Coolier - 新生・東方創想話

鬼人正邪1794(1) ロベスピエール

2021/04/17 17:06:36
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 1794 ロベスピエール


 序

 1688年にはイギリスで名誉革命が起こり、1775年にはアメリカで独立革命が起こった。政治は貴族たちのものから、市民たちのものになった。だが、フランスは貴族中心の古い制度のままであった。総人口の2%の聖職者と貴族が、残り98%の平民を支配するアンシャン・レジーム(旧制度)である。
 1787年、アメリカ独立運動に背を押されるように、平民たちは政治体制の変化を求めた。王と貴族は変革を実施しようとしたが遅々として進まず、平民に人気のあった財務長官が罷免されたことをきっかけにフランス革命が起こり、絶対王政は立憲王政へと変わった。だが、国王は逃亡事件を起こし、周辺外国からの戦争をほのめかす脅迫によって、国王の地位は元のままに保たれたものの、国王擁護の支持の声は消えた。
 ブルボン王家を守ろうとする周辺国との摩擦により、1792年にはオーストリアと戦争状態になった。兵士こそ国民皆兵令による民兵だったが、貴族出身の士官はやる気がなく、革命で成り上がった士官は実戦経験が少なかったため、フランス軍は各地で破れた。やがて敵軍がフランスの国境線を越えるに至って、フランスが外国と争うのは国王が存在しているためだと、国民は知った。王政を捨て、共和制を完遂するとの意志を諸外国に向けて示さなければならない。国王はフランスの敵となった。パリに集まった義勇兵と市民たちは、宮殿を攻撃し、国王を幽閉した。民衆は知ったのである。戦うのは貴族の役目ではなく、我々民衆なのだ、と。民衆は暴力と血に酔った。
 1792年9月、たった五年間の立憲王政は終わり、フランスは共和制へと移行した。フランス共和国の誕生である。

 国王は不要になり、王政は終わった。だが、国王を助命するや否やの議論は、未だ交わされていた。革命政府の国民公会は、国王処刑の急進派(革命支持の急進派、ジャコバン党)と、国王助命の穏健派(革命支持の穏健派、ジロンド党)の二つの派閥に分かれていた。市民たちの圧倒的支持を得ていたのは、国王処刑に動く急進派、ジャコバン党である。パリ市民たちは、国王処刑の採決の日には議場の回りを取り囲み、穏健派、あるいは助命に投票しそうな議員を見つけては武器を持って迫り、処刑に投票しろと脅した。穏健派議員は怯えてこそこそと、急進派議員は喝采を浴びながら堂々と、議場へと入った。
 採決は議員一人一人が壇上に昇り、刑をそれぞれ述べるという形になった。ジャコバン党の中核議員、マクシミリアン・ロベスピエールの「助命か、死か。イエスか、ノーかを、議会の中央で発言しなければならない」との意見を議会が取り上げたためであった。一人目に呼ばれたのは、ジロンド党の頭領、ヴェルニオーだった。外には革命に酔いしれる市民たちがおり、議場には「殺せ!」「国王に死を」と喚く急進派たちの声が上がる。場の空気は、完全に急進派たちに飲まれていた。
 彼の声は震えた。「死刑」と、言葉が漏れた。ここで国王に寛大な措置を示せば、以後このパリで政治生命を保つことはできまい。彼の死刑票は、穏健的立場を政治の場で保つための投票であった。だが、ともかく、穏健派第一の人物が処刑を選んだのである。前日まで国王の助命を願っていた議員たちの意見は揺れた。だが、判決は決まったようなものであった。
 採決の結果、市民ルイ・カペー、かつてのルイ16世の処刑が決まった。古き世のくびきを断ちきり、新しい世への歩みを選んだ。フランスが得たものは国王弑逆の名と、諸外国との果てなき闘争、そして政治的混乱であった。

 国王の処刑が終わった後、議会は相変わらず二つに分かれていた。一方ではジャコバン党が、穏健派が貴族を保護するために革命が進まぬと責め立て、一方ではジロンド党が急進派のやり方は過激に過ぎると責めた。
 パリの街の中では、国王一族がいなくなりさえすれば暮らしが良くなると信じていた市民たちの暮らしは全く楽にはならなかった。貴族や、裕福な上層、中層市民の溜め込んだ資産が吐き出されることもなく、彼らは資産を隠して革命の嵐を避けようとする。政府は財政難のために、大量の紙幣を発行し、物価高が進み、農家の売り惜しみなどもあって、食糧不足が起こり、餓死者が大量に出る始末。戦争は未だ続いていた。暮らしは良くならず、国民の不満は高まった。しかしその不満をぶつけるべき相手を見つけられぬ民衆は、次第に不満の捌け口を同じ市民に見出した。市民は市民どうしで「反革命」の烙印を押し付け合った。恐怖政治の暗い影がパリに差し込んだ。国王さえ排除されたのだ。排除されぬ者がどこにいるだろう?他人を反革命だと責め立てた男が、次の日には反革命の容疑で裁判にかけられていた。そのような時代だった。
 街では、広場の中央に設置されたギロチンが鳴らない日はなかった。国王、国王の次は王妃、王妃の次は国王に味方した者。国王に味方した者がいなくなれば、次は国王に対して穏やかな意見を持っていた者たち。
 次なる獲物、市民の不満のはけ口を、急進派ジャコバン党たちはジロンド党に向けた。ジロンド党議員を追放及び処刑し、更に、ジャコバン党の中でも比較的穏健的な立場にいる者をも弾劾し始めた。対抗する有力者を次々と片付け、国民公会はロベスピエール一人の意に沿って動くようになる。ロベスピエールの恐怖政治が始まった。

 その一方で、国民公会議員ジョゼフ・フーシェは、革命の暴風を避けるため、地方派遣議員に立候補した。議員が地方に派遣されるに至った経緯は、首都パリでの革命の進み方に比べ、蒙昧にして革命を理解しない地方都市に対し、革命を啓蒙し指導するとの目的のためである。フーシェが派遣されたのは、革命に対して都市ぐるみで半期を企てたリヨン市である。彼はこの都市において、あらゆる反革命の粛清を命じられた。




 1794 ロベスピエール

 風が吹いた。

 ジョゼフ・フーシェは机の上に投げ出された書類を、その特徴である無感動な目で見下ろしていた。昼間だというのに、フーシェの執務室は薄暗い。
 リヨンへ派遣された二人の地方派遣議員、フーシェとコロー・デルボアは、主にデルボアが現場指揮、フーシェが書類の作成と役割を分担した。委員たちとデルボアの詰所は、革命で逃げ出した商人の屋敷、その中心部にあって、フーシェの執務室とは違い、馬鹿に明るい。彼らは広く豪華な部屋で、執務とも馬鹿騒ぎともつかないことを毎日続けている。
 フーシェは、彼らに背を向けて、屋敷の奥の、狭苦しい暗い小部屋で執務をすることを好んだ。彼ら広間で馬鹿騒ぎをしている間、フーシェは見られると都合の悪い書類をさばいた。
 フーシェは特徴のない、少し頬のこけた、痩せた男で、人波に紛れればすぐにいなくなり、面影さえすぐさま消え失せて、そこにいたことさえ忘れてしまうような、印象の薄い男だった。座り込んで物思いにふける姿は、冴えない、日々に疲れた教師を思わせる。その身体の内側に、フランス第二位の都市、リヨン市そのものを消滅させてしまうほどの激しさを持っているとは、誰にも到底信じることはできない。

 今や、かつてのリヨン市は、この地上には存在しなかった。フランス全土への見せしめとして、その存在を消されてしまった。
 フーシェが派遣される以前、リヨン市は革命に反抗し、リヨン市の王党派たちは、市内の革命派たちを処刑した。政府の中央機関たる国民公会(フランス議会)への明らかな挑発行為であり、宣戦布告に等しい。公会は軍を送り、やがて暴徒は鎮圧された。反乱への報復として公会は、「リヨン市の破壊」を命じた。その実行者として訪れたのが、フーシェとデルボアだった。
 議員から指示を受けた、その意味合いは、はっきりとはしなかった。単に暴徒を処罰するのか? それとも、物理的に全てを血の海の中へ沈めてしまう、という意味か? 全ては、派遣議員たる二人の意思に委ねられた。その実質は、フーシェ一人の手の中にあった。
 街でもっとも豪奢な建物だった教会は、市民自身の手で打ち壊され、ありとあらゆる市民に不要なものは没収された。宝石、絵画、調度品、果てには日用品から食料、更には市民たち自身までが兵として取り立てられた。
 貧者が絶えないのは一部の人間が富を独占するからであり、日々を暮らすのに余分なものは全て市民たちには必要のないものだ。「共和国民は鉄とパンと四十五エキュの収入以外には、何物も要しない」と、リヨン市に着任した派遣議員デルボアは宣言した。無論、彼の意見ではなく、フーシェの用意した文書を読み上げただけのことである。
 不要な財産を隠し立てする者、また、不安を煽って反抗する者は、容赦なく処刑された。反革命的である、というだけの理由で、処刑された無実の者も数多くいた。地方派遣議員には、革命を行うための、ありとあらゆる権限が与えられていた。革命議員デルボアは、委員たちを率い、革命を行った。
 フーシェは表に顔を出すことを好まなかった。リヨン市での革命の顔は、デルボアであり、フーシェのことは市民にあまり知られていなかった。だが、顔の見せないこの男こそ、今や国民公会からの声であり、政府の声であり、引いてはフランスの声であった。有能であり、勤勉で、精力的に革命を行う彼に、デルボアも、委員たちも協力を惜しまなかった。それに、フーシェに付き従っていれば、それだけ美味しい汁をすすることができ、難しいことは全部フーシェが済ませておいてくれるのである。デルボアと革命委員たちは、彼の命令に従い、愛国的であればそれだけで良かった。
 屋敷の広間では、市民からの没収品を使った騒ぎが行われている。好きにやっていろ、と、フーシェは考える。フーシェにとって重要なことは、いかに街から財産を搾り取るかであり、どれだけ多くの金銭をパリ政府に送ることができるかだった。反革命の都市から奪い取ること、国庫を富ませること、どちらも国家への奉仕だった。反革命を行ったリヨンに対する同情はなく、時勢というものは、リヨンへの暴虐を肯定した。強欲な者であれば、いくらかを懐へしまっただろう。事実それをやった派遣議員もいる。地方において派遣議員の権力はかつての王と同じく絶対的だった。しかし、フーシェは後のことを考え、用心深く一切をパリに送った。贅沢をして馬鹿騒ぎをするのは、リヨン市民たちからの恨みを買うことにしかならない。
 国王処刑以前、フーシェは穏健派であり、パリ、及びフランス全土で行われる、革命と言う名の暴虐に対し、批判的な立場であった。国王が処刑されるまでは、革命に穏健な立場を取っているものが多数派だったのである。
 だが、国王の刑を決める採決のその日に、フーシェは急進派へと鞍替えした。前日までは仲間たちに「助命に票を入れる」と宣言していたその男が、壇上に昇った瞬間に、「死刑」を宣言したのである。フーシェは彼の特徴である無感動な表情のまま、かつての仲間たちを裏切った。国王は処刑に決まり、首は落ち、舵取りは急進派が握った。
 処刑に票を投じ、にわかに急進派に身を投じた者の中には、フーシェと似たような立場の日和見者も多くいた。日和見者たちは、自分たちが裏切者ではないことをアピールしなければならなかった。一方で根っからの革命の輩、ジャコバン党の古強者たちは、フーシェや日和見者たちを信用しようとはしなかった。こと、ジャコバン党の大物議員、マクシミリアン・ロベスピエールは、彼ら日和見者たちを憎むこと甚だしかった。フーシェは、身の潔白を証明すると共に、政府にとって役に立つ者であることをアピールせねばならなかった。
 そのためにリヨンは消滅した。消滅することに決まった、と言うべきか。それは進行中だった。街は大きな建物から取り壊され始めた。そして、リヨン市の名前は奪われ、公会によってヴィル・アフランシ(解放された奴隷都市)の名を与えられた。破壊されるべき、旧制度の奴隷たちの群れであると。街の破壊に平行して、反乱に荷担した者たちの処刑が始まった。
 リヨンを破壊し、反革命への見せしめにせよ、と国民公会が言ったからには、住民の一割も処刑すれば良いか、と、フーシェは考えた。それより少なくては、手ぬるいと批判を受けるかもしれない。リヨン市の反乱は大きかった。ヴァンデ地方では反乱が泥沼の内乱へと燃え広がりつつあり、反革命の狼煙が地方で上がれば、ようやく成功しつつある革命は潰され、再び王政の世が来るだろう。パリの民衆は革命に炙られ熱せられており、政府は焦っていた。今反革命の烙印を押されれば、今度はこちらがギロチン台に上らされるはめになる。いかに恨みはなかろうと、手ぬるく処することはできない。
 ギロチンは処刑のために開発された。従来のように、処刑人が刃を振るって首を落とすのは、時間がかかりすぎ、また、苦痛も少なくて済む人道的な殺人用具だとされた。迅速にして数をこなすことのできるギロチンはこうした理由で開発された。
 だが、処刑道具たるギロチンをもってしても、リヨンでの革命のスピードには追いつかなかった。そこで、より効率的な方法を、フーシェは提案した。
 町外れの平原に壕を掘り、その前に人々を並ばせ、砲を並べて砲撃する。
 フーシェの提案に一瞬息を呑む委員たちもいたが、異議を唱える者はいなかった。三十人をギロチンで処刑すれば、三十人目の者は三十回処刑されたのと同じことになる。砲による処刑はむしろ精神的苦痛が少ない。革命は暴力ではなく、人道的でなければならない、と説得されれば、同意するほかはない。フーシェはもちろんそれを本気で言っていたわけではなく、効率と見せしめ、そして政府へのアピールのためである。リヨンの派遣議員は、手段を選ばないほど、革命に力を入れている……。愛国的、革命的な派遣議員として名を上げることが、今のフーシェには必要だった。
 霰弾を使った砲撃で人はばらばらになり、息のある者は兵たちの銃剣で突き殺された。兵たちは死体から靴や、金目のものを取り上げる権利を与えられた。木の靴しか持っていない兵や、そもそも靴さえない裸足の兵たちは、喜んで略奪を行った。軍隊は貧乏で、まともな装備は与えられていなかった。処刑が終わると穴は埋められて、また新たな穴が掘られる。リヨンの虐殺と歴史に記されることになる処刑が、今も、川べりの平原で行われている。
 ジョゼフ・フーシェを語る書物の中で、彼はいくつもの否定的なあだ名で呼ばれたが、その最初のあだ名を「リヨンの霰弾乱殺者」と言う。歴史の表舞台に現れるフーシェの最初の顔は、恐怖政治の担い手、暗殺者、暴君の手先としての顔だった。だが、その顔も、フーシェの被るいくつもの仮面の一つに過ぎない。
 その砲弾の音が、いまも遠い平原で鳴り響いている。反乱に荷担した者だけでなく、少しでも怪しげな人間は、すぐさま処刑された。最終的に処刑された人数は、二千人近くになると言われている。
 フーシェはデルボアを動かし、デルボアは委員たちを動かした。住民は処刑され、街は端から破壊されて、没収された金や美術品は馬車に積まれてパリへ送られていった。それらの行為を正当化し、リヨンでいかに成果をあげているかの書類を、フーシェは作り、送り続けた。努力していることの証明だった。こちらでの革命は順調です。リヨンでは金持ちであれば、恥ずかしがって往来へ顔を出そうとはしません……。もちろん、恥じらいのためではない。今のリヨンで、金持ちが民衆の前へ顔を出せば、どうなるか分からないからだ。他人より多く金を持っているという理由だけで、たちまち砲台の前へ送られるだろう。
 リヨンでの革命は全て、薄暗い薄暗い部屋の中の、フーシェの手によって行われていた。それだけのことを行っていながら、フーシェは自分の身が危なくなるとは考えていなかった。情勢が味方していたからだ。
 今のパリでは急進派が大勢であり、王党派の処刑はパリでも行われている。そして政府はフーシェの送る大金に喜んでいるはずであり、フーシェを怪しむ第一の男、ロベスピエールは、穏健派たるジロンド党や、けして一枚岩でないジャコバン党内の大物議員たちの対処に忙しいはずであったからである。急進派に属しているフーシェが処罰されるはずがない。
 フーシェはこのまま中央の争いを避け、戦いの趨勢が決まった頃、勝つほうへそれとなく参じればよい、と考えていた。急進派が優勢とは言え、中央の大勢はまだ決まっておらず、どちらが勝つかは分からない。穏健派が勝つとなれば、虐殺の名はデルボア一人におっかぶせてしまえばよいし、急進派が勝つとなれば、リヨンでの革命の成果を誇って凱旋すればよい。フーシェのポケットには急進と、穏健と両方のものがあり、そのどちらも、取り出す用意はできていたのである。
 しかし、風は変わった。フーシェの部屋は相変わらず狭く薄暗く、風が吹き込む隙間もない。屋敷からは騒ぎをする声が聞こえ、遠くからは砲弾の音が響いてくる。何も、変わったことはない。だが、フーシェはその独特の感覚によって、風を感じ取ったのである。隣を誰かが……見えない誰かが通り過ぎた程度の、ほんの僅かな風だ。パリからの風、政治の大嵐。
 フーシェは手紙を開いた。手元へ届いている、個人的な報告書だ。パリの友人たち、そして各地に放った密偵たちの手紙から、フーシェの直感は、次第に確信へと変わっていった。パリで変事が起こっている。

「諸君」フーシェは騒ぎの広間へと踏み入るなり、彼らに宣言した。「平原での処刑は取りやめ。従来通りギロチンでの処刑に変更する。以後は一日に二名程度に留めるように。君、今すぐ処刑の中止を命じてきたまえ。市民からの没収も、一端取りやめる」
 そもそも広間へ入ってくることの少ないフーシェを、デルボアと委員たちは変わったことがあるものだと眺め、更にフーシェの宣言を驚きによって受け止めた。昨日までは革命の敵を殺すことに一切の躊躇いもなかった男が。だが、彼らは切れ者のフーシェのことを信頼しているし、更にフーシェを熱烈な革命信者だと思い込んでいる。彼らはすぐさま了解し、また酒を酌み交わした。何があったんだろうな、女にでも振られたか、と大声で、何も知らない彼らは冗談を言い合った。
「いいや。しかし、奴は愛国者だ。奴の仕事ぶりは目を見張るほどだ。奴のような男がそうすると言うのだから、間違いはない。フーシェが仕事で、間違ったことはない」
 根っからのジャコバン党であるデルボアが声高に言い、委員たちはそうだそうだ、フーシェ閣下ばんざい、とはやし立てた。
 次の日の朝、フーシェへ、パリへの呼び出し状が届いた。ただちに議会で弁明を行うように、との呼び出し状である。フーシェはすぐさま出立した。議会ですぐさま釈明を行わなければ、明日に来るのは逮捕状と、軍隊だ、と、フーシェは感じ取った。パリでは何かが起こっており、何者かが、フーシェの首根っこを押さえに来ている。そうでなければ、フーシェの活躍――財政苦にあえぐ政府にとって、それは活躍以外の何者でもない――を、留める者がいようか。フーシェはにわかに、政治の風下に立たされた。昨日までの革命の立役者から、命さえ危ない罪人の立場になったのである。
 しかし、くたびれた教師のようなフーシェの表情は、他の人間から見れば、普段と何ら変わりはなかった。フーシェを送り出す委員たちも、何の不安も抱かず、疑問さえ持たず、フーシェを送り出した。たとえパリが、断頭台そのものであっても、刃がその首に落ちる瞬間までは、どこにいても変わりはない。内心に恐怖を抱いていても、フーシェの表情は変わらなかった。部屋を出、馬車に乗り込むフーシェの足取りは、散歩に行くかのように軽かった。


 パリ、今や革命の都と成り果てたパリの中央広場には、革命の象徴たるギロチンが威風堂々と立っており、革命に賛成するサン・キュロット(賃金労働者などの無産市民)が囲んで見物をしている。そして、ギロチンの後ろには革命反対派や、富裕層……昨日までの勝利者たちが並んでいる。彼らは順番が来れば、ギロチンの足を血で濡らすことになる。貧民街には餓死した者や、急進派の市民たちに殺された王党派の死体が転がっており、街のそこここで、「王党派に死を!」「革命万歳!」の叫び声が響いている。しかし、パリの市民たちはそれを絶望であるとは思わない。熱に浮かされているからだ。彼らは新時代、革命の正義に熱く燃えている。
 国民公会は、票の多寡よりも、民衆への影響力がものを言った。処刑や逮捕、あるいはそれらの恐怖のために、ブルジョワや、革命派の貴族たちは逃亡した。彼らは理論で革命を進めようとしていたが、今はそうした風向きは少なくなった。今や革命の主人公は民衆だった。民衆は暴力で革命を邁進した。それはあまりに単純で、そして効率的だった。革命はブルジョワ階級や貴族、平民出身の議員たちが起こしたが、民衆がそれを奪い、引き継いだ。バスチーユ牢獄の破壊やチュイルリー宮殿の襲撃、革命の流れを急速に進めてきたのはいつも民衆だった。
 その民衆の暴力に、議員たちはもろに晒されていた。革命に反対する議員には、脅迫されたり、危害を加えられたりということもあった。民衆の支持を失えば、ひどい場合、密告によって革命裁判所に引き出され、ギロチン行きということさえ有り得た。市民による王党派市民の虐殺、リンチも日常的に起こっている中では、議員と言えども安泰ではなかった。反革命、というレッテルは、この時代において、何より重かった。
 議会の外、街角や様々なクラブで演説をすることが、議員としての力の見せ所であった。ロベスピエールはこのような状況で頭角を現した。彼は三部会の議員に選ばれ、革命の最初期から議会にいた。元は弁護士、演説の経験などもなかったが、民衆に語りかけ続ける彼は次第に民衆に支持されていった。清廉潔白であることも彼の強い武器であった。王から議員へと政治権力が移っても、横領や贈賄というものは消えなかった。そのようなスキャンダルによって議員が失墜する中、ロベスピエールは財産も持たず、借家暮らしで議員を続けていた。加えて彼は女を知らず、革命の他に何もいらぬというような風評を得ていた。革命の最盛期、ロベスピエールは民衆の後ろ盾を得ていた。
彼は生存権の保証を掲げ、民衆の人権を永遠に守ると声高に叫んだ。全ては民衆のために、と革命を進めるロベスピエールと、彼の所属するジャコバン党の人気は絶大だった。政敵との争いにも、憲法の制定にも、民衆への人気は物を言った。パリでの革命の風は収まるどころか、ますます勢いを増して吹き荒れている。議会でもその風は吹き荒れていた。
 議会へと足を踏み入れたフーシェは、たちまち不穏な雰囲気を感じ取った。リヨンのフーシェに届いた風、そのきなくさい臭いを濃くした障気の臭いである。議会を埋めていたはずの議員たちは、今や三分の二に減っており、不気味な空き席が無数にあった。処刑された者もいれば、身の危険を感じて逃げ出した者達もいた。裁判に呼び出されることを恐れて、自ら毒を飲んだ者もいた。
 その一方で、議員の集っている一角があった。ロベスピエールの周辺である。まるで、そこにいることが身の安全を保証するとでも言うように、彼を取り巻いている。……王者の風格を持って彼は座っていた。そして、その王者たる彼が、フーシェを真っ直ぐに見ているのであった。
 フーシェの弁明が始まった。フーシェが釈明を要求されたのは、王党派へ裏切りの嫌疑だった。寝返りと、ジャコバン党員の迫害と……。事実ではなかった。だが、いざ処分となった時には、議員や、市民たちには有効であった。反革命的であるということが、このパリでは、何よりも重い罪になる。
「私は公会に与えられた責務を、国民の代表として、常に果たしている……」いつもなら、同調あるいは反論の声があがる議席が、静まりかえったままだった。本来であれば、フーシェの仕事ぶりは、ジャコバン党からすれば、評価されてもおかしくないはずだ。不穏な雰囲気は、ますます強まった。「リヨンでは私は、徹底的な破壊を行った。パリへ送った品物のリストを見て頂きたい。……」フーシェはこの無関心さに似た反応に、一つの答えを見出した。皆、ロベスピエールに恐怖しているの。どのように立ち回れば彼に目を付けられなくて済むか、それのみを考えている。本来なら評価されるべきフーシェのリヨンでの仕事も、ロベスピエールに暴力的に過ぎると思われれば、それまでだ。皆付和雷同にフーシェを責め立てるだろう。
 賛成するのが良いか、反対するのが良いのか、決めかねている。注目を集めることさえ不安で、息を潜めているのだ。それで、ともかく、裁判所に送りさえしてしまえば、自分たちの目の前を通り過ぎてくれれば、議員たちにとってはそれでよいのだ。フーシェごときに関わって、自分が目を付けられてはかなわない。「……私はこの件について、正しく調査されることを望みます」これ以上喋っても無駄だと、フーシェは短く発言を切り上げ、壇上を降りた。

 街の一角、狭苦しい自宅に、フーシェは戻った。議員たちのうちには、財産を隠しながら、貧しい暮らしを装う議員もいた。だが、フーシェには贅沢な暮らしは必要なかった。酒にも女にも興味を示さない彼のうちにあるのは、政治の世界で生きること、ただそれだけである。かつては彼は僧侶であった。アラスの田舎町で慎ましく暮らしていた彼も、革命によって教会も危ないと見、また革命の熱気にあてられ、ナントから議員に立候補し、パリへ、政治の中央へと足を踏み出したのだった。政治に邁進し、革命を成就させることが彼の目的だった。ルイ16世の裁判まではそうだった。しかし、以来全てが変わった。穏健派であれば命を奪われる。しかし、どうやら風向きを見るに、急進派であっても危ない。理由をつけて命を奪われる。それはフーシェのような議員だけではなく、民衆でもそのようになっていた。革命とはこれで正しいのか、フーシェは疑いを持たざるを得なかった。しかし、哲学者のような思索の癖をフーシェは持たない。小動物のような素早い動作がフーシェの特徴だった。彼の全能力は、生き延びることに向けられていた。
 部屋の前に彼を待つ兵はおらず、部屋の中にもいなかった。だが、首根っこは常に抑えられていると思わねばならない。このパリで、いくつの罪のない首が落ちただろうか。ましてやフーシェは脛に傷どころか、裏切りを行った男である。ジャコバン党の連中がその気になれば、数人の兵士を送り込んで、逮捕するだけで全てことが済んでしまうのだ。あとは裁判を済ませてしまうだけでいい。あっさりとフーシェは反革命の汚名を着せられて、ギロチンの下の籠に入ることになるだろう。
 フーシェは、部屋に誰もいないことを確かめ、椅子に座った。その瞬間、声が聞こえた。
「遅かったじゃないか」
 ベッドの脇の暗闇から、起き上がった者がいる。誰もいないことは確かめた。まるで、闇の内側から、影そのものが立ち上がるように……少年とも少女ともつかない、フードを被った子供が現れた。最初からそこにいたように……。子供は立ち上がると、ベッドの端に腰かけた。
「議会が終わってもう数時間にもなるというのに。どこをほっつき歩いていたんだ。のんびり遊び歩いていたのだとすれば、あんまり呑気じゃないか、ええ」
「何者だ」
「私かい。私は……そうだね、ロベスピエールの手の者と言えばどうだ」
 フーシェは無感動に、目の前の子供の言葉を聞き流した。
「ロベスピエールの手の者ではあるまい。奴の使いなら、こそこそと闇討ちをするようにはしない。正面から堂々と来る。ロベスピエールの名前を使う貴様は何者だ」
「あんたの味方さ」
 フーシェは立ち上がった。部屋を出ると、妻を呼んだ。
「来てくれ」
「なんです?」
「子供が私の部屋にいる。君が入れたのか、それともニエーヴルか」
「私も娘も、誰も入れていませんよ……」
 フーシェが妻を連れて部屋へ戻ると、子供はベッドの端に座ったまま、にまにまとフーシェを見返していた。
「そこに」
「どこです。誰も、いませんよ」
「馬鹿な」
「無駄だよ、フーシェ。私の存在を信じないものには、誰にも見えない」
 フーシェは初めて、表情を変えた。この世の物でないものが、目の前にいることに、初めて驚きを見せたのである。黙ったまま虚空を見つめている夫を、疲れているのだろうといたわり、妻は部屋を出た。フーシェの背で、扉は閉じた。
「君は何だ」
「私は鬼人正邪。革命そのものだ。革命は私の名を呼ぶ。どこにいても、私は革命と共にある」
 正邪、そう名乗った子供はフードを取った。髪の中に、小さな角が二本、反り返って見えている。作り物かもしれない。だが……フーシェは子供の遊びとも思えなかった。革命そのものを名乗る子供……。正邪は立ち上がり、ベッドの縁から、ベッドの作る影の中へと踏み込んだ。ゆっくりと、影の中に、正邪は身を沈めてゆく……。
「今日のところは失礼するよ、フーシェ」
 正邪は影の中へと沈んでゆき、やがて完全に姿を消してしまった。あとには暗闇と、静寂だけが残った。誰もいなくなってしまえば、薄闇に差す影を子供と見間違えてしまったかのように、フーシェは錯覚した。そう思えば、妻が誰もいないと答えたことも、納得がいく。だが、フーシェには……幻覚でも見ていると言った方が、納得が行くような気がした。革命……幻覚のように表れ、消えていった少女は、革命を名乗った。そのことが、妙に気にかかった。

 疑問は残ったが、フーシェは子供にばかりかかずらっている訳にはいかなかった。考えることはいくらでもあった。
 彼は机に向かって考えを巡らした。ジャコバン党が勢力を伸ばしている。これは予想の通りであり、特別変わったことではなかった。
 政治的には左翼に位置するジャコバン党。ジャコバン寺院を本拠として活動したために、ジャコバン党、あるいはジャコバン・クラブとも呼ばれる。革命の急進派はジャコバン派として呼ばれた。この呼名は蔑視として、革命以後も長く呼ばれることになる。
 その中でも極左に位置するエベール……貴族や商人から金を奪って、パンを貧民に配れと喚く、自ら新聞を書いて民衆を煽る危険な男。そして、比較的穏健な立場にあり、革命の初期から議会ではなく、民衆のいる地下から活動を行ってきた経歴を持ち、民衆だけでなく、金を持っているブルジョワにも理解があり、双方からの人気を持つダントン。彼らは革命の旌旗を振るうだけの実力を持っていたが、ロベスピエールとの政治的闘争に敗れて、ギロチンの下へと落ちた。
 議員たちは皆、ロベスピエールに尻尾を振った。急進派にも、穏健派にも属しない、少数の反骨精神のある議員たちが、細々とロベスピエールに対抗しているが、その勢力は微少である。今や、国民公会は、ロベスピエールが実権を握っているに等しい。その権力は一時的とは言え、かつての絶対王政にも等しい。ロベスピエールは、彼自身の敵たる者たちを、全て排除しようとしている。そう見られても仕方なかった。彼の熱意は烈しく、革命の成就の他に目的はないと言われているが、その本意がどこにあるのかは謎だった。彼は高度に純化されすぎていて、理解され難い人物だった。革命とはそのような強烈さでなければ成就されないと肯定する者もいれば、底が知れないと不審視する者もいた。
 ともあれ、ロベスピエールを頂くジャコバン党は勝利した。革命に対する穏健派は敗れ去り、急進派が勝ちを得て、政治の中枢に座った。そこまではいい。問題は、ロベスピエールが味方であるはずの急進派議員にまで、ギロチンを振るおうとしていることだ。本来ならばこれは不可解なことだった。急進派は革命のために働いているからだ。しかし、地位を得た人間がいつまでも革命を叫んではいないように、金と地位を得た議員は、自己保身に必死になった。特に地方派遣議員は処刑した人間の財産を貯め込み、そのために不必要な処罰さえ行った。民衆に対し異常なほどの愛情を抱くロベスピエールがこれを気に入るはずがない。悪徳を行った地方派遣議員たちが処分の先頭だった。フーシェは財産を奪い、自らの懐に入れたわけではない。しかし、フーシェが不正を行っていないことをロベスピエールが知っていたとしても、彼には関わりのないことなのだろう。
 彼にとっては、フーシェもまた、革命に対し、不当に暴力を振るう輩なのだ。それに、何より、フーシェは殺しすぎた。リヨンでの虐殺は、他のどの地区よりも激しく、乱暴で、死者が多かった。フーシェの行いに対する陳述書は、リヨン市から議会に、何枚も送られていた。無理もない。他の地区では、金持ちを殺しただけだが、フーシェは反革命の者を全て殺した。そうしなければ、急進派としての名を上げられなかったからだ。政府へのアピールが裏目へと出た。
 本来ならば褒められた行為であるはずだった。しかし、革命の最盛期は過ぎ、王の処刑が終わったからには、暴力行為は抑え、穏健な方向へ進まねばならなかった。時節が終わったのだ。それについては仕方あるまい、とフーシェは諦めた。フーシェが虐殺を行った時、それは当然の行いだった。パリ市民が皆、それを求めていた。リヨンは反逆者だ。リヨンを殺せ。皆殺しにせよ。フランスや、パリの市民にとっては、正当な処刑だった。だが、情勢は変わった。革命のために殺しすぎる者が問題になった。その瞬間を読み取り、踏みとどまることができなかったのは、フーシェ自身の不明と言うべきだった。ぐずぐずと愚痴をこぼすよりも、生き延びるため、動かねばならない。行動は早い方がいい。真夜中だがフーシェは立ち上がり、部屋を出た。彼は部屋を出る瞬間、ちら、と部屋の中を窺った。誰も、そこにはいなかった。茫漠たる暗闇が広がるばかりだった。

 フーシェは、彼自身の家と似たような、貧しい住まいを訪れた。ロベスピエールの住まいは、彼自身のものですらなかった。彼は飾り職人の夫婦の家に、間借りをして暮らしていた。彼の財産と言えばいくらかの本と、犬が一匹、そのくらいのものであった。彼は食事に困れば、飾り職人の夫婦に借金さえすることがあった。
 ロベスピエール。ロベスピエール・マクシミリアン。彼は清廉に過ぎる人物、そして処刑を躊躇わない英雄であった。誰もに嫌われようが、自分の理想を追求する求道者でもあった。彼はフランスのために、敵対者を徹底的に弾圧した。今やこのパリで、彼に逆らえる者はいない。フーシェは、そのロベスピエールに圧倒的に憎まれているのだ。
 彼は元弁護士だった。金のない民衆を救うために弁護をする、心優しい人物であった。彼は常に、貧富の差がなぜなくならないか、そのことばかりを考え続けていた。
 彼とフーシェは、旧知の間柄だった。彼がまだ弁護士であり、フーシェが僧職の身分にあった頃、政治クラブで彼らは出会い、フランスと政治について語り合った。やがてロベスピエールがパリへと赴き、その政治活動に身を投じようとした時、パリまでの旅費と当面の生活費を援助したのがフーシェだった。貧しい民衆のために、ろくな報酬も取らなかったロベスピエールには、蓄えがなかった。
 フーシェが僧職をやめ、パリへ、政治の世界へと身を投じたのは、ロベスピエールへの憧れもあったかもしれない。フーシェにとってロベスピエールは、先にきらびやかな世界へ行った成功者である。フーシェは、パリで一旗を揚げようと旅立つ彼を後押しした。そして、フーシェは田舎で一人、僧院で教師をやりながら、朽ち果ててゆくことには耐えられなかった。
 フランスには革命の嵐が吹き荒れている。世界の変革に立ち会っている。誰も彼も、血がたぎって熱狂的になっている……。こんな状況の中で、フーシェは一人、座ってなどいられなかった。一方で、教会に居続けることの危うさもフーシェは考えた。政治の世界に踏み出すのは、彼の功利的な判断でも合った。こうして、ロベスピエールを追うように、フーシェはナントで立候補し、国民公会の議員の座を得、政治の世界へ漕ぎ出すことになったのだ。
 だが、かつての友人だからこそ、ロベスピエールは彼を強烈に憎んでいたのかもしれなかった。二人がパリで再び顔を合わせた日、フーシェは多数派である穏健派のジロンド党の席に座り、ロベスピエールは急進派たるジャコバン党の頂点に座っていた。ロベスピエールは変わった、とフーシェは感じた。ロベスピエールは気弱で、優しいが押しの弱い男だったが、今や立派な革命の闘士となっていた。砲弾や銃弾が飛び交う、強烈な暴動や集会は幾度も行われている。ロベスピエールが変わるのも当然のことだった。フーシェを許せなかったのはそのような峻厳さのためだった。
 フーシェは国王処刑の採決の日、身を翻した。あまりに鮮やかな翻身、国王助命派から王党派狩りの処刑人へと変貌したフーシェ、リヨンで目覚ましい革命を行うフーシェを、やがてジャコバン党の議員たちは信用するようになった。だが、ロベスピエールはフーシェを信用しなかった。彼は信用ならない人物だ、気を許すことはできない。彼がいかに地方で業績をあげようとも、フーシェは信用できない人物なのであり、ロベスピエールにとっては、楯突くならば断頭台へ送らねばならない男の一人なのだった。かつての友人であるという理由のために、あえてフーシェを殺さざるを得なかった。暴力を許容しては、革命はどこまでも暴力的になってゆく。王の処刑も済んだ今、暴力的革命は終わりにしなければならない。
 他の議員どもはどうにでもなる、と、フーシェはぼろ家の階段を昇りながら、考えた。問題はロベスピエール一人なのだ。ロベスピエールとは、パリに来て以来、ろくに話してはいない。ロベスピエールがフーシェを本当に処分するつもりなのかどうか、確かめる必要があった。そして、彼がフーシェを生かしておくことを約束してくれるならば、フーシェは跪いて彼の靴でも舐めるつもりだった。職人の妻は、夜中に訪れたフーシェを値踏みするように眺め、どうぞ、と、家に上げた。ロベスピエールは起きていた。机に向かい、議会で読み上げる演説文を書いていた。
 ロベスピエールは振り返った。パリで議員を粛正し、革命を一人背負っている男。その剛毅なイメージとは似つかない、眼鏡をかけた、優男じみた甘い顔をした男だ。いまは、疲れ切って、酷薄な冷たい目をフーシェに向けている。
 職人の妻が扉を閉じた。彼らは二人きりになった。……いや。そこには、もう一人いた。正邪が、ロベスピエールのベッドに座り、二人をにやにや見ているのだった。どうしてここに。だが、彼女が革命だと言うのならば、むしろそこにいるのは自然なことと思えた。今や、フランスの革命は、ロベスピエール一人の手の上にある……。
 そのロベスピエールは、正邪をいないものとして扱った。
「久しぶりだな、フーシェ。何の用だ」
「話がある」
「私にはない。帰りたまえ」
「聞いてくれ、ロベスピエール。私を許してくれ」
 許してくれと言って許してくれる相手ではないことは分かっている。だが、それで済むならばそれ以上のことはない。フーシェは、ロベスピエールの前に膝を付いた。ロベスピエールは冷淡な態度を崩さないまま、フーシェを見下ろしていた。
 馬鹿らしい演技だ。これで騙されてくれるほどロベスピエールは馬鹿ではない、と、分かりながら、演技をする……。これではまるで茶番劇だ。笑い出したくなるほどの茶番劇だ。
 はっ、ははは、と不似合いな笑い声が、部屋の中に響いた。ロベスピエールではない。小娘のような甲高い笑い声……正邪が、ベッドの上で笑っていた。意地の悪い目をした小鬼。フーシェは正邪を見た。ロベスピエールもまた、ちらりと一瞬、ベッドに目を向けた。だが、すぐにフーシェに視線を戻した。
「君を許せ、と、フーシェ。君を許し、他の罪のある者も許せと言うのか。汚職議員も、暴力を行う議員も。あの国家の屑どもを許し、私に妥協をしろと言うのか。恥知らずめ」
「許してくれ、ロベスピエール。君が床に手をつき、靴を舐めろと言うなら迷うことなくそうしよう。今、議会は君のものだ。君が意向を示せば、議会は私を許してくれる。議会が私を許すならば、私はフランスの為に働いてみせる。この通りだ、ロベスピエール」
 フーシェがロベスピエールを見上げて言上を述べると、正邪は再び、くっくっと笑った。
「私は国王を殺した」
 ロベスピエールがフーシェに答えると、正邪はますます声を上げ、腹を抱えて笑った。ロベスピエールは少女を一瞥もしなかった。
「他にも大勢殺している。そして、君を許せば、フランスをも殺しかねない」
「ふは、ははは、はははは! ロベスピエール、馬鹿だねえ。お前はフランスを殺すよ。お前のやり方でフランスが良くなるかね。ええ?」
「黙っていろ、化物」
 正邪が笑い、ロベスピエールが一喝した。フランス一の権力者ロベスピエールに一喝されても、少女には怯えた様子もない。
「お前はフランスを殺すよ、ロベスピエール。お前の政策に人々は倦んでいる。平等のために奪われるのは貧民で、金持ちはうまく金を隠すから、本当の貧者には金も飯も回らない。むしろ、奪われるばかりだ。政府も金がないからどんどん金を刷るが、物価が上がって、貧者はその日の食う物にも困る有様。過ぎたるはなお及ばざるが如し――知ってる? 東洋の教えだ。お前が民衆のために働けば働くほど、民衆が死んでゆく。そして、フランスが平民の国になるのを、周りの王政をやってる国が許しておくと思うかね? フランスは潰されるよ。お前がフランスを殺すんだ」
 正邪を無視して、ロベスピエールは続けた。
「例え君を生かしたとしても、君は常に多数派につく。国王処刑の日、君は助命派と処刑派の顔を見比べて、処刑派の数が多くなったことを確かめた。……私が処刑される日にも、君は同じことをするだろう。私は変節漢にこの国を任せておくつもりはない。他の腐りきった議員どもにもだ。もう、帰りたまえ」
 ロベスピエールが背を向けた。フーシェもまた、それ以上抗弁はせず、ロベスピエールの住まいを後にした。

 フーシェが去った部屋で、ロベスピエールは、再び演説文の推敲に戻った。
「奴は役に立つよ。手の内に入れておかなくて良いのかい、ロベスピエール」
「黙れ。私は身勝手な裏切り者を許すことはない。お前もだ、化物。お前のような奴の居場所はフランスにはない」
「怖い怖い。そんなに邪険にすることはないだろう。いま天下はお前のものだ、ロベスピエール。お前は権力の椅子に座っていても、いつも一人だものな。寂しいだろう。お前に擦り寄ってくるのは金や権力目当ての者ばかりだ。寂しいだろう。お前の側にいてやるよ。どうだ、寂しくないだろう」
 ロベスピエールは、もう答えなかった。正邪をいないものとして扱った。ロベスピエールにとっては、革命の成就こそ本願であり、正邪のごとき妖しげな者は、存在していないも同然であった。正邪のような輩は、放っておかれることが一番退屈で嫌いだ。正邪は部屋を出て、扉を閉めた。

 フーシェは酒場にいた。酒場やカフェは、一番熱っぽく議論が行われる場所である。深夜であっても、法案がどうの、ジャコバンがどうの、オーストリア方面軍がどうのとやかましい。隅に佇んでいる人物を、議員のジョゼフ・フーシェだと気付く者は一人もいなかった。フーシェは沈思のうちに、自分のするべきことを思い定めた。
 ……ロベスピエールと争う……。
「ここにいたかい」
 椅子を引いて、フーシェの向かいに、フードの小者が座った。ちらり、と赤い前髪が見えた。鬼人正邪と名乗った少女。どうやってここが分かったのか。だが、フーシェはもう驚かなかった。ロベスピエールに付きまとうような奴は、余程の馬鹿か、化け物だ。俺も、似たようなものか。
「どうするね。あんたはロベスピエールに喧嘩を売られたも同じだ。今のパリで、ロベスピエールとやり合って勝ち目はない。だが、何もせずにいれば、そのうち処分される」
「戦うさ」
 あっさりと、フーシェは、ロベスピエールとの戦いを告げた。ロベスピエールの部屋へ行く前から、考えていたことだ。そうせねば、生き残れないならば、躊躇はない。必要とあらば二千人の市民を砲弾で始末する男である。だが、ロベスピエール一人を殺すことは、二千人の市民を殺すよりも難しい。
 正邪は給仕を呼び、酒と軽食を持って来させた。フーシェは安い葡萄酒を水で薄めさせた。酒に強くないフーシェは、いつもそうするのだった。
 どのようにロベスピエールに対抗する勢力を作り上げるか。いかにしてロベスピエールに反対する議員を集めるか。常に多数派につく男は、多数派を作るべく暗闘を始めたのだった。
 ……どうなるか、この先のことは、フーシェには見通しもつかない。それに、目の前に座る、この小娘。この小娘のことも含めて、あらゆる情報を自分の手の中に入れてやる。ロベスピエールを憎む者は誰か。ロベスピエールに憎まれている者は誰か。
 ロベスピエールが倒れるか、フーシェが倒れるか。この地平に残る者は、どちらか一人だけだ。
 正邪が、酒の入ったグラスを、フーシェに向けて突き出し、なんとなくフーシェは応えて、突き当てた。突き当ててから、何のためにやったのだ、と、自問した。こんな奴と仲良くする義理はどこにもない。

 このようにして、フーシェとロベスピエールの闘争は始まった。フーシェと正邪の共闘の始まりでもあった。テルミドールのクーデターにより決着がつく四ヶ月前のことである。




 フーシェはしばらくの間、表立った明確な行動を取らなかった。議会でロベスピエールと出会っても、顔を背けて立ち去るのみであった。ロベスピエールも、あの夜の会談で、フーシェに一撃を食らわせていたので、これで充分だと考えていた。どのみち、各地でやりたい放題をやった派遣議員たちのリストは出来上がりつつある。革命の名を騙り、暴力を拡大させる革命の敵。むしろ、王や貴族といった者よりも悪質な者かもしれない。革命を平和に、恒久的に拡大するためには、妥当せねばならない敵たち。フーシェも含め、そういった者たちはまとめて始末してしまえばよい。ロベスピエールはフーシェのことをその程度に考えていた。フーシェのごとき小者は、何かの威を借りることしかできない。ロベスピエールが圧倒的な多数派であり続ける限り、フーシェは圧死する他はない。
 しかし、そのようなロベスピエールの考えは裏切られた。数日後、信じられない知らせが入ったのだ。ジャコバン・クラブの総裁に、ジョゼフ・フーシェが選ばれた……何を馬鹿なことを、とロベスピエールは驚き、焦り、真偽を確かめると共に、耐え難い憤懣を身体中に漲らせた。
 ジャコバン・クラブはロベスピエールの本拠地とでも呼ぶべき場所であり、彼に心酔する共和主義者でのみ固められていた。クラブに入るには、真の愛国者かどうかを試験され、試験をパスした者だけが入会を許されたのである。
 その市民的精神の砦、犯されざる神殿とでも呼ぶべき場所に、フーシェは邪な目的を持ち、土足で踏み入ったのである。表向き、ロベスピエールに怯えて恭順の姿勢を示しながら、その裏で、クラブへと働きかけていたのだ。会員たちに、どのような汚い手回しをしたことか……おそらくは、リヨンでの功績を振りかざしたのだろうが、ロベスピエールにはそのようなことは些細なことであった。今や、クラブで演説を行おうと思えば、総裁であるフーシェに申請を出さねばならない。頭を垂れ、お願いをするのと同じだ。耐え難い屈辱であった。ロベスピエールはたちまち反撃に移った。
 フーシェが演説を行っている最中に、配下の者をけしかけて、フーシェがリヨンで行った暴虐を指摘させた。フーシェが抗弁を試みようとするその鼻面に、「いぎたない詐欺者め。奴に騙されるな」と、ロベスピエール自ら警告を発したのである。
 フーシェの特技はあくまで裏工作で、表立った議論は得意ではなかった。一方、ロベスピエールは激しい論戦を戦わせてきた歴戦の強者、炎のごとき弁論者である。フーシェは勝ち目のない戦いに踏み込むことはせず、総裁権限を持ち出して討論を打ち切ると、再び闇の中へ逃げ帰った。ジャコバン・クラブでのことは、これで済んだ。ロベスピエールは追撃の手を緩めなかった。ここに至って、ロベスピエールはフーシェを始末してしまわなければならない、と固く心に決めたのである。奴を放っておけば裏で、誰も考えつかない事をやる男だ。
 ロベスピエールはジャコバン・クラブの会員を聴衆に選び、フーシェ弾劾の演説を繰り返した。フーシェは彼の挑発には乗らず、正面切って演説をすることは避け、逃げに徹した。6月11日(フランス革命暦2年収穫月23日)に、ロベスピエールがフーシェ不在のクラブで行った、フーシェ弾劾の演説こそ、その最も激しい怒りに満ちた演説であった。
「彼がここにいないことこそ、彼の罪を認めているようなものだ。私は彼と友人だったこともあるかもしれない。だが、それは彼を愛国者と信じていたからであって、私が彼を弾劾するのも、これまで犯した彼の罪のためではなく、彼が姿を隠して犯そうとする他の罪のためである……」そしてロベスピエールは彼の容貌、身体的な部分にまで攻撃を加えてゆく……「彼は国民の耳と目を恐れているのか? 彼は、彼自身の姿が、そのまま自分の罪を暴露するようにでも感じているのか? 彼が姿を隠すのは、その容貌を隠すためであろう。自然は彼の姿を、陰険かつ隠密に形作った。だが、彼に注がれる国民の目が、彼の魂の全てを見抜かれはしないかと怯えるところがあるのだろうか。彼は、彼自身の態度により怯え恐怖して、闇の中へと隠れなければならない。だが、同志市民の目を恐れるものがいてはならない。国民の目に怯える者は全て有罪だ。私はフーシェ、陋劣唾棄すべき詐欺師をこの法廷に召喚する。彼は弁明を試みるがよい……」彼を告発し、ロベスピエールはこう締めくくる……「略奪物と犯罪で手の内を一杯にしている者達は、皆、姿を隠している。このような態度こそ、自分が何者であるか、どのような罪人であるかを示している。私が改めてこのようなことを口にするかと言えば、どのような深淵策謀を巡らそうが、国民たちの目からは逃れ得ないということを、この期にはっきりと思い知らせるためである」
 フーシェのみならず、彼に味方する者は皆、死刑判決の宣告を受けたも同然であった。ロベスピエールの演説を、喝采と拍手で迎えたジャコバンクラブは、いまや元総裁となったジョゼフ・フーシェを、会員の資格なしとして除名したのであった。

 ジャコバン・クラブでの企みは砕かれ、フーシェは闇の中へと隠れた。ロベスピエールはフーシェの家に警察の監視をつけ、議会を通して彼に逮捕状を出した。だが……逃げに徹すれば、フーシェは、どこまでも身を隠すことに長けた男であった。ロベスピエールが演説で言ったように、自然は彼を隠密に形作ったのである……人波に紛れれば姿を消し、後には痕跡すらない。
 フーシェは家には帰らず、彼を匿ってくれる者のところへ潜り込み、警察とロベスピエールの手から逃れ続けた。そして戦うための用意を進めた……彼にとっての最良の武器、情報を集め続けた。ロベスピエールは権力を握ってはいるが、議員全てに好かれているわけではない。彼の真意が読めないため、ジャコバン党ですら一枚岩ではなかった。フーシェが逃げ続けられたことからもそれがわかる。
 雨が降り続けている。屋根はあっても壁のない馬小屋が、今夜の寝床だった。夜の冷気が、左右からフーシェに触れている。飼い葉の山に身を沈め、上着の裾をかき合わせ、寒さに耐えた。馬小屋を覗き込み、フーシェに声を掛けたものがあった。
「今日はここかい」
 不思議なことに、ロベスピエールには捕らえられなくとも、正邪と名乗った小娘だけは、どこにいようがフーシェを見つけてくる。彼女について集まった情報は、『マリー・アントワネットの侍女の、更にその下働きの娘の中に、似たような娘を見たことがある』ということだけだった。マリー・アントワネットの元にいた? それでは、革命と共に身を翻し、常に頂点の側にいるという小娘自身の言葉を認めることになるではないか。結局、何も分からないままだ。フーシェにとっては、不可解で、まことフーシェを不機嫌にさせる存在だった。
「馬小屋か。こんなところで寝なきゃならないとはねえ」
「屋根があるだけましだ。上等なベッドもある」
 大して贅沢が好きでもないフーシェからすれば、けして不足ではなかった。
「もっとひどい暮らしのやつもいるけどねえ」
「首が落ちた奴も大勢いる。私は首が落ちるのはごめんだ」
 フーシェは正邪から顔を背けるように、寝返りを打った。得体の知れないやつといつまでも話している気分ではなかった。空腹と冷えで、さすがにこの鉄面皮の男も、少しばかりやられていた。
「飯がないのもごめんだろ。食いなよ」
 がさがさと音がして、正邪が何かを差し出していた。……質の悪い黒パンだった。フランスでは革命が始まった頃から、民衆に上等な白パンをやめて、黒パンを食べるように推奨していた。ちなみに革命以前、貴族たちはおしゃれの為に、髪に小麦粉をかけて染めることが流行した。このため小麦粉の値段が高騰し、市民は激怒したという話もある。
 その黒パンは、固くて、とても上等なものではない。だが食い物は食い物だった。フーシェは手に取ったはいいものの、真意が読めなくて、正邪を見た。
「毒でも入ってるかと疑ってるのかい。それとも、小娘に恵んでもらうのはごめんか。いいから、食えよ」
 正邪は自分でも、黒パンを取り出して、食べ始めた。フーシェは大人しく従った。固い黒パンに歯を立て、噛みちぎって食べた。水音が聞こえた。
「水があるのか。よこせ。喉が渇いてかなわん」
「ほらよ」
 二人は馬小屋の中で、黒パンを貪り続けた。二人とも黙ったままで、身体が動くたび、がさがさと音が聞こえるだけだった。
「そのパンな、ロベスピエールのとこから持ってきたんだ」
「何?」
「あいつ、明日の飯なしだ。してやったり、って気分だろ。はははは!」
 フーシェは複雑な気分であった。してやったりか。その通りだった。あの石頭のロベスピエールが、食うものがない、と困っている姿は、おかしくて仕方がなかった。この娘のやったおかしさに、笑い出しそうになっていた。訳の分からないやつ、という疑問は、ユニークさへと変わりつつあった。
「あいつは貧乏人から飯を奪うんだ。それを自分のものにしてるわけじゃないが、たまには奪われる気分になるのもいいだろ」
 正邪は転がったまま、まだくすくす、笑っていた。フーシェは再び横になると、手枕を作った。
「早く寝ろ。私についてくるなら、手伝え。明日も早い」
「おや。私のようなのを近くに置いておいていいのかい?」
「放っておいてもついてくるんだろう。それに、知っているぞ。お前、私の真似をして、勝手に酒場やカフェで噂を広めているだろう」
 この頃、フーシェはカフェや酒場で噂を広めていた。知られているとは思っていなかった正邪はおどけて見せた。
「ほう、どうして分かるんだ」
「人の話をじっと聞いていれば分かる。……勝手をするんじゃない。私の指示を受けて動け。ロベスピエールを倒したいなら」
「ロベスピエールを倒したいわけじゃない。風さ。次の風はあんたのところに吹く」
「予言か。お前は占い師か?」
「いいや。いつも、革命は小さな風だ。誰も、誰も気付かないところから始まって、やがて渦巻いた大きな風になってゆく。風の出所が私には分かる。ロベスピエールがアラスの町にいた頃から……」フーシェとロベスピエールが出会った、政治クラブがあった町の名だ。「私は、お前を知っていた。その頃はロベスピエールが風を持っていたがね。私はルイ十六世が、マリー・アントワネットが、ギロチン台へ上るのを見た。爽快だったな。それをやったのはロベスピエールだ。次はあいつが死ぬことになる」
 正邪はフーシェの方を見て、笑った。暗闇の中なのに、フーシェにはなぜかそれが分かった。こちらを向いて笑う小鬼の姿が、はっきりと見えた。
「私はね、フーシェ。頂点に立っているやつが、落ちて行くのが気持ちいいのさ。民衆は皆そうだ。自分の生活さえ安寧でありさえすればいいし、あとは偉そうなやつが、自分の足下に転がるのを楽しむのさ。お前も知っているだろう? ギロチンのある広場には、暇な女どもが集まって、椅子に腰かけてお喋りや編み物をしながら、次の罪人はいつ引っ張られてくるかと楽しみにしてる。……処刑は楽しい見世物さ。引き出されて、こいつはこうした罪を犯したと読み上げられて、なんて悪いやつだと罵声を浴びせかける。それから悪いやつは退治されて、首が落とされるのを見る……。悪い奴を見て、自分が正しいと思えるのは楽しいことさ。実に楽しいことさ。
 私は革命そのものでもあるし、民衆そのものでもある。力は弱いが、それでも偉い奴を倒せるんだ。フーシェ。私はあんたについてゆくことにするよ。あんたがロベスピエールを倒すんだ」
 フーシェは、正邪が喋るのを、無感動に見つめていた。……どうやら、俺は妙な奴に取り憑かれたらしい。ロベスピエールがいないものとして扱ったのも頷ける。こいつは化け物だ……。
「早く寝ろ。夜明け前にここを出る」
 ともあれ、使えるものは使っておくだけのことだ……。フーシェはそう考えた。味方であれ、敵であれ、現実とも幻覚ともつかぬ化け物であれ……。




 ロベスピエールに弾劾を受けてジャコバンクラブを追放された後では、フーシェは今や全議員のうちでも最もギロチンに近いものであり、誰もがフーシェの命は終わったものだと見切りをつけた。彼らがフーシェに一夜の宿を貸すのは、彼に弱みを握られているためであり、積極的に助けようとはしなかった。議員たちはロベスピエールに率いられた羊の群れであり、フーシェは何一つ頼るものを持たなかった。
 いや、彼にも一つ、縋るべきものがあった。それは恐怖であった。ロベスピエールの振るう恐怖政治に、議員連中は怯えていた。だが、何週間何ヶ月と、一人の男に頭を抑え付けられ、脅しつけられ……大の大人が子供扱いをされていれば、恐怖と共に、次第に鬱憤がたまってくるというものだ。この清廉潔白な人格者のために、恐怖に裏付けされた生存本能が、彼を除けと心の内を固めてゆく。
 穏健派の連中は、処分されたジロンド党員のために。急進派の中では、処分されたジャコバン党の有力者のために。金儲けをしたい者は金儲けができないために、立身出世を願う者はロベスピエールが上にいるために。こうした微弱な糸をより合わせれば、やがてはロベスピエールを縊り殺すこともできるかもしれない。
 ……だが、そんな烏合の衆を作り上げて、フーシェはいかにするつもりであろうか? ……強いリーダーシップもない、寄せ集められただけの連中では、ロベスピエール亡き後のフランスの政治は、どのようなことになるだろうか? ……フーシェにとってはそんなことは問題ではない、ただ今は生き延びることだけが必要なのだった。

 フーシェは議員と密会を重ねていた。特に、身に覚えのある議員とである。ロベスピエールに弾劾されたならば、たちまちギロチン行きになるような者は、潜在的にフーシェの味方であった。フーシェは硝石集めの下人に化けて、議員の家についている見張りを誤魔化した。硝石は便所の回りの土から採れ、火薬の原料になる。戦争に必要なため、硝石集めの下人は、誰の家にでも入る権利を得ていたし、入るのを断ると罰を与えられた。ロベスピエールに睨まれている議員の家に入るにも、都合が良かった。議員の家ばかりを回ると怪しまれる。フーシェは一人の議員の家に入るため、百人の家を回った。彼ほど疑い深く、また警戒心の強い者も珍しい。
「次はここかい」
「黙って樽を運び入れろ。黙って働けないのか」
 フーシェがそのようにして忍び込んだのは、特にギロチンに近い議員、ポール・バラスの住まいだった。ロベスピエール亡き後、総裁政府において政府を握るバラスも、今は処刑の恐怖に怯える議員の一人でしかなかった。何やらやかましい二人組が家に入って来た時には、バラスは何事かと二人を見た。その一人がフーシェだと気付いた時には、何をやってやがるんだこいつ、と、呆れてフーシェを見た。
「お前は硝石を取ってこい」
「ああん? 下人みたいにこき使いやがって。あれ臭いんだよ。たまにはお前がやれよ」
「馬鹿野郎、お前がバラスと話をできるか。いいから、早くしろ」
「いやだね」
「正邪、貴様」
「おい、フーシェ。これは一体何だ。お前、漫才師にでもなったのか」
 バラスはいい加減に馬鹿らしくなって、二人の間に割って入った。フーシェは他の下人に正邪を連れて行かせ、バラスに向き直った。
「すまないな、バラス。こうでもしないと表を歩けない身分でね」
「ああ、そうかい。何をしに来たんだか知らないが、さっさと出て行ってくれ。いつ見回りの兵が来るか、分からないんだぞ。お前と喋っていることをロベスピエールが知ったらどうなるか」
「そう言わないでくれ。君の立場が危ういことも、知っている」
「……何が言いたい」
「エベールが死んだ。ショーメットが、ダントンが死んだ。ジロンド党のヴェルニオーも、コンドルセも。コンドルセはギロチンじゃない。自分で毒をあおったんだ。さて、次の標的は誰だ。君も毒を飲むか、バラス」
 バラスは、黙り込んで、フーシェを見た。フーシェの陰鬱な口調で、死を語られれば、それは頭上にギロチンの刃がぎらついているような恐怖感に変わってくる。心の臓がすくみ上がり、きゅう、と締め付けられた気分になる。この恐怖感には、何も勝ることはない。フーシェはそれ以上言葉を費やす必要はなかった。フーシェは、バラスの様子を黙って、見ていた。
 バラスは二つの事柄を天秤にかけていた。フーシェか、ロベスピエールか。このままではフーシェは俺よりも先に死ぬだろう。だが、フーシェがロベスピエールを倒せなければ、次は俺だ……。
 フーシェに味方することは、賢明な行いではない。ロベスピエールに正面から喧嘩を売るのも同じことだ。だが、ここに座していても……。気付けば、硝石を取りにやったはずの正邪が戻っていて、扉のところに背を預け、二人をにやにや見ていた。
 バラスは、フーシェと同じ地方派遣議員であり、地方で弾圧を行った。金持ちと僧侶を大量に始末し、その財産を全てポケットに入れたのである。欲の深い男で、ロベスピエールに目を付けられているが、政治的に大したことのできる男ではないから、とりあえず後回しにされて、生きている。典型的な、自分の生き残りさえ保証されれば、誰にでも尻尾を振る議員の一人だった。
 性質的には臆病で、自分からロベスピエールにかかっていくような男ではない。だが、臆病だからこそ、命が危険になるとなれば、保身のために動くだろう。
 フーシェは、一方的に会談を打ち切った。充分に脅しつけたと見たのだ。あとは勝手に動いてくれるだろう。バラスは金持ちで社交的だから、付き合いのある議員に触れ回って味方を増やしてくれる。だが、信用ならない男だ。いざとなれば、バラスはフーシェをロベスピエールに差し出すことも平気でやるだろう。フーシェは彼にも引き続き監視をつけることを決めた。
「話は終わったのかよ? じゃ、とっとと帰ろう。もう用はないだろ」
「軽口を叩くな。黙ってやれ」
 フーシェが背を向けると、正邪はバラスを見て、にまぁと笑った。こいつも面白そうな奴だ、と、正邪が思ったかどうかは定かではない。ともかく、バラスの方でも正邪を見た。それは確かなことだ。正邪は去り際に、バラスに向かって、ワインの瓶を掲げて見せた。近頃では珍しい、上等な酒だ。あ、俺の酒、とバラスは声をあげかけたが、影だけを残すように、フーシェも正邪も、消えていた。フーシェめ。影に隠れてうろつくような奴のところには、似たような奴が集まるもんだ。バラスはフーシェの連れていた奇妙な娘に、薄ら寒い思いを感じた。硝石集めに化けたフーシェと正邪は、引き続き議員回りを続けた。

 フーシェは議員たちに、「皆でかかれば勝てる」などと言うような、安心させて味方を増やそうなどという方法は取らなかった。むしろ、彼らの不安を煽り立てた。「ジャコバンクラブは、君を追放するつもりです」「ロベスピエールのリストに、君も乗っているとか」「女性関係について、ロベスピエールが仲間の議員に尋ねていました」皆、バラスと同じように、震え上がった。恐慌が広がってゆくように、議員たちの間に、恐怖感が爆発的に広がって、ロベスピエール除くべし、という考えにまとまってゆく。
 世の中の基準にロベスピエールを持って来れば、彼ほどの清廉潔白な人間はどこにもいない。例えば金銭問題があった、ロベスピエールに一度何かで注意されたことがある、女性について問題を起こしたことがある、ギロチンの下に落ちた議員たちとちょっとした交遊があった……要するに、誰もが、ロベスピエールに処罰されうる可能性があったのである。ロベスピエールが本当にその気ならば、議員連中は誰一人いなくなり、政治の砂漠にはただ一人、ロベスピエールだけが残ることになるだろう。
 議員どもに耳打ちして回ると共に、フーシェや正邪は連日、政治談論の行われている酒場やカフェに表れた。店の隅にひっそりと座り、議論が一段落したところで、正邪をけしかける。「おい正邪、言ってこい」「また私か? しょうがねえなあ……」愚痴を言いながら、正邪は端に座っている客の一人に耳打ちをする。「おいあんた、知っているかい。ロベスピエールはな……」すると、たちまち客は立ち上がって叫ぶのである……いわく、処分するジャコバン党員のリストをロベスピエールは作っている、仲間のジャコバン党員さえ処分するつもりだ、いわく、貴族とブルジョアの財産の上限を決める憲法を作り、議員にも特権を与えず没収する、いわく、かつてロベスピエールに敵対していた有力議員のシンパたちは、その後を追うことになる、いわく……。ロベスピエールに関する噂が叫ばれるたび、カフェや酒場の客達は立ち上がって、それは本当かと喚き、侃々諤々の討論を始めるのだった。フーシェと正邪は、いつもその狂乱に背を向けて、店を出た。そして極めつけには、フーシェはビラを作ってばらまいた。民衆に語りかけるには、この手のビラやパンフレットが重要だった。書き手の名前は書いている内容がいい加減でも、とりあえず印刷所で刷られてまともな見た目をしており、民衆を煽り立てる刺激的な内容であれば、勝手に噂を広めて真実のようになってくる。話が広まる頃には、改めてビラを見、噂は本当だった、と民衆は無邪気に信じてくれる。正邪はフーシェの作るビラを見、その内容には眉をひそめた。しかし表情とは裏腹に口調は楽しげだった。
「これはやりすぎじゃないのか? 誰も信じないだろ」
 フーシェは答えなかった。事実は目で見ろ、という風に。フーシェの作ったビラはこうであった。『ロベスピエールは独裁を目論んでいる。権力を握った後は、オーストリアのブルボン家から、王族の娘を妻にもらって、王家の仲間入りをするつもりだ』……とんでもないでっち上げだ。ロベスピエールは革命の執行者だ。王政が民衆を苦しめた源泉だとロベスピエールは信じている。その王政を復活させるなどと、ロベスピエールを知る者は皆否定するだろう。だが、民衆はロベスピエールの本音を知らない。彼がいかに高潔で清廉であろうと、それが形作られた外側だけのものか、本当に心の底から信じているかを知らない。逆に、本当であろうと、高潔で、清廉であればこそ、人は疑うものだ。
 ロベスピエールは、現状でも、王様のような独裁を行っている。王様気取りをしたいがためにそう振る舞っているのではないと、誰に断言できるだろうか? 本当の姿を現して暴虐をほしいままにしないと、誰に言える? 革命は起こったが、暮らしは良くならない。議員が不正を行っているためだと言い、議員の処刑は行われるが、ロベスピエールがそうでないと誰に言えるだろう? 誰が正しく誰が間違っているか。民衆にも議員にも、誰にも分からない。後の世の歴史が、それを知るのみだ。
 フーシェと正邪は、非合法の印刷所に人をやって、ロベスピエールに反対するビラを作って、ばらまいて回った。フーシェは表立って動けないが、フードを被った正邪は、楽しそうにばらまいて、警邏が走ってくれば喚いて逃げた。「ロベスピエールは王様になるつもりだぞ、お前らはどうせまた奴隷にされるんだ」ばらまかれるビラが、街角に貼られるビラが、人々の口に上る噂に煽られて真実味を帯びてゆく。人知れず、ロベスピエールはフランスを裏切るつもりだ、という噂が流れ始めた。皆が一つの事柄を話し始めると、人は、自分の頭で物事を考えているようでも、実際は違うものである。疑念とは、ある意味では確信と同じようなものだ。火のないところに煙は立たない、という言葉もある。集団に裏付けされた心理が広まってゆく。
 フランスが、彼を疑ってゆく……。いまや、議会が彼を除いても、民衆はそれを否定しないだろう。土壌が出来上がれば、果実が実るように、結果がついてくるのである。


 ロベスピエール……彼は潔癖に過ぎた。清廉でない人間、罪のある人間、あらゆる貧富の差を生む人間、他人を蔑む人間を処罰して、果たして誰が、この地上に残っていられるだろう。ロベスピエールは遅まきながら、そのことに気付こうとしていた。
 ロベスピエールは貧しい人々を救おうとした。そのために、貧民に労働と食料を約束した。だが実際のところ、金持ちたちは更に金を貯め込み、金を使って議員や役人、軍人たちを丸め込んでいる。金の価値が下がれば農家は食料を溜め込み、食物の価値が上がる。貧民たちが飢え死にし、配給を待つ列は伸びる一方で、最後まで配りきれることはない。長い時には六時間に及ぶ立ち並びに耐えられず、倒れる者、身体を病む者が出る。そして、取り立てがあれば、金持ちは財産を隠す。余分な財産を取り上げられるのは、賄賂のできない貧しい者達だけだ。
 国王と民衆が、一つのテーブルに座って食事をする。それは不可能な理想なのか。
 平等にならない。そのことが、ロベスピエールを苛立たせた。やるせなさに身を震わせた。そして、ますます苛烈になってゆくのだった……。議員を処刑すれば、怯えた議員たちが敵に回る。品物の最高価格を定め、それ以上に値上げをすることを禁じれば、商人、農民たちが販売を拒否する。……財産の上限を定めることさえ考えていた。これをすれば、富裕層からの反発はまぬがれない。だが、それほど極端なことをしなければ、貧富の差は消えない。貧しい者達の幸福は訪れない。
 ロベスピエールは議会に出席せず、部屋に引きこもりがちになった。彼を慰めるのは、愛読する哲学の書と、フランスを良くするべく書かれる、反対派への演説文だけであった。
 彼の友人たるサン・ジュストが訪れることさえ、彼は苦痛に感じるほどであった。政治の臭いを感じさせるからだ。部屋にサン・ジュストが表れた時、ロベスピエールは疲れた目で、彼を出迎えた。ロベスピエールは数週間、議会に現れていなかった。
「……ロベスピエール。君への反対派が増えている。フーシェの奴や、君への反対派、王党派の生き残りどもが、裏で何やら活動しているようだ。議会に来て対抗しなければ」
「……奴のごときは問題ではない。問題は、腐敗した議員ども全てなのだ。いま、演説文を作っている。この演説ができあがれば、奴らを一掃できる」
「しかし……」
「サン・ジュスト。君の用意した演説文の草稿を読んだぞ。君は甘すぎる。腐敗した議員どもに妥協は許されない」
「ロベスピエール。君のやり方は過激すぎる。君のやり方では、君も私もギロチン送りになる。ジャコバン党は縊り殺される。革命を終わらせるつもりか」
「革命は……」
 ロベスピエールは言い淀んだ。革命は、まだ生きているのか? もう死んでしまったのか? ロベスピエール自身さえ、自問自答せねばならなかった。ギロチンに送られる囚人の数は、減ることがない。ロベスピエールの救いたかった民衆たちが、無辜の民たちが、罪とも言えない微罪のために兵に捕まり、反革命的だとギロチンへ連行されてゆく。より強大な罪を犯しているものは、巧妙に姿を隠して闇の中に隠れる。あのフーシェのような輩が……。
 罪を犯しているのは、果たしてフーシェか? それともロベスピエールか? フーシェのことを思えば、不思議とロベスピエールは意地になるのだった。あのような闇に隠れる者が正しいはずはない。正しいことを行って、罪になるようなことが、あってはならない。大いなる悪意というものはこのフランスのどこかしこにも隠れている。彼らに相対すればこそ、清廉でなければならないと、ロベスピエールは意地になるのであった。
 不意に、少女の声が聞こえた。
「そうそう、行きなよ。行かないと。行って殺さないと、あんたが殺されるよ」
「うるさい。消えろ」
 ロベスピエールは声を荒げた。少女の声は、サン・ジュストには届かない。唐突に声を上げたロベスピエールに、サン・ジュストは訝しんだ。
「ロベスピエール……」
「……君じゃない。……サン・ジュスト。……すまない。気分が悪いんだ。……革命を殺させはしない。……必ずだ。フランスは救われなければならない」
「あんたが殺すんだ。フランスを」
 少女が囁く。ロベスピエールは、耳を貸さず、続ける。
「あの私利私欲の塊のような議員どもに、フランスを好きにされてたまるものか。……サン・ジュスト。……私は大丈夫だ。……ああ、大丈夫だ。私は、大丈夫……」
 狂っているよ。ロベスピエールは。あんたもそう思わないか?
 誰かが、そう囁いたように、サン・ジュストには感じられた……。
 ロベスピエールが行った恐怖政治によって、パリだけで千四百人が、フランス全体で約二万人が処刑された。処刑には数十人がまとめて裁判を受けるなど、正当な裁判なしでの処刑も多かった。逮捕された者のうち、獄中死なども含めれば、約四万人が犠牲者になった。フランス全体での反乱鎮圧などによる革命全体での被害は、その十倍以上とも言われている。
 革命は貴族と僧侶に対する怒りから始まり、理想と現実の狭間で揺れに揺れ、二年が過ぎた。革命の大物は皆死ぬか、恐怖政治に怯えて地下に潜った。ミラボーが死んだ。ダントンも死んだ。ロベスピエールは、革命の最後の砦たる男だった。革命の理想は、人々の欲望と堕落の前に敗れ去り、その理想は失われようとしている。ロベスピエールは、理想を掲げて、一人で向き合い続けている。果たして彼は狂人であろうか、聖人であろうか?


 フーシェは、ジャン=ランベール・タリアンと会っていた。タリアンもまたロベスピエールに目を付けられている議員の一人であり、タリアンの方でも、ロベスピエールを憎むこと甚だしかった。タリアンにはテレジアという美貌の愛人がいた。彼女はいま、監獄に囚われて、ギロチンの前に引き出される日を待っていた。いわば、人質を取られていたのだ。タリアンはその監獄の前に部屋を借り、隠れ家としていた。
「彼女は向こうに?」
 フーシェはタリアンに呼びかけた。タリアンは眼前の窓を見つめたまま、虚ろな目をしていた。
「ああ。彼女のことを思えば、飯も喉を通らない。ロベスピエールの奴……彼女に何の疑いがあるというんだ」
「ロベスピエールは君のことを、愛人に溺れて、地方議員としての職務を全うしなかった……と、見ているようだ」
「でっち上げだ。くそ。……ああ、見ろ。彼女だ。彼女はああして、見張りの目を擦り抜けて窓から合図を送ってくれるんだ。ああ、テレジア……! 彼女があそこから見えなくなったらと思うと……」
 監獄の窓から、手を振る女性らしい姿が見えた。……この距離を隔てていては、その美貌も分からない。……だが、テレジアに対するタリアンの、その熱狂ぶりはよく分かった。フーシェは、この男ならば、ロベスピエールを前にしても怯むまい、と考えた。それに、いつ処刑されるか分からない愛人を抱えていれば、一刻も早くロベスピエールを倒したい男だ。
「タリアン。君がロベスピエールを倒すんだ」
「どうやって」
「奴の権力はもはや絶対ではない。民衆からの人気も、以前ほどではない。君が彼を告発すれば、議員は皆、ロベスピエールではなく、君につく。これが……」
 フーシェは、フーシェに味方する議員のリストを取り出して、タリアンに見せた。
「こちらに味方すると約束した議員のリストだ。……こんなもの、議会に出れば何の確約にもならないが……それだけの人間が、ロベスピエールを疑っているということさ……」
 タリアンは、黙って手元のリストを見下ろした。
「タリアン。失敗すれば、君は死ぬ。ロベスピエールへの反逆者として。そして、君の愛人も死ぬ。……だが、奴を殺さなければ、彼女を救い出すことはできない」
 フーシェはタリアンから、リストを取り上げた。……代わりに、フーシェは短剣をタリアンに握らせた。タリアンは短剣を見つめていた。……今は、それで充分だった。フーシェはタリアンの隠れ家を辞した。
 久々に、フーシェは、フーシェらしい立ち回りができた。近頃はあのいつもいつも小うるさい正邪がいたため、調子を崩されていた。今日は、どこかへ出ていて、いない。変わったこともあるものだ。周りを見渡したが、正邪はいなかった。まあ、急にいなくなるのは、今日に限ったことではないが。
 夜になって、正邪は姿を見せた。
「どこへ行っていた」
「ちょっとね。あんたの手伝いさ」
 それより、と正邪は言った。
「フーシェ。あんたの娘が死んだよ。肺炎だとさ」
 娘。まだ幼いニエーヴル。病気の情報は得ていた。だが、家は見張られて、見舞いに行くこともならなかった。医者を呼ぶ手配をするのが精一杯であった。天命だ。フーシェは感情を抑え込もうとした。
「そうか」
 と、囁いたきり、フーシェは正邪に背を向けて、眠りについた。正邪は不思議と、その夜は、フーシェにやかましくまとわりつくことはしなかった。


 7月27日(フランス革命暦2年熱月8日)……ロベスピエールは、数週間ぶりに議会へと姿を現した。ロベスピエール、ロベスピエールだ、と囁く議員たちの声が、ざわめきのようにロベスピエールを覆った。彼がいかなる動向に出るか、議員たちは皆、息を潜めて伺った。議長が開会を宣言すると、ロベスピエールは真っ先に発言を求めた。
「この議会にいる数人の意志が、フランス全体の意志を曇らせている。彼らは汚職を見逃し、金持ちの債権者に恩恵を与え、反乱分子を増やしている。人民からの国有財産を奪っている。彼らは自ら犯した罪のために怯えて、私が追放者のリストを作っているという噂を流している……私はその意志たちの源泉を発見した。……」ロベスピエールの演説は、サン・ジュストや、彼の友人たちも知らないことだった。ロベスピエールは誰にも相談せずに、この演説を用意したのだった。ロベスピエールの敵だけでなく、彼の味方の議員たちも、彼は何を言い出すのだ、とざわめいた。ロベスピエールの演説は長く続いた。具体的な名は出さず、議員たちを怯えさせ続けた。「国家の安全を脅かす者を、私は許さない。また、頭を垂れる者にも、私は妥協することはない。罪を持っている者を許すことを、私はしない……国家の安全を脅かそうとする分派と、私は徹底的に戦う……」
 独裁者、という呟きが、議員席の内から漏れた。やがてロベスピエールへ言葉を投げかける者が表れた。
「分派とは誰のことだ。リストを公開しろ!」そうだ、独裁者、と誰かが続いた。議会がざわめいた。誰もが『自分の名は出るな』と、祈った。「私の名を言ってみろ。言えないのか。私がいないなら、ジョゼフ・フーシェはどうだ。フーシェの名はリストに入っているだろう」勇気ある者が発言した。ロベスピエールは答えなかった。
 ロベスピエールに味方する者でさえ、ロベスピエールの行動を理解できなかった。罪のある数人の名を上げ、残りの者を味方につけるのが得策だと、彼の友人たちは思ったし、ロベスピエール自身そのことは痛いほど分かっていた。妥協は必要だ。確かにその通りだ……。
 だが、ロベスピエールは、妥協をしなかった。数人を捕らえて、残りを許すことはしない。ロベスピエールは罪のある何者をも許さない。一切の妥協を許せなかった。ここで妥協してしまえば、革命と、革命のために死んだ者を、本当に死なせてしまうことになる。
 全ての妥協を許さない。全ての不平等を、全フランスが許しても、ただ一人、ロベスピエールは許さない。彼は全ての不正に、ただ一人で向き合っていた。私は死ぬかもしれない。だが、一人で死ぬものか。腐敗した連中は、皆道連れにしてやる。ロベスピエールは特定の誰かの名を呼ぶことはなく、演説を終えて壇上を降りた。しかし、むしろ誰も特定されなかったことが逆に、議員たちの心に恐慌を巻き起こした。今は呼ばれなかったが、やがて呼ばれることになるだろう。それは明日のことかもしれない。
 ロベスピエールの高潔さは、何よりも気高い。だが、現実を見ない気高さは、最早気狂いと同じであった。彼は現実的なバランスを見失っている。本当に彼は彼一人になり、フランスはやがて死ぬ。反ロベスピエールの者だけでなく、ロベスピエールに近しい者も、その幻影を見た。
 この日の演説で、反ロベスピエール議員の心は一つになった。ロベスピエールに、これ以上喋らせることはできない。次の言葉は、自分を殺す言葉になるかもしれないのだ。ロベスピエールに対する反感は、ここに至って最高潮に達した。ロベスピエールを殺す、その最後の引き金は、ロベスピエール自身が引いたようなものだ。テルミドール、熱月の反動、独裁への反動が、ロベスピエールに襲いかかろうとしていた。熱月9日の太陽が沈んだ。


 ロベスピエールが議会で演説を行っている頃……タリアンの愛人テレジアは、監獄の中で、明日にはどうなるか分からない日々を送っていた。彼女に頼るものは、タリアンのほかにはなかった。日々の感覚さえ消え失せる牢獄で、彼女は出すことの出来ない手紙を書きためていた。檻の中の彼女にできることは、檻の中の友人たちと嘆くか、手紙を書いて、慰め程度の希望にすがることしかなかった。……壁の隅にうずくまるテレジアに、声をかけた者があった。
「テレジア」
「あなたは?」
 テレジアに耳打ちをしたのは、若い牢番であった。テレジアの見たことのない牢番だった。若い、女にさえ見える牢番である。牢番はにぃ、と笑った。
「タリアンの使いです。……あなたに伝えに来ました。明日……いや、明後日には、あなたは救われる」
「何ですって。……本当に」
「ええ。安心していてください。……何か、伝えることはありますか」
「彼への手紙を持っていって。お願い」
 楽しげに笑い、ええ、と正邪は答えた。そして正邪は、もう一人の女に会いに行った。
「こんにちは。初めまして、ジョゼフ・ローズ・ボーアルネ夫人。いや、元夫人」


 日が沈めば、すなわちフーシェの時間であった。人を使って酒場やカフェに意見をばらまき、ロベスピエールに対するデマを広げた。
 フーシェは、議会にロベスピエールが現れたという情報を掴むやいなや、ロベスピエールや、彼の友人たるサン・ジュストの周辺に潜ませているスパイ網から情報を徹底的に集めさせた。今日はロベスピエールが脅しつけ、明日にはサン・ジュストが議員を告発するという推測を作り上げたフーシェは、明日が山だと議員たちが見たように、彼もまた、明日を決着の日と定め、以前より精力的に、闇の中を蠢き回った。今夜の闇の中が、フーシェにとって対決の場所だった。
「とにかく、明日だ。明日になれば、君も私も、命はない。いいか、バラス。明日は奴や、奴の仲間に発言をさせないことだ。議長の用意はいいか」
「ああ。議長は仲間にやらせる。副議長や書記も全て、仲間で固める用意をする。ロベスピエールにも奴の仲間にも、一言も喋らせてやるかよ。死ぬ時には一緒だ。こちらが告発されれば、奴を刺し殺してやる」
 バラスは鼻息を荒くしていた。これまで偉そうにしていたロベスピエールに一泡吹かせられると、乗り気だった。酒を飲んでいなければ、弱気で眠れないくせに……。ともあれ、準備ができているのなら、バラスは勢いでやってしまうだろう。直前で気が折れないように、別の議員に言付けておかなければならない。バラスの意志が折れてしまわないように……。フーシェはバラスの家を後にした。まだまだ、行くべきところは残っている。
 フーシェは議員たちの家を一つ一つ、歩いて回った。明日の議会に向けて、今日集めた情報を披露して、事態は全てこちらが握っている、と見せかけておかねばならない。最後に訪れたのはタリアンの家であった。
「タリアン。明日が終われば、君も、君の愛するテレジアの命はないかもしれない。議会が始まったら、君がロベスピエールを弾劾するんだ。そうすれば、議員たちがロベスピエールの演説を妨害する。奴の発言は封じられる。そのまま逮捕して、ギロチンへ送ってやれる」
「ロベスピエールを弾劾。俺が……」
「もし失敗すれば、我々は皆ギロチンだ。……君の愛人も救うことはできない」
 フーシェは、テレジアの手紙を取り出した。タリアンは手紙を読み始めた……。助けてください、明日には私もギロチンに送られると、牢番たちは私を脅します……。フーシェはタリアンに声をかけず、部屋を出た。これで充分だった。フーシェがタリアンの隠れ家を後にしたのは、午前二時を回っていた。
 これで、用意は終わった。明日になれば決着が着く。できることは全てした。フーシェは寝床へ入り込んで、眠った。


 1794年、7月27日(フランス革命暦2年、熱月9日)の朝が始まった。テルミドール9日のクーデター、テルミドールの反動とも呼ばれる、テルミドールのクーデター当日である。
 ロベスピエールはいつもと変わらず、飾り職人の家を出た。パリの姿は変わりがなかった。彼にとっては何も変わりのない日々であった。彼は家を出て、そして、二度と戻ることはなかった。

 フーシェは昼になるまで眠り込んでいた。正邪と二人して、議会に行っている議員のベッドを借りて、寝転んでぼうっとしていた。用意は全て終わっており、久々にやることもなく、ゆっくりベッドでまどろんでいられた。思えば、靴をゆっくり脱ぐのも久々だ。フーシェはまどろみを愛しい友人のように抱き締めた。正邪はどことなくそわそわしているようだった。
「ねえ、フーシェ。そろそろ議会が始まるだろう。行かなくて良いのかい」
「行く必要がない。むしろ、我々が動くのは、議会が終わったあとさ。何かあれば、密偵が知らせてくれる。もう少し休んでおけ。たぶん、もう少しかかる……」
 フーシェはにべもなかった。手持ち無沙汰で、退屈そうな正邪を置き、少し眠った。うとうととまどろんだ後に、正邪はいなかった。
「……奴め。どこへ行った?」

 議場には堂々たるロベスピエールの姿がある。彼の盟友たるサン・ジュストもいる。バラスは対称的にこそこそと人の陰に隠れている。ロベスピエールと目が合えば、それを合図に逮捕され、ギロチン行きになるかも……と、怯えているのだ。この議場にいる議員たちは皆、誰もが似たような心証だ。
 フーシェやバラスと組んでいる者達は皆、怯えていた。もしも、ロベスピエール弾劾の工作が漏れていて、事前に手を打たれいたら、と。そうなれば皆終わりだ。誰もが、今日は何かが起こる、と踏んでいた。目に見えない圧力が、弾け飛びそうなほどに膨れあがっている。
 壇上に、議長が昇った。議長は口元を布で覆った、背の低い男だった。開会します、と、子供のような高い声で、議長は言った。
 議員たちは皆、訝しんだ。反ロベスピエール派の者達は、ことにバラスは、自分たちで用意した議長ではないことに。ロベスピエール派の者達は、そもそもあのような者が議員にいただろうかということに。これはどちらの策謀だ? ロベスピエールか、それとも彼に反対する者のか。議員たちは皆は疑心暗鬼に陥った。誰もが誰もを疑った。ロベスピエール派の者達でさえ、先日のロベスピエールの演説をどう捉えて良いものか、惑っていた。議長に触れることに、誰もがためらった。そのことを尋ねれば、それが罠かもしれない。迷わなかったのは、ロベスピエール一人だった。何が起ころうとも、私の弁舌で説き伏せてみせる。民衆はまだまだ私の味方だ。
 最初に登壇したのはサン・ジュストだった。議会において陰謀を企む一派を逮捕せねばならぬ、と演説を始めた時、たちまち野次が飛んだ。「陰謀を企むのはどちらだ。貴様らジャコバンが、反対派を弾圧しているのだ」サン・ジュストの言葉が途切れた。議会においてはこのようなアクシデントはよくある。サン・ジュストは用意していた演説文を読み上げる前に、反論を返そうとした。しかし、議長はサン・ジュストの演説を終わったものと切り上げてしまった。次なる議員に発言を認め、壇上へ登るように促した。「演説は終わっていない」とサン・ジュストは抗議したが、議長は認めなかったため、仕方なくサン・ジュストは引き下がった。発言を求める議員たちが次々に登壇していったが、ロベスピエールを含めジャコバン党の者の発言が許されることはなかった。口々にジャコバン党の暴政、行き過ぎた革命賛美を咎めた。やがて、タリアンの順番が回ってきた。
 タリアンは当初、ロベスピエールを責め立てる言葉を述べ、最終的に彼を告発するつもりだった。しかし、陰謀が進行しつつあるというのに、落ち着いて、しかし激しい敵意を込めた視線を送っているロベスピエールを見て、タリアンは怯えた。ここで奴を殺せるのか。奴が演説を行えば、再び議会は彼の側につくのではないか。そうなれば、今ジャコバンに反対した議員たちも、タリアンもまた処分される。しかし今ならば引き返せる。ジャコバンよりの言葉を吐けば、自分だけは助かるかも知れない。しかし、そうやって生き延びたところで……ポケットにはテレジアからの手紙があった。そして、短剣もそこにあった。タリアンはそれを握りしめ、議壇を殴りつけるように叩きつけた。うまい具合に短剣は壇上に突き刺さった。
「私はロベスピエールを告発する」
 ようやく出てきた言葉はそれだけだった。議員たちはわっと沸騰したように喚き、立ち上がった。ロベスピエールもこの状況になっては、自分の番を待っているわけにもいかなかった。
「私をどのような名目で告発するのか。タリアン、君が女のために国家の財産を横領したのは分かっているのだぞ。告発されるのは君の方だ……」
 ロベスピエールは続けようとしたが、議員たちの怒号にかき消された。誰もが、ロベスピエールの言葉を恐れた。彼に喋らせまいとした。近代国家の議会とは思えないほど、単純な暴言が叫ばれた。仮に議長や議会を守る兵たちが平等であれば、フーシェと組む議員たちは議会の妨害で逮捕されたことだろう。しかし、議員の暴言を止める者はいなかった。
 タリアンは議会の応援を受けて、ようやく予定通りの言葉を続けることができた。「国民公会が、ロベスピエールを恐れ、告発する勇気を持たないならば、私はこの短剣で貴様の胸を刺し殺す」
 議会は熱狂の最高潮に達した。「その通りだ! ロベスピエールを逮捕しろ!」バラスが喚いた。ロベスピエールはいきり立って壇上へ昇ろうとする。「発言をさせろ! 議長!」かねての打ち合わせ通り、バラスに味方する議員たちが、ロベスピエールに殺到した。その服の裾を、足を、腕を議員たちが掴み、彼を壇上へは昇らせなかった。議員たちの姿はまるで、彼を地獄へと連れて行こうとする、悪鬼どものようだった。「殺せ!」「独裁者を殺せ!」「暴君を倒せ!」怒号が議会に満ち、ロベスピエール派の議員たちの反論は聞こえなかった。ロベスピエールは喚き続けた。「議長! 発言をさせろ! 人殺しどもに好きにさせておくのか!」
「聞いたか、奴は我々を人殺し扱いしたぞ! 逮捕だ! ロベスピエールを逮捕しろ!」周りの議員たちに混じって、バラスが喚いた。「ロベスピエールに死を! サン・ジュストに死を! 彼らの逮捕を決議しろ!」議員の怒号に応えて、議長は声を上げた。「逮捕に反対のあるものは意見を述べよ」意見は一つも上がらなかった。ただロベスピエールに対する怒号だけが議会に響いていた。
「全会一致で逮捕を決議する」と議長が叫ぶと、議員たちは沸いた。このような不平等、不自由があるだろうか。これが国家を運営する議会に認められたことなのだ。
 しかし、ロベスピエールはかつて同じことをしてきた。死ぬほどの罪ではない収賄で起訴されたダントンに対し、ロベスピエールを含めジャコバン党は、裁判で不利になると彼を裁判から除外し、欠席のまま死刑判決を下した。因果応報と言うべきか、一度許容された行いは再び繰り返される。それがロベスピエールへ降り掛かったというだけのことだ。逮捕のために議会へ入れられた兵たちが、ロベスピエールと彼の一派を連れてゆく。議会の中に「自由万歳!」と「共和国万歳!」の喝采が満ちた。
 正邪はその姿を、にやつき、眺めていた。こんな馬鹿な騒ぎがあるかね……。清廉な者は除かれ、悪が勝つ。これだから止められない、と、正邪は思う。議長の服を脱ぎ捨てて、正邪は議会を後にした。正邪を気に留める者は、誰もいなかった。

 議会での勝ちが決まると、フーシェはたちまち行動を開始した。パリ国民軍が、ロベスピエールの身柄を奪い返すべく動き始めた。結局のところ暴力が全てを解決する。それは反ロベスピエールの議員が議会で行った振る舞いがそうであれば、親ロベスピエールの民衆が行うのもそうだった。ロベスピエールを奪い返し、自由にし、議会で陰謀を働いた連中を逮捕し、その後でロベスピエールの逮捕を取り消す。それがロベスピエール寄りのパリ国民軍の目的だった。
 しかし、フーシェもその動きは察知していた。フーシェは議員を動かし、事前に用意していた逮捕状を使って、ロベスピエール寄りのパリ国民軍総司令官を逮捕した。これで、パリに駐屯している兵士たちは身動きができなくなる。ロベスピエールに心酔するごく僅かな兵が、隊を離れて彼の元へ走った。
 ロベスピエールを逮捕した兵たちは、議会の指定した監獄へロベスピエールを連れて行った。だが、やがてロベスピエール派のパリ市民と、部隊を離れた兵が監獄へ殺到し、ロベスピエールは奪回され、市役所へと連れて行かれた。
 市民たちの動きを、フーシェは無視した。むしろ煽り立て、ロベスピエールを奪還するように仕向けた。ロベスピエールが監獄を出たのなら、議会の決定に背いたと見なし、悪人に仕立て上げることができる。ロベスピエールを旗頭に再起を図ったロベスピエール派の議員たちは兵や市民を集めたが、思うように集まらなかった。
 フーシェは人をやり、パリの各地区に、ロベスピエールは罪人であると触れ回った。後で彼に味方したことが知れたら、反ジャコバンの者に報復を受けるかもしれない。ひどければ、地区長はギロチンに送られてしまうかもしれない。ロベスピエールに協力する地区はなかった。ジャコバンの恐怖政治は全てロベスピエール一人の悪政だ、と広めて回ったのだ。革命の汚名は全てロベスピエールが被ることになった。
 ロベスピエールは衝撃のために、身動きすることができなかった。この夜に、ロベスピエール自身が声を上げた形跡はない。彼自身が演説をし、議会の腐敗を訴えていれば、また結果は違ったのではないか。また、パリを離れ、再起を図っていれば。
 彼は議会に反旗を翻すことは出来なかった。法の下に作られた議会に抗うのは、自分たちで作り上げた法を蔑ろにするのと同じことだ。法が蔑ろになるのであれば、真の平等はない。むしろ彼は、法の裁きを受けることさえ望んでいた。革命裁判所に連れ出され、そこで抗弁することを。やがて死刑判決を受け、ギロチンの元へ送られても、法に抗うよりは救われている。
 だが今や、彼は法の外へと連行されていた。熱狂する市民たちの手で。市役所へ連れられたロベスピエールは、もはや腑抜けとさえ思える態度であった。議会と争うことが革命と呼べるのか。しかし、議会、あの腐敗した議会、フーシェに操られる議会が正しいのか。あれが革命の姿か。以後、革命はどのように指導されるのか。自分を見失い、惑っていた。フーシェはそこにつけこんだ。
 時があれば、明日になれば、ロベスピエールは自我を取り戻し、蘇るかもしれぬ。だからこそ、この夜のうちに決着をつけてしまう必要があった。フーシェの方でも、予断を許さなかった。明日までロベスピエールが生き延びれば、自分の首が落ちるかもしれないのだ。
 ロベスピエールを奉戴する市民の動きを知った議員たちは、軍を動かした。バラス自ら指揮を執り、進軍を開始した。標的はパリ市役所である。ここでもフーシェは暗躍した。市民や兵が市役所に籠もっている。彼らをこのまま囲んでしまえば、彼らは死にものぐるいで戦うだろう。フーシェはバラスの兵たちが到着する前に、兵の一人に、フーシェ自ら書き上げた文書を持たせ、市役所を守る市民や、ロベスピエール派の兵たちの前で読み上げさせた。
「これは国民公会からの正式な文書である。ロベスピエール、サン・ジュスト以下、市役所に籠もり、公会に対抗する議員は犯罪者であり、彼らの一切の保護を行わない。彼らは法の外へ置かれる。裁判等一切の権利は与えられない。逮捕次第死刑とする。彼らを匿う者も同じである」
 この宣言に、市民と兵達は震え上がった。折しも、雨が降り始め、集まった市民と兵達は雨を避けるため、ばらばらと離れていった。雨は間もなく止んだが、彼らは戻って来なかった。
 バラスは自ら兵を指揮して、市役所を囲み、攻撃をかけた。居残った数少ない兵、市民、反抗する者を射殺し、ロベスピエール、サン・ジュスト以下、議員たちを逮捕した。正邪は市役所の屋根に登り、連れて行かれるロベスピエールを見ていた。さよなら、ロベスピエール。あんたは中々の役者だったよ。
 翌日の朝、死刑囚運搬車が彼らをギロチンへと運び、その首を落としてしまった。民衆たちはそれを喝采して見ていた。かつてロベスピエール万歳を叫び振り上げたその手は今、人殺し、独裁者、と叫びながら振り上げられる手へと変わっている。その翻身たるや……自らの裏切りに気付かないままの民衆に比べれば、自らの裏切りを知覚しているフーシェが高潔に見えるほどだった。
 ロベスピエールの血は流された。恐怖政治が終わったことに、ひとまず民衆と議員たちは胸を撫で下ろした。
 フーシェは、ロベスピエールと会談をした夜以来初めて、安らかに、深く、眠った。


 ロベスピエール亡き後、政治の主導権はポール・バラスが握った。特に、ロベスピエールに抑え付けられていたブルジョワ層が、彼を支持した。恐怖政治の頃は、ロベスピエール一人が悪かったわけではないが、緊張し、抑えつけられ、圧迫された感じがあった。贅沢は敵であり、華やかさは罪だった。パーティや食事会が帰ってきた。フランスは民衆のものではなく、金持ちの物に戻ったのだ。民衆でさえそれを否定しなかった。どことなくうきうきした気分を感じていたのだ。
 もっとも、バラスは反乱しようとする平民たちを徹底的に弾圧したから、ロベスピエールの頃よりも平民の自由はなくなってしまった。得をしたのは、ジャコバンに抑え付けられていたブルジョワや、大商人たちばかりだ。ロベスピエールの頃よりも厳しい貧困と、腐敗した政府に喘ぐ民衆たちは、ロベスピエールの頃の方がマシだ、殺すんじゃなかったと愚痴をこぼした。それでも不当な逮捕、理由なき私刑が繰り返され、革命の名の下に正当化される恐怖政治よりはましだった。
 バラスの屋敷には貴族の娘や未亡人が集い、快楽の都と化した。自粛していた浮かれた陽気が、再びパリの街角に訪れた。再び貧富の差が広がってゆく。国境や国外で繰り返される戦争は、終わる気配が見えない。ナポレオンが政治の舞台に立つまで戦争は続き、フランス内外の混迷は続くことになる。

「それで、どうするんだい、フーシェ」
「地下に潜る」
「へえ? バラスのところには?」
「行かない。奴の元も、安泰じゃない」
 フーシェと正邪は、街角で光を浴びていた。パリの街角は、クーデターの興奮が冷めず、祭のように浮ついた気分が漂っていた。困窮への不安が除かれるのではないか、という、うっすらとした希望への期待だった。活気というわけではなかったが、恐怖政治が終わり、ともかく何かが変わったというような雰囲気に、皆が浮かれているのだった。
 フーシェはようやく、光の差すところへ、顔を隠さずに出ることができるようになった。彼を逮捕しようと付け狙う兵はいない。街からは革命万歳の声は消えた。牢獄の扉は開かれ、ギロチンの音が聞こえることはなくなった。左派への弾圧が始まり、「くたばれジャコバン」の声が聞こえはじめた。パリには、ジャコバン党支配の反動が訪れ始めていた。
「しかし私の背に吹く順風じゃない。むしろ向かい風だ。地方で虐殺を行った者を、民衆たちは許さないだろう。金持ちたちも同じだ。元ジャコバンの連中……ブルジョアを皆殺しにすると息巻いていた連中……こういう殺戮者どもを、生かしておく道理はあるまい。……ロベスピエールはいなくなったが、まだ反動は終わっちゃいない。私の立場はまだまだ安泰じゃないというわけさ……。いま、バラスの元へ顔を出して奴の支配に味方すれば、たちまち過去の罪を引っ張り出されて、やられてしまうよ」
 事実、革命の名を借りて暴虐を行った者たちを、民衆は許さなかった。断頭台、あるいは流刑地『乾いたギロチン』ギアナへと送りつけたのである。六百人の聖職者を一度に船ごと沈め、水死させたジャン=バディスト・カリエ、あるいは、パリでの裁判、処刑を一手に引き受けた革命裁判所のフーキエ・タンヴィル、そしてリヨンにおける虐殺者、フーシェの同僚たるコロー・デルボア。彼らは悲惨な最期を遂げた。
 彼らは当然、リヨンの霰弾乱殺者、ジョゼフ・フーシェにも手を伸ばした。だが、フーシェは虐殺は全てデルボアが強硬に主張したことであり、自分は仕方なしに執行書にサインをしただけで、常に処刑には反対の立場だった、と、釈明を行ったのである。「私はその寛大さ故に、反革命的であると、ロベスピエールから睨まれたのですよ」と。
 いくつもの首が落ちた。だが、フーシェは生き延びた。このパリでは、それだけで上等のことだったのである。
 フーシェは次の議会には選出されなかった。議員を離れても、政治の場に関わろうとしていたが、それも不可能になった。世間の目は厳しく、かつてロベスピエール打倒のために手を組んだ議員たちも、彼に手を差し伸べることはなかった。彼は地下に潜った。日の光の浴びるところに出てくるには、今しばらくの時を必要とすることになる。

 それより、とフーシェは正邪を見た。
「お前こそ、バラスのところへ行かないのか。今や、フランスの頂点は奴だぞ」
「私は、お前の姿を見ていることにするよ」
 そうかい、とフーシェは言った。
「なら、私もお前を見ていることにする。お前、近頃は……タリアンの嫁の友達……ボーアルネ夫人、だったか? 彼女と付き合いがあるようだな。単なる元貴族の未亡人にしか見えないが、ああいうのが、次の世に出てくるという予測か? それから、ナブリオーネ……とかいう、変わった名前の軍人にも、手紙を送っていたな。それから……」
「ああらら。バレてたか。まあ、あの女も大した女だし、軍人の方も……変わったやつだよ。面白いやつのところには顔を出すようにしてるんだ。私は」
 ふ、と笑って、フーシェは立ち上がった。
「どこへ行くんだい、フーシェ」
「娘の墓参りに行く。ニエーヴルには悪いことをしてしまった。妻の顔も、見たい」
 フーシェが歩き出すと、正邪はその後をついていった。好きにするがいい。栄光のあるところにしか行かないと正邪は言った。そのことを信じているわけではないが。
 フーシェの行く道は明るく、光に満ちていた。だが、それは今日明日だけの、ごく短い時間のことでしかない。パリは混迷の下にあり、暗雲はいつ去るかも分からない。
 東方歴史合同の西洋編に提出したものの再編集版です 合同主に怒られたら消します 2以降は初出なので怒られないと思うので、消えてたら1は東方歴史合同を入手して読んでもろて
 基本的にシュテファン・ツヴァイクのフーシェを中心に色んな本の面白いところを引っ張り出してきたものになります 歴史との矛盾はたくさんあると思うけど広い心でゆるしてください
 これ一つに何年かけたのか分からないけど五年くらい書いてたと思いますので初投稿です

 コメント>再編集版で合同に出したやつとは同じじゃないのでゆるして
RingGing
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コメント



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そもそも他に初出のある作品をそそわに上げるのはルール違反です