分かった、けど……まさか、そんなことが……。
自分で出した結論に戦慄する。だがもう、それ以外思いつかない。
食事を置いていった奇術。
自分の反射速度を凌駕する移動。
自由落下での猛追。
枝先から樹幹までの消失した道程。
そして、投擲された状態のまま空間に現出し続けるナイフ。
これら全てが、その結論一つで矛盾なく説明できてしまった。
「時間に、干渉するですって……?」
意図せず声が漏れる。
それはあまりにも強大で、危険で、支離滅裂な能力だ。
美鈴自身の能力もレミリアのそれも、物質や事象を操作するというだけであって、世界の基盤たる法則そのものに干渉できるわけではない。つまるところ世界という名の法則下でしか行使できない能力なのだ。
だが、咲夜のそれは全く逆のものである。
咲夜の能力は世界を捻じ曲げ、あるいは破壊し、時には作り変えてしてしまう。物質や事象への作用はあくまでその結果に過ぎない。
普遍で不可逆、一切の介入を否定する不可侵の『時』という法則――あるいは概念と呼ぶべきか――に干渉する力など、行使する上でいったいどれほどの反動が肉体に、そして精神に降りかかるのか。
先の八雲紫も、世界の枠組みから外れた破格の能力を有し常日頃から息をするかのように操ってみせるが、あれはいわば到達点だ。不滅の肉体と不動の精神、そして磐石の制御をもって初めて体現できる極致である。
対して咲夜はどうだ。どう見ても十に満たない人間の少女――完全な制御術など望むべくもない。いったいどういった精神状態であればここまで酷使できるのかという疑問もあるが、いずれにせよこのままでは肉体の方がもたないはずだ。
最初の攻撃から、いったいどれほどの時間が咲夜の視点で経過しているのか。
一度に出現するナイフの数は、段々と増えていた。それは、咲夜が一度に操作する時間がその分だけ長くなっていることを示唆している。
――これ以上続けさせるわけにはいかない、か。
すかし、弾き、逸らし、掴み、落とし――殺到するナイフを次々に処理していく。
奇術のタネも見えた。
もし咲夜が操作した時間の中で直接斬りかかってきていたら、抗う術はなかった。そうしないのは、今はまだそこまで長時間の制御ができないためか。つまり、接近して攻撃、そして反撃を受ける前に退避するまでの持続ができないということ。
現状咲夜にこれしかできないのであれば、もはや身に危険を感じることすら難しい。
こちらは化物だ、体力勝負の消耗戦なら苦もない。しかし、あの人間の娘はどうなるだろうか。
――まったく、こっちの気も知らんと……。
咲夜はずっと同じ間合い――美鈴がかろうじて攻勢に転じても余裕をもって体勢を立て直せる間合いを保ちながら、ただ粛々と攻撃を続ける。絶対にそれ以上接近してこないであろう咲夜に、美鈴は短く吐息を漏らすと、諦観してうめく。
「分かった……人間技じゃ無理だ」
鍛えた拳足や練り上げた技術だけでは、この距離は埋められない。
美鈴は決意した――己が能力の使用を。
咲夜にいつ限界が来てもおかしくない状況で、いつまでも出し渋っているわけにはいかない。まずは咲夜を止めることを優先する。このままでは、死ぬか廃人だ。
幻想郷において、自分の能力を使おうとしない生物はそう多くない。使わない理由は様々あるが、その中でも美鈴のそれはさらに珍しいかもしれない。
自身の能力を忌避しているわけではなく、ただ単純に使いたくないから使わない。それが、理由だった。
己の鍛えた肉体、備えた知識、蓄えた経験だけを武器に生きていく。そう、まるで人間のように。
人間になりたいわけではなく、ただ憧れていた。あの弱く、儚く、臆病で、けれど逞しい、その健気な生き様に。
美鈴は人間が好きだった。でもあそこに自分の居場所はなかったから、せめて人間の生き方を真似てきた。そのくらいなら、化物の自分にも許されていいじゃないかと思って。
能力を開放する――気を使う程度、ただそれだけの能力を。
久しく使っていなかったが、妙に馴染んだ。まるで長年連れ添った手足のように。
実を言えば、使ったことがないわけではない。遥か格上の敵と遭遇したときなど、何かに負けそうになると衝動的に使ってしまっていた。その度、本当に弱く駄目な化物だと、自戒と鍛錬を繰り返してきた。
――また使っちゃったな……。
とかく、使ってしまった気を使う程度の能力。他者からしてみれば、それでいったい何が出来るというのか疑問だろう。
敵の気配や殺気を感じ取る――そんなこと能力を使わなくてもできる。
打撃を対象の内部に浸透させる――そんなこと身一つでやってのける。
気を使う程度の能力とは、そんな不自由なものではない。
美鈴はここまで、気配で咲夜を捉え続けていた。違うのはここからだ。
捉えた気配に能力を紐付け、同調し、咲夜の内を巡る氣を操作する。
咲夜が何を見て、何を聞き、結果何をする決断に至るのか。そこへ美鈴にとって都合の良い方向性を与える。
運命を操る程度の能力というものがある。対象を認識し、理解を経て、支配するというものだ。穿った見方をするなら、それと似たようなものかもしれない。
先刻から変わらぬどころかさらに密度を増した、大気を飽和させるようなナイフの雨――それはそのまま、咲夜が操作した時間の長さを表している。
「うらあ!」
端から見れば無造作とも取れる動きで、美鈴は大地を踏みつけた。
美鈴が踏み抜いたのは地面ではなく、こちらも能力により一箇所に集中させた地の氣であり、必要範囲で都合よく生み出した大地の点穴だった。
氣の集中した部位に適切な角度で適切な外力を与えるとどうなるか。これを生物相手にやるとどうなるか。いかなる耐久力を有した相手でも、正確に決めればまず一撃必倒。
今宵の犠牲者は大地だった。亀裂が走り、次の瞬間には悲鳴のような轟音と共に爆ぜる。美鈴を取り囲むように、念入りに手を入れられた芝生を巻き添えに砕け吹き上がる土砂が、迫ってきていたナイフの大多数を阻害する。
舞い上がる土ぼこりの中からかろうじて難を逃れたナイフが突き進むも、もはや受ける必要すらない数だった。
美鈴は飛来してくる最中のナイフを一つ無造作に掴むや、あさっての方向へ投擲する。
さらに二本、三本と掴んでは何も無い空間へ向かって投げ続ける。
今この瞬間では確かに見当違いな行為かもしれない。では次の瞬間ではどうか。
――さて、どれで釣れるか。
一瞬後、一本目が木に突き刺さる音がする。
さらに一瞬後、二本目が虚空を切り裂いたまま音もなく闇に消える。
最後の瞬間――三本目が弾かれた音がする。
いくら能力によって咲夜の意思という氣に自分の氣を割り込ませたところで、最後に選択決定するのは咲夜自身の意思判断だ。結果としてどの地点に移動するかという未来は、美鈴には分からない。だが本来無限にあるその選択肢を限定させれば、こんな都合の良い未来を呼び寄せることも可能だった。
美鈴は踵を強く踏みしめると、三本目が迎撃された地点へ跳躍する。
時を操って移動した先によもやの奇襲があったのだ。瞬時に次の時間操作は行えまい。
美鈴にとって、この状況で時間、位置、距離さえ特定してしまえば、咲夜の能力発動までに捕らえてしまうことは容易いものだった。
突如眼前に湧いた美鈴の姿に、咲夜が血走った目を見開く。
美鈴はそんな彼女の腕と胸倉を掴み組み伏せるや、いつでも締め落とせる体勢に移行する。能力を使おうとする気配があれば、その直前に意識を飛ばせるように。
倒された咲夜は、意外なほど無抵抗だった。それもそのはずで、もはや満足な抵抗もできないほどに衰弱しきっていた。
衣服の濡れ具合は子供が発汗してよい量をとうに超えていることを主張し、脈の速さも同様に、呼吸も浅く不規則になっている。
いったい何が彼女をここまで駆り立てるのか。
選択を迫られる。
ひとまず咲夜の意識を奪いこの場を納めるか、この場で真意を確かめるか。
――そんなの、決まってる。
一時的に場を納めたところで、体力が回復すればまた同じことの繰り返しになるかもしれない。それに咲夜の能力は危険すぎる。そうなった際、今回のように取り返しがつくとは限らない。
選択肢は用意できても、もとより選べるほど余裕のある状況ではなかった。
確かめなければならない。もちろん美鈴を急襲した意図もだが、なによりここまでになる動機の方だ。
押さえつけた咲夜の次の行動を制するため、再度彼女の氣と同調する。
時間を操作しようとした瞬間制するのは簡単だ。だがそれはただの一時しのぎであり、根本的な解決にはならない。これ以上能力を使わない方向へ誘導し、咲夜から真意を聞き出さねば。
意を決し、先と同様の手順で能力を行使する。
瞬間、先刻には起こらなかったことが――咲夜の記憶が、脈絡もなしに美鈴へと流入してくる。
本当に気味が悪いねお前は――要らない。
こいつを切り刻んでみろ――やらなきゃ要らない。
あれを殺して来い――できなきゃ要らない。
吸血鬼を持って来い――できなきゃ要らない。
気持ち悪い――要らない。
気味が悪い――要らない。
ここにいるメイドたちを統率してみろ――できなきゃ要らない。
邪魔だから離れてろ――要らない。
これは誰の顔だ。これは誰の声だ。これは誰の感情だ。
処理しきれない膨大な情報が感覚を埋め尽くす。
一旦流れ出したら止まらない。知らない女の嫌悪、知らない男の憎悪が止め処なく雪崩れ込んでくる。無数に、認識できないほどに。
中には知った声もあった気がした。自分の顔もあったような気がした。
咲夜の記憶と感情が、美鈴のそれと同期する。
自我が混濁し、二人の境界が曖昧になっていく。
美鈴自身が咲夜となる。
さらに別のものが流れてくる。
バラバラになった人形。
どす黒く汚れた人形。
何かがこびりついた人形。
――いらないっていわれた。
どす赤黒い下地に描かれた、積み重なる人形。
――いらないっていった。
焼かれる人形。
溶かされる人形。
埋められる人形。
――そんなやつらいらない。
くりぬかれた人形。
抉り出された人形。
切り離された人形。
人形、人形、人形、人形……
これは本当に人形か。これは本当に絵画なのか。
人形がなぜ苦悶の声を上げる。人形になぜそんなものが入っている。
全身がじっとりと濡れる。身体の芯が冷たくなる。吐き気がこみ上げる。
そんな中で、美鈴は忘れていた記憶を呼び起こされていた。遥か昔、どこか別の場所で同じ状況に陥った経験を。
氣を同調するというのは一方的なものではなく、双方向だった。普段離れて使う分には制御も可能だが、相手に触れた状態での制御が美鈴にはできなかった。能力を制御できなければ、深く繋がりすぎて精神が同化を始め、互いの自我境界さえ曖昧になっていく。
経験して知っていたはずだ。
怖くて、離れて使うことが当たり前になっていたのだろう。人間に憧れたなどと安易な理由で包んでいたが、怖いから使うことに抵抗を覚えるようになったのだろう。
だが、その理由を忘れてしまっていた。いや、その経験を思い出すのが怖かったから、忘却に逃げていたのだ。使わない財産など、まるで無価値であるのに。
怖くて、忘れて、逃げた――克服しようとする意志が最初からなかったから、今でも制御ができないのだ。
咲夜のトラウマが、自身のトラウマと一緒になって美鈴を蝕む。
嫌だ。
こんなの知りたくない。
見たくない。
触れたくない。
気持ち悪い。
叫ばずにはいられなくなるが、すんでのところで美鈴は踏みとどまった。能力の制御ができていない今、こんなことを考えたら、それらがそのまま咲夜に流れてしまうかもしれない。
――それだけはダメ!
直感的に判断し思考を止めたところで、咲夜からの流入が止まることはない。
身体を離せればいいのだが、動かない。
能力を止められればいいのだが、制御できない。
咲夜の感情が、食い破るかのように体の外を内をと這いずり回る。
十にも満たない子供がこんなものを抱えたまま、いったいどうやって生きてこれたのか。こんな状態で、なぜ他人の食事など気にすることができたのか。なぜ三つ編み一つにあそこまで夢中になれたのか。なぜ、こんな臆病者を慕ってくれたのか。
止めていたはずの思考を再開していた自分に気付き、次いで感情の奔流が途切れていたことに――そこに自分しかいないことに気付く。
――……え?
腕の中に咲夜はいない。だが変化はそれだけではなかった。
位置が変わっている。
今の今までいたはずの位置では、いや、いたはずの時間ではなかった。
ここは先ほど美鈴が大地を蹴り抜いた位置であり、時間だった。だがこれから爆ぜるべき大地はすでに過去の――今の美鈴からすれば未来の――爆ぜた後の状態で、土ぼこりも治まっている。
おそらく、美鈴の時間だけを巻き戻したのだ。
これは駄目だ。
時間は常に未来へ向かって進行する。それを早めたり、多少停めるくらいならまだいいだろう。が、戻すのはいくらなんでもやりすぎだ。
そんな法則に唾棄するような行為、負荷がどれほどのものか――もう使わせるわけにはいかない状況だったのに。
大気を完全に飽和したナイフの向こうで倒れているはずの咲夜に、叫ぼうとする。
「もうやめ――」
倒れているはずの咲夜に視線が届かない――異変に気付いたときには、もう手遅れだった。
美鈴という複雑な一生物の時間を戻したのだ、単純な無機物の時間を戻せても不思議ではない。
もう新たに投擲する体力がないためか。これまで処理したはずのナイフが、再び宙に戻り、空間をびっしりと埋め尽くしていた。時間軸がデタラメになったのだろう、時間の重複により歪に融合したようなものがそこかしこに見られる。だが問題は、それらがなぜ宙に戻ったのか――目的は明白だった。
これが走馬灯と呼ばれるものなのか。時間がゆっくりと流れているように感じた。
逃げ場はない。能力を介在させる時間もない。
目まぐるしく巡る思考の、数千年の長きに渡って培ってきた肉体の、数多の戦闘で溜め込んだ経験の意見が一致する――もう間に合わない。
美鈴も、その通りだと素直に同意する。まったくもって役に立たない走馬灯だったが、得てしてそういうものなのかもしれない。希望を奪い、絶望を植えつけるには実に効果的だ。
その走馬灯の中で、最後に触れた咲夜の心の内に思いを馳せる。
これまで、あらゆる化物と戦かった。
妖怪とも。
魔法遣いとも。
悪魔とも。
鬼とも。
吸血鬼とも
これまで、あらゆる物事と戦った。
掃除とも。
料理とも。
お洒落とも。
部下とも。
友達とも。
家族とも。
これまで、出会った全てと真正面から向き合い、一度も屈さなかった。そのつもりだった。
――……これがわたしの終わりか。
でも、ずっと内に秘めていた自身の恐怖とは向き合ったことがなかった。
咲夜とだけは、本当の意味で向き合うことができていなかった。おそらく、絶対に敵わないと心のどこかで認めてしまっていたから。
それでこの有様だ。
――最後に悔いが残っちゃったな……。
戦う度胸がなかった。
制する気概がなかった。
向き合う覚悟がなかった。
――ああ、そうか。あんたは、わたしの恐怖そのものだったのか。
家族に教えてもらったはずなのに、理解できていなかった。
友達に警告されたはずなのに、省みることができなかった。
見たくないから見ない、気が付いても言わない、言われても聞かない――分かり易い破局を迎えたわけだ。
――さあ来い、わたしの終わり。
受け入れようとする。
が、一早く飛び込んできたナイフが、美鈴へ到達する前に弾かれた。
驚きつつ見やる。弾いたのは彼女の右手だった。
彼女の心は諦めていたが、身体は屈しなかったのだ。屈することを知らないのだ、この身体は。
切り付けられながらも受け続ける左手。
切り裂かれながらも耐える右手。
突き刺されながらも踏み出す右足。
突き破られながらも彼女を運ぶ左足。
もう無理なのに、時間稼ぎにもならないのに、健気に己を守ろうとするこいつらを思い切り抱きしめてやりたい。
奇妙な話だが、己の手足にこれまでにない一体感を感じ、美鈴の心は多幸感で溢れた。
しかし、やはりというか、そんな感動は一瞬よりも短い時間で幕を閉じた。
最初の違和感は視界だった。
眼窩を抉られたのだろう。それでも意識が残っていることを不思議に思う。もっと上手く深く刺してくれたら、羞恥する時間も奪ってくれたらよかったのに。
次の違和感は血流だった。
心臓を穿たれたのだろう。自分が化物でなかったら即死できたものを。どうやら後悔する猶予はあるらしい。そんな時間、もう意味がないのに。
最後の違和感。かろうじて残った半開きの瞳に、同じように欠けた月が映る。
幻ではない。なんとなく、それが現実の月であると確信する。
――斃れるなら、前のめりって決めてたのにな。
およそ最期なんてこんなものなのかもしれないが、ひどく歯がゆかった。
最後まで格好がつかない。
――……ああ、そうだったのか。
自分はどうやら、格好つけたかったらしい。格好つけていたつもりらしい。
何にか、誰にか――決まっている。
――ばかだなぁ……。
もはや微動だにできない、この世のなにものにも影響を及ぼせない、そんな霞のような透明な存在となりかけている自分から、月すら奪う者がいた。
咲夜。
その小さな手には、三つ編み一つ満足に結えない不器用な手には、およそ似つかわしくない刃物が握られていた。
もっと教えたいことがあった。
もっと伝えたいことがあった。
もっと、ずっと一緒にいたかった。
「こんなおねえちゃんで、ごめんね」
最期にそれだけ、掠れた肉声として搾り出せた。
まあ、途中いろいろあったが。
それでどうにか満足できた気がして。
首筋に触れた金属のひやりとした感触を余韻に。
美鈴は、そっと意識を閉じた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
深く息ができないため、自然と浅い呼吸を繰り返す。
身体に力が入らない。それでも前へと踏み出す。
捨てられる前に捨てる。
必要としてくれない者は不必要と断ずる。
これまで幾度も繰り返してきたことだ。
幽鬼のようにふらつきながら、足下に散らばったナイフの一つを掴むと、文字通り針のむしろとなり動かなくなった女の首筋にあてがう。
力任せに、ギコギコと、胴体から切り離す。いつも通りの手順だ。
ナイフを持った左手、それに右手を添える。
わたしが捨てるんだ。いつも通りだ。
自分に言い聞かせる。自分で受け入れる。
なのに――
「……なんで」
それは、切っ先を震わすばかりで一向に進もうとしないナイフに対してか。
「……すてないで」
それとも、瞳の光を失ったその女に対してか。
「いらないって、いわないで……」
手が震え、肩も震え、瞬く間に全身へと伝播する。歯が噛み合わず、かたかたと情けない音が頭蓋に響く。そんな中、
「こんなおねえちゃんで、ごめんね」
微かに、だが確かに聞こえた。この女の、美鈴の声が。
今まで掛けられた中で、一番やさしい声音だった。
「――っ!」
なんで、今になってそんなことを言うのか。
なんで、今さらそんな声が聞こえるのか。
それ以上維持できず、からんと乾いた音を立て、ナイフが地に落ちた。
ナイフの代わりに、残っていた出来損ないの三つ編みに触れる。
まだ、美鈴のようにはできない。
「もっと、いろんなことおしえて……」
支えられず、膝が地に落ちる。
美鈴が教えてくれないと、覚えられない。
「もっと、いっしょにいて……」
持ち上げていられず、腕がだらんと垂れる。
美鈴がいないと、なにもできないままの自分だから。
「もっと、ずっと、もっと……」
夜空を仰ぐ。
美鈴を、捨てたくない。
美鈴にだけは――捨てられたくない。
「あたしには……めーりんが必要なんだから――!」
彼女が最後に見ていた、夜空に浮かぶ半分に欠けた月。
それが纏う帳に、咲夜の慟哭が染み渡った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そこにはなにもなかった。自も他もなく、どこまでもただただ普遍だった。
それになるため、溶けていく自分を感じていた。
もう間もなく、自分というものも無くなって、それの一部であり全てとなる。それが分かった。
遺してきたものを想う。遺せたものなどあったのか分からないが。
なにかを差し伸べられた気がした。なにかは分からないが、最後に縋ってみてもいいかもしれないと、そう思う。
手などはなかったが、縋るように、手を伸ばした。
痛みのようなものを感じた。
目を開いて、開き続けられずに閉じる。
差し込む光が眩しくて、痛みに耐えられなかったのだと気付き、再度目を開こうとする。なぜそうするのかは分からないが、そうしなければならない気がした。
眼球に熱がこもり、視界が滲んできて、目を閉じる。そんなことを何度か繰り返して、ようやく光量を調整できるようになってくる。
見慣れた天井が目に入った。寝て起きたらいつもそこにあった天井だ。そこは、元自室のベッドだった。
「よっ」
声を掛けられ、目を細めたまま眼球だけを動かして声の主を探す。憎たらしい相貌の吸血鬼が、いつものように片手を上げていた。
「おかえり。臨死体験って野郎はどんな面してた?」
「……」
言葉の意味は分かったが、どう応えたらいいのかが分からなかった。思考が止まっていたことに気付くと同時、徐々に脳が活動を再開し始める。
「おーい無視かー」
「……うっさい。死にかけてたのに、そんなすぐ反応できるわけないでしょ……ただいま」
「はいおかえり」
言いつつレミリアが姿を消して、いなくなったのかと瞳で追う。椅子に腰掛けた彼女を見つけて、安心した。
足を組みながら、レミリアが美鈴の身体を示す。
「筋も腱もズタボロ。内臓もほとんどイっちゃってるね、こりゃ」
「……」
「さすがに今回は駄目かと思ったよ。わたしとやったときより酷い有様だった」
「……」
感慨深げに頷き、レミリアは笑みを浮かべる。いつものからかうようなものではなく、優しい微笑みだった。
「手強かったでしょ」
「……そうね」
咲夜のことではない。何千年も避け続けた、自分自身のことだった。
相手が強かったのではなく、自分が見下げるほど弱かったのだ。涙すら浮かんでくるその事実に、自尊心は崩壊寸前だった。
隣にいるのが、格好つけなくてもいい相手だと気付いて、縋るように震える声を出す。
「負けちゃった……」
「次勝てばいいじゃん」
「……え?」
慰めるでもなく、きょとんとした様子で言ってくるレミリアに、美鈴はぼんやりと返した。
「そうしてきたでしょ、これまでも」
空を指して青と言うくらい当然のように、レミリアが言った。
そうだった。言われて、思い出す。
何事にも挑み、負けては挑み続け、最後には勝ってきた――そうして生きてきた。それが自分の自尊心だった。
「わたしは好きだよ、その人間みたいな諦めの悪さ」
彼女が投げかけてくる言葉に、溢れる涙を隠そうと目を閉じる。が、隠し切れない分が瞼の間から零れ落ちた。
冷たい指先が、頬を拭ってくれた。
「……レミリア、一つだけ訊いていい」
気持ちが落ち着いてから、美鈴は訊ねる。義務ではなく利己的な感情で、確かめておきたいことがあった。
「ん?」
「わたしが見たあの娘の記憶……あれは現実の出来事なの?」
「結論から言うと、違うわ」
レミリアの声音と、口調が変わる。そこには、紅魔館を統べる館主の顔があった。
「世界というのは、主観によってまったく別の景色――現実になるの。生き物は皆それぞれ独自のフィルタを持っていて、それを通して変換した世界を、ありのままの世界として認識できたと思い込んでいる。簡単に言うと、わたしが青と認識した空と、美鈴が青と認識した空はまったく同じ色ではないということ。つまり、美鈴が見た咲夜の記憶というのは、美鈴自身がそれを理解するために拵えた自分勝手な現実――イメージと言った方が分かるかしら――だから、それがそのまま、咲夜にとってのありのままの過去ではないの」
「…………難しいこと言うのね。まるでパチェみたい」
「パチェに同じ質問してみなよ。もっと混乱すると思うから。でもま、こればっかりは実際に視たもんでないと、感覚として理解できないだろうねぇ。もう一つだけ言えるのは、あんたでさえ手に負えないもんを、咲夜は今も昔も一人で背負い込んでるってことだよ。逃げることさえ知らない、あの幼さで」
ぱっといつもの態度に戻ると、これ以上は言及できないとでも言うように、レミリアは立ち上がった。そしてそのまま部屋を出ようとして、ふと、忘れ物でも思い出したように立ち止まる。
「聞こえてなかったろうけど、あんたが負けた後、咲夜は叫んでたよ」
「……なんて」
「あたしには美鈴が必要だ、って。もう館中に丸聞こえ。妬けるねぇ」
「……」
「ま、逃げてもいいってことは知らなくても、頼ってもいいってことはもう知ってるんだね」
「頼る……」
言葉の意味を確認するように、繰り返す。
あの娘は、こんな自分を頼ってくれているのか。
「あんたが教えたんだから、ちゃんと最後まで責任取りなよ」
そう残して、手をぱたぱたと振りながら、レミリアは部屋を後にした。
「……わたしが、教えた……?」
美鈴が一方的に教え、咲夜がスポンジのようにそれを吸収する。そんなこれまでの、咲夜とのやり取りを思い出す。
頼ってもいいと教えた覚えはない。が、教えることで頼ってもいい存在だと認識してくれたのか。自分を頼れる存在――おねえちゃんのような存在だと。
「会いたい……」
あんなにも会うのが怖かったのに、今は自分から会いに行きたい。こんなにも会いたいのに、身体はまったく動かせない。そんな自分の不甲斐なさを情けなく思っていると、
「入っていいかしら?」
瞳を動かし、扉の前に立ったパチュリーを見つける。もう入ってるじゃない、とは思ったが言わないでおいた。
地震が起きようと火事が起きようと館が半壊しようとひたすらに本のページをめくり続ける彼女が図書館の外に出てくるのは本当に稀有な事態のため、生き残った瞳を軽く見開く。
「まるで引きこもりが部屋から出てきたというような目で見ないでちょうだい」
不平を漏らしながら、先刻までレミリアが腰掛けていた椅子に、今度はパチュリーが腰を下ろした。
まさに引きこもりが部屋から出てきたことに驚いているのだが。やはり口にはせず、見つめる。
パチュリーも無言で、美鈴を見つめ返してきた。何か言いたげな、珍しく困惑と後悔のような色を散りばめる彼女の双眸。
見つめ合ってどのくらい過ぎたろうか、パチュリーがいっこうに口を開こうとしないため、根負けして美鈴から話しかける。
「わたしの着てた服、どうなったかな」
身体がこの状態なのだから衣服などさらに無残な姿になってしまっているだろうとは思うも、気にはなっていた。買ったはいいが着る機会もなく、でも捨てられなくて念入りに封をして、数百年の月日を経てようやく日の目を見た服だった。
「……汚れてもいいと言っていたわりに、気になるのね」
「実は、けっこうお気に入りだったの」
そうでしょうねと相槌を打ちつつ、パチュリーは備え付けのクローゼットを示す。
「ちゃんと元通り修復して、掛けてあるわ」
「ありがとう」
「礼なんていいわ」
「じゃなくて、こっち」
視線で、丁寧に治療を施された身体を示す。この館でここまでの処置が可能なのは、パチュリーだけだった。これがなければ、臨死体験では済まなかったろう。
「それこそ気にしなくていいわよ」
「ありがと……あと、ごめんね。パチェが言ってくれたこと、わたし、ちゃんと理解できて、いえ、理解しようとしていなかった」
「……先に言われちゃったわね。わたしの方こそ、ごめんなさい。もっと言い方はあったはずなのに、楽しそうな貴女達が羨ましくて、言葉を選ばなかった」
再び無言で見つめ合う。先刻のような息苦しさはなく、ずっとこうしていたいとすら思った。だが実際にずっとそうしているわけにもいかず、パチュリーが腰を上げる気配を感じて、名残惜しく呟く。
「行っちゃうの」
「ええ、後がつかえているしね」
パチュリーはとうとう立ち上がってしまった。
「さすがのあなたでもその傷を完全に癒すには時間が掛かるだろうから、ゆっくり養生なさいな」
最後にそう残し、パチュリーは振り返らずに退室していった。
と――
彼女と入れ替わるように、ドタバタと騒々しい気配が雪崩れ込んできた。
「ちょ――まさか全員?」
館の使用人たちだった。悪魔に妖怪、各々が特徴的な容姿をしているが、統一されたメイド服が彼女らの個性を押し殺している。ぱっと見で、全員揃っていることが窺えた。この部屋でなければ入りきれなかっただろう人数だ。
唐突な騒々しさに呆気に取られる美鈴を、使用人たちが容赦なくぐるりと包囲する。
「大丈夫ですか美鈴さん!」
「うわすごいあの美鈴さんが包帯だらけ!」
「裸に包帯とかエッロ!」
「文屋に写真売ったら儲かるんじゃね?」
「確かにこの状態ならナニしても無抵抗よねぇ」
「新メイド長やべーつえー!」
「咲夜ちゃんやるじゃん」
「ていうか誰か今変なこと言わなかった?」
まったく状況が把握できない。攻撃でもされれば自動的にクリアになってくれる頭も、この状況では何の役にも立たなかった。
見舞いなのか鑑賞なのか、頭やら背中やらから生えた羽やら翅やらをぱたぱたと振り回し好き勝手なことを口々に言う使用人たちに、口をあんぐりさせる。
「え、美鈴、さん……え、わたしの、こと?」
聞き取って認識できたのは、それ一つだけだった。
間違いなく自分の名前で、自分が呼ばれていたと認めるのにひどく手間取りはしたが。
「えっと、好きに呼べと言われたので、皆で考えて……他にも姉御とかセンパイとか、親バカとかロリコンとか候補があったんですけど、最終選考でそれに落ち着きました……あの、駄目、でしたか……?」
使用人の一人が、美鈴の呟きにおずおずと答えてくれた。この部屋で服を探しているときに会った、彼女だった。
頭の中で、彼女の言葉と使用人たちの言動を結びつける。途端に口角が緩み、湧き上がる笑いを堪えられなくなった。
「あっははっ」
笑うという動作は全身のいろんな箇所を稼動させる。包帯の巻かれた身体のあちこちから悲鳴が上がるが、自分の笑い声がそれを掻き消した。
「あはははっ」
なんだ、怖がられていないじゃないか。嫌われていないじゃないか。というか親バカは自覚があるからいいとしてもロリコンは心外だ。無難なところに落ち着いてくれて本当によかった。
「もうみんな静かにしなさいよー!」
一人が注意するのも空しく、彼女らの祭りは止まらない。
昔の自分ならとっくに黙らせている。そんな彼女たちの姦しさが今はなんだか無性に心地よくて、美鈴は自らその祭りに加わった。
悩んでいた自分は、本当にばかだなぁ。
「あー写真はちゃんと許可取ってからにしてくださーい!」
「順番順番っ!」
「最後尾ってここー?」
「そこっ! こっそりシーツを捲らない! やるなら全部引っ剥がして!」
「あははははっ」
そんな自分を、本当に、心の底から笑いとばしてやった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「あれはパチェの差し金?」
ドアの隙間から中の様子を覗いて、レミリアが訊いてきた。
差し金とは人聞きの悪い。ただ、これまでの鬱憤を晴らすなら今しかないと伝えただけだ。ついでにあの門番は恥ずかしがりの寂しがり屋で、あと意外に階級思考の豆腐メンタルで、なおかつ迫られると断れない受身体質だから多少の直接的な接触くらいなら泣き寝入りしてくれるということも。
「貴女の求めるものには必要かと思ったのだけれど、余計なお世話だったかしら?」
「美鈴を見てみなよ」
言われ、レミリアと一緒に中を覗き込む。
「いろいろとまさぐられているわね」
「違う、顔のほう」
「……緩みきっているわね」
「ありがとう、パチェ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「あー、なんか変な体力使った……」
騒々しく入ってきた使用人たちが祭りの喧騒をそのままに退室していき、美鈴はひとり嘆息する。
写真こそ撮られなかったものの、こちらが動けないのをいいことに、どさくさに紛れてシーツを取られるわおっぱいを揉まれるわ。途中まで凶行を止める役だった者も最後には一緒になって身体をまさぐってくるわ。
まあ、別に減るものでもないからいいんだけども。
「もげてしまえ……」
なんか急にパチュリーの声が聞こえた気がしたが、まあ気のせいだろう。
と、部屋の外に新たな気配を感じた。
誰かが戻ってきたのかとも思うが、そうではない。これは人間の気配だった。そして、この館で人間というと彼女しかいない。
言葉通りの意味で、誰かに背中を押されたのか、咲夜が躓きながら入ってくる。
咲夜の背中を押した手だろうか、外から生えてきた手が扉を掴み、静かに閉めていった。
先程の喧騒が幻だったかのように静まり返った部屋で、扉の前から動かない咲夜を眺める。
新しいメイド服。体のところどころに絆創膏や包帯が見えるのは、あの落下の際に負った傷を手当てしたものか。あれから湯浴みをしていないだろうことが窺える頭に、三つ編みは残っていなかった。あれだけ衰弱していた彼女の安否が気掛かりだったが、なんにせよ元気そうで安心した。
いつまでたっても動こうとしない咲夜に、戦闘時にずっと間合いを外していた彼女を重ねる。
「おいで」
優しく声を掛けてみる。そんな彼女に近づく手段は、今の美鈴にはこれしかなかった。
咲夜は俯いたままだが、素直にとことこと踏み出してくる。その姿を見て、最初からこうしていればよかったんじゃないのかと考える。
「座ったら?」
ベッド脇まで来て立ち止まった咲夜に椅子を勧めるが、それには従わなかった。咲夜は自分の行為を確かめるように、ベッドに横たわった美鈴の身体を見つめる。
「…………いたい?」
「全然? わたしは頑丈なだけが取り得だからね」
これは自業自得のようなものだし、悄然とした咲夜をこれ以上苦しませないよう、美鈴は空元気で笑ってみせる。が、当然といえば当然のことで、咲夜は肩を落としたままだった。
咲夜が美鈴の身体に触れる。包帯の感触を確かめるように撫でてから、呟く。
「……あたしは、もうなにもいらないから」
「……え?」
意味が分からず、反射的に訊き返す。
咲夜は確認するための独白のように続ける。
「あたしがぜんぶ、もとにもどすから」
いつもの、淡々とした口調ではなかった。後悔や恐怖といった感情が、声に表れていた。
「あたしのこと、なかったことにするから」
「……だめ!」
咲夜のやろうとしていることを理解し、叫ぶ。この娘は消すつもりだ。自分がここに存在したという事実そのものを。自分の能力にはそれができると分かってしまっている。
少し手を伸ばせば届くのに、身体が動かない。気の遠くなる年月を鍛錬に費やしてきたのに、これまで根を上げず付いてきたくせに、ここで動かないとはどういう了見だ。
自分が弱いのは自分でも分かっている。が、自分の身体は――
――わたしの身体はそんなに弱くない!
能力を発動しようとする決意が、気配で伝わってくる。微塵の躊躇もなく、本気で使う気配だ。自分と違って、どうしてこんなに潔く決断できるのだ、この娘は。
――殴ってでも止めろ! 頼むからっ!
美鈴の懇願に呼応するように、これまで数多の敵を打ち倒してきた左拳が動いた。
内外の傷口がぶちぶちと開き、肉体の形状を維持できないと、神経がその悲鳴を痛みに換えて突きつけてくる。そんなの知ったことか。
一度動いてしまいさえすれば間に合う――動いたならば倒せる。
左拳が、鍛え上げた拳が繰り返し覚えさせられた最短経路で咲夜へ到達する。横になった状態で、腰や足などといった他の部位の助力も得られない打撃に大した威力が出るはずもないが、中断させられればそれでいいと思っていた。
「…………?」
が、いつもの、敵を打ち倒す際の手応えは感じなかった。
気付くと、咲夜は倒れていた――美鈴の胸の中に。
美鈴自身、なぜこうなったのか理解できなかった。もとより咲夜を殴るなんてことはしたくなかったが、先は本当にそうするつもりでいた。だとしたら考えられるのは、美鈴の身体が、再び美鈴の意思に逆らったのか。
――さすが、わたしの身体。
本当に、為すべきときに為すべきことを、期待を上回ってやってくれる。安堵と共に、咲夜の頭をやさしく包む左拳を労う。
なにはともあれ、止まっていた。時間がではなく、咲夜の気配が。
深く息をつき呼吸を落ち着かせてから、胸の中で動かないままでいる咲夜に、美鈴は嗜めるように囁く。
「一つ約束して。今やろうとしたことは、金輪際やらないこと。試そうとするのもダメ。考えるのもダメ。何が起こっても、やっちゃダメ」
咲夜は動かない。再度能力を使う気配もない。さっきは本当にやる気だったろうが、本心は拒否していたのだろう。それが当たり前だ。
――まったく、子供にあんな酷いセリフ吐かせるなんて。
子供に言わせてよい言葉ではなかった。それを止められなかったことを心底悔やみつつ、美鈴はレミリアの言葉を思い出していた。本来なら知らないはずだった、大切な家族が伝えてくれたことを。
「あんたが……」
口を開こうとして、考え直す。
「咲夜がわたしを必要と言ってくれるなら、わたしは何があっても死なないよ」
ぴくりと、胸の中で咲夜が震えた。
「咲夜がわたしを必要と言ってくれるなら、わたしが咲夜を支えるよ」
咲夜を抱いていた手で、彼女の頭を撫でる。
「咲夜が必要と言ってくれるなら、わたしは咲夜のおねえちゃんになれる」
咲夜の震えが止まらなくなる。
美鈴は、これまで逃げ続けてきた自分と、そしてこんな自分を頼ってくれる咲夜に、遅すぎた覚悟を決める。
「咲夜が死ぬまで傍にいる。咲夜が嫌がっても、死んでもずっとい続けてやる」
胸元に、熱いものが沁み込んでくる。
咲夜につられ、こちらも涙が零れそうになる。
「だって、わたしにも咲夜が必要だから」
でも泣いちゃだめだ。だって、おねえちゃんは妹の前で格好つけなければならないものだから。
咲夜の嗚咽が収まるのを見計らって、彼女を抱いたまま、美鈴は改まって告げる。
「でも、ケジメはつけなきゃね」
「……?」
咲夜は起き上がり、泣き腫らした顔で首を傾げた。
なんだか久しぶりにこの愛らしい仕草を見れた気がして、美鈴はくすりと笑い、人差し指を立てる。
「わたし、言ったでしょ。言うこと聞かないなら、力でねじ伏せろって」
「……そんなこといってないと思う」
首を傾げたままさらに眉根を寄せて、咲夜は否定する。
「自分で考えなさいとはいったけど」
「そだっけ?」
うん、自分よりはもの覚えがいいらしい。
とにかく、と美鈴は立てた指先で、いつかのように咲夜の胸元をつついた。
「勝ったのは咲夜、負けたのはわたし」
確認させるようにゆっくりと言ってから、にんまりと笑い、続ける。
「今ならわたしは無抵抗だから、命令し放題だよ?」
「……」
困った表情を浮かべ、思案する咲夜。
なんだ、ぶっちょう面ではなく、こんな愛嬌のある顔もできるんじゃないか。
別に何か命令されたいわけではなかった。ただこんな顔も見たかったというだけだったので、咲夜には悪いが、美鈴は勝手に満足して目を閉じる。が、すぐに開くことになった。
「じゃあ」
何か思いついてしまったのか、咲夜が口を開いて、美鈴はぎょっと目を開く。
そこには、どこかぎこちなくも愛らしい、だけどちょっといじわるな、そんな笑顔を浮かべる年相応の少女がいた。
突然のことに狼狽する美鈴に構わず、咲夜は続ける。
「じゃあ、これからは――」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お、美味そうだな。一つくれよ」
頭上から声を掛けられ、握り飯に伸ばそうとしていた手を止める。
今日もいっとう高い場所で世界を照らす炎陽に目を細めながら見上げると、湖の上空に二人の少女が浮いていた。
一人は金髪に赤いカチューシャを着け、人形をお供にし、人形のように繊細な気品を持った少女――アリス・マーガトロイドだ。
もう一人は癖のある黄金色の髪に黒のとんがり帽子を乗せ、箒に跨った古風な魔女――霧雨魔理沙だった。声を掛けてきたのはこちらだろう。
「断固拒否です」
食事の邪魔をされて口を尖らせつつ、美鈴は答えた。魔理沙は彼女の渋面を意にも介さず近寄って、ものほしそうに握り飯を覗き込んだ。
「いいじゃんか。こんなでかいの、一人で六つも食べたら太るぜ」
「わたしは太らないようにできてるんですよ」
ぷいとそっぽを向いて盆を遠ざけてやると、魔理沙は諦めたように肩を竦めた。
「ったく、ケチな奴だぜ。パチュリーなんていつも無償で本をくれるってのに」
「それはあんたが勝手に持って行ってるだけ。いいかげん返しなさいよ」
アリスが嘆息しつつ魔理沙を嗜めた。
「違うってアリス。持って行ってるんじゃない、借りてるだけだぜ。死ぬまでな」
「無償で本をくれる、んじゃなかったの?」
「おおっと、わたしは新聞と宗教と揚げ足取りはお断りだ」
逃げるようにアリスから距離を取って、魔理沙は美鈴に手を振った。
「んじゃ、話も丸く収まったところで、わたしたちは行くとするぜ」
「収まったかしら……」
納得いかない様子のアリスを引き連れて館へと向かおうとする魔理沙の背中を、美鈴は呼び止める。
「あ、魔理沙さんちょっと」
「うん?」
「わたし、今日はグーを出したい気分なので、じゃんけんしませんか?」
鍛え上げた拳を軽く握って、振り返った魔理沙に向かって突き出す。察してくれるとありがたいのだが。
「……オーケー。そんならわたしはパーを出したい気分なんだな」
しばし思案した後、魔理沙は得心したように美鈴へと手の平を突き出す。思ったとおり聡い娘でよかった。
「ほいっと……あらら、勝負に負けたとなったら仕方ないですね。どうぞごゆっくり」
「勝負に勝ったのなら仕方ないな。中で茶でもしばいてくるぜ」
「え、っと……今の何の意味があったの?」
「あいつもいろいろ大変なんだよ、きっと」
そんなことを言いながら、二人は林の向こうへ飛んでいく。
あの二人も、足しげく通ってくれている。パチュリーもなんだかんだ言いつつ、二人が来るのを待っている節があった。
それはそれとして、ようやく握り飯へと向き直る。
「さて、ごはんごはん」
湖畔に腰掛け、握り飯を手に取ると、呟くように言う。
「いただきます」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「これでよかったのかねぇ」
いつもの図書館、いつものテーブル、いつもの椅子に腰掛けたレミリアが珍しく悩ましげに漏らした。
それを受け、すぐ隣の椅子に腰掛けたパチュリーは、両手で抱えた本から目を逸らさないまま訊ねる。
「貴女の希望通りの結果になったじゃない。何か不満でも?」
「運命を操れるってもさ、そんな万能なもんじゃないって再認識したよ」
あのレミリアが頬杖をついてまで悩んでいる。これは本当に珍しい。あまりお目にかからない態度であったため、さすがのパチュリーも読書を中断しレミリアに向き直る。
「というと?」
「めーりんが常時デレてるのはなんか気持ち悪い」
「それには同意」
気にして損をした。が、レミリアと完全に意見が一致することも滅多にないため、パチュリーは視線で続きを促す。
「あとそのほとんどが咲夜に向いてるってのが気に食わない」
要は嫉妬しているということか。美鈴を咲夜に取られて。それとも、とパチュリーは、過去の会話でレミリアがフランの友達云々とこぼしていたことを思い起こす。
「でも美鈴がフランと楽しげにお喋りする光景も想像できないけれど。そもそも貴女がフランとの溝を埋めたらいいのに」
「いやそれはめんどくさい」
「こっちの姉はほんとにアレね」
やたら酷いことをあっけらかんと即答する彼女に半眼を向ける。
「結局どうしたいのよ」
「わたしにももっとデレてほしい。というかわたしにデレてほしい」
「本音はそれか。よくないのは貴女自身じゃないの」
テーブルを小突いてまで率直に訴えてくるレミリアに、訴える相手が違うわよとはさすがに言えなかった。
「うん」
素直に認める彼女がなんだか哀れになって、パチュリーは読みかけだった行を探しながら、片手間に適当な言葉を探す。
「今日は一緒に寝ましょうか、レミィ」
が、慰めにもならない言葉しか出てこなかった。はたしてレミリアは満足できなかったようだ。
「そんな取ってつけたようなのは要らないんだよ」
「知ってる」
少々虐めが過ぎたか。ちくしょうと呻いてテーブルに突っ伏す彼女が、ますます哀れに思えた。
「よしよし」
打ちひしがれる、どこか抜けているカリスマ吸血鬼の頭を適当に撫でつつ、片手で支えた本のページを器用にめくる。
――そういえば。
ふと気になって、パチュリーは再び本を置いた。
「ところでレミィ」
「うん?」
突っ伏したまま、レミリアが聞き返す。
「結局、咲夜はあのとき、美鈴になんて命令したの?」
ちゃんと門番をやれ、という内容でないことは、蔵書の被害状況からも一目瞭然だった。門番が機能しないことで一番被害を被っているのは、疑いの余地もなく自分だ。コレクションというわけではないが、愛書が拐かされることを良しとしたわけでもない。
レミリアが起き上がる。その顔には先刻までの憐憫を抱かせる影はなく、超然とした悪魔の笑みが浮かんでいた。
「それはね――」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「見たわよ」
唐突に、すぐ後ろから声をかけられる。
「あらら」
さして驚きもせず座ったまま頭上を仰ぐと、今も昔もずっと見守ってきた少女の顔があった。ただ端正なだけだったその面影に、今では愛嬌や気品、そして美しさが備わっている。
「気配を消すの、上手くなりましたねぇ。咲夜さん」
おそらく能力を使ったのだろう。美鈴の指導のもと制御も上達し、今では通常の使用になんら支障はなくなっている。美鈴に師としての器量があったのか、それとも咲夜自身の才覚か。おそらくは後者だ。
美鈴の思惑を感じ取ったのか、得意げな顔をすることもなく咲夜は答える。
「おかげ様でね」
「いやいや面目ありません。今日も突破されちゃいましたよ」
突破されちゃったので、美鈴は明朗に悪びれることにした。
「もっと気の利いた茶番は用意できないの」
どうやら見られていたのは本当らしい。そしてどうやら、食事が終わるのをじっと待ってくれていたらしい。
「でも一見門番としての責務は果たしましたよ? 果たしたことになりませんかね? 対外的に果たしちゃってますよね」
「一見とか対外的にとか言っちゃってる時点で、というかそもそも通しちゃったら失格でしょ門番として」
咲夜は頭を抱えて嘆息すると、目を伏せつつ、もごもごと歯切れ悪く何かを促してくる。
「それより……」
その様子を見て、美鈴は肩を竦めた。
「はいはい、分かってるわよ」
それで満足したらしく、先刻の小言が再開する。
「まったく、アリスはともかく白黒の方は止めてって言ってるじゃない」
「パチェの友達を門前払いなんてしないわよ」
「そのパチュリー様から毎度恨み言を聞かされるこっちの身にもなってよ」
腰に手を当てて、咲夜が言う。本当に困っているようだ。こっちの方は、まだまだ未熟だった。しかしこういった機微は教えられるものではない、独力で気付くべきだ。
「あれはあれで楽しんでるんだから。そんなことより」
美鈴はすっと腰を上げると、咲夜の前に立った。
「ごちそうさま」
突然言われてきょとんとした後、咲夜は再び目を伏せた。
「……どうだった」
「昨日より美味しかった。こりゃ嫁に行く日も遠くないかもね。おねえちゃんとしては複雑だよ」
ぽん、と咲夜の頭に手をのせる。この手のおさまる位置がどんどん高くなることに、焦りにも似た感情が芽生える。
人間の成長は本当に早い。日に日に変わっていく咲夜を見失わぬよう、日々を大切に生きていかなければ。
彼女と出会って何年になるか。たった数年前を、遠い昔のことのように感じる。
頭にのせた手をぐしぐししてやると、丁寧に結わえられた三つ編みがくすぐったそうに、新緑の色をしたリボンを揺らす。あれほど難儀していたこれも、今では一人で結えるようになっていた。咲夜の髪をいじるのは好きだったのだが、最近はめっきりいじらせてくれなくなったことに、そこはかとないものわびしさを覚える。
「……」
しかし、これが成長するということなら、受け入れなくてはならない。そうすると決めた覚悟なのだから。
感慨深い面持ちで、自分の手にされるがままの咲夜を見つめる。気持ちよさそうに、恥ずかしそうに、幸せそうに目を閉じたその顔を。
昔から、美鈴以外には絶対に見せない表情だ。
――本当に、甘えんぼな妹だよね。
くすりとこぼすが、人のことは言えない。ここに鏡があれば、おそらく自分もこの娘と同じ顔になっているだろうから。
そう、変わることばかりではない、変わらないこともある。
どれだけ変わろうとこの娘は咲夜だ。
どれだけ変わらなかろうとこの娘は咲夜だ。
「豆粒みたいだったのに、大きくなったよね。そのうち身長、抜かされちゃうかな」
言いつつ、美鈴は視線を落とす。
今日の咲夜の幸せそうな顔は十分堪能したので、次はもっと別の表情が見たくなって、
「でも、こっちはちっとも大きくならないわね」
あくまでぼそりと独りごちるように、けれどぎりぎり耳に届くように。
刹那、咲夜の頭を撫でていた手が捕まった。咲夜の手に。
「あん?」
こうかはばつぐんだ。ナイフと同様いったいどこから出てくるのか、手を開くことも閉じることもできなくなる酷い握力だった。
なんとなくそんな気はしていたが、ここまで気にしていたとは。
とにもかくにも、これはまずい。整った眉の角度がぐんぐん危険域に突入していき、それに比例して手首がミシミシと悲鳴を上げ始める。
手首のため、というよりその先にある己の生命健康のため、美鈴はすっと咲夜に顔を近づけると、小さく耳打ちする。
「でも、わたしはどんな咲夜でも大好きだよ」
ぼん、という聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。茹でダコよろしくみるみるうちに耳まで紅葉するのと同時に、拘束が緩む。
「よっしゃ今だ!」
難を逃れた手首を引き連れて、すかさず転進する。
「え、ちょ、ま――めーりん!」
やや遅れて、背後で咲夜が駆け出した。
――あーやばい、沸騰しそう。
ここに鏡があれば、間違いなく二匹目の茹でダコが映ったことだろう。
変われない化物だと思っていたが、気付けば自分もかなり変わってしまっていたらしい。
だけどそれはそれ。格好いいおねえちゃんのこんな顔、咲夜に見せるわけにはいかない。
そんなことを考えつつ、今日も美鈴は湖畔を疾走する。
火照った顔に、湖の清涼な空気が心地よかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今日も今日とて、
「今日という今日は許さないんだから! てゆーかいい加減ちゃんと仕事しろぉ!」
「えー、そこに話戻るんですかー?」
どこからともなくドタバタと駆けずり回る騒音と振動が、淹れたばかりのパチュリーの紅茶に埃という名のスパイスを与える。
「やかましい! あんた当分ご飯抜きだからねっ!」
それを追うようにメイド長の端正な罵声が木霊し、
「ひぃ! やりますからご飯抜きだけはぁっ!」
門番の切実な命乞いが情けなく響く。
「やれやれ、今日もお盛んね」
「ちくしょう」
呻き、レミリアが再びテーブルに沈む。
これが、館の主人が目指したところの、アットホームな悪魔の館における日常である。
金と紅とで彩色されたサルバー――その上に乗せられた六つの握り飯とそれに添えられた沢庵を見つめ、彼女は独りごちる。
そのひどく不釣合いな組み合わせも、気付けば今日でもう八日目であった。
「確かに好きって言ったけど……まあ、美味しいから、いっか」
自分の好物を一生懸命握る少女の姿が浮かび、彼女はかぶりを振って足を踏み出した。
蝉時雨も久しい林の中を、黙々と歩く。
長く、燃えるようにたなびく赤い髪。細身だが、生半可なことでは突き崩せそうにない物腰。最盛の青楓に気後れするような新緑の色合いを基調としたチーパオから、ちらちらと覗く生足を外気に晒している。
前の冬に積もった落ち葉の上を、次の冬には落ちてしまうだろう青々と茂った木々の葉から零れ落ちてくる陽光を浴びながら歩みを進める彼女の横を、盆に乗せられた湯飲みから揺蕩う湯気が通り過ぎては消えてゆく。
林の中に通った一本の道。
それは、幾年も繰り返し往復してきた、彼女の一歩一歩が作り上げたものだった。
「そういえば、最初は道なんてなかったな」
ここを歩くのが日課となって、もう何年だろう。そんな、たかだか数年間を感慨深げに想起する自分に気付き、
「……でも、そんなにおかしなことではない、か」
すぐさま肯定する。
他の生物と比べ遥かに長い寿命を持つ妖怪が体感する時間の流れは、人間のそれとは比較にならないほどのろいと聞く。
妖怪――人間ではないという意味だが――の端くれである彼女が今日までのたった数年に感じ入ることは、普通の妖怪からしてみればおかしなことなのかもしれない。
この数年――
この道が、この道となるまでの数年。
最初は手に取るだけで崩れてしまっていた握り飯が、この握り飯となるまでの数年。
この数年、一人の少女をずっと見守ってきた。
その人間の少女に捧げたと言っても過言ではない、そんな数年だったからだろう。日に日に成長するその少女に接した時間は、彼女の長い一生におけるほんの一部かもしれないが、彼女の中で最も濃厚な時間であった。
だから、たった数年ではあるけれど、それを身に染みて感じることは別段おかしなことではないのだ。
盆に乗った握り飯に一人の少女の成長を見ていた自分に気付いた頃には、林を抜け、広大な湖の前に立っていた。
軽く伸びをして、遥か頭上で湖よりも広がる蒼昊に向けて、呟く。
「今日はどんな一日になるのかな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「と、いうわけで――」
蝙蝠の羽をそのままでかくしたようなものをその小さな背に携えた女が、改まるように言う。
「今日からこの娘がメイド長やるから」
「……は?」
間の抜けた声を上げる彼女に対し、女が再び告げる。
「だからぁ、美鈴。今日からこの娘をメイド長にするって言ってるの」
彼女――紅美鈴は自分の開いた口を閉じるのに精一杯で、とてもではないがその女の隣に立った人間の子供を視界に納める余裕はなかった。
「見えてんじゃん」
「地の文に突っ込むのはよして、レミリア」
美鈴は嘆息してから、もう一度件の、レミリアが言うところの新メイド長とやらを見やる。
年は若い、というより幼い。水分を欲している痛んだ銀髪。勿忘草を連想させる色彩の双眸。齢に不釣合いの端整な――例えるなら短刀のように端正な、しかし相応に稚さを残した容貌。
と、ここで終わればちょっと変わった娘で済んだのだが。気になったのは、嫌でも目に付く彼女の装いだった。
足首に届きそうな白のワンピースはところどころが裂け、血が滲んでいる場所も一つや二つではない。だがそれの比ではないほどの返り血の跡は、そのワンピースが本当に白だったのかどうかを疑わせるには十分だった。
「……ったく、どっからかっ攫ってきたのよ、こんなかわいい娘」
「この娘の方からわたしのとこへ来たんだよ」
相変わらず、レミリアの冗談は面白くない。
それはさておき、この館――紅魔館の主であるレミリア・スカーレットが、この娘を新たにメイド長とすると言っているのだ、誰が何と言おうとこの娘はたった今からメイド長ということになる。
「ていうか正気? こんなそこらの湖にいる妖精と十把一絡げの子供が、使用人ですって?」
「メ・イ・ド長。見た目に騙されたら酷い目に遭うよ」
レミリアは少女の肩に手を置きつつ、続ける。
「危うく殺されかけちゃってねぇ。いやいや、よくやるよ、人間にしては」
レミリアの感慨深げな物言いから察するに、先程の冗談は冗談ではなかったようだ。となれば、この返り血はレミリアのものと判断すべきか。
さらに突拍子もないことを聞かされ、美鈴はせっかく閉じた口をあんぐりさせた。
「はぁ?」
先も言ったように、ここは紅魔館。その名の通り悪魔の巣食う館である。館の規模にそぐう使用人――もれなく悪魔か妖怪だ――らが常駐しており、それらを束ねるメイド長には相応の実力が求められる。実力というのは、主に戦闘能力だ。使用人たちを屈服させ統率しうる純粋な武力が必要なのだ。なのに、
――人間だなんて……。
「いいじゃん、人間。わたしはわりと好きだけど」
一般的な妖怪、特に吸血鬼にとって人間は単なる食料である。血肉は言うに及ばず、その断末魔までもが。しかも間違いなく処女の少女など、吸血鬼の好物ではないか。
「あんたもわたしも、パチェだって処女だけどね」
レミリアの言葉が本当なら、彼女を殺しかける程度の力をこの少女は持っている。それ自体を驚愕することに迷いはないが、
――だからって、わざわざ化物の群れの中にこんな子供を放り込むなんて。
「おーい無視かー」
「うっさい。今考え事してるんだから。分かってるでしょ」
「なら考える人のポーズくらい取りなよ」
「あれは考えてるんじゃなくて地獄を見下ろしてんのよ」
「どーでもいいよ、そんなの」
肩を竦め、レミリアは再び言う。
「とにかく、この娘が今日からメイド長よ。文句は一切受け付けないわ」
傍らの少女をぽんぽんと叩くレミリアに諦観しつつ、美鈴は頭を抱えていた手を腰に当てた。そして、素朴な疑問を彼女に投げかける。
「それで、元メイド長のわたしはどうしろと?」
「あー、美鈴は今日から門番ね。きりきり働いてね」
まさか、前任者のいない新部署まで作ってくるとは。
「……」
美鈴が、にべもなく答えるレミリアを真正面から睨めつけてみるも、むかつくほど愛らしいその微笑を崩すことは望むべくもなく。
仕方なく美鈴は目元を緩め、人間の少女の前に屈む。
何日も湯浴みをしていないような様相ながらも、将来を約束されたかのような彼女の明眸を覗き込んで、美鈴は訊く。
「ねえあなた、お名前は?」
「……咲夜」
ぶっきらぼう、とまではいかないが平板な口調で、咲夜は答えた。
無愛想ではなく、もとより愛想を知らない人見知りの女の子――咲夜の無垢な表情に、美鈴はそんな印象を持った。だからというわけではないが、元来人間のことを嫌いではない美鈴は、優しく頷く。
「そっか。で、咲夜ちゃんは、メイド長ってどういうことするか知ってるのかな?」
「……ふ」
「なっ」
疲れたような吐息、疲れたような目でこちらを見つめ、咲夜は言い放つ。
「しってる。そんなこときく暇あったら、とっとと仕事について」
その小さな口から出た言葉と抑揚のない声音に、美鈴は返す言葉を見つけられなかった。
ただ一つ分かったことは、このガキは既にメイド長であるということだった。
前言撤回。こいつは間違いなく無愛想だ。
一つの疑問が浮かぶ。門番とは何をすればよいのか。目的だけなら簡単だ、門を番すればいい。
着の身着のまま巨大な正門前で、美鈴は自問自答していた。
では門を番するとはどういったことなのか。これも簡単だ、侵入者を排除すればいい。
「ふむ」
目的と手段が出揃った。
最後の疑問――侵入者が来訪してくれるまで何をしていればいいのか。
「暇ね」
そんな都合よく侵入者が現れるはずもなく、つまるところ彼女は暇だった。
これが本当に最後の疑問だが、暇はどう潰すべきか。
「いい天気ねぇ」
美鈴は青空を仰いだ。世界の果てまで澄み渡るような快晴だ。
彼女の立つ門前は少し開けた場所になっており、その先は森に近い鬱蒼とした林となっている。そしてそれを越えると、広大な湖が現れる。
その湖から漂う弱々しい風が、彼女の頬を撫でる。
「こんなときはあれだ」
ぴんと閃き、門番である美鈴は特に躊躇することなくいとも簡単に門を離れた。
物置にしまってあった道具は、誰も使った気配がなく、しまったときと同じ姿でそこにあった。
道具一式を持ち出し、門前に広がる林を突っ切る。誰も通らないため、道らしい道はない。落ち葉が積もり、木の根も遠慮なく地面から盛り上がる。
適当に歩きやすそうな部分を踏み慣らしながら、彼女はその先を目指す。
十分ほど歩くと、目的の湖に到着した。
対岸を視認できないほど広大なその湖が反射する陽光に、美鈴は目を細める。
彼女たちが住処とする館――紅魔館は、湖に孤立した静謐な島に建っており、どの方角であれ外へ向かって歩けば湖と出会える。では美鈴がなぜこの場所を選んだのかというと、正門を出て直進した場所がここだったという単純な理由だった。
「さて、と」
荷物を降ろし、適当に広げていく。といっても大した量があるわけではない。
竿、小物入れ、椅子、魚籠。そんなところだ。
糸の状態を確認し、大丈夫そうだと見るや竿先に取り付ける。その糸に針、錘、浮きを付け、餌はその辺の地面を掘り返して出てきたミミズを拝借。
目の前の杭が立っているあたりに適当に放ると、すぐさま当たりがきた。
即座にあわせ引き上げると、食べごろサイズのニジマスが釣れた。ヤマメの方がよかったのだが、こんな流れ込みの一つもないところで釣れるわけもないため、まあよしとする。
釣れた魚を魚籠に入れ、再度仕掛けを投入。釣り上げ、魚籠に放り込む。それを何回か繰り返すと、さすがに同じ場所なので当たりが遠のく。
なんだか開幕から忙しかったが、これで少しぼーっとできる。ついさっきまでメイド長としてばたばたした日々を送ってきたが、美鈴は本来こうしてのんびり過ごすことが嫌いではないのだ。
「そもそも侵入者なんて来るのかね」
近くの水面で列を成して泳ぐアイガモの親子に問いかける。
一向に来ない侵入者から門を守護する門番――無用の長物を絵に描いたらこんな感じだろう。
美鈴の記憶では、最後に侵入者が来たのは数十年前だ。そもそもこの館の主の強さは知れ渡っている。それとセットで、侵入者の全てがそこまで辿り着けずその生涯を終えていることも。館に侵入した賊をもれなく叩き潰してきたのは、何を隠そう美鈴だった。
「もしかしてと思うけど……」
あのレミリアが自分のことを労うために、慰安としてこの采配を下したのか。
いや、と否定する。であるとして、あんな人間の子供を後任に据える意図が分からない。
物思いに耽っていると、お腹がその音でもって補給を促してきた。手をかざし、太陽の位置を確認する。
「もうお昼か……てか、ご飯とかどうすんの?」
誰かに頼んで持ってきてもらうかと考えるが、今の自分はメイド長ではなく門番だ。門番が職制上どの位置にいるのかは定かでないが、多分メイド長はおろか直下の使用人のさらに下だと考えて断念する。
と、背後から何かが接近する気配を感じた。美鈴は意識をそちらへ向け、その動きから正体を推し量る。
レミリアでも、ましてや他の使用人でもなさそうだ。図書館に引きこもっている友人がこんなところを徘徊しているわけもない。この島の林に野鳥以外の野生動物は棲息していない。そしてここは結界のぎりぎり内側なので、侵入者とも考え難い――もしそうであるなら、門番などに構わずとっとと館へ向かうだろう。
正体は掴めないが危険も感じないため、首を傾げていると、
「なにしてるの」
今朝聞いたばかりの、どこかあどけないのに無愛想な少女の声が届く。確か咲夜とかいったか。
美鈴は振り返らないまま、答える。
「門番だよ。見りゃわかんでしょ」
「……?」
咲夜が疑問符をあげるのを、背中越しに感じる。
「一見釣りしてるように見えるでしょ」
「つり? しらない。門にもどって」
言葉のわりに苛立っているわけではない、およそ子供らしからぬ平板な口調で咲夜が咎めてくる。その余りの子供らしさの無さに美鈴の方が苛立ちを覚えた。
「あのさぁ、パチェが結界張ってんのに、そのど真ん中で待ち構えてどーすんのよ」
パチェとは、図書館に棲息する魔法遣いだ。彼女がこの島に結界を展開して以降、それを突破してきた者を美鈴は知らない。
「こえてくるようなのを追いはらうのが門番の仕事」
「仮にそんなことになったら、超えられるような結界張ってる方に問題あるんじゃない」
「そのときは――」
「わたしがその境界付近にいて、越えるやつも越えないやつも全部叩き伏せる」
咲夜の言葉を遮って、美鈴は自信を持って言う。
そこで初めて、美鈴は振り向いた。その先に、今朝と変わらない表情をし、ぼさぼさの髪もそのままに服だけを着替えた咲夜を見つける。
薄い紫のワンピースに白の前掛け――美鈴の身につけているものと同じ、紅魔館で標準的なメイド服姿であった。
こんな子供サイズなんてどこにあったのかと思いつつ、念押しするように言い放つ。
「これで万事丸く収まるわね」
「……そんなの、へりくつ……」
納得のいかない様子で、けれどやはり口調も表情もそのままに、咲夜がこぼす。
魚の踊る魚籠を水中から乱暴に引き上げ、美鈴は咲夜に歩み寄る。
「ヘリクツも理屈よ。理解しなくてもいいし、納得しなくてもいい。ただ、私たちは自分より弱いやつに従わない。それだけはここに置いときなさい」
私たちという単語を強調し、咲夜の胸元を指で小突く。そんな美鈴を見上げて、咲夜が訊く。
「……どんな方法でも?」
どんなことを思いついたのか、表情からは全く読めない。美鈴は構わず告げる。
「自分で考えなさい」
「なら――」
咲夜が臨戦態勢に入った、正確には入ろうとした刹那、美鈴は持っていた魚籠を彼女の無表情に押し付ける。
「ふぎゃ」
なかなかに間の抜けた声が漏れたのは予想外だった。
「これ持って帰りなさい」
鼻を押さえる咲夜に改めて魚籠を持たせてやり、続ける。
「みんな、それ好きだから」
納得いかず後ろ髪を引かれた面持ちで、咲夜は言われた通り魚籠を提げてもと来た道を戻っていった。
その姿が林の向こうへ消えたところで、美鈴は気付く。
並べられた釣り道具のそばに、金と紅とで彩色された見慣れた盆と、それに盛られた野菜や果物が置いてあることに。
「いったい誰が……」
こんなことを自分に気付かれずやってのける知り合いはそう多くないし、こんな無意味な趣向をこらすような知り合いとなったらほぼ皆無と言っていい。
「あの娘が?」
判然としない。が、一つ確かなことは、この採れたて皮付きの生野菜と捥ぎたて果物が、本日の美鈴の昼食だということだった。
昨日は釣りをしていて見つかってしまったので、今日は適当な樹木の上でのんびりしてみることにした。
正門前の林に入り、暖かくなったせいかそこかしこに張られた蜘蛛の巣を適当な枝で掃いながら、散策する。
これはと目星を付けた木に登っては寝心地を確かめるといったことを繰り返す。鳥の子供が集う洞があったり枝の強度が足りなそうな樹を避け、四本目でようやく収まりのよい場所を発見した。
高さにして地上から七、八メートルといったところか。
枝先へと足を伸ばし、幹に身体を預けてみる。足先がやや上を向き、上体は後方に傾く。目を閉じてみると、鳥たちの囀りや虫の音、そして春先の暖かい木漏れ日がやんわりと彼女を包む。メイド服のスカートが鬱陶しいことを除けば、期待以上の寝心地だった。
目を開くと、美鈴はおもむろに一冊の本を手に取る。
「こういうときは、昼寝か読書に限るってね」
図書館から借りてきた本だった。持ち主の許可は得ていないが、発覚する前に戻せばどうということはない。
美鈴は鳥たちに便乗して鼻歌など歌いつつ、分厚い表紙をめくる。
内容も確かめずに持ち出してきたが、どうやら技術書の類だったらしい。内容が全く頭に入ってこないどころか単語の意味からして分からないところが多々あるものの、とりあえず読み進める。
解読不能な文章にいい感じの睡魔が襲ってきたところで、
「……ここでもか」
見知った気配が近づいてくることに気付く。
まだ距離は開いているが、迷いなく歩いてくる。到着までにさして時間はなさそうだった。
その間にそそくさと逃げ出すかとも思うが、手放すには惜しい環境だったためマーキングでもしておこうかと逡巡する。
「なにしてるの」
思案しているうちに時間切れになってしまった。
ぱたんと本を閉じ地上を見下ろすと、昨日よりはマシになったがまだ萎びれた髪のまま、咲夜がこちらを見上げてきていた。
「なにしてるように見える」
「つりはしてない……くつろいでる?」
しばし考えた後、咲夜が的確な回答を示した。特に否定する理由もなかったため、美鈴は素直に首肯する。
「正解」
「門番は」
「やってるよ、っと」
背中で幹を叩き軽く反動をつけて、美鈴は虚空へ身を躍らせる。
落下途中にあった蜘蛛の巣を避けつつ体勢を整え、ろくな音も立てずしなやかに着地する。ふわりと、少し遅れてスカートが追いついた。
立ち上がって裾を正し、腕組みして見下ろす。咲夜が先刻と同じ顔で見上げてきていた。
これ以上詰問されるのも面倒なので、美鈴は別の話題を振る。
「そうれはそうと、魚、どうだった?」
「……なまぐさかった」
少しもったいぶって、咲夜が答える。
「あい?」
期待していたものとはかけ離れた感想を耳にし、美鈴は眉根を寄せる。
塩焼きが一番なのだが、もしかして生で食べたのだろうか。寄生虫とか厄介な問題を抜きにすれば、確かに刺身で食べられないこともない。そこまで魚臭さのない魚種だったので、軽く薬味を添えれば気にならないはずだ。
ふと、美鈴は昨日の昼食と夕食を思い起こした。
昨日、日が落ちてからは他にすることもないため、美鈴は門前にいた。そして夕食の時分、咲夜は姿こそ現さなかったが、昼食と同様いつの間にやら生野菜と果物が置かれていたのだ。果物はともかく野菜はさすがに火を通して食べたが、それを置いたのが予想通り咲夜であるならば、
――まさか……。
あの魚を丸齧りにでもしたというのか。だが、この娘が綺麗に盛り付けた刺身を上品に頂く姿も想像に難い。どちらかと言えばきっぱりと、暴れる魚に喰らいつく姿の方がしっくりくる。それも好んでというわけではなく、他に食べ方を知らずに。
「……」
お腹は大丈夫なのだろうかと見つめていると、咲夜が再び訊いてくる。
「門番は」
どうやら何かしらこじつけてやらないと帰ってくれないらしい。美鈴は腕組みしたまま、手放してしまった憩いの場を振り返った。
「監視の基本は、高所からの俯瞰なのよ」
「さっき、くつろいでるって」
またもや的確な指摘を飛ばしてくる咲夜に、美鈴はぐうの音も出ない。よし、話題を変えよう。
「あんたこそこんなとこで何してんの。仕事は?」
自分のことはまるで棚上げして、咲夜からの質問をそのまま返す。
すると、咲夜は何かを指差した。
「それ」
どこか嫌な予感を覚えつつ、美鈴は彼女が指し示す先を目で追う。はたして、樹の根元あたりに置かれた野菜と果物があった。
それを見て、これまでの疑惑が確信に変わった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「レミィ……貴女、自分が何をしたのか分かっているの?」
棲息しているなどと揶揄される巨大な図書館。そこに彼女はいた。
そこは紅魔館の地下に建造されていた。規模に見合う大量の蔵書はそのところどころが整理しきれておらず、棚からあぶれた本がそこらの床に積み上げられている。その整理と、放っておくとどんどん積もってしまう埃への対処のため、図書館専属の使用人である小悪魔が忙しなく飛び回る。地下であるため窓はなく、換気も採光も叶わない。図書館の環境維持はもっぱら小悪魔と、天井や壁に配置されたいくつかのランプに頼りきりだった。
そんな図書館の一角に置かれた丸テーブルが、彼女――パチュリー・ノーレッジの住所となっている。
「んー? 別に悪魔の館に飼われる人間の一人くらいいてもいいと思うけど」
パチュリーの問いに、対面から応答が返ってくる。
変な形状の帽子――人のことは言えないのだろうが――、真紅の瞳、蝙蝠然とした両翼、そして幼学と見間違えてしまう容貌風姿。そこにいるのは正しく吸血鬼であり、パチュリーの友人であるレミリア・スカーレットだった。
カップに注がれた紅茶にスプーンを立てかちゃかちゃとかき回すレミリアに、パチュリーは訊き直す。
「なんでその飼われているはずの人間がうちを仕切る立場にいるのか、って訊いたつもりだったのだけれど? 暇つぶしというわけでもないでしょう」
「まーね」
言いつつ、レミリアはパチュリーの手許にあった皿からラスクをひとつ掻っ攫う。レミリアの皿は既に空だった。
「そのうち殺されるわよ、彼女」
ここ紅魔館は、悪魔の館である。これまで人間など一時も存在したことがない、妖怪の巣窟だ。
パチュリーの言葉を、館の主人であるレミリアが理解していないはずがない。
「わたしは吸血鬼だよ」
「人を殺さない吸血鬼だと認識していたのだけれど」
レミリアのことを、別に慈悲深い悪魔だとか言っているのではない。ただこの友人は無意味に無責任なことだけはしないと、パチュリーは信頼していた。だから、現状がどういう奸計のもとなのか知りたかったのだ。
一口では食べられないため、レミリアはラスクをバラしつつ答える。
「殺さない、じゃなくて殺せないんだけどね。ほら、こんなちっちゃいナリして人一人の血液を全部飲めると――」
茶化すレミリアの言を、パチュリーは半眼で制す。
「レミリア」
「……んもー、分かったから。そんな怖い顔しないでよ」
「怖い顔させてるのは貴女でしょ! いいからなんでこんなことしたのか訳を言いなさい!」
両手でテーブルを叩く。ばんと響き、テーブルに置かれたカップがかたかたと震えた。
「あんたはわたしのオカンか――分かったごめんちゃんと話します」
とうとう身を乗り出して顔を覗き込んでやると、レミリアは居住まいを正した。
椅子に座り直し、パチュリーは吐息を一つ漏らすと、改めて続きを促す。
「……で?」
「まあ、一種の職場改善ね」
「しょくばかいぜん?」
予想だにしない単語に、変換が追いつかない。
レミリアはラスクの最後の一片を口に放り込むと、ゆっくりと咀嚼する。
「ほら、美鈴っていつもつんけんしてるじゃない。それでメイド達も常にピリピリしてて。正直みんな居心地悪いと思うわけよ。フランのこともあるしね」
今度はパチュリーがレミリアの言葉を咀嚼する。
業務外でそんなことはないのだが、確かにメイド長としての美鈴はどこか近寄りがたい空気を纏っていた。ただ、それをあの使用人達が本当に居心地悪いと感じていただろうか。唯一確かなことは、
「一般的な見解を言わせてもらうわよ」
「どぞ」
「悪魔の館って得てしてそういうものでしょう」
和気藹々とした悪魔の館なんて、聞いたことも読んだこともない。
「わたしはアットホームな悪魔の館を目指してるの」
どうやら聞いたことも読んだこともない場所を、レミリアは目指しているらしい。
「……まあいいけど。で、それが咲夜のこととどう繋がるの」
「美鈴に妹みたいな友達の一人でもできたら、ちょっとはデレてくれるんじゃないかなと」
「フランがいるじゃない」
妹という言葉にパチュリーは、レミリアの妹であるフランドール・スカーレットの姿を思い浮かべた。日頃は実姉のレミリアによって図書館とは別の地下室に幽閉されている、狂気を具現化したようなあの妹を。
パチュリーの返答に、注意深く観察しないと分からないくらい小さく、レミリアは目を伏せた。
「美鈴はそうと思っていないもの」
今のままじゃフランがかわいそうだし。
表情の変化よりも小さいレミリアの呟きを、パチュリーは聞き逃さなかった。
――それが本音か。まったく、過保護なんだから。
おおよそのところ虚偽は声高らかに、真実は小声で囁かれる。本心もまた、そうなのかもしれない。
パチュリーは聞こえなかったふりをすると、小悪魔に監視させて得た情報を頭の中に並べる。
「でも、当の美鈴はあの様子で、咲夜はそのだらけた門番姿しか見たことないのに」
「あの二人、ああ見えて意外と気が合うと思うよ」
自信ありげなレミリアに、パチュリーは眉をひそめる。
「何を根拠に」
「そう囁くのよ、わたしの第六感が」
レミリアがそう言うのだったら、実際にそうなのだろう。少なくとも、咲夜に対しては自分よりも多くのことを知っているに違いない。そしてレミリアがこういった言い回しをするのは、これ以上の情報を相手に漏らさないという意思表示であることを、長年の付き合いからパチュリーは知っていた。
「そう」
結局その職場改善とやらでレミリアがどういった未来を創造したいのか、判然としないままだった。
釈然としないパチュリーの顔色に気付いたのか、レミリアがぼそりと呟く。
「それに……」
まだ続きがあったのか。パチュリーは本に伸ばそうとしていた手を止めて訊き返す。
「それに?」
彼女の反応を見てレミリアは、とっておきの玩具を見せびらかすような笑みを浮かべる。
「人間技を極めた化物と、化物染みた力を持つ人間と、どっちが強いのか見てみたくない?」
「む……」
前者は、もちろん美鈴のことだ。ではあの咲夜が、このレミリアをして化物と言わしむる力を持つというか。
紅い魔の棲む館――紅魔館。その中心において遜色のない力を持つのか、あの幼い人間が。
レミリア同様、美鈴とも長い付き合いだ。彼女の強さは疑う余地もない。対して咲夜とは現状、図書館に茶菓子を持ってくるくらいの接点しかない。
強さを一概に表すことはできないが、もしレミリアがあの元メイド長と新メイド長との白兵戦を望んでいるのだとしたら。もしそれが現実のものとなったとして、やはり美鈴の優位は、いや咲夜の情報が皆無なので実際どうなるか……
「ほーら、パチェも興味が湧いてきましたよー」
どのくらい黙考していたのか。思考の海を漂っていたところをレミリアに呼び戻され、パチュリーは隠し切れない狼狽をどうにか隠そうと口元に手をやる。
「そんなことっ――ただ気になって考えてただけよっ」
「今度ここの辞書で興味って単語を引いてごらん」
レミリアは勝ち誇ったような笑みを浮かべるも、すぐにそれを消すと、神妙な面持ちで口を開く。
「まあ、さ。本音言うと、パチェには傍観者でいてもらいたのよ」
傍観者――二人に、いやこの館にこの先何が起ころうと一切の口出しをしてくれるな、ということか。家族の問題だからお前は口を出すな、ということか。
そんなことを友人の口から言われて、疎外感を覚えないといえば嘘になる。
「よろしくね」
レミリアはいったいどんな未来を視ているというのか。
ただパチュリーにできることは、
「わかったわ、レミィ」
この友人を、友人たちを信じることだけだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
春の香りをのせた大気が、彼女の頬を撫でていた。
無数の煉瓦が積み上がった鐘塔。それは紅魔館に根を生やし、まるで遥か天空を目指すかのように聳え立っている。
――それは言いすぎか。
とかくそこはこの島における最高所であり、全てを見渡せる場所だった。
眼下には正面玄関の屋根、正門へと続く石畳、巨大な正門、林、湖、そして向こう岸に広がる世界。あの辺には人間の集落が、向こうの山には天狗が住んでいただろうか。
そんな塔の縁に腰掛け、髪の間をさらさらと抜けていく微風を楽しみつつ、美鈴は久しく足を運んでいない外の世界に思いを馳せていた。
一昨日は釣りをしていて見つかり、昨日は木の上にいたところをあっさり見つかった。
別段逃げ隠れしているわけではないのだが、邪魔されずにのんびりできる場所を探した結果、ここに落ち着いたわけだ。
ぽかぽかとした陽気が運んできた眠気に、美鈴は身体を後方へ放り出す。煉瓦の床が、彼女を受け止めてくれた。
煉瓦の冷たさが彼女の背中からこっそりと体温を抜き取っていき、降り注ぐ陽光が失った分を補填してくれる。
どのくらいそうしていただろうか。寝ぼけ気味な瞼を開くと、太陽がその位置でもって正午近いことを告げていた。
「……」
なんとはなしにある予感を覚え、美鈴は上体を起こす。
周囲を見回して何も置かれていないことを確認し、次に正門の方へ目をやると、
「いるし」
遠目だが間違いない。咲夜だった。
なにやらきょろきょろと周囲を窺っているようだが、まさかこんな場所から当の探し人本人に観察されているとは夢にも思うまい。
美鈴は笑みを浮かべ頬杖を付いて、そんな咲夜を眺める。
が、すぐにその笑みも消えた。
「……うそ」
不意に咲夜が振り向き、こちらを見上げてきたのだ。
美鈴から、咲夜は米粒よりも小さく見える。それは咲夜からも同じはずなのに、この距離で完全に目が合った。逆光のはずだがそう確信できるくらい、咲夜はこちらを凝視している。
いったいどんな勘の良さだ。ここに来て数日の者が、どういう思考回路をしていればここを選択肢に挙げられるというのか。
しばしこちらを見上げた後、咲夜は門をくぐり、玄関へと入っていく。
そんなに時間はかからないだろう。気配を追わずとも分かる。
はたして数分後、背後から、
「こうしょからのふかん?」
言葉の意味を理解できているのか定かではない、変換しきれていない色の声が届く。
そして気がつくと、美鈴のすぐそばにいつもの食事が置かれていた。
あまねく生き物は植物由来の食物のみに生きるにあらず。そう、例えばたんぱく質が、特に動物性たんぱく質とかが必要なのだ。重要なのはバランスだ。
草食動物? 肉食動物? そんなの知らん。
拳など握りつつ、美鈴は独りよがりな思いのたけを熱く語っていた。
語りかけていたその先には、もはや景色の一部となって黙々と読書に勤しむ友人――パチュリーがいた。
「つまり何が言いたいのよ、門番さんは」
本に熱中しているようでしっかりと聞いていてくれたらしく、パチュリーが訊ねてくる。
彼女の対面に腰掛け、嘆息して答える。
「お肉は美味しい、ってことよ」
咲夜による強制野菜生活が始まって、かれこれ一週間が経過していた。
釣りをしては見つかり、木の上で昼寝をしては見つかり、塔に潜んでも見つかり、湖畔でランニングをしたら先回りされ、自室に篭っていたら迎えに来られる。余暇の過ごし方にさほどの選択肢があるわけでもないこの島で、美鈴はついにネタ切れを起こしていた。
どこにいようと見つけ出しては新鮮な野菜を提供してくる少女。あれはなんなのだ、新手の妖怪か。
頭を抱えて唸っていると、パチュリーが告げてくる。
「さっきからうだうだとたんぱく質とか肉とか言っているけれど、昨日の夕食は黒豚バラの生姜焼きだったじゃない。忘れたの」
「なによそれっ!」
聞いただけでご飯が進むようなおかずに、美鈴は椅子を蹴って立ち上がった。パチュリーは不思議そうに首を傾げる。
「そうよね、おかしいわよね。なんで悪魔の館で下町の食堂めいたメニューが出るのかしら」
「そうじゃなく! わたしはそんなの食べてない!」
ばんばんとテーブルを叩いて訴える。
迷惑そうな顔をしてようやく本から視線を外すと、パチュリーは得心したように頷く。
「ああそうか。貴女、今門番をやっていたのよね」
「さっきわたしのこと門番って呼んだくせして何言ってんの」
「遅れてしまったけれど、降格おめでとう」
「やっぱり降格なんだ」
大してショックでもないが、その響きはなんだか心にくるものがある。他人の口から聞くと殊更に。美鈴は椅子に座り直し、テーブルに頭をのせて呻いた。
パチュリーは本に向き直ると、改まるように訊いてくる。
「それで、今日は何用なの? 本の返却なら元の場所へ戻しておいてね」
無断持ち出しの件はバレていたらしい。別段怒っているわけではないようなので素直に了解して、美鈴は顔を上げた。そして彼女にここ一週間ほどの食糧配給事情を説明する。
「そろそろ調理のレパートリーもネタ切れなのよ。それに、心なしか変に痩せてきた気もするし」
ちらと、パチュリーの目がこちらを向く。視線はどういうわけか美鈴の顔ではなく胸元の方へ届いていたが。
「萎んでしまえ……」
「? なに?」
「いいええ」
意味が分からず訊き返すが、パチュリーははぐらかすとまた読書に戻ってしまう。
特に気にせず、美鈴は続ける。
「そう? で、待ってても出てこないなら、こっちからお肉を狩りに行こうと思って」
「それで?」
「結界の外に出たいの」
パチュリーの張った結界は外部からの侵入を頑なに拒んでおり、それは内部から外へ出ることに対しても同様だった。一度出てしまったら入れなくなってしまうからそうしているのだろう。故に、そんなに機会もないが島の外へ出る用ができたときには結界を管理する彼女にお伺いを立てることになっている。
「ほう」
気乗りのしない相槌が返ってきた。
「もういっそのこと、わたしだけ自由に出入りできるように改修できない?」
どんな生物をも通さない結界だが、唯一鳥だけは何ら支障なく出入りしている。過去に気になって訊ねたところ、かわいそうだから、とパチュリーは答えた。そんな例外処理が組み込めるのならそこに自分を追加することも可能なのでは、と提案したのだが。
「無理よ」
パチュリーはにべもなく即答する。
できるのか、という質問に対しすぐに否定を重ねるのは、プライドの高い彼女にしては珍しいことだった。
「なんで? そんな難しいことなの?」
「貴女、魔法に関しては門外漢だから言っておくけれど」
「うん」
どんな理由なのだろう。言われる通り自分は素人だが、興味をそそられた。鳥などとは勝手が違い、パチュリーにとっても相当に複雑なものなのだろうか。
「めんどい」
「素人でもぶっ壊すことくらいならできるんだけど」
美鈴は笑顔で指を鳴らす。試したことはないが、今の気分ならなんとかなる気がする。
「そんなにお肉が食べたいのなら、咲夜に直接言えばいいじゃないの」
さすがに壊されたら困るのか、パチュリーが正論を投げてくる。
美鈴とて、これまでそれを考えなかったわけではない。
「いやでも、わたしの食事を気にかけてくれてるのあの娘だけっぽいし、気づかないうちに置かれてることのが多いし」
そしてあまり考えたくはないことなのだが、他の使用人たちは何も言わないのだろうか。
「門番としてどうなの、それは」
そう、メイド長という肩書きを失い門番となった自分は、使用人たちにどう思われているのだろう。時には自分でも厳しすぎたかなと思わないこともない態度を取ったりしたこともあるが、まさか嫌われているなんてことは……降格万歳とか、お局様左遷祝賀会とかされていたらどうしよう。
考えれば考えるほど負の思考に陥っている自分に気付き、美鈴はふるふるとかぶりを振る。使用人たちのことはひとまず置いておいて、咲夜の話に戻る。
「あの娘、なんだか苦手なのよね」
「目に余る程度に人間贔屓の貴女が、珍しいこともあるものね」
パチュリーは紅茶を一口啜る。
「どうしてまた?」
それが何故なのか、美鈴自身もよく理解できていない。パチュリーの評価通り、美鈴は人間を好意的に思っている化物の一人だった。だが、あの咲夜相手にはどうしてか険のある、というより素っ気ない態度を取ってしまう。
パチュリーへ解答を求める気分で、美鈴は吐露する。
「どう接していいか分かんないのよ。顔見ると、まともに受け答えできなくなるっていうか」
そんな美鈴の悄然な様子に、パチュリーは頭上を仰ぐ。その先では、図書館の掃除と蔵書の整理に追われる小悪魔がぱたぱたと飛び回っている。
しばしして視線が戻ってきた。
「……好意も行き過ぎると裏返える、とか?」
「ぶっとんだ解釈しないでよ知識人」
からかっている様子はなかった。パチュリーは当てが外れたのか美鈴の否定にふむと相槌を打つと、また考え込む。美鈴がパチュリーの次の言葉を待っていると。
こんこん。
外の廊下へと続く扉がノックされた。
パチュリーが返事をすると、軋んだ音を立てて開いた扉から、目下話題となっている咲夜が姿を見せる。
「あら、今日は何のご用?」
パチュリーが問う。
咲夜はとことこといつもの歩調で近づいて来ると、美鈴たちの数歩手前で立ち止まった。
「めーりんをむかえに来ました。あとそれ」
最後の一言は、美鈴に向けてのものだった。本日咲夜が指し示すはテーブルの上。
もはや見ずとも知れている。美鈴は今日の食事を確かめるためではなく、パチュリーの顔色を窺うために振り返る。
「え、いつの間に……」
はたしてそこには、突然の奇術に面食らい目をぱちくりさせている彼女がいた。
「ほら、ね」
さもありなんと、美鈴は囁きかける。
「門番は」
「はいはい、分かってるわよ」
いつもの言葉を投げてくる咲夜に、美鈴は抗うこともなく立ち上がる。
そんなやり取りを見て二人の関係を理解したのか、背後からパチュリーが問いかけた。
「咲夜、これは美鈴の昼食ということでいいのよね?」
「はい」
パチュリーが、それまでずっと開いていた本を閉じる。これは読書をやめて別のことに注意を向けるときの彼女なりの事前準備なのだと、美鈴は知っていた。
まっすぐに咲夜を見返すパチュリー。見たことのない、優しく諭すような表情だった。子供相手だとこんな柔和な物腰になるのか。
「咲夜、人に物をあげるときの基本は、相手が好きなものをあげることよ」
「すきなもの……」
咲夜が復唱し、パチュリーが頷く。
「そう。好きなものをもらったり、好きなものを食べたりしたとき、人は幸せになるものよ」
教え子を導くようなパチュリーの言葉を受け、咲夜は美鈴を見上げる。
「なに」
「え? え、っと……おにぎり、とか?」
唐突に率直な質問を投げられ、美鈴は当惑しながらも最初に頭に浮かんだ食べ物を伝える。
咲夜はしばし考えるような素振りを見せると、
「おにぎり……」
そう呟きを残し、くるりと踵を返して図書館を後にした。
扉が閉まりきるのを待ってから振り向くと、パチュリーが怪訝な顔を向けていた。
「お肉が食べたいんじゃなかったの?」
どうやら美鈴の希望を叶えようと誘導してくれたようだ。初めて目にした彼女の態度に気を取られていて、そこまで気が回らなかった。
「だって、急に好きなものとか言うから」
「そう」
パチュリーは再度、本を開いた。
「まあでも、なんとなく理解したわ。貴女の言っていること」
図書館を後にした美鈴は食事を済ませ、正門前に戻っていた。
職務に勤しむことはなく門塀に背中を預け、脚を抱えるように座り込む。
美鈴は、ある懸案に取り組んでいた。それはそれまで奥底にしまいこんでいたが、パチュリーとの会話をきっかけに浮上したものだった。
この数日まともに考えないよう努めてきたのは、どうせすぐにでもレミリアあたりが、
「やっぱ戻って」
などとあっけらかんと言ってくるだろうと見積もっていたからだ。だが、さすがにこれだけ時間が経過して音沙汰がないと、否応なく考えさせられる。
「門番かぁ……再就職、考えた方がいいのかな」
自分で発した冗談に、乾いた笑みを浮かべる。
――お金や寝床が欲しくて、ここにいるんじゃないんだよ。
単語としての知識はあっても、妖怪や化物には本質的に労働という概念――他者に自身の時間という存在の一部を捧げ、他者からその対価を得るというシステムが理解できないのだ。労働とは、美鈴が過去に積み重ねた、自己を研鑽しその対価として強さを得るという行為とはまるで異なる性質のものである。
傍から見れば上下関係のもと勤労する妖怪もそれを使役する妖怪も、夜道で人間を襲う化物も、日がな一日水辺で戯れる妖精も、もとより対価を得ようとそうしているわけではない。それがその者の存在理由であり、この世界における役割なのだ。九分九厘の者らはただ本能に従って己の役割を全うしているだけで、そこまで考えて行動している者は極々少数だ。そうでなければ、この幻想郷という世界は今頃別の様相を呈していたはずである。
――でも、だからって次は何になればいい?
故に、己の役割を奪われた、あるいは自ら放棄した化物は、それまでとは違う存在にならざるを得ない。それは美鈴自身が、過去に幾度か経験したものだった。
――最初のわたしなら、こんなことで悩まなかったんだけどな。
一度変わってしまったものは取り戻せない。少なくとも美鈴に取り戻せたことはない。
そしてそれを経験した者は、こう考える。
「わたしは、なんのためにここにいたんだろ……」
遥か頭上を仰ぐと、宵も過ぎ帳の下りた空に、無数の星が瞬いていた。
そのどれでもいいから教えて欲しい。そう願う。
と――
「あれ? 夜?」
少しの間ぽかんとして、状況を探る。
考え事を始めたのが、確か昼過ぎだった。日が陰るどころか沈みきるまで気付かないとは、どれだけ熱中していたのだろう。
とまれ、応えてくれそうにない星から目を逸らし足を崩すと、美鈴の手に何かが触れた。
「なんだこれ」
見慣れないものがそこにはあった。いつもの盆のことではなくその上に置かれたものを、美鈴はまじまじと観察する。
「おにぎり……?」
おそらくそれは、握り飯だった。付け合せもなにもなく、二口もあれば消えてしまいそうな、まるで子供の手で握られたような大きさの、形の不揃いな握り飯が五つほど。
美鈴は盆を手に取ると、その内の一つに手を伸ばす。
「おっとと」
軽くつまんだ途端、指先がおにぎりを崩しそうになった。どうにか崩さぬよう慎重に手のひらへ移し、今一度観察する。
美鈴の指が食い込んだためさらに歪な形になってしまったが、それは白米を握り固めたもの――握り飯と見て間違いなさそうだ。
「あの娘……」
作ってくれたのだろう。美鈴に気付かれずに置いていったことからも、紛れもなくあの少女の仕業であることが窺える。
表面が多少乾いてしまっているところを見ると、彼女が膝に顔を埋めていた間に置いていってくれたようだ。
美鈴は大口を開けて、手のひらの握り飯を放り込む。
塩気はなく、具も入っていない。握り飯としてはどんなに下駄を履かせても合格点には届かない。
けれど、
「……おいし」
それは久しぶりの白米だったからか、それとも脳が糖分を欲していたからか。
なんにせよ美鈴は、少女の心遣いを堪能することにした。
明らかに量は不足していたはずだがどこか満たされた気分で、塀に背を預けたまま美鈴は脚を投げ出していた。傍らに置かれた盆には、一粒の米も残っていない。
「……健気よね」
ぽそりと、こぼした。
あの吸血鬼のお嬢様が連れてきた、年端もいかぬ少女。
無精な門番を、それを預かる身として監督しようとする少女。
そうでありつつも、かいがいしく食事を世話する少女。
諭されれば愚直に従う少女。
「はあ……」
頭を抱えて嘆息する。
手に取れば崩れてしまう、塩も具も入っていない、歪んだ造形の握り飯。綺麗になった盆に、もうその影はない。
――このままじゃ駄目なのは分かってる。
でも、あの少女と相対して自然に振舞っている自分の姿が想像できない。
パチュリーに言われたような、好きが高じて嫌悪する、愛しすぎて憎悪する、そういった感情ではないと断言できる。さりとて、どういった感情が引き起こす反応なのか分かっているわけでもない。
何かをしなければならないのは分かっているのに、何をすればいいのか分からない。
――こんな歳して、何も分からないのね、わたし。
先刻の満ち足りた気分は、もうどこかへ行ってしまった。
考え事は苦手だった。やはり、こうして頭を使うことは性に合わないらしい。
「はあ」
本日何度目になるだろう嘆息を漏らしていると、ふと何かの気配を感じた。咲夜ではないと直感する。
美鈴は夜間を門前で過ごしていたが、門番が門前にいる間は注意をしないのだろう、咲夜は食事を置いていくだけでその姿を見せなかったからだ。そしてもう一つ、その気配は美鈴の背後――見上げるほどに高く、よじ登るにはとっかかりも何もない平坦な塀の上にいた。
「よっ」
声を掛けられ見やると、自分をこの境遇に配置してくれた元凶――紅魔館の主であるレミリアが塀の上から身を乗り出し、片腕を上げていた。
「……」
ここんところのいろんなものを全部込めて、思い切り睨め上げてやる。
ちゃんと伝わっているくせに、彼女は照れくさそうな顔でぱたぱたと手を振った。
「そんな見つめないでよ。照れるじゃん」
「睨んでんのよ」
「よせやいっ」
さらに照れたような仕草でいやいやをする彼女に、呆れた眼差しを向ける。
「いや、意味わかんないから」
「よっと」
レミリアは――おそらく飽きたのだろう――すぐにやめ、塀を乗り越えた。今度はその蝙蝠然とした羽をぱたぱたさせながらふわりと着地すると、腰に手を当てる。
「様子を見ようと思ってね。どうだい、少しは慣れたかい」
新人を気遣う上役のような物言いだが、彼女が言っても斜に構えたようにしか見えなかった。そんな上司に、美鈴は座ったまま答える。
「どう慣れろってのよ。パチェがいるのに門番なんて」
「さながら月夜に提灯だよね」
提げた本人がそれを言うかと言葉には出さず、美鈴は非難の視線を注ぐ。が、レミリアは気付いた様子も見せずに、
「別に門番に慣れたか、って訊いたわけじゃないんだけどねぇ」
などと言いつつ、美鈴のすぐ隣に腰を下ろす。
彼女の頭の位置がぐんと低くなって、首が痛いため美鈴は、投げ出した自分の足先を眺めつつ続きを待つ。対してレミリアは、美鈴の顔を覗き込む。
「てかさ、あんた、なんでずっとここにいんの?」
「はぁ?」
あまりにもあんまりな吸血鬼の質問に、美鈴は覗き込んでくるその双眸に苛立ちを覚えた。
「あんたが門番してろって言ったんじゃないの。ボケてんの?」
「失礼なやっちゃな。ボケるならそっちのが先だろ。いったい何千年生きてんだよ」
レミリアも眉を立てるが、その可愛らしい相貌のせいで険は感じない。そんな彼女から、美鈴は視線を外す。
「さーね。二千から先は覚えてないわよ」
「二千まで数えてたあんたに驚愕だよ。なに、二千歳までは毎年誕生日祝ってたの? うけるー」
足をバタつかせる仕草が、冷たい地面を通して伝わってくる。
「黙れちんちくりん。じゃああんたは祝ってないの」
「祝ってるよ?」
「おい」
たまらず、美鈴は再びレミリアを睨む。
「わたしはかわいくてちんちくりんだから、そういうのも許されるのさ」
「うっざ」
「ちなみに明日は咲夜の誕生日だよ」
「……興味ないね」
唐突すぎる報せに、即答できなかった。それが何故か、美鈴には分からなかった。
「まあまあ、話を戻そうか」
そして唐突に閑話休題。
レミリアは覗き込むのをやめ、美鈴と同じように自分の足先を見つめる。その姿に、それまでの茶化すような態度は微塵もなかった。
「なんのためにここにいるの」
「それは……」
美鈴自身、今しがた自問していたところだ。レミリアはなんの意図もなくこんな質問を投げてくる吸血鬼ではない。相手をからかう際を除いては。
「美鈴はさ、人間のこと気に入ってるじゃん。人間たちの中で暮らすっていう生活も考えたことくらいあるでしょ。なんでそうしないの」
「……わたしみたいな化物が、ずっと人間たちの中にいられるわけないでしょ。人間ってのは変化を恐れるけど、変化しないことも同じくらい怖がるのよ」
自分よりも遥かに若いレミリアからの提案――それは美鈴がとうに実践したものだった。そして、既に自身で折り合いをつけていたことでもあった。いくら切望しても、叶わないことなどいくらでもあると。
「ふぅん」
美鈴の、いや体験した者が口にする言葉には、聞きかじった者が口にするそれにはない重みがある。レミリアは美鈴のそれを肯定するように相槌を入れ、続けて否定した。
「怖がってるのは、美鈴の方じゃないの?」
美鈴はぴたと動きを止める。否定も肯定もできなかった。自己完結して納得済みのはずなのに、どうしてこうも揺さぶられるのか。
「私が思うに、あんたは人間たちの中でも十分やってけるよ」
「……出てけって言ってるの」
自分でも驚くほど掠れた声が出た。
レミリアが美鈴の肩をばしんと叩く。吸血鬼の腕力で、わりと強く。
「あいたっ」
「んなわけないじゃん。もし家族がいなくなったら、全力で取り戻すさ」
「あ、そ……」
今度は本当に怒っているように見える彼女に申し訳なさと気恥ずかしさを感じ、美鈴はたじろいだ。
レミリアは眉を元の場所に収め、あとを続ける。
「あんたはわたしたちと同じ化物だけど、咲夜は人間だよ」
「そうね」
「でも咲夜はここじゃないと生きてけないんだよ。わたしたち化物の巣の中じゃないとね」
「知らないわよ」
人間の中に化物はいられないのに、その逆がどうして成り立とう。
「でなくとも勘付いてはいたでしょ。でなきゃ、わたしが咲夜を連れてきた日、美鈴ならあの娘を元の世界に戻そうとしたはずよ」
「そうかもね」
やはり咲夜のことになると無意識に対応が粗野になってしまうことを、美鈴は自認した。そんな自分を見るのが嫌で、頭を使うことに辟易していたところへまた新たな問題を投げ入れてくるレミリアに、話を逸らそうと持ちかける。
「話が見えないんだけど、それでわたしが何を怖がってるって」
「咲夜のこと」
話が逸れていなかったことに、美鈴は頭を抱える。
「……てんで意味が分からない」
「脳筋のあんたが考えてるような、よーいどんで殴りあった末の勝った負けたの話をしてるんじゃないよ」
「さっきからなに――」
「変わるのが、変わられるのが怖いんだよ、美鈴は」
確信という意思のこもったレミリアの声が、美鈴のそれを遮る。
本当に怖がっていたのは人間たちの方ではなく、美鈴だったのだと。折り合いをつけていたと思っていたものは、美鈴の逃避だったのだと。
「ここは変わらないからね。だから、ここにいるんじゃないの」
「変わらない……」
その言葉の意味を、確かめるように繰り返す。
レミリアの言とは裏腹に、紅魔館は変わっていた。
最初の紅魔館は、レミリアとフランドール、そして美鈴だけだった。そこから徐々に使用人が増えパチュリーも加わり、今の紅魔館となったのだ。住人が増えれば、自ずと個々の関係性も増えていくし、変わってもいく。
間違いなく変わっている。レミリアの言う変化とは、そういったものとはまた別のものを指しているのだろうか。
「でもさ」
突然、何も返せないでいる美鈴の手に、レミリアの手がそっと重なる。
甘く撫でるように指が絡んできて、美鈴はびくりと肩を震わせる。
「え、なにっ――」
「今日は少しだけ、冒険してみない?」
悪魔的な上目遣いで身体を寄せ、脚を絡められる。彼女のひやりとした肌の感触が、美鈴の脚を這いずった。
彼女の浮かべる恍惚とした微笑に、美鈴は思い出す。
本能が告げる役割を簡単に放棄し、自他のそれまでに一切の未練を持たず、己の存在理由など一顧だにせず、苦悩の湧く隙も見せない、手が届く限りの全てを得ようとする。運命を操り支配するという途方もない力を持っていて、されどそれにすら固執しない。
目の前にいるのは、そういうアレでアレな、我が儘吸血鬼だったと。
「変わるってのはいいことばかりじゃないけど、だからって悪いことばかりでもないさ」
地面に横たわった美鈴のお腹に頭を乗せ、夜空と向かい合ったレミリアが囁いてくる。
「こうして二人でだらだらするなんて、前までならあり得なかったっしょ」
彼女の声を聞きつつ、美鈴は湯呑みに注がれた血のように紅いワイン――その液面に映る月を無言で眺めていた。
傍らには、レミリアが持ってきたワインボトルが置かれている。湯呑みもだが、その小さな身体のいったいどこに隠していたのか。それよりもなぜ自分は地面に寝転んで、お腹を枕にされているのか。さっきは一瞬覚悟――何に対するものかは自分でも分からないが――を決めたというのに、この状況はなんなのだ。
風情もへったくれもあったものではないその状況に、表には出さないが、美鈴は自分でも不思議なほどの心地よさを感じていた。
酒など呑むのはいつ以来だろう。
呑んで大丈夫かなと不安を覚えつつも、好奇心から一口啜ってみる。
「そう思わない?」
甘えるような声音で、回答を求められる。
冷たく硬い地面に寝転んで。
何かがお腹をもぞもぞと這い回って。
肴と呼べるのは夜空に浮かぶ点々とした明かりだけ。
そんな中でも――
「かも、ね……」
家族と呑む酒は、悪くはない味だった。
朝を告げる澄んだ啼鳥が、優しく耳に入った。
凍て返ったような肌寒さに身震いしながら、美鈴は知らぬ間に下りていた瞼を上げ、周囲を検める。
空の色が薄くなっており、空になったボトルと湯呑みがその辺に転がっていた。
「あー、そうだった……」
その光景に、美鈴は昨夜のことを思い出す。
湯呑みが空になれば注がれて、空になっていなくとも注がれて、もう無理と訴えたところで容赦なく注がれた。そのまま意識を失ったのか。道理で地面が近いわけだ。
「……ん?」
他人の吐息が耳に入り、頭痛に耐えながら首をもたげた。
いつもより胸が重いと思ったら、レミリアがしがみつくように顔を埋めて寝入っている。
そういえば、注ぐばかりで彼女自身はあまり呑んでいなかった気がする。
「こんにゃろ」
腕を振り上げるが、気持ちよさそうに寝息を立てるレミリアに振り下ろすことなどできず、仕方なく彼女の体を軽く揺すってやる。
「もう朝よ。ほら、寝るなら部屋に戻りなさい」
「うー」
「うーじゃな――それは枕じゃないっ」
唸りつつさらに奥へと顔を押し付けてくるレミリアに、叫んだ。彼女の首根っこを掴み、引き剥がす。
「このままだと灰になるわよあんた」
「おっとそりゃいかん」
一瞬で覚醒し明瞭な声を上げるレミリアを、本当に眠っていたのかと半眼で見やりつつ、こちらも起き上がる。
それを待ってから、レミリアが片手を上げた。
「んじゃ、ぐっない」
「だから朝だっての……あ、ちょっとレミリア」
出入りのために配置した本人なのに門を通らず塀を飛び越えようとする彼女に、反射的に声をかける。
空中で停止し、なにと振り返った彼女と目が合い、美鈴はさっと顔を伏せた。
名残を惜しんだわけではない。飲酒を強要したことに不平をもらそうとしたわけでもない。ただ、彼女に伝えなければならないことがあった。
地面に視線を落としたまま、言う。
「えと、昨日はその……ありがと。少しすっきりした気がする」
頬が熱くなる。家族だからこそ、改まって礼を言うのは照れくさい。
「……おぉ……」
「……?」
空から、感嘆の声が降ってきた。眉をひそめ、再び顔を上げる。
「なに?」
「めーりんが……デレたっ!」
固く握った両拳を震わせながら、そろそろ深刻に明るくなってきた空に向かってレミリアが叫ぶ。美鈴は先刻よりも顔が熱くなるのを感じた。
「っ! てないっ!」
「きたわぁー!」
「うっさい! とっとと巣に帰れ!」
レミリアはくるくると宙返りなどしながら塀の向こうへ消えていく。が、すぐに顔だけがにょきっと戻ってきた。
「そうそう」
「今度はなに!」
忘れ物でもしたのか、怪訝に思う美鈴を見下ろし、レミリアが言う。
「おめでとう、くらい言ってあげてもいいと思うな」
「……あい?」
「んじゃ、ぐもーにん」
「いや確かに朝だけどさ……」
さらに眉根を寄せて疑問符をあげる美鈴に構わず、レミリアは朝日から逃げるように館へ戻っていった。
「ところで貴女、今さらなのだけれどその格好で門番をしているの?」
とりとめもない会話の最中、唐突に飛んできたパチュリーからの疑問に、クッキーを口に運ぼうとしていた手が止まる。
レミリアが自室に帰ってから、二日酔いに襲われた美鈴はとりあえず水分を補給するため図書館を訪れていた。
二日酔いは早々に治まったが今度は小腹が空いて、茶菓子をねだっているうちについ長居してしまった。
クッキーを皿に戻して、メイド服の胸元を摘みながら答える。
「仕方ないじゃない。館の中で不自然じゃない服といったらこれしか持ってないもの」
「外でしょうに。それに見合った服装をしたら」
それまで疑問にすら思っていなかったが、自分の今の職場は館の敷地内ですらなかった。言われてみると確かに場違いではある。
「見合った、ねぇ。これの他は他所行きの分しか……ちと探してみるか」
思い当たる節があり、美鈴は席を立つ。
クッキーはそのまま残しておくよう念を押してから、足早に図書館を後にする。
紅魔館の使用人には各々部屋が割り振られている。そのほとんどはベッドとワードローブが置いてあるだけの簡素なものだったが、美鈴の部屋はそれと異なる造りになっていた。
彼女の自室には他に比べて広い間取りだけでなく、クローゼットとさらには浴室まで設けられていた。それは、最古参である彼女が当初よりその部屋を独占していたためである。が、使用人が増えるにつれメイド長待遇という色が濃くなっていた。
「早く引越ししないとなぁ」
引越し作業が滞っているそんな自室に戻り、美鈴は呟いた。門番となった今、この部屋の占有を続けるわけにもいくまい。
滞っているどころか全く進めていない理由は、何百年使ったか分からない部屋に愛着があるから、ということではない。身だしなみに人一倍気を遣う美鈴は、どんなに忙しくとも日々の湯浴みを欠かしたことがなかった。時刻を気にせずお風呂に入れるという特権は、そんな彼女にとって渡りに舟なのである。
実を言うと、表向きは既に咲夜の部屋ということになっている。しかし次に入るべき咲夜がどういうわけかここを使っていないため、美鈴は今でもここの浴室やクローゼットをこっそり使い続けていた。
「まあそのうち、ね」
真剣に考えるのはモラトリアムが明けてからにするとして、美鈴はクローゼットを開くと、吊り下げられた衣服を掻き分けて作った隙間に頭を突っ込んだ。
「この辺にしまったと思うんだけど」
目的の物を探すため、手前の物をぽいぽいと外に出していく。さすがに数百年ともなれば物も増えていたようだ。今さらながら、多少の愛着が芽生える。
と、突然ノックもなしに部屋の扉が開く。
とうとう咲夜がこの部屋に移ってきたかと思うも、入ってきたのは使用人の一人だった。
クローゼットから顔を出すと、仕事中である咲夜の部屋から漏れる物音を怪訝に思ったのだろうか――されとて、ノックくらいするべきだと思うが――、その使用人が部屋を見回して物音の正体を暴こうとしているところだった。
さして時間もかからず、二人の目が合うや、
「ひっ!」
夜道で化物と出会ったかのように顔をひきつらせ、使用人が背筋を振るわせた。
「顔見るなりひはないでしょ」
「す、すみませんメイド長!」
その反応に少なからずショックを受けて半眼で皮肉を飛ばしてやると、使用人は背筋を伸ばし、直立不動で声を張り上げた。
美鈴は嘆息しつつ、言う。
「もうあんたたちの上司じゃないんだから。普通に振舞えばいいわよ」
「そ、そういうわけにもっ」
脂汗など流して、なんだか必要以上に狼狽している様子だが深くは考えず、美鈴は肩を竦める。
「確かに、どん底付近まで降格させられたもんに普通に接しろってのも無理か」
「そんなこと……!」
「とりあえず、今はあの娘がメイド長なんだから、わたしのことはそれ以外で好きに呼んでちょうだい。あと悪かったわね、まだ荷物が整理できてなくて。なるべく早く引き払うから」
他の子たちにも伝えておいてと告げ、美鈴は発掘作業を再開した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……なにそれ」
戻ってきた彼女の姿に、パチュリーはページをめくろうとしていた手を止めた。
「なにって、あんたが着替えろっつったんじゃない」
そう答える彼女が身に纏っている衣装は、先刻までの標準的なメイド服とはかけはなれたものだった。
第一印象は、新緑の色合いを基調とした、遠目に見ても上質な生地で仕立てられたチーパオだった。が、よくよく見ると細工が少々異なる。シンプルな構造ながらも腰周りが絞られ胸元が強調されたところは一般的なそれであるが、動きやすさを考慮してか上下が分けられている。何より目に付く部分は、
「そんな無駄に色気だだ漏らしのスリットを着ろなんて言った覚えはないわよ」
下着が見えるか見えないかというぎりぎりを攻めるかのように深々と入れられた切れ込みだった。
「これしかないんだもん」
口を尖らせる彼女の、そのスリットを睥睨する。
白くすらりと伸び、余計な凹凸はなく、光沢すら窺えそうなほど瑞々しく張りがあり、細すぎず太すぎない妖艶に描かれたラインが、そこから惜しげもなく覗いていた。
メイド服は丈の長いスカートであるためお目にかかるのは初めてだが、これほどの美脚を隠していたとは。
いったいどうやればこんな究極形の一つのようなものが生えるのか気になるが、そんなことはおくびにも出さず、パチュリーは言う。
「あなた、二言目にはそればかりね」
「何百年前に買った服かも覚えてないけど、虫食い一つないのは奇跡だと思わない」
言いつつ、くるくると回ってみせる美鈴。
服よりもまず驚愕すべきはその安定性だ。ゆっくり回っているはずなのに、まるで高速回転するコマのように身体の芯がブレない。
「袖とかないから関節の自由度もすごい」
言いつつ、軽く屈伸や跳躍をしてみせる。
驚愕すべきは、彼女の動きにワンテンポ遅れつつも必死についていこうとする無駄肉の塊だった。遅れた分だけ揺れるわけで、パチュリーは思わず凝視してしまう。
「どしたの」
声をかけられ、パチュリーの硬直が解ける。
「垂れてしまえ……」
ぼそりと呻く。
「なんか言った?」
「いいええ」
そらとぼけつつ、改めて美鈴の纏う衣服に視線を戻す。
数百年を押入れの奥底で過ごしたというその服に虫食いどころか風化の痕跡さえ見て取れないのは、おそらくしまう前に彼女がその能力で保護したためだろう。数百年も入手時の状態を維持させるほどには気に入っていたのだろうが、どれだけ念入りに封をしたのか。
ふと考える。果たして、自分の魔法で再現できるだろうか、と。
自信はない。しかしすぐに、はいできません、と降参できるほど安い矜持は持ち合わせていない。
――今度実験してみるか……やっぱやめときましょう。
対抗心を刺激されはするが、結果が出るのは数百年後だ。それまで待てるほど忍耐強くはないし、なにより実験したこと自体を忘れてしまっているだろう。
自身の余計な一言をきっかけに、お蔵入り実験項目がまた一つ増えた。
動き回ったせいで乱れた着衣を整える美鈴を尻目に、パチュリーは好奇心にそっと蓋をした。
「それにこれなら汚れても大丈夫だし、ちょうどよくない?」
「まあ貴女がそれでいいのなら何も言わないけれど」
気に入っていたのではなかったのかという指摘が漏れそうになったが、彼女の服をどう扱おうが彼女の自由ではある。
「ところで、それは?」
パチュリーはテーブルに置かれた小箱を示す。大きさは手のひら大、桃色の紙で包装され、薄い黄色のリボンで封されている。
美鈴が図書館へ戻ってきた際に持っていたものだったが、服やら何やらに気を取られて存在を忘れていた。
「ああ、大したもんじゃないわよ。クローゼット漁ってるときに、一緒に見つけたの」
「そのわりには綺麗にラッピングされているのね」
「パチェが気にするようなもんじゃないって」
「ふうん?」
そう言われると尚更気にはなったが、あまり詮索されたくはない様子なのでそれ以上の追求はしないでおいた。
「さて、そろそろ戻ろうかな」
言いつつ、美鈴はさっと小箱を回収する。ついでに残っていたクッキーを平らげた。
「あら、お迎えは待たないの?」
あと小一時間もすれば正午――つまり咲夜が美鈴を迎えに来る時間である。
できればもう一度彼女の奇術を見てみたかったのだが、美鈴が行ってしまうのであればそれは叶いそうにない。
「今日はいいの」
そんなパチュリーの思惑を知る由もなく、美鈴はそそくさと退室してしまった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
門塀に背を預けて瞼を閉ざし、春光を浴びながら、彼女は考えていた。
思えば門番となってから、この時間帯にこの場所に立っているのは初めてのことではないだろうか。
暇を潰すために釣りをしたり湖畔を走ったりもしたが、こうしてただ待っている時間も悪いものではない。
何かを計画し実行する際、人はその計画段階において最も愉楽を感じるのだと何かの本で読んだことがある。その通りかもしれない。
周囲に意識を配ることもなく、流れてくる鳥の囀りや葉擦れにただ耳を傾けていると、そこに別の音が紛れ込んできた。
刻んだ年月に相応な金属の擦れる音――それとともに、門が開く。
瞼を上げて見やると、待ち人がそこに立っていた。
「なによ、文句ある」
門を出てすぐに立ち止まった咲夜が、小さく首を振る。
「ない。おどろいただけ」
外見上の変化はほとんど見受けられないが、いないはずの相手がいたことに――あるいは美鈴の装いに――驚いてくれたらしい。それだけでも待った甲斐があった。
美鈴は満足して塀から離れると、咲夜へ歩み寄る。
「今日のお昼は?」
「……そこ」
咲夜は美鈴の顔を、正確には彼女の頭上を指差す。頭に重みを感じて、美鈴はそれを落とさぬよう慎重に両手を持っていった。
「……驚かせた仕返し?」
「……」
咲夜はいつもと変わらない表情で見上げてきていたが、心なしかその小さな唇を尖らせているようにも見え、美鈴はこぼれそうになる笑みをなんとか堪えた。
盆を落とさぬよう注意深く回収し、本日の昼食を確認する。
メニューは昨日と同じ握り飯だった。手に取るだけで崩れてしまいそうなところも、昨日と同じだ。
その一つを掴み、咲夜に見えるよう掲げてから、
「いただきます」
彼女の目を真っ直ぐ見つめて、言う。そうしないと、食べ終える前に去ってしまいそうな気がして。
彼女が動かないのを確認して、一つ二つと口に放り込む。もともと大きくはない握り飯だったため、五つ全てを胃に納めるのにさして時間はかからなかった。
足止めには成功していたようで、相変わらずの顔のまま、咲夜は食事が終わるのを待っていてくれた。
一息ついて、そんな彼女に視線を戻す。
「ごちそうさま」
「……」
その挨拶に返す言葉を知らないのだろう、咲夜は無言で見つめ返してきた。
そんな彼女にくるりと背を向け、美鈴は両手を空に突き出して大きく伸びをする。
「さ、空振りさしたしお腹も膨れたところで、キリもいいしサボるとするか」
「なんでそうなるの」
背後で咲夜が非難の声をあげるが無視し、振り返る。
「あんたも付き合いなさいよ」
「なんでそうなるの」
美鈴は再度無視して咲夜の前に屈みこみ、咲夜の瞳を覗き込む。
「その前に、ずっと気になってたんだけど、あんた……」
彼女とこうして間近で向かい合うのは初めてだった。
近くで見つめていると惹き込まれそうになる、澄んでいて、けれど儚げな色彩の瞳。
ずっと見つめていたい気持ちが湧くもそれより優先すべき問題があり、美鈴は両手でおもむろに、咲夜の小さな頭を鷲掴みにした。
「?」
行動の意図が分からないと疑問符を上げる彼女の、その萎びれた髪に鼻を近づける。
「くさい」
ばん、という大きな音と共に、正門と同様無駄に背の高い正面玄関が開く。
「わっ――ひっ!」
近くにいた使用人の一人が突然開け放たれた扉に驚き、次いで現れた、現メイド長を小脇に抱えた元メイド長の姿を見て顔をひきつらせる。
そんな彼女には一瞥もくれず、美鈴は咲夜を抱えたまま館の中を突き進んだ。
もはや目を閉じても進める、慣れ親しんだ道順で目的地に辿り着くと、そのままの勢いで元自室であり未だ自室の扉を乱暴に開き、そのさらに奥へと押し進む。
空になった盆をベッドに放り、その奥にある最後の扉を開くと、そこには彼女が毎日欠かさず世話になってきた場所があった。
入ってすぐのところに大きな鏡のついた洗面台があり、脱衣場を経て、その奥が浴室となっている。
そこでようやく、美鈴は咲夜を解放した。
「ほら、おとなしく両手をあげなさい」
カビ一つ許したことのない浴室に拉致してきた咲夜を立たせ、衣服を順序良くてきぱきと剥いでは洗濯籠に放り込む。多少の抵抗はあるかと予想していたが、彼女は終始されるがままだった。
脱がすものがなくなると今度は自分が脱ぐ。もちろん脱いだ服はきちんと畳んで別の籠に入れた。
「それっ」
予め張っておいた湯船に、まるで洗濯物を籠に放り込むかのように咲夜を投げ入れる。ここまでやっても無抵抗のまま、彼女は湯船に沈んでいった。
「ホントは体を流してからだけど、今日は特別よ」
言いつつ、美鈴はブラシやタオルなど必要なものを探し始める。
石鹸などは同じものでいいとして、椅子は二つ必要だ。あと子供用に柔らかい素材の、例えば絹か何かのタオルがこの辺になかったろうか。
自分の段取りの悪さを呪いつつもどうにか必要と思われる物を揃え、髪をまとめたところで、美鈴はようやく気付いた。
「……なんで!?」
沈んだまま浮いてきていない咲夜に。
「ちょちょちょ! あんたなにやってんのっ!」
両脇に腕を差し込み抱えるようにして、湯船の底から掬い出す。
どうやら間に合ったようで、咳き込む咲夜に安堵する。そして同時に、あまり良くはない予感を覚え、訊く。
「もしかして、お風呂とか知らない?」
咳き込みつつも頷く彼女の仕草が、腕の中で伝わってきた。
前後に並べた椅子にそれぞれ座り、咲夜の背中を流してやる。
「ほら、耳の裏とかもちゃんと洗いなさい」
彼女の手からタオルを奪い、銀髪をかき上げて耳の裏やうなじを擦る。
「……うん」
「爪を立てないで、髪はもっと丁寧に洗いなさい」
彼女の洗い方に我慢できず、頭皮に優しく指を這わせてやる。
「……うん」
「ちゃんと髪は乾かしなさい。そんなだから傷むの」
「……うん」
「だからってそんなごしごししない。拭き方はこう、タオルで挟むように」
再度タオルを奪い、彼女の銀髪を包み込むように優しく圧をかける。
「……うん」
「風呂上りに冷たいものはだめよ。こういうのにしときなさい」
タオル一枚でベッドに腰掛けた彼女に、こっそり拝借してきたパチュリー秘蔵のハーブティーを淹れてやる。
「……うん」
「今日のところはこんなもんか」
ドタバタとした一連の湯浴みを終え、美鈴は達成感を覚えつつ頷いた。
鏡の前に座らせた咲夜の銀髪を櫛で梳かしつつ、新しいメイド服に着替え淡い石鹸の香りを漂わせる彼女の背後から、鏡越しに改めて観察する。
これまでの積もり積もった不摂生が一度や二度の湯浴みで払拭できるわけもないため、今はこれで我慢しておく。
美鈴はまた一つ頷くと櫛を置き、鏡の向こうから見つめてくる咲夜の銀髪をいじり始めた。
「あと身だしなみには気をつけなさい。着飾れとまでは言わないけど、多少の洒落っ気くらいは持ちなさい。これはメイド長とか関係なく、人としてよ」
慣れた手つきで銀髪を整え、結わえていく。何百年どころではない幾星霜の中繰り返してきた動きだけに、無駄はない。比喩ではなくあっという間に仕上げてしまう。
「……いまの、どうやったの」
彼女の熟達した指先の動きに付いてこれなかったのか、ここにきて初めて相槌以外の言葉を発した咲夜に、美鈴は次に取り掛かろうとしていた手を止める。
顔を上げると、結わえられた自身の髪を不思議そうに眺めている彼女がいた。
「ただの三つ編みじゃない。知らないの」
「…………しらない」
言われ、咲夜は鏡の中の美鈴と目が合うや、すぐに逸らすように顔を伏せた。
たったそれだけの小さな動作であったが、これまでどんなときでも無感情に美鈴を見つめ返してきた彼女からしてみれば実に感情のこもった動きに見えた。
咲夜が初めて見せた少女らしい反応に、美鈴はその死角でこっそり微笑むと、ラッピングされた小箱を手に取る。
今朝、パチュリーが気にしていたあの小箱である。服を発掘した際一緒に出土したものに、改めて包装を施したものだった。
咲夜に封を切らせるつもりでいたが、あまり拘らず、薄い黄色のリボンを解いて桃色の包みを破り、その中に忍ばせていたものを取り出す。
「じゃあ今度教えたげる。あとこれもあげるから、いつか自分でできるようになんなさい」
取り出したものを、出来上がった三つ編みの先に結んでやる。それは美鈴の服と同じ、新緑の色合いをしたリボンだった。
「……ひも?」
「紐はないでしょ。リボンって言いなさい」
言いつつ、反対側にも三つ編みを作って、リボンを結ぶ。
「リボン……」
「まあ、あれよ…………おめでと」
「?」
誕生日というものを知らないのか、それとも自分の誕生日を知らないのか。レミリアが言っていたのだから、今日で間違いはないはずなのだが。
どちらにせよ気恥ずかしくなり、美鈴は誤魔化すように咲夜を立たせ、振り向かせる。
と――
「ほ、ほら、もう終わったか……ら……?」
美鈴は絶句した。
眼前に、仕上がった一人の美少女が立っていた。
なんということだろう。あれだけ傷々しい様相であった銀髪は美鈴の手によって本来の姿を思い出したかのように艶を見せ、十分な湯浴みによって肌や唇は血色と張りを取り戻し、下ろし立てのメイド服がその愛らしさをさらに引き立てているではないか。
美鈴の手により生まれ変わったかのような――いや、これが生来彼女が持っていた資質なのだろう――見る者を惹き付けて放さないその佇まいに、美鈴は思わず抱き締めたくなる衝動を必死に抑えた。
十年もすれば、きっと自分など及びもつかないような美女となっているだろう。そう思わせるほど、将来を確約されたかのような素養が止め処なく溢れている。
なんてものを生み出してしまったのか。
これが女としての防衛機制か。愛惜と、いっそなかったことにしてしまいたいという嫉妬とが、彼女の内で激しく渦巻いていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「美鈴がオカンになった」
いつもの図書館のいつものテーブルを、レミリアがどんと叩く。
「あらそう。そのこととテーブルを叩くこととの因果関係も、少しは気にしてみたら?」
最近とみに叩かれるようになった愛用のテーブル――よりにもよって叩くのがもっぱら規格外の腕力を持った二人であったため、近々壊されるんじゃないかと真剣に懸念しつつ、パチュリーは非難を含んだ諫言を投げた。
レミリアは気付いた様子も見せず、両手を付いて身を乗り出してくる。
「身だしなみとか掃除とかから始まって、最近はテーブルマナーまで教えてるんだよ。一緒に料理したりお風呂入ったり、しまいには並んで歯磨きとかまでしちゃってさ」
何かを訴えているようだがいまいち何を訴えたいのか理解できず、パチュリーは集中を乱されて本を閉じる。
美鈴と咲夜が度々会っていることは、使用人たちから聞き及んでいた。
「まるで見てきたような物言いね。覗き見は趣味が悪いわよ」
「観測するという行為によって物体が減少することはないけど、わたしは充足するんだよ。全世界が幸せになるロジックだと思う」
腕など組みつつ、否定するどころか全肯定する彼女に、パチュリーは半眼を向ける。
「何の受け売りか知らないけれど、貴女って本当にアレね。見られる方は単純に嫌よ」
「とにかく、美鈴があそこまで世話焼きだったとは」
彼女が何を訴えていたのかようやく理解し、嘆息する。
「館内にいたときからそんな節はあったけれど」
館内――紅魔館のメイド長として、実質的に館全体を仕切っていた彼女の姿を思い出す。
部下のことを想うあまり厳格に接しながら、時には彼女らの好物を食卓に上げるためだけに休日を釣りに費やす。侵入者の闖入やフランドールの暴走に際しては、誰かに危害が及ぶ前に全力でこれを制す。何事にも妥協なく接するその凛々しくもある立ち居姿や、個としての純粋な強さに、畏怖とともに憧憬を抱く者もいた。
本人がどういった考えの下メイド長という役割を担っていたのかは分からないが、使用人やパチュリーの視点からは、紅美鈴という女はそういった存在だった。
「でもちょっとテコ入れしただけであそこまでなるなんてねぇ。本人に自覚が芽生えたのかな」
「もともとそうだって言ったでしょう。変わったというなら、むしろ咲夜の方じゃないかしら」
もはや読書に戻ることは望めそうになく、パチュリーは諦めて焼き菓子に手を伸ばす。が、寸前でレミリアに横取りされてしまった。
手持ち無沙汰に、空振りした指先の行き場を求め、仕方なくその隣に手をつける。
パチュリーが使用人らから聞いた話では、咲夜と美鈴は頻繁に逢引しているらしい。といっても、別段隠れてというわけでもなく。
咲夜が抜けている間の雑務は他の使用人が負担しているらしいが、相手がメイド長とはいえ幼子とあっては、これに不満を抱く者もいないようだった。ただ、日を追うごとに見違えるような可憐さを備えていく咲夜が美鈴の許へ赴く様に、妬み含みの羨望を向ける者は掃いて捨てるほどいるようではあるが。
門前に立っている美鈴を咲夜が毎日のように訪ね、そのまま二人でどこかに消えてしまう、というところで話は終わっていた。まさかベッドで愛やら何やら語らっている、などと邪推してはいなかったが、先にレミリアが言ったようなことをしていたのか。
なんら示し合わせもなく、毎日のように誰かが訪ねてくる――自分がその立場になったらどう感じるだろう。ひどく煩わしく思うかもしれないが、存外に楽しんでしまうのではなかろうか。
「他の子たちのフォローがあるとはいえ、役割をこなしながら足しげく通っているみたいね。以前とは違う目的で。端から見ていても微笑ましい光景だと思うわよ」
「……咲夜が美鈴に懐いた、って?」
「?」
横取りした菓子を弄ぶ彼女に、違うの、と目で問いかける。
「あれはただ――」
レミリアは菓子を口に放り込むと、ろくに味わいもせずに紅茶で押し流した。
「まだ、新しい依存先を見つけただけだよ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
門前に立ち、そもすれば一生現れないかもしれない侵入者ではなく、門の向こうから姿を見せる彼女を待つ。
そんな日課が生まれて、彼女にものを教えるようになって、もう幾日経過したろうか。
家事全般の飲み込みは早かった。それは彼女が持ってくる食事にも色濃く反映されている。が、手先は器用で要領もいいはずなのに、どういうわけか三つ編みだけは習得の兆しが見えていなかった。
毎日、一緒にいられる最後の時間に、咲夜は三つ編みの練習をしていた。しかしちっとも上達せず、時間切れ間近になると、
「……やって」
と、無表情なのにどこか憮然とした様子で言ってきて、結局美鈴が彼女の髪を整える。それも日課の内だった。
咲夜のあの顔を思い出すだけで、自然と口元が緩む。
彼女が持参した食材で、料理を教え。
湖で釣りを教え。
木の登り方を教え。
食事の作法を教え。
日々を、これほど長く感じたことはなかった。
過ぎ行く時間を、これほど名残惜しく感じたことはなかった。
そして、ただ待つという時間を、こんな気分で過ごせたことはなかった。
「さて、今日は何をしようかな」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
なんとなく、これ以上は読書を続けられない予感がして、彼女は本に栞を挟み、席を立った。
壁際に置いてある、少し離れた食器棚まで歩き、カップを選ぶ。
薄い緑色の地に、銀色の花のような結晶が散りばめられた陶器――今日はこれがちょうどよい。そんな気がした。
「わたしがやりますよー」
頭上から、若干間延びした印象の声が降ってきた。
見上げると、分厚い本を何冊か抱え、悪魔然とした両翼をぱたぱたさせている小悪魔がこちらを見下ろしてきていた。
パチュリーは、いいの、と片手を上げて制す。忙しなく飛び回る彼女にあまり負担をかけないように、というわけではなくたまには自分でやろうと思うのだ。やはり、なんとなくだが。
カップに埃が付着していないことを確認してから、新しい茶葉も手にテーブルへ戻ると、自分のカップの隣へ、新しいカップを静かに置く。
ポットの茶葉を入れ換え、湯を注いだところで、軋んだ音を扉が立てた。
前置きなしにここへ入ってくるのは、紅魔館においては二人しか心当たりがない。一人は吸血鬼の友人で、もう一人は――
「パチェ、お茶ちょうだい」
「あら、久しぶりね」
カップと似た色の衣服に身を包み、包みきれていない脚をちらちらと覗かせながら、美鈴が歩み寄ってくる。
咲夜と会うようになってからはちっとも顔を見せなくなっていた彼女の訪問に、顔を綻ばせながら非難してやる。
「近頃はとんと立ち寄らなくなったから、忘れられたかと思っていたところよ」
「いろいろ忙しかったのよ」
「あの娘と重ねる逢瀬とか?」
「お……そんなふうに言わないでよ」
目を背けながら、美鈴は席に着く。テーブルの茶菓子に手を伸ばそうとしたところで、先程のカップに目をとめて訊いてくる。
「いい趣味ね、これ。こんなの持ってた?」
「普段は使っていなかったら。どうぞ」
茶菓子のかわりに彼女が手に取ったカップへ、ちょうど頃合になった紅茶を注いでやる。
「本を持ってないのは珍しいね」
「ちょうどお茶が切れたところに、貴女が来ただけよ」
湯気とともにカップから立ち上る香りを楽しむ美鈴。その様子を眺めつつ、パチュリーは自分の分も用意する。
椅子に腰掛け、彼女と同じように香りを楽しんでから、口をつける。
「やっぱパチェの淹れるお茶は美味しいね」
「ありがとう。でも、やっぱりあの子たちが淹れてくれるものの方が美味しいわよ」
「それはあれじゃない? おにぎりとかも、自分で握ったやつより他人が作ったものの方が美味しく感じるような」
「ふむ……」
言われてみると、そうかもしれない。学術的根拠はないし、情を感じるからということでもないのだ。言い得て妙だと、パチュリーは感じた。
やはり小悪魔にお願いするべきだったと嘆息し、カップを置いて訊ねる。
「咲夜も、貴女が淹れるお茶を美味しいって?」
「あの娘はあんまし、というかぜんぜん自分から感想とか言わないのよ。だからこっちで勝手に判断してる」
「顔に出るの?」
「いやまったく」
好物を口にして頬を緩ませる咲夜も想像できないが、では他にどういった判断材料があるのだろう。パチュリーは小首を傾げるようにして、美鈴に解答を求めた。
「そうね、例えば料理。出されたものは全部食べるんだけど、好き嫌いが食べ方に表れるの」
「好きなものは後に残して、ゆっくり味わうとか?」
「パチェもわたしもそうだけど、あの娘は逆ね。好きなものからさっさと食べちゃうの。ちゃんと味わってはいるみたいだけど、なんだか急ぎ気味に」
当初は接し方が分からないなどと悩んでいたわりに、よく見ているようだ。美鈴の語り口は、客観的な見解の陳述というより、むしろ親が子供のことを他人に話して聞かせる様子に近かった。
――レミィが言っていたのはこれか。
とまれ、食べ方には個々の性格が如実に表れがちだ。パチュリーは好物を口にする瞬間よりも、それまでの過程を楽しむ傾向にあると自分でも感じている。それは読書や魔法の研究にも通ずるものであった。きちんと成果は求めるが、それよりもその道程を重要視する。
「……貴女に取られると思っているんじゃない?」
「他人のもの取ったりなんてしないわよ」
あっさりと答える彼女に、パチュリーは半眼を向ける。
「あらそう。先日、楽しみに取っておいた茶葉を誰かさんに無断で持ち出されちゃったのだけれど」
「ぐぅ……!」
美鈴の口からぐうの音が漏れた。
パチュリーが言ったのは、何かの折に皆に振舞おうと戸棚の奥に隠していた、この辺りではあまり手に入らない茶葉のことだった。
戸棚を開いて、あるはずのものがそこにないと気付いたときの喪失感と、同時に湧いた憤怒は計り知れない。草の根分けても下手人を捕らえ、生物を対象とするには憚られるいくつかの魔法の被験者になってもらおうと、一時は本気で計画したほどだった。
しかし冷静になって考えてみると、下手人の心当たりはそう多くなかった。大体、自分の私物をそれと分かって無断で持ち出すような者は、紅魔館において二人くらいしかいないのだ。その内の一人は動揺など微塵も悟らせないであろうから、もう一人にかまをかけてみたのだが、どうやら当たりを引いたらしい。
時間の経過とともに忘れかけていた惆悵が、再燃した。
「美味しかったかしら? わたしが独りで陰鬱に楽しむよりは、幾分有用に使ってくれたのかしら?」
「ごめんなさい美味しかったですあの娘と全部飲んじゃいましたっ」
がばとテーブルに手を付き低頭して早口で懺悔する彼女に、パチュリーは嘆息する。咲夜と飲んだなどと言われては、それ以上怒気を維持できなくなってしまった。そもそもそこまで怒ってはいなかったのだが。
「美味しかったのならいいわ。次はもっと多めに仕入れておくから、欲しいときは一声かけてちょうだいね」
「ホント? じゃあ次はあれの倍くらいお願い。あの娘も気に入ったみたいだから」
「……まったく、貴女というのは本当に……まったくだわ」
咲夜を出汁にすればある程度の融通が利くと解してしまったのか、ふてぶてしく要求してくる彼女に、まったくその通りなので、頭を抱えるしかなかった。
これ以上何かを付け加えられる前に、パチュリーは美鈴が食いつきそうな話題を提示する。
「それで最近、咲夜の様子はどうなの?」
「様子って言われてもね、相変わらずよ」
美鈴が差し出してきた空になったカップへ、おかわりを注いでやる。
紅い液体が再度満たされたカップを手に、彼女は浅く座り直し、背もたれに体重をかけるようにして天井を仰いだ。
「無表情のままだし口数も増えないから、いつもわたしばっか喋ってる。髪いじりを教えてやっても一向に上達しないし」
「それは貴女の教え方に問題が? それとも咲夜のもの覚えが悪いのかしら?」
「いやいやいやそんなことないよ? 他のこと、そうたとえば掃除とか料理とかでいうと教えたことはすぐできるようになるんだよ? 意外と手先は器用だし要領もいいみたいで、結構なんでもやれちゃう娘なのよ。ただなんでか髪をいじるのだけは下手くそなのよね。まあそんなとこも可愛いからいいんだけど。そうそう近いうちに読み書きも始めようと思ってるからたぶんここの本なんてすぐ理解できるようになっちゃうわよ」
がばと身を乗り出すような勢いでまくし立てる彼女に、しばし呆気に取られる。
――……これが親バカというやつかしらね。
思いがけずスイッチを押してしまったか。微笑ましいやら鬱陶しいやら。
「……」
やっぱり鬱陶しいので、とにかく一息つかせようと、菓子の乗った皿を美鈴の方へ押しやる。
しかし彼女は、差し出された菓子に手を付けず逡巡するように見つめてから、次いで別の方を見やる。その視線の先では、壁に掛けられた振り子時計の針が正午近いことを指していた。
「……もう少しでお昼ご飯だし、そろそろ戻ろうかな」
「あらそう?」
昼夜を問わず菓子を残して去ったことなどなかった彼女に、揶揄しつつ別れを告げる。
「今度はおたくの、利発で可憐な咲夜ちゃんも連れて来なさいな」
からかわれて自分の親バカぶりに気付いたのか、美鈴は服とお揃いの帽子を目深に被るも、紅潮した頬までは隠せていなかった。誤魔化すように言ってくる。
「ま、まあわたしが見れてないところ――わたしの後任とかがちゃんと務まってるのかは疑問だけどね」
そそくさと席を立つ美鈴。
パチュリーもテーブルの隅に置いていた本を手繰り寄せた。挟んでいた栞を頼りに読みかけの行を探す。
そのとき不意に――呟いてしまった。
「そうかしらね?」
後に続く言葉を用意していたわけではなかったし、彼女の足を止めようとしたわけでもなかった。本人でさえ意識せず発した声だったため、ただの相槌として受け取ってもらえればそれで済んでいた。
しかし美鈴は、扉の把手に手を掛けた姿勢で、足を止めた。顔だけ振り返る。
「……え?」
距離が開いていたため、彼女はただ聞き取れずに振り向いただけなのかもしれない。だが、無意識に発していた自身の声に一番驚いていたパチュリーがそのことに気付いたのは、続きを促されたと思いそれに盲従してしまった後だった。
「貴女がメイド長というものにどんな認識を持っていたのかは知らないけれど、あの娘はあの娘でメイド長として十二分な働きをしていると思うわ」
一度口にしたら、もう後戻りはできなかった。
体力的に、あまり長く言葉を紡ぐことを得意とはしていない。パチュリーは本を持ったまま、呼吸を整えるため間を取るように顔を上げ、美鈴を見ないよう別の方向へ視線を送る。
眺めていて楽しいとも思えない図書館の風景を流し見つつ視線を泳がせていくと、はたきを持って書棚の埃を掃っていた小悪魔と目が合った。
彼女の目が、干渉していいんですか、と問いかけてきているような気がした。
――いいのよ……どうせ何をしようと、織り込み済みでしょうから。
心中で、彼女に詭弁を返す。
傍観者でいてほしいと友人に頼まれ、了承し、約束していた。だがその友人は、パチュリーが結果的になにを選択し実行するのか、視て知っているはずだ。友人の破滅を今際の際まで傍観することなどできず、かといって友人との約束を反故にすることもできないパチュリーのジレンマでさえも。
――それを詭弁だというのよ。
そんなのは建前だ。
自分は、彼女たちの話をほとんど一方的に聞くだけの地蔵か何かか? その思いが日に日に育ち、先日はつい咲夜を誘導するような言動をしてしまった。それからずっと我慢してきたのに、今日久しぶりに美鈴と会って、咲夜のことを楽しそうに話す彼女に、とうとう耐えられなくなったのだろう。
美鈴を咲夜に取られたとか、そういう浅ましい嫉妬の類ではない。我慢できないのは、変わっていく彼女たちを独り蚊帳の外から見続けることしかできない、自身の境遇だった。
十分すぎるほど間を置いて、パチュリーは独白するようにあとを続ける。
「咲夜を連れてきた少し後、レミィがね、職場改善と言っていたのよ。最初はどんな奸計を巡らせたのかと思ったけれど、近頃の館内の様子を見て、なんとなく分かった気がするわ。貴女は何も気付かない?」
ここでようやく、パチュリーは美鈴を視界に捉える。
扉の前に立ったまま、完全にこちらを振り向いていた。目を細めて、しかし睨んでいる様子はなく訊き返してくる。
「気付く、って……なにに?」
「館内の雰囲気が、以前とは比べ物にならないくらい明るくなっていることに。住人の大半を占める使用人たちの所作に活気が湧いているのだから、当然よね。ああ、勘違いしないでもらいたいのだけれど、閑職に追いやられた貴女に清々している、ということでは決してないのよ? 逆に、貴女という確固不動な存在を失ったことで、自己研鑽に励む者もいるわ。それらの中心にいるのが、彼女」
「……咲夜」
ほとんど口元を動かさず、まるで銅像のように美鈴が答える。
彼女がその名を口にしたのを、初めて聞いたような気がした。頷きを返す。
「貴女にできることを、とりもなおさず咲夜ができるというわけではない――それがあの子たちの総意。だから咲夜に足りない部分はあの子たち自身が補う。先の職場改善に使用人の意識改革という宿謀があるのだとしたら、紅魔館ならではの成果と言わざるを得ないわ。常識的に、化物の群れに人間を放り込んだらどうなるか。どんなに良い結果を探っても、結局のところその方法が少し違うだけで、殺されることに変わりはない――だというのに、あの子たちときたら、今では率直に咲夜を愛でる者までいる始末よ……アレでアレな主人を持ったせいかしら? あの子たちも、かなり毒されていたようね」
「……今日は、すごく饒舌ね」
「そういう気分のときも、たまにはあるわ。でもそろそろ喉が限界」
パチュリーはカップを手に取り、口元へ運ぶ。が、どんなに傾けても紅茶は流れてこなかった。
「……」
空だったことがバレないようにカップを元の場所へ戻し、咳払いをしてから、独白を締めくくる。
「親バカも結構だけれど、もう少し咲夜と、他の子たちの内面にも目を向けたほうがいいんじゃないかしら」
「…………そうね」
入ってきたときのような軋んだ音は立てず、ひどく静かに扉が開き、閉まった。
扉の向こうへ消えたはずの彼女の背中がまだそこにあるかのように、パチュリーは扉を見つめる。
――パチェには傍観者でいてもらいたいのよ。
悪魔の囁きが、パチュリーの脳裏で非難がましく木霊していた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
この館の構造は、誰よりも熟知している。足を運んだことのない場所はないし、目的地までの最短経路はもちろん、遠回りした際の所要時間まで感覚で把握できる。
急がなければ間に合いそうになかったが、美鈴は少し遠回りをして玄関を目指していた。
図書館からしばらく進んだ先で足を止め、周囲を睥睨する。
そこは玄関から最も離れた区画であった。過去に幾度か壊滅的な損傷を受けており、その度に修復されてきたため、他の区画に比べて壁面の塗装に劣化が少ない。
そこは使用人たちが――レミリアも――立ち入りを避けている区画であった。その理由は、この区画に図書館とは別の地下室が用意されていたためである。
彼女が足を止めたのは、その地下室へと続く階段の前だった。だがその地下室に、ましてやそこへ閉じ込められた者に用があったわけではない。
美鈴は階段の側に飾ってあった、花の活けられていない白い陶器の花瓶を見やる。自分の影が映るほどに光沢を放つその花瓶には、埃一つ見受けられなかった。
花瓶を手に取り持ち上げてみる。それが立っていた木製の台にも、同様に拭き掃除が行き届いていた。
無言のまま、花瓶を元の位置に戻す。
この区画は、誰も近づかない場所だった。理由は単純で、使用人たちにとっての危険区域だったからだ。自らの生命を危機に晒してまで清掃作業をしに来る酔狂な者などいるはずもなく、そのため自然と美鈴の担当になっていた場所であった。
以前までは、そうだった。
美鈴は、今度は手近な窓枠へ歩み寄る。念入りに磨かれたガラスに目を凝らし、窓枠の四隅を指で撫で、開閉してみる――ここにも埃一つ見つけられなかった。
「……あの娘の仕業じゃない」
この場所を後任の咲夜が引き継いだということでないのは、仕上がりから一目瞭然だった。咲夜に掃除を教えはしたが、まだここまで丁寧な仕事はできない。
パチュリーの言った通りだった。おそらく、咲夜をここへ近づけまいとする意志が働いているのだろう。
以前と今とでは、違う。
遠回りの目的は果たした。美鈴は急ぐこともなく、ゆっくりと歩を進めた。
――嫌われてるだけじゃなく、怖がられてる……?
門番となってから館内で出会った使用人たちの反応を思い返して、そんな懸念が生じていた。
目が合うやびくりと背筋を震わせ道を譲りながら、お疲れ様です、と声を張り上げる彼女たち。異動して日が浅いとはいえ、あれが格下の門番に対する態度といえるのか。
以前はメイド長として、彼女らに対し厳格に接してきた。それで嫌われるなら分かる。が、彼女たちに恐怖まで植え付けた覚えは……
――もしかして……。
思い当たる節があり、過去の自分を客観的に捉えてみる。
侵入した賊のほぼ全てを、素手の一撃で葬る自分。
レミリアの妹であるフランドール――あの狂気の吸血鬼が起こす癇癪を、素手で制する自分。
メイド長として、己の役割としてそれを躊躇なく実行してきたが、そんな自分を目の当たりにしてきた彼女らはどう捉えていただろう。何か粗相でもして目を付けられた際の自身の未来を、あの斃れた侵入者の姿に重ねていたのではないか。
――人間じゃない彼女たちからも、わたしは化物に見えてる?
先日、自室のクローゼットを漁っている際に邂逅した彼女の挙動はどうだ。自分という化物と遭遇して、まさに恐怖していたのではないか。
――わたしじゃ、ダメだった……? わたしは、あの子たちを怖がらせてただけ……?
先刻立ち寄った、あの場所の仕上がりからも分かる。
――わたしは……要らなかった? あの子たちに必要だったのは……。
どれだけぐずぐずと時間を稼いだところで、早晩辿り着いてしまうもので。
気付くと、そこは自分の職場だった。
心情とは裏腹に安穏な日差しが、不躾に彼女を照らしている。
吸血鬼でなくとも、たまには気まぐれで灰にしてくれたりはしないだろうか。そんな願望混じりの冗談を思い浮かべていると、
「門番は」
低い位置から声をかけられ、美鈴は思考を中断させられた。
見下ろすと、咲夜が立っていた。
清潔感のある子供用のメイド服に身を包み、健康的な艶を見せる銀髪に、光沢すら放ちそうな張りのある肌。その小さな顔に拙い三つ編みのようなものを提げて、愛想も無い双眸でこちらを見上げている。
懐かしささえ覚える、挨拶代わりのような彼女の諫言。反射的に間を空けまいとし、美鈴は謝罪していた。
「ごめん、遅刻した」
唐突に、頭に重みを感じた。すぐにいつもの奇術だと推察する。
最初はいたずらのような意味合いだったが、今では違っていた。食べ物を無闇に地面へ置かないよう教えてからは、そこが盆の現れる定位置となっていたためだ。
美鈴は片手を自分の頭へ、もう片方を咲夜の小さな頭へ置く。
「ごめん……今日は何も思いつかなかったから、また明日にしよう。考えておくから」
「…………」
咲夜はしばし考えるようにしてから、うん、と頷くと、門の方へ歩いていく。その後ろ姿を、美鈴はただぼんやりと見送った。
彼女の小さな手から覗いていた緑色のリボンに気付いたときには、彼女の姿は門の向こうへ消えてしまっていた。
哀調を帯びた金属の擦れる音が響き、巨大な門が閉ざされる。
そこでようやく、頭に盆を乗せたままであると思い出し、下ろす。
咲夜が持ってくる食事には法則のようなものができていた。握り飯を始めとした料理の場合は、それがそのまま美鈴の食事に。未調理の食材が乗っていた場合は、今日はこれを使った料理を教えろという暗喩であると、美鈴は解釈していた。
今日は、練習の成果が如実に現れている握り飯が置かれていた。
それを見て、安堵の吐息を漏らしている自分がいた。
なにに安堵したのか。
咲夜が素直に去ってくれたことにか。盆に乗っているのが食材ではなかったことにか。それとも、それら全てにか。
――貴女は何も気付かない?
パチュリーの問いかけが脳裏を過ぎる。
何にも気付けるはずがない。何も見えなかったことにしていたのだから。心の平衡を保つため、口当たりのよい現実しか認めていなかったのだから。
今ここに至ってさえ、咲夜に嫌われていないと己に言い聞かせて安心しようとしている自分がいる。
本当に、なんて弱い化物だ。
周囲から受けている評価に気付いて、子供に嫉妬して、それを認めたくなくて、咲夜を避けて、それでも嫌わないでほしいと願っている――あんな子供に、縋っている。
本当に、心底駄目な化物だ。
何千年生きてきたのか、自分でも分からない。気の遠くなるような年月、もはや記憶はおぼろげだが、そのほとんどを鍛錬に費やしてきたように思う。
確かに強さは手に入れた。身内にすら恐怖を与えるほどの。だが、そんなものは当然の帰結だった。なぜなら、馬鹿みたくそれしかやってこなかったのだから。
と――
お腹が鳴き声をあげた。
苦悩に没頭していても、お腹は空くらしい。脳みその普段使わない領域を使っていたためか、一段と強い空腹感に襲われる。
「……いただきます」
握り飯が餉になってしまう前に食べようと、口を開けた瞬間だった。
一瞬、空が陰ったようにすら感じる。大気が震撼し、木々が狂乱しざわめく。
林の中にいた鳥たちが、我先にと一斉に飛び立つ。おそらく一羽残らずこの島から――あの悪魔の凶行から避難するために。
渦巻く狂気と破壊の衝動が、膨れ上がっていた。睡眠中の使用人たちでも悉く飛び起きるであろう、どす黒く洗練された圧迫感。
それは、この紅魔館が当初より抱える厄災であり、まさに何の前触れもなく発生する自然災害だった。
考え事や食事どころではなくなって、美鈴は盆を置く。
発生源は、やはりあの場所だった。ここから一番遠い館内の、あの地下室。
不幸にも居合わせた使用人がいないか気配を探る。と、付近に誰かの気配を見つけた。が、これは使用人のものではない。
――嘘でしょっ……!
何かの間違いであってほしいと、もはや自分で感じたことですら受け付けられなくなって、心中で叫ぶ。
丹念に磨き上げた自身の感覚に疑問を投げる。しかし何度確認しても、返ってくる答えは変わらなかった。
狂気と脅威が湧き出す先――そこにいないはずの見知った気配を感じて、総毛立つ。
刹那、美鈴は地を蹴り、見上げるほどに聳える塀を跳び越えた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
箒の先に括りつけたチリトリをカタカタと言わせながら、咲夜は廊下を歩いていた。
手にしている箒もバケツも、他のメイドたちが咲夜用にと拵えてくれたものだ。バケツの縁に掛けられた真新しい雑巾までもが、彼女らの扱うものより一回り小さい仕様になっている。
この時間に一人で行動するのは、美鈴といっしょにいないのは久しぶりだった。
今日の美鈴は、なんだか様子が違っていた。いつもは黙っていても手を引いてくれるのに、今日の美鈴は目を合わせてもくれなかった。
足を踏み出すたびに、ひとりで作ってみた三つ編みが頬をくすぐる。今日は、緑色のリボンは付いていない。
「……」
三つ編みのようなものは作れても、まだリボンを結ぶことはできなかった。美鈴にやってもらわないと、まだできなかった。
三つ編みもリボンがないと落ち着かないらしく、いつもより頬をくすぐって不平を訴えてくる。
美鈴は、なんで今日はいっしょにいてくれなかったのだろうか。
いつも待ってくれていた美鈴が、なんで今日はいなかったのだろうか。
先に着いていた自分を見て、なんであんな迷惑そうな顔をしたのだろうか。
もしかして、美鈴にはもう、要らなくなってしまったのだろうか……
「っ……!」
ふるふると頭を振る。三つ編みが絡みつくように鼻を叩いた。
そんなことない。と自分に言い聞かせる。
頭を撫でてくれた。だからまだ大丈夫。と自分に言い聞かせる。
と、視界の隅に何かが映り、咲夜は足を止めた。
廊下の壁からせり出した柱の陰に目を凝らすと、角度によってはまったく見えないくらい細い糸で張られた蜘蛛の巣があった。
柱や調度品の陰には常に気を配るよう言われていた。美鈴に。
こいつらはどこでもすぐに巣を張ってしまう。巣の真ん中にいる茶色をした小さな蜘蛛を摘み上げてから、糸を取り除く。
朝蜘蛛は殺生したらダメ、と言われていた。これも美鈴に。
今はお昼過ぎなので問題ない気もしたが、なんとなく窓から逃がしてやろうとして――届かないので諦めて、その辺に解放する。
と、数歩先の床にまた蜘蛛を見つける。今逃がしたやつより少し大きめで、黒い体に白い線が一本入った蜘蛛だった。こいつは巣を張らないやつだ。
こいつらは害虫を食べてくれるから、あとなんかかわいいから殺生したらダメ。美鈴が言っていた。
咲夜が歩み寄ると、逃げるようにぴょんぴょん跳ねていく。
「……」
別に追い立てるつもりはないのだが、進む方向が同じなので、その姿を眺めながら後に付いていく。
カタカタというチリトリの鳴き声に合わせるように跳ねるそいつの動きは、見ていて飽きなかった。
どれくらい歩いただろうか。そいつが急に向きを変えたため、咲夜は足を止めた。
気付くと、初めて来る場所に立っていた。
ここの廊下はどこも同じように見えるが、窓から見える景色や、壁の色合いがいつもと異なっている。なにより、廊下の空気が違っていた。重いような軽いような、寒いような暑いような。
咲夜は窓の外の景色を再度観察した。
外壁の走り方や中庭に植えられた樹木の配置から、そこが、メイドたちから近づかないよう釘をさされていた場所なのだと気付く。
「……」
それよりもさっきのあいつはどこに行っただろうか。
美鈴が言っていたように、あいつの跳ねる姿はなんかかわいい――かわいいという言葉がよく分からないが、見ていて飽きないというような意味なのだろう。
周囲の壁や天井に目を凝らして探す。窓ガラスにとまっているところを見つけた。
外に出たいのだろうか。でも自分では窓を開けてやれない。
そんなことを考えていると、
「あれ?」
初めて聞く声が耳に入り、咲夜は声のした方を振り向いた。
廊下の途中に突然現れるかのように作られた階段――そこから顔を出すように、一人の少女らしきものが立っていた。
らしきもの、というのはそれが自分と同じものには決して見えなかったためだ。
背丈は自分と同じくらい。金色の髪に変な帽子を乗せて、背中から生えた枝のようなものにいろんな色の石をぶら下げ、真っ赤な瞳に不服の色を浮かべている。
「なんか久しぶりにめーりんの匂いがしたと思ったのに……あんた誰よ」
悪魔の言うめーりんとは美鈴のことだろうか。言われてみれば、なんとなく廊下に美鈴の匂いが残っている気がした。
「咲夜」
「こんなとこでなにしてんの」
顔つきや悪魔のような見た目がレミリアお嬢様に似ていたので、咲夜はそれ用の口調に切り替える。
「くもを見てます」
窓辺にいるあいつを指差して答えるが、その悪魔の視線は微妙にズレているようだった。
「雲?」
「くもです」
「……変なヤツね。じゃなくて、なんでここにこどもがいるの」
そう言う悪魔こそこどもにしか見えなかったが、咲夜は気にせず役職を名乗る。
「メイド長をしてます」
「メイド長? あんたが?」
悪魔は歩み寄ると、目を細めて顔を覗き込んできた。
「はい」
「……めーりんをどこにやった」
「門番をしてます」
実際に門番をしているところはほとんど見たことがなかったが、美鈴の役職を指して答えた。
「あんたがめーりんの代わりってこと?」
「はい」
「ふーん……じゃあ、あんたを壊せば帰ってくるかな」
「こわす……?」
意味が分からず、訊き返す。
悪魔は腰に手をやり、得意げな笑みを浮かべた。
「そうよ。あたしはなんでも壊せるの」
そう言うと、悪魔は手近に飾ってあった花瓶を見やった。
打つわけでも突くわけでもなく、空の花瓶に指先をそっと触れさせる。
「こんなふうにね」
瞬間、花瓶に無数の亀裂が走った。
が、異変はそれだけではなかった。次いで花瓶を乗せていた木製の台にも亀裂が入る。さらには周囲の床や壁などにも瞬く間に伝染していく――まるで破壊そのものが意思を持ったかのように、悪魔の指先を起点に自壊の衝動が連鎖する。
悪魔が静かに指を離すと、花瓶と台がその亀裂をなぞるようにして崩れ落ちた。まるで、いつ終わるのかも分からない苦痛から解放されて歓喜するかのように。
不思議なことに床や壁は、いつ崩壊してもおかしくないほど亀裂が入っているにもかかわらず、その兆候を見せない。
どうやって片付けようかとその様子を見つめている咲夜に、悪魔がケタケタと鳴き声をあげた。
「あたしはなんでも壊せるし、なんでも壊さないでいられるの。壊すのも自由、壊さないのも自由。壊すのに相手は選ばない。壊すのに場所も時間も関係ない。全部あたしの思ったとーりにできるの。でも、壊しすぎるとお姉さまやパチェに怒られちゃうし、めーりんに嫌われちゃうから、たまにしかやらないの。この世界にあるものぜんぶ、あたしがまだ壊してないから壊れてないだけ」
昂ぶる気分を抑えようともせず大仰に両腕を振る悪魔だったが、不意に先程までの表情に戻ると、咲夜の髪に――拙く不恰好な三つ編みに触れる。
「これ、めーりんとお揃いのつもり?」
言下、悪魔の身体が宙に浮く。どうやっても枝にしか見えない、背中から生えている翼を羽ばたかせて。
悪魔が、何かを担ぎ上げるように右手を振り上げると、まるで最初からそこにあったかのように、その手の中に黒い棒のようなものが現れた。
ゆらゆらと禍々しい陽炎が立ち上るその棒を振りかぶると、悪魔は咲夜を見下ろして、冷たく静かに言い放つ。
「ぶっ壊してあげる」
おそらく少なくとも悪魔的な破壊力を有するのだろうその棒が振り下ろされるのを、咲夜は他人事のように見上げていた。ただ、リボンを付けていなかったのは幸いだったと、それだけを考えていた。
次の瞬間には来るだろうと思っていた破壊は、訪れなかった。
「くっ!」
眼前に、今日はもう会えないと思っていた背中があった。
燃え上がるように鮮やかで、手入れの行き届いた赤い髪。いつも見上げていた、緑色の装束を纏った、いい匂いのする後姿。
「あ! めーりんだぁ!」
美鈴だった。
先ほどまでとは打って変わって嬉々とした表情を浮かべる悪魔に構わず、美鈴は左腕で棒を受けたまま、空いた右手を悪魔の胴体に密着させていた。音も気配もなく、いつからそうしていたのかも分からない。
刹那――
けたたましい衝突音が響いた。
咲夜の立っている床が、屋敷全体が震えたかと思うと、悪魔の体が廊下の先にある壁に激突していた。それほどの衝撃が伝わっても、亀裂の入っていた廊下は崩れないままだった。
悪魔が壁に沈み、その周囲の石壁が音を立てて崩れ落ちる。
何が起こったのか分からなかったが、音と震動の正体はすぐに知れた。美鈴の左足が、足首辺りまで石の床にめり込んでいる。
「今のうちに下がりなさい!」
振り向かず、美鈴が叫ぶ。
下ろした彼女の左腕からは、肉の焦げる異臭が漂っていた。
咲夜がきょとんとしていると、美鈴は振り返って苛立った声を上げた。
「あんたには無理だから――邪魔だから離れてろって言ってんの!」
「え……」
今、美鈴はなんと言った?
邪魔?
あたしは必要ない?
「ぷはー! さっすがめーりん!」
瓦礫を押しのけて、元気な悪魔が嬉しそうに声を上げる。
美鈴はもうこちらを見ていない。見ないまま、硬直している咲夜の胸倉を掴むと、そのまま悪魔から遠ざけるように放り投げた。
一瞬の浮遊感。そこに美鈴の声だけが追いついてくる。
「そいつ連れて離れてて!」
「はいっ!」
自分を受け取ったメイドへ美鈴が命じ、メイドもまたそれが当然というように、咲夜を抱きかかえたまま迷うことなく踵を返した。
振り返ることなく駆けるメイドに担がれ、まるで糸の切れた人形のように脱力したまま、咲夜はぼそりと呟く。
「また、いわれた……」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
半分に欠けた月を、湖面がゆらゆらと浮かべていた。
肌を刺すように凍て返った夜気に包まれた鐘塔からそれを見下ろしながら、美鈴は表面の乾いてしまった握り飯をもそもそと啄ばむ。
フランドールの癇癪を鎮め、地下室で寝かしつけて門前に戻ったときには、もうすっかり日が落ちてしまっていた。
食事の場所としてここを選んだことに、さしたる理由があったわけではなかった。久方ぶりの戦闘――と呼べるほど大仰なものではないが――で火照った体を落ち着かせられるのなら、どこでもよかった。要するに、ただなんとなく、ここにいた。
咲夜を、手前勝手な都合で避けてしまった。守ることばかりに気を取られ、無配慮な言葉を投げてしまった。
咲夜に謝りたかった。でも、自分から会いに行くのが怖い。
咲夜を庇って傷めた左腕に目を落とす。もう痛みはなかった。今はまだ赤黒く爛れているが、明日の昼頃には痕すら残っていないだろう。
明日の昼、咲夜はまた会いにきてくれるだろうか。
このままここにい続けたら、また見つけ出してくれるだろうか。
それもまた手前勝手な、都合のよい願望だとは承知している。
けれど、臆病で、寂しがりな化物の自分には、そうするしかなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ひどく息苦しかった。
それは備品の収納された、黴臭く埃の積もった物置の隅で、シーツに包まっているせいではない。
これまでも、こういうことはたくさんあった。
ここに来てから、仕事中以外はここにいた。部屋は宛がわれていたが、その部屋には他の人――美鈴が住んでいたから、ここにいた。いつもここでひとり、薄いシーツに包まっていた。
わがままを言ってはいけない。
お喋りをしてはいけない。
役立たずと思われてはいけない。
感情を出してはいけない。
これまでのたくさんの失敗から知った。それが、生まれながらに課せられたルールだと。
自分が生きていくためのルールではなく、必要とされ続けるための、不必要と言われないためのルールだった。
破ったつもりはなかった。が、知らず知らずのうちに破っていたのだろうか。それとも、まだ何か足りないのだろうか。
いずれにせよ、もう手遅れだった。
「いらない……」
だって、美鈴に言われてしまったのだから。
まだかろうじて形を保っていた三つ編みを、右手で掻き毟るようにしてほどく。
「いらない……」
だって、美鈴は言ってしまったのだから。
左手にひやりとした感触が伝わる。一振りのナイフが、そこにあった。
「もう、いらない……」
最後のときには、いつもそこにあった。
美鈴なんて、もう、いらない。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
煉瓦の床に寝そべって、ただ一方的に体温を搾取されるがまま、美鈴は頭上を見上げていた。
鐘塔なのに、頭上には何もない。床と同じ素材でできた屋根があるだけだ。
昔はきちんと鐘を吊るしていたのだが、うるさいからという理由でレミリアが取っ払ってしまった。
鐘のない鐘塔に、誰も来ない門を守る門番。似たもの同士なのかもしれないと思うと、妙な親近感が湧いた。
太陽のように熱を補ってくれるわけでもなく、ただそこに浮かんでいるだけの月に視線を移す。こいつも仲間に入れてやろうかと考えるが、少なくとも夜闇を薄闇に変える程度には働いている彼からしてみれば、いささか不名誉だろう。
心中で詫びつつ、ごろんと体を転がす。空になった盆が目に入った。
「また、食べたいな……」
名残惜しさをそのまま、口から吐く。
あれが最後の握り飯だったのかもしれないのだから、もっと味わって食べるべきだったと、今さらながら悔恨の念を抱いていると、
「……ん?」
身体へ伝わる微かな振動に、美鈴は身を起こした。
気配で分かる。あの娘が階段を登ってきている。
自分のことを見つけ出して、遅い夕食を持ってきてくれたのか。と淡い期待を持つも、階段から姿を見せた少女の様相が、それを儚く砕いた。
腕をだらんと垂らし、ゆらゆらと左右に揺れるような足取りで階段を登りきると、咲夜はゆっくりとこちらを振り向いた。
服装こそ普段のメイド服であるが、ほどけてしまったのか片側だけになった三つ編みを夜風に揺らし、口を半開きにしたまま俯いている。
明らかにいつもの彼女ではなかったが、注視すべきは外見ではなかった。
これまで感情らしい感情を発したことのなかった彼女が、今はある種の感情をその小さな体から発露している。
それは、信じたくはなかったがそれは、美鈴に対する明確な意志――夜気を切り裂くかのようにして向けられた、殺意だった。
「…………え?」
まさかそんなものを向けられるなど夢にも思わず、たじろいだ美鈴の足が盆を蹴飛ばした。盆はそのまま塔の外へ投げ出される。
と、耳の中に雑音を生んでいた風が止み、かわりに何かが耳に入った。咲夜の声だったような気がして、彼女の口元に視線を向ける。
半開きだと思っていた口が何かをぼそぼそとこぼすように、小刻みに動いている。
それを聞き取るために退いた分だけ近づこうと、足を踏み出した瞬間だった。盆が地面に落下して砕け散る乾いた音と重なるように、咲夜は美鈴を見上げ、明瞭な声で告げた。
「めーりんなんて、いらない」
「なにを――」
問おうとして、相手の姿が消えていたことに気付く。咲夜が消えるのと同時に、目の前に何かが現れていた。
殺気の込められたそれは、眼前で徐々にその大きさを増していく。
質量が増大しているのではなく向かってきているのだと頭が判断するのに先んじて、身体が動く。
右手がそれを掴むと、頭上からまた別の何かが迫った。掴んだそれで、別のそれを受け止める。
「え――」
そこで初めて認識する。
右手で掴んでいるものが短剣――いや、ナイフか――で、それで受け止めたものは、咲夜が振り下ろしてきた別のナイフだった。
殺傷を目的とした攻撃を受けているのだと脳が認めるや、瞬時に頭の中がクリアになっていく。先刻までの余計なもの煩いが消え、戦闘状況を考察する思考に切り替わる。
条件反射で切り替わった頭で考える――咲夜の動きを、全く視認できなかった。
彼女はいったいいつ投げた? いつ移動した?
長身である自分の頭上から凶刃を振り下ろす跳躍力もだが、それよりもこちらの反射速度を凌駕する咲夜の動きに驚愕する。
「どうやって――」
また問おうとすると、咲夜を支えていたナイフから彼女の重みが消えている。
二度目ともなれば、途中の気配は追えないまでも、斬撃の瞬間は感知できた。
左下段から迫る咲夜のナイフを半身を捩って避けつつ、不可解な点に気付く。
移動手段は検討もつかないが直接的な動作に関しては、一切の躊躇なく斬りかかってくる点を除いて、子供のそれだった。腰が入っていないため動きに切れはなく、これではナイフ自体の凶器としての威勢しか与えられない。
持っていたナイフを捨て、咲夜の背後に回りながら考える。
――わたしの知らない特殊な歩法を体得している? それともこの娘の能力?
前者は、咲夜の年齢や運動能力を考えれば、まあないだろう。では後者だろうか。
幻想郷において、固有の能力の所持は妖怪を始めとした化物に限ったことではない。人間の中にも、幻想郷の調停者である博麗の巫女を筆頭に、極々少数ではあるがそれを有している者はいた。
仮に咲夜の動きが能力によるものだったとして、攻撃動作の未熟さが不可解だった。まるでこれまでは初撃で目的を達成できていたというような、そんな甘さが垣間見える。
考えているうちに、咲夜の背後を取った。
こうなってしまえば、制する手段はいくらでもある。失神させてもいいし、一時的に四肢の自由を奪ってもいい。だが、
――本当にそれでいいの?
消えたはずの苦悩が、邪魔をする。
それで終わらせていいのか。本当にそれで終わりになるのか。
一瞬の逡巡により、本来あったはずの選択肢がゼロになった。
咲夜の姿が消える。右前方からの刺突。
三度目ともなると、もう身体の方が黙っていなかった。
ナイフを持つ咲夜の腕を、右手が弧を描くように弾く。時を同じくして左拳が咲夜の胸部に触れ、右足が床を踏み込む準備をしている。
それらの動作は全て反射だった。昼間にフランドールへ放ったものと同じ、受けと同時の、肉薄状態からの心臓打ち――悠久の時をかけてそれを刻み込まれた五体が、咲夜という未知の脅威を前に美鈴の指示を経ず、とうとうその習性を、一打一殺の理念を実行しようとしていた。
――やめてっ!
自分の身体が行おうとしていることに気付き、咄嗟に叫ぶ。美鈴の意思と肉体の意志とが真正面から衝突し、結果、動きが止まる。
打撃が実行されなかったことに安堵している時間はなかった。止まっている間に、突き出したままの左腕が切り裂かれている。
腕を引き戻しつつ、左拳を労わる。
――無防備に出しっぱなしなんてどこのトーシロよ……でもよくやった。
そうこうしているうちに、後方から咲夜と斬撃の気配が迫る。
振り向かないまま、美鈴は軽く前方に跳躍して回避すると、そのまま床を蹴り続けた。
――仕方ないか。
最後にいっとう強く蹴り、虚空へ身を投げる。
月が照らす薄闇の中を、冷たい大気を押しのけながら重力に逆らうことなく突き進む。
とにかく、一旦距離を取るしかない。あの狭い場所であんなことをされ続ければ、いつ反射的に咲夜を傷つけてしまうか分からない。
地面はまだ遠い。もどかしい自由落下に加速をつける方法もなく、歯噛みする。
そんな中、あることに気付く。
「……え?」
咲夜の気配が、全く離れていないどころか距離を縮めてすらいる。
背後を振り返り、美鈴は目を見開いた。
「な――なにやってんの!」
闇の中を追いかけてきていた咲夜に、思わず叫ぶ。彼女は、既に肉薄するほど接近していた。
こんなことはあり得ない。いくら素早く動けようと空中では意味がないし、いくら自分よりも抵抗が少なかろうとこんな短時間で追いつけるはずがない。
動揺しつつも、逆手に握られた二本のナイフが首元へ到達する前に、彼女の細い両腕を掴む。受け止めることは造作もないが、だからといって子供が発揮していい膂力ではなかった。
咲夜の目元を隠していた前髪が、大気により捲くり上げられている。その目を間近で見て、悪寒が背筋を突き抜ける。
咲夜は自身の生死などまるで顧みていない。美鈴の髪が眼球をくすぐるも瞬きすらせず、猫科動物のごとく瞳孔を拡大したその瞳に、ただただ彼女への殺意のみを滾らせている。
自分の言動が彼女をここまで突き動かしているのか。それとも、何か別に動機があるのか。
気にはなるが、目下のところ着地をどうするかの方が大きな問題だった。
この程度の高さであればどんな体勢だろうと問題なく着地はできる。が、それは自分一人の話であって、その衝撃を無傷で耐えることなど咲夜には望めないだろう。
どうにか減速しなければ。
鐘塔の壁面に手が届くのならば減速どころか停止まで可能だったろうが、生憎と届きそうにない上、両手がふさがっている。
――足ならなんとか届くか。
迷うことなく壁面に蹴りを入れる。
正門側ではなく中庭へ向かって飛び降りたのが幸いした。体勢を整えながら、中庭に植えられた最寄の樹木へ飛び込む。
その後は簡単だった。陽の光を欲してあらゆる角度に伸びた枝先が咲夜を傷つけないよう庇いつつ中心部へ到達し、適当な枝を蹴るなり樹皮を削るなりして減速すればいい。
そのはずだったのだが、
「は?」
樹木が広げる枝先に触れた瞬間、目の前に幹が現れ、間の抜けた声を上げた。
混乱しつつも、咲夜を庇おうと咄嗟に身を捻る。肩から幹に衝突し体勢を崩したところへ、追い討ちをかけるかのように周囲の枝に叩きつけられた。
最後は地面に背中を強打され、肺から空気が搾り取られる。
咲夜を庇うのに精一杯で、そもそも両手がふさがった状態でろくな受身が取れるはずもない。どれだけ自分が頑丈にできているとはいえ、無抵抗で地面へ叩きつけられるのは少々こたえた。
――いったいなんだってのよ……。
頭上に伸びる樹木を睨む。
飛び込んだと思ったら眼前に樹幹だなど、まるで意味が分からない。枝先から幹までの過程はどこにいったのだ。都合よくその間だけ失神していたとでもいうつもりか。
乱れた呼吸を整え、ひとまず寝たまま損傷を確認する。さすがに鍛え上げた化物の肉体というだけあって、軽い打ち身と擦り傷が数箇所あるだけで、動くのに支障はなさそうだ。強いて言うなら咲夜に斬られた傷が一番の深手であった。
と、
――……あの娘は!?
咲夜が腕の中から消えていることに気付き、跳ね起きつつ周囲を検める。
少し離れたところに、咲夜を見つけた。
減速という当初の目的は達成していたようで、露出していた肌に多少の擦り傷は見られるものの、立ち上がろうとしている彼女に安堵する。
が、彼女が無事だったというだけで、状況に大した進展があったわけではない。
落下の最中に目の当たりにした咲夜の形相を思い浮かべる。どんなに楽観視しても、この程度のことで止まるとは到底思えない。
――何かが分かるまでの間、付き合うしかないか……。
美鈴は今宵初めて構えを取る。といっても仰々しいものではなく、ただ右足を半歩後方へ退き、右手を開かず握らずのまま腰に添えただけであったが。
彼女の予想を裏切ることなく、起き上がった咲夜の姿が消える。
また斬りかかってくるかと気配を探るが、咲夜は接近してはこなかった。それどころかさらに距離を開いた位置に現われていた。
そのかわり、空間に突然ナイフが現れる。
初撃と同様であったが、数が増えていた。複数のナイフが、投擲されたような軌道で迫ってくる。
美鈴は一歩分横に移動する。全てが自分に向かって来ているのなら、それを回避するのにそれ以上の動きは必要なかった。
通り過ぎていくナイフを横目に捉えつつ、考える。
――もう近づいてこない、ってこと?
接近戦では勝てないどころか返り討ちに遭うことを学んだのか。咲夜が再び姿を消すと、また別の空間にナイフが現れる。そちらも最小限の動作で躱す。
――いったい、あの体のどこに持ってるの。
疑問が湧く。が、しかし現実に飛来するナイフを否定したところでその実体が消えてくれるわけでもないため、何の意味もない疑問ではあった。
――それよりも、何をやっているのか、ね。
咲夜にナイフを投げたような素振りはないのに、投げられたとしか思えないそれらが突如眼前に現れる。
美鈴は知人の、八雲紫という大妖怪の能力を想起した。
彼女は、任意の空間や事象を捻じ曲げたり無闇に繋げたりする化物であった。が、それとは全く違う。運動している物体が空間から飛び出してきているのではないし、現れてから動き出すのでもない。運動したままの状態でなんら前兆もなく空間に現出するのだ。
――どんな手品よ……。
まるで奇術であるが、数も少なければ速度も大したことはない。これくらいならば問題にもならない。
咲夜が消えては現れるナイフを、美鈴は余裕を持って回避していく。
そんなことを何度か繰り返していると、
「おっと」
避けた先に、避けたものとは別組のナイフがあった。
単なる偶然かと思いつつそれも避けるが、
「また!」
さらに避けた先へ別のナイフが用意されていた。
二度も続いて偶然と言い張れるほど、甘い読みのできる状況ではない。
単調に投げているものとばかり思っていたが、どうやら違っていたようだ。美鈴が飛来物をどのタイミングでどの方向に避けるのか、それを読んでいないとできない芸当だ。
――わたしの動きを読むために、最初はわざと……?
鍛錬とは、反復練習である。ひとつの動作をひたすらに繰り返すことで徹底的に無駄を削り、最後に残ったものが技となる。そしてその技の連なりが、呼吸や足運びといった独特のリズムを生み出す。
疑念を抱きつつさらに避ける。が、やはりその先には新たなナイフがあった。
明らかに学習し、狙ってやっている。美鈴の動きを読み、さらにその先まで読み進めて。
戦闘とはいわばリズムの取り合いだ。咲夜は自分のリズムという動きの癖を少なからず見抜いたということか――あんな子供にそんなことができるのかと驚きつつ、同時にその学習の目的を考えて鬱屈とした気持ちになる。
――それほどに、か……。
なんにせよイタチごっこに付き合わされている気分であったが、その見込みは間違っていた。一度に出現するナイフが徐々に増えてきている。
増え続けるということは次第に広範囲を補うようになるということであり、それはすなわち回避運動にも限界が出てくるということだった。
それほど時間はかからず、とうとう回避が間に合わない瞬間が訪れる。
回避不能となった数本のナイフを、手で弾く。その間にも、出現するナイフは増える一方であった。
イタチごっこから、こっちが一歩遅れた分相手は進むという見たままのジリ貧状態へ移行する。
――……仕方ない。
一度こうなったら、もう全てを回避するのは不可能だった。美鈴は即座に認め、自身に、自身の五体に命令する。
――感じろ。大気の流れを、大地の震動を。
四方八方から脅威が殺到する。
目で見るばかりでは対処できない。全身で感じ、対応しなければ。己に言い聞かせる。
奇術のタネは分からないままだ。まったく唐突にここまでされている理由も皆目検討が付かない。
そんな状況だが、久しぶりに全開で身体を使ってやれそうなことだけは確かで、不測の事態の中、美鈴は小さく笑った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「よっ。陰気に自己嫌悪してた?」
図書館に入ってくるなり片手を上げつつ、レミリアが言ってきた。
テーブルにもたれるように抱えていた頭を上げると、パチュリーは八つ当たり気味に、というか八つ当たりで、どんとテーブルを叩く。
「……誰のせいだと?」
睨め上げるパチュリーの視線をまったく意に介さず、いつものようにレミリアは彼女の対面に腰掛ける。
「テーブルがかわいそうだよ」
言われ、愛用のテーブルに手を這わせて謝罪する。
「…………ごめんなさい。でも、貴女にだけは言われたくないわ」
覇気のないパチュリーの不平に、レミリアは慰撫するような表情を浮かべる。
「あのさ、パチェに傍観なんてできるわけないじゃん」
「……おい」
傍観者でいてほしいと言ってきた本人の、あまりにもあんまりな慰めの言葉に、パチュリーはたまらず犬歯を見せて唸った。
「美鈴に負けず劣らずの世話焼きなんだから」
「じゃあ何故あんなことを」
「それを破るくらいおせっかいな友達が、わたしみたいなのにはちょうどいいんだよ」
友人に真正面からそんなことを言われると、さすがのパチュリーも言葉を詰まらせる。レミリアも、それを分かっていて言ったのだろうが。
再度睨み、呻く。
「……この悪魔」
「そうだよ。吸血鬼だけど。それよか、気付いてるよね?」
彼女が示したのは、無論美鈴と咲夜のことだろう。
気付いていないわけがない。自分が張った結界の内部で、自分の家の敷地内で親しい間柄の二人が『ごっこ』ではない戦闘を行っているのだから。
「正直に言って、すぐにでも止めたいわ」
「二人きりにしてあげよう。わたしたちが止めたところで、何が解決するわけでもないしね」
言われるまでもなく、それは分かっていた。自分がこの状況の一因を作ってしまったということも。だからこんな夜中に一人、本を読むでもなく紅茶を飲むでもなく、図書館で頭を抱えていたのだ。
「無茶しないといいんだけれど……」
「咲夜のことが心配?」
「美鈴の方よ」
あの美鈴のことだ、いかなる状況に陥ったところで咲夜をどうこうするなどあり得ない。だからこそ、美鈴自身がどうなることか分からない。
「大丈夫なのよね?」
縋るような気持ちで訊ねるが、レミリアはあっけらかんと肩を竦めた。
「さあ?」
「さあって……貴女、結果まで視えているんじゃないの?」
「そんなつまらないことしないよ。それに視ようとしても上手くいかないし」
「……え?」
嘆息するレミリアに――運命を操る程度の能力を持つ吸血鬼に、パチュリーはぽかんと口を開いた。
運命を操る程度の能力。それは他者を含める全ての運命を支配するということだった。
認識し――
理解を経て――
支配に至る。
つまるところレミリアの真紅の双眸は、他者の過去を視、現在を視、未来を視通す。
そんな彼女が、あとを続ける。
「咲夜の能力に阻害されてるっぽいんだよね」
「貴女が、化物と評価していた?」
「能力に優劣は付けられないけど、相性ってのはあるさ。ま、咲夜があの奇術しか使わないんであれば、どうやっても美鈴が窮地に立つことはないから安心しなよ」
奇術というのは、先日咲夜が美鈴の食事を持ってきた際に見せたあれのことだろう。
一度見ただけではタネがさっぱり分からないのでもう一度見せてもらいたいと思っていたが、やはり固有の能力だったのか。どういった能力かまでは分からないが、確かにあの程度であればどれほど巧みに駆使したところで、相手が美鈴である以上どうなることもあるまい。
「ただひとつ気になるのは、咲夜は一度、わたしっていう妖怪とやりあってるってことなんだよね」
「と、いうと?」
「人間ばかりを相手にしてきた咲夜が、人間のようには殺しきれない化物がいる、ってことを知っちゃったってこと」
やれやれ、と再び嘆息するレミリアの言葉に聞き捨てならないものを見つけて、パチュリーは眉間に皺を寄せた。
「……まるで、咲夜がこれまで何度も人間を殺してきた、というような物言いね」
「その通りだよ」
「そんな……」
愕然として、パチュリーは背もたれに体重を預ける。あんな人間の子供が、それでは、自分たちのような化物と変わらないではないか。
「ま、わたしたちがそうだったように、防衛本能みたいなもんだった、と付け加えてあげなきゃだけどね」
「……殺されそうになって仕方なく、ってこと? あんな幼い子が、そう何度も?」
「そら違うよ。咲夜は自分の生死よりも、もっと別のことに執着してる。あの歳で、いやあの歳だからそうなっちゃったのか」
「それはどんな――」
反射的に問おうとしたパチュリーを、レミリアが手で制した。
「美鈴に任せよう。わたしたちがここであーだこーだ言ったところで、どうなるもんでもなし」
言いつつ、レミリアも椅子にもたれる。
もったいぶるように間を空けてから、彼女は続けた。
「ま、自分の生死に頓着しない咲夜が、あの能力をどこまで掘り下げてしまうかが気懸かりだけどね」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「つっ――!」
咲夜の淡々とした攻めに慣れてきたと感じていた矢先、受けを失敗した。
手を抜いていたわけではない。
同じタイミングで出現し、同じ速度で迫る大量のナイフ。その中に一本だけ、他とは全く異なるものが混じっていた。慣れたのではなく慣らされていたのだと気付いたときには、脇腹を切り裂かれていた。
美鈴はここでようやく、レミリアの言葉を思い出す。
あの時、咲夜を初めて連れてきたあの日、殺されかけたと言ったのだ。あの吸血鬼が。
今の今まで忘れていた。あいつは、そんな嘘や世辞をのたまうような奴じゃない。
――そりゃ殺されそうにもなるって。いったいどんな生活送ってきたらこんな攻め手を思いつくのよ。
通常の戦闘であれば、容易に想定して対処できていたはずだった。相手が人間でなければ、子供でなければ。
あどけない少女の外見に、舌足らずな少女の言動に手前勝手なイメージを抱いていた。この状況を作り出している時点で普通の子供でないのは明白なのに、いったいあの少女に何を期待していたのか。
――認識を改めないとね。
次々に飛来するナイフを捌きながら、美鈴は鉢巻を締め直す。
腹部への一撃を皮切りに、咲夜の攻めが一変していた。
速度が変わる。出現するタイミングが変わる。そもそも美鈴を狙ってこないものまである。まるで神経衰弱のように同じものを探すほうが困難になってくる。不規則が規則になっていた。
――でも、もう遅い。
やるのであれば、さっきこうしていなければならなかった。美鈴に自戒させるきっかけを、その暇を与えてはいけなかった。
もう被弾しない。一滴の血も流してやらない。
だが、最大の懸案事項は残ったままだった。今現在美鈴を足止めしている、この奇術のタネだ。
過去に戦ってきたどんな相手とも違う現象だった。しかし、であるにもかかわらず、美鈴は似たようなものを見たことがある気がしていた。それもごく最近に。
――既視感……じゃないな。
思い至る。これまで咲夜が美鈴へ届けた食事――納得いかなかったのはその殆どが食事でなく食料だったということではなく、その届け方だった。
当初はどんな手品を使ったのかと訝しんだが、毎日のように見せられ続けたことで疑問にすら思わなくなっていた。今にして思えば、これに通ずる現象ではないか。
美鈴は、自身の戦闘経験に、咲夜の情報を照会してみる。経験とは財産だ。財産は貯めるのではなく使うことに意義がある。
これと似たような状況はなかったか、似たような攻撃や能力を使用してくる相手はいなかったか。枚挙に暇がない経験の一つ一つを考察し、いくつか候補を挙げた。
――空間転移?
最初に考え至り、一番近そうなのはそれだった。
魔法だろうと固有の能力だろうと、空間転移とは任意の物体を別の空間座標にある物体と入れ換えるという行為ないしはその現象を指す。
落下時に叩きつけられた樹木も咲夜から仕掛けられたことであると仮定して、それとあの食事だけならばそれを解としてもよいが、今眼前に広がる光景とは矛盾する。咲夜の投げたナイフが転移してきているのであれば、なぜ投げるという動作が欠落しているのか。さらにナイフが現れた瞬間、咲夜の位置だけではなく体勢まで変わっている。
――じゃあ、擬似空間転移は?
次の候補は、空間転移とは作用自体が根源的に異なるものだった。
物体を強制的に加速させ、あたかも転移したかのような結果を残すのが擬似空間転移である。これであればどんなに鍛えた感覚をもってしても、その過程を捉えるのは不可能だ。
――いや、ぜんぜん違う。
移動方法だけならばそれで説明は付くが、しかし障害物は越えられないし、その移動距離にも限度があるはずだった。せいぜいが数メートル――それ以上は物体の方が耐えられない。さらに言及するなら、加速の最中に別の動作を入れるなどという行為は、どんな生物であろうと体現できるはずがない。
――二重身は?
気配と実体を分離するという能力だった。しかし実体の無い気配も、気配の無い実体も容易に看破できる。実際にそうだった。
――他には何かない?
自問と否定を繰り返していくが、似通った以上のものは出てこなかった。
考察は一旦諦め、せめて糸口だけでもと、美鈴はこれまでよりも深く、咲夜の動作という気配を探る。
結果に変わりはなかった。つまり、どんなに注意を払っても、彼女の動作は全く読み取れなかった。
新たな情報は得られなかったが、代わりに再確認はできた。咲夜の、投擲や移動という気配そのものが目の前の現実から、美鈴のいる世界から完全に消失している。
――転移や加速とは根本的に違うのは分かった、けど……まさか、そんなことが……。
自分で出した結論に戦慄する。だがもう、それ以外思いつかない。
食事を置いていった奇術。
自分の反射速度を凌駕する移動。
自由落下での猛追。
枝先から樹幹までの消失した道程。
そして、投擲された状態のまま空間に現出し続けるナイフ。
これら全てが、その結論一つで矛盾なく説明できてしまった。
「時間に、干渉するですって……?」
意図せず声が漏れる。
それはあまりにも強大で、危険で、支離滅裂な能力だ。
美鈴自身の能力もレミリアのそれも、物質や事象を操作するというだけであって、世界の基盤たる法則そのものに干渉できるわけではない。つまるところ世界という名の法則下でしか行使できない能力なのだ。
だが、咲夜のそれは全く逆のものである。
咲夜の能力は世界を捻じ曲げ、あるいは破壊し、時には作り変えてしてしまう。物質や事象への作用はあくまでその結果に過ぎない。
普遍で不可逆、一切の介入を否定する不可侵の『時』という法則――あるいは概念と呼ぶべきか――に干渉する力など、行使する上でいったいどれほどの反動が肉体に、そして精神に降りかかるのか。
先の八雲紫も、世界の枠組みから外れた破格の能力を有し常日頃から息をするかのように操ってみせるが、あれはいわば到達点だ。不滅の肉体と不動の精神、そして磐石の制御をもって初めて体現できる極致である。
対して咲夜はどうだ。どう見ても十に満たない人間の少女――完全な制御術など望むべくもない。いったいどういった精神状態であればここまで酷使できるのかという疑問もあるが、いずれにせよこのままでは肉体の方がもたないはずだ。
最初の攻撃から、いったいどれほどの時間が咲夜の視点で経過しているのか。
一度に出現するナイフの数は、段々と増えていた。それは、咲夜が一度に操作する時間がその分だけ長くなっていることを示唆している。
――これ以上続けさせるわけにはいかない、か。
すかし、弾き、逸らし、掴み、落とし――殺到するナイフを次々に処理していく。
奇術のタネも見えた。
もし咲夜が操作した時間の中で直接斬りかかってきていたら、抗う術はなかった。そうしないのは、今はまだそこまで長時間の制御ができないためか。つまり、接近して攻撃、そして反撃を受ける前に退避するまでの持続ができないということ。
現状咲夜にこれしかできないのであれば、もはや身に危険を感じることすら難しい。
こちらは化物だ、体力勝負の消耗戦なら苦もない。しかし、あの人間の娘はどうなるだろうか。
――まったく、こっちの気も知らんと……。
咲夜はずっと同じ間合い――美鈴がかろうじて攻勢に転じても余裕をもって体勢を立て直せる間合いを保ちながら、ただ粛々と攻撃を続ける。絶対にそれ以上接近してこないであろう咲夜に、美鈴は短く吐息を漏らすと、諦観してうめく。
「分かった……人間技じゃ無理だ」
鍛えた拳足や練り上げた技術だけでは、この距離は埋められない。
美鈴は決意した――己が能力の使用を。
咲夜にいつ限界が来てもおかしくない状況で、いつまでも出し渋っているわけにはいかない。まずは咲夜を止めることを優先する。このままでは、死ぬか廃人だ。
幻想郷において、自分の能力を使おうとしない生物はそう多くない。使わない理由は様々あるが、その中でも美鈴のそれはさらに珍しいかもしれない。
自身の能力を忌避しているわけではなく、ただ単純に使いたくないから使わない。それが、理由だった。
己の鍛えた肉体、備えた知識、蓄えた経験だけを武器に生きていく。そう、まるで人間のように。
人間になりたいわけではなく、ただ憧れていた。あの弱く、儚く、臆病で、けれど逞しい、その健気な生き様に。
美鈴は人間が好きだった。でもあそこに自分の居場所はなかったから、せめて人間の生き方を真似てきた。そのくらいなら、化物の自分にも許されていいじゃないかと思って。
能力を開放する――気を使う程度、ただそれだけの能力を。
久しく使っていなかったが、妙に馴染んだ。まるで長年連れ添った手足のように。
実を言えば、使ったことがないわけではない。遥か格上の敵と遭遇したときなど、何かに負けそうになると衝動的に使ってしまっていた。その度、本当に弱く駄目な化物だと、自戒と鍛錬を繰り返してきた。
――また使っちゃったな……。
とかく、使ってしまった気を使う程度の能力。他者からしてみれば、それでいったい何が出来るというのか疑問だろう。
敵の気配や殺気を感じ取る――そんなこと能力を使わなくてもできる。
打撃を対象の内部に浸透させる――そんなこと身一つでやってのける。
気を使う程度の能力とは、そんな不自由なものではない。
美鈴はここまで、気配で咲夜を捉え続けていた。違うのはここからだ。
捉えた気配に能力を紐付け、同調し、咲夜の内を巡る氣を操作する。
咲夜が何を見て、何を聞き、結果何をする決断に至るのか。そこへ美鈴にとって都合の良い方向性を与える。
運命を操る程度の能力というものがある。対象を認識し、理解を経て、支配するというものだ。穿った見方をするなら、それと似たようなものかもしれない。
先刻から変わらぬどころかさらに密度を増した、大気を飽和させるようなナイフの雨――それはそのまま、咲夜が操作した時間の長さを表している。
「うらあ!」
端から見れば無造作とも取れる動きで、美鈴は大地を踏みつけた。
美鈴が踏み抜いたのは地面ではなく、こちらも能力により一箇所に集中させた地の氣であり、必要範囲で都合よく生み出した大地の点穴だった。
氣の集中した部位に適切な角度で適切な外力を与えるとどうなるか。これを生物相手にやるとどうなるか。いかなる耐久力を有した相手でも、正確に決めればまず一撃必倒。
今宵の犠牲者は大地だった。亀裂が走り、次の瞬間には悲鳴のような轟音と共に爆ぜる。美鈴を取り囲むように、念入りに手を入れられた芝生を巻き添えに砕け吹き上がる土砂が、迫ってきていたナイフの大多数を阻害する。
舞い上がる土ぼこりの中からかろうじて難を逃れたナイフが突き進むも、もはや受ける必要すらない数だった。
美鈴は飛来してくる最中のナイフを一つ無造作に掴むや、あさっての方向へ投擲する。
さらに二本、三本と掴んでは何も無い空間へ向かって投げ続ける。
今この瞬間では確かに見当違いな行為かもしれない。では次の瞬間ではどうか。
――さて、どれで釣れるか。
一瞬後、一本目が木に突き刺さる音がする。
さらに一瞬後、二本目が虚空を切り裂いたまま音もなく闇に消える。
最後の瞬間――三本目が弾かれた音がする。
いくら能力によって咲夜の意思という氣に自分の氣を割り込ませたところで、最後に選択決定するのは咲夜自身の意思判断だ。結果としてどの地点に移動するかという未来は、美鈴には分からない。だが本来無限にあるその選択肢を限定させれば、こんな都合の良い未来を呼び寄せることも可能だった。
美鈴は踵を強く踏みしめると、三本目が迎撃された地点へ跳躍する。
時を操って移動した先によもやの奇襲があったのだ。瞬時に次の時間操作は行えまい。
美鈴にとって、この状況で時間、位置、距離さえ特定してしまえば、咲夜の能力発動までに捕らえてしまうことは容易いものだった。
突如眼前に湧いた美鈴の姿に、咲夜が血走った目を見開く。
美鈴はそんな彼女の腕と胸倉を掴み組み伏せるや、いつでも締め落とせる体勢に移行する。能力を使おうとする気配があれば、その直前に意識を飛ばせるように。
倒された咲夜は、意外なほど無抵抗だった。それもそのはずで、もはや満足な抵抗もできないほどに衰弱しきっていた。
衣服の濡れ具合は子供が発汗してよい量をとうに超えていることを主張し、脈の速さも同様に、呼吸も浅く不規則になっている。
いったい何が彼女をここまで駆り立てるのか。
選択を迫られる。
ひとまず咲夜の意識を奪いこの場を納めるか、この場で真意を確かめるか。
――そんなの、決まってる。
一時的に場を納めたところで、体力が回復すればまた同じことの繰り返しになるかもしれない。それに咲夜の能力は危険すぎる。そうなった際、今回のように取り返しがつくとは限らない。
選択肢は用意できても、もとより選べるほど余裕のある状況ではなかった。
確かめなければならない。もちろん美鈴を急襲した意図もだが、なによりここまでになる動機の方だ。
押さえつけた咲夜の次の行動を制するため、再度彼女の氣と同調する。
時間を操作しようとした瞬間制するのは簡単だ。だがそれはただの一時しのぎであり、根本的な解決にはならない。これ以上能力を使わない方向へ誘導し、咲夜から真意を聞き出さねば。
意を決し、先と同様の手順で能力を行使する。
瞬間、先刻には起こらなかったことが――咲夜の記憶が、脈絡もなしに美鈴へと流入してくる。
本当に気味が悪いねお前は――要らない。
こいつを切り刻んでみろ――やらなきゃ要らない。
あれを殺して来い――できなきゃ要らない。
吸血鬼を持って来い――できなきゃ要らない。
気持ち悪い――要らない。
気味が悪い――要らない。
ここにいるメイドたちを統率してみろ――できなきゃ要らない。
邪魔だから離れてろ――要らない。
これは誰の顔だ。これは誰の声だ。これは誰の感情だ。
処理しきれない膨大な情報が感覚を埋め尽くす。
一旦流れ出したら止まらない。知らない女の嫌悪、知らない男の憎悪が止め処なく雪崩れ込んでくる。無数に、認識できないほどに。
中には知った声もあった気がした。自分の顔もあったような気がした。
咲夜の記憶と感情が、美鈴のそれと同期する。
自我が混濁し、二人の境界が曖昧になっていく。
美鈴自身が咲夜となる。
さらに別のものが流れてくる。
バラバラになった人形。
どす黒く汚れた人形。
何かがこびりついた人形。
――いらないっていわれた。
どす赤黒い下地に描かれた、積み重なる人形。
――いらないっていった。
焼かれる人形。
溶かされる人形。
埋められる人形。
――そんなやつらいらない。
くりぬかれた人形。
抉り出された人形。
切り離された人形。
人形、人形、人形、人形……
これは本当に人形か。これは本当に絵画なのか。
人形がなぜ苦悶の声を上げる。人形になぜそんなものが入っている。
全身がじっとりと濡れる。身体の芯が冷たくなる。吐き気がこみ上げる。
そんな中で、美鈴は忘れていた記憶を呼び起こされていた。遥か昔、どこか別の場所で同じ状況に陥った経験を。
氣を同調するというのは一方的なものではなく、双方向だった。普段離れて使う分には制御も可能だが、相手に触れた状態での制御が美鈴にはできなかった。能力を制御できなければ、深く繋がりすぎて精神が同化を始め、互いの自我境界さえ曖昧になっていく。
経験して知っていたはずだ。
怖くて、離れて使うことが当たり前になっていたのだろう。人間に憧れたなどと安易な理由で包んでいたが、怖いから使うことに抵抗を覚えるようになったのだろう。
だが、その理由を忘れてしまっていた。いや、その経験を思い出すのが怖かったから、忘却に逃げていたのだ。使わない財産など、まるで無価値であるのに。
怖くて、忘れて、逃げた――克服しようとする意志が最初からなかったから、今でも制御ができないのだ。
咲夜のトラウマが、自身のトラウマと一緒になって美鈴を蝕む。
嫌だ。
こんなの知りたくない。
見たくない。
触れたくない。
気持ち悪い。
叫ばずにはいられなくなるが、すんでのところで美鈴は踏みとどまった。能力の制御ができていない今、こんなことを考えたら、それらがそのまま咲夜に流れてしまうかもしれない。
――それだけはダメ!
直感的に判断し思考を止めたところで、咲夜からの流入が止まることはない。
身体を離せればいいのだが、動かない。
能力を止められればいいのだが、制御できない。
咲夜の感情が、食い破るかのように体の外を内をと這いずり回る。
十にも満たない子供がこんなものを抱えたまま、いったいどうやって生きてこれたのか。こんな状態で、なぜ他人の食事など気にすることができたのか。なぜ三つ編み一つにあそこまで夢中になれたのか。なぜ、こんな臆病者を慕ってくれたのか。
止めていたはずの思考を再開していた自分に気付き、次いで感情の奔流が途切れていたことに――そこに自分しかいないことに気付く。
――……え?
腕の中に咲夜はいない。だが変化はそれだけではなかった。
位置が変わっている。
今の今までいたはずの位置では、いや、いたはずの時間ではなかった。
ここは先ほど美鈴が大地を蹴り抜いた位置であり、時間だった。だがこれから爆ぜるべき大地はすでに過去の――今の美鈴からすれば未来の――爆ぜた後の状態で、土ぼこりも治まっている。
おそらく、美鈴の時間だけを巻き戻したのだ。
これは駄目だ。
時間は常に未来へ向かって進行する。それを早めたり、多少停めるくらいならまだいいだろう。が、戻すのはいくらなんでもやりすぎだ。
そんな法則に唾棄するような行為、負荷がどれほどのものか――もう使わせるわけにはいかない状況だったのに。
大気を完全に飽和したナイフの向こうで倒れているはずの咲夜に、叫ぼうとする。
「もうやめ――」
倒れているはずの咲夜に視線が届かない――異変に気付いたときには、もう手遅れだった。
美鈴という複雑な一生物の時間を戻したのだ、単純な無機物の時間を戻せても不思議ではない。
もう新たに投擲する体力がないためか。これまで処理したはずのナイフが、再び宙に戻り、空間をびっしりと埋め尽くしていた。時間軸がデタラメになったのだろう、時間の重複により歪に融合したようなものがそこかしこに見られる。だが問題は、それらがなぜ宙に戻ったのか――目的は明白だった。
これが走馬灯と呼ばれるものなのか。時間がゆっくりと流れているように感じた。
逃げ場はない。能力を介在させる時間もない。
目まぐるしく巡る思考の、数千年の長きに渡って培ってきた肉体の、数多の戦闘で溜め込んだ経験の意見が一致する――もう間に合わない。
美鈴も、その通りだと素直に同意する。まったくもって役に立たない走馬灯だったが、得てしてそういうものなのかもしれない。希望を奪い、絶望を植えつけるには実に効果的だ。
その走馬灯の中で、最後に触れた咲夜の心の内に思いを馳せる。
これまで、あらゆる化物と戦かった。
妖怪とも。
魔法遣いとも。
悪魔とも。
鬼とも。
吸血鬼とも
これまで、あらゆる物事と戦った。
掃除とも。
料理とも。
お洒落とも。
部下とも。
友達とも。
家族とも。
これまで、出会った全てと真正面から向き合い、一度も屈さなかった。そのつもりだった。
――……これがわたしの終わりか。
でも、ずっと内に秘めていた自身の恐怖とは向き合ったことがなかった。
咲夜とだけは、本当の意味で向き合うことができていなかった。おそらく、絶対に敵わないと心のどこかで認めてしまっていたから。
それでこの有様だ。
――最後に悔いが残っちゃったな……。
戦う度胸がなかった。
制する気概がなかった。
向き合う覚悟がなかった。
――ああ、そうか。あんたは、わたしの恐怖そのものだったのか。
家族に教えてもらったはずなのに、理解できていなかった。
友達に警告されたはずなのに、省みることができなかった。
見たくないから見ない、気が付いても言わない、言われても聞かない――分かり易い破局を迎えたわけだ。
――さあ来い、わたしの終わり。
受け入れようとする。
が、一早く飛び込んできたナイフが、美鈴へ到達する前に弾かれた。
驚きつつ見やる。弾いたのは彼女の右手だった。
彼女の心は諦めていたが、身体は屈しなかったのだ。屈することを知らないのだ、この身体は。
切り付けられながらも受け続ける左手。
切り裂かれながらも耐える右手。
突き刺されながらも踏み出す右足。
突き破られながらも彼女を運ぶ左足。
もう無理なのに、時間稼ぎにもならないのに、健気に己を守ろうとするこいつらを思い切り抱きしめてやりたい。
奇妙な話だが、己の手足にこれまでにない一体感を感じ、美鈴の心は多幸感で溢れた。
しかし、やはりというか、そんな感動は一瞬よりも短い時間で幕を閉じた。
最初の違和感は視界だった。
眼窩を抉られたのだろう。それでも意識が残っていることを不思議に思う。もっと上手く深く刺してくれたら、羞恥する時間も奪ってくれたらよかったのに。
次の違和感は血流だった。
心臓を穿たれたのだろう。自分が化物でなかったら即死できたものを。どうやら後悔する猶予はあるらしい。そんな時間、もう意味がないのに。
最後の違和感。かろうじて残った半開きの瞳に、同じように欠けた月が映る。
幻ではない。なんとなく、それが現実の月であると確信する。
――斃れるなら、前のめりって決めてたのにな。
およそ最期なんてこんなものなのかもしれないが、ひどく歯がゆかった。
最後まで格好がつかない。
――……ああ、そうだったのか。
自分はどうやら、格好つけたかったらしい。格好つけていたつもりらしい。
何にか、誰にか――決まっている。
――ばかだなぁ……。
もはや微動だにできない、この世のなにものにも影響を及ぼせない、そんな霞のような透明な存在となりかけている自分から、月すら奪う者がいた。
咲夜。
その小さな手には、三つ編み一つ満足に結えない不器用な手には、およそ似つかわしくない刃物が握られていた。
もっと教えたいことがあった。
もっと伝えたいことがあった。
もっと、ずっと一緒にいたかった。
「こんなおねえちゃんで、ごめんね」
最期にそれだけ、掠れた肉声として搾り出せた。
まあ、途中いろいろあったが。
それでどうにか満足できた気がして。
首筋に触れた金属のひやりとした感触を余韻に。
美鈴は、そっと意識を閉じた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
深く息ができないため、自然と浅い呼吸を繰り返す。
身体に力が入らない。それでも前へと踏み出す。
捨てられる前に捨てる。
必要としてくれない者は不必要と断ずる。
これまで幾度も繰り返してきたことだ。
幽鬼のようにふらつきながら、足下に散らばったナイフの一つを掴むと、文字通り針のむしろとなり動かなくなった女の首筋にあてがう。
力任せに、ギコギコと、胴体から切り離す。いつも通りの手順だ。
ナイフを持った左手、それに右手を添える。
わたしが捨てるんだ。いつも通りだ。
自分に言い聞かせる。自分で受け入れる。
なのに――
「……なんで」
それは、切っ先を震わすばかりで一向に進もうとしないナイフに対してか。
「……すてないで」
それとも、瞳の光を失ったその女に対してか。
「いらないって、いわないで……」
手が震え、肩も震え、瞬く間に全身へと伝播する。歯が噛み合わず、かたかたと情けない音が頭蓋に響く。そんな中、
「こんなおねえちゃんで、ごめんね」
微かに、だが確かに聞こえた。この女の、美鈴の声が。
今まで掛けられた中で、一番やさしい声音だった。
「――っ!」
なんで、今になってそんなことを言うのか。
なんで、今さらそんな声が聞こえるのか。
それ以上維持できず、からんと乾いた音を立て、ナイフが地に落ちた。
ナイフの代わりに、残っていた出来損ないの三つ編みに触れる。
まだ、美鈴のようにはできない。
「もっと、いろんなことおしえて……」
支えられず、膝が地に落ちる。
美鈴が教えてくれないと、覚えられない。
「もっと、いっしょにいて……」
持ち上げていられず、腕がだらんと垂れる。
美鈴がいないと、なにもできないままの自分だから。
「もっと、ずっと、もっと……」
夜空を仰ぐ。
美鈴を、捨てたくない。
美鈴にだけは――捨てられたくない。
「あたしには……めーりんが必要なんだから――!」
彼女が最後に見ていた、夜空に浮かぶ半分に欠けた月。
それが纏う帳に、咲夜の慟哭が染み渡った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
そこにはなにもなかった。自も他もなく、どこまでもただただ普遍だった。
それになるため、溶けていく自分を感じていた。
もう間もなく、自分というものも無くなって、それの一部であり全てとなる。それが分かった。
遺してきたものを想う。遺せたものなどあったのか分からないが。
なにかを差し伸べられた気がした。なにかは分からないが、最後に縋ってみてもいいかもしれないと、そう思う。
手などはなかったが、縋るように、手を伸ばした。
痛みのようなものを感じた。
目を開いて、開き続けられずに閉じる。
差し込む光が眩しくて、痛みに耐えられなかったのだと気付き、再度目を開こうとする。なぜそうするのかは分からないが、そうしなければならない気がした。
眼球に熱がこもり、視界が滲んできて、目を閉じる。そんなことを何度か繰り返して、ようやく光量を調整できるようになってくる。
見慣れた天井が目に入った。寝て起きたらいつもそこにあった天井だ。そこは、元自室のベッドだった。
「よっ」
声を掛けられ、目を細めたまま眼球だけを動かして声の主を探す。憎たらしい相貌の吸血鬼が、いつものように片手を上げていた。
「おかえり。臨死体験って野郎はどんな面してた?」
「……」
言葉の意味は分かったが、どう応えたらいいのかが分からなかった。思考が止まっていたことに気付くと同時、徐々に脳が活動を再開し始める。
「おーい無視かー」
「……うっさい。死にかけてたのに、そんなすぐ反応できるわけないでしょ……ただいま」
「はいおかえり」
言いつつレミリアが姿を消して、いなくなったのかと瞳で追う。椅子に腰掛けた彼女を見つけて、安心した。
足を組みながら、レミリアが美鈴の身体を示す。
「筋も腱もズタボロ。内臓もほとんどイっちゃってるね、こりゃ」
「……」
「さすがに今回は駄目かと思ったよ。わたしとやったときより酷い有様だった」
「……」
感慨深げに頷き、レミリアは笑みを浮かべる。いつものからかうようなものではなく、優しい微笑みだった。
「手強かったでしょ」
「……そうね」
咲夜のことではない。何千年も避け続けた、自分自身のことだった。
相手が強かったのではなく、自分が見下げるほど弱かったのだ。涙すら浮かんでくるその事実に、自尊心は崩壊寸前だった。
隣にいるのが、格好つけなくてもいい相手だと気付いて、縋るように震える声を出す。
「負けちゃった……」
「次勝てばいいじゃん」
「……え?」
慰めるでもなく、きょとんとした様子で言ってくるレミリアに、美鈴はぼんやりと返した。
「そうしてきたでしょ、これまでも」
空を指して青と言うくらい当然のように、レミリアが言った。
そうだった。言われて、思い出す。
何事にも挑み、負けては挑み続け、最後には勝ってきた――そうして生きてきた。それが自分の自尊心だった。
「わたしは好きだよ、その人間みたいな諦めの悪さ」
彼女が投げかけてくる言葉に、溢れる涙を隠そうと目を閉じる。が、隠し切れない分が瞼の間から零れ落ちた。
冷たい指先が、頬を拭ってくれた。
「……レミリア、一つだけ訊いていい」
気持ちが落ち着いてから、美鈴は訊ねる。義務ではなく利己的な感情で、確かめておきたいことがあった。
「ん?」
「わたしが見たあの娘の記憶……あれは現実の出来事なの?」
「結論から言うと、違うわ」
レミリアの声音と、口調が変わる。そこには、紅魔館を統べる館主の顔があった。
「世界というのは、主観によってまったく別の景色――現実になるの。生き物は皆それぞれ独自のフィルタを持っていて、それを通して変換した世界を、ありのままの世界として認識できたと思い込んでいる。簡単に言うと、わたしが青と認識した空と、美鈴が青と認識した空はまったく同じ色ではないということ。つまり、美鈴が見た咲夜の記憶というのは、美鈴自身がそれを理解するために拵えた自分勝手な現実――イメージと言った方が分かるかしら――だから、それがそのまま、咲夜にとってのありのままの過去ではないの」
「…………難しいこと言うのね。まるでパチェみたい」
「パチェに同じ質問してみなよ。もっと混乱すると思うから。でもま、こればっかりは実際に視たもんでないと、感覚として理解できないだろうねぇ。もう一つだけ言えるのは、あんたでさえ手に負えないもんを、咲夜は今も昔も一人で背負い込んでるってことだよ。逃げることさえ知らない、あの幼さで」
ぱっといつもの態度に戻ると、これ以上は言及できないとでも言うように、レミリアは立ち上がった。そしてそのまま部屋を出ようとして、ふと、忘れ物でも思い出したように立ち止まる。
「聞こえてなかったろうけど、あんたが負けた後、咲夜は叫んでたよ」
「……なんて」
「あたしには美鈴が必要だ、って。もう館中に丸聞こえ。妬けるねぇ」
「……」
「ま、逃げてもいいってことは知らなくても、頼ってもいいってことはもう知ってるんだね」
「頼る……」
言葉の意味を確認するように、繰り返す。
あの娘は、こんな自分を頼ってくれているのか。
「あんたが教えたんだから、ちゃんと最後まで責任取りなよ」
そう残して、手をぱたぱたと振りながら、レミリアは部屋を後にした。
「……わたしが、教えた……?」
美鈴が一方的に教え、咲夜がスポンジのようにそれを吸収する。そんなこれまでの、咲夜とのやり取りを思い出す。
頼ってもいいと教えた覚えはない。が、教えることで頼ってもいい存在だと認識してくれたのか。自分を頼れる存在――おねえちゃんのような存在だと。
「会いたい……」
あんなにも会うのが怖かったのに、今は自分から会いに行きたい。こんなにも会いたいのに、身体はまったく動かせない。そんな自分の不甲斐なさを情けなく思っていると、
「入っていいかしら?」
瞳を動かし、扉の前に立ったパチュリーを見つける。もう入ってるじゃない、とは思ったが言わないでおいた。
地震が起きようと火事が起きようと館が半壊しようとひたすらに本のページをめくり続ける彼女が図書館の外に出てくるのは本当に稀有な事態のため、生き残った瞳を軽く見開く。
「まるで引きこもりが部屋から出てきたというような目で見ないでちょうだい」
不平を漏らしながら、先刻までレミリアが腰掛けていた椅子に、今度はパチュリーが腰を下ろした。
まさに引きこもりが部屋から出てきたことに驚いているのだが。やはり口にはせず、見つめる。
パチュリーも無言で、美鈴を見つめ返してきた。何か言いたげな、珍しく困惑と後悔のような色を散りばめる彼女の双眸。
見つめ合ってどのくらい過ぎたろうか、パチュリーがいっこうに口を開こうとしないため、根負けして美鈴から話しかける。
「わたしの着てた服、どうなったかな」
身体がこの状態なのだから衣服などさらに無残な姿になってしまっているだろうとは思うも、気にはなっていた。買ったはいいが着る機会もなく、でも捨てられなくて念入りに封をして、数百年の月日を経てようやく日の目を見た服だった。
「……汚れてもいいと言っていたわりに、気になるのね」
「実は、けっこうお気に入りだったの」
そうでしょうねと相槌を打ちつつ、パチュリーは備え付けのクローゼットを示す。
「ちゃんと元通り修復して、掛けてあるわ」
「ありがとう」
「礼なんていいわ」
「じゃなくて、こっち」
視線で、丁寧に治療を施された身体を示す。この館でここまでの処置が可能なのは、パチュリーだけだった。これがなければ、臨死体験では済まなかったろう。
「それこそ気にしなくていいわよ」
「ありがと……あと、ごめんね。パチェが言ってくれたこと、わたし、ちゃんと理解できて、いえ、理解しようとしていなかった」
「……先に言われちゃったわね。わたしの方こそ、ごめんなさい。もっと言い方はあったはずなのに、楽しそうな貴女達が羨ましくて、言葉を選ばなかった」
再び無言で見つめ合う。先刻のような息苦しさはなく、ずっとこうしていたいとすら思った。だが実際にずっとそうしているわけにもいかず、パチュリーが腰を上げる気配を感じて、名残惜しく呟く。
「行っちゃうの」
「ええ、後がつかえているしね」
パチュリーはとうとう立ち上がってしまった。
「さすがのあなたでもその傷を完全に癒すには時間が掛かるだろうから、ゆっくり養生なさいな」
最後にそう残し、パチュリーは振り返らずに退室していった。
と――
彼女と入れ替わるように、ドタバタと騒々しい気配が雪崩れ込んできた。
「ちょ――まさか全員?」
館の使用人たちだった。悪魔に妖怪、各々が特徴的な容姿をしているが、統一されたメイド服が彼女らの個性を押し殺している。ぱっと見で、全員揃っていることが窺えた。この部屋でなければ入りきれなかっただろう人数だ。
唐突な騒々しさに呆気に取られる美鈴を、使用人たちが容赦なくぐるりと包囲する。
「大丈夫ですか美鈴さん!」
「うわすごいあの美鈴さんが包帯だらけ!」
「裸に包帯とかエッロ!」
「文屋に写真売ったら儲かるんじゃね?」
「確かにこの状態ならナニしても無抵抗よねぇ」
「新メイド長やべーつえー!」
「咲夜ちゃんやるじゃん」
「ていうか誰か今変なこと言わなかった?」
まったく状況が把握できない。攻撃でもされれば自動的にクリアになってくれる頭も、この状況では何の役にも立たなかった。
見舞いなのか鑑賞なのか、頭やら背中やらから生えた羽やら翅やらをぱたぱたと振り回し好き勝手なことを口々に言う使用人たちに、口をあんぐりさせる。
「え、美鈴、さん……え、わたしの、こと?」
聞き取って認識できたのは、それ一つだけだった。
間違いなく自分の名前で、自分が呼ばれていたと認めるのにひどく手間取りはしたが。
「えっと、好きに呼べと言われたので、皆で考えて……他にも姉御とかセンパイとか、親バカとかロリコンとか候補があったんですけど、最終選考でそれに落ち着きました……あの、駄目、でしたか……?」
使用人の一人が、美鈴の呟きにおずおずと答えてくれた。この部屋で服を探しているときに会った、彼女だった。
頭の中で、彼女の言葉と使用人たちの言動を結びつける。途端に口角が緩み、湧き上がる笑いを堪えられなくなった。
「あっははっ」
笑うという動作は全身のいろんな箇所を稼動させる。包帯の巻かれた身体のあちこちから悲鳴が上がるが、自分の笑い声がそれを掻き消した。
「あはははっ」
なんだ、怖がられていないじゃないか。嫌われていないじゃないか。というか親バカは自覚があるからいいとしてもロリコンは心外だ。無難なところに落ち着いてくれて本当によかった。
「もうみんな静かにしなさいよー!」
一人が注意するのも空しく、彼女らの祭りは止まらない。
昔の自分ならとっくに黙らせている。そんな彼女たちの姦しさが今はなんだか無性に心地よくて、美鈴は自らその祭りに加わった。
悩んでいた自分は、本当にばかだなぁ。
「あー写真はちゃんと許可取ってからにしてくださーい!」
「順番順番っ!」
「最後尾ってここー?」
「そこっ! こっそりシーツを捲らない! やるなら全部引っ剥がして!」
「あははははっ」
そんな自分を、本当に、心の底から笑いとばしてやった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「あれはパチェの差し金?」
ドアの隙間から中の様子を覗いて、レミリアが訊いてきた。
差し金とは人聞きの悪い。ただ、これまでの鬱憤を晴らすなら今しかないと伝えただけだ。ついでにあの門番は恥ずかしがりの寂しがり屋で、あと意外に階級思考の豆腐メンタルで、なおかつ迫られると断れない受身体質だから多少の直接的な接触くらいなら泣き寝入りしてくれるということも。
「貴女の求めるものには必要かと思ったのだけれど、余計なお世話だったかしら?」
「美鈴を見てみなよ」
言われ、レミリアと一緒に中を覗き込む。
「いろいろとまさぐられているわね」
「違う、顔のほう」
「……緩みきっているわね」
「ありがとう、パチェ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「あー、なんか変な体力使った……」
騒々しく入ってきた使用人たちが祭りの喧騒をそのままに退室していき、美鈴はひとり嘆息する。
写真こそ撮られなかったものの、こちらが動けないのをいいことに、どさくさに紛れてシーツを取られるわおっぱいを揉まれるわ。途中まで凶行を止める役だった者も最後には一緒になって身体をまさぐってくるわ。
まあ、別に減るものでもないからいいんだけども。
「もげてしまえ……」
なんか急にパチュリーの声が聞こえた気がしたが、まあ気のせいだろう。
と、部屋の外に新たな気配を感じた。
誰かが戻ってきたのかとも思うが、そうではない。これは人間の気配だった。そして、この館で人間というと彼女しかいない。
言葉通りの意味で、誰かに背中を押されたのか、咲夜が躓きながら入ってくる。
咲夜の背中を押した手だろうか、外から生えてきた手が扉を掴み、静かに閉めていった。
先程の喧騒が幻だったかのように静まり返った部屋で、扉の前から動かない咲夜を眺める。
新しいメイド服。体のところどころに絆創膏や包帯が見えるのは、あの落下の際に負った傷を手当てしたものか。あれから湯浴みをしていないだろうことが窺える頭に、三つ編みは残っていなかった。あれだけ衰弱していた彼女の安否が気掛かりだったが、なんにせよ元気そうで安心した。
いつまでたっても動こうとしない咲夜に、戦闘時にずっと間合いを外していた彼女を重ねる。
「おいで」
優しく声を掛けてみる。そんな彼女に近づく手段は、今の美鈴にはこれしかなかった。
咲夜は俯いたままだが、素直にとことこと踏み出してくる。その姿を見て、最初からこうしていればよかったんじゃないのかと考える。
「座ったら?」
ベッド脇まで来て立ち止まった咲夜に椅子を勧めるが、それには従わなかった。咲夜は自分の行為を確かめるように、ベッドに横たわった美鈴の身体を見つめる。
「…………いたい?」
「全然? わたしは頑丈なだけが取り得だからね」
これは自業自得のようなものだし、悄然とした咲夜をこれ以上苦しませないよう、美鈴は空元気で笑ってみせる。が、当然といえば当然のことで、咲夜は肩を落としたままだった。
咲夜が美鈴の身体に触れる。包帯の感触を確かめるように撫でてから、呟く。
「……あたしは、もうなにもいらないから」
「……え?」
意味が分からず、反射的に訊き返す。
咲夜は確認するための独白のように続ける。
「あたしがぜんぶ、もとにもどすから」
いつもの、淡々とした口調ではなかった。後悔や恐怖といった感情が、声に表れていた。
「あたしのこと、なかったことにするから」
「……だめ!」
咲夜のやろうとしていることを理解し、叫ぶ。この娘は消すつもりだ。自分がここに存在したという事実そのものを。自分の能力にはそれができると分かってしまっている。
少し手を伸ばせば届くのに、身体が動かない。気の遠くなる年月を鍛錬に費やしてきたのに、これまで根を上げず付いてきたくせに、ここで動かないとはどういう了見だ。
自分が弱いのは自分でも分かっている。が、自分の身体は――
――わたしの身体はそんなに弱くない!
能力を発動しようとする決意が、気配で伝わってくる。微塵の躊躇もなく、本気で使う気配だ。自分と違って、どうしてこんなに潔く決断できるのだ、この娘は。
――殴ってでも止めろ! 頼むからっ!
美鈴の懇願に呼応するように、これまで数多の敵を打ち倒してきた左拳が動いた。
内外の傷口がぶちぶちと開き、肉体の形状を維持できないと、神経がその悲鳴を痛みに換えて突きつけてくる。そんなの知ったことか。
一度動いてしまいさえすれば間に合う――動いたならば倒せる。
左拳が、鍛え上げた拳が繰り返し覚えさせられた最短経路で咲夜へ到達する。横になった状態で、腰や足などといった他の部位の助力も得られない打撃に大した威力が出るはずもないが、中断させられればそれでいいと思っていた。
「…………?」
が、いつもの、敵を打ち倒す際の手応えは感じなかった。
気付くと、咲夜は倒れていた――美鈴の胸の中に。
美鈴自身、なぜこうなったのか理解できなかった。もとより咲夜を殴るなんてことはしたくなかったが、先は本当にそうするつもりでいた。だとしたら考えられるのは、美鈴の身体が、再び美鈴の意思に逆らったのか。
――さすが、わたしの身体。
本当に、為すべきときに為すべきことを、期待を上回ってやってくれる。安堵と共に、咲夜の頭をやさしく包む左拳を労う。
なにはともあれ、止まっていた。時間がではなく、咲夜の気配が。
深く息をつき呼吸を落ち着かせてから、胸の中で動かないままでいる咲夜に、美鈴は嗜めるように囁く。
「一つ約束して。今やろうとしたことは、金輪際やらないこと。試そうとするのもダメ。考えるのもダメ。何が起こっても、やっちゃダメ」
咲夜は動かない。再度能力を使う気配もない。さっきは本当にやる気だったろうが、本心は拒否していたのだろう。それが当たり前だ。
――まったく、子供にあんな酷いセリフ吐かせるなんて。
子供に言わせてよい言葉ではなかった。それを止められなかったことを心底悔やみつつ、美鈴はレミリアの言葉を思い出していた。本来なら知らないはずだった、大切な家族が伝えてくれたことを。
「あんたが……」
口を開こうとして、考え直す。
「咲夜がわたしを必要と言ってくれるなら、わたしは何があっても死なないよ」
ぴくりと、胸の中で咲夜が震えた。
「咲夜がわたしを必要と言ってくれるなら、わたしが咲夜を支えるよ」
咲夜を抱いていた手で、彼女の頭を撫でる。
「咲夜が必要と言ってくれるなら、わたしは咲夜のおねえちゃんになれる」
咲夜の震えが止まらなくなる。
美鈴は、これまで逃げ続けてきた自分と、そしてこんな自分を頼ってくれる咲夜に、遅すぎた覚悟を決める。
「咲夜が死ぬまで傍にいる。咲夜が嫌がっても、死んでもずっとい続けてやる」
胸元に、熱いものが沁み込んでくる。
咲夜につられ、こちらも涙が零れそうになる。
「だって、わたしにも咲夜が必要だから」
でも泣いちゃだめだ。だって、おねえちゃんは妹の前で格好つけなければならないものだから。
咲夜の嗚咽が収まるのを見計らって、彼女を抱いたまま、美鈴は改まって告げる。
「でも、ケジメはつけなきゃね」
「……?」
咲夜は起き上がり、泣き腫らした顔で首を傾げた。
なんだか久しぶりにこの愛らしい仕草を見れた気がして、美鈴はくすりと笑い、人差し指を立てる。
「わたし、言ったでしょ。言うこと聞かないなら、力でねじ伏せろって」
「……そんなこといってないと思う」
首を傾げたままさらに眉根を寄せて、咲夜は否定する。
「自分で考えなさいとはいったけど」
「そだっけ?」
うん、自分よりはもの覚えがいいらしい。
とにかく、と美鈴は立てた指先で、いつかのように咲夜の胸元をつついた。
「勝ったのは咲夜、負けたのはわたし」
確認させるようにゆっくりと言ってから、にんまりと笑い、続ける。
「今ならわたしは無抵抗だから、命令し放題だよ?」
「……」
困った表情を浮かべ、思案する咲夜。
なんだ、ぶっちょう面ではなく、こんな愛嬌のある顔もできるんじゃないか。
別に何か命令されたいわけではなかった。ただこんな顔も見たかったというだけだったので、咲夜には悪いが、美鈴は勝手に満足して目を閉じる。が、すぐに開くことになった。
「じゃあ」
何か思いついてしまったのか、咲夜が口を開いて、美鈴はぎょっと目を開く。
そこには、どこかぎこちなくも愛らしい、だけどちょっといじわるな、そんな笑顔を浮かべる年相応の少女がいた。
突然のことに狼狽する美鈴に構わず、咲夜は続ける。
「じゃあ、これからは――」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「お、美味そうだな。一つくれよ」
頭上から声を掛けられ、握り飯に伸ばそうとしていた手を止める。
今日もいっとう高い場所で世界を照らす炎陽に目を細めながら見上げると、湖の上空に二人の少女が浮いていた。
一人は金髪に赤いカチューシャを着け、人形をお供にし、人形のように繊細な気品を持った少女――アリス・マーガトロイドだ。
もう一人は癖のある黄金色の髪に黒のとんがり帽子を乗せ、箒に跨った古風な魔女――霧雨魔理沙だった。声を掛けてきたのはこちらだろう。
「断固拒否です」
食事の邪魔をされて口を尖らせつつ、美鈴は答えた。魔理沙は彼女の渋面を意にも介さず近寄って、ものほしそうに握り飯を覗き込んだ。
「いいじゃんか。こんなでかいの、一人で六つも食べたら太るぜ」
「わたしは太らないようにできてるんですよ」
ぷいとそっぽを向いて盆を遠ざけてやると、魔理沙は諦めたように肩を竦めた。
「ったく、ケチな奴だぜ。パチュリーなんていつも無償で本をくれるってのに」
「それはあんたが勝手に持って行ってるだけ。いいかげん返しなさいよ」
アリスが嘆息しつつ魔理沙を嗜めた。
「違うってアリス。持って行ってるんじゃない、借りてるだけだぜ。死ぬまでな」
「無償で本をくれる、んじゃなかったの?」
「おおっと、わたしは新聞と宗教と揚げ足取りはお断りだ」
逃げるようにアリスから距離を取って、魔理沙は美鈴に手を振った。
「んじゃ、話も丸く収まったところで、わたしたちは行くとするぜ」
「収まったかしら……」
納得いかない様子のアリスを引き連れて館へと向かおうとする魔理沙の背中を、美鈴は呼び止める。
「あ、魔理沙さんちょっと」
「うん?」
「わたし、今日はグーを出したい気分なので、じゃんけんしませんか?」
鍛え上げた拳を軽く握って、振り返った魔理沙に向かって突き出す。察してくれるとありがたいのだが。
「……オーケー。そんならわたしはパーを出したい気分なんだな」
しばし思案した後、魔理沙は得心したように美鈴へと手の平を突き出す。思ったとおり聡い娘でよかった。
「ほいっと……あらら、勝負に負けたとなったら仕方ないですね。どうぞごゆっくり」
「勝負に勝ったのなら仕方ないな。中で茶でもしばいてくるぜ」
「え、っと……今の何の意味があったの?」
「あいつもいろいろ大変なんだよ、きっと」
そんなことを言いながら、二人は林の向こうへ飛んでいく。
あの二人も、足しげく通ってくれている。パチュリーもなんだかんだ言いつつ、二人が来るのを待っている節があった。
それはそれとして、ようやく握り飯へと向き直る。
「さて、ごはんごはん」
湖畔に腰掛け、握り飯を手に取ると、呟くように言う。
「いただきます」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「これでよかったのかねぇ」
いつもの図書館、いつものテーブル、いつもの椅子に腰掛けたレミリアが珍しく悩ましげに漏らした。
それを受け、すぐ隣の椅子に腰掛けたパチュリーは、両手で抱えた本から目を逸らさないまま訊ねる。
「貴女の希望通りの結果になったじゃない。何か不満でも?」
「運命を操れるってもさ、そんな万能なもんじゃないって再認識したよ」
あのレミリアが頬杖をついてまで悩んでいる。これは本当に珍しい。あまりお目にかからない態度であったため、さすがのパチュリーも読書を中断しレミリアに向き直る。
「というと?」
「めーりんが常時デレてるのはなんか気持ち悪い」
「それには同意」
気にして損をした。が、レミリアと完全に意見が一致することも滅多にないため、パチュリーは視線で続きを促す。
「あとそのほとんどが咲夜に向いてるってのが気に食わない」
要は嫉妬しているということか。美鈴を咲夜に取られて。それとも、とパチュリーは、過去の会話でレミリアがフランの友達云々とこぼしていたことを思い起こす。
「でも美鈴がフランと楽しげにお喋りする光景も想像できないけれど。そもそも貴女がフランとの溝を埋めたらいいのに」
「いやそれはめんどくさい」
「こっちの姉はほんとにアレね」
やたら酷いことをあっけらかんと即答する彼女に半眼を向ける。
「結局どうしたいのよ」
「わたしにももっとデレてほしい。というかわたしにデレてほしい」
「本音はそれか。よくないのは貴女自身じゃないの」
テーブルを小突いてまで率直に訴えてくるレミリアに、訴える相手が違うわよとはさすがに言えなかった。
「うん」
素直に認める彼女がなんだか哀れになって、パチュリーは読みかけだった行を探しながら、片手間に適当な言葉を探す。
「今日は一緒に寝ましょうか、レミィ」
が、慰めにもならない言葉しか出てこなかった。はたしてレミリアは満足できなかったようだ。
「そんな取ってつけたようなのは要らないんだよ」
「知ってる」
少々虐めが過ぎたか。ちくしょうと呻いてテーブルに突っ伏す彼女が、ますます哀れに思えた。
「よしよし」
打ちひしがれる、どこか抜けているカリスマ吸血鬼の頭を適当に撫でつつ、片手で支えた本のページを器用にめくる。
――そういえば。
ふと気になって、パチュリーは再び本を置いた。
「ところでレミィ」
「うん?」
突っ伏したまま、レミリアが聞き返す。
「結局、咲夜はあのとき、美鈴になんて命令したの?」
ちゃんと門番をやれ、という内容でないことは、蔵書の被害状況からも一目瞭然だった。門番が機能しないことで一番被害を被っているのは、疑いの余地もなく自分だ。コレクションというわけではないが、愛書が拐かされることを良しとしたわけでもない。
レミリアが起き上がる。その顔には先刻までの憐憫を抱かせる影はなく、超然とした悪魔の笑みが浮かんでいた。
「それはね――」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「見たわよ」
唐突に、すぐ後ろから声をかけられる。
「あらら」
さして驚きもせず座ったまま頭上を仰ぐと、今も昔もずっと見守ってきた少女の顔があった。ただ端正なだけだったその面影に、今では愛嬌や気品、そして美しさが備わっている。
「気配を消すの、上手くなりましたねぇ。咲夜さん」
おそらく能力を使ったのだろう。美鈴の指導のもと制御も上達し、今では通常の使用になんら支障はなくなっている。美鈴に師としての器量があったのか、それとも咲夜自身の才覚か。おそらくは後者だ。
美鈴の思惑を感じ取ったのか、得意げな顔をすることもなく咲夜は答える。
「おかげ様でね」
「いやいや面目ありません。今日も突破されちゃいましたよ」
突破されちゃったので、美鈴は明朗に悪びれることにした。
「もっと気の利いた茶番は用意できないの」
どうやら見られていたのは本当らしい。そしてどうやら、食事が終わるのをじっと待ってくれていたらしい。
「でも一見門番としての責務は果たしましたよ? 果たしたことになりませんかね? 対外的に果たしちゃってますよね」
「一見とか対外的にとか言っちゃってる時点で、というかそもそも通しちゃったら失格でしょ門番として」
咲夜は頭を抱えて嘆息すると、目を伏せつつ、もごもごと歯切れ悪く何かを促してくる。
「それより……」
その様子を見て、美鈴は肩を竦めた。
「はいはい、分かってるわよ」
それで満足したらしく、先刻の小言が再開する。
「まったく、アリスはともかく白黒の方は止めてって言ってるじゃない」
「パチェの友達を門前払いなんてしないわよ」
「そのパチュリー様から毎度恨み言を聞かされるこっちの身にもなってよ」
腰に手を当てて、咲夜が言う。本当に困っているようだ。こっちの方は、まだまだ未熟だった。しかしこういった機微は教えられるものではない、独力で気付くべきだ。
「あれはあれで楽しんでるんだから。そんなことより」
美鈴はすっと腰を上げると、咲夜の前に立った。
「ごちそうさま」
突然言われてきょとんとした後、咲夜は再び目を伏せた。
「……どうだった」
「昨日より美味しかった。こりゃ嫁に行く日も遠くないかもね。おねえちゃんとしては複雑だよ」
ぽん、と咲夜の頭に手をのせる。この手のおさまる位置がどんどん高くなることに、焦りにも似た感情が芽生える。
人間の成長は本当に早い。日に日に変わっていく咲夜を見失わぬよう、日々を大切に生きていかなければ。
彼女と出会って何年になるか。たった数年前を、遠い昔のことのように感じる。
頭にのせた手をぐしぐししてやると、丁寧に結わえられた三つ編みがくすぐったそうに、新緑の色をしたリボンを揺らす。あれほど難儀していたこれも、今では一人で結えるようになっていた。咲夜の髪をいじるのは好きだったのだが、最近はめっきりいじらせてくれなくなったことに、そこはかとないものわびしさを覚える。
「……」
しかし、これが成長するということなら、受け入れなくてはならない。そうすると決めた覚悟なのだから。
感慨深い面持ちで、自分の手にされるがままの咲夜を見つめる。気持ちよさそうに、恥ずかしそうに、幸せそうに目を閉じたその顔を。
昔から、美鈴以外には絶対に見せない表情だ。
――本当に、甘えんぼな妹だよね。
くすりとこぼすが、人のことは言えない。ここに鏡があれば、おそらく自分もこの娘と同じ顔になっているだろうから。
そう、変わることばかりではない、変わらないこともある。
どれだけ変わろうとこの娘は咲夜だ。
どれだけ変わらなかろうとこの娘は咲夜だ。
「豆粒みたいだったのに、大きくなったよね。そのうち身長、抜かされちゃうかな」
言いつつ、美鈴は視線を落とす。
今日の咲夜の幸せそうな顔は十分堪能したので、次はもっと別の表情が見たくなって、
「でも、こっちはちっとも大きくならないわね」
あくまでぼそりと独りごちるように、けれどぎりぎり耳に届くように。
刹那、咲夜の頭を撫でていた手が捕まった。咲夜の手に。
「あん?」
こうかはばつぐんだ。ナイフと同様いったいどこから出てくるのか、手を開くことも閉じることもできなくなる酷い握力だった。
なんとなくそんな気はしていたが、ここまで気にしていたとは。
とにもかくにも、これはまずい。整った眉の角度がぐんぐん危険域に突入していき、それに比例して手首がミシミシと悲鳴を上げ始める。
手首のため、というよりその先にある己の生命健康のため、美鈴はすっと咲夜に顔を近づけると、小さく耳打ちする。
「でも、わたしはどんな咲夜でも大好きだよ」
ぼん、という聞こえるはずのない音が聞こえた気がした。茹でダコよろしくみるみるうちに耳まで紅葉するのと同時に、拘束が緩む。
「よっしゃ今だ!」
難を逃れた手首を引き連れて、すかさず転進する。
「え、ちょ、ま――めーりん!」
やや遅れて、背後で咲夜が駆け出した。
――あーやばい、沸騰しそう。
ここに鏡があれば、間違いなく二匹目の茹でダコが映ったことだろう。
変われない化物だと思っていたが、気付けば自分もかなり変わってしまっていたらしい。
だけどそれはそれ。格好いいおねえちゃんのこんな顔、咲夜に見せるわけにはいかない。
そんなことを考えつつ、今日も美鈴は湖畔を疾走する。
火照った顔に、湖の清涼な空気が心地よかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
今日も今日とて、
「今日という今日は許さないんだから! てゆーかいい加減ちゃんと仕事しろぉ!」
「えー、そこに話戻るんですかー?」
どこからともなくドタバタと駆けずり回る騒音と振動が、淹れたばかりのパチュリーの紅茶に埃という名のスパイスを与える。
「やかましい! あんた当分ご飯抜きだからねっ!」
それを追うようにメイド長の端正な罵声が木霊し、
「ひぃ! やりますからご飯抜きだけはぁっ!」
門番の切実な命乞いが情けなく響く。
「やれやれ、今日もお盛んね」
「ちくしょう」
呻き、レミリアが再びテーブルに沈む。
これが、館の主人が目指したところの、アットホームな悪魔の館における日常である。
そんな美鈴と、レミリアに拾われた咲夜の二人が親しくなっていくまでのストーリーとそれぞれの「弱さ」がさらけ出されてぶつかる展開、そして館の誰もが認める仲良しコンビになっていく結末と、綺麗な展開と緻密な登場人物設定が魅力的で、読んでいてとても面白かったです。ありがとうございました。
ご感想、ありがとうございます。もったいないお言葉に恐縮しています。
こういう面々の住む紅魔館もいいのでは、と思い書いてみました。面白かったと言っていただいて、これほどうれしいことはありません。