僕は少しの間香霖堂を抜けて、人里で用事を済ませてから帰ってきたところだった。店に近づくにつれて大きくなる、けたたましい機械音。不審に思って早足で店の前にたどり着くと、河童がクレーンを使って見覚えのある銅像を入り口の右側に設置しようとしていた。
「な、何をしているんだ!」
「ひぁ⁉︎」
河童はお得意の光学迷彩を使って逃れようとしたが、僕が後ろ襟を捕まえる方が早かった。ぐえと河童はえずいて、観念したように消えかかった両足を元に戻した。
「お、落ち着いてくれよ盟友。これには深ーいワケが」
よく見ると青い髪にツインテール。店にいたずらを仕掛けようとしていたのはにとりだったようだ。僕は無縁塚のあたりに外来のお宝が落ちていやしないかと訪れることが多いのだが、命蓮寺のところのネズミとこの河童のにとりとはよく出会う。
「なんだ。にとりじゃないか。ここに君のガラクタを捨てていくつもりかい?」
三人も同じ場所で宝探しをしているのだから取り合いが起きてもおかしくはないように感じるのだが、うまい具合に三人のニーズは異なっている。にとりが欲しがっているのは外の世界から流れ着いた機械——遠く離れた人間と、糸も使わずに会話するための道具など——で、その技術を盗もうといつも長い時間をかけて分解している、と彼女が自慢げに話しているのを聞いたこともあった。この銅像をにとりが運んでいるのを見たのはつい昨日の事だから、そんなに早く解析できたとは思えず、なんとも不自然だ。
「えへぇ、いやいや霖之助さんにプレゼントというかなんというか……その……はい。ガラクタを押し付けてくだけです」
手をもんで言い訳を並べるにとりを冷めた目で睨みつけると、簡単に自白した。にとりはしゅんと項垂れている。僕はにとりの襟から手を放して、銅像の方を見た。なんとも不気味な銅像である。
胸から上の部分のみが、下の花崗岩で作られた墓石のような台座に乗せられた銅像。年のそこそこ行った男性のようで、てっぺんの凹んだ山高帽を眉毛のあたりまで深く被っている。唇は固く閉じられてはいないが、口角が僅かに下がった弓なりの口から、今にも呻くような声が聞こえてきそうだ。一番不気味なのは、この銅像の目玉がなく、瞼を挟んでぽっかりと穴が開いている所だ。山高帽のてっぺんには穴が開いており、どうやら空洞になっているらしい銅像の顔の中からかすかに明かりが漏れている。そしてその空洞の中には蜘蛛が巣を作り、右目から糸が風になびいていた。
「なんか普通の銅像とは違うし、下の台座の中に何か影があって、自動販売機? とかいうものの類かなと思って開けてみたんだけど、中身は無かったから……」
「このまま家に置いておくのは不気味だったのでここに捨てに来たと」
「そうです」
銅像の裏側に回ってみてみると、台座の部分を手荒に削った跡があった。中に入っていた鉄の箱らしき物も見えているのだが、中には何も入っていないようだった。
「とにかく、このままじゃ困るよ。ちゃんと持ち帰ってくれ……」
そう言いながらにとりの方に振り返ったが、彼女は既にとんずらこいたようだ。地面には『盟友許してねカード』と、一枚の古い便箋が残されていた。やられた。僕はため息をつきながら、地面に置かれた二枚の紙を拾い上げて、便箋を広げて読んだ。
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私は私の創る絵や彫刻で、私の感情を皆に伝えたかった。しかしその才能は、私にはなかったようです。私にはたくさんの友がいて、沢山の会話を交わしたのだけれど、私の心を悟ってくれる人は誰もいなかったし、結局私だって誰の心も理解できぬままでした。私の作品だってそうです。私は技術や精巧さよりも、私の表現した感情を見てほしかった。私の美術は、手紙を瓶に詰めて海に流すようなことでした。そのすべては光の届かぬ深海で割れて溶けたのです。この胸像が、最後の瓶です。私はこれきりで美術の道を抜けようと思います。この胸像は、庭園の適当な、屋根のないところに据えておいてください。この像を先生の美術館に置いてくれると聞いたときはとても嬉しかったです。今までありがとうございました。
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おそらくこの便箋は台座の中の箱に入っていたものだろうと僕は推測した。それにしてもやはり不気味だ。この手紙を読んでから一層不気味に見える。遺書じみたものを読まされてしまった。かかわる必要など微塵もなかった他人の問題や執念に無理やり関係させられるようで、気分が悪い。
しかしこの像は、どう考えても自分一人で運んで捨てることができるようには思えなかった。仕方がないので、このまま香霖堂の入り口に鎮座させたままだ。胸像だけならばどうにかなったろうに、無駄に大きな台座はタチが悪い。客足が少なくなるのではないかと一瞬思ったが、まぁそれならそれで大歓迎だ。魔理沙や霊夢たちがいるときの喧騒よりも、独りで静かに過ごしているときの方がずっといい。招き猫の逆バージョンと考えればいいさと無理やりに思考を上向けつつも、今日何度目か分からないため息を吐いて店の中に戻った。
◇
「いるかー、こーりん」
昼頃に奥の部屋で昼食をとっていると、ノックの一つもなく無作法に玄関を開けて魔理沙が入ってきたらしい。ガチャガチャと店の床に置いてある壺をかき分けて進む音が聞こえたので、僕は慌てて出迎えた。
「あまり動かないでくれ。骨董が割れたら大変だ」
僕は本や壺のない小さなスペースに足を差しながら、魔理沙の方まで進む。彼女にはこれらの物の価値がよく分かっていないらしい。蹴とばされてヒビでも入れられたら大変だ。
「ひゃー、また物が増えたな。それに何なんだ玄関の前のあの銅像? 悪趣味すぎるだろ」
魔理沙はつま先で積まれた本をつついて横に押しやりながら、玄関の方を指さした。
「それについては否定はしないよ。それで、何の用事で来たんだい?」
魔理沙が玄関の銅像を指さしたのを目で追ったのだが、薄汚れたガラス越しに見えていた銅像の影に、桃色の何かが動いているのが見える。魔理沙も僕の視線に気づいたのか、「おーい入ってこい」と玄関に向かって声をかけた。
ひょこりと銅像の影から飛び出したのは、桃色の髪に派手な衣装を着た、見覚えのある少女だった。
「こいつだ! こいつに寂しさってもんを教えてやってほしいんだ」
「どうも。秦こころだ」
名前を聞いてようやく明確に思い出した。この子は確か最近の心綺楼異変の黒幕だったはずだ。一昨日投げ込まれた新聞にも彼女の写真は掲載されていた。
「うん、どうも。なんで僕のところでなんだい?」
「魔理沙が、寂しさの感情を知りたいならこーりんのところが最適だって」
魔理沙は肩をすくめて舌を出した。この子にはそろそろきちんと礼儀というものを教えてやらねばならないのではないか。
「だってその通りだろ。こんな日の出た昼間から一人寂しく飯なんて、香霖はまさしく適任の、ミスター・ロンリーじゃないか」
「みすたーろんりー!」
完全に無表情であるのに、声の調子やついている仮面で感情が読めるのがシュールだ。今出ている、玄関わきのあの銅像と同じくらい悪趣味な仮面は、確か希望の面だとか書いてあった。別に自分はこの生活でさみしいと思ったことは無いから、変に期待されても困るのだ。
「マミゾウわかるだろ? あの化け狸の。あいつのアドバイスで、こいつ自身にいろんな感情を身に着けてもらって、能力を安定させればいいって話になったんだ。いろいろ教えてやったんだが……やっぱりワイワイガヤガヤし始めるから、なかなか寂しさの感情を体験させてやれなくてさ」
「よろしくお願いします」
断る前に頭まで下げられてしまった。それにしても頭を下げられたのは久しぶりだ。この程度の礼儀はどこかの誰かにも見習ってほしいくらいなのだが、当の本人は「じゃ、がんばってくれよ」と肩を叩いて出て行ってしまった。店の中にはこころと僕だけが取り残される。全く、今日は厄介なものを押し付けられる日のようだ。
「はぁ、じゃあ、僕はご飯の途中だったから、そこら辺の椅子にでも腰かけててくれ。一人で過ごしてれば寂しくなるかもしれない」
「了解!」
こころは仮面から見るに、嬉々としてぼろい安楽椅子に倒れこんだ。
◇
静かな場所で過ごしてみればいいんじゃないかという僕の提案から、彼女は店の中で腰かけて、しばらくの間何もしゃべらずに何べんも砂時計をひっくり返していた。
「こーりん?」
「何かな? 厠は廊下の突き当りだ」
「ちがうちがう。さっきからちっとも寂しくなりそうにない。寂しいというより、これは暇だ」
確かに、彼女の仮面はつまらなそうに口を一文字に結んでいる。
「ふむ……それじゃあ本を読んでみるかい?」
「ほん?」
僕は後ろにある本棚から、何冊か失恋や旅の孤独がテーマの本を引っ張り出した。本を読んでいるうちに感情移入できれば、寂しいという感情を掴むことができるかもしれない。
「好きなのを選ぶといい」
◇
「なんじゃそりゃ。全然わからん、なんでそうなるんだ」
ところがそう簡単にはいかなかったようだ。最初の一、二時間のうちはおとなしく読んでいたのだが、最後まで読みおわってからしきりに前のページに戻って見返してを繰り返していた。寂しさという感情が分からない彼女にとっては、寂しがる登場人物の言動は突飛で意味不明なものらしい。
「旅が寂しい? なら出なけりゃええじゃないか」
さらに古風な風流の心についての知識もあまりないらしく、心情がうまく読めないのを抜きにしてもいまいち楽しめなかったようだ。こころは本を投げ出して、ずるずると机に突っ伏した。
「難しい……これは焦燥の感情……」
「……まぁ、そう焦ることはないさ」
ぷひゅるると意味もなく唇を震わせて、こころはカリカリと机に爪を立てた。無表情ながら軽く眉をしかめているのが分かる。分からないというのは気分が悪いことだ。それなりにストレスも溜まるに違いない。
「気分転換に、違うことをしてみるといい。外の入り口の辺りに置いてある薪を割ってくれないか」
「御意〜」
こころは店を出てどこからともなく薙刀を取り出した。僕は椅子の横にあった窓を開けて、彼女の様子を見守る。
「そっち、そっちだよ左の方。数本作ってくれ」
気分転換という名目で雑用を押し付けてしまったが、本人はそう思っていないようなのでいいだろう。
こころはポンポンと適当な分だけ薪を割って、僕の指示通りに土間の窓目掛けて投げ込んでくれた。
「こーりん? あの入り口に置いてあるのは何なんだ?」
薪割りから戻ってきたこころが尋ねた。
「ああ、気味悪いだろう、押し付けられてあそこから動かせないからそのままなんだよ。嫌だったら顔を袋で覆っておこうか?」
こころはしばらく考えてから首を横に振った。
「いや、そのままでいい。あんな表情をしてる人は見た事ないから、面白い。気になるんだ」
確かに、あの唸っているように見えて、ただ深く黙っているようにも見える顔はなかなか見るものではない。それ故に不慣れな表情として、不気味だった。しかしこの面霊気は面白い顔だと言う。人間の様々な表情から生まれた彼女には、あの像に対して何か思うところがあるのだろうか。夜中に見たら心底恐ろしくなるような、趣味の悪いオブジェにしか見えないのだが。
◇
夕方になって、魔理沙が再び店に戻ってきた。どうやらこころと一緒に夕飯をたかるつもりらしい。僕は渋々三人分の夕飯の用意を始めた。すぐに断るということができる性格なら良かったのだが、現実そうでないために、こうして不気味な像付きになったあばら家で三人分の飯を作らざるを得なくなっている。商売が上手くならないもそのせいなのだろうが、もうどうせ治らないだろう。
「それで、進捗はどうなんだ?」
魔理沙が焼き魚をつつきながら僕とこころの方を見た。具の少ない汁を飲み干したこころは、ことりと茶碗を置いて俯いた。
「どこか近いところにあるのにうまく指が引っ掛からない感じだ。寂しいがいつ起こるのかは大体わかった。でも私は寂しくなれていない。だから寂しい感情を覚えられない」
「うーん、教育者の実力不足か?」
「何だって? もとはと言えば君が勝手に僕に持ち込んできたんじゃないか」
魔理沙はにやにやと笑いながら方眉を上げる。僕は苛立ちまぎれに白米をかき込んで席を立った。
「……こーりん、ここに泊っていってもいいか? 本当にもう少しな感じだ。頼む」
「え」
こころが僕の方を向いて、真剣な面持ちにも見える表情でお願いをしてきた。張り付いた無表情のまま顔の形は変わらないが、確かに彼女の目からは情熱を感じる。
「そ、それは無理なんじゃないか? なあ香霖、こんなあばら家に二つも布団はないもんな?」
「そこの店のところに一晩居させてくれればいい。頼む。まだもうちょっとここでの時間が必要なんだ」
僕は顎を撫でながら考えた。店内においてある安楽椅子か何かに座って寝てもらえるなら何の問題もないし、夜更かしして星を見ながら情景に浸るのも悪くないだろう。何より彼女の熱心さに比べて僕は大して役立てていないので、そのくらいで感謝されるようなことができるなら嬉しい。
「ああ。店の中に泊ってくのは構わないよ。ただ暗くなるだろうから、足元の道具と蝋燭の火にだけは注意してくれよ」
「なっ! 私は泊めてくれなかったのに!」
「君を泊めたら翌朝いくつ物が消えてるか想像もつかないだろう。それに彼女がこれだけ頑張っているんだから、協力してやらんわけにもいかない」
「感謝の舞!!」
こころはばっと扇を広げてひらひらと回りだした。魔理沙は不服そうに彼女の踊りを見ていたが、食事を終えるとそそくさと帰って行ってしまった。少しだけにぎやかだった香霖堂の奥の居間に、再び静かな時間と、肌寒い黄昏が流れてきた。
◇
「どうかな。静かになって。少し寂しくなっただろう」
「うむ……少しだけしんとしたな」
僕は突き刺すような水の冷たさをこらえて食器を流しながら、居間でお茶をすすっているこころに話しかけていた。それは今僕が少し寂しいからだ。ずっと一人で過ごしているときはその寂しさにマヒするのだが、いつも通り煩い魔理沙が尋ねて去っていくときには、苛立ちやあきれで様々な表情を作っていた僕の顔が固まっていくのを感じて、少し寂しくなる。
「こーりん、これが寂しさか? なにかもっと楽しみが欲しくなってきた」
「おお、掴めてきたかい? 大体そんな感じだよ」
行燈といくつかのオイルランプで明るい部屋の中、こころはぎこちなく両手で湯飲みを抱えて佇んでいた。その表情のため、彼女が何を考えているのかをくみ取るのはかなり難しい。
「でもまだ、何か足りてない気がする。寂しさはこれだけのものじゃないような」
「うーむ、そうだね。寂しさには様々な形がある。一人でいるときに感じる寂しさ、本来あるべきだと思い込んだところにない寂しさ、沢山の他人の波の中で感じる寂しさ」
「周りに友達がいるときでも、寂しくなるのか?」
こころが不思議そうに尋ねる。
「ああ。感情はどれもとても深いものさ。嬉しいのに泣いてしまうこともある。そういうのはすぐに理解できるものではないけれど、いずれ分かるさ」
すすぎ終えた食器を逆さに干す。毛布を預け、オイルランプの使い方を軽く教えて、僕はこころにおやすみを言った。
書斎と寝室を兼ねた部屋に向かう途中、擦りガラスの窓からしたたと音がした。雨音だ。今年最初の雨が降り始めた。地面からも少しずつ緑が見え始めた季節、枯れた寂しい冬を抜けて、また騒がしい自然が戻ってくる予感。
服を脱ごうと触れた時、カサリと紙の音が鳴った。忘れかけていた、あの像を思い出す。少し端の折れた便箋と『盟友許してねカード』を取り出し、屑籠に投げ入れようとして思いとどまった。
『私の美術は、手紙を瓶に詰めて海に流すようなことでした』
僕はこの前読んでいた本のワンシーンを思い出した。外の人間は、自分の思いを伝えるために詩歌や手紙を瓶に入れて封をした後、海に流してどこかに流れ着くのを待つという文化を持っているらしい。周りにはここよりも沢山の人間がいるはずだ。それなのに、見ず知らずの人間めがけて手紙を流そうとする。周りに人がいるからこそ分かり合えない孤独というのは、例えばあの銅像を作った人間にも、ここにいる誰にも振り切れないものなのかもしれない。そう思いながら、僕は蝋燭の火を吹き消した。
◇
こころは見つめていた。ぱたぱたと水が落ちて汚れた窓を洗う中、ほんの少しの雲の切れ間にふつふつと浮かび上がる星々。暗いもの、赤いもの、明るいもの、青いもの。こころから見ればその星々の距離は指一本だが、その実あまりに遠い。
こころは不思議と、こころの知っている寂しさを感じなかった。この部屋には今にも魂の宿りそうな道具が並んでいたが、誰に話しかけても返答はない。時計の呼吸音と雨音以外を響かせないこの部屋で、こころは静かに手すりにもたれた。
こころは眠ることをしなかった。霖之助に与えられた本をもう一度読んでみた。失恋の意味も、旅に出る者の心もいまいち分からなかったが、それでもランプの灯を頼りに読み続けた。
こころは調べていた。もう少しで分かりそうだった。あの玄関の銅像が気になっていた。確かに不気味なあの表情。しかしあれには感情がある。思いが表現されている。彼女には分かる。あれは悲しみの表情だ。
こころは眠気に逆らい、骨をくすぐる体温に焼かれながら全ての本を読み終えた。その頃には、日は出ずとも明るくなってきていた。
「雨」
瞼を擦りながら、こころは入り口の戸を開いた。鼻をつく土の香りと冷たい空気。夜通し寂しさについて調べて尚、結局良く分からなかった。こころは後ろから銅像にもたれかかった。冷たい金属に積もった水が、顎とシャツを濡らした。
銅像の頭の真上に空いた穴には、雨が降り注いで水が入り込む。こころが不意にその顔に手を伸ばすと、それに触れた。
◇
「おはよう……こころ君?」
いつも通り早くに目覚めて、軽く寝癖を整えた僕は店に入った。しかしそこにはこころの姿がない。
どこかで寝転がってしまっているのかと机の下や違う部屋も探してみるが見当たらない。はて、どこに行ってしまったのかと、振り切れない気だるさを払うように肩を回しながら外に出た。
こころは玄関の銅像に、正面から抱きついていた。雨樋を伝って玄関の石畳に水滴が跳ねるような雨の中で、傘もささずに濡れたままで抱きついていた。
僕は訳がわからず彼女の肩を叩こうと、その像の正面に向いたその時、言葉を失った。
銅像の男は泣いていた。確かに泣いていた。頭のてっぺんにある穴に落ちた雨が、落ち窪んだ眼孔から涙となって流れているのだ。
男の表情は、最早不気味なものには見えなかった。涙を止めることもせず、ただ声だけを殺して静かに泣く男の像だった。
「そうか、あなた自身だったのか」
山高帽のフチから水滴が垂れる。その雫がこころの頭のてっぺんにも落ちる。
「寂しいんだな。今なら分かる」
こころの顔にも水が伝っていた。相変わらずの無表情でも、まるで泣いているように見えた。像を伝った涙は、確かに彼女の心に落ちたようだ。
「良かったな。瓶は届いてくれたみたいだ」
ポケットに入っていた便箋を破る。
僕は冷たい雨の中、ただ抱きしめる彼女を見つめていた。
「な、何をしているんだ!」
「ひぁ⁉︎」
河童はお得意の光学迷彩を使って逃れようとしたが、僕が後ろ襟を捕まえる方が早かった。ぐえと河童はえずいて、観念したように消えかかった両足を元に戻した。
「お、落ち着いてくれよ盟友。これには深ーいワケが」
よく見ると青い髪にツインテール。店にいたずらを仕掛けようとしていたのはにとりだったようだ。僕は無縁塚のあたりに外来のお宝が落ちていやしないかと訪れることが多いのだが、命蓮寺のところのネズミとこの河童のにとりとはよく出会う。
「なんだ。にとりじゃないか。ここに君のガラクタを捨てていくつもりかい?」
三人も同じ場所で宝探しをしているのだから取り合いが起きてもおかしくはないように感じるのだが、うまい具合に三人のニーズは異なっている。にとりが欲しがっているのは外の世界から流れ着いた機械——遠く離れた人間と、糸も使わずに会話するための道具など——で、その技術を盗もうといつも長い時間をかけて分解している、と彼女が自慢げに話しているのを聞いたこともあった。この銅像をにとりが運んでいるのを見たのはつい昨日の事だから、そんなに早く解析できたとは思えず、なんとも不自然だ。
「えへぇ、いやいや霖之助さんにプレゼントというかなんというか……その……はい。ガラクタを押し付けてくだけです」
手をもんで言い訳を並べるにとりを冷めた目で睨みつけると、簡単に自白した。にとりはしゅんと項垂れている。僕はにとりの襟から手を放して、銅像の方を見た。なんとも不気味な銅像である。
胸から上の部分のみが、下の花崗岩で作られた墓石のような台座に乗せられた銅像。年のそこそこ行った男性のようで、てっぺんの凹んだ山高帽を眉毛のあたりまで深く被っている。唇は固く閉じられてはいないが、口角が僅かに下がった弓なりの口から、今にも呻くような声が聞こえてきそうだ。一番不気味なのは、この銅像の目玉がなく、瞼を挟んでぽっかりと穴が開いている所だ。山高帽のてっぺんには穴が開いており、どうやら空洞になっているらしい銅像の顔の中からかすかに明かりが漏れている。そしてその空洞の中には蜘蛛が巣を作り、右目から糸が風になびいていた。
「なんか普通の銅像とは違うし、下の台座の中に何か影があって、自動販売機? とかいうものの類かなと思って開けてみたんだけど、中身は無かったから……」
「このまま家に置いておくのは不気味だったのでここに捨てに来たと」
「そうです」
銅像の裏側に回ってみてみると、台座の部分を手荒に削った跡があった。中に入っていた鉄の箱らしき物も見えているのだが、中には何も入っていないようだった。
「とにかく、このままじゃ困るよ。ちゃんと持ち帰ってくれ……」
そう言いながらにとりの方に振り返ったが、彼女は既にとんずらこいたようだ。地面には『盟友許してねカード』と、一枚の古い便箋が残されていた。やられた。僕はため息をつきながら、地面に置かれた二枚の紙を拾い上げて、便箋を広げて読んだ。
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私は私の創る絵や彫刻で、私の感情を皆に伝えたかった。しかしその才能は、私にはなかったようです。私にはたくさんの友がいて、沢山の会話を交わしたのだけれど、私の心を悟ってくれる人は誰もいなかったし、結局私だって誰の心も理解できぬままでした。私の作品だってそうです。私は技術や精巧さよりも、私の表現した感情を見てほしかった。私の美術は、手紙を瓶に詰めて海に流すようなことでした。そのすべては光の届かぬ深海で割れて溶けたのです。この胸像が、最後の瓶です。私はこれきりで美術の道を抜けようと思います。この胸像は、庭園の適当な、屋根のないところに据えておいてください。この像を先生の美術館に置いてくれると聞いたときはとても嬉しかったです。今までありがとうございました。
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おそらくこの便箋は台座の中の箱に入っていたものだろうと僕は推測した。それにしてもやはり不気味だ。この手紙を読んでから一層不気味に見える。遺書じみたものを読まされてしまった。かかわる必要など微塵もなかった他人の問題や執念に無理やり関係させられるようで、気分が悪い。
しかしこの像は、どう考えても自分一人で運んで捨てることができるようには思えなかった。仕方がないので、このまま香霖堂の入り口に鎮座させたままだ。胸像だけならばどうにかなったろうに、無駄に大きな台座はタチが悪い。客足が少なくなるのではないかと一瞬思ったが、まぁそれならそれで大歓迎だ。魔理沙や霊夢たちがいるときの喧騒よりも、独りで静かに過ごしているときの方がずっといい。招き猫の逆バージョンと考えればいいさと無理やりに思考を上向けつつも、今日何度目か分からないため息を吐いて店の中に戻った。
◇
「いるかー、こーりん」
昼頃に奥の部屋で昼食をとっていると、ノックの一つもなく無作法に玄関を開けて魔理沙が入ってきたらしい。ガチャガチャと店の床に置いてある壺をかき分けて進む音が聞こえたので、僕は慌てて出迎えた。
「あまり動かないでくれ。骨董が割れたら大変だ」
僕は本や壺のない小さなスペースに足を差しながら、魔理沙の方まで進む。彼女にはこれらの物の価値がよく分かっていないらしい。蹴とばされてヒビでも入れられたら大変だ。
「ひゃー、また物が増えたな。それに何なんだ玄関の前のあの銅像? 悪趣味すぎるだろ」
魔理沙はつま先で積まれた本をつついて横に押しやりながら、玄関の方を指さした。
「それについては否定はしないよ。それで、何の用事で来たんだい?」
魔理沙が玄関の銅像を指さしたのを目で追ったのだが、薄汚れたガラス越しに見えていた銅像の影に、桃色の何かが動いているのが見える。魔理沙も僕の視線に気づいたのか、「おーい入ってこい」と玄関に向かって声をかけた。
ひょこりと銅像の影から飛び出したのは、桃色の髪に派手な衣装を着た、見覚えのある少女だった。
「こいつだ! こいつに寂しさってもんを教えてやってほしいんだ」
「どうも。秦こころだ」
名前を聞いてようやく明確に思い出した。この子は確か最近の心綺楼異変の黒幕だったはずだ。一昨日投げ込まれた新聞にも彼女の写真は掲載されていた。
「うん、どうも。なんで僕のところでなんだい?」
「魔理沙が、寂しさの感情を知りたいならこーりんのところが最適だって」
魔理沙は肩をすくめて舌を出した。この子にはそろそろきちんと礼儀というものを教えてやらねばならないのではないか。
「だってその通りだろ。こんな日の出た昼間から一人寂しく飯なんて、香霖はまさしく適任の、ミスター・ロンリーじゃないか」
「みすたーろんりー!」
完全に無表情であるのに、声の調子やついている仮面で感情が読めるのがシュールだ。今出ている、玄関わきのあの銅像と同じくらい悪趣味な仮面は、確か希望の面だとか書いてあった。別に自分はこの生活でさみしいと思ったことは無いから、変に期待されても困るのだ。
「マミゾウわかるだろ? あの化け狸の。あいつのアドバイスで、こいつ自身にいろんな感情を身に着けてもらって、能力を安定させればいいって話になったんだ。いろいろ教えてやったんだが……やっぱりワイワイガヤガヤし始めるから、なかなか寂しさの感情を体験させてやれなくてさ」
「よろしくお願いします」
断る前に頭まで下げられてしまった。それにしても頭を下げられたのは久しぶりだ。この程度の礼儀はどこかの誰かにも見習ってほしいくらいなのだが、当の本人は「じゃ、がんばってくれよ」と肩を叩いて出て行ってしまった。店の中にはこころと僕だけが取り残される。全く、今日は厄介なものを押し付けられる日のようだ。
「はぁ、じゃあ、僕はご飯の途中だったから、そこら辺の椅子にでも腰かけててくれ。一人で過ごしてれば寂しくなるかもしれない」
「了解!」
こころは仮面から見るに、嬉々としてぼろい安楽椅子に倒れこんだ。
◇
静かな場所で過ごしてみればいいんじゃないかという僕の提案から、彼女は店の中で腰かけて、しばらくの間何もしゃべらずに何べんも砂時計をひっくり返していた。
「こーりん?」
「何かな? 厠は廊下の突き当りだ」
「ちがうちがう。さっきからちっとも寂しくなりそうにない。寂しいというより、これは暇だ」
確かに、彼女の仮面はつまらなそうに口を一文字に結んでいる。
「ふむ……それじゃあ本を読んでみるかい?」
「ほん?」
僕は後ろにある本棚から、何冊か失恋や旅の孤独がテーマの本を引っ張り出した。本を読んでいるうちに感情移入できれば、寂しいという感情を掴むことができるかもしれない。
「好きなのを選ぶといい」
◇
「なんじゃそりゃ。全然わからん、なんでそうなるんだ」
ところがそう簡単にはいかなかったようだ。最初の一、二時間のうちはおとなしく読んでいたのだが、最後まで読みおわってからしきりに前のページに戻って見返してを繰り返していた。寂しさという感情が分からない彼女にとっては、寂しがる登場人物の言動は突飛で意味不明なものらしい。
「旅が寂しい? なら出なけりゃええじゃないか」
さらに古風な風流の心についての知識もあまりないらしく、心情がうまく読めないのを抜きにしてもいまいち楽しめなかったようだ。こころは本を投げ出して、ずるずると机に突っ伏した。
「難しい……これは焦燥の感情……」
「……まぁ、そう焦ることはないさ」
ぷひゅるると意味もなく唇を震わせて、こころはカリカリと机に爪を立てた。無表情ながら軽く眉をしかめているのが分かる。分からないというのは気分が悪いことだ。それなりにストレスも溜まるに違いない。
「気分転換に、違うことをしてみるといい。外の入り口の辺りに置いてある薪を割ってくれないか」
「御意〜」
こころは店を出てどこからともなく薙刀を取り出した。僕は椅子の横にあった窓を開けて、彼女の様子を見守る。
「そっち、そっちだよ左の方。数本作ってくれ」
気分転換という名目で雑用を押し付けてしまったが、本人はそう思っていないようなのでいいだろう。
こころはポンポンと適当な分だけ薪を割って、僕の指示通りに土間の窓目掛けて投げ込んでくれた。
「こーりん? あの入り口に置いてあるのは何なんだ?」
薪割りから戻ってきたこころが尋ねた。
「ああ、気味悪いだろう、押し付けられてあそこから動かせないからそのままなんだよ。嫌だったら顔を袋で覆っておこうか?」
こころはしばらく考えてから首を横に振った。
「いや、そのままでいい。あんな表情をしてる人は見た事ないから、面白い。気になるんだ」
確かに、あの唸っているように見えて、ただ深く黙っているようにも見える顔はなかなか見るものではない。それ故に不慣れな表情として、不気味だった。しかしこの面霊気は面白い顔だと言う。人間の様々な表情から生まれた彼女には、あの像に対して何か思うところがあるのだろうか。夜中に見たら心底恐ろしくなるような、趣味の悪いオブジェにしか見えないのだが。
◇
夕方になって、魔理沙が再び店に戻ってきた。どうやらこころと一緒に夕飯をたかるつもりらしい。僕は渋々三人分の夕飯の用意を始めた。すぐに断るということができる性格なら良かったのだが、現実そうでないために、こうして不気味な像付きになったあばら家で三人分の飯を作らざるを得なくなっている。商売が上手くならないもそのせいなのだろうが、もうどうせ治らないだろう。
「それで、進捗はどうなんだ?」
魔理沙が焼き魚をつつきながら僕とこころの方を見た。具の少ない汁を飲み干したこころは、ことりと茶碗を置いて俯いた。
「どこか近いところにあるのにうまく指が引っ掛からない感じだ。寂しいがいつ起こるのかは大体わかった。でも私は寂しくなれていない。だから寂しい感情を覚えられない」
「うーん、教育者の実力不足か?」
「何だって? もとはと言えば君が勝手に僕に持ち込んできたんじゃないか」
魔理沙はにやにやと笑いながら方眉を上げる。僕は苛立ちまぎれに白米をかき込んで席を立った。
「……こーりん、ここに泊っていってもいいか? 本当にもう少しな感じだ。頼む」
「え」
こころが僕の方を向いて、真剣な面持ちにも見える表情でお願いをしてきた。張り付いた無表情のまま顔の形は変わらないが、確かに彼女の目からは情熱を感じる。
「そ、それは無理なんじゃないか? なあ香霖、こんなあばら家に二つも布団はないもんな?」
「そこの店のところに一晩居させてくれればいい。頼む。まだもうちょっとここでの時間が必要なんだ」
僕は顎を撫でながら考えた。店内においてある安楽椅子か何かに座って寝てもらえるなら何の問題もないし、夜更かしして星を見ながら情景に浸るのも悪くないだろう。何より彼女の熱心さに比べて僕は大して役立てていないので、そのくらいで感謝されるようなことができるなら嬉しい。
「ああ。店の中に泊ってくのは構わないよ。ただ暗くなるだろうから、足元の道具と蝋燭の火にだけは注意してくれよ」
「なっ! 私は泊めてくれなかったのに!」
「君を泊めたら翌朝いくつ物が消えてるか想像もつかないだろう。それに彼女がこれだけ頑張っているんだから、協力してやらんわけにもいかない」
「感謝の舞!!」
こころはばっと扇を広げてひらひらと回りだした。魔理沙は不服そうに彼女の踊りを見ていたが、食事を終えるとそそくさと帰って行ってしまった。少しだけにぎやかだった香霖堂の奥の居間に、再び静かな時間と、肌寒い黄昏が流れてきた。
◇
「どうかな。静かになって。少し寂しくなっただろう」
「うむ……少しだけしんとしたな」
僕は突き刺すような水の冷たさをこらえて食器を流しながら、居間でお茶をすすっているこころに話しかけていた。それは今僕が少し寂しいからだ。ずっと一人で過ごしているときはその寂しさにマヒするのだが、いつも通り煩い魔理沙が尋ねて去っていくときには、苛立ちやあきれで様々な表情を作っていた僕の顔が固まっていくのを感じて、少し寂しくなる。
「こーりん、これが寂しさか? なにかもっと楽しみが欲しくなってきた」
「おお、掴めてきたかい? 大体そんな感じだよ」
行燈といくつかのオイルランプで明るい部屋の中、こころはぎこちなく両手で湯飲みを抱えて佇んでいた。その表情のため、彼女が何を考えているのかをくみ取るのはかなり難しい。
「でもまだ、何か足りてない気がする。寂しさはこれだけのものじゃないような」
「うーむ、そうだね。寂しさには様々な形がある。一人でいるときに感じる寂しさ、本来あるべきだと思い込んだところにない寂しさ、沢山の他人の波の中で感じる寂しさ」
「周りに友達がいるときでも、寂しくなるのか?」
こころが不思議そうに尋ねる。
「ああ。感情はどれもとても深いものさ。嬉しいのに泣いてしまうこともある。そういうのはすぐに理解できるものではないけれど、いずれ分かるさ」
すすぎ終えた食器を逆さに干す。毛布を預け、オイルランプの使い方を軽く教えて、僕はこころにおやすみを言った。
書斎と寝室を兼ねた部屋に向かう途中、擦りガラスの窓からしたたと音がした。雨音だ。今年最初の雨が降り始めた。地面からも少しずつ緑が見え始めた季節、枯れた寂しい冬を抜けて、また騒がしい自然が戻ってくる予感。
服を脱ごうと触れた時、カサリと紙の音が鳴った。忘れかけていた、あの像を思い出す。少し端の折れた便箋と『盟友許してねカード』を取り出し、屑籠に投げ入れようとして思いとどまった。
『私の美術は、手紙を瓶に詰めて海に流すようなことでした』
僕はこの前読んでいた本のワンシーンを思い出した。外の人間は、自分の思いを伝えるために詩歌や手紙を瓶に入れて封をした後、海に流してどこかに流れ着くのを待つという文化を持っているらしい。周りにはここよりも沢山の人間がいるはずだ。それなのに、見ず知らずの人間めがけて手紙を流そうとする。周りに人がいるからこそ分かり合えない孤独というのは、例えばあの銅像を作った人間にも、ここにいる誰にも振り切れないものなのかもしれない。そう思いながら、僕は蝋燭の火を吹き消した。
◇
こころは見つめていた。ぱたぱたと水が落ちて汚れた窓を洗う中、ほんの少しの雲の切れ間にふつふつと浮かび上がる星々。暗いもの、赤いもの、明るいもの、青いもの。こころから見ればその星々の距離は指一本だが、その実あまりに遠い。
こころは不思議と、こころの知っている寂しさを感じなかった。この部屋には今にも魂の宿りそうな道具が並んでいたが、誰に話しかけても返答はない。時計の呼吸音と雨音以外を響かせないこの部屋で、こころは静かに手すりにもたれた。
こころは眠ることをしなかった。霖之助に与えられた本をもう一度読んでみた。失恋の意味も、旅に出る者の心もいまいち分からなかったが、それでもランプの灯を頼りに読み続けた。
こころは調べていた。もう少しで分かりそうだった。あの玄関の銅像が気になっていた。確かに不気味なあの表情。しかしあれには感情がある。思いが表現されている。彼女には分かる。あれは悲しみの表情だ。
こころは眠気に逆らい、骨をくすぐる体温に焼かれながら全ての本を読み終えた。その頃には、日は出ずとも明るくなってきていた。
「雨」
瞼を擦りながら、こころは入り口の戸を開いた。鼻をつく土の香りと冷たい空気。夜通し寂しさについて調べて尚、結局良く分からなかった。こころは後ろから銅像にもたれかかった。冷たい金属に積もった水が、顎とシャツを濡らした。
銅像の頭の真上に空いた穴には、雨が降り注いで水が入り込む。こころが不意にその顔に手を伸ばすと、それに触れた。
◇
「おはよう……こころ君?」
いつも通り早くに目覚めて、軽く寝癖を整えた僕は店に入った。しかしそこにはこころの姿がない。
どこかで寝転がってしまっているのかと机の下や違う部屋も探してみるが見当たらない。はて、どこに行ってしまったのかと、振り切れない気だるさを払うように肩を回しながら外に出た。
こころは玄関の銅像に、正面から抱きついていた。雨樋を伝って玄関の石畳に水滴が跳ねるような雨の中で、傘もささずに濡れたままで抱きついていた。
僕は訳がわからず彼女の肩を叩こうと、その像の正面に向いたその時、言葉を失った。
銅像の男は泣いていた。確かに泣いていた。頭のてっぺんにある穴に落ちた雨が、落ち窪んだ眼孔から涙となって流れているのだ。
男の表情は、最早不気味なものには見えなかった。涙を止めることもせず、ただ声だけを殺して静かに泣く男の像だった。
「そうか、あなた自身だったのか」
山高帽のフチから水滴が垂れる。その雫がこころの頭のてっぺんにも落ちる。
「寂しいんだな。今なら分かる」
こころの顔にも水が伝っていた。相変わらずの無表情でも、まるで泣いているように見えた。像を伝った涙は、確かに彼女の心に落ちたようだ。
「良かったな。瓶は届いてくれたみたいだ」
ポケットに入っていた便箋を破る。
僕は冷たい雨の中、ただ抱きしめる彼女を見つめていた。
雨に濡れると寂しくなるの凄いわかります。
瓶を受け取ってくれる人がいて本当によかったと思いました
後半の盛り上がりがとても素晴らしかったです
作品全体に漂う緩やかな日常の雰囲気と、ラストに感じる感情の盛り上がりという展開がとても好きでした。
雨と寂しさってすごいマッチしますよね。とてもよかったです。