Coolier - 新生・東方創想話

鬼人正邪1809(5) 皇帝ナポレオン

2021/04/17 17:23:48
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 1809 皇帝ナポレオン


 一滴のインクが、水盆の中へと落とされた。雫にすぎないほんの小さなインクは、たちまちのうちに水盆の中央……フランス……を染めた。
 インクは波紋に乗り周囲を染め上げてゆく。東……イタリア、そしてオーストリア、プロシア、ロシア……へ向かい、その力の領域を広げてゆく。そして、西……スペイン、ポルトガル……をも、飲み込んだ。大陸はもはや、インクの黒に染められている。
 正邪が占いと称してフーシェに見せたのは、そのような現象だった。正邪が水盆の底に沈めていた地図を、慎重に水面へ浮かべ、一気に引き上げると、黒一色に染まった地図が上がってきた。ただ唯一、北の土地、大陸の支配から抜け出たイギリスのみが抵抗していた。
「このような手品か、見せたかったのは」
 正邪は知らん顔をして、地図をぴらぴら揺らしてみせた。
「馬鹿馬鹿しい妄想だ」
「ナポレオンはこの通りのことを考えてる。同じ度量、同じ通貨、同じ税率をもって統治する。関税は撤廃され、物と金が行き交う自由経済をヨーロッパの隅々にまで広める。そして、革命を全ヨーロッパに輸出する。その際には既にフランスなどは存在せず、統一ヨーロッパと呼ぶべき生活圏が誕生する。パックス・ロマーナならぬパックス・ナブリオーネとでも呼ぶべき帝国の誕生だな。それがナポレオンの企んでいることだ」
 ナポレオンが本気でそのようなことを考えているならば、相当イカれている。単なる武力制圧の問題ではなく、統治の問題である。敵軍を撃破し、侵略すればそれで済む問題ではない。フランス一国の兵力、資金力でヨーロッパ中に兵を駐屯させる余裕はなく、ヨーロッパ全てを敵に回せば、軍隊の行き届かぬところから撃破され、敵軍はフランス国内へ侵入してくる。パリを占領されでもしたら、いかに皇帝ナポレオンの威光も行き届かなくなるだろう。王が処刑台に上ったのと同じ道を辿ることになる。
 フランスは確かに革命を成し遂げ、王の処刑と貴族の追放を実現した。革命政府は革命の輸出と称して対外戦争を開始した。しかしその実現にはほど遠く、実際には頓挫したと見て良いだろう。憲法が出来上がったことにより、革命は完成したと呼ぶべきだろう。だがその浸透には時間がかかる。王を処刑して済むという問題ではなく、フランスにしても王族は健在で、遠くイギリスの地より反革命の活動を続けている。フランス一国で、旧体制の反発に耐えながら、オーストリア、ロシアを始めとした王国を革命国家に変えるのは、どれほど時間と労力が必要なことか。しかしナポレオンはそれが可能だと考えている。ヨーロッパという王族の馴れ合いでできたような共同体をナポレオンは信じない。
 革命というイデオロギー一つを梃にしてヨーロッパを統一できると考えるその発想を始めとして、その実現まで夢見るならば、ナポレオンの頭の中はもはや一般人の理解を超えている。フーシェもまたその点では常識人だった。
「よろしい。そのようなことが行われるはずはない。考えるだけ無駄なことだ」
「果たしてそうかな。各国の兵隊と、我が国の兵を比べてみることだな。ナポレオンの操るのは、愛国心に燃えた歴戦兵と、軍神たるナポレオンを信奉する将たちだ。彼らは疑いを知らず、ナポレオンの目的になら死すら恐れずに戦う。対して他国の兵はどうだ? 王や貴族に率いられ、戦って勝ったとて個人では得られる物は何もない。末端の者たちのやる気は全く違ったものがある。フランスでは革命闘争は終わったかもしれないが、ヨーロッパではこれからなんだぜ」
 フランス兵が愛国心に燃え、指揮官も実力主義でいきいきと働いていることや、他国の制度が旧態依然で遅れていることは確かだ。ヨーロッパ諸国の被支配層に属する者たちはフランスの革命に憧れているだろうし、自国でも可能だと考え、支配者層の者たちは革命の影に怯えて弾圧を加えていることだろう。
 確かにナポレオンのイギリスに対する憎しみは果てしない。幾度かの小競り合いは避けられない。しかし、イギリス一国を倒すためだけにナポレオンがヨーロッパ支配までも夢想するものだろうか。彼は人離れした発想を元に行動を起こすことはあるが、現実主義的な男だ。正邪の語る妄想は、彼女にとって都合の良い妄想で、そうなれば良いという程度の世迷い言にすぎない。
 確かに皇帝就任の陰謀には手を貸したが、イギリスとは和平を行い、関係はうまくいっている。フーシェはアミアンの和約の裏で、マルタ島のイギリス軍駐留問題やピエモンテ統合で揉めていることを知らなかった。外交問題に関する情報はフーシェの弱点で、国内の犯罪人については細かく調べ尽くしている彼が外交については疎かった。地理にも疎く、デンマークが海に接していることを知らなかったという逸話があるほどである。
 外交問題で軋轢が生まれるのは承知していた。しかし、ナポレオンが皇帝に就任して数年のうちに、全ヨーロッパを巻き込む闘争が行われるとはフーシェには予想できなかった。ヨーロッパ諸国が抱く憎しみは強く、そしてナポレオンはその憎しみを全て受け止めた。
 少なくとも情報はどこにもなかったのだ。あるとすればトップシークレットになっているイギリス首脳陣の会議のうちか、あるいはナポレオンの頭の中だけである。そこまで知ることができるほど、フーシェのスパイ網も完璧ではなかった。この段階では、正邪の虚言だけを真実として動かなければならない事情はどこにもない。仮に戦争があったとしても、全ヨーロッパを巻き込むまでにはなるまい。静観し、眺めるだけのことだ。正邪の唇を通して、ナポレオンが語ったような理想が実現される保証などどこにもない。果たしてヨーロッパの地図がどのように塗り替えられることか。歴史はその進退を知っている。しかし、未来を見ることのできぬフーシェは静観するほかはなかった。
 真っ黒になった地図などは放り出し、正邪とフーシェは、庭園の長椅子に座っている。ヨーロッパに再び戦乱の嵐が来るとは感じられぬ穏やかさがある。
「ところでフーシェ、もしもナポレオンがこの通りの行動をしたらどうする」
「ありえないな。私がタレーランの屋敷へ行き、彼と楽しくダンスをするほどにありえぬことだ」
 そりゃいい、と正邪は笑った。ああ、そうなりゃいい。


 1808年、12月のある晩のことである。タレーラン邸では夜ごとに行われるパーティの最中であった。明かりは煌々と灯り、人々は行き交い、多いに飲みかつ語り合っていた。さざめきのような低い声が、地を擦るようにあたりに漂っている。しかし、その歓談の声は、突然途絶えた。
「フーシェ閣下のお成り!」
 室内へ一人の執事が踏み入り、来客を告げたからだ。彼はまったく、場にそぐわない来訪者だった。彼ほどパーティが似合わない男もいないだろう。それも、タレーランの屋敷へ。もしや別の目的があるのではないか? 警察大臣の長として訪れたのではないか。タレーランの行っている悪事を押さえ、彼を逮捕するために直接訪れたのではないか。幾人かはそのように考えた。しかしフーシェは紛れもなく招かれて訪れ、夜会に相応しい一張羅を来て、部下の警官も連れずに立っている。会場へと入ったフーシェは常と変わらぬ無表情を浮かべていた。
 フーシェは陰鬱だった。ナポレオンの皇帝就任から五年が経っている。そのときには、タレーランとともにパーティで楽しむなど考えもしなかった。世の中は全く、想像もできないことで満ちているものだ。ナポレオンが世界へ向かって拳を振り上げて挑みかかることも、想像もできなかった。もっとも、タレーランのパーティに参加することほどには不快ではない。
 誰も声を上げなかった。とても歓迎されているような雰囲気ではなかった。それを破ったのは、主人であるタレーランだ。彼はにこやかに、杖を突きながらゆっくりと歩み寄った。フーシェの前に立ったタレーランが何を言うのか、皆が聞き耳を立てていた。タレーランは満面の笑みを浮かべ、彼の手を取った。
「フーシェ、笑え」
 タレーランは他のものに聞こえぬように囁いた。この芝居を企画したのはタレーランだ。しかし、演技だからと言って、このように平然と媚を売るなど、自分にはとてもできたものではないと思う。しかし事ここに至っては致し方ない。フーシェはタレーランの肩を抱いた。頬を緩ませ、笑った。
「警察大臣どの、今日はよくお出でいただきました。私達は久しく、仲良く語り合うこともありませんでしたからな。今日は二人で語り合うことにしましょう」
 タレーランはパーティを行っている人々の間をすり抜け……一室へ姿を消した。その光景は、人々の語り口となった。今まで何を話していたかも忘れ、今しがたの光景のことについて話し始めたのだ。タレーランとフーシェ、あの犬猿の仲の二人が。月と太陽が同時に昇るほどの出来事だ……この時、ナポレオンはスペインにいたが、たちまちのうちに早馬が打たれ、ナポレオンのもとへそれを知らせた。これは何かの陰謀ではないかと。
 一室へ入ったフーシェは、たちまちタレーランの手を払った。
「陰謀とは言え、貴様と手を組むなどは耐えられるものではないな」
「そうかね」と、タレーランは答えた。「私にとっては、ナポレオンと組むのと変わらないな」
 ふん、とフーシェは鼻を鳴らした。この男からすればそうだろう。タレーランは先に席についた。
「君と親しげに話し込んだという状況を作らねばならないが、黙りこくっているばかりではつまらないだろう。それに、執事が食事や酒を運んでくる時に、様子は知れる。こっそりと中を覗こうとする者さえいるかもしれないしな。……ま、座りたまえ。ナポレオンの愚痴を思うまま言ってやりたい気分だ」


 1805年……そう、ナポレオンが皇帝に就任した翌年だ。イギリスはオーストリア、ロシアを引き入れて第三次対仏同盟を結成した。しかし、この戦争は果たしてイギリスが仕掛けたものか、それともナポレオンが仕掛けたものだろうか?
 互いに和約は限定的なものだと考えていた。戦争までの時間稼ぎだと。本気で和平を望んでいたのは私一人だ。この私、タレーランが心血を注いで完成させた和平を、両国は準備期間としか捉えていなかったのだよ。しかし、平和と交易は相互利益をもたらすと私は考えていた。愚かな戦争を企んでいても、それをやめさせてやるほどに得をさせてやるとね。
 しかし、ナポレオンは利があると見ればそれを独占しようとしたし、イギリスも同じだ。一緒にうまくやろう、という気が全くないのだ。しかし、それも仕方のないことかもしれないね。ナポレオンはあの通りの田舎者だし、イギリス人は皆野蛮人だ。
 戦争は行われた。和約を打ち切ったのはイギリスだが、その前年から色々と揉めていた。マルタ島のイギリス兵のことだとか、ピエモンテの併合のことだとか。しかし最終的な引き金は、ドーバー海峡を隔てたブローニュの森にフランス軍を集結させたことだろう。イギリスからすれば宣戦布告が先か上陸が先かという状態だった。カドゥーダルを送り込んでナポレオンの暗殺も企んだが失敗した。それで、ブローニュにフランス軍が集まっている間に、手薄になっている東側からロシア、オーストリアに攻めさせるという態勢を取ったわけだ。しかし、ロシア、オーストリア両軍を動かして不意打ちを食らわせたつもりが、ナポレオンの筋書きに沿って踊っていただけのことかもしれないな。奴にはブローニュに兵を集めた時点で、イギリス、オーストリア、ロシアの動きが読めていたのかもしれない。全く、奴は戦争にかけては一流だ。
 フランスに反感を持っているロシア、オーストリアの軍隊をナポレオンが警戒していないはずはなかった。チェスの名人がわざと自陣に隙があるように見せかけるように。何しろ、それからのナポレオンの動きは素晴らしかった。彼の号令一つで、ブローニュの森にいた全軍が動き出した。本当に不意を付かれていたならば、あのような機動はできなかっただろうな。
 ウルムの戦いは、機動戦術の世界的規範となることだろう。ウルムの要塞でロシア軍との合流を待っていたオーストリア軍は身動き一つできず、フランス軍は一人の死者も出さずに包囲、降伏させた。そしてアウステルリッツの戦いだ。ナポレオン軍の前線部隊は素早い追撃に失敗し、オーストリア軍の本隊を取り逃した。オーストリア軍本隊及びロシア軍は合流し、モラヴィアの街に籠城。南にはカール大帝の部隊も残っており、更にはプロシアも参戦しそうな勢いだった。そうなればフランス軍は包囲されることになる。
 撤退するほかはないが、撤退すれば同盟軍は追撃してくることだろう。勝利せずに退いたとなれば、ナポレオンの地位は危うくなる。攻城戦に時間を割くことはできず、撤退もできぬ。勝利しているように見えても、絶体絶命だ。そのような状況下で、ナポレオンは完璧な勝利を得てみせた。撤退するように見せかけ、ロシア、オーストリア軍を引き出して撃破したのだ。彼は勝たねばならぬタイミングで完璧な勝利を得てみせた。まるで自らに訪れる運命を知っていたかのような動きだ。彼のことを崇めない人間はいないだろう。兵どもは喝采したことだろう。彼こそ軍神だ、あるいは預言者か、救世主か。彼のすることは正しい、彼のやることに従っていれば間違いはないと。
 仕事が簡単なのは楽でいいが、私としては立つ瀬がない。勝ち馬に乗った状況では、誰でも有利な条件を引き出せる。外交とは負けているときにこそ価値があるのだよ。ともあれ、イギリスの野望は潰えた。ナポレオンがロシア、オーストリアとやりあっているうちに上陸して攻める手だったのだが、ナポレオンの速度はそれを遥かに上回っていたのだ。一撃でフランスをやれる、イギリスこそヨーロッパの秩序になれると考えていたのだろうが、逆にヨーロッパの秩序は破壊された。フランスと手を組んでいれば、得をさせてやったのにな。オーストリアはイタリアの支配を失った。ナポレオンの一人勝ちだ。しかし、一人勝ちは危険なんだ。勝ったときこそ寛大にしてやらねば、勝って奪うばかりでは恨みをを買うだけだ。
 しかもナポレオンは革命を輸出した。支配した土地を独立させ傘下に置くと、フランスと同じ憲法を持って支配した。プロシア、オーストリア、ロシア等の王政国家でもナポレオンの影響は広がり、革命は波及した。知識人を中心に共和主義者が増えた。これが王政支持者をどのように刺激したか。王家たちがどれほど危機感を覚えたか。ますますナポレオンを憎み、倒さなければと躍起になる。
 国内へ目を向けてみようか。君も知っていることだろう。フランスでのナポレオンの立場は、いよいよ強くなった。執政政府の頃を顧みれば、彼も他人の意見を聞き、部下たちも自由に発言する闊達な空気があったが、皇帝の世となれば反論は許されなくなってきた。大臣たちも無能ではなかったが、ナポレオンのイエスマンになってしまった。彼が望む言葉を発するのみで、よりよい選択肢が別にあろうと、彼の意に沿わなければ辞めるほかない。外交もそれに漏れず、個人的なものと化していた。彼は勝ったならば徹底的に奪い取った。私の言うことなど聞きやしない。外国を必要以上に怒らせ、戦争へと踏み出そうと、彼は既に皇帝なのだ。彼を罷免できるものはいない。
 ナポレオンの権力が強すぎることは明らかに問題だった。しかし、彼には人気があり、また戦争でも勝利している。責任を取らせることはできない……ますます軋轢は高まり、また次の戦争が起こる。これは明らかに皇帝制の欠点だ。ナポレオンもそれは理解していたと思う。しかし、彼は自分が勝てることに酔ったのだろう。アウステルリッツでは勝ったが、完璧に勝ちすぎたのだ。自分に限界がないのだと錯覚したのだよ。無限に勝てると勘違いしてしまった。しかし、どうすることもできない。奴が勝つ限りは、好きにさせるしかない。


「誰もナポレオンには逆らえなくなった。彼は異様に押しの強い男だったが、皇帝になってからはそれがひどくなったな」
「リーダーシップがあるとも言えるが」
「彼は最善を求める男だと思っていた。近頃は、自らの最善のみを求めるようになった。しかし、君はうまく立ち回っていたな。皇帝に向かって、正面からノンを言える者は君だけになった」
「お褒めいただき幸いだ。他人の尻馬に乗った働きではなく、きちんと机に向かって仕事をしているからな」
「他人の寝室に聞き耳を立てて、の間違いではないかな?」


 政府でナポレオンに正面切って逆らえるものはいなくなった。そのようなことをすれば最後、どこかの閑職を与えられて一生を終えることになる。殺しまでしないのは彼の優しさと言うべきだな。カドゥーダルの陰謀の時、イギリス側と裏で密議を行っていたモロー将軍が良い例だ。彼はナポレオンが暗殺されれば担ぎ上げられる立場にいた。結局陰謀には加わらなかったものの、状況を見て動いていたのは確かだ。ナポレオンが勝つと見たから加わらなかっただけのことだろう。それが露見しても、彼は追放されたのみで処刑はされなかった。そうしようと思えばできただろうにな。
 彼には奇妙な優しさがある。フランスで学校に通っていた頃、彼はコルシカなまりのせいで同級生にも教師にも差別されていたそうだ。他人より偉くなりたいと思うと同時に、自分より弱い者には優しくしてやりたいんだ。一種の支配欲と呼ぶべきだな。
 かつて親しく接した女や、恩人には手厚かった。同時に、どのように憎い相手であっても、不当な死を与えたり、不必要な嫌がらせをするような陰湿な男ではなかった。確かに優しくはあったが、同時に峻厳さを持たなかった。ちょうど、ロベスピエールが必要とあれば、友人であれ容赦なく処刑したように。おや、手が震えたかな。今も彼の名前を聞くのが辛いかね。私も同様だよ。彼ほど恐ろしいものはない。自由、平等という言葉が何より怖い。しかし、よく生き延びたものだな。君も私も。
 ナポレオンは庇護を求める者には優しかったが、帝国の事業を邪魔するものは徹底的に排除した。無能、怯懦、そして反抗する者。良かれと思って諫言する者も遠ざけた。私もその一人だ。人より少し仕事ができるから、追放こそされなかったが、それですることと言えば彼の言った文言の通りに文書を書き、印を押すだけだ。彼の手の中のペンになった気分だ。タレーランではなくてもいいんだ、それをするのには。私がいなくなったら、タレーランはもっと仕事ができたと後任者を叱るだけで、それでしまいだ。奴は自分を万能だと信じている。自分のする通りに世界は動くと半ば本気で信じている。
 確かに、国家経営についても一定の成果は上げた。教育、福祉の充実。財政の健全化。そして国家の防衛だ。彼は革命以来戦争の続いていたフランスに平和をもたらした。しかし彼一人の成果ではけしてない。革命以来積み上げてきた官僚の努力だ。軍の能力でさえ、ナポレオン一人の天才で機能したものではないだろう。軍制の再建を行ったのは官僚と教育を受けた軍人たちだ。彼一人の命令で軍は勝ったわけではない。使い方を彼以上に熟知していた者はいないがね。
 ロベスピエールは革命の反動に悩み、バラスは自ら政治を腐敗させた。それらの政府首脳は国家運営に行き詰まってはいた。執政の頃のナポレオンは皆の意見をよく聞いていた。あの頃は誰にとっても良かっただろう、彼にとっても。彼はフランスを良くした、次はヨーロッパだと気負い立ったのだな。なまじ戦争があり、勝ったことが彼を後押しした。民衆もナポレオンが万能だと信じてしまった。最初は民衆を騙していたつもりなのに、次第に自らも信じてしまった。独裁者の逃れ得ぬ運命たるパラノイアが、ナポレオンにも訪れたということだ。
 しかしそのような相手に対して、君は媚びへつらうことはなかったな。君は、どちらかと言えば厳しさよりも甘さに人間は転ぶことを知っている。ナポレオンに対しても、辛辣に接しても仕方ないが、不必要に舐められることもまた益はない。
 ナポレオンの価値が高まるほど、君の価値も高まった。ナポレオンにとって君は鬱陶しい存在だ。しかしそのような男を遠ざけずに側に置いている。よほど仕事ができるのか、それともそれ以外の理由があるのかと他の者は考える。
 無論その両方が君には備わっている。仕事ができるのは当然のことだ。ナポレオン帝国において、能力の備わっていない者は地位は得られない。例外があるとすれば、ナポレオンの親族くらいのものだな。彼ほど無能に厳しい者はいないが、一方で家族にあれほど甘い男もいないだろう。信用できる味方が少ないとも言えるがね。君には充分な能力があるから、君が警察大臣に戻ったら、治安は目に見えて良くなった。カドゥーダルのごとき事件は起こらなくなった。
 ところが、力づくにねじ伏せるのでもない。陰謀やテロに対してはこっそりと遣いをやり、諦めるか逃亡するか……とにかく説得してやるんだ。あんまりに強引にやると、向こうだって反発する。仲間が死んだら敵討ちに来る。ナポレオン帝国の敵を増やすと、君にとってもナポレオンにとってもよろしくない。相手に便宜を図ってやり、安全にしてやれば恩義を感じて味方になる。金と安寧で人は転ぶものだ。君のやり方は実に適切だ。敵を作らず、味方を増やす。どのように統治しようとも悪党は必ず出る。どのように摘発するかではなく、どのように取り込むかなのだ。このあたりを、君に説いても仕方ないだろうな。
 しかし、ナポレオンや政府の重役たち、私にとっても都合の良くないことに、君のスパイ網は市中のみならず政府内にも張り巡らされている。ナポレオンの宮殿にも、私の屋敷にも。私のコックも君の毒に侵されてしまっているが、腕のいいコックは貴重なもので、放り出すこともできない。しかし、君の飼っている薄汚い覗き屋のおかげで、私はどれほど損をし、迷惑のかかっていることか。しかしまあ、今は置いておこう。
 本来すべきではない内部調査まで、君は私的に行っていた。君の努力はもはや仕事熱心だからと言うものではなく、偏執的なものだ。君が半生を費やしてきた情報闘争というものに終わりはないらしい。警察大臣として三つの政府を経たキャリア、巨万の富を得ても、君の身は永遠に安泰ではないのだろうな。しかし逆に、身を守るための情報を利用すれば、相手を奈落へ突き落とし、安全なところから眺める楽しみも得られるというものだ。私の言えたことではないが、いい趣味をしているよ。いくつもの国家を手のひらで転がすよりも、後ろ暗い愉しみだ。
 君はあらゆることを知っている。ひたすらに情報を収集し精査し、整理して保管する……私には耐えられぬ労働だ。本当に地味な働きをよくもやっていられるものだ。ナポレオンの伝記を書くとすれば、君以上によく書けるものはいないだろう。彼がどのような生活をし、彼の妻からベッドではどのように振る舞うかまで聞き及んでいる。一軍人として拾われたナポレオンが、どのようにイタリア遠征司令官に就任し、政府で成り上がったかをバラスから聞くことができる。更には張り巡らされたスパイ網を通じて、ナポレオンが夜にはこっそりと住まいを抜け出し、皇帝としては目通りするのも相応しくない乞食のような小間使いと一緒になって、どのような女の元へ通い、何時間そこにいて帰ったというようなこともわかっている。君は知りすぎるほどに知っている。


「君は厄介な存在だ。君は何でも知っていて、しかもそれを軽々に漏らすわけではない。それが何よりも厄介なんだ。奥の手は必ず隠し持っている。秘密なんて、人はいくつも抱えられるものじゃない。やがては忘れ去ってしまう。しかし、君だけは忘れない。絶対に忘れないんだ。蛇のように、執念深く、いつまでも隠し持っている」
「まるで他人を脅すことで利益を得ているような言い方だ」
「そのとおりだよ、警察大臣どの」
「世間の者は、私のことを油断ならぬ人と言う……買いかぶりだ。私は公務を執り行っているに過ぎない。皇帝陛下の閨房や夜毎の密行を知るなど、とてもとても」
「まあ、よかろう。それだけの働きをしているのだからできることなのだろうな」
「そう、あなたが心から馬鹿にしている労働というものだ。タレーラン、私は君が嫌いだ。知ってるだろう。君は時折ペンを動かすだけで権勢を得ている。年に十日も働かぬだろう。羨ましいことだ。私もそのような世渡りの方法を知っていれば、そうしていただろう」
「君のような引きこもりには向かないよ」
「一方では感心し、尊敬もしている。毎日遊び暮らすにはそれなりの才能が必要だ。怠け者、あるいは享楽者の才能と言うべきか」
「珍しく饒舌だな。酔ったか。いや、君は酒は飲まないものな。君の方でも愚痴が溜まっていたと思うべきかな」


 警察大臣、君は君の権勢を持っている。他人には仄めかすだけで足りるだろう。しかし、ナポレオンは明らかに君から脅迫……あるいは嫌がらせを受けている。毎朝の報告に混ぜられた少量の毒薬。とある銀行家いわく、皇帝陛下の妹君が××将軍と三日三晩、一室にこもっての放埒三昧。また、とある屋敷の従僕いわく、皇帝陛下が下男に身をやつして、××座の名女優の屋敷へ馬車で夜中の来訪。君の名を使わず、他人がそのように噂で語っているとナポレオンに知らせてやることで、ナポレオンに君の力を見せつけ、同時に彼をおちょくった。
 ナポレオンに付き従って成り上がった軍人出身の部下どもは金銭的にも性的にもルーズで奔放だったし、ナポレオンの家族もそうだ。金銭欲、権力欲も旺盛なカロリーヌ嬢、また美しく幾人もの軍人と浮名を立てたポリーヌ嬢。絶対王政の昔から、最高権力のそばにいる美しい女性がスキャンダルの的になることはよくあった。権力者の中には、愛妾に批判を向くように仕向けて自分の醜聞が薄くなるようにしていたものもあった。民衆がそういうスキャンダルを喜ぶのは変わらぬことだ。皇帝陛下の妹君たちはそれに相応しくスキャンダラスだ。
 彼の兄ジョゼフは家長として、次期皇帝の座を与えられて当然と思っているし、弟リュシアンはブリュメールのクーデターで兄の命を繋いだのは自分だ、兄が現在の地位にいるのは自分のおかげだと考えている。兄弟たちはみなナポレオンの地位を狙っている。ナポレオンの家族で品が良いのは母親のレティツィアくらいのものだ。ナポレオンの親族の醜聞を聞いても、君はすぐさまナポレオンに知らせることはしない。世間に情報が出回る前にスキャンダルを潰せればナポレオンは喜ぶことだろうが、それで君に感謝するわけでも、扱いが変わるわけでもないものな。私にもわかるよ、その苦労は。
 君の手管も少しは分かるつもりだ。ナポレオンの親族に関わるスキャンダルは、君の手下の新聞社から出る。そして、世の中がそれを知り始めた時、配下の者がナポレオンに聞かせる前に、一番にナポレオンへと聞かせるんだ。その頃にはすでに揉み消せる時期は過ぎており、ナポレオンにできるのは事後処理だけ。この手の、家族の汚いスキャンダル。フランスの民衆が面白がるだけならまだしも、やはりナポレオン一族はコルシカの田舎者だとオーストリアやイギリスの貴族に馬鹿にされるのは耐えられない。子供の頃から田舎者だと馬鹿にされ、軍学校に馴染めなかった彼だ。この手の事柄がナポレオンの最も嫌がることだと知っていて、君はわざとそうしていたんだ。
 君は誰に対しても強い影響力を持っている。皇帝陛下に対してさえも。君は常にそれを示し続けていた。ナポレオンにとってはたまらぬことだろう。戦場へ喜んで行きたがったのも、彼の立場になればそうかもしれないな。パリは彼の嫌うもので満ちている。政治、家族、そして君だ。私もほんの少しは、その一部かもしれないな。


「フーシェ、私が嫌いと言ったな。私も、君が嫌いだ。普段なら君の悪口など言わない。君に関わるなど、品位に関わるからな。名前を口にするのさえ虫酸が走る。そもそもが、何? 僧侶上がりの船乗りの血だ。私の家はペリゴール伯の家。フランス王たるカペー家、パリ伯の彼の家がフランスを席巻したおかげで王と呼ばれるが、ペリゴール伯が席巻していれば、今頃は我が家系が王だったのだ」
「…………」
「……とは、私も言わない。君も知っている通り、私は自分の家もまた、嫌いだ。恨んで時間を浪費するより楽しんだ方がよいと割り切っているし、この歳になって馬鹿らしいことではあるが……足萎えを理由に私を僧坊へ入れた父も、五体満足の弟も嫌いだ。ペリゴール伯という名は便利だから利用してはいるがね。元貴族であるということで、貴族の方々と話すには都合がいい。それはいい。しかし、世間の者は……そうは見ない。こと、王家に親しい者、元貴族、いわゆる王党派、右派の者たちは、革命派、共和派、あるいは近頃流行のボナパルティストというものを嫌い、距離を置き、このタレーランの元に派閥を作っている。王の帰還となり、いざ王政となれば、このタレーランを筆頭に王政に加わると」
「私も似たようなものだ」
「そう、あえて言葉にさせていただこう。王党派を嫌い、革命を賛美する者はフーシェにつく。彼は古くからの革命派で、古いジャコバンの闘士で、一時はロベスピエールとも比肩したと」
「事実とは違う」
「そう、事実とは違う。昔はロベスピエールに比べればちっぽけなフーシェだ。しかし今やフランスの五本の指に入る政治家の一人。今が立派であれば、昔からそうであったと誤解する。あるいは、自ら認識を歪めていく。立派でない者は信奉したくない。となれば、立派でなくとも、立派だと思いたがるものだ。ナポレオンより古くから革命を知り、ナポレオンのように戦争好きではなく、穏やかで物に長けた長者だと。君が何でも知っていることを脅威に感じるものもいれば、頼りがいがあると感じる者もいる。身内がナポレオンに睨まれても、親切に便宜を図ってくれる警察大臣。ときにはナポレオンよりも頼りになると」
「私が君を嫌いなのは、君が王党派だからではなく、君の人間的資質に起因するものだ。君は誰にでも好かれるし、好かれるように振る舞っている。しかしそういう君が嫌いだ。人は誰も彼も好きにはなれないし、もしもそう振る舞っているなら嘘つきだ」
「そう、私も同じく、君という人が好かない。というよりも、君を好く人はそうはいないだろう。陰気で、人の噂ばかり嗅ぎ回っている。およそ人の楽しいと思うものを楽しまず、自分一人の世界で、のぞき穴から世間を覗くようにして楽しんでいる。趣味が合わないんだな。しかし、私と君が仲良くしておらず……犬猿の仲で喜ぶ者が一人いる」
「我らが皇帝陛下」


 私と君が仲違いをして、彼ほど喜ぶ者もいないだろう。互いに監視しあい、足を引っ張り合い、悪巧みをしていれば皇帝陛下へご注進。そうして相違い憎み合い、掴み合って喧嘩をしている限りは、皇帝陛下は安心して大好きな戦場へ遠征できる。誰かが天を抱くとも、我々がともに同じ天下は抱くまい。正しく水と油、相容れぬ間柄だ。
 私も、君も、そしてナポレオンも、それぞれ互いに対し、無関心であろうとしている。私は豪奢に暮らせれば、君もナポレオンもいなくても構わない。君は安寧を保ち、仕事ができれば満足で、ナポレオンは歴史に英雄として名を残せればそれでいい。その目的のために、互いの腹の中などはわざと知らないようにしていた。正直に言えば、互いに相嫌っていることを知りながら、正面から向き合えば、相手をどうにもできない事実に直面するからだ。フーシェ、君もそうだろう。私を排除したいと願っている。しかし、どうにもならない。タレーランは役に立つ、とナポレオンは考えているのだから、放り出すことはない。私も同じだ。君を放り出したいと考えても、ナポレオンは離さない。君がいなくなれば、たちまちパリでは火の手が上がる。君にいくら嫌がらせをされようと、私に心の内で馬鹿にされて続けていると知っていても、ナポレオンには私と君を離せない。離せばたちまち転落するからだ。英雄で居続けるためには勝たねばならない。私と君はナポレオン帝国の両輪と呼ばれることになるだろう。その両輪、外交と内政を失えば、戦争を続けるなど思いも寄らない。ナポレオンの帝国は、その偉業は、私達なくしては有り得ない。


「話が大きくなってきたな。私には、そのようなつもりはなかったが」
「君はヨーロッパとは向き合ってはいないから、想像もできないだろう。しかし、君はナポレオンと正面切ってやりあっている。互いに撃鉄の上がったピストルを突きつけ合い、引き金を引くばかりのところで。ナポレオンが大きくなればなるほど、君の存在も同時に大きくなる」
「彼がそんなに巨大な男か。そう、そのように世間は感じるのだな。人々が抱くナポレオン像は虚像に過ぎないが故に、巨大に見えるのだな」
「我々とすれば、ただの政敵に過ぎないが。我々の姿も、後世の方々はよほど巨大に描いてくれることだろうな。さて、話は長くなった。悪いがまだ付き合ってもらうよ。酒でも持ってこさせようか。休憩として」
「強い酒はいらないよ。常飲する程度に薄めたワインを頼みたい」


 ナポレオンの話を続けよう。第三次対仏同盟はフランスが勝利した。アウステルリッツはたしかに素晴らしい戦いだが、その実像は真実よりよほど大きく書かれている。大陸軍広報は、ロシア軍の戦死者を二万と書き立てたが、実際は一万にも満たぬだろう、と軍の友人から聞いた。そのあたりは、君も新聞に携わる者なら知っているだろうな。ロシア、オーストリアも、その敗北は受け入れることだろう。敗北は自らが愚かな故ではなく、ナポレオンが優れていた、それも桁外れに優れていたと。そうすることによって自らの無能、兵の惰弱から目を背けることができる。ナポレオン一人の名前ばかりが大きくなり、彼さえいなくなればと繰り返すのだ。フランスの民衆は、虚像に過ぎないアウステルリッツの戦報を聞いて喜びに沸いた。
 しかし喜ばぬ男もいた。何を隠そう、この私だ。正直に言えば、ナポレオンは私の思いのままになると思っていたんだ。彼が執政、皇帝となることも許容した。彼は私の教える通りにフランスの統治を行うと思っていたからだ。彼は理性ある指導者と見込んでいたのだが、そうではなかった。私の献策に間違いはないし、彼にとっても損はしない。彼の気分を逆立てず、話を落ち着くところへ持っていこうとしていたんだ。しかし、この度、ナポレオンは私の話を聞かなかった。私は敗戦国には講和条件を穏やかにするように申し出た。こと、オーストリアは親切にしておけば、ロシアやトルコに対し、有力な同盟相手となるだろう。イギリスとやり合う際、背後を守ってくれる重要なパートナーとなる。場合によればイギリス一人を孤立させることもできる。
 しかし、彼は領土的野心を優先した。イタリア、ドイツに存在する諸国家を独立させ、フランスに帰属させた。多くの領土を切り取ったんだ。そのようなことを行えば、また侵攻と占領が繰り返されると怯える。怯えは反発に変わると決まっている。そもそも考えても見ろ、領土などはこちらが優勢な時にしか維持していられない。兵が減り、土地の維持ができなくなればたちまち取り返され、しかも土地の者も向こうにつく。味方につけても土地の兵は所詮は外国兵、戦意も当てにならない。得られるものは、地図を埋められるという虚栄だけだ。その手の虚栄を民衆は喜ぶかもしれないが、民衆の気分など変わりやすいものだ。それならば土地など持たせたまま、その兵力を借りればいい。借りられるように関係を維持するのが外交の努力というものだ。ナポレオンはそれを放棄した。自分の栄光を優先したんだ。それから、自分たちにも王冠を被せろとうるさい兄弟たちに王冠を与えるためにだ。能力もないのに、ナポレオンの親族というだけで王になった者を与えられた諸国家の民が歓迎すると思うかね。
 しかも、オーストリアには1億フランという高額な賠償金を背負わせた。私はその1億を9千万フランにまけてやった。差額の金がどこへ消えたかは知らないが、ともかく額面上はオーストリアは私に感謝しただろう。なぜか私の懐は暖かくなったが、それはそれとして気は晴れなかった。
 奴は正しくない道を行こうとしている。野望、栄光、そして破滅への道だ。正しく統治、外交を行って平和を得、安寧に生きて死ぬことなどは考えていない。人間離れした英雄、あるいはたがの外れた梟雄と呼ぶべきか。しかし、奴が破滅するかどうかなどは、正直に言えばどうでもよかった。私は、私の意見を聞かれないことが気に入らなかったんだね。子供っぽいと笑うか? しかし、ナポレオンの意見をそのまま繰り返すだけでは、外交官とは呼べない。
 そう、第三次対仏同盟の処理は、外交とは呼べなかった。ただ勝戦国のわがままを押し付けただけ。論理も何も存在せぬ。仮に負ければフランスは全てを失うのだから……という理論は成り立たない。負けて失うのはナポレオンと彼の一族だ。彼の帝位は消え、フランスから追放されるだろう。それはフランスとしては損害でも何でもない。それを質草にしての領土獲得は、言わば、個人的に取り立てる代物なんだ。それを気前よくフランスに分前としてくれてやって、彼はいい気分だろうが、やがては倍もその倍も取り立てられるのだ。おかげで、彼の悪事に加担したと私の名は歴史に記される。むしろ、タレーランこそが、ナポレオンを唆してそうさせたのだと書き立てることだろう。無能と称されるよりも悪いことだ。
 しかもこの頃、スペイン王家が揺れていると私は知った。早晩ナポレオンも知ることだろう。知ればどうなるか、考えたくもない。確かに領土を得て利はあるかもしれない。しかし、侵略など行えば、名分も何もない。大いなる悪事、大悪事だ。もはや皇帝は泥棒になる。周辺国家はもはやフランスを理性ある国家とは見ないだろう。外交など成り立たず、私の役目などもない。
 このようになれば、私の心の内も分かるだろう。もはや彼と組むメリットは失われた。彼と手を組んでいれば、このタレーランも悪党の仲間入りだ。ナポレオンが奈落へ落ちたならば、私も一緒に地獄へ落ちる。私はそこから足抜けするために動いたんだ。


「ちょうどこの頃だった。君の相方と手を組み、話を持ちかけたのは。知っているだろう、カトリーヌ・グラン。私の妻だ。愚かで、政治など何も分からぬ、夜会でも女たちに馬鹿にされるような類の女だが、それでいい。政治など考え、夫の仕事に口を出さぬ女の方が、色々と楽ができていい。社交界にいれば、話の相手にも事欠かないしな。それは良いとして、君の相方……ナポレオンの元に潜り込んでいる時はシャイと名乗っていた例のスパイの顔は知っていたから、カトリーヌ・グランのメイドとして潜り込んでいたところに話を持ちかけたんだ」
「そうだったな。あの馬鹿が『タレーラン閣下が、警察大臣どのとダンスを踊りたいと申しています』など言ってきた時にはどうしようかと思った。天使のラッパが吹かれたかと思うほどの衝撃だった。君とナポレオンの不和は知らないでもなかったが、まさか手を組もうと言い出すとは」
「それがもっとも効果的で、しかも意表をつけるのだよ。そして、君は断らないと思った。大いなる陰謀になるし、君は案外洒落の分かるところがある。そんなことをすれば、ナポレオンがどのように慌てふためくかと君は愉しむことだろうと。他人を右往左往させて喜ぶと言えば悪質だが、良いように言えば、君は人をびっくりさせることが案外好きなんだ」


 スペインのことをナポレオンが知るのはもう少しあとのことだ。ナポレオンには相手にするべき相手が残っていた。余力を残しているロシア、そして対仏同盟に寝返りを打とうとしていたプロシアだ。アウステルリッツでは、ナポレオンはプロシアの挙兵を知っていたからこそ素早い勝利を必要とし、実際に得てみせた。プロシアとしても、フランスに気取られたからには決着をつけなければならなかった。第三次対仏同盟より一年と立たないうちに、また戦争だ。戦争のたび、フランスの若者は減ってゆく。ナポレオンは栄光のためには意に介さなかったし、何より勝利した。民衆も喝采を送るばかりだ。泣くのは子や家族を取られる女たちばかり。しかし、またもやナポレオンは勝利した。
 プロシア軍というのは、眠れる獅子だった。かつてはフリードリヒ大王が率いて連勝を重ねた精強な軍隊で、プロシアが目覚めればフランスなどは鎧袖一触だと思われていた。しかし、その虎は張子の虎に過ぎなかった。イエナ・アウエルシュタットの戦い、ただ一度の会戦と一月余りの掃討戦でプロシア軍は壊滅した。重ねて翌年、プロシアに続いてロシアも撃破、第四次対仏同盟もフランスの勝利に終わった。
 戦争に勝利することが最高の外交的勝利ならば、彼は最良の外交官だろう。しかし国と国との関係は殺し合いでは築けない。彼のやっていることはあくまで征服、外交よりもむしろ外交の破壊者と呼ぶべきだな。彼の尻にくっついて外交交渉をやるのは、悪魔の扱う使い魔になったようなものだ。
 戦争が終わったあと、ナポレオンと、ロシア皇帝アレクサンドル1世はネマン川に浮かぶいかだの上にいた。アレクサンドル1世をプロシア側に呼びつけようというのでは降伏と変わらないから、プロシア、ロシア国境の川上で講和を交わそうというのは、アレクサンドルのプライドを傷つけないナポレオン一流の気遣いというべきだな。彼は無能なる敗者からは容赦なく取り立てたが、自分が認めた者には寛大だった。ナポレオンはアレクサンドルと一対一で向き合い、語らった。ナポレオンはこの若きロシア皇帝に親しく遇し、アレクサンドルもまた生のナポレオンに触れ、気に入ったようだ。彼らが戦争で矛をぶつけ合う好敵手ではなく、平和を保ち、親しく付き合ったならば、親友とも呼べる仲になったことだろう。アレクサンドルはなかなか話せて頭の回転もよく、いい男だったよ。少し意地っ張りで、相手を見くびってかかる癖があったがね。しかしナポレオンの威に飲まれるようなところもなかった。アレクサンドルはただナポレオンに見惚れただけではなく、彼と親しく付き合うことのメリットを考えたんだ。一時引き、再び剣を交える時を待つのだと。おかげで、ロシアは元々ポーランドから奪った土地をポーランドに返すことの他には領土を失うこともなく、傷は少なく切り抜けた。
 ロシアとは対照的に、割りを食ったのがプロシアだった。彼らはいかだにも入れてもらえず、王の一族も高官も、ロシア、フランスの高官に混じって川岸からいかだを眺めている他なかった。プロシアの運命は、ナポレオンとアレクサンドル、二人の皇帝の対話に委ねられた。プロシア皇帝ヴィルヘルム2世は凡庸な男で、王妃ルイーゼが切り盛りしているようなところがあった。そのようなヴィルヘルムに対してナポレオンは親しく付き合わなかった。ルイーゼは私にも縋ってきたよ。慈悲をと泣いて頼まれたが、私にはどのような口約束さえもできなかった。そのような越権行為をナポレオンは喜ばない。結局は私もプロシアの者たちと同じ、いかだを眺めている傍観者でしかないということさ。
 プロシアは僅かな領土を残して解体された。人口は4割ほどになり、国際的地位は低下した。もともとプロシアだったところにはナポレオン法典を法とするいくつかの国家が作られ、それらの国々はライン同盟と呼ばれることになった。兄のジョゼフをナポリ王に、弟のルイをオランダ王に……兄弟や妹夫婦など、親類に与えられた小国などを数えればきりがない。コルシカの田舎貴族に過ぎない男の一族でヨーロッパを分配しつつあった。これがいかほどにヨーロッパ諸国、こと古い王家を持つ国々を苛立たせたか想像に難くない。
 ナポレオン一族のヨーロッパ分配もそうだし、愚かなヴィルヘルムに対して厳しく出て、アレクサンドルが話せると思うと甘く出る。このように相手が話せるかどうかで一国の運命を決めるのは愚かなことだと思わないか。むしろロシアに厳しく当たって力を削ぎ、プロシアには優しくし、ロシアの防波堤とするべきだった。しかしそうはしなかった。再びロシアとやるとなれば、気弱なヴィルヘルムやプロシアの弱兵には任せておけない。プロシアの土地を乗り越えて自らロシアに踏み入るのだと。それに、ナポレオンはもう一つの策を考えていた。大陸封鎖令だ。
 ナポレオンにとっては、港全てを閉じることも、がま口を閉じるがごとく簡単なものらしい。そうだろうさ、ヨーロッパの人間全てがナポレオンのような苛烈な意思を持っていればな。ポルトガル、スウェーデンのほかはこの大陸封鎖令に参加した。ポルトガルは後にフランス自ら征伐し、ロシアにスウェーデン支配を行わせ、大陸封鎖を完成させた。イギリスとの貿易を禁止し、フランスとの通商を奨励する。イギリスと戦争をしようにも彼らは島国に引きこもって出てこない。海上を抑えられている以上、会戦でことを決するわけにはいかないから、経済で締め上げようというのは有効だ。しかし、海上から陸上を封鎖するのは簡単だが、陸上から海上を封鎖するんだ。まるで天空に挑むイカロスのようじゃないか。水を飲むのに、こんこんと湧く泉を無視して雨露をすするようなものだ。労ばかり多くて益は少ない。愚かな、しかし彼にしか成し得ぬ遠大な策だ。他の方法ではイギリスに苦痛を与えられぬが、労は多いとは言え苦痛を与えるんだ。私は反対したがね。その愚かさも、彼特有のものだろう。こと相手がイギリスとなれば、フランス革命の頃からの旧敵だ。オーストリアは何度もやっつけたが、イギリスにはまともに勝ったことはない。正面から叩きのめさなきゃ気が済まないんだ。実際、向こうじゃ暴動が起こったり、銀行が破綻したりしたそうだ。多少の効果は上がったんだな。
 しかし、反発の方がより大きく、危険だった。フランスのみならず、ヨーロッパ全てで貿易が滞り、その方面での損失は大きかった。アフリカや南アメリカの植民地からの輸入はイギリス船に拿捕されてこちらも滞った。コーヒーをはじめ嗜好品が届かなくなった。イギリスは自由に輸送船を抑えられるが、ヨーロッパ諸国はイギリス船を押し止めることはできない。イギリス船は、港を避けて砂浜を使えば、全ての海岸線を貿易の拠点にできた。密貿易が流行するのは当たり前のことだ。スペインやロシアでは政府が密交易証を発行して儲けを出し、フランスの軍人や政治家さえもそれに倣った。ナポレオンの弟ルイを王に据えているオランダでさえ、密貿易を完全に取り締まることはできなかったんだ。イギリスをある程度苦しめたかもしれないが、弊害はよほど大きかった。


「ヨーロッパは巨大な一塊の共同体となった。その巨大さを、使いようによっては、素晴らしい方向へ持っていけるかもしれないのに。返す返す残念だ、ナポレオンはただの野蛮人だった」
「君ならできるのか。タレーラン」
「いいや。先は見えるが、自分を犠牲にしてまで成すということはできない。ナポレオンは死んで元々だと思っている。何者でもない、所詮は第三身分の心持ちだ。生き延び残すことこそが貴族の責務であり特技だからね。そのあたりは君と同じだ」
「ナポレオンは栄光のために恥を知らず、我々は生き延びるためには恥を知らないというわけだ」
「そのとおりだ。あのギロチンの恐ろしさを見れば、そのようにもなる。ナポレオンは日々、しくじればあそこへ送られると思いながら生きている。それだけでも充分に立派だとも言える。恐れを知らぬ蛮勇とも言えるが」


 大陸封鎖令などは愚かなことだ。しかし、私は既に、意見を述べる愚を悟っていた。この第四次対仏同盟の戦後処理が、私の外務大臣としての最後の仕事となった。
 ただ一つ私の意に沿って行われたのは、かつて敗北し消滅したポーランド公国を復興させることだけだ。プロシア、ロシアから領土を割譲させ、元の形に戻させた。ポーランド人は恩に着ることだろうし、ロシアに対して重要な防壁になってくれる。しかし、ナポレオンにとっては、復興を悲願としているポーランド人に管理させるほうがより安定するだろうし、裏切らないと考えただけのことだ。ナポレオンの親族を王にすれば、ポーランド人の反発は強いだろう。彼はポーランド人のことよりも、ナポレオンに対して直訴したポーランド貴族の娘、マリア・ヴァレフスカのことを考えているようだった。
 農婦に扮して、路上でナポレオンに花を贈った女の調査を、ナポレオンは私に頼んだ。正直に言えば、マリア・ヴァレフスカの調査は楽しい仕事だったよ。ヨーロッパ支配の風向きは良くない方向に進んでいたが、マリアの扱いは私の指先一つで決まるのだ。結果として彼女の目的はポーランド復興にあると知り、私はナポレオンに彼女をあてがった。密会をする機会も作ってやったんだ。
 彼女は美しく、しかも気の強さがあり、信じた男には逆らわぬ従順さも持っていた。全てナポレオンの好む性質だ。しかも、ナポレオンが彼女を求めたように、マリアもナポレオンに惚れてしまった。ナポレオンは、世の女性が欲しがる熱烈さを持っている。偉大な皇帝でありながら、女に対してもなりふり構わぬ。まるで野良犬のような野卑さだが、それもギャップということかな。ともあれ、マリアも最初はポーランド復興の悲願のために体を許したが、やがては心までも許すようになった。
 その寵愛ぶりはよほどだったらしい。彼女は、戦後処理のためにポーランドに留まった一月のうちにナポレオンの子息を宿した。パリへ連れて帰ることはジョゼフィーヌの手前できなかったし、二人で暮らすこともならない。どうあっても幸福にはなれない間柄だったが、それでもマリアは構わなかったようだ。それほどに、マリアは彼を愛した。
 マリアが子を宿したことで、彼は自分が種無しではないことを知った。問題があるのはジョゼフィーヌの方だと思い込んだ。マリアはナポレオンを愛した。マリアにとっては単なる愛だったが、そのためにナポレオンは、自分の夢を子供へ引き継ぎたいと望んだ、それも完璧な形で。妻との離別を考えだしたのもこの頃だろう。ジョゼフィーヌは、何の落ち度もなかった。マリアとの出会いは、皇帝にとって悪いことかもしれない。彼女のこと、子供のことがなければ、焦ってスペインに手を出すこともなかったかもしれないからな。
 しかし、やれやれ! 私はそこまで考えが回らなかった。ようやく外務大臣を辞められるときが来たんだ。もう奴の下で働くのはこりごりだ。ナポレオンは驚いたようだったが、引き止めはしなかった。奴の側でもうんざりしていたんだ。私が腹の中でナポレオンを馬鹿にしていることくらい分かっていたんだろう。
 第四次対仏同盟の後処理が終わって、私は外務大臣ではなくなった。彼の帝国が永遠に続くならば、私が再起することはない。しかし、地位を捨てたことに清々した。奴の下で罪を重ねることはないのだと思った。こと、奴がスペインへ乱入したことを思えば。


「スペイン……ある意味では幸福な土地だ。革命以前の旧習を引きずる国だが、しかし王族や貴族への不平等に対して、国民は無邪気にして不満を覚えていない。どのようにして制度を維持しているか、私は寡聞にして知らないが……民衆と王の間に相互理解があるためか、あるいは多く抱えている植民地からの利益が王や貴族に偏っておらず、きちんと分配されていて損害が少ないためか、それとも単純に気候が温暖で暮らしやすいためか? 自由や平等という概念について、民衆を啓蒙する学者が少ないからか? あるいは、かつて異教徒に支配された歴史があって、異教徒から守ってくれる国家というものを信頼しているからかもしれないし、キリスト教の教えが民に浸透しているためかもしれない。もしくは逆かもしれないな。フランス人がゴシップ好きで、他人に対して不満を抱きすぎるのかも。ともあれ、スペインは王政でうまくやっていた。フランスとも革命以来友好的に付き合っていたし、それで問題なかったんだ。革命をお題目に侵入し、内乱を引き起こし、それに便乗して占領したのはフランスだ。何の問題もなかったスペインに、フランスが波風を立てたんだ」
「フランス革命戦争と同じだ。革命政府は革命の輸出を正義の行いだと断じた。酔っていたんだな」
「当時のフランスは経済が全くうまく行っていなかった。革命の名を担ぎ出したが、実情は侵略戦争、金を目当ての侵略戦争でしかなかった。君が国内の反抗的な都市から、資金と兵を用立てたのと同じだな」
「リヨンの事を知る者を、誰一人余さず葬り去ってやりたいよ」
「もっとも私も人のことは言えない。ジロンド党は戦争を始めたが次第に旗色が悪くなり始めた。しまいにジャコバン党が尻拭いをするはめになった。もっとも、その頃にはジロンド党員はあらかたギロチンの下の籠に入っていたがね」
「見切りをつけて逃亡した君のようなやつを除いて」
「ああそう、その通り。まったく、あの時から何も変わっていない。スペインでのことがうまくいけば、ナポレオンは私を許さんだろう。ジャコバンの支配が続いていれば、私はフランスに帰ることなど思いも寄らなかっただろう。また同じことが繰り返される。だから、ナポレオンが帰ってくる前にけりをつけなければならない」


 1807年に、スペイン侵攻の先触れとなる出来事があった。ポルトガル侵攻だ。ポルトガルはイギリスと親しく、支援も強く受けていた。大陸封鎖令なんかに参加できるはずがない。正面からノンを突きつけられるのは、便所に突き落とされたかのように、ナポレオンは感じたことだろう。ナポレオンはジュノー将軍を派遣し、ポルトガルへ兵を送った。スペインとは条約を結んで領内を通過することを認めたが、スペインの宰相ゴドイはその裏で個人的な利益を得ていた。このことにスペインの貴族、特に反フランス姿勢の者たちが不満を申し立て始めた。領内に入り込み、駐屯するフランス兵は増えるばかりだ。フランスはスペインを占領するつもりじゃないか、ナポレオンがその気になればそれは簡単なことだ、と。
 スペイン王家は、定見というものを持たなかった。興味がなかったんだな。国王カルロス4世とは私は会ったこともない。というより、宮殿にはいないんだ。いつも狩場に出ていて、執務をしているという話は聞いたことがない。外交上の話もいつも執務を行う貴族と話せばそれで片付いた。いなくてもいい存在なんだな。もっともそれが悪いこととは言わない。いない方がうまく回るということもある。政治の切り盛りは宰相が行っていた。これまではそれで良かったが、悪いことにフランスが入り込んできた。
 スペインの政治は宰相ゴドイと、王妃マリア・ルイサが切り回していた。切り回すなんてものじゃないな。単に私物化し、その取り巻きが分前に預かっているという形だ。更に言えば、宰相ゴドイが地位を得ていたのは、王妃とゴドイが愛人関係にあったからだ。
 ゴドイ、王妃、それから頼りにならない国王……これらを見限ろうとする貴族たちは、自然と反フランス、親イギリスの立場となった。彼らが旗頭としたのは、王子フェルナンドだ。フェルナンドはゴドイを嫌っていた。母親と不倫関係にあり、それが民衆にまで知られているとなれば、好きになれるはずもない。しかし、王妃はゴドイをよほど気に入っていたらしい。王子よりも、ゴドイの擁護に回っている。二十代のゴドイは美青年だったそうだが、しかし今や四十がらみの太った中年になり、王妃も五十代だ。息子よりも愛人を取り、情痴に乱れるには醜い姿だ。フェルナンドが人気だったというよりも、この王家がひどすぎた。腐った王家と、期待の星フェルナンドという構図だ。フェルナンドが良いとは聞かないが、民衆はフェルナンドに期待していた。貴族たちがフェルナンドを立て、政変を起こそうとした事件も起こった。
 これらの事柄を、私はナポレオンには知らせなかった。私はもはや外務大臣ではないし、聞けばナポレオンは行動を起こすだろう。しかし、私が知らせなくとも、やがては耳に入る。ヨーロッパが平穏であれば、ナポレオンが聞きさえしなければ、ことがスペイン国内だけで終わっていれば……王子かゴドイか、どちらかが権力の座から放り出されただけの話で終わっていただろう。しかし、隣国の主は領土を得る機会を常々伺っているナポレオンだ。ナポレオンは、スペインの内政問題に介入することに決めた。親イギリスの貴族に担がれたフェルナンドが王になれば、フランスとしては困る。しかし、ゴドイにもこのまま任せているわけにもいかなくなった。ゴドイはイギリスと密貿易を行っており、ナポレオンはそれも知っていた。ゴドイにも筋というものはない。ナポレオンが怒ればどのようになるかという考えもない。ただ、金を目の前に差し出されれば、ただ拾うという程度の小物だ。フランスから金をもらい、イギリスからももらっていた。ナポレオンからすれば、そのようなゴドイを放ってはおけないというわけだ。
 彼はこの争いに仲介を申し出、カルロス4世、王妃、フェルナンド、ゴドイらとの話し合いの場を持った。会談を覗き見た者から聞くところによれば、彼らは口喧嘩に終始し、建設的な意見は一つも出てこなかった。ナポレオンはスペイン王家の面々には絶望し、このような連中と組むより自分が管理した方がマシだと考えた。彼の悪行を無理に擁護するならば、自ら統治する他なかった。スペイン王家の誰もに利害を考える頭はなく、彼らとの約束事などは守られるはずがない。しかし、それはナポレオンの理屈だ。理由のないスペイン侵攻を行えば周囲にどのように見られるか、ナポレオンには分かっていなかった。ちょうどスペインの王家が、自分たちがどのように見られているか分かっていなかったのと同じだ。しかし、ナポレオンは目の前に肉を吊るされた犬と同じだ。獲物があれば、それしか見えなくなってしまうんだ。
 話し合いは決裂した。反フランスの貴族たちによってカルロス4世は退位させられ、ゴドイは退任、王子フェルナンドがフェルナンド7世として即位した。それをナポレオンが許すはずもない。ナポレオンはカルロス4世、フェルナンド7世ともにフランスに連行し、バイヨンヌの宮殿で幽閉した。フェルナンド7世は退位させられ、自らの兄でナポリ王のジョゼフをスペイン王として即位させた。ジョゼフはナポリ程度の小国の王であることに不満を持っていて、ナポレオンに文句を言っていたから、スペインならば満足だろうというわけだな。全く、大した話だよ。私の家に住み込んでいる小間使いを王にした方が、まだしも良い行いをするだろう。ナポレオンの家族よりは分をわきまえているからな。
 ナポレオンは、これもまた現実が見えていなかったのだが、スペインの民衆は味方につくと思っていたんだ。王家の愚かさに絶望しているスペイン人は、革命の理想……自由と平等を歓迎すると思っていた。人々は無邪気に信仰を信じており、学がなく、特権階級や身分差別ということにも疎かった。王は神に認められた生まれながらに偉い存在だと信じている。ナポレオンの感覚から言えば、よほど遅れているように見えた。啓蒙を受けた民衆は新時代を歓迎するだろうと考えたのだ。フランスで行ったような改革を行えば、役所は能率的に働き、教育も行われ、病院などの福祉施設も充実すると。
 物事が、全て自分の思い通りにゆく。そのように楽観視したのは、やはり認識が歪んでいたとしか思えない。一つは子供を作り、ヨーロッパを一つの帝国にして手渡してやること。そして、オーストリア、ロシアを相手に演じてみせた完璧な勝利の故に、より劣るスペインならば軽く相手できると考えたこと。加えて、スペインにはナポレオンがどうしてもほしいものがあった。トラファルガー海戦で壊滅したフランス海軍とは違い、未だ充分な陣容を残すスペイン海軍だ。それがあれば、イギリスを制することができるかもしれない。イギリス海軍は極めて精強だが、圧倒できなくても良いのだ。フランス陸軍がイギリス本土へと渡るほんの一時制してくれればいい。イギリスを制さない限り、ヨーロッパを一つの帝国にはできない。その希望が、ナポレオンの目を曇らせた。スペインをまるで簡単に奪えると錯覚させた。
 いかにスペインが遅れているからといって不幸であるとは言えなかった。自由も平等も、理屈に過ぎないし、それも、奪ったあとにあとからくっつけただけの理屈であって、奪われた側としては素直に受け取れるはずもなかった。
 スペイン政府が惰弱であるぶん、民衆の意地は強かった。王家は損得の感覚はなかったが、感覚がないゆえにスペインを譲り渡すことはしなかった。スペインの民衆は王を奪われたと怒り、フランス革命で僧侶が受けた仕打ちを知っている教会の人間は、反ナポレオンの活動を行い、民衆を煽り立てた。信仰によって裏打ちされた民衆は死を恐れず、厄介な敵となった。さらにイギリスは武器や食料を補給し、スペインでの活動を支援した。軍制は未熟だったが、イギリスがそれを補強した。軍人や、民衆のうちから優秀な者を見出し教育した。そして、民を兵とした。愛国心に裏打ちされた民衆は最良の兵隊となる。ナポレオンはイタリアで、エジプトで、そしてヨーロッパでの戦争でそれを体験していたはずだが、それでも予見できなかったようだな。目の前にただ広大な領地があり、それが手の中に転がってくるように簡単に手に入れられると考えたんだ。彼は戦争はできるが、外交はできないと考えるほかはない。私に一任していればそのようにはならなかったが、彼は認めないだろう。ほしいと言って喚いている子供と同じだ。言っても仕方ないのさ。だから私は外務大臣を辞めたんだ。今からスペインを頂きます、と書かれた外交文書にサインをする、それが後世に残る。そんな恥も外聞もないこと、私にはとてもできなかった。


「かくして、いかにも愚かなスペイン戦役の幕は上がった」
「アンギャン公暗殺に並ぶ愚行だ」
「なお悪いかもしれない。アウステルリッツでは勝利した」
「そう。そして、スペインでは負けつつある」


 これまでの戦争は全て宣戦布告を受けての対応としての戦争だった。しかしスペイン戦役は明らかに侵略戦争だ。誰が見ても、どのように見ても……この戦争は、名実ともにナポレオンを貶めた。血に飢えた獣であるとか、戦争狂、ヨーロッパの侵略者であるとヨーロッパ中の新聞にナポレオンは書き立てられたが、ならばそれでよいと悪い方向に吹っ切れたようだった。
 スペインでの戦争は、名誉なき戦争だった。相手は兵隊ではなく、軍隊でもなかった。指揮をする上官はおらず、武器を持った民衆の塊だった。会戦もなく、交渉をするべき政府や王もなく、ただゲリラの対処をしながら占領地を維持するだけの日々が延々と続く。敵兵の中には女子供もいる。女子供も処刑したり、掃討するのは嫌な仕事で、将軍たちにしても得られる報酬は少なく、栄光もなかった。兵にも将軍にもやる気が出ないのは当たり前のことだ。加えて攻めるべき大義もなく、ナポレオンもスペインにはいなかった。
 最初に統治を行ったのはナポレオンの兄のジョゼフで、スペイン全土が蜂起した民衆まみれになり逃げ出すと、次にはナポレオンの部下の将軍たちが統治した。しかし、うまくいく者はいなかった。フランス人の将軍たちも政治のできる人間ではなかったということだ。彼らは慰撫するなんて頭はなかったし、スペイン人を遅れていると馬鹿にしていた。自分たちが攻め込んでいるということも忘れて、兵士が殺されれば応酬として殺すばかりで、それで反乱が収まると決め込んでいたんだ。命令を受けることは慣れていても、自分たちで判断して行動することはできない。反乱を鎮圧し、民衆を従える方法を知らなかった。
 有り得ないことに私が外務大臣の席に残っていたとして……更に有り得ないことを重ねるが、彼が私の諫言を聞くならば……スペインの問題を収束させることは可能だろう。彼がスペインを諦め、カルロス4世とフェルナンドを解放すれば済む話だ。後は金を積み、条約にいくらかスペインの得になることを盛り込めばどうにかなる。そもそも、こんな問題には顔を突っ込まないのが一番なんだ。ゴドイがフランスの金で言いなりになったのはありがたいが、そのゴドイが失脚したら次はフェルナンドと仲良くしておけばいいだけの話なんだ。ナポレオンはいよいよ狂った。負けが込んでいる賭博と同じだ。勝てば全てを取り戻せると信じて注ぎ込み続けている。頭に血が上って、それしか考えられないんだ。ナポレオンは死んでもスペインを手放さないだろう。完全にいかれてしまった。
 そして、信じられぬ一報がナポレオンの元へ届いた。フランス軍が、会戦で降伏したとの報せだった……ナポレオンが皇帝となり編成した大陸軍が、平地での会戦で降伏したことは一度もなかった。ナポレオンはこれを聞き、指揮官をなじり、いっそ殲滅されていた方が全フランス軍にとって利益になったと喚いた。この勝利で、フランス軍が完璧でないことをヨーロッパ中が知った。アウステルリッツから三年が経っている。おとなしくしているオーストリアやロシア、プロシアも再び立ち上がることだろう。これはただの一敗ではなく、フランスを、ナポレオン帝国を滅ぼす敗戦というわけだ。ナポレオンは遂に、部下には任せておけないと、自らスペインへ踏み入ることに決めた。


「奴が出立したのは二月ほど前のことか。ナポレオンがスペインに着く頃合いを見計らって、君へ申し上げたわけだ。私の屋敷で行われるパーティへ来ないかと」
「タレーラン、君がこのタイミングで立つことは予想できた。予想できなかったのは、私と組もうと言い出すことだ。天地が逆になるようにありえぬことだと思っていた」
「私は誰とでも組むよ。どんなに馬鹿にされていようと、嫌われていようと、平気だ。それで、ナポレオンがスペインへ出かけた隙に、ナポレオンの居場所をなくしてしまおうと思ったわけだ」
「屋敷へ訪れ、君が迎えに出て、私と握手を交わした。それで君の言いたいことは理解できた。それをまあ、よくもくどくどと、長いこと語ったものだな」
「ならば、私がここで立った理由も分かるだろう。そもそも、ナポレオンが人気を得た理由はなんだ? 革命政府が始めた戦争を終結させて、平和を取り戻したからじゃないか。それを今更、領土的野心に囚われて侵略戦争を始めるなんて。よほど、自分の子孫を永遠に皇帝位に据えておくという夢は強いように思えるな。ナポレオンほど意志の強い者が、果てなき野望を抱けばどうなるか。しかし、我々は侵略戦争を始めた革命政府の末路を見ている。となれば、次なるナポレオンの位置につく者、平和を求める者が必要というわけだ」


 幾度タレーランが杯を傾けたことか。夜はとうに更けて、タレーランとフーシェ、二人の会談の結末がどのようになるか、興味深げに待っていた者たちも、やがて解散してしまった。二人は、長く過ごした一室を出て、がらんとした大広間を見渡した。テーブルには器やグラスが残り、また酔いが過ぎてその場で寝てしまった者がソファに残っており、メイドや執事が片付けに動き回っていた。
「とりあえずは、どうだね。軍隊も縮小し、フランスは平和路線を歩むことにする。これまでの非礼の返礼として、賠償金は打ち消し、奪った領土は返す。皇帝の地位は留めたままで、政治には関わらせぬ。政府運営は君、私、それからルブランやカンバセレスと言った有能かつ穏健な者たちで運営していくということで。それで国民は納得するだろう。彼らは平和を欲している。外国との折衝は努力次第だな」
「ナポレオンが納得するとは思えないが」
「その通りだ。それで、ナポリ王のミュラあたりでどうかな。彼は頭は回らない。しかし彼の妻はなかなか賢く、利害に聡い。そして彼は恐妻家だ。ナポレオンの妹たる彼女を抱き込めば、ミュラは彼女の望みは何でも聞く。フランスは我が物にできたも同然となる」
「何の話かな」
「次の皇帝の話だ。仮に、ナポレオンが死ぬとして、だがね。彼は戦場にいる」
 フーシェは思考する。素早く、しかし熟慮して。ここでの仮に――とは、ナポレオンを排除したならば、共にナポリ王をフランス皇帝に立てる、支持をする、ということだ。それに同意したならば、クーデター計画の最初の一歩を踏み出すことになる。悩んでいるようには見せず、あっさりと、放り出すように返事をする。
「私としては、警察大臣を継続させてもらえるならば、他はどうでも」
「よかろう。それでは密約の成立だ」
 タレーランは片手をひょいと放り出したが、フーシェは既に歩き始めていた。歩み去ってゆく背中を見て、タレーランは呆れたように片手を振った。さて、スペイン情勢が落ち着くには時間がかかることだろう。早々に帰ってくることはあるまいが、ことは急がなければ。
 しかし、タレーランにとっては、これも児戯に過ぎず、フーシェに語ったように、単にナポレオンを驚かせて面白がりたいだけで、本気ではないのかもしれなかった。元よりあくせく働くのは苦手だ。動きは緩慢で、良く言えば長者の余裕があった。
 対照的に、フーシェの動きは素早かった。たちまちのうちに、タレーランに寝返りを打つであろう者たち、ナポレオンに臣従するであろう者たちのリスト作りに取り掛かった。必要な命令を書いた手紙を作成し、明日一番に手の者に手渡す用意を整え、寝室に入る頃には夜明けも近かかった。ろくに眠れまいが、少しでも休んでおかねば明日の職務に差し支える。手燭を消すと、闇の中を通り抜ける気配があった。
「予言は当たったろう?」
 正邪がナポレオンの行動を予言してみせたのは、影に隠れた心のひだまでも読み取る能力に長けた故だろうか。正邪は長いことフーシェの前には顔を見せなかったが、遂に現れた。彼女はどこにでも現れる。ウィーンにいてタレーランとメッテルニヒの会談に付き添っている。ネマン川のほとりで筏を眺めている。スペイン王家とナポレオンの口喧嘩を眺めて腹の内で爆笑している。エルフルト会議でアレクサンドル1世の腹の中を探っている。そして、今パリで大いなる陰謀が企まれていると知れば、たちまちそこに現れる。
 しかし、フーシェは歓迎しなかった。むっくりと起き上がると、扉を開き、子犬でも放り出すかのように正邪を放り出した。
「随分つれないじゃないか! 久々に会ったというのに。タレーランと組んでたのが気に入らないのか? 嫉妬深いのは困るな!」
「明日にしろ」
 正邪の異様にも、もはやフーシェは動揺することもない。フーシェも化物と同じようなものだ。何の得にもならない陰謀を面白がる生物が、自分以外にもう一匹いても驚かない。ぼそりとフーシェは呟くと、それきり喚くのも無視して眠りについた。

 タレーランとフーシェ、それぞれの派閥の者たちは、両名が組んだと情報を聞き、忙しく動き始めた。二人が何を話し、どのように動くのか、まだはっきりと分からない。しかしその時が来れば即応するため、それぞれに活動を始めた。ナポレオンにつくボナパルティストたちは、フーシェとタレーランは何を語り合ったのか、何を企んでいるのかを調べ始めた。彼らはナポレオンの指示を至上としている。ナポレオンがいなくてはどうにも動きが鈍かったが、スペインにいるナポレオンに指示を仰ぎ、早馬を走らせ、徒党を組んだ。
 タレーランが行ったのは、ひとまずパリにいるボナパルティストたちに平和の尊さを解き、ナポレオンへの頑なな忠誠心を解きほぐし、フランスのためにというお題目で、彼らを説得することだった。そして、タレーランはなんとも大胆なことに、ナポレオンの跡継ぎについても判断を仰ぎ、それはナポリ王のミュラ以外にないと説得を繰り返した。タレーラン流のやり方で言うならば、物事を全て闇の中で運んでは、人々は納得しないというものだった。
 もちろん、誰も彼もに話すわけではない。説き伏せられるという前提の元に話しているのだが、物事は陽の下で運ばなければならないというのは、タレーランの考えだった。そのために、タレーランがミュラを担ごうとしているというのは、公然の秘密だった。それは不敬であるという程度であり、たちまちクーデターと繋がるわけではない。しかし、そのことも合わせて、ナポレオンへと送られた。ナポレオンがもしも仮に、スペインの泥に今しばらく足を取られていれば、クーデターは成っただろう。スペイン戦線はナポレオンと言えど素早く片がつく問題ではなく、手間を取られていれば、ヨーロッパ諸国は必ず反旗を翻す。フランスにナポレオンはおらず、敗北は必至となれば、タレーランの平和主義の下になびくだろう。こと、貴族たちの支持を得ているタレーランと、共和派の支持を受けているフーシェの党派は反ナポレオンに傾きつつあった。しかしナポレオンの信奉者たちの繋がりは強固だ。帝政をひっくり返すには今少し策謀がいる。
「フーシェ、お前はどうするんだ。ナポレオンを叩き落とすなら今だ。お前は人の弱みを多く握っている。説得に役立つんじゃないのか」
「タレーランのやり口は賢い。しかし、中途半端にナポレオンに権力を残すのは危険だ。彼は恨むだろうし、彼が再起したならば裏切った者に容赦はするまい」
「ナポレオンにつくのか」
 フーシェはタレーランと徒党を組んだが、顔を背け、彼の屋敷を離れた瞬間に、既に組むのをやめていた。確かに一世一代、面白い舞台だった。しかし、それ以上踊り続けるのはつまらない。タレーランは、フーシェの派閥をも取り込んだと信じ、動いた。フーシェとタレーランの影響力は、パリにおいて、ナポレオンも超えるかもしれない。しかし、フーシェはただ博打に打ち込むだけの男ではなかった。常に自分一人が勝つ方向へ駒を置いていなければならない。
「ナポレオンにつくというわけじゃない。タレーランはナポレオンがスペインで手間取ると踏んだ。しかし、ナポレオンは負けていない。今ナポレオンが帰ってくるならば、タレーランはひとたまりもない。旗幟を決めるのは早すぎる」
 正邪はため息をついた。恥を知らないと思っていたが、これほどとは。
「私がタレーランに告げるかもしれないのに、よく言えるな」
「言わなくても、彼は知っているよ」
 つまるところ、フーシェはいつもと同じだった。誰がどのように動いたか、記しておくだけだ。パリ市街、及びスペインよりフランスに至る街道沿いには、全てフーシェの目が光っていた。

 ナポレオンの動きは、パリにいる誰よりも素早かった。それは同時に、ナポレオンがフーシェ、タレーランの会談を聞いた時、どのように慌てふためいたか、その衝撃の大きさを物語っていた。これを放置することは、スペイン以上の火事になる。
 ナポレオンは、戦うべき戦場を知っていた。エジプトでは、フランス本国に勝利が転がっていると見たために、ほぼ身一つで逃亡するという芸もしてみせた。スペインからの転身も、ナポレオンならではの芸当だったと言える。
 すぐさま勝利し、戦を収めることができたならば、その名声は再び天へ昇り、フーシェやタレーランごときはたちまち地下へ追いやられることだろうが、スペインには戦うべき王や政府はいなかった。民衆の一群を虜にしたところで、民衆の塊は無数にいる。イギリスはスペイン人に加え、ポルトガル人にも支援を与えていた。スペインでの戦争はナポレオンと言えど素早く片付くものではなかった。逆に、パリの問題を片付けられなければ、戦争どころではなくなる。結局、スペイン戦争はスーシェ、スルト、マッセナ等、歴戦の軍人に引き継がれたが、ナポレオンが去った後、彼らは協調して行動することができなかった。前述の通り、スペインは栄光のある戦場ではなかった。スペインでの戦争は泥沼化し、帝国が崩壊するまで続く。スペインに歴戦の将軍、兵士が取られたことは、後のロシア遠征、第五次対仏同盟戦、果ては一度目の帝国崩壊となる第六次対仏同盟まで尾を引くことになる。
 ナポレオンが急ぎ戻ってくることをタレーランは予想できなかった。ナポレオンがスペインに入って以来、イギリス軍には勝利を重ねていたが、スペインの民衆は慰撫できておらず、イギリス軍もポルトガルから叩き出すには至らなかったからだ。全てが済むまでは半年はかかるだろうと思っていた。ナポレオンは細心に、しかし急いで、パリへと駆け通した。フーシェはナポレオンの通る道、泊まる宿場、パリへ戻る日付まで把握していたが、タレーランには知らせなかった。

 夜半すぎ、ナポレオンは誰にも知られず、パリへ帰還した。ナポレオンは人生に数度、民衆から喝采される凱旋を経験し、また数度、誰にも知られぬ帰還を経験した。これもその一つに過ぎない。明日の朝一番に、御前会議を開催する。呼びつけられた連中は、その時点で皇帝が既にパリにおり、何のために帰ってきたかを知るだろう。その場でタレーランとフーシェを叱りつければ、しばらく連中もおとなしくしていることだろう。それからスペインを片付ければいい。
 明朝起き出してきたナポレオンを訪ねて、一人の男が訪れた。ナポレオンが帰還したことは誰もしらないはずだ。秘書がその名を告げた時、全ての目論見が見抜かれていたことを知った。胸くそが悪くなる思いだった。「通せ」と、ナポレオンは答え、フーシェはナポレオンの前で深々と頭を垂れた。
「何のつもりかね、警察大臣」
「おっしゃる言葉が分かりかねます、陛下」顔を持ち上げ、フーシェは続けた。
「皇后陛下に用があったのですが、皇帝陛下が突然帰国しておられると聞いて、挨拶に伺ったのです。他に用はありません」
「君はこう言いたいわけか。たまたまここへ来たと」
 フーシェは平然と微笑んでいた。これではフーシェの首根っこを押さえるどころではない。フーシェは証拠となるような品物は何一つ残していないだろう。そして、このように出頭してきたということは、ナポレオンの側にいると示しているつもりだ。くだらないポーズだが、ナポレオンが叱りつけるつもりでいたように、ポーズで物事は進行する場合もある。ナポレオンは諦めた。まだ獲物は残っている。
 ナポレオンは、フーシェよりもタレーランを優先した。それには理由があった。スペインへ赴く直前、ナポレオンはエルフルトでロシア皇帝アレクサンドルと会談を持った。スペインへ行くに当たって、後背をオーストリアに狙われないため、ロシアに牽制させておくためである。オーストリアが宣戦布告をした場合、ロシアはフランス側につくという同盟を結ぼうとした。しかし、これを結ばれてロシアとオーストリアが相争い、土地のやりとりでも発生しようものなら、ロシアとオーストリアの仲に亀裂が入る。戦禍はますます広がることだろう。
 これを阻もうと企んだのがタレーランであった。ヨーロッパ全体の平和のため、ロシアにこの同盟を結ばないようにタレーランは働きかけて回った。これは重大な裏切り行為だった。ナポレオンの意に反することを行っていたのだ。しかし、タレーランの側にも言い分はあった。ロシアに背後を守らせようと言うが、ロシアだって信用ならない。泥棒に裏口の鍵を預けるようなものだ。ロシアなんぞに寄りかからず、スペインへ行くのもおやめなさい、と言うことである。その真意が分かったとてナポレオンは納得しなかっただろう。
 ナポレオンはこの不振に終わったエルフルト会議において、タレーランに疑いの目を持っていた。タレーランがうまくまとめられなかった外交はなかったのだ。まじめにやらなかったか、あるいは積極的に裏切り行為を行っているかだ。結局、会議の結果に関わらず、ナポレオンのスペイン親征は行われたが、このたびのフーシェとの協議を見ても、タレーランが裏切っているのは明らかだ。ナポレオンは、此度の生贄は一人で済ませることに決めた。いい加減腹に据えかねている。
「フーシェ、これより御前会議を執り行う。当然君も参加する。その旨、君から閣僚へ通達したまえ。それから、侍従長も呼ぶように」
 外務大臣を辞任したタレーランは、今は侍従長の席にいた。今日の生贄が呼びつけられたわけである。フーシェは書類を取り出すと、ナポレオンに手渡した。タレーランと協調した者のリストとその内容をまとめたものだ。フーシェはまったく、味方においていれば便利な奴なのだった。

 急の帰還、急な呼びつけであったが、御前会議は開始された。ナポレオンがいない間の執務の確認などが話し合われたが、その中でタレーランは退屈そうに座っていた。侍従長とは閑職で、大きな儀典でもなければ、確認するべき業務も大して持ち合わせていない。時折隣の席の者と言葉を交わし、いつ始まるかと待ち構えていた。
「タレーラン、君はこの度のスペイン救援を不満に思っていたそうだが」
 報告があらかた終わると、ナポレオンはタレーランに声をかけた。タレーランどころか、この場にいる誰も、スペインでの戦争に、納得はできないだろう。ナポレオンも侵攻とは言わず、スペインにいるフランス軍を救援したという言い方をした。正当化している。閣僚たちもみな、正面切って不満を言えないだけだ。
「まさか、そのような……」
「以前から気に入らないと思っていたんだ。君はいつでもそうやって笑っているが、腹の底じゃ何を考えているか。オーストリアやプロシアに対する休戦条約を決めた時もそうだ。君は笑って文書にサインしていた。よその外交官たちと私を馬鹿にして……笑いものにしていたのを知っているんだぞ」
 ナポレオンが激しく机を打ち付け、先ほどまでの会議の穏やかな感じは消え去った。ナポレオンの怒りは瞬間的に爆発する。彼の怒号は、周囲を萎縮させる効果に満ちている。居並ぶ閣僚たちも、びくりと身をすくませた。
 タレーランにとっては、やれやれ、ようやく始まったかというところで、後はいつ終わるかを待つ程度のものだった。タレーランは席を立ち、壁際の暖炉に肘を置いた。しばらく、ナポレオンの罵倒は続いたが、タレーランはろくろく聞いてすらいなかった。
「タレーラン、君のことは始めから気に入らなかったぞ。君は異常者だ。生まれつきの裏切り者だ。貴族でありながら革命に与し、自分に危険が及びそうならば母国を捨てて亡命し、安全になったと思ったらまた政府に入り込んでいる。君は自分の父親すら裏切った。今はそうやって私にへりくだり、笑いかけているが、私が死んだら、君は次の支配者の元で笑っていることだろうな」
 ナポレオンはますます熱くなり、次第に怒っている自分自身が演技か本当か、わからなくなってきた。言葉だけでなく、体全体で怒り、抑えつけていられないと言わんばかりに椅子を蹴り、タレーランに詰め寄った。言葉にも理屈は消え去り、クズ、畜生、ゴミ野郎、と単なる罵倒に変わった。タレーランは黙って聞いていた。しかし、罵倒は永遠に続きそうだった。
「貴様は……貴様は、絹の靴下に詰まった糞だ! 尻の穴から放り出された汚物が、綺麗な服を着て、人間のふりをして歩いている。それが貴様だ!」
 ナポレオンの肩は盛り上がり、罵倒の言葉も尽きたと言わんばかりに荒い息を何度も吐いた。その唇はわなわなと震えていた。しかしタレーランは涼しい顔のままだった。それきり、ナポレオンは踵を返すと、靴音を響かせて会議室を出ていった。誰もが呆然と、ナポレオンが出ていくのを見送った。やがて、異様な時が過ぎ去ったのを知ると、何人かがナポレオンを追いかけて部屋を出ていった。
 タレーランは必要とあれば自尊心を捨て去ったように行動できるが、同時に、誰よりも気位の高い男だ。あれほどの罵倒を受けて、平気でいられるはずがない。誰よりも平然としたふりがうまいだけだ。タレーランは一度瞳を閉じ、怒りを抑えようとした。しかし、それだけでは収まらず、罵倒は喉にまでせり上がってきた。しかし、タレーランは罵声を飲み込み、代わりに一言だけ愚痴をこぼした。
「やれやれ、あれほど偉大なお方が、育ちが悪いというのは残念なことだ」
 それは全く、この場にいた誰もが思った本音だった。あれが皇帝の振舞いとは! タレーランがこぼした言葉に、それを聞いた者は、タレーランにどこか底知れぬ巨大さのようなものを見たのだった。あのように乱暴に暴言を吐かれたあとで、まるで劇の感想を言うかのような軽口だ。神の怒りのごとく暴威を見せていたナポレオンよりも、タレーランの方が大人物に見えたのだ。
 一方で、ナポレオンの罵声も、タレーランのエスプリも聞き流し、フーシェはうとうとと居眠りをしていた。フーシェの見せた態度もある種の怪物然としていた。


「どこへ行っても、タレーラン、タレーラン、タレーランだ。あんたの名前は奴ほどには聞かない。あんたがナンバー2に成り上がったのにな」
 タレーランがひどく嘲罵されたことは、民衆の間にも広く知れ渡った。世間はこれでタレーランも終わりだと酒場やカフェで語り合った。正邪やフーシェならずとも、その程度のことは分かっただろう。
 タレーランは失脚したが、その処分は侍従長の解任と極めて小さかった。不満を抱かせて国外へ逃げられれば厄介なことになる。それよりは、自由と権益を許しておき、不満を抱かせないような処分に留めたのだ。結局のところタレーランを手放せなかったとも言える。
「タレーランのやつ、その日の夜にはサロンで賭け事をして遊んでいたそうだぜ」
「どちらも腹の探り合いだ」
 タレーランの態度は、叱られたことなど忘れたようだった。しかし、タレーランの屈折したプライドは常人を以て理解し難いものがある。普段から飄々と振る舞っているが、静かなる怒りを内部に溜め込んでいるとは誰も想像しなかった。
「ナポレオンにとっては他人にバカにされるのに慣れている。子供の時から、コルシカ訛りで散々バカにされてきた。しかし、タレーランは慣れてない。ナポレオン自身はすぐに忘れることだろうが、タレーランは人前であれほどに罵倒されたことを生涯忘れないだろうな」
「腹の読み合いなら、あんたも同じだろ」
 フーシェはナポレオンに先んじた。その後、ちょっとした小言は貰ったが、表向き処分されることはなかった。同じ罪であるはずなのに、とフーシェを憎く思っている王党派の者などは不審に思った。
 この件で積極的に動いたのはタレーランだ。一方でフーシェの関わりは薄い。そして、閑職にあるタレーランと違って、警察組織が機能停止すればたちまち危険が及ぶこともあった。ナポレオンの窮状を表しているようなものだ。しかし、人々はそのようには見なかった。
「フーシェは大したもんだと言ってるやつもいる。ナポレオンにも口出しさせない権力がるのかと。一方で、逆を言ってる奴もいる。小物だから放っておかれたんだ。タレーランほど影響力を持っていない証拠だ。サン・クルーと同じ手をやらかしたんだろう、とね」
「すぐに忘れるさ。どちらも」
「あんたは控えめだ。遊びもしないし、人好みが激しいわけでもない。誰に対しても親切だし、悪党然としてない。タレーランと真逆だ。あんたにはたしかに悪名がある。風見鶏だの霰弾乱殺者だの。だが、革命の時はみんなイカれてたし、クーデターのたび誰もが誰もを裏切る。あんたの行いなんて些細なことだ。世の中は激動してるし、みんな、あんたのことなんて忘れている。嵐の中、無風地帯があることの方がイカれているってのにな」
 フーシェの権力は隠然としていて、表に出なかった。フーシェの言う通り、皆、すぐに忘れ去ってしまうだろう。ナポレオンの巨大さは、あらゆるものを覆い隠してしまう。しかし、薄くなり、隠れてはいるものの、フランスには人がいるのだ。ナポレオンが今いなくなれば、タレーランもいない今、人々はフーシェを頼ることだろう。
 自分のことを話されるのは退屈だ。フーシェは話題を変えた。
「お前は、タレーラン夫人付きのメイドに化けていただろう。しばらくこっちにいるが、向こうには顔を出さなくていいのかな」
「バカなことを。タレーランは終わりだ。終わったやつのところを眺めて何になる? ナポレオンに叱られているときのタレーランは見ものだったが、もうあいつは終わりだ。今熱いのはジョゼフィーヌだ。あの女、今にナポレオンに捨てられる。その話をされるたび気絶して見せているが、時間の問題だな」
「タレーランが終わりだというのは間違いだ。ナポレオンが離縁を考えているからこそ、タレーランを見張っておくべきだ。皇帝が結婚するとなれば、相応の相手が必要だ。誰がその花嫁を用意できる?」

 ナポレオンは自分の継嗣問題に頭を悩ませていたが、本腰を入れてその問題に取り掛かったようだった。ジョゼフィーヌとの離婚の用意もその一つだ。皇帝が離婚するとなれば色々と問題があるが、しかしナポレオン夫妻の結婚は革命方式で結ばれたもので、神に誓うのではなく、市民同士の結びつきとして誓うものだった。そのことがジョゼフィーヌにとっては不幸になった。
 ナポレオンは、なんとしても自分の息子に事業を引き継がせたかった。ナポレオン・ボナパルトの成果がその死と同時に消え去るのは忍びない。永遠にナポレオン王朝を残したかった。ポーランドでは一目惚れをしたマリア・ヴァレフスカを身ごもらせることができた。問題があるのは、ナポレオンではなく、ジョゼフィーヌの方だ。確かに彼女は子供を二人作ってはいるが、それは前夫との間、彼女が二十代の頃の話だ。美しさに変わりはなかったが、彼女はいささか歳を召している。ミュラのごときいい加減な男を跡継ぎにするなど、耐えられることじゃない。ナポレオンにとっては、正当な跡継ぎが必要だった。
 ジョゼフィーヌが不遇を囲っていることは、フーシェも分かっていた。何しろナポレオンに離婚を勧めたのはフーシェなのだ。ナポレオンが離縁したがっているのは明らかで、誰かがそれを言い出してくれるのを待っていたから、フーシェの進言を素直に喜んだ。一方で、フーシェはナポレオンの再婚相手も漁ってみたが、フーシェのコネクションではろくな女性を見つけることはできなかった。元が女漁りというものに向いていないのもある。ナポレオンはロシアやオーストリアの王族を望んだが、とてもではないが向こうが喜ぶはずはない。フーシェに用意できたのは、名前も聞いたこともないような小国の貴族の娘との縁談くらいだった。それでナポレオンが納得するわけがない。フーシェにとっては、その方向で点数を稼ぐことはできないようだった。
「正邪、ジョゼフィーヌのこともいいが、タレーランの屋敷に戻った方がいい。しばらく奴の様子を眺めるのも悪くないぞ」
「ふぅん。あんたが言うのなら、理由があるんだろう。案外、早く復活すると思っているのか」
「平和になり、オーストリアやロシアとの関係が突然良好になるならば、タレーランは終わりだ」
 正邪はくっくっと笑った。そのような事態には、絶対になりそうにない。
「ならば、再び、タレーラン夫人付きのメイドに戻るとするかね。スペインもオーストリアも火薬庫だ。今に爆発しそうな頃合いだものな。戦争をおっぱじめる時には外交官なんていらないが、終戦協定には必ず必要だ」
「そういうことだ。私としては、タレーラン以外の外交官が有能ならば言うことはないんだが」
 タレーランは厄介だ。それに輪をかけて、ナポレオンというのは実に厄介だ。ときに、考えるのをやめて、何もかも放り出してしまいたくなる。この私、フーシェは何のために、治安を維持し、情報を聞いて回り、ナポレオンの身辺を慎重に守ってやらなくてはならないのだろう。タレーランもきっと同じことを考えている。一体何が楽しくて、あの暴君の言いなりになり、双方の不満を取りまとめて和議を説かなくてはならないのか。どうしてワガママに振り回されていなければならないのか。いつまでも無駄な戦争を続けるつもりなのか。
 ナポレオンが戦乱を振りまき続ける限り、必ずその後をついて後始末をする外交官は必ず要る。そして、ヨーロッパの気脈に通じ、ヨーロッパ中に友人のいるタレーラン以上の外交家はいない。外交官も、いかに仕事に愛を持っていようと、仕事でやっている。国に帰り、家を保つためにやっている。
 しかし、タレーランにはそれがない。結婚こそしているが、愛などない。気のいい女たちがいくらでもいるし、遊ぶには一人に絞らない方がいい。結婚したのは単に、この当時のフランスでは結婚していないと一人前の男とは見なされなかったからだ。タレーランはナポレオンによってベネヴェント公爵の位を与えられており、そのためには結婚していないと示しがつかなかった。
 タレーランもフーシェと同じだ。フーシェは陰謀のために生きているが、タレーランはヨーロッパを思うがままにするのが、生きている上での楽しみなのだ。口先三寸で他人を操り、自分の思う方向へ舵をとらせる。ナポレオンの力を背景に入れた企みとは言え、自分の交渉で歴史的事業を行っているとなれば、それで快感と、金と、楽しい交流が行われる。タレーランは生まれつきの人間好きだ。そうでなければ、不幸な生い立ちの末、ああも明るくはやっていられまい。生まれつきの気質に加え、貴族育ちの精練されたマナーと、長年人間と交わってきた他人を楽しませる会話術。そして、他人の思考を読み、正しく先行きを見て取る直感がある。天性の外交官、彼以上の外交官はいないだろう。
 ナポレオンがいなければどうなっていたことだろう。と、フーシェは考える。凡庸だが穏やかな指導者を抱え、フーシェは粛々と仕事をする。君主がナポレオンほど乱暴でなければ暗殺やテロを企む連中もおらず、よほど暇で気楽な日々を送れることだろう。タレーランはと言えば、君主がナポレオンほど聞き分けがないわけではないならば、彼の進言を受け取り、そのとおりに切り回すだろう。しかし、それではタレーランの才能はさほど大して発揮されなかっただろう。タレーランはナポレオンの側にいてこそ大外交家として名前を残された。ナポレオンがこれ以上ないほど関係を悪化させた状態から利害を調整して和平を結ぶのだから、それだけの力量が示される。タレーランはナポレオンの尻を拭いて回るのにうんざりしていることだろうが、同時に楽しく思っているはずだ。
 そして、それはフーシェも同じなのだ。ナポレオンではない指導者に仕えれば、もっと平和で、家族とも暮らす時間があったことだろう。しかし、大いなる陰謀は手の中にはなかった。せいぜいが僧坊の長を誰にするか程度の小さな陰謀に関わる程度で終わっていた。苦労はよほど小さいが、今よりよほどつまらなかったことだろう。
 考え事をしているうちに、正邪は部屋を抜け出してしまっていた。陰謀。革命以来、生き残りに必死になっているうち、手の中には陰謀しか残らなかった。歴史に記されるべき名前もなく、ただパリの闇の中に潜む隠密どもの主、密謀の黒幕として、他人の足を引っ張ることに終始して終わる。ジョゼフ・フーシェとは、そういうものなのだろう。せめて、家族だけは安楽に過ごせることだけは願ってやまないが。その点においてだけは、あのナポレオンより人間として上等だ。やつの家族は、ろくな最期を辿るまい。


 ナポレオンはスペインでも常勝であった。一年もそこにいれば、イギリス軍をイベリア半島から追い払うことに成功しただろう。しかし、パリでの陰謀により、ナポレオンはパリへ呼び戻された。スペイン及びイギリスの軍隊を数度叩くことには成功したから、フランス軍と有能な元帥がいれば、統治は可能だと考えた。スペインの民衆のことは忘れていた。結果として、スペインの統治には失敗し、戦争は長引いた。スーシェ元帥が後に統治で見事な手腕を発揮したが、それ以外の軍人にやる気はなく、成果は上がらなかった。
 結果として、フランスで大陸軍が敗北したとのニュースを打ち消す成果は得られなかった。全ヨーロッパで打倒フランスの気炎は高まった。フランスは疲弊している。長く続く戦争により兵は減り、スペインでの戦争は継続中で軍の大半を割かれている。第五次対仏同盟は、このような情勢下で結ばれた。主戦国となったのは、アウステルリッツの復讐を誓うオーストリアと、大陸封鎖令により対フランス感情が高まっているイギリスだ。
 ナポレオンはその対処に追われ、タレーランやフーシェに関わっている暇はなくなった。兵の緊急徴募が行われ、フランスから男手が消えていった。農村では息子や父が取られる女たちの嘆きに満ち、ナポレオンがいかに神の如き軍才があるとは言え、陰で不満は高まった。平和、民衆が何よりも欲していたのは平和だった。しかしナポレオンの論理からすれば戦争を持ちかけられているのだから文句は同盟軍に言うべきで、ナポレオンに言うのは筋違いだ。しかし、ナポレオンの振る舞いが戦争を呼び込んでいるのは明らかだった。
 第五次対仏同盟において、機先を制したのはオーストリアだった。宣戦布告の前に、タレーランよりオーストリアに情報提供があったとも言われている。ナポレオンを戦場で亡き者にするためか、あるいは、フランスが敗北した末にナポレオンが追放というプランを組み、ヨーロッパに平和を取り戻すためか。ともあれこの頃にはタレーランは露骨にヨーロッパの側につき、ナポレオンの敗北を望んでいた。
 ナポレオンがまだパリにいるうちに、オーストリア軍はフランス軍に襲いかかった。またフランス軍のおおまかな位置も知っていた。攻撃を受けて、ナポレオンのいないフランス軍では混乱が起きた。だがナポレオンが到着すると見事な反撃を行い、戦いの序盤での小競り合いに勝利した。オーストリア軍の本隊は被害が増える前に北へ逃れた。ナポレオンはドナウ川を渡り、北へ逃げた本隊を追撃するか、南のウィーンを占領するかで迷ったが、イタリアでも別働隊の動きがあることもあり、ウィーンを占領することにした。この時北へ向かっていれば、苦もなくドナウ川を越えることができた。
 ウィーンを占領した後、ナポレオンはドナウ川の渡河作戦を考案した。フランス軍の大部隊を短時間に渡せる場所は、中洲のロバウ島を経由する地点を置いて他になく、ナポレオンは斥候を出してオーストリア軍の位置を探ったが発見できなかったため、この地において渡河作戦を決行した。しかし、カール大公率いる本隊はこの地に結集していた。カール大公はここアスペルン村及びエスリンク村の戦いにおいて、ナポレオンに勝利するのである。
 カール大公はナポレオンの半渡に乗じて攻撃に出た。二日に渡る戦闘の後、フランス軍を撤退させた。ナポレオンは生涯に三度の大敗を喫するが、その一度目のこととなった。スペインでは大陸軍を率いる一将軍が降伏したに過ぎず、ナポレオンが直接指揮の上敗北したというニュースはヨーロッパにとって衝撃度が違った。
 しかし、ナポレオンは敗北した時こそしぶとかった。オーストリア軍は勝利したとは言えど、ドナウ川に阻まれ、追撃はできなかった。強引に渡河を行えば、フランス軍と同じ轍を踏むことになる。
 ナポレオンは敗北した軍の再編成を行い、各地に散っていた軍団を結集させ、再び渡河作戦を行った。アスペルン・エスリンクの一月後のことである。先の反省を活かし、一気に渡河を完了させた。同じ作戦を、しかも不利な渡河……例え川を渡ることに成功しても、背水の陣で戦うことになる……を繰り返すことは、普通ならばするまい。しかしナポレオンはあえてそれを行い、ヴァグラムの地においてオーストリアに勝利してみせた。この勝利がなければ、諸国民の戦いたるライプツィヒの戦いを待つことなく、ナポレオン帝国はここで終わっていただろう。同じ作戦を行い、勝利することこそ、先のアスペルン・エスリンクの敗北を雪ぐのに最適な作戦はなかった。
 ナポレオンはリベンジを果たして満足したが、そこへ一報が入った。ベルギー領土のワルヘレン島へイギリス軍が上陸したというのだ。対岸にある市街を占領し、アントワープへ進出する気配を見せた。アントワープはベルギーの最西に位置する都市で、フランスと国境を隔てている。この時点での狙いは二つあると読めた。一つはドイツ方面にいるフランス軍本隊をオーストリアとともに挟撃するか、もしくは南へ進軍し、軍のいないパリへ進軍するかだ。現状フランス軍はスペイン、オーストリア方面へ割かれている。しかもオーストリア方面軍は半分が新徴兵といった状況なのだ。フランス本土にまともな軍が残っているはずがない。
 しかも、ナポレオンがオーストリアを離れフランスへ戻ることもならなかった。ナポレオンがいないと知れれば、追い散らしたオーストリア軍が再結集して反撃を行うおそれがある。そうなれば、ヴァグラムの勝利も水の泡だ。ナポレオンとしては残った戦力を叩き潰すか、和平条約を結ぶ。それを済ませてからしか帰れない。オーストリアも、それが分かっていて、交渉のテーブルには乗らず、ナポレオンをオーストリアに縛り付けることに徹した。卓越した外交官たるタレーランもいない。パリが落とされでもしたら、もはやナポレオンの居場所はない。
 ナポレオンにできることは、第五次対仏同盟を戦後にするための処理を急ぐことだけだった。しかし、幸いなるかな、パリから戦勝報告が届いた。しかし、その内容を見て、ナポレオンは苦い顔をした。


 イギリス軍がワルヘレン島へと上陸、パリを目標としている可能性があると知った政府の慌てぶりは、フーシェにとっては見ていて楽しいほどであった。政府では緊急会議が開かれたが、ろくな意見は出なかった。兵の緊急徴募をの声もあったが、皇帝陛下の指示を仰いでからとの結論に達しかけていた。イギリス軍がのんびり来てくれるならばそれでいいだろうが、ナポレオンからの返事が来るより先に、イギリス軍は殺到してくる。
 ここには馬鹿どもしかいないな、とフーシェは考えた。カンバセレスなど、人物はいることにはいるのだ。しかし大半は政治家としての能力を買われてここにおり、軍事な能力を持っているわけではない。イギリス軍がどれほどで到着するか、規模はどの程度かなどを理解することはできない。陸軍大臣、海軍大臣は能力よりもナポレオンへの忠誠で選ばれている。それに、ナポレオンに飼いならされて、指示されることに慣れている者たちばかりだ。反ナポレオンの立場を取るタレーランが政府に残っていたならば、なんとしても時間を稼ぐ方向で結論を取りまとめたことだろう。
 フーシェはどのようにするべきか? パリをイギリス軍の手に委ねるべきか。それはどうにも悪い……イギリス軍はナポレオンについた者たちを排除し、イギリスに亡命しているブルボン王家の係累を引っ張り出してくることだろう。どうにも、ナポレオンは良い君主ではないが、王家が出てくるよりはマシだ。フーシェは口を開いた。彼が言葉を述べ始めると、場は静まった。タレーランがいない今、フーシェは紛れなく重鎮だった。
「海軍大臣でしたか。徴兵するべきだと意見をしたのは。私は、その案を実行するべきだと考えますが。陸軍大臣が中心となって」
 この状況で行動すべきなのは、陸軍大臣か海軍大臣だ。もっとも、フランス海軍の力では海上からイギリス軍の艦艇を攻撃することはできない。だから海軍大臣は言い訳のように徴兵を持ち出したのだろう。陸軍大臣はそれを実行すべきだった。臨時の軍団を作り、陸軍で叩くしかない。もっとも、時間稼ぎでいい。ナポレオンがうまくいっていれば軍を連れて帰ってくるだろうし、ナポレオンがオーストリアで負けていれば何もかも終わりだ。勝ち負けを気にしても仕方ない。
「しかし、それでは独断専行になる。徴兵権は皇帝陛下の権限だ。それを侵すことはできない。私はなんとしても、皇帝の返事を待たなければと思う」
 しかし、強硬に反対を述べるのは当の陸軍大臣だった。保身の面から言えばそれは当然の反応だ。実行するのも、失敗の際責任を負うのも陸軍大臣だ。陸軍大臣は微弱な徴募兵を率いてイギリス軍に勝つ自信がなかった。仮に成功したとて、勝手をしたことを責められるかもしれない。近頃、罵倒されたタレーランの例を見たばかりなのだ。軍事の専門家である陸軍大臣がそういうのなら、と彼を押しのけてまで徴兵に乗り出そうとする者はいなかった。
「では、仕方がない。ことは急ぎます。私の名前で、緊急の徴兵を行います」
 フーシェがあっさりとそのように言うと、陸軍大臣は立ち上がって反発した。
「バカな。一体何の権限で」
「そのような物言いは平時になさればよろしい。また、越権行為を問い質すような言葉こそ、皇帝陛下にしか許されていないと思いますが」
 陸軍大臣は自らの責務を果たさず逃げようとしているだけに、言葉を失った。フーシェは続けた。
「陸軍大臣が行うべき職務ですが、果たされないというのなら仕方がない。イギリス兵がパリへ入り込む前にせねばなりません。拙速でも、にわか作りでもよい。軍隊を仕立てねばならない。あなたがやらないと言うなら私が行うまでです」
 居並ぶ大臣たちは何かを言いたげであった。あからさまな越権行為であることは間違いない。しかし、反対して、イギリス兵が来たならば、その責任を追求されるのも怖い。失敗するのも怖い仕事だ、警察大臣がやるというのならやらせておけばよい。失敗も成功も責任を全て背負い込めばいいのだ。陸軍大臣のみが、どちらへ行こうとも具合が良くないのを察して、汗を垂らして考え込んでいた。
「軍は兵だけでは扱えるものではない。指揮官も決めねばならないのだぞ。指揮官を勝手に任命することは兵を集めることよりも悪質だぞ」
 陸軍大臣は抗弁した。その問いにも、フーシェは答えを用意していたため、あっさりと答えた。
「市内にはちょうど、ベルナドット元帥が休暇でおられます。高位の軍人を差し置いて別のものを指名すれば問題も起きましょうが、元帥となれば文句は出ないでしょう」
 ベルナドットがナポレオンに嫌われていることは周知のことだった。こと、ヴァグラムの戦いでは失敗を犯して休暇を与えられ、パリに戻されたばかりなのだ。そのベルナドットに兵を与えるとは! しかし、位の面で言えば、現在のパリに、彼以上の高位の者がいないのも確かだ。ベルナドットは裁判にかけられたわけでもない。陸軍大臣は重ねて何かを言おうとしたが、フーシェは聞き入れなかった。
「皇帝陛下の返事を待つならば好きにしなさい。私は独自の判断で動きます。時間が惜しいので、これで」
 フーシェはあっさりと結論をまとめてしまった。もちろん、ナポレオンの元には大量の報告が届くことだろう。フーシェが兵を集めている。クーデターの疑いもある、と。ナポレオンは、勝って戻りさえすればクーデターなどはものの数ではないと考えるだろう。それよりはパリを侵される不名誉を怒るはずだ。怒られるのは、密告して出た陸軍大臣や、他の大臣たちだ。馬鹿者たちめ。
 扉を開けて会議室を後にした時、フーシェは手に最高権力を握っていた。そのことには誰も気が付かなかった。やがて気づいた時にはもう手遅れだった。

 気づけば、フーシェの手には最高権力があった。しかしひとまずは、まっとうな目的のために使わなくてはならない。いつも闇の中に隠れていたが、今度は珍しく表の仕事だった。臨時の徴兵を行う。長引く戦争で若者は減っているから、退役軍人を軍へ呼び戻し、臨時徴募の未訓練兵と合わせて、中核とする……それらの命令書が各地区へと送られ、遅滞なく実施されているかどうか、陰に陽に調査する……徴兵逃れなどは横行していたが、仮に陸軍大臣がそれを執行するよりも確実に徴兵は実施された。どうにかイギリス兵が来る前に軍隊を仕上げ、指揮を任されたベルナドット元帥によって率いられ、彼らは東へ向かった。
「ナポレオンから陸軍大臣への返書だ。読むか?」
 正邪がソファに寝転がって、手紙を読んでいる。フーシェは手を振って答えた。普段の仕事に軍の仕事も加わり、業務が増えている。
「『自分の職務を何だと考えているのか。警察大臣に臨時の徴兵権を与える、貴君らは私が帰還するまで彼に従うように』だと。あんたの勝ちだな」
 実務の勝利だ、と考えた。すべきことを行うだけでいい。それができないのは、ナポレオンのシステムの失敗だ。部下から自由意志を奪った結果、ナポレオンがいないと何もできなくなってしまった。また、かつてはナポレオンの部下は何も持っていなかったために、がむしゃらに働くしかなかった。しかし今や権力や財産、地位を持ち、失うことを恐れ、保身に回るようになった。与えることによって味方を増やしたが、そのために働きが鈍ったのだ。
「私も彼も、勝利などないのかもしれない。生きている限り、敗北の恐怖に怯え続けるんだ」
「あんたは勝利したよ。ナポレオンなど必要ないと、国内にも示したようなものじゃないか」
「お前は知らないだろうが、陸軍大臣の手紙にはこうも書かれていた。『フーシェは陰謀を企んでいます。兵を集めたのはクーデターのためです。どうか奴を処罰してください』ナポレオンの返事には、そのことには触れられていない。ナポレオン自身も疑っているということだ。その気になれば放り出される」
 ふんと鼻を鳴らし、正邪は読んでいた手紙を放り出した。
「そんなことは分かりきったことじゃないか。ナポレオンがあんたを嫌ってる、疑ってるのなんざいつもだ。あんたがナポレオンと仲良くなったのはブリュメールのクーデターの直前で、仲が良かったのはクーデターが終わるまでだ。それ以来仲が良かったことなんて一度もない」
「その通り。しかし、ナポレオンをどうにかしたところで、それで終わりじゃない。次は王党派と戦わなければならないのが目に見えている」
 ナポレオンにしても同じことだろう。ロシア、オーストリア、プロシアを倒したとする。最大の敵はイギリスだが、イギリスを倒したところで、ナポレオンを……ナポレオン帝国を打倒しようとする勢力は現れるだろう。ナポレオンにも、フーシェにも、安寧などは永遠に与えられないものだ。ナポレオンが弾丸に、砲弾に身を晒し続けたのは、自分には弾が当たらないと信じていたからではない。戦場で死ぬ自分を肯定していたためだ。しかしその機会はなかなか与えられない。ために政府では虫の好かぬ連中を相手にし、国内の民衆をなだめつつ恩恵を与え、戦場では兵士と同じように雨に打たれ、時には馬を捨て徒歩で進むこともあり、食事は最低限のものだ。皇帝となってもそのような生活だ。いったい何のために?
「私も五十を超えた。もう六十も近い。いい年をして、何のためにナポレオンといがみ合っているのだろうという気がする」
「ならば、何もかも捨てて、田舎に引っ込むか? あんたの握っている秘密の文書は誰もが欲しがるだろう。ナポレオンは特にな」
 絶対に他人には見られたくないだろうナポレオンの手紙をいくつか、フーシェは秘蔵している。また、フーシェの機関は新たに誰かの秘密を探り続けている。機関を解散し、手紙を捨ててしまえば、どんなに楽なことだろうか。これを失ってしまえば、取り返しはつかない。しかし、それだけではない何かが押し留めている。
「それで、ナポレオンやら、他の誰かを相手にした遊びもできなくなる。しかし、文書を捨て田舎に引っ込んだところで、ナポレオンや政敵が逃してくれると思うかね」
 答えはノンだ。引っ込んだところで心労が取れるわけではなく、むしろ虜囚に似た不安に苛まれるだろう。ナポレオンは疑い続け、やがて逮捕に動くかも知れない。一方で、ナポレオンが倒れブルボン家が復活すれば、逮捕よりひどいことになる。
「そうだ。ギロチンより良い結末を迎えるために、権力は握っていなければならない」
「ブルボン家の連中はギロチンなど使わないと思うがね」
「もっとも、安心するにはまだ早い。ベルナドットがうまくやってくれるかもまだ分からないんだ」
 策謀を巡らせるにしろ、イギリス軍がパリまで進軍してくるならばそれまでだ。陰謀を企むと同時に、逃げられるように手を打っておかなくてはならない。なんと、不確かな道しかないことか。やはり僧坊に留まって保守的に生き延びる道を画策するべきだったか。まあ、ベルナドットはナポレオンに嫌われてはいるが有能だ。ナポレオンが帰ってくるまで足止めするくらいのことはするだろう。


 ベルナドット元帥と言えば、ナポレオンの部下の元帥たちの中でも、知名度の高い一人である。彼は共和派の重鎮であり、フランスの指導者となる資格を持った者として期待されていた。その座はナポレオンが素早くかっさらったために得られなかったが、バラスの政府が続き、その権力が緩やかに衰退していれば、彼がフランスの指導者となり得た未来もあったことだろう。また、ベルナドットの妻のデジレ・クラリーはナポレオンの元婚約者でもあった。ベルナドットが描かれる時、能力や人となりではなく、権力争い、また女たちを軸としたロマンス物語の登場人物として描かれることが多い。
 軍人として有能であったかは定かではない。イエナ・アウエルシュタットの戦いや、ヴァグラムの戦いでは失敗してナポレオンに叱責された。しかし戦場とは不確かな現場であり、ナポレオンに嫌われていたために、小さなミスを指摘されたとも言われている。特にイエナ・アウエルシュタットではナポレオンがプロシアの動きを読み違えたために、ダヴー元帥は三万の兵で六万のプロシア軍と戦う羽目になった。勝利したからいいものの、危うくすれば主力を逃がすところだった。その自分の失敗を誤魔化すため、ダヴー元帥の救援に向かわなかったベルナドットを過剰に叱責したとも言われている。
 ベルナドットが優柔不断だったのは間違いないようだ。言い方を変え、思慮深いという言い方をすれば美徳でもあった。部下の将官や兵に対しての扱いがうまく、また捕虜となった敵兵、敵高官の扱いにも長けていた。いたずらに厳しくは接せず、可能な限り便宜を図った。第四次対仏同盟の際、プロシアの敗北を知らずに応援に駆けつけたスウェーデンの部隊と指揮官を捕らえたが、食事を用意して歓待し、捕虜にもせず帰国させてやった。捕虜に取ったところで戦勝の名誉にはならず、ナポレオンが喜ぶだけだ。スウェーデンの高官はこのことを喜び、また歓待にも満足したようだった。このことからベルナドットはスウェーデンとの個人的な繋がりを持っていた。国家を超えて、個人で他国との繋がりを作ろうとするところは、彼の政治人としての見識を思わせる。
 ベルナドットは革命以前から戦場にいた、軍隊生活の長い軍人ではあるが、荒っぽい性格ではなかった。部下の将官、また兵士にも気に入られていた。また政治にも長けていて、陸軍大臣を一事務めたこともあった。どうやら、人に気に入られる何かを持った人物であった。
 このたびのイギリス軍迎撃においてだが、ベルナドットの腕前を発揮することはなかった。戦闘以前の問題で、そもそも、イギリス軍は一度も弾を打つことなく撤退してしまったのだ。上陸したイギリス軍に疫病が発生したから、というのが理由だったが、時勢を見るに長けたイギリスのことであるから、疫病が本当の理由ではないかもしれない。オーストリアでの雲行きをフランスに先駆けて知り、兵の損失を避けたのかもしれなかった。ともあれイギリスは撤退し、ベルナドットには敗北と栄光のどちらも失われた。それはナポレオンにとってありがたいことだっただろう。本土防衛に加えて敵軍撃破の栄光があれば、ベルナドットを担ぐ声は大きくなる。
 ともあれ、本土防衛というベルナドットの任務は成功した。フランス本土ががら空きだという事実を前提にイギリス軍の侵攻計画は成り立っていたのだ。オーストリアとの挟み撃ちにも失敗し、イギリス軍が再上陸を企む可能性は低くなった。イギリス軍の戦略は崩れたのだ。ベルナドットはこの任務を与えてくれたフーシェに感謝していた。
 ベルナドットとフーシェは共和派、言い方を変えればジャコバン党として同じ派閥に属している。それだけに以前から関わりはあったものの、特別親しい仲ではなかった。だが、この指揮官着任はジャコバン党の縁のためだと思った。
 ベルナドットはヴァグラムの戦いにおいて失態を犯した。そのためにパリへ戻されていたが、この後のナポレオンの判断如何では罪に問われることもありえた。しかし成果は出した。ナポレオンから出た命令ではないとは言え、フーシェが命令し、ナポレオンが追認したとなれば許されたも同じだ。ベルナドットは危ないところを抜け出したのだ。

 ベルナドットは奇妙なことに、権力の座に近づきながら、自らそれを得ようとはしなかった。ブリュメールのクーデターの際、彼は共和派の期待に背き、身動き一つしなかった。またナポレオンのライバルと周囲が見ていても、彼はナポレオンと事は荒立てなかった。このようなことがあったために、彼は優柔不断と称されている。彼らの間柄は、互いに嫌っていたというよりも、ナポレオンが一方的に疑い、共和派の重鎮という立場を危険視していたようにも見える。ベルナドットからナポレオンへの意思は不透明だ。ベルナドットは彼を嫌ってもいなかったが、彼が上から物を言うのは嫌で、自分の意見を通していただけにも思える。
 ベルナドットには時節を見る目があり、軽挙妄動を避け、無闇に動かなかっただけかもしれない。ナポレオンにも逆らわず、事も荒立てず……しかし実際は、単に気のいいだけの男のような部分もある。タレーランやフーシェのように、心のうちで馬鹿にしながら付き合っていたようには見えない。ベルナドットはナポレオンと対立したというより、自分の意見を持ち、他の軍人のように、ナポレオン万歳というふうに流れていかなかったように見える。その知性の光が、他の軍人たちとの違いであり、彼に期待した者がいたということであろう。
 彼は誰にでも優しく、そのために見込まれた。地位も得て、そのために期待されたが、彼は他人にそそのかされて悪戯に権力を求めることはなかった。フーシェに軍を与えられた時、それを受けたのは単に頼まれたから素直に受けたのだ。パリには人はおらず、ベルナドット自身がやるほかないと思ったのかも知れない。ともあれ、戦場に向かうことを拒否すれば、誇りを何より大切にするフランス人の名が廃る。ナポレオンに阿るような人物であれば、このようなことはするまい。後にスウェーデン王家に誘われて王太子となった時も同じだ。彼は王太子になるよう誘われると、フランスへの愛国心もあっただろうに、請われるままにそれに応えた。
 スウェーデンのことは置いておくとして、フーシェが兵を集め、ベルナドットに与えたという事実は、少なからずナポレオンの不興を買った。フーシェとベルナドット、元ジャコバンの仲間、共和派の二人が組んでいる。ベルナドットを立てて、クーデターを企んでいるのではないか。むろんフーシェがナポレオン派の軍人を避けた理由は予想できる。ナポレオン派の軍人ならばフーシェに与するような行動は避けるし、ナポレオンが独断専行を嫌うのも知っている。だから国を守るためにベルナドットを指名したのは筋が通っている。
 しかし、彼に部隊を率いることを避けたく思って、理由をつけてパリへ追い返したところだったのだ。彼に部隊を任せたのは許せなかった。ベルナドットをフランスから永遠に追い出したい気分だった。もちろん、フーシェも、できることならば。しかしひとまず、ベルナドットは北へ向かっており、イギリス軍と正対する姿勢を取っている。その動きは祖国防衛のためであり、怪しげなところは見えない。しかしフーシェとベルナドット、二人の名前がついていれば、ナポレオンにはクーデターの影が見える。ナポレオンは西の方向を憎々しげに見つめたのだった。


 ナポレオンはオーストリアに勝利し、イギリスは撤退した。ベルナドットは防衛成功に喜び、またナポレオンも本土を侵される悪評から避けられた。本土を侵略されれば、またも気運はヨーロッパに広がることだったろう。一人、焦ったのはフーシェだった。このままでは戦争は終わり、ナポレオンは帰ってくる。軍権を返さなければならない。
「どうして焦る必要があるんだ。本来、焦る必要のないことだぞ。部隊を解散し、指揮権を返上しろ」
 正邪はフーシェに囁きかけた。悪魔的な囁きだ。もちろん、手放すべきだ。握っていても得は何もない。元より、イギリス軍上陸によって得られた唐突な、不当な権力なのだ。平時に戻った今、フーシェが握っていてはいけない権力なのだ。ここで間違ってはいけない。防衛は必要な措置だった。それを行ったからこそ、政府の者たちを騙せたのだ。するべきようにすればこそ、国内の者たちは満足する。ナポレオンも疑惑を払拭する。
 いや、するだろうか。ナポレオンはどこまでも疑うだろう。彼は永遠に、フーシェへの疑いを晴らすことはない。それは運命づけられた事柄なのだ。フーシェが穏健派から急進派へ鞍替えし、一瞬のうちに態度を翻し、国王処刑に票を入れた瞬間から、裏切り者という烙印は、フーシェに押し付けられた属性なのだ。ロベスピエールめ。やつが実名投票を提案しなければ、全て闇から闇へ隠れて物事を進められたことだろうに。しかしフーシェと同じ考えの悪しき者たちにフランスの手綱は任せられない。
 日和見の者たち、裏切り者たちはフランスに満ちている。ナポレオンは抑えつけるために成功を必要とし、軍勢を率いてヨーロッパの制圧を続けている。彼が死ねば、という声は少しずつ増えている。その声がやがて多数派になるまで、ナポレオンに対応できる者として権力は握り続けていなければならない。
 軍を手放したくなかった。もしも、ナポレオンに何かあって死んだならば。今この瞬間にもナポレオンが暗殺者の刃にかかっているとも限らない。一時間後に手紙が届き、ナポレオンは死んだ、次はお前がフランスの主だと告げるかもしれないのだ。
 ナポレオンの死、その瞬間に権力を握っている自分がその代わりの席に座り、自分が独裁を続けなくとも、自分の好む後継者を選び、同じ権力の席に戻ることができる。権力を手放し、別の誰か、ナポレオンの家族や、タレーランのごとき者が権力を握れば、フーシェなどは追い出されることだろう。タレーランはブルボン王家の者を連れてくるかもしれない。それがフランスの安定だとして。ナポレオンの家族など論外だ。彼らは頭が悪いし、ジョゼフィーヌと親しかったフーシェを嫌っている。今権力を手放さなくてよい。ぎりぎり、ぎりぎりまで、ナポレオンが帰ってきて癇癪を破裂させるまでは、握っている。その権を他人に手渡したりはしない。握っている限りは、自分のものなのだ。それに今のところは成功している。今後も成功し続けなければならない。軍を解散して、イギリス軍が再上陸を企めばどうなる?
「軍は解散しない。イギリス軍の動きについて警戒を続ける。少なくとも、ナポレオンが帰ってくるまで、本土の安全を維持する」
「新たな危機があればどうする。イギリス軍がその規模を増しているとすれば」
「その危険があるなら、徴兵の規模を増やさなくてはならない。イギリス軍に対処する必要がある」
 権力を手放してなるものか。なぜ、ナポレオンといがみ合うのをやめようと思ったのだろう。ナポレオンは戦場にいる。いつ死ぬかも分からない……奴が死んだその時に、権力を握っていなければ、墓の中にいたとしても後悔するだろう。気分が高揚する。このように快いことは他にあるまい。
「いいぞ。そのとおりだ。それがいい。あんたはそうするべきだよ」
 正邪も満足そうであった。

 フーシェは徴兵の拡大を指示した。ナポレオンに許可を受けたからには、今や最高権力者だ。閣僚たちも、陸軍大臣も、一言も異議を立てられなかった。
 徴兵の裏付けはないこともない。イギリス軍の再上陸の情報があった。疫病のためというのは陽動に過ぎぬ、別働隊がフランス北部の海岸へ上陸し、再びパリを伺っているという。フーシェの秘密機関がキャッチしたものだ。無論フーシェの作った嘘だが、別の大臣の元へも、架空の軍人の名を使って情報を届けていた。別ルートからも情報が入ったという裏工作だ。まず間違いないということになり、ひとまず追加の徴兵にも納得した。ベルナドット率いる臨時部隊はフランスの北へと向かった。
 しかし、待てどもイギリス兵の影も見えなかった。この頃には、オーストリアにいるフランス軍の戦勝報告がもたらされており、イギリス軍が勝ち目のない上陸を行うはずもなかった。しかし臨時の部隊を解散させることもなく、徴兵の中止もなかった。いよいよ閣僚たちはフーシェの行動を訝しく思った。そのうち、ナポレオンは音もなく帰ってきた。
 ナポレオンが帰ってくる時、政府の誰も、それを知らされていた者はいなかった。しかしフーシェは教えられずとも知っており、あえて、部隊の解散も命じなかった。ナポレオンが帰ってくるとなって慌てて部隊を解散させては、何かを隠していたようではないか。知らないふりをしてナポレオンを迎えた。ナポレオンも、怪しげな動きがないか探っていたようだが、何も見つけられなかった。フーシェは部隊の維持と、徴兵のほか、クーデターに繋がるような動きはしなかった。
「ただいま、警察大臣。国家防衛についてよく働いてくれた。ご苦労。ところで、私は、君の行動を怪しく思っている。部隊は解散されるべきだ」
「皇帝陛下が帰ってこられるまでは、安全を保持するべきだと考えておりました。もちろん、陛下が無事で帰ってこられたのですから、指揮権を返上します」
「君がクーデターを企んでいたと言っていた者もいる」
「怪しげなことを考える者は、いつでも、どこにでもおります。しかし、それは年中行事のようなものです。同時に、ありもしないことをあったかのように言い、波風を立てようとする者もいるのです」
 それ以上ナポレオンは何も言わなかった。フーシェは成果を上げている。指揮権返上は、あっさりしたものであった。フーシェは、死にそこねて帰ってきやがった、と思っている。ナポレオンは、フーシェが、ナポレオンの死を願っていたことを知っている。しかし、今やナポレオンの死を願わない者はいない。ナポレオンにとってはそれさえも受け入れるべき事柄だった。情勢はますます危うくなっている。事実、ウィーンでは一人のプロシア人青年によって、ナポレオンは暗殺されかかった。国内の治安も万全に保たねばならない。有能な警察大臣を手放せる状況ではなかった。
 ナポレオンもフーシェも、内心は穏やかではなかった。しかし内心の衝撃はフーシェの方が大きかった。一度得た権力を手放すとはそれほどのことだ。手に入れたと思ったものが離れていく感覚。それで諦めがつくはずもない。次に握ることができたならば、手から滑り落ちぬよう、もっとしっかり握っていようと考えるのみだ。いっそ、自ら暗殺者を送るべきだったかとさえ思える。しかし、ともあれ、フーシェは無事だった。
「ところで、フーシェ。君が部隊を預けたベルナドットだが、彼には不審なところがある。彼がもしクーデターを企んでいたとするなら、君ならどのように処分する」
「それが真実で、彼がどのように処分されることになろうと、私には興味のないことです」
 権力喪失の痛みを受けていたフーシェはどこか虚ろに答えた。
「彼が共和派の者であるということは忘れて提言させて頂きますなら、殺せば恨みを買う。かつてモロー将軍を処分したのと同じようにすればよろしいのでは」
 モロー将軍はかつて、ナポレオン暗殺を企んだカドゥーダルと共謀したとされる軍人だった。しかしカドゥーダルが王族のために働いたのに対し、モロー将軍は共和派だった。彼が王家のために働くというのは不可解だ。彼は国外に追放されたが、人気があってナポレオンに疎まれたためとしか思えない処分だった。
「追放は良い処分ではない。モローは今ロシアにいて、ロシア軍に協力していると聞く。かつて追放したスタール婦人はスイスだかにいて、私の批判を続けている。むしろ意固地になるばかりだ」
 ナポレオンはまるで、フーシェに処刑か、暗殺の命令を出させようとしているようだった。フーシェは「陛下のお心のままに」と答えるに留めた。気に入られようと思うなら、何かしらの罪を見つけて報告してやればいい。ナポレオンはそれを大いに喜ぶだろう。しかしフーシェはそれをしなかった。だからと言って、ベルナドットを助けることもしなかった。彼に肩入れをしてナポレオンに嫌われるのも面白くない。
 結果として割を食ったのはベルナドットだった。表向き処分はされなかった。国を守った者を処分しては、成果を出せば処分されると思い、まっとうに戦う気分ではなくなる。軍人からは不評を買うだろう。だから罰こそ受けなかったが、二度と軍の指揮を任されることはなかった。ベルナドット自身、潮時と思った。彼はナポレオンに呼び出され、いわれのない怪しげな動きをしたことについて叱責を受けた。兵を握って国境を防衛しただけでクーデター未遂を疑われたのだ。
 フランスを守るためのフーシェの判断には間違いはないと思ったし、必要だと感じたから指揮官も受けたのだ。何のために叱責を受けなければならないのか、ベルナドットには理解が及ばなかった。
 確かに警察大臣は常に怪しいが、彼からの指示を受けただけでクーデターを企んでいると考えられては困る。ナポレオンは今や誰も信じられない状態なのだ。ナポレオンは以後、ベルナドットにどのような機会も与えないだろう。社会的に抹殺されたのと同じことだ。無論、情勢は変化する。仮にベルナドットがフランスに残っていれば、王政復古に合わせて立場を変えたことだろう。裏切り、身代わりだが、この時代の政治家、軍人には、裏切りは義務のようなものだった。共和派、ボナパルティストの者でも、後の王政復古時に地位を得た者もいる。しかし、事実として、彼がフランスで軍の指揮をすることは二度となかった。

 どのような救いの手と呼ぶべきか、スウェーデン王家からベルナドットを王太子に、との要請があったのはこの頃であった。スウェーデン王家では後継者がいなくなり、幾人かの候補者が出たが、貴族の一人が強硬に推したのがベルナドットだったのだ。ナポレオンの帝国が揺らぎつつあることを未来に生きている我々は知っているが、当時のスウェーデンの人々は、正しく英雄が湧き出でたかのように感じ、ナポレオンの帝国は永遠だと信じていた。王家の後継者を探すのに、ナポレオンの縁者を探し、繋がりを得ようと考えたのも当然のことだ。ベルナドットの妻デジレ・クラリーの姉は、ナポレオンの兄ジョゼフのに嫁いでいた。ベルナドットはナポレオン一族の者であり、それが候補者の一人になった理由だった。以前ベルナドットが、スウェーデンの軍隊に対し親切にしたことも一因であるらしい。
 王太子に推薦されたことは、彼から運動を持ちかけたわけではない。そもそも、王太子に候補されていることも彼は知らなかった。推薦された後に、初めて意志を確認されたのだ。ベルナドットは良い機会と思い、それを受けた。フランスは故国だ。思い入れはある。しかし、ナポレオンが幅を利かせるフランスでは、栄光を得る機会はないであろう。
 複雑な感情を抱いたのはナポレオンだった。ベルナドットは虫が好かないとは言えナポレオンの一族だ。一族の者がスウェーデンを支配することは喜ばしい、スウェーデンはよい同盟国となるだろう。しかしそれがベルナドットというのは問題だ、彼の態度は悪い。一族の者を送ると言って、彼を送ることが同盟強化となるだろうか。しかし同時に、放り出すには良い機会だ。フランスにいれば何かをしでかさないとも限らない。露骨に閑職に追いやっても反発するだろうし、パリに置いておけば、クーデター後の指導者として担ぎ出されるかもしれない……。ナポレオンは素直にベルナドットを送り出したわけではなく、スウェーデン王家でベルナドットが王太子になるという話が潰れてしまえばいいとさえ考えたようだ。スウェーデンは、ベルナドットの橋頭堡となるかもしれない。飼い殺しにするのとスウェーデンに行かせるのとどちらが良いか、ナポレオンには決められなかった。結局、放り出すようにしてスウェーデン行きを許した。
 最終的に許したのは、かつての恋人デジレ・クラリーへの配慮であったとも言われている。デジレと別れたあとも、二人の仲は悪くはなかった。二人は文を交わしており、デジレがスウェーデンへ去ったあとも、長くその習慣は続いた。その夫を高みへ上らせることで、彼女の幸福を支援していたのだ。ナポレオンは政敵に対しては厳しい態度で望んだが、常に女や恩人には優しかった。
 ベルナドットがスウェーデンに迎えられるには紆余曲折あり、スウェーデン本国でもかなり揉めたという。だが最終的にベルナドットは王太子となった。彼の一族は現代においてもスウェーデン王家として存続している。ナポレオン麾下の軍人の多くは不遇な晩年を送ったが、ベルナドットの一族は最も繁栄した。
 ベルナドットはやがてナポレオンを裏切ることになるが、それはスウェーデン人となったカール・ヨハンには当然のことだった。見方を変えれば、ナポレオンが彼をそのような立場に追いやったのだ。彼は機を見るに長けており、ナポレオンに囚われずに、独自の生き残りを画策した。この一事を見るだけでも、彼の有能さは間違いがないようである。

 ベルナドットは祖国防衛は果たしたが、敵軍の撃破というような、指揮官としての成果は上げなかった。そのために英雄とはなれなかった。ナポレオンなきフランスの防衛者としての名声を得たのはフーシェだった。政府においてそれを主導したことはパリで知られていた。あるいはナポレオンがおらずとも、彼ならば国家防衛は果たせるのではないか。穏やかな性格で、他国とも諍いを起こさないだろう。彼ならばナポレオンの偉業を引き継いで、末永く残すことができるのではないか。そうした錯覚を政界人、あるいは民衆に抱かせた。ナポレオンにとっては憎いことだったが、彼の行いは正しく、功績は確かであり、彼に褒賞を与えざるを得なかった。
 このようにして、フーシェはオトラント公爵となった。公爵位とは、実質的な王位である大公に次いで高い爵位である。タレーランがベネヴェント公爵の名を与えられたのは前述した通りだが、フーシェは貴族でもなんでもない。ただの田舎町の漁師の息子に過ぎなかった。大いなる出世と見るべきだろう。僧院に一生暮らしているのが分相応といったものだろうが、革命が起こり、彼は極端な共和主義に走った。かつて王党派を大砲をもって虐殺したフーシェが、今や公爵の身となった。これが革命の得た成果、身分制度からの開放であるというならば、これほど皮肉なことはない。十年前には、ナポレオンは上官に従わぬはねっかえりとして軍を放り出されかけており、フーシェはテルミドール反動の煽りを受けて浮浪者に近い日雇い労働者となっていたのだ。彼らの変貌は、フランス社会の変化を反映してすさまじい。
 南イタリアにあるオトラントという土地をフーシェは知らず、訪れることも滅多になかった。かつての王侯貴族がそうであったように、現地の役人に任せて上がりだけを受け取っていればいい。フーシェが得たのは、パーティのたびに呼ばわることとなるオトラント公の名前だけであった。公爵の名前など、何になろう。皇帝の裏付けがあって意味があるものならば、皇帝制がなくなれば何の意味もない。ただ妻が公爵夫人と呼ばれて喜ぶことだけを、少しばかり喜んだ。
 公爵となれば、家紋というものが必要になる。ナポレオン付きの紋章学者は、オトラント公爵のために新しい紋章を充てた。中央に黄金の柱が立っており、その柱には二匹の蛇が巻き付いているのだ。これは二枚舌の蛇だという暗喩であろうか? あるいは、フーシェとタレーランをなぞらえたものだろうか。ナポレオン付きの紋章学者が、フーシェのところに入り浸る化物を知るはずもない。しかし、そのために誂えたようではないか。フーシェは怒るよりもむしろおかしみを感じた、オトラント公爵の名よりもそのおかしみを喜んだものだった。そして、そのことは、正邪も喜ぶことであろう。やつと同じ感性を持っていると考えた時、フーシェは思わず真顔になるのだった。


ああ、それにしても、陰謀がほしい。フーシェは常に陰謀を欲していたが、この時期ほど渇望したことはなかっただろう。
公爵位を得たところで、フーシェには嬉しくともなんともなかった。便利に使えるかもしれぬ、と考えた程度にすぎない。ナポレオンにとっては未だ盤石ではない帝国運営のために、重要な者には爵位を与えて繋ぎ止めねばならず、イギリス軍の本土強襲がなくとも、フーシェほどの者にはやがて与えられていたことであろう。ナポレオンは重要な者に爵位と金を与え、帝国への忠誠を求めた。しかし、この爵位と金こそがナポレオン帝国を腐らせていった。かつては何も持たず、成り上がるために必死に働いた者たちが、いざ栄誉と金を手に入れてみれば、怠惰になり、自らの立場を守るために必死になるようになった。ナポレオンの立場が悪くなれば、部下のほとんどはナポレオンから離れていった。
フーシェにとってまずいことは、タレーランが戻ってきた、それもオーストリアとの政略結婚を成功させたという成果をあげて復帰したことだ。失脚の際、タレーランは終わりだと見る者もいたが、フランスの情勢は日々変わってゆく。去る者もいれば、戻ってくる者もいる。そして、フーシェにとっては、情勢は悪い方へ傾いていた。
オーストリア皇女をフランス皇后として迎え入れることは、タレーランの手腕に加え、彼の個人的なオーストリアとの繋がりを持たずしてできることではなかった。オーストリアは、フランスの外交官全てよりも、タレーラン一人を信用しているということだ。フランスがオーストリアと政略結婚を行い、同盟国となったからには、タレーランのような男を放り出しておける情勢ではなくなった。
 第五次対仏同盟は、フランスの勝利に終わった。イギリスは捕虜なども取られず、また交渉に乗せる領地などもないが、大敗を喫したオーストリアはそうはいかなかった。軍は崩壊し、その兵力を減らしている。フランスに吹っかけられても、断ることはできなかった。タレーランは復帰前で、オーストリアのために便宜を図ってくれる者もいなかった。オーストリアはまたも領土を失い、多額の賠償金を押し付けられた。フランスとしては、そうしなければならない理由があった。勝利によってフランス国民の名誉欲を満足させ、加えて金と土地によって実利も与えなくてはならなかった。それほどにフランスでは不満が高まっていたのだ。ナポレオンへの不満も、戦勝によるお祭り騒ぎがあれば目をそらしておくことができる。ナポレオンの立場を保つために、他国から搾り取る必要があった。一方で、押し付けられる側のオーストリアをはじめ、諸国の反フランス感情は高まってゆく。
 それを証明するように、フランスが勝ったことよりも、アスペルン・エスリンクにおける、ナポレオンの敗北を喜ぶ声の方が大きかった。ロシアはフランスに反攻する機会を狙っているし、フランスに復讐を誓うプロシアは軍制改革を行っている。オーストリアは今は風下についているが、いつまでそうしていることか。加えて、ナポレオンの支配下にあるはずのライン同盟におけるドイツ諸国においても、ドイツ人のナショナリズムは高まっていた。ナポレオンは自分の家族や部下を送り込んで王にしている。現在自国の者を王として頂いている諸国にも、やがては機会を見てはフランス人を送り込んでくるだろう。スペインがそれを証明している。
 独立してはいても、ナポレオンの言いなりになっているのと同じだ。ナポレオンに支配されるよりも、革命を起こし、自分たちで自分たちの国を統治しようとの気運が高まっている。この頃はドイツの大学を中心に、思想家や知識人の啓蒙活動が活発であった。革命前のフランスで啓蒙活動が盛んだったのと同じだ。もはや、ナポレオンは革命を起こされる体制側となっていた。ナポレオンは露骨に悪者になり、その煽りとして、ナショナリズムに煽られた青年がウィーンにおいてナポレオンに接近し、暗殺しようとした事件も起きた。彼は解き放たれれば何度でもナポレオンの命を狙うと豪語し、銃殺刑となった。
 ナポレオンはヨーロッパに軍を進め、得た領土に革命の種をまいた。しかし、その結果、1789年のフランス人が王政を憎んだように、諸国民たちはナポレオンを憎むようになっていった。なんという目まぐるしさだろう。フランスにおいて王政は数百年の積み重ねの末、打倒されるに至った。革命の末に共和政が現れ、やがて資本主義的になった。そして、ナポレオンがクーデターを起こすと、個人崇拝、独裁制へと変わり、皇帝を頂くに至った。ナポレオンの皇帝就任は1804年、ルイ16世が処刑された1793年よりたった十一年後のことである。そして更に五年が経った1809年現在、皇帝は憎まれるに至っていた。
 しかし今この瞬間は、ナポレオンの勝利がある。オーストリアはナポレオンに許しを請い、力を蓄えるための時間を必要とした。オーストリア皇女マリア・ルイザはそのための供物とされたのである。

 ナポレオンは新しい皇后を必要としていた。自分の子供に帝国を引き継がせたいと考えていたし、陰謀が多すぎて、ナポレオン一人が死ねば新しい権力を手に入れられると考える者が後を立たなかったからだ。跡継ぎが生まれ、権力の行き先が決まっていれば、陰謀も少しは収まることだろう。ブルボン家、またナポレオンの家族、ましてやフーシェ、タレーランなどに帝国の冠はやらぬ。
 マリア・ヴァレフスカの懐妊により、子への渇望は増した。子を作って帝国を継がせたいという欲望は、ジョゼフィーヌへの愛情を超えてしまった。
 新妻としての条件は、皇帝陛下に見合う地位を持った女性だということだ。ブルボン王家の血を受け入れるなどは論外だが、それほどに高い王族の血を望んだ。もしもその子供ができれば、王族と血の繋がりができ、王家の仲間入りをすることができる。そうでなければ、所詮はコルシカの成り上がりに過ぎない。
 あるいは、それもナポレオンはどうでもいいと思っていたかもしれない。確かに王族の血は魅力的だが、自分の帝国を強くするための道具としか思わなかった部分もある。オーストリア、あるいはロシアと繋がりができれば、重要な友好国になる。相手は人質を取られたのと同じだ。
 最初はロマノフ家の血を欲した。ロシアのアレクサンドル1世の妹をフランス皇后としようと交渉を行ったが物別れに終わった。アレクサンドルが妹を可愛がっていて、ナポレオンなどにやるかと考えていたのもあるし、ロシアは戦争の痛みは少なく、ナポレオンからの圧力も少なかった。しかし、オーストリアはそうはいかなかった。ナポレオンが次に目をつけたのは、ハプスブルグ家、皇帝フランス2世の娘、マリア・ルイザだった。
 オーストリアは戦争に負けたばかりで、無下にすればいよいよ圧力が高まることは間違いない。ナポレオンが王家の廃嫡さえ要求してくるかもしれない。スペインでの前例がある。反乱が起き、統治が困難なことは間違いないが、オーストリアを共和制にとの案は持ち出すだけで意味がある。そうでなくとも、大五次対仏同盟戦での賠償は莫大だった。オーストリア政府と王家は揺れた。
 普通ならば、この縁談はうまくゆくはずがなかった。しかし、影ではタレーランが糸を引いていた。タレーラン、この一人がいるだけで、物事は劇的に動いてゆく。

 タレーランとは断言をする男だった。いつでも曖昧なことは言わず、明快な言葉で他人を導いた。結果的に過つことはもちろんあったが、それでも堂々としていた。そのような男の言うことには、不思議な魅力があるものだ。タレーランはオーストリア王家に対し、オーストリア外相メッテルニヒの口を介して明快に言った。
「娘はくれてやりなさい。やがてナポレオンは限界を超えてしまいます。明確な見返りもあります。先の戦争の賠償についても、のらりくらりとかわしておきなさい。同盟国となるからには細かいことは言わなくなります。プロシアを打ち倒し、オーストリアと組んだとなれば、大陸に残る大国はロシアのみです。彼はやがてロシアに向かうでしょう。彼の地において、彼は敗北の兆しを得ることでしょう。たとえロシアに勝ったとて、多数の兵を失うからです。その間に、オーストリアは兵を蓄えることができる。プロシアも同じく兵を蓄えるでしょう。その時にこそ、ナポレオンに反攻する機会が訪れるのです」
 しかし、ナポレオンが勝てばどうなるのか? 兵も思ったより減らず、充分に守りを固めたならば? 時を待っている間に、ナポレオンとハプスブルグ家の合の子が生まれ、育ったならば? ナポレオンとともに、足抜けできぬところまで引きずり込まれてしまえばどうなる?
 ナポレオンは今でこそ皇帝だが、コルシカの田舎者、礼儀を知らず、戦に強いばかりの乱暴者である。そのような者を一族に迎え入れるなどと。フランツ2世をはじめオーストリア宮中は不審がっている者が大半だった。彼らを説得したのが、フランツ2世に信頼されているメッテルニヒだった。彼は有能で、オーストリア宮中を切り回していた。彼は有能だったし、彼には無二の友人がいた。そのことが彼の名声を高めたし、実務の上でも有利に働いた。彼らはともに互いの国内の情報を漏らし合い、利用していた。外交についてタレーランは先輩であって、メッテルニヒが困った時にはいつもタレーランに相談していた。彼はいつでも正しい答えを用意していた。彼らは気のおけない友人同士であり、協力しあうとともに互いの国庫から多額の金を融通しあっていた。彼らは紳士的で魅力的だが、悪党だった。

 メッテルニヒはオーストリア宮中を説得する役目を果たした。オーストリア皇女マリア・ルイザを受け取ったタレーランの役目は、彼女の身柄を手の内に置いておき、安全を保ち、いざとなればオーストリアに逃がすことだ。ナポレオンや、彼の家族の手の中には置いておかないこと、それがタレーランの役目だった。娘を取り返すとの密約があったからこそ、フランツ2世は娘をナポレオンの元へ送ったのだ。
 タレーランは、もはや売国のために動いていた。タレーランに言わせれば、フランスを裏切ったのではなく、ナポレオンを追い出すためだ、むしろ暴君を追い出すことでフランスのためになる、と言うだろう。
 しかも、ナポレオンに対しては恩を売ったのだ。オーストリアとの和平など不可能だと誰もが思っていた。帝政となったとは言え革命を受け継ぐフランス、一方でハプスブルグ家を頂くオーストリア。しかし、二国が手を結ぶとなれば、もはや敵はない。遠からずロシアは倒され、スペインにおいてもやがてはイギリス軍は放逐され、大陸封鎖令の完成はイギリスを干上がらせるだろう。ナポレオンはそのように夢を見ており、タレーランはその夢を現実のものとした。ナポレオンは素直に喜んだ。タレーランがナポレオンの喜ぶように振る舞うのを見て、タレーランが再び皇帝の寵を得たいのだと考えた。ナポレオンは以前、タレーランを罵倒したことなど忘れてしまっており、タレーランも平気そうに振る舞っていたから、タレーランも平気で忘れたのだと思い込んでいた。実際は、権力を保持し、ナポレオンが転落したときに、次なる権力の座を得るために過ぎない。
 タレーランは権力の側にしがみつき、得られる情報をせっせとオーストリアやロシアに売っていた。後のロシア遠征においても、ナポレオンが負ける方へ導くため、ロシアに情報を送っていたのは確かである。タレーランはナポレオン帝国を崩壊へ導くため縁談を結び、しかもその結縁をもってナポレオンの信用を得たのである。
 世界のバランス、その潮流を読み取り、行くべき方向へ物事を導いてゆく、彼ほどの縦横家があるだろうか。彼は国家に仕えず、国家を渡り歩き、自分の理想のために語り、実現を目指した。戦争でフランス、ヨーロッパの兵が死なず、また民衆が戦乱に巻き込まれぬようにした。平和主義などではなく、私利私欲のためだ。金と快楽のためには、ヨーロッパが平穏であることが望ましかった。
 ナポレオンの打倒、オーストリアをはじめヨーロッパ諸国同盟のナポレオンの打倒、平和と比べれば、一人のオーストリア皇女を犠牲にすることなどなんともなかった。

 マリア・ルイザはある意味では被害者であった。しかし、貴種たる務めとして、辛いフランス行きも耐えることにした。彼女は二度に渡るナポレオンのウィーン占領に伴い、街を追われた経験がある。都市の破壊は行われず、講和が済めば帰ることができた。だが、悪魔のような男、コルシカの食人鬼とナポレオンのことを聞いて育った彼女にとっては、ナポレオンとは人ではない存在だった。悪魔か、化け物か何かのように思っていたのだ。オーストリアの軍隊は未だ貴族子弟から成っていたが、フランスの軍隊はそうではなく、ろくに教育も受けていない民衆から成る荒くれ者の集団で、その荒くれ者を取りまとめ、支配しているのだと考えるだけで恐ろしかった。猛り狂った兵士がウィーンへと迫っており、逃げるのが遅れればたちまち殺されてしまうのだと考えながらウィーンを逃れたことを思えば、ナポレオンなどという名前を聞くだけでも、怖気が振るうほど嫌であった。しかし彼女は二人の皇帝の間に挟まれ、二人の悪党に誘われて、オーストリアからフランスへと国境を越えた。マリア・ルイザはフランス風に改名してマリー・ルイーズとなった。
 しかし、ナポレオンはマリー・ルイーズの想像とは違い、優しい男だった。ウィーンを離れて寂しいであろうマリアに対し、ナポレオンは彼女の宮殿から身の回りの家具や調度品を貰い受け、部屋を全く同じに飾るという演出をしてみせた。ふつう、夫と妻とは言え、皇帝と皇后という立場であれば堅苦しい儀式がつきまとう。しかしナポレオンはそのようなことには全く気を払わなかった。儀礼というものは最低限で、あけっぴろげに接し、よく喋った。ナポレオンは粗野な部分もあるが、率直であることは美徳でもある。マリーに対しても、一人の女に気に入られようと気を配り、嫌われているだろうことを知りつつも嫌われないよう、好かれようと振る舞った。ナポレオンらしからぬことに、媚びるような部分さえあった。結婚したが不和である、皇后には嫌われている、と世間に見られれば、オーストリアとの同盟にもひびが入る。個人的にもフランス及びナポレオンを好きになって貰わなければ困る。ヨーロッパ支配を目指し、帝国を守り、引き継がせることを思えば、マリー・ルイーズの機嫌を取ることはなんともなかった。
 ナポレオンは一人の人間であり、型にはまった皇帝という存在ではなかった。王家の一員として暮らしてきたマリアからすれば、見たことのない種類の人間であり、それが面白くもあった。最初は怖気も振るうほど嫌いであったナポレオンという存在が、顔を見て、言葉を交わしているうち、やがて本当に好きになったという。マリー・ルイーズは愚鈍ではなかった。平凡ではあったが、良い妻として振る舞った。
 しかし、ドレスや宝石、調度品などについては、必要以上には購入しなかったから、ほしいものは何であろうと購入したジョゼフィーヌとは違い、御用商人たちからの受けは悪かった。また民衆からの受けも悪かった。民衆たちの感覚で言えば、オーストリアから嫁いできた女とは、すなわちマリー・アントワネットである。彼女はフランス革命によって断罪された、フランス王家の腐敗の象徴のような存在である。オーストリア女が来るというだけで、革命の悪い部分が再来したような気分があった。民衆たちの感覚ではそうだった。ルイ16世及びマリー・アントワネットが処刑される瞬間こそ、革命の成就だった。マリー・ルイーズは自然とマリー・アントワネットの影をまとっていた。
 皇后陛下となっても心から皇后にはなれないジョゼフィーヌは主人と同じで、誰に対しても気さくだった。メイドや執事、果ては閲兵に訪れた際は兵士とまで気さくに話したから、民衆の間でも人気があった。しかしマリー・ルイーズは高貴のならいとして、下々の者とは滅多に口を利かない。その点でも気取っていると不評だった。マリー・ルイーズが宮殿に居座ることは、死んだはずのマリー・アントワネットが戻ってきたような感覚だった。旧体制が戻ってきたかのような錯覚さえあった。
 ジョゼフィーヌは子供を産めないために、自ら身を引くことがフランスのためになる、という表向きの理由で離縁した。無論ナポレオンが強制したことは確かである。ジョゼフィーヌも別れたくはなかったが、帝国の野望を抱くナポレオンは強情だった。ジョゼフィーヌが離縁されたことを、民衆は悲しみ、ナポレオンをひどい男だと罵った。オーストリア女まで迎えて、心まで王様になってしまったと。地下から出てきた民衆と同じ存在だという理屈で、皇帝陛下になることも歓迎したが、今となっては変わってしまったようだと民衆は感じた。
 しかし、ジョゼフィーヌはそれでも立場としては充分に幸福だった。皇后ではなくなったとは言え皇后並の立場は保持され、年金や宮殿の提供など、これまでと変わらぬ暮らしを営むこととなったからだ。しかしナポレオンを失った痛みは大きかった。彼女は社交好きであったから、誰かと逢瀬を重ねることもあっただろう。しかし、誰か特定の者と一緒になり、暮らすことはしなかった。またナポレオンがエジプト遠征に行っていた頃には、彼女に関するスキャンダルは大量に世間に出て尻軽女のように呼ばれ、民衆を盛んに笑わせたものだが、離別の後には出なくなった。彼女は権力の外にいて、わざわざスキャンダルで名声を落とす必要もなかったこともあるし、民衆がそれらのスキャンダルを喜ばなくなったからだ。民衆の側でも、マリー・ルイーズに比べればジョゼフィーヌは好かれていた。彼女は前半生では愚かな妻だったが、後半生では貞淑な妻であった。しかし、その浪費癖は死ぬまで治らなかった。
 彼女はある種、ナポレオンにとっての幸運の星であった。彼女を得てイタリア遠征指揮官の地位を得た。イタリア戦役で才能を満天下に示し、全ての地位を駆け上がった。そしてその果てに彼女を手放し、自らも失墜した。マリー・ルイーズとの結婚は、ナポレオンの人生の頂点であり、後は転がり落ちるのみだった。


「ま、宮中のことなんてのは世間が騒ぐだけのことで、重要じゃない。タレーランは、そういうのを操るのは上手だよな。物事が実務の部分、後ろ暗い部分に触れそうになれば、さっと身を翻して逃げてしまう。実務を行うものは嫌われるものなんだ。民衆は華やかなものは好きだが、実務は嫌いだ。税を収め、徴兵として連れて行かれることだものな。華やかな皇帝を抱くことや、勝利の末に土地や金を得ることでナポレオンはごまかしている。そういう華やかな部分があれば、タレーランはその良い部分だけをかっさらうんだな。あんたとは逆だ。
 フーシェ、あんたとタレーランは、鏡写しのようなやつだよな。東洋には陰と陽という概念がある、表裏一体のものなんだな。陰は陽を飲み込もうとするが、陽は陰を飲み込もうとする。互いに勢力を伸ばし合うが、けして消えることはない。それにしても、陰と陽か。自分から言いだしておいたことなのに、このことを考えると嫌な感じがするな。いつか痛い目をあいそうな気分だ。それはいい。
 あんたは革命で成り上がり、タレーランは革命で国が乱れたら地位を捨てざるを得なくなり、逃げなければならなかった。国が平穏になればタレーランは再び帰ってきて成り上がり、平穏を保とうとした。そして平穏になれば、あんたのような革命の輩は警戒され、憂き目を見る。フランスにオーストリアの影響が及ぶとなれば、あんたやカンバセレスのような国民公会時代の生き残りは、王を殺し、マリー・アントワネットの処刑にも賛成した首切り人だものな。オーストリアが不快感を示し、共和派を疎むならば、タレーランのようなやつはその急先鋒に立って、喜んであんた達を追い落とすことだろう。
 あんたたちの面白いところは、タレーランが平和を求めたのは友愛精神のためではなく、またあんたが混乱を求めるのは愉快さを求めるからじゃない。あんたも、タレーランも、私利私欲のためだ。金を貯め、自分の身を守り、自分のしたいことをするためだ。安全な立場を得られている貴族のような人たちには、理解しがたいことだよな。そんなものは当たり前に与えられていると思い込んでいる。しかしあんたたちにとっては、他人を陥れ、犠牲にして、得なければならないものだ。そうでなければ生きられなかった。
 しかし、物事は全て表裏一体なんだ。あんたたちは互いに並び立つことはない。片方が盛り上がったならば、次はもう片方が盛り返す。そういうものなんだ。オーストリアとの縁談をもってタレーランはあんたに勝利した。そしてあんたが勢いを盛り返すため、勝利するためには、陰謀をもって勝つしかない。あんたはいつもそうしてきたよな。……聞いちゃいないか。しかし、無駄だぜ。陰謀はない時にはない。他人の陰謀を利用しようにも、今のフランスで、それをしようというものはいない。オーストリアとの同盟で、ナポレオンは安泰だ。皆そう思っているから、ナポレオンに対して歯向かっても無駄だ。反体制の輩に賛同する者なんていないからだ。
 陰謀は上手にくるまないといけない。暗殺やクーデターの形をとってはならない。ナポレオンに与する形で、ナポレオンの足を引っ張らなければならない。タレーランがそうしたように」


 フーシェにとって最もまずいことは、タレーランが戻ってきたことではなく、仮初とは言え、最高権力を得たことだった。ナポレオンさえいなければ、反対できる者はおらず、自分一人で全てを動かすことができる。権力を一度味わうと、それを手放せなくなる。フーシェはナポレオンと同じ状態に陥りつつあった。
 フーシェは陰謀を必要とした。しかし、陰謀はなかった。オーストリアとの和平を経て、戦争は遠ざかったように思えた。平和が訪れ、帝国は安泰だと思えた。この情勢では、ナポレオンに歯向かうような酔狂な者はいない。
 フーシェならば、静観して時を待つべき時だった。しかし、焦ったとしか言いようのないことだが、フーシェは陰謀を行うことにした。王党派の影響が訪れるとなればフーシェにとっては死活問題だ。ナポレオンのオーストリア寄りの態度を変える必要があった。そして、その方法として選んだのが、イギリスとの和平工作だった。不満があるとは言え、戦争には勝ち、皇帝の地位は盤石だ。無謀な皇帝打倒などは夢物語だが、イギリスとの和平ならば、世論を味方にすることができる。
 フランスの防衛を行ったのと同じだ。徴兵及び軍の配置で、ナポレオンなどいらない、防衛にはフーシェがいればいいと示すことができた。外交においても同じことだ。タレーランがオーストリアと和平したのなら、フーシェはイギリスと和平し、タレーランなどいらぬと示すことだ。
 しかしフーシェはタレーランほどの外交通ではない、イギリスにも伝手はない。しかも、ナポレオンには許可を得ておらぬことで、勝手に外交などすれば、それは皇帝の権限を侵していることになる。防衛のために徴兵したときのように、緊急であるはずもない。それでも、フーシェには勝算があった。
 外交が成功しなくてもよい。タレーランを放逐できればそれでよいのだ。タレーランがいなくなれば、オーストリアも態度を翻すだろう。フーシェのやり方はいつもと同じ手、両側に成功の芽を育てておくということだった。成功したならば自らの手柄とし、失敗したならば、適当な証拠を用意し、タレーランが勝手をしたということにするのだ。タレーランが勝手な外交をするのはいつものことだ。それにナポレオンはタレーランを完全に信用したわけではない。機会があれば追い出したいと思っているはずだ。
 そのようにしてフーシェの陰謀は動き出した。仮に成功すれば、イギリスはナポレオンよりもフーシェを信用しているということになるだろう。もはや本当にナポレオンはいらなくなる。ナポレオンの帝国は砂上の楼閣に過ぎなくなる。イギリスの力を背景に、フーシェが国家の先頭に立ち、クーデターによりナポレオンの生殺与奪を握ることもできるのだ。成功の目は薄いが、フーシェは夢を見た。
 あるいはその夢を見たためかもしれない。フーシェはしくじった。


 銀行家ウーヴラールという男がいた。この男はいくつかの犯罪を行い、警察に察知された。フーシェは彼を呼びつけ、君の行いのことを、皇帝陛下は知っていると告げた。実際はナポレオンは彼の名前も知らない。ウーヴラールはわざわざ教えてくれたフーシェの親切に感謝し、見逃してくれるように頼んだ。フーシェは穏健な優しい人物だとの世評を信じていた。フーシェはその世評通りのことをした。彼の罪を見逃し、その後も犯罪が目に付きそうになると彼に教えてやった。ウーヴラールは頼まれもしないのに時折献金を行い、彼らは共犯関係になった。彼は警察大臣の後ろ盾を得、身の安全を確保した。しかしそれは同時に、フーシェの言いなりとなることを意味していた。ウーヴラールにも、それは薄々感づいていた。
「ウーヴラール、儲け話があるんだ。私の話に乗ってみる気はないか」
「フーシェ閣下、あんたの申し出は嬉しいが」ウーヴラールは言いよどんだが、吐き出した。「あんたの持ってくる話が、素直に受け取れた試しはありません。いつだって裏があった。どっかで重犯罪をやらかした連中をおびき出すとか、あんたの政敵を罠にはめるだとか。確かに、見返りはあったし、あんたの情報はいつでも正確でしたが」
「裏のない事柄など存在しないよ。君に得をさせてあげられる。ただし、君が過たなければの話だ。しくじれば終わりなのは、いつもそうじゃないか。君は銀行家だ、ただし頭に悪徳とつく。危ない橋を渡るのはいつものことだ。そして、君には断る権利はない。君には実に悪いと思っているが」
 フーシェの申し出を断れば、待っているのは牢獄だけだ。ウーヴラールにはまさしく、断る権利はない。
「しかし、本当に悪い話ではないよ。政府でのことは聞いているだろう、タレーランが戻ってきた。私の身も安泰とは言えなくなる。大きく儲けておきたいのは私も同じだ。イギリスとの和平の話が進んでいる。皇帝陛下は、私に和平交渉を行うように命じられた」
 ウーヴラールにはぴんと来た。和平となれば金が動く。大陸封鎖令によってイギリスとの通商は止まっているが、再開となればその情報を先んじて知っているイギリス、フランスの商人は大いに得をする。そういった話には、両政府の高官たちも食いつくことだろう。
「読めました。閣下は商人どもとのつなぎを、私にやらせようと」
「そのとおり。しかし、表向き和平の話は内密だ。君にはオランダへ行ってもらう。そこには密貿易をやっているイギリス商人がいる。彼らと伝手を作るんだ」
 金と物が動くとなれば、そこには大いなる需要が発生する。ただでさえヨーロッパ全域でイギリスの優れた工業品、および遠い植民地からの嗜好品が入ってこず困っている。供給はスピードだ。先んじて大量の商品を買い付け、売り捌けばその儲けは計り知れない。その情報だけでも充分な金で売れる。英仏の和平の情報とは、誰もが欲しがる情報だ。
「君と私とで、金儲けのラインを作っておくことだ。この和平で利益を得られると、イギリスの政治家に思い知らせてやることだ。交渉は利益を生み、利益は交渉を進めることになる。君の活動を、誰も知ることはない。しかし事が成れば大きな注目を得ることになるだろう」
「まるでタレーラン閣下のようなおっしゃりようですね」
「もっと彼らしい言い方もできる。イギリスとの和平は金を生む。この大いなるチャンスを逃すわけにはいかない、とね。彼ならもっと短く、端的に言葉にすることだろうが」
 ウーヴラールは未だ疑っていた。断ることはできないが、命のやりとりとなるのであればうまいこと逃れなければならない。しかし、その目には暗い光が宿っている。商機を見出した商人の目だ。和平に伴う利益に加え、外交官としての名声を得れば、本業である銀行業務でもより大きな儲けを生むことができるだろう。情報を得るのも役立ち、政府でも重要な地位を得られる。確かに怪しげな部分はあるが、商売とは投機だ。自らを放り投げるような行いをしなければ、成功は望めない。実際そのようにして危ない橋を渡り、成功してきたのだ。フーシェに尻尾を掴まれるという失敗はあったが。そのために、大いなる犯罪に巻き込まれ、捨て駒とされようとしていた。
「一つだけ確認したいのですが。この和平は皇帝陛下の裁可は得ているのでしょうな。イギリスから目の敵にされたところで、どのようにでも立ち回れましょうが、はしごを外されてはどうしようもない」
「もちろんだ。しかし、表向き彼は和平など認めない態度を取っている。過ちを認めればたちまち攻撃される。しかし、ウーヴラール、この大陸封鎖とは馬鹿げていると思わないか? 皇帝陛下は愚かだと思うか? まさか、だろ。皇帝陛下は偉大だよ。その気になれば、大陸を閉じてしまうことさえ可能だと知らしめたのだ。ヨーロッパにも不満は募ったが、イギリスの衝撃はそれ以上だ。五年も続けたならばイギリス政府は降伏せざるを得ない。白旗を上げるか、現政権が倒されてしまうかの違いさ。となれば和平には飛びつく。イギリスもフランスといがみ合うより、交易で利益を得る方が良いと思うだろう。オーストリアがフランス側に回り、ヨーロッパに味方がほとんどいないとなれば余計にな」
 反対に言えば、この期に及んで大陸封鎖令を続け、イギリスを憎み続けるナポレオンは愚かだ、と言っていた。皇帝陛下の裁可を得ているとなれば、あとはウーヴラール自身がうまくイギリスと渡り合えるかにかかっている。少なくとも、公的に利益を上げることが叶わなかったならば逃亡せざるを得ないだろうが、その前に情報を使えば小金を得る程度のことはできるだろう。断れば逮捕され資産は没収される。断る理由はなかった。
「さっきも言ったように、皇帝陛下は表向きには和平に反対だ。内密にことを運ばなければならない。話を進めておき、利得をイギリスに飲み込ませ、向こうの外交官から持ちかけられたように仕向けるんだ。そして、この件は急がなければならない。タレーランも同じく動いているからだ。むしろ、イギリス人よりフランス人を警戒して動きたまえ。タレーランが君と私の動きを知れば、当然妨害してくるだろうから」
 ウーヴラールは黙り込んだ。疑いのためではなく、任務の困難さを思ってのことである。しかし、この仕事には未来があった。これを成し遂げたならば、表向き和平に反対している、ナポレオンに先んじることになる。英雄として崇められることになる。当然、フーシェの語った理想は嘘であり、ウーヴラールはタレーランを追い落とすための撒き餌にすぎない。彼が逮捕されればフーシェの名前を出すだろう。しかし、ウーヴラールが苦し紛れに出しただけだ、いつもの陰謀の噂と同じだ。証拠は何もない。逆に、タレーランが勝手をしているという証拠を捏造してやればいい。
「ウーヴラール、オランダへ行きたまえ。ひとまずは、そこで社交的に振舞うがいい。君はイギリス人の商人を探し、連絡してくれればいい。あとはこちらで、どのように話を運ぶべきか考えることにする」

 イギリス人も困っている。大陸封鎖令で銀行は潰れ、市場は恐慌状態だ。資本家に話を持ちかければ、喜んで和平に賛成し、イギリスの要人を通じて政府を説得してくれるだろう。そのようにフーシェは考えていた部分があった。利益があれば一も二もなくそれに乗るだろうと。ナポレオンを超える栄光を、との理想は、ウーヴラールに語った嘘だったが、自分もそれに絡め取られていた。権力への志向がフーシェを誤らせたのだ。
 そもそも、フーシェは外交において無知であった。外交は国と国の約束事であり、堂々と進めなくてはならない。無論、闇の中で運ばれる事柄もある。タレーランがよくやるように、こっそりと相手の外交官に金を掴ませ、同時にタレーラン自身の懐にも金を突っ込むなどの事柄だ。しかし、最終的に結ばれる結論に対しては、多方面に裏付けをあらかじめ取っておかなくてはならない。
 条約を交わすだけが外交ではなく、時に晩餐会、時に舞踏会の形を取り、一礼に過ぎぬ動作、一言の挨拶を交わすことさえ外交となり得た。見栄えの与える印象さえ外交だった。いわば、虚像に過ぎない部分があり、実務を得意とするフーシェには苦手な分野だった。
 100人の前で公明正大にことを運ばなければいけない。闇の中で行ってはならない。影で物事が運ばれていれば、誰もその内容を信用しない。フーシェは外交には圧倒的に向いていなかった。秘密を握って脅しつけるにも限界があった。
 一瞬のひらめき、互いの目的のバランスを取り、そのちょうどよい塩梅を探り当てる感覚というものが必要だ。ときには主君の意図さえ越えて約定を結び、主君の怒りを買おうとも、その成果の得るところを主君に説き、納得させなければならない。見方を変えれば口先での誑かしでもある。フーシェは騙しすかすより、言い訳の効かない証拠を提出する方を好んでいた。イギリスとフランスの和平は、両者に明確な得をもたらす。フランスは大陸の王者となり、イギリスは貿易により富を得る。
 確かに、イギリス政府はフーシェの描くシナリオに対しては喜ぶことだろう。しかしナポレオンの意図と外れていること、それがいかにナポレオンのプライドを傷つけることを考えれば、素直に受け取れる話ではない。イギリス側は確たる情報を求めて動いた。同時に、ナポレオンには内密で進めているのだから当然のことだが、ナポレオンの意には沿わない和平だ。成功するはずがなかった。
 フーシェの影響力はイギリスの政府、あるいは外交官には及ばなかった。彼が懐柔できたのは、外交官として立てることにした悪徳銀行家ウーヴラール程度のものであった。であるのに、フーシェが外交の成功を願いウーヴラールに活動を続けさせたのは、タレーランを超える成果を得、大陸封鎖を終わらせ、ナポレオン以上の尊敬を得るという夢を見たためである。
 タレーランを罠にはめるための餌ならば、既に準備は済んでいる。ウーヴラールの行っている陰謀について、タレーランの名前を添え、ナポレオンへ密告するだけでよかった。しかしウーヴラールには外交を続けさせた。超えてはいけない一線を超え、フーシェはタレーランの領域へ踏み込んでいた。

 外交とは繊細な生き物だ。まず、ウーヴラールをオランダに派遣し、そこにある商社を通して、イギリスと話し合いの場を持とうと努力した。しかし、その程度の動きでさえ、気取られるところには気取られるものだ。ウーヴラールは自らの儲けのため、仲間のフランス人商人には目的を漏らしていた。
 外交官は、その手の情報には敏感なものだ。フランスがイギリスと外交を持とうとしているならば、今のオーストリアよりの態度を変えるかもしれない。オランダにいる商人たちの間で和平は噂となり、噂はオーストリアの外交官の耳に届いた。そうなれば社交界を通じ、タレーランに届くまで時間はかからなかった。彼はフランス人商人からも聞き、オーストリア人の外交官……友人からもそれを聞いた。外交においては敏感なセンサーを持っていたタレーランは、誰よりも早く、この事態を把握した。
 自分の知らない外交が行われている。イギリスとの和平交渉だと。皇帝が別人にでもならない限りありえぬことだ。誰かが動いている。ナポレオンに対し肯定しかできぬボナパルティストどもの仕業ではありえない。焦り、他人の領域で小賢しく小蝿のごとく必死に飛び回っている。政府での居場所をなくした共和派、更に言えば国王死刑賛成者の長、この仕儀はジョゼフ・フーシェの行いに間違いないとタレーランは直感した。タレーランの直感は情報に先んじた。
 フーシェとは長年同じ政府で働いてきた。彼がどのように陰謀を企むか知っている。同時に、タレーラン自身、他人を陥れるための策を練り、実行してきた経験があった。やつの領域では勝ち目はない。しかし、奴の方から罠へ飛び込んできてくれた。タレーランの領域で、機先を制することができた。彼はどのようにほくそ笑んだことであろうか。どのようにでも料理してやることができるぞ……タレーランはこの哀れな獲物を、ナポレオンに供することにした。


 皇帝陛下、ご機嫌はいかがでしょうか。皇后陛下との仲も悪くないようで。それは重畳なことでございます。私ですか? いつもより元気だと?いえいえ、そのようなことは。ええ、何も悪い企みは持っておりません。では金儲けの話だろう、ですと? いいえ、金儲けの話でもございません。
 ところで陛下は、皇后陛下と旅行をしたいとお考えでしたな。そう、皇后陛下は近年、まともな旅の楽しみを知っておられません。皇帝陛下のご活躍により、オーストリアは打撃を受けている期間が長かったですからな。しかし、今やオーストリアも陛下の庇護下と言っても言い過ぎではございません。ヨーロッパのどこへでも旅路を行くことができ、皇后陛下を存分に楽しませてやることができましょう。ロシアとイギリスのほかは? ええ、そのどちらも、陛下の威光ある限り、遠からず陛下の景勝地となりましょう。
 そこで陛下にご相談なのですが、オランダへ行かれてはいかがでしょう。美しい港と貨物船を眺めることも、皇后陛下におかれては珍しい景色となりましょう。風光明媚な海沿いの光景については、言うまでもありますまい。彼の地独特の干拓地というものを眺めることもできます。オランダに行かれるのであれば、良いレストランを紹介しましょう。それから宿についても助言できると考えます。ついでに、オランダ王は陛下の弟君ですし、政治について、語らわれてはいかがか。先にはイギリス軍の上陸があったことですし……彼の地では密貿易も頻繁だと聞きますからな。
 もしも前向きに考えるということでしたら、手配はどうぞ私におまかせください。


 オランダ王ルイは、イギリスとの和平工作について知っていた。もっとも、フーシェの密謀とは思わず、ナポレオンからの密命だと信じていた。普通ならば、大陸封鎖をすり抜ける密売人どもを取り締まれとうるさく言ってくるのと同じ口で、イギリスとの和平を言い出すことに疑問を持つべきだっただろう。しかし、相手がナポレオンであれば致し方ないことかもしれない。その矛盾こそ、兄弟にも理解できないナポレオンの凄まじさかもしれないと考えたのだ。
 兄が新婚旅行でオランダへ訪れた時、ナポレオンはルイと政治的な話などはろくにしなかった。ナポレオンは元来が人好きで、話好きにできている。マリー・ルイーズとの仲も悪くなかったようだから、二人の仲を深めようとしていた頃だろう。ナポレオンはマリー・ルイーズを含めて楽しく歓談をして過ごした。政治向きの話を持ち出したのはルイの方だった。
 彼は何の気もなく、ところでイギリスとの和平はどのようになりましたか、と訪ねた。それは全く自然ななりゆきで、ナポレオンはそこにタレーランの策謀があるなど毛ほども思わなかった。偶然の事柄のように話は進んだ。他人を陥れた悪どさを感じさせず、タレーランは、華麗にフーシェを売った。ナポレオンはその場はこともなげに聞き流し、後にルイと二人で話をし、情報を集めさせた。
 陰謀を行っているのがウーヴラールであり、その手綱を握っているのがフーシェだと知った時、思わず拳を握りしめたことだろう。あの悪党の尻尾を掴んだ。この際に、二度と逆らえなくなるようにしてやる。ひとまずは何事もなかったかのように新婚旅行を過ごすことだ。しかし同時に、闇の中で、ナポレオンの密偵は動き出した。
 ウーヴラールは逮捕され、証拠は何もかも抑えられた。フーシェは何も気づかず、和平工作は無事に進んでいると信じていたのである。ウーヴラールの周囲にはフーシェの手の者が潜んでいると思われたために、ウーヴラールの逮捕は全くの秘密裏に行われた。一人の人間が忽然と消え、行先は誰にも知られなかった。
「何を悩んでいる?」
「ウーヴラールからの定期報告が途絶えた」
 仕事机……フーシェはこの数十年、机を眺めて過ごしてきた。机の上には、所狭しと報告が積まれていた。しかし、今、手の内には何もない。
「監視はつけていなかったのか?」
「ウーヴラールが依頼してきた。イギリス人は、密偵が近くにいると警戒すると言って。おかげで、奴を見失った」
 フーシェは、タレーランのごとき、正解を見出す直感は持たなかった。しかし、草食動物が捕食者を敏感に察するように、危機に対する感覚は優れていた。感覚は、風向きが変わったことを告げている。まずい兆候だ。陰謀を破棄し、ウーヴラールを見捨て、証拠となる書類は全て燃やしてしまうべきだ。
「ナポレオンに嗅ぎつけられたのか?」
 フーシェにあるのは感覚だけだ。良くない感じがするというだけの話だ。破棄するべきだと直感は告げている。フーシェには信じるべき何ものもなかった。しかし、ナポレオンが嗅ぎつけたという気配はない。奴が知ったならば、その気配があるはずだ。政府内にも響くものがあり、フーシェを追い落とそうとする勢力の動きがあるはずだ。和平工作の成果が現れるにはまだ早く、政府内の人間にも何一つ知られていないはずだ。ウーヴラールの失踪は、一時的なもので、単に遅れたか、郵便局の手違いか……悪くとも、イギリス人に拉致されたとか、ウーヴラールが逃げを打ったかで、ナポレオンに知られたということではないはずだ。何もかも破棄してしまうには時期尚早だった。
 しかし、この不安さは何だ。
「ナポレオンには嗅ぎつけられていない。彼が知ったならば、たちまち反応する。怒り狂って私を呼び出すだろう。彼の機関が動いたならば、察知できる」
「ならば続行だな?」
「……その通りだ」
 ロベスピエールとやりあっていた頃のフーシェならば、一旦撤退し、次の方策を考えただろう。その頃は命がけだった。逮捕されてしまえば、次の手などはなかった。フーシェの感覚は鈍っていた。彼自身自覚していないが、殺されることはないという楽観があった。革命の頃のように、逮捕から一月で処刑されるという時代ではない。それに、フーシェは地位のある人間だ。アンギャン公を殺したようにはいかない。フーシェを殺せば、共和派は黙ってはいない。彼らの協力を失って、政府運営などできまい。
 同時に、ナポレオンの部下たちが陥る病にも侵されていた。地位と金を得たことで、失うことを恐れた。加えて権力も遠ざかる。一度は手中に収めた最高権力の座。もはや遠ざかりつつあり、二度と戻らない品物だ。計画を止めればそれだけフーシェは後退し、タレーランの権力は増大する。
「ウーヴラールを見つける。ウーヴラールの頼みだとは言え、聞いていられない。密偵を入れて、彼を見つける。同時に後任を送り込む。ウーヴラールと似たような経歴の人間、弱みがあって金に貪欲な人間を見つける……」
 フーシェは間違っていないはずだと信じた。これまで過たずにやってきたのだ。今度もそうだと信じた。ナポレオンがやがてロシアでそうなるように、フーシェも引き際を過った。フーシェは正しいはずだと信じ、打つべき先の一手二手を考えていた。正邪のことは思考から外れていた。
 正邪は屋敷を後にすると、通りで辻馬車を呼び止め、乗り込んだ。
「どちらまで行けばいいんで?」
「ベネヴェント公爵邸だ」
 フーシェの屋敷には黒い影が降りていた。やがて、ナポレオンが新婚旅行を終え、オランダから帰ってきた。数日ののち、会議のために大臣が招集されたが、フーシェは外交交渉についての書類を処分することはなかった。ナポレオンは帰ってきたが、機嫌はいい。奴が陰謀を知ったならば明るく振る舞って入られまい。奴は何も気づいていない。ウーヴラールからの連絡は途絶えたままだが、次なる刺客を送り込む用意はできている。ウーヴラールが交渉を行ったためか、オランダのイギリス人外交官のうちで和平を口にするものが出始めている。その流れをイギリス人政府、経済界にまで広げるのだ。ここで止めてなるものか。執務室にはナポレオンの預かり知らぬ勝手な外交交渉の書類が残されたまま、フーシェは執務室を後にした。


 御前会議の場で、誰かが突き上げられるのは時折あることだ。ナポレオンは短気で、思わしくない報告があればすぐさま怒り出す、と周囲に思われていた。実際に心から激怒することは少なく、罵声の内から冷静な目で対象の態度を観察することもあった。
 偽りの激怒で相手が萎縮し、従うならばそれで済ませたが、ことが重要であれば、時に仕掛けを施すことがあった。タレーランを罵った時もそうであり、今度もそうだった。
「ところで、警察大臣。君はウーヴラールという男と親しく付き合っているのかね」
 ナポレオンにそのように問いかけられて、フーシェはまずいと感じた。ナポレオンが時々やるやつだ。居並ぶ大臣たちは二人の会話に気を止めなかった。タレーランも表情を変えなかったが、内心ではほくそ笑んでいるのは明らかだった。
「一度か二度、銀行の経営について相談を受けたことがあります。しかしそのほかは」
「彼はオランダにおいて、イギリスの外交官と話していたのを知っている。外務大臣に聞いてみたが知らないという。彼に任務を与えたのは君か」
「預かり知らぬことです。推察してみますと、彼が私の名を騙って勝手をやったというところでしょう。金儲けのために、外交を匂わせでもしたのか……」
「ウーヴラールは皇帝の認可を得ていると言っているそうだ。報告ではそう聞いている。皇帝の名を騙るとなれば、彼は当然死刑だな。フーシェ、君は否認するが、もし君が関わった証拠が出てきたとなれば当然、君も同罪だ。ギロチン台の小窓から外を覗くことになる」
「彼は生き残るためなら、誰の名前でも吐き出すでしょう」
 フーシェの脳は素早く回りだした。彼と会い、書類を処分させなければ。ナポレオンはフーシェの思考を読んだかのように、先回って答えた。
「ウーヴラールは既に逮捕した。今、私の手の者が彼の仕事場を調べている。また、君の書棚を調べる必要があるだろう。その際には協力をお願いしたい。警察大臣、君の処分は追って決めることにする。帰ってよろしい」
 フーシェはそこに誰もいなければ、顔を歪ませて天を仰ぎたい気分だった。畜生! しくじった。
 ロベスピエールにしたように、跪いて許しを請うか? いいや、逆効果だ。あの時は何もなかったからそうする他なかった。今は道具も力もある。やりようはある。
 ナポレオンは青い炎のようだった。怒りを心中に収め、感情のない目で、フーシェを見ていた。しかし大臣たちが輪をかけて驚いたのは、フーシェがナポレオンの怒りに触れ、今にも死刑台に送られようとしているのに、平然としていることだった。
「それでは陛下、失礼いたします」
 フーシェの態度は平静そのままだった。しかし内心ではそうはいかなかった。憤りはすぐに消えたが、焦りが吹き出して止まらなくなった。どのようになるか、フーシェにとってさえ、ナポレオンの内心は読めない部分があった。予想できる範囲では、彼に私がやれるはずがない。ナポレオンは確かにフーシェを憎んでいる、しかし気分を晴らすためだけにフーシェを殺して喜ぶような暴君ではない。むしろ弱みを握り、手先として使うために生かすことだろう。生きていれば、また機会は巡ってくる。そのはずだ。
 しかし、時勢を読み違えれば、ギロチンの刃が頭上できらめくことになる。彼が仮に読み違え、処刑を行うと決心するならば……その情報だけは逃がすまい。ギロチン台の覆いが取り除けられ、その刃が少しでも照り返そうものなら、素早く身を翻して逃げるのみだ。逃げられるか? 殺すまではするまいと時勢を読み誤り、逃げそこねた者はいくらでもいる。しかし、逃げ延びられねば、死ぬのみだ。

「逃げるとなれば、貴様は必死に走らなければならないな。運動はできるのか」
「自慢ではないが、子供の時から運動は苦手だった。船に乗れば船酔いは起こすし、投網もろくに投げられなかった。だから僧坊へ入れられたんだ」
 フーシェは言いながら、本棚の下へ手を伸ばし、ちょっとした窪みを押し込んだ。そうすると、本棚が倒れて、階下へと続く暗い道が現れた。正邪は面白そうに飛び上がり、中を覗き込んだ。
「驚いたな。貴様が公爵位になってから買った屋敷だろう、こんな仕掛けを作るなんて」
 フーシェが得意げに部屋のあちこちをいじると、あちらこちらで穴が空き、扉の前に壁がせり出し、壁が回って鏡が出てきたかと思えば廊下の先に続く道を覆い隠した。
「王侯貴族のうちにはこうした隠し機構を仕込むことを好んだものも多くいる。しかし、これらの仕掛けを作る職人たちは、革命以来、彼らは職にあぶれている。また、囚人あがりの者のうちには脱走の名人と呼ばれるような者もいてね。彼らは犯罪者の思考を知っている。密偵となるべくして生まれてきたような者たちだ。古典的だが、カーテンの裏に縄梯子を隠してある。彼らにすれば獄中でこのような品を作るんだ。そのような才質を持っているのだから、活かしてもらわなくては」
 加えて、フーシェが窓の外に手を伸ばし何事か合図をすると、たちまち馬車が五台も六台も敷地の外に集まり、新しく合図を加えると、ばらばらに走り出した。この集合と解散の合図があれば、そのうち一台に身を隠して逃れられるという仕組みだった。
「彼らは私の警察を気に入っているし、正当に裁かれれば死刑を免れない身だ。馬車が駄目なら地下の下水道に通じている者もいる。どうにか逃げられるだろう」
 そのようなことになれば、いよいよ権力から遠ざかるのは間違いないから、そうなってはほしくはないが。一方で、ウーヴラールの身辺を探らせてみれば、逮捕は確実で、彼の仕事場は荒らされていた。和平を進めていた証拠は確実に抑えられている。情勢はフーシェにとって良いものではないように思えた。

 さて、ナポレオンはさっそくフーシェを解任するための会議を開いた。ウーヴラールはフーシェの名前を出したし、彼から皇帝の認可を受けたと聞いたと述べた。ウーヴラールも騙されていたのだから、彼の発言は真実味があった。皇帝の名前を騙って、イギリスと勝手に交渉したというのは、重大な罪と言わざるを得ない。
 であるのに、大臣たちは何も意見を述べなかった。これはナポレオンにとって大いに腹立たしいことであり、同時に恐ろしいことだった。大臣たちはナポレオンとフーシェを天秤にかけている! 彼らはナポレオンを恐れている。ナポレオンに賛成しなければ、彼は雷を落とすように激しく怒り出すことだろう。職や立場を失うことだろう。しかし、フーシェに逆らうのもまた怖いのだ。フーシェが皆の秘密を握っているということだけではない。フーシェの行いは正しいことだったからだ。
 確かに、フーシェのやったことは陰謀だ。皇帝を騙し、独断で事を進めた。しかし、イギリスとの和平は誰もが望んでいることなのだ。物を知っているフランス人ならば、八割、九割までが賛成することだろう。ナポレオンの言ったことの追従しかできぬ今の外務大臣には思いつかないことだ。現在は侍従長だが、事実上の外交官の長であるタレーランにとっては、一度苦労して結んだイギリスとの和平を破棄されたから業腹でもあるし、ナポレオンがイギリスとの和平など言語道断と思っているのを知っているから、英仏の和平がどんなに理想的であっても、言わぬことにしていた。一方で、フーシェはナポレオンに相談する無駄な時間を省いて行動に出た。
 フーシェは功を焦り、イギリスとの交渉という勝手をしでかしたが、それは国民が望んでいることだったのだ。大臣たちも、イギリスとの戦争を始めると言うならともかく、和平を行うという方向性は咎められないと考えていた。イギリス製品や植民地からの品物が入らず、国民は困っている。贅沢品が手に入らないのは富裕層にとっては不満だし、商売も上がったりで経済にも悪影響だ。加えて、スペインで戦争は継続中で、またロシアもきな臭くなっているし、ようやくオーストリアを味方に加えたというのに、イギリスもいつまでも敵に回しておくのが正しい判断だと思っているのだろうか?
「誰か、何か言え! 彼にはどのような罰がふさわしいか? 警察大臣の解任は当然だろう。となれば、誰が後任にふさわしいか?」
 大臣たちは常識を弁えていたから、ナポレオンが皇帝でなければ、「正気か」と訪ねていたことだろう。彼ほど警察に向いた人物はいない。彼がいなくなれば治安は悪化する。フーシェが一時警察大臣を引いた時には、カドゥーダルの皇帝暗殺未遂が起きたではないか。皇帝の身が暗殺者の刃に狙われたこともあったというのに、彼を解任するのか?
 このときタレーランは、彼らしい文句を、隣の者にぼそりと呟いたとされる。
「警察大臣を解任するとのことだが、フーシェどのに並ぶ能力の持ち主といえば、それはオトラント公爵を除いて他にはいないだろうね」
 皆静かになっていたから、その小声もナポレオンに届いた。かっとなり、叩きつけるように言った。
「カンバセレス、何かないのかね」
「は……」カンバセレスは古株だから、このような機会では何かを言わなければならない。カンバセレスは、あたかも嫌々といったように答えた。
「確かに重大な過失ではあります……しかし、イギリスとの国交が正常になるならば、これは国益に適っており……思うに、警察大臣は、職務に熱心なあまり、このような過失を犯したのではないかと」
 カンバセレスの言い分は、明らかにフーシェの耳に入ることを考慮していた。そのような返事をナポレオンが気にいるはずがない。
「職務に熱心なあまりだと! 奴は勝手をやらかしたのだぞ。イギリスとの和平だと! イギリスがフランスにしたことを忘れたのか。平和は確かに素晴らしいことだ。しかし、条件をつけて和平するなどは有り得ぬ。彼らが矛を収めないことには、和平などはもってのほかだ。彼らとはスペインで戦争中なんだぞ」
 スペインでは勝っているとは言い難く、それを和平で収められるなら結構なことではないか、と大臣たちは考えた。確かにスペインからは手を引くことになるが、スペイン支配は問題が多く、維持すべき土地ではない。未だ手に入れた領地を手放したくないと皇帝陛下はお考えか。それとも、フーシェが相手だから意地を張っているだけなのか。それらの考えを口に出すことはできなかったが、無言は雄弁だった。ナポレオンはその無言に乗じた。話し合っていては情勢が悪い。素早くことを片付けなければならない。
「よろしい、君たちが警察大臣の後任を決められないなら私が決める。後任はロヴィゴ侯爵だ。彼に警察省を委ねることにする。彼に任官の命令書を出したまえ。今日のうちに!」
 専制君主の思い通りになるべき御前会議においてさえ、ナポレオンの旗色はけして良くはなかった。ナポレオンの専制ぶりがひどくなってきて、彼の評価が下がり始めていたのだろう。いわば、この結果はナポレオン自身が招いたものと言ってよかった。会議が終わって、ナポレオンの怒りが過ぎ去ったとほっとする者が多かった。会議の結論に不満を持ち、フランスの未来のため議論するよりも、目の前の嵐が過ぎることだけを、閣僚たちは望むようになっていた。

 民衆の間でも、フーシェの解任は同情を得た。その理由がイギリスとの断交に反対し、和平のために動いたためだというのだから、大陸封鎖に不満を持っている民衆はフーシェに味方した。民衆に人気のあるナポレオンだったが、長く続く戦争、大陸封鎖という悪制に不満が高まっていた。後任人事にも不満が出た。ロヴィゴ侯爵とは、アンギャン公事件でも名前の出たサヴァリー将軍のことである。彼はナポレオンの言うことを疑わずに実行し、侯爵位を得ていた。
 フーシェは捜査にあたって、非常に穏便なやり方を用いた。かつて王政時代の軍人、警察の横暴は言いようがなく、言論の自由もない時代では反対の意見も押し潰されていた。しかし革命を経て警察のやり方が横暴であれば新聞で悪行を広められ、批判される時代が来たから、警察としては無理はできなくなった。
 警察は古くからの乱暴なやり方を改める必要があった。フーシェはその点において十分すぎるほど心得ていた。暴力は用いず、報酬を用いた。そのためにフーシェは政府から費用として与えられる金に頼らず、情報を元にしたビジネスで得た金を個人的に警察へ注入していた。そして、悪どい手段を用いる時には、けして誰にも漏れぬようにした。加えて、彼自身のやり方、誰にでも穏やかに接し、味方を増やすというやり方で誰にも好まれた。
 対してサヴァリーはフーシェのような情報網を持たなかった。また彼は軍人で、部下に対しては絶対服従が常の世界の出身だった。軍人上がりの彼の部下たちも、民衆に対しても同じように接した。情報を得るための手段についても、軍人時代のものを採用した……暴行と拷問である。彼は、皇帝陛下の敵となるものに対して容赦しなかった。フーシェが悪評を立てないよう立ち回ったのに対し、サヴァリーはナポレオンのためになるならば他人の悪評など気にかけなかった。アンギャン公暗殺の悪名もある。彼に対してしたように、犯罪者は裁判もなしに処刑するのか? 彼の名前は、ペスト菌のように汚らしく人々の口に上った。

 ナポレオンは堂々たる態度で警察大臣の罷免を公言した。しかし、フーシェ本人に対しても同じ態度を取るわけにはいかなかった。極端に言えば、ナポレオン自身の枕元へ暗殺者が入り込むことさえ考えなければならなかった。しかも時はフーシェに味方している。皇帝が死んだとて政府も民衆も以前ほどには怒らないだろう。皇帝の死を、戦争が終わると大きく取り上げることで打ち消して慰撫し、同時にナポレオンのスキャンダル……フーシェの持っている秘密書類を公開して名声を貶め、タレーランと手を組んでナポレオンの子を擁立する、というシナリオもないではない。
 それほどに風向きは悪かった。革命によって自由を得た民衆は、またもや君主によって自由が奪い取られつつあることを敏感に察していた。反感というほどではないが、民衆はナポレオンを疑い始めている。成果によって得た独裁という特権も終わりの時期を迎えつつあった。フーシェの評価は、ナポレオンに対抗したという一点で高まりつつある。政府はナポレオンのイエスマンで固められており、フーシェは唯一、皇帝の意向から外れて平和指向の人間と言ってよかった。タレーランはフーシェよりも本質的に平和主義者だったが、ナポレオンに対抗することの無駄さを知っていた。
 かつ、ジョゼフィーヌとは違って、フーシェと繋がりのないはずであるマリー・ルイーズが、彼の擁護を行ったのである。フーシェが罷免されたことはオーストリア宮中でも噂になっており、父である皇帝フランツ2世さえそのことを気にしていると述べるのだ。オーストリアの国王さえフーシェに注目している、ナポレオンを抑え込めるかもしれない唯一の存在として。オーストリアさえフーシェの後ろ盾に回りそうな気配さえあった。罷免は既に決めてしまっている。今更ひっくり返しては面目は丸つぶれであり、いよいよイギリスとの和平が本格的になるだろう。フーシェを潰すどころか奴の権力はいよいよ強まる。ナポレオンさえどうにもできぬ相手として。それではヨーロッパ統一の野望は終わりだ。なんとしてもフーシェの罷免は断行せねばならず、なんとかフーシェをなだめておく必要があった。
 ナポレオンはフーシェを解任するにあたり、ごく丁寧な手紙を彼に送った。ナポレオンが直接ペンを握ることは稀だ。ナポレオンの秘書に口述筆記させたその手紙は、幾度も言い直し、そのたびに修正させ、完成させては見直し……どのように述べれば、謙らず、卑屈にならず、それでいてフーシェの奴の自尊心を傷つけぬよう叱りつけることができるか。
ツヴァイクにおけるフーシェ伝記において書かれていることを引用すると、手紙ではこのように述べられている。

「オトラント公爵よ、卿が今日まで余のためにいかに尽くせるかは余のよく知るところであり、卿が余に忠誠を致し、余に仕えて熱誠ことに当たられたることは、余の信じて疑わないところである。しかれども卿をして大臣の職にとどまらしむることは、余の威厳を損することはなはだしきものあるがゆえに、余の不可能とするところである。およそ警務大臣の職は完全にまた無制限に信頼さるるを要するものであるが、かかる信頼の念のもはやあり得ざることとなれるゆえんのものは、卿がある重大事件に関して余の安静と国家の安寧とをもてあそびたるがためであって、このことは余の見るところでは、たとえいかに称賛すべき動機の存するにしても、断じて弁解の余地なきところである。およそ警務大臣たる者の職責に関して卿の抱けるふしぎなる見解は、国家の安寧と齟齬をきたすものである。卿の忠誠に対し疑念の念をさしはさむわけではないに関わらず、しかもなお余は卿に対し不断の監視さえ加えざるを得ざる次第であって、そは余の忍びがたきところなのである。余の意志、卿の意図にかなうやいなやを知らずして、卿は実に多方面にわたって独断専行さるるがゆえに、卿を監督することは避けがたきこととなるであろう……卿が従来の行状を改めらるることは余の望み得ざることである、いかんとなれば、すでに数年以前より余がいかに不満を明示するも、卿においてはなんら改めらるることなきがゆえである。卿は自己の意図の純正なるを確信さるるがゆえに、人は善をなさんとの意図をもってかえって多くの禍をかもすことありと言うも、卿は耳をかさないであろう。卿の才能と忠誠に対する余が信頼の念は微動だにしていない。卿がこの信頼を実証し、卿の才能と忠誠を余のために尽くすべき機会の一日もすみやかに来らんことを切望するものである」
 続けてツヴァイクはこの手紙におけるナポレオンの、その複雑な内部へも踏み込んでいる。いわく、どの文章ひとつをとっても好意と嫌悪、承認と拒否、恐怖と内心の尊敬が交錯している。彼はこの男を片づけたいのだが、しかも敵にまわすことを恐れている。この男を失うことを惜しみながら、しかもこの危険な男から離れられることを同時に喜んでいる。

 この手紙は一体、叱りつけたいのか、それとも褒めたいのであろうか? このような説教の仕方を、大人の対応と呼ぶこともできるだろう。政治家の行う譲歩であると考えることもできる。相手は褒めておかねば何をしでかすかわからないやつだ。しかし、叱りつけずにはいられない。フーシェよりも俺の方が上なのだぞ、と示さずにはいられない。その部分では政治家的ではなく、大人でもない。ナポレオンの子供っぽさが現れている。
 その幼さ、あるいは道化じみたものを感じた時、フーシェは苦く笑ったことだろう。しかし謙譲よりも、そのおかしみこそがフーシェの溜飲を下げさせた。フーシェ自身が道化のようなものだが、同時にナポレオンも同じだ。しかも、ナポレオンは自らの道化さ、おかしさには気づいていないことだろう。噛み殺したくとも殺せぬ喉の痙攣がフーシェの声を震わせた。おかしくてたまらない。全く、皇帝ともあろうものが、このような馬鹿げた手紙を出してよいものだろうか? 遂には声を抑えることもできず、奇声に近い笑い声を上げた。二階から聞こえる夫の声に、気が触れてしまったのだろうかと、彼の妻は不安を覚えた。


 皇帝ナポレオン、ヨーロッパの覇者になろうとしている男が、今や警察大臣を免責され、無官になりつつある男へこのような手紙を書くことは奇妙なことだった。翻って考えれば、ナポレオン自身の支配する土地がいかに広大であり、帝国は永遠に見えても、砂上の楼閣に過ぎないと考えていた。ナポレオンは歴史好きだったから、英雄たちがどのような末路を送ったか知っている。
 ナポレオンはフーシェを恐れていた。フーシェがナポレオンを裏切る時、もっとも効率的な瞬間を選ぶことだろう。相手をするまでもないと放置されるならば幸いで、必要であるとフーシェが判断したならば、ナポレオンを処刑台へ連れてゆくのは簡単なことだ。王の威名が処刑台を遠ざけることにならないというのは、たった十年前にパリ市民の手で証明されたばかりだ。ナポレオンはフーシェを叱責した際、処刑台のことを示したが、ナポレオンも立場は変わらない。確かにフーシェ処刑の命令を出すことはできる。しかし次の朝には、自分が処刑台へ上っているかもしれない。今現在、首と胴が繋がっているのは、危ういバランスで足場を保っているからに過ぎない。
 ナポレオンはフーシェも、またタレーランをも殺すことはできた。罪がなくとも、罪を被せることができる立場だった。しかし、彼はしなかった。彼は身内には驚くほど甘く、また憎い敵であれ、やたらに殺しはしなかった。彼は成り上がりで味方が少なかったから、恨みを買うわけにはいかないという理由もあっただろう。それに、タレーランや、フーシェには権力を得る最初の一歩から世話になっている。彼らを使い捨てるように処分すれば、後世の史家たちはどのように書き立てることだろうか。英雄願望の強いナポレオンは、自分が歴史の上において、どのように扱われるかを気にしていた。
 彼には生来の優しさがあった。彼は確かに、戦争において無数の兵を死なせた。不眠不休で兵を進軍させるなど当たり前で、砂漠へ進むのに僅かな水しか用意できず、兵や将校のうちに自殺を選ぶ者が出ても進軍したこともあった。軍の状況がそれほど悪くとも軍が崩壊しないほどの士気能力は立派な才能だが、兵の辛苦を許容したのも確かだ。未来のことだが、ロシアにおいては数十万の兵を凍土の上で眠りにつかせた。ナポレオンは兵たちを愛していないが故に死なせたのではなく、この上なく愛していた。その上で戦場へ送り出し、死なせた。常の精神ではできることではない。この点においては、異常者と言うほかはない。英雄的だと言うならばそうなのだろう。そのような人間でありながら、日常において、皇帝としての業務を超えたところでは他人には親切だった。時には負傷者のために馬をやり、自分は徒歩で撤退を行うこともした。
 加えて、ナポレオンは自分を例外にはしなかった。必要とあれば、軍の最前列に立ち、兵卒と共に突撃した。兵士にとってナポレオンは、無慈悲な命令を下す上官ではなく、共に進む戦友だった。戦場という異様な状況にあって、自らの命さえそのように切り捨てられる資質は、人の常軌を逸していると言うほかはなかった。戦場の異様な昂奮状態にある兵士たちにとっては、まさしく軍神のように見えた。
 ナポレオンの評価は近年語られにくくある。ナポレオンは革命の成果を簒奪したし、ナポレオン戦争はつまるところ侵略戦争であった。ナポレオンは多くの土地を戦争によって得、それを家族で共有した。その点での評価は良くはない。それでも彼が偉人として語られるのは、虐殺や粛清を繰り返した近代の独裁者とは違い、ナポレオンには人間性が感じられるからだろう。後世の評判を気にしたかっこつけとも取ることができるが、それも愛らしいと言えば愛らしい。ナポレオンも人間であるからには当然持っている憎しみもあったが、それに囚われることはなかった。
 タレーランやフーシェは確かに憎らしい相手だった。二人にとっても、ナポレオンの戦争狂ぶりにはほとほと呆れていた。それでも、この三人の間において、殺伐としたものは感じられない。彼らの底には、どこか友情のようなものがあった。


 ナポレオンの手紙に子供っぽさがあったとすれば、フーシェの行いもまた児戯である。ナポレオンのへりくだった一方で威張った手紙を送りつけられて、それで折れたように思われてもそれは癪である。あるいは、ナポレオンの手紙を見て吹っ切れたのかもしれない。あの道化じみたおかしさ、何をしようと道化だ。自分もナポレオンも、どこまで行っても道化でしかないのだ。となれば、ナポレオンの次は自分が身をもってそのおかしみを体現してみせようではないか、と。奴よりも馬鹿げたことをしてみせなくてはならぬ、と。
 そう考えてこそ、彼の以後の行いを部分的に理解できる。フーシェは身の安全こそ第一だと考えているくせに、時には奇妙にリスキーな行いもしてみせるのだ。
 一方では実利的な意味合いもあった。しくじったとて、それで負けではない。折れてなどいないところを見せつけることで、ナポレオンに対し立場を保つことになる。今は敗れたとて、ナポレオンに抗った事実が後に意味を持つはずだ。それに、命はどうやら保証されている。死んで土の中に埋められでもしない限り、機会はある。
 ロベスピエールは死の恐怖で議員たちを抑えつけた。ナポレオンは、より物理的な力、逆らえばナポレオンと大陸軍が来るぞという恐怖でヨーロッパを抑えつけた。抑えつけられたものが反発を溜め込まないはずがない。その支えが緩み、止め板が外れれば、強烈な力で反動が訪れるのだ。反動には勝てない。ロベスピエールは、それで死んだ。ナポレオンにもやがて反動が訪れる……それも遠いことではあるまい。もしもナポレオン帝国が安泰になるようであれば、フーシェなど必要はなく、あっさりと殺してしまうことだろう。安泰ではないからこそ、フーシェを殺せないのだ。フーシェが死ぬところを見れば、フランス政府の者も恐怖に怯え、ナポレオンは信頼を失うだろう。国内で反発が高まればひとたまりもない。崩壊は間近だ。
 待つことだ。いつも、時はフーシェの味方だった。死んだふりをして待つことは平気だ。なんのために待つのか、それは権力を得るためだった。フーシェは酸素のように権力を、更に言えば陰謀を必要としていた。今度の陰謀は、ナポレオンの没落以外にはあり得なかった。
 静かに引き下がっているのが賢い選択だ。しかし、フーシェの悪い癖がまたもや現れた。政府、民衆ともに、心のうちではナポレオンに反発しているし、フーシェには同情的だ。皇帝に対し諫言のできるフーシェが去ることを惜しんでいる。
 機会があるならばそのぎりぎりまでやらずにはいられない。しぶとく、意地汚く、子供じみていて、諦めを知らない。このような振る舞いを見て、いかにもフーシェ的だ、おかしなことをする、と人は言うだろう。
 世間の好意的な空気を嗅いだためか、フーシェはまたもや悪戯をやらかすことにした。最初に行ったのは、サヴァリー新警察大臣を子供扱いにすることだった。
 引き継ぎの挨拶のために、サヴァリーはフーシェの役宅を訪れた。サヴァリーとしては、座り心地の悪い役職だった。ナポレオンの密命を受け、裏で働いていたサヴァリーからすれば大臣の椅子は確かに栄転だ。しかし前任者が悪辣な人物ときており、その人物は免職に納得しておらず、政府内でも人事を疑問視されている。しかし、皇帝に選ばれた大臣として一歩も引く気はなかった。
「このたびは警察大臣の椅子を預かることになりました」サヴァリーは時宜の挨拶として、型通りの言葉を唱えた。「フーシェ閣下の元、警察が精励恪勤したことは知っております。閣下のやり方をぜひとも参考にして、その名声を傷つけぬよう……」
「私のやり方はもう古い。サヴァリー大臣どのの思うようにやって頂ければ私も嬉しく思います」
 皮肉や悪口でも飛び出すかと身構えていたサヴァリーは、優しげな言葉に戸惑った。皇帝に、フーシェは蛇のようなやつだ、底意地の悪い奴だから油断はするな、と聞かされていたのだ。しかし目の前にいるのは弱々しい老人のように、サヴァリーには見えた。引退の時期を逃して嫌々仕事をやっていたかのようではないか。フーシェの親しげで優しい雰囲気は、サヴァリーの想像とは違っていた。フーシェほどの古い政治家となれば、嫌な相手にも笑みを保ち、穏やかに接するなど当たり前にできることだ。サヴァリーのように、ひたすらに威儀を保ち、部下に対しては辛辣とも言えるほど厳格に当たる軍人出身の人間にはできぬことだ。加えてサヴァリーはまだ若かった。若きナポレオンを転がしたフーシェにとっては、サヴァリー程度を操るのは容易なことだ。
「いま、部下に命じて警察省内の引き継ぎの用意をさせているところです。大臣どのは挨拶回りなどすることも多いことでしょう。ゆっくりと事を進んで頂ければ、私も気持ちよく組織を引き渡せます。三日もあれば、用意は済むでしょう」
 サヴァリーはナポレオンに、フーシェから何もかも取り上げるよう厳命されていた。しかし、フーシェの方から何もかも差し出してくれると言う。それからフーシェは、紅茶など持ってこさせ、引退後のことや、領地に戻ったあとのことなどを話し始めた。もはやすっかり引退のことばかりが頭にあり、警察のことや権力のことなど何もかも放り出したような風情だった。皇帝陛下は前警察大臣のことを恐れすぎておられる。友人は多いかもしれないが、ただ政治の世界で時を重ねたばかりの老人ではないか。サヴァリーはフーシェを誤解し、安心してフーシェの屋敷を後にした。
 警察組織は、フーシェが苦心して作り上げた芸術的な精密機械だ。誰がサヴァリーのような若造に素直に引き渡すものか。集めた情報も、スパイのリストもあらかた持ち出され、あとにはどうでもよい情報と無能なスパイのみが残された。警察省に残った役人は、職務を全うしても新大臣は臨時の賞与もくれぬし、使途不明の予算など割けぬと捜査費用も削ったので、警察に情報を渡すよりもフーシェに届け、見返りに金をもらうことを選ぶようになった。時にはフーシェの指示を受け、警察内部に嘘の情報を流し、捜査を撹乱することもした。一方で、警察よりもフーシェ個人に仕える有能なスパイたちは、相変わらず活動を続けていた。フーシェにとっては取るに足らぬ警察予算を失っただけで、元々私費でスパイを動かし、情報を元に私腹を肥やしていたから、何も変わらないに等しかった。サヴァリーは後になってそれに気づいたが、どうすることもできなかった。
 フーシェが警察大臣を辞し、権力を失った。フーシェの人生には幾度か、この手の無風の時間があった。しかし、待つことには慣れていた。彼はスパイたちに厳命した。
「私がパリからいなくなることがあれば、情報はどこにも売らずに貯めておけ。情報の収集は続けていろ。生活が苦しい者、活動費が乏しい者は、前もって私に申し出ること。そして、いよいよ私が戻らぬとなれば、情報は好きに売れ」
 スパイにこのようなことを言い残したところを見ると、フーシェはこの後に何が起こるかも分かっていた。フーシェはさらなる悪ふざけを始めた。死刑をちらつかされ、しかも未だその件には結論は出ていない。

 サヴァリーは皇帝に、警察組織の移乗は問題なく行えそうである、と報告した。しかしナポレオンはそれを鵜呑みにはしなかった。フーシェのことだから、素直に渡しはするまい。しかしそれをサヴァリーに問いても無駄だった。サヴァリー程度なら巧みにさばいてしまうことだろう。
 ナポレオンは警察を通さずに直接遣いをやり、フーシェの持っている最重要機密の情報をすべて吐き出すよう要求した。フーシェの持つ最重要機密とは、ナポレオン直筆の手紙のことだった。ナポレオンが行った犯罪行為について、自ら言及した手紙類。存在していてはならず、処分されることを前提として書かれたものだ。この世から消えたはずであったが、フーシェはいくらか所有していた。それを差し出せと言うのだ。フーシェにとっては、心底嫌な要求だった。
 ナポレオンにはいくつもの後ろ暗い噂がある。アンギャン公暗殺のような事件は、明らかになっただけのことで、ナポレオンの抱える犯罪的行為は無数にある。それらが表に出ず、闇の中に消えたということは、先を述べてしまうようであるが、フーシェの手紙は結局世に出なかったということだ。
 ブリュメールのクーデターをはじめ、総裁政府時代の彼が関わったいくつかのクーデターに関わる証拠、またナポレオン自身、あるいは彼の家族の関わったスキャンダルの証拠。ナポレオンの家族、関係者にも手紙の処分は徹底されなかった。ナポレオン自身でさえ、忙しい時には秘書や部下、または妻に処分を任せたこともあった。彼らのうちにスパイがいれば、手紙そのものを手の内にすることは容易だ。それらの品物が世に出れば、ナポレオンの評判を著しく貶めることになる。
 ナポレオンの人気が絶大であれば問題はないだろう。彼への歓声が全てを打ち消してくれる。しかし、落ち目となれば話は変わってくる。フランス革命の最高潮の頃、王家に関わるその手のスキャンダルは、新旧を問わず掘り返され、人々の目に晒された。王を処刑台に送ったのは革命政府だが、市民からの反発を受けるとなれば実行されなかっただろう。逆に、助命嘆願を行えば革命の敵であるとしてリンチを受け、議員であれなぶり殺しにされかねない情勢だった。当時は革命に対する反逆は、法に明記された犯罪だった。そして、民衆が私的な裁判、虐殺を行おうと正当化された。革命の最盛期はそうした時代だった。結局のところ、王を処刑台に登らせるのは民衆であり、民意なのだ。ナポレオンの王位は、かつてのブルボン王家よりよほど壊れやすくできている。
 加えて、ナポレオン一族はナポレオンほどに高潔ではなく、俗物的な者も多いため、金銭、異性に関してルーズで、スキャンダルも多かった。ナポレオンは手を回してその多くを闇に葬ったが、ナポレオンの親族はいつまでもコルシカ島のブオナパルテ家の気分のままだった。しかし今やナポレオン一族はヨーロッパを分配、私物化する王族なのだ。彼ら、彼女らの醜聞は、王を奪われたと感じている諸国の反発心を刺激し、反乱の気運となることだろう。足元で火が付けば、国外での反発を抑えきれない。そのような機微を、唐突に高みへ持ち上げられたナポレオンの親族は理解していない。ナポレオンは内から外から攻め立てられ、打倒されることとなるだろう。お得意の外征さえ行えなくなる。パリを出れば即クーデターという時勢にすらなりかねない。
 フーシェの最重要機密とはつまり、ナポレオンを追い落とす最後のピースとなる代物だった。死に追いやる劇毒、政治的生命を断ち切るギロチンの刃に等しい。タレーランならば、ナポレオンを追い落とすのにそのようなちまちまとした努力を必要とはするまい。各国政府の目的を調整、理想に向けて妥協を求め、囁いて回り、人を動かすだけで準備を終える。あとには機会が巡ってくれば、ナポレオンを権力から切り離すことを実現してみせるだろう。
 しかし、タレーランの判断は怜悧にすぎ、高度に政治的な能力を持った人々は理解できても、民衆には理解が及ぶことはない。また、あまりに素早くことが運ぶ故に、民衆は政治を私物化した連中が物事を動かしたと感じることだろう。この点において、タレーランは一度道を誤り、国外へ逃亡せざるを得なくなったことがある。革命の落としどころとして企図した、教会財産の国有化がそれである。教会財産を抱えすぎていてはやがては民衆の手によって乱雑に奪われることになろう。貪欲な貴族どもと足並みを共にしていれば、革命の大嵐に巻き込まるかもしれず、教会勢力そのものが破壊されてしまうかもしれない。先んじて国家に提出することで民衆の側に立つ、教会を生き延びさせる、という策である。これを起点として貴族からも妥協を引き出すつもりだったが、貴族や王の親類たちは革命を軽く考えて強硬に反対し、一方で革命派の最先鋒は王の処刑、貴族制の解体を望み、両者の対立から革命は落とし所を見失って泥沼化することになる。
 タレーランはいつでも正しい答えを導き出すのだが、低俗な世間の方がそれに追いつかないのである。ゆえに、仮にナポレオンを追い落としたとしても、落としどころがうまく計算されすぎているがために、ナポレオンを処刑するところまでは持っていくことができないだろう。タレーランは誰もにとって得のする落とし所を見つけることで、穏やかに事を運ぼうとする。命を繋ぐことでナポレオンにも納得させるのだ。タレーランは悪辣だが、優しい男でもあった。
 タレーランは現在の情勢を読み切ることはできるが、それは世間が穏やかに過ごしており、物事が常識的な判断で動いている時だけだ。世間が非常識な判断を下しはじめると、論理が通用しなくなり、タレーランは高い知能のためについてゆけなくなるのである。理性のない状態ではどのように動いてゆくかまでは分からなくなるのだ。そのあたりの異常性をうまく操るのは、フーシェ、あるいはナポレオンの方が長けている。ナポレオンにしても、誰かを生贄にして済ませることをしないから、フーシェの方が悪辣で、より向いていると言えるかもしれない。
 自得のためには他人の命が失われてもどうとも思わないのが人間の性なのだ。それに抗うことができたのは、ダントンや、ロベスピエールらごく一部だろう。処刑台に登ることを分かっていて逃亡を選ばず、裁判で訴え続けた国民公会の議員たちのうちにも……そのうちいくらが時勢の読めなかった者なのか、あるいは真実革命の敵だったのかはわからないが……そうした気骨の士が幾人もいた。
 タレーランとフーシェを比べてみるに、フーシェはタレーランほど才気立ってはいない。タレーランは怠惰であり、その怠惰さのために、楽で、解決までの最短方法を見つけ出す。彼のような閃きは持たないが、その代わりに細々とした働きができる。ちまちまとした資料集めに精を出し、貯め込んで整理しておくことができる。タレーランにはそのような地味で疲れる仕事などはとてもやっていられない。そもそも政治的な道行きについて、民衆に語りかけて理解を求める必要がどこにあるだろう。道理を弁える人間と話をし、素早くことを運べばよい。どうあっても民衆は文句を喚き立てるだけだ。一方でフーシェは、政治を専門とする人間ではなく、民衆たち、政治的感覚のない地下人たちに呼びかける。時間はかかるが、論理そのものを突き動かすことができる。元々権力から遠ざけられている者たちは、その臭いを嗅ぐだけで興奮しはじめ、熱狂を呼び起こし、国家の根本から揺るがすことができるのだ。
 革命の時期にはその手の煽動者が多くいた。ダントン、マラーが実力第一であっただろう。民衆からの人気も随一であった。ロベスピエールは彼らほど民衆を煽り立てはしなかったが、民衆によって勢力を得、そして民衆の勢いを御しきれなくなった。『第三身分とは何か』を書いたシェイエスも文筆家であり扇動者だったし、民衆の蜂起を呼びかけ、バスチーユ襲撃を発生させたデムーラン、あるいは過激な極右新聞を書き立てたエベールなどもそうである。政府を転覆させてしまうような革命を起こすには、民衆の熱気が必要なのだ。革命の闘士たち、それも民衆蜂起の乱暴な方法を知っているような者たちが軒並み地下へ行ってしまった後では、民衆の扇動をよく知っているのはフーシェ一人となった。
 いわば、政治の問題点を指摘するという意味合いで、現代で言うマス・コミュニケーションの役割があった。フランス革命期は、活版印刷の発明から百年以上が過ぎ、マス・コミュニケーションの隆盛期に当たった。しかし、その重要性に気づく者は少なかった。ナポレオンもそれを知っていたうちの一人だ。彼は戦場において、大陸軍戦報の草稿を自ら書いてパリへ送った。皇帝自らの戦勝報告は、民衆の愛国心と自尊心を高揚させ、満足させたことだろう。
 そもそも国家運営とは、一部の政治人だけで行うものではなく、国民全員誰もが関わっているものなのだ。間接民主制においても、選挙という方法で関わりを持っている。しかし代議士としてパリへ送られた地方の者たちが穏健な方針を持っていても、概して急進的なパリの民衆の熱気に当てられれば、穏健ではいられなくなる。地方と中央で温度差が生まれるのにはこれが理由である。この温度差が致命的になると、ヴァンデ地方の反乱のような大規模なものになる。自らの意見が中央政府に無視されていると感じる時、武器を取って立ち上がるというような暴力的なものになる。フランス革命の最盛期のパリでは、常にこれが起こっていた。
 革命の熱狂は民衆に権力の手触りを思い出させる。投票で反対票を入れたところでたちまち相手を死刑にはできないが、蜂起を行えば、雲の上の高みにいる人間に、罵声を浴びせ、裁判にかけさせ、処分を決めることができるのだ。群集心理的な暴走と呼ぶのは簡単だが、その手の集団的狂気が時に世の中を動かしてきたのだ。群衆が街頭に群れて叫ぶ『革命だ』の鈍い響きは、権力者においては、ギロチンの冷たい首触りを思い出させることだろう。
 しかし、革命は衆愚政治へと一直線に繋がっている。革命は常に標的を求め続ける。熱狂は長続きさせてはならず、あくまでも臨時の措置に留めなければならない。火をつけ、消火をするのも、フーシェの呼吸一つというところで留めておかなければならないのだ。そのあたりの感覚を、フーシェはよく知っていた。
 話が長くなったが、フーシェの持っている最重要機密とは、民衆を焚きつける燃料となるものだった。ギロチンの重たい刃の部分であり、その綱はフーシェが握っている。自らの首を落とすことのできる得物を、フーシェのような男に握らせておくことをナポレオンが喜ぶはずもなく、武器を奪ってしまうことをナポレオンは考えた。これは取引でもあった。貴様をギロチン台へ送らない代わりに、貴様の握っている武器を差し出せ、というわけである。
 普通であれば、この要求に応えるほかはない。これを弄ぶことは、デーモン・コアの実験に似た、命をかけた天秤遊びである。フーシェは限界を見定めていた。命はひとまず保証されている。どこまで攻めることができるか、どこまでやれば命を奪われるか。その限界を超えた時、フーシェの身がナポレオンの手の内にあるか、それともないかだけだ。
 情勢を省みるに、大勢はけしてナポレオンの側にはない。政府、民衆ともにフーシェに同情的だったことは先に述べた。ナポレオンの権力は既に揺らいでおり、その命脈も長くは見えなかった。ヨーロッパじゅう全てがナポレオンの敵になりつつある。ナポレオンは一人、逆さピラミッドの上で夢を見続けている。
 タレーランなども既に帝国死臭を嗅ぎ、ナポレオン以後を考えて動いている。情勢は悪くない。むしろ、いつナポレオンが失墜するかもしれない時期に、ナポレオンの最重要機密を失えば、ナポレオン以後の権力争いのレースに勝てない。
 確かに今は命の限界だ。しかし、武器を失うことを思えば、皇帝と言えど、有利はこちらにあるとフーシェは見た。限界がまだ先にあると見れば、スリルを求めるのはフーシェの悪い癖だ。
「書類は既に焼き捨ててしまいました」
 フーシェの館を訪れたナポレオンの督促人は、人を薄ら馬鹿にした返事を受け取らざるを得なかった。


 ナポレオンはどのように怒り狂ったことか。その怒りの表情を思い浮かべる楽しみのためだけに、フーシェは意地の悪い返事をさせたのだ。全ては悪い癖がさせたことだった。
 フーシェの返事は馬鹿げている。フーシェには何一つ得をしない行動だ。機密が消えればナポレオンは喜ぶが、フーシェは武器を失うだけだ。フーシェが全て捨てたなどということはありえない。それなりの量の書類が出てこないことには、フーシェの疑いは晴れない。量をごまかすならまだしも、まったくないはずがない! 嘘であることはたちまち知れた。抗うならまだしも、嘘をつくとは。ナポレオンの怒りは例えようもないほどであった。しかし、その怒りを思うがままに発することもできなかった。ナポレオンの立場はそれほどに悪かった。
 フーシェもフーシェならば、通達を行った部下も部下だ。馬鹿げた返事をよこされても反駁もせず、すごすごと引き返してきた。ナポレオンの弱腰がそのまま表れたような心地で、良い気分ではおれなかった。乱発という言葉が似合うがごとくに、ナポレオンの取り立て人は繰り返しフーシェの館を訪れた。来るたびに、取り立て人の地位は高い者に変わった。いよいよ、その人がナポレオンの腹心中の腹心、ナポレオンの愛人ともあだ名されるベルティエ元帥になり、それも夜半、極秘裏に訪れるに至って、フーシェは限界が近づいたと予感した。ナポレオンの握った得物はまだ振り下ろされてはいない。機先を制して逃げるならば、ここらが潮時だ。ベルティエが兵を引き連れていれば、いよいよ終わりかもしれない。しかし、限界はまだ先だ。フーシェは会うことにした。ベルティエは一人だった。賭けには勝ったらしい。
「枢密顧問官どの」と、ベルティエはフーシェを呼んだ。フーシェの次なる官職である。「お遊びはここまでです。速やかに品物を差し出し、陛下に頭を垂れるべきです」
「ベルティエ閣下、あなたはそれを言いにここへ来たわけではございますまい」
 ベルティエは、むしろ罪を問われている側であるように汗をかき、首を縮めた。
「あなたは十人の精兵を引き連れ、私を逮捕するように命じられているはずだ。違いますか?」
「品物を引き渡して下されば済むのです。あなたを逮捕するのは本意ではありません」
「ないものを差し出せと申されても、ないものは差し出せません」
「そうやって意地を張り続けるならば、命を差し出すことになりますぞ」
 ならばと挑戦する代わりに、フーシェは沈黙した。ベルティエにも人に知られたくない秘密はある。
「あなたを逮捕したくはない。あなたに嫌われるのは恐ろしいことなのです。確かに、皇帝は偉大なお方だ。皇帝が、あなたをごみ屑のように扱っておられれば遠慮しなくて済むのだが、皇帝はあなたを恐れておられる。あなたには力がある」
 だからどうか、とベルティエは懇願した。当時の軍人は粗暴な者が多く、軍人として最高位の元帥の者でも読み書きが不十分な者さえいた。乱暴、粗暴でこそ男らしいとされていた価値観に反し、ベルティエは几帳面で女のように細かいことを馬鹿にされていたが、フーシェの恐ろしさの実を知っていた。逮捕すればフーシェはそのまま処刑台へ上がることになるだろう。しかし、ナポレオンはフーシェの実力を惜しんでいる。生き延びる可能性もある。加えてイギリスとの和平を望むイギリス派からの恨みを買うことにもなろう。イギリスとの和平が理性的な判断であると、ベルティエにも分かっている。
「あなたはお帰りなさい。しかし、兵をよこす必要もない。明日、直接皇帝陛下へご挨拶に赴きます」
 フーシェがそのように言っても、ベルティエはすぐには引き下がらなかった。しかし、権力とは、自らのわがままを通す力である。フーシェがそうすると決めたからには、結局は根負けして引き下がらざるを得なかった。ベルティエは子供の使いのように引き下がり、ナポレオンはまたもや腹の立つ報告を受け取らなければならないだろう。しかし直接弁明に来るという返事は受け取った。

 ベルティエが訪れた次の朝、フーシェは馬車を用意させた。宮殿へ向かうための用意である。既に皇帝へは知らせを出し、公式に面会を謝絶された後である。ここまで抗ったフーシェもいよいよ年貢の納め時だと、政府でも街でも噂は人の口に上った。フーシェは慌ただしく出発せざるを得なかった。出発直前、フーシェは正邪へ手紙の束を差し出した。
「なんだい、こりゃ」
「それを届けておいてくれ」
 手紙の束は正邪にだけ渡されたものではなかった。他の部下たちへも、似たような束を渡していた。届けるべき相手はどれほどの数になるか、予想もできない。
「それもいいが、あんたとナポレオンの会談の方が気になるな。そちらを見てから届けることにする」
「そんなものは実現しない。そのまま国外へ出ることになるぞ」
 フーシェは正邪に渡した束を取り上げ、別の者へ手渡した。馬車が動き出そうとするのを、正邪は足置きへ飛び乗って手すりを掴みながら、フーシェに問いかける。
「どういう手紙なんだ」
「ナポレオンへ取次をと」
「あれほどの量を。誰彼なしじゃないか。それで通用するようなタマか。お前、もしかして怯えてるのか」
 口元でごまかすように小さく何かを呟き、それ以上答えなかった。正邪は素早く窓から車内へ飛び入ると、スカートの中から変装用具を取り出して、素早く淑女の格好へ変身した。
 急ぎに急がせた馬車は、たちまちのうちに宮殿へたどり着く。フーシェは威儀を払って馬車から降りた。門前では兵士が、フーシェを待ち受けている。ナポレオンから命令は受けているはずだ。けして内側へ入れるなと言わんばかり。どのような先行きになるのか。膝をついて、合わせてくれと懇願でもするのか。かつてロベスピエールに命を狙われた時、そのように哀願した。それを繰り返すのか。正邪は顔を飾り布で隠しながら、フーシェの様子を伺った。しかし、降りるなり踵を返し、馬車へ乗り込んできた。
「まだ兵士に声もかけていないじゃないか」
「そんなことをしたって無駄だ。通りを見てみろ、人は宮殿を訪れたが追い返されたフーシェを見た。それでいい。充分だ」
「どうするんだよ」
 フーシェは答えなかった。次の瞬間には、フーシェは人変わりしていた。変装の術はかつてバラスの密偵をしていた時に身に着けたものだ。衰えのない冴えを見せた。伸びた背筋は折れ曲がり、髪はぐしゃぐしゃに乱されて垂れ下がり、服は小綺麗な貴族の服装から、長ズボンをはいた浮浪人の姿へと変わった。すえた臭いすら漂い、そこにはオトラント公爵の姿はなかった。御者の姿がぐらりと傾いたと思うと、仕掛け馬車の隠し扉が動作し、御者とフーシェの位置が逆になった。
「予定を変更する。こいつを使う、君は降りていい。先行してイタリアへ」
 御者は飲み込み顔になり、馬車から素早く降りて消えた。御者の席へ座ったフーシェは、「この年で御者か」とぼやいた。馬車の乗車席へ長時間座っているだけでも相当の疲労がある。馬を御して行くとなれば疲れも倍だ。しかし、そのようなことは言っていられない。馬車は通りを南へ走り抜けた。
 やがてパリの南端へたどり着く。街境の城門では、パリを入出する目的と姓名、また旅券や身分証明書を提示させられる。不届き者や不審者がいれば問いただす必要があるため、城門の内外には長い列ができ、並んでいる者たちは、不平不満や愚痴を言い合っている。折からの治安の悪化で警戒は厳しいが、出てゆくものには比較的緩い。どのように警戒を厳にしても、袖の下で突破する者は必ずいる。警察の給料が安ければ必ず賄賂は発生するが、軍費に多くが割かれるナポレオン政権下ではそれも致し方ない。ならば、警察の一人一人へ厳命を下すより、別のところで見張る方がよい。警察にも知られていないフーシェのスパイは警察内部にもいた。フーシェの順番が来た。
「アルノ婦人の馬車です。イタリアへ旅行で、通りたく……存じます」
 言葉遣いさえ、たどたどしく、無教養なものへ変わっていた。配備された警官は旅券も、御者としてのフーシェ自身の身分証明書(偽物)も、見もせずに笑みを返した。
「存じております。公式にはその通りに」
「本物の旅券でして。ごまかす必要なんて、とてもとても。……通らせていただきますよ」
 城門を通り抜けると、しばらくはしずしずと進んだ。人目が多いためだ。正邪は御者席のフーシェへ呼びかけた。
「うまいこと旅券が出たもんだな」
「普通なら出るもんではありませんよ。外務大臣様にも、漏れては困ることがあるのでしょうな」
「いつまで御者言葉で通すつもりだよ」
「イタリアへ着くまではこの通りで頼みますよ、お嬢様」
 やがて徐々に、馬車はスピードを上げていった。影なき追跡者を怯えるがごとくに、フーシェの逃亡行が始まったのだった。


 オトラント公爵はパリから消えた。ナポレオンから門前払いを食らうフーシェの姿が話題になったかと思うと、数日後にはイタリアにいると噂が流れた。ナポレオンの腹心たちがイタリアへ放たれた。彼らはナポレオンの腹心たち、精鋭の軍人の中でも特に忠誠心の篤く、後ろ暗い任務に長けた暗殺者たちだ。彼らは標的を連れ帰ることを命じられてはいなかった。フーシェがパルマにいる、いやフィレンツェだ、ピサだと聞けばたちまちそこへ向かった。
 彼らに友情があったというのは嘘だろうか。ナポレオンはフーシェを殺すつもりで部下に命じ、フーシェは人殺しに追われたがごとくに狂奔した。まさしく狂したというのが相応しい乱雑さで、フーシェはイタリアを駆け回った。暗殺者から逃れるためか、あるいは各地の有力者へ取りなしを頼むためか、その両方を行いながら、行けるところへはどこへでも走った。彼らはそうやって旅を続け、いくつもの町を通り過ぎた後に、リヴォルノの町に至った。イタリアの西、港のある海沿いの町だ。逃げに逃げ続けて、このような場所へ来てしまったのだ。
 正邪から見れば、逆効果にしか思えなかった。有力者と見ればどのような者にでも会うが、とてもナポレオンに取りなしができるようには見えない者にも会う。その中にはナポレオン寄りの人物もいて、彼らはフーシェの居場所を密告する。それが暗殺者を呼び寄せるのだ。おかげで街から街、安宿から安宿へと渡り、逃げ続け、ぼろい一室にこもって隠れていなければならない。
 誰彼なしに手紙を送りつけ、足音にびくびくし、小窓から顔を出すことさえ控えて過ごさなければならない。全く、彼らしくない振る舞いだ、と正邪には思える。もしくはこれが彼の行きつくところなのか。運が良ければ国を追われた無一文の浮浪者、悪ければ死体となって放り捨てられ、どことも知れぬ安宿のベッドの染みになる。彼の行く先には良き運命はなく、むしろそれを遠ざけようと努力しているように見える。
 閉塞感があった。これまでフーシェに付き合って面白いものを見てきた。今回も、何かの策を練るのだろうと思っていたが、子供に捕まった昆虫が足をばたつかせるようにあがくだけだ。イタリアへ来たというのに毎日逃亡ばかりで、飯もろくに食わず、楽しみは何もない。
 まだ夜はそう深くはない。料亭とは行くまいが、酒屋ぐらいなら開いてるだろう。せめて腹一杯に何かを食いたいものだ。ついでに、フーシェにも何か差し入れをしてやるか。そう思って正邪は夜の町へ飛び降りたのだ。まるで熱月の夜のようだと思った。あの頃も、こうやって夜を走り、厩舎で寝ているフーシェに黒パンを届けたっけな。

 宿へ戻ると、フーシェの姿はなかった。蝋燭の灯りに縋って手紙を書いていたはずだが、蝋燭の灯りもなかった。闇の中へ踏み入り、月光を頼りに窓際へ歩み寄った。光を取り入れようと窓を開け、月光を頼りに蝋燭に火を点ける。室内には二人の男がいた。彼らは無音で立ち、正邪を見据えていた。
「フーシェの女か」と、一人が囁くように言った。夜の地表を滑る冷気のような声だった。寝室の方から、もう一人の男が足音も立てずに表れた。三人の暗殺者は、フーシェの宿を突き止め、忍び込んで探っていたのだ。暗殺者と危うく鉢合わせそうになったことはあったが、遂にこのような距離にまで迫っていた。寝室から表れた男が言葉を繋いだ。
「奴はいない」
「インクの蓋は空きっぱなしだった。手紙は書きかけで、インクも乾いていない。慌てて逃げ出したんだ」
「女を放ってか。ひどい野郎だ」
「こいつはどうする」
 最初に声をかけた男が、正邪の腕を掴んだ。どうするべきかの沈黙があった。しかし、沈黙は短かった。彼らは素早く結論を出した。
「まだ標的は近くにいる。女にかかずらっていては標的を取り逃がす。閣下にも標的以外の者もやれとは命じられていない」
「それに、女に手をかけるのは男のやることじゃない」
 他の二人に比べればまだ人間味のありそうな男がそう言うと、総意であるように三人とも納得して、部屋を抜け出した。彼らは元からそこにいなかったかのように、その場から消えた。正邪は素早く火を消した。灯りがなくなると、部屋は無音になった。正邪もまた、夜を駆ける化生の本性を明らかにして宿を飛び出し、夜の中へ消えたのだ。

 暗殺者たちが調べたところによると……標的は確かにこの夜までは町にいた。街道沿いは別の者が固めており、街道を外れて森や野原を抜けたとして、近くの町々でも目撃証言はない。フーシェもまた闇の中へ消えてしまった。
 暗殺者たちが探し回っている夜のうちに、フーシェはイタリアを離れていた。どのように潜り込んだのか、アメリカ行きの旅客船の乗員になりおおせていたのだ。アメリカは時を待つには良い場所だ。かつてタレーランは行き過ぎた革命のために危険が迫り、アメリカへ亡命した。カルノーもナポレオンに呼び戻されるまではアメリカにいた。アメリカの中央部ルイジアナは1803年までフランス領であり、フランス人開拓者もいたため潜りやすかった。ナポレオンが失墜するまでそこに潜んでいるのもいいだろう。
 安全がそこにあった。しかし同時に、権力から遠ざかることも意味していた。ナポレオンがいなくなったとしても、アメリカにいては、パリへ素早く帰ることは不可能だろう。大西洋を隔てて、物理的な距離がそこにはあった。できることなら、権力の側へ、フランス本国の内へいたかった。
 しかしそういった事情とは別に、フーシェにはこれ以上一秒たりとも船に乗っていたくない理由があった。彼は変装の達人だったが、アメリカ行きの旅客船では非常に目立った。いつも部屋へ引きこもり、時折飛び出してきては勢いよく嘔吐する、船酔い男として有名になってしまったのだ。普通なら数日で慣れるところだろうが、フーシェは一向に船酔いが収まることはなかった。
 船酔いは体質的なものであり、症状の軽い者には理解しがたいものである。しかし、長距離を移動する当時の人々にとって、船旅はいつ終わるとも知れぬものであり、またいつ沈むかもしれないという精神的ストレスも相まって、時には自殺者が出るほどに深刻なものだったという。アメリカへ着くまでは何ヶ月かかるかもしれず、とてもそれまで耐えられそうにはなかった。彼はその生来の船酔いのために、家業である漁師になることはできなかった。彼が船酔いに強い体質であれば、人生は大きく変わったことだろう。しかし今度は悪い方へ舵を取り、ヨーロッパへ引き返さざるを得なかった。
 折よく、船は南のナポリ王国へ寄港した。それを幸いに、フーシェは船を降りた。フーシェにとっては都合のよいことに、暗殺者たちはアメリカ行きの船にフーシェが乗ったとの噂を聞いて、アメリカまで追いかけることはできないと、ナポレオンへ伺いを立てにフランスへ帰ってしまっていたのだ。フーシェはイタリアにいるスパイを使って暗殺者の動向を探り、ひとまずナポレオンの刃からは脱したと安堵した。


 フーシェの消息はリヴォルノを最後に消えた。彼の行方は、誰にも分からなくなった。パリでは二つのことが話題となった。一つはフーシェの行方であり、もう一つは、ナポレオンへ諫言のできるフーシェがいなくなったからには、ナポレオンを止める者はいない、ということだった。
 パリへ戻った正邪は、世評を聞いた。フーシェの評判は悪くなかった。新聞ではフーシェに同情的な記事を乗せている。この風評がフーシェの手の者によって作られた風評だとしても、ナポレオンはそれを制することもできていなかった。せいぜいが反フーシェの新聞を出して対抗する程度だ。それでも、警察の質が悪くなったことはごまかしようがなかった。
 仮にフーシェに対し悪い風評を作れていたとすれば、ナポレオンはフーシェを二度とパリへ戻れぬよう工作を行ったことだろう。外交官を通じてフーシェを指名手配させ、彼の資産を抑えることもできた。しかし、世評が彼に同情的であればそのような強引な手は取れない。フーシェに対し攻撃を行えば、フーシェは機密の暴露も辞さなくなる。国外の者もフーシェと揉めていることはフランスの政治に口出しをするチャンスだと見るだろう。フーシェが外国の手を借りてナポレオン排除を考え始めるかも知れない。ナポレオンは密室の中で、彼の個人的な部下にフーシェの愚痴を喚き散らすほかはなかった。
 ヨーロッパで反ナポレオンの機運は高まっている。世評の風に吹かれて、国内でもナポレオンの地位は盤石ではない。好戦的なナポレオンを頭に頂いていれば、戦争は終わらない。恒久的な平和関係を外国と結ぶならば、戦争で得た領地を返さなければ納得しないだろう。ナポレオンはどうあってもそれを許すことはできず、新たな戦争と戦勝を欲していた。
 だが戦争に向かったところで、フーシェがパリへ潜り込み、クーデターを起こされればと考えると、彼を放置することはできない。頭を下げに来るか、身柄を確保しない限りは外征にも行けなかった。そして外征なしにはナポレオンの地位は保全できない。フーシェのやつめ、丁寧な手紙も書き、警察大臣以後の職もくれてやったというのに、こちらを馬鹿にしてかかっている。そのフーシェのために、こちらは打つ手を封じられている! なんと忌々しいことだ。隠密裏に事を運べない以上、行方不明の形で暗殺してしまう他はない。しかし、国外にいると見られるフーシェの暗殺は遅々として進まなかった。
 正邪の見るところ、フーシェに分の悪い勝負だった。フーシェはどこかで殺されるか、あるいは逃亡生活をいつまでも続けなくてはならないだろう。ナポレオンは地位を保つためには何でもする。そのナポレオンがフーシェの排除を急いでいる以上は、実質的な追放状態は続くだろう。ナポレオンは勝手に倒れるかもしれないが、その時にパリに戻っていなければ、政治の空白期間はたちまち誰かが埋めてしまう。ならば、降伏するほかはない。
 正邪は決意した。連中は子供のようだ。互いに意地を通し合っている。それはそれで見ものだが、いつまでもそうしていられてもつまらない。ナポレオンが戦争をやめられないように、フーシェもまた武器を手放すことができないならば、よろしい。私がことを進めることにしよう。

 ボンヌには夫の他に何もなかった。政治的な知識もなく、頼るべき有力者も知らなかった。彼女は毎日を泣き暮らしていた。
 フーシェの妻ボンヌは凡庸な女性で、夫を無心に頼るほか能のない女性だった。フーシェがあまり食事会やパーティを開かないのは、妻が不器量であるからだとか、不細工であるからと噂された。タレーラン夫人が凡庸であることもそうだが、タレーランやフーシェのような利口な男性が、同じように利口で知性のある女性を選ばないのは、夫人の身分で主人を代弁し、時に勝手を起こされることを嫌ったためかもしれない。女性が有能であることは時に不幸にもなる。ジロンド派のロラン夫人が良い例である。彼女の夫は一時大臣まで務めた有力者だが、妻の後押しによるものが強かった。彼女はサロンの主として政治に積極的に関わったが、ジャコバン党が政権を握ると、政治に深く関わっていたことが仇となり、刑場の露と消えた。夫はそれを聞くと自殺した。
 タレーランと違いフーシェは女性に疎かったため、押しの強い女性は苦手だった。フーシェ夫人は穏やかで、夫を裏切ることはなく、家族を大切にする女性だった。フーシェとしてはそれ以上のものを求めなかった。
 ボンヌは夫が逃亡したことで、憔悴しきっていた。夫がナポレオンに嫌われていることは知っている。身一つで逃げざるを得ないような立場におり、いつ夫人にも危険が及ぶかもしれないからと、逃亡を勧めてくれた人もいた。しかしボンヌには頼れる知り合いもおらず、自分一人で逃亡など考えもよらなかった。夫がいれば何事も頼ることができるのに、と気鬱になっているほかはなかった。
 結果としてそれは賢い行動であったと言えるかもしれない。扉を閉ざし、ほとんどの来客者を断っているならば、何かを企むことはできない。慌ただしくしていれば、逃亡を用意するか、クーデターの用意をするか、何かを企んでいると見られただろう。この情勢ではフーシェの味方をするのも度胸がいる。少ない来客者のうちにはナポレオンのスパイも混じっている。自ら門を閉ざすフーシェ夫人の振る舞い、スパイからの報告を受けて、怪しげな企みをしていないとナポレオンも考えたことだろう。浅知恵を働かせるよりよほど賢いと言える。
 フーシェの家族を逮捕し、人質とすることもできたが、ナポレオンにはそのつもりはなかった。フーシェ夫人が大した能力を持たず、フーシェの不在時に彼の代わりをして政治的能力を発することができないと知っていたからだ。それに、フーシェ夫人の振る舞いはいかに弱々しいことだろう。自ら抗弁する言葉も持たず、ただナポレオンの慈悲にすがっている。フーシェの家には女と、まだ成年していない子供たちしかいない。そうした者たちは、ナポレオンの人生においては、庇護すべき対象だった。ナポレオンは個人的な信条として弱い者をいじめることはしなかった。
 ボンヌはそうは考えない。だから、捕まるかもしれない、殺されるかも、という恐怖は常にあった。夫が早く戻ってくることだけが彼女の望みだった。故に、フーシェの密偵である、彼の遣いで来た、と、怪しい子供に聞かされれば、彼女はそれに縋らざるを得なかった。

 自分を警察の密偵と言い、小娘はろくな名乗りもせずに表れた。言われるがまま主人の執務室へと案内したはいいものの、ボンヌは疑いを持った。本当にそれで正しい行動なのか。
 確かに、夫の名を出されれば信じる他はないのだけど、夫の執務室はフーシェ夫人ですら足を踏み入れたことのない彼だけの密室だった。彼の部下ももちろん部屋へ入れたことはない。彼の部下も部屋の外へ待たされ、手紙や文書類を渡されるだけだ。密偵は扉を開け、暗い室内を眺めている。
「あの」ボンヌは密偵を呼び止めた。「夫からは、どのような指示を受けて……」
 ボンヌからすれば、自らのルールから踏み外した瞬間だった。夫に疑いを持たず、無条件に信じるというのが幸福に生きる知恵だった。しかし、夫のやることは、ボンヌにはわからないなりに筋のようなものがあり、この密偵の行いは、筋が外れていた。ボンヌにはフーシェのことはわからない。フーシェのことをわかる人間などはこの世にはいないかもしれないし、この密偵は妻であるボンヌよりも信頼できる腹心の部下なのかもしれない。しかし、この部屋へ入れるわけにはいかない、とボンヌは直感した。
「彼からの指示でね。机の一番下の引き出しに隠し空間がある。そこにある小箱を取り出して、ナポレオンへ届けろとの命令だ」
「あの、それは本当に、夫の指示で……」
「あんたがそれを疑ってどうするんだ。本当か嘘か、あんたに分かるのかい」
 それはそうなのだけど……。密偵は蝋燭に火を灯した。中を探るつもりなのだ。ボンヌは意を決して、密偵を追い、執務室に入り、呼びかけた。一歩入るだけでも、怯えてしまうほどの罪悪感があった。
「あの」
「なんだい、何度も」
「主人を待つことにします。主人の言うことを聞いてから……」
 密偵は足を止めた。数拍の間があった。密偵はボンヌを押しのけ、廊下へ出ると蝋燭を吹き消した。夫の部屋から出てくれた、という安心感が彼女を包んだ。
「あんたの言うとおりにしよう。だが、そのせいで手遅れになっても知らんぜ。ナポレオンの手が今にも伸びてこないとも限らないからな」
 密偵はそう言い捨てると、廊下を勝手に歩いて行った。ボンヌは見送りのために追ったが、それも待たずにどこへも知れずに消えてしまった。

 何も正面から行くことはなかった。こっそりと忍び込んで、盗み取ればいい話だ。何もフーシェがいる時にしか忍び込んではいけないルールはないのだ。正邪は悪いことをするのに罪悪感は覚えないが、悪いことをしたと知られないのもつまらない。こっそりと悪いことをして誰にも知られなければ、正邪のような者はいないのと同じだ。忍び込んだならば忍び込んだことを咎められなければならない。フーシェの家に忍び込むのも、彼がいる時に堂々と忍び込むのがルールのようになっていた。
 フーシェの最重要機密を盗み出すのは、明日にすることにしよう。ナポレオンへ届ければフーシェの命までは取るまい。フーシェのやつはまた私によって救われることになるな。奴め、私に感謝しろよ。
 しかし正邪の企みは、フーシェ夫人によって破られることになる。その次の朝には、フーシェ夫人は宮殿へ出頭し、フーシェの最重要機密、ナポレオン直筆の手紙、誰にも見られたくない最悪の恥部をナポレオンへ提出してしまったからだ。
 ナポレオンはそれを信じることにした。それがフーシェ夫人の勝手だとは夢にも思わなかった。これはフーシェの命令だ。奴は頭を垂れて見せた。となれば、そこに何かの企みがあるとしても、機密の全てではないとしても、許さざるを得ないのだ。パリを身一つで抜け出し、イタリアを逃げ回り、いよいよ窮したことだろう。ナポレオンに反対した者はこのような目に合うのだと。フーシェはこれ以上ないほど踊ってくれた。これ以上の見せしめは要るまい。その点では充分に役に立ったことだし、許してやってもよい。これでフーシェが出頭したならば処刑あるいは暗殺という大げさな手も打たなくて済み、揉め事も起こらずにひとまず事を収めることができる。
 しかし、フーシェにしては、いやに正直に秘密を差し出したものだと、ナポレオンは考えた。フーシェ夫人の差し出したものは真実フーシェの最重要機密の全てだったのだ。フーシェであれば小出しにするなど、策謀があっただろう。フーシェ夫人には政治的駆け引きも何もなかった。ただ夫が助かればの一心だったのだ。あるいはこれも愚ゆえの賢と言えるかもしれない。小出しにする策があれば、それを見抜かれた可能性もあった。
 機密文書は、その日のうちに、ナポレオン自らの手で、火中へ投じられた。ナポレオンの闇の部分は、永遠に歴史の闇に消えてしまったのだ。


 船を降りたナポリの地において、フーシェは潜んでいた。警戒の緩んだ現状、いつまでも見つからずに隠れていることも可能であった。しかし、フーシェは焦れていた。フーシェの望んでいた情勢の変化は起こりようがなかった。ナポレオンの帝国は揺らぎつつあるが、すぐさま倒れてしまうということもなかった。誰かが下手を打つまで待たなければならないが、ナポレオンに先手を打たれるという可能性もある。
 フーシェは次なる策謀を考えていた。誰かを火種に仕立てることだ。ナポレオンに恨みを持っている軍人か誰かに知恵を吹き込んで、クーデターを起こさせるか。それでフーシェから気が逸れるのを見越してパリへ戻る。あるいは、別のところでクーデターが連鎖し政府が傾くのもよい。
 正邪がナポリへ現れたのは、そのような時だった。正邪はフーシェの処遇について、パリでの風聞を語った。そして正邪自身の行い、フーシェ夫人の行いについて、何もかもを語ったのだ。フーシェは無言だった。哀しむことも、憤ることもしなかった。全ては運命のなし得ることだ。風向きが変わっただけのことだ。フーシェは息をつくと、椅子の背に身を預けた。
「お前、とんでもないことをしてくれたな」
「何、大したことじゃないさ」
「何もかも台無しにしてくれたよ」
「なんだよ。私はあんたの命惜しさにやったんだよ。あんたの嫁さんがしたのと同じだ。嫁を愛してるなら、あんたを助けようとした私も愛してくれてもいいじゃないか。私を怒れるのか?」
「お前が子供の姿をしていなければ、殴っているぞ」
「喧嘩もろくにしたことない奴がよ」
 フーシェは長く息を吐いた。正邪の罵倒など奥の手を失った痛みに比べれば大したものではない。しかし、正直なところ、潮時かもしれない。最重要機密がなければ、ナポレオンの追及はできない。元より、ナポレオンを倒せると確信がなければ使えないカードだ。それがあればいつでも勝てるというものではない。
 しかしその故に、これ以上ナポレオンもフーシェを追及はすまい。武器がなくなれば、フーシェは無力だ。これまでと同じように、力あるもの、すなわちナポレオンに頼るほかはない。また利用する機会があると見ればこそ、ナポレオンはフーシェを生かすだろう。
 限界ぎりぎりまで遊んだ。まだまだ遊ぼうと考えていたが、どうやら遊びは終わったようだ。勝ちがあるかもしれないと考えていたが、今や勝ちはなくなった。あとは痛みを少なく終わらせ、時勢を待つほかはない。必ず機会は巡ってくる。
 かくして機密は永遠に葬られた。フーシェはナポリ王を通じてナポレオンへ降伏を申し入れ、フランスへ帰ることを許された。しかし警察大臣の代わりとして与えられるはずだった役職は取り消され、しかもパリへ帰ることもならず、自らの領地に留まることを許されたのみだった。ナポレオンを倒すはずの醜聞は、フーシェ一人のホラと変わった。警察大臣の代わりに用意された枢密顧問官の役職も消え、フーシェは再び無官の老人となった。彼は保護観察の身分になった。枷がはめられたのだ。しかし、ひとまずは許された。
 ナポレオンは物事が一段落してしまうと、それで全て終わったと考えてしまうところがある。フーシェの権力を一時減衰させたからには、あとは力を持たせぬようにコントロールすればよい。ナポレオンがそのように考えている限りは、フーシェの命は安泰だ。それにフーシェは安堵した。
 実際のところ、イタリア中を逃げ回った恐怖は本物であった。刺客が常に付け狙っているという恐怖、一度振り払ったとてまた近づいているかもしれぬという恐怖。常に周囲を警戒し、生き延びるための策を張り巡らせねばならない。精神的に張り詰めた生活を送るには、フーシェは既に老い過ぎていた。正邪が機密を渡したと言った時、正直に言えばほっとしたところがあったのだ。ナポレオンに許されたとて、身の安全が確保されたとは言えない。フーシェは自らの領地に帰り着いて始めて、ようやく安心して眠った。
 フーシェの妻ボンヌもまた、夫の無事を知ってようやく安堵したことであろう。社交界に馴染まぬボンヌにとって、パリを離れることなど苦にならなかった。夫の腕の中へ飛び込んで、あるべきところにある安らぎを覚えたのだった。

 時勢は再びフーシェから遠ざかった。タレーランは既に抗う気をなくしており、フーシェは遠ざけられた。独裁を強めたナポレオンは、彼の最大の失策たるロシア遠征へ突き進んでゆく。未来のことは誰にもわからない。しかしナポレオンが底なしの野望を抱き続ける限り、ナポレオンが失墜するのは決定的だ。イギリス、オーストリア、ロシア、プロシア……周辺諸国はもちろん、フランス、パリ、民衆、ナポレオンの部下でさえ、ナポレオンの失墜を望み始めている。ナポレオンの軍隊がいかに強大で、神がかった指揮能力を持ち、加えて本人が無限の意志力を持っていようとも、潮流というものには逆らえない。ナポレオンの終わりを決めるのは本人ではなく、周囲の全てが決めるのだ。時を待つのだ。世界の全てが、やがてはナポレオンを放り出す。
「その時を待つのだ。このままにはしておかないぞ」
 妻の背を抱きながら、フーシェは心のうちで囁いた。
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