意識が定まらない。身体がひどく重い。激しい悪寒が全身を駆け巡り、頭の内側を金槌で殴られるような痛みが断続的に襲い来る。
そうか、これが。
「…インフルエンザ、かあ」
私は永遠亭の病室に布団を敷いて、横になっていた。
病室と言っても和室だ。二十畳くらいか。入院患者など滅多に居ないので、事実上空き部屋と化していた場所だ。
そんなだだっ広い空間の真ん中に、一人。孤独に精神が蝕まれそうだ。
身体と心は不可分だ。身体が病めば心も病む。重力に引かれるみたいに、思考がひとりでに悲観的になっていく。
病気になる度に、同じことを考える。
「私はここに居てもいいのかな」
○
鈴仙がインフルエンザに感染した。
「印符『流宴座』?」
診察室の椅子に腰掛けた純狐は、首を傾げて言った。なんだそのスペルカードは。どんな宴座だ。
「インフルエンザ。疫病の一種よ。申し訳無いけれど、今日から二週間、ウドンゲには近付かないでくれる?あなたが感染するとは思わないけれど、念の為ね」
鈴仙は既に病室に隔離している。後でてゐやイナバ達にも周知しておかなければならない。いや、彼女達にはワクチンの接種をするべきか。
「ふむ、いいでしょう。それで?」
「感染経路を突き止めないといけないわね。場合によっては大規模な流行が発生する恐れがあるわ」
感染源は人間の里だろうか。里での病魔の活動は紫が制限を掛けているはずだから、だとしたら然程心配は無いのだが。
「それで?」
「もしも里以外で感染したのだとしたら厄介ね。どこぞの病魔が自らの力を誇示しようとして、ウイルスをばら撒いている。大いにあり得る話だわ」
名のある病気には大抵それを担う神か妖怪が居るものだが、さて、インフルエンザは誰の領分なのだったか。
「それで?」
「勿論単純に免疫力の低下につけ込まれたという線もある…というかそれが一番可能性が高いわね」
鈴仙は普段から睡眠不足気味な上、時々食事を抜くこともある。薬売りの不養生、全く笑えない。治ったらきつく言っておくべきか。
「それで?」
純狐の双眸は微動だにせず、こちらを捉え続けている。
「…何?何か不満なの」
繰り返される不明瞭な問いに業を煮やして、つい険のある物言いをしてしまう。禅問答に付き合う気は無いのだが。
「うどんちゃんの看病は誰がするのかしら」
「…勿論私がするけれど。それが何か」
私以外に誰が居るのだ。イナバ達にやらせたら、感染者を増やす恐れがある。てゐも同様だ。それに、てゐは自由に動けるようにしておいてこそ効果を発揮する人材なので、あまり仕事で時間を奪いたくはない。輝夜にやらせるのは以ての外だ。
純狐は表情を欠片も揺らがせることなく、悠然と言葉を発した。
「私がしましょうか」
「は?」
発言の意味がとっさに分からず、呆けた声を出してしまった。
「あなた、とても忙しそうだもの」
皮肉ではない。皮肉であれば、もっと分かりやすく露悪的な笑みを浮かべる相手だ。この提案は、純粋に善意から来たものに違いない。
正直言って有難い。ただでさえ、雑事を一手に引き受けていた部下が倒れている。人手不足という程ではないが、余裕が無いのは確かだ。
だが、しかし。しかしだ。
この提案を飲むのは、嫌だ。面白くない。
この感情には、覚えがある。かつて、私は妹紅に同じ感情を抱いていた。
私が返事を渋っていると、純狐は無遠慮にしれっと言い放った。
「私にうどんちゃんを取られるのがそんなに嫌かしら」
「…そういうのじゃない」
そういうのではない。断じて。違う。違うってば。
○
「ごきげんよう、うどんちゃん」
襖を開けて部屋に入ってきたのは、予想外の人物だった。
「じゅ、純狐さん?なんでここに」
普段だったら姿を見る前に波長で気付けるのだが、熱のせいか波長がうまく感知できなくなっている。
純狐さんは手に持っていたお盆を枕元に置いて座った。お盆には湯呑みと急須、そして小鉢にカプセルがいくつか乗っている。
「先生から薬を預かってきたわ。飲みなさい。はいあーん」
「薬ってそうやって飲むものじゃな、げほっ」
喉にカプセルを突っ込まれた。咽せた。
純狐さんの言う"先生"とは、師匠のことだ。まさか純狐さんが師匠の遣いをする日が来るとは、誰が予想しただろう。
「…師匠は、何か言っていましたか」
咳込みながら尋ねる。仕事を休まざるを得なくなってしまった。それどころか、余計な仕事まで増やしてしまった。師匠は怒らない。怒らないけれど、こんな風に迷惑をかけてばかりいたら、いつか見限られるんじゃないかと思ってしまう。
師匠は、いつも怒らない。代わりに、喜びもしない。私が何をしても。それなら、私が永遠亭に居る意味は、果たしてあるのだろうか。
「なんだかごちゃごちゃ言っていたけれど、重要ではなさそうだったから忘れたわ」
純狐さんは私の悲観的な思考などお構い無しに、とんでもないことを仰った。それはさすがに師匠が哀れではないか。
「必要なものがあれば言いなさい。持ってきてあげる」
「ありがとうございます。…とりあえず、お水下さい」
さっき無理に薬を飲まされたので、喉が痛い。純狐さんは湯呑みにお湯を注いで手渡してくれた。
「そういえば」
私がお湯を飲んでいる姿を、微笑みながら眺めていた純狐さんは、不意に呟いた。
「八意先生、私にうどんちゃんを取られるのがとっても嫌みたい」
咽せた。
○
結局、意地を張るのもみっともないので看病は純狐に任せることにした。私にはやるべきことがある。ワクチンを量産してイナバ達に接種させなければならない。ならないのだが。
「…はぁ…」
溜息を吐く。先程から、作業が微塵も進まない。原因は考えるまでもなく、先刻の純狐とのやり取りだ。
普段から、鈴仙が私に対して距離を置いているのは分かっていた。過剰に遠慮している節がある。
今回、それを払拭させるきっかけを作れるのではないか、と思っていた。しかしそれもご破算だ。次の機会を待つしかない。
実際のところ、これまでも何度か機会はあったのだが、全て逃してしまっている。何故だか分からないが、鈴仙のことになると後手に回りがちだ。
「あーもう」
切り替えなければならない。目の前の作業に集中するのだ。私は自分の頬を叩いた。
「何を苛ついているの。あなたらしくないわね」
背後から高い声が掛けられた。いつの間にか、小さな人影が部屋の入り口に立っていた。全く気付かなかった。私はそこまで思考に耽っていたのだろうか。
「メディスン」
「呼んでも誰も出てこないんだもの。勝手に上がらせてもらったわ」
小さな人影は、不服そうな面持ちで部屋に入ってきた。歩みに合わせて、頭上のリボンがふわふわと揺れる。その小さな腕には、木の枝が何本か抱えられていた。
「面白い毒を見つけたから、見せに来たの」
そう言って木の枝を手渡してくる。相思樹。幻覚作用のある成分を含有している、アカシアの仲間だ。
どうやらメディスンにとっては、麻薬も毒の一種らしい。いや、能力が成長した結果、毒として認識できる範囲が拡大しているのか。
「あら、それは何?見たことない毒だわ」
メディスンは、机の上に置いてあった試験管に手を伸ばした。その中には鈴仙から採取した血液が入っている。──まずい。
「やめなさい」
思ったより大きな声を出してしまった。メディスンは目を見開いて、手を止めた。
「…これは、あなたにはまだ早い」
この子は成長している。いずれ、ウイルスすら操れるようになるかもしれない。いや、既に操れるようになっている可能性もある。
"見たことない毒"と言っていた。まだ触れたことはないのだろう。
もしメディスンがウイルスを操り始めたら、巫女も賢者達も黙ってはいないはずだ。
メディスンには未来がある。それをここで閉ざすわけにはいかない。
「…なんで?あなた、経験を積めって言っていたじゃない」
メディスンはこちらを睨んできた。怒っているのではない。同じ人物から矛盾する二つの命令を受けて、困惑しているのだ。
「これを手に取るのは、経験を積んだ後なの」
なんとか説得しなければならない。学習には、順序がある。メディスンにはまだ理解できないかもしれないが、とても大切なことだ。メディスン自身の、正しい成長のために。
「分からない、分からないわ」
メディスンは首を横に振った。
「あなた、言ったじゃない。知識を増やせって。経験を積めって」
「メディスン。聞き分けて頂戴」
メディスンは今にも泣き出しそうな顔をしている。
「私には、知識が足りない。分かっているのよ、自分でも。あなたは、私に足りないものを、教えてくれるから。だから」
──だから、信じていたのに。メディスンの目は、そう言っていた。私は背を向けた。
「…後で説明するから。出て行って。仕事があるの」
背後で、メディスンが走り去る音がした。
○
「鈴仙!」
「め、メディスン?」
どたばたと大きな音を立てて、小柄な影が部屋に飛び込んできた。病室だというのに、やけに来客が多い。みんなインフルエンザが伝染病だって分かっているのか。分かってないか。寝かせてくれ。
「鈴仙、永琳が、永琳が」
メディスンは大声を上げて泣いていた。一体どうしたと言うんだ。この子はこう見えてプライドが高い。人前で泣くなんて、よっぽどのことだ。
感情の昂りに合わせて、躰から毒が放出されている。この部屋やばいんじゃないか。私は死ぬんじゃないか。
どうすればいいのか分からずおろおろしていたら、私の枕元に居たはずの純狐さんが、いつの間にかメディスンに近づいていた。純狐さんはメディスンを抱きしめて、頭を撫ではじめた。
暫くするとメディスンはやや落ち着きを取り戻し、それに伴って毒の放出も収まった。助かった。
メディスンが泣き止むと、純狐さんは興味を失ったらしく、私の枕元に戻ってきた。行動が極端すぎて若干怖い。
メディスンは、ぽつりぽつりと経緯を話してくれた。
「私、何かしちゃったのかな。怒らせちゃったのかな」
どうやら、師匠に拒絶されたことが相当ショックだったらしい。師匠がそこまでメディスンと交流を深めていたとは知らなかった。そういえば師匠はてゐにも割と甘いところがある。もしかして幼女が好きなのか。そんな馬鹿な。
しかし、メディスンの認識は恐らく誤解だ。師匠は頭の中で結論を出して、それを人に話さないことが多々ある。今回もきっとそれだろう。私は純狐さんにならって、メディスンの頭を撫でた。
「大丈夫よ。師匠は怒ってない。あの人は忙しいと言葉が少なくなって、まるで怒ってるみたいになっちゃうだけ」
師匠の波長はいつだって落ち着いていて、滅多なことでは揺らがないのだ。
○
イナバ達へのワクチンの摂取は、夜になっても終わらなかった。思っていたよりも人数が多く、用意したワクチンの量では足りなかった。こんなに居たのか、と思った。
その上、こういう時に限っててゐが見当たらない。まとめ役がいなければ言うことも聞かない。注射器を見て逃げ出すやつもいる。追いかけて注射をした。
その辺を歩いていた大人しそうな狼女に手伝いを頼んだが、注射器を見るだけで震えていたので解雇した。
明日もこの調子なのだろうか。うんざりだ。イチゴだったかリンゴだったか、あの子に声を掛けてみようか。しかしどこに住んでいるのかも分からないし、探すほうが手間だな。
鈴仙の有難みが分かった。やはり今後はもう少し部下の健康にも気を遣わなければならない。食事にサプリを混ぜるか。
追加のワクチンの製造がひと段落付いたので、病室へ足を運んだ。薬が効いているようで、鈴仙は穏やかに眠っている。だが。
「…何があったの」
鈴仙の右隣に純狐が、左隣にメディスンが、それぞれ寝ているのはどういうことだ。
まあ、純狐もメディスンも、インフルエンザに罹るようなことは無いだろうから、そこは心配要らない。鈴仙の心身に負担が無ければいいのだが、この様子を見る限りそちらも大丈夫のようだ。
ただ、私の胸の内に、奇妙な敗北感が残るだけだ。
予備の毛布を出して、二人に掛けておいた。
○
「永琳。昨日はごめんなさい」
翌朝、メディスンが謝りに来た。
「鈴仙が言っていたわ。永琳は怒ってない、忙しいと言葉が少なくなるだけだ、って。ごめんなさい。忙しい時に、わがまま言って」
驚いた。
私は忙しいと言葉が少なくなるのか。全く自覚が無かった。直さなければいけない。なんて悪癖だ。
そして、鈴仙がメディスンの感情のケアをしていたことにも驚いた。自分の体調のことだけでも手一杯だろうに。私の不手際で、鈴仙に負担を強いてしまった。忸怩たる思いだ。
「私の方こそ、悪かったわ」
私はメディスンに頭を下げた。昨日は、どれだけ時間をかけても、真摯に説得を試みるべきだったのだ。
長い時間を生きていても、会話というものは難しい。
「あと二週間したら、ウドンゲも復帰するし、私にも余裕ができるわ。そうしたら、また来てくれる?」
「…うん!」
メディスンは、力強く返事をして帰っていった。
次にメディスンが来る時までに、きちんとした教育の準備を整えておかねばならないな、と思った。
○
「ウドンゲ、起きてる?調子はどう?」
師匠が突然部屋に入ってきたので、慌てて飛び起きた。飛び起きた後で、病人なんだから寝ていてもいいのだということを思い出して横になった。師匠が相手だと無闇矢鱈と緊張してしまう。やめたい。
横になったら、隣に寝ていた純狐さんの寝顔が視界に入って、綺麗だなぁ、と思った。顔が熱くなって飛び起きた。
師匠は起きたり寝たり起きたりする私を怪訝な顔で見ていたが、特に何も言わずに体温計を差し出した。
体温を測っている間、師匠は溶けた氷嚢を回収しながら言った。
「メディスンのこと、ありがとう。助かったわ」
「いっ、いえ!私はただ、思ったことを言っただけです!」
予想外の言葉に、思わず正座して背筋を伸ばしてしまった。
「…安静にしてなさい」
師匠は苦笑した。
熱は下がっていた。薬が効いているのだろう。師匠が去った後、眠ろうとしてみたが、目が冴えてまるで眠れなかった。
師匠に感謝された。
そんなことあるのか。いや、あるか。今までも、たまにならあった気がする。
いつも何をしても喜んでくれない、なんて、過度の一般化。認知の歪みだ。
○
「おいすー。輝夜借りてくよー」
竹林が青く染まる薄暮の中、妹紅が訪ねてきた。自分の眉間に皺が寄るのが分かった。いつものことだ、そろそろ慣れろ、と自分に言い聞かせるも、やはり輝夜の命を軽々に遊びに使われることには不満があった。
「鈴仙ちゃん病気だって?災難だね」
こっちの気も知らず、妹紅は軽薄な調子で話しかけてくる。誰から聞いたのだろう。まあどうでもいいか。
「あなたにも一応感染はするのだから、近づかないようにね」
インフルエンザ程度なら、妹紅本人はその日のうちに完治するのだろうが、感染を広げてしまう可能性はある。
「あいよー」
返事があまりにも軽い。本当に分かっているのだろうか。
「たかがインフルエンザだと思って軽視しては駄目よ。ウドンゲ達にとっては命に関わることもあるのだから」
念を押すと、妹紅はきょとんとした顔をした。やはり分かっていなかったのだろう。
と思っていたら、妹紅の声のトーンがやや低くなった。
「いや、そのぐらい分かってるけど。何?馬鹿にしてる?」
何故こちらが非難されなければならないのだろう。釈然としない気持ちでいると、妹紅は尚も責め立ててきた。
「永琳のその上から目線、やめた方がいいと思うよ。長生きしてても知識があっても、別に偉くはないんだから」
「…なんですって?」
何の話をしているのだ。全く分からない。
「私だって、別に病気を軽く見てるわけじゃない」
妹紅は、一転して真剣な顔で言った。
「いくら深刻ぶったって、私達に死ぬやつの気持ちなんか分かりっこないじゃんか。分かったフリはむしろ失礼じゃないの」
二の句が告げなくなった。
「例えどれだけ人が死んだって、せめて私達くらいは普段通りでいようよ。その方がよっぽど真摯だと思う」
まさか妹紅に説教をされるとは…いや、この思考自体がそもそも傲りなのか。無意識のうちに妹紅を下に見ていた。自分の不満を相手への侮りに変換していたのだ。
メディスンといい、今日は、私に足りないものを気付かされてばかりだ。
黙りこくった私を見て、妹紅は苦笑した。
「永琳って、私なんかよりよっぽど長く生きているわりに、随分と不自由そうだよね。真面目すぎるからかな」
○
「師匠、大丈夫ですか?」
鈴仙は、布団から身を起こして尋ねてきた。調子は変わらず良好のようだ。だからと言って起きていていいわけでもない。寝ていればいいものを。隣で眠っている純狐など、今日起きているところを見ていない。看病とは何だったのか。
「大丈夫って、何が?」
平静を装う。妹紅との会話の後から、思考が全く纏まらず、混乱しているのは確かだ。しかしそれを悟らせないように振る舞う術くらい身に付けている。これ以上鈴仙に負担をかけることはない。
そのはずだった。
「あっ、いえ。ただ、なんだか、波長が」
波長。私は瞠目した。
鈴仙は他者の精神の波長を知覚することができる。
それはつまり、見栄も強がりも透過して、相手のありのままの感情を読み取ることができるということだ。
心理学者アルフレッド・アドラーは"人間の悩みはすべて対人関係の悩みである"と説いた。どれだけの時を生きて、どれほどの知識を得ても、対人関係の悩みは残る。
もし、相手のありのままの姿を視ることができたなら。ありのままの相手を受け入れ、尊ぶことができるなら。
そして、こちらもありのままの姿を曝け出すことができたなら。
それは対人関係の理想ではないか。
今日は、自分に足りないものを気付かされてばかりいた。果たしてそれは偶然だったのだろうか。
今日という日に、普段と異なる点があったとすれば、それは鈴仙が居なかったこと。
これまでずっと、私に足りない部分を、鈴仙が補ってくれていたのではないか。
○
どうしたんだろう。師匠の波長がやけに揺らいでいる。かつてないほどに。一体何があったというんだ。
「鈴仙」
師匠は小さく私の名を呼んだ。
「は、はい」
あれ。今、鈴仙って呼んだな。ウドンゲじゃなくて。
「早く治しなさい」
師匠の声はやけに小さく、ともすれば聞き取れないくらいだったが、しかしその言葉ははっきりと私の耳に届いた。聞き間違いでは、なかった。
「あなたが居ないと困る」
そう言って、師匠は部屋を出て行った。
…え。
えっえっ。
ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ。
○
「永琳はね、他人を愛することを恐れているのよ」
腹に突き刺さった私の左腕ごと、輝夜は距離を取った。
「なんで?」
左腕が肩のあたりで千切れたが、輝夜の肝臓に風穴を開けてやった。どっこいどっこい、と言いたいが普通にこっちが劣勢だな。出血量が違いすぎる。
痛みはともかく、出血多量で意識が遠のいていく感覚は結構好きだ。浸っている場合ではないが。
「愛しすぎてしまうから。私を愛した結果、月の使者を皆殺しにしたように」
輝夜は見せつけるようにゆっくりと、腹に刺さった私の左腕を引き抜くと、その小指を口に咥え、割くように咬み千切った。挑発してやがるな。私はその期待に応えて、遠のく意識を呼び戻し、再び接近戦を仕掛ける。
「これまでイナバを甘やかしてこなかったのも同じ理由。愛さないために、無意識のうちに一線を引いていたのよ」
私の右脚が輝夜の鳩尾に突き刺さる。蹴り飛ばすつもりだったのに、わざわざ刺さりに来やがった。輝夜は私の右脚を体全体で抱え込むと、回転して捩じ切った。いってぇな。
「過去形ってことは、今は違うって言うのか」
自分の口から出る声はひどく掠れている。輝夜は聞き取れただろうか。視界も白く濁ってきた。間も無く失血死するだろう。
「ええ。永遠亭が変わって、イナバも少しずつ変わって。永琳も変わる時が来ているの」
リザレクション。普段ならどちらかが三、四回死んだら終わりなのだが、今日の輝夜はやけに機嫌が良く、まだまだ喋り足りなさそうだ。もう少し付き合うことにした。
「あの永琳に変化か。長生きはしてみるもんだ」
速攻を仕掛ける。こっちが五体満足のうちに殺しておかないと、"次"が不利だ。
「他人事みたいに言っているけれど、あなただって、菫子ちゃんと会ってから変わったわよ」
菫子、という名前につい反応してしまい、頭に弾を食らった。やらかした。
「じゃあお前も、そのうち変わるのか」
明滅する視界の中に、輝夜を捉える。どれだけ血に塗れても変わらず、美しい顔をしている。
私がまだ、死ぬ人間だった頃から、何も変わっていない。読んで字の如く漆のような、漆黒の瞳でこちらを見ている。慈しんでいるようにも、観察しているようにも見える目だ。あの目から私はずっと逃れられずにいる。そのせいで、今までこうして生き続けている。
もし、こいつが変わるとしたら。その時こそ私は死ぬのかもしれないな、と思った。
「その時は、思い切り笑ってやる」
ああくそ、また死んだ。
○
二週間が経った朝。
「あ。師匠、おはようございます」
廊下で鈴仙がはにかみながら挨拶をしてきた。見るからにそわそわとして、落ち着かない様子でいる。この二週間、病床でもずっとこの調子で浮かれていた。その原因は、まあ、知らないふりをしておこう。頬が痒くなった。
「ウドンゲ、調子はどう」
見れば分かるのだが、聞いておいた。こういった無意味なコミュニケーションに、普段からもっと親しんでおかなければならないのだと思って、意識して練習をしている。
「ばっちりです!むしろいつもより元気です!」
いい笑顔だ。ずっと見ていたくなる。などと考える自分に愕然とする。頬の痒みが増した。
「病み上がりなんだから、無茶はしないでね」
平静を装う。鈴仙相手に取り繕っても無駄なのだが、せめてもの抵抗だ。何に対しての抵抗なのかは知らない。
「はい!」
返事が良すぎる。無茶をしそうだな、と思った。不安だ。経過観察が必要だろうか。
その時、鈴仙が突然大声を上げた。
「純狐さん!どうしました!?」
いつからそこに居たのか、鈴仙は純狐に駆け寄った。私には分かるべくもないが、波長の揺らぎを察知したのだろう。
些細な感情の変化を見逃さず、逐一フォローを入れる。純狐という感情爆弾の監視役として、鈴仙はこの上無く適任なのかもしれない。
「うどんちゃん。抱きしめさせなさい」
なんか聞こえた。聞き間違いだな、うん。
「はい?」
鈴仙は変な顔で固まっている。私もきっと似たような顔をしている。
「抱きしめさせなさい」
聞き間違いではなかった。えー。
「え、あ、はい…」
立ち尽くしたまま、鈴仙は純狐に抱きしめられた。何だろうあれは。まあいいか。鈴仙も満更では無さそうだし、放っておこう。
馬鹿二人に背を向けて歩みを進めようとしたところ、廊下の先から、小さな影がこちらを窺っていることに気付いた。
「え、永琳。その…」
メディスンだ。手には花を抱えている。それも花束だ。
声の掛け方に迷う。二週間前と同じ轍を踏まないように、細心の注意を…いや、違う。
ありのままの感情を、見せなければいけないのだ。
「ありがとう、メディスン。嬉しいわ」
メディスンは花のように笑った。かわいいな、と思った。
○
「姫様、散歩行こうよ」
朝の散歩はてゐの日課だ。私も気が向いたら参加することにしているが、てゐの方から誘ってくるとは珍しい。二つ返事で了承し、竹林を軽快に歩き出した。
「私は蚊帳の外かい」
てゐはつまらなそうな顔をして言った。
聞きたそうな様子だったので、この二週間の様子を語ってあげたのだが、どうやらお気に召さなかったようだ。
「インフルエンザって聞いて、逃げ回っていたのはあなたじゃないの」
「それはそうだけど」
随分と不服そうだ。決して表には出さないが、鈴仙の幸せを誰よりも願っているのはてゐだ。転機に立ち会えなかったことが相当に悔しいらしい。
ぶつくさと文句を言いながら歩いていたてゐは、不意に立ち止まった。
いつの間にか、永遠亭に戻って来ていた。足取り軽く薬売りへ向かう鈴仙と、それを心配そうに見送る永琳の姿が見えた。
「幸せそーじゃん」
てゐの表情は、窺い知れない。でも。
「じゃ、いいか」
そう言うてゐの声は、普段より少しだけ温かいのだった。
そうか、これが。
「…インフルエンザ、かあ」
私は永遠亭の病室に布団を敷いて、横になっていた。
病室と言っても和室だ。二十畳くらいか。入院患者など滅多に居ないので、事実上空き部屋と化していた場所だ。
そんなだだっ広い空間の真ん中に、一人。孤独に精神が蝕まれそうだ。
身体と心は不可分だ。身体が病めば心も病む。重力に引かれるみたいに、思考がひとりでに悲観的になっていく。
病気になる度に、同じことを考える。
「私はここに居てもいいのかな」
○
鈴仙がインフルエンザに感染した。
「印符『流宴座』?」
診察室の椅子に腰掛けた純狐は、首を傾げて言った。なんだそのスペルカードは。どんな宴座だ。
「インフルエンザ。疫病の一種よ。申し訳無いけれど、今日から二週間、ウドンゲには近付かないでくれる?あなたが感染するとは思わないけれど、念の為ね」
鈴仙は既に病室に隔離している。後でてゐやイナバ達にも周知しておかなければならない。いや、彼女達にはワクチンの接種をするべきか。
「ふむ、いいでしょう。それで?」
「感染経路を突き止めないといけないわね。場合によっては大規模な流行が発生する恐れがあるわ」
感染源は人間の里だろうか。里での病魔の活動は紫が制限を掛けているはずだから、だとしたら然程心配は無いのだが。
「それで?」
「もしも里以外で感染したのだとしたら厄介ね。どこぞの病魔が自らの力を誇示しようとして、ウイルスをばら撒いている。大いにあり得る話だわ」
名のある病気には大抵それを担う神か妖怪が居るものだが、さて、インフルエンザは誰の領分なのだったか。
「それで?」
「勿論単純に免疫力の低下につけ込まれたという線もある…というかそれが一番可能性が高いわね」
鈴仙は普段から睡眠不足気味な上、時々食事を抜くこともある。薬売りの不養生、全く笑えない。治ったらきつく言っておくべきか。
「それで?」
純狐の双眸は微動だにせず、こちらを捉え続けている。
「…何?何か不満なの」
繰り返される不明瞭な問いに業を煮やして、つい険のある物言いをしてしまう。禅問答に付き合う気は無いのだが。
「うどんちゃんの看病は誰がするのかしら」
「…勿論私がするけれど。それが何か」
私以外に誰が居るのだ。イナバ達にやらせたら、感染者を増やす恐れがある。てゐも同様だ。それに、てゐは自由に動けるようにしておいてこそ効果を発揮する人材なので、あまり仕事で時間を奪いたくはない。輝夜にやらせるのは以ての外だ。
純狐は表情を欠片も揺らがせることなく、悠然と言葉を発した。
「私がしましょうか」
「は?」
発言の意味がとっさに分からず、呆けた声を出してしまった。
「あなた、とても忙しそうだもの」
皮肉ではない。皮肉であれば、もっと分かりやすく露悪的な笑みを浮かべる相手だ。この提案は、純粋に善意から来たものに違いない。
正直言って有難い。ただでさえ、雑事を一手に引き受けていた部下が倒れている。人手不足という程ではないが、余裕が無いのは確かだ。
だが、しかし。しかしだ。
この提案を飲むのは、嫌だ。面白くない。
この感情には、覚えがある。かつて、私は妹紅に同じ感情を抱いていた。
私が返事を渋っていると、純狐は無遠慮にしれっと言い放った。
「私にうどんちゃんを取られるのがそんなに嫌かしら」
「…そういうのじゃない」
そういうのではない。断じて。違う。違うってば。
○
「ごきげんよう、うどんちゃん」
襖を開けて部屋に入ってきたのは、予想外の人物だった。
「じゅ、純狐さん?なんでここに」
普段だったら姿を見る前に波長で気付けるのだが、熱のせいか波長がうまく感知できなくなっている。
純狐さんは手に持っていたお盆を枕元に置いて座った。お盆には湯呑みと急須、そして小鉢にカプセルがいくつか乗っている。
「先生から薬を預かってきたわ。飲みなさい。はいあーん」
「薬ってそうやって飲むものじゃな、げほっ」
喉にカプセルを突っ込まれた。咽せた。
純狐さんの言う"先生"とは、師匠のことだ。まさか純狐さんが師匠の遣いをする日が来るとは、誰が予想しただろう。
「…師匠は、何か言っていましたか」
咳込みながら尋ねる。仕事を休まざるを得なくなってしまった。それどころか、余計な仕事まで増やしてしまった。師匠は怒らない。怒らないけれど、こんな風に迷惑をかけてばかりいたら、いつか見限られるんじゃないかと思ってしまう。
師匠は、いつも怒らない。代わりに、喜びもしない。私が何をしても。それなら、私が永遠亭に居る意味は、果たしてあるのだろうか。
「なんだかごちゃごちゃ言っていたけれど、重要ではなさそうだったから忘れたわ」
純狐さんは私の悲観的な思考などお構い無しに、とんでもないことを仰った。それはさすがに師匠が哀れではないか。
「必要なものがあれば言いなさい。持ってきてあげる」
「ありがとうございます。…とりあえず、お水下さい」
さっき無理に薬を飲まされたので、喉が痛い。純狐さんは湯呑みにお湯を注いで手渡してくれた。
「そういえば」
私がお湯を飲んでいる姿を、微笑みながら眺めていた純狐さんは、不意に呟いた。
「八意先生、私にうどんちゃんを取られるのがとっても嫌みたい」
咽せた。
○
結局、意地を張るのもみっともないので看病は純狐に任せることにした。私にはやるべきことがある。ワクチンを量産してイナバ達に接種させなければならない。ならないのだが。
「…はぁ…」
溜息を吐く。先程から、作業が微塵も進まない。原因は考えるまでもなく、先刻の純狐とのやり取りだ。
普段から、鈴仙が私に対して距離を置いているのは分かっていた。過剰に遠慮している節がある。
今回、それを払拭させるきっかけを作れるのではないか、と思っていた。しかしそれもご破算だ。次の機会を待つしかない。
実際のところ、これまでも何度か機会はあったのだが、全て逃してしまっている。何故だか分からないが、鈴仙のことになると後手に回りがちだ。
「あーもう」
切り替えなければならない。目の前の作業に集中するのだ。私は自分の頬を叩いた。
「何を苛ついているの。あなたらしくないわね」
背後から高い声が掛けられた。いつの間にか、小さな人影が部屋の入り口に立っていた。全く気付かなかった。私はそこまで思考に耽っていたのだろうか。
「メディスン」
「呼んでも誰も出てこないんだもの。勝手に上がらせてもらったわ」
小さな人影は、不服そうな面持ちで部屋に入ってきた。歩みに合わせて、頭上のリボンがふわふわと揺れる。その小さな腕には、木の枝が何本か抱えられていた。
「面白い毒を見つけたから、見せに来たの」
そう言って木の枝を手渡してくる。相思樹。幻覚作用のある成分を含有している、アカシアの仲間だ。
どうやらメディスンにとっては、麻薬も毒の一種らしい。いや、能力が成長した結果、毒として認識できる範囲が拡大しているのか。
「あら、それは何?見たことない毒だわ」
メディスンは、机の上に置いてあった試験管に手を伸ばした。その中には鈴仙から採取した血液が入っている。──まずい。
「やめなさい」
思ったより大きな声を出してしまった。メディスンは目を見開いて、手を止めた。
「…これは、あなたにはまだ早い」
この子は成長している。いずれ、ウイルスすら操れるようになるかもしれない。いや、既に操れるようになっている可能性もある。
"見たことない毒"と言っていた。まだ触れたことはないのだろう。
もしメディスンがウイルスを操り始めたら、巫女も賢者達も黙ってはいないはずだ。
メディスンには未来がある。それをここで閉ざすわけにはいかない。
「…なんで?あなた、経験を積めって言っていたじゃない」
メディスンはこちらを睨んできた。怒っているのではない。同じ人物から矛盾する二つの命令を受けて、困惑しているのだ。
「これを手に取るのは、経験を積んだ後なの」
なんとか説得しなければならない。学習には、順序がある。メディスンにはまだ理解できないかもしれないが、とても大切なことだ。メディスン自身の、正しい成長のために。
「分からない、分からないわ」
メディスンは首を横に振った。
「あなた、言ったじゃない。知識を増やせって。経験を積めって」
「メディスン。聞き分けて頂戴」
メディスンは今にも泣き出しそうな顔をしている。
「私には、知識が足りない。分かっているのよ、自分でも。あなたは、私に足りないものを、教えてくれるから。だから」
──だから、信じていたのに。メディスンの目は、そう言っていた。私は背を向けた。
「…後で説明するから。出て行って。仕事があるの」
背後で、メディスンが走り去る音がした。
○
「鈴仙!」
「め、メディスン?」
どたばたと大きな音を立てて、小柄な影が部屋に飛び込んできた。病室だというのに、やけに来客が多い。みんなインフルエンザが伝染病だって分かっているのか。分かってないか。寝かせてくれ。
「鈴仙、永琳が、永琳が」
メディスンは大声を上げて泣いていた。一体どうしたと言うんだ。この子はこう見えてプライドが高い。人前で泣くなんて、よっぽどのことだ。
感情の昂りに合わせて、躰から毒が放出されている。この部屋やばいんじゃないか。私は死ぬんじゃないか。
どうすればいいのか分からずおろおろしていたら、私の枕元に居たはずの純狐さんが、いつの間にかメディスンに近づいていた。純狐さんはメディスンを抱きしめて、頭を撫ではじめた。
暫くするとメディスンはやや落ち着きを取り戻し、それに伴って毒の放出も収まった。助かった。
メディスンが泣き止むと、純狐さんは興味を失ったらしく、私の枕元に戻ってきた。行動が極端すぎて若干怖い。
メディスンは、ぽつりぽつりと経緯を話してくれた。
「私、何かしちゃったのかな。怒らせちゃったのかな」
どうやら、師匠に拒絶されたことが相当ショックだったらしい。師匠がそこまでメディスンと交流を深めていたとは知らなかった。そういえば師匠はてゐにも割と甘いところがある。もしかして幼女が好きなのか。そんな馬鹿な。
しかし、メディスンの認識は恐らく誤解だ。師匠は頭の中で結論を出して、それを人に話さないことが多々ある。今回もきっとそれだろう。私は純狐さんにならって、メディスンの頭を撫でた。
「大丈夫よ。師匠は怒ってない。あの人は忙しいと言葉が少なくなって、まるで怒ってるみたいになっちゃうだけ」
師匠の波長はいつだって落ち着いていて、滅多なことでは揺らがないのだ。
○
イナバ達へのワクチンの摂取は、夜になっても終わらなかった。思っていたよりも人数が多く、用意したワクチンの量では足りなかった。こんなに居たのか、と思った。
その上、こういう時に限っててゐが見当たらない。まとめ役がいなければ言うことも聞かない。注射器を見て逃げ出すやつもいる。追いかけて注射をした。
その辺を歩いていた大人しそうな狼女に手伝いを頼んだが、注射器を見るだけで震えていたので解雇した。
明日もこの調子なのだろうか。うんざりだ。イチゴだったかリンゴだったか、あの子に声を掛けてみようか。しかしどこに住んでいるのかも分からないし、探すほうが手間だな。
鈴仙の有難みが分かった。やはり今後はもう少し部下の健康にも気を遣わなければならない。食事にサプリを混ぜるか。
追加のワクチンの製造がひと段落付いたので、病室へ足を運んだ。薬が効いているようで、鈴仙は穏やかに眠っている。だが。
「…何があったの」
鈴仙の右隣に純狐が、左隣にメディスンが、それぞれ寝ているのはどういうことだ。
まあ、純狐もメディスンも、インフルエンザに罹るようなことは無いだろうから、そこは心配要らない。鈴仙の心身に負担が無ければいいのだが、この様子を見る限りそちらも大丈夫のようだ。
ただ、私の胸の内に、奇妙な敗北感が残るだけだ。
予備の毛布を出して、二人に掛けておいた。
○
「永琳。昨日はごめんなさい」
翌朝、メディスンが謝りに来た。
「鈴仙が言っていたわ。永琳は怒ってない、忙しいと言葉が少なくなるだけだ、って。ごめんなさい。忙しい時に、わがまま言って」
驚いた。
私は忙しいと言葉が少なくなるのか。全く自覚が無かった。直さなければいけない。なんて悪癖だ。
そして、鈴仙がメディスンの感情のケアをしていたことにも驚いた。自分の体調のことだけでも手一杯だろうに。私の不手際で、鈴仙に負担を強いてしまった。忸怩たる思いだ。
「私の方こそ、悪かったわ」
私はメディスンに頭を下げた。昨日は、どれだけ時間をかけても、真摯に説得を試みるべきだったのだ。
長い時間を生きていても、会話というものは難しい。
「あと二週間したら、ウドンゲも復帰するし、私にも余裕ができるわ。そうしたら、また来てくれる?」
「…うん!」
メディスンは、力強く返事をして帰っていった。
次にメディスンが来る時までに、きちんとした教育の準備を整えておかねばならないな、と思った。
○
「ウドンゲ、起きてる?調子はどう?」
師匠が突然部屋に入ってきたので、慌てて飛び起きた。飛び起きた後で、病人なんだから寝ていてもいいのだということを思い出して横になった。師匠が相手だと無闇矢鱈と緊張してしまう。やめたい。
横になったら、隣に寝ていた純狐さんの寝顔が視界に入って、綺麗だなぁ、と思った。顔が熱くなって飛び起きた。
師匠は起きたり寝たり起きたりする私を怪訝な顔で見ていたが、特に何も言わずに体温計を差し出した。
体温を測っている間、師匠は溶けた氷嚢を回収しながら言った。
「メディスンのこと、ありがとう。助かったわ」
「いっ、いえ!私はただ、思ったことを言っただけです!」
予想外の言葉に、思わず正座して背筋を伸ばしてしまった。
「…安静にしてなさい」
師匠は苦笑した。
熱は下がっていた。薬が効いているのだろう。師匠が去った後、眠ろうとしてみたが、目が冴えてまるで眠れなかった。
師匠に感謝された。
そんなことあるのか。いや、あるか。今までも、たまにならあった気がする。
いつも何をしても喜んでくれない、なんて、過度の一般化。認知の歪みだ。
○
「おいすー。輝夜借りてくよー」
竹林が青く染まる薄暮の中、妹紅が訪ねてきた。自分の眉間に皺が寄るのが分かった。いつものことだ、そろそろ慣れろ、と自分に言い聞かせるも、やはり輝夜の命を軽々に遊びに使われることには不満があった。
「鈴仙ちゃん病気だって?災難だね」
こっちの気も知らず、妹紅は軽薄な調子で話しかけてくる。誰から聞いたのだろう。まあどうでもいいか。
「あなたにも一応感染はするのだから、近づかないようにね」
インフルエンザ程度なら、妹紅本人はその日のうちに完治するのだろうが、感染を広げてしまう可能性はある。
「あいよー」
返事があまりにも軽い。本当に分かっているのだろうか。
「たかがインフルエンザだと思って軽視しては駄目よ。ウドンゲ達にとっては命に関わることもあるのだから」
念を押すと、妹紅はきょとんとした顔をした。やはり分かっていなかったのだろう。
と思っていたら、妹紅の声のトーンがやや低くなった。
「いや、そのぐらい分かってるけど。何?馬鹿にしてる?」
何故こちらが非難されなければならないのだろう。釈然としない気持ちでいると、妹紅は尚も責め立ててきた。
「永琳のその上から目線、やめた方がいいと思うよ。長生きしてても知識があっても、別に偉くはないんだから」
「…なんですって?」
何の話をしているのだ。全く分からない。
「私だって、別に病気を軽く見てるわけじゃない」
妹紅は、一転して真剣な顔で言った。
「いくら深刻ぶったって、私達に死ぬやつの気持ちなんか分かりっこないじゃんか。分かったフリはむしろ失礼じゃないの」
二の句が告げなくなった。
「例えどれだけ人が死んだって、せめて私達くらいは普段通りでいようよ。その方がよっぽど真摯だと思う」
まさか妹紅に説教をされるとは…いや、この思考自体がそもそも傲りなのか。無意識のうちに妹紅を下に見ていた。自分の不満を相手への侮りに変換していたのだ。
メディスンといい、今日は、私に足りないものを気付かされてばかりだ。
黙りこくった私を見て、妹紅は苦笑した。
「永琳って、私なんかよりよっぽど長く生きているわりに、随分と不自由そうだよね。真面目すぎるからかな」
○
「師匠、大丈夫ですか?」
鈴仙は、布団から身を起こして尋ねてきた。調子は変わらず良好のようだ。だからと言って起きていていいわけでもない。寝ていればいいものを。隣で眠っている純狐など、今日起きているところを見ていない。看病とは何だったのか。
「大丈夫って、何が?」
平静を装う。妹紅との会話の後から、思考が全く纏まらず、混乱しているのは確かだ。しかしそれを悟らせないように振る舞う術くらい身に付けている。これ以上鈴仙に負担をかけることはない。
そのはずだった。
「あっ、いえ。ただ、なんだか、波長が」
波長。私は瞠目した。
鈴仙は他者の精神の波長を知覚することができる。
それはつまり、見栄も強がりも透過して、相手のありのままの感情を読み取ることができるということだ。
心理学者アルフレッド・アドラーは"人間の悩みはすべて対人関係の悩みである"と説いた。どれだけの時を生きて、どれほどの知識を得ても、対人関係の悩みは残る。
もし、相手のありのままの姿を視ることができたなら。ありのままの相手を受け入れ、尊ぶことができるなら。
そして、こちらもありのままの姿を曝け出すことができたなら。
それは対人関係の理想ではないか。
今日は、自分に足りないものを気付かされてばかりいた。果たしてそれは偶然だったのだろうか。
今日という日に、普段と異なる点があったとすれば、それは鈴仙が居なかったこと。
これまでずっと、私に足りない部分を、鈴仙が補ってくれていたのではないか。
○
どうしたんだろう。師匠の波長がやけに揺らいでいる。かつてないほどに。一体何があったというんだ。
「鈴仙」
師匠は小さく私の名を呼んだ。
「は、はい」
あれ。今、鈴仙って呼んだな。ウドンゲじゃなくて。
「早く治しなさい」
師匠の声はやけに小さく、ともすれば聞き取れないくらいだったが、しかしその言葉ははっきりと私の耳に届いた。聞き間違いでは、なかった。
「あなたが居ないと困る」
そう言って、師匠は部屋を出て行った。
…え。
えっえっ。
ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ。
○
「永琳はね、他人を愛することを恐れているのよ」
腹に突き刺さった私の左腕ごと、輝夜は距離を取った。
「なんで?」
左腕が肩のあたりで千切れたが、輝夜の肝臓に風穴を開けてやった。どっこいどっこい、と言いたいが普通にこっちが劣勢だな。出血量が違いすぎる。
痛みはともかく、出血多量で意識が遠のいていく感覚は結構好きだ。浸っている場合ではないが。
「愛しすぎてしまうから。私を愛した結果、月の使者を皆殺しにしたように」
輝夜は見せつけるようにゆっくりと、腹に刺さった私の左腕を引き抜くと、その小指を口に咥え、割くように咬み千切った。挑発してやがるな。私はその期待に応えて、遠のく意識を呼び戻し、再び接近戦を仕掛ける。
「これまでイナバを甘やかしてこなかったのも同じ理由。愛さないために、無意識のうちに一線を引いていたのよ」
私の右脚が輝夜の鳩尾に突き刺さる。蹴り飛ばすつもりだったのに、わざわざ刺さりに来やがった。輝夜は私の右脚を体全体で抱え込むと、回転して捩じ切った。いってぇな。
「過去形ってことは、今は違うって言うのか」
自分の口から出る声はひどく掠れている。輝夜は聞き取れただろうか。視界も白く濁ってきた。間も無く失血死するだろう。
「ええ。永遠亭が変わって、イナバも少しずつ変わって。永琳も変わる時が来ているの」
リザレクション。普段ならどちらかが三、四回死んだら終わりなのだが、今日の輝夜はやけに機嫌が良く、まだまだ喋り足りなさそうだ。もう少し付き合うことにした。
「あの永琳に変化か。長生きはしてみるもんだ」
速攻を仕掛ける。こっちが五体満足のうちに殺しておかないと、"次"が不利だ。
「他人事みたいに言っているけれど、あなただって、菫子ちゃんと会ってから変わったわよ」
菫子、という名前につい反応してしまい、頭に弾を食らった。やらかした。
「じゃあお前も、そのうち変わるのか」
明滅する視界の中に、輝夜を捉える。どれだけ血に塗れても変わらず、美しい顔をしている。
私がまだ、死ぬ人間だった頃から、何も変わっていない。読んで字の如く漆のような、漆黒の瞳でこちらを見ている。慈しんでいるようにも、観察しているようにも見える目だ。あの目から私はずっと逃れられずにいる。そのせいで、今までこうして生き続けている。
もし、こいつが変わるとしたら。その時こそ私は死ぬのかもしれないな、と思った。
「その時は、思い切り笑ってやる」
ああくそ、また死んだ。
○
二週間が経った朝。
「あ。師匠、おはようございます」
廊下で鈴仙がはにかみながら挨拶をしてきた。見るからにそわそわとして、落ち着かない様子でいる。この二週間、病床でもずっとこの調子で浮かれていた。その原因は、まあ、知らないふりをしておこう。頬が痒くなった。
「ウドンゲ、調子はどう」
見れば分かるのだが、聞いておいた。こういった無意味なコミュニケーションに、普段からもっと親しんでおかなければならないのだと思って、意識して練習をしている。
「ばっちりです!むしろいつもより元気です!」
いい笑顔だ。ずっと見ていたくなる。などと考える自分に愕然とする。頬の痒みが増した。
「病み上がりなんだから、無茶はしないでね」
平静を装う。鈴仙相手に取り繕っても無駄なのだが、せめてもの抵抗だ。何に対しての抵抗なのかは知らない。
「はい!」
返事が良すぎる。無茶をしそうだな、と思った。不安だ。経過観察が必要だろうか。
その時、鈴仙が突然大声を上げた。
「純狐さん!どうしました!?」
いつからそこに居たのか、鈴仙は純狐に駆け寄った。私には分かるべくもないが、波長の揺らぎを察知したのだろう。
些細な感情の変化を見逃さず、逐一フォローを入れる。純狐という感情爆弾の監視役として、鈴仙はこの上無く適任なのかもしれない。
「うどんちゃん。抱きしめさせなさい」
なんか聞こえた。聞き間違いだな、うん。
「はい?」
鈴仙は変な顔で固まっている。私もきっと似たような顔をしている。
「抱きしめさせなさい」
聞き間違いではなかった。えー。
「え、あ、はい…」
立ち尽くしたまま、鈴仙は純狐に抱きしめられた。何だろうあれは。まあいいか。鈴仙も満更では無さそうだし、放っておこう。
馬鹿二人に背を向けて歩みを進めようとしたところ、廊下の先から、小さな影がこちらを窺っていることに気付いた。
「え、永琳。その…」
メディスンだ。手には花を抱えている。それも花束だ。
声の掛け方に迷う。二週間前と同じ轍を踏まないように、細心の注意を…いや、違う。
ありのままの感情を、見せなければいけないのだ。
「ありがとう、メディスン。嬉しいわ」
メディスンは花のように笑った。かわいいな、と思った。
○
「姫様、散歩行こうよ」
朝の散歩はてゐの日課だ。私も気が向いたら参加することにしているが、てゐの方から誘ってくるとは珍しい。二つ返事で了承し、竹林を軽快に歩き出した。
「私は蚊帳の外かい」
てゐはつまらなそうな顔をして言った。
聞きたそうな様子だったので、この二週間の様子を語ってあげたのだが、どうやらお気に召さなかったようだ。
「インフルエンザって聞いて、逃げ回っていたのはあなたじゃないの」
「それはそうだけど」
随分と不服そうだ。決して表には出さないが、鈴仙の幸せを誰よりも願っているのはてゐだ。転機に立ち会えなかったことが相当に悔しいらしい。
ぶつくさと文句を言いながら歩いていたてゐは、不意に立ち止まった。
いつの間にか、永遠亭に戻って来ていた。足取り軽く薬売りへ向かう鈴仙と、それを心配そうに見送る永琳の姿が見えた。
「幸せそーじゃん」
てゐの表情は、窺い知れない。でも。
「じゃ、いいか」
そう言うてゐの声は、普段より少しだけ温かいのだった。
どのキャラクターもその人物らしさが出ていてとても好きです鈴仙を中心に織りなす物語いいですね鈴仙好きにはたまりません
嫉妬したり説教されたり色んなことがあって変わっていく永琳が良かったです。
インフルエンザになった鈴仙は可哀想でしたけど、転機もあったし悪いことだらけじゃなくて良かったねなんて思いました。
永琳が周囲の言葉で少しずつ変わっていくのいいですね。面白かったです。
感情の揺れる永琳がかわいらしかったです
だれでも少しずつ変わっていくというテーマが温かく書かれていて、読んでいて楽しかったです
人間らしさが香る可愛らしい永琳と、永琳に関わっていく優曇華やメディの絡みがとても気持ちよく、優しさを覚えることができました。
てゐもこんなキャラだよねーって感じで好みでした。
有難う御座いました。