Coolier - 新生・東方創想話

映画、city、やさしさに

2021/04/29 23:24:30
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 姉さんが死んだ。姉さんの葬式には人が来た。貧乏神のお葬式のはずなのに、こんなに人が来るなんて姉さんはだめな貧乏神だったのねとわたしは思った。だめな貧乏神だったから死んでしまったんだろう。姉さんは遺影の中で笑ってた。姉さんらしくないかわいい純真な子供のような笑顔だった。線香の煙。わたしは途中で帰った。べつに寂しくはない。面倒なことになるだろうと思っていた。実際、そうなった。
 姉さんが死んでからというもの、たくさんの人間がわたしのもとにやってきた。その多くは姉さんが身体中に貼り付けてそのまま地獄の底まで持っていってしまった借用書の真の所有者たちだった。姉さんたちが借りて返さずに終わった多額の債権者たち。わたしには姉さんの借金を返済する道義的責任がある、と彼らは言った。わたしは姉さんの連帯保証人というわけでなかったし、道義についてはとうの昔に忘れてしまっていたから彼らのことは無視をした。でも、もっと古いやつ、姉さんが身体に借用書を貼り付けるような自虐的なスタイルを手に入れる前のやつ、そのいくつかの借金に関しては、少なくとも法的な責任がわたしに与えられていた。もうあんまりに昔のことだからわたし自身も忘れてしまっていたけれど、わたしは何度か姉さんの連帯保証人になったことがあったのだ。その頃のわたしたちは、お互いを正確に理解しないまま血の繋がりという根拠のない信頼だけで繋がったよくある姉妹だった。
 それらの借金については、たしかにわたしに返すべき理由があるようだった。そういうわけでわたしは、わたしが姉さんと最後に暮らし、姉さんがその骨を埋めることになったこの土地を捨てて町に出た。何もかもが昔みたいにはいかなくなっていた。町が変わったのではない。わたしが変わってしまったのだ。姉さんの借用書のせいで、わたしはずいぶんみすぼらしくなっていた。貯蓄してたい幾ばくの資産や金目のものはすでに奪い取られていたので、格好は浮浪者のようだったし、ろくなものを食べていなかったから身体だってやせ細り、男を引き寄せる魅力があるとはどう見ても言えなかった。まるで姉さんのような姿に変わっていた。わたしたちはもともと双子だった。なにかのきっかけでひとつ歯車がずれてしまえば、どちらがどちらの立場になってしまってもおかしくはない。それでも記憶と経験はわたしと姉さんをたがうもののひとつだ。わたしは昔のノウハウを生かして何人かの男をひっかけることに成功した。
 最後から二番目の男は株式投資で暮らしていた。わたし自身、新しい社会の仕組みには明るくなかったが、投資家、という言葉のどこか華々しいイメージとは別に退屈な男だった。いつもコンピューターの前に座って画面とにらめっこをしていた。小さな取引を重ねて小金を積み上げていくそういう男だった。相手をしなくて良いぶん気が楽でいいと思った。男は嫉妬深かったのでその点についてのみわたしは注意して、大抵は男の部屋にいることにした。外の世界に出るのが好きじゃないのよいつも騙されてばかりだわそれで人が信用できなくて……とわたしが嘘の理由を言うと、男は嬉しそうな表情を見せた。だから、あんまり外に遊びに行くこともなくて、よく部屋でセックスをした。行為のあとで、男の胸の中に顔を埋めるわたしの髪を撫でながら、彼はよく言ったものだった。「君には不思議な純真さがある。それは混沌からしか生まれないような純真さだ。野良犬の気高さのようなものだよ」「それ褒めてんの?」「もちろんだよ」「ありがとう」と言って、わたしは男の乳首を軽く噛んだ。それ以上は言葉を交わさずに、彼の緩やかな指のストロークに身を任せた。でも、もしも彼の言うような気高さがわたしにあるなら、それは姉さんのものだとわたしは思っていた。姉さんの亡霊がわたしに取り付いていることをわたしは知っていたのだ。今やわたしは姉さんのような姿になり、姉さんのスタイルを身に着けていたから。
 やがてわたしたちの狭い暮らしは終わった。最終的に彼は破滅してしまったのだ。わたしの借金を返すために彼らしくない大きい取引に手を出し、そして失敗した。別れは男のほうから切り出してきた。僕は君を守ることはできないと彼は言った。わたしは肯いた。それで終わりだった。でも、彼は、それほど長くはない暮らしの間に、わたしの身体に張り付いた借用書を3つも引き剥がしてくれた。愛のために、と彼は言ってくれた。でも、真実、それはわたしに対しての愛ではない。それは、姉さんのための愛だった。その頃になるとわたしは姉さんの姿が見えるようになっていた。死によってあらゆる借用書から開放され、そのいくつかをわたしに押し付けた姉さんは、もはや身につけるものもなく、裸でわたしのそばに漂っていた。ひどいねえ、と姉さんはくすくすと笑った。
「お金がなくなっちゃったらそれで終わりなんだ。あの人は貴方のために破滅しちゃったっていうのに」
「別にわたしのためじゃない。投資は未来を保証するお金の稼ぎ方じゃない。いずれ破滅してた。理由が必要だったの。それがたまたまわたしだっただけだわ」
「でも、わたしのせいにしたじゃん。後ろめたいからだ」
「しかたないじゃない。だって、姉さんはこうしてわたしに憑いてるんだもの」
「愛してるならお金がなくなっても一緒にいてあげればよかったのに。貧乏でも幸せな暮らし。やり方ならお姉ちゃんが教えてあげよう!」
「でも、あんた死んだじゃない。そのくせまだ未練たらしく憑いてる」
「くすくす。そうね、みんな言うもんね。あの人はわたしと一緒にいないほうが幸せになれるんだからって。さいてー。あの人、貴方もお金も失ったらきっと自殺しちゃうんじゃないかな」
 それから姉さんは古典的な幽霊のように、裂けるくらい大きく口を開けて笑った。

「ひとごろし」

 それからの暮らしはひどいものだった。まともな食い物にありつける日のほうが少なかった。橋の下で寝たこともある。ボロ衣だけをまとってベンチで眠るわたしはすっかり姉さんのようだった。わたしは明らかに力を失っていた。もはや誰もわたしのことを相手にはしてくれなかった。不本意なことだが、無防備に眠るわたしを守ってくれたのは、姉さんの亡霊だった。姉さんの亡霊がそばにいるせいで、わたしには不思議なオーラのようなものがあり、そのせいで誰もわたしに近づこうとはしなかった。姉さんはわたしの髪を幽霊の白い指で梳きながら喋っていた。

「大丈夫。たしかにあなたの力は弱まっているけど、こうやってあなたが弱ってるせいで憑いてるわたしの力も弱まってる。だからもういちどチャンスはくるよ。最後のチャンスだ。それを逃しちゃだめだよ、それを捕まえて最後まで離さないようにするんだよ。お姉ちゃんからのアドバイス。忘れないでね」

 微睡みのなかで、そんな言葉を聞きながら、わたしは鼻で笑った。ばかねわたしたちはもうおわりなのよここでおわりなのねえさんのばか、って。 
 でも、たしかに、そのときはやってきたのだ。
 その日は雨が降っていた。橋の下で座り込むわたしに誰かが傘をかけてくれた。そいつは決して身なりのよさそうな男じゃなかった。でもやさしい人だった。彼は捨て猫のようにうずくまるわたしを助けてくれて、数日雨を躱すための屋根を与えてくれた。貧困者を援助するための団体を調べてきて紹介してくれた。そうしてくれたらもっと話がはやかったと思うのだが、彼はわたしに手を出そうとはしなかった。最後のチャンスだとわたしは思った。夢うつつに囁かれた姉さんの言葉がわたしの中に残っていた。愛してると思う、とわたしは言った。それから笑ってみせた。ねえ、あんたはやさしいけど、ひどい人ね。嘘を言ったのだと思う。いつもとおなじように。そうして彼と暮らした。つつましいけれど楽しい暮らしだった。まるで昔話の中にしか存在しないような暮らしだった。彼は仕事に行き、わたしは家で洗濯をし料理をした。よくふたりで自転車に乗って近所の海に遊びに行った。彼は泳ぐのが嫌いだったから、いつもわたしだけが泳いでいた。海の中から手を振ると、彼は振り返してくれた。わたしの誕生日には彼が戸籍をくれた。彼の籍にわたしを加えるという形で。さらに、社会的なシステムと会計士を利用して、彼はわたしの借金を、わたしたちの暮らしの範囲で払えるように分割する手助けをしてくれた。簡単な手続きだった。彼が教えてくれたのだ。現代には、自分自身の業によってどこにも行けなくなってしまった人間を救済するためのシステムがある。それが社会なんだよと彼は言った。助け合いなんだと彼はよく言っていた。彼は物事の良い面だけを見ているようにいつもわたしには思えたが、結局のところ、それがやさしさということじゃないだろうか。そのようにして、わたしたちは暮らしていた。こんなふうなことを言うのが正しいのかどうかわたしにはわからないけれど、つつましいけれど幸せな暮らしだった。
 でも、長くは続かなかった。やがて彼にも借金が生まれた。いつか連帯保証人になった昔の友だちが消えてしまったのだという。彼のやさしさのせいだとわたしは思った。でも責めることなんかできなかった。結局のところ、わたしだって、そのやさしさに救われたのだから。彼は仕事を増やし、わたしは働きに出た。わたしのものと合わせて借金は膨れ上がり、わたしたちは坂道を転げ落ちるように困窮した。やがて彼は身体を壊してしまう。やせ細り床に伏す彼の手を握りながらをわたしは泣いた。そのせいで彼が余計に惨めな思いをしてしまうのだとわかっていたとしても。
 顔を洗ってくるとわたしは洗面所に行き、もっと泣いた。長い間泣き続け、顔を上げると、鏡の中にあまりにみすぼらしい女の人が立っていた。頬が痩せこけ、瞳は暗い闇だけを映し、希望がなかった。それは姉さんのようだった。いや、姉さんそのものだったのだ。鏡の中の姉さんは言った。
「わたしのことなんか忘れちゃったと思ってた」
「忘れるわけないじゃない。あんたはわたしよ」
「ふふ、そうね。そういえば、あなたは、どうしてわたしが死んだか一度も聞かなかったね」
「興味なかったもの。あんたのことなんか」
「でも今は知りたいでしょう。大丈夫、いじわるしないよ。ちゃんと教えてあげる」
「いい」
「そんなこと言わないで聞いてよ」
「消えてよ」
「わたしね、幸せがわからなくなったの。わたしは貧乏神で幸せな人に憑いて不幸にしてしまう。それがわたしの存在だった。でもわたし幸せがわからない。お金持ちも成功してる人も貧乏な人もみんななんだか幸せには見えないんだよ。みんないつも喋るでしょ、いろんなことを。それって結局全部がなにかしらの自己肯定で、まるで自分が幸せだって主張してるみたい。そんなのちっとも幸せそうじゃないもんね」
「あんたの幸福論なんて聞きたくない」
「でも、あなたは本当に幸せそうに見えた。どうしてかな。姉妹だから、自分のことみたいにその気分がよく伝わるのかな。でも、やっとわたしも貧乏神の本域を取り戻せたよ。復活だね。まあ、ともかくさ――」

 その先の言葉をわたしは聞きたくなかった。耳を塞いだ。でも耳を塞いだところで亡霊の声はちゃんと聞こえてくる。姉さんは笑った。やっぱり亡霊みたいに口をぱっくり開けて――。

「わたしのために幸せになってくれてありがとう」

 本当のことを言えば、わたしはその声を聞かなかった。
 だって、わたしはもうここにいないのだから。ここに立っているのは最初から姉さんだった。鏡に映るのは、もちろんその本人以外にありえないじゃないか。だからわたしはもうどこにもいない。わたしは次第に姉さんのようになり、やがて姉さんそのものになり、ここには姉さんだけがいる。これは姉さんの物語だ。姉さんは自分の力によって自分を呪い、最終的に自分自身を不幸にしてしまう。これはその手の寓話である。だからそこにはわたしはいない。わたしはそれを遠巻きに見ているだけだ。たとえばテレビの画面の向こうに。


 だから、そういう映画を見た。
 気分の悪い映画だとわたしは思った。姉さんは楽しそうに笑ってた。いい映画だったね、姉が妹に対して支配的なところがいい、と姉さんはまた笑った。不快だ、とわたしは言った。映画が? 姉さんが。姉さんは三度笑った。
 それから姉さんは少し神妙な顔をして。

「あ、そうだ、女苑、言っとかなきゃいけないことがあってさ」
「なによ?」
「わたしね、結婚するんだ」

 そうなんだ、とわたしは言った。声色には出さず驚いていた。あの姉さんが結婚とはねえ。誰とよ、と聞くと、天人と言う。姉さんが最近仲良くしているあの天人のことだろうか。いいじゃないとわたしは言った。本当のことだった。別にそのことに対して否定的な理由はない。
 姉さんの結婚式にはたくさん人が来た。たいていは天人側の友人ということになっていて、姉さん側にいたのはわたしとあのおばさんくらいだった。聖白蓮がなんで来たのかは知らん。そもそも呼ばれてるのかもわからない。姉さんのことなんか全然知らないくせに。まあ、それを除けば、いい結婚式だったと思う。わたしもひとつ短いスピーチをぶった。ならべく暗いことは言わずに、嬉しいですとか姉さんはだめだめだから嫁さんができればしゃんとしてくれると思うとか、そのようなことを適当に喋った。わたしは途中で帰った。べつに最後までいる理由もない。
 姉さんの結婚はわたしにいい影響を及ぼしたと思う。その頃わたしは聖白蓮のお寺で、なんとなく修行生活を続けていたのだが、その修業にもなんとなく身が入った。そんなわたしを見て聖白蓮は、「姉が結婚したとなると貴方でもやっぱりしっかりしようと思うものですか。清廉潔白でいれば貴方にもいい人がすぐに見つかりますよ」と年を食った人間にありがちなつまらない邪推をしていた。そもそも僧侶として修行する身の人間にいい人がすぐに見つかりますよ、というのはないだろう。まあでも、あいつのそのような抜け感はわたしにあっていた。
 そんなふうな修行の日々の合間に、時々姉さんからの葉書が届いた。葉書には、さいきん女苑はどうですか?わたしはこうこうで幸せです、みたいなバカっぽい短いメッセージと天人と姉さんのふたりで映った写真がついていた。庭付きの小さな赤い一軒家を背景にふたりは笑っている。天人は満面の笑みを浮かべて、姉さんの方は写真慣れしてない感じででも幸せたっぷりにはにかんでいる。捨てようとも思ったが、なんとなく束ねて残しておいている。はじめは姉さんの結婚なんて上手くいくとも思っていなかったけれど写真を見るとずいぶん順調らしい。天人なんていう高貴な種族と不幸に愛される姉さんがうまくやることはできないと勝手に決めつけていたのに、わたしも年を食ったらしい。いつも返事は書かなかった。わたしの呪いいっぱいの返信でまた姉さんが不幸を思い出してしまったら迷惑だろうというのは単なる言い訳で、純粋にめんどくさかったのだ。でも、姉さんはわたしたちの姉妹にずっと亡霊のように取り付いていた”呪い”をとうとう振り払ったのだ、とは感じていた。そのような呪いがあることをお互いに口には出さずともわたしたち姉妹は知っていた。不快な映画みたいに何をやっても最後はある意味で都合の良い展開が起こって暗い結末になってしまうような呪い。わたしもいつかは……とか思っていたわけではべつにない。でも、修行生活に意義を見出すことはできた。わたしたちも他の生き物と同じような積み重ねの上にいて、ひとつずつ積み重ねていけばいつか別のところに行けるのだという実感だ。姉さんにとってはそれが結婚で、わたしはそれがどこかはわからないけれど、まあ自分に少しずつ生じる変化を感じるのは単純に楽しいことでもある。
 そのせいかどうかわからないが、スポーツをやった。お寺の妖怪たちやその仲間たちがやっている野球チームに入れてもらって、週末の妖怪リーグ戦に向けて修行の合間を縫って練習をしていた。うちのチームのリーダーは一輪で、四番でピッチャー、つまりは弱小特有のワンマンだったのだが、周りのやつはてんでだめで、その分わたしも輪に入りやすかった。わたしは自分で言うのもなんだが初心者にしては才能があって二番でショートを守っていた。リーグ戦の前に他のチーム同士を河川敷に座って試合を見ながらお酒を飲んでる(どうせ汗で流れてしまうから試合前はお酒を飲んでもノーカンだと一輪は主張していた。)とき、一輪はわたしに言った。
「正直びっくりしたわよ。貴方には才能があるもの」
「そりゃどうも」
「打つ方はまあ普通だけど、守備がとても上手ね。球際のさばきはリーグでもあんなに綺麗なのなかなかいないんじゃないかな。判断は練習で上達するけど、球際のグローブのさばきって結構才能なのよね」
「褒めても何も出ないわよ。まあ、お酒のことはチクらないであげるけどさ」
言いながら、わたしは缶ビールをあおる。眼下では妖精たちがわちゃわちゃと打ち上げられた白球を追っていた。
「意外よ。こう、女苑って豪快っていうか、どーんって一発狙いっぽいのに。ひとつひとつの動きが丁寧だもの。なんか見直しちゃった」
 野球のプレイと精神的な動向はまったく別だろうがと思ったけれど、悪い気はしないので黙っておく。ひとつのボールに二人の妖精が寄ってぶつかり、落球する。あはは、と笑ったわたしを一輪は咎める。他人のエラーを笑ってると今度はエラーするわよ。はいはいとわたしはまたビールに口をつける。青空の下で飲むビールがこんなに美味しく感じるのだとわたしは知らなかった。試合もそうだけれど、こうやって試合前に少し緊張しながら、それを誤魔化すようにアルコールに身を浸すこの時間がわたしは好きだ。姉さんのようにわかりやすい変化ではないけれど、ここだって呪いからは遠い場所にある、とわたしは思う。

 だけど、最近、姉さんの様子が少しおかしい。
 もちろん、最近つらいことがあったんです、などというようにわかりやすく、葉書に書いてあるわけではない。でも、なんていうかその兆しのようなものが葉書から見て取れるようになっていたのだ。そもそも葉書の頻度が増えすぎていた。前は数ヶ月に一回か、多いときでも一ヶ月に一度くらいだったのに、今は毎週のように葉書が届く。葉書の内容は前と同じで、わたしたちはこんなに幸せです調のメッセージとそれに証明するかのふたりの写真だ。でも、これだけ頻度が多いとなんだか”わたしたちは幸せです”と無理やり主張しているようにさえも思える。それは真に幸せな人間のする態度ではないだろう。これはまたわたしの邪推だろうか。でも、写真の中の姉さんは昔の写真と見比べると、どこか頬もこけて瞳も輝きを失って見える。昔の葉書なんてとっておくべきじゃなかったな、とわたしは思った。
まあ、結婚生活も長くなればいろんな問題も生じてくるだろうし、新婚当時の楽しいだけではいられないんだろう、たまには姉さんに会いに行って愚痴でも聞いてやるか、というそのわたしの珍しい態度だって今にして思えば、異常のひとつだった。
 あくる日に聖白蓮に休暇のようなものをもらって、葉書の住所にわたしは出かけた。写真で見たとおりの赤い屋根の家があった。小さいけれどちゃんと洒落た庭もついていて、西洋風の装いもここじゃ先進的で、いかにも幸福な家族の住む一軒家じゃないかと思った。
 ドアをノックするとき、庭の植物の手入れが行き届いていないことがふと気にかかった。まるで悪い予兆のその一番はじめみたいに思えたのだ。実際、ノックをしても姉さんは出てこなかった。何度ドアを叩いても姉さんも天人も姿を現さない。こうなると、この家のいろんなものが悪い予兆のように思えてくる。伸び放題になった植物もそうだが、ほこりがかった窓や木々の葉が積もった掃除のされていない玄関までそのように感じられてきた。自分自身の悪い予感に従って、わたしは周囲の家々を訪れて姉さんたちのことを尋ねてみた。そういえば最近見てないねえ、とか、あの人たちどうしたんだろうと近所でも話してたんだよ、とか、べつに問題があるように見えなかったけど、とか、彼らの返答を聞くたび悪い予感はどんどん膨らむばかりだ。
 すると、ある家に住む老婆が姉さんたちのことを知っていた。ああ、ふたりは天に行ったんだよ、と彼女は言っていた。一瞬、わたしは姉さんたちが死んでしまったのではないかと驚いたが、なんのことはない、ふたりは天界、つまり天人の故郷へと居を移しただけのことだったのだ。なんだ人騒がせなやつ、と胸を撫で下ろしたのも束の間、すぐにまた別の疑問がわたしの中に現れてきた。どうして姉さんは葉書にそのことを書かなかったんだろう。
 なんとなくすっきりしない気持ちで、帰り道、わたしは居酒屋に行き酒を飲んだ。こういうときは酒でも飲んで忘れてしまうのがいい。ちょっと飲んですぐに帰るつもりだったのに、一杯飲み、二杯飲み、三杯飲み、隣の男に奢らせて四杯飲み、気分が晴れるどころかどんどん暗い霧のようなものがわたしの心を覆っていくのをとめることができなかった。久しぶりに浴びるように酒を飲んだのに、酒はずっとまずく、それが重いものとして胃の中に沈殿し、それを洗い流すようにさらに酒を流し込んだ。しばらくあとで、暗い裏路地に河岸を変えて、男を捕まえて酒を飲んだ。ねーちゃんなんかつらいことでもあったのかい話してみなさい、という男にわたしは何を言ったらいいのかわからなかった。しかたないから、ずっと好きだった男にふられちゃってさあ、と嘘をついた。悪い兆候だ。いや、もはや兆候ではない。呪いが戻ってきていると思った。一夜にしてわたしは昔のように戻りつつあり、戻ってしまうことで、わたしはどこにもいけないのだという気分が重くのしかかる。お寺には帰れなかった。その男の家に行ってそこで一晩を過ごした。
 数時間後に、男の寝るベッドで目を醒ました。まだ外は暗闇に包まれている。『楽しかったわ、ありがとう』と書き置きを残してわたしは部屋を出た。三時頃だろうか、まだ陽の光はなく、静かな闇が町を覆っている。もうお寺には帰れないと思っていた。光を求めて、どこまでもふらふらと歩き続けていると、やがて光のあふれる場所にたどり着いた。
 金網に囲まれた広い土地。それを目の当たりにして、ここは外の世界だとわたしは思う。結局、ここに戻ってきしまったのだ。
 それは、ナイター、と呼ばれる場所だった。外の世界にある野球の球場。夜でもスポーツができるように高い電灯から眩しいほどの光がグラウンドに向けて照射されている。草野球のチームだろうか、守備陣がマウンドに集まってなにやら声掛けをしている。今は二回裏、試合はまだはじまったばかりだった。金網の外側からわたしはその光景をずっと眺めていた。ボールが投げられる。バットがそれを叩く。天高く白球があがって、白い光によって見えなくなってしまう――。
 ああ、そんなに突っ込んじゃだめじゃない、もっと引いて見てから前に出ないと……ほら落とした。
 でも、今は他人のエラーを見てもちっとも笑えない。誰かが失敗するところなんて見たくない。それが血の繋がった姉妹ならなおさら――。べつに姉さんは天人の実家に居を映しただけで、結婚生活が破綻したわけじゃないとわたしは思おうとした。でもどうして姉さんは葉書にそれを書かなかったんだろう。わたしに不幸なところは見せられないから? 嫁の実家ぐらしなんてそんな不幸でもないじゃないか。親戚づきあいは辛いかもしれないが、それくらいは耐えてもらわなきゃ困る。だけど、酔いが覚め、冷静になったわたしはまたひとつある悪い兆候に気がついていた。いや、それは兆候なんてものではなく、すでに具現化された質量のある呪いの現れのようにしかわたしには感じられなかった。
 姉さんは新しい土地への移住を快く思っていなかったはずだ。それは少なくとも姉さんにとっては幸福な出来事ではなかった。だって、姉さんが天界に引っ越してからも、姉さんのわたしに送る葉書の写真は昔の家の写真だったじゃないか――。
 そうだ、まるですでに終わってしまった夢の続きをまだ見ようとするかのように、いつからか姉さんは古い家で撮った写真をずっとわたしに送り続けていたのだ。
 終わってしまった幸福な結婚生活の夢。
 姉さんがいまどこで何をしているのかわたしにはわからない。もしかしたら永遠に知ることはないのかもしれない。
 でも、そこが、どんな場所かならよく知っている。
 それは、わたしたちがずっといて、今も居続ける場所。
 それは、わたしたちにかけられた呪い、終わらない悪夢のように続くその呪いが今も生き続けている場所だ。


 だから、わたしは、そういう夢を見た。
夢から醒めると広い天井。とてもとても広くて絢爛な。映画でしか見たことないような巨大なベッドから降りて、窓を開き外を見ると、すぐ隣に尖塔が見えた。お城の尖塔。わたしの住むお城の尖塔。
 わたしはお城に住んでいる。
 この前の誕生日に姉さんはお城をくれた。大きなお城だった。どうしてこんなもの、とわたしが聞くと、姉さんは言った。
「ずっと思ってたの。女苑に何をあげても、わたしのあげられるものくらい女苑は簡単に手に入れることができるでしょ。だから昔は手作りとか大きくなってからは、冗談みたいなものでごまかしてたけど、ほんとは一度くらい女苑に驚いてもらいたかったんだ。だから、お城。これは、さすがにびっくりしたでしょう?」
「ちがうわ。そうじゃなくて、どうやってこんなものを手に入れたのよ」
 すると姉さんは笑って言ったのだ。

「ひみつ」

 とにかくまあこのようにしてわたしはお城を手に入れた。
 大きな大きなお城だ。
 こんなに大きなお城をもらってもわたしの手に余る。お城に住む王子様を落としてそこで貢がれるような暮らし方ならわかる。それがわたしのやり方だったから。でも、自分の所有するお城での暮らし方なんてちっともわからない。高価なものや価値のあるものをたくさん手に入れてきたけど、それはいつも本当の意味でわたしのものじゃなかった。それは誰かから分け与えられたものであり、このお城だって変わりない。わたしには使用人を雇うようなお金もないし、パーティーを開いて呼ぶような仲間もいない。いつだってわたしは呼ばれる側だった。
 お城での暮らしは退屈だ。ただ単に、ひとつひとつの行為に余計な時間がかかるだけ。広間に行くのにも長い廊下を歩かなければいけないし、洗濯をやるのにだってわざわざ長い距離を歩いてランドリールームまでいかなければならない、掃除だって一苦労だった。ここでは時間がとてものんびり流れている。お城が建てられるような広い土地だから、町からは遠い場所にある。遊びに行くこともできやしない。わたしは幽閉されたお姫様のようなものだった。たいていは寝室で映画とか見ている。時々は閉じ込められたお姫様らしく窓から指を出して小鳥に話しかけてみたりもする。もちろん、わたしに寄ってくる小鳥なんかいない。
 だから姉さんがやって来るのを待っていた。
 週に一度、姉さんはこのお城にやって来る。まるで貴族みたいに着飾って似合わないドレスなんか着たりしている。どうしてそんなもの、わたしが聞くと姉さんは言う。
「だって、ここはお城だもん。お城にやって来る人はみんな着飾ってやってくるよ。それがルールなんだもん」
「ちがうわ。どうやってそんなセンスないドレスなんか手に入れたのよ」
やっぱり姉さんは笑うのだ。

「ひみつ」

 週に一度わたしたちはパーティーをする。ふたりだけのパーティー。広いパーティールームはふたりの人間にあまりにがらんどうで、もの寂しい。食事だって電話で取ったちょっとした宅配のピザとかだ。絢爛なシャンデリアの下で、わたしたちは缶チューハイとか開けたりするのだ似合わないドレスを窮屈そうに着た姉さんは地べたに品のない座り方をして缶チューハイを開ける。
「ねえ、女苑、お城での暮らしはどう?」
「まあ、端的に言って最低ね」
「ふふ。女苑が喜んでくれて嬉しいよ」
「あんたねえ、ろくなもの食べてないせいで頭まで悪くなっちゃったわけ?」
「うん。そうだよ」
 やけぱちな気持ちでわたしは缶チューハイをあおる。酩酊しなければこんな状況で正気が保てない。すでにいかれてしまっている姉さんはちびちび飲んでいる。わたしを見ながらけらけらと笑って。
「ねえ、白馬の王子様とかやって来た?」
「はあ?」
「こんなに豪華なお城だもん。きっと素敵なお姫様がいるって勘違いしてやってくる王子様とかいておかしくないよ」
「いまが何時代だと思ってるの。王子様なんて週刊誌の中にしか存在しないじゃない」
「そっかあ。残念だなあ」
やけにのんびりしている姉さんを見てわたしはやりきれない気持ちになる。缶チューハイをさらに開ける。
「わたしお姫様向きじゃないわ。どっちかっていうと、ほらわたしのほうが生真面目なあのお姫様より楽しいでしょ、ってささやくタイプなの。そういうニッチで生きてきたのよ。生物にはそれに適した生息環境があるわ」
「わたしたちの生息環境って、なに?」
「それはもちろん――」
 呪いのあるところだ、とは言わなかった。
 中心に呪いがあり、その呪いによって引き寄せられた人々が呪いによってのみ繋がり、自らの呪いによって他人を呪ってしまい、やがて巨大な呪いの坩堝になってしまうような場所。姉さんはわたしのことをじっと見て、それから言った。
「ねえ、わたしが女苑の王子様になってもいいよ」
「は。何いってんのあんた」
「こうやって貴族みたいな格好をしてこんな立派なお城にやってくると本当に自分が貴族なんじゃないかって気がするときがあるの」
「でも、ここから出たらあんたただの浮浪者だわ。そんな格好してこんなお城を買ってずいぶんひどいことになってるんじゃない?」
「そうね、大変だ。まるでこの地球の借用書がぜんぶわたしのとこにあるような感じだよ。わたし借用書を継ぎ当てに使ってるでしょ。今じゃ増えすぎて、それだってなんだかドレスみたいだよ」
 それか、きっとミノムシかなんかね、とわたしが言うと、姉さんはあははと笑った。
 言えてる。
「ずっと女苑に貢ぐ男たちの気持ちがわからなかったんだ。女苑みたいな女になんで、って。でも今はわかる。女苑に貢ぐと幸せな気持ちになるよ。最悪な生活になっても悪くないなって思えるんだ。やっぱそういう才能があるんだね」
「何もあんたから搾り取るつもりはないから」
「わたしいろんな滅び方を想像してたけど、滅びるなら女苑に貢いで滅びるのがいいな」
「滅びるなんて聞かせないでよ。わたしあんたの妹よ」
「うん。言わない。だからさ、わたし今日は女苑の王子様になるよ」
「なに、おとぎ話のようなこと言ってんの、このばか」
「そうだよ、おとぎ話だ。おとぎ話の中だったらわたしみたいなみすぼらしい女の子でもお姫様になれる」
「でも、これはおとぎ話じゃない」
「でも、呪いを解くには魔法が必要なんだよ。おとぎ話の中にしかないような魔法が」
呪い、と姉さんが口にするからわたしは少し驚く。だけど、少し考えてみれば、それは至極当たり前のことだ。わたしたちは同じ呪いの中にいて、お互いにそれを感じ続けていたんだから。ほとんど正気失っているように見える姉さんはけらけらと笑っていた。

「ねえ、女苑、魔法をかけてあげよう」
「なに?」
「踊ろうよ」

 いやよ、とわたしが言う前に、姉さんは踊りだした。空っぽのパーティルーム、その真ん中でくるくると姉さんは踊っていた。わたしは笑ってしまう。だって姉さんはまるで映画の中から出てきたみたいに綺麗に踊るのだ。そんなふうに姉さんが踊れるなんてわたしは思ってもみなかった。わたしは缶チューハイをまたひとつ空けた。姉さんはまだ踊っている。こんながらんどうなお城でひとり踊るなんて馬鹿みたいなのに、ぜんぜん正気じゃないのに、姉さんの踊りは美しかった。魔法。信じてもいないそんな言葉が頭をかすめて、わたしはまた笑ってしまう。こんなのは馬鹿な冗談じゃないか。こんなにばからしくて、あほっぽくて、それなのになぜだか愛おしくて、我慢できなくて、わたしは笑い続けていた。


 だから、そういう冗談を言った。
 女苑は誕生日に何がほしいって姉さんが聞くから、お城をくれたらいいのにな、って。
もちろんそんなものを姉さんは用意できるはずもないから、わたしたちの誕生日に姉さんは小さな箱をくれた。精緻な模様の施されたきれいな箱だった。不思議なパズルが三面についていてそれを解かないと空けられないような仕組みになっている。
魔法の箱だよ、と姉さんは言った。
 3つの秘密の魔法によって守られてるんだ。
 中に何が入ってるのとわたしが聞くと、姉さんは笑った。

「ひみつ」

 あとでわたしはそのパズルを試してみたが、数日やってひとつも解けないどころか解に近づいているという手応えさえなかった。その中身は多少気になるものの、こんな秘密の箱に隠されているのはどうせとんでもない呪いか何かにちがいない。そう自分に言い聞かせて諦めた。姉さんの思惑どおりなのは悔しいが、そうは言っても開けられないと中身が気になってしまうものだ。もしかしたら、と魔法のような素晴らしいものが入ってるかもしれない、そんなふうにさえ思えてしまう。でも、どうせ開けられはしないのだから、そこに入ってるのが魔法だろうか呪いだろうが、わたしには関係のないことだ。
 それでもその箱は大切に扱い、眠るときは誰にも取られないように枕元に置いておく。微睡んでいるときなんかに、ときどき、その箱の中のものがさらさらと音を立てているのが聞こえてくる。それを聞くとなぜだか安心してしまう。姉さんのくれた、呪いか祝福か、あるいはそうではないもっとくだらない何かが、わたしをいつも守ってくれていると思う。
 だから、わたしはこの場所で、なにひとつわたしたち姉妹に害を及ぼさず、祝福さえもたらさず、わたしたちをどこにも連れては行かないこの場所で、安心して眠ることができる。
 いつまでも。
嬉しいことも悲しいことも嘘もほんとも全部箱の中に隠しておいて何も見えなければいいのにね
水上缶詰
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コメント



0.300簡易評価
2.90奇声を発する程度の能力削除
雰囲気が良かったです
6.100夏後冬前削除
フワフワした感覚、酩酊感、そういうものにあてどなく連れ去られる感覚が心地よかったです。
7.90めそふ削除
やばかったです
8.100南条削除
面白かったです
人生が辛くて仕方がないとでも言いたげな女苑が光っておりました
9.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
地に足が付いている(ようにみえる)部分と、宙に浮いてふわふわしている部分のバランスが良かったです。
最終的になにがどうなったのかが見えないものの、それを想像させ得る程度のストーリーが乗っていて、良いバランスになっていたと思います。
ちゃんと意味のある文章は良いですね。有難う御座いました。
11.90名前が無い程度の能力削除
こういう話がたまに出てくるからそそわは侮れない
12.100そらみだれ削除
最&高でした
13.100植物図鑑削除
箱を開けていくごとにいろいろな話が目の前に現れては消えていく、そのような感覚を受けました。不思議な感覚です。どこかふわりとしているようで、冷たさと温かさが入り混じった文章が心地よい。
15.100きぬたあげまき削除
『ああ、そんなに突っ込んじゃだめじゃない、もっと引いて見てから前に出ないと……ほら落とした』の部分で首筋がざわりとする感覚がありました。
そんなことの繰り返しが映画と夢と冗談を構成していて、その中で思い描くことのできる最悪の結果はさんざん女苑の頭の中にあるかもしれないけれど、どうか「この場所」では僥倖を、と願わずにはいられませんでした。