Coolier - 新生・東方創想話

鬼人正邪1804(4) 第一執政ナポレオン

2021/04/17 17:19:42
最終更新
サイズ
117.41KB
ページ数
1
閲覧数
1145
評価数
0/1
POINT
50
Rate
7.50

分類タグ

 1804 第一執政ナポレオン


 ナポレオン死すの報が届いた時、人々はどのような衝撃を受け取ったことであろう。1821年のセントヘレナではない。1800年のマレンゴでのことである。
 ナポレオンの権力とは、ひどくバランスを欠いた権力、バランスを欠いた国家であった。それはナポレオンの権力失墜の時まで変わらなかった。コルシカの貧乏貴族の出で、フランスの貴族であるわけでもなく、政治家として権力を握ったわけでもない。ただ地下の出であるということで第三身分の民衆から気に入られ、軍を率いさせれば他に例のないほどの軍略家であったというだけのことである。
 しかもブリュメールのクーデター直後では、軍での活躍で民衆から人気はあったものの、政治家としては何一つ成果はなかった。民衆の気分は移ろいやすい。時間が経ち次なる成果がなければ、再び政変が繰り返される可能性もあった。政府内では権力を得ようという実力者がその座を狙っており、国外では周辺の強国たちが国家を根本から根こそぎ倒そうとしている革命政府である。ナポレオンが得た権力とは、そのようなバランスの上に成り立っている力であった。ナポレオンはまず、迫りくる国外の暴力をはね退けなければならなかった。
 戦争は以後二十年に渡って続き、ナポレオンは国内では権力闘争を繰り返しつつ、戦場に立ってヨーロッパを駆け回らなければならなかった。そして、それは元々バランスの悪い権力を更に傾かせる行為だった。第一執政、そして皇帝になってもナポレオンは戦場にあった。民衆はそのような英雄的な人物を好み、彼をますます信奉することになる。英雄とはすなわち民衆に希望を見せる者である。民衆は国家の先頭に立つ指導者を求めていた。革命で出てきた指導者たちはインテリが多く、戦場に立てる者は少なかった。また、兵士はあくまで兵士であり、政治の世界をかき分けて進める者は少なかった。戦場に立ち、しかも常勝である彼の名声は高まった。戦場にいることは権力を永らえさせることにもなったし、後の世の伝説にも語られる一因にもなった。しかしそのあまりにもリスキーな行いは、パリにおいて、いくつもの陰謀を作る要因ともなった。マレンゴにおける凶報もその火種の一つであった。


 ナポレオン死すの方が市内を駆け巡ると、皆が大騒ぎをした。執政政府は、実質的にはナポレオンの独裁だ。権力の頂が突然失われたようなものであり、後に座るものは落とし物を拾うがごとくの気楽さでその椅子に座ることができた。それ故に、権力を欲する者は、機先を制さねばならなかった。
 オーストリア軍に奇襲をかけようとするフランス軍の動きは完全に秘密にされ、その詳細を知る者はナポレオンの他にはいなかった。いざ軍を動かす時になって命令が伝達され、戦闘が終わった後に衆人は知るのみだ。つまり、フランス軍の動きや、ナポレオンの状況はひどく掴みにくかった。フーシェは以下の順で情報を得た。フランス軍はオーストリア軍のいるイタリア方面には進まず、北のスイスへ向かいアルプスを越え、オーストリア軍を背後から襲撃するべく機動した。オーストリア軍が撤退する前提で軍を進めたが、予想に反してオーストリア軍は会戦を挑んできた。勝敗は定かではないが、ナポレオンは死んだ。
 ナポレオン死すの報を持ってきた者は、フーシェの部下ではなかった。他の者に先んじて情報を仕入れることができなかったということだ。フーシェは情報の確度を上げるべく、オーストリア方面の情報集収を強化させた。やがて、マレンゴはどうやらフランス軍の敗北らしいという情報がオーストリア政府の周辺から出てきた。フランス軍の敗北であれば、ナポレオン死亡の事実も少しは信じられる。それに、敗けたとなれば敗軍の将だ。民衆の人気もがた落ち、政府にいる味方も雲散霧消することであろう。今ならば蹴落とすことができるかもしれない。フーシェがそのように思うならば、政府内にも同じように考える者がいるということだ。パリは荒れそうな情勢になりつつある。
「ようやく面白くなってきた」
 ナポレオンの周辺に潜り込んで自ら道化を演じる小娘、鬼人正邪は長いこと退屈な日々を送っていたが、ようよう楽しみを見つけた顔をした。政府運営をしているのを眺めていても面白くないし、今のパリにはこれといった陰謀もなく、ナポレオンが戦場に行ってしまってはますます面白くない。ナポレオンの凶報をよほど喜んでいた。正邪にとってはナポレオンそのものよりも、その名前の大きさをこそ面白がって眺めているようであった。そして、その生死の報で慌てふためく人間たちの様子も。
「それにしても、ナポレオンはイタリアでもエジプトでも生き延びた。あいつが簡単に死ぬものかね。敗けたとしてもそんなに諦めの良い男のようには見えなかったが」
 正邪はエジプトでのナポレオンを見ている。船団の壊滅、ペストの流行、度重なる異教徒の暴動にも不屈であった男。
「戦場はそういうものだよ。流れ弾は無数に飛び交っているし、それらをいつまでも避け続けるという幸運は滅多にない。長く続くと永遠だと勘違いしそうになるものだが」
「あいつがマレンゴで死ぬとなれば、運命の交差点はそこにあったことになる。私としたことが、見誤ったか。奴の死ぬところだけは見逃すまいと思っていたのに。それで、どうするんだ。これを見逃すお前じゃあるまい」
 選択。むろん、選択をしなければならない。しかし、どれかを選んではならない。同時に全てを選び取らなくてはならない。目の前にはいくつもの最悪の可能性がある。誰かに機先を制されて地位を失うかもしれない。ナポレオンが生きていて立ち戻ってくるかもしれない。親王政派の者が権力を握り、王族と妥協をして王政、あるいは立憲君主政というものにフランスが変貌するかもしれない。あらゆる可能性のうちから最良のものを選び取るためには、あらゆるものを制する陰謀が要る。
「シェイエスとタレーランの意向を探る。両者に協議を図り、表向きは彼らと同調する。ベルナドットを執政とするパンフレットを作成する」
 フーシェの口調は、天気の話でもするように何気なかった。やり口はいつもと同じだった。どのようにも取れる行動をとっておき、最後の一瞬で最善の一つを取る。
「いよいよ面白くなってきやがった。私も手伝ってやるよ。タレーランとシェイエスの周辺を嗅ぎ回ってやる」
「もう既に手の者が回っている。貴様に教えてやったのは、どこまでも知りたがるだろうからだ。いいか、シェイエスはお前のことを知っているか分からないが、タレーランは貴様のことを知ってる。エジプトからナポレオンにくっついてきた小娘としてな。奴にも情報網がある。うろうろするな。ナポレオンに嗅ぎつけられたと思われれば計算が狂う」
「嫌だね。それに、タレーランも面白い男だ。奴もやがては権力の頂点に上り詰めそうな気がする。お前とも、ナポレオンともまた違う雰囲気を持っているが、奴も裏切り者だ。天性の移り気の持ち主だよ。奴もまた一つの革命だ」
 正邪は窓から飛び降りて、いなくなった。革命? ……そんなものはどこにあるのかとフーシェは考える。革命は終わった。ロベスピエールが倒れた時に革命は死んだのだ。


 最も早く、次なる第一執政を誰にするか、話し合っていた議員のグループがあった。それの主催が誰であったか、定かには分からない。むろんフーシェでなければタレーランでもなく、シェイエスですらない。ナポレオンが軍を率いてイタリアへ出発した直後に作られた名もないグループで、もしも死んだらどうしようかという程度の話し合いでしかなかった。しかし、そのような集まりでも、早くから話し合いがされていたというのは重要なことだ。ナポレオン戦死かの報が入り、にわかにそのグループの会議は重要度を増してきた。そのグループでは、陸軍大臣のラザール・カルノーを推す声が優勢であった。古い革命の勇士だし、戦場を見た経験もある。
 一方で、ブルボン家の分家ルイ・フィリップを立てるグループもあれば、今は亡命中の革命の英雄ラ・ファイエットを立てようというグループもある。革命の最初期において一部の貴族も国民公会に参加していた。革命の最盛期、ロベスピエールが権力者であった頃では想像もできないが、貴族に対する風当たりの弱くなったナポレオンの施策の後であれば王族の帰還の可能性はあった。
 更には、ナポレオンの後は長子たる自分が継ぐべきだというコルシカの流儀で自ら立候補したのはナポレオンの兄ジョゼフで、執政カンバセレスに応援を頼んだ形跡が残っている。またブリュメールのクーデターで活躍したナポレオンの弟リュシアンも執政の座を狙っていた。兄は民衆の人気と推しの強さで執政の座についたが、クーデターの活躍で言えば自分も当然執政につくべき活躍をしていると考えている。自薦他薦を含めて、執政の座を狙い、権力のおこぼれに与ろうという者はいくらでもいた。


 フリュクチドールのクーデターでは逃亡を余儀なくされたラザール・カルノーは、フランスへ戻ってきていた。革命下の軍制を作り上げた軍政家としての能力は紛れもなく、また官僚としてもカルノーの有能は疑うまでもない。そのような才能の持ち主が外国でただ暇を囲っているのは国家のにとって損失であるし、バラスとの政争に破れただけで、フランスにとって何の罪があるわけでもない。ナポレオンは政権につくと即座に彼を呼び戻していた。そしてすぐに陸軍大臣であり、立ち戻ってきたその日から、かつてのように忙しく働きまわっていた。彼の目の前にはこなすべき仕事が無数に積み上がっており、ナポレオン死の報にも無感動であった。誰が長に立とうと、自分がすべき仕事が目の前にあればいい。
 カルノーの帰宅はいつものように遅かった。うたた寝で過ごしていた車内のカルノーは、お付きです、と御者に告げられ、馬車を下りた。そこは邸宅でもなく、狭い路地の中の、小汚い借家であった。
「どこに着いたつもりだ。これはどういうことだ」
 御者がそれに答えるより先に、借家の前に立った一人の小間使いの女がカルノーを招き寄せた。
「閣下、こちらへ。タレーラン閣下がお待ちです」
 陰謀か。このパリでは陰謀がネズミのごとく蠢きまわっている。知らん顔をしてやり過ごすこともできただろうが、カルノーは呼ばれれば行く、正直な質であった。
 狭く、薄暗い階段を登る。案内された部屋の中は、貧乏長屋にしては不似合いなほどの明るさに満ちていた。部屋は古臭く質素だが、それに似合った調度品で飾られている。タレーランの仕業だ。タレーランは外交の天才であり、フランス一と呼ばれる料理人を抱えており、タレーランお抱えの商人は皆センスがよく、加えて彼自身が客の喜ばせ方を知っていた。陰謀であれ、華やかに飾り立てようという美的感覚が彼にはあった。普通の人間は陰謀という後ろ暗さを恐れる。華やかに飾り立ててやれば、後ろ暗さを忘れ、自らが正義であるかのように思うことができる。
 そして、室内には三人の男がいた。シェイエス、タレーラン、フーシェである。タレーランは彼に呼びかけた。
「陸軍大臣、座りたまえ」
「坊主の集まりか」カルノーは言った。僧坊という空間は、沈思のうちに人々の幸福のための政治観、あるいは政治的な観察眼が育まれるものらしい。「どうした。フランスに宗教が戻ってくるから、僧侶に戻ろうという話し合いか。私も僧侶にするつもりかね」
「いいや、その逆だよ。カルノー、我々はあなたを第一執政の座に推すことにした」


 時を遡ること数時間。職務を終えて家で休んでいたフーシェの元に、正邪が情報を持って潜んできた。フーシェも今となっては立派な屋敷暮らしである。いよいよ正邪のごとき連中が入ってくるには相応しくなくなってしまった。しかし、正邪はいつまでも小汚い服装をして、平気な顔をして入ってくる。時には給仕の服を着ていることもあれば、貴族の子供らしい正装をしていることもある。いつまでもこそこそとスパイもどきの働きをしているのが楽しいらしい。フーシェにとっては、正邪ごときにかかずらっているほどの余裕はなくなってしまったというのに。こと、ナポレオンが死んだと街中が噂している今では。いくつもの陰謀が立ち現れ、情報が無数に飛び交っている。情報の精査だけで夜が明けるほどに忙しかった。一方で、ナポレオンがいなくなった後の、自分なりの算段も必要であった。正邪が情報を持ってきたのはそんな折のことだ。
「密会の情報だ。その場所に元老院議長と陸軍大臣が来る」
 シェイエスにカルノー。今では最重要な監視対象だ。しかし、動くとの報は来ていない。
「シェイエスは今頃タレーランの屋敷にいると情報を受けている。カルノーは執務中だ。執務の後に誰かと会うという情報は来ていない。正邪、密会の場所を寄越せ。一応見張らせておく」
「駄目だ。よほどのセキュリティらしい。私兵で囲ってる。誰であれ関係者以外は近づくことはできない」
「気にかかるが、その後の動きで内容は概ね判断できる。それならそれでいい……ご苦労だった、正邪」
 フーシェは会話を打ち切った。机の上には、見るべき情報の束がいくらも積み上げられている。それらを夜のうちにファイルし、選り分けておかねばならない。明日になればまた次の情報が来るし、精査できていなければ明日の報告が見られなくなる。
 正邪が、机に向かったフーシェの腕を掴んだ。「おい!」声を上げると、フーシェを見た。
「つまらんやつだ。お前は警察大臣になって、権力を持ってつまらなくなった。その程度のやつか。自ら行こうという気概はないのかよ」
「必要があれば行く。しかし、それだけの価値があるとは思えない。今は距離を取っておくべき時だ」
「その場でシェイエスがカルノーと組んでクーデターをやると聞いてもか」
 フーシェは違和感を持った。何かが裏で動いている感覚だ。
「正邪、お前」
「そう、実を言うとな、シェイエスに頼まれてここへ来たんだ。招待状だよ。お前と組もうという腹だ。……ブリュメールのクーデターでは良い働きをしたよな? 同じことをもう一度、だ。さて、ここで来なければ、お前さんは船に乗り遅れるぜ。つんぼ桟敷に置かれたまま、他人がクーデターを起こしてるのを眺めるんだ。警察大臣の座はおしまいかもな? ……それよりも、他人が陰謀を起こしてるのに、放っておかれるのが我慢できるお前か?」
 正邪の言う通りだった。挑発され、苛立っている。それでも、フーシェは立ち上がり馬車を呼んだ。正邪の言われるがまま、会談が行われるという狭い借家へと馬車を走らせた。貧乏人が集まって暮らす集合住宅のような家だ。政府の重鎮が集まっているとは誰も思わないだろう。正邪の言ったように、不審な集団が辺りを囲んでいた。馬車を下り、正邪が若者の集団に声をかけると、集団は割れて道を作った。正邪とフーシェは階段を上った。そこには、シェイエスと、タレーランが座っていた。フーシェは思わず、正邪を振り向いた。
「ご苦労、シャイ」
 シャイとはナポレオンの従者としての正邪の名だ。タレーランは正邪をナポレオンの従者と考えている。フーシェは素早く察知した。これは罠だった。


 やがてカルノーは到着した。……二人は言葉を掛け合ったが、フーシェは一言も喋らなかった。この場にいるということが不快だった。正邪は壁際に寄り添い、従僕としての態度を取って澄ましているが、その内側でフーシェを見てはにやついているのが手に取るように分かった
 タレーランのごとき者と机を囲むなど、とても容認できるものではない。しかし、シェイエス及びタレーランとは歩調を合わせておきたいという思惑はある。それにしても、タレーランの主導で物事を動かされるのは我慢ならなかった。タレーランにしても同じことだろう。馬の合わないフーシェのことを嫌い抜いている。
 シェイエスはめっきり老いてしまったように見えた。彼の性格ならば、ナポレオンが完全にいなくなるまで頭を下げている気だっただろうに、彼もタレーランに呼び付けられ、巻き込まれた口かもしれない。クーデターの確実性を高めるためには、大物がいるということが重要だ。密会に参加したというだけでグループに入れられてはたまらない。フーシェは口を閉ざすことに決めた。クーデターをやるというなら潰す気はないが、かといって実行犯にされるのはごめんだ。
「第一執政か。……シェイエス、あんたが立ちたいと言いそうなもんだが」
 カルノーがシェイエスに声をかけたが、シェイエスもまた無言であった。彼も言質を取られることを避けている。それに、彼の性格であれば、自ら先頭に立って事を起こすまでの度胸はないはずだ。その点についてはタレーランが代弁した。
「彼には憲法を守る元老院議長という大役がある。それに、彼は軍事には門外漢だ」
「フーシェ、あんたもそれで良いのかね」
 フーシェは答えなかった。どちらかに肩入れもしなければ、その否定もしない。
「その通り。我々、と言ったからには我々の答えだ。ナポレオンが帰らなければあなたが第一執政だ」
 タレーランは、シェイエスもフーシェも巻き込んでしまう気になったらしい。タレーランは思い切りが良い。物事は流れていく。ならば、いっそそちらへ舵を取る気になったらしい。ナポレオンが生きて帰ってくるとしても、できるだけ早く体制を作ってしまい、居場所をなくしてしまう。
 タレーランの思惑がうまくいくならば、フーシェはタレーランの一歩後につくしかない。フーシェの内心は苦い思いで満たされていた。しかし、ここで言い争っても仕方がない。親ナポレオンと見られて排斥されても困る。ここは急がず、情勢を見極めることだ。
 カルノーか。カルノーを主人と崇めるのは、どうにも不安がある。彼は共和制を守るためなら、ブルボン家とも妥協する可能性がある。イギリスのように王家を抱く共和制の法治国家だ。古い体制を引きずらないと言うなら妥協できる余地はある。フーシェ個人としては国王の処刑に賛成した過去があり、王党派に権力を強められては困る。
 しかし、王政に対して寛大に出ることは、周辺諸国との緊張感が高まっている今では有効な手ではある。タレーランはそのように考えるだろう。タレーランは貴族の出身で、足の障害のために家を継げず僧侶となったが、そのような出自のため王族からの受けは悪くない。そのうえ、社交界での振る舞いは誰よりも優雅である。
「ナポレオンが帰らなければ、と君は言う。市民もその噂をしきりにさえずる。だが、確証はあるのかね」
「彼が死んだという確証はない。しかし、カルノー、これを見てほしい」タレーランは紙片を取り出した。「オーストリアに友人がいてね。マレンゴで戦ったオーストリア軍指揮官から皇帝陛下への戦勝報告、その写しだ」
 メッテルニヒか。オーストリアの貴族にして政治家、後に勢力を拡大しオーストリア宮廷を一手に握る男である。タレーランの親しい友人であるが、フーシェからすれば、肩を組んだ共犯者だ。タレーランはフランスの情報を売り、メッテルニヒもまたタレーランには母国の内情を漏らしている。
 カルノーが紙片を眺めた。マレンゴの大勝が報告されている。それが本物か、偽物かという判断はカルノーにはできない。しかし、タレーランがそれを持ち出すからには、生半可なものを証拠とはしないであろう。その紙片は、マレンゴがオーストリアの大勝に終わったという事実の確度を上げている。ナポレオンが大敗し、その中で死亡したという噂を補強している。フーシェにもオーストリア周辺からの情報が来てはいるが、これほど確実性の高い証拠はない。しかし、それでも、カルノーは乗らなかった。
「俺を第一執政に祭り上げようというのは実に構わんがね。俺は第一執政の権力の強さが気に入らん。独裁と変わらん強さだ。むしろ、革命の頃のように保安委員会を立ち上げるべきじゃないかと思っている。個人に権力を集中させるよりも、委員会による話し合いで物事を決めるべきだ。それと、第一執政の後継者についても、ナポレオンがどうなったかを知ってからでもいいんじゃないか。何にせよ早計に過ぎると俺は思う。俺は陰謀で物事を決めるのは好かん。俺を推したいなら議会を通すことだ。言いたいのはそれだけか?」
 カルノーは愛国者であり、時勢に乗ることよりも実務を愛する男であった。タレーランの推薦をはねのけたのだ。タレーランは食い下がった。
「カルノー、君が話したいならいくらでも付き合う。夜食の用意もさせているよ。この狭い隠れ家の台所で食事の用意をさせるのは大変だったんだ。シェフの腕は一流だが、文句も一流でね。彼を口説いた私の苦労に免じて、ぜひ食べていってほしいな」
「俺は疲れているんだ。あんたらのような泥棒働きではなく、実務のことで手一杯だ。議案にするならば昼間の議会で持ってくるといい。そうして話し合った結果ならば、受けるよ」
 カルノーは立ち上がり、席を後にした。フーシェもまた、黙ったまま彼に続いた。この場の趨勢が定まった今、残っている必要はない。何か語り合うべきこともなく、居続けることの方が不利益であった。これ以上タレーランの悪知恵に巻き込まれてはたまらない。


 フランスでは権力のバランスが大きく崩れていた。ナポレオンという存在が巨大に過ぎて、オーストリアとの戦争のために西へ行けば、存在の重さというものが西へ傾き、忽然と消え去れば、急激すぎる勢いでその逆へと振れる。パリで起こったいくつもの陰謀は、そのような権力のアンバランスから生まれたものであった。しかし、天秤の針は再び逆へと大きく振れた。
 一つの報せが、全ての陰謀を喜劇と変えてしまった。陰謀を企み、明日には権力のおこぼれに預かれると甘い夢を見ていた者たちは皆、慌てて元の席に戻り、手のひらを返し、主人に尻尾を振ってみせた。ナポレオンは健在で、マレンゴでは敗けておらず、逆にオーストリアの軍勢を追い返したのだ。彼は戦争に勝った兵たちを従えて、歓声に包まれながらパリへと凱旋した。奇妙なことである。オーストリア軍の最高指揮官はオーストリア皇帝に対し戦勝報告をしていたのである。それがなぜ敗北になったのか?

 イタリアへ攻め寄せるオーストリア軍に対し、ナポレオン率いるフランス軍はイタリアへは直接向かわず、スイスを経由した。アルプス越えの奇策である。ルイ・ダヴィッドの名画『アルプスを越えるナポレオン』は、このアルプス越えを描いた姿である。
 ナポレオンの作戦は常にナポレオンの脳にあり、将軍たちが前もって作戦を教えられることは稀であった。幕僚たちでさえ知っている者はいなかった。村々にもスパイはおり、また敵の放った斥候もいる。軍を進めるだけでもスパイや斥候に軍の目的を知られてしまう。まだ戦えるのに負けたように見せかけての撤退や、無理と分かっていて進軍をさせられるなど、意図のわからないままにナポレオンを信じて戦える者でなければ、ナポレオン麾下の将軍は務まらない。それが時には反感を呼び、あるいは信仰のごとき信頼を得ることともなった。
 ナポレオン一人で全軍を動かすことは、長所でもあり欠点でもあった。その最たる欠点は将軍をして思考能力のないナポレオンのマシーンにしてしまうことであり、ワーテルローにて発揮されてしまうのだが、このアルプス越えでは長所が最大限に発揮された。軍の目的の隠匿に成功し、オーストリア軍に気取られることなくアルプスを越えることに成功したのだ。同時にパリの政治家たちにも横槍を入れられる可能性も消していた。副次的な効果ではあるが、タレーランやフーシェのような陰謀を企む者たちにもナポレオンの意図を隠すことに成功していた。
 ナポレオンのフランス軍はオーストリア軍の背後へ侵入し、補給線を打ち切ることに成功した。フランス軍の動きを知ったオーストリア軍がどのように動くか。ナポレオンは、オーストリア軍は会戦をしないと考えた。東にいるナポレオンのフランス軍へと向かえば、イタリア方面に存在するマッセナ将軍麾下のフランス軍と挟み撃ちにされかねない。ナポレオンの正面を避けてオーストリアに戻るだろうと考えていた。ならば、ここで会戦は起こり得ない。むしろ、追撃が遅れてオーストリア軍を取り逃がし、戦勝を得られないことの方が問題だ。そのように考えたナポレオンは、軍を三つに分け、確実に捕捉することを重視した。しかし、その頃、オーストリア軍はフランス軍を迎え撃つための用意を整えつつあった。
 軍を三つに分け進発したフランス軍へ、オーストリア軍は襲いかかった。軍を分散したフランス軍の兵は少ない。ナポレオンにしてもここでの会戦は計算違いだった。こと大砲の不足は痛かった。ナポレオンはじりじりと退きつつ軍の崩壊を抑えていたが、午後になり、敗色は覆い難かった。一度戦列が崩壊してしまえば、軍は逃げ惑う男たちの群れに姿を変えてしまう。しかし、このまま耐えたところで日が沈めば敗北には変わりなく、今の政府では敗軍の勝を第一執政の座にはしておくまい。進むも引くも終わりに違いなかった。
 朝に軍を率い進発したドゼー将軍の部隊が、フランス軍に合流したのはその時であった。彼は命令通り進発していたが、遠くに砲声を聞いて軍の速度を緩めていた。そのために会戦が始まってから出されたナポレオンの命令を受け、その日のうちに合流することができたのだ。
「我々は敗北したが、日暮れはまだだ。もう一度戦って勝つくらいの時間はある」とドゼー将軍はナポレオンに進言し、ドゼー将軍は最前線に立って進軍した。
 時に午後三時である。この時点で、オーストリア軍はウィーンへ戦勝報告を送っていた。夜になれば戦争を続けることはできない。この時代の会戦は夜を跨いで続くことはなかった。戦の趨勢は既に定まっている。オーストリアの最高指揮官のメラス将軍はそのように判断し、負傷のために後事を部下に任せ、戦線から離れた。
 朝から戦い続け、またどうやら勝ったらしいと感じていたオーストリア軍の兵、あるいは指揮官たちの勢いは収まりつつあった。勝利のあとには捕虜を取り、敵軍の物資を収奪するというような作業になる。命のやりとりが終わったあとの緊張が解け、オーストリア軍兵士の士気は高まっているが、同時に弛緩している。そこへドゼー将軍と合流したフランス軍は襲いかかったのだ。
 ナポレオンのここぞという時の粘り強さのためか、それともドゼー将軍の命がけの奮戦のためか、奇跡的に反撃は成功した。撤退していたはずのフランス軍から大砲の一斉射を受け、また騎兵突撃をしかけてくるというのはオーストリア軍の兵たちにとって思わぬ衝撃であった。気の緩んでいた兵の一部が潰乱すると、雪崩を打ったように他の部隊にも伝染した。それを抑えつける最高指揮官は不在で、後を託された指揮官にしても勝利したものと考え反撃は予想外であった。
 オーストリア軍は算を乱して敗走した。しかし、ナポレオンの友人にして優秀な軍人であるドゼー将軍は流れ弾によって命を落とした。ナポレオンはその生涯において幾度も死地をくぐったが、マレンゴもまた死地の一つであった。
 マレンゴはフランスの戦勝に終わり、ナポレオンはオーストリアと停戦して引き上げた。オーストリアはイギリスとの同盟を理由に、イギリスの大使も講和の席に着かなければ講和しないと言い張って時間稼ぎをし、和平は成らなかった。この時点ではどちらの勝ちとも決まっていないが、イタリアは再びフランスの手に落ちた。実質的なフランスの勝利である。


 このような結末になるとは。ナポレオンが生きて、それも戦勝を手にして帰ってくる。フーシェは手早く部下に指示を飛ばした。戦場では何が起こるかわからないと、正邪に語ったその口で。このことは忘れまい、とフーシェは心に誓った。戦場は不確かだ。そして、パリの政治は戦場と一直線だ。
 フーシェのオフィスへ、部下たちが入れ替わり立ち代わり報告を持ってくる。慌ただしい限りであった。警察機関の中でも高度に隠匿された諜報部員しかフーシェの悪事を知らず、しかもその諜報部員にしても証拠になるような品物は何一つ握らされてはいなかったが、それらも闇の中で多忙を極めていた。
「第一執政が勝利の報は新聞社に流せ。それからパリ市内へパンフレットを貼り出せ。通りという通り、門という門に。市民にも配れ。主要な辻には人を立たせて、パンフレットの内容を叫ばせろ。公式には警察の名前で広報するように……印刷工には徹夜をさせろ。眠らせるな。必要な人員を用意し、金にも糸目をつけるな。それから陰謀を企んでいた連中もマレンゴの戦勝は知っただろうが、そいつらにも知らせろ。反抗などは不可能だと。怪しげな行動をした連中は逮捕されたと噂を流すように。特に反ナポレオンの軍人に破れかぶれの蜂起をさせるな。君、この手紙をクレマン・ド・リ議員へ。大人しくしているようにとの言葉をお伝えしろ」
 忙しく立ち働くフーシェのそばで、正邪がにやつきながら眺めている。正邪は傍観者だ。眺めて、楽しんでいるだけでいいから楽なものだ。しかし、陰謀の臭いを嗅ぎ取ったのか、クレマン・ド・リ議員への手紙を持った諜報員を追って飛び出していった。諜報員は優秀な人材だが、正邪が一部始終を眺めていることには気づくまい。
 クレマン・ド・リ議員はジャコバン派の議員だ。フーシェの手足として、ベルナドットを執政にというパンフレットを作らせていた。しかし時勢は変化する。フーシェは、クレマン・ド・リを捨て石にすることにした。リヨンでコロー・デルボア一人に罪を被せたのと同じだ。露見すれば、彼が一人でベルナドットを担ぎ上げようとしたと、ナポレオンに突き出せばよい。しかし、フーシェはクレマン・ド・リを疑ってもいた。彼は大人しくフーシェの指示を聞くだろうか。彼もまた世間の声を聞いただろう。捨て石にされるならば、それより先にフーシェを売ってやる。そう考えるかもしれない。
「クレマン・ド・リ議員。フーシェ閣下からの報せです。これを」
 クレマン・ド・リ議員に接触した諜報員は、手紙を議員に差し出した。議員がそれにサインをしたかと思うと、諜報員はクレマン・ド・リを一撃し、潜んでいたもう一人の諜報員と協力して意識を失ったクレマン・ド・リを馬車に乗せ、どこかへ連れ去ってしまった。クレマン・ド・リの持っていた印刷物の束は、後から来た更に別の諜報員が運び出し、焼き捨ててしまった。先に来た諜報員はクレマン・ド・リが何の仕事をしていたのか知らず、後から来た諜報員はそれが何の印刷物かも知らない。それらの動きは更に別の諜報員が見張っており、全てはフーシェに報告されている。フーシェのスパイ機関がそのような働きをしていることを知っている諜報員たちは、フーシェの命令を違えることをしなかった。それをすれば、クレマン・ド・リのようになる。
 もっとも、クレマン・ド・リは始末されたわけではなかった。田舎の穴蔵に監禁され、数週間をそこで過ごした。彼が許され、出てくる頃には、世間ではナポレオン失墜に関する陰謀など誰もが忘れ去っていた。それでも念のいったことに、クレマン・ド・リ誘拐は王党派の仕業とされ、数人の王党派員が無実の罪を着せられて逮捕された。これらの事実を、作家バルザックは「暗黒事件」として小説に残している。
 フーシェの暗躍を、フーシェ自身が消滅させた。まさしく一人で慌てふためいたわけだ。正邪は一人笑った。笑っていられたのは運命の申し子とでも呼ぶべき正邪一人だけだ。フーシェも、ナポレオンも笑ってはいられなかった。
 ナポレオン自身も平静ではいられなかった。自分の権力の不安定さを思い知ったのだ。彼もまた、政治と戦争の直結さを思ったに違いない。誤報の一つでパリではいくつもの陰謀が動いた形跡がある。マレンゴでは奇跡的に勝利を得たが、敗北していればたちまち権力は奪われていたことだろう。議員たちが信用置けないのは今更のことであるが、部下も、家族も権力を奪おうとした。
 誰も信用できず、また戦いに負ければ未来はない。勝ち続けなければ、権力を握り続けることはできない。誰もが自分の敗北を望んでいる。外国も、政府内の連中も……実の血を分けた身内でさえ。ナポレオンは権力の座にある孤独さを思ったことであろう。ナポレオンは仕事に熱中したことであろう。このような時でも政府は動いており、人間は信じられずとも、仕事というものは信じられる。自分が権力を握っているうちにフランス国民を良い方向へ導こうと、より仕事を急いだに違いない。


 ナポレオンが戻ってすぐ会議が行われた。陰謀についての話し合いではない。ナポレオンがいない間に溜まっていた議案についての会議である。しかし、そこに集まった閣僚たちはいつナポレオンの口から陰謀のことが出るかと気が気ではなかった。露骨にナポレオン追い落としに動いていた者もいる。その顔ぶれの中には、カルノー、タレーラン、フーシェも並んでいる。カルノーは平然としていたが、それは彼は陰謀に加わっていないと自負していたからであろう。他人がどう見るかは問題としていない。タレーラン、フーシェは陰謀に積極的に加わっていたのに、誰よりも涼しげだ。このような状況では、無関係な者でも平然とはしていられまい。分かっていて演技をするこの二人は、誰よりも大悪党だった。
 会議が終わった。執務に戻る者、他の閣僚と声をかけあう者、ナポレオンへ相談に議案を持ちかける者。閣僚たちはそれぞれバラバラに散っていった。今日ばかりはそそくさと足早に会議室を出た者もあろう。誰か空気の読めないやつが陰謀について話し出さないとも限らない。
 杖を鳴らし、ひょこひょことナポレオンに近づく者がいる。タレーランはナポレオンが他の閣僚と話しているのを待ち、一段落つくと歩み寄って声をかけた。
「閣下、閣下が不在の間、政府では色々とありました」
 タレーランはことさら声を絞ったわけではない。部屋にいる者は耳をそばだて、タレーランの言葉に部屋の空気は変わった。逃げ遅れた者は、今すぐにここを出ていきたいと思ったことだろう。
「閣下が戦場へ行くのは執政政府が始まって初めてのことですから、人々が騒ぐのは無理のないことです。もしも特別な事態が起きた際、揺らぐことのない体制を作る必要があるかと。すぐにどうこうというわけではないですが、おいおい手を打つことですな」
 タレーランは自分が陰謀に加わっていたなどおくびにも出さず、平然と話をすり替えた。ナポレオンが死ねば政権は誰の手に行くかわからず、革命もフランスもどうなるか分からない。それを防ぐためには、次に権力を受け継ぐ者を決めておくこと、つまりは世継ぎである。暗に独裁を促していたのだ。
 ナポレオンも常々考えていることであった。執政政府で、ナポレオンは成果を示しつつある。しかし、ナポレオンがいなくなれば、実った果実は誰かに奪われてしまうどころか、捨てられて腐ってしまうかもしれない。革命が死んで、腐りきったような王政が戻ってくれば何もかもおしまいだ。ナポレオンが死んでも仕事は続くようにしたい。生きた証を残したいというのは、ナポレオンでなくとも誰もが抱く感情だ。加えて、ナポレオンはカエサルが好きで、ローマ帝国に憧れていた。皇帝になりたいという素直な欲望も頭の中にはあった。
 ナポレオンが何を考えているのか、タレーランには手に取るようにわかった。タレーランはナポレオンが望んでいることに添うことで、ナポレオンの口を封じたのだ。タレーランの得意なやり口だった。タレーランが陰謀を企んでいたことを知っていても、そういう提案をされれば罷免などできるものではない。だが、表向き、タレーランに返事をしなかった。野心があるなどと思われてはならない。タレーランは満足した。色良い返事が帰ってこなくとも、無言が喜びの表象であると感じ取っている。
 タレーランは今度こそ、誰にも聞こえないようナポレオンにだけそっと耳打ちした。
「フーシェに気をつけることです。彼は何やら企んでいたようですから」
「分かってる。フーシェ! 君と仕事の話がしたい」タレーランの身は安泰だ。ナポレオンは、次なる処分の対象を呼びつけた。「フーシェ、市内の治安はどうだ。何やら陰謀があったようだが」
「は、閣下」
 フーシェもまた答えは既に用意してあった。タレーランのように口先で喜ばせるのとは違う。タレーランが彼らしい対策を取ったように、フーシェの対策も彼らしいものだった。
 フーシェはナポレオンに対し、いくつもの資料を差し出して見せた。市内にいる王党派の動き。イギリスから金を受け取った工作員がナポレオンを追い落とそうと激しく活動した形跡をまとめたものをまず見せ、それから内部の敵たる議員たちの陰謀の証拠を見せつけた。フーシェの報告は念の入った出来で、ナポレオンにも反論できるものではなかった。ラ・ファイエットを立てようとしたグループの陰謀、ナポレオンの家族ジョゼフとリュシアンの陰謀、シェイエスの陰謀……しかし奇妙なことにフーシェに不利になるものは何一つない。
「ジャコバンも動いていたようだが」
「はい、閣下。それらについても噂はあります。しかし、このような情勢では噂などは飛び交うものです。確たる証拠というほどのものは、ジャコバンについては存在しません。噂程度のものを処罰されたのでは、治安に関わり、閣下の名前を汚すことになるかと」
 証拠を集めるも集めないもフーシェのやる気一つだ。証拠を握っていないのは本当でも、フーシェが手を抜いてジャコバンを見逃したのだ。ナポレオンはそれを見抜いた。かっとナポレオンは熱くなり、しかし怒り出すことはせず、それを一言に抑えた。
「君が陰謀を企んだという噂も聞いたが。証拠が出せないのは、君がジャコバンと組み、その先頭に立っていたからではないのかね」
「いいえ、閣下。そうではありません」
 誰もがナポレオンの癇癖を予感した。次の瞬間にはナポレオンがフーシェをこき下ろすだろうと思ったのだ。しかし、フーシェは顔色も変えなかった。同時に指先は動き、最後の証拠を取り出した。
「タレーランが企んでいた陰謀の証拠です。カルノーから証言を取りました。私の噂がどこから流れてきたものは知りませんが、証拠がないことには処罰はできないでしょう」
 ナポレオンは口を閉ざした。証拠はどこにもないのだ。タレーランにしても、フーシェの尻尾を掴むことはできないだろう。証拠がなくとも無理押しでフーシェに罰を与えることはできる。しかし、フーシェを敵に回せば、いよいよ未遂に抑えられていたクーデターも本当のものとなることだろう。怒鳴りつけるだけでおとなしくしている小物とは違って、処理しなくてはならないような連中はするりと逃げ延びやがる。ナポレオンはフーシェに対して手を振って出ていけと示し、フーシェは礼をして会議室を後にした。
 結果として割を食ったのはカルノーであった。陰謀の後、執政に据えられようとしていた人物を処理しないわけにはいかなかった。彼は陸軍大臣の座を追われた。
 そして、フーシェが担ごうとしたベルナドットは罷免こそされなかったものの、以後は将軍として戦場へ出向き、しばらくパリで政治向きのことに関わることはなくなった。ベルナドットはナポレオンに反発していたし、ジャコバンに人気があった。パリへ置いておけば、担ぎ出されて何をやらかすか分からないというところらしい。


 それにしても、と正邪は口を開いた。フーシェの自室であった。事後処理も大方済んで、業務は通常の程度に戻っている。
「『いいえ、閣下、そうではありません』とあんたが言った時の、ナポレオンの顔ったらなかったな。しっかり表情は保ってたが、内側じゃ煮えくり返ってた。お前はああいう返事をする時が一番似合ってる。『自分の意見は違います』とか、『私はそうは考えません』とかな」
「ナポレオンは怒っていたかね」
「ああ、たっぷりとな。しかし気分の変わりやすいやつのことだから、すぐに別のことを考えてた。気分が変わっても、あんたをどうするかはしっかり決めてるだろうが」
 この時期の陰謀を経て、ナポレオンとフーシェの関係は目に見えて悪化した。ナポレオンとフーシェの間柄が良好であったのは、ブリュメールのクーデターが発動するまでの間だったろう。ブリュメールのクーデターが成った後には既に悪感情を抱いていた。
 ナポレオンは、フーシェを操りやすい人間だと誤解した。フーシェがそのように仕向けたのだが、意図的に自分を演出した。察しは良いが凡庸な人物。ナポレオンのような偉大な人物に心酔し、彼の思うがままに動く小物。それが嘘だと気づいた時、ナポレオンはフーシェを軽蔑した。ロベスピエールがフーシェを嫌悪したような気持ちであっただろう。
 フーシェは天性の演技者でもあった。誰に対しても、フーシェは自分を誤解させるように仕向ける。他人の求める姿をしてみせ、利用価値がなくなれば身を翻し離れる。裏切り者だと人は感じるが、それは勝手に理想を見ていたお前が悪いのだろうという顔をしてみせるのである。そして、裏切った時には、全く違う顔へと変わってしまっている。
 かつて、極左暴力主義の風が吹き荒れた時には、求めに応じてリヨンの霰弾乱殺者と呼ばれて見せた。そして今ではサン・クルーの風見鶏、人の顔色を伺う凡庸な小物である。民衆と同じくナポレオンも最初は彼を見誤り、そしてその誤解をフーシェはあえて利用した。
「私を処分か。彼の方が一枚上ならそうなる。どうなるか、しっかり見ているが良かろう」
「ああ、楽しみだ。あいつが乱暴者でなければ、あんたは職を失うか国を追い出される程度で済むだろうな。あいつはどうかな。他人に恨まれているから、あんたが生かそうとしても殺されるかもしれないな」
 どちらにせよ、どちらかが処分されるまで暗闘は続く。
 フーシェを処分してやろうというナポレオンの態度は頑なだった。ブリュメール以前の誤解のためだった……ブリュメール以前は、ナポレオンの方が小物だったのだ。それを知りつつ、フーシェは小物のふり、無害な官僚のふりをして、ナポレオンを馬鹿にして眺めていた。馬鹿にされていながら、その相手の助けを借りなければならない苛立ちが常にナポレオンの中にはあった。いつかあいつを放り出してやる。凡庸な仮面の影に隠れた悪辣さに対し、ナポレオンは有用な部分だけを利用し、悪い部分は見ないというような態度で警察大臣には接していた。有能でなくなればすぐさま放り出してやる。
 ナポレオンにとってマレンゴは一つの契機だった。フーシェはいつかどこかへ放り出してしまわなければならない。その思いは強くなり続けていた。しかし、ナポレオンにも気づいていないことがあった。有能さを示さなければ放り出されるのは、ナポレオンも同じだ。フランスに恩恵をもたらすうちは、政府はナポレオンを使う。使えなくなれば放り出される。フーシェはその筆頭へ立って喜んでナポレオンを追い出すことだろう。要は、どちらが先にへまを打つかだ。


 妙な空気がする。フーシェは、いつになく微妙な空気の臭いを嗅いでいた。部屋の中だというのに、異様な感覚が肌に触れている。国内の情勢は変わったところはない。国外では荒れている。しかし、国外でのことはこのフーシェには関わりなく、タレーランやナポレオンの領域だ。何も身に差し迫った危険はない。だのに、フーシェの勘としか呼びようのないものが何かを感じている。
 部屋の隅でのっそり起き上がった正邪も同じようであった。「臭い」と一言呟いたきり、不機嫌な猫のように窓の外へふらりと消えていった。同刻、サン・ニケーズ街を猛スピードの馬車が走り抜けていた。1800年12月24日の夜半のことである。

 ナポレオンは歌劇を見るため、馬車に乗っていた。時刻は夜半すぎで、執務後の行動である。連れ合いのジョゼフィーヌは別の馬車で追いかけてきている。日頃忙しくしているナポレオンからすれば久々のデートといったところであった。
 ナポレオンの馬車は、ジョゼフィーヌの乗った馬車を置き去りにして進んでいた。御者が酔っていて、異様なスピードを出していたのである。しかしそのようなことなど、ナポレオンは気にかけなかった。執務の疲れから彼は眠り込んでいた。
 サン・ニケーズ街を馬車が通り過ぎようとした時、一匹の痩せ馬に引っ張られた荷車が馬車の前に飛び出した。御者はスピードを緩めようとしたが、回避は不可能であることを悟った。
 ぼろを着た少女が飛び出したのはその時であった。「手綱を引くな!こっちへ!」少女は二つに別れた道の片方を示し、御者はそちらへ手綱を向けた。進んだ路地はひどく狭く、馬車の左右が路地の壁に時折ぶつかったが、それでもなんとか抜けていった。壁にぶつかりながら進む馬車はひどく揺れ、中のナポレオンも揺り起こされてしまった。あまりにひどい運転だ。「御者め、道を間違えたな」とナポレオンは愚痴を吐いた。しかし、その直後に起こった衝撃に眠気も吹っ飛んだ。爆音、壁がガラスの破砕音。思わず馬を止めようとした御者をナポレオンは叱りつけた。
「止めるな! そのまま行け」
 ナポレオンの乗った馬車が荷車を避けて駆け去った直後、すさまじい大爆発がサン・ニケーズ街を揺らした。ナポレオンを狙ったテロであることは明白であった。留まればばテロリストが確実なとどめのため飛び出してくる可能性がある。ナポレオンは何事もなかったがごとく、しかしそれまで以上のスピードで馬車を走らせた。
 劇場についたナポレオンを、何も知らない民衆は割れんばかりの拍手で迎え入れた。ナポレオンもまた笑顔でそれに応えた。遅れていたために難を逃れたジョゼフィーヌは震えながらナポレオンの横に侍っていたが、ナポレオンは気にする素振りも見せなかった。ナポレオンは暗殺されかかっても平然と観劇をしたという、英雄たるエピソードの一つである。
 しかし、内心ではそれほど穏やかではいられなかった。砲弾や弾雨飛び交う戦場で直立して指揮を執る男である。爆発に怯えたのではない。怒りのためであった。テロリストに対する怒りではなく、その怒りはジョゼフ・フーシェに向けられていた。ナポレオンはこのテロをジャコバン派の仕業だと決めつけていた。
 マレンゴの陰謀で最も活動的に動いたのはジャコバンの連中だった。王政とは折り合わないナポレオンに対し、王党派は国内での活動を諦め、国外、主にイギリスから活動を行っている。パリでは王党派の勢いは弱まっている。それに引き換え、ナポレオンさえ殺せば権力は我が物となると意気込んだジャコバンの勢いは強かった。奴らの仕業に違いないのだ。それに、革命の際は牢獄にいる人間を勝手に裁判して虐殺した。政治家にしてもギロチン処刑を活発にやった。このような暴力的な行いをするのはいつでもジャコバンだった。
 警備の甘さも気にかかった。このように警備が甘く、また、警備をかいくぐってテロを起こしたことには、フーシェのやつが旧友のジャコバンを見逃したためだとナポレオンは決めつけた。そうでなければ、テロが起こりうる理由がない。いっそナポレオン排除の指示をフーシェが出した可能性だってある。観劇をするナポレオンの表情は穏やかであり、時には妻に笑いかけもしたが、その内心では怒りが煮えたぎっていた。やつを罷免してやる。独自に証拠を掴み、ギロチン台へ送ってやる……他人の命を狙うようなやつは処刑されるのがふさわしい。
(おお、怖……)
 その横顔を眺めていたのは、ナポレオンの座るボックス席の影に潜んでいる正邪であった。正邪は爆薬とナポレオンの馬車がぶつかるその寸前に天性の感覚でサン・ニケーズ街へと駆けつけ、馬車を避けさせると、その馬車の後ろに飛び乗って正邪自身も難を逃れたのであった。

 同刻、フーシェは爆発及び第一執政を狙ったテロの報告を受け取った。夜半ではあったがすぐさまフーシェ自ら現場へ訪れ、指揮を執った。このパリでテロが行われるなどとは、あってはならないことであった。それに、ナポレオンの突き上げのことも既に予測していた。なんとしても真犯人を突き止めなければ、警察大臣の座は危うい。爆発による被害者はナポレオンの護衛数名。それから周辺住宅の住民。ジャコバンにそのような計画を練っている形跡はなく、また王党派にも今のところそのような形跡はない。となれば、怪しいのは国外の者か、あるいは国外へ亡命していたフランス人の犯行である。
 フーシェは、証拠と成り得るものは全て集めさせた。瓦礫、周辺住民と思われる死体、荷馬車の破片、馬車に繋がれていた馬の死体。同時に人を放って情報を集め始めた。近隣での荷馬車を運んできた者の目撃証言。爆弾に使われた大量の硝石と火薬の入手先。国外から侵入した亡命フランス人の目撃証言。フーシェの情報網が今まさにまっとうな目的のために動き出していた。
 明け方に家に戻ったフーシェの机に置かれていたのは「やっこさん、怒っていたぜ」と書かれた正邪のメモであった。フーシェは眠らないまま用意を済ませ、出勤した。

 フーシェを待っていたのは予想通り、ナポレオンの突き上げであった。先日のテロについて、内務大臣、外務大臣ほか政府職員数名が呼ばれていた。しかし彼らは職務として呼ばれたのではなく、叱りつけられるフーシェを見て、ナポレオンの怒りの大きさを思い知らせるための観客に過ぎない。
「昨日の警備体制はどういうことだ。フーシェ、君の仕事は治安を守ることではないのか。議員のスキャンダルを集めるのに必死で本来の仕事を忘れたか」
 ナポレオンの怒りは誰をも萎縮させる猛烈な怒り方をするが、多くの場合それは見せかけであった。ナポレオンが本当に怒っている時は静かなことが多かった。罵詈雑言と、テーブルに対する殴打も、自分が怒っていることを周囲に見せつけるためのポーズに過ぎない。しかし、叱りつけられるフーシェを取り巻く官僚たちは皆、その怒りが真実のものだと感じている。彼らは自分が怒られているわけでもないのに怯えていた。これでもう警察大臣はおしまいだと考えていた。涼しい顔をしているのは当のフーシェ一人だけだ。
「犯人はおそらくジャコバンの連中だろう。私を殺せばフランスを意のままにできると考える連中だ。奴らはマレンゴの後にも陰謀を企んだ。君、早いうちに対処をしたまえ」
「恐れながら閣下」フーシェが言葉を返した時、ナポレオンは目を剥き、居並んだ閣僚連中らは皆思わずフーシェを見た。怒り狂っているナポレオンが恐ろしくはないのか。
「証拠は揃っておりません。判断を下すにはいささか尚早かと」
「貴様がけしかけたんだ! だから連中を庇う。貴様はジャコバンの連中とは古い仲だものな。貴様がジャコバンの後押しをした。だから警備も甘かったし、爆弾も容易に仕掛けられた。マレンゴで私が死にかけている時、何事か企んでいたのを知っているんだぞ。それに、貴様が1793年にリヨンでやったことも私は知っているんだ。何か弁明のしようがあるか」
「国内の王党派、ジャコバン党ともに怪しげな動きを見せておるものはおりません。となれば推測に過ぎませんが、おそらくは国外から密かに侵入したテロリストの仕業でしょう。国外の革命派が閣下を狙う理由はありませんから。となれば、犯人はブルボン家、もしくはイギリス政府の意を汲んだ者たちかと」
「ジャコバンだ」ナポレオンは頑なだった。「ジャコバンを一掃する。ジャコバン党員のリストを作成し、投獄したまえ。重要度の高い者は、構わん、ギアナ島送りにしてしまえ。フーシェ、君がこの事件でできる唯一の対処だ。それも満足にできないようなら君の好きにしたまえ」
 フーシェは今度こそ、言葉を返さなかった。ゆったりと一礼を返し、部屋を後にした。数日のうちに、逮捕、追放されるジャコバン党員のリストがナポレオンの執務室に届いた。どうでもいい小物ばかりを適当にピックアップさせたいい加減極まりないリストであったが、ナポレオンは満足した。ジャコバンが誰かなどには興味はない。フーシェがジャコバンを処罰したという事実が必要なのだ。これでフーシェは自らの支持基盤たるジャコバンの支持を失い、勢いは落ちることだろう。権勢が落ちたならば、ブリュメールのクーデターで寝返りをうち、ちょっと味方をしただけの小物など、追放してやる。サン・クルーの風見鶏。露骨に反目しやがって、服従しているというポーズさえ示さない。あのような奴はすぐさま別の誰かに尻尾を振るに決まっている。
 ナポレオンは未だフーシェの実力を誤解していた。ヨーロッパで強国を相手に戦争や外交をすることに比べれば、内部の治安維持などは取るに足らないことと考えたのかもしれない。しかし、ナポレオンが強権を発動させるにつれ、その判断を後悔することになる。

 この件についてはジャコバン派の逮捕、追放でけりがつき、誰もその話を持ち出すことはなかった。警察大臣はこれでおしまいだ。別の誰かがその椅子につくと誰もが思った。
 しかし、フーシェの秘密機関は犯人を追っていた。一月もする頃には証拠も出揃い、犯人は王党派であることが明らかになった。荷馬車に繋がれていた馬の破片から、模様や大きさ、品種などを割り出し、元の持ち主を見つけ出し、証言から買い上げた者たちの特徴を掴んだのだ。
 革命初期、ヴァンデ地方で革命軍を相手に泥沼の内戦を繰り広げたふくろう党の勇士にして、イギリスへ亡命していたカドゥーダル。彼を頭にいただく一派の仕業であることも分かった。カドゥーダルと一味はフランス南部の港より貨物とともに密入国し、輸送業者を装って馬車を駆り、パリへ侵入した。ナポレオンの行動について漏らしたのはジョゼフィーヌだった。ナポレオンと観劇をする予定をパーティの席で漏らし、とある王党派の夫人がカドゥーダル一味に伝えた。もっとも、ナポレオンが観劇する予定についてはさほど秘密にされていたわけではないから、複数のルートで情報を確実なものにしたことであろう。ともあれ、そのようにテロは実行へと至った。それらの正確極まりない報告書はナポレオンの元へ届けられた。
 報告を受けたナポレオンの反応は冷徹極まりないものであった。「君の処置が正しかったようだ」と言ったきり、報告書を返し、それ以上言葉を返さなかった。このことが広報に乗れば、ジャコバンを追放させたナポレオンの判断は間違いで、王党派を突き止めたフーシェは正しかったと市民は思うだろう。しかし、ナポレオン個人としては、それを今更伝えてどうしようと言うのかね、と言わんばかりの反応をしてみせた。処置は終わっており、ナポレオンにそれを伝えたところで、フーシェの能力を誇示する意味合いしかない。ナポレオンとしてもそれは分かっている。ジャコバンと決めつけたのは早計であった。
 しかし、それがどうだというのか。ジャコバンの力を削ぐことには成功した。しかし王党派は増長しているようだ。爆破は成功し、暗殺までもう一歩というところだった。次は成功させてやる。片方を叩けば片方が力を増す。それは以前から同じことではないか。
 フーシェにしても、自分は甘い相手ではないとナポレオンに示すことはできたが、ナポレオンとの関係は修復しがたく分かたれた。証拠なくして追放されたジャコバン派の罪も許されることはなく、彼らこそ被害者であった。乱暴な論理で追放させたナポレオンもそうだが、あっさりと切り捨てたフーシェの冷たさ、身代わりの早さも相変わらずだった。
 ともあれ、ナポレオンもフーシェに一目置く結果にはなった。フーシェもジャコバンの連中の後を追って追放されなかったのは、ここで実力を見せつけておいたためであったかもしれないし、ナポレオン自身がそれどころではなく、フーシェごときに関わっていられなくなったためかもしれなかった。しかし、フーシェの行いは危険な行いであった。露骨にナポレオンの怒りを買ったことには違いなく、今は見逃されていても、やがて致命的な失策があれば、あっさりとフーシェを放り出すことだろう。フーシェは危うい綱渡りをすることになった。
 しかし、綱渡りはこれまでと同じだ。フーシェにとっては1794年以来、ギロチン台の上に座っているのも同じだ。そのようなスリルに一度腰掛けてしまった者は、常に危うげな舞台の上で踊っていなければ気がすまぬようになってしまうらしい。
 一方で、フーシェ以外の政治家にも選択の時が迫られていた。ナポレオン特有の意地の強さのためか、もしくは権力者のパラノイアのためか。ナポレオンは権力が強まるにつれて、自分に気に入る意見を言う者しか使わなくなる。この頃にもその予兆は現れていた。
 ナポレオンのイエスマンにはならず、また自らの権勢を保つには、フーシェのような道しかなかった。ナポレオンと対決し、自らの有能さを示しているほかはない。ナポレオンとフーシェの決闘は避け得ぬことであった。

 ナポレオンは執務室で机に片手をついた。どこかへ怒りを逃さなければ、耐えられなくなりそうなほどの怒りであった。「王党派か」握り拳をテーブルへ叩きつけた。
「イギリスめ! どこまで邪魔をする、うるさい連中だ。私を殺してしまわなければ満足しないようだな」
「暗殺されかかったことがそんなに気に障りましたか」
 正邪はそこにいた。ナポレオンの前ではシャイと名乗っている。彼女はナポレオンに取り付き、スパイの真似事をやっていた。フーシェの元でうろうろしていれば、時にはちょっとした……フーシェが漏らしても構わないと思っている程度の……情報が手に入る。それらをナポレオンに教えてやっていた。しかし、フーシェにとってはあえてナポレオンの元へ届くように正邪に漏らしているふしもある。
 ナポレオンはシャイに紙切れを差し出した。オーストリアから来た報せであった。
「連中、和平を乞うてきやがった。イギリスからの報せを待ってたんだ。私が暗殺されていれば、すぐさま停戦など反故にして攻め込んでくるつもりだった。連中は繋がっていた。これでフーシェの報告もいよいよ間違いない。イギリスめ! 奴らとは決着をつけてやる。この復讐は必ずする。決着が着くまでは引き下がらんぞ」
「しかし、今すぐ攻め込むことも」
「分かっている。タレーランのような口を利くな」
 正邪と同じことを、タレーランもしぶとく言ってきていた。和平。むろんそれが国益に叶うことも分かっているし、政府も国民も求めている。ナポレオンがエジプトにいた1798年から始まったオーストリア、ロシア、イギリスを相手にした戦争にフランス国民も疲れていた。和平が必要だ。ナポレオンが望む内政の改革を行うためにも、時が必要だろう。
 オーストリアが敗北し、対仏同盟を抜けてフランスと和平している。ロシアとイギリスが引き上げるのも時間の問題だろう。ロシアはともかく、海を自由にできるイギリスは地中海だろうが大西洋だろうが自分の庭のごとくにうろうろすることだろう。フランスの貿易船はいつでも抑えられる。交易はイギリスの手の内だ。連中がまた戦争を起こす気になれば、海の経済は連中に牛耳られる……忌々しい! だがすぐさま攻めかかってくることもあるまい。オーストリアがやられた今、イギリス単独でフランスと殴り合える力はない。
 ナポレオン自身でさえも、時を欲している。フランスの国内は安定とは言い難い。しかし、イギリスがそれ以上に時間を欲しがるのは、マレンゴでやられてしまったオーストリアの国力回復を待ち、また他の味方を作る時間がほしいからだ。どうせまた口実をつけて戦争をしかけてくるに決まっている。
「しかし、和平してやるぞ。政府も国民もそれを望んでいる。私は国民のために働くのみだ。やがてイギリスを倒せの声はフランスどころか、全ヨーロッパに広がることだろう。……その時を待つ」
「いささかそれは、偏執狂的な考えだと思うがね。権力に囚われた者は、いつかは倒れる。いかに軍事的能力を持っていようとも、いつかは衰える。あんたは永遠に勝てるつもりかね」
「シャイ、以前から思っていたが、君にはどうやら人離れしたところがあるようだ。しかし、私にそのような口を利くならば……」
 ナポレオンが部屋を見回した時、正邪は既に部屋から消えていた。ナポレオンの癇癪に当てられてはたまらない。


 イギリスとの和平は、約一年後に成った。革命当初からの敵国であり、亡命したブルボン家の生き残りを擁するイギリスとの和平は並大抵のことでは実現しなかったが、タレーランはそれを成し遂げた。イギリスの側でも和平を望んでいたのは、時間稼ぎの意味合いもあったが、ナポレオンが一筋縄ではいかない人物であることを知っており、今のフランスと正面切って殴り合うことは不利であると理解していたからだ。
 国家間のバランスを見ることに長けたタレーランはイギリスも和平を望んでいることを読み取った。植民地をいくつかイギリスに渡すことと、貿易に関するいくつかの条約にサインし、イギリスとの和平を取り戻した。1802年に結ばれたこれをアミアンの和約と言う。
 この和約はタレーランの傑作とも言われている。歴史の転換点でもあった。この時の和平が長く……例えばナポレオンがむやみな拡張をせず、いたずらに外国勢力との緊張を高めず、彼が自然に没するまで続いていたならば、ヨーロッパの形勢、またナポレオンのその後、ドイツを中心とする二度の欧州大戦などの歴史も大きく変わっていたことだろう。
 この和平により、以後三年に渡ってヨーロッパは平和に包まれる。こと革命以来いがみ合いの続いていたイギリスと全面的に和平が成り、貿易も再開された。イギリス首相ピットは主戦派で、フランスとの和平などもっての他と頑なであったが、イギリス議会は終戦と和平に傾いていた。それでもタレーランの巧みな外交能力と、革命以後に手に入れた、手放しても惜しくないいくらかの領土がなければ成り立たなかったことだろう。タレーランの考え方で言えば……少しばかりの領土の奪い合いで無用な軋轢を生むよりも、時節を読み実利を得ることが重要だ。
 革命が始まった頃から、僅かな休止を挟んで戦乱が続いていたことを思えば、誰もが欲していた平和であった。イギリスも和平に応じ、フランスへ攻め込んで革命政府を倒すことはいよいよ難しくなった。
 戦争における成果はひとえにナポレオンに帰せられるものであった。革命による軍政改革、また貴族子弟による兵ではなく愛国心に燃える兵士たち、実力主義によってのし上がった才能のある将軍たちの力もあるだろうが、それにしてもナポレオンの軍事的指導力は軍を抜いていた。政治における成果は王政が倒れた後に政府、地方、そして人民同士の折衝によって生み出されていった流れの末でのことであり、ナポレオン一人のものとは言い難いが、ナポレオンの持つカリスマ性は疑いようがなかった。
 ナポレオンは軍事、政治においても、その成果はナポレオン一人のゆえだと聞こえるように演出した。ナポレオンはマスコミの重要性に気づいていた指導者でもあった。戦争の報告を国民に行う大陸軍広報ではナポレオン自身が筆を執り、過大に評価した戦果を喧伝することもあったほどだ。その手の情報操作には警察大臣フーシェを使った。彼に新聞社を管理させ、反政府的な新聞は徹底的に潰し、世論操作を行った。
 ロベスピエールのように暴力的ではなく、バラスのような腐敗もない。ナポレオンはフランスのためになる人物であれば寛大に接したし、一方で金持ちと癒着することもなく悪徳を行う者は容赦なく罰した。自由であり、貧富の差による不自由も徐々に解消されていった。この平和がいつまでも続けばどれほど良いことであろうと誰もが思っていた。
 この三年でナポレオンは多くのことを成し遂げた。リセ(公立中学校)の設立により、これまで聖職者に委ねられていた子供の教育を改革した。キリスト教的な旧来の思想的教育から、科学的、実質的な教育へと改革し、また学者や教師らの制度も整えた。軍制の改革を行い、より効率的で機能的に軍隊が機能するようにした。私立銀行から国立銀行へ財政管理を移したことで、財政を健全化させた。シンプルに言えば、給料の滞りがちであったやる気のない公務員たちに、きちんと給金が回るようにしただけでもナポレオンの成果は大だった。
 またナポレオンの大きな仕事としてはレジオン・ドヌール勲章の制定もある。国家に対して功労のあった者は表彰し、メダルを与えることにしたのだ。新たな階級を作り出すと批判されたが、働いても褒められない世の中で人は頑張ろうと思うだろうか。ナポレオンに言わせれば勲章はただのオモチャであるが、それが与えられる名誉のために人は必死になって働くというのである。国家が与えるということよりも、民衆が喜んだのは、ナポレオンがそれを制定したということかもしれない。英雄ナポレオンに認められた証のようなものだから、みなが欲しがった。特に、軍人たちからの羨望は限りないものがあった。ナポレオンの部下で元帥になった者には生粋の軍人ではなく、宿屋の息子もいれば、元弁護士志望の若者がおり、染物屋の息子や散髪屋の子もいるし、国外で犯罪を犯した荒くれ者もいた。しかも軍事的教育を受けたわけでもなく、軍隊でのし上がったのだ。何の才能もないとみなされていた者でも、軍に入り頑張っていれば、そのようになれるという実物を見ているのだ。兵士にとっては特に憧れの的であった。王政復古の後には、革命政府及びナポレオンの政府の制定したものは多くが廃されたが、レジオン・ドヌール勲章は王政が来た後も撤廃されなかった。現在のフランスでもレジオン・ドヌール勲章制度が残っている。
 革命以来関係が悪化していたローマ教皇と条約を結び、教会と友好関係に戻ったことも成果の一つだ。革命によって奪われた財産を教会へは返さない代わりに、再び布教することも認めた。聖職者と見れば特権階級として迫害されていたが、それもナポレオンの頃には落ち着いていたし、特に田舎ではキリスト教は必要とされていた。信仰の自由は革命フランスでは認められていたが、これまで特権階級だった僧侶は必要以上に迫害されていたのだ。ローマ教皇との和解を、民衆は歓迎して受け止めた。
 また革命により、逃亡した貴族の土地や教会財産の土地が農民の手に渡ったが、それに関連する訴訟が物凄い数に上っていたが、それもようよう解消されつつあった。これはナポレオンの成果というよりも、革命政府以来の官僚たちが地道に取り組んできた成果である。しかし、偉大な指導者がいれば、それらの成果もナポレオンのものだと思うものだ。
 そして何より、ナポレオン法典と呼ばれる民法典が完成されたのもこの頃であった。革命で作られた法典は未完成で、荒削りな部分が多かった。身分格差を撤廃、自由と平等の理想ばかりが重視されており、また、一方でこれを聖典と崇める革命派の圧力も強かったが、ナポレオンは革命の理想を尊重し、一方で現実にも合わせた実用的な法典を作り上げた。ナポレオンが一人で作り上げたわけではなく、彼の元にいた法学者と何度も会議を重ねた上に完成を見たもので、それでもナポレオン法典の名を冠しているのはこの法典を民衆に行き渡らせた功績が大きいためだ。以後約二十年に渡りナポレオンの時代は続き、その間に、ナポレオン法典を元にする国家経営は行われた。すぐに指導者が変わっていたならばありえないことだ。
 情報が瞬時に行き渡る現代と違い、革命が伝播するスピードは遅い。パリなどでは昨日と今日では全く情勢が違うことがあったが、地方では革命はゆっくりと広がってゆく。王政が終わってようやく、地方の端々にまで革命は行き渡りつつあった。革命を維持したことは偉大ではある……しかし、皇帝になってからのナポレオンは兵を死なせすぎた。アミアンの和平が破られて以後に成したことよりも、和平の間の三年で彼が成したことの方がより偉大であった。


(おや、おや、おや、おや……)
 陰鬱そのものの闇の中、その最も深淵たるフーシェの秘密の引き出しを正邪は覗いていた。
 ナポレオンは真にフランスの英雄であった。英雄たることの他に個人的欲望もなく、悪徳商人と組んで貧民をいじめることもない。国家のための献身(ナポレオン個人にとっては英雄たるための代償に過ぎない)を、自分のように他人にも要求し、働かせるのだから、個人としての枠からは外れていた。民衆としては、まさしく、人々を救うために現れた英雄であった。
 しかし、一方で、ナポレオンの敵は多く、その偉大さを快く思わない者もいた。ナポレオンはジャコバンでもなく、王党派でもない。貧民を救いはしたが貴族制をやめるわけではなく、王の一族に対しても、王政に戻すことのほかは寛容に接した。政府への登用についても党派よりも実力を重視し、後にボナパルティストと呼ばれることになる独特の勢力を築いた。まだ自らの味方が少ないこの当時、ナポレオンは敵に囲まれていた。その有能さは買うが長いことその席に居座られても困る。成果だけをよこして、さっさと戦場に帰ってくれと、政敵たちは思っていた。
 フーシェの策謀は、ナポレオンを追い落とすためのものであった。しかし今となっては救国の英雄ナポレオンである。どのように追い落とすべきか。マレンゴのときのような逆巻く陰謀の台風があるわけでもない……フーシェは策謀する。フーシェが取り込んだのはナポレオン憎しの声を上げる者だけではない。ナポレオンに然るべき恩賞を与えようという勢力さえ、巧みに巻き込んだ陰謀を企んでいた。それは果たして陰謀と呼べるのだろうか。しかし、ナポレオンをやがては追い落とすことになるという意味で、間違いなく陰謀であった。
 正邪の眺めているリストには、それに賛同した者の名前が書き連ねられていた。また、以後声をかけて仲間に引き入れる予定の者の名前、そして必要な交換条件が書かれていた。このリストがあればフーシェの望みは叶い、また一方で、フーシェの陰謀は潰えるだろう。仮に流出などすれば。正邪の目がきらめく。
 しかしフーシェがそのように行動するのは不可解なことであった。自分から危険へと飛び込む男ではない。ナポレオンとの仲は険悪だが、大臣の座にあり、身は安泰のように思える。しかしフーシェにとっては陰謀は水と空気のように必要なのだ。これもまた、安全な位置を占めながら両方にいい顔をしてみせる、いつもの陰謀なのであった。ナポレオンに嫌われていることは分かりきっている。ナポレオンの元で栄達は望めない。ならば、より気に入られるような権力者をフランスに選ばせる。もしくは……。
 この頃、フーシェにとって最も顕著な変化が訪れる。ナポレオンにとって代われる権力者がいないならば、自分がその席についた方がいい。この頃から、フーシェにも権力欲という、抗いがたい欲望が現れてきたのである。争う相手はナポレオンであった。フーシェにとっては、ナポレオンが偉大になればなるほど、追い落とし、その頂から地底の底へ蹴り落としてしまわなければならない相手になるのだ。その真なる目的が権力欲のためか、フーシェ個人の悦びのためかはわからない。しかし、フーシェがナポレオンを超えようとしているのは明らかだった。
 正邪がリストを書き写そうと白紙を取り出した時、正邪は暗緑色の光を見た。冷血動物の鱗のように、艶かしく輝く光が、扉の間から伸びている。いつ扉を開けたのかすらわからなかった。ランタンを持つフーシェが扉の向こうから覗いていた。正邪は冷や汗をかき、しかし笑いかけて見せ、リストを引き出しの中へと戻した。
 フーシェの変化は、正邪にとっても喜ばしいものだ。こいつは妖怪よりも妖怪じみてきていやがる。フーシェは室内へと押し入った。ランタンが揺れ、フーシェの影が巨大に、部屋の中へと満ちた。フーシェは正邪のそばへと歩み寄り、穏やかに手を差し伸べて、引き出しを閉じた。

 ナポレオンの執務室は、その栄光とは裏腹に、薄暗い印象があった。ナポレオンの影は窓からの光を受けて、地を擦るように長く伸びていた。
 あまりに多くの功績を上げたというのに、議会から与えられた報酬は第一執政の期間を十年延長するというだけのものであった。ナポレオンは一言も発しなかった。室内にはナポレオンのほかにフーシェ、タレーランもいる。しかし、彼らも言葉を挟まなかった。異様な状況で、決議をナポレオンに知らせに来た議員は困惑したことだろう。
議員の困惑は無理のないことであった。ナポレオンは十年延長で充分に労われたと思い、感謝して受け取ることだろうと。議会の誰かが言い出し、皆がそれに賛成した。それで五百人会も元老院も通過したのだ。ナポレオンが喜ぶと思って通過させたことなのに、当の本人が受け取らないとなれば、議論は何であったのだ。
 議会の本音は、ナポレオンの権力をこれ以上強くなどしたくなかったのだ。しかし、明らかな功績に対し、知らん顔をしているわけにもいかない。何かを示さなければいけない。それについて一つの考えを示したのがフーシェであった。執政の十年延長という動議を、闇の中で、議員たちの間に囁いて回った。ちょうどいい落としどころであった。不遇を囲えばナポレオンを王として立ち上げようとする勢力が現れるかもしれないし、本人が国民の人気を背景にクーデターを起こすかもしれない。十年でナポレオンが満足するならばそれで良い。あとは時を待つことだ。ナポレオンの成功も永遠に続くわけじゃない。自然発生したかのごとく立ち現れた動議に、皆が賛成した。ナポレオンにはこれ以上の増長などせず、大人しく政府を運営しているだけでいい。
 勘のいい議員ならば、ナポレオンが喜ばないかもしれないと思ったことだろう。彼は金を自分のためには使わないし、個人的欲望や野心のない男であれば、満足するかもしれないが……。しかし、表向き無欲なふりをしていても、ナポレオンに欲がないということはありえない。
 自分の発案であるかのごとく、ナポレオンが喜ぶところを見たいと考えたこの議員は情勢が読めていなかったのかもしれない。しかしナポレオンは喜びもしなかったが、怒りもしなかった。怒りを発すれば慢心であり、それ以上の地位を望んでいると野心を疑われることだろう。しかしナポレオンからすればゴミのような報酬だ。ゴミを手渡されて笑顔で受け取ることのできる者はいるだろうか。無言は続き、ついには議員は一言二言、言い訳のように挨拶を口にして、執務室を逃げるように出た。
「私が成したことに対し、十年が報酬か。それが終わったら出て行けというわけだな」
 フーシェ、そしてタレーランだけになると、ナポレオンは本音を口にした。二人はナポレオンが怒り心頭だと分かりきっている。一人は動議し、一人は分かっていて見逃したのだ。
 ナポレオンからすれば、十年延長などという決議はどうしようもなくバカバカしい結果だった。せっかくフランスをよくしてやったのに、執政の任期が終われば放り出され、権力を得た人間がフランスをダメにすることだろう。仮に王党派が政府を握れば王政に逆戻り、革命の成果などは反故にされてしまう。フランスを守るためには独裁の他にない。まずは終身の執政、それから皇帝あるいは王の座である。体制が変わらないということを国外の連中に知らしめるには、それが必要だ。国民も皇帝を望むことだろう。ナポレオンにはその自信があった。
 国王の首が落ちてから十年しか経っていない。政府や議会がそれに踏み切るほどの勇気はないだろう。ナポレオンの功績について誰も言い出さなければ、身内の議員を使って自分から議会を動かすつもりだったのだ。だがフーシェはそれを真っ向から潰した。恩を着せるために十年延長という報酬を与えたのではなく、ナポレオンが怒ると分かっていてやったのだ。フーシェにはナポレオンの望みが手にとるように分かっていた。
 フーシェは、ナポレオンに対し、議会などは自分の手で動かせるのだと見せつけたのだ。ナポレオンが功績と国民の人気を盾に思い通りの地位につこうと策謀しても、議員たちの共通の目的を探るフーシェには勝てない。事実、ナポレオンが諸外国に勝ちを収めるのは嬉しいが、それはフランス全体の功績であって、ナポレオン一人の功績だと思われては困るのだ。ナポレオンの腕前には感服しても、これ以上増長されたくないというのは全ての議員の共通認識であった。仮にナポレオンが腹心の部下を使って終身執政の議案を出したとしても、フーシェは議員たちに闇の中で説き、否決してしまっていたことだろう。
 しかしそのような動議をしたことに対して、叱りつけるわけにもいかない。フーシェが議員を使って動議させた証拠もなく、証拠があったとて、ナポレオンに対する善意から出たものだと言われれば何も言えないのだ。ちょっとした愚痴を言う程度のことしかできなかった。フーシェの機嫌を損ねれば、悪い結果を招きかねない。
 フーシェの機嫌だと。戦争には勝ち、外交ではその勝利をもって諸外国に勝ちを収めてきたナポレオンが、フーシェには顔色を伺わなければならない。銃殺にしてやりたいほどに憎らしかった。
「どう思うね、フーシェ。この動議をした者は、私を不快にさせたかったのか。それとも別の意図合ってのことか?」
「私が疑問に思いますのは、閣下」
 フーシェはいつもと同じ無表情であった。ナポレオンの怒りに触れていながら、フーシェにとってはそよ風のごとくに受け流していた。
「そのような愚痴を吐くために私を呼び出されたのかということです。それも、外務大臣と一緒に」
 タレーランも同じく知らん顔であった。ナポレオンはタレーランに対しても失望を抱いていた。タレーランがナポレオンの後押しをしてくれるのではないかと期待していたのだ。彼は他人の欲望を読み取るのに長けている。ナポレオンの望みも当然察している。
 タレーランとしても、ナポレオンの権力が強まることには反対だった。周辺国家はフランスとは手を握ろうと思うだろうが、ナポレオンとは手を握りたがるまい。軍の力で圧力を加え、無理矢理に従属させることは可能だが、それでは軋轢を生むだけだ。
 先だってのことではナポレオンに背き、フーシェに肩入れすることにはなった。しかし、タレーランがこの場にいる理由は、フーシェを追い落とすためであった。王になりたいという要望は汲まなかったが、フーシェを始末したいのはタレーランも同じであった。
「タイユランと君を呼んだのは、政務に関する要件だ。タイユランから提案があってね。警察権を内務大臣に渡してはどうかと」
「警察省を解体というわけですか」
 次の言葉はタレーランが継いだ。
「警察及び警察大臣の精勤なる働きによって、国内の治安は安定しています。革命の間は警察には非常時の権限が必要でした。過激派も多かったことだし。しかし、今や平和に戻りました。平時には警察省という大掛かりなものより、教育やその他のことに予算を使うべきかと」
 タレーランがナポレオンへ献言したのは明らかだ。そして、ナポレオンの欲望を見抜いたものであることと同時に、情勢をも意識したフーシェ排除の妙案だった。
 ナポレオンに功績をもって望まない報酬を与えたように、フーシェにも意趣返しをして差し上げればよい。タレーランの言ったことは正しく、ナポレオンが逆ねじを食わせることができないように、フーシェも反論を言い立てることはできなかった。今やフランスは平和、それは本当のことであった。閣僚たちも、皆同じことを言うだろう。天秤はタレーラン及びナポレオンの方へ傾く。フーシェは反論を言わなかった。
「フーシェ、警察大臣の任は終わりだ。君はどうしたい? 誰かの下で働くか、それともどこかに席を用意させようか?」
 ナポレオンの政府での権力は絶対ではなく、政府中枢で力を握るフーシェを放逐するにあたって、ナポレオンは最大限の譲歩をした。言葉遣いは丁寧で、無官で放り出すということもしない。かといって、大臣の座に居座ろうものならタレーランはもっと大掛かりな策を持ち出すことだろう。フーシェにとっては断るべき条件ではなかった。引き受けてしまう方が得策だ。
「そのように言われますならば、私から重ねて要求することもありますまい。まだ引退するには退屈ですので、どこかに仕事を与えて頂ければそのように致します」
 権力を得ようともがけば、政敵は蹴り落とそうと画策する。ナポレオンもタレーランも、そしてフーシェも同じだ。誰もが相手を頂点には立たせたくない。一度標的にされたならば、頭を下げて大人しく機会を待つに限る。フーシェにとってはそれがいつもの手だった。
 着飾った一人の職員が、ノックをしてフーシェの元へ歩み寄った。何者か、とフーシェが聞く前に、その者は報告した。
「警察省の者です。指示されて用意していた資料を届けに」
 フーシェの預かり知らぬことであった。ちらりとフーシェを見上げた職員はにやりと笑った。見知った顔だ。フーシェは知らぬ顔をし、ナポレオンに向き直った。
「閣下、報告があります。警察省を解体するにあたり、残りの予算を計上させました。これがその額になります」
 フーシェは正邪に渡された紙片を、そのままナポレオンに示した。その額しめて240万フラン。ナポレオンは一瞬のうちに答えを引き出した。これは甘受すべき痛みだ、フーシェの要求に答えておかなければまたぞろ厄介なことになる。警察から引き離しておけるのだから、この程度の痛みは受けるべきだ。
「フーシェ、半分は君が取り給え」
 フーシェは恭しく一礼した。タレーランに聞かれたが、その程度のことはどうということはない。タレーランはもっと悪どいこともやっている。例えば、アミアンの和約の際、ベルギー国債はフランスが保護すると条約の中に一文を入れた。それによってこれまで紙くず同然であったベルギー国債は大幅に値上がりしたが、その和約が成立する一日前にタレーランはベルギー国債を山のように買い上げていた。これによりタレーランは400万フラン(現代のフラン・円レートで約40億円)の儲けを得た。またブリュメールのクーデターでも、価値の下落していたフランス国積をクーデター前に大量に買い上げて、クーデター後に売り払ったりと、タレーランはこのような金儲けの悪どいやり口を大量に知っていた。いわば現在で言うインサイダー取引に当たるが、咎める者は誰もいなかった。
 無論フーシェもそのような取引の情報は押さえている。タレーランがこの程度のことを口外するはずもなかった。
 ちなみにフーシェの受け取った120万フランについて、当時(1800年代前半)の貨幣価値は変動が大きく、換算が難しい。仮に現代の貨幣価値に当てはめれば日本円にして約12億円に当たり、1850年頃ではその三倍にもなると言う。フーシェの生涯で得た総資産は1500万フランになると言うから、警察省解体で得た収入の巨大さも分かるだろう。
 フーシェは一礼した後、そのまま執務室を後にした。執務室の中で、タレーランはいつものように微笑を浮かべていたが、ナポレオンはフーシェを追い出したというのに喜びはなかった。暗く、まるで敗北したかのように無表情だった。
「次の話をしましょう。ひとまずの処置は済みました。あとは放っておけば、情勢が味方をしない限り、戻ってくることはありますまい」
 情勢が味方をしない限り。そのとおりだ、とナポレオンは考える。このまま何もかもがうまくゆき、フーシェが必要になることがなければ……しかし、情勢というのは今は穏やかに凪いでいても、いつ荒れ狂うものか予想もつかない。権力を求める者がおり、栄光を求めてどこまでも暴走して諦めもしなければ、情勢というのはどこまでも暴風のごとく荒れ狂うものだろう。ナポレオンの内側には飽くなき栄光への衝動が芽吹いている。
「イギリスとの和平は成りました。今必要なことは、彼らを満足させ、野心などはないと示しておくことですな。つまりは静かに頭を下げておくということです。復讐は終わり、なべて世は事もなし……そうしておいた方が得ですよ、と、互いに示してみせることです。貿易もやり、交流もやり……」
 タレーランの言葉は続いた。彼の言うことは当を得ている。しかし、ナポレオンは納得できなかった。イギリスになめられたままでいられるものか、と常にわだかまりを抱え続けている……結局のところ、強硬は反動を生む。ナポレオンは野望多き男だ。フーシェをいつまでも放逐しておきたいとも考える。しかし同時に、世界に向かって自分を投げ込みたいという欲求は果てなく強い。外国にも、国内にも、強硬的に出ざるを得ず、そうなればフーシェのように警察的能力に秀でた男を放っておくわけにはいかなくなる。結局ナポレオンはフーシェを必要とした。彼を呼び戻すことになる情勢というものは、ナポレオンの栄光に対する欲望そのものが呼び込むのだった。

 外でフーシェを待ち受けた正邪は、嫌らしく笑い、フーシェの背を乱暴に叩いてみせた。フーシェは相変わらずの無表情であったが、室内とは違い、勝利の余裕に満ちていた。
「警察省の解体の話はタレーランから聞いてた。用意させたんだ。120万フランだと。笑いが止まらないな」
「後々でも用意できた」
「いや、あのタイミングじゃないといけなかったはずだ。そうじゃないとナポレオンの妥協は引き出せなかったろ」
 理想的な落としどころになったことが確かだ。結果論ではあるが、そのとおりかもしれない。
「金はありがたい。だが、警察省は解体か。痛くもないが、しかし愛着はある。私が作り上げた組織だ。寂しくなる」
「忘れろよ。それに、お気に入りのオモチャをなくしたところで、お前のことだから好きなようにやるんだろ。それより何をして遊ぶ? 派手にパーティでもやるか」
「馬鹿を言うな。追従に、その場限りの作り笑いばかりだ。そんなものを眺めて何が楽しいものか。それに、これまで以上にスパイどもには報酬を与えなくちゃならない。貯金だよ」
「つまらないやつだよ。金は貰い、しかもこれまで以上の報酬ももらうというのにさ」
「何?」
「私の耳は知ってるだろ。やつら、念のいったことで、お前を追放するのに充分な計画を立ててる。元老院議員の席と、それから南仏のエースに領地を与える用意をしてる。毎年そこから上がりが出るというわけだ。運用をすればいい儲けになるだろ。陰謀の足しになるな」
 表情は変わらない。もはや鉄面皮は張り付いたようになっている。しかし、内心では素直に嬉しく思っていた。よいところに土地をもらった。引退するには欲望が邪魔をするが、引退しすることになったとしても、家族と安穏に過ごせることだろう。それは素晴らしいことだ。しかし、何かのきっかけで全ては失われる。財産も、領地も失い、ともすれば命さえも。家族は路頭に迷い、フランスにすらいられなくなり、どこか外国で亡命者として肩身を狭くして暮らすことになる。たとえ田舎に引っ込んでいたとしても同じだ。これまでがこれまでだが、敵対者はフーシェをどこまでも蹴落とそうとするだろう。
 全ての始まりを恨むほかはない。革命がなければ、僧坊で一生を終えるのも悪くはなかっただろう。しかし革命の大嵐は僧坊を吹き飛ばすことは予見できた。安定した居場所を求めて革命の只中へ入ったが、そこでも穏やかには暮らせなかった。ロベスピエールが国王の生か死を選ばせ、国王処刑派として生きるほかなくなった。その後には貧乏が来て、バラスのためにスパイとして生きるほかはなかった。ナポレオンのために登り上がる花道を作ってやらねばならなかった。そうしてナポレオンが巨大になれば、彼と争っていなければならない。フーシェの立場が……人格がこのようになったのも、全て流転する運命のなせえる業か。悩み、鬱屈することは簡単だが、彼には不思議と物事に悩むという性質はなかった。できることは全てやり、そうして全てを割り切る運命論者という者の姿だ。とにかく、フーシェには争い続けるための武器が必要だった。フーシェの頭は、その用意のために回転し始めていた。
「仕事からは手を引くというのに、むしろ忙しくなりそうだ」
 そう正邪は言ったが、フーシェにとってはいつもと変わらない。それに彼にとって諜報とは仕事ではなく、娯楽だった。楽しみが奪われて、別の楽しみを見つけるだけのことだ。フーシェの足はまっすぐ警察省の事務所へと向かった。


 警察省では、彼の部下たちもまた、警察大臣の精勤にも勝り忙しく立ち働いている。その職員たちは大臣が訪れると同時に、追い出され、帰されてしまった。フーシェに最も親しい部下が数人だけ呼び出されて、移転作業が始まった。蒐集した秘密文書は全て持ち出され、国民の個人情報を書き込んだリストも持ち出された。そして、フーシェの秘密警察の核たるスパイたちのリストもまた、警察の中には残しておかなかった。あとに残ったのは、どうでもよい、役にも立たない情報ばかりだった。フーシェが事務所の鍵を内務省の役人へ手渡したときには、フーシェの元では高い精度を誇っていた精密機械も、役に立たないガラクタへと変貌してしまっていた。
フーシェがいた頃の警察省は精勤極まりない組織だったが、その機能は縮小された。政府はその理由を、予算が減り、長官も変わったためだと考えていた。フーシェがわざとそうしたのだとは考えなかった。
 フーシェのスパイ網や、持ち出した必要書類のことなどは誰も気が付かなかった。ナポレオンがそれを疑っていたとしても、証拠はどこにもないのである。機密文書やリストはその日のうちに別の場所へ移されて、即日フーシェの個人的な秘密事務所として動き始めた。職員が政府の人間からフーシェの個人雇いになっただけのことである。
 フーシェは領地を貰い、元老院議員に収まった。議案に対し賛成、反対の票を入れるだけの仕事である。この当時議員に必ず議会へ出席しなければならない義務はなく、欠席すれば票を入れられないだけのことだ。シェイエスを元老院議長に棚上げしたのと同じく、名誉はあるが決定権のない閑職である。権力は何もない。フーシェは今では、身分の高い温厚な老人であった。1802年、この年で43歳である。老人と呼ぶには少し若い……しかし、革命で死んだ者は皆若かった。ロベスピエールが死んだのが36歳、サン・ジュストが27歳。ダントンが35歳である。彼らとともに立ち働き、革命という濃縮された期間を過ごしたフーシェにとっては、煮詰めた時間を飲み込んだがごとくに老いた風情をしている。もっとも、フーシェは二十代の若きから老成した雰囲気を持っていた。
 今や仕事からも解放され、ゆったりと時を過ごす一人の人間でしかなかった。観劇をし、昼食会や夜会を開き、時には小さな菜園を耕し、家族との時を過ごし、子どもたちと語らった。気の早い者は、フーシェは引退したと噂した。警察省の解体はフーシェから持ちかけたとさえ言う者もいた。しかしそれは表向きだけのことであり、裏では彼は、これまで以上に秘密組織を動かしていた。
 やることは変わらなかった。人脈を要所に配置し、情報をかき集めさせ、一つ一つ精査して取りまとめておくだけのことである。前もって危険が迫っていると分かるならともかく、常時からそのようなことをするのは、偏執的な覗き屋、他人の陰謀を嗅ぎつけ裏をかくことを愉しみにしているフーシェのような人間の他にはありえなかった。陰謀こそが全てで、それが行われているという時に自分だけが蚊帳の外ということには耐えられなかった。警察から追放されようとも、彼は一人で実質的な警察権を握り続けた。そして、そのようにして集めた情報を、時にはナポレオンにも渡していた。ナポレオンの方でも礼を言うことはなく、一見しては返事もせず放っておくのみだった。だが、脆弱になった新しい警察などよりも正確な情報を持ってくることから、ついついナポレオンの方でも頼りにしてしまっていたのである。あのように鬱陶しく、憎いフーシェではあったが、送られてくる情報は相変わらず有用であった。フーシェにとってもナポレオンに一目置かれておくことは必要であったし、また恣意的に情報を渡しナポレオンを操り利用することもできた。
 フーシェはこのようにして警察大臣から一議員に変わった。権力は失ったが、警察権を密かに握っていることは変わらなかった。無官に落ちて力を失うことはフーシェの人生では時折あったことだ。フーシェはただ時を待った。時を待てば、また時がフーシェを押し上げてくれることだろう。
 情勢がこのまま穏やかであるとはフーシェは見ていなかった。タレーランが尽力してはいたが、ナポレオンが悩み、そして心の奥では密かに望んでいたように、ヨーロッパの情勢は激しく乱れていった。
 やがて、時代は再びフーシェを表舞台に呼び戻すことになる。この頃から、時代はナポレオン一人を中心としつつあった。時代とはすなわちナポレオンのことであった。ナポレオンは必ずフーシェを必要とする。今は舞台からは降りたが、しかし劇から永遠に追い出されたわけではない。再び呼び戻されるべく舞台の脇に潜んでいるだけのことであった。


 時は1804年となった。フーシェが罷免されてより二年が経っている。ヨーロッパの情勢は変化しつつあった。タレーランが苦労して取りまとめた平和は長くは続かなかった。原因はイギリスとナポレオン両方にあり、つまりは互いに和平は一時の休息と捉えていたのだ。互いに覇権を争うきっかけを探っていた。
 マルタ島は地中海の中央に浮かぶ小さな島だ。イギリス軍はここに軍船を置いて制海権を得ていた。マルタ島はイギリスの重要な拠点であり、ここからイギリスの貿易網は地中海全域へ広がっている。イギリス軍に制海権を抑えられたままではフランスは貿易においてもイギリスに押される一方なのであった。
 アミアンの和約の条文には、イギリス軍のマルタ島からの撤退も含まれていた。フランスが矛を収めるのだから、イギリスもフランスの喉元に軍を置いておくのはふさわしくない。サインして合意に至ったからには、イギリス軍はマルタ島から兵を引かなければならない。しかし、イギリスは何かと理由をつけて兵を引こうとはしなかった。イギリスの主戦派は和約など紙切れにすぎないと考えていた。ナポレオンはまた何かにつけて戦争を起こすと考えていたし、ナポレオンの側でも、イギリスはオーストリアが敗戦で乱れた軍備を整える時を待っているだけで、またロシアやオーストリアと組んで軍を送ってくると考えていた。どちらが和平を放り出し、名分を得るか、その時を互いに待っていた。
 一方で、フランスはイタリアのピエモンテを併合した。ピエモンテのことなどは条約に含まれていない。しかしイギリスはフランスには野心があると非難し、そのような振る舞いに出るならば和約は反故にしてマルタ島からの撤退も行わないと通達した。
 タレーランは和平を続けるべく奔走したが、イギリスは頑なで、一方のナポレオンも頑なだった。弱腰になればイギリスはじりじりと船をよこし、少しずつ土地を奪ってゆくのは目に見えている。フランスの民衆もイギリスの好きにさせておくのは面白く思わず、不満はナポレオンへ向くだろう。イギリスが折れないならば一戦するのみだとナポレオンは思っていた。純粋に戦争好きというのではなく、政治的な理由でもって引くわけにはいかなかった。
 ナポレオンはイギリスに対し、条約に違反するつもりならナポレオンは十万の兵でイギリスへと上陸すると露骨に脅しをかけた。無論、イギリスが素直に従うはずもなく、いつ開戦されてもおかしくない一触即発の情勢になった。タレーランは付き合っていられない気分だっただろう。ナポレオンは言わずもがなだが、ナポレオンを嫌いぬくイギリスも露骨だった。タレーラン好みの平和路線は正論ではあるが、しかし正論であるがゆえに実力を伴わなかった。この頃にはロシアもオーストリアも前の戦争での疲弊も過ぎ、気息は十分であった。

 イギリス単体ならば勝利の目もあるだろう。しかしイギリスがまたもやオーストリアやロシア、プロイセンを巻き込んで同盟を組まれては困る。ナポレオンは素早く攻めて事を収めることを望んでいたが、うまくことは運ばなかった。
 ナポレオンはフランス北部、ブーローニュの森にフランス軍十万を集めた。しかしこれは半ば脅迫に過ぎず、実際に被害を及ぼすには至らなかった。貧弱なフランス海軍の軍船では強力なイギリス海軍と正面から渡り合うことはできず、ドーバー海峡を渡ることはできなかった。
 イギリス本土へ上陸できたならば、フランスの大陸軍はこともなくイギリスの陸軍を破ることだろう。その恐怖感でイギリスの金融業界を震えさせ、経済に影響を及ぼすことはできたが、実際には弾丸一つたりともイギリス本土には届いていないのだ。
 イギリスの側でも、ヨーロッパ側に陸軍を上げるという方法は取らなかった。補給その他の理由で渡海作戦はリスキーだし、フランス陸軍は精強だ。かといって、経済不安、政情不安を放置すればフランス寄りの内閣が誕生するかもしれず、イギリスには対策が必要だった。イギリスは戦争よりももっと安上がりで簡単な方法を選んだ。ナポレオンは本土でも誰も彼もに好かれているというわけではない。こと王党派はナポレオンを殺しても殺し足りないと思っている。彼らに拳銃と費用を渡してやれば、それで事は済むというわけだ。
 イギリスが行ったのはまたもや暗殺作戦であった。前回は惜しいところまで進んだのだから、今回は成功するはずだ。イギリスは王政を否定するナポレオンを憎むこと甚だしいふくろう党の勇士カドゥーダルと、かつてギアナへ追放されたフランス軍人ピシュグリュをフランスへ送り込んだ。彼らは潜伏の末暗殺計画を練り、機会を待った。


 そのような状況をナポレオンは全く知らなかった。イギリスからの暗殺団が入国しているなど、政府の者は誰一人知らなかった。フーシェがいなくなった警察は全く無能であり、そのような動きも全くチェックできていなかった。一人知っているのはフーシェだけだった。
「イギリスと繋がりのある貿易会社の貨物だ。貨物に紛れた亡命フランス人が十数人侵入した。海外からの輸入品を管理する政府の人間は賄賂をもらって見逃したようだ。人相から判断するに、一団の長はカドゥーダル。サン・ニケーズ街爆破の主犯だ」
 フーシェが受け取った報告書には、そう書かれていた。フーシェの秘密機関は、サン・ニケーズ街の爆破事件以来、国外から来る貨物と人員のチェックを行っていた。フーシェはカドゥーダル一味を入国させた政府の職員を突き止め、買収した。入国管理の事務所にはフーシェのスパイも潜り込んでいる。例の職員は不審者を入国させたことを追求され、逮捕される代わりにカドゥーダルからもらった賄賂の数倍の報酬を貰ってスパイの一人として取り込まれた。
 正邪は彼から情報を受け取り、パリへと馬を走らせてきた。正邪が到着するより先に、港からパリの間の町から情報は届いていた。そのおかげで、フランスへ入ったカドゥーダル一味の動向は詳細に掴んでいた。フランスの南、地中海沿いの港から国内へ入り、輸入品を運ぶ馬車を駆り、パリへと向かっている。数日もすれば輸入品を扱う商人の印を持って、パリの城門も越えてくることだろう。
「どうするね。ナポレオンに知らせてやるか?」
 パリへ入ったとて、居場所を警察及びナポレオンに通報すれば、半日と経たず逮捕できる。フーシェの身内の者を使うならば二時間以内だ。彼らはまだ計画も用意もしていない。ナポレオン暗殺を実行するまでは時間がある。
 またしても、フーシェには選択が迫られた。ブリュメール18日のクーデターではバラスを取るかナポレオンを取るかとなったが、今度は暗殺計画をナポレオンに知らせてナポレオンの天下を続けさせるか、それとも暗殺を放置して誰かと共謀し、暗殺の後の権力を握るかの選択を選ばなければならなかった。
 フーシェの内側では、表情は陰惨に歪んだ。ナポレオンの命が手の上にある。事態を放置すれば、カドゥーダルが下手を打って露見、捕まることもあるだろう。彼を支援し、確実にナポレオンを殺させるためには警察を撹乱するのもいいし、あるいはいっそナポレオンの行動をカドゥーダルに知らせてやってもいい。その後で断頭台に登るのはカドゥーダル一人だ。ナポレオンを処分し、汚れ役を被って黙ったまま地獄へ行ってくれる。イギリスの情勢がナポレオン排除へと動いている。
 フーシェはその情勢を後押ししてやるだけのことだ。成功するか失敗するかは、ほんの小さな天秤の傾きでしかない。その天秤をわずかに押してやるだけのことだ。そのわずかな部分にナポレオンの生死があり、世界情勢の変化がある。このような天秤の揺らめきを見る時、フーシェはこの上ない愉しみを味わうのであった。フーシェの指先の上に、ヨーロッパの運命が乗っている……。

 歴史上の事実として、ナポレオンが死ぬのは1821年のセントヘレナ島でのことであり、1804年のパリでは死なない。ナポレオンは生き延びた。見ようによっては、フーシェの気まぐれで生き延びられた。
 しかし一方では、ナポレオンを始末できなかったということでもある。フーシェの側からすれば、ナポレオンを追い出し、警察大臣に返り咲くことはできなかった。ナポレオンの命を小指の先で弄びながら……それ以上の楽しみは得られなかったのだ。あとは、テロリストを差し出し、ナポレオンに恩を売っておくというところで満足するほかなかった。ナポレオンを殺させればたちまち王党派が勢いづくことだろう。ナポレオンのいない軍隊は国外の軍隊に蹴散らされ、革命は失われブルボン家が復活するかもしれない。ナポレオンの片棒を担いでいるだけでは、国王処刑派としてナポレオンと心中することになるだろう。ナポレオン無きあとのフランスで生き延び、さらには権力を得ようと思えば、さらなる陰謀を用意しておく必要がある。
 フーシェの知らせをナポレオンは喜んだ。フーシェが知らせなければ命が危うかったところだ。港の職員もパリ城門の兵士もあっさりとテロリストを通した。警察は誰一人として気づかなかった。フーシェがいなくなった警察は無能であり、翻ってフーシェは相変わらず有能だった。フーシェにとっては、それを教えただけでも効果はあったことだろう。
 カドゥーダルのその後については、ナポレオン及びフーシェは見向きもしなかった。ナポレオンは宮殿にいて執務を行い、フーシェは自宅にいた。パリには厳戒態勢が敷かれ、犯罪者は城門を入るも出るもできなくなった。警察に追われたカドゥーダルはパリから出ることもできず、隠れ家を転々として逃げたが、彼の下男は拷問され主人の居場所を吐いた。そして遂には追い詰められ逮捕された。彼は銃殺刑となった。彼の相方、軍人ピシュグリュは軍の中に味方を作ろうと活動していたが投獄され、獄中で自殺した。
 ナポレオンはカドゥーダルの生死などは問題にしなかった。どのような刑になったかはどうでもよい。ナポレオンの暗殺計画があり、しかもパリまで侵入を許した。このようなニュースは大々的に扱うべきだ。ナポレオンはそのように指示を出した。新聞はこの犯罪行為を盛んに書き立て、酒場や街角ではその話題で持ちきりになった。王党派の連中はナポレオンを憎んでいる。フランスでは革命は完成されているというのに、ナポレオン一人を殺せば王政に戻せると考えている。
 ナポレオンが暗殺されれば、革命の成果は危うくなり、またぞろ旧体制に逆戻りだ。民衆も資本家も共和主義者も、誰も歓迎しない事態であった。イギリスを頼りにしてフランスを我が者にしようとするブルボン家の連中にはうんざりだ。ナポレオンにはもっと権力を与えるべきだ。ナポレオンのスパイたちがひっそりと広げた意見はそのようなものであり、民衆は新聞と世論で、一気にナポレオン支持へと傾いた。カドゥーダル一味はプロパガンダに利用されたのである。スパイたちを統制し、反対する言論を封殺したのはフーシェだ。その手腕にもナポレオンは満足した。
「私はナポレオンを殺しに来た。しかし、彼を王様に仕立て上げることになった」と、カドゥーダルは処刑の直前に言ったという。


 変革には血が必要だ。変革は供物を要求する。王政が終わる際の供物とは、ルイ16世でありマリー・アントワネットであった。ロベスピエールの国民公会が倒れる時には、ロベスピエールらジャコバン党の重鎮たちが。王政が終わって以来、多くの者が死ぬか、追放された。皆変革のための供物だ。
 供物を求めるのは為政者ではない。政治的なショーを眺める民衆のために捧げられる。供物は象徴的であればあるほどふさわしく、民衆は王党派に与する王家、あるいは貴族が吊るされることを望んだ。
 カドゥーダルの逮捕後、その身辺は徹底的に洗われた。カドゥーダルは証拠になるようなものは全て焼き捨てていたが、彼が最後に出した手紙が国内で抑えられた。それにより、この事件にはAをイニシャルに持つ王族が関わっていることが明らかになった。ナポレオンが暗殺された後には、Aがパリへ入って統治を行うこととされていた。アルトワ伯、アングレーム伯などAをイニシャルに持つ王族は複数いる。しかし素早くパリへ入るためには近くにいる必要があり、その点で最も疑わしいとされたのはアンギャン公であった。
 ブルボン家の分家であるコンデ家、その末裔にして現当主がアンギャン公ルイ・アントワーヌである。彼は反革命の最先鋒だった。彼は革命の最初期に亡命し、いよいよ王政が危ないと見るや国内の王党派と情報をやりとりし、国外で反革命の兵を集めて挙兵した。自ら指揮官として兵を率い、前線で指揮をした経験もあるほど血気盛んで、勇敢であった。
 現在はフランスにほど近いバーデン公国に住んでおり、いつでも機会があれば兵を率いてフランスに進軍すると公言している。彼は王家に類する者で最も目立つ存在で、若くリーダーシップがあり、期待されていた。
 結論から言えば、アンギャン公が現在の執政政府に対して陰謀を企てているのは確かだった。しかし、カドゥーダル一味のナポレオン暗殺計画とは関わりがなかった。カドゥーダルらを支援し、ナポレオン暗殺未遂に関与したのはルイ16世の弟でイギリスに亡命しているアルトワ伯だ。この時点ではナポレオン暗殺計画の黒幕は誰にも分からなかった。しかし、ナポレオンにとっては真犯人を突き止めることは重要ではなかった。王党派がナポレオンを狙った陰謀を企み、王族がそれに加担している。王族ならば誰でもよいから殺してみせることだ。それで、全ヨーロッパにいるブルボン家への強烈なメッセージになる。
 民衆はナポレオン暗殺に怒っており、それを企てた王家や王党派を処罰しろ、王党派にフランスを渡してたまるかと議論を交わしていた。王政復古の旗幟たるアンギャン公は、彼らに対し、申し分のない供物となるであろう。

 アンギャン公の逮捕について、政府では意見は割れた。ナポレオンは逮捕を命じようとしたが、第二執政カンバセレスは中立国への軍隊の侵入は国際問題になるとして反対した。どのようなことにもナポレオンに大人しく従うこの法学者が、この件に関しては断固反対したのだ。彼はかつて穏健派でありながら多数派に押され、国王処刑に賛成してしまった過去があり、同じことを繰り返したくなかった。政治的に微妙な問題であり、他の閣僚たちからは大した意見は出なかった。カンバセレスが納得こそしなかったものの、ナポレオンはアンギャン公の逮捕を決めた。
「彼にはパリで裁判を受けさせよう。けして殺すな。生かしてパリまで連れてこい」
 第一執政ナポレオンは、そのように命令した。第一執政の命令を受けて、軍人の一団が国境を越えてバーデンへと密かに侵入した。ナポレオンは逮捕を命じたが、その真意は那辺にあるや。暗殺未遂により、ナポレオンは怒っている。しかし見せかけの怒りはあてにならない。時に怒っていることを見せつけるために、怒った風を装うことがある。深刻な判断をする際、ナポレオンは感情に依らない判断をする。彼が怒りのあまりに誤った判断をしようとしているならば、現実的な損得の話をして説得することができる、しかし、彼独特の冷酷さによる判断では止めようがない。彼は部下に逮捕、連行するよう命令を出した。それは皆が聞いているが、その本心は分からない。本心を隠すための偽装かもしれない。
 ほとんどの者はこの件を知りさえしなかった。政府内でも、ごく限られた者にしか知らされなかった。長引いて多くの者が知ることになれば反対の声が大きくなるだろう。故にナポレオンは急いだのだ。しかしバーデンへ進出した軍の動きを知った者もいた。タレーランとフーシェである。タレーランはひらめきによって素早く行動し、フーシェは最後の瞬間に損をしないよう情報収集に努めた。


 雨の音が響いている。タレーランはバーデンの天候を思った。天候がどうあろうと、パリを出立したフランスの軍人たちは行動していることだろう。情報が漏れれば取り逃すかもしれない。ナポレオンは、とにかく自分の手の中に抑えてしまおうとしているはずだ。
「君、どう思うかね」
「どう、とは」
 室内にはもう一人の人物がいた。名をコランクールと言い、ナポレオンの幕僚の一人である。実直的な愛国者で、ナポレオンに付き従い、彼を支え続けた。しかしナポレオンのイエスマンというわけではなく、後年ではナポレオンのロシア遠征に対し反対を直言することもあった。しかしナポレオンの最後期、ワーテルローの戦いで敗北するぎりぎりまで諸国の外交官と渡り合い、有利な条件を引き出そうとしており、どこまでもナポレオンに忠実な部下だった。ナポレオンの反感を買うことを恐れず、正しい判断を望む甲骨の士でもあり、穏やかで、正義を信じる質の男であった。彼はタレーランに呼びつけられたきり、タレーランが黙って外を見ていたので、どのようにするべきか戸惑っていた。
「フランスが犯罪に手を染めようとしている時、君はどのようにする」
「止めるべきだと考えます。必要な筋に働きかけて」
 確かに貴族は好きではない。タレーランは先天的な足の障害のために、貴族の跡継ぎになれず、僧坊に入れられた男である。そのようにした貴族の父も、安穏と貴族の地位を得ている者全てが好みではない。アンギャン公の命などどうでもよい。
 しかし、アンギャン公を殺すことは悪手に過ぎた。国外の勢力はその暴力性に怖気立つことだろうし、亡命している王族や貴族たちはますます反ナポレオン、反革命の活動を強めることだろう。フランスの平和のためには、百害あって一利なしだ。それに、この件に対し王族に好意的な印象を与えておけば、後々王族から良い印象を受けられることだろう。ナポレオンは権力者特有のパラノイアにかかりつつある。ナポレオンの権力も長続きしそうにないような印象がある。いざという場合には誰につくかが重要になる。ここで王家に対して恩を売っておくのも悪くはあるまい。
「フランス軍の一部隊が、バーデン公国へ向けて進軍している。目的はアンギャン公の身柄だ。どのような嫌疑であれ、国外の人間を拉致して連行するということが許されると思うかね」
「それは……陰謀です。一体誰がそのようなことを。過激派の将軍が勝手にしているのだとすれば許されません。第一執政に掛け合って止めていただかねば」
「その第一執政からの命令なのだ」
 コランクールは絶句した。国外にいるブルボン家の係累が、反ナポレオンの活動をしているのは確かだ。しかし、力づくで黙らせるなど……。コランクールは軍人で、ナポレオンによって能力を認められて引き上げられた。その点には感謝しているし、何よりナポレオンは軍人にとっては生き神のような存在なのだ。しかし、誤りは誤りだ。
「実は先ほど、ベルティエ陸軍大臣よりバーデンにいるイギリスのスパイを逮捕するよう命じられました。第一執政からの命令だと。これにも関わりのあることでしょうか」
「それは驚きだ。後々、対外的な説明に使うつもりかもしれないな。軍隊はそのために送ったが、偶然そこにいた犯罪者のアンギャン公も同行者として逮捕し、重大な犯罪……12月24日の爆破事件に関わっていた証拠を得たと」
 コランクールがナポレオンより命令を受けたことも、タレーランは無論知っている。
「第一執政は犯罪を行おうとしています。それも国際的な。止めなければ」
「執政に掛け合っても無駄だ。軍隊を止めるのではなく、君は言われたままの仕事をするといい。その前に、アンギャン公の住まいへ立ち寄って注進するのだ。それで事足りる。フランスは重大な犯罪を犯さなくて済む」
 コランクールは慌ただしく立ち去った。彼はすぐさまバーデン公国へと向かうだろう。彼もまた雨に濡れて、結構なことだ。これによりタレーランは表立って関わったことにはならず、いざとなればコランクールの行いだと弁解ができる。今はナポレオンに睨まれるのはまずい。
 何しろタレーランは……閣僚会議では言わなかったが……手紙で、暗殺を行うような輩には例外なく処分が必要だ、と直接ナポレオンに伝えているのである。ナポレオンの権威は永遠ではないとは言え、今のナポレオンの権力は絶大なのだ。アンギャン公暗殺がいかに愚かな行動であれ、ナポレオンの怒りを買うわけにはいかない。タレーランはフランスでこそ名家の末であるが、国外へ逃げざるを得なくなればただの元貴族の亡命フランス人に成り下がる。タレーランは豪奢な生活を失うつもりはなかった。

 フーシェは闇の中にいた。薄暗い彼の執務室に座っている姿は、いかにも温良な一公務員に見えた。しかしその身は一室のうちにありながら、耳はあらゆる場所にあり、どのような物音も聞き逃さなかった。
 暴虐の時代は既に過ぎ去ったと考える必要がある。タレーランの平和路線は、唱えている者の不快さを除けば有用だ。国外との軋轢が深まればナポレオンが失われることとなりかねず、その後に訪れるのは無能な政治家か、王族が戻ってくるかだ。
 ナポレオンもまた、タレーランと同じく有用なのだ。ナポレオンに仕えるのではない。善良なるフランスの統治者に仕えるのだ。確かにフーシェにとって陰謀は血肉のごとく必要だが、それは自らの安寧があってこそだ。
 アンギャン公の暗殺計画……いかにも陰謀で、いかにも楽しい。しかし、アンギャン公の暗殺はフランスのためにはならない。復讐はナポレオン個人の行いだ。たとえ革命のため王家と争うという理由付けをしてみたところで、今度こそ全ヨーロッパがフランスの敵となり、復讐の報いはナポレオンではなくフランスが受けるのは変わりない。
 この件に踏み込まないのは賢明だ。しかし、同時にナポレオンの寵を失えばすぐさま失脚する。ナポレオンの支配は絶対的に思えても、五年後にはどうなるか。あるいはロベスピエール以上の狂信者が出ないとも言えない以上、ナポレオン以後も無事でいるためには、権勢を守っている必要がある。引退などすれば、理由をつけて裁判に呼び出された時に抵抗もできず、誰にも守ってもらえない。処刑が待っているかもしれない。先が読めず、政治が命がけという点で、今も1794年も同じであった。ことによれば、テルミドールの再来としなければならない。しかしアンギャン公のことを触れ回ればナポレオンからどのような目に合わされるか。ひとまずは沈黙のうちにあらねばならない。
 生き残りを賭けて、フーシェもまた立ち働かなくてはならなかった。タレーランはナポレオンに気に入られる道を選んだ。タレーランのような反射的なひらめきを持たないフーシェは、すぐさま道を選ぶことはしなかった。フーシェはひたすらに書き留めた。軍隊はバーデンへ進軍し……タレーランはコランクールを動かし……ナポレオンは報告を受け、あるいは指示を出している。命令や行動、あるいは噂話に過ぎない情報でさえ、フーシェのスパイは律儀に警察省へ送ってくる。いわく、コランクールがバーデンに入った。アンギャン公は既にバーデンにはいない。亡命貴族の一人がイギリスへ逃れた形跡がある。イギリスのスパイがバーデンで逮捕された。フランス兵が入り込んでいる、近くバーデンで戦争が起きるんじゃないか。アンギャン公はフランス国内へ移送された。既にアンギャン公は死んでいる……。
 情報の中には誤りもある。いくつもの真実が同時に現れる。フーシェはその中から、最善の一つを選び取る。

 どのように足掻こうとも……結局のところ、行き着くべきところに収束するのだ。正邪のうちにはそのような諦観に似た思いがある。それなのに、どいつもこいつもじたばたとあがく。
 コランクールは昼夜を問わない騎行により、アンギャン公捕縛の命を受けた一団よりも先にバーデンへと入った。フーシェのスパイはそれをもキャッチしていた。その中に正邪もいた。その長たるフーシェより指令は既に届いている。『動くな』『情報のみ集めて、私の元へ送れ』つまりは普段と変わらない。噂話を集めて手紙を出すだけでいい。質の良し悪しに応じて報酬をくれる。
 正邪には、フーシェの心情が分かっていた。ナポレオンのみならずタレーランも動いている。警察の息のかかった人物がそこにいると、外交官を通じてタレーランが知れば、喜んでフーシェを追い落とす材料にするだろう。この件に絡んでいると知られれば全責任を押し付けられる危険もあった。
「しかしそれはあんた達の理屈だ」
 正邪はフーシェからの指示をあっさりと無視した。正邪は変装し、アンギャン公が隠れ家として使っている屋敷の邸内へ侵入した。
 コランクールはバーデンに到着しても休む時間を取らず、アンギャン公を探して走り回っている。仮に善意のフランス人であると信じてもらえずとも、フランス人がアンギャン公を探し回っていると情報が回るだけで、アンギャン公は警戒することだろう。彼の目的は達せられる。タレーランやフーシェ、多くの政治家たちが思うように……アンギャン公を逮捕あるいは処刑という乱暴な手段は取られず、国外諸国を刺激することもなく終わる。
 しかし、歴史はそうはならない。どうあれ、アンギャン公は処刑される。今のフランスにあって、フランスの意思とは、即ち実質的独裁者ナポレオンの呼吸一つであった。
 ナポレオンは、アンギャン公を殺そうとしている。命を狙われたことによる復讐と見えるように振る舞っているが、その実は野心のためである。そこに勝利が転がっていると知ればナポレオンは兵を動かすことをためらわず、兵を動かせば敵も味方も兵は死ぬ。戦場では兵は無数に、しかも罪もなく死ぬ。戦場で死ぬ無数の命と、アンギャン公一人の命がどのように違うのか。アンギャン公の死もまた、そのような戦場での死と変わらない。戦場では勇敢と称されるナポレオンの果断さは、犯罪においても同じだった。
 たちの悪いことは、復讐であれば翻意は有り得たが、彼は復讐のためではなく栄光欲のために突き動かされていた。加えて、民衆の後押しを受けている。民衆の意志が彼を正当化している。民衆はナポレオンの栄光を喜び、王族を嫌い抜いている。政治家のように理性で物事は見ず、王族を殺せと叫び、アンギャン公が処刑されれば喝采を送るだろう。
 やがてコランクールは、アンギャン公の隠れ家を探し当てる。彼は大胆にも塀を乗り越えて、闇の中、屋敷へ侵入する。小間使いのいる外れの一室へと秘かに歩み寄り、扉を叩く。やがて寝間着の少女が扉を開けた。コランクールは酔客のふりをして、声をかける。
「酒に酔って、屋敷の外に出てしまった。扉の鍵を開けてくれるかな。館の主人……アンギャン公は……意地の悪い人だ」
 少女は首を傾げ、言葉を返す。
「ご主人さまなら、数日前に屋敷を出られましたけど。兵隊を連れていましたわ」
 フランス軍には先んじたはずであるのに、有り得ぬ。探し回っている間に追いつかれたか。それとも、フランスから出発した一団すら囮に過ぎず、闇の中誘拐するような手段まで取ったのか。
「私達は放って置かれて……ご主人さまってば勝手をするのだから。おかげで私も父様も母様も、明日からどうしたらと……どうかしましたか?」
「いや……鍵はもういい、今日は帰ることにする」
 コランクールは、アンギャン公の運命ではなく、フランスが犯すだろう犯罪に戦慄し、しかしどうにか平静を保って屋敷を抜け出した。
「おい……誰だよ、こんな夜中に……誰が話していたんだ?」
 本物の小間使いの男が、起き出して入り口を伺うが、誰もいない。少女は既に、寝間着を夜風の中へ脱ぎ散らかしながら、元の闇へと駆け戻っている。小間使いの男は寝床に入って眠りに戻る。彼の主人も、何が起こったか知らず、これから何が起こるかも知らずに、安らかに眠っている。
 やがて、タレーランはバーデンより知らせを受け取ることになる。『アンギャン公は既に拉致されておりました』コランクールからの報せに何かがおかしいとは感じたが、最早どうしようもなく、コランクールへ本来の仕事へ戻るように指令した。その手紙がコランクールへ届く頃には、アンギャン公はフランスへ連行されていた。

『バーデン公国よりアンギャン公を逮捕、国内へ移管しました。かねての指示通りヴァンサンヌ牢獄へ留めています。以後の処置も以前に指示のあった通り、ヴァンサンヌで尋問を行い、その後パリへ場所を移し裁判を行います……』
 アンギャン公拉致の実行部隊長、ユラン将軍の報告、その写しだ。正邪によってナポレオンの仕事机から盗まれ、そしてフーシェの手の内にある。
「彼の運命は定まったが、お前はどうするつもりだ」
「これまでと同じだ。監視を続けるよ。しかし、パリの王党派が奪還を企もうと阻止する必要がある」
 タレーランはまだあがくことだろう。彼に死なれては混乱を生む。彼の胸が銃弾で撃ち抜かれるまでは可能性がある。今はまだ国内で秘密裏にことが運ばれているが、タレーランならば大使を通じて国外へリークすることもやってのける。即刻裁判、即刻判決などは乱暴に過ぎる。引き延ばせれば芽もあるはずだと考えるだろう。
 フーシェからすれば……アンギャン公のことなどは、フーシェには関わりのないことだった。彼が死のうと生きようと、フーシェには損にも得にもならない。フーシェが関わっているのは、ただ陰謀があるというのに何もしないことに耐えられないからであった。
 個人の感情で言えば、アンギャン公は殺すべきではない。彼を殺したならば全ヨーロッパはフランスを憎むことだろう。天秤が片方へ傾きすぎると反動を生む。独裁は圧政を生み、人々は圧政を憎み、別の体制を望むことだろう。ナポレオンが倒れるのはいいが、フランスがそれに巻き込まれてはたまらない。ましてや王族が帰ってくるなどという事態などは。ナポレオンが倒れる際には、巻き添えを食わないよう離れている必要がある。
「のんびりしていられるかな。もう一つ情報があるんだ。今日、ナポレオンは人と会っている。人払いをして、腹心の部下や護衛まで遠ざけて。相手はサヴァリー将軍だ」
 サヴァリー将軍と聞いて、良い印象は思い浮かばなかった。彼はナポレオンの下で、彼のスパイ活動を助けている男だ。彼に聞こえないところでは、ナポレオンの犬と呼ばれている。忠実と言えば聞こえは良いが、彼のイエスマンに過ぎない。性質は冷酷で、彼のためならばどのようなこともした。軍隊で捕虜にするのと同じく、情報を得るには怪しげな者を捕まえては望む答えが得られるまで暴行するのが彼のやり方だった。
「彼は今ヴァンサンヌ牢獄へ向かっている。間違いなくナポレオンから指示を受けてる。それがどのようなものかは誰にも分からないが」
「アンギャン公にとっては良い情報ではないな。あるいは、誰もにとっても。ナポレオン自身にさえも」
「どうするんだ? 早ければ、この夜のうちにでも取り返しのつかないところまで行くだろう。妨害するか。それとも、情報を流してやるか。タレーランあたりに流したら、あいつもひっそりと動くんじゃないか。議員どもをまとめ上げて動くのもいいな。テルミドールで、ロベスピエールにやったように」
「……無益なことだ。情報を集め、監視を続けろ」
 正邪は失望したように首を振り、出ていった。正邪は明らかに混乱を望んでいる。フーシェなどは、その混乱を巻き起こす道具でしかない。確かに、混乱は好みだ。他人が慌てふためいているのを見るのは……しかし、そのために身が危険に晒されては仕方ない。
 しかし、このままではアンギャン公は死ぬ……またフランスが荒れる。家族は行き場をなくすかもしれない……フーシェも立場を失う。フランスを追い出され、職もなく、平穏に暮らすことはできなくなる。策を練るべきか。この件ばかりは、他人に任せるわけにはいかない。

 ナポレオンが真実アンギャン公の処刑を望んだか。殺せ、と命じたか、それともパリへ連行しろ、と命じたか。真実は闇の中である。どちらにせよ、アンギャン公の抹殺はナポレオンの意思であるとサヴァリーは信じ込んだ。
 ヴァンサンヌへ入ったサヴァリーは、ナポレオンよりの信書を示し、この件に関する指揮権を得た。そして、部隊長のユラン将軍より報告を受けた。アンギャン公は反革命の態度を隠そうともせず、堂々としている。曰く、先に王家を手に掛けたのは革命の方だ。時期が来て、兵が集まるならば再び軍の先頭に立ち、パリへ進軍するだろう。
 しかし、暗殺計画については否定している。私は暗殺はしない。君たちがルイ16世にしたようにはせず、戦場でけりをつけると明言しているという。頭をすげ替えても思想が変わるわけではない。革命のような暴力的な手段には訴えない。
 加えてイギリスから支援を受けているかと問われれば、月にいくらの支援を受けていると正直に答えた。フランス王家の者でイギリスの支援を受けていない者はいない、とも。そしてそのように言う一方で、ナポレオンへ会わせてくれるよう手紙を出してほしいと依頼をされているという。
 サヴァリーは血が沸き立つような思いであった。王族たるを体現しているような男。殺されるかもしれないというのに堂々として、男たるを体現するような男。自分でさえ……ナポレオン閣下でさえ、同じ立場に置かれればあのように振る舞えるものだろうか。あのような男を、閣下に会わせてたまるものか。サヴァリーは手紙を書いている一士官の元へ行き、書きかけの手紙を取り上げ、引き裂いた。
「誰が罪人にそのようなことを許したのか。彼はフランスの敵だ。王族という王族は、もはやフランスの敵なのだ」
 すきま風が、牢獄内の一室を吹き抜けた。サヴァリーは肌に風が触れたのを感じ、振り返った。そのまま、足を室外へ向けた。行き先はアンギャン公の牢屋だ。
「アンギャン公の裁判を開く。ユラン将軍、来たまえ」
 裁判。この牢獄で。そのような権限が軍の一部隊に過ぎない我々にあるのか。サヴァリー将軍にあるのか。それも、ナポレオンの指示であるのか。ユラン将軍以下士官たちは皆惑った。
「これは閣下の意思である」
 そのようにサヴァリーに命じられれば、逆らえるものはいなかった。

 ナポレオンの執務室には大抵人がおり、またナポレオンは夜中に突然起きては秘書を呼び出し、口述筆記をさせることがあったから、たとえ夜中の三時でも人がいることも有り得た。しかも、扉の前には常にエジプトから連れてきた護衛にして剣の達人ルスタム・レザが控えている。彼は自らの神たるナポレオンを守るため、夜も扉の脇のベッドで眠っている。誰にも知られず、ナポレオンと二人きりで会うことは不可能と言えた。
 テーブルには仕事途中の書類が広がり、ナポレオンはソファに横たわって、仕事着のまま眠っている。仕事が差し迫っている際、ナポレオンはそのようにして眠った。彼自身が呼びつけない限り、余人の入る隙間はない。そのようなナポレオンの執務室に、どうやってフーシェが侵入できたものか。しかし事実としてフーシェはナポレオンの執務室にいた。彼は影になるよう体で隠していた手燭の光を、ナポレオンの目に当たるようテーブルへ置いた。ナポレオンの顔が灯りに照らされ、眩しそうにナポレオンはわずかに動き、ソファの脇に立つフーシェを見た。蝋燭一つの灯りのみで、室内はよほど暗い。フーシェの顔面には陰影が張り付いており、表情はない。
「あまり趣味の良くない行為だな、フーシェ」
「そうでしょうか」
「そう。暗殺者シャルロット・コルデーもこのように侵入したのだろうな。彼女も標的と二人きりになった。今の君のように」
 ナポレオンは半身を起こし、ゆっくりと足を床へ落ち着けた。その動作の間に、ナポレオンは覚醒した。彼はその必要があれば、即座に意識を目覚めさせることができる。戦場にあっても平然と眠り、襲撃があればすぐさま指揮を取った経験が、彼の体質を変質させている。
「要件は分かっているつもりだ。言いたまえ」
「アンギャン公は殺すべきではありません」
 ナポレオンの方針に平手打ちして唾を吐きつけたも同じであった。フーシェはいかなる心変わりか、アンギャン公の処刑を押し留めようとしたのだ。あくまでも常識的な判断だった。戦争は終息し、フランスはようやく穏やかに落ち着いたのだ。平和を永遠のものにするか、それとも再び荒立てるかは一重にナポレオンの判断一つだ。せっかく得た平穏、穏やかな家族の暮らしをなぜ破壊する必要があるのか。ナポレオンにとっては栄光が一番であっても、フーシェにすれば家族が一番なのだ。それは多くのフランス人にとっても同じはずだ。
 ナポレオンは罵倒に等しいフーシェの諫言を受けても、表情を変えはしなかった。むしろその穏やかさこそが、烈しい意思を感じさせた。
「まったく君らしくない言葉だ。1792年の君の姿を見せてやりたいな」
「国王殺しに票を入れた私だから言えることです。そのようなことを繰り返してはなりません。ようやく訪れた平和です。今はフランスの安寧を考えるときです」
「リヨンでの君にも聞かせてやりたい言葉だ。君は二千人の王党派を大砲で始末した。それがもう一人増えることにどう違いがある?」
「革命は既に完成しました。閣下はそれを引き継いでおられるにすぎない。閣下の行いは、革命を退行させます。王党派が戻ってくるきっかけを作るだけのことです。……それに、私も歳をとりました。いつまでも馬鹿騒ぎを喜んでいられません」
「いいや。私が君に与える物を知れば、そうは言わないだろう」
 沈黙が二人の間へ訪れた。フーシェはナポレオンが何を言わんとしているか敏感に察することができた。ナポレオンはフーシェを許す気でいる。むしろ、必要としている。
 名誉や富、権力などは取るに足らない。ナポレオンはフーシェが欲してやまないものを、再びフーシェに与えようとしている。治安はますます悪くなることだろう。ナポレオンには有能な警察大臣が必要になる。フーシェは再び陰謀を企むことができる。そして何より、ナポレオンは陰謀を……それも大いなる陰謀を企み、それにフーシェを加えようとしている。
 フーシェが真にフランスの平和を思っているならば……ナポレオンから離れ、彼の与えてくれる名誉を、富を、権力を望まないならば、背を向けて去ればよい。そうすればナポレオンの政府とはおさらばだ。しかし、ナポレオンが何を望み、何になろうとしているか、フーシェにはわかった。ナポレオンはより巨大になることだろう。彼なしでは何も得られなくなることだろう。ナポレオンはフーシェを誘っている。共犯に仕立て上げようとしているのだ……それは巨大な陰謀だった。その誘惑からは抗い難く、逃れ難かった。

 アンギャン公の裁判には証人も弁護人もいなかった。ただ六人の兵士が、陪審員として控えていただけだ。彼が具体的に何をしたかという証拠が提示されることもなかった。アンギャン公は裁判となっても発言を覆すことはせず、ナポレオン暗殺計画については否定、フランスに対して敵対したことは認めた。陪審員は全員有罪と票し、その夜のうちに中庭へと引き出された。
 アンギャン公は兵士に引き立てられ、中庭に連れ出され、壁を背に立たされた。中庭に掘られていた墓穴を見て、彼は自らの運命を悟った。彼は目隠しを拒み、自ら処刑の号令をかけたいと申し出たという。アンギャン公の処刑が済むと、軍人の一団はパリへ帰還した。ナポレオンの上った玉座は無数の人間の血で濡れていたが、その中でもアンギャン公は最たる被害者だった。
 誰もいなくなった中庭に、深くフードを被った正邪だけが一人佇んでいた。
「フーシェよ、コランクールを止めたのは悪いと思っちゃいるぜ。しかし、あんたには悪いが、穏やかな終わり方なんて望んじゃいない。できるだけ混沌として、燃え上がった方が派手でいいじゃないか。ナポレオンが成り上がることも望んじゃいないかもしれないが、やつが転げ落ちるところを見られるなんて爽快だろう」
 そのために謀殺された公爵様は可愛そうだがね。しかし、暗殺未遂は無実だがレジスタンス行為はやっていたし、裁判でも堂々とフランスに敵対したことを認めた。彼はコランクールに脅威を告げられても逃げなかったんじゃないかね。仮にサヴァリーが来なくとも、パリで法廷に上がり、同じ結果を得たことだろう。
 しかし、ナポレオンはアンギャン公の死という結果を求めたのじゃない。ナポレオンが求めたのはどのようなことをしてでも敵対者を殺すという意思を示すことだ。革命の敵として立ち向かうのならば、どのような相手でも許しはしない。必要であるならば、ヨーロッパ全土から王家という王家を皆殺しにしてでも。
 立派だと言えるが、狂っているとも言える。ナポレオンはまともじゃない。フーシェやタレーランのようなやつは、まだまともだ。しかし、正邪にとって面白いのはフーシェやタレーランの方だ。ナポレオンは死ぬ時には堂々と死ぬだろうが、小物は最後まであがいて死ぬ。

 アンギャン公処刑の報を聞いても、ナポレオンは顔色を変えなかった。サヴァリーの独断専行だとしても、それを飲み込んだ。確かに急ぎすぎている。不当な裁判だとの声は外国でも、政府の中でも上がるだろう。しかし、それでも構わない。ナポレオンは後にセントヘレナで書いた回想録に、「あの時と同じ状況になれば、私は同じことをする」と書き残した。
 新聞はアンギャン公を、ナポレオン暗殺未遂の主犯であり、そのために処刑されたと書き立てた。ナポレオン暗殺未遂より数ヶ月しか経っておらず、その記憶は鮮明だった。そして、アンギャン公は冤罪だとしても、ナポレオン襲撃の背後に王党派がおり、ナポレオンが再び襲われる危険性は常にあると思い知った。同時に、ナポレオンが王族を討ったことに感激した。それだけ王族は嫌われていたし、ナポレオンは英雄と慕われていた。腐敗したバラスの総裁政府を片付け、国外との戦争には連戦連勝、領地を広げて属国を増やし、戦争を終わらせて内政も整えた。政府内ではどうあれ、ナポレオンの民衆からの人気は絶大だった。
 時節はナポレオンに傾いていた。王族を嫌い抜いていることでは、フランス国民も同じであったからだ。たとえ過ちであると知っていても、戦争がまた起きようとも、どのような惨禍が国民へ襲いかかろうとも、王族へ強烈なNOを突きつけることはナポレオンと意思を同じくしていたからだ。いくらナポレオンと言えど、民衆の望みに逆らってここまではできなかっただろう。国民感情は、機会だった。ナポレオンはそれを大胆に掴んだ。アンギャン公の処刑は、以後の人間がどのように言おうが、その当時では絶対的な正義だった。
 王政の芽は二度とないというアピールこそ、何よりも革命フランスの指導者に相応しい行いだった。ナポレオンの独裁は強化されることだろう。そして、ナポレオンの意図を過たず受け取ったのは民衆だった。民衆もまた、ナポレオンの独裁を後押しした。

 民衆はいよいよ熱くなっている。アンギャン公処刑の報せは政府公報によってもたらされた。ナポレオンが狙われた。犯人アンギャン公は革命政府のシンボルたるナポレオンを憎んでいた。ナポレオンはうまくやっている。ナポレオンを失うことはできない。人々は集まり、熱っぽく語り合ううち、彼の名前を呼ぶだけで正しいような錯覚を覚えてくる。ナポレオン。ナポレオン。ナポレオン・ボナパルト! 彼を呼べ。フランスには彼が必要だ!
「新聞じゃ良いことしか書いてない。アンギャン公がナポレオン暗殺の黒幕だってことと、革命に対して行った犯罪のことだ。バーデン侵入のことだとか裁判のことは書かれてない。もっとも、そんなことを書いてナポレオンを非難すれば、すぐさま暴徒が難癖をつけることだろう。新聞社ごと燃やしてしまうかも。そうまでの動きになれば政府も動く。悪書流布は許されないとして、刊行も差し止めになる」
 フーシェがいくつか持っている隠れ家で、フーシェと正邪はそこにいた。正邪の手には新聞があった。こんなものを読んでいれば、民衆は王党派が大悪党だと思うことだろうな。そう言って正邪は新聞を放り出した。机にはいくつもの新聞が読み散らされてあった。どれもこれも、似たような文調だ。中には王党派を殺せと煽っている過激な非合法のパンフレットもある。一方で、アンギャン公を擁護しナポレオンの不当裁判を訴える王党派のパンフレットも、少し。
「新聞がナポレオンの喜ぶことしか書かないのはいつものことだ。しかし、王党派にとっても、今はましだよ。好き勝手に悪いことを書き立てる非公式のビラも、今の警察は抑えようがない」
 王党派の活動により、テロの危機は常にある。だからこそナポレオンはフーシェと取引をしたのだ。公的な新聞も、そして非公式な新聞やビラも等しく取り扱われることだろう。フーシェが警察大臣に戻った暁には。
「あんた、結局動かなかったな。どうやっていくつもりなんだ、これから」
「ナポレオンと取引したよ。彼は皇帝になる。その後押しをする見返りに、私は警察大臣に返り咲く」
 正邪は驚いたようにフーシェを見た。
「お前、まるでこの事態を待っていたみたいだな」
「平和が続いていたならば、国内も国外も平和だったろう。そうなれば警察大臣は必要ない。時節が求めたのは確かだ。しかし……平和が続くのならば、それも良かった」
 正邪は深く腰を沈めた。放り投げたように言う。
「しかし、戦争は来る。アンギャン公は死んだ」
 そう、アンギャン公は死んだ。諸外国の王族にしてみても、誘拐、処刑という事態が自分の身にも降りかからないとも限らない。亡命しているブルボン家の係累はそのように喧伝し、反革命のキャンペーンを張るだろう。そして戦争が再開される。フーシェは結局、ナポレオンの元を去らなかった。背を向け、彼の元を去り、静かな生活に戻ることもできた。しかしそうしなかった。
 なぜならば、これは陰謀なのだ。革命を起こし、国家を転覆させるよりも巨大な陰謀だ。諸人が真実を知ればそのような汚い、おぞましい、暴虐だと叫ぶだろう。しかしフーシェは違った。どこまでも陰謀には血が沸くのだ。
 おぞましい陰謀であろうが、表面を美しく装飾すれば民衆は喜び熱狂する。王政を倒した革命のとき、パリは熱狂した。そして今、ナポレオンを王へ祭り上げるという事業は、民衆を再び熱狂させるだろう。アンギャン公処刑ではない。ナポレオン皇帝就任をこそ、書き立てるべき事柄なのだ。大きな醜聞は、より大いなる寿ぎで消してしまえばいい。結局は、ナポレオンの策に乗った。思惑を知ったからには、それを実現させたいという欲が勝った。かくして、ナポレオンの腹心へと、再び転身したのだった。彼は警察大臣に返り咲き、ナポレオンを皇帝へ祭り上げ、過激化する王党派の活動を抑圧することだろう。しかし、それは先の話だ。今は王党派への怒りで、街頭が荒れている。
「アンギャン公が死んだことで……政府の良心的な人々は、やかましくこれを犯罪と叫んでいる。しかし、犯罪かどうかは問題ではない。このことはこう呼ぶべきだ。これは失策だ。犯罪でなかったとて、アンギャン公の処刑は行うべきではなかった。フランスはアンギャン公暗殺のために道を誤った」
「果たしてそうかな? 民衆は支持するし、政府にだってナポレオン信奉者は日々増えてる。オーストリアやロシアを倒せれば、イギリスだって次第に追い詰められる。全ヨーロッパ征服の目も出たんじゃないのか」
「先のことは誰にも分からないものだ。我々に知ることができるのはこれだけだ」
 フーシェが示さずとも、窓の外からの声はうるさいほど聞こえている。正邪は鬱陶しそうに顔を突き出して、窓の下を見た。街角では口うるさい連中がナポレオン万歳を叫んでいる。街頭演説をする男は、調子を上げて叫んだ。
「ナポレオンは俺たちと同じ人間だ。奴に全てを任せようじゃないか! 政府はこんな時だって言うのにナポレオンを叩いてる。政府にだって王党派の人間はいる。そんな政府に任せていたら俺たちはどうなる? フランスは? ナポレオンがいなくなったらまたこれまでと同じことの繰り返しだ。解放された土地はまた奪い取られ、また重い税金が俺たちだけにのしかかる。文句を言えば理不尽に逮捕され、自由はどこにもなくなる。革命に関わったやつから処刑される。そんなの許していいのか? ナポレオンに任せよう! 俺たちの間から出てきた人間だ、貧乏で飯を食えないこともあった。飢えを知ってる。貧乏人の苦労を知ってるんだ。ナポレオンは俺たちの暮らしを良くしてくれる。彼を王様にしよう! 前の王様とは全然違う、何しろ奴は俺たちと同じ人間なんだ!」
 賛成、ナポレオン万歳、王様万歳の声が響き渡るように上がった。正邪にはいかにも作られた喝采だと思われた。しかし興ざめはしない。騙されているからこそ面白い。民衆は自分たちの喝采が、誰かに作られたものだとは思っていないだろう。
「それで、どうなるんだ?」
「彼のやりたいようにやらせるしかない。彼は圧倒的な多数派の側にいる」
 ただし、とフーシェは付け加えた。
「彼がへまをやらかすまでのことだ。行き過ぎた支配は反動を生む。彼はやがて、自らの手で失墜することだろう。それまでは生き延びるまでだ」


 ナポレオンがフーシェを取り込んだのは、一重に立場の弱さに端を発している。いつまでも政府の一役人でいるならば、結局は時節によって流される一派閥でしかない。付き従ったとて、得られるものもなく、やがては後継者につくしかない。今味方をしている者も、いつまでも味方ではいない。
 ナポレオンの周囲にはあらゆる階層、あらゆる主義の人間がおり、それぞれの派閥や欲があった。フーシェやタレーラン……ナポレオンの周辺は信用ならない者ばかりだ。親族も例外ではなかった。サヴァリーのような男を使うのも、信用できる味方がいないからだった。軍人出身の者の多くはナポレオンを個人的に崇拝している者が多く、忠実だった。
 ブルボン家のように、付き従う父祖代々の味方……貴族はおらず、それゆえにナポレオンは彼の貴族を必要とした。派閥も信じるものもそれぞれ違う軍人や政治家たち……彼らを従わせるには皇帝制が必要だったのだ。皇帝となり、周囲の者たちに爵位を、恩恵を与えなければならなかった。そうして、ナポレオン帝国は永遠に続くと思わせ、その恩恵を永遠に受けられると信じさせなければならなかった。ナポレオンは永遠に戦場を走り、永遠に勝ち続けなければならない。
 ナポレオンは恐るべき陰謀家だった。フーシェなど及びもつかない陰謀家だ。ナポレオンに比べればフーシェなど小物に過ぎない。ナポレオンにとって皇帝は手段でしかなかった。敵が隙を見せたら襲いかかるように、ナポレオンは皇帝位を得るチャンスと見た。それをものにしただけなのだ。ナポレオンの名は以後歴史家たちによって幾度も語られ、議論されるが、フーシェの名などはごく限られたものになるだろう。
 しかし、民衆が騒ぐだけでは体制は変わらない。憲法を書き換えてしまうには、議会の決議というものが必要で、誰かがそれを言い出す必要があった。フーシェはその後押しを行った。一人の議員を使って発議させ、かつてロベスピエールを倒したときのように議員たちに囁いてまわった。根回しが済んだ会議にはさしたる反対もない。
 五百人委員会によって、ナポレオン皇帝就任は動議され、五百人委員会、元老院会議ともに決議された。決議は第一執政ナポレオンへ伝えられ、国民投票を経てからとナポレオンは返答した。投票を経なくても、国民感情はナポレオンの皇帝就任を認めただろう。民意に後押しされたとの数字を欲しがったのだ。投票の結果は賛成257万2329に対し、反対は僅かに2579票であった。ナポレオンは望んでいた結果を手に入れ、フーシェは密約を完遂した。
 しかし、喜んでばかりもいられなかった。これまで仕えた相手は、民主的に選ばれた役人だった。何かの決議を取る時は、議会に訴えなければならなかった。しかしこれから仕える相手は皇帝なのだ。これまでのようにざっくばらんに対面することはできず、ナポレオンを陛下と呼び、恭しく一礼をしてからでなければ話すこともできない。ナポレオンは巨大になった。彼の前で、存在感を示さなければならない。フーシェが必要なくなれば、あっさりとナポレオンは彼を捨てるだろう。彼の機嫌一つで、牢に送られ、処刑台へ上がらされる。最も困難な相手であることは間違いなかった。
 そのようにして……フーシェは再び舞台へと呼び出された。かつて市民ボナパルトによって警察大臣に指名された市民フーシェは、今度は皇帝ナポレオンにより警察大臣へ再び任命されたのだった。ブリュメールのクーデターより五年の時が経っていた。
 4です
RingGing
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.50簡易評価
0. コメントなし