Coolier - 新生・東方創想話

鬼人正邪1799(3) シェイエス

2021/04/17 17:18:26
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 1799 シェイエス


「こっちはひどい有様だ。まず、船がひどい。船はでかいが、兵士がぎゅうぎゅうで甲板に寝転ぶしかない。食料はウジが涌いてる。だが、それしか食うもんがない。トイレは海にするしかない。どいつもこいつも船酔いしてやがる。やることはないし、退屈だ。そんな中で、ナポレオンの野郎は……(野郎で充分だ、あんな奴。私をこんな目に合わせやがって!)……船に乗り込んでいる学者どもと、毎日議論をしてやがる。エジプトの統治の方法、現地で行うべき研究、エジプトの産出物、動植物、食料と水の効率的な供給、砂漠での有効な行軍、砂漠の戦闘について……。
 あいつは頭がおかしいが、努力家だよ。ちょっと間違った方向の努力家だ。しかし、頭のおかしい奴が努力すると、これは大変なことになる。歴史上で英雄と呼ばれる連中の大半は、無理を努力と才能でなんとかしようとして、運がたまたま向いてた気狂いどもだ。あいつらは普通じゃない。兵士どもは皆、ナポレオンを崇めてる。イタリア遠征の古参兵どもは元々ナポレオンを神のように崇めてるし、その連中から華々しいイタリア遠征の物語を聞いてきた奴らは、半信半疑だが、ナポレオンの様子を見て、やっぱり変わってる、と思うようになった。大半は、訳の分からんことをやってる、という程度の認識しかないだろうが、なんとなくスゴイってな感じだ。普通じゃない、俺達とは違うってな。これで戦の上手さを見せつけられれば、英雄だと勘違いしてもおかしくない。
 普通じゃないのはまだある。学者が乗ってることだ。学者以外にも色々いる。民政家。元政治家。法学者に工学の専門家、それに商人も。あいつは、エジプト遠征をただの遠征と考えちゃいない。あいつはフランスからの支援を当てにしちゃいない。この船団にいる連中だけで何とかする……つまりは、現地で全てを調達する。自給自足して、戦地へ、更に戦地へと向かうつもりだ。遠征ってのは、多かれ少なかれ、そういう要素を含むもんだ。だが、この規模は異様だ。あいつはもはや、フランスに帰るつもりはないのかもしれない。元々はコルシカからの異邦人だ。フランスに思い入れもない。
 あいつの動向は不明だ。だが、今はまだ、フランスに臣従してる。反旗の気配は見えない。今のところは単なる反乱軍の規模だ。アフリカ、アジアの民の王となって、軍団を駆ってヨーロッパへ舞い戻るつもりなら、もはや反抗という規模じゃない。それは戦争だ。ナポレオンとフランスじゃない、国と国の争いだ。この遠征にはナポレオンの全てがある。アジア地域を制するだけの男かどうか試されているというわけだ。ある意味歴史の実見人となるわけで、ありがたいことだ。
 また、進展があれば連絡する。この手紙が着いたということは、私がエジプトについたということだ。イギリス海軍は大船団がフランスの港を出たと聞いて、ハイエナのように地中海を駆け回ってる。ナポレオンの運が勝って、無事エジプトへ着くように祈っててくれ。ネージュ・ノワール」


 正邪からの手紙は、文末にサインのような崩し字で、votreと書き加えられていた。馬鹿馬鹿しい。あなたのノワールです、というような意味合いになる。紅でもつけていれば挑発としての意味合いも一流だろうが、正邪も色事は苦手のようだった。
 ナポレオンはエジプトへと去った。正邪は、そのナポレオンへとついてエジプトへ行った。単なる観光のためか、フランスには運命的動乱はないと見たか。ナポレオンのエジプト遠征は、総裁政府の嫌がらせの結果に生まれたようなものだ。イタリア戦線で政府を無視し、やりたいようにやった結果、国庫は潤い、イタリアは解放され、オーストリア軍はこてんぱんにやられてウィーンまで押し戻された。その手腕と、国民の人気と、勝手さを政府は危惧したのだ。
 イタリア遠征を大成功に導いたナポレオンに与えられたのは、イギリス方面軍の司令官だった。イギリスとフランス間にはドーバー海峡が広がっている。晴れた日には対岸が見えるほど近いこの海峡が、ナポレオンの栄光を阻んでいる。ナポレオンは後にセントヘレナで、「霧が立ちこめて、陸軍が上陸する二時間があれば、私は世界を制覇してみせたのに」と述べたとされる。ナポレオン自身が海岸に足を運び、実地調査をし、気球による兵員輸送さえ考えた結果、海峡を越えることは不可能だということになった。イギリスの海軍に対し、フランスの海軍は練度、装備ともに貧弱であった。フランスの陸軍は海上で船ごとやられてしまうことだろう。
 ナポレオンが吟味するまでもなく、政府は無理であることを知っている。イギリス遠征が不可能ならば、ナポレオンが功績を挙げるチャンスはなくなり、次第に失墜してゆくことだろう。左遷に等しかった。
 ナポレオンはイギリス遠征を諦めた。しかし、それで諦めるナポレオンではない。次にナポレオンが立てた計画は、イギリスの支配下に置かれているエジプトの解放であった。イギリスはインドを植民地として持っており、インドから来た品物はエジプトを経由する。スエズ運河はまだないが、アフリカを大回りして荷物を運ぶとなればコストは増加し、イギリスは困る。ナポレオンの立てた計画は、地中海を抜けてエジプトへ行き、支配階級であるマムルークを打倒してフランスと同盟し、イギリスを追い出そうという計画だった。エジプトを支配したとてイギリスがたちまち干上がるという事態にはなるまいが、対イギリスの戦線を作り出すにはその方法しかなかった。それがイギリス打倒に繋がる限り、イギリス遠征軍の任務から外れてはいない。
 だが、政府は支援しようとはせず、あくまでナポレオンへの嫌がらせに終始した。国庫に余裕はなく、遠征の費用は出せない。ナポレオン将軍の個人資産で行うならば許可する、とナポレオンへ通達したのだ。これを思いついたのはタレーランであるともされている。あるいは、遠征で成果を得るのはフランスだが、その実施はナポレオン個人に行わせる。全くの個人的遠征であった。ナポレオンはスイスにおいて大規模な収奪を行わせ、遠征の費用とした。また途中、マルタ島にて十字軍の生き残りから、財宝を奪って遠征費用の足しにした。
 1798年の5月、海軍の軍船と多数の兵団船はフランスを出発した。アレキサンダー大王のアジア遠征を彷彿とさせる、英雄的進軍ではある。しかし、海上でイギリス艦隊に見つかれば撃破は間違いなく、また到着したとしてもエジプトは異国である。その地で軍団を維持しなければならない。その上で勝たなければ、ナポレオンに栄光はない。成したのならば間違いなく英雄の所業である。


 正邪は、手紙から察するに、楽しんでいる。ひどい有様であるフランス軍の様子を見ても、尚楽しみがある。フーシェはそのことに運命的な奇妙さを見ている。そして、正邪に似た奇妙な感じを、ナポレオンからは受ける。どん底にあっても不屈、また現実を斜めに見るかのような運命論者的な部分だ。自らを捨ててかかるというような感じさえある。それでイタリアでは成功した。
 ナポレオンならどうにかしてしまうのではないか。フーシェには、エジプト遠征軍に正邪とナポレオンがいることが、運命をそのまま乗せているようにさえ思われた。それはナポレオン個人の発する意気のためか、それとも運命を告げる、正邪という奇妙な小娘のためか。フーシェは軍隊を知らない。ナポレオンがどのように軍隊を統治し、勝つかは分からない。しかし、勝つにしろ負けるにしろ、ナポレオンは帰ってくるだろうという予感がした。正邪がナポレオンを追うわけは、似たような予感を感じているからか。
 正邪にとっても、ナポレオンはこれまで見てきたような権力者たちとは全く違う英雄だろう。自分から進んで苦痛に飛び込んでゆき、軍隊の辛い行軍生活も苦にならない、栄光以外には何もいらないというような男だ。だが、だからこそ、正邪にとっては物珍しく、面白いと思えるのかも知れない。正邪の手紙は愚痴を吐きつつも、前向きな姿勢に見える。少なくとも今のパリよりは、エジプトは刺激的なのだろう。
 パリの現状は……ある意味では、エジプトよりもひどい。太陽も砂漠も、戦争も血もないが、利己的な腐敗で満ちている。政権はある意味では安定している。王党派でもジャコバンでもなく、総裁政府の命脈を繋いでいるのはブルジョワたちだった。
 賄賂や癒着が横行し、金持ちは栄え、貧民は飢える。ブルジョワは不安定を望まない。右派や左派の不満を抑え付けて、表面上の平和を享受するブルジョワと政府……バラスをはじめとした汚職議員たちは、国家に対する共犯的存在だった。
 国内の王党派はイギリスやオーストリア、亡命した王族と協調しようとしているし、ジャコバンの連中はふたたびロベスピエールのごとき者を見出して、飢えるサン・キュロットの力を糾合し、政府を乗っ取ろうと考えている。金持ちは肥え、飢える連中は更に飢える。自由というお題目を手に入れはしたものの、自由で腹は膨れはしないし、この世の腐敗や犯罪も消えはしない。得をするのは金持ちと議員だけだ。
 フーシェは、その腐敗した政府の片棒を担いでいるわけだった。彼の職務は警察大臣であって、国内の犯罪を抑制し、ジャコバンも王党派も抑え付ける。革命に比べればいかにつまらない事業だろう。正邪が馬鹿にするのも当然だ。彼は革命ではなく、革命を抑える側に回ったのだ。


 元来の彼は、革命を求める性質ではなかった。フランス革命がなければ一生を僧侶として終えただろう。自らの安全を最優先に求めるのが、彼の本来の性質だった。しかし、誰もの予想を超えて、革命の大嵐は吹き荒れた。革命の嵐の中では、誰もが自分の目の前も見えず、ごく少数の理想主義者たちが目的のために驀進し、あとの大部分は熱に浮かされて喚いているか、ただ追従してうろつき回っていただけだった。
 若い頃のフーシェにもその傾向はある。フーシェは世間の保守的性格を知っていたからだろう。特に首都では革命派は多く、そのぶん極論から極論へ流れたが、地方ではキリスト教は安泰で、ギロチン台も放置されて錆び付いている有様だった。極論には反動がつきまとい、右へ触れた天秤が次の日には左へ向いていることも有り得た。フーシェの日和見は、先の見えない革命の嵐の中で生き延びるための処世術だった。その賭けは時には当たり、時には外れて、無一文で彷徨することにもなった。しかし1794年のパリで、生きていることはそれでも上等なことだったのだ。
 権力と死の嵐の中で、フーシェの日和見は、陰謀を求める性質へと変化した。というよりも、自らの安全を確保する上で、情勢を見渡す目が異常に発達したのだ。そのフーシェが見ているものは、朽ちかけた政府だった。総裁政府の屋台骨は腐敗にきしんでいる。どこを突けば容易に倒せるか、また、逆にどこを抑えれば守れるか、ということを見通すことができた。自らの安全が確保されていて、他人の運命を握る。これ以上の保身はなく、またこれ以上の愉悦はない。フーシェは本来の保守的性格を超えて、陰謀の愉悦者と化していた。
 しかし、ともあれ、彼が楽しむべき混沌の時はまだ訪れていなかった。パリは仮初めの凪の中にある。彼は仕事に熱中した。日和見者であり、陰謀愛好家でもあり、彼は仕事人でもあった。何事もないならば、事務仕事をしていられればそれはそれで満足なのだ。しかし陰謀家としての暗い欲望もあった。警察組織は犯罪を抑えるだけでなく、犯罪を起こすこともできる。犯罪者の犯行計画を探るだけではなく、政府要人の秘密を知ることもできる。彼の仕事は、政府に都合の良い治安維持だけではなく、政府の喉元を握る秘密警察の構築であり、その使役でもあった。動乱が訪れたならば、フーシェ自身が全ての情報を握り、全てを把握して、全てを決済することができる。人々は皆、フーシェの回りを駆け巡ることだろう。誰もが慌てて闇の中で情報を集めるため駆け回るが、そこはフーシェの領域なのだ。
 人々に認められる最高権力者ではなく、ひっそりと裏方にたたずむ脚本家として筋書きを作ることを、フーシェは喜んだ。ロベスピエールやナポレオンのように、人前で演説をし、他人に承認されることを必要とはしなかった。他人に認められることや、理想を体現することは例えようのない快楽ではあるかもしれない。しかしそれは、同時に身を危険にさらすことでもあった。このあたり、フーシェは民衆と変わらず、英雄的素質は少ない。
 ともあれ一個の雇われ者として、フーシェは仕事に励んでいた。僧侶時代と変わらず、変事が起きないならば、そのまま一生を送ったかもしれない。しかし、腐敗した政府がこのままであるはずがなかった。が、フーシェにはひとまず関わりはない。
 この時期は、彼の人生最良の時と言えるかもしれない。一から自分好みの組織を作り上げ、情報を独占し、仕事に没頭し、金に困ることもなく、何より命の危険はなかった。フーシェの作り上げた警察機構は、ギロチンのような暴力的、恐怖の象徴としての道具に比べ、緻密にして芸術的だった。人の心を操ることは同じだが、フーシェの機構は脅し、諭すことだけで目的を達するのだ。恐怖で人は抑え付けられない。フーシェは指揮者のごとく棒を振り、オーケストラを演奏するがごとくに指先一つで他人を操った。そのくせ、指揮者たるフーシェは人混みを避けて、他人の前には姿を現さないのだった。


 前任者ブールギニョンをはじめ、歴代の警察大臣、歴代の組織は生真面目なばかりで、市民にも馬鹿にされ、軽んじられていた。ただ牢番をしたり、市中の警邏をするばかりで、暴動を鎮圧するとかの能力はなく、革命期には自警団や軍隊に取って変わられた。
 いわば、火を見つけてから水を探しているようなものだ。フーシェはさらに一歩を進め、火の気の立ちそうなところにはあらかじめ水をかけておくようなやり方をした。そしてかつての警察が誰もやらなかったことに、自ら火種を付けて燃料を放り込むようなことをし、同時に火のないところに煙を作り出したりした。
 情報を集めて、全てを把握し、事が起こる前に収めてしまう。ジャコバンが市民を扇動しているならば首謀者を逮捕し、王党派が海外と連絡を取り合っているならば連絡網を遮断したりする。そして、時にはその情報をわざと流してやって逃亡を勧めたり、時には金をやって手懐けておいたりもする。この手の犯罪者は尽きることがなく、捕まえれば捕まえるほど出てきて切りがないし、それに恨まれもする。しかも、政府の中にもジャコバンや王党派はいるし、活動家の中には政府と繋がっている連中もいる。弾圧するよりも、手懐けて恩を売り、味方にしておくのがフーシェのやり方であった。
フーシェはパリ市街の通りの一つ一つを把握しており、その通りを根城にしているスリや売春婦、また乞食の一人一人まで把握していた。彼らはフーシェのスパイであり、小銭を受け取って彼に情報を流した。しかも警察組織の情報網は、犯罪者のみに向けられてはいなかった。ブルジョワ、軍人、政治家、労働者、海外の要人、またその家族や使用人に至るまで、この世の誰も彼もがフーシェのスパイだった。
 スキャンダル、汚職、犯罪行為。金の流れ、人の繋がり、秘密の恋人。バラスの手下で汚い覗き屋に過ぎなかったフーシェではあるが、国家規模の人員と資金でそれをやった。国内外を問わず、彼はもはや監視者であった。むろん全てを政府に提出したりはしない。集められた情報は彼のデスクのみにしまわれて、綿密にまとめられていったのだった。
 更に彼の組織の特性は、フーシェがそれを望めば、紐を一本引くだけで、その組織が全く活動しなくなることであった。フーシェは執務室の秘密の引き出しに、いくつもの機密情報を隠していた。パリ中の不動産の所有者の記録は役所に行けばあるが、それに書かれている名前が本当のものとは限らない。存在しない人物の名前が書かれていることもあり、別の者の名義にしているものもある。それらの正しい所有者を書いたリストもある。更に、海外に逃亡した貴族や商人がどこに住んでいるかのリストもあり、国内では誰と連絡を取っているかも抑えている。つまりは、国内外の人々の繋がりの相関図を持っていたのであり、それは日々更新され続けているのだ。
 しかも、特に重要な書類をも隠していた。秘密連絡員の名簿や秘密の合言葉、連絡員の連絡方法など、組織運営に必要な情報だ。これらの文書が消えたならば、警察はすぐさまその機能を停止し、全く元の通りのがらくたに変わってしまう。
 フーシェはあくまで忠実な政府職員ではなく、自らの愉しみのための輩であって、彼の趣味のために警察組織を練り上げて利用したのである。フーシェの作り上げた警察機構は近代警察の手本となり、ヨーロッパ各国やアメリカも見本にしたし、そもそもこの時期は情報管理、また新聞によるマスコミュニケーションというものも進歩した時代だから、それらを抑えたフーシェやナポレオンのやり方は全社会の見本であった。明治日本もフランス警察を見学し、近代の警察組織の礎とした。

 警察大臣フーシェは、以前とは違うもう一つの別側面を持ち始めていた。それは大金持ちとしての姿である。どん底の最低生活者となったフーシェは、その困窮の辛さを味わったというだけではなく……どうやら、世間というのは金で動く、と知ったようだった。以前は金持ちを弾圧し、その財産を没収した男が、今度は自ら資産を貯め込むようになった。パリ一番の大金持ち、二千万フランの財産家フーシェへの第一歩だ。その翻身を今更驚くには値しない。
 フーシェが警察大臣を望んだのには、情報は金になるという事実を知ったからだ。ただ貯め込むだけではなく、情報収集には金を惜しまなかった。商人の秘密を握ればいくらでも賄賂を持って来るし、情報を高く売りつけることもでき、また、個人の隠し財産を知れば、ちょっとした罪を作り出して逮捕し、誰よりも先にその財産を抑えてしまうこともできる。
 ロベスピエールは極端に贅沢を嫌悪した。その禁欲生活が終わり、パリには乱痴気騒ぎが訪れた。バラスを頂点とする五総裁や腐敗議員達たちと仲良く腕を組むブルジョワ、豪壮な館に華美を極めた美術品、半裸に近いギリシャ風薄衣の女たち。ロベスピエールの時代が終わり、反動が訪れたパリは、金と快楽が全てを支配していた。
 破壊的な革命が終わり、封建制度のなくなったフランスでの次なる土地の所有者、民衆の権利問題もロベスピエールやジャコバン派の政治家が片付け、凶作が終わり、国境付近の敵軍はナポレオンが追い返した。革命後の平穏は、ある意味ではロベスピエールとナポレオンが呼び込んだものなのだった。しかし、人々はそれを忘れた。ロベスピエールは死に、ナポレオンはエジプトへ行き、成果はバラスを始め総裁政府が享受している。
 世間が贅沢に酔いしれる一方で、フーシェは贅沢には興味を示さなかった。金は稼ぐが、必要経費のみに使い、残りはひたすら貯める。宵越しの銭は持たないというような、収入も多いが借金も多いというタレーランとは真逆だ。女もやらず、酒も飲まない。それ以上の欲望を知るが故であった。フーシェにとって、陰謀という名の快楽に勝る悦びは他にないのだ。
 革命期を経て、フーシェは陰謀を知った。歴史というものが、人の手で、暗闇の中で行われる策謀の中から生まれることを知った。陰謀、その内側に含む何もかもを自らの手の内に抑えてしまうことが、フーシェの生涯のテーマとなった。
 自分が権力の頂点に立てるとは考えなかった。頂点に立ったところで、つまらない。やがては倒されてしまう。誰かに褒められたいという欲望も、他人に傅かれたいという欲望もなかった。

 フーシェが警察大臣になった時、人々はリヨンの虐殺者を思い出した。再びジャコバンの時代が来る、ロベスピエールが再来すると恐れたのだ。だが、すぐに忘れ去られてしまった。虐殺も起こらず、ジャコバンが勢力を伸ばすこともなかったし、何よりフーシェ自身が暴力主義者から穏健な仕事人へと翻身を遂げていたからだ。誰とでも会い、相談に乗ってくれ、時には便宜を図ってくれる有能な警察大臣としてのフーシェに、人々は心酔し敬愛した。フーシェの姿を知っている我々は驚くが、当時のパリではそれを知っている者はごく少数だったのだ。恐怖政治の頃は暴力的でも、そうしなければ生き残れない時代ではあったから、翻身した者も多数いた。穏健なフーシェを本当の姿だと思い込んだ。
 汚職にまみれた腐敗議員が多い中で、過去の暴力的な統治が時に尾を引くことがあったものの、フーシェは比較的清廉に見られた。スキャンダルが少なかったからだ。女性関係でもめ事を起こすこともなく、金でトラブルを起こすこともなく、私生活は精練そのもの。もっとも、新聞は警察が抑えているから、それも当然ではあった。情報を抑えていれば、他人の悪事を流す一方で、自らのことを秘匿するのも簡単だ。あくどいことをしていると見る人はいたし、実際それは事実なのだが、証拠はどこにもなかった。
 人柄が悪ければ誰も寄ってこなくなるが、愛想を良くしていれば、人々は相談を持って来るし、時には秘密も安心して打ち明ける。フーシェは警察機構を操るだけでなく、自らをも一個のスパイとし、使用人がその職務を生かして主人の秘密を知るように、フーシェも政治家としての立場を利用して情報を集め、活用したのだ。
 犯罪者の親類が取りなしを頼んできた時には軽い罪で抑えてやったり、商人が逮捕されそうな時はこっそりとそのことを教えてやる。それも、欲得づくの顔をせずに、あくまで親切でやっているのだという顔をしておくのだ。彼らはフーシェの親切を有り難がって受けたが、一方では警察大臣は甘いぞと笑ったりするのだ。フーシェは自らをそう演出した。彼の穏やかな風評と、風評と違わぬ穏やかな話しぶりに、誰も彼を疑おうとはしなかった。人々は皆、利用されているとは思わなかった。彼を利用しているつもりでいたのだ。しかし本当は逆だった。彼らはその時は利用しているつもりでも、後になってみれば利用されている。フーシェに秘密を握られることは、後々まで利用しつくされるということなのだ。
 諜報部隊を使って市民を抑える一方で、警察大臣フーシェは、誰にも優しく接し、困っていれば助けてやり、頼られれば親切に応じる、善良たる人物を装った。誰しも、頭ごなしに怒鳴られ、傲慢に応じられるより、丁寧で親切に対応される方が嬉しいものだ。
 フーシェは警察組織を作り上げ、情報を集める一方で人の信頼を得て、時を待った。




「よう、久しぶりだな。元気してたか? 寂しくて泣いてたんじゃないか?
 ナポレオンがエジプトへ到着したのは書いたよな。エジプトへ上陸したナポレオンは、たちまちエジプトを攻略した。ナポレオンはピラミッドの前で、実に見事な演説をした。『兵士達よ、ピラミッドの頂上から、四千年の歴史が諸君たちを見ているぞ』……あれは痺れたね。まるで出来のいい劇を見てるみたいだった。それで、勝つのもいいところだ。だが、勝ったのは実際のところ、武器の力だね。エジプトを支配してるマムルーク達は兵も多く、勇猛で、騎馬兵は絵になるほど立派だったが、がむしゃらに突っ込むことしかできない。銃と大砲で武装したフランス兵に勝てないのも道理だ。マムルークどもは河へ突き落とされて潰走した。ナポレオンは首都カイロを占領し、解放者となった。カイロの長老たちに太陽の申し子って呼ばれて、ナポレオンは良い気になった……。
 だが、その頃、フランスの船団はイギリス海軍に見つかって、ひどい目に合っていた。フランスが船団を出したのは、最初からイギリス海軍に掴まれてたんだ。たまたま海上では出くわさなかったものの、イギリス海軍はフランス海軍をずっと探していた。もし地中海でかち合ったならば、ナポレオンもフランス軍もみな、海の藻屑になっていた。大船団がイギリス艦隊に見つからなかったことがそもそも幸運だったんだ。エジプトの海岸に停泊していたフランス海軍をイギリス海軍は発見し、やり合い、二時間の撃ち合いでフランスの船は壊滅した。イギリスは港に陣取り、残ったフランス戦艦は逃げた。
 この報せが届いて、ナポレオンは茫然自失になった。そうだろうな。撤退もできない、補給も通信も遮断された。島流しになったんだ。だが、ナポレオンは大した奴だよ。茫然自失はしたが、ほんとうにごく短い時間だけだった。普通なら軍が崩壊したっておかしくはない。だが、ナポレオンは軍を抑えた。ここに至っても勝算があると言わんばかりの自信だった。心中は分からんが、ともかく兵どもにはそう見えた。
 ナポレオンは帰ろうとするどころか、将軍をまとめあげ、エジプト統治に熱をあげ始めた。市民を慰撫し、工場を作り、銃や生活用品、砲台を作って、今度は遠征を始めるらしい。インドへ、アジアへ、だそうだ。本拠にしたカイロでは何度も反乱が起こったが、ナポレオンはへこたれなかった。ただものじゃない。ネガティブな部分を放り捨ててきたかのような奴だ。どっかがおかしいんだよ、ああいう奴は。でも、面白い。変に面白いやつだよ。あいつは。
 イギリス海軍はやっては来たが、海軍だけでは上陸して陸戦はやれない。海上が封鎖されてるだけだ。エジプト遠征は、まあ、ひとまず安定してる。だが、イギリスが陸軍を連れてきて上陸してきたらどうなることか。安定はしたが、いつまでも安定しているわけがない。さて、どうなることやら。生きて帰れるといいな。ちょっと不安になってきたよ。ま、一人でだって逃げられなくはないけどな。だけど、それじゃつまらないし、ここまで来た甲斐がない。祈っててくれ。私が楽しくやれるように。ナポレオンが面白いことになるように。できることなら、パリが、フランスが、いやそれをも超えてヨーロッパ、アジアまで巻き込んで、何もかもが面白いことになるように。ネージュ・ノワール」


 正邪からの手紙が届いた後、フーシェは自らの情報網でもエジプト情勢を確かめた。遠からずエジプトのフランス軍は全滅するだろう。本国から救援を出そうにも、船団は既に崩壊している。増設するには余程の時間がかかるだろう。ナポレオンが遠征軍を指揮し、エジプトからシリア、トルコと地中海を回って帰ろうにも、ロシアとオーストリアは領内の通過を許すまい。ナポレオンが帰ってくる可能性は、万に一つもない。
 政府内では誰も気付いた者はいなかった。バラスがそれを知ったのは、フーシェが知った一月も後のことだ。最初に入ってきた情報は、イギリスの新聞のものだった。イギリス海軍の大勝利を報じていた新聞だが、政府はもちろん信じなかった。敵国のプロパガンダの可能性もあるからだ。しかし遅れてフランスやエジプトからの情報が入るにつれて、船団の壊滅を信じざるを得なくなった。エジプト遠征は失敗に終わった。三万を越える将兵はいる。しかし、補給も増援もなければ、遠からず全滅するに決まっている。
 バラスの執務室へと入った時、バラスは不機嫌な顔を隠そうともせず、フーシェを睨んだ。その顔色を見ただけで、フーシェはエジプトでのことを知ったなと察した。バラスの元へ歩み寄り、つまらないなにがしかの報告書をそっと机のはしに置いた。
「エジプトでは」その単語を聞いただけで、フーシェはぎろりと目を吊り上げた。「大変なことで」
「ああ。大変だよォ」
 バラスは重たい息を吐きながら、椅子を後ろへと押し下げ、両足を机の上へと放り出した。
「海軍が全滅となりゃあ……再建にいくらかかると思ってやがるんだ。だが、それであの野郎がエジプトの砂になると思や、安いものかもしれねぇな」
 バラスの……政府の正直な意見は正しかった。イタリア遠征直後のナポレオンが軍事的クーデターを起こしたならば、民衆は喜んで従ったことだろう。暴力で事を運ぶことを嫌ったナポレオンはそれを避けたが、政府の首脳たちにはその怯えは常にあったのだ。だからこそ、ナポレオンの力を削ぐことに力をかけていた。
「あの戦争マニアの変態野郎。むしろ今はこっちにナポレオンが欲しいくらいだ。国境の状況は知ってるだろ」
「ええ。第三次対フランス同盟が組まれ」
「オーストリア、ロシア、イギリスの連合軍がイタリア、スイス方面から突き進んでくる。しかしそれに打つ手もない。どれもこれも、軍人が無能なせいだ。マッセナの野郎め、撃退命令を出してるのに動こうともしない。クソッたれ」
 撃退しろ、と命令して撃退できるものならば、戦争は余程簡単なことだろう。イタリア方面軍の敗北は、一手に軍人の無能とは言い切れない。元々が装備もままならない寄せ集め集団だ。それにナポレオンが方向性を与え、兵達も彼を個人的に信頼した。そのナポレオンが消え、ナポレオンに見抜かれた有能な者たちは引き抜かれ、エジプトへ去った。元々がナポレオンの個人的技量で保たれていたイタリア方面なのだ。
 現在、フランス国境で連合軍と向き合っているマッセナは、有能な軍人だと聞いている。事実、後に彼は連合軍の進軍の乱れをついてロシア軍を急襲、合流を阻止した。不意を打たれたロシアは本国へと撤退、オーストリアもまた引き下がった。マッセナの活躍がなければ連合軍はパリまで乱入される可能性もあった。ナポレオンが帰ってくる前に、首都はオーストリア兵とロシア兵で満ちている可能性もあったわけだ。
 だがそれはあくまで後の話であり、現状連合軍はイタリアのフランス支配を解放し、ナポレオンの遠征の成果を無にしつつ、フランス国境まで迫っている。連合軍の動きに乗じ、国内の王党派は国王が帰ってくると浮かれ、不穏な動きを見せていた。
「あの野郎がいりゃあな。あの野郎は軍隊マニアだけあって、兵のことは何でも知ってやがる。奴は一人で何でもやってのける。どんな戦場も、ナポレオンがいればなんとかなると兵どもも信じている。こいつは本物の英雄だと誰もが崇めている。ああ、俺だってそうさ。こう見えても、子供の時は戦場を駆ける英雄ってやつに憧れたこともあるんだ。誰だって、フランス人なら奴に憧れない奴はいないだろう。あいつがいりゃあよ……」
「驚きましたな」
「何がだよ。全く無表情のままでいやがって。絶対驚いちゃいねぇだろ、その顔」
「閣下にも愛国心というものがあったのですね」
「お前な」バラスは半ば椅子からずり落ちながら答えた。「俺だって今や五総裁の一人、最高権力者の一人だぜ。国を守れなくってどうする」
 バラスの姿は仕立ての良い最高級の絹服に、首飾りが光り、指一本につき指輪が二つも光っている。全く、見た目とは正反対の発言であった。
 事実、バラスはこの時、王家に政府を売り渡そうとしていた。権力の価値を知っていると言えば、その通りかも知れない。失ってしまってからでは遅いのである。イギリスに亡命しているルイ18世に渡りをつけ、フランスを王政へと戻す。バラスはその庇護下で、何らかのポストにつき権力を維持する……。生存し、権力も得ることができる。革命を生き抜いたバラスには、その離れ業をこなす程度の手腕はあった。無論、革命の成果は失われるが、バラス個人にとっては、生き延びることに比べたら何のことはない。
 そして更に、この状況を喜劇にしているものは、フーシェはバラスの企みを知っていることだった。バラスの方ではそれを全く知らず、愛国者ぶった顔を向けている。
「しかし、ナポレオンは勝手が過ぎる。やつに任せたら、もう一度イタリアは取り戻すかも知れないが、もう政府の言う通りには動かないかもしれん」
「そうでしょうね」
「だから、奴が帰ってきたら困るんだ。そうでなくたって、政府には誰も信じられるやつはおらん。ナポレオンが帰ってきたら、政府の中にもナポレオンと組んで何かやらかす奴が出てくるかもしれん。全く……」
「閣下のお心、お察しします」
 ふん、とバラスは鼻を鳴らした。このフーシェだって今は追従しているが、心の中では何を考えているか分からないやつだ。フーシェは確かに有能で、その言動にも怪しいところはないが、その青白い顔を見ていると、どうにも信用がおけないのだった。金も使わず、女と遊ばず、酒も飲まない。バラスは欲望にまみれ、他人の欲望の奥底まで嗅ぎ分けて生き延びてきた人間だ。フーシェのような後ろ暗い情熱は、どうにも理解しがたかった。
 フーシェはいかにも信用はおけない。しかし、その地位も財産も、このバラスの引き立てがあってこそのものだ。バラスがフーシェを見放してしまえば、どうにもならず、陰謀を立てようにも、フーシェの言葉に耳を貸すものもいまい。いざとなれば泣きついてくるに決まっている。
 しかし、バラスは忘れている。あの熱月の夜、仲間の間を駆け回り、錆び付いたナイフのような議員たちを一つにまとめ、強大なギロチンの刃に変えて、ロベスピエールをその下へと導いたのは誰だったか。フーシェはまったく無表情でバラスの言葉を聞いている。このフーシェとて命と地位はほしいはずだ。わざわざ、自ら危険なところへ飛び込んでゆくような真似はしないだろう……ロベスピエールが望み、後のナポレオンもそうしようとしてできなかったことだが、フーシェの放逐を選んでいれば、バラスにとっても先行きは違ったはずだ。
「いいか、フーシェ。お前は警察大臣だ。国内の治安は全てお前の仕事だ。オーストリアがパリへと迫ってくれば、国内の王党派が活動を起こすはずだ。お前は陰謀を掴んで、全て報告しろ。いいか。誰も国家に対する裏切りなどさせるなよ」
「はい、閣下」
「国外の情報も持ってこい。特にナポレオンが死んだとなれば、一番に報せをよこせ。帰ってきたらでもいい。貴様、エジプトのことは何も掴んでいないか」
「艦隊のこと以外は、何も」
「ならいい」
 行っていい、とバラスは手振りで示した。フーシェは執務室を去った。


 フーシェはジョゼフィーヌの居館を訪れていた。ジョゼフィーヌが一生を過ごすことになる、ジョゼフィーヌの館と名高いマルメゾン宮殿である。ジョゼフィーヌはこの館を購入したばかりで、修繕の真っ最中であった。この頃、ナポレオンの給料から支払われるジョゼフィーヌの生活費は、ナポレオンの兄ジョゼフが管理しており、月々渡される費用も全てドレスや宝石に代わってしまうため、ジョゼフィーヌは無一文であった。
 だが、欲しいものは何としても手に入れなくては気に済まないジョゼフィーヌは、30万フランを超えるとされるマルメゾン宮殿の購入費を、全てナポレオンのエジプト遠征の成果から支払うとことにして、無一文のまま購入してしまったのだ。勿論夫には相談もなし。だが、館の持ち主はそれを疑わずにジョゼフィーヌに売ってしまった。イタリア戦線の英雄ナポレオンと繋がりができるならば、その程度でも安いくらいなのだった。軍人としてのナポレオンの資質は問題なく、その人気も留まるところを知らない。仮にナポレオンが政府の要人にでもなれば、政府の御用商人として、その栄華の端にぶら下がれるかもしれない。
 修繕中の宮殿に、ジョゼフィーヌは早々と住み込み、自分好みに改装を進めると共に、日々家具商や美術商と商売の話に忙しいのであった。まさしく、ジョゼフィーヌ、この世の春であった。ジョゼフィーヌは夫の名声を当てに借金をして贅沢放題で、夫がイタリア遠征に行っている頃から作っていた愛人と楽しく過ごしていたのである。フーシェは、ジョゼフィーヌの商談が落ち着くのをのんびりと待ちながら、改装の進む館を眺めていた。
 ナポレオンはジョゼフィーヌを熱烈に愛しているが、同時に栄光を欲している。そのためには戦地に赴くほかはない。結果として、ジョゼフィーヌは監視もなく、やりたいように過ごしている。ナポレオンの寵愛を受けているジョゼフィーヌのことを、ナポレオンの家族は良く思っていない。その生前からナポレオンの遺産争いは始まっていたのだ。このままではジョゼフィーヌとやがて生まれるだろうその子供が財産を相続することになるだろう。ナポレオンの家族はそれが気に入らなかった。ナポレオンの家族はことある事にジョゼフィーヌの放埒な振る舞いをナポレオンに告げ口したが、ナポレオンは取り合わなかった。ある意味では、ジョゼフィーヌの振る舞いを作ったのはナポレオン自身だ。ナポレオンはジョゼフィーヌを愛し、不自由しないよう、幸福に過ごせるように取り計らった。しかしそれは裏目に出た。ジョゼフィーヌは夫の不在を良いことに、彼のことを思うよりも愛人を飼って遊び暮らした。
 フランスの新聞はジョゼフィーヌの浮気と、ナポレオンの家族との喧嘩を、面白おかしく報道した。フランスのみならずイギリスやオーストリア、全ヨーロッパでナポレオンの妻の放埒具合は報道された。それほどナポレオンの存在感は増していた。
 民衆はこの手のスキャンダルが何より好きなのだ。事実であるし、何より政府の不正やスキャンダルから目を逸らせるので、フーシェは、そういった報道は放置させていた。揉み潰してやるほどの義理はフーシェにはないのだ。そういうわけで、フーシェはナポレオンには同情するものの、まあ自分の行いのためだ、という風に見ていた。妻を愛しているのなら、妻の側にいてやるのが優しさではないのかな。ナポレオンは妻への愛情と名誉欲を天秤にかけて、名誉の方へ秤が傾く。あるいは、優秀な軍人でいることが、美しい妻への自らの責務だと思っている。そういう男なのだろう。と、フーシェはナポレオン像を想像した。
 ナポレオンが想像通りの男であれば、軍を一手に握る。あるいは、いっそ政府の頂点に座ってしまうというようなことにも物怖じはせず、むしろ堂々とそれを果たすだろう。想像通りなら面白い。少なくとも、バラスが計画しているように、王家がパリに戻ってくるよりは余程いい。王政の元では、国王弑逆者フーシェの居場所はない。
 商人が部屋を出て、部屋の中へ一礼して辞していった。間もなく呼ばれるだろう、と、フーシェは威儀を正した。
「ああ、疲れたわ」
 ジョゼフィーヌ自身が部屋を出て、フーシェに声をかけた。部屋で待っていれば良いだろうに、ジョゼフィーヌはそういう気安さがあった。誰に対しても区別なく接する気安さは、卑屈ではなく、高級で優雅に見える。これは王宮や貴族たちの間で過ごした経験がそうさせているのだろう。ジョゼフィーヌの美点だった。西インド諸島で生まれたという南国的で開けっぴろげな気質と、パリの暮らしで培われた貴族としての生き方、両方の美点を掛け合わせて作られたような女がジョゼフィーヌという女だった。フーシェも、時には良い女だ、と思うことがあった。最も、その気分のまま、誰彼なしにベッドを共にする女はごめんだが。
「水が欲しいわ。まだ、館を買ったばかりで、メイドも揃っていないの。朝なんて早くに起きちゃって、メイドがまだ寝ている時間なら、自分で起こしてこなくちゃいけないのよ。それにしても、久しぶりね、フーシェ。警察大臣の仕事ぶりは聞いてるわよ。でも、昔と変わらず、気楽に来てくれたらいいのよ。サロンで、あなたの話を聞くこともあるわ。あなたとの付き合いを考えている人もいるのよ。時々、紹介してあげてるけど。ええと、それで、何の用だったかしら、フーシェ」
 ジョゼフィーヌは、特別フーシェに親しい顔を示すことがある。それには、ナポレオンと結婚する以前からの付き合いだから、ということもあるのだろう。ナポレオンと結婚してからジョゼフィーヌにとって知り合いは増えた。だが、ナポレオンの成り上がりに合わせて来た者達の付き合いは、ナポレオンとの繋がりを求めてのことだ。ジョゼフィーヌを求めていない付き合いは、ジョゼフィーヌにとって空虚で上滑りする。
 フーシェは逆にあからさまで、またそれ以上に踏み込んでくることがないから、そういうのが心地よい、という部分もあるのだろう。ジョゼフィーヌに人間的な興味を抱いていないから、こちらも気ままに振る舞えばよい。もちろん、気ままに振る舞っていても、フーシェをベッドに求めはしない。ジョゼフィーヌは気の多い女だったから、フーシェがベッドの中ではどういった振る舞いをするだろう、ということをちらりと考え、興味を持ったことくらいはあるかもしれない。男性としての見目の美しさでは、フーシェは及第点には及ばなかったが、知性は充分に持ち合わせている。知性のある男が、ベッドではどのような動きをするのか。どのみちジョゼフィーヌにとっては、フーシェを相手にしなければならないほど、男日照りなわけではない。……フーシェは答える。
「ええ、ありがとうございます。また寄らせて戴きますよ。私の方こそ、多忙で立ち寄れなくて、申し訳ありません」
「いいのよ、そんなこと。堅苦しくしないで。それより、部屋の中へどうぞ。私はメイドを呼んでくるわ」
 招きに応じ、フーシェは室内へ入った。急ぎ設えさせた来客室の中は、調度品や美術品はまだ揃っていないものの、真新しい壁紙や細工がまぶしく、古い館から持ってきたのだろう家具類が、少し浮き上がって見えていた。ジョゼフィーヌは一時退室し、フーシェは再び一人で残された。待つのもつかの間、慌てたようにジョゼフィーヌが戻ってきた。よほど急いできたらしく息が乱れている。
「フーシェ、これがナポレオンからの手紙。それから、これがあの人へ面会の約束を頼んできた人のリスト。それから……」
 フーシェと会う時に気分が持ち上がるのは、この密約のためであった。ナポレオンに関する書類を、ジョゼフィーヌはばさばさと小机の上へ積み上げた。フーシェは手に取り、使えそうなものを選り分け、その分の報酬をポケットから取り出してジョゼフィーヌに手渡した。労働者の一月の働きと変わらない額だ。ナポレオンの政治的価値は高まっている。やがては数倍にも数十倍にもなって返ってくることだろう。ジョゼフィーヌにとっては喜ばしいことこの上なかった。ナポレオンの愛情過多で胃もたれがするような手紙が、莫大な金に換わるのだ。「ああ!」とジョゼフィーヌは金貨の入った小袋を胸に抱き、歓喜の声を上げた。
「宝石商を待たせているの。あの商人ったら、払うまでは帰らない、なんて。これで支払いができるわ。全然足りないけれど、まあ頭金ということにして帰ってもらいましょう。ありがとう、フーシェ。またよろしくね」
「ええ。ジョゼフィーヌこそ、ナポレオンと文通をできるよう、頑張ってください。今は、難しいことでしょうが」
 フーシェがジョゼフィーヌに文通を頼むのは、それが可能ならば、ナポレオンからの情報が頻繁に送られてくることになるからだ。もっとも、今は交通網はほぼ遮断されている。
「ええ、そう、そうなのよ。エジプトは大変のようね。あの人は大丈夫かしら。あの人がエジプトから帰ってこなかったら、どうやってこの館の支払いをすればいいのでしょう」
 夫よりも支払いの心配か。ジョゼフィーヌにとってはほとんど一緒に過ごしたことのない夫よりも、日々を過ごす宮殿の方が大切なのだ。
「その時はどうするつもりです」
「支払いのことはまあいいわ。それより、ナポレオンが帰ってこないなら、シャルルと結婚しようかしらと思っているの。近頃はゴイエからも気をかけられているのだけど」
 ジョゼフィーヌももてる女だ。ゴイエと言えば五総裁の一人、バラスの同じ立場にいる男だから、女には困らないはずなのに。ジョゼフィーヌはもう三十の半ばを過ぎているのだが、よほど不思議な魅力があるのだ。
「ああ、それにしても、ナポレオンが死んでいなければいいのだけど。フーシェ、あなたが頼りよ。これからも色々と助けてちょうだい。それから、服や宝石を買ってくれる人がいたら、教えてね」
 いくら服や宝石、ナポレオンのラブレターを売ったところで、その金はまた新しい服や宝石、宮殿の払いに消えるのだ。ジョゼフィーヌは生涯貯蓄に興味を持ったことはなく、ただひたすら享楽のみがある。一度は革命のためにギロチンの数歩手前まで行った女だ。革命が起これば、貯蓄やあるいは借金など全て消失してしまう。その虚しさ、諸行無常を知ったためかもしれない。貴族たちの多くはギロチンの上で露と消えたか、国外に逃亡してしまっているのだ。革命は王家でさえ命を奪われるような暴風なのだ。……それにしても、ジョゼフィーヌの浪費は度を超えている。


 ゴイエを始め、バラスら五総裁はそれぞれ無能だ。しかし、五総裁には一人大物がいた。エマニュエル=ジョゼフ・シェイエスがそうである。彼はフーシェ、タレーランと同じく、教会を振り捨てて革命の世界へ来た元僧侶の一人であり、そして、革命の巨人でもある。
 フランス革命期を描いた名画の一つに、ルイ・ダヴィッドの描いた「球技場の誓い」がある。議会の解散を求める国王に逆らい、第三身分のみで国民議会を独立した議会として宣言した。そして、憲法を発足させるまでは国民議会を解散させない、という誓いの瞬間を写したものだが、ロベスピエール、ミラボーらと並んで、シェイエスは最前列、中央付近に描かれている。このような絵画では、どのような順番で描かれるかということが非常に重要だ。現代に生きる我々にはほとんど馴染みのない人物ではあるが、当時の名声は光り輝くほどであった。
 革命を始めたのは誰であるかと聞かれれば、多くの人物が挙げられることであろう。しかし、その中でもシェイエスは、その筆頭に選ばれるべき一人かもしれない。そも、フランス革命とは、活版印刷に支えられた、パンフレットによる革命だった。活版印刷の技術は15世紀に生まれた。当初は聖書の印刷に使われ、そのようにして作られた本は数が少なく、非常に高価だった。本が希少であったことの証左に、大聖堂に置かれるような本には鎖と錠がつけられている。時代が進むまで、活版印刷による本は誰もが手に取れるものではなかった。そして18世紀に至って、活版印刷は町の印刷所で気軽に扱われるようになり、誰もが自分の文書を印刷所で刷ることができるようになった。王政の力が充分に行き届いていた頃は、この手の文書は監視され、時には不当文書の頒布により逮捕されることもあった。しかし、革命でそのくびきも取り払われた。
 口伝えによる情報の拡散は爆発的だが、時に過小、時に過大化し、正確に伝わることは少ない。だがパンフレットによる扇動は、口伝えの後をついてゆき、より正確に物事を伝え、補強する。革命期には悪意あるデマや面白半分の冗談、敵対者への攻撃文のパンフレットが山のように出回った。
 やがてそれらの悪文、誹謗中傷のたぐいは忌避され、発行者やその言葉を発した者の名前で信用されるようになってゆく。賄賂や女がらみのスキャンダルのない、清廉だが過激なロベスピエールの名前ばかりが広がり、その台頭を許すことになるのだがそれはまた別の話だ。
 無論、パンフレットは悪質なものばかりではなく、啓蒙的で、真摯なものもある。シェイエスの書いた「第三身分とは何か」も、そのような啓蒙的なパンフレットの一つだった。「第三身分とは何か。それは、全てである」という有名な序文を備えたこの檄文は、本来人間とは平等なものであり、王家、貴族、僧侶と言った不必要な身分が格差を作り、不当に差別していると説く。このパンフレットは、怒れる民衆たちに一つのエネルギーを与えていった。第三身分という言葉は広く流行し、革命のうねりとなっていった。国家経営をするのは、国民ではないか。国民が選んだ代表者によって政府運営がされるべきではないのか。王家が何をしてくれたか。贅沢をし、肥え太るだけではないか。第一身分と第二身分は自分たちだけでは存在できないが、第三身分は自分たちだけで存在していることができる。特権階級など不要だ。
 ルソーが火をつけ、シェイエスは革命を広く延焼させた。彼は国民議会の初代議員にも選ばれ、政治の本流へと身を漕ぎ出していった……はずなのだが。
 文章に長けた彼はしかし、民衆を使った場外乱闘を含む政争というものは苦手だったらしい。ロベスピエールの恐怖政治が始まると、彼はひたすらに地下へ潜り、逃亡し、命を繋ぐことにだけ専念した。バラスの総裁政府が始まって、ようやく地上へ顔を出したのだった。彼は革命のモグラの異名で呼ばれた。「恐怖政治の間、何をしていたのですか」と問われ、「私は生きていた」と答えた、有名なエピソードが残っている。ロベスピエールが亡くなった後も、執事に「ロベスピエールが来たら、私は留守だと伝えてくれ」と頼んでいたという。これは字義通りの、冗談的な取り方もできる。が、これは、ジャコバン派が再び政権を取り、ロベスピエールが再来するようなことがあれば、という意味合いにも取れる。シェイエスの少し過剰とも言える恐怖心を如実に表している。
 そのような人物であるから、現在の総裁政府には失望している。しかし自ら刃を握って、バラスを始め総裁政府と戦争をするつもりはない。敗れてしまえばどのようになるか分からないからだ。少なくとも、二度と政治の場に姿を現すことはできなくなる。彼もまた、政治の闇の部分で、生き延びることの困難さを知っている男であった。
 シェイエスが求めていたものは、独裁である。五総裁の集議では決まるものも決まらない。総裁ではなく、別の立場にある一人に絶対的な決定権を持たせるべきだ。強力な政府、強力な指導者。それが周囲を敵に囲まれた革命政府のあるべき姿だと考えていた。そして、今その席に座るべきは自分だと考えている。そのためには憲法改正、及び現政府の打倒、新政府の樹立が必要であった。
 だが、ロベスピエールと立ち向かうどころか地底へと潜ったことからわかるように、シェイエスはあからさまに鉄火場へ立つのは向いていない。シェイエスは武力による議会の制圧を考えていた。革命派であり、政治的なバランス感覚を持ち、民衆に人気があり、しかも法を犯したとて怯えない蛮勇の持ち主の軍人……つまりはシェイエスのための傭兵であった。ことが成った後には、軍を与えてやり、戦場へ向かってくれれば、事後のパリでもやりやすい。そのような人物はいないものか。
 最初は革命戦争初期の英雄であるモロー、及びジャコバン派であるマッセナに注目した。しかし彼らは遠く戦場にいる。次いでこれも親ジャコバンのベルナドットに声をかけたが、優柔不断な彼は色よい返事をしなかった。
 次いでシェイエスが目をつけたのはナポレオンであった……彼は果断に富んだ指揮官であり、民衆の人気も高い。彼と話をしたいと考えていたシェイエスにとって、ナポレオンの帰還とは、常に興味深いニュースである。シェイエスはそれを待ち望んでいた。パリは、フランスは風雲急を告げている。彼の元へ届いた報せは、正しく運命の突風であった。


 シェイエスからの呼び出しを受け、フーシェはシェイエスの執務室へと急いだ。執務室にはゴイエもいた。二人で呼び出したのか。五総裁のうち二人が関わるような大事であるのに、フーシェは何も報せを受けていない。フーシェは肌の内側で汗をかいたが、それを表には出さない。
 フーシェの予感とは裏腹に、シェイエスはゴイエに対し、迷惑そうな顔をしていた。
「おう、警察大臣。すぐに出る」
 ゴイエはがはは、と豪快に笑い「例の件、頼む」と、シェイエスの肩を叩いた。シェイエスはうんともいやとも言わず、不機嫌に口を閉ざしたままだ。
「ゴイエ閣下とお話しだったのですか」
 ゴイエが部屋を出るのを待って、フーシェは声をかけた。
「君を待っていたんだがね。奴が突然来た。エジプトへ行った馬鹿な夫を捨てて、もっと良い男の元へ行けと説得するように頼まれたんだよ。困ったことだ。私はジョゼフィーヌとかいう娘とは関わりはないのに……君、頼まれてやってくれ」
「お断りします。少なくとも、その馬鹿な夫が死んだと聞くまでは。寝取られ男の恨みを買うことになります」
「彼女の男遊びを知らない者はおらんよ」
「それもそうでしたな」
「フランス一の寝取られ男、ナポレオン将軍……エジプトから送ってくる恋文の文面まで新聞には載るそうだが……私ならあんな女性はごめんだな。美しいかもしれないが、危険すぎる。しかし、ゴイエのことも、ジョゼフィーヌのことも、どうでも構わん。君を呼んだのは……」
 かつ、かつ、と扉を、杖で叩く音がした。フーシェは物嫌いをする男ではなかったが、その音は苦手だった。苦手ということが嫌いということであるなら、身震いするほど嫌いであった。そのようなノックをする男は決まっている。杖をついて、片足を引く男が、シェイエスの執務室の扉を開けた。
 タレーラン。有能な政治家。全ヨーロッパ時勢の潮流を読む天才的な先読みの目を持った男。そして、必要とあらば平気で他人を裏切ることのできる男。
 フーシェと似た動きをするが、その性質は真逆である。現在は外務大臣の地位につき、政府内で重要な位置にある。本来なら、オーストリアやロシアを相手に交渉に努めていなければならないが、頼りにならない政府がバックでは、ろくな条件も引き出せない。となればタレーランが一人頑張る理由がどこにある? タレーランは無駄な努力をしない性質の男だった。現実今も暇そうであった。
 フーシェがタレーランを嫌っているように、タレーランもフーシェが嫌いであった。タレーランにとってもフーシェは思い通りにならない男の一人だ。美食好き、女好き、贅沢好きで金好きのタレーランには、いくつものスキャンダルがあり、フーシェはそれを握っている。フーシェが表沙汰にしないのは、多少のスキャンダルを物ともしない有能さの故であり、政府が手放さないからだ。タレーランの恨みを買う結果に終わりかねない。タレーランはそのようなフーシェの本質を感じ取っている。好ましいはずがない。
 部屋へと踏み込んだタレーランは、フーシェを見るなり露骨に踵を返した。
「おっと。これは間が悪いところへ来たようですね。後で、また来ます」
「タレーラン君。ちょうどいい、君にも後で聞こうと思っていたことだ。入りたまえ」
 億劫そうに、タレーランはゆっくりと振り向いた。杖をかつかつ言わせ、机へと歩み寄り、椅子を掴んでシェイエスの前に座った。シェイエスは引き出しの中から一枚の紙片を取り出すと、二人の目の前に放り出した。
「フーシェ君、タレーラン君。この紙切れを私の執務室へ放り込んだのは、君達のどちらかかね」
 手を伸ばしたのは、タレーランが先だった。「拝見します」タレーランはすぐさま、おっと、と呟いた。紙片はすぐにフーシェの方へ回ってきた。長々と読むこともない、短い文章だ。
『ナポレオンが帰ってくるぞ! 気をつけろ』
 あいつだ、とフーシェは、苦虫を噛みつぶしたような気分になった。表の顔は涼しげなままで、揺らぎもしない。フーシェの情報網は、まだ何も掴んではいない。だが、奴が戻ってきた以上は……。
「タレーラン君、どうかね」
「覚えのないことですな。しかし……面白い、率直に言えば」
「面白い?」
「そうでしょう、閣下? これでフランス軍は勝利するかもしれません。しかし、奴がフランスの窮状を聞きつけて駆けつけたのだとすれば、よほど良い耳をしています」
「戦争は勝つ。それは良いことだ」
 シェイエスの声には感動も落胆もない。無感動な冷たさがあった。
「フーシェ、君はどうだ。覚えはあるかな?」
「いえ、閣下。私も預かり知らぬことです……ナポレオンが帰ったなどという報告は受けておりません。さっそく南海岸へ人員を送って調べさせましょう。そのような気配があるかどうか」
「この紙を放り込んだ人物に、思い当たりはあるかね」
「いえ。おそらくは、ただの悪戯かと……変わり者の民衆の誰かが、気紛れにデマを書きつけたのだと思いますが」
「そうかね」と、シェイエスは反駁しなかった。どうでも良いのかもしれない。
「民衆の書いた落書きというのは、当たっているかもしれません」
 タレーランは思わぬことを言った。シェイエスもフーシェも何を言うのかと、顔を上げてタレーランを見た。
「民衆が最も望んでいる人物は彼ですから。東では負け続き、敵軍は国境へと迫ろうとしている。かつてイタリアで勝利したのは彼です。民衆はその時の再現を求めている。そのような声の一つがたまたま、閣下の机へ現れた。単なる落書きとは言え、案外……本当に帰ってくるかもしれませんよ。パリにナポレオン来たれの声が満ち、エジプトまで聞こえているのであれば」
 シェイエスは重苦しく、頬杖をついて、溜息をついて見せた。フランスの新聞のみならず、イギリスの新聞もヨーロッパでの戦場の詳細を書き連ねている。察しの良い者ならば、フランスの民衆が求めているものは分かるはずだ。
 本当に帰ってきたならば、政府としては査問をしなければならない。勝手に帰ってきたならば敵前逃亡となるからだ。シェイエスの溜息は、政府としての立場とは違う。政府としては叱りつけながら、それとなく守ってやり、彼がクーデターに加わるか真意を確かめなくてはならない。
 フーシェは、再び紙片へと目を落とした。民衆の声……運命とは、民衆の声や時勢が物事を動かして、巨大な風のごとく巻き起こるものかもしれない……それを察知できる者が、運命の後押しを得て、歴史の高みへと上り詰めることができる。ナポレオンが本物の英雄ならば、例えエジプトの遠くにいても、民衆の声を聞くだろう。フーシェは、一刻も早く家へ帰りたい気分になっていた。家に、奴からの手紙が来ているかも知れない。


 しかしながら、フーシェはすぐ帰るというわけにはいかなかった。タレーランはするりと抜け出していたが、シェイエスの質問に付き合わされたのだ……彼はジャコバンだろうか。彼の好みは何か。軍人としては立派だが、政治的にはどうだろうか。ええ、彼はロベスピエールと親交があったことは知っています。好みですか。戦場と兵、それから妻でしょうな。政治的なことは云々……散々時間を取られ、家に帰り着いたのは退庁の時間を過ぎてからだった。
 馬車の中でフーシェは、言いようのない苛立ちに駆られた。普段なら焦りに身を捩ることなどないのに。運命……時勢……物事が大きく動こうとしている時、それに置いて行かれることをのみ、フーシェは恐れる。国民公会からの呼び出しがあった時もそうだった。
 あの時、世間の風に身を任せ、のんきにリヨンで処刑を続けていれば、すぐさま逮捕され、ギロチン行きになったことだろう。しかし世間は未だ極左の暴力的な浮かれ気分の中にあって、それを引き締めるという気分はなかった。ロベスピエールという巨人が議員たちの横暴を咎め、その揺り返しが早く、苛烈に過ぎた故に反動が起こり、死に急ぐことになった。
 今もそうだ。エジプトから帰ってくることは、事実上不可能だ。海軍はなく、兵はエジプトで立ち往生し、しかも海はイギリスに抑えられている。迎えが来ることも不可能なら、兵を放り出すことも不可能、帰還することもほぼ不可能だ。しかしそれを跳ね返す歴史の巨人であるならば……フーシェは焦っていた。運命の、巨大なうねりを感じるのだ。そして、あの小娘……運命の名前を語る小娘もまた、帰ってきているかもしれない。
 フーシェは馬車を降りると、ドアをノックする間も惜しく、扉を開いた。家は豪奢ではないが、流石に以前のぼろ家よりは良くなっている。まあ、普通の市民なみというところだろう。子供たちも機嫌よく走り回っている。以前なら狭すぎて走ることもままならなかったが。
「誰か来たか」
 ただいまを言う間もなく、フーシェは妻へと呼びかけた。
「ええ。あなたに手紙を渡してくれという方が。手紙くらい、扉の下から滑らせておいてくれればいいのに」
「その手紙は」
「あなたの書斎に……」
 フーシェは慌ただしく、自らの書斎へ駆け込むと、鍵を閉じた。室内には誰もいないことを確かめ、手紙の封を切った。


「いよう、久々だな。元気にやってたかい? 私は……まぁ、ぼちぼちだ。ナポレオンは元気だよ。あいつの元気さはおかしいほどだ。海は塞がれてて、エジプトで逼塞するほかないってのに、あいつは遠征を始めた。エジプトから北東、シリアへと遠征だ。
 ヨーロッパの前にはでかい蓋がある。トルコだ。トルコはイギリスと協力して、対フランスの姿勢を取っている。そのトルコを突破してヨーロッパへ帰ろうとしたのさ。そのためのシリア遠征だ。だが、トルコどころか、シリアのアクレ要塞を攻略できず、軍には疫病が蔓延、軍はエジプトへ引き返した。だってのにナポレオンは元気だ。あいつは頭がおかしいよ。実に面白いことに、あいつはへこたれない。
 エジプト周辺で一進一退をしているうちに、トルコ兵がイギリス船と一緒にやってきた。そして、エジプトのマムルーク兵もまたぞろ呼応して襲ってきた。だがナポレオンは上陸してきたトルコ、マムルーク連合を海へ追い落とし撃退した。陸の上じゃあ、あいつの用兵は馬鹿みたいに当たる。それから、戦利品もあった。
イギリス兵の捕虜から、フランスの新聞を手に入れたんだ。そこにはフランスの窮状が書かれていた。フランス包囲網が組まれ、ロシア、オーストリア連合がフランスへ侵攻。ナポレオンが解放したイタリアを再びオーストリアが占拠。オーストリアが力を強めているならば、トルコを攻めたところで帰還することは難しい。
それで……このあたりが、あいつのすごいところだよな。あいつはエジプト遠征軍を捨てた。フランスへ陸伝いに戻ることはできない、エジプトにいればジリ貧。そして、新聞でフランスの窮状を見て、フランスへ戻ればあいつは英雄になれると考えた。あくまで言い分はエジプト遠征軍の放棄じゃない。兵、軍備の補給を整えるための一時帰還だ。
 一人の将軍に軍の全てを任せ……自分寄りの将軍と、身近な兵だけを集めて、一隻の船でフランスへと漕ぎ出した。まさか、ナポレオンが単身で、軍を捨てて、護衛艦もない一隻の船で、フランスへ戻るなんて、誰が想像できる? 残された兵も、残された将軍も、イギリス軍も寝耳に水だった。当然フランス政府もだ。ナポレオンは何もかもに対して、奇襲し、一撃を食らわそうとしている。
 いいか、フーシェ。ナポレオンは戻っている。この手紙が届く頃には、もう上陸しているかも知れない。パリへ戻るには数日あるだろう。この情報は高くつくぜ。面白くなる。また革命の臭いだ。下克上の臭いがする。
 お前のところにも、ナポレオンが来るぞ。奇襲されないように気をつけろ。ネージュ・ノワール」
 フーシェは読み終えた手紙を、机の上へ置いた。その瞬間、「よう」と、背後から声が聞こえた。
「大急ぎで帰ってきたぜ。喜べよ。久々に私と会えて、嬉しいだろ?」
 帰ってきたのだ。鬼人正邪がここにいるということは、ナポレオンもまたここにいる。
「あいつはまだ上陸したところじゃないかな。急ぎ帰ってくるだろうがな。ま、情報が来るのはもっと先になるだろ」さて、と鬼人正邪は言った。「私はパリを知らない。教えろよ、ジョゼフ・フーシェ。パリで面白いのはどこだ。そして、誰が今熱いんだ。なあ、言えよ、フーシェ」
 運命の前に、扉を閉ざすことはできない。目を背けていようと、誰もの元へ平等に訪れる。ああ、フーシェは唇を歪め、笑みを作った。運命が等しく平等ならば、その機会を楽しまなくては仕様がない。
 フーシェは、ゆっくりと振り向いた。再び、パリに風が吹こうとしている。フーシェは喜悦に唇を歪めて微笑った。陰謀、何よりも恐ろしく、何よりも楽しい陰謀の季節だ。


 ナポレオンが帰ってきたと聞いて、最も恐れ戦いたのはジョゼフィーヌだろう。戦場のことでも手紙に書いて送ってくるのに、帰ってくるなどとは一言も言わなかったのだ。ナポレオンにしても帰る予定など立てる余裕はなかったのだろう。帰還は危急の出来事だったのだ。ジョゼフィーヌにとっても奇襲となった。
 ジョゼフィーヌは間男のシャルルと一緒のベッドの中で、ナポレオン帰還の報せを受け取った。シャルルはすぐさま逃げだし、ジョゼフィーヌは南へ馬車を走らせた。ナポレオンの親類が彼にジョゼフィーヌの悪い話を聞かせる前に、ナポレオンを貞淑に出迎え、誑し込まなくてはならない。
 ジョゼフィーヌと同じく、政府も戸惑っていた。彼の帰還をどのように受け止めるべきか。しかし、ほとんどの民衆は彼を喜んで迎えた。民衆は言わずもがなであり、腐敗した政府を頼りなく思い始めていた富裕層も、ナポレオンなら何かをしてくれるのではないかという気分を持った。王党派もジャコバンも、政府を倒せるのならナポレオンを利用するべきだと考えている。ともあれ、何かが起こりそうな雰囲気も加わって、パリは浮ついた気配が漂っていた。
 地中海に面したフレジュスの街は、ナポレオン一行を出迎える最初の幸運に与った。北へ、パリへと向かう一行を、街道沿いの街は花のアーチを作り、歓声で出迎えた。イタリアとエジプトで大勝利を得たナポレオン将軍。ナポレオンは、自分が走る前に、兵士を走らせて『ナポレオンはエジプトで勝利し、帰還した』と噂を流させておいたのだ。ナポレオンもまた、革命以後の闘争が新聞とパンフレットによることを知っていた。情報というものが、如何に重要なことかを知っていた一人なのである。現在では当然のことのように思えるが、当時ではそのことに気付いていた人間は少なかった。ナポレオンはそのようにして、パリへと向かっていた。
 フーシェは密偵より逐一ナポレオンの動向を受け取っていた。ナポレオンは間もなくパリへ来る。どのような態度を取るべきか、民衆の殆どはナポレオンへと傾きかかっている。しかし、政府では彼をどのように扱うべきか、決めかねていたのだ。それはフーシェとて同じだった。
 フーシェは心持ち、ゆっくりと歩いた。バラスが閣僚たちを招集したが、まだ態度を決めかねているというのが大多数の正直な気持ちだろう。フーシェもまた、ひとまずは日和見という方向で決めているが……しかし、フーシェは思考を重ねた。
 政府としては、ナポレオンを担ぐつもりはないだろう。彼にこれ以上功績を重ねられれば、いよいよ政府を乗っ取られることになる。かと言って、露骨に冷遇すれば、民衆が黙ってはいまい。政府の不人気に拍車をかける。
 ナポレオンを支持できない理由はまだあった。民衆は今でこそナポレオンに熱を上げているが、民衆は熱しやすく冷めやすいものだ。ナポレオンが大したことないと感じれば、事実ではなくとも、急速に離れてゆく。時勢は未だ定まっていない。いざとなれば、ナポレオンを逮捕するか、あるいは逮捕の命令を受け取りながら、様子を見て逃がしてやるかという処置が必要となるだろう。すぐさま処刑、とはなるまいが。フーシェはゆっくりと扉を開け、会議が行われる大部屋へと入った。フーシェが最後の一人であって、バラスがフーシェを眺めていた。
 五総裁、そして各大臣が居並ぶ中、バラスはじろり、と、テーブルにつく者達をねめつけた。肘をついた姿勢を解き、椅子に背中を押しつけ、口を開いた。
「どういうこった? 一体、誰が帰還命令を出した? あいつが勝手に帰ってきたのなら、どうするべきだ。意見のあるやつはいるか?」
 バラスの発言は端的だった。テーブルについた者は、周囲の顔色を窺い、誰も発言しなかった。
「俺には一つ考えがある。誰かが呼んだにしろ、政府から命令がしたのでないのなら、奴は逃亡者だ。エジプトで兵が全滅したとは聞いてないし、兵を連れ帰ってきたという報告も聞いていない。なら、自分一人で逃げ帰ってきたんだ。兵を見捨ててな。ナポレオンは罪人だ。奴が戻ってきたら、逮捕して処分を与える。その必要があると、俺は思うが」
 バラスの言葉に、反論は出なかった。隣とぼそぼそ言葉を交わすのみだ。自分の意見をはっきりと口に出せば、ナポレオンに荷担していると思われる。フーシェもまた、様子を窺いながら思索した。どうやら政府の首脳たちも迷っている。バラスにしてさえ、口ではああ言っているが、おそらく処分まではしないだろう。ナポレオンの人気がそうさせない。パリの民衆が熱を持てば、その熱狂を反政府に利用される畏れがある。バラスとしては、政府を通して逮捕を命じておき、自分の名前で許してやることで、自分の味方にでもするつもりなのだろう。バラスはそのようにしてナポレオンを御せる自信を持っている。ナポレオンとて民衆の人気がなくなれば、好き放題にするわけにはいかない。
 フーシェにとっては都合の悪い展開だ。ナポレオンを逮捕すれば、新聞にフーシェの名前が載る。民衆に目を付けられて、警察を悪者にされるのは困る。何か言って、気分を変えてやるべきか。フーシェが考えていたところ、口を開いた者があった。
「私は、寛大な処分を与えるべきだと思う。釈明の場を設けるべきだ。少なくとも、即刻の処分はできないだろう」
 口を開いたのはシェイエスだった。しごくもっともな意見だった。ナポレオンの人気のことが頭によぎった者も多いことだろう。賛成だ、そうするべきだ、という声が端々から漏れた。タレーランが言葉を添えた。
「私も賛成です。まずは事情を聞き、エジプト方面軍の状況も抑えておく必要があるかと思いますが」
 タレーランの言葉は、バラスというよりも閣僚たち、あるいはシェイエスに向けたものだろう。私はあなたの味方ですよ、と。タレーランはタレーランなりの政治的感覚で、ナポレオン、あるいはシェイエスにつくと決めたらしい。素早いことだ。明日から、シェイエスと仲良く喋っているタレーランをよく見ることになるだろう。ふん、とバラスは溜息をついた。
「おい、フーシェ」バラスは唐突に、フーシェを呼んだ。「お前はどうだ。逮捕できると思うか」
 俺に言わせるんじゃないよ、とフーシェは考えた。だが、これはバラスなりの圧力なのだ。立場を鮮明にさせておきたいんだろう。
「いいえ。調査が必要です。彼の行為が犯罪とは断定できません。そして、法だけでは判断できません。国内情勢を見て判断するべきです。そのためには、やはりまずは事情を確かめるべきかと」
 バラスは考えていた。考えて、「わかった」と言った。
「その通りにしよう。ナポレオンがパリへ戻ってきたら、政府へ顔を出すように伝えろ。それから、フーシェ。ナポレオンには監視をつけておけ。怪しげな動きを見つけたらすぐに報告させろ」
 というところで、散会になった。タレーランがフーシェを見てちらりと笑いかけ、バラスはフーシェを見つめていた。だが、タレーランからはむしろ侮蔑を、バラスからは親愛というか、仕方ねえ奴だな、と感じを受けた。
 フーシェはタレーランやバラスよりも、シェイエスの方が気に掛かった。彼は権力を持っている。権力を使うならば、今を置いてない。おそらくそれは、彼自身も分かっている。そのためには……ナポレオンの意向を聞きたいことだろう。シェイエスはまず、それを確かめるはずだ。フーシェもまた、それを知ってからでも遅くはない。


 フーシェ夫人、後のオトラント侯爵夫人は田舎の商家の娘で、美しくはなく、社交的でもなかったが、気立ての優しい女で、家庭と夫に尽くすだけが取り柄の控え目な女だった。その結婚は当初は愛のあるものではなかった。議員として立候補する際、後押しをしてくれる地元の名士であったからその娘を見初めただけの話だ。女遊びをするような男に嫁いでいれば、実力を得た時点で捨てられていたことだろう。
 だがフーシェはこの女を愛した。フーシェは苛烈な政治的陰謀の化け物、あるいは裏切り者、冷血動物などと呼ばれたが、家庭での彼は良き夫であり良き父親であったようだ。彼には彼にしか理解できない美学というものがあるらしい。女性の美醜や器量ではなく、自らが愛し抜くといった規範にそって愛することをこそ愛おしむような、独特の価値観を持っているようだった。
 フーシェ夫人もまた、不器量ではあったが夫を愛し、妻として尽くした。時には理解しがたい部分を持っている主人を分からないまま一途に信頼し、愛していた。
 冷血漢、人を人とも思わず裏切ることのできる男、フーシェのような者が、何を気に入ってフーシェ夫人を愛するようになったのか、フーシェ夫人自身も分からなかったことだろう。フーシェは滅多に感情を露わにしない男で、夫人の前でも喜びを見せることは少なかった。
 しかし時間が過ぎ、子供もできるようになれば、フーシェ夫人も夫のことを少しずつ分かってきた。要するに、この人も人の子なのだ、一人でいては寂しいのだ、ということだ。そして、その寂しさや愛情を言葉や仕草で表現はせず、ただ自分のうちにその感情を抱いていればよい、というような人なのだ、と。
 フーシェ夫人は自らよりも家族や息子、娘、そして夫が先で、着飾ったり、調度品や美術品で自らを慰める趣味も持たなかった。時に花を摘むことがあっても、慎ましげに部屋の片隅に置いておくだけで、目立たせて部屋を明るくするというようなことはしなかった。しかし、その日は違っていた。
 テーブルの上に、豪華な花瓶を置き、花を生けて見せつけるように飾っていたのだ。珍しいこともあるものだ。フーシェの目は、そこへ引き付けられた。夫人はフーシェの様子を窺っている。明らかに、何らかの反応を待っていた。だが、フーシェには何のことか分からない。
「珍しいことがあるものだね」フーシェは正直に思ったままを言った。
「あなたが冗談を言うところなんて、初めて見ました」
「何を言うんだね」
「あなたが下さったのですよ。私のベッドに置いてくれたじゃありませんか。メッセージまで添えて……」
「ああ」フーシェは完璧に察した。「そうだったね。少しとぼけていたようだ。……喜んで貰えて、私も嬉しいよ」
 まあ、おふざけをなさって、と夫人は言って、何でもない風を装ったが、内心では喜んでいる。夫人はそのプレゼントを当然夫からのものだと思っている。目立たせて飾り付けることによって、夫の愛情へ応えているつもりだ。フーシェにはそれが分かるからこそ、苦々しく思った。しかし、妻が喜ぶことそのものは嬉しいことだ。フーシェは立ち上がり、暖炉で暖めた湯を使ってコーヒーを煎れた。
「あら。部屋で飲むのですか」
「ああ。仕事があってね。済まないな」
「いいえ。お仕事は大切ですもの……」
 フーシェは書斎の扉を閉じた。コーヒーを机へ置くと、何者かがそれを奪ってカップを机の下へ引っ張り込んだ。
「お前、勝手にコーヒーを飲むなよな。一人で飲みやがって。ずるいぞ」
 こいつは、とフーシェは考える。立ち上がって、コーヒーを煎れに行く。「もう二杯目ですか」と、妻にからかわれる……。

 机の下から身体を引っ張り出した正邪は、花瓶と花を抱えていた。フーシェが見ている前で花を入れた。窓際の小机に、色鮮やかな薔薇が彩りを作った。
「勝手に妻へプレゼントを贈るのはやめてもらえるかな」
「あ? 喜んだだろうが」
「………………」
 フーシェには妻を喜ばせる手管もなければ、仮にそのような気遣いができたとしても、そのようなことをする自分は好きではない。しかし、ともあれ、妻が喜んでいることそのものは悪いことではない……フーシェは黙って、手元に書類を並べた。どれもこれも、正式な様式に整ったものではない。密偵からの情報だ。バラス、シェイエス、タレーラン……それぞれ動き始めている。
「お前の嫁さん、相変わらず不細工な」
「うるさい」
「噂では、連れ合いが不美人だから、フーシェはサロンや夕食会を開かないのだ、と言われてるぜ」
「言わせておけばいい。妻の器量程度しか叩くのは、私に対するスキャンダルがないからだ」
「そのようなスキャンダル程度はご存じでしたか。いや、むしろ閣下がそうさせているのかな」
「馬鹿なことを言うな」
 口の減らない小娘が。フーシェはこの小娘と話していると、いつになく苛々させられる。
「それで……貴様は何か情報を持ってきたのか。盗んだ薔薇の他に」
「盗んだなんて。人聞きの悪いことを言うなよな。借りてきたんだよ。主人はいなかったから、何も言わなかったけどな」
 正邪の持ってきた薔薇が、ジョゼフィーヌの薔薇園から持ってきたものだと、それでフーシェは分かった。まだ戻っていないということは、ジョゼフィーヌはまだナポレオンを追っているところだろう。
「向こうでは大変だ。浮気女と、その証拠を掴んだ寝取られ男の対面だ。せめて、浮気女を嫌っている彼の家族がナポレオンに会う前に出会えれば良いけどな」
 けらけらと正邪は笑った。フーシェが正邪と話している頃、ジョゼフィーヌはナポレオンと行き違っていた。やがてフレジュスへと辿りつき、歓待が終わった後の花輪や花道、宴会の片付けをしているところに行き当たることだろう。
 ナポレオンが新聞から得たものは、フランスの窮状のみではない。ジョゼフィーヌのその奔放な性生活も、赤裸々に語られている。フランスでは物笑いの種だったのだ。ジョゼフィーヌ一人に遊ばれているならまだしも、フランス全てに笑われて、恥と思わない者はいないだろう。ジョゼフィーヌ自身否定することもなく遊び回っている。ナポレオンがジョゼフィーヌを許すことはないだろう。ジョゼフィーヌがパリへ戻るのは、ナポレオンが帰った二日後のことだ。無論、ジョゼフィーヌを嫌っているナポレオンの親類から、あらゆる悪口を聞いている。正邪にとっては面白いが、重要なことではない。むろんフーシェにとっても同じ。
「私の元主人のことは、ま、どうでもいい。そう重要なことじゃない」
「そうかな。彼女の友達は、意外と多いよ。バラスを経由しての繋がりも多い。それに、社交界では人気がある」
「そういうことが大事なのか?」
「案外大事さ。ナポレオンを憎く思っていても、彼女が取りなしたら味方になるかもしれないからね。彼女は社交界が好きだし、色んなところに顔を出す。それに、政治家や軍人にも妻がいる。彼女と妻が仲良くしてるなら、ナポレオンを裏切りにくいだろう。案外そういうものさ。もっとも、今のナポレオンに、その損得勘定ができるとは思えない。彼にとっては寝取られ男だとパリどころか敵国イギリスでも笑われていることの方が重要だろう。それよりも、パリではもう動きがある」
 フーシェは続けた。バラスの招集した会議のこと。
「シェイエスは動くだろう。それからタレーランも。タレーランの方には、もう動きが見えるな。各国の外交官と何か、仲良くしているようだ」
「充分な知名度のある名前だな。何をしたかは大して知らんが」
「『第三身分とは何か』を知らないのか」
「単なる文章の羅列だよ。いいか、フーシェ、考え方だ。それはシェイエスが書いたことかもしれんが、同時に民衆が考えていたことでもあるんだ。民衆の考える不満、怒り、そういうのを代弁する言葉だったから受けた。民衆の考えに最も近く、最も平坦で、最も安っぽい言葉だっただけのことだ。シェイエスは民衆の前で何ができるんだ? あいつ、ロベスピエールのようにはできないだろ」
「まだ分からん。お前のように、軽々しく考えることも、決めることもできん。それに、シェイエスは自分が現場主義ではないことを知っている。だからこそ、刃を振るう者としてナポレオンを必要としているんだ」
「お前さ、自分で言っておいてそれを信じていないだろ。ナポレオンが操られるような奴か? バラスはともかく、フランス政府からの命令も聞かない奴だ」
「その通りだ。しかし、軽率な判断はしない。ただ、見極めるだけのことだ。……イギリス政府の手先も動いている。連中はジャコバンにも、王党派にも潜り込んでいる。イギリスも馬鹿じゃない。ナポレオンの噂は掴んでいる。ナポレオンが上に立つよりは、無能な王党派にも流れうるバラスを上に置いておいた方がやりやすい。ナポレオンのクーデターを阻止したい連中は、動きがあるならばバラスに味方するだろう」
「ナポレオンに味方はいないのか」
「いるさ」
 自分がそうだ、というニュアンスを込めて、フーシェは呟いた。自分がナポレオンの側につくならば、イギリスのスパイになど活動させるものか。だが、ナポレオンにつくか、イギリスあるいは政府へ売り渡すかは最終的には会った後の話だ。直接会って判断を下したい。名声が轟くナポレオンだが、その実像を見た者はあまりに少ない。イタリア、エジプトと、外征の時間が長かったためだ。フーシェも、ナポレオンを知らない。
「彼は英雄か? それともただの思い上がった成り上がりか? ……それは、これからの歴史が決めるだけのことだ」
「お前が決めてやるつもりなんだろ。分かるんだぜ」
「そこまで思い上がってはいない」
 ふん、と正邪は言った。偉くなりやがったもんだぜ、と、正邪は思う。フーシェは能力のあるやつだったが、それに相応しい風格と立場を備え始めている。フーシェが偉くなるならば、正邪にはつまらないことだが、同時に楽しみでもある。フーシェが没落する時には、それは面白いことになるだろう。どこまで伸び上がってゆき、どれほどの転落を見せることか。だが、フーシェの実力が正邪の予想を上回っていることを知り、驚くのはまだ先のことだ。今は、ナポレオンの帰還に目を向けなければならない。


 ナポレオンが帰ってきた当初、パリは誰も彼を迎えなかった。民衆の歓迎を避けるように、夜の闇に紛れて帰ってきたからだ。やがて、日が昇り、パリの民衆たちはその事実を知り始めた。
 ナポレオンとすれ違い、彼を言いくるめることに失敗したジョゼフィーヌは、ナポレオンに遅れてパリへと戻ってきた。自宅の宮殿でジョゼフィーヌが見たものは、固く閉ざされ、屋敷の外へ放り出されたジョゼフィーヌの家具だった。
「あなた達」
 ジョゼフィーヌはそこらに居た執事や庭夫らに声をかけたが、言葉が帰ってくることはなかった。血の気が引いてゆくのを感じた。その場で卒倒してしまいたかったが、周囲には助けてくれる者はいない。当時、人が驚きや悲しみで卒倒することは当たり前にあった。男性の前でその振る舞いをしてみせるのは、自分の何もかもを預ける愛情表現の一つでもあったようだ。ジョゼフィーヌは卒倒の達人だった。しかし、今は卒倒したとて助けてくれる人はいない。
 革命では全てを失った。夫は処刑され、収入は断たれ、家財も失った。結婚をしてくれるのは、当時は無名で小男のナポレオンのような男しかいなかった。ナポレオンは巨大な存在になり、ジョゼフィーヌも同時に高みへと吹き上げられた。金も地位も、新たに手に入れた……しかし今、また全てを失おうとしている。彼を繋ぎ止めなければ。ジョゼフィーヌはよろめく足を正面玄関へと運び、固く閉じられた扉を叩いて哀惜の声を上げた。
「あなた、ナポレオン、どうか許してください」
 最初の言葉は囁くように小さく、しかしやがて、扉を叩いて憐れに喚く、なりふり構わないものへと変わっていった。だが、屋敷から声が帰ってくることはなかった。ナポレオンに届いていないはずがないのだ。もしかしたら、屋敷にいないということもあるのかもしれない。しかし、これはジョゼフィーヌの、一種の演技であった。屋敷にいるならば、やがては扉を開けてくれるだろう。帰ってくるならば、その姿を見たナポレオンは感動してくれるだろうし、帰ってこないにしても後にジョゼフィーヌの振る舞いを聞くだろう。そうすればナポレオンは許してくれる。そのための演技に身を捧げているのだ。
 ジョゼフィーヌにとっては必死のことだった。ナポレオンが戦場で、砲弾に身を晒すのが必死ならば、ジョゼフィーヌにとってはそれにも等しかった。必死に、屋敷にいるナポレオンへ届けと泣き喚いた……それだけが女の武器であったのだ。やがて、雨が降り出した。ジョゼフィーヌは濡れるに任せている。


 ナポレオンは室内にいる。表情は重たく沈んでいる。愉快でいられるはずがなかった。イタリアやエジプトにいる間も恋い焦がれ、当然ジョゼフィーヌも同じだと信じていた。退屈を紛らわすために遊びはすれど、貞淑でいるはずだと。しかし新聞も、兄弟親族も、人々の噂も妻の不貞を言い立てる。もはや紛れもなかった。離縁しなければどうにもならない。同じような裏切りを何度も繰り返すことだろう。
 気分が浮き立つはずもない。しかし、気持ちを錨のように重たく沈めておかなければ、離縁の決意は乱れてしまいそうだった。好きでなければ、むしろ心は乱れるまい。ナポレオンの内側は未だ恋に悶えていた。
「もう浮気はいたしません。私を捨てないでください。あなたの他に頼る方は誰もいないのです。ナポレオン、あなた、どうか……」
 真実ではないだろう。ナポレオンと結ばれたとき、今の栄達を予想していたわけではなかった。一つの諦めであった。今ナポレオンと離れたならば、結婚してくれる若い物好きを見つけて、今ほどの贅沢はできなくともそれなりに暮らすことだろう……しかし、ナポレオンはジョゼフィーヌをまだ誤解している。真実、ジョゼフィーヌが涙ながらに語るような苦難を思い浮かべた。放り出されれば往く宛もなく困窮し流浪するだろうと。果てにはどこかの安宿で男を取るほかなくなるかもしれない。ともすれば娘のオルタンスも同じ道をたどる。息子のウジェーヌ、ナポレオンに付き従ってエジプトへも従軍した義理の息子も、大して出世はできなくなる。苦労するだろう。それを思うとナポレオンはやりきれなくなる。
 室内には、人影はもう一つあった。それは少女の姿をしている。
「嬉しくなさそうですね」
「妻を離縁するという時に、喜んでいられるか。黙っていたまえ、シャイ」
 少女は窓の外を眺めた。唇が歪み、釣り上がる。しかし、そのようなことにナポレオンは気づきもしなかった。部屋には会話はなく、ジョゼフィーヌの哀惜の声ばかりが響いた。ナポレオンはやりきれなく、席を立ち、部屋のあちらからこちらへ行きつ戻りつを繰り返した。やがて泣き喚くジョゼフィーヌの声に、娘のオルタンス、息子のウジェーヌの声も加わった。
 オルタンス、ウジェーヌにとって、母は放蕩好きで、とても褒められた母親ではなかった。だが、これほど泣き喚くのを見て、ナポレオンを実は愛していたのだと思えば、涙が溢れてきて、母が可哀想に思えたのだった。ジョゼフィーヌの涙は全てが嘘とは言わないが、打算混じりであって、二人の子供もまた騙されていた。三十を半ば超えた女が本気で泣きわめく姿にはそれほどの真実味があった。
 ナポレオンは、実の子供ではないにしても、妻の連れ子オルタンスとウジェーヌを可愛く思っていた。ナポレオンの兄弟は皆、ナポレオンの武名を笠に着てナポレオンに要求するばかりで、それをありがたがろうともせず、ナポレオンの地位が高まるにつれてその度合いはひどくなっていった。ナポレオンの兄弟たちの方でも、コルシカの田舎から来た成り上がりと思われるのが嫌で、パリの都会人たちに対抗したいという気持ちがあったのだろう。その一方でジョゼフィーヌは奔放に過ぎている。妻と親類が互いの悪いところを密告しあい、表に裏に争うのは当然のことであった。
 ナポレオンはその争いも、親類も妻も嫌になることがたびたびあった。戦場にいてさえその手の争いは手紙で押しつけられたのだ。オルタンスとウジェーヌは、それらに比べれば、よほど良い子であった。勝手なことはせず、慎ましく暮らし、ボナパルト家の名前を騙って勝手をすることもなく、無邪気で、ナポレオンによく懐いた。
 ウジェーヌはナポレオンがエジプト遠征に行くと聞くと、身の危険も省みず遠征に付き従った。没落してゆくばかりだった母を救ってくれ、またウジェーヌやオルタンスに対して支援もしてくれた。その恩返しをしたいと無心にナポレオンについていったのだ。ウジェーヌは、ナポレオンが行くところへはどこへでも付き従った。自ら、ナポレオンの親族としての義務を立派に果たすべく働いた。あるいは母親の罪滅ぼしのつもりであったかもしれない。
 後に、ウジェーヌはスペインからロシアまで、ナポレオンの遠征に付き従うことになる。ナポレオンの家族たちのうち、彼以上に戦場で働いた者はいない。ウジェーヌは、ナポレオンの良き息子であろうとしたし、ナポレオンを英雄と崇め、自らも英雄でありたいと願っていた。ナポレオンにとってはよほど愛すべき息子であった。そして、ナポレオンにはコルシカの家族観がある。息子たちの良い父親でありたいと思った。
 雨が降り出した。ナポレオンは、遂には扉を開き、妻を迎え入れた。子供たちはナポレオンに抱きつき、ジョゼフィーヌは子供たちに促されて、ナポレオンの胸へと入った。フランス一の寝取られ男は苦い顔をして叱りつけようとしたが、胸で泣く妻はいかにもいじらしく可愛らしかった……ジョゼフィーヌは以後、心変わりしたように夫に尽くすことになる。この一件が身に染みたためか、それともこれ以後のナポレオンが示した立派な振る舞いのためかは分からない。いずれにしろ貞淑ではあったが、浪費癖は治らなかった。
 窓の内側からは、相変わらず少女が覗いている。

 屋敷の外から、その様子を見ている男がいた。ナポレオンを訪ねたが、このような状況では顔を出すわけにもいくまい。フーシェは踵を返し、立ち去った。
 家族か、とフーシェは考える。ジョゼフィーヌの一族、またナポレオンの一族もまた互いにナポレオンのことで得をしている。その権益を自分たちのものにしようと、相争っている。しかし、ナポレオンにとって、本当の家族とはあのようなものではないか。
 ジョゼフィーヌの浮気癖は確かに目に余る。自分ならばごめんだ。しかし、彼女は愛多き女であり、それもまた彼女の魅力なのかもしれない。ナポレオンのような、英雄意識の強い男であれば、そのような妻さえ愛せる自分をこそ望むだろうし、許せない自分をこそ許せないだろう。彼のような男こそ夫たるべき男なのかもしれない。俺の妻が浮気をしていたならば……妻はそのようなことをする女ではないが……それでも、俺でも許すことだろう。男にはそういう度量が必要だ。


 ナポレオンの帰還は情報通の間で噂になり、既にパリへ戻っている、ということが人々の間で知れ渡った。無論ジョゼフィーヌとの愁嘆場も大いに評判になり、語られた。
 有力者たちは彼と面会しようと使いを出し、宮殿はナポレオンを一目見ようと集まった民衆に囲まれた。だが、ナポレオンは館にこもりっきりで、やたらに外に出ることはなかった。ナポレオンが取った行動と言えば、政府へ帰還報告を出したのみであった。夜会や食事会にも現れず、誰とも会うことはなかった。
 何かを企んでいる、と民衆はいぶかしがったが、それを疎みはしなかった。ナポレオンの存在は、何かを変えてくれるものとして、期待と共に受け取られていたのだ。しかしナポレオンは安易に動かなかった。ここで民衆の騒ぎに乗り、人気を狙ってパレードでもしようものなら、政府はすぐさまナポレオンに対して強い処置を取ったことだろう。ナポレオンは目立とうとはせず、館に引きこもった。民衆の気分が変わりやすいこともナポレオンは熟知していた。だが、有力者たちはナポレオンに会いたがり、コンタクトを取り始めた。
 そして、ナポレオンの元へ政府から呼び出しが来た。政府の方でもナポレオンの扱いに困り、とりあえず話を聞いてみよう、と言った様子である。これはナポレオンに対する査問であったが、同時に、政府首脳達の間での政治でもある。国境ではマッセナがロシアを叩いて追い返してはいるが、まだ余力を残しているオーストリアは、フランスへ乱入する機会を窺っている。あらゆる状況が予断を許さなかった。
 ナポレオンは覚悟を決めている。エジプトを離れ、東方遠征を諦めた瞬間は流石に気落ちしたかもしれないが、フランスへ帰る瞬間から、前進が始まっている。フランスを、全ヨーロッパを確保すれば東方遠征の夢も捨てずに済む。総裁政府など恐るべき敵ではない。糾弾される立場とは思えないほど、ナポレオンは堂々と対峙した。
 彼の自己弁護は、エジプトは完璧に統治されている、という一点のみである。代理の司令官がエジプト支配を代行している。一時的にフランスの危機を見て、本土が危うくなればエジプト遠征もおぼつかない。その不安を払拭に訪れたのみだ、と言う。ついでに補給の問題も、できることなら解決する。負けて逃げ帰ってきたのだ、とは絶対に言わなかった。真実ではないが、完璧な嘘というわけでもない。ナポレオンを糾弾する政府要人たちも、苦虫を噛みつぶしたような表情になった。
「しかし、君は帰還報告を受け取ったわけでもなく、勝手に戻ってきた。その事実は変わらないな」
 しかしナポレオンは、そう指摘されれば、何も言い返す言葉はなかった。イタリア戦役の頃は勝手をやった。勝手な進軍、勝手な同盟。それが許されたのは、成果があったからだ。今は何の成果もない。エジプトの宝物も持って帰れてはいない。政府でのナポレオンの立場は良いものではなく、政府の反応は冷ややかであった。バラスは助け船を出さず、シェイエスも沈黙していた。処分は後ほど決められることになった。この状況では、エジプトへ戻ることもできない。そして、ナポレオンは慌ただしく行動を始めた。
 ナポレオンは人と会い始めた。むしろ、周囲の人々が、ナポレオンと会いたがったというべきかもしれない。政府は民衆に遠慮してナポレオンを指してエジプトからの逃亡者とは呼ばず、民衆は勝利者、栄光の帰還者だと騒いでいた。エジプトを離れる直前の勝利もまた、それを裏付けた。民衆の人気は未だナポレオンにあり、そして、人気があるうちに勝利しなければならなかった。政府を打ち倒すためには、即座に行動するほかはなく、ナポレオンは政府の打倒を決めた。元よりヴァンデミエールのクーデターの頃から、政府の文官どもなどと、舐めてかかっているナポレオンである。政府打倒など容易なことだと考えた。
 そうして、ナポレオンはシェイエスやタレーランと、急速に仲良しになっていった。


 一方で、ナポレオンはフーシェとは会おうとしなかった。ナポレオンにとっては責められる事柄ではない。一介の警察大臣に過ぎず、多数の議員たちの一人でしかない……とナポレオンは思っているのだから、フーシェと会おうとしなくても仕方がない。
 ナポレオン帰還のその時から、ブリュメールのクーデターの幕は上がるわけだが、フーシェはあくまで影で、舞台にはけして上がらなかった。のこのこ上がっていって、ナポレオンに全てを預けきってしまうほど単純ではなかった。シェイエスは計算の上に、タレーランは直感をもってナポレオンを信じたが、フーシェは自らの諜報能力を頼った。総裁政府がナポレオン達一味の動向を知っている様子はなく、何一つ活動はしていない。ナポレオン一行の活動は火のように盛んである。フーシェが情報を政府へ持っていったならば、ナポレオン達の運動も無意味になり、ナポレオンは人気のある時を無駄にしたかもしれない。しかし、フーシェの警察省は仕事を放棄し、情報を政府へ届けようとはしなかった。
 ただし、未来においても届けないという保証はない。フーシェはナポレオンを知らない。フーシェからすれば……信用はできないが……届けるべき存在、正邪もしばらく姿を消していた。ナポレオンの側で活動を続けているのだろう。
 フーシェは、ナポレオンと会うことにした。それも、手紙を出すようなこともせず、ただ屋敷へぶらりと訪れたのだ。ナポレオンの屋敷は人でごった返していて、ホールには椅子が並び、面会待ちの商人や議員、富農、作家や学者……あらゆる界隈の有力者が集まっている。使用人やナポレオン夫人のジョゼフィーヌが慌ただしく動き回り、ホールのそこここで話に花が咲いている。……フーシェは使用人の一人にひっそりと来館を告げて、案内されるがまま、椅子に腰かけた。
 ナポレオンは忙しい。フーシェという名前の来訪人を告げられても、どこの馬の骨かと考えてすぐに呼び出しはしないだろう。フーシェは椅子に座ったまま、一時間待ち、二時間を待った。来訪客は途切れず、また、面会待ちもすぐには進まない。会えずに帰る者もいるという。
 フーシェは待つことには慣れている。待つことこそ、自らの演出でもあった。影での影響力を知っている誰かが、ナポレオンと面会をした時に、彼に告げるだろう。そのように計算し、事実、そのようになった。面会者の一人が待たされているフーシェを見、彼を待たせておくべきではない、とナポレオンに告げたのだ。慌ただしく使用人の一人が駆けつけて、フーシェを呼んだ。ナポレオンとフーシェが出会うのは初めてのことだった。
 ナポレオンはフーシェを知らないが、フーシェは知っている。民衆たちの噂も、軍での評価も。しかしその実在を見るのは初めてであった。
「待たせてすまなかった。フーシェ閣下。初めまして。ナポレオン・ボナパルトだ」
 背は低く、痩せていて髪は長髪。意思力に溢れた瞳が、ぎらぎらとあたりを睨んでいる。……というのが大まかな若い頃のナポレオンの相貌評であるが、この時は政治的向きの態度をしていたためか、眼光はいくぶん柔らかかった。しかし、目の前にいる人物がどのような人物であるかを見定めようと、油断なくフーシェを眺めているのが分かった。
 しかも、ナポレオンにすれば、相手は実態の分からぬ相手である。待合場所で佇むフーシェの姿を、ナポレオンに告げた者は一人二人ではないらしい。しかし、実像はなく、どのように優れているのかを詳しく語れる者はいない。その才覚は本物なのか、それとも嘘のものか。本当に優れているならば、失礼をしては、これからの政治にも、クーデターにも差し支えることだろう。ナポレオンは、朝から続けざまに来客を応対していただろうに、疲れている様子も見せなかった。
「ナポレオン将軍、この度は姿を見ることが出来て光栄です。イタリア戦線、そしてエジプト遠征の英雄殿。あなたの働きを見れば、フランス人であればあなたに憧れぬ者はおりますまい」
 通り一遍のお世辞を言うと、くっくっと笑い声が漏れるのを聞いた。フーシェは途端に不機嫌になったが、顔には出さない。いつもの鉄面皮のままだ。ナポレオンも同じく、それに気付いたようであったが、態度には出さない。ナポレオンが椅子を勧め、互いに席に着いた。
「あなたのような立場の方を、このようにお待たせして本当に申し訳なく思っている。あなたのことは聞いた。……警察大臣であり、バラス総裁とも親しく付き合っているとか。そう屋敷の者に伝えていただければ、このようなことはしなかったのに」
 フーシェは黙っていた。表情はなく、言葉もない。ナポレオンはその態度の奥から、何を引き出すべきかに惑った。ナポレオンはフーシェの目的を図りかねている。警察は、ナポレオンの立場からすれば、密偵の親玉だ。そのような立場の者が密偵を送り込みこそすれ、当人がこの場に現れるだろうか。味方にすればこれ以上のことはない。しかし、あからさまにクーデターを口にするべき相手でもない。
「バラス閣下とは、あなたも仲良くしていたようですね。イタリア方面軍の長官に選ばれたのは、バラス閣下の口添えとか」
「ああ。一時はね……しかし、今では嫌われているようだ」
「今はシェイエス閣下やタレーラン閣下と仲が良いようですな」
 ナポレオンが黙る番だった。どのような目的があって、ここに来ているのだ。まさか、口止めのために金を寄越せと言うつもりでもなかろうが。フーシェは無表情を崩し、にっこりと笑った。
「今や将軍の名声は天にも昇らんがごとくです。私も、できることならば、その栄光にあやかりたいものです。以後、親しく付き合えたならば何よりの幸いだと思っています。私の知っていることであれば、何でもお答えしましょう」
 それからフーシェは、すらすらと政府を取り巻く情勢を語り始めた。調教場派、中道派、腐敗派と呼ばれている当時の派閥について……調教場派とは、ジャコバン・クラブを追われ、馬の調教クラブを作って隠れ蓑にしているジャコバン派たち、つまり左派たちのことで、中道派とは右派及び左派にもそれほど偏りのない日和見者たち、そして腐敗派とはバラスを中心に派閥を作る、政治よりも私腹を肥やすことに力を入れる集団のことである。
 ナポレオンに似たような話をした者たちはいる。だが、彼らにも所属する派閥はあり、それらについては遠慮したり、言葉を並べて誤魔化したりした。フーシェは誰の味方でもなく、正直に情報を漏らすことができたのである。シェイエス、バラス、ゴイエをはじめ、デュコーとムーラン、あまり重要ではないこの二人を含めた五総裁の動向についても、予測を含めてであったが、フーシェは親切にナポレオンに教えてやったのである。そして、ナポレオン自ら他人と話し、また話を聞くうえで、フーシェの話した内容を念頭に置いて考えれば、ほとんどが一致していたのである。「この二時間の対話で、要点を簡潔にとりまとめ、フランスと総裁政府の全情勢を教えてくれた。彼以上にパリの情勢を知っている者はいなかった」と、後にセント・ヘレナにて、ナポレオンは語った。
 この会合において、フーシェは穏やかでおとなしく、ナポレオンの風下につくよう振る舞ったことだろう。ナポレオンはフーシェを侮り、このような人物も自分の配下につく、自らの栄光を誇ったことだろう。しかし、フーシェはそれでただおとなしくしている人物ではない。蛇のように振る舞い、牙には毒を持っている。騙されていたと知ると、驚き、憎むが、同時に言いようのない不気味さ、得体の知れなさを感じるものだ。フーシェとナポレオンの不和の種は、出会った瞬間から撒かれていた。
 だがひとまず、ナポレオンとフーシェは出会い、共通の認識を得た。革命期を生き抜き、ナポレオン戦争以後も政府に残り続ける、しぶとい毒蛇のような男。一方で強いフランスを誕生させ、革命の精神を国内に定着させる成果も残しながら、その一方でヨーロッパ全土で戦争を起こし、自他国含め若者の命を無数に散らす男。二つの偉大な魂は互いを認識した。それは同時に、以後十五年に及ぶ共犯関係が結ばれた瞬間であった。
 ナポレオンとしては、ひとまず味方につけておこうという程度の認識であったかもしれない。用済みになれば木っ端のごとき大臣程度、いつでも首をすげ替えられるという程度の認識で。しかしナポレオンは、ワーテルローの敗戦からセントヘレナへ追放されるその時まで、幾度もフーシェを憎み、政府から追放してやろうと思いながら、遂にフーシェを手放せなくなるのである。


 ひとしきりフーシェが話し終えると、ナポレオンはフーシェを眺めた。この男は、どのような目的があるのか。彼はどうやらクーデターに協力に来たようだが、明言は避けていた。態度は親しげであったが、立場は相変わらず不透明なままであった。
「あなたはなんでも知っているようだ。しかし……正直に言えば、それだけの情報を持っていながら、私に知らせる意図が分からない」
「あなたが立たないならば、シェイエス閣下は別の剣を見つけ出すつもりです。元より、閣下にとっては剣は剣であればよく、ナポレオン将軍でなくとも、軍を動かす者であれば誰でもよい。シェイエス閣下は、剣と共に政府を運営するつもりなどありませんから。シェイエス閣下は頭脳、すなわち閣下と、その派閥の者で政府を掌握するつもりでしょうな。軍隊は剣にくれてやる」
「シェイエス閣下の考えそうなことだ」
「しかし、あなたは立つと思った。だからこそ、私はあなたに話そうと思った。それだけのことですよ」
「……まるで、私を立たせるために話したようだ」
「そこまでは。それに、立たないという選択肢もある。バラス閣下に縋り、彼の権勢の下につくのです。国家は変わらないが、あなたは安泰だ。しかし……このような状況で立つのが英雄というものでしょうな」
「あなたの言う事ならば間違いなく思える。……しかし、あなたは、何も知らないことがないような口ぶりだ」
「そうですね」
 フーシェは穏やかに、しかし否定はしなかった。ナポレオンは明らかに鼻白んだようであった。ナポレオンは話題を変えた。
「私の妻のことは知っているかな。彼女の不義理は多いが、あなたならまだ知っていることはありそうだ」
「いいえ。それについては、新聞の方が詳しい。しかし、不必要に書き立てられすぎている部分もある。国民が面白がっているスキャンダルですからな。あまり真剣に受け取らない方がよろしいかと」
「だろうと思っていた。浮気をしていたのは確実だが」
「あなたの妻については新聞は書き立てているが、あなたのご兄弟については、あなたの奥方ほどには書き立ててはいない。あなたの兄はあなたの名前で活動を行い、あなたの弟リュシアンさんはシェイエス閣下へ、あなたを紹介して繋がるつもりでいる」
「何!」
 ナポレオンは黙り込んだ。家族である自分でさえ知らないことをフーシェは知っており、しかも家族はこそこそと自分を利用して勝手に立ち働いている。不快であった。しかし、それを教えてくれるとはどういうことだろう。そもそも、本当かどうかは分からない。しかし、ナポレオンには思い当たるところがあった。しかし、家族への追求は後へ回し、ナポレオンはどうにか笑顔を作った。
「……閣下、あなたは本当によく知っているようだ。しかし、私がエジプトから連れ帰ったアラビア人のことは知らないだろうな」
「いいえ、知っています。素晴らしい剣技の持ち主だそうで。けして、閣下の寝床を離れないとか。名前はルスタムどの」
「閣下、今度こそ私が一本取ったようだ」
 フーシェの知らない事実であった。このフーシェが持っていない情報があるとは。しかし、フーシェは顔には出さなかった。
「ルスタム・レザは確かに私の奴隷だ。しかし、連れ帰った奴隷は二人いるんだ。実は、さっきから部屋に潜んでいる。勝手なやつでね。しかし、エジプトではフランス人には警戒してものも言わないが、同法ならばよく話す。彼女はどういうわけかフランス語を解してね、役に立つこともある。紹介しましょう」
 シャイ、とナポレオンが部屋の片隅、影に向かって呼びかけた。影から姿が現れてくる。綿地のドレスを着ている姿はフランス風だが、銀の髪、小麦色の肌をしている。おそらくは染め粉か何かを肌へ振りかけて、エジプト人のふりをしているのだ。正邪はここでは、シャイとか名乗っているらしい。
 こいつは私の……フーシェの手口を知り尽くしている。身を隠すことなど容易にしてみせるに違いない。ナポレオンと共謀したのだ。私を騙して驚かせるというただそれだけの目的のために。
「初めまして。シャイ、と呼んで下さいね。フーシェさん」
 可愛らしい少女の顔を作って、シャイ、こと、正邪はフーシェに笑いかけた。しかしその貼り付けた笑顔の裏で、げらげら笑ってフーシェを指差しているに違いない。フーシェは、苛立ちと諦めを抱えた複雑な表情を押し殺し、同じく笑顔を作った。
「はじめまして。シャイ嬢。変わった名前ですね。しかし、可愛らしい」
「エジプトではイスラムの教えにまつわる名前をつけるのが普通だが、彼女の名前は古代エジプトの神の名前だそうだ。彼女の家の趣味であるのか、彼女自身の趣味かどうかは、分からないがね」
 こいつ自身の趣味に決まっている。何の神だか知らないが、気取ってつけた名に決まっている。
「よろしくお願い致します、フーシェさん」
 よろしく、とフーシェが応えると、シャイはフーシェへ歩み寄り、手を取った。
「ナポレオン、フーシェさんに用があるときは、私を使い走りにやってくださいな。私、フーシェさんとは気が合いそうだから」
 ははは、とナポレオンは快活そうに笑った。ようやく、フーシェから勝ちを奪えて嬉しそうであった。
 正邪はフーシェの腕を掴んだまま……フーシェ一人だけが、仏頂面をしていた。


 面会が終わると、二人は意識的な共犯関係となった。ナポレオンの活動はますます加速していった。ナポレオンはシェイエスやタレーランと日々協議を重ね、各界の有力者たちを説得して味方に加えてゆく。彼の部下の軍人たちは軍に働きかけ、兵士たちを味方につけてゆく。
 フーシェはどちらの側にもつかなかった。ナポレオンの陰謀を掴んではいたが、それを報告もせず、また、政府中枢の動向も掴んでいたが、それをナポレオンに伝えもしなかった。両方に保険をかけておく。リヨンの虐殺の際にやったのと同じことを、この度もやったのだ。ナポレオンの勝利が確実となればすぐさま駆けつけ味方する。また、ナポレオンの敗北が明らかになれば警察大臣として逮捕する。その瞬間が来るまでは、どちらにも敵と思われてはならない。フーシェはこの頃、二種類のパンフレットを作らせていた。片方にはナポレオンが政府の腐敗を排除し、新政府を立ち上げた、警察としては治安は維持されているというニュースを載せ、一方はクーデターを企んだナポレオンを逮捕というパンフレットである。
 クーデターが終われば、その日のうちにどちらかのパンフレットをばらまくのである。どちらかの勝利が決まったとなれば、その勝利が揺らいではならない。けして許されないよう、民衆を扇動し、起こったことを伝え、負けた側がひっくり返そうと運動を始める前に事実にし、悪者にしてしまわなくてはならない。そしてどちらにしろ警察は素早く動きことを収めたという、有能さを示しておくのだ。
 ナポレオンに対する五総裁の態度はといえば、ゴイエ、デュコーはナポレオン何するものぞと楽観していた。何かを企んだとしても所詮は軍人、政府にとって変わることなどできるはずもない。軍隊を動かせば謀反人だ。政府寄りの軍人たちが黙っているまい。ナポレオンの果断さを知っているバラスは警戒をしているが、何かことを起こすには俺の影響力は必要なはずだ、いざとなれば泣きついてくるに決まっている、と考えている。シェイエスは無言。ムーランについては、資料がなく、さほどの動きをしていた様子はない。
 ナポレオンに警戒するゴイエ、デュコーらはそのことをフーシェに尋ねるが、フーシェは無論何事もないと返事をする。万事念の入っているフーシェの言うことだから、間違っているはずはあるまい、とそれについても楽観している。
 バラスは、その一点においては、疑いの目を向けていた。二股膏薬をかけておくくらいのことは、平気でやるやつだ。バラスには他の五総裁の知らない、フーシェでもない、独自の情報網もある。金で人が転ぶということは、バラスもまた、金を持っているのだ。バラスに味方する有力者もたくさんいるし、その中にはナポレオンのことを漏らすものもいる。
(やつのことを、信用などできるものか。いざとなれば政府を裏切るし、ナポレオンに投じる用意くらいは済ませているに違いない。その影響力は俺が後ろについているからこそだが……しかし、やつは油断できんやつだ)
 バラスはフーシェの尻を掴んでおくことに決めていた。裏切っているならば、そのスキャンダルを突きつけてやる。それに、やつは情報を握っている。自然、情報が集まるならば、やつを見張っておけば集まってくる情報を横取りすることもできる。クーデターの期日を掴んだならば、機先を制してやっつけてしまうことだってできるだろう。もしも、ナポレオンやフーシェ、タレーランといった恩知らずの連中たちが、このバラスの力をあてにせず、放り出そうとするならば、その時は思い知らせてやる。
 ナポレオンの部下たちもまた闇を動き回っている。タレーランもまた、サロンで情報を集めている。テルミドールのクーデター前夜を思わせる諜報合戦が始まっていた。


 闇の中で物事は進んでゆく。ナポレオンの側も、政府の側も、夜のうちに密議を進めていることだろう。両側のスパイも、夜の中を蠢いている。
 互いが互いの情報を求めてうろつきまわっている最中、時には両陣営のスパイを買収して全てを見張るスパイの元締めのような男もまた、闇の中で働いていた。元々勤勉なように人間ができているためか、それとも上がってくる情報を眺めるのが好きなのか、自然と夜まで起きて作業をすることになる。昼間は警察大臣として執務を行う傍ら、姿を変えて市井に潜んでいることもある。
 フーシェのスパイは、国内、国外、首都に地方まで含めて膨大な数に上がる。警察を通じて表のルートで上がってくるだけでも相当数の情報が来るというのに、フーシェはその全てを、自分自身で精査するのが好きだった。この、陰謀を探し出して自分が加わるということほど、好きなことはない。仕事である以上に趣味であり、三大欲求以上の欲望と言って差し支えないほどなのだ。普通の警察大臣ならば現場の判断に任せることが多く、彼自身が判断をするのは政治的に重要な案件に限るだろう。彼以上に警察大臣に向いている者はいなかった。
 正邪は楽しそうにフーシェの仕事を眺め、精査が終わった資料を眺めている。正邪はこのごろナポレオンの家には戻らない。ナポレオンの方でも、正邪を放ったかしているようだ。今はそれどころではないのだろう。
 終わった資料は丁寧に元へ戻していく。そうでなければ、正邪はたちまち追い出されてしまうことだろう。他人と作業を共有するなどはフーシェの好みではないが、正邪がけして他人に漏らさぬであろうことは、フーシェには分かっていた。同類意識というもので、損得で他人に漏らすはずがない。正邪が望んでいることもまた、情報を秘匿し、ギリギリまで待ち、最大の効果が発揮される時に突き出すことで得られる愉悦というものを眺めたいがためなのだ。その愉しみをふいにしてしまうようなことをするはずがなかった。
「フーシェ、お前はどっちが勝つと思う」
「ナポレオンだよ。うまくやるならば、役者はナポレオンの方が上だ」
「それはそうだろう。しかし、ブルジョワはバラスの味方だぜ。清廉でもないし、悪いやつが金儲けのためにあくどいことをやろうが、賄賂次第で平気で見逃すやつだ」
「同じように儲けさせてやればいいだけの話だ。バラスでは、この不安定な状況に対応できないと思っているやつもたくさんいる。商人は機を見るのが仕事だ。バラスが未来永劫儲けさせてくれるわけじゃない。戦争になれば金儲けどころじゃないし、王政に戻るのも冗談じゃないと思っている奴も多いことだろう」
「政府内にも味方は多い」
「今だけのことだ。ロベスピエールのあと、情勢が彼を押しやっただけの、彼の城だ。砂上の楼閣のようなものだから、大波が来たら打ち崩される」
 フーシェは紙片をめくった。シェイエスつきのコックからのもの。シェイエスの馬車は議員なにがしの屋敷へ向かい、ナポレオンと直接面会した模様。ナポレオンの弟リュシアンも同席……印をつけて、重要な書類の棚へ振り分ける。
「個人の欲で言ってしまえば、ナポレオンに勝ってもらわないと困る。バラスは王家にフランスを売り払うだろう。そうなれば、国王殺しの私に居場所はない」
「じゃあなんで、ナポレオンを応援しないんだよ。ナポレオンを勝たせれば恩が売れるだろう」
「ナポレオンが負けてしまえば、意味がない。それならばバラスの下で権勢を保ち、別の機会を待つほうがましだ。シェイエスにはシェイエスなりの勝算があるのだろうし、ナポレオンにはナポレオンなりにある。だが、私から見れば、充分とは言えない。何しろ、私が一言バラスに囁けば、明日にも逮捕できてしまうのだから」
「それも面白いな」
 正邪は資料を読み終わり、椅子に深々と身を預けた。
「そうでもない。ナポレオンに心を寄せる軍人はたくさんいるから、彼の私兵と化してパリに進軍してくるかもしれない。民衆に被害が出る」
「お前が気にすることか」
「一応それが責務なんだよ。お前は忘れてるかもしれないが、市民は守るべき対象だ。クーデターをやるにしろ、安泰に終わればそれ以上のことはない」
 正邪はにやりと笑った。にやにやとフーシェを眺めて楽しげに笑った。
「面白いことを言うな。安泰なら言うことはない、だと。陰謀を誰より望んでるくせに。革命は、ある意味一番楽しい時期だったんだ。それを忘れられないんだろ、え」
 フーシェが内側に秘めているものを、正邪が知らないはずはない。会話そのものを、追及を楽しむように正邪は笑った。フーシェは政治人たる振る舞いを身につけている。それが正邪には不愉快であり、同時に面白いことであった。
「革命の時には、機織りをするみたいに、ギロチンの音が鳴った。民衆は熱狂し、誰も彼も、観客ではなくて主役になりたがった。あれは人生の大イベントだったんだ。いや、世界史上の大イベントだ。生きてるうちに二度とない。以後の歴史でも二度とないかもしれない。今舞台の上にいて、今舞台は進んでる。それも、どこか自分達の関係ないどこかで、偉い奴が済ませてるんじゃなく。自分たちの舞台だ。自分たちが駆け上がっていっていい舞台がそこにある。みんなそう思ったんだ。その波に乗らずにはいられない。革命があり、反動があって、ひとまず平和にはなったが、まだ不満があるやつはいっぱいいる。火種はいくらでもある。外国は革命政権を認めちゃいない。まだ何かある。いや、何かしら起こって欲しい。革命が起こって欲しいんだろうが」
「……私は平和主義者だよ、正邪」
「そうかよ、散弾乱殺者様」
「誰もがそうだ。ギロチンにかけろ、と議場で喚いている議員たちも、実際にギロチンにかけられるのを眺めたいやつなんて一人もいない。自分の言葉でギロチンへ連れて行かれるなんて、想像もしたくない。誰かが、自分に同じことを言って、同じように連れて行かれることを許容することになる。ギロチンにかけろ、と言うときは、いつもその言葉に、自分自身がどきりとしているんだ。それほど恐ろしい言葉だ。しかし、ギロチンにかけられる人間は減らなかった。時代がそれを望んだんだ。暴力は蔓延しているからね。ロベスピエールは誰よりも、政敵をギロチンへ送った人間だろう。だが、誰より暴力を嫌っていた。その彼でもそうせざるを得なかったんだ」
 フーシェは道理を語った。それは事実ではあったが、同時に誤魔化しでもあった。自分自身、認めるわけにはいかないことだ。フーシェは嘘をついている。正邪にそれが通用するはずもない。フーシェにしては珍しく、長口上になった。正邪もまた珍しく口を挟まない。
「九月虐殺を知っているか、正邪。国王が処刑された頃だ。オーストリアの軍勢が国境へ来るというとき、民衆の間に恐慌が走った。オーストリアやイギリスに荷担するスパイ、つまりは王党派のことだが、そいつらが町民に紛れていて、敵軍の手引きをしてパリへ敵を入れる、という情報が出回ったんだ。デマかもしれないし、将来的には事実になったかもしれない。だが、その時点では事実ではなかった。民衆は暴徒と化し、牢へ集まると、その場で自分たちで裁判を行って囚人たちを絞め殺したり、刺し殺したりした。市民軍は群衆を抑えるどころか荷担した。その夜のうちに千人以上が死んだ。その虐殺の引き金になるような演説をしたダントンは、政治に嫌気がさして、その後別件でロベスピエールに指弾された時、ろくな抵抗もしないままギロチンに上がった。ダントンの力ならば民衆を束ねて暴動を起こすこともできただろう。追及するロベスピエールは暴力を嫌っていたし、ダントンだって嫌っていた。だからダントンは罪の重さを知って死んだ。ダントンは死に際には、ロベスピエールに『次はお前だ』と言った。ロベスピエールもそういう死を迎えると思っていたんだろう」
「お前もそうなるよ」
「私はそうはならない。生き延びるためならば、私はなんでもやる」
「本音が見えたな!」
 正邪は、声を張り上げた。朗々と声は響いて、いかにも嬉しげだった。フーシェは聞こえなかったように続けた。死にたくないというのは本音だ。死を避けるため、ロベスピエールをギロチンへ送るほかなかった。ロベスピエールがギロチンの下へ落ちた時、フーシェは心の底から安堵したのだ……それが自分の器、自らを死に投げ込むことを厭わない英雄の器ではけしてない、臆病者、小物、一般人の魂だ。そのことを、フーシェは内心では恥じている。
 フーシェは熱くなったことを後悔した。一瞬の熱は、しかしもう冷めている。続けて出た声は、それまで同様冷静だった。
「私はリヨンでのことを否定するつもりはないよ。必要だと思ったからやった。だが、やらなくてよいのならばやりたくはない。今回のことも、勝った側が、負けた方をギロチンにかけると言うならば、私は助命を願い出る。政治が、暴力で歪められることがあってはならないんだ。革命の時はそういうことが必要だった。そういう時代だったんだ」
「どうでもいいことを言うな。私はお前の熱を知りたいんだ。楽しみなんだろ、クーデターが。どうやって眺めていようか、最前列はどこか。人員はどのように割くべきか、そしてその結果他人が慌てたり、パニックになったり、怯えて助けを求めて走り回ったり……権力なんて形のない代物を握っている奴が、その後ろ盾を失って慌てふためく、そのことが楽しみなんだ。それだけ言えばいいんだよ」
 フーシェは無言であった。付き合い切れないと、背を向け、再び書類へと向き直った。無言とは時に、雄弁に言葉を語る。正邪は心地よさそうに鼻歌を鳴らしている。妖怪というのは、存在が肯定されるときにはいきいきとするものだ。正邪にとっては、人の翻心というものが、実に生き甲斐で精気そのものなのであった。
 窓が小さく叩かれて、開かれた。外から紙片が飛び込み、床へ落ちた。フーシェが開くより先に正邪が拾い上げ、読み上げた。
「『フーシェ閣下の屋敷外に潜んでいたバラス閣下のスパイを買収した、後日フーシェ閣下と面会するとのこと』…………」
 正邪は書類をひらひらと振った。フーシェは手を振って見せた。捨てておけ、というようなアピール。
「順調ですな、フーシェ閣下。あんたを疑っているのはバラスくらいだが、それも相手にならないようだ」
「それは間違っているよ、正邪。その情報は間違いだ。この、バラス閣下の下についているスパイとは、元々私の放った密偵だよ。バラスの下にいるからと言って、そのまま私の敵ということはない。この情報を寄越したスパイはそのことを知らないんだ。しかし、彼が勤勉であり、バラスの元にいる密偵は疑われていないということもわかる」
「はああ。そういうやり方をするんだな。誰も彼も、あんたの支配下か……勉強になるぜ。しかし、順調でいやになるほどだ。このぶんじゃ、ナポレオンのクーデターは成功することだろうぜ」
「面白くないか?」
「少しな。クーデター会場に行っても、あんまり大人しく過ぎるようじゃ楽しくない」
「では、食事会でもしようか」
「食事会だと?あんたらしくもない。そんなこと、楽しくも何もないだろ」
「そうかな」
 クックッとフーシェは笑った。何かを考えているようだが、その様子は、正邪でさえ気味悪くなるような表情と声だった。蛇そのもののような陰気さが、湖の底から沸き上がってくるような静かさで部屋に満ちた。


 バラスが執務室にいるのは、たいてい、秘密の文書を眺める時に限られる。一人で静かに仕事をすることとは無縁の男だからだ。バラスの仕事は、夜会や食事会で、他人と話すことによって進展することが多い。交流の場で、力関係のバランスが計れることもある。しかし、それで分かるのは表の関係だ。バラスのいない場所で、どのように他人が関係を構築しているかを調べるには、裏の仕事をする人間がいる。
 陰謀を企んでいる、という情報はいくらでもある。どれもこれも噂に過ぎず、それらを一つ一つ真に受けていてはきりがないし、仮に問い詰めたとしても、証拠がなければ誤魔化されておしまいだ。バラスにとって、今必要なのは、政権転覆を狙っているという証拠だった。
 あくまでことは秘密裏に運ばなくてはならない。陰謀を語り合っているその場へ踏み込むにしても、兵を集めるのも、動かすのも秘密裏にやらなくてはならない。しかし、バラスは楽観していた。手元には二つの報告書がある。フーシェからの市内の治安に関する情報、そしてもう一方は、フーシェの家に張り付かせていた部下からの報告だ。フーシェからは、『市内に陰謀の気配はなし』と報告が上がっており、部下からは、フーシェの家の小間使いから入手したというフーシェの手書きのメモが来ていた。市内での犯罪を調べたもので、確かに、強盗や酔っ払いの喧嘩などの小さな事件はあったが、政治的な犯罪についての情報はなかった。
 フーシェは信用できない。しかし、今のところは嘘をついていないようだった。タレーランやシェイエスが何やら動き回っているのはわかる。しかし、すぐさま政府の転覆という話でもないとバラスは解釈していた。バラスは机へ資料を放り出し、背もたれに身体を預けた。椅子へと体重がかかり、軋む音がした。テルミドールを越えて以来、バラスも肥えた。
 何かを企んでいるにしろ、結局のところ、このバラスに頼らずには何もできるまい。政府の大半はバラスになびいている。これまで、うまい汁を吸ってきた連中だ。今更手を切ることもできまい。
 執務室にノックの音が響いた。資料を机の中にしまい、「入れ」と声をかける。扉を押し開けて入ってきたのはフーシェだった。一瞬どきりと心臓が脈動する。何でも知っているやつだが、もしや。机の中に仕舞ってあるメモのことを……。
「何の用だ。今週の報告は済んだだろ」
「招待状です」
「招待状? 誰のだ。というか、なんでお前が持って来るんだよ」
 くっくっとフーシェが笑う。
「何がおかしいんだよ」
「いいえ、何でもありません。私からの紹介状ですよ。食事会のお誘いです」
「お前から? 嘘だろ、冗談も大概にしろよ。お前、大丈夫か? 疲れてんのか。そういうことするやつじゃねぇだろ」
「いえ、本気です。バラス閣下には是非参加して頂きたく、私自ら持ってきました。……何しろ、バラス閣下を誘うのは初めてのことですから」
「ああ、そういやそうだ。うちで何かをやる時には誘ってやったが。お前が来ても面白くなかったけどな。隅っこで黙って座ってるだけだし。というかそもそも、お前がこういうことをするのを見たことがない。お前、こういうの好きじゃないだろ? 珍しいこともするもんだな」
 バラスは全く、逆立ち歩きをするトカゲを見たような心持ちで、フーシェの持ってきた便箋を裏、表とひっくり返して眺めた。
「お前、なんだ。……ずいぶん人間らしくなったもんだな。お前は誰とも遊ばなくても、一人で充分なんだと思ってたよ」
「そう思えますか。私はおそらく、閣下が思っているよりも、人好きですよ」
「今日は冗談ばかり言いやがる」
 バラスは呆れたように言ったが、しかし、それも面白かったらしい。口元に笑みを作って見せた。フーシェは全く信用できず、しかも酒も女もやらず、暗く、面白みのないやつだが、それでも古い朋友だ。
「行ってやるよ。いつだ」
「三日後の夜」
「ああ、分かった。空けておく。いい飯と酒を用意しておけよな」
「タレーラン氏のコックには及ばずとも、出来る限りの晩餐を用意しますよ」
 恭しく礼をして、フーシェは立ち去った。食事会とはのんきなことだ。情勢も知らずに……情勢を知っているからこそ、結びつきを強くしようと会合を行うやつはいる。しかし、フーシェはそういうタイプじゃない。
 しかし、フーシェがのんきに食事会なんてやってるところを見ると……と、バラスは考えた。パリは本当に平和なのかもしれないな。実際、ナポレオンが帰ってきても、何事も起こる気配もない。


 ナポレオンは忙しく立ち働いていた。しかし、さほどの危機感があるわけではない。
 市民を相手に、市街で砲撃戦をやったヴァンデミエールのクーデター以来、ナポレオンは議員というもの、政治家というものを完全に舐めてかかっている。どいつもこいつも、革命の混乱期に椅子に座っただけのやつだ。
 この時期のナポレオンは運が良かった。対外戦争は激化し、政府は腐敗し、民衆も政治家も変転を望んでいる。その一翼を担う将軍として選ばれた。自分が国を救うべきだと、ナポレオンはやる気でいる。意思の塊とでも言うべき推進力を持ったナポレオンだが、この時点では、見通しの甘い部分があったかもしれない。彼自身に能力があったためか、他人を低く見る悪癖があった。
 ナポレオンの見通しの甘さの一つは、議会へと兵隊を入れないと決めていたことにある。五総裁の辞任、議会の解体というクーデター上の過程において、露骨にクーデターに反発しそうな議員は事前に排除する手立ては組まれていた。しかし、それでも、政府の解体に反対する議員は出るだろう。それらをどう処理するべきかという点について、シェイエスは兵を入れて強制的に放り出し、残った議員で承認を行うつもりでいた。
 しかし、それでは軍を動かしたナポレオンが一人悪役になる。後にそれを理由に、政府から追い出す心積もりのようにナポレオンには思われた。それで、シェイエスの案を退けて兵を入れないことに決めた。反対する議員に対しては、ナポレオンが演説して説得をすると言うのである。シェイエスは、ナポレオンの演説の能力というものに、いささか疑問を持った。戦場で兵に対する演説はやったかもしれないが、議会での演説の経験というものは皆無であった。結局、緊急時は兵を入れるということで、その話は落ち着いた。


「将軍、フーシェさんからお手紙です」
「ありがとう、シャイ」
 ナポレオンの前では、正邪はエジプト人奴隷の顔をしている。白人の多いフランスではあるが、ハイチを植民地に置くフランスでは黒人奴隷もおり、少数ではあるが中国人などアジア系もいた。珍しいことには変わりないが、アジア人を見たことがないというほどではない。加えて、ナポレオンが連れて帰ってきたもう一人のエジプト人、ルスタムと違い、ほとんど人前には出なかった。正邪がナポレオンの隠密であることを知る者はほとんどいない。異国人がナポレオンのスパイであるというのは誰も考えず、であるからこそ有用だった。フランス語が分からないふりをしていれば、内密な話を正邪の前で話す者もいた。
 ナポレオンは忙しく人と会っていた。陰謀ではない会合はないと言ってよい。パリでは毎日のように夜会や食事会が開かれていたが、ナポレオンにとってそれは密議の場であった。フーシェからの手紙を見た時も、それが陰謀だと思い込んでいた。
「妙だな」
 しかし、手紙に書かれている文句は、ただの食事会への誘いだった。
「シャイ、フーシェ閣下からは何か言伝はなかったかね。……ない? 何も?」
「はい、将軍。食事をして親睦を深めたいということでした」
 なんとも気抜けがした。ただの食事会とは。しかし、行かないわけにも行かなかった。警察がクーデターの邪魔をしてくることはなく、クーデターを知りながら見逃していることは明らかだ。しかし、その警察の長、フーシェはいかにも得体が知れない。
 彼を調べたが、バラスと似たような日和見議員で、特別秀でたところはないように見える。有能な官吏ではあるが、それだけだ。推察する能力には長けているが、ナポレオンが見る限り、大それたことができるようには見えなかった。しかし、何かを企んでいては厄介だ。ナポレオンは沈思し、シャイを呼んだ。
「シャイ、フーシェの館を探れ。食事会の場で何かを企んではいないか、探りを入れてきてくれ。何かを聞き出せるなら助かる」
「仰せの通りに」
 正邪は答えると、姿を消した。エジプトにいた頃から、正邪はナポレオンの隠密の長のようなことをやっていた。フランスに来てもナポレオンの役に立つよう働いた。
 それもその通りで、正邪はフーシェ式のやり方を学んでいるのだ。むろんその本家であり、警察組織をバックに持つフーシェとは比べるに及ばないが、それでも個人としては充分であることには変わりがない。ナポレオンは、正邪ならば、フーシェの秘密を握るのではないかと期待していた。
 しかし当然のことながら、正邪とフーシェとの繋がりのことを、ナポレオンは知らない。フーシェとの企みのことを、ナポレオンに漏らすはずがない。それが正邪にとっても実に楽しい催しならば尚更。


「ナポレオン将軍、ようこそお出で下さいました」
 フーシェは自ら、恭しくナポレオンを出迎えた。うん、とナポレオンは応え、あたりを見渡した。計画の話し合いでもない集まりは久々のことだった。
「みなさんお待ちですよ。来ていただけないのかと思いました」
「そんなに遅れたかな」
 フーシェの案内で食事の間へと通されたナポレオンは、馴染みの顔が並んでいるのを見た。シェイエス、タレーラン、弟のリュシアンに、軍隊の説得を続けている腹心のベルティエ……。
(というか、全員クーデターに絡んでいるメンバーじゃないか!)
 今挙げた名前の他にも、その場に並んでいるどの顔を見ても、クーデターの計画に絡んでいない者はいなかった。みな怪しんでいる。しかし、それを口には出せない。屋敷の主であるフーシェは直接クーデターには関わっていないのである。
 ナポレオンは直感的に、兵士を探した。部屋の隅に警備の兵士が立たされている。まさかあれだけで逮捕はするまいが、外は既に兵士が取り囲んでいて、フーシェの合図を待って駆け込んでくるのではないか……テーブルを眺めていた面々にとっては、一秒一秒が実に長く感じたことだろう。
 再び、靴音が響いて、最後の客がやってきた。みな、そちらを見て驚愕した。それはバラスであり、連れ合ってやってきたゴイエなのである。そんなバカなことがあるか。クーデターをやらかそうという連中と、打ち倒されるべき政府の首脳がそこにいるのだ。「遅くなったなあ」と、バラスはのんきに椅子に座った。長老席である最奥の席である。
 食事会が始まった。フーシェのそう広くも豪勢でもない屋敷の広間に、食事が次々と運ばれてくる。パリで最も豪奢な食事会に参加している面々からすれば、フーシェの屋敷の食事は一段落ちる。だが、バラスとゴイエのほかは、味も分からなかったに違いない。
「なあ、フーシェ。近頃パリは静かだな。何か犯罪の兆しはないのかよ」
 バラスがそう問いかけた時、居並ぶ客たちのナイフが一瞬止まった。いつ、犯罪を告発されるかと気が気ではない。フーシェは答えた。
「いいえ、閣下。平穏なものです。噂はあります。クーデターの下らぬ噂……しかし、あくまでも噂です。もしも、噂が本当であれば、今にも革命広場でその証拠をお目にかけましょう」
 革命広場の冷たいギロチンのことを、そしてその刃が日々音を鳴らしていた革命の日々のことを、誰もが思い出したことだろう。断頭台の上へと送られることを、誰もが想像したことだろう……。
 兵が入ってくることはなかった。バラスは一切疑っていない様子であった。食事会は進み、やがて終わっていった。みないそいそと、逃げるように食事会を辞していった。果たして、クーデターを企んでいるナポレオンたちを脅かしていたのであろうか、それともバラスらをいたぶっていたのか? 無言の脅しなのか、自分の実力を知らしめておこうというデモンストレーションなのか。
 フーシェは無表情に座っていただけだった。ナポレオンは重苦しく、一方でバラスは割合に上機嫌であった。革命というものが、倒す者と倒される側、一つのテーブルについている。フーシェはそのような状況を作り出し、眺めたかっただけのことかもしれない。テーブルの下では、一匹の子鬼がうずくまって、にやつき、その場の雰囲気というものをたっぷりと味わった。


 1799年11月8日。ブリュメールのクーデター前日。ジャコバン派の暴徒が議会に襲撃をかける計画を、一人の議員が事前に入手した。難を避けるため、議会をチュイルリー宮殿から一旦サン・クルー宮殿へ移すとの提案が可決された。その際の議場警備はナポレオン将軍に委任される。
 暴徒による襲撃計画は無論デマである。クーデターの用意はこれで出来上がった。市内から市外の宮殿へと移ることによって、民衆や市民軍が議会を襲うのを避けることができる。あとはこの夜のうちに五総裁を辞職に追い込み、明日の議会で新政府樹立の案を議会で通過させる。
 この夜、ナポレオンは総裁ゴイエを自宅に招いた。シェイエス、デュコーはすでにクーデター側の陣営にいる。残るはバラス、ゴイエ、ムーランの三人。誰かを辞任させ、三対二で総裁政府を崩壊に導かねばならない。ムーランもまた、別の議員の家に招かれている。ゴイエ、ムーランがそれぞれの屋敷へ招かれるとともに、ナポレオンの部下が兵を連れ、それぞれの屋敷を取り囲んだ。仮に辞職を拒んだならば、誰かが根を上げるまで閉じ込めておかなければならない。
 ゴイエは実のところ、ナポレオンを怪しんでいた。フーシェもだ。ナポレオンの部下たちがパリを走り回っている。一方ではジャコバン襲撃の噂があるというのに警察大臣は報告もしない。一方で報告もされていないジャコバンの襲撃予告で議会が移されるという。ゴイエは不満だった。
 しかし、それは明日以降のことだ。ナポレオンの夕食会に誘われたとなれば、ジョゼフィーヌに会うことができる。しかし、ゴイエはそれが間違っていたと気付いた。シェイエス派の議員が数人いて説得をしかけ、ナポレオンは露骨に脅しをかけてきたからである。
「冗談ではないぞ! ナポレオン、貴様、忘恩の輩め。やはり貴様は犯罪者だったな」
「しかし閣下、明日には全てが変わるのです。ここらで折れておく方がよろしいのではありませんか。あくまで拒むとなれば、あなたを逮捕させるしかなくなります」
「逮捕……逮捕だと。面白い。ならば、警察大臣を呼ぼう。私を逮捕する理由がどこにあるのか、教えてもらおうじゃないか。おい、警察大臣へ使いをやってくれ。私の秘書を呼ぶんだ」
 しかし、誰もゴイエに答える者はいなかった。
「誰もいないのか。ならば、私自身が行く。馬車を用意させろ!」
「閣下。しかし、閣下に従う者は、もはや誰もいないのですよ」
「馬鹿な。貴様らごとき犯罪者どもにフランスを明け渡すものか」
 犯罪、どちらが犯罪だ。国家を危機に陥れた貴様らの方が、よほど犯罪者ではないか。「閣下をここからけして出すな」ナポレオンは諦め、兵士を残したまま、部屋を辞した。


 ゴイエ、ムーランの分断には成功したが、二人とも辞職は断固拒否した。こうなれば、バラスを説得するほかはない。バラスの元にはタレーランが向かっていた。その頃バラスは怪しんでいた。クーデターや犯罪の噂にではなく、夕食だというのに誰も尋ねてこないからである。
「おいおい、今日はどうしたんだよ。全員遅刻か?」
 バラスは食事会の席について、招待した有力者たちを待っていた。一人二人来ないならともかく、招待客が皆来ないというのはおかしいことだった。それもそのはず、バラスの屋敷の門前に詰めたナポレオンの部下によって、門前で帰らされていたのである。知らないのは邸内のバラスだけだった。
「市内じゃ大規模なテロがあるかもっていうし、それかな……しかし、一人は寂しいぜ」
 ようよう、一人の客が訪れた。それは、招かれざる客であった。タレーランはバラスの前に歩み寄った。そして、バラスの前に一枚の書面を置いた。辞表である。署名覧のみが、空いている。
「……おい。何だよ、こりゃ」
「見た通りです。サインだけをすれば良いようにしておきましたから。後のことは、私に任せて下さい」
 なんてこったよ。こいつがこんなことをするとは。バラスは顔を上げてタレーランを睨んだが、毛ほども気にしていない。
「貴様、タレーラン。アメリカから帰ってきた時、俺が出迎えてやらなかったら、貴様はどうなっていたか。亡命した売国奴としてギロチン送りでもおかしくなかったんだ。今からでもそうしてやろうか」
 口ではそうタレーランに噛みついたが、内心では終わりだな、と感じていた。タレーランは有能だ。自らやってくるからには、何もかも手続きは済んでいるに違いない。タレーラン、この忘恩野郎。ナポレオンもそうだ。軍隊をクビになりかけ、貧乏生活をしていた浮浪人が。フーシェの野郎も裏切ったのか? 裏切ってるだろうな。奴がこの動きを知らないはずがない。表も出歩けない身分だったやつを使ってやり、小遣いもくれてやったのに。クソッタレ、俺が助けてやった野郎ども。俺の人を見る目がないのか、それともこのあたりが潮時ということなのか。
「クソ。ペンを持て」
 バラスは、近くのメイドに手を差し出した。その手に、メイドがペンを置く。ちらりとバラスはメイドを見た。見たことのない、アジア系の顔をしたメイドだ。こんなやつ、雇っていたかな。まあいい。
 バラスはさらさらとサインをした。俺なしでクーデターなんかやりやがった。バラスは肩を落とし、やり込められてしまったと落ち込んだ。しかし、これまでやってきたことだ。テルミドールの日、ロベスピエールに対してやったことだ。ここで意地を張って、民衆やら市民軍やら市の自治会に頼ろうもんなら、それこそギロチン送りになる。ここは大人しく再起を待つほかはない。タレーランは去り、バラスは残された。
「あばよ」
 その肩を叩く者がいる。バラスは顔を上げたが、そいつはもういなかった。メイドの服を一瞬で脱ぎ捨てた正邪は、タレーランを追った。片足を引きずって歩くタレーランにはすぐ追いついた。
「おい、報告はあげておいてやるぜ。ナポレオンとシェイエスのところだな」
「ん? 君は誰だね」
「フーシェのスパイさ」
「奴め。どこにでも潜んでいるやつだな。……好きにするがいいさ」
「あんたもなかなか、面白そうな顔をしているな」
 フーシェの名を聞くだけでも気分の良いものではないのに、小娘はやたらと生意気であった。しかし、奇妙に好ましく、タレーランには思われた。タレーランは物事を直感で処理する。その娘に感じた好感というものは、理屈のつかないものであったが、理屈のつかないものは彼の好みであった。


 1799年11月9日(革命暦8年、霧月18日)、ブリュメール18日の夜が明けた。夜明けと共に、朝靄の中、パリ郊外では軍隊が動き出した。その先頭に立ち、指揮を出すのはナポレオンである。
「進め!」
 ナポレオンの命令の下、軍隊が動き出す。その任務とは、サン・クルー宮殿の警備である。表立った理由はジャコバン派の襲撃の予防であり、当初はチュイルリー宮殿を目指す彼らが、サン・クルー宮殿へと目標を変えて集まってくる可能性がある。しかし無論本当の理由ではない。本当の理由はクーデターに反対する議員に圧力をかけておくことである。場合によれば突入鎮圧の可能性もあった。
 クーデターの第一歩は議会を移すことであり、それは既に昨日のうちに終わっている。パリ市内の宮殿では、クーデターがあるということはすぐに市民に知れるし、市民がそれを知れば暴徒と化してクーデターを妨害に来るかもしれない。サン・クルーは郊外にあり、パリの城門を閉ざしてしまえば、議員と民衆を切り離すことができる。
 五総裁の辞職は済んでいる。バラスは転び、ゴイエ、ムーランの幽閉は済んでいる。議会の成り行きで音を上げざるを得ない。残りは、新しい政府の設立を認めさせるだけだ。この段階において、シェイエスは議場に兵を入れる軍事クーデターを提案したが、ナポレオンははね除けた。よって、サン・クルーの議場にいる議員たちの説得は、ナポレオンの一手にかかったのである。
 シェイエスにとって、ナポレオンはクーデターを実行する傭兵のはずだった。クーデターのあと軍隊は任せるが、政治の場には招待しないつもりだった。ナポレオンは、それだけでは足りないと考えていたのである。ただの軍人で終わるのはまっぴらだ。自分も政権に加わる……いや、自分一人でクーデターを起こしたがごとくに民衆にアピールしたい。そのためには、議会で演説し、弁舌で説き伏せたなど、絶好のアピールになるではないか。
 シェイエスにとっては、不安でたまらないことだった。説得できなければどうなる? 唯一の慰めは、ナポレオンの弟であるリュシアンが、兄にできなければ、自分がなんとしても成功させてみせる、と言ってくれたことだけである。それにしても不安だ。一端紛糾してしまえば、議会を抑えることは難しい。恐怖政治で革命初期の有力議員たちは消えたが、それでも革命の嵐を生き延び、恐怖政治を生き延びて、バラスにも付き従ってきた権力のバランスを眺めることには長けた連中なのである。二日、三日と粘ることも不可能ではないし、仲間を呼びに市内へ走る連中も出るかもしれない。
 結局は、軍を入れることになるのではないか。クーデターについて悪印象を持たれなければいいが。ナポレオンは兵の心を掴むことには長けているというが、議員と議会も同じだと考えているのか?


 一方、フーシェは何をしていたのであろうか。いまクーデターが行われようとしているこの時、警察大臣は何をしていたのか?
 フーシェは、ベッドで寝こけていた。警察大臣となって、一度も寝坊のしたことのないこの男は、クーデターのその日に限って昼間まで寝ていたのだ。パジャマを着、ナイトキャップを被ったまま、ベッドでまどろんでいたのだ。しかし、その手には、フーシェの手足たちが運んでくる報告の紙束があった。その姿は、テルミドールのクーデターの時と変わらない。いざことが起こっている時には、自分はどの陣営とも関わりがないと示しているのだ。ベッド脇には正邪が座っている。報告書を勝手に眺めている。
「ナポレオンは布陣。議員たちにサン・クルーへの招待状は配られてる。そろそろ議員が集まり、議会が始まる頃だ」
「面白くなってきたか?」
「それはあんたもだろうが。頬、にやけてるぜ」
 フーシェは口元に触れた。歪んでなどいない。正邪にからかわれたのだ。しかし、フーシェの心の内側は、邪悪な笑みで彩られている……正邪に気取られたかと、フーシェは心を引き締めた。
「まずはどうするんだ?」
「議会からの連絡を待つ。議会が始まれば、城門を閉ざす」


 誰からの命令か……警察の手によって、パリの城門は全て閉ざされた。市民も、軍人も、政府の要人であろうが、全て連絡は閉ざされたのである。連絡を絶ってしまえば、サン・クルーで何かが起ころうと、議員は市内へ走って応援を頼むこともできない。
 しかしそれは表向きの理由に過ぎない。フーシェにはもう一つ個人的な理由があった。自分一人が情報の全てを握るということだ。議員、あるいは民衆の往復だけでなく、情報網さえ遮断する。自分の手の者しか通さない。議会とパリを遮断すれば、誰も議会で起こっていることを知るものはいない。それをやるのは俺一人だ。これほどに楽しいことがあるか。
 クーデターはほぼ成功と言っていいかもしれない。しかし、全員の議員が大人しく従うわけはない。ナポレオンがあくまで兵隊を議場に入れることを拒んだならば、いつまでもパリの城門を閉ざしておくわけにはいかない。情報は必ず漏れ、やがてはサン・クルーへ民衆が暴徒と化して駆けつけるだろう。ポケットにナイフかピストルを忍ばせ、ナポレオンを討つ議員もいるかもしれない。可能性は少ないが、けして失敗はないとは言い切れない。
 フーシェはここに至っても、ナポレオンやシェイエス、クーデター側の支持ではなかった。あくまで自分一人、中立のところにいた。負ける側につくわけにはいかないのだ。


 フーシェの想像は当たっていた。議会は紛糾していた。この頃のフランス議会は、元老院(上院)と五百人会(下院)の二院制を取っている。フランス革命当初の一院制では、ロベスピエールの独裁の再来を招く可能性がある。ロベスピエール以後、議会は二院制を採るようになった。ナポレオンはその両方を納得させなければならないが……。
 元老院では、五百人会から上がってきた議題を決議する。しかし、五百人会では新政府樹立についての議論が紛糾しており、元老院へ上げる決議を取るところではなかった。元老院の議員たちは手持ち無沙汰であった。元老院はシェイエス、リュシアンによって大半の議員は買収されており、さほどの混乱はなかった。しかし、クーデターを知らされていなかった元老院の議員たちも、何が起こっているかに薄々勘付きつつあった。
 ナポレオンはまず、元老院に向かった。五百人会はジャコバン派も多い。彼らは革命当初の理想、革命の成果としての憲法を守ろうとしていたため、激しい論議を重ねていた。荒れている方より、抑えやすい方からと考えたのであろう。ナポレオンは行動の人でもある。一人じっと座っていることに耐えかね、単に動きたくなっただけかもしれない。ともあれ、ナポレオン自身が姿を現して説得すれば、議員たちもたちまち納得してくれるだろう、と、ナポレオンは考えた。議員などは暴力に怯えるばかりの、大したことのない連中だ。ナポレオンの脳裏には、両手を上げてナポレオンを歓迎したヴァンデミエールの日の議員の姿がある。
 ヴァンデミエールの時は、バラスを始め議員たちはみっともなく慌て、ナポレオンを呼び、ナポレオンがクーデターを解決したあとは、神のように崇め立てた。そのような連中だ。自分が姿を現せば、あっという間になびくことだろう。
 ナポレオンはイタリア戦線の英雄であり、エジプト方面でも一応勝ち戦を最後に引き上げてきているのだ。それに、軍で兵士を前に演説をすれば、誰もが歓声を上げたものだ。ナポレオンは自らの弁舌で納得させられると思い込んでいた。
 しかし、それは全くの間違いであった。先に言ってしまえば、元老院でのナポレオンの演説は、見事に無様な代物となった。そもそも兵士は無学で、しかも飢えて展望もなく、命令されて動くものたちであり、戦争に勝ちさえすればそれで良かった。ナポレオンの演説が全く効果がなかったということはなかろうが、結局はその指揮能力、軍隊の運用、結果としての勝利がナポレオン信奉を生み出したのだ。そしてナポレオン信奉があればこそ、演説は相乗効果を持った。
 飜って、ここは戦場ではなく、相手は弁舌に長けた弁士たち揃いであり、しかもナポレオンが間違ったことを言えば指摘してやろうとにやにや笑って眺めている始末だった。頭から信じ込んでいない相手を、言葉だけで説得するのは大変難しい話である。しかも、フランスの危機を救う者として自分を規定するナポレオンに対し、この時点ではクーデターを起こしている犯罪者であった。立場としても、議員の方が正義なのである。兵士を議場に入れていないとは言え、議場を囲んでいる時点で恐喝に近く、ぎりぎりの中立性なのだった。

 元老院議会へ入ったナポレオンは、議場へ立ち、議員たちに呼びかけた。
「諸君、フランスは危機にある。いまや死にゆこうとしているフランスと政府を救えるのは、諸君と私だけだ。しかし、平等と自由は守られなければならない。政府はもはや存在しない……五百人会は紛糾している。もはや頼りになるのは元老院の方々だけだ。どうか、力を貸して頂きたい」
 ナポレオンの演説は、用意されたものではなかった。いくつか言葉に途切れが混じりながら、そう言ったたぐいのことを言った。そうすると、議員から声が飛んだ。
「憲法はどうなるんだ。どうあっても、改憲は反対だ! 王様も独裁者もいらないぞ! 新しい政府を作るのはいいが、独裁をしないとはどうやって言い切れる。そもそも、議員以外の者が議会で演説をするなんて論外だ。あんた自身が憲法違反じゃないか!」
「憲法については……これまで幾度も、憲法違反は行われた。議会はけして清廉ではない。フリュクチドールのクーデターがあり、フロレアールにもあった。プレリアルにも……しかし、それを指摘する者はなかった。憲法は既に何度も破られ、以後も守る者はないことは明らかです。しかし、それでも平等や自由は守られなければならない……そう! 自由と平等です。それだけが私の言いたいことだ。そのほかに私の言葉はない」
「お前は何のために来たんだ。何をそこで喋っているんだ」
「私はただ、自由と平等のために……」
「違う、ボナパルト、お前はクーデターに来たんだ。議会を侵す独裁者め。このクーデターは誰が仕組んだんだ。その名前を言え」
「陰謀はある。議会を囲み、陰謀は行われている……しかしそれは私ではない。議会で行われている陰謀を守る為に、私はここに来た。市民バラスや市民ムーラン、市民ゴイエにもそれぞれ考えがあり、派閥がある。しかしどの党派も、フランスの未来などより自分たちの権力のことばかり考えている、いまや、現政府は存在せず、どの党派もそれにつけこむつもりでいる。いいですか、このまま祖国が滅びるのならば、後世のフランス国民の恨みはあなた方へ向けられることでしょう」
 シェイエスに買収された議員たちは黙り込み、ナポレオン非難へ傾くことはなかった。それでも散発的に、ナポレオンを非難する声は上がった。クーデターに反対する議員たちには、ナポレオンの演説は到底納得できることではなかった。ナポレオンこそがクーデターの首謀者だと責め続け、ナポレオンは困るとひたすら、フランスの未来が、自由が、平等がと繰り返した。水掛け論であった。意地を張っていても、議員たちは決して納得しない。無駄な努力であり、壇上でナポレオンが喋るたび笑いが漏れた。時間をかけるほど形勢は悪くなっていった。
 最初は様子を見ていたナポレオンの部下たちも、ついに我慢ができなくなり、ナポレオンの腕を掴んで引っ張り出そうとした。「放せ!」と喚き、ナポレオンは抵抗した。議員たちは皆和やかに笑った。
「将軍、出ましょう。あなたは自分が何を言っているのか分かっていないのです」
 ナポレオンの秘書はそうまで言った。ナポレオンは顔を真っ赤にした。ここでは負けだ。ナポレオンは元老院では負けはしたが、しかし不屈の人ではあった。
「分かっている。離せ! 五百人会へ行く」
 馬鹿な、とクーデターの加担者、彼の部下たちは言いたかったに違いない。五百人会は元老院以上に紛糾しているのである。


 報告を受けて、フーシェはまずいな、と考えた。議会は荒れている。ナポレオンは馬鹿な演説を始め、元老院を呆れさせている。
「ここからが重要だぞ。連絡を密にしろ。何事もなくとも、三十分に一回は報告を持ってこい」
 フーシェは彼のスパイを走らせた。パリ市内は静かだ。ジャコバン派及び共和主義の軍人や有力者は半軟禁のような形で抑えている。しかし城門はいつまでも閉ざしてはおけず、反ナポレオンの集団もいつまでも抑えられまい。
 いよいよ、フーシェはナポレオンを逮捕する手はずを整えなければならないかもしれない。そうなれば、一番にバラスを救うことになるだろう。辞職のサインは破り捨てられ、総裁に返り咲く。その手伝いをしなくてはならないかもしれない。クーデターの首謀者たちがどこに潜んでいるか、逃亡するならば誰を頼りにするかまで、フーシェは掴んでいる。彼らを逮捕してみせれば、バラスら政府の有力者もフーシェの忠誠を信じざるを得ない。証拠はどこにもないのだ。前もって、クーデターを非難するパンフレットすら作らせている。
 まったく、風見鶏のごとき日和見の働きであった。


 五百人会は、荒れる一方であった。前日、議会をサン・クルーへ移すことが決議された後、過激な議員へ招待状を出していなかった。招待状が送られた議員と、送られなかった議員がいることが分かり、そのことで荒れていた。露骨なクーデター計画の一部だと。
 ナポレオンが来るなどとてもじゃないが許された雰囲気ではなかった。座っている議員などおらず、論壇のある中央へと詰めかけ、何を喋ろうとも罵声と暴言で掻き消された。革命を守れ、憲法を守れの怒号が響き、まともな議論ができる状態ではない。
 議長のリュシアンがなんとか押し留めてはいたが、先行きは悪かった。まず議会を元のチュイルリー宮殿へ戻し、それからジャコバン派襲撃のデマを流したものを調べ、逮捕しようという流れになりそうであった。クーデター側に不利な状況に傾きつつあった。
 リュシアンはナポレオンが来ると聞いて、慌てた。いま兄が来ても、状況が好転するはずはない。なんとか人をやって押し止めようとしたが、ついにナポレオンは議場へ来てしまった。どうして来たのだ、とリュシアンは叫びたかった。これではジャコバン派の議員たちに利するばかりだ。しかし彼は来てしまった。
 ナポレオンは演説をするどころではなく、姿を見せるなり、「独裁者が来たぞ! 議会を侵す犯罪者だ!」と議員たちは喚いた。ナポレオンは私に演説をさせろと喚き、議場へ上がろうとしたが、それを許すわけもない。一人がナポレオンへ向かって走り寄ると、後へ後へと議員たちは続き、ナポレオンを囲み、胸倉を掴んだ。暴力を振るった者もいただろう。そのような混乱の中で、『幾人かの議員はナイフを振り上げた』と、ある議員は記録している。
「法の正義を侵す独裁者を倒せ! 暴君だ! ナポレオンを法の外に置け!」
 議会の警護をしていた兵がナポレオンに駆け寄ろうとするが、近付くこともままならない。もはやクーデターも終わりかと思われた。外から将官に指揮された兵士がナポレオンを守ろうと駆けつけてきて、ナポレオンを囲んだ。そして、彼らに警護されながら、ようやくナポレオンは控え室に戻った。
「どうするんだ、ボナパルト将軍。これでは状況が悪化するばかりだ。だから、最初から兵を入れろと言ったじゃないか……」
 ナポレオンが控え室に現れると、たちまちシェイエスは食って掛かった。このままでは、何年かかっても五百人委員会は説得できそうにない。「分かっている!」と、ナポレオンは言った。肩を怒らせ、足早に宮殿の外へ出た。もはや兵を入れるほかはない。最低限の正当性すら失われる。しかし、クーデターの失敗には変えられない。
『奴を逃がすな! 法の外に置け!……』
 議員の言葉がナポレオンの胸中に渦巻いている……このままでは、逮捕、処罰は免れない。流刑地送りか、悪ければギロチンすらあり得る。事態は進んでいる……シェイエスやタレーランは、活動そのものはしたが、まだ表舞台には出ていない。いざとなればクーデターとは無関係を装い、逃げられるかもしれないが、ナポレオンは事態の中心にいる。シェイエスやタレーランはナポレオンを首謀者に仕立て上げ、身代わりに助かろうとするだろう。くそ。前進する他はない。今ここに至っては、前へと進んでしまうほかはない。ここもイタリアやエジプトと同じだ。勝たなければ死ぬほかはない。うまくいくかは分からない。しかし、その覚悟はあった。
 ナポレオンは整列する兵士達の前へ立つと、自らの姿を誇示して見せた。ぐちゃぐちゃによれた服装、額や唇から流す血の赤。
「兵士諸君、私は議会とフランスを救う方法を連中に教えてやろうとした。しかしその答えがこれだ! 彼らは暴力で応えたのだ。これが議会の現状だ! もはや、まともな論議の行える状況ではない。諸君、君達を当てにしたい」
 ナポレオン万歳、と一部の兵が叫んだ。しかし、それも一部だけで、多数の兵士達は迷っていた。議会に踏み込んでよいものか。それは確実にクーデターの協力をするということだ。部隊長たちは明らかに迷った。
 議論などはさせず、最初から武力により反対議員を放り出し、味方する議員だけで臨時政府の決定をしてしまう……シェイエスの考えは、当たっていた。兵達は議会で何が行われているか、朧気に分かっている。情報は必ず伝わるものだ。将軍が右往左往しているのも、士官たちが慌ただしく動いているのも……議論もなければ、まだ納得できたかもしれない。しかし、兵達、部隊長たちはナポレオンの意図を掴んでいた。それが確信となっていないだけだ。今議会へ進軍すれば、その犯罪性は明らかだ。しかし事態は進行中であり、未だ全てが決定されたわけではない。ナポレオンが勝ったならば英雄になるかもしれない。しかし、ナポレオンは政治的にも勝利を得ることはできるのか? 兵たちは迷い、判断を下しあぐねていた。

(この兵たちが動けば、事態は変わる)
 誰もがそう思ったことだろう。結局のところ、軍隊は暴力装置であって、ギロチンと同じく、使われずとも価値はある。誰がそれを抑えるか。誰の命令ならば従うのか。この道具の所有者は政府にあるのか、それとも革命の理想にあるのか。今の政府が正しいか、それとも後の政府が正しいか? 要はそこにあった。何を信じ、何を選び取るか。兵たち、指揮官たちはそれを試されていた。
 クーデターの場では、相手側が不正をしていると誰もが喚く。誰が信用できるかではなく、誰が以後の政治をより善く導くのか、兵に信じさせた者が勝利する。
 兵は暴力装置に過ぎない。しかし兵たちは人間であり、個々の意思を持っている。政治的判断も働けば、一方で良心も働くし、命令に疑問を持ちもする。いくら指揮官の命令でも、法を犯すことには躊躇する。しかも、フランスはいまだローマ法皇とも和解をしていない。フランス革命によって生まれた憲法、法律は重かった。これまでの王政や宗教に変わって絶対のものとされている法律なのだ。容易に踏み越えることができるのか。
 革命という事態においては、このような人間の塊を抑えつけるためには、一つの勢い、一つの流れというものが必要だった。兵たちはみな大人だ。教育は受けていないにしろ、自身で判断を下すことができる。しかし、人が集合すれば群衆となり、周囲のちょっとした反応や流れに、敏感に反応する。
 今は停滞した人の群れ、その中へ一石を投じるのは何だったか? それは、議会の方向から駆けてきた一人の兵であった。

 兵はナポレオンの前へ駆けてゆくと、声を張り上げて言った。
「報告します! 議会はますます荒れています。これ以上五百人会を放置すると、リュシアン議長どのの命も危なくなります」
 叫ぶなり、兵は持ち場へ戻るため、踵を返して議会へ駆け戻ってゆく。ナポレオンには思案の暇はなかった。リュシアンを救わねばならない。即座に部下の将軍を一人と、数人の兵を護衛につけて議会へ向かわせた。
 しかし、リュシアンを議会の外へ出せば議会での形勢は変わり、ナポレオンやクーデター首謀者たちへの追求が始まらないだろうか? どのみち、こうなればどうしようもなかった。事態は動いている。リュシアンを救い出し、兵を入れるほかはない。
 リュシアンはすぐさま救出されて、ナポレオンの元へやってきた。午後十時頃のことであった。リュシアンは額から血を流し、包帯を顔へ巻き付けている。
 当時の常識として、議員は議会へ出る時はかつらを被る。かつらを被り、顔を隠し、身長を誤魔化し……先ほど報告に来た兵と、リュシアンが同一人物だと気付く者はいなかった。ナポレオンでさえ、息も絶え絶え、興奮して喋るリュシアンが弟だと信じて疑わなかった。
「このままでは全てが終わりです。ナポレオン……、いや、兄さん。私に馬を貸して頂きたい。兵たちの前へ」
 ナポレオンはリュシアンの求めに応え、馬を一頭与えた。リュシアンは馬に乗り、自らの姿を兵たちの前に晒した。
「私はリュシアン・ボナパルトだ。いまや議会は崩壊した。一部の暴力的な議員が多数の議員を脅し、同意しないなら殺してやると喚いている。諸君の力を貸して頂きたい。暴力的議員たちを永久に追放するため、協力をお願いしたい」
 リュシアンがそう言っても、まだ兵士達の反応は鈍かった。兵士達が議員に同調したら、いよいよクーデターは終わりだ。リュシアンは近くの兵の腰からサーベルを引き抜くと、ナポレオンの首筋に当てた。
「何をする、リュシアン」
「静かに」
「いや、いくらお前であろうとも許さんぞ。お前、まさか私に成り代わってクーデターをしようというのか。貴様……!」
 ナポレオンが怒気を露わにしようとした時、リュシアンはぐるりとナポレオンを睨み、ナポレオンにしか聞こえない小声で言った。しかしナポレオンには、それが怒鳴りつけられたがごとく、巨大に響いた。
「うるさい! 静かにしていろ、私がお前を王にしてやろうと言っているんだぞ」
 リュシアンは、これほど苛烈な言葉を吐く男だったか。ナポレオンは一瞬惑った。声は少しかん高く、そして普段より小さく見えた。そのくせ、存在感ばかりいやに大きい。リュシアンは唐突にナポレオンに背を向け、兵達に向き直った。そして、ナポレオン史において、巨大な一言を吐いたのだ。
 このあまりに劇的な一言がなければ、以後のナポレオンもなく、全ヨーロッパを巻き込んだ戦乱もなく、以後の歴史の姿も大きく変わったことだろう。
「諸君、私は約束する。もしも兄が議会の平穏を奪い、フランスを危機に陥れるなら、私は兄の胸を突き刺すことを! 私が兄を見張る。諸君、私を信頼してくれたまえ! 兄がいかなる暴虐をも行わないことを私は約束する。そして破られた時には、この剣は兄の血で濡れることだろう!」
「ボナパルト将軍万歳!」
 割れるように、ナポレオン万歳、リュシアン議長万歳、議会万歳の声が上がった。頃合い良しと見て、リュシアンは叫んだ。
「五百人会議長として要請する。諸君、議会へ進軍せよ!」


 その頃、リュシアンは元老院にいた。一人、元老院へ避難した形だ。そのついでとなったが、元老院の説得を試みていた。
「兄さんは何をやっているんだ。このままでは、議会は崩壊してしまう。迎えに行った兵は戻ってはこないし……このままでは……」
 兵たちが五百人会の議場へ乱入したのは、その頃だった。騒ぎを聞きつけ、リュシアンは五百人会へ駆け戻った。議会は混乱の中にある。流動的な騒ぎの中で、全ての事態は動いてしまっている。
 その頃には、正邪は兵達の影に分け入り、議員の扮装を解いて紛れ込んでしまっていた。


 兵達は当初、暴力を振るう犯罪的な議員を放り出すだけだと思った。しかし、指揮官に命じられたのは議員全てを放り出すことだった。ナポレオンの部下のうち、騎兵将校のミュラが議壇へ登ると、「議会は解散です。退出願います」と告げた。議員たちはわっと声を上げ、ナポレオンのように殴りつけて追い出そうと詰め寄ったが、ミュラは怯えることもなければ、議員の暴力的な態度など一切気にもかけていないようだった。何なら掴みかかる議員を殴り返しすらした。小柄なナポレオンとは違い、長身で腕っぷしの強いミュラは議員程度の暴力ではびくともしなかった。そして手振りで兵に示し、議員たちを示した。たちまち兵たちは銃を手に議員を囲んだ。「議会を守れ! 暴君から神聖な議会を……」議員たちも頑張ったが、ミュラも兵も、暴君や独裁者と呼ばれても気にしないのである。「兵たちよ、君達の名誉にも傷がつくぞ!」と呼びかけられても、兵達は意に介することはなかった。いや、疑問を持った兵もいたことだろう。しかし、状況は既に動いているのだ。しかも、ナポレオンに変わって兵たちを直接命令するミュラは、ナポレオンほどに名声を気にしていない。指揮官の迷いを兵は敏感に察するものだ。悪名を避けるためナポレオンの身代わりにされたミュラは、平気で議員たちを暴力的に追い出していった。そして、ミュラに引っ張られるように、兵達は責務を果たしていった。後にミュラはナポレオンの一族に迎え入れられて、ナポリを与えられて王になる。軍での活躍だけでなく、この時の働きの末与えられた恩賞に違いない。
 兵達に囲まれて、廊下と言わず、窓からと言わず、議員たちは追い出されていった。議壇にかじりついて、最後まで離されようとするまいと頑張る議員もいたが、兵達に抱え上げられて、窓から放り出されていった。幾人かはパリへ走り、応援を呼ぼうとしたが、パリの城門はフーシェによって閉ざされていたのである。議員たちはどうしようもなく、行き場をなくして近隣の村の酒場へ行く者もあれば、元老院に駆け込む者もあった。しかし、リュシアンによって止められ、元老院へ入ることはできず、兵たちの手伝いもあって、サン・クルー宮殿そのものから追い出されていった。


 五百人会が解散したあと、元老院では緊急の五人委員会を作り、以後の検討が進められた。そして五人委員会によって、ナポレオン、シェイエス、デュコーら三人の執政によって運営される臨時の政府、総裁政府に変わる執政政府が作られることが提案され、元老院において、反対一名で可決された。
 ナポレオンは、出来る限りの合法性を得ようとしていたから、リュシアンにも「できれば五百人会を通してから決議をさせて頂きたい」と要請した。
 合法性を確保するならば、五人委員会から出た議案を、改めて五百人会にも通したい。全ての法案は五百人会が提案し、元老院会が承認することになっているのだ。リュシアンにもそんなことは分かっているが、五百人会の議員たちは見た通り離散してしまっている。それを呼び戻して決議をさせようなど、ほとんど不可能に近かった。時間も夜半近い。兵達は手分けして、議員を捜したが、ほとんどは見つからず、または酔っぱらって寝ているかであった。
 議会へ呼び戻された五百人会の議員は、三十人しかいないと言った者もあれば、百六十人ほどはいたという者もいる。どのみち、夜半を過ぎて議場は暗く、よく分からなかった。
 おままごと、あるいは茶番劇のような決議が終わった。三人の執政を頭に置く臨時政府の議案は可決された。そうして、クーデターの幕は閉じ、くたびれた議員たちはようやく帰宅を許されたのであった。夜半を通して活動しようとした者もいたかもしれない。しかし、それらの相手はフーシェの仕事だ。なおも反対しようとする議員や活動家たちは、警察によって逮捕、監禁されてしまった。


 クーデターは終わりを見た。バラスの総裁政府は終わり、ナポレオンとシェイエスの執政政府、あるいは統領政府とも言うが、ともかく新しい政府が生まれたのだ。ひとまずは無事に終わって、シェイエスも胸を撫で下ろしたことだろう。
『議会にて悪質な陰謀が行われようとしていた。新政府の権力を握ろうと、ジャコバン派の過激議員が暴力行為を行った。しかし、現場の指揮を執っていたナポレオン将軍がこのクーデターを鎮圧したのである。英雄ナポレオン万歳!』
 この手のパンフレットが街々で配られ、壁に張り出された。フーシェの屋敷からは人知れず、大量のパンフレット『クーデター実行犯のナポレオン逮捕! 政府万歳! バラス総裁万歳!』が処分されたが、それを知る者は誰もいない。用意していたパンフレットの一方は、大いに活用された。
 閣僚たちの顔ぶれは軒並み変わったが、フーシェは警察大臣として続投した。そのことを告げられると、市民たちはこぞって話の種にした。総裁政府に仕えていた警察大臣が、クーデターの陰謀を見逃し、それどころかナポレオンに鞍替えしたのだ。その見返りとして、大臣の立場を維持した。本来ならクーデターを真っ先に調べ、摘発する立場であるのに……。風の吹くままに立場を変える身代わり、裏切り、厚顔無恥の振る舞いであった。市民たちは、その身代わりを嘲笑ったのだ。


 ブリュメール18日のクーデターが終わって、正邪とフーシェが再会したのは、パリ市街のとある劇場でのことだった。
 正邪は珍しく、フーシェに呼び出された。いつもは正邪が呼びつけたり、奇襲をかける側であるのに……正邪はフーシェを人混みの中で見つけると、隣に腰掛けた。周囲の人々は、誰もそこに警察大臣が座っているなどとは想像もしていないようだった。フーシェの顔つきはどこにいようと、人並みの中に紛れてしまう。
「おい、どういうつもりだよ。いきなり呼び出しやがって。用があれば貴様の家でいいだろうが」
「面白い見世物があったから、見せてやろうと思ったんだ」
 劇場に掲げられていたその日の演目は、「サン・クルーの風見」と言うのであった。フーシェにはいくつものあだ名がある。サン・クルーの風見は、この演劇が流行した挙げ句についたあだ名だった。
劇の筋書きはこうだ。パリ市内で、痩せた面立ちの警察大臣は職務をしている。彼は突然、議会でクーデターが発生したとの報告を受け取る。警察大臣は慌てふためき、旗色の良い方へとつこうとする。しかしクーデターが失敗したとの報告が飛び込み、政府へつくことを決める。そこへクーデターが成功しそうだと報告されれば、クーデター側に味方しようと決めて文書を送る。しかしそこへ警察大臣の元へ総裁の一人が現れ、同時に文書を受け取ったクーデターの首謀者も現れ……といった具合だ。
 クーデターが成功したと聞けば左を、失敗したと聞いては右を向き、その猛烈な方向転換の流れになると、道具係によって風見鶏が舞台に引っ張り出され、右へ、左へと向きを変える。大臣の回転に合わせてその速度も猛烈になってゆくという仕掛けで、観客は笑い転げて拍手を送るのだった。しまいには、大臣は総裁にも首謀者にも殴られて舞台を追い立てられるのが結末だった。そして舞台の幕が降りると、劇場は警察大臣へのヤジでいっぱいになるのであった。正邪はあまりにあからさまな風刺劇に頬を引きつらせて、にやついて眺めていた。終始微笑を浮かべているフーシェの反応をこそ楽しんでいる様子だった。
「いや、笑わせてもらったよ。すばらしい演劇だな、警察長官どの。今度は嫁さんと見に来るがいい」
「妻には見せたくないな」
「しかし、あんたがここに座ってると気付いたら、観客や役者ども、座主はなんて思うだろうな。これをやらせておいていいのかよ」
「どうして止める必要がある。カリカチュアとはこういうものだよ。所詮、政治なんてこういうものだと民衆は知るだろう。それに、恨まれるより、笑われている方が、御しやすい」
 事実、フーシェはこの手の演劇の中止を求めることのできる立場にあったが、それをしなかった。新政府でも続けて任命された警察大臣は、その程度のエスプリは持っていたのだ。政治はショーに似ている。観客は舞台で起こっていることに一喜一憂し、時には本気で喜ぶし、本気で怒る。しかし、それによって人死にが起こることもある政治に比べれば、ショーとはいかに平和なものだろう。それで民衆が喜ぶのなら、放っておけば良いとフーシェは考えているのだ。
「さあて! 次の演目は!『新たな英雄』! 政府の腐敗を打倒したある将軍の英雄譚だ!」
 アナウンス代わりに、役者の一人がそう叫ぶと、フーシェは立ち上がった。「出ようか」と、フーシェは言った。観客は皆、新しい演目に夢中で、劇場を出る者など一人もいない。
「出るのかよ。私はせっかくだから見ていくよ」
 ああそうかい、とフーシェは言い、そのまま劇場を後にした。

 警察大臣の喜劇も人気があったが、それよりも人気だった劇があった。ナポレオンが議会へ現れ、クーデターを鎮圧する劇だ。その劇の中では、ナポレオンはサーベルや銃を持つ議員たちの前に空手で現れて、演説をぶつのだ。反動的な議員たちは逮捕され、議員や市民たちは感動してナポレオン万歳を叫ぶような、そういう子供じみた英雄劇だった。しかし、それで民衆はそれなりに喜ぶのだから、劇などはその程度のもので良いのだった。子供っぽく純粋に、英雄というものを、民衆は喜ぶのだ。ナポレオンの劇は毎日満員だったし、そのようなことがサン・クルーで行われたと信じた。そして、ナポレオンの人気もうなぎ登りなのだった。
 劇の中には、リュシアンが兄の首にサーベルを突きつける、あの名文句も含まれていた。ナポレオンは無論聞いたし、兵達も聞いた。しかし、当のリュシアンは知らないことであった。最初は信じられなかったに違いない……自分が兄に刃を向けた? しかし、それは事実なのだ。リュシアンも信じられないながら、それを事実だとしておく他はなかった。しかしやがて、リュシアン自身もその風説を自らのものにした。実の兄すら、国に背くならば刺し殺す。これ以上ない愛国者の偶像だ。英雄的な行動、叙情的なシーン。リュシアン自身の人物ならず、その行動のために英雄視さえされた。作られた行動、そして広められた風説と観劇のために、リュシアン自身は大いに得をした。
 果たしてリュシアンの名文句は本当にあったのだろうか? 誰もがあったと言っている……それは観劇の上で作られた演出かも知れない。何が本当にあったことかなど、誰にも分からない。歴史とは虚実合混ざるものなのだ。
 歴史の上で、リュシアンはサーベルを向けて名文句を放った。それは多くの人の心に残った。そして真実となったのだ。その虚実の境で暗躍した小鬼がいることなどは、歴史に記されておらず、誰も知らない。




 パリ市内は未だ興奮冷めやらない。その声のほとんどがナポレオン万歳を叫び、資本家を優遇し貧困層を放置したバラスたち総裁政府が倒れたことを喜んでいる。ナポレオンは正しく革命を行い、不正なく自由と平等をもたらしてくれると、無邪気に信じているのだ。
「これでようやく、閣下の天下ですね。思えば国民議会以来、ようやく閣下が立つべき時が来たと言うべきでしょう」
 フーシェはシェイエスと会っていた。二人の姿は、暗渠の中に存在しているようだった。フーシェとシェイエスはともに、清貧を良しとする教会の出身であって、暗闇には慣れている。ミサのほかでは、蝋燭を使うことも許されていないのだ。沈黙も得意であった。二人は顔を合わせてから、フーシェが口火を切るまで十数分も黙ったままだった。
 教会にあって、俗的なものは許されない。しかし一つ、大っぴらに行われ、しかも罰されないものがある。それは権力闘争である。誰が教会の管区長を務めるのかだとか、司教であるとか大司教の座に着くのか……時には教会のみならず、王家や貴族と語らい、陰謀を巡らすこともある世界である。ある意味では、極端に純化された権力闘争の場なのだ。外の世界の闘争のように、暴力に頼った権力奪取は支持されない。あるのはただひたすら、利益分配の法則と、人間関係のバランス配分のみである。フーシェ、タレーラン、シェイエスのような政治家が、教会からの転身であることを見ても明らかだ。
 シェイエスはフーシェの言葉にも、たっぷりと時間をかけてから、言葉を返した。
「暴力的な革命は、もうたくさんだよ。しかし、もう終わりだ。ロベスピエールの頃のような時代も、もう本当に終わりだな」
「しかし、閣下は生きておられる」
「そう、君もな。要は生き残ることだ。苛烈にやっては、後の時代に続くことはない。何事も穏やかに済ませるべきだ。それでこそ、人民は安心していられる」
 そうとは限らない。フーシェは考える。今でこそ新しい政府を喜んでいるが、民衆はけして穏やかな事なかれ主義を好むものではない。ロベスピエールのように、大物政治家でも首を次々と落とし、反革命主義者を根こそぎに殺していくことも、民衆は熱狂して喜んだ。シェイエスのように穏やかにことを進めていては、やがて汚職政治家などの跋扈を許すだろう。そうすれば民衆は不快に思い、粛清を叫ぶだろう。自分が可愛いだけで穏健になどやってはいられなくなる。しかし、フーシェにとっては、今はそれがありがたい。
「そのように振る舞うことです。特に、今のクーデターの敗者たちに対しても」
「他のものがなんと言うかは知らないが、私は助命を申し出るつもりだ。腐敗の根源そのもののようなバラスに対しても」
「感謝します、閣下」
 フーシェにしても、それは本心であった。世間が求めているならば仕方がないが、できるならば人死になどない方が良いに決まっている。人の死というものは、どうしようもなく人の心を波立たせるものだ。それでなくては収まらない時のほかは、活用するべきではない。ロベスピエールはそれをやった。その刃が、自らに降り掛かってくることも受け入れた。彼は逃亡も、抗弁もしなかった。
 フーシェは一瞬、目を伏せた。表情を外に出さないこの男にとっては珍しいことだった。フーシェにはそのような生き方はできない。シェイエスもそうだ。ナポレオンならどうであろう。彼にはそのような部分はあるが、虚勢に過ぎず、ギロチン台に運ばれれば泣いて喚くかもしれない。シェイエスもまたロベスピエールのことを考えていたようだった。
「ロベスピエールを見ろ。やつは首を落としすぎた。それで自分の首まで落とす羽目になったんだ。私はそんなことにはならないぞ。血も流さず、何事もうまく収めてみせる。議会も政府も。そしてあのナポレオンのやつもな」
「彼は使えるでしょうか」
「少しはな。しかし、奴め、クーデターの時もそうだが、政治のことなど何も分かっていない。少しばかり政府運営の話もしたが、少し難しいことになれば何も知らん。アレキサンダーやカエサルとか、歴史的に評価された大政治家のことはよく知っているが、現実の政府運営などはとてもできないよ。彼は大げさに改革を叫ぶばかりで、それがうまくいくかどうかなど考えていない。しばらくは政府に席も置いておいてやるが、半年もすればお役御免だ。クーデター実行犯の汚名もある。運が良ければ、どこかの戦場へ行ける」
 シェイエスはうまくやるだろうか。ナポレオンに対抗し、その上を行くだろうか。フーシェは観察し続けなければならない……。ナポレオンの政治的能力は、未だ未知数だ。フーシェはエジプト、イタリアでのナポレオンを知っている。ナポレオンは現実を知らないわけではなく、逆によく知っている。だが、それは軍事力を背景にした軍政下での統治の話だ。個人的な権力が無数に絡み合う場というものは知らないだろう。彼の、議員たちに対する演説の下手さというものもまた、フーシェは知っている。
「君がバラスの元でやっていたことの噂は聞いている。クーデターの際、バラスに対してやったように……ナポレオンに対しても、よろしく頼む」
「もちろんです、閣下。ナポレオンの元には、密偵をつけることにしましょう。それも一人二人ではなく。追放に使えそうなスキャンダルは、常に閣下の元へ届くようにしておきましょう」
 シェイエスは満足そうに頷いた。既に密偵はついている。しかし、それはナポレオンだけにではない。シェイエスにもついている。これまでと同じように、両天秤をかけていかなければならない。これまでのどの男と同じように、シェイエスはフーシェを疑ってかかるだろう。しかし、フーシェを操縦できる、怪しげな動きをすれば察知してみせる、と思っているのも同じだ。
「しかし、ようやく、本当に終わりだ。クーデターも終わった。これからは穏やかになり、何もかも再生するよ。革命に関する法律は細かいところを修正しなくてはならないし、王族や貴族から民衆に分配された土地に関する訴訟も続いている。特に地方ではそうだ。しかし、これからは何もかもうまくいくだろう。混乱の種もないことだし……」
 シェイエスは美しい未来を見ていた。事実そうなのだ。議員たちの中でもシェイエスは古株で、彼が執政の座に着くならば、誰もがひとまずは彼の意向を伺うことだろう。革命の理想を信じている男の一人だから、バラスのように、ブルボン家にフランスを売り渡そうとはしないだろう。革命の理想を守るならば、彼の言うように、政府運営はうまくいくことかもしれない。しかし、外国との摩擦は続いており、また、国内にも反乱分子は無数にいる。穏やかに物事が進む保証などどこにもない。クーデターが終わったのではなく、何もかもが今から始まるのだ。シェイエスはそのことに気づいていないかのようだった。


 ナポレオンにとっては、まさしく、これからが始まりであった。夜半すぎ、ナポレオンの自室には煌々と明かりがついている。彼にとっては、これまでの軍隊生活と同じく、昼夜の区別はない。敵は待ってはくれず、できることは常にしなくてはならない。彼にとっては政府も軍隊も同じだった。
 彼は手を忙しく動かし、民法の原案を書いていた。法学者と意見交換した手紙が山と積まれ、時にはそれを見返し、また、現行の法律と比べて訂正を繰り返していた。彼はまだ、政府運営に関わってもいないのに、自分一人で民法を練り直しているのだ。実際に議論に上げればいくつも批判は上がってくることだろう。しかし、議員や大臣、専門家に問い、完成させるつもりでいる。やるべき仕事は無数にあり、ナポレオンはそのどれもに今すぐ着手したいというような熱量に満ちている。
 革命の理想は立派だが、時代の潮流に合わせて変えなければならない。盲信するのであれば王権神授と変わりがない。阿呆のようにありがたがっているのならばブルボン家を呼び戻してしまえばいい。貴族と僧侶を憎むがあまり、その存在を許さないがごとくのように振る舞っているが、それは間違いだ。貴族にも有能な者がおり、それらの才は国家運営に生かさねばならない。バラスは敵対する連中は皆放り出してしまったが、彼らには寛大に振る舞うことが必要だ。僧侶についても同じだ。革命に浮かれるパリではともかく、田舎ではキリスト教のある生活に慣れきっていて、宗教による救いや安らぎを求めている。特権は取り払ったのだから、再びフランスに宗教を取り戻さなければならない。宗教と政府は別だ。政府ではキリスト教は認めない、しかし信仰の自由は保証しなければならない。革命を信仰するのも、キリスト教を信仰するのも自由だと政府から表明しなければ。ジャコバンの石頭どもは真っ赤になって喚くだろうし、王党派は革命は終わりだと叫ぶだろう。両方を押さえつけなければならない。それから国外の問題、イタリアに蔓延るオーストリアの軍勢は追い散らす、その後は外交でどうにかする。軍には改革が必要だ。オーストリアにはナポレオン自身が立ち向かわねばならないだろう……。
 筆は動き、ナポレオン自身の思考も物凄いスピードで回転している。扉が開き、誰かが部屋へと影のように滑り込んできても、ナポレオンは振り向きもしない。
「閣下。何をしているんです?」
「ああ、シャイか。ちょっとした勉強さ」
「昨日は弁論で、今日は民法。それに、これから、明日の演説の用意もするのでしょう?ずいぶん勉強をするんですね」
「ああ……これからは忙しくなるぞ。何しろ、革命後の混乱はまだ収まってはいない。私が何もかも整えて、国家を運営できるように持っていかないといけないんだ。口ばっかりで度胸のない議員どもには何もできない。民衆に脅かされれば宮殿で怯えているだけのやつらだ。意見を押し通す度胸はなく、反対が出ればうじうじと意見を言い合って、互いの顔色を伺い、問題のことよりも互いに損をかけないことばかり考える。結局はいつもなあなあのところで終わりだ。私がやらなけりゃ何一つ決まりはしない。休む暇はないよ」
「それにしたって、いつ寝ているかわからないような働きぶりでは。今、何時か知っていますか。夜中の三時ですよ」
「君のベッドに行ってあげられなくてすまないね」
 ナポレオンの愛情も変化しつつあり、以前は妻以外など考えられなかったが、この頃を境に幾人かの女性と浮名を流すことにもなるが、さすがに正邪のような小娘を相手にする幼女趣味はなかった。(むしろナポレオンは年上趣味だ)
 正邪は顔を赤らめてだじろいだ。正邪の方は色恋の話に疎い。乱暴な扉を閉じる音が部屋には響いた。それで、ナポレオンは一人に戻った。元より小娘になど興味はない。ナポレオンは書き物を続け、空が白んでくるころにソファにひっくり返って、眠りに着いたのであった。それも数時間休んだだけで、起き出すと執務に向かった。


 クーデターが終わると、シェイエスや議員たちは落ち着いた。ひとまず波乱は済んだのだし、落ち着いて物事を進めたいというような雰囲気があった。しかし、ナポレオンは止まらなかった。むしろナポレオンは政府内に波風を起こした。シェイエスや他の議員との政争など望んでいなかったが、ただ目的のために邁進した。諍いが起きたのはその結果に過ぎなかった。
 執政政府は三人の執政が中心となって進められたが、しかし、次第にナポレオンがその実験を握っていった。三執政の協議で決を取るという形になってはいるが、後々では不在になった際の予備職と化しており、第一執政の独裁のようになった。
 ナポレオンはシェイエスが思っていたように、政治について全く盲目なわけではなかった。ナポレオンは行動の人だった。日々動き回った。自分に足りない知識があると思えば、すぐさま専門家に聞いた。必要とあれば、夜を徹して勉強した。戦場に日夜はない。活動の必要があれば夜でも行軍することは当たり前だ。そのために付き合わされる腹心や秘書にはいい迷惑であった。ナポレオンの秘書は重労働で、三ヶ月続けば長続きだと言われた。
 そんな調子であったから、シェイエスの用意する懸案は一つでも穴があればそこを突かれ、しかも日々反駁は鋭くなるといった具合であり、しかも修正案は次の日には出てきた。しまいにはシェイエスの方が嫌になってしまうのだった。
 しかも、ナポレオンは一日たりとも休むことはなかった。シェイエスが休みを取ったその次の日には、一つの事案が実行手前まで進んでおり、シェイエスの許可を取るのみになっているのである。一事が万事この調子だから、終いにはシェイエスはくたびれ果ててしまった。既に初老に近いシェイエスと、三十代に乗ったばかりのナポレオンである。年齢の差もあった。
 二人の政争は、ナポレオンの猛進と、シェイエスの諦めによって素早くけりがついた。フーシェの身代わりは早く、シェイエスの執務室になどは足も向けず、報告は全てナポレオンの執務室へ届けた。ナポレオンは王家に尻尾を振るつもりもなく、自らの王国を作り上げるつもりらしかった。しかしそれで良い。フーシェにとってはそれこそが安寧だ。自分がトップにはつかず、自分が安全なところにいられればそれで良い。
 フーシェのごとく、閣僚たちも次第にナポレオンについたが、フーシェのような素早い身代わりを見せた男がもう一人いた。タレーランもまた、ナポレオンの側についた。タレーランはシェイエスのように執政の座に固執はしなかった。早々に権力を握ることを諦めたのだ。彼は外務大臣のポストを欲した。力量のバランスを見分けることに長けたタレーランにとって向いた職であったし、タレーラン自身の好みでもあったが、最も好ましいのは地位の力を持って金儲けのできる点であった。国内のみならずあらゆる国の人間が賄賂を持ってくるし、国外の商人と付き合うことができ、外務大臣にしか知り得ない情報を使った投機ができた。
「ナポレオン閣下、私はあなたとだけ仕事の話をしたい。三人の執政と顔を付き合わせ、協議するなんてのは真っ平です。あなたと私だけの方が効率がいい。これはあなたと私だけでなく、フランスのためです。第ニ執政と第三執政には、大切な仕事をさせなさい。司法とか財政とか……これらは重要な仕事だ。専念させておくのが最もよろしい。それであなたは、第一執政として、政治に関わる他の全てをやればよいのです。内務省と外務省、警察省、陸軍省に海軍省です」
 政治的な実績のない、ただの軍人でしかないナポレオンを選んだということだけでも、タレーランの慧眼さが伺える。クーデターを経るまでの度重なる会談で見た人格と、タレーラン自身の直感を持ってナポレオンを選び取ったのだ。シェイエスとナポレオンが争うのは目に見えている。タレーランは素早く退き、素早く付くべき旗についた。
 シェイエスは結局執政の座にすら着けなかった。名誉職ではあるが実権のない元老院議長へと祭り上げられてしまい、以後シェイエスは歴史の表舞台に立つことはなかった。ナポレオンを使うつもりがその真逆、見事に使われてしまったのである。そしてナポレオンは華々しく政治の表舞台に立ち現れ、革命の簒奪者となるのである。ナポレオンはブリュメールのクーデターについて、「私は首謀者ではなかったが、その成果は私が頂いた」と語った。
 ブリュメールのクーデターはフランス革命の終わりとナポレオンの時代の始まりとされる。革命には偉大な者たちが立ち上がり、その旗を掲げては死んでいったが、ナポレオンがその総仕上げをした。
 ナポレオンがいなければ、革命はそこで終わりだったかもしれない。ナポレオンは革命の火をヨーロッパ中に広めた。オーストリア、プロイセン、そしてロシア……戦争と死とともに、革命は燎原の火のように燃え上がった。やがてナポレオン自身も、その火に巻かれてしまうことになる。


 ナポレオンは敵前逃亡に対し新政府の許しを得たどころか総裁となり、シェイエスはナポレオンという剣を得た。フーシェもまた存分に楽しみ、一人バカを見たのはバラス一人だった。バラスはパリ追放の憂き目を見た。
 その文書を持ってきたのは、ジョゼフィーヌのところにいた侍女であった。ジョゼフィーヌと一緒にいるところを何度も見たし、時には酒を飲み、トランプを打ち合った中であった。政府の文書を持ってくるにはそぐわない。こいつもスパイだったのかと、バラスは嫌気が差した。
「フーシェ閣下からの命令です。パリから追放、以後再びパリの門をくぐることは許されません」
「おめぇよう、恥ずかしくはねぇのか。お前もそうだし、フーシェのやつもそうだ。畜生、ナポレオンも、タレーランのやつも」
 思えば四年前、1795年に、軍に疎まれ、窮乏し、フランスを離れて傭兵となるか悩んでいたナポレオンにイタリア軍司令官の役職を与えてやったのはバラスであり、誰からも疎まれ、顧みられることのない、貧乏のどん底にいたフーシェにただ一人目をかけてやったのもバラスである。更に、アメリカに亡命していたタレーランを受け入れてやったのも……あいつも今頃ギロチンの下に落ちていてもおかしくないやつだ。タレーランはいい。しかし、ナポレオンとフーシェはバラスが助けていなければどうなっていたことか。その三人に裏切られ、玉座を奪われて、今パリから追放されようとしているのだ。
 バラスの追放令を書いたのは、警察大臣フーシェその人であった。あの忘恩の輩ども。このバラス一人が悪いものか。商人は金で繋がるし、議員も金次第で転ぶ。金と、そして繋がりで、世の中は全て動いてきたのだ。それはバラスがやらなくとも、誰かがやることだ。ならば円滑にしてやって何が悪い。汚職議員はいくらでもいるし、新政府の中にもいることだろう。
「閣下は恥ずかしくなどないことでしょう。騙された方が悪いとおっしゃるかと」
「畜生! この忘恩野郎め。恨みは忘れんからな」
 ジョゼフィーヌの侍女ネージュこと正邪は、楽しげににやついて見せ、手を振り上げて胸の前に下ろし、礼をした。どのように罵ろうと、正邪やフーシェを悦ばせるだけのことにしかならない。
 バラスは馬車に乗り……自ら乗らなければ兵に乗せられていたことだろう……パリを出てゆく。バラスは今日までの自分の屋敷を見上げた。やがて馬車は走り出した。
 奴らの振る舞いが温情に溢れていることはわかっている。バラスの個人的な汚職や悪徳がパリを追われた理由ではないだろう。バラスは権力を持っていた。議員や商人、有力者に声をかけて団結を呼びかけることのできる力。政府を脅かし、国すら動かすような力。馬車は革命広場を通り過ぎた。革命の偉大なモニュメントであるギロチンがそこに立っている。
 このパリで権力を握っていたやつは、たいていギロチンの下へ落ちた。権力を一度握ったやつはそれを手放せなくなる。たとえ自分が死ぬとしても……権力を捨てるにしろ、首を繋げているだけでも良しとするべきだった。それに、何もかも失うわけじゃない。バラスにはまだ、汚職で溜め込んだ金がポケットにあった。田舎とは言え、遊んで暮らすことができる。
「まあそう、悪いことじゃなかったかな……」
「その通りだよ。お前みたいな器量のやつには」
 バラスは隣を見た。いつから乗り込んでやがったのか、正邪がそこにいた。
「お前はどこまでスパイするつもりだよ。もう見張る価値もねぇだろ」
「そんなことはないよ。私は行かないが、フーシェ閣下のスパイはついてまわることだろう。一生涯ね」
「念のいったことだ。いつまで権力の側にいるつもりだか」
 くっくっと正邪は笑った。誰もがそうであるように、権力を一度握った者は権力の味を忘れられないものだ。ナポレオンは権力を捨てないだろう。フーシェもまた権力にしがみつこうとする。あいつらはどうせ仲良くやれるはずがない。互いに陰キャだし嫌い合う運命だ。どちらかが、どちらかを食い殺してくれることだろう。バラスの魂は、それを思うと少し癒やされた。
「考えてみりゃ俺は、権力になんて興味のない権力者だった。クーデターは何度かやったが、ロベスピエールだか、王党派だか、そいつらに殺されないために周りに言われてやっただけのことだ。ただ金が入ってくるなら何でも良かったんだ」
「あんたはそういうやつだ。憎めないやつだよ。一緒にいて楽しかった……ロベスピエールのような堅物とは違って」
「本当だよな。何が楽しくて権力を握ってるんだか。人は楽しみのために生きてるんだぜ、金も貯めなきゃ女ともやりもしない……何が革命だよ」
 正邪は笑い声を上げた。
「まったくもってその通りだ。やっぱり、あんたは面白い。フーシェに聞かせてやりたいよ」
「あいつは貧乏すぎて歪んだんだ。変態になっちまってよ。あいつが嫌がるように、本にして残すか。これから金持ちになるんだろうし、貧乏だった頃のことなんて書き残されたら腹の底で怒り狂うだろうな。あの鉄面皮の下でよ」
「最高だよ。あいつは必死に回収して回るだろうな。しかし、絶対にどこかには残る。私も一冊隠し持っておいてやるよ」
 バラスは愉快になって笑った。こうなれば、ナポレオンもタレーランも、誰もの悪口を書き残してやる。バラスが以後の人生でやった仕事と言えば回想録を書き残したことだけであった。それでも、バラスは十分に楽しく生きられたと言うべきだろう。故郷に帰り着くまでの間、正邪はバラスに付き添った。享楽的なバラスは、正邪にとっても嫌いな権力者ではなかった。馬車が走る間に二人はバカ笑いし、肩を叩き、愚痴を吐き出しては猥談をして、グラスのぶつかる音は何度も鳴った。フーシェは敗北者を見送りなどしない。その点については、正邪の方が優しかった。最も、バラスと遊べるのを楽しみたいだけかもしれなかったが……バラスは正邪のような女に対しても、もてなし、楽しませることのできる手管、フーシェやナポレオンにはない才能を持った男だった。政治は女であるから、それもまた、権力者としては必要な技能であったかもしれなかった。




 フーシェが向き合うべきは既に敗残となったバラスではなく、ナポレオンという巨人だった。確かにサン・クルーでのナポレオンは失態があった。しかし今となってはクーデターが成ったという結果が全てを覆している。総裁政府は倒れ、執政政府ができた。政府の腐敗に耐えてきた民衆は歓迎している。加えて、執政政府時代のナポレオンは、ある意味では皇帝時代を超えて完璧だった。それほどに執政政府は何もかもがうまくいった。
 ナポレオンとっては英雄たることが全てである。金や権力は付随するものでしかなく、英雄ナポレオンの必要経費に過ぎなかった。ナポレオンには一種の無私性というものがあった。軍隊では兵達と同じ食事をし、雨の中を濡れながら行軍する。そのような生活を自分に強いた人物だ。政府の宮殿の中にあっても、同じ事をした。
 ナポレオンの最も栄光に輝く業績とは、全ヨーロッパでの勝利や活躍ではない。革命の成果は保持したまま、革命のやり過ぎた部分を抑え、国内を安定させて国内に行き渡らせたということだ。
 革命において、ナポレオンは大いなる功績を挙げたわけではない……あくまでも革命以後の英雄である。だが、その革命の成果をフランスに広めたのは確かである。ナポレオンは、埋もれていた民衆の力を引き出した。才を尊び、政府運営にはあらゆる層の者を拾い上げた。元貴族、元王党派、貧民、ナポレオンを露骨に嫌う者。そして、貴族子弟で構成されていた軍も徴兵制に代わり、兵の愛国心を引き出した散兵戦術を活用した。
 ナポレオンの指揮下、フランスの法学者達がその力を結集して作り上げたフランス民法、ナポレオン法典とも呼ばれるそれは、この時代の傑作と言ってもよかった。アッシニア紙幣をはじめとする革命期の不良紙幣を一掃し、国営銀行を設立して経済を安定させた。全国に教育機関を作り、子供に教育を施した。革命によって僧侶の特権は除かれたが、同時に教会とは絶交関係になっていた。その関係を修復し、ローマ教皇との連絡も復活させた。
 そのために戦争が必要だったのは事実だ。オーストリアやプロイセンは王政が続いており、革命を成功させたフランスから革命が広がることを懸念していた。イギリスはそれらの国と共謀し、イギリスに亡命した元王族たちを囲って、フランスを倒そうと試みた。イギリスの助けを得て王族が復帰すれば、イギリスの有利に操れることは間違いない。対フランス同盟は幾度も組まれた。敵国に国を踏み荒らされない必要があり、そのための軍隊が必要であった。
 敵は国外だけではない。贅沢、特権をひたすらに嫌うジャコバン、イギリスと連携し国内から外患を誘致する王党派。自分たちの儲けしか考えないブルジョワ層。総裁政府は多数の敵を作り、それらはそのままナポレオンの敵となったのである。ナポレオンの栄光は、国内の治安を司るフーシェ、巧みな外交で他国と交渉するタレーラン、そして国内へ攻め入ろうとする敵軍に立ち向かう大陸軍なくては有り得なかった。
 政府では精力的に働きながら、ナポレオンは必要とあれば軍の先頭に立った。大規模な敵軍隊の動員の兆しがあれば、すぐさま駆けつけて戦った。機先を制すること、敵より早く動くことで有利を得るのがナポレオンの得意技である。自ら兵を率いることもあれば、自ら敵情を視察することもあった。
 そしてナポレオンが他国の指導者たちと比べて優れていた部分は、広報に力を注いだことである。軍隊での勝利などはもちろんのこと、政府内での活躍や進捗も、政府の公報を通して市内に配らせたのだ。その一方で、反政府的な新聞は厳しく取り締まった。活動が不透明であった総裁政府に比べ(もちろん透明にすれば困る内情ではあったのだが)、執政政府の人気は高かった。
 全て正直に喋ったわけではなく、政府に都合の悪いことは言わなかったし、時には虚報もあったが、しかしそれでも広報の効き目は抜群であった。革命は印刷技術の発展によって大規模になったが、ナポレオンはその統制を行った最初の人である。喧伝によるプロパガンダはナチスが有名だが、ナポレオンもそれらの性格は持っていたのである。しかし当時においては、革命は大正義であった。アメリカで革命があり、イギリスでもあった。ヨーロッパじゅうの国々は革命を希うように望んでいたし、国を支配する王家たちはみなそれを注意してぴりぴりしていたのだ。あのナポレオンのようなやつを生かしておいては、世界中の王家の命が危ない。ナポレオンが躍進するほど、敵は多くなった。全ヨーロッパがナポレオンを憎んだと言っても過言ではない。
 ナポレオンの支配によってフランスは安定し、国力は増大した。貴族子弟からなる兵に比べ、民兵によるフランス軍は圧倒的に強かった。革命の尖兵であるという自覚を持ち、自国のために戦うのである。革命精神とはある意味愛国心の発露でもあった。素食に耐え、信じられない距離を歩いて進軍した。ナポレオンは無限の意志者であった。そのような兵と、そのような指揮官がおり、貴族社会に絶望し、ナポレオンを神のごとく崇める将軍たちもいる。実力があるのに身分がないために、貴族社会では燻っていたナポレオン麾下の将軍たちは、貴族社会でのフラストレーションを爆発させたかのごとく、異様な活力を発揮させて働いた。フランス軍は強かった。
 大陸軍をなんとしてでも潰さなくてはならない。ナポレオンが強ければ強いほどに、反革命の火もまた燃え上がった。ナポレオンは確かに革命を輸出し、同時に全ヨーロッパで戦争を行った。しかし同時にナポレオンに強烈に反応した王家の反発もまた、戦争の燃料の一つであった。一説には二百六十万とも言われる死者をだした一連のナポレオン戦争は、革命と王政存続、巨大なイデオロギーの正面対決であったのだ。ヨーロッパ各地の王たちと、革命を背負って一人で対決したナポレオンは、やはり英雄であった。


 英雄は英雄であり、そして、その背にぴったりと蛭のごとく張り付く男がいる。ナポレオンの戦うべき相手は反革命であり、ヨーロッパの大国であり、後世の歴史家の筆でもある。まったく英雄らしくない、ジョゼフ・フーシェのごとき小男ではない。ナポレオンにとっては歯牙にもかけぬ男だ。ナポレオンの戦うべき相手ではない。
 しかし、この男はその貧弱な腕で、国内外の反フランス勢力を抑え込んでいるのだ。もしもこの男を取り除けば、フーシェは反フランス、反ナポレオン勢力をまとめあげて、陰謀の主となり、ナポレオンの喉首を掻くだろう。フーシェがナポレオンを倒さないのはフランスにとって、そしてフーシェにとって有用であるからだ。フーシェはナポレオンにひたすら尽くすことを誓っている。ナポレオンがフーシェを追放しない限り、そして、ナポレオン自身がナポレオンを裏切らない限りは。
 ナポレオンは自らの能力を、やがては超えてしまう。ナポレオンはあまりにも、あまりにも多くの戦争の火を打ち上げた。その報いは、やがて受けなければならない。その報いから逃れるためには、いつまでも勝ち続けなければならない。
 軍隊の勝利によって人気を得てきた英雄には、いつまでも勝ち続けることが必要だった。ナポレオンは英雄であればこそフランスに対する貢献ができたが、そのためには英雄であらねばならなかった。自らの身体を燃やし続け、その灯りで周囲を照らすがごとくに、燃え続けなければならなかった。そして、やがては燃え尽きるほかはないのだ。そしてその時、フランスはナポレオンを捨て、そしてフーシェもまたナポレオンを捨てるだろう。
 フーシェはフランスの闇であった。そしてナポレオンは太陽だ。太陽は今満天下に、その威光を輝かせようとしている。そのような大勢力の下にあっては、わずかな闇は隠れ、蠢いているしかない。しかし太陽が陰ってゆけば、闇はその勢力を増してゆくのだ。
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RingGing
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