Coolier - 新生・東方創想話

着衣遊泳

2021/03/25 03:11:18
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だからやめたほうがいいってあたいは言ったのに、さとり様はどうせあたいの助言なんか聞かないしすると決めたらそれからは口を噤んでひとりで全部やってしまう人だから言うだけ無駄だしそもそも他者の心をまるきりその三番目の瞳に映して知覚してしまうさとり様の前ではいつだって言うだけ無駄だからかえってなんでも思うことを喋る癖がついちゃって、だからやめたほうがいいってあたいは言ったのに、結局そんなの言うだけ無駄なのはわかってたけどだからこそ言ってしまうのだしやっぱり言うだけ無駄だからさとり様はいつかこの温泉郷に温水プールをつくった。
あたいは煙突のほうがよかったのにな。
錆びついた高い高い煙突のてっぺんからもくもくと白い蒸気が昇っている。煙突の外側には鉄製の梯子があばたえくぼみたいにくっついててかちかちかちかち音を立てて両手両足をひっかけて一段一段丁寧に手を伸ばしぐっと掴んでぱっと離して足をかけてあたいは登る。てっぺんに辿り着いたらそこに座って猫に戻って丸くなってまるでジオラマみたいに小さくなったこの温泉郷と地底を見下ろす。あくびをする。風の流れにあわせてしっぽを揺らす。少し眠ってもいいな。そのまま朝まで眠り続けてもいい。
猫だから高いところが好きだよ。
さとり様は笑ってた。
あはは、おかしなことを言うのね。どこでそんなの覚えたのかしら。煙突があるのは銭湯でしょ。
じゃあ銭湯にしちゃいましょ、ね、ね。しちゃおー。
ふふ。うちは天然温泉だもの。そんなもの必要ないのよ。むしろもったいないの。
じゃあ温水プールはいいのかよ、って、って、ってさ思ったな。言ったし。
論理はちゃんとあったんだ。そもそもこの地底で温泉がそれほど必要とされてないという説。地底という環境を鑑みても観光客なんて望めないし、土着の妖怪たちもみんなある種の孤独を抱えた妖怪ばかりだから、一部の物好き以外、わざわざ人の集まる温泉なんて場所好んでやって来ない。それにさとり様はみんなに嫌われてるから、さとり様がやってる温泉なんていえばなおのことだ。そこにきて温水プールとなったらほんとに人が来ないと思う。地底の妖怪たちがプールで遊んでるところなんてちっとも想像できないものね。
でも、結局、さとり様はさとり様だから、勝手に温泉をつくって、しかもそのうち温水プールまでつくってしまった。
もちろん人なんかちっともやって来ないのだ。
その成立にあたいも一意見を加えたということで、いつの間にか、温水プールの管理にはあたいがあてがわれることになっていた。管理と言っても、清掃の部分はゾンビ・フェアリーたちがやってくれるので、あたいの仕事と言えば、その注水と排水だということになる。この温水プールの生成過程はひどく雑なもので、もともと温泉として湧いたお湯を一般水道の水を混ぜ合わせてとりあえず温水プールらしい温度の水にしていた。だからプールと言っても硫黄の匂いはするわ、肌に鉱分が張り付く感じがあるし、といったような体で、ま、言ってしまえば、ただの温めの温泉だった。
地底温泉の入排水を管理するボイラー室は地霊殿のさらに地下の洞窟状になった地下道路にあり、一般温泉の管理をするのはお空の役目だったから、あたいはお空の後について温泉の管理の仕事を学んだ。たくさん鍵のついた輪っかを首からぶら下げたお空は、第一温泉から第八温泉まで、それぞれの温泉を管理するボイラー室とそこに対応する鍵をちゃんと覚えていた。鍵はどれも同じようにあたいには見えるのにちゃんとその区別がわかるのがあたいには不思議だったので、お空に聞いてみたら、お空はこんなことを言っていた。

「鍵にはこゆーの味があるんだよ」
「固有?」
「うん。第一かんりしつには第一かんりしつの鍵の味が、第六かんりしつには第六かんりしつの鍵の味が」

お空は鍵をひとつかふたつ舐めてみて、それからひとつを第六管理室の鍵穴に挿すと、たしかに開いた。
あたいも真似してそのうちひとつを舐めてみた。

「うにゃあ。苦っげえ」

あたいにはできない力、超感覚、(ちょー能力みたいだね……って)、それはあたいにはできないから、お空から温水プールのボイラー室の鍵だけをもらった。それで朝にはボイラー室に行ってパルプひねって水を出して、夜には止めた。温泉の方は湧いたままにしておけばいいのだ。別に愛せないが、さして面倒な仕事でもない。これくらいなら、まあ、やってやってもいいだろうと思った。むしろ、さとり様のほうがかえってすぐに温水プールに飽きてしまうだろうとも思っていた。そしたら、もう何も反論とか口答えとかせず、黙ってさとり様の気の向くままにまかせておけばよい。

でも、その温水プールはいつのまにかあたいにとって大切な場所になってしまった。
高いところが好きなあたいのためにさとり様は小さな小さな鉄塔をプールサイドにつくってくれた。
さとり様はそれを監視塔と呼んだ。
いつもあたいはその監視塔の上に座って温水プールの平和を守っていた。もちろん人なんかたいしてやって来ない温水プールだ。あたいはただ座って本とか読んでいた。時折、興味本位でカップルなんかがやって来るので、あたいは首からぶら下げた赤い笛を吹いて彼らを驚かせてみた。ぴぃっ、ぴぃいいいい、と鳴る鋭い笛の音に、彼らは自分たちが何かルール違反を犯したのかと思って困惑する。でも、もちろんルールなんかないのだ。あたいは自分の気の向いたときにてきとーに笛を吹いて、彼らが混乱し、あるいは、ありもしないルールをつくりあげ自分たちを縛り上げるところを想像して楽しんでた。
その寂れた温水プールはあたいだけの王国で、そこであたいは小さな独裁者だった。
でも、それはたしかに王国だったけれど住民はいないし、時々やってくる者も一度訪れるきりで、あとはさとり様がやってくるだけだった。
だから、あたいはいつも鉄塔の上に座りながらさとり様がやってくるのを待っていたのだと思う。
曜日も時間も関係なしにさとり様は突然その室内プールにいつもの格好で現れる。そして、服を脱ぐこともなく、そのままプールに飛び込んで、プールの端から向こうの端までクロールで泳ぎきり、ターンしてはまた泳ぎ、しばらくの間そうやって往復していたと思ったら、そのままプールから上がって、そのびしょ濡れの姿のまま、また消えてしまう。あたいは笛を吹いた。ぴぃっ、ぴぃいいいい、と笛の音がプールに響き渡ると、さとり様はそこで立ち止まって、あたいの方を見る。あたいが手を振ると、さとり様も手を振り返してくれる。そして、また泳ぎだす……。着衣のまま。
あたいはもういちど笛を吹く。
ぴぃっ、ぴぃいいいい。
監視塔を降りて、プールサイドに座れば、さとり様が泳いでやって来る。足を垂らして温かい水にあたいは少し触れる。天井はガラス張り。綺麗に透き通る新しいガラスの天井なのに、向こうに見えるのは地底の岩肌だけ。ぶら下がった偽物の小さな太陽が等間隔で光る。薄暗い水際で乱反射する。青空とかぁ、書けばよかったですね、とはじめの日にあたいは言ったと思う。天井に? うん。それじゃあやっぱり銭湯じゃない、室内プールはこうなのよ、って、って、さとり様は言ってたっけ。暗い地下室の中じゃあ結局かえって偽物みたく見えるのに。プールサイドに両手をついてさとり様はあたいを見上げながらお燐も泳いだらどうかしらと誘う。あたいは首を振る。水の中は嫌いだった。代わりにぬるま湯みたいな話をする。

「服着て泳ぐのはいいけど、やっぱ、着替えたり髪とか拭いたりしたほうがいいとあたいは思いますよ」
「あら、どうしてかしら?」
「風邪引くじゃん」
「わたしは妖怪だもの」
「ふーん。」「でも、やっぱそういう手順……っていうかみんながすることって重要だとあたいは思いますよ」
「そうかしら?」
「うん、うん、うん。だって、やっぱ、そういうのって長い時間あってみんなそういうふうにするってなったってことだと思うし、やっぱ精神的なこうよーとかってあるんだろうし、あ、ほら、こうやってプールに入るたびに水着に着替えるのだって、ただ便利とかそういうんじゃなくて、着替えることで、これからプールに入るんだっていう、日常との区切り? 非日常感? 西瓜に塩……じゃあないかもだけど、みたいな、みたいなさ、楽しむための準備みたいものじゃないですか。お風呂だって裸になんなきゃなんか気持ちよくないです」
「そうなの?」
「そう、そう、もう、絶対そうですってば」
「そうかしらねえ」
「どうしてさとり様はプールに入るのに服とか脱がないんです?」
「だって、めんどいもの」
「うへえ」
「それにね、お燐」
「はい?」
「お燐はプールにもお風呂にも入らないのだからそもそもその良さがわからないじゃない」
「ごろごろにゃあ」

とか。

「どう最近は人が来てるかしら?」
「ぜーんぜん。お空風に言えばですけど」
「ふふ。どうしてみんなは来ないのかしら?」
「需要がないんですよ」
「やっぱり周知かしら? きっとみんなここに温水プールがあることを知らないのね」
「イベントやりましょ、イベントイベント」
「どういう?」
「きらきらのボールいっぱい沈めて拾うとかあ、高い所から紐ぶら下げて水面からジャンプしてひっかくとか、景品つけてね」
「猫の発想ね」
「いや、これは遍くやつですよ。まじ遍きです」
「じゃあお燐、そのイベントの準備とか設営とかよろしくね。期待してるわ」
「あ、やっぱ、やめまーす」

とか。

「ねえ、さとり様、さとり様、あたい、あたいね、デブった猫になりたいの」
「あら、どうして?」
「かっけえじゃん」
「お燐はせっかくスタイルもいいのだし、そのままでいいと思うけれど」
「いや、いや、いや。猫に生まれたからにはデブ猫に憧れるんですよ」
「そういうものなの?」
「うん。やっぱ貫禄がちがうもんなあ。ボス猫になってさ、たくさん手下の猫従えてさ、ちょっとみんなより高いとこに座るの、それで縄張りにやってきた敵猫に言ってやるんですよ」
「なんて?」
「ふにゃあ!」
「ぷ……ふふっ」
「え。笑わないでよ」

あたい、不快です、とか、時間はクロールでプールを往復し続けるさとり様のように機械的に均等に流れていき、あるいは温水プールの水面で乱反射する電灯の光のように拡散し水中に溶けて消えてしまう。いつの間にか長い時間が過ぎて、その間もずっとさとり様はあたいの温水プールに時折現れては普段着のままでプールに飛び込んで泳いだ。着の身着のまま水中に飛び込むさとり様のことをあたいは不思議に思っていたけれど、時間と物事がいつも癒着してあたいたちを騙してしまうあのやり方に則って、やがて慣れてしまった。そして、同じようなやり方であたいがいつまでもそうであり続けるとなんとなく信じていた、人のちっともやって来ないこの温水プールも、いつか、取り壊されることになったのだ。


温水プールの最後の日、あたいは監視塔のてっぺんで、いつものように揺らめきを眺めていた。もちろん人は誰も来ないし、さとり様もやっては来なかった。
取り壊しを決めてあたいに告げるとき、維持費も馬鹿にならないからねえとさとり様は言っていて、あたいはまあしかたなしとは思ったけれど、さとり様に何かを言ってもしょうがないから結局言って、あたいは寂しいです……、わたしも同じ気持ちよってさとり様はあたいの頭を撫でた。それがどんな小さなものであったとしても王国の崩壊はやはり寂しいものなのだ。誰もいないけど、最後の仕事だからと思って、あたいは笛を吹いた。ぴぃっ、ぴぃいいいい、と笛の音が、がらんどうの温水プールの中に響き渡る。虚しさに負けて、これ以上いてもしょうがないし帰ろうかなと監視塔を降りている時に、ぱしゃんと水面に弾ける音があった。
そこには、こいし様がいた。
こいし様はさとり様がするようにあたいに手を振った。あたいは振り返した。はしごを降りきってプールサイドに腰を下ろす頃には、裸のこいし様は潜水してそのまま消えてしまった……と思ったら、あたいの前に水面を切って再び現れた。白いバスタオルを投げてあげると、上がって、あたいの横で包まっていた。

「こいし様、いたんですね」
「うん。よく遊びに来たよ。お燐はわからなかった?」
「顔を見せてくれればよかったのに」
「恥ずかしかったの。ほら、裸だし……わたしってそんなナイスバディってわけでもないでしょ?」
「水着とか着ればよかったんじゃないですかね」
「そっかあ。そう……。そう、だよねえ。お燐はいっつも良いこと言う」
「そうですかあ?」
「わたし、あとで気づくな……。気づいたあとでいい考えだってわかる。せっかちなんだね。思いつく前に手が出るの。でも無意識ってそういうことだもんね。わたし、後悔の妖怪なんだよ」

光線、水際で。
スローペースで波うつ波うち際、うつ波に沈んだ足先がぬるまう。
暖かいプールの中に足先をくぐらせて少し震わせてみる。水の重いことを感じる。揺らす。やがてぱしゃぱしゃと水を立てる。どこにもいけない推進力がプールサイドの水際で膨らむ。

「でも、今日はこれで最後だからさ……」
「ええ」

それにしても勝手につくって取り壊しちゃうなんてお姉ちゃんも非道いよねえ、とか、お燐もほんとは怒ってるでしょ、とか、一緒に家出してふたりで暮らそうよ、とか、だってお燐はあんなにいつもここで気持ちよさそうだったのに、とか、えーそうですかぁ、とか、結局、あたいは一度もプールに入らないまま終わっちゃったな。

「ねえ、せっかく最期だから、お燐も一緒に入ろうよ!」

こいし様はプールの中に飛び込んだ。深いところへ潜水し、そのまま消えてしまった。こいし様は深いところを泳ぐから、水面は午後二時のパーティー・ルームみたいに静けさをたたえてただ揺蕩っていた。いつものプールサイドだ。誰もいない温水プール。あたいだけの王国。無軌道な笛の音。こいし様が水面に現れた。大きく息を吸った。苦しそうにぜえぜえと喘いでいた。

「すごいですねえ。随分と長い間潜ってたみたいですけど、大丈夫ですか?」
「うん、だって潜水してたのは最初のちょっとだけで、あとはただ姿を消してただけだもん!」
「それってずるじゃないですかぁ!」

こいし様の笑う声が、がらんどうの室内プールの中で響いていた。
それで、その日あたいは久しぶりにこいし様と暮らした。
猫の姿になってこいし様のあとをついて、地底を歩いた。甘いお菓子を食べた。ガムを膨らませた。夜にはあくびをもらった。隣で眠った。朝には消えていた。失われるものがあるとき、それに伴う感情がある、というのは嬉しいことだ。たとえ、それが、観光地で買ってきたお土産もののように、ただ窓際に並べて飾られてあとはカーテンの隙間から溢れる光によって色あせてしまうだけなのだとしても。

 

それは名残り続ける。






だから、もちろん、そのあとのお話というものはある。
王国が滅びてしまったそのあとのお話、生き物が死んで腐敗し形を失ったそのあとのお話、こいし様がいなくなったそのあとのお話、温水プールが潰れてしまったそのあとのお話。
あの室内プールに関していえば、それが潰れて閉鎖となった後もその形を残し続けている。跡地にはゲームセンターを作りましょうよ卓球とか一人野球とかできるやつこれは温泉としてもありですね、とまた地底の外の曖昧な知識を振りかざすあたいに珍しくいいわねとさとり様は答えてくれたけれど、結局計画は宙に浮遊したまま、ふたりで書いた計画書は地霊殿のどこかの金庫で夢を見ている。ゲーセンの夢。つくるよりも取り壊すほうがずっと手間がかかる。猫のあたいには土木工事のことはよくわからん。
仕事がひとつ減ってふたつ増えた。ひとつは新しいさとり様のペットに関すること、もうひとつはこいし様の部屋に関すること。こいし様はしばらく前から地底の外に遊びに出てなかなか帰ってこないことが多かったけれど、その間隔がだんだんと長くなっていき、とうとう地霊殿にもう姿を現さなくなってしまった。こいし様がいつ戻ってきてもいいようにあたいはこいし様の部屋を綺麗に保っている。
感情のピークは、プールの水が排水溝に向かってくるくると渦を描きながら流れ出していくのをなんとなく眺めていた時。わっと来て、すぐに通り過ぎた。例の室内プールは使われることもなくなったので冷たい水の注水を止めて配管をずらして温泉を逃しておいたのだけれど、濁った水をいつまでもプールに張っていても仕方ないと思って、後であたいがひとりで栓を抜いて水を捨てることにした。薄暗い室内にひとつかふたつ非常用の電灯だけを灯して、濁ったプールの嫌にぬるい水に半身浸かりながらあたいはプールの水が排水溝に吸い込まれるところを眺めていた。プールの底に開いた穴のそばでくるくると小さな渦を描きながら水は地下のどこか遠いところに流出し、水位がほんの少しずつ下がっていた。思ったより小さいものなんだなあ、とあたいは水底の渦を眺めながら思った。台風の夜のガラス戸に打ち付ける雨とか、むかし本で読んだだけの知らない海の知らない海底で渦を巻く海流とか、そこに生きる巨大な大きい生物とか、そんなもののイメージを知らず知らずのうちに重ねて合わせていたからなんだか拍子抜けだった。このままあたいも吸い込まれてしまいそうだ、みたいな気分を想定して、それに合うような形の空白を予め心に抱えて臨んだのに、この小さな小さな渦の形はそこにはちっともぴたりと合わなくて、からんからんと音を立てて転がってどこかわからない心の場所に見えなくなってしまった。それでぽっかりと心に穴が開いたような気分だったのだと思う。自分で用意して合わなくてかえって寂しがるなんてねえ、などとそんなことを冗談っぽく考えた時、感情がわっと吹き出してきた。驚いて水の中に座りこんでしまった。少しだけ泣いていた。でも、それはもともと合う形のない感情だ。だから、すぐにあたいの身体から流れ出し、消えてしまった。それにこの小さな穴からプールの水を全て排水するまでには随分長い時間がかかったと思う。だからプールから水がなくなり、単なる四角い形をしたコンクリートの空白に変わる頃にはあたいはすっかり平静だった。なんとなくもういちど栓を閉じてみて、やっぱ意味ないかあ、と思い直して紐を引いて抜いたら、ぽんっ、と弾ける音がして、それですべて終わった。


そんなふうにして日々が過ぎ、日々が過ぎ、その室内プールの記憶も、熱病のはじめの兆しが高熱によってかえって凡化して忘れさられてしまうように、日々が過ぎ、日々が過ぎ、日々の中に溶けて、他の多様な記憶と混ざり合って単にいくつかの情動のきっかけとしてのみ懐かしく思い出せられるようになった頃、別のとりたてて言及するほどでもないようなある喪失のみぎりに触れて懐かしく思い出し、そういえば、あの、あれ、どうしたっけ、って探していたら、見つけた……。あるポシェットの中にあった。赤い笛。ああ、どうしてこんなところにね、記憶を辿るようにボイラー室の並んだ地下通路を歩き、やがて辿り着いた未だに現存したままの温水プールの廃墟であたいは過ぎ去った時間を懐かしみながら時を過ごした。監視塔に座ってその午後を焼いた。非常灯の強い、淡い、光。空っぽのコンクリートの水槽に薄暗い影が漂う。ゆるやかに流れる退屈な時間。それらが、あたいを、そうさせるままでいた。
すると、どこか、ある瞬間に、さとり様がやって来た。
あたいを見つけて後を追ってきたのだろうか、あたいのこと探しているのかな、などと考えていたけれど、さとり様はあたいの座る監視塔の方には視線もくれず、入口から空っぽのプールまでただ歩いた。どうやら、あたいの気配には気がついてないようだった。それからさとり様は、昔、そうしていたように、服を着たまま空っぽのプールに飛び込んだ。そして、水の張ってないプールの中を泳ぎだしたのだ。
そうだ、さとり様は泳いでた。
クロールで、水の張ってないプールを何往復も、無機質な軌道を描きながら。
空っぽのプールの上で宙に浮かんでるようだった。ケーブルに繋がった飛行士が宇宙船の周りを漂うみたいだった。だからさとり様は単にプールの上を飛行しているだけだったのかもしれないね。
でも、それは、遊泳だった。
そうあたいに信じさせるものが、あたいの記憶中の残像なのか、このプールだったはずの施設に与えられた機能の名残なのか、そのどちらともだったのか、あたいにはわからないけれど、別によかった。さとり様は水のない温水プールを泳いでいた。あたいは笛を吹いた。そうすれば、さとり様はあたいを見つけてくれる。

「あら、お燐。いたのね」
「うん。そうですよ」

さとり様が泳いで近寄ってくるので、あたいもプールサイドに降りようかと考えていると、水泳の途中でさとり様は消えてしまう。まるでこいし様みたいにすっかり姿が見えなくなった。びっくりして、プールをじっと見つめていると、何かが冷たいものがあたいの耳をくすぐった。
ひゃあ!
あたいは飛び上がる。くすくすとさとり様が笑うのが聞こえた。振り返るとそこにさとり様がいた。いつの間にか監視塔のてっぺんまで上って来ていたのだ。

「さ、さとり様!? どうやって……?」
「消えたの」
「こいし様みたいに?」
「ええ。目を開いたり閉じたりすることくらいわたしにだってできるもの」
「そういうものですか?」
「こいしには秘密にしておいてね。あの子、自分のことを、特別だと思ってるから。きっとショックを受けちゃうわ」

あたいはさとり様の言うことについて考えてみた。

「でも、そーゆーの言ってあげたほうがいいとあたいは思いますよ」
「そうかしら?」
「ええ。そういうの黙られるときっとこいし様は嫌がりますよ」
「そうかもね。あの子に母親がいればよかったのに。わたし、いつでもあの子のお姉ちゃんだけど、お母さんにはなれないわ」
「うん」

さとり様の声はなんだかか細く震えているようだった。こいし様のことを思って不安定な気持ちになっているんだろうか、でもそれはあんまりさとり様っぽくはないから、見ると、さとり様は天井の隅をじっと見つめていた。まるで下を見るのを恐れてるみたいだった。あたいは笑った。

「さとり様って、こうしょきょーふ症? うける」

うけないでよ、って、呟いた、さとり様の凍りついた顔、震える身体……小さな声。
そのお姿がおもしろくてあたいは余計に笑った。
あれからさとり様はいつもこの場所に来ていたのだろうか、それを尋ねてみようかと思ったけれど、さとり様がどんな答えを返してくれたとしても、あたいが何を言っても言わなくても心を読むことのできるさとり様の前では結局同じことだからあたいが必ずそれを言ってしまうのと同様に、さとり様があたいに何を言っても言わなくてもさとり様の心の中がわからないあたいはあたいの信じることを信じてしまうんだろうから、さとり様には聞かなかった。代わりに首から下げた赤い笛を外してさとり様に渡した。遅くなっちゃったんですけど、もう監視塔の仕事はなくなったからこれは返しますとあたいは言ったけれど、さとり様はそれをあたいの手と一緒に握りしめて、あたいに突き返した。いらないわ、これはもう貴方のものだもの。そして寂しげに微笑んだのだ。

「ねえ、お燐、もしわたしが消えちゃうときには、その笛の音で教えてね」

それからさとり様は監視塔の上から飛び込んだ。
下を見ることもなく、突然、落ちるみたいに、コンクリートの上に。
そして、着水した。
存在しない水の中に。
深いところに潜り込み、そのまま影の中を潜水し、泳いだ。
あたいは笛を吹いた。
大きく息を吸ってこの空っぽのプールに響き渡るように。
ぴぃっ、ぴぃいいいい。
さとり様が立ち止まり、あたいを見た。
あたいは言った。

「プールには飛び込んでいけません!」

さとり様は笑ってた。
この空っぽのプールをいっぱいにしてしまうくらいに大きな声で。

「そうだ、お燐も飛び込んでみなさいよ」
「あはは、まじ言ってんですか? あたい死んじゃいますよ。死にますよ。ぺしゃんこになってプールサイドのしみになっちゃうな」
「そう? 試してみなさいよ」
「にゃふー」

飛ぼうかな、やめようかな、こんな奇妙な午後にはなんだって起こる気がするから、飛ぼうかな、あたい死んじゃうよなあ、コンクリートの赤いしみになって、死んじゃうかな、さとり様は普段着のままで、この暗い宇宙の底の青い空の底の地球の底の幻想郷の底の地底の底の温水プールの底のコンクリートの上を泳いでた、やめよっか、飛ぼうかな、やめよう、飛びます、やめます、でも今日なら飛べるかにゃ、あたい赤いシミになってまるで朝食から零れ落ちたケチャップのようにコンクリートの上に固着して、やめよう、ゾンビ・フェアリーたちが集まってデッキブラシであたいを擦って、やめよう、あーあなんだか馬鹿らしいな、やっぱやめよーねー。
猫だから高いところが好きだよ。
水の中は嫌いだった。
さとり様は水のないプールをクロールで何度も往復し続けてあたいはそれを見ながらずっと笑っていた。


おしまい
読んでくれてありがとうございます!
死体旅行 ~ Be of good cheer!が東方の音楽の中でいちばん好きです。猫だからお燐は不思議な存在の軽さがあるのかなあと思って、だからわりとどんなときでもお燐は変わらず気まぐれでいるのかなとか考えて、それが好きで、救いだったんですけど、単純な喪失のイメージに引っ張られてあんまりうまくいかなかったような気がします。シンプルに書きたかったけど、いつも最後にはがちゃがちゃしちゃってよくないですね。そのわりにはお空のこととかももっと書きたかったのにあんまり書けなくて……。次はがんばります。
あと投稿するときの名前いっつも恥ずかしいので次は変えるかもしれないです。
カニパンを飾る
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コメント



0.150簡易評価
2.90奇声を発する程度の能力削除
面白く良かったです
4.100名前が無い程度の能力削除
穏やかさを感じました。良かったです
5.90夏後冬前削除
不定形の文章とは裏腹に物語がきっちり進んでいて、でも時々ハッとさせられるような一言が入っていたりして好きでした。
7.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
8.100Actadust削除
なんだか不思議な気分になりました。日常が描かれているはずなのに、非日常を覗いているような、そんな気分。世界観にすごく引き込まれました。面白かったです。
9.100南条削除
とても面白かったです
プールの閉鎖を知った時のおりんの何とも言えない寂しさが辛かったです
引き込まれました
10.100めそふ削除
とても面白かったです。
お燐の一人称視点、そして彼女の言葉そのままが書かれていて、それが感情の表現を素晴らしくしていたのだと思います。お燐のプールがなくなる時の喪失感、寂しさがひどく伝わってきて、そして古明地姉妹との関わりでどう前を向いていくかの過程の描写が素晴らしいと感じました。息の詰まるような長い一文でもなんの苦も感じる事なく読み進めることができ、寧ろ温かみを与えるそれがとても良かったです。
本当に面白かったです、ありがとうございました。
11.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです