Coolier - 新生・東方創想話

鬼人正邪1797(2) バラス

2021/04/17 17:14:06
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 1797 バラス


 広場の中央に、革命の象徴たるギロチンが、その威風を示してそびえ立っている。だが、粛正の大嵐は終わった。近頃は動きも鈍り、処刑される罪人の数も減った。街は落ち着き、活気を取り戻しつつある。
 陽光の中、ぼろを着た労働者が、俯きがちに街を行く。労働者の視界に、正面から歩み寄る一人の貴婦人が入る。労働者は道の端へ避け、俯き、目をそらす。
(マリー・ローズ・ボーアルネ……元夫人、か)
 労働者は、貴婦人の名前を知っていた。のみならず、色々なことを知っている。ボーアルネ元夫人、貴族の未亡人、ギロチン処刑の直前に牢から助け出された女。
 労働者は顔を隠し、貴婦人の隣を擦れ違う。貴婦人は傘を手に、ドレスの裾をひるがえし、堂々と日の中を行く。
 フードを被った女の従者が、貴婦人から遅れてついて行く。従者と労働者は擦れ違う。一瞬、二人は目が合った。ちらりと見上げた従者の瞳が細くなり、唇が歪んで吊り上がる。
「ネージュ! ネージュ・ノワール。行きますよ」
 はあい、と従者は、少女らしい伸びやかな声で答え、駆け足に去ってゆく。フードの下は黒髪で、その中に、一筋の赤い房が揺れた。
 フーシェ、ジョゼフ・フーシェ。お前を見ているぜ。
 空耳だ。労働者ははっと振り返った。貴婦人と従者は、既に遠い。
 振り返った拍子に、顔に日光が差した。その相貌は、かつては議会にあった。テルミドールの反動を恐れて議会から逃れた男、ジョゼフ・フーシェは再び姿を現した。そして、フーシェの前から姿を消した、行き先の知れなかった少女もまた、このパリに現れた……。フーシェは、再び俯きがちに顔を隠して、道を急いだ。道を行きながら、あの少女がいま、何をしているか、調べる必要がある、と、考えた。


 粛正の大嵐は終わった。かつては王党派や、ロベスピエールに反対する穏健派の首を落としていたギロチンも、ロベスピエールを皮切りに、最左翼たるジャコバン党員の首を落とすようになった。だが、そのギロチンの動きさえ、日増しに鈍くなっていった。権益を得ていた議員や商人の処刑は、民衆には楽しい催しだが、支配者にとっては悪夢以外の何者でもない。

 凪が訪れたパリは、まさしく快晴の様相であった。恐怖政治の冷たい夜は終わった。暖かい陽光が差し込み、戦争が終わって、再び平和が訪れる、と、フランス中が期待した。
 フランス議会の置かれているチュイルリー宮殿、その一室に座るこの男も同じである。空き室に一人、ポール・バラスはいた。
 暖かい陽の当たる窓際に椅子を置いて、バラスは手帖をめくり、今夜の予定を確認していた。銀行家との会合、夜には晩餐会。政治の中枢に座ったバラスは、今や恐怖政治の頃、ロベスピエールに怯えて闇の中を逃げ回った男とは違っている。パリ中を恐怖に陥れていた独裁者ロベスピエールを倒した男……一夜にして、バラスは英雄に成り上がっていた。
 その英雄バラスは、女好きで派手好き、社交も好きで放蕩ぐせがあった。自由経済の扉を開いたバラスは、地位を利用して王侯貴族の宮殿を買い取り、毎夜のごとく貴族、軍人、政治家を家に招き入れて遊び回った。バラスが政治の中枢に座ると踏んだ富裕層からの献金は余るほどになった。更に豪商、銀行家、貴族との密会を重ね、便宜を図り、金を増やした。この当時、貴族や商人、有力な著名人は自分の屋敷にサロンという集まりを持っている。酒、食事、それから弁論……人材の繋がりは、サロンを経て強固になり、相互に得をする。斡旋や周旋ばかりで得をするのは、伝手を持つ者ばかりだった。単純労働者、かつてのサン・キュロットたちの立場は悪くなる一方だった。彼らは革命という夢を見、その一部は手にしたが、何もかもが貧民の物になるというわけにはいかなかった。
 今やパリは、金こそが天下であった。バラスが天下を取ったというよりも、むしろ、金、資本こそが、ロベスピエール亡き後のこのパリの、真なる主人と言った方が正しかった。金をちらつかせれば人は動く。ギロチンによる刑罰、死の恐怖をちらつかせるよりも素直に、喜んで動くのである。バラスはその欲望を操るのに長けていた。何しろ自身がその欲望の輩であるから、同類が何を望んでいるのかはっきりと分かったし、どう動かせば良いか、手に取るように分かるのである。
 彼は政治については特筆するところはなかったが、自身の欲望と安全を守ることに関しては一流であった。立場を得て、その席に座る時間が長くなるほど、バラスの立場は強固になった。清廉とはほど遠い、腐敗議員バラスは、政治の中枢に腰を据えて、その本領を最大限に発揮していたのだった。
 となれば、バラスのすべきことは会議や勉強ではなく(そういう地道なのは、したい奴にさせておけばいい)、自分の屋敷で晩餐会や舞踏会を開き、貴族や議員の友達と遊び、そして女たちと楽しむことであった。情を交わした女はこれもまた繋がりであり、一時気分を良くさせておけば、後々に友誼を期待できるのである。バラスは女の扱いもまた長けていた。
 手帳をめくりながら夜の楽しみを考え、楽しくしていたのに、それを邪魔する者があった。部屋に踏み入った者は、側に立ち、バラスの名を呼んだ。大男の影が、部屋の中に差した。灯りは遮られ、室内はにわかに暗くなった。
「バラス、話があるんだが」
「カルノー」

 ロベスピエールが去った後、国民公会は廃止され、新たな政府が出来上がりつつあった。議会政治であることには変わりないが、新しく作られた総裁という立場の五人が、その実際を差配していた。後には、この時期を指して総裁政府と呼ばれることになる。
 総裁政府で中心となったのは、タリアン、バラスを始めとしたテルミドールのクーデターの中心人物たちである。ロベスピエールのごとき急進的革命派ではなく、かといって王党派でもない彼らのことを人々はテルミドール派と呼んだ。政治的主張は特になく、流されるがままに気づけば頂点にいた連中の集まりだ。革命を受け継いではいるが、ブルジョワにも配慮をする、中道派と言えば聞こえは良いが、実質は八方美人、優柔不断な連中の集まりであった。情熱も理想もなく、賄賂をもらっては私服を肥やしていた。中でもバラスは総裁政府の中枢である五総裁の一人となり、テルミドール派の頂点と言ってよかった。
 そのように腐敗する派閥がある中で、硬骨な人物もいた。ラザール・カルノーがそれである。彼もまた、総裁の地位に就いていた。彼は元軍人であり、政治家でありながら数学者でもあった。革命に命を捧げる熱心な共和主義者でありながら、急進に過ぎるロベスピエールとは距離を置き、冷静に革命を進行しようとしていた。愛国者でもある彼は、国家のためならば貴族であれ、有能な者であれば守ろうとした。そのためにロベスピエールから指弾されたことがあったが、カルノーは正面から反論した。ロベスピエールを誰もが恐れたが、カルノーは恐れなかった。一方でロベスピエールもカルノーが清廉かつ有能なことを知っており、彼を責めても刑に処すことはなかった。
 カルノーはロベスピエールのジャコバン党があまりに独裁で、害の大きいことを知りながら、革命のために政変を起こすことを好まなかった。彼はテルミドール派のクーデターにも積極的にはかかわらず、ことが進むに任せたのである。彼は仕事のために政府にいるというような感じであった。
 総裁政府では、カルノーは軍事方面の総指揮を担当した。フランス国境では、今も対オーストリアとの戦争が続いている。革命によって国内は混乱したが、王政が去り、ようやく軍と政府はうまく回り始めていた。バラスも、金で要職を売ってはいたが、さすがに軍事の部分には口出しをしなかった。パリが危なくなれば、自由な遊びはできなくなる。
 彼は一日に十六時間を執務に充てたと言われる。共和制フランスの新たな軍隊を作り上げ、かつ運用したカルノーを人々は『勝利の組織者』と呼んだ。ナポレオンの活躍で有名なイタリア戦線は、ある種カルノーの作品でもある。総裁政府の屋台骨と言っても過言ではなかった。
「何だよ、カルノー。俺は忙しいんだ」
 手帖をめくる手を休めずに、バラスは言った。カルノーが多忙であることは言うまでもない。今も、執務の合間にバラスを見かけただけのことなのだが、バラスは頓着することがない。カルノーの方でも気にせず、言葉を継いだ。
「フーシェと君は中が良かった。奴がどこへ行ったか、知らないか」
「知らないねえ」
 バラスは知らん顔だ。そもそも、バラスはフーシェが人間的に好きではなかった。こそこそと嗅ぎ回って、色々と物に詳しいし有能だが、陰気だ。酒も飲まないし、女もやらないつまらない男。口を開けば陰謀の話しかできない男。
 カルノーはふん、と鼻息を荒くした。
「それにしても、どうした。フーシェだなんて小物、お前が相手することないだろ。総裁のあんたが」
「奴はジャコバンだ。有力なジャコバン党の連中は概ね片付けたか、監視下に置いているが、フーシェの居所が掴めない。……と、警察長官から相談を受けてな。お前なら知っているんじゃないかと思った」
「言った通りだ。知らないねえ」
 カルノーはその巨体を、のしのしと歩ませて、廊下に消えていった。ふん、とバラスは手帖を閉じた。あいつも嫌いだ、仕事人間のくそ真面目。仕事をして何が楽しいかね。政治も仕事も、そこそこに手を出すに留めておいて、後は遊ぶのが一番だろ。
 バラスは手帖を閉じると立ち上がった。帰るのに良い都合ができたのだった。久々にフーシェでも見舞ってやるとするか。


 フーシェは何をしていたのか。バラスが英雄として登り詰めている間、テルミドールのクーデターの立役者たるこの男は? この時期のフーシェの足取りについて、正確な記録は何もない。後年のフーシェにとって、この時期は暗黒期であって、誰にも知られたくない事柄だっただろう。ただ唯一付き合いのあったバラスの後顧録が示すところによれば、妻と子供たちと暮らしていた屋根裏部屋のことが分かる。彼は窮乏の中にあった。貧民街の最も安い貸部屋に、家族で身を寄せ合って、明日の食事にも困るような生活を送っていた。
 フーシェは生きていた。ともかく、生きていた。ロベスピエールとの戦いと、その後の、振り下ろされるギロチンの刃から身をくぐって生き延びた男は、貧困という名の果てなき戦いへと身を漕ぎ出していたのである。議員としての収入はもうない。彼を知っている者は、彼を使おうとはしない。フーシェは、流忙の日々を強いられた。
 ロベスピエール以後、街はロベスピエール時代よりも荒れていた。腐敗議員がのさばり、恐怖政治下ではおおっぴらにできなかった贅沢主義が復活し、ブルジョワたちはロベスピエール時代の鬱屈を晴らすように明るく、華美に過ごしはじめた。だが、値上がりしたパンの値段は下がらず、供給も行われず、貧民は飢えた。ロベスピエールが行っていた街角の配給さえ打ち切られた。飢え死にする人間は以前よりも増えた。
 金持ちの子供たちによる愚連隊が組まれ、「ジャコバンくたばれ」を合言葉に、かつてのロベスピエール派、左翼の連中、共和党主義者、ジャコバン党と見れば、棒きれで叩いて撲殺した。街には餓死死体と撲殺死体が転がった。そのような有様であるから、生活困窮者への援助策を口にする議員も少なかった。ジャコバンと呼ばれるのが怖かったのだ。一昔前には、ジャコバンでない者は人権がないような有様だったのに、時代は変わったものである。ロベスピエールは国を救おうとし、そして殺された。殺したのはフーシェと腐敗議員たちである。議員たちの腐敗により、フーシェは飢えている。

「いよう。……相変わらず、汚い部屋だねえ」
 バラスのきらびやかな服装は、部屋から絶望的に浮いて見えた。フーシェは働きに出ていて、留守であった。家には妻と、子供たちがいた。狭い部屋、汚い子供、汚い臭いのする服、着替えもない生活……金がない、というのは、嫌だねえ、とバラスは思った。バラスは、フーシェは嫌いだが、彼の境遇を見るのは好きなのだった。こうはなりたくない、と思い、金のある自分が誇らしく嬉しくなる。ま、あいつにお似合いの住まいと生活だろ。バラスは楽しくて笑った。
「奥さん。フーシェは相変わらず身を粉にして働いてるのかい」
 ええ、と控え目に、フーシェの妻は答えた。フーシェのこの妻は、ただ平凡な、気の優しい女であった。フーシェの立場や仕事について、必要以上のことは知らなかった。フーシェの仕事の全てを知ったとしても、ただおろおろとするばかりで、何もできなかっただろう。彼女はただ家族を愛することだけが取り柄の、田舎の女であった。だが、フーシェにとってはそれで良かったのだろう。彼は愛妻家であった。
「ああ、そうかいそうかい。また来るよ。邪魔をしたなあ」
 バラスはすっかり満足して、いやらしい笑みを浮かべて、フーシェの住まいを辞した。

 フーシェはその頃、広場の片隅のカフェで、雑用の手伝いをしていた。倉庫を建て直すので、その中の資材を移すのである。かつての議員服を着ていたフーシェの姿はなく、着古したぼろを着て、埃にまみれて麻袋を担いでは下ろしている。肉体労働をするフーシェ。泳ぐ鳥、空を飛ぶ魚のようなものである。全く自分らしくない仕事だと、フーシェは文句を心の内側に隠して、ただひたすら働いた。
 フーシェは肉体労働が得意ではない。彼の父親は漁師であったから、普通なら家を継いで漁師になるのが普通であろうが、彼の父親は聡明な息子が漁に向いていないことを知り、代わりに息子を僧院へやったのである。
 フーシェは、議員を辞めて以来、できることは何でもした。豚の飼育さえやったと伝えられている。日雇いの肉体労働、手に入れた情報の売買、ちょっとした裏仕事の請負。だが、定職を持たない彼は常に困窮していた。
 フーシェは元々金というものに無頓着であった。世間にいれば窮乏も知ることがあっただろうが、彼は僧院にいた。王政が倒れ、共和国の議員として選ばれた議員たちは特権を利用して貴族や僧侶、ブルジョワから金を没収して懐に入れたが、フーシェはそのようなことはしなかった。給金で十分に暮らせるつつましい暮らしをしていたのである。リヨンでは派手な収奪をやって、国家を富ませもしたが、自らのポケットに入れることはしなかった。そのような形跡がロベスピエールに見つかればギロチン送りの証拠になることを恐れたこともあるが、フーシェには隠し財産を作ったり、商人と繋がって儲けると言ったことには疎かったようである。
 しかし、窮乏してみれば、金はいかに大切なことか。どれほどの力となることか。いまや天下は金の流れを一手に仕切るブルジョワのものである。政府には汚職がはびこり、議員はブルジョワと手を組んで互いの利益を図っている。そのやり方を改めて学ぶべきだとフーシェは感じた。ロベスピエールは倒れ、それを咎めるものは誰もいない。
 それに、今のフーシェは一人ではないのであった。議員になるため、地方の名士の娘を嫁に貰った。けして美しくはない凡庸な女だったが、心優しく、適度に鈍い女であった。フーシェの切れるように鋭い頭脳を信じ、全てを委ねた。鋭敏な感覚の持ち主では、フーシェを怪しみ、フーシェのしていることを許せなかっただろうし、現実に耐えられもしないだろう。フーシェの妻は強い女でもあった。鈍さとは一種の強さだ。
 フーシェは妻を困窮させることも悪いと思った。フーシェは悪辣な男であったが、愛妻家で、自分の家というものを愛していた。家族に対して責任を感じ、そうするしかなかったとは言え、飢えさせることを悪く思った。フーシェの一生のうちで、裏切ったことのないものは、この妻と家族だけだった。フーシェは愛妻家で、良い夫で、良い父親であった。生涯その通りだった。
 妻は名士の娘で、苦労などしたことのない女だ。喰うものにも困るということは、初めてのことだろう。編み物などをして家計を助けてくれている。フーシェは、妻に悪いと思いながら、止められないことがあった。それは陰謀だった。フーシェはいつでも、ポケットに小銭を入れて歩いていた。ひそ、と道端で、他人を装って耳打ちしてくる密偵たち。彼ら、彼女らが持って来る情報に対して、与えなければならない見返りというものが必要だった。フーシェは人並み以上に働いた。だが、陰謀のために使っていれば、いくら儲けても楽はできないし、困窮してゆくままなのである。その収入のうちいくらかは、陰謀の中から得ていたのだが、有用な情報がいくらでもある訳はなし、暮らしは一向に楽にならないのであった。
 一方で、展望もあった。フーシェにはある計画があったのである。だがそれには足りないものもあった。できれば、定期的に情報を仕入れてくれる、上流階級にでも潜り込める人物がいれば、もっと有利に事が運べるのに、と思うことがあった。
 ともあれ、計画のことを考えるのは後であった。今はすべきことは、目の前に積まれている、穀物の詰まった麻袋を、こっちからあっちへ運ぶことだ。何も考えない、嫌になるほど単純な作業。威張った監督が、後ろから見つめている。こんな、馬鹿にでもやれるような作業を、毎日やっている。毎日毎日……。陰謀のことを考えでもしていないと、どうにかなってしまいそうだった。フーシェには労働のことよりも、何も考えないということの方が、辛いのである。こと、一度陰謀の楽しさを知ってしまった今となっては。
 俺はロベスピエールを倒した男なのだ、という自負がフーシェの内にある。
 フーシェは僧院にいた頃の教師フーシェでも、国民公会の議員フーシェでもなくなっていた。いまは、全く違った男になっていた。陰謀のために陰謀を行う、変節漢、冷血動物フーシェである。今はその過渡期だった。ロベスピエールはフーシェのことを指して、「主義主張を、服を着替えるように、変えられる男」と言ったが、全くその通りであった。ロベスピエールが死んだ後、ロベスピエールの言葉通りになろうとするかのように、フーシェはますます変節漢へと成ってゆくのだった。
 バラス……バラスのことを考えた。バラスは、フーシェにとって、唯一の議員との繋がりだ。バラスは時折フーシェのところを訪れる。だが、奴の側にいるのは危険だ。反動が、すぐそばまで迫っている。バラスたちテルミドール派への反発は、町中に溢れている。当然だろう。溢れる餓死者に、一向に楽にならない暮らし。テルミドールのクーデターの日には、あれほどバラスを解放者と歓迎していた民衆が、今すぐバラスを殺せと言い出しかねなかった。だが同時に、バラスの繋がりは惜しかった。いまここにバラスがいれば、フーシェの計画の結実はまた一歩近付くことだろうに……。
「いよう! 久しぶりだねえ!」
 フーシェはびくりとした。バラスの声だ。どうしてここに。倉庫の中には、もちろんバラスはいない。フーシェに声をかけたわけでもない。
 フーシェは、倉庫から倉庫へ移る一瞬、外を見た。煌びやかな服装をしたバラスが、すぐ外にいた。フーシェはすぐさま目を逸らした。あいつ。ここで何をしてやがる。


 マリー・ジョゼフ・ローズ・タシェ・ド・ラ・パジュリ……それが彼女の最初の名前である。後にボーアルネ子爵夫人と名乗り、夫が刑死した今は、元ボーアルネ子爵夫人と名乗っている。そして以後には、名前の一部であるジョゼフの女性名詞をあだ名として呼び、ジョゼフィーヌと呼ばれることになる。それが彼女の最も知られた名前だ。ナポレオン夫人、そして後の皇后陛下である。
 彼女は西インド諸島の生まれで、フランス植民地下にあったその島から、前の夫であるボーアルネ子爵に連れられてパリへと来た。南国の育ちらしい闊達な明るさと、話し上手な社交の才があった。彼女がいれば、サロンの空気はぱっと明るくなったと言い、ナポレオンの政敵や、彼を蛇蝎のごとく嫌っている者達も、彼女に微笑みかけられ、言葉を交わした後には、その意気を和らげたという。ナポレオンが偉くなったあとも兵士と気さくに話したというから、おっかさんとか呼ばれて、兵たちからの人気も高かった。
 そのローズは、くたびれて、自室で座っていた。「ああ、どうしましょう」考えるのはそればかりなのである。彼女もまた、フーシェと同じく、困窮の日々を送っていた。子供のうち一人は寄宿制の国民学校へと行かせた。学校に行かせるにも金はいるが、学校から来る請求書は後回しにできるし、軍に入ることができればその俸給から支払うこともできる。それでも子供はもう一人いるし、二人の従者にも支払いをしなければならなかった。幸いなことに従者はうるさく言わなかった。二月三月と支払いがないのはよくあることであるし、屋敷で食事は出るのである。それでもパリの下等層では充分なことであった。ローズは毎日来る請求書、取り立て人とのにらめっこの日々であった。
 彼女の夫であるボーアルネ子爵は、軍人として戦争に言ったが、貴族であったために処刑された。彼女も牢に入れられ、いつギロチンへと引き出されるか分からない日々を送っていたのだが、テルミドールのクーデターにより解放された。
 革命以前は、勿論貴族の妻であったわけで、その頃の貴族と言えば、領地からの税収で贅沢暮らしである。毎日新しいドレスや宝石を買い、高額な掛け金で賭けをし、料理はいくらでも金をかけて……そういう生活を、彼女は一切改めなかった。もちろん蓄えはなく、収入がなくなればたちまち枯渇する。現実的な金銭の問題で、妥協せざるを得ない部分はあったが、欲しいものは借金をしてでも、後払いにしてでも買った。そういう、本質的な部分は一切変わらなかった。彼女は大変な浮気癖と浪費の癖があり、浮気癖は後に収まったが、浪費癖は生涯収まることがなかった。
 貴族の元妻となれば、また商人か、貴族か誰か、金を持った人間と結婚する。彼女一人では当然生きていけないからだ。そうなれば、お金はすぐにでも回収できる。むしろ、得意様となってくれる可能性もある。だから、借金をしても、後払いで買い物をしても、商人の取り立てはひどくはなかった。商人にとってはむしろ、機嫌を損ねてそっぽを向かれてしまう方がこわい。それに、商人たちは今はよい時期で、裕福であった。
 ドレスや宝石の商人は、大量の金を懐に持っている。それよりもローズにとって怖いのは、パンや肉などの生活品の費用だった。後払いは効かないし、生活品販売の者たちも貧乏をしている側なのだ。
 実家への借金はもう頼んだ。頼みすぎるほど頼んだ。知り合い、友達にも。あと頼めるところはあったかしら、と、ローズはいつも、手紙を書きながら、「どうしましょう、どうしましょう」を繰り返すのである。同じ貧乏でも、フーシェとは全く気色が違っていて、実に華美で贅沢な貧乏なのだった。またテレジアに夜の集まりに連れってもらって、友達を作らないと。
「またいつものどうしましょうですか、奥様」
 二人の侍女のうち、新しく雇った方の侍女が、ローズに声をかけた。二人の侍女のうち、一人は年嵩で、ローズが捕まる以前からローズの侍女だった。あまり私情には立ち入らない主義の人だった。優しいが、領分をわきまえた、規律を守る人だ。ローズの代わりに取り立て人を追っ払う時には、誰よりも頼りになる。
 もう一人、いま現れた侍女は、ごく最近雇った若い女だった。名前をネージュ・ノワールと名乗った。妙な名前だ。フランス語で、『白と黒』を表す。
 話し好きで気安く、仕事は最低限、やる気がないと年嵩の侍女から聞かされるが、特にローズは気にしない。むしろ、侍女の仕事が空いている時に、トランプ遊びを付き合ってくれたり、色々と話し相手になってくれるので、退屈をしている時には良い友人のようだった。家では話し相手のいないローズ夫人は、この侍女を長い友人のようにさえ思い始めていた。ローズ夫人は惚れっぽく、忘れっぽいので、少し話せば相手を親友のように思うことのできる女性だった。
「奥様、焦っても仕方ありませんわ。また、別のことを考えれば良いのです。奥様、広場では、いろんなお店が開いております。革命の頃は色々と憚って閉めていたようなのですが、今は賑わっているみたいですわ。奥様、私今しがた、午前の仕事が片付きまして、手が空いているのです。どうですか。一緒に行きませんか?」
「ネージュ、良いことを言うわね。そうね、考えても仕方ないもの。行きましょう」
 この調子であった。ローズは享楽的な人間であった。ローズはたちまち立ち上がると、侍女に外出の用意をさせ、年嵩の侍女に外出することを伝えると、すぐさま屋敷を後にした。バラスに呼び止められたのは、広場のカフェへと着いた頃であった。


 議会を後にし、フーシェの家も出たバラスは、広場に出た。そこで、見覚えのある女性を見かけたのだった。バラスは大変な好色である。一度見た美貌の持ち主は二度と忘れない。ローズのことも当然知っていた。タリアン夫人となったテレジアと共に、バラスのサロンへと来たことを覚えていた
「いよう! 久しぶりだねえ!」
 大声を出して、バラスはローズへと歩み寄った。ローズは振り向き、バラスを見た。ああ、とローズは笑顔を作った。近くの倉庫脇で、びくりと身体を震わせる労働者には、二人とも気付いていない。
「ええ、久しぶりね、バラスさん」
「バラスさんなんて、他人行儀な呼び方はやめてくれよ。ポールと呼んでくれ。こないだは無事に帰れたかい、ローズ」
「ええ、おかげさまで。今日はこちらのネージュとカフェに来たんですのよ」
 ネージュは、従者の弁えとして主人の後ろに控えていたが、ローズの前へ歩み出て、挨拶をした。
「初めまして、バラスさま。ネージュと申します」
「おお、それはそれは。よろしく、お嬢ちゃん。もう十年したら、俺の屋敷へと来るといい」
 ありがとうございます、と、ネージュは応じた。バラスはローズへ向き直った。
「どうだ、ローズ。カフェに行く予定はやめにして、うちへ来ないか。うちで話をしよう」
「いやですわ、バラスさん……こんな往来で誘うなんて」
「おお。悪かったなあ、ローズ。しかし……君、相変わらず借金があるそうじゃないか。どうだ、手伝ってやろうか」
「あら……」
 ローズは手を頬に寄せて、思案顔になった。悪くないと思っている。ローズは好色で、バラスは今やフランス一の金持ちで、借金も解決できるのだ。思案顔は、安売りしないための演技と見てよい。
「俺の方も手伝ってくれたら、手伝うのもやぶさかじゃあないんだがなあ」
「ええ……でも、どうしましょ。ネージュと約束しましたのよ。この子は侍女ですけど、大事な友人なんですのよ……」
「うちでお茶くらいいくらでも出してやるよ。そこらには出回らない高級なやつをさ」
「ええ……どうしようかしら。あら、どうしたの、ネージュ」
 ここで、視点はフーシェの方へと移るが、フーシェは二人の話を聞いていた。というより、聞こえていた。カフェに来たのか、と思った。バラスの奴は声がでかい。
 更に悪いことには、その側には見覚えのあるやつがいるのである。一度、以前、広場で擦れ違ったやつだ。正体の調べもついている。ローズ夫人はともかく、その連れがさっきからずっと、フーシェの方を見つめている。麻袋を取りに倉庫に入って、出てくるたび、視線を感じる。フーシェは俯きがちに目を落とし、作業に没頭した。身を隠したいほどだった。だが、倉庫の表では、サボる奴はいないかと、現場監督が目を光らせている。逃げ出すことはできない。日々の暮らしにも事欠く有様では、一日たりとも仕事は無くせない。
 フーシェは様子を窺っているうち、変化に気付いた。ネージュが、フーシェに手を振っている。止めろ馬鹿。
「どうしたの、ネージュ」
「いえ、あそこに、古い知り合いを見つけたもので……」
「んん? 小汚い労働者じゃないか。あいつらは可哀想だなあ……革命に乗っかって儲けようって考えもないし、実行に移す頭もないから、下らない肉体労働なんかをさせられてねえ……」
「ねえ、バラスおじさま? あの方も呼んであげても構いませんかしら? きっと、面白くなることでしてよ」
「あぁ?」バラスは不思議なことを言われて戸惑った。「ダメだダメだ、あんな小汚い奴をどうして呼んでやる必要がある」
 労働者……フーシェは、顔を伏せて離れようとした。だが、ネージュは駆け寄った。来るな馬鹿。
「ねえ、ねえ、おじさん。こっちにおいでよ。一緒に遊ぼう?」
「何のつもりだ、貴様」
 フーシェを呼ぶネージュに、フーシェは小声で脅しをかけた。ネージュは実に楽しそうに、にやあと笑った。
「まったく、勝手な小娘だ」バラスとローズが話している。「すみません、バラスさん。……こら、いけませんよ、ネージュ」
 ローズがネージュの側に寄り、フーシェに頭を下げた。いいえ、とフーシェは小声で、目を逸らして言った。はやくどこかに行け、と言わんばかりに、ネージュに向かって手を振った。ネージュはますます楽しそうに笑って、袖を引っ張って、戯れるようにじゃれついた。フーシェはますます不機嫌になった。
 バラスは三人の様子を、ぼんやり見つめていた。……その労働者の姿が誰なのか、眺めているうちに、次第に分かってきた。労働者はバラスの目を避けようと、必死に顔を隠している。今し方、家を訪ねた奴のような気がしてきた。そう言えば、あいつはこういうところで働いていても、不思議のないやつだった。
「こら、貴様。くっちゃべってないで、働くんだ」
 しばらくは雑談を許していた作業の監督役も、ついに歩み寄って見咎めた。フーシェと監督の間に、バラスは割って入った。五総裁のバラスは、パリでよく顔を知られている。どうしてここに、と監督は考えた。しかし、下手を打つことはできない。
「いいんだ。こいつはしばらく預かる。文句ないだろ?」
 バラスはフラン金貨を一枚、監督に握らせて言った。監督はへえへえ、それはもう、と答えた。それから振り返って、その様子を眺めている他の労働者たちに、何をしているんだ貴様ら、手を休めていないで働け、と喚いた。
「さて、行こうか、フーシェ。しかし、貴様、ローズの従者の知り合いか? 妙なところに繋がりがあったもんだな。それとも、他人に知られちゃいけないやつか? まあ、どうでもいいから、付き合えよ、フーシェ。今からカフェに行くところだったんだ」
 バラスがフーシェを掴んでいた。バラスの意地の悪いにやついた笑みが、実に近くにあった。間の悪いところで捕まった、顔色の悪い、不機嫌なジョゼフ・フーシェは、こうしてローズ、バラス、そしてネージュと共に、カフェへと連れられて行ったのだった。


 カフェは明るく、騒がしかった。ここにもロベスピエールが去ったあとの明るさが満ちている。派手好きのバラスが入ってゆくと、それに気付いた客たちはバラスをちらちらと覗き見し、バラスは楽しげに当たりを見回して、端の席に座った。帽子を目深に被って顔を隠しながら店へと入ったフーシェを奥へやらせ、ネージュをその隣に座らせた。バラスは大きく手振りをして、珈琲を四つと頼んだ。フーシェはネージュの耳元へ唇を寄せ、素早く囁いた。「どういうつもりだ。貴様。私の立場を知っていて」ネージュは知らん顔で答えた。「あんたの立場を知っているからこそだろ。私はいつでも、貴様のために働いてやってるんじゃないか」そう嘯くと、ネージュは笑顔を作って、声を大きくした。バラスとローズ向けの声色を作った。
「私とあなたは古い友達ですもの。お誘いしても不思議ではありませんでしょう? それに、あなたは、ここにいる総裁バラス様とも、友達でいらっしゃる」
「何をこそこそとやっとるんだ、貴様。こそこそするのは闇の中だけで充分だ」
「いいえ。久々に会った旧縁を暖めておりましたのよ」
 ほほほ、とネージュは笑った。それは良いことだ、と、バラスもまた楽しげに笑った。フーシェを馬鹿にして遊べるなど、そうそう無い機会だ。思えば、バラスがフーシェの貧乏を馬鹿にするのも、この冷徹で隙のない男を、唯一責め立てられる機会であるからだった。金の有無というのは奇妙なものである。テルミドール前夜では、明らかに立場は同じだった。それが今や天と地のような有様だ。
「おい、おい、そういや俺達も久々じゃないか。ちょくちょく、様子は探っていたが、貴様にちょうど良く行き当たることなどそうそう無かった。たまには俺様とお茶を一緒してくれてもいいんじゃないのか。なあ?」
「そのような調子では困る」
「あぁん? いいだろ?」バラスは手を伸ばし、フーシェの肩に手の平を押しつけた。フーシェを抱くような形になる。「どうせ貴様のような小汚いやつが、かつての議員様だと誰も気付かないさ。まさか、この汚い日雇いの労働者が、かつてロベスピエールと大喧嘩をやらかしたジョゼフ・フーシェだとはよ」
「やめてくれ」
 おお怖、と大袈裟に降参のポーズをして、バラスは離れた。ネージュはフーシェを真似て、同じポーズをして見せ、フーシェを指差して笑った。バラスも一緒になって笑った……場の雰囲気は、どことなく明るく、馬鹿になったような爽快さが溢れた。ローズ夫人も口元に手を当てて、くすくす笑った。
「お二人とも、まあ、まあ、ですわ。それに、わたくし、まだ自己紹介もしておりませんのよ。いい加減に、そちらの方がどういった方なのか、教えてくださいませんこと?」
「ああいいとも。ご婦人、こちらのお方は、その名も高き……」
「ご婦人、ご無礼をお許し頂きたいが、いまは名乗ることができないのです」
「だ、そうで。ここは名無しとでもしておいてやってくれ。ネージュの奴に聞くとよかろう。何しろ明るいところへは出られない身分のやつだから」
 あら、とローズ夫人は軽い驚きを示したけれど、特別不満そうな顔は見せなかった。
「マリー・ローズ・ボーアルネですわ。ローズと呼んで下さって構いませんわ。名無しの方、名前がないことは、構いませんことよ。たまには、あなたのような方と付き合うのも、面白みがあっていいですわね。非合法なことでもやっていらっしゃるの? 反政府活動とか? それとも、王党派の方なのかしら?」
 非合法活動、反政府活動、王党派と、ネージュは繰り返し笑った。バラスはネージュと一緒になって笑った。フーシェは居心地が苦虫を噛みつぶしていた。こいつら、苦手だ。
「こいつはだな、ロベスピエールと大喧嘩をやらかしたんだ。それで、俺があのロベスピエールを倒した時、ついでに助けてやったんだ。もう少しで、こいつはギロチン行きだった。あんたと一緒だな」
 おお、とローズは身体を震わせて、自らの身体を抱いた。
「ロベスピエール! 名前をきくだけでも、震えが蘇りますわ。恐ろしい方。釈放が一日でも遅れていたら、私はギロチンの下でしたのよ。ああ! 私とあなたは一緒だわ。でも、もう安心ね、あなた」
 マリーが自分の好奇心のままに、バラスやネージュとは違う面白がり方をして、フーシェに語りかけるものだから、フーシェは仕方なしに返事をした。「ええ……」
「でも、今は下働きをしていらっしゃる?」
「命は助かったんだが、議員には戻れないんだ。色々と後ろ暗いところがあってな。な?」
 フーシェはただ頷くばかりで、バラスが代弁をして、答えてやっていた。ローズはフーシェに対して、いかに無口な人間だと思ったことだろう。
「でも、危ない方ではありませんの、バラス? もし反政府的な方なら、あなたの敵ですのよ」ローズ夫人は貴族特有の、もしくはローズ夫人特有の、普通なら聞かないだろうところへ、あっさりと踏み込んだ。こういう明るさがローズ夫人にはある。
「ああ、大丈夫さ。こいつの秘密は俺が握っているようなもんだ。それに、誰も、俺に逆らえるやつはいないさ」
 ちょうど珈琲が届いた。口をつけて、お、なかなかうめえ、場末のカフェの割には、とバラスは言った。珈琲を飲み始めたのをきっかけに、会話はフーシェから離れ、三人は雑談を始めた。
 誰も逆らえない。その通りだ。今のパリで、バラスを倒すのはなかなか骨だろう。だからこそ、俺は日雇い労働で日々を過ごしている。……いや……日雇い労働ですらない。金持ちたちの遊び道具にされている。
 俺はなぜこんなところにいるのだ。本来ならば、陰謀を組み上げつつ、仮初めの姿に日雇いをやっているのではないのか。これは本来の俺の姿ではない、とフーシェは思った……何しろこれでは、活力に満ちた陽気な貴族たちの会合で、そこに混じれない陰気な男だ。俺は本来こういう場所にいるべき人間ではないのだ。フーシェの思考は、会話に混じれないぼっち的思考そのものであった。
「それにしても、ネージュ、あなた、こんな方とお知り合いだったのね?」ローズがネージュにそう言った。再び話題はフーシェのところへ帰ってきた。
「ええ。私、ロベスピエールの恐怖政治の間、この方のお手伝いをしたんです。色々と怖い目にも合いました。私、ロベスピエールの台所の棚から、パンを盗み出して、この方と二人で分け合って食べたんですよ。食べるものはないけれど、他の方から盗むのは心苦しくて……」
 バラスはいかにも面白そうに笑った。
「大した義賊だ。あの野郎はそうされても仕方のない奴だったぜ」
「へええ、あなた面白いことをしてたのねえ。今度はこのバラス様の屋敷から、お金を盗み出してきてくれたら嬉しいわ」
「十年してからなら、盗みに来てくれても構わないぜ。金は俺のパンツの中に隠しておくからよ」
 ははは、うふふ、がははと笑い声が響いた。フーシェは話題に入れず、入る気にもなれなかった。フーシェは上流階級の方々の暇潰しに付き合わされた。


 外に出ると、広場は陽光に包まれて、明るい雰囲気があった。ギロチンは動いていない。バラスが伸びをして、フーシェは一番後に出た。四人が連れ合ってカフェから出た後、ネージュは言った。
「ローズ様、バラス様、私、フーシェ様とまだ話がしたいわ。ね、お別れしても構いませんか?」
「ああいいだろう。ローズは、俺が責任を持って、送り届けるからねえ」
「もう、バラスったら。もう……」
 馬車へ乗り込んでゆく二人を見送り、フーシェに、「さ、フーシェ様。私たちも行きましょう」と、ネージュがフーシェの手を取ろうとした。だがフーシェはその手を払いのけた。しかし、ともかくも、同じ方向へ歩き出した。
 こうして、バラスとネージュの思惑は一致して、四人は別々になった。バラスはマリーと、ネージュはフーシェと。
 フーシェとネージュ、二人の足取りは、自然と暗い、隠れた、路地の方へと向かった。影に隠れると、ネージュは立ち振る舞いを変えた。手を振り上げてフードを取り、頭を出して、頭の後ろで手を組んだ。
「ふう。あの女と話を合わせるのは疲れるぜ」
「……正邪。鬼人正邪。何がネージュだ。どういうつもりだ、貴様」
「ネージュ・ノワール、だ。今はそれで通しているんだ。それに、そちらこそ、『名無しの方』。良い名前だぜ。どうした。怒ったかい」
 ようやくここに至って、ジョゼフ・フーシェと、鬼人正邪は再会したのであった。フーシェが子供の墓参りをして以来、二年ぶりの再会であった。
「いいや」フーシェは言った。苦虫を噛みつぶした顔は消えて、推し量りがたい無表情、無感動が戻ってきている。「貴様相手に怒っても仕方がない。どういうつもりかも、聞いても仕方がない。貴様はそういう奴だ」
 へへへ、と正邪は笑った。
「どういうつもりかも、大体分かっているんだろう? さあて、革命だ。革命の風だぜ。またひっくり返る、何もかもがさ。フーシェ、貴様、見逃すつもりか。違うだろう?」
 革命の風、と正邪は言う。フーシェもそれは感じている。
 ロベスピエールを倒した後、ロベスピエールを敬愛していたジャコバン派たちはバラスを恨んでいる。ロベスピエールが抑え付けていた王党派たちや、ジロンド党の議員たちが勢いを盛り返している。国境線では戦争が続いている。どこで火を噴いてもおかしくない。今のパリは、火薬庫そのものだ。この機に乗じて陰謀を企むならばバラスを倒すことは不可能ではないだろう。だが……。
「……いま、パリを支配しているものについて知っているか。正邪」
「ああ? バラスだろ。総裁政府とやらは、バラスとその友達のお城じゃないか」
「違う。バラスは金に踊らされているだけだ。汚職で金を集め、その金をばらまいて味方を増やしている。自分が金と政治と世の中を操っていると思っているが、間違いだ。バラスを頭に置いておくと都合の良い人間が多いだけのことだ」
「ふうん? ……で、どうするんだ、フーシェ」
「たまには自分で考えてみろ。……私は仕事に戻る。正邪、また話をしたければうちへ来い」
「ああ分かったよ、フーシェ。……ああ、ちょっと待て」
 正邪はそう言い残すと、路地を出て行った。脇のパン屋へと入り込んだのだった。正邪はフーシェを待たせなかった。すぐさま出て来て、フーシェの目の前でパンをかじった。
「ああ、うまい。新時代のパンはうまいねえ。あの頃の黒パンとは大違いだ。お前を見ながら食うのは尚更うまい」
「貴様、おちょくっているのか」
「いんや」
 正邪はパンをかじりながら、フーシェに袋を差し出した。焼きたてのパンの温みがある。
「子供がいるんだろ。くれてやんな」
 フーシェは無表情に、袋を受け取った。正邪は背を向けて、去り際の挨拶に片手をあげて、歩き出した。正邪の優しさは、恩を売っておこうという類のものではあるまい。おそらくは、ところ構わずばらまかれる、気紛れのようなものなのだ。フーシェは、哀れまれることを複雑に思いながら、子供の笑顔を思えば、払いのけることができない。


 サン・トノレ通りにあるジャコバン修道院は、かつては栄光に包まれていた。数え切れないほどの人出があった……今は、ほんの僅かの人物を残し、誰もいない。
 ジャコバン・クラブはかつての栄光を失っていた。その本拠地たるジャコバン修道院には、席に座れないほどの人間が溢れ、演説を聴くために入り口近くまで人で埋まるほどだった。かつて、フランスの政治は、このクラブで行われていたと言っても過言ではなかった。演説台の上にはロベスピエールがいた。サン・ジュストがいた、マラーがいた、ダントンが……今は誰もいない。ジャコバン党の恐怖政治の反動で、人は減り、少数の生粋のジャコバン党員だけが、細々と運営を続けている。
 ロベスピエールの高潔な魂は、民衆には理解されなかった。彼のやったことを、自分勝手な暴力、圧政としか見なかった。ジャコバン党員はその手先と成り下がった、暴力と金に目がくらんだクズどもと扱われた。事実がどうあれ、民衆はそう見た。
 パリ市内に「金ぴか青年隊」と呼ばれる若者たちが現れた。昼夜を問わず現れては、道行く者に、「お前はジャコバンか」と因縁をつけて回った。彼らには倫理も理性もない。少しでも気にくわなければ、棒で叩いて、ひどい時には殺しもした。要は弱い者いじめの集団なのだが、「貧民は暴動を起こすからジャコバン党員だ」という乱暴な理屈がくっついている。このような暴威でさえ、時勢の前では肯定されていた。彼らに表立って意見を言う者はいなかった。民衆は恐怖政治を行ったジャコバンを憎んでいたから、彼らを応援する者さえあった。殆どの市民は怯えるばかりで、金ぴか青年隊はやりたい放題だった。
 この金ぴか青年隊は、議員タリアンの暗躍によって、商人や議員の息子たち、ブルジョワの若者を集めて作ったものだという噂がある。彼は青年隊のリーダー格として顔を隠して暗躍していた。バラス政権下のパリ、政敵を追い落とす陰謀の陰には青年隊があった。打倒ジャコバンを旗印として、バラスの敵を陥れるために働いていた。そのような彼らに感化され、便乗し、尻馬に乗った者達もいた。元より革命で暴れまわった市民は生粋のパリ市民ではない。不作によって地方から流入した者たちが大半だった。思想も信念もない者は一方でジャコバンに旗を振り、一方で王党派の青年隊に旗を振る。ひったくりや押し込み強盗の犯罪集団が王党派を名乗っただけというような側面もあり、一度は収まったかと思えるパリの治安はまたもや悪化し始めていた。

 ある日、ジャコバン・クラブ近くの路地に、ばらばらと若者たちが集まり始めた。派手な彩りの、豪奢な服装に身を包んだ青年たちだ。手には棒や杖を持ち、口元を布きれで隠している。彼らこそ「金ぴか青年隊」だった。最初は数人だった彼らは、たちまち集団になり、ジャコバン・クラブを取り囲んだ。
「ジャコバンを殺せ!」号令をかけたのは、これもまた布で口元を隠し、悟られないように変装をしたタリアンであった。「殺せ!」「ジャコバンを殺せ!」「ギロチンにかけてやれ!」「殺せ!」以前は革命とギロチンに怯えていた若者たちが、その復讐をするようにジャコバン・クラブに襲いかかった。ガラスは割られ、扉は壊され、若者の一部が内部へと躍りかかった。少数のジャコバン党員が応戦するが、多勢に無勢、たちまち外へと引きずり出され、周り中から棒を振り下ろされて、ぼろ布のようになって路地に転がった。その時激しい発砲音と、火薬の匂いが広がった。クラブの者が銃を持ちだしたのだ。だが、多勢は変わらず、若者たちはクラブの外へ逃げ出たが囲いを解かず、包囲戦の形になった。若者たちはクラブを威嚇した。「出て来いよ臆病者!」「ヒャアァオォッ」「国王殺しめ!」「ウオオオォッ」「売国奴!」「ヒャッハァー」「みんなお前たちのせいだ!」「殺し屋め!」
 労働へ行こうと、相変わらずぼろの格好をしたフーシェがそこへ通りがかった。ジャコバン・クラブか。そこで演説をする自分の姿を思い出した。今となっては、馬鹿らしい道化のようだった。彼にとってジャコバン・クラブは、既に終わった場所であった。彼自身が終わらせたのだ。フーシェにとってはロベスピエールもジャコバンも、愚かさでは似たようなものであったが、クラブを囲む青年たちも救いがたい愚物に見えた。こんな連中にかかずらっている暇はない。フーシェは労働のために、その場を去った。
 フーシェと同じく、その騒ぎを眺めていた通行人がいた。フーシェよりも背は少し低い。軍服を着た、痩せた男だった。彼は去ってゆくフーシェとは逆に、わなわなと身を震わせて、若者たちの囲みに掴みかかった。
「やめろ! 貴様ら」
 突然現れた男が軍服を着ていることに、若者たちは戸惑った。だが、男は一人で、武器も持っていないことが分かり、それも相当背が低くて見るからに弱そうだと見ると、若者たちは勢いに乗って反撃した。「なんだこいつ!」「ジャコバン派の軍人だぜ! やっちまえ!」「ウヒャホッホォー!」現れた軍人は軍人らしく、数人を殴り倒したが、たちまち囲まれて袋叩きにされてしまった。
「殺すな! 軍人を殺すと、あとがうるさい」タリアンは大声で、若者たちを押し留めた。軍服の男は囲みから蹴り出され、路地の隅に転がされた。
 若者の一人が、窓の桟やでっぱりを手がかりに、壁を上って、二階の窓から侵入した。やがて中を見回り、「いねぇ! 誰もいねぇぜ! 逃げ出しやがった!」と階下に叫んだ。軍服の男が注意を引いた隙に、クラブの者たちは屋根を伝って逃げ出してしまったのだ。若者たちはどっとクラブの中へと突入し、占拠した。彼らは歓声を上げ、互いの成果を褒めあったが、やがて酒盛りになった。


 路地の隅からよろよろと身体を起こした軍服の男は、クラブを囲む若者たちを見て、血の混じったつばをべっと吐いた。この男こそナポレオン・ボナパルトだった。
 ナポレオンはかつて、ロベスピエールの弟の知己であり、彼を通じてロベスピエールとも手紙のやりとりをする仲であった。ロベスピエールのやり方は、全てが肯定できるわけではなかったが、もっとも革命的で、必要なことだとナポレオンは思っていた。ロベスピエールは群衆に殺されてしまった……愚かな民衆の群れによって殺された。
 ナポレオンはロベスピエールに心酔するほど彼個人に熱くはなれず、一定の距離を置いていたが、ロベスピエールと同じくルソーを愛し、また革命の理想を信じていた。一方で民衆の乱痴気騒ぎには呆れ果てていたから、この情景に我慢ならなくなったのだ。
 必要のないことはしない判断力を持った男であったし、ジャコバンクラブを救おうとしても仕方がないことは分かっている。ただ彼は、鬱憤が溜まっていた。無知な民衆には当然そうだし、金と汚職にまみれる政治家にも我慢がいかなければ、ナポレオン自身の能力を正しく評価しない軍にも我慢がいかなかった。
 時は少し遡るが、国王の処刑直後ツーロン市は、ルイ十七世を奉戴して王政を維持する、と宣言した。ちょうどフーシェがリヨンで虐殺を行っている頃である。ツーロン市はイギリス海軍を都市に入れた。港町ツーロンはたちまち難攻不落の要塞都市へと変わった。町は軍艦に守られ、革命の熱気に燃える兵士たちも攻めあぐんだ。更に、指揮官は揃いも揃って無能であった。
 ナポレオンは当時、ツーロンに配置された砲兵士官だった。彼は無能な指揮官と粘り強く渡り合い、また政府とも交渉して指揮官を交代するようにと要請した。ようやくまともな指揮官と増援が与えられて、ナポレオンの提案した作戦を実行し、ツーロンを陥落させた。要塞が墜ちたのを見たイギリス海軍は撤退していった。
 ツーロンでの功績は、ナポレオンに負うところが大きかった。だが、政府は彼を正しく評価せず、僻地での任務を与えた。彼が望んでいたのはヨーロッパと相対すること、オーストリアを挟んで戦線が前後するイタリア戦線へと配属されることだった。彼は命令に抗い、転属願いを出した。それは敵わず、彼は歩兵部隊長へと異動させられた。事実上の降格である。そういうわけで、軍の命令に抗い、転属願いを出し続け、彼はパリに留まっているのだった。
 給料は出ない。有力な議員の知り合いはなく、ロベスピエールは死んでしまった。貧乏に耐えかねて株をしたり、本屋をしたりしたが、ろくな儲けは出なかった。……彼は倦んでいた。
 金、金、金、か。どいつもこいつも、金が欲しい。飢えて餓死してゆく人間がいるかと思えば、ポケットに入りきらないほどの金を持っていて、湯水のごとく使い、それで飽き足りず、ますます金を求めるような人間もいる。自由というお題目をフランスは得た。自由になった。だが、それだけだ。生活は一向楽にならない。自由では腹は膨れないのだ。これで新たな貴族体系でもできれば、全く以前と同じじゃないか。そうでなくても、いつ外国が攻めてきて王政が復活するかもしれない。
 彼は身体の痛みと飢えに、道の隅に膝を着いた。ナポレオンは自分を見失っていた。いま自分は腹が減っていて、前進するための体力さえ奪われようとしている。これではアレキサンダーもカエサルも、夢のまた夢だ。自分はどこへ行くのか。ナポレオン・ボナパルトは何のためにこの地上に産み落とされたか。幸運の女神というものがいるならば、いま目の前に現れてくれぬものか。
「もし、もし。どうなされました」
 ナポレオンに声を掛けたものがあった。ナポレオンは顔を上げた。ふ、とナポレオンは笑ってしまった。幸運の女神とは、こんなちっぽけな娘か。フードを被った小娘が、心配そうな顔をしてナポレオンを見下ろしている。
「いえ……お嬢さん。大丈夫です。お構いなく」
「でも、怪我をなさっているわ。どうです。うちへ来ませんか。ご主人様なら、きっと手当をするように言ってくれます」
 ナポレオンは小娘を観察した。豪奢ではないが、小綺麗な格好をしている。ご主人様と言うならば、どこかの家の小間使いかもしれない。手当のついでに食事も期待できるかもな……ナポレオンは考えたが、その考えを自分で打ち消した。物乞いをするような憐れさは、とても受け入れられない。
「いえ、結構です。すぐ近くがうちですから。では……」
「では、せめてこれだけでも持って行って。少ないですけれど……」
 小娘は、袋からパンを一つ取り出して、ナポレオンの手に押しつけた。パンとは。近頃めっきり口にしていない……ナポレオンはこの頃、一日を一切れのチーズで過ごしていた。手の中に受け取ってしまったものを、押し返す気力を、ナポレオンは失っていた。ナポレオンはありがたく握った。
「感謝します。お嬢さん、良ければお名前を……」
「……ナブリオーネ。あなた、良いことがありますよ」
「え?」
 ナポレオンはこの頃、自身をコルシカ風のナブリオーネ・ブォナパルテと名乗っていた。名前を呼ばれたナポレオンは思わず小娘を見た。にま、と小娘は笑うと、ナポレオンの前を辞した。小娘はいなくなり、ナポレオンはパンを片手に、一人取り残された。幸運の女神とはああいう姿をして現れるものか。人目を避けるように……。
「おい、ブォナパルテじゃないか。何してる、こんなところで。何だ、その格好」
 バラスと出会ったのは、ちょうど小娘と別れてすぐのことだった。偶然通りかかったバラスは、パンを握り締めて座り込んでいるナポレオンを、驚いて眺めていた。

 バラスは、反乱が鎮圧された後の、ツーロンの地方派遣議員だった。彼が行った暴虐は、今改めて述べることは無いだろう。彼はそのために金を得て、ロベスピエールに睨まれた。バラスがナポレオンと知己を得たのはその頃だった。ナポレオンにとっては幸運だった。今や飛ぶ鳥を落とす勢いのバラスだ。彼がナポレオンを屋敷へと誘うと、ナポレオンは行くことにした。今日は特別な集まりだ、女もいっぱいいるぜ、と、バラスはにやにや笑った。
 ナポレオンはブルジョワを嫌っていた。ナポレオンは共和主義者だったし、この頃のナポレオンの考え方としては、家庭を大切にするコルシカ流の考え方が多分にあり、家族を愛し、堕落してはならないと考えていた。夜のパーティに来るような女性は家庭を大切にしないふしだらな女だ、と考えていた。若い頃のナポレオンには一本気なところがあり、愛する人は一人と決めて、浮気はしないのが正しいと信じ込んでいた。
 フランス革命以前の上流階級の女性は、服にはひだが沢山あり、スカートは長くふんわりと広がったものを好み、髪型は結い上げてタワーのように高くしたものを好んだが、フランス革命後、ことロベスピエール以後の女性たちは、ギリシャ風の薄い絹を好み、髪型も結い上げたりせず、自然に下ろしておく風を好んだ。コルセットの文化も影が薄くなり、下着をつけないことが普通になったので、ギリシャ風の薄い布の下は乳房が透けて見えていた。服をはだけさて、胸を露わにしている女性もいた。ナポレオンにとっては紊乱の園、退廃の都であった。
 ナポレオンは面食らって、広間の隅に立っていた。だがいつまでもそうしているわけにはいかない。勇気を持って踏み込んでみたが、戦場に長けた彼でも、社交の戦場には不慣れだ。人々は彼を避けていった。モーゼのように、彼はぽつん、と一人立っていた。一人の娘は、なんだか、臭いがするわ、とまで言った。彼の軍服はいかにもおんぼろで、上流階級と交わる格好ではなかった。一人の酔った男が、彼に肩をぶつけたが、男は謝りもしなかった。「君、一人かい。ご婦人の連れは?」「私は一人だ」「こんなに女性がいるのにねえ」何が女性だ。こんなところへ来る女など、女じゃない。ナポレオンにとって女性は、ただ一人を愛し、家庭を守る貞淑な女こそが女性だった。夫もそれと同じで、ただ一人を愛するのが男で、それが家族の有り様だ。コルシカから離れて間もないこの頃は、純粋にそう考えていた。ナポレオンは何だか、あーあ、帰りたいな、と思った。バラスに誘われて来てみたが、ここは俺のいる場所ではない。
 ナポレオンはストイックな男だった。贅沢な暮らしは必要なく、俸給の殆どは実家に送っていた。ナポレオンの一族は兄弟が多く、収入は殆どナポレオンの収入に頼っていた。ナポレオンは後年、皇帝になった時、家族や妻には贅沢をさせた。金を腐らせておくより国全体に回そうと考えたためだ。だが、本人は贅沢をしなかったし、戦争になれば軍隊で兵士と同じ生活をした。軍隊での生活はろくなベッドも、食事もない。ナポレオンは幼い頃から兵隊になるために、雨の中に立ち、与えられた小麦の白パンを兵士にくれてやり、代わりに黒パンを貰って食べていたと言われている。彼は貧乏、労苦を望んで求め、そうなりたいと信じていた。そのようなナポレオンにとってバラスの屋敷は、腐敗したパリの象徴そのものだった。
 貧民がうろついて、路地で餓死する。配給も止まるというのに、ここでは料理が後から後から出てくる。かと言ってセンチメンタルになることもなく、ナポレオンはたっぷりと食べた。せっかくだから料理だけでも食って帰ろう。誰かがナポレオンの肩を叩いた。
「よう、ブォナパルテ。楽しんでるか」
「バラス。……さん」
「さん付けはいい。友達だろう」
 こいつは良い奴だ。ナポレオンはバラスを若干好きになった。バラスは機嫌が良かった。毎日機嫌が良いのだ。何しろバラスはこの世の春を謳歌している。ロベスピエールはいなくなった。怖いものなしだ。話は政治の話になった。
「王党派の連中がよ、うるさいんだよ。俺は密偵を雇って、あいつらの動向を調べた。あいつら、王党派の議員を議会へ送り込もうとしてやがるんだ。俺は仲間にどうにかしろって言うんだが、どいつもこいつもどうにもならない。それで、新しい議会には新しい法律を持ち込むことにしたんだ。何だと思う」
「何です」
「新しい議員の三分の二は、国民公会の……前の議員から選出されることにする。これで残りの三分の一が王党派になろうが、議会の大半は俺達の手だ。どうだ。がははのは」
 バラスは有頂天だった。「言うなよ、これは機密だ」ナポレオンはこれはダメだな、と思った。近いうちにやられてしまうんじゃないか。ナポレオンは考えた。政府が危うくなる。俺が助ける。俺は英雄。軍でも重要な位置に。何だか、ナポレオンにはたちまち未来が開けたような気がした。バラスと一緒になって笑った。ナポレオンも酔っていた。
「ポール、あなた、どこへ行ってらしたの」
 美しい女性が現れて、バラスにしなだれかかった。バラスはおう、と鷹揚に頷きながら、女性を受け止めた。バラスの腕の中の女性が、振り向いて、ナポレオンを見た。
「どちらさま? ポールのお友達?」
「ああ。こいつはブォナパルテ、軍人だよ」
「まあ」
 ローズはよろけて、バラスにしがみついた。酔っているらしい。「おい」バラスは受け止めて身体を支えながら、そばのソファにローズを座らせた。
「おい、ローズを見ててくれ。俺は小便に行きたい」
「あら。ポール、どこへ行くの」
「すぐ戻りますよ、ご婦人」
 ローズは酔っていた。その酔態のままに、ソファの傍らに立っているナポレオンの腕を掴み、指先を絡めて頬を寄せた。女性付き合いの少ないナポレオンはどぎまぎしてその手を受けた。気の利いた言葉の一つも出なかった。
「そんなところで立っていないで、こちらに座って」
 ローズは美しい女性で、気の利いた楽しい話のできる女性だった。煌びやかな宝石と薄いドレスは、爛熟した腐敗の象徴に見えたが、ナポレオンが内心で反発すればするほど、その美しさは際立って思えてくるのだった。ローズの態度は酔いに任せただけではなく、誰にでも優しく、親しげな態度を示す女性であった。ナポレオンに殊更媚態を見せたわけではない。だが、その態度も、ナポレオンを恋に落とすには充分だった。……このサロンに来ている女性は皆、ナポレオンを避けて歩いた。このような階級の女性は、俺のような男には目もくれないのだ、と思っていた。だが、そんな中、この女だけは優しく受け入れてくれた。そうナポレオンは思ったのである。
「あなた、軍人でしょう。これまでに挙げた功績の話をしてくださらない?」
「ええ、ええ。いいでしょう。私はツーロン市で戦をした折に……」
 ナポレオンの話をローズはうっとりとした目で聞き、「政府は戦争も知らない、ろくでもない将軍しか寄越さず、……」ナポレオンの憤りにはまあ、と一緒になって憤り、「しかし、ようやく私の作戦を採用して、要塞を攻め立てました……」話が盛り上がれば注意して聞き、「私は兵士と一緒になって剣を振って戦いましたが、股に刃を受けて負傷しました。ですが戦には勝ちました。市民は降伏し、イギリス軍は逃げていきました……」ナポレオンが戦勝に興奮すると、素晴らしいですわ、と褒め称えた。手を打ち、はしゃいで見せた。
「あなた、大変な軍人ですのね。それに、怪我までなさって、大変な愛国者でいらっしゃる。素晴らしい方ですわ」
 ナポレオンは、すっかり有頂天になった。ナポレオンが軍人としての自信を持っていて、ナポレオンを尊敬する軍人はいても、ローズのように褒め称えてくれる女性はいなかった。いや、とナポレオンは謙遜した。
「ですが、いまは所属部隊もない浪人ですよ。軍は、私の功績を正しく理解してくれなくてね。今日も施しにパンを貰ったほどです」
 まあ、とローズはまた憤った。
「ブォナパルテ将軍ほどの方を認めないなんて、政府はいけませんわ。私からポールに言って差し上げます。それにしても、パンを頂くほど生活に困っていらっしゃるの?」
「ええ。フードを被った娘さんに頂いて……」
「まあ。もしかして、うちの給仕かもしれませんわ。近頃、こっそりとパンを買っていたの、知っているんです。そんなことをしていたのね」
 ナポレオンはフードの小娘のことを思い出した。『ご主人様なら、きっと手当をしてくれる……』幸運の女神とは、あの小娘のことではないか。いや、違う……。きっと、このローズこそが、幸運の女神だ。そして、あの小娘を使わして、俺の元へ来たのだ……ナポレオンは、天恵のように、その考えを受け取った。
「あなたは素晴らしい女性だ。給仕を使わして、貧民にパンをやっているのですね」
「いいえ、給仕の娘が勝手にやっていることですのよ。私などは、全く……それよりも、私、お酒が飲みたいわ……」
 ナポレオンは給仕を呼び、酒を持ってくるように言いつけた。バラスが戻ってきて、よう、何を話していたんだい、とナポレオンに声を掛けた。
「ああ、バラス。軍の話を……。それよりも、遅かったじゃありませんか」
「ああ。小便のついでに、ちょっと別の奴に呼ばれてな」
 ソファの脇に立ったバラスの手を取って、ローズは身体を寄せた。バラスは、ローズの手を親しげに撫でていた。ナポレオンにはバラスの話よりも、そちらが気になって仕方がなかった。


 同じ夜のことであった。ジャコバン・クラブの占領を見たフーシェはそのまま仕事へ行き、一日が終わって帰路についた。
 仕事場を出た彼の元を待ち受けて、一人の男が声を掛けた。「アンゲルロー商会の者ですが……」ああ、とフーシェは答え、二言三言、言いつけた。すぐさま、二人は離れ、また別人同士に戻った。
 暗闇の中を数歩進み、フーシェは足を止めた。闇の中から、真っ黒な影が、ぬっと現れたからだ。口元を布で隠した三人組が、フーシェに歩み寄った。「お前、ジャコバンか?」「王党派バンザイ、と言ってみろ」「ブルボンバンザイ、と言ってみろ」
 金ぴか青年隊のジャコバン狩りだ。ふう、とフーシェは溜息をついた。
「おい、アルダン、こいつ怪しいぜ」
「おう、オジェ、こいつ怪しいな」
「ヒァホォウ」
 リンチをできる喜びに奇声を上げた男が、フーシェの肩を掴んだ。棒を振り上げる瞬間、フーシェは言った。
「アルダンと言ったな。君、アルダン家の三男か? 君の家は、いま随分上り調子だな。だが、君の父の不正は警察に掴まれているぞ」
「あぁ?」
「オジェと言ったか。君は末っ子だ。君の家はイギリスへ亡命した貴族と繋がりがあったな。イギリスと繋がっているスパイだと政府に訴え出れば、君の家は財産没収のうえ追放だぞ」
「何言って……」
「こいつ、警察のスパイだぞ」
 二人はうろたえ、互いに顔を見合わせた。襲えばひどいことになる。もしかしたらそこらに警察がいるかも知れない。
「名前も顔も分かった。いつ君の家に警察が行くかな。言っておくが、スパイに優しい処分は有り得ない」
 逃げろ、と一人が言った。もう一人もついて逃げていった。最後に残った一人が、不思議そうに顔を上げて逃げる二人を見送った。
「何で逃げる必要があるんだァ? 殺せばいいだろぉ」
「君のことは知らない。名前のある家の人間じゃないんだな。服装から見るに、家も貧しいんだろう。世の中のことも分からずに、気分だけでしたいことをしていると危険だよ。言っておいてやるが、まじめに働いた方がいい」
 ヒャア、と喚き、男が棒を振り下ろそうとした一瞬、飛び出してきた何者かが男を蹴り飛ばした。
「何やってんだ、お前。余裕こいてる場合じゃないだろ」
 飛び出して男を蹴り飛ばし、正邪がそう言った直後、息を荒くした兵士が、フーシェと正邪のすぐそばで足を止めた。走り寄ってきた兵士は「無事で良かった」と言った。
「君は仕事熱心だ。暴徒が三人いた時は二の足を踏んでいたが、一人になったら駆け寄ってきた。まあ、賢明な判断だろう。相手は怖い者なしだからな」
 フーシェが兵士の肩に手をやってぽんぽんと叩くと、兵士は敬礼を一つして去って行った。正邪はつまらなそうな顔をした。
「分かってたのかい。私が来るのも、兵士が見ているのも」
「ここじゃ話もできない。私の家に行こう」
 ふん、と正邪は鼻を鳴らした。正邪はぶっ倒れている男のところへ行って、苛立ち紛れに顔を蹴飛ばした。地面に倒れていた男は意識を失い、正邪は満足した。気晴らしを済ませると、正邪はフーシェの後をついて行った。

 フーシェが家に入っても、正邪は中へとついて来なかった。妻は起きて、フーシェの帰りを待っていた。「お帰りなさい、あなた。食事の用意をするわ」「いや、構わないよ、ボンヌ。私は用事があるから、後にする。自分でするから、もう君は休みなさい。お休み、ボンヌ」フーシェは妻の頬にキスをして、自室へと戻った。フーシェが部屋へ入ると、正邪は窓から乗り込んできた。
「やっぱりこういうところから入る方が、性に合うな」
「あまり大きな声を出すなよ。妻はお前が来ていることを知らないし、前よりも家は狭い」
「私の存在を信じない者には、私の声は聞こえやしないよ。それよりも、お前、ひどいところに住んでるなぁ」
 ほっとけ、とフーシェは思った。
「私はいいところに住んでいるぞ。お金持ちの家だ。大きい屋敷に寝泊まりしてる。給仕用のベッドだが、その気になれば客用のベッドに潜り込んで寝られるんだ。しかし、時々、奥方が男を連れ込んで、困るよ」
「知っている。ボーアルネ夫人の家は貴族の屋敷だ。さぞ大きいだろう。彼女が金策に困っていることも知っている」
「その女主人は、今日も金をどうにかしようとパーティを回ってる。バラスの情婦に収まったが、やつは女が多い。いつ捨てられるかと戦々恐々さ。バラスの側についていないと、浮気をされるかと不安なんだ」
 フーシェはローズのことを考えた。スキャンダルの多い女。金遣いが荒く、いつも金に困っている女。それもバラスと繋がりのある……。弱点のある者にはつけ込みやすい。利用するには最適の女だ。
「利用できそうだろ。私もそう思っていたんだ。それに、あの女は私と同じ匂いがするよ。運命に引き付けられる女だ。あいつは、不思議と生き延びる匂いがする……ある意味、あんたと同じかもしれない。革命によって死にかけて、革命によって力をつける人間だ」
「お前の妙な予言はいい」
「ああ、そんな話はいいんだ。それよりも、お前の話を聞きに来たんだ」
「ああ……。正邪、この国を支配しているものの話はしたな」
「聞いた。金が支配しているとか、そういうことだろう」
「その通りだ」
 いま、パリでは大規模な金の動きが生まれつつあった。処刑された者の財産は処分され、逃亡した議員の建物は競売に掛けられて一財産になる。王族が溜め込んでいた財宝も売り払う。加えて重要なことは、王政が終わった今、巨大な政治的空白が生まれ、そこにバラスをはじめテルミドール派が座っていることだった。王族、貴族がいなくなり、彼らが受け取っていた利益は全てテルミドール派が独占した。彼らは揃って刹那的、享楽主義で遊び回っている。
 ロベスピエールの反動が訪れたパリでは大いに金が動き始めている。贅沢主義が復活し、豪華な服や装飾品や宝石が売りさばかれ、香水店や宝石店が開かれる。自粛していたカフェやダンスホールが再び開かれ、別荘や屋敷を買い、金持ちたちは投機や賭博に興じている。更には革命の悪しき面だが、宗教を否定し、夫婦関係が無視されるようになったことで、自由恋愛の世になり、誰彼なしに夜を共にするようになった。あちこちのサロンで狂乱のような酒盛りとお喋りがあり、どこから出て来たのか、どこに隠れていたのかというような金があふれ、豪華な品物が値も見ずに売り買いされた。
 ロココ主義的な煌めきが、またパリに戻ってきたのである。ロベスピエールの足下で、死人を装い、ぼろをまとって貧乏人のふりをして生き延びていた金持ちたちが、一斉に起き上がって、再び金儲けを始めた。
「金の動きが活発になってきた。裏では相当汚いことも行われている。いま、必要なものは情報だ。情報を集めておけば、後々までも役に立つ」
「そんなことやってるから、生活が楽にならないんだな」
「言っていろ」
 フーシェのやっていることは、投資とも言えた。いま集めている情報が、やがては金になる。かつて王族、貴族が独占していた利権は消滅し、新しい利権が築かれつつある。どのようにあくどいことをやり、誰と誰が繋がっているか。脅しつけるには絶好の材料となる。また、儲けのために一噛みするにも役に立つ。情報にはたしかに金はかかるが、金となって戻ってきて、また新たな情報を得る。フーシェの陰謀は動き始めていた。後年パリで一番の金持ちと呼ばれることになるフーシェの業績の第一歩であった。
「しかし、金を集めてどうなる。そんなことしたって、政府が倒れたら同じことだろう」
「そうなれば、パリの金持ちは皆破産だ。だから、そうなりたくはない。パリで金を持っている者は、フランスが安定して長生きすることを望んでる。私もその仲間入りをしたい。そして、彼らの望むようにフランスを持ってゆく。金は普遍的な力なんだ。恐怖よりもよほど強い力だ。今すべきことはバラスを倒すことじゃない。むしろ、バラスが生き続けるならば、繋がりを持って金と情報を得ておく方が賢い。あれほどの権勢を誇ったロベスピエールも、金持ちからの支持を失って倒された。ブルジョワたちは、保守的な王政を放り出して、自由主義の元に儲けることを夢見て革命を歓迎したが、貧民のために金を奪うロベスピエールはご免だった。ブルジョワは常に、自分たちを儲けさせてくれる議員に味方する。ブルジョワとの付き合いはまた、金になる」
ふぅん、と、正邪はどうでも良さそうに答えた。
「しかし、金をいくら積んだところで、民衆は貴様を恨んでいる。表には出られんだろ」
「その通りだ。時節は待たなければなるまい。いまは、手の中に金もない。脅しつける権力もない」
「バラスは長生きしやしないぞ。フーシェ、貴様は賢しらなことを言っているが、貧乏が嫌になっただけだろう。そんなに貧乏が嫌なら、まだるっこしいことしていないで、お前が王様になればいいだろ」
「いまバラスを倒してどうなる。混乱が長引くだけだ。パリがオーストリアのハプスブルク家に占領でもされてみろ。王政が戻ってくるぞ。それに、俺が王様だと? できるものか」
「じゃあ、なぜ権力の座に着こうとする。権力が目的じゃないなら、一人の農民なり、商人なり、それこそ父親の跡を継いで漁師をやるなりすればいいだろう。なぜ貧乏をしてまでパリに固執する」
「正邪、私は貴様のように、強いものを倒すことをしたい訳じゃない。私は、何者かに仕えるのではない。権力に仕えるのだ。私は権力の中腹にいて、常に権力を扱っていられればそれでいいんだ」
 本音を吐いたな、と正邪はほくそ笑んだ。
「私のような者を、人が信じるか。いまフランスに必要なものは、強い指導者だ。民衆の声を聞く、バランス感覚を持った英雄だ」
 ロベスピエールにはその資格があったが、革命の理想を信じすぎ、また、極端に過ぎた。それに、結局は力なのだ。ロベスピエールは武器を持った民衆を煽り立て、同じく民衆を煽り立てるバラスに倒された。今も治安は悪いままで、いざとなれば武器を持って暴動を起こす。それに対抗できる軍という力を持った人間が必要なのだ。それは、政治家であるというだけでは足りない。
 今のフランスにはあらゆる層が入り乱れている。王党派、ジャコバンを含む革命派、ブルジョワ層、貧民層、元貴族に元僧侶……さらには強力な諸外国。それら全てを受け入れ、反発を防ぎつつ融和することのできる人物。軍事と政治の両方に通じた人物。そのような者が、いるだろうか? ……いるとすれば、まさしく英雄と呼ぶ他はないだろう。
 ロベスピエールの恐怖政治による混乱はあったものの、旧体制の悪癖も消え去って、ようやく近代的な政府として動き始めようとしている。民衆はまだ殺気立っているが、それさえ落ち着けば、フーシェが表舞台に立てる時も来るだろう。バラスが安定するならば取り入り、バラスが危なくなるならば次の人物に接近すれば良い。今は待つべき時だった。
 正邪はそう言ったことは考えないようだった。正邪には国の安定はどうでも良い。頭がすげ替わる時には、ただそうするのだ。
「フーシェ。お前の考えは面白そうだ。お前に協力してやるよ」
「……お前は何を考えているか分からん奴だが、お前がいてありがたいこともある」
「ああ? バラスのことか? あれは、お前が困ると楽しそうだと思って連れて行っただけのことだが、うまく行ったなら嬉しいよ。感謝しろよ」
「ああ、そうするよ」
 正邪は満足げにしていたが、フーシェには不安なことがあった。それはパリの政情が不安定になりつつあることだ。フーシェにもし、かつての議員のような権力があるならば、力のバランスを探るだろう。パリ内の組織を調べ、有力者を割り出し、計画を暴き出す。同時に民衆から武器を取り上げることを議会で提案する……しかし、それらは全て今は机上の空論だ。
 今はつくべき勢力を確かめることのみだ。バラスが倒れるようなことがあるならば、あまり接近しすぎるのも考えものだ。さて、どうなるか。


 ロベスピエールの処刑から一年が過ぎようとする1795年8月、バラスの語った三分の二法が制定された。総裁政府の議員のうち、三分の二を旧国民公会の議員から選ばれる制度であり、議員たちによるあからさまな保身だった。議会に身内の人間を送り込みたい王党派たちには不利となる。また、民衆は議員たちの露骨な腐敗と堕落に失望した。
 王党派と民衆の利害が一致した。王党派は民衆たちへ檄を飛ばした。ロベスピエール以前に、ジャコバンが使った手だ。反政府勢力はいつでも、民衆の力を借りようとする。王党派は言う。議員は自らの特権のみを守ろうとしている。民衆の血を吸い、ますます肥え太ろうとしている。
 共和制を倒せ、腐敗議員を倒せ、バラスを倒せ、の声が、闇の中へ広がってゆく。

 目を覚ましたフーシェは、ベッドに半身を起こし、周囲を伺った。空気に淀みがある。人の感情が渦巻くとき、こういうきなくさい臭いが鼻につく。嵐の起こる臭いだ。
 ベッドの下にいた正邪を蹴り飛ばした。酒瓶を抱えて寝こけている。「お前、主人のところにいなくていいのか」返事はなかった。ドアをノックする音がし、妻の声が続いた。
「あなた。知らない方から、これを主人にって」
「おはよう。……ありがとう、ボンヌ」
 妻は畳まれた紙片をフーシェに渡し、引き下がった。『決行は明日。議会に議員どもが集まった昼頃に民衆を扇動し議会へ。この文書は焼却のこと。カドゥーダル』紙片には、別の字体でメモが書かれていた。『王党派のメモ。報酬はたっぷりたのむ』密偵からのたれ込みだ。
 カドゥーダルとは、しぶとく政府に逆らい、内戦を続けている王党派の一派、ふくろう党の主要メンバーの一人だ。王党派によるクーデターの指示書であることは間違いない。フーシェの不安は適中した。フーシェは正邪を蹴り起こした。
「おい、正邪。起きろ。正邪」
「ああ? うるさいんだよ、さっさと仕事に行ってこい」
「いいから起きろ。バラスに……」
 そこまで言って、フーシェは考えた。バラスを逃げ延びさせてどうする? 奴が逃げ延び、王党派がクーデターを成功させれば、もはや国王殺しのフーシェが政府に戻れる可能性はなくなる。だが、バラスに伝えて鎮圧しろと言ったところで、この民衆のうねり、止められるものだろうか?
「バラスに何だよ。なんかあったのか?」
「いや。……いい。お前、家に帰った方がいい。主人も外出をさせないようにしておけ」
「ああ?」
 フーシェはそう言ってから、俺がどうしてあの女の心配をする必要があると考えた。ともあれ、フーシェは静観を決め込んだ。バラスが死ぬならばそれまでだ。民衆はまだ、リヨンで流された血のことを忘れてはいない。バラスに肩入れをして失敗すれば、フーシェ自身の命も危ない。距離を置いておくことだ。バラスが倒れたからと言って、すぐさま王党派が天下を取るとは限らない。バラスが倒れた後、次の権力者に歩み寄る用意をするのみだ。ともあれ、今日一日は、家で身を隠していることに決めたのである。

 こうして、1795年、10月5日(フランス革命暦3年葡萄月13日)、ヴァンデミエールの反乱が起こった。ヴァンデミエールとはフランス革命暦の葡萄月のことだ。王党派が中心となり、ブルジョワ、貧民、農民たちが蜂起した事件である。
 パリ市街のあちこちで、民衆が雲霞のごとく集まりはじめ、議員のいる宮殿へと進軍を始めた。多数の暴徒に加えて、三万のパリ市民軍がクーデターに加わっていた。
 チュイルリー宮殿では、暴徒が宮殿へと向かっていることを聞くと、パニックに近い状態になった。報告が入ってくるたびに、暴徒の数は増えてゆく。さっきの報告では一万、次は二万。内外の戦争へ軍をやっていて、手元にある政府の軍は五千しかなかった。
「どうすんだよ、おい」
 逃げ延びたとて後のないバラスは、パニックに陥りかけている議員たちを見て、呟いた。群衆がこのまま宮殿まで来れば、八つ裂きにされる。
「バラス。議員は君に軍を一任することに決まった」
「は?」
「君はテルミドールの英雄だ。ロベスピエールと戦った時のように頼む。俺は兵を集めるよう、手を打ってみる。市民にも協力を呼びかける」
 そう言ったのはカルノーだった。さすが勝利の組織者、頼りになるぜ。その調子で軍隊もやってくれればいいのに。……だが、軍を指揮すれば、真っ先に殺される。カルノーはそれをうまく避けた形とも言えた。カルノーが忙しく指示をしながら行ってしまうと、バラスもやらなければという気持ちが生まれてきた。やらなければ、遊べないどころか、死んでしまう。
「ぐ、軍人だ。市内にいる軍人を集めろ! それから、軍での経験がある議員も呼んでこい!」
 バラスは声を震わせながら、近くにいる議員たちに命令した。バラスの命令で、ばたばたとながら、議員が動き出した。
 だが、増援は来なかった。政府の危機を民衆に伝え、味方にしようと伝令を走らせたが、どこへ行こうとも投石と罵声を浴び、しまいには行方が知れなくなった。出した伝令は誰一人帰って来ず、宮殿へ来る味方の民衆もいなかった。
 武器庫を開いて、議員たちは自ら銃に弾を込め始めた。この状況はまずいと、さすがのバラスも考え始めた。集まってくるのは、ろくな戦績もない、政府に食いついて甘い汁を吸ってきた軍人ばかりだ。
「ブォナパルテ」
 その中で、ぼそりと呟く声が聞こえた。
「ブォナパルテを呼んではどうです。バラス総裁」
「そ、それだ! 今言ったのは誰だ? 誰でもいい! ブォナパルテを呼んでこい!」
 えらく高い、女みたいな声の奴だった。だが、それはどうでもいい。たちまち、ナポレオンの借家まで、伝令が飛ばされた。正邪は議員たちの波に紛れて、にやりと笑った。
 ナポレオンもまた、情勢を見極めていた。呼ばれもしないのに駆けつけるのは癪だ。しかし、ナポレオンは政府からの呼び出しが来ると即座に応えて出仕した。一方で政府軍の指揮官は、市民軍の勢いを見て日和見を決め込み、軍を動かさなかった。それで指揮官は罷免され、代わってナポレオンが指揮官に据えられた。昨日まで浪人の身だったナポレオンがこの抜擢はどういうことだろう。時節が位だけの無能軍人を必要とせず、ツーロンの攻城戦で成果を上げたナポレオンが選ばれたのだろうか。あるいは、パリにおいて、バラスと総裁政府はそれほどに嫌われ、誰も味方する者はいなかったのか。ともあれ、バラスは偶然の成り行きながら適切な判断をした。藁にでも縋りたい気持ちでナポレオンに頼んだのだろうが、彼は有力だった。しかし多分に毒もはらんでいた。ナポレオンがここで取り立てられなかったならば、バラスの晩年も変わったことだろう。
 バラスの元、ナポレオンは集められた士官たちの前で基本方針を述べた。
「奴らは士気も何もない。ただ不満を政府にぶつけたいだけの烏合の衆だ。大砲を撃って脅しつける」
 パリ市街での砲撃戦を口にしたナポレオンに、軍指揮官たちは震え上がった。大砲の轟音は、強烈に恐怖感を煽り立てる。大砲を向けられた経験もない、命令する指揮官もいない民衆にはあまりにも効果的だろう。だが、相手は民衆だ。フランス国民、そして何の罪もない民衆だ。真っ当な感覚のある軍人ならば、効果的だと気付いていながら、口にはできない作戦であった。「やれ、やれ。政府が守られるんならなんでもいい」と、自分の手を汚すわけではないバラスだけが喚き立てた。
 バラスが後押しをしたこともあるが、他に有効な作戦を思いつける者もいなかった。軍人たちは皆ナポレオンの指示通りに動き出した。砲台がかき集められ、主要道路や橋、要所要所に配置されてゆく。兵士たちは皆怯えきっていた。無数の群衆が迫ってくることにも怯えていれば、民衆に砲を放つことにも怯えていた。民衆の中には友人もいれば、親戚もいるかもしれない。昨日挨拶をしたパン屋の娘、飲み屋のおやじ、身体を交わした夜の娘もいるかもしれない……。
 ただ一人怯えていないのはナポレオン一人だけだった。彼はコルシカ人であって、フランス人ではない。また、民衆は武器を持って迫ってくる暴徒だ。鎮圧のために銃を使うなら、砲台を使うのも同じだ。ナポレオンは恐れなかった。暴徒たちは、脅しだと見くびって、前進を続けた。
 指揮官たちの命令で、砲兵が導線に火を付ける。砲撃には砲弾だけでなく、木片や釘、鉄くずなど、撃てるものは何でも砲撃に使った。火薬の爆発力によって吹き広げられたそれらの霰弾は、民衆たちに容赦なく突き刺さった。
 砲撃の音に民衆たちは震えたが、最前線に立っている者達は震えるどころではなかった。全身に釘を浴びた者が地面に倒れ、悶え苦しんで喚いた。砲弾や霰弾とは違い、釘や木片では、人間は即死しない。道に倒れのたうち回って血を流し、喚き続けた。喚き声は恐慌を生む。民衆たちは正体不明の攻撃に怯えて、阿鼻叫喚の声に心を掻き乱され、散を打って逃げ出し始めた。後方にいる者たちは、わけも分からず前方の者に押されて、同じく逃げ出した。その間にも砲は放たれ、犠牲者の数は増えてゆく。
 逃げて行く市民の背に歩兵と騎兵が追い打ちをかけ、砲兵も押し出されてゆく。宮殿を渦巻いていた包囲網は次第に押し広げられてゆき、教会や市役所、要所に籠もった者達も、やがて各個撃破された。やがて、暴徒達は完全に影も形もなくなった。あとには見るも無惨な姿になった被害者や、重傷の者が道々に転がっているのみだった。
 砲撃による被害は、本格的に戦闘をするよりも余程少ないと言わざるを得ないだろう。砲撃による被害者は悲惨だが、逃げ出した者たちは無傷だ。さらに、ナポレオン側の兵の被害は皆無であった。砲撃による被害者は悲惨に見えても、砲撃は人道的とさえ言えた。民衆たちには逃げる権利が与えられている。密集隊形で、前へ進み続けなければいけない兵士とは違う。
 ナポレオンにはいっそ、清々しい感じさえした。民衆は、ロベスピエールを殺した。ロベスピエールは間違ってはいなかった。全てを肯定できるわけではないが、彼には信念があった。民衆はロベスピエールと共に、革命まで殺してしまおうとした。民衆はロベスピエールの処刑を大喜びで見物した。首が落ちた時には喝采を送った。今また、その口でロベスピエールの頃の方が良かった、と言う……。
 それはナポレオン個人の感傷でしかなかった。だが、他のことでも溜飲を下げていた。ツーロンの時とも違う。完全に自分の作戦で事を為したのだ。俺はまた、軍で部隊を指揮することができる。発言力も増すだろう。
 クーデターを少ない兵で撃破した、この成果に議会は沸き立った。ナポレオンを救いの神と崇めたてた。バラスによって議会へ案内されたナポレオンを、議員たちは万雷の拍手で迎えた。
 ナポレオンは彼を見下ろす議員たちの顔を眺めた。誰も彼も、主人にすがる犬のような顔をしている。どいつもこいつも自分では責任を取らず、うまい汁だけ吸おうとする者達だ。いいだろう、強い指導者が必要なら、やがて俺がその席に座ってやる。
 拍手の中、一人の議員が声をあげた。「ヴァンデミエール将軍だ!」それはナポレオンのあだ名となった。新聞はどこもこの成果を取り上げ、ナポレオンの輝かしい功績を取り上げた。

「あなた、クーデターは終わったみたい。ブォナパルテ将軍って方が鎮圧したそうよ。今日はお仕事がお休みで、本当に良かったわ……」
「ふぅん」
 妻はパリのクーデターを心配して、どこかで手に入れてきた新聞を読みふけり、クーデターが終わったことを知って、胸を撫で下ろした。フーシェ家でのクーデターは、静観しているうちに終わった。バラスは生き残った。フーシェの予想は外れたが、ありがたいことだ。当初の予定通り、バラスに取り入ることができる。
「家族団欒もいいがね。そろそろ、動き始めたいところじゃないのかい?」
 フーシェは、机の下から喋りかける正邪に、言葉を返す代わりに、蹴りをくれてやった。正邪は机の下でひらりと躱した。不思議な動きをする夫の姿に、妻は首を傾げた。


 フーシェはとある銀行家から受け取った重たい包みを持って、バラスの元へ向かった。宮殿の一室でバラスは執務をしていた。宮殿へ入り、衛兵へ銀行家の名前を告げ、取り次ぎを行う間、誰もフーシェを見咎めはしなかった。
 バラスは珍しく書類に目を通し、判をついていた。フーシェが入ると顔を少し持ち上げて、暗い瞳のフーシェを見、再び書類に目を落とした。
「アンゲルローの使いということだが、フーシェ、お前、どういうつもりだ」
「氏からの品物と言伝を預かっております。汚職の件について」
 バラスはぴくりと耳を立てた。銀行家アンゲルローの汚職は、バラスの耳にも入っていた。へまをやって警察に掴まれ、間もなく逮捕されるという話だ。要するに、フーシェを通じて、バラスに取りなしを頼んできているのだ。
「僭越ながら、彼と繋がりを持っておくことは、閣下にも有益なことかと」
「分かった。返事は夜にする。夜になったら俺の家へ来い。荷物はそこに置いて行け」
 フーシェは一礼して部屋を後にした。金の詰まった鞄は、そこへ置き去りにされた。その日以来、フーシェの姿はバラスの屋敷で時折見かけられるようになった。夜のパーティなどには出ず、汚い格好で、人目を避けてこっそりと。
 こうしてフーシェは、バラスの密偵となった。情報を集めて嗅ぎ回る。野良犬以下の汚い仕事である。少し前までは宮殿で議員として壇上に立っていたフーシェ、今は路地裏に身を隠してうろつき回るフーシェ。だが彼の心はむしろ浮き立っていた。楽しい。肉体労働をしているよりは、余程楽しい。




「ナポレオンがよぉ」
「ああ」
「やりすぎなんだよなあ」
 バラスはトランプの山から一枚引き、代わりに手札から一枚を捨てた。フーシェの番が回ってくる。フーシェは自らの手札を見た。
「あら。あの人が?」
「ああ。あんたの旦那だよ。ちょっとばかし、なあ」
 ローズ、かつてのボーアルネ子爵夫人は、いまやナポレオン夫人であり、その愛称ジョゼフィーヌとして知られるようになった。ジョゼフィーヌもまた、カードを一枚引く。「あら」良いカードが来たようで、嬉しそうに微笑む。正邪の番だ。喋りながら、カードを捨てる。
「ナポレオンが勝つのはいいことじゃないか。金も品物も送られてくる。オーストリアも力を失う。ねえ」
 正邪がカードを四枚捨て、同じだけ引く。憎々しげに舌打ちして、こっそり取り替えようとした。フーシェはそのイカサマを見逃さなかったが、何も言わないでおいた。バラスも、ジョゼフィーヌも、気付いたようだった。だが、この場にいる大半の者はその程度の手管は身につけている。できないのは、遊び慣れていないフーシェくらいのものだった。
「お前は物を知らない、ネージュ。ナポレオンがでかくなれば、俺たちの居心地の良い席は取られちまう。政治ってのは椅子の取り合いだからな。場合によっちゃ人死にだってある」
 バラスはフーシェを見た。正邪もフーシェを見た。フーシェは、表情をぴくりともさせず、受け流した。フーシェ、バラス、ジョゼフィーヌ、正邪。ジョゼフィーヌの家に集まった四人は、一つのテーブルを囲んでトランプ遊びに興じている。

 時代は進んだ。1795年10月、ヴァンデミエール反乱の鎮圧により、朝日が昇るがごとくナポレオンは歴史の表舞台へと一挙に躍り上がった。しかしそれに胡座をかいていれば、たちまち引きずり落とされる。ナポレオンはせっかく掴んだ機会を捨てるものかとばかりに、イタリア方面軍司令の座を掴み取った。そして、年が明けて1796年3月、ナポレオンは当地に赴任し、怒涛のごとき進撃を開始した。オーストリアから支援を受けるイタリアの諸小国を平らげ、オーストリア領土へと侵入した。そして8月には、ウィーンまで二百キロの距離に迫るところまで迫っていた。
 軍が認めようとはしなかったナポレオンの軍事的才能が、満天下に向かって発揮されようとしていた。ナポレオンは兵を使うことに、一切の躊躇いを見せなかった。兵がいかに疲れていようと休ませず、常に軍を動かして敵を攪乱した。オーストリア軍の思わぬところでフランス軍は現れ、合流して会戦を行った。オーストリア軍からすれば神出鬼没であった。魔法にしか思えぬ仕業だったが、それは斥候を放って集めた情報と、ひたすらに歩く不眠不休の兵のためだった。愛国心だけでは説明のできぬ働き……不屈の司令官に率いられた、有能な将兵の群れ。
 考えられぬほど軍の装備は劣悪だった。靴さえない兵士は、木の板を布で足の裏にくくりつけるか、裸足で歩いた。食料や、弾薬、銃そのものの補給さえ充分ではなかった。兵の不満が指揮官に行けば、兵卒が指揮官を後ろから撃つことも稀ではない。だが、ナポレオンは兵に恨まれはしなかった。ナポレオンは兵に勝利の味を覚えさせ、演説によって誇りを与えた。ナポレオンの行くところ兵は勝利し、敵軍の装備と食料を奪って更に軍征を続けた。環境は劣悪で、進軍は過酷だったが、ナポレオンが来るまでは、勝利もなく、誇りもなく、装備もなく、食料もなかったのである。ナポレオンは軍に必要なものを一挙に与えた。兵も、彼の配下の将軍たちも、参謀も、皆、彼のために働いた。ナポレオンは卓越した軍事的才能の持ち主であったが、人を動かす天才でもあった。
 パリ市民の目はナポレオンへと向いた。ナポレオンが勝利した報せがパリへ届くたび、市民は喜んだ。フランス革命、恐怖政治を経て、パリ市民たちは希望を、新しい星を求めていた。それがナポレオンであった。彼は勝利と金を祖国へもたらした。彼が勝利するたび、政府への不満はブォナパルテ将軍万歳の歓呼へと変わった。
 そもそも、革命がその最高潮へ達したのは、オーストリア軍によって、フランスの国土が外国軍によって侵されようとしたその時であった。ナポレオンはそのオーストリア軍を追い返した。革命によって高められていた国民たちのナショナリズムは、ナポレオンと共に戦うことによって昇華された。ナポレオンを支持する声は、日増しに高まっていった。
 バラスは当初、無邪気に喜んでいた。俺のフランスがオーストリア野郎を叩きのめす、こんなに嬉しいことはないぜ。だが、政府の内にはナポレオンの人気に対し、不安を持つ者もいた。カルノーもその一人だ。ナポレオンが早晩国民の人気を盾に、いついまの政府を倒しトップに立とうとするかもしれない。カルノーにそう囁かれたバラスは、それで初めて不安になった。だが、だからと言って、ここまで人気のあるナポレオンを退任させるわけにも行かず、ナポレオンの送ってくる金も惜しかった。つまり、政府に安穏と座る政治家たちにとって、ナポレオンは有益だが面倒な存在に成り始めていた。
 バラスは、ナポレオンそのものは嫌いじゃなかったが、ナポレオンという存在によって、政府の中に、きなくさい、良くない臭いが充満し始めるのを感じていた。

「もうちょっと、言うこと聞いてくれりゃなあ。こっちじゃ王党派は増えやがるし、こんな時だってのに……」
「私の言うことは何でも聞いてくれるわ」
「あいつのあんたへの愛情は聞いてるよ。ちょっと異常だ。まるで初めて女に惚れた童貞のようだ」
 バラスがうんざりしたように言うと、正邪がカードを放り捨てて、椅子を蹴倒して片膝をつき、両手を捧げ、おどけて見せた。
「おおジョゼフィーヌ! 君のためならば百万の軍と戦うことも苦ではない。炎の中にでも飛び込んでみせよう! 私のジョゼフィーヌ!」
 かっかっとバラスは笑い、ふふふ、と、ジョゼフィーヌはカードで口元を隠して微笑んだ。ジョゼフィーヌは前歯の並びが少し悪いため、口元を隠して笑うくせがあった。ジョゼフィーヌには、そのくせさえも、不思議な魅力にしてしまうところがある。ナポレオンもその手管にやられたのだ。
「あんたに尽くすように、政府にも尽くして欲しいんだが」
「随分、彼はやり手のようですね」
 正邪が席に戻り、ゲームが再開された。正邪はまた、いま放り捨てたカードをまとめるうちにすり替えをやっている。
 フーシェの言葉にバラスが答える。「ああ。あいつはやり手だよ。オーストリア支配からイタリアの小国家群を解放し、新しく国家を打ち立てた。戦争をやりながら国家運営までやってる。あげく、オーストリアとも好きなように交渉をやってやがる。こっちから送り込んだ議員も丸め込んで、今やナポレオンの言いなりだ。勝手に条約まで結ぶんじゃないかとこっちは見てる。外交官が何のためにいると思ってんだよ? 大臣にでもなってからやれってんだ。こっちは外務大臣の無能を晒し、成果は追認しなきゃならん。あいつは有能で、おかげでこっちは困ってる」
「少し前でしたかしら、私もイタリアに来いとやられて……ごねたけど、結局は行かなくてはならなくなりましたわ」
「あいつは勝手なやつだよ。国の都合も、妻の都合もお構いなしだ。な?」
 バラスはジョゼフィーヌにも迎合してみせた。しかし、ジョゼフィーヌが別の男とうまくやりながら夫は軽くあしらっているように、バラスもまた本格的に困っているわけではない。ナポレオンがやればやるほど、フランスは安泰だからだ。オーストリア軍がパリへなだれ込んでくるようならバラスの居場所もない。それに、ナポレオンもまた大きくなりつつはあるが致命的と言うほどではなく、何より遠いオーストリアの地にいる。
 バラスの使用人がつ、と入ってきて、それぞれの席に飲み物を配った。バラスには酒、後の三人にはコーヒーを。使用人は去る前に、フーシェに耳打ちをして行った。
「おい。今、何言った。何言わせたんだ、お前」
「彼に頼み事をしてまして。私の連れから連絡が来るかも知れないから、そうしたら伝えてくれと」嘘である。使用人も、フーシェに買収された密偵だ。フーシェは手札を伏せたまま、テーブルに置いた。
「私はパスします。ゲームはこのまま抜けさせて頂きたい。急用ができたもので」
 フーシェは立ち上がった。「待てよ」とバラスがフーシェを留めた。
「そう急ぐなって。その手札、良くないから降りようってんだろ。そうはさせねえぞ。俺だって大して良くもない手だ、勝てるかもしれないぜ」
「いえ、本当に急ぎます」
「いいじゃないか。私も勝負だ。ぱっぱっと開いてしまえば手だろ?」
 正邪がバラスの味方をした。カードをばっと開き、テーブルに出した。なら、私も、と、ジョゼフィーヌもそれに続いた。こうなっては、フーシェの意志の問題ではない。
「なら、好きにすればいい。ですが、私は行きます。私の勝ちなら、後で結果と掛け金を届けてください」
「負け分の取り立てに行ってやるよ」
 使用人に付き添われて、フーシェは退室した。退室すると、バラスがずずいと額を前に出した。俯きがちになり、言葉を潜めた。正邪とジョゼフィーヌはつられて頭を寄せた。
「勝負は正々堂々とやる。だが、掛け金を後になって吊り上げないとは、誰も言ってないよな? 実を言うと、さっきカードを配る時、フーシェのやつにカスみたいなカードを配ってやったんだ。それで、あいつ、口実をつけて降りたんだろう。どうだ? 口裏を合わせてくれるなら、取り分からいくらか分け前をやるぜ」
「乗りましたわ」「私も」二人は即座に了承した。
 ジョゼフィーヌがカードを開き、バラスも開いた。バラスの札が、最も良い手だ。フーシェのものを開いた……。バラスよりも良い手だ。バラスは思わず立ち上がった。
「おい、どういうことだ。あいつの手がどうしてこんなに良くなる」
「さあ。イカサマかもしれませんね」
「そうだ、イカサマだ。カードなんてしたことがないなんて言いやがって、あの野郎、とんだ野郎だ。畜生。こんなゲームは無しだ」
「そういう訳にはいきませんわよ。負け分はきちん、とフーシェさんに払って差し上げないと。このゲームの勝ち分がいくらか、きちんとお話しておきますわ。それに、こんな良い手なのに抜けたのも、本当に急ぎだったのかもしれません。彼はゲームに不慣れだから、これが良い手かどうかも分からなかったのかも」
 おっかしいなあ、とバラスはぶつぶつ言った。だが、バラスにとってはこの程度の負け金ははした金に過ぎないのだった。次だ次、と喚いて、バラスは再びカードを配った。


 その夜、フーシェはジョゼフィーヌの屋敷に忍んでいた。人目を憚ってはいたが、艶めいた関係では全くなかった。ジョゼフィーヌはフーシェの風貌は好みではなく、男性としては見ていなかった。フーシェの側でも、例え不美人だとしても貞淑な自分の妻が一番であって、ジョゼフィーヌのような派手好きな女とは交わろうとはしなかった。
「昼間のことはありがとう、ジョゼフィーヌ。お陰で儲かりました」
「ええ、大したことはなくてよ。あの人からあなたは巻き上げる、ネージュと私は取り分をいただく」
 フーシェは窓際で外を見、ジョゼフィーヌは椅子に座ってカップを傾けていた。その傍らで、正邪が立っている。
 正邪がせっせとやっていたすり替えは、正邪自身のものではなく、フーシェの手札を入れ替えていたのだった。ジョゼフィーヌは彼女の使用人を使ってバラスの手札を覗かせ、合図で伝える。そして、フーシェは報酬で全てを操っていたのだった。あの場において、バラスは全員に騙されていた。フーシェにはトランプの手管はなかったが、このような手管には慣れている。
「あの人はお金に困っていないのだもの。なら、ゲームでくらい、私たちに恵んで下さるべきよ」
「その通り……」
 くすくす、とジョゼフィーヌは笑った。
「昼間は忙しかったの?」
「ええ、少し。急な用事ではありませんでしたが。アンゲルロー商会の方と、銀行家の汚職のもみ消しの相談で。もみ消しでは、バラスもまた儲けることでしょう」
 フーシェはこの頃、銀行家アンゲルローと組んで、フーシェ=アンゲルロー商会を立ち上げていた。アンゲルローにとっては総裁バラスと渡りをつけられ、フーシェは金儲けをさせてくれる。互いの利益が合致した結果生まれた、悪辣な金儲け主義の軍需会社である。
 イタリア方面軍の装備の粗悪さは、アンゲルロー商会を始め悪辣な軍の御用商人が大きな要因だった。だが、兵士がいくら死のうと、フーシェにとっては関係ない。そこに儲けるチャンスがあり、フーシェには儲ける手段があるだけのことだった。どのみち、軍用品を扱う商人など、どの商人も大差がなかった。フーシェがやらなくても代わりの商人がやる。しかも、兵士は勝利すれば細かな文句は言わないし、負ければ帰ってくることはない。商人たちにとって、戦争は大きなビジネスチャンスなのだった。その損害はナポレオンのイタリア方面軍に押し付けられたが、ナポレオンは自らの才覚によって勝利を得、食料や装備などはオーストリア軍から奪うことによって折り合いをつけていた。
 軍用品を売りつけておきながら、品物の量をごまかす、横流しをする、そうした違法行為に軍の担当官たちは不平を言い立ててきたが、しかし、一向に改善されることはなかった。どのような犯罪行為も、バラスの後ろ盾ならば何も問題なく行われた。アンゲルロー商会の儲けは、バラスの懐も返ってくるのだ。バラスからすれば、国の金を使って、フーシェの手を通って自分の元へ入ってくるようなものだ。フーシェとバラスは、国にとって犯罪的な、ビジネスのパートナーとなっていた。
 アンゲルロー商会のみがフーシェの儲けではない。警察に目を付けられた議員や商人、銀行家、軍人などを嗅ぎつけては、解決の話を持ちかける。表向きはバラスの密偵として働き、有用な情報はバラスには届けず自分の懐へ入れ、商会と組んで儲けを出す。フーシェはそうしたことで財産を積み上げている途中だった。
「フーシェさん、これ」
 ジョゼフィーヌはいそいそと、フーシェに包みを見せた。フーシェは包みをほどき、中の封筒や手紙に目を通した。
「これらはイタリアから届いた主人の手紙ですわ。それからこちらは、主人の不在に届いた議員や軍人からの手紙」
 フーシェは一つ一つ目を通した。必要なものは取り分け、借り受けた。これらは後で写しを作り、ジョゼフィーヌの元に返却される。浪費癖がいつまで経っても収まらないジョゼフィーヌは、ナポレオンから多くの仕送りがあるにもかかわらず、いつでも金に困っていた。フーシェはジョゼフィーヌの借金につけ込み、ナポレオンの情報を破格な値段で買い取ると持ちかけたのである。ジョゼフィーヌにすれば、ナポレオンからの、過剰に過ぎて、むしろ滑稽に見えるほどの情熱に満ちた手紙をサロンで友達に見せびらかして話の種にするのはいつものことだったから、その他の書類と一緒に手紙を見せるだけで現金になるとくれば、断る手は無かった。フーシェとジョゼフィーヌもまた、ビジネスパートナーとなっていたのである。
 あらかた調べ終わったフーシェは、包みを分けて、片方をジョゼフィーヌに返却した。
「もういいの?」
「ええ。こちらはいつもの通り」
「ええ。主人に怪しまれないようにしてくれれば、私は構わなくてよ。良い情報はあった?」
「ええ、とても。いつも助かっています」
「ふふふ。なら、お代は上乗せしてもらわなくっちゃね」
 おほほ、とジョゼフィーヌは笑った。これでまたドレスが買えるわ、と目算を行っているのである。あの仕立屋、現金じゃないと出さない、なんて吝嗇なことを言って。革命以前の貴族が皆そうであったように、ジョゼフィーヌもまた、欲しいものはなんとしても手に入れなくてはすまない気質の女性だった。
「それはそうと、主人の言いつけを聞く時期かもしれません」
「あらいやだ。オーストリアから、お金の使い方まで見張っているの?」
「そちらではなく、男遊びの方で。彼の兄があなたを見張っています。素行を疑われているのは明らかで……彼の兄からの手紙の写しがありますが、見ますか?」
「決まっているわ、浮気がどうとか……あの人、嫌いだわ。お兄さんだか知らないけれど、嫌な目をして私を見るのよ。嫌らしいったらありゃしない……」
 フーシェは応えなかった。ジョゼフィーヌは考え込んだ。ナポレオンは案外嫉妬深い男だった。女を見る目のないナポレオンは、遊び好きなジョゼフィーヌに自分の理想を見て、貞淑な妻を信じ込んでいた。愛が深く、心の底より信じていたからこそ、他の男の影がちらつくだけで、嫉妬の炎に焦らされるのだ。一度はそのためにイタリアへ会いに行ったが、それで不満が解消されたわけではない。
「なに、外で遊ばなければよいのです。家で遊んでいればいい。あなたの愛人は、ナポレオンがあなたにつけた軍人です。世話をするために家を訪れても何の疑問もない」
「ええ……」
 ジョゼフィーヌにも、そうしなければならないことは理解できた。だけど、どうしても気乗りはしないのだった。ネージュがノックをして部屋に入り、軍人イボリット・シャルル大尉の来館を告げた。
「これは邪魔のようですな。では、これで」
「ええ。また。オ・ルヴォワール、ムッシュー」
 フーシェは影のごとく姿を消した。若き偉丈夫シャルルは、今のジョゼフィーヌの愛人であった。ナポレオンにとって不運なことに、彼とはナポレオンに請われて訪れたイタリアのローマにおいて出会ったのだ。パリへ戻った今でも、シャルルとの関係は続いている。ジョゼフィーヌの浮気をパリでは知らぬ者はいなかったが、遠い戦場にいるナポレオンは知るすべもなかった。
 シャルルが部屋へとやってくると、陰鬱極まりないフーシェと向き合っている時と違って、ジョゼフィーヌの気分はぱっと切り替わった。今は、この若い愛人との時間が最も心が華やぐのだった。
「ああ、シャルル!」
 後のジョゼフィーヌは夫の偉大さを知り、貞淑な妻となるが、この頃はまだ夫の不在を若い男にうつつを抜かす、奔放な女だった。


 ヴァンデミエールの反乱以来、王党派の動きは目に見えて減った。だが、それは本来見えるべき姿が影に隠れたというだけのことだ。むしろ、王政が続いてほしい勢力は国内のみならず、国外にもあった。イギリス、オーストリア等諸外国の援助を得て、王党派たちは議会の内外で活動を続けていた。次回の選挙では、表立って活動していない隠れ王党派も含めて、そちらが多数派になると見られていた。このままではバラスたちテルミドール派は追い出され、政治の場には出られなくなるだろう。ひどければ、殺されてしまうことも有り得る。
 今もっともバラスが気にしなければいけないのは王党派の動きであり、表でも裏でも、彼らの勢力の強さを調べていた。闇では諜報合戦が行われており、その急先鋒はフーシェであった。パリにおいて、王党派のことを誰よりも知っているのはフーシェだった。
 今や王党派の勢力は昇る日のごとくで、市内でも議会でも、その勢力は拡大の一方。さて、この情報をバラスに伝えるべきか、伝えないべきか。相手が王党派でなければ、もう少し悩んでも良かろう。だが、王党派が勝利したとして、国王処刑に票を入れたフーシェを優遇するはずもない。バラスに肩入れをしてしまっている以上、バラスには勝って貰わなければならない。フーシェは手に入れた情報を何もかもバラスへ流すことに決めた。彼に肩入れしたからには、勝ってもらわねば困る。
 話は少し遡るが、パリへと戻ってきた一人の男がいた。革命以前、司教の身分を得ていた僧籍の男、革命後は恐怖政治に巻き込まれるのを避けてアメリカへ亡命していた男、パリへ戻ってからはその弁舌と社交的な人柄を利用して、外務大臣へと成り上がろうとするその男。フーシェの不倶戴天の敵、シャルル=モーリス・ド・タレーラン・ペリゴールその人である。ナポレオン帝国の両輪の片側として知られ、現在も「タレーランのようだ」とは、外交交渉の名人を示す代名詞である。
 有能な外交手腕を持ち、人となりは明るく社交家で、洒脱が好きで美食家、酒も好きなら女も好き、それ以上に金が好きで、彼の金儲けのやり口は一言で言うならば、現代におけるアウトサイダー取引を地で行くようなもので、一筋縄ではいかない、あくどいやり手の男だった。そういうあくどさを、堂々とした態度と、持ち前の社交性、気前の良さで打ち消していたような男だった。
 フーシェとタレーランは、バラスの屋敷で出会った。バラスはフーシェを表立って紹介しなかったし、タレーランの方でも、フーシェをバラスの密偵の一人だとしか見なかった。
 フーシェは、タレーランを一目見た瞬間に、気に入らない、と思った。フーシェが他人に感情を抱くのは珍しいことだ。その男がタレーランと知ってからは、余計にその思いを強くした。タレーランのことを調べ上げる内に、余計にその思いは強くなった。
 タレーランとフーシェの共通点は、共に元僧侶であったということくらいで、後は水と油と言って良いほど相性は悪かった。フーシェが努力肌で、情報を積み上げて一つ一つ物事を処理するのに対し、タレーランは天才肌で、一瞬の閃きによって物事を決め、その通りに運んだ。フーシェが遊びに興味がなく、仕事好きだったのに対し、タレーランは閃きによって仕事をし、部下に書類を作らせて自分の名をサインをするだけで、後は遊蕩に励んだ。生まれについても、タレーランは名門貴族の出で、僧籍としては司教の座まで進み、革命が無ければ大司教になると目されていたが、フーシェは単なる漁師の息子である。革命がなければ一僧侶として骨を埋めていただろう。同じ僧籍と言っても大きな差があった。
 彼らが後々憎み合う関係になって行くのも、無理はないことであった。

「議席360に対し、王党派の数110。王党派に買収されている隠れ王党派と見られる数が80。合わせて過半数を超えます」フーシェの報告を受けた時、バラスの側にはタレーランがいた。バラスはげんなりして、その報告を受けた。王党派が勝てば、バラスごとき腐敗議員の居場所はない。たちまち蹴り出されるだろう。
「どうするよ、タレーラン。こうなりゃ、国外にいるブルボン王家のやつに、フランスを売り渡すのがかしこ……」
「やりましょう」と、タレーランはこともなく言った。「王党派を追い出しましょう」
「追い出すって……。やれんのか」
「あなたがやるんですよ。相手が来る前に叩く。一気呵成にやってしまえばいいんです。恐怖政治の頃ほど民衆は怒ってはいません。金持ちは儲けているし、パリの貧民、浮浪者が武器を持って騒いでいるだけです。大方のフランス人は王党派が支配するよりもましだと思うでしょう」
 それに、とタレーランは続けた。
「ナポレオン将軍の力を借りましょう。彼は人気がありますから、彼のすることならさして文句も出ないでしょう。彼のやり方を政府は認めてあげているのだから、少しはその威光も貸してもらわないと」
「しかしな……」
 バラスは言い淀んだ。ナポレオンにこれ以上人気を集めるのも考え物だ、と言おうとしたのだが、タレーランはそれに先んじた。
「彼の人気が気になるのでしょう。仮にも正式な議員を追い出すのだから、これは汚れ仕事です。彼に汚い仕事をやらせておけば、いつか彼を追い落とす時に役に立ちますよ」
「なるほどな……」バラスは納得した。だが、気が重かった。いつになっても、争い事は嫌いだし、自分が傷付くかも、死ぬかも、というのは嫌いなのだ。
「カルノーの動きを知っていますか? 王党派の動きに乗じて、総裁の一人と組んで、あなたを追い出そうとしています」
「ああ、それは知ってる。そこにいるフーシェが調べてきてくれた」
「それなら話は早い。この際だから、一緒に逮捕してしまいましょう。それがあなたにとっても良いでしょう」
 考えようによっては悪くないようにバラスには思えてきた。悪党のやり口だが、王党派も、ナポレオンも、カルノーも、一挙に追い出せる。そう思うと、俄然バラスにはやる気が溢れてきた。
「今聞いた通りだ。フーシェ、お前は王党派、それからカルノーと、奴に手を貸す連中、それらの動きを抑えておけよ」
「分かりました」
 フーシェは一礼し、部屋を後にした。「ナポレオン将軍への連絡は私が取りましょう」そう、タレーランが言うのが聞こえた。

 クーデターが迫ったある日の夜半、フーシェはカルノーの執務室を、人目を避けて訪れた。カルノーは、夜中でも執務を行っていた。国家が体制ぐるみ変貌しようという時、政府の椅子に座る者に休みはなかった。しかし、彼が忙しいのは陰謀や政争のためではなく、純粋に官吏としての仕事だった。
 カルノーは熱心な愛国者であった。バラスが金と女を好み、フーシェが陰謀を好むように、彼が好むのは仕事であった。国家のために尽くすことがカルノーの生きがいなのであった。バラスのような遊ぶばかりの男がいる傍ら(そのような要人どうしの繋がりもまた政治といえばそうなのだが)、国家が傾かなかったのはカルノーのような愛国者もまた無数にいたからだ。バラス、またのちのナポレオンの影に隠れてしまったが、官僚たちの多くは懸命な働き者であったし、無名の愛国者というものは無数にいるものだ。一方で、カルノーの執務室を訪れた男は愛国者のようには見えなかった。
「誰だ、こんな夜中に。貴様のような部外者が、宮殿に入るとは。兵士は何をしとるんだ」
「カルノー。ラザール・カルノー。私ですよ」
「お前。フーシェか」カルノーもさすがに驚きを露わにした。「貴様、のうのうと姿を現せたもんだな」
「ええ。あなたに有益な情報を持ってきました」
「情報だと?」カルノーは訝しんだ。だが、相手はロベスピエールをやった男だ。闇の中での働きなら、カルノーも一目置かざるを得ない。「聞くだけ聞いてやる」
「クーデターが起こります。近いうちに。身を隠した方が良いでしょう」
「クーデターだと?」
 カルノーは考え込んだ。なるほど、クーデターか。そういう方法はこのカルノーには思い浮かばなかった。ただバラスを追い落とそうと思っていたが……。
 反骨の士、眠らない男、有能なこの男にも、弱点があった。生真面目であるということだ。一本気であること、清廉であると言い換えてもよい。政治には不向きであった。バラスを政治の場から除けばトップに立てるかもしれない時も、それに足る理由がないとクーデターを行わなかった。それに、ロベスピエールの恐怖政治が終わった今、また政治の場に混乱をもたらすことは、民衆も歓迎しないだろう。バラスは他人の欲望を察知することに長けていたが、カルノーは真逆で、他人の欲望には疎いところもあった。政治には今ひとつ馴染まなかった。そしていま、政治の場から放り出されようとしている。
「貴様はどうして、俺にそれを教えてくれる」
「別に」カルノーは有能だ。恩を売っておけば、後々役に立つかも知れない……とは、言わなかった。
 言うべきことは言った。フーシェは一礼し、カルノーの執務室を後にした。

 1797年9月4日(フランス革命暦5年実月18日)の夜半、フリュクチドールのクーデターの幕は開いた。クーデターが起ころうとする最中、バラスとタレーランはバラスの屋敷にいた。バラスはとても、眠ってなどいられなかった。変事に備えて、敷地内にも一部隊、兵隊を詰めさせている。
「うまく行くかねえ」
「ナポレオンのよこした将軍は頑張っています。それに、情報も充分に集まっているし、まあ問題はないでしょう。王党派の中には人物もいないことですし」
 はああ、とバラスは溜息をついた。うまくいく、と聞いていたって、終わるまでは不安で仕方ない。
「諜報をとりまとめている彼、有能ですね」
「そうだなあ……」
 バラスは上の空で答えた。
「私も少し、ものを知っている者に聞いて回ってみましたが、彼の情報は正確です。ですが、彼の持ってきた情報が全て嘘で、私の知り得た情報が偽物なら、私とあなたの首はない」
「なんだと」バラスはびっくりした。だが、確かにその通りだ。バラスは、フーシェの持って来る情報に頼りっきりでいる。それほどに、フーシェの持って来る情報は正確で緻密だ。議員たちの本宅から第一、第二の隠れ家、愛人、よく通う場所、使用人の数から軍人や著名人との繋がりまで……。
「ですが、彼は王党派には決して与しない。彼は国王弑逆者だ。だけど、だからと言って安心はできない。……どうです。いっそ、彼を始末してはどうですか」
 バラスは驚き、タレーランを見た。タレーランは臆面もなかった。
「何言ってやがる。奴は有能だぞ」
「その有能さは、いずれ我々に牙を剥きますよ」
「……だが、殺すには惜しい。うまく扱うのが一番だろ」
「殺すとまでは言っていません。……ですが、彼は生かすのも、追放するのも厄介です。いっそ、殺してしまうのも良いかもしれない」
 どっちなんだよ、とバラスは思った。
「彼を生かすにしても、役職などは、絶対に与えないことです。彼が勢力を持てば、大変なことになりますよ」
 タレーランは物事をする時、沈思を重ねるというより、その場のひらめきを重視する傾向があった。フーシェについても、いけすかない、というタレーランの直感は、そのまま判断に繋がっている。バラスの方でも、タレーランは頭が切れるから、タレーランの言うことは間違っていないだろう、と思った。
 だが、このタレーランも信用のおける人物ではない。フーシェにはとりあえず、今回の働きに対する恩賞を与えてやらねばならない。そっぽを向かれても厄介な奴だ。だが、いいところもある。フーシェとタレーランは仲が悪いようだから、フーシェに力をつけさせれば、タレーランの力を削ぐことができる。タレーランが出てくるのも厄介だ。だが……。バラスには、判断はつかなかった。
「考えておく」バラスは言った。それよりも、いまはクーデターの動きの方が気にかかった。
「カルノーはどうした。奴は重要人物だ。クーデターなど起こせば奴はうるさい。カルノーを担ぎ上げて俺を追い落とそうとする連中も出るかもしれん。奴だけは逃がすわけにはいかんぞ」

 クーデターの波は近づいてはいたが、カルノーの執務室にはまだ届いていなかった。カルノーは王党派ではなく、むしろ忌み嫌ってもいた。カルノーは愛国者でありまた、熱心な共和主義者でもあった。革命を賛美すること甚だしく、そのカルノーがクーデターの標的とされたのは政府の重鎮であるからに他ならなかった。王党派を追い落とすついでに、重要な政治家をも同時に放り出してしまう腹であった。
 カルノーの執務室では相変わらず仕事が行われていた。隣の会議室では彼の同僚たちがやかましく討議している声が聞こえてくる。
 フーシェに逃げろ、と言われたものの、何もかも放り捨てて逃亡することもならなかった。国に対して責任があればこそ、真っ当に働くことが必要なのだ。バラスやタレーラン、フーシェに対抗するには、彼はあまりにも真っ直ぐであった。そして、目の前に積み上がっている仕事を放り捨てる無責任さもなかった。カルノーは、フーシェの勧告が気に掛かってはいたが、クーデターの夜も、執務室で業務に勤しんでいた。カルノーには、逃亡したところで、フランスの他に働くところはない、と思い込んでいる節があった。
 彼の部屋に、緩やかな風が吹いた。扉は開いておらず、隣からは相変わらず討議の声が聞こえる。なのに、誰かが入ってきた気配だけがある。カルノーは訝しみ、あたりを伺った。誰もいない。
「カルノー。逃げた方がいい」
「誰だ、貴様。フーシェの手の者か」
 部屋に気配を感じた時、フーシェだ、とカルノーは咄嗟に感じた。だが、聞こえてきた声は童女のものだった。闇の中にいる。部屋の陰のところに陣取って、足先だけが辛うじて見える……
「カルノー、兵の声が聞こえないか。もう、宮殿まで入っている。バラスはお前を排除するつもりだ」
「何を馬鹿な。私を排除できるものか」
「兵に言いな。通用するかどうか」
 声は遠ざかった。入ってきた時と同じように、ふわりとした風だけが後に残った。「待て、貴様。フーシェの指示か。奴は何を……」言いかけて、カルノーは黙った。僅かなざわめきが聞こえたからだ。どよめき、暴言……。それらの声は遠くでしている。判断は素早かった。廊下へ出ていては間に合わない。外も兵士でいっぱいだろう。カルノーは窓を開けて、宮殿の屋根へ出た。

 テルミドール、ヴァンデミエールの時とは違い、バラスは椅子に座っているだけでクーデターは済んだ。クーデターそのものはうまく行った。だが、バラスとタレーランの思ったようには行かなかった。
 王党派議員たちの当選を無効にし、元議員ならびに協力者は、軒並み逮捕された。これによって、議会における王党派議員の勢力はほぼ一掃された。それはいい。ナポレオンはクーデターへの協力は約束したものの、本人は来ず、親ジャコバンで王党派を憎むこと甚だしい配下のオージュローを送ってきた。オージュローはバラスの企みに協力し、精力的に働いた。街頭に出、直接兵士を率いて実行まで行った。がなり立てる柄の悪いオージュローの姿は、民衆に強く印象づけられたことだろう。だが、若い頃から各国を放浪し、いくつもの軍隊を追放されたちんぴら上がりのこの軍人は、自分の名声を気にしている風はなく、むしろ粗暴であるということに誇りさえ持っているように見えた。クーデターを実行させるにはお誂え向きというわけだ。
 当然、ナポレオンが直接的に手を下したとは、市民は見ない。ナポレオンは政府に協力しながら、自らは都合の良いところで眺めていた。このやり方には、タレーランも舌を巻いた。バラスはナポレオンへの態度を、より硬直させることになった。ままならない奴、と、バラスはナポレオンへの憎しみを募らせた。
 そして、カルノーには逃げられた。フーシェの企みを知らないバラスは、カルノーのやつは思ったよりも敏感だ、と感じた。逃げられはしたものの、カルノーはパリから離れ、国外へ亡命した。そのことはそれで良し、とした。ひとまず逆らう小うるさい奴は追い出した。
 歴史に言うフリュクチドールのクーデターである。この事件を糧に、バラスは益々権勢を強めた。一方で、情報は操作された。パリでの動きは秘匿され、新聞はナポレオンのオーストリアにおける成果ばかりを書き立てた。パリでの政争は秘密裏に終わったのである。逮捕された議員に対する醜聞がほんの少し出るばかりだった。パリでのナポレオンの人気に掻き消された形だ。ある意味では、ナポレオンの最も大きな寄与かもしれない。ともあれ、ナポレオンが勝つことは、フランスのみならず、政府も大きな得になった。


 一夜明けて、クーデターの中心にバラスやタレーランが座っていることがわかると、改めて勢力を維持しようと、議員や有力者たちはひっきりなしにバラスの館を訪れた。それは権力者の常だ。昼間はそれらしく来客に会ってやり、夜にはパーティに出て酒を飲んでは女と寝た。バラスにとっては夜の姿が本当のものだった。急激に高められた権力ではあったが、それを維持することにのみ努め、それを濫用しようとはしなかった。典型的であり、ある種理想的な使い方であったかもしれない。少なくとも権力の濫用に伴う悲劇は回避することができた。かつてのようにギロチンが忙しく働き出すということもなかった。
 それにしても、治安の悪化は問題であった。警察は王政の頃から制度も変わらず、旧態依然で質が低かった。賄賂を貰えば情報は売るし、ひどい時には暴徒の側に寝返ることもあった。軍を置いておかねば治安など保たれようもないが、パリで勢力を持つほどに大きな軍を置けば、反骨心のある軍高官がクーデターを起こしかねない。警察には有能な管理者が必要であった。
 ナポレオンを抜擢した時といい、バラスには案外人を見る目がある。バラスは警察大臣に対し、フーシェを指名したのである。闇の世界に通じ、情報網を巧みに操る。加えてまめまめしく働き、緻密にして完璧な報告書を作り上げてくる。裏切る可能性は常にあるが、それは誰もに言えることだ。フーシェの奴は俺様に恩がある。それに、このバラスを裏切ることが賢い選択肢ではないと分からない奴ではないだろう。
 バラスが悩むことがあるとすれば、タレーランが難色を示していることのみであった。タレーランは、不思議な態度を持っている人物であった。常に泰然としており、焦りや困った顔など見せることがなく、何一つ間違いなどするはずないというオーラのようなものを纏っていた。革命では殺されかねない目にも合った男であるから、感情がないはずもなかったが、天性のギャンブラーのごときポーカーフェイスの持ち主であった。なにかまずい失敗が一つや二つあっても、最後には勝ちを持ってきて帳尻を合わせてしまう。そのタレーランが、本能的としか言えぬ直感でフーシェを危ぶんでいる。敵にはしたくないが、味方にもしたくない男。バラスからすれば、フーシェは暗いが話のできる奴だった。ロベスピエールの天下だった時、議員の間を駆け回って働いたのを知っている。そのお陰でバラスは助かったのだが、それもまたフーシェ自身の保身でもあった。そう、つまるところ、生き延びるためならば何でもする男なのだ。あの男を信用し採用するも、またうまく使うもこのバラスの心構え一つなのだ。


四人は薄闇の中にいる。夜の一室では、燭台に火を灯していようとも薄ら暗い。バラス、ジョゼフィーヌ、正邪、それからフーシェ。バラスの私邸へ集まった四人は、またしてもカードに夢中であった。しかし、以前のような享楽に浮ついた風ではない。
 妙な緊張感があった。バラスも、そしてフーシェも、心の奥に何か秘めたるものを持っているかのようであった。正邪もまたそれを敏感に感じ取り、一人のんきなのはジョゼフィーヌくらいのものであった。ジョゼフィーヌは浮かれていた。ナポレオンの人気は留まるところを知らず、誰に会ってもちやほやしてもらえた。
「クーデターはうまく行ったよ。……言わなくても知ってることだろうが」
「完全に不意を突いたクーデターでしたから、小競り合いというほどの争いも無かったようで」
「ああ。お前の情報は実に役に立った。カルノーも捕らえられなかったし、ナポレオンに汚名を着せるのは失敗したが」
 ああ……、と頷きながら、フーシェはカードを一枚捨てた。以前、フーシェに不思議な勝利があったために、バラスは疑心を持っている。フーシェの手つきを慎重に眺めていた。
「ナポレオン将軍はどうするおつもりです」
「気になるか? まあいいだろう、教えてやる。あいつはイギリス方面軍だ。王党派を応援する大きな勢力は、何よりオーストリアとイギリスだ。オーストリアをやっつけたからには、次はイギリスだ。あいつにイギリスをやっつけさせる」
 不可能だ、とフーシェは思った。イギリスを攻撃するだけの力は、海軍にはない。船を作るにも、維持するのにも金がかかる。何より、イギリス海軍とは地力が違いすぎる。フランス軍は海を渡れないだろう。
 不可能な事柄を押しつける、これは公然たるいじめのようなものだ。イギリス攻撃の成果が上がらなければ、ナポレオンを無能ということにできる。それこそがバラスたち、政府首脳の考えだった。ナポレオンは軍事的能力に加え、政治的な力も持ち合わせてきている。政府にとっては、これほど恐ろしい味方はいなかった。
「ま、ま、ナポレオンのことはいいんだよ。俺に任せとけ。それより、お前のことだ」
「私の?」
 フーシェとバラスが話している間、正邪とジョゼフィーヌは仲良く、別のことをぺちゃくちゃ喋っていた。イタリア旅行のこと、金回りがよくなったこと、それでも借金が減らないこと。
「ああ。お前の昇進についてな」
 フーシェは答えなかった。喜んで飛びついて良いものか、じっくりと考えている。
「何か言えよ。お前にも思うところはあるだろ。いい加減、人がましい生活をしたいだろ? 汚い服を脱ぎ捨て、表通りを両手を振って歩きたい。そうだろ?」
 フーシェはバラスの目を見た。にやつき、挑発するかのごとく目は逆三日月につり上がっていて、実に楽しげだ。心底からの嘲りではない。そういう風に、世の中を茶化しているのが楽しいのだ。だから、そのように笑って小馬鹿にしてくるのも、本心のものではないだろう。
 本当にそうか? それに乗って、その通りですと高望みをすれば笑ってその場限りかもしれない。しかし、本心を隠すのもまた、バラスの不況を買うかもしれない。バラスにはよほど情報をやった。フリュクチドールのクーデターで、有力な王党派を逃さずに狩りたてられたのはフーシェの情報の故だ。また、バラスに敵対する議員を理由なく追い立てるため、小さな醜聞を大きく新聞に書き立ててもやった。政府に身を置くだけの有能さとバラスへの忠誠を示したことは確かなのだ。
 警察大臣……警察大臣の座がほしい。治安の強化は急務であり、またそれに適した組織はない。警察は地味で華やかさはなく、誰もやりたがらない仕事だ。軍の下部組織のような警察で頑張るよりも、ナポレオンのように軍人を目指すだろう。加えて、貧弱な組織を改革する必要もある。しかし、自分ならばやり遂げられる。なぜならば調査能力に長けた警察組織があれば、あらゆる陰謀を自分の手の内に入れておくことができるからだ。自分があらゆる陰謀に関わり、表向きでは何気なく振る舞っていることができる。陰謀とはいかに享楽に満ちた代物であることか。それを操る愉しみのためならば、フーシェはどのようなことでもする。
 しかしそれだけではない。バラスの言うことも一理あった。政府の一員としての立場がほしい。それなりの給料を得て、まともな借家に移り、家族にも楽をさせてやりたい。どのように困窮しても自分は平気だ。楽しみがあるから生き延びられる。しかし、家族はそうではない……家族を顧みず、闇の中をうろつきまわる痩せた醜男に尽くすことは、生きる楽しみとはなりえないだろう。家族にもどうにか報いてやりたい。この現状をどうにかするためには、目の前で金の臭いをぷんぷんさせて笑う男に媚びる必要があった。
重要なことは、こいつが金を従えているのではない。金がこいつを押し上げているということだ。今は金が支配する時だ。無官ではどうしようもない。金を得るためには、立場が要る。
「それほどまでに言い立てられては、返す言葉もありません。……しかし、職が欲しいのは確かです」
 ふふ、ふん、とバラスは満足げに笑った。フーシェは小狡く、ひねたように無表情な顔をしていても、案外根は素直な男だ。バラスはそのようにフーシェを見ている。世の中の人間はどいつもこいつもフーシェを忌み嫌うが、言われているほどの悪党じゃない。
 それはバラスらしい人間を好む楽観さ、愛嬌と呼ぶべきだったかもしれないが、バラスはフーシェの弱みを見たことがある男だった。フーシェ自身認めようとはしないだろうが、死にかけて路地裏を逃げ惑っている時、この男は、痩せこけて、命からがらに助けを求めて訪ね歩いていた。あの頃はバラス自身もまた窮地であったから他人を意識している余裕はなかったが、今にしてみればいかにも哀れで……フーシェもまた人間味のある男なのだ。
 バラスはそのような視点も持ち合わせていた。危険だという声もある。信用できないとも。しかし、信用などする必要はない。要は、俺様がこの男をうまく使ってやれるかどうかだ。
「どうしてかは分からんが、議員の数は減った。大臣にも欠員が出ている有様だし、席は空いている。……貴様に要望があれば、叶えて差し上げることも可能だろうな。しかし、俺はまだ悩んでる。正直なところ、どう判断するか俺自身決めかねているところだ。貴様は過去の行いのお陰で、反対する奴も多いし」
 フーシェは無言でいた。視線はバラスに向けられたままだ。
「ねえ、あなた方。何やら取引もいいけれど、カードを捨てるかどうするか、さっさと決めてくださいな」
 二人の態度には無関心そうに、ジョゼフィーヌは言った。政治の話は、彼女にとってはつまらない。バラスはカードを机の上へと放り捨てた。以前、似たような仕草をフーシェが見せたことがあった。その意趣返しのような格好だ。放り捨てたカードの上へ肘を置き、バラスは身を乗り出した。カードの山を掴んで机の中央に、どんと音を立てて置いた。捨てたカードが散らばった。
「まあ! なんてことをするの、せっかく良い手が来ていたのに」
 ジョゼフィーヌは喚いたが、バラスは無視した。フーシェは突き出されたカードの山を、冷たい視線で見下ろした。
「どうだ。フーシェ。勝負をしよう。お前は今からカードを一枚引くんだ。それで、その数字が中央、すなわち8よりも上ならば、お前の勝ちだ。お前を大臣にしてやる。お前の欲しいポストをやるよ。どうだ?」
 運命が目の前に転がっている。目の前に積まれたカードの上に、フーシェ自身の運命がある。警察組織……家族……子供たち。そして、ともすれば、フランスの運命さえも。そしてジョゼフィーヌと正邪は新たな賭けを始めた。ジョゼフィーヌはバラスの勝ちに賭けようとしている。正邪はフーシェの方へ。
「いいんだぜ、降りても。降りたって変わらず使ってやるからよ。随分儲けてるんだろ。もっと儲けさせてやる」
 フーシェは山に手を伸ばした。指先でカードに触れた。骨張った指が、カードを撫でる……そんなことで、数字が分かるはずもない。
「戯れが過ぎますね」
 そう言いつつも、フーシェの目はカードから離れなかった。バラスの心中の感情を読み取ろうとした。バラスもあるいは、本当に運を試そうとしているのか。それとも、カードの数字は関係なく、どちらにしろ大臣にするつもりはないのか。それとも、必ず負けるように仕込み、それを言い訳にするつもりなのか。
 このゲームは、単純にして、フーシェのような者には効果的だ。時間のかかるゲームでは、フーシェはどうにかしてイカサマを仕込もうとするだろう。だが、このようにその場の思いつきで用意されたゲームでは駆け引きの余裕はない。バラスはただ、フーシェを見張っていれば良い。フーシェは、監視され、あらゆる挙動を疑われる。そして、バラスが何かを仕込んでいたとしても、フーシェがそれを発見する術はなく、公正に見えることも、バラスに利している。
 だが、何にせよ、やらなくてはならない。運命とは自らを放り込むことだ。放り出せば負けは決まっている。賭けに乗らなければバラスの不興を買うだろう。しかし、バラスの土俵で戦わなければならないとは。フーシェは一瞬のうちに、イカサマを仕込めないか考えた。だが、フーシェにはそれだけの手管があるはずもない。この一瞬で、正邪やジョゼフィーヌにも助力は頼めない。
 緊張のうち、フーシェが指を引こうとした。その一瞬、正邪が手を伸ばした。
「あ」
 フーシェは間抜けな声を上げた……馬鹿そのものに聞こえるような声だった。フーシェの手から、正邪がカードをひったくり、すぐさま表に向けた。カードは9だった。
「あら。引くだけなのに、あんまり待たせるから、我慢できませんでしたわ」
「お前」とバラスが腰を上げ、立ち上がりかけた。だが、すぐに座り直した。
「どのみち、フーシェが引いたところで俺の負け、か。ネージュ、お前、仕込んだか? だとすると中々友達思いな奴だな。ふん。良い友達だ。ベッドの中でも仲良くしてやんなよ」
「そんな関係じゃない」
 フーシェは言下に否定し、あらあらまあまあ、とジョゼフィーヌ、正邪ははやし立てた。下卑た冗談は、負け惜しみに発したものだと自嘲して、バラスはふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「大臣にしてやるよ。お前は役に立つもんな。お前、警察大臣だ。なりたかったんだろ?」
 フーシェはにこりともしなかった。内心の喜びを表情に表すことはない。警察大臣、これ以上にフーシェに適任なものがあるだろうか。
「ありがたく頂きましょう」
「警察大臣のポストをやるんだから、こないだの賭けはなしでいいな。お前にとっちゃ、これ以上の儲けはないだろ」
「ええ。こないだの勝ち分を差し引いても、充分に私の勝ちです」
 バラスは腹の中で考えを巡らした。正直なところ、勝とうが負けようが、バラスにはどちらでもよかった。だからこそ、こんな運任せの方法に持ち込んだのかもしれない。バラスにも、フーシェをどうしたいのか、という考えが、どっちつかずのまま、判断できずにいた。
 こいつは敵にするにも、味方にするにも、厄介なやつだ。放っておいて、誰かにつき、敵になるのも不安だし、力を与えるのも不安だ。だが、ともあれ人間だ。機嫌を取られれば嬉しいものに違いない。機嫌を損ね、バラスを倒す方向に持っていかれるのが、何よりも怖い。こいつはロベスピエールをギロチンに送り込んだ奴だ。自分がそこに並び、やがてギロチン下の籠の中に落ちる。バラスにとっては、想像もしたくもないことだった。しかし、革命政府の椅子に座っている者は皆、ある意味ではギロチンの刃の下にいるのと変わりない。
 何にせよ、とバラスは考えた。裏切られないようにすればいいんだ。権勢を強く保つことだ、権勢があれば、何も怖いことはない……権勢がある限りは。こいつもその支えの一つにする。有能さは、バラス自身も知っている。
 それに、フーシェを雇うことにはメリットもある。フーシェは元ジャコバンだ。ジャコバン党の連中がまたぞろ動き出してやがる。ジャコバンを狩るにはジャコバンにやらせるのが一番いい。蛇の道は蛇ってやつさ……。こいつは厄介だが、使い出はある。
 バラスはようよう、嬉しそうににやりと笑った。フーシェもまた笑った。一人、ジョゼフィーヌだけがカードを放り捨て、怒り顔をした。
「こないだの勝ち分を放り出すんですか、フーシェ。なら、私の分け前はどうなるんですか」
「何だと。お前ら、組んでやがったのか」
 わあわあと二人は騒ぎ始めた。ふふん、くすくす、と正邪は嬉しそうに笑った。机の上のカード、フーシェと正邪の引いたカードが、変化して、姿を取り戻した。9のカードが、ひっくり返って、元の6へ……数字が元へ戻ったことに気付いた者は、誰もいなかった。やがてバラスは口論にも疲れて、椅子へとどっかり座った。手を振って、出てゆけと合図した。フーシェが素早く席を立ち、まだ解決はしてませんからと言いたげに鼻を鳴らし、ジョゼフィーヌも続いた。ジョゼフィーヌを追い立てるように、バラスが背中を押し、部屋の外へと押し出した。
 そして最後に、正邪が燭台の火を吹き消した。


 フーシェは宮殿の一室を執務室に譲り受けた。使い込まれた古くささはあったものの、調度のきらびやかさは、フーシェがこれまで使ってきたどの執務室よりも美しかった。フーシェの内心に昂ぶりはない。なるようになり、来るところへ来たという現実がある。
 椅子に座って、腰を深く沈めた。この部屋は綺麗だが、仕事には使えないな。こういった席が似合うのは、派手好きのバラスやタレーラン、外交で名を売るものか、あるいは、英雄好みのナポレオン……ああいった連中だ。私は別の、隠れた仕事場を見つける必要がある。
「それで、どうするんだ、フーシェ」
「要は市民さ、正邪。反政府活動が行われているかいないか、それは市民で分かる」
 執務室の椅子に座り、演説をぶつようにフーシェは言った。聞き手たる正邪は、机の端に座り、足をぶらぶらさせていた。正邪には喜びと苛立ちの両方があった。フーシェが出世したのは嬉しい。フーシェが警察組織を支配して、情報を集めるのなら、誰も彼もの秘密を握れることだろう。後ろ暗い弱点を手の中に入れられるのは、実に楽しいことじゃないか……一方で、フーシェが自分の足下を着実に固めていることに不満を持った。今は上り調子だ。転げ落ちる顔は、なかなか見られそうにない。だが、それは後のお楽しみだ。どのみち、転げ落ちない奴なんていないのだ。こと、この政治という舞台では……。正邪は重ねて聞いた。
「具体的にはどうするんだよ」
「情報を集める組織を構築する。情報を握り、すべてを支配する。市民を見張り、反政府的な者を燻り出す。下だけでなく、上も見張る。政治家も、軍人も……」
「ふうん……」
 なんだかつまらんな、と、正邪は思った。
「正邪、お前には引き続きジョゼフィーヌのところにいて、ナポレオンからの情報を集めてほしい」
「おい、私を扱うつもりか。なんて奴だ。こないだまではどん底にいた奴が、ちょっと上に行ったらいきなり人を顎で使うつもりかよ」
「嫌なら構わないさ。密偵はお前だけじゃない」
 ふん。それはその通りなのだ。フーシェは最早、正邪と一緒にいる必要はないのだ。部下はたくさんいるし、金は増えていく一方、正邪にパンをもらう必要もない。
「もっとも、ナポレオンはエジプトに行くから、そこまで動向を気にしなくともいい。王党派は一掃されて、市内は落ち着いているしな」
「エジプト? イギリス方面じゃなかったのか」
「そのイギリス方面だよ。イギリスはインドの植民地から大量の品物を運んでる。エジプトを封鎖すれば、イギリスはアフリカを大きく回って物資を運ぶしかなくなる。それでたちまち干上がることもないが、貿易は滞る。要はイギリスを困らせておこうってことだ。奴が立てた計画か、それとも、政府の誰かが、奴を追放するために言い出したことか。どのみち不可能な作戦だ。だが、もしやれたならば、英雄さ。少なくとも、そういう壮大な策を練ることができるだけでも、英雄と言えるかも」
 日が昇るか、日が落ちるか。どちらにしろ、政局が安定したパリよりも、正邪にとっては魅力的に見えた。正邪はぽつりと呟いた。
「エジプトに行こうかな」
「本気か」
 にやり、と正邪は笑った。フーシェは不可能だと思っている。フーシェがそう思うなら、余計に行ってみたくなった。
「行けなくはないが、とてもじゃないが安全とは言えんぞ」
「そうは言うが、ナポレオンの側で様子を見てくれる手駒がいるのは、お前としてもありがたいだろ」
 フーシェは黙り込んだ。それはその通りだ。自発的にエジプトへ行こうという部下を用意するのは、少し手がかかる。
「たまにはお前のために働くのも、悪くない」
「随分素直だな」
「私はいつでも素直だぜ。お前の助けになるんならどこにでも行ってやるよ」
 フーシェは黙っていた。正邪を信用していない顔つきだった。
「エジプトか。ヴァンデミエール将軍、イタリアの解放者が更に上昇するか、それとも失墜するか。どちらにしろ、実に面白いところだと思わないか、フーシェ」
「どうかな。エジプト支配以上のことを奴が望めば、奴はアレキサンダーになるかもしれないぞ」
 アレキサンダーだって、やがては失墜するのだ。アレキサンダーは32歳で死んだ。今のナポレオンもちょうどそのくらいだ。面白そうじゃないか、と、正邪はますます楽しそうな表情を作った。
「じゃあ、奴が失墜するか、アレキサンダーになるかの、運命の別れ目というわけだ。決めた。私はパリを出る。私が帰ってきた時は、面白いものを見せろよ。フーシェ」
「いいだろう。エジプトで働けよ、正邪。手紙は絶やさないようにしろ」
 ああ分かったよ、と正邪は言って、ひょい、と机から飛び降り、執務室を後にした。フーシェと正邪は別れた。フーシェは、忙しくなるぞ、と、心を新たにした。


 ジョゼフ・フーシェが警察大臣に任命というニュースは、瞬く間にパリ中を駆け巡った。市民たちには、まさしく寝耳に水の出来事だった。行方も知らず、生死も分からなかったフーシェが生きていて、いま大臣の椅子に座っている。
 テルミドールのクーデターから3年が経っていた。ジャコバンの最後の生き残り、リヨンの霰弾乱殺者の名は、まだ人々の記憶から消えていない。むしろ今、まざまざと市民の心の中に蘇ったのである。革命が終わり、恐怖政治は終わったのに、リヨンと同じ虐殺を、今度はパリで行うつもりか? ロベスピエールの死とともに追い払われ、勢力を失ったジャコバンの有力者たちを呼び戻し、再びテルールの季節が始まるのか?
 だが、人々が恐れたような事態にはならなかった。フーシェは粛々と職務についていた。ジャコバン党のフーシェ、散弾乱殺者のフーシェは跡形もなく消え、温厚で大人しい警察大臣フーシェだけが残った。警察大臣の彼を、民衆はおずおずと眺め、様子を見ていた。だが、いつまで経っても、彼に虐殺者の血が流れているとは思えなかった。それどころか、これまでになく警察として有能だという噂が流れ始めた。
 フーシェには複数の顔があった。彼は冷血動物、あるいはカメレオンともあだ名されていた。その別名の通り、彼は一つとして同じ顔を持たなかった。国王処刑反対派から暴力的革命家、そして今は暴力など知らない温和な閣僚の顔であった。
 有能な警察大臣として、そして誰にでも優しい、一人の政治家である。彼は世間で言われているほど過激ではないとパリの人々が知ると、(むろん彼自身がこの噂を積極的に流したのだが)彼の元へ、ちょっとした相談を持ち込む者が増えてきた。汚職の嫌疑をかけられた。友人が逮捕された。政府にコネが欲しい……そうした相談を受けると、フーシェは優しく、間を取り持ってやった。誰も、恐怖で抑え付けられるよりも、優しく撫でられる方が大人しく従おうという気になるものである。
 こうして、フーシェはかつてのジャコバン党、血も涙もない虐殺人という評判を徐々に消してゆき、穏やかで親切な警察大臣としての評価を手に入れた。フーシェの行いを知っている同僚の視線は厳しかったが、フーシェは意に介さなかった。

 ジャコバン党のフーシェが警察大臣に任命され、王党派やブルジョア達は、がっくりと肩を落とした。フリュクチドールのクーデターで、王党派はこてんぱんにやられた。治安も安定し、金ぴか青年隊は活動どころではない。しばらく、王党派は活動どころでなく、地下に潜ることを余儀なくされるだろう。
 一方で、喜んだ者達もいた。虐げられ、地の底に潜り活動を続けているジャコバン党である。金ぴか青年隊に追い散らされたジャコバン党だが、フリュクチドールのクーデターで王党派の勢いが弱まったのを潮に、活動を強めていた。元ジャコバンクラブ会員たちは、調教場クラブという馬のクラブを作り、それを隠れ蓑に、活動を始めていた。
 ジャコバン派のフーシェが蘇ったからには、再び日の目を見ることができる、と、斜陽のジャコバン党員たちは喜んだ。だがそれはぬか喜びに過ぎなかった。哀しいかな、フーシェは既にジャコバンの看板を下ろしている。だが、ジャコバン党員がフーシェはジャコバンの味方だと思ったように、フーシェはジャコバンを応援するのではないか、と危惧した議員たちがいた。
 ジャコバンに対する処分を求めて、フーシェに面会した議員がいた。彼は聞いた。「王党派は勢いを減らしています。ですが、今度はジャコバンが力を盛り返してきたようです。彼らは裏路地で集まっては会合を繰り返しています。これをどうなさるおつもりで?」フーシェは簡潔に答えた。
「ジャコバン・クラブを閉鎖します」簡単なことのように、フーシェは言った。議員は驚きつつ、できないだろう、と言わんばかりに「いつですか。するというのはいつでも言える。一週間後ですか、それとも二週間後か」と聞いた。フーシェは、「明日」と答えた。
 ジャコバン派への処置は必要だった。王党派に処置を加えると、今度はジャコバンが盛り返す。そして、王党派も自分たちばかりが処分を受けた、とますます反発する。王党派をなだめるためにも、ジャコバンを抑えるためにも、ジャコバンを処分しなければならない。
 どっちつかずのバラス政権の弱点だった。ジャコバンを叩けば、同じように王党派が勢いを増す。両方を敵に回しながら続けなければならない。だが、フランスは以前のような国王支配に戻る気はないし、ロベスピエールのような恐怖政治も求めていないのだった。バラスはひとまず、替えがいないために、政治の頂点に座っている。
 フーシェは宣言通りに、陸軍大臣ベルナドットの説得にかかった。閉鎖のためには、彼の同意が必要だ。彼は熱心なジャコバン党員だった。彼に反対されれば、閉鎖はいつになるか分からない。
 フーシェの説得にも、ベルナドットは頑として首を縦には振らなかった。
「いいでしょう。ジャコバンの処分は必要ですから、この際、あなたの大臣の席を退けて見せれば、ジャコバンに対する態度も分かり、国中のジャコバンの連中も思い知ることでしょう」
 そう言ってフーシェは、無機質な蛇のような目でベルナドットを見た。言葉は穏やかで、その瞳は、温度のない目をしていた。フーシェの目は、やると言えばやる、不気味な威圧に満ちていた。ベルナドットは仕方なしに許可を与え、フーシェは慇懃に一礼して立ち去った。その足で総裁政府に向かい、本当にクラブを閉鎖する署名を集めてしまった。
 それで、フーシェ自身、閉鎖をするためにクラブへ向かった。「フーシェ閣下が大臣となってくれたからには……」折しも、一人の男が演説の途中だった。踏み入ったフーシェをジャコバン党員たちは見た。期待のこもった目つきがフーシェを見た。今こそ、フーシェがジャコバンクラブに復帰する時なのだ……そして、ジャコバン党の復古が始まるのだ。そう、ジャコバン党員たちは皆信じた。
 その壇上は、かつてジャコバン党員フーシェが演説をした場所だ。もはやジャコバンではない彼が壇上へ上ると、宣告文を取り上げた。治安上の問題で当クラブを閉鎖する旨を説明すると、反論する者は一人もいなかった。彼らは口の中で、ぶつぶつと反論の声をこぼしたが、それをフーシェに向ける者はおらず、このままでは逮捕されるかも、と、フーシェの傍らに控える警官の姿に怯えて、一人、また一人、と慌てて、クラブを出て行った。誰もいなくなると、フーシェは扉を閉め、鍵を落とした。
 これほどジョゼフ・フーシェにとって象徴的な場面はあるだろうか。彼が利用したジャコバンクラブを、必要がなくなると切り捨てたのだ。フーシェは穏健的革命派から始まって、急進的革命、ジャコバン派へと鞍替えし、今やバラスたちテルミドール派の一員と成り果てた。僧侶を辞めたことを、神への裏切りと見なすならば、フーシェの生涯における四度目の裏切りであった。

 酒場に一人、飲みつぶれて、くだを巻く男がいる。彼の名はタリアン、議員である。金ぴか青年隊を率い、王党派やブルジョワの手先としてジャコバン狩りを扇動した男。彼は今、没落の一途を辿っていた。
 元々、大した男ではない。ロベスピエールを攻撃した嚆矢となった男、美貌の愛人、悲劇のヒロインたるテレジアを救うために行動した男。その名声で立場を保っていただけの男だ。落ち目となった彼はテレジアにさえ愛想を尽かされていた。金ぴか青年隊の活動も封じられた。新しい警察長官の働きで、パリの治安は安定し、ジャコバンも王党派も、暴れることはできなくなった。
 彼自身の服装もぼろになり、彼の話を聞こうとする者はいなかった。バラスさえ、彼を屋敷へ誘おうとはしなかった。バラスとテレジアが浮気していたという噂のためかもしれない。こんなはずじゃなかった、と、タリアンは思っていた。だが、彼にとっての理想、目的とは何だっただろう? 彼はただ、自分の命欲しさに、ロベスピエールを攻撃しただけのことだ。テレジアを救うということさえ、自分の命を救うついでだったかもしれない。
 彼の脇へ座った者がいた。タリアンは酔いに澱んだ目で、隣の者を見た。フードを被った小男だ。フードの男は、酒瓶を傾けた。タリアンはグラスで受けた。
「あんた、いい奴だな。誰も俺の話を聞いてくれない」
「ああ……」
 小男は、つまらなそうに呟いた。
「俺を誰だと思っていやがる。俺がやらなきゃあ、ロベスピエールは倒せなかったんだぞ。俺がやらなきゃ、まだジャコバンの恐怖政治が続いてた。くそ。どうして民衆は俺に感謝しない。俺を讃えないんだ。くそ……」
 何度も聞いた話だ。その手の話は、テルミドールのクーデター以後、何度も囁かれた。劇場で演じられもした。だから、皆、急速に飽きた。実際、タリアンはそれ以上の男ではなかったのだ。同じ話を繰り返すタリアンを、皆疎むようになっていった。
「それで、どうするんだい、あんた」
「あんた、だと。お前のような奴に」
「私みたいな奴しか、話を聞いてくれないんじゃないか」
「……ふん」
「あんた。することないんなら、エジプトにでも行ったらどう」
 あぁ? とタリアンは呻き、小男を見た。
「どうせあんた、パリにいたって仕方ないだろう。愛人にも愛想を尽かされてる」タリアンは立ち上がりかけた。小男は、おっと、と呟き、両手を掲げて見せた。「ほんとのことだろ。ナポレオンは、エジプトに行く奴を探してる。エジプトに行きたがる奴は少ないから、歓迎されるぜ」
「だが、軍人じゃない」
「議員やってるんなら、統治の手伝いくらいできるだろ。兵士じゃないんだから、ドンパチもしなくて済む。なあ、あんた。それがいいよ。そうしなよ……なあ」
 タリアンは酒を口に入れた。酒のせいか、それが良いことなのか悪いことなのか、判別がつかなかった……。そのうちに、小男は見えなくなった。タリアンの頭には、エジプトという考えだけが残った。小男のことは、幻か何かだったかのように、実感を失っていた。
 酒場を出た正邪は、フードを脱いだ。正邪が彼に会いに行ったのは……例え一瞬であれ、頂点に達した男だからだ。熱月九日、議会の壇上に上ったタリアンは、間違いなく権力の頂点にいた。ロベスピエールを倒し、次の政府の頂点に上り得る可能性があった。
 だが、彼には命を繋ぐ以上の目的はなく、先見性もなく、また、人の上に立つ才覚もなかった。彼も最早、ただの、革命に流されただけの男だった。タリアンは、二度と浮上することはなかった。テルミドールのクーデターの日、議会の壇上より上の脚光は得られなかった。彼はナポレオンのエジプト遠征に付き従い、帰還の途中でイギリス海軍に拿捕された。捕虜となった彼は1802年にフランスへ戻った。公職に就くこともあったが、展望もなく、彼は1820年に死んだ。

 正邪は彼のことを、フーシェに報告した。「タリアン、あいつな。鬱陶しかったろ。追放しといてやったぜ」つまらんことを言うな、とばかりに、「奴ごときを相手にしようがしまいが、一緒だ」と、フーシェは言った。それだけで終わった。フーシェにとって、タリアンの名前を聞くことは、二度となかった。フーシェにとっては、タリアンのような者は、もはや問題ではない。金ぴか青年隊のごときは、オフィスで命令すれば事足りるような立場になっている。彼はより大きな者に立ち向かうために、オフィスで組織作りに没頭していた。
 正邪にとっては、そういうフーシェは面白くない。エジプトだな。むしろ、正邪にとっては、ナポレオンとエジプトのことを考える方が面白い。
 政府にとっては、ナポレオンは台風のようなものだった。歴史の風は南へ去った。退廃の沼のように、淀んだ風はパリに留まった。淀みは腐る。ナポレオンのいないパリでは腐敗の暗雲が立ち籠めている。
 (1が消えてた時用)東方歴史合同の西洋編に提出したものの再編集版です 合同主に怒られたら消します 2以降は初出なので怒られないと思うので、消えてたら1は東方歴史合同を入手して読んでもろて
 基本的にシュテファン・ツヴァイクのフーシェを中心に色んな本の面白いところを引っ張り出してきたものになります 歴史との矛盾はたくさんあると思うけど広い心でゆるしてください(ここまで1と同じ)

 2です バラスは描いててたのしかったです(こなみ)
RingGing
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