1
雲の上を歩いていた。昨日は砂の上を歩いていた気がする。千里も先の光を目指して、機械的に足を動かしている。足元はふかふかの布団のようで、踏み出すと足首まで沈み込むが、真綿がまとわりついてくるような嫌な感触はない。
「止まれ」
試しに呟いてみたが、足は意思に反して止まらなかった。
「何をお探しですか」
忘れた。私は何を探していたのだろう。目の前に急に現れたのはドレミースイートで、ここはおそらく夢の中で、私は八雲藍だ。それはわかっていた。
「過去の記憶でしょうか、それとも甘い甘いお菓子とか?」
「たぶん違います」
「昨日も、一昨日も、そうやって闇雲に歩いていたんですよ」
「そうでしたか」
何か目的があったに違いない。私がずんずん歩くと、ドレミーはふよふよと妖精のようについてきた。
「お節介かもしれないのですが、アドバイスしてもいいですか」
「どうぞ」
「一つ、夢は身勝手な、なまものです。ついで言うと新鮮な夢のほうが私は好みです。勘違いされてる方が多いんですが、真理があると思われては困るんですよね。二つ、連続性があるとは限らない。耐え切れない恐怖とか、逆にとんでもない快感が刺激となって現実に引き戻されることが多いんです」
「三つ、夢の支配者たるあなたは何もできない。偉い奴らははぐらかすのが趣味なようで、どうにも、なんだ、困る」
口が勝手に動いた。大体わかっていること、もしくは予想がついていることを繰り返されたところで、私に益をもたらしてくれるはずもなく、かと言って親切に教えてくれている彼女に対し、こうもはっきりと告げてしまうほど、私は言葉を知らないわけではない。私の理性は道中置いてけぼりにされたようだ。
「……四つ、狂気が正気になりえる。夢を自覚すると言動が良心に逆らい始めますが、普通なので安心してください。今口走ったことは普通なので、私は別に怒ってはいません。ええ、よくある話です」
「申し訳ない」
歩きながら苦笑いを浮かべつつ頭を下げた。今度は言葉を選べた。夢のコントロールは容易くないらしい。無意識の領域に近いからなのだろう。
ドレミーは頬を膨らませてはいたが、本気で怒っているわけではなさそうだった。
とりとめのない話をしながらドレミーは途中までついてきたが、果てのない、目的を探すだけの流浪に退屈したようで「頑張ってください」と投げやりに言って、どこかに消えてしまった。その後も一人でしばらく歩いていたが、先の光に近づいている気がしなくて、いつの間にやら、徐々に身体が雲の中に沈み始めていた。それでも引き返すことはできず、視界がまっさらになったところで目が覚めた。
朝の陽ざしに照らされて、涼しい風が障子の隙間から入ってきているというのに、私の口からは欠伸とため息が漏れ出るばかりだった。
思い出した。私は紫様の夢に侵入を試みていたのだ。これで五度目の失敗であった。
2
最近紫様のことがよくわからない。そもそも紫様は秘密主義だから、脳の内側を暴き、彼女のすべてを理解することなど不可能だ。
それでも長年傍に寄り添ってきた私は、紫様のことをそれなりに知っている。例えば好物だ。外の世界の若者が好む流行りものが大好きで、よく外界で購入してきてはひけらかすように食べてみせる。古いものも好きだ。きゅうりのぬかの古漬けでご飯を二杯も召し上がられる。よく熟成されたチーズとか、干物とか、そういったものを喜んで食べてくれる。意外なことに人肉はそれほどでもないという。人もとい妖並みには好きなのだが、見ただけで咽を鳴らすほどではないらしい。赤飯のようなもの、と言っていた記憶がある。それ以来私は正月やお盆に、上物の人肉を出すようにしている。ちなみに私は結構好きで、紫様に隠れてしょっちゅう食べている。本当なら自分で襲って、恐怖に歪む顔を見たいくらいなのだが、これだけ長年紫様と一緒にいると、それはどうにも子供じみた真似に思えて、いまさらできなくなっていた。
他には酒だ。紫様は品種よりもその時々の雰囲気を大事にしている。その日が満月なら一人、もしくは差しで日本酒を、居間にいるなら安いウイスキーをソーダで割ってちびちびと、宴会ならビールを大ジョッキで一気飲み、小洒落たバーならみょうちきりんな名前のカクテルを、と絵画で見かけるような典型的な呑み姿を、舞台女優のように演出するのが大好きだ。
あとは、そうだ、眠るのが大好きだ。
「長い生涯のほとんどを、夢を見て過ごせたら素敵だと思わない?」
これは紫様が以前言った言葉だ。そうですねと曖昧に同調しただけだが、有言実行と言うか、主はよく眠る。年がら年中、羽化を待つさなぎのように布団にくるまり、ぬくぬくと寝顔を晒して、偶にぐう、とのんきないびきをかく。冬眠までする始末で、実は秋の紫様は食いだめしているためちょっと肥えておられる。意外と大食漢なのだ。妖怪なのに食いだめが必要なのかと問われれば、否なのだが、そこもまた雰囲気を大事にしているようで、霊夢とか西行寺様あたりに「太った?」とか言われて「失礼ね」と返すのが定番になっている。
主を肥やすカロリーを提供するのは、私の大事な役目であった。私は忠実な式であり、従者だから、紫様の好みを熟知したうえで、適度に胃袋を掴みに行くのが仕事だ。それくらいはできる。長い付き合いだから、知っている。
よくわからないというのは、そこではない。感覚的な、人間が未知に対して抱く、ぼんやりとした不安のようなものだ。微細な表情の変化、感情を表現する仕草、すべてに意味があるような、ないような、どうにも気になって仕方がない。
紫様は何を考えているのだろう、何を想い、何を憂い、そして何を楽しんでいるのだろう。そんな些細なことだ。
昔は気にも留めなかったというのに、今はなぜだか己の無知が不愉快だ。だから私は好奇心の赴くままに夢の中を東奔西走していた。ロマンチストな紫様が後ろめたさを詰め込んだ宝石を隠すなら、夢の中に決まっているからだ。そして夢は根底で繋がっていて、共有できる。夢魂を探して割れば早いのだが、その肝心の夢魂が探せど探せど見つからない。きっとどこぞの境界に隠しているのだ。現実から干渉するのはおそらく不可能である。だから二の矢として夢の中からアプローチしているのだ。
さて、紫様はそろそろ冬眠する。長い長い夢を見る。事前準備として、栄養を蓄えるための食事を作るべく、私は里に下りて買い物をしていた。里の八百屋で旬の野菜を品定めをしていると、大きく実った最後の秋茄子に向けて伸ばした手の甲が、誰かの手とぶつかった。
「おっと失礼」
「こちらこそ、ん、あ、藍さんでしたか。久しぶりです」
白玉楼の庭師、魂魄妖夢だった。私と同じ食材を狙うとは、流石いい眼を持っている。彼女の主人もよく食べるから、食料の調達は大変だろう。背中に背負った幼子一人なら入れそうな竹籠が、苦労を物語っていた。
人里に入る際は服装を変えたり、尻尾を隠したりと変装はしているが、顔を変えているわけではないので、こんなふうに知り合いには気づかれてしまう。隠しているつもりもないが、私らは線引きを行う立場上、里に入り浸るのはよろしくない。とはいえ、普通の食材や日用品が置いてあるのはここだけなので、そこは臨機応変ということで曖昧にしてある。人間らしい生活をしたいという、紫様の我儘を叶えるためには致し方ないのだ。
しばらく雑談を交わしながら、買い物を続けた。八百屋、酒屋、肉屋と回って、妖夢の籠が彼女の刀よりも重くなったところで、歩を止めた。妖夢の買い物はこれで終了のようだ。
「それでは、私はここで」
「お嬢様によろしく頼むよ。冬が来たら顔を見せますって。菓子折りを持って」
「ああ結界の件ですね。わかりました。確かに伝えておきます。菓子折りの件については確実に」
咳を隠すときのように拳を口元に当てて、私は小さく笑った。あまり期待されても困るのだが、仕方がない、最適解を導き出すことにしよう。結界の件などと大袈裟な表現をしたが、実際は幽明結界のほつれを見て、必要であれば最低限の修繕を施して、そのことを報告するだけだ。あとは紫様が冬眠したことを伝えるくらいで、いわば年賀状やお歳暮代わりのあいさつなのだ。
「そうだ、妖夢。聞いてみたいことがあるんだが。隠された真実を知るためには、何をしたらいいと思う」
「禅問答ですか。うーん、斬ればわかると思います」
なんとなくそう来ることはわかっていた。だから私はあえて意地悪く、その先を聞いた。
「その心は」
「ええ……そうですねぇ。どちらも素っ破抜くことなり」
ちょっと困った様子を見せたが、答えた後はしたり顔になっていた。
斬ればわかる、その通りだ。深い雲でも、鬱蒼とした藪でも、鎌を片手に前へ前へと切り進めば必ず答えは見えてくる。必要なのは剣を抜く技術と傷つける勇気だけ、簡単な話だ。そして不可侵の領域に、土足で踏み入る愚かさを勇気と呼ぶのだ。私はまたくすりと笑ったが、妖夢は馬鹿にされたと受け取ったらしく、いじけたように口を尖らせた。
妖夢と別れてから、魚屋に寄り、一番安い古代魚の干物を買うと、早くも私は、脳内で今日の夕餉の献立を完成させた。干物を炙って、浅漬けと、茄子の煮びたしを作って、今日は卵を使ってないから出汁を利かせた卵焼きも作って、生姜と大根をすりおろして、和食でまとめよう。和、穏やかな良い響きだ。
そんなことを考えながら里を抜けようと歩いていたが、芝居小屋が眼に入った途端、足が止まった。演目の書かれた幟に殺生石とあったからだ。興味がそちらに移った。何せ自分の出生に関わることだ。その頃の思い出はほとんど掠れてしまったが、もしかすると、懐かしさを覚えるかもしれない。
財布を開き、先ほどの釣銭を確認する。どうやら足りそうだ。私はやる気のなさそうな番人に木戸銭を支払った。
「釣りはとっておいてくれ」
剛毅な殿方のような気分で、そう言った。どのみち、食料と日用品を里で買う以外、使い道のない金銭である。こうやって羽振りよく散財することそのものが、一種の娯楽である。
数十人しか収容できない狭い場内は満員御礼とまではいかないものの、大入りと言った具合で、湿気や人の匂いで充満していた。端っこの枡席に座ると、丁度柏手が鳴り響き、舞台の幕が上がった。
役者たちがせり上がり、そのうちの一人が前口上を述べた。
いよいよ始まりだと期待したのもつかの間、私は退屈を感じてしまった。如何にもな格好、やたらと響く小鼓の音、仰々しい演技、どれもこれも高尚なものに昇華されているように思えて仕方がない。狐の精霊が高僧となにやら問答をしているが、少なくとも、私はあんな喋り方はしない。懐かしさなど微塵も感じないし、ただ退屈なだけだった。他の観客は食い入るように見ているというのに、私は言いようのない寂しさに襲われた。
欠伸を一つして、台詞を単なる音として聞き流す。意識に少しずつ霧がかかり、瞼が重くなってくる。このままでは眠ってしまいそうだ。音楽だと思うと、余計眠気が増した。
腿を抓り、現実に意識を繋ぎとめる。眠ってはいけない気がする。せっかく代金を支払ったのだ。眠るだけなら家でもできるのだから、楽しまなくては損をする。無駄遣いをしたと思いたくない。いや、金銭の問題じゃない。貧困しているわけではない。だらしない寝姿を、公衆の面前に曝したくないのだ。金を払って芝居を見る、眠るのは馬鹿のやることだ。私は馬鹿ではないのだから、眠ってはいけない。
睡魔と格闘し続けて、能が終わる頃にようやく打ち負かした。芝居小屋の外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていて、冷えた夜風が私の意識を一層冴えさせた。
3
とうとう紫様が冬眠なされた。家屋や庭の木を守るべく、雪囲いを終えた次の日だった。仰向けで堂々とした眠り姿だった。
主の眠りを妨げないよう、結界の管理のために幻想郷中を駆け巡るのが、師走の私の役目であった。初めは幽明結界を点検しに空へと昇った。以前から脆いこの結界は、精巧な継ぎ手によって組まれた建築物のように、無駄がなく構築されており、その美しい職人芸によって崩壊を免れているが、金槌で乱暴に叩き、ひびを入れようものなら、部品が零れ落ちるようにばらばらになってまうだろう。尤も、崩れたところでまた組み立て直せば良いだけなので、そこまで管理が面倒なわけではない。継ぎ目をいくつか見て回り、点検は終了である。
今回も問題なし。私は結界の穴を抜け、白玉楼に向かった。そう、少しの実力か、もしくは数式を見る眼さえあれば、この結界を抜けることは容易いのだ。
ではなぜ、こんな結界が存在しているのか、紫様曰く、障子のようなものだという。物理的に大した効力がなくとも、猫の爪や子供の指先で簡単に破られる薄っぺらな障子紙には、部屋を仕切るという大義がある。行商人とお代官様の密談が交わされている部屋が、障子に仕切られていれば、小間使いたちは聞き耳を立てるのが精一杯で、よっぽどのことがなければ襖を開きはしない。そうなれば取引の現場は誰も目撃できない。十分に役割を果たしていると言えよう。無邪気な子供なら穴をあけて覗き見るかもしれないが、それは教育が行き届いていないせいなのだ。何が言いたいのかと言うと、以前この幽明結界を壊した者たちは教育がなっていないということである。異変解決と言う大義を得た以上、仕方ないのだが、まあこれは一介の障子屋の愚痴である。
白玉楼の門を叩いた。妖夢の半霊の案内に従って、居間に上がると、屋敷の主である西行寺様が、炬燵でぬくぬくとしていた。軽く頭を下げて、私は手土産の饅頭を炬燵の天板に置いた。すると西行寺様は、無駄に怪しげな笑みを見せて、包装をびりびりに破いた。水まんじゅうと滑らかな字体が目に入った西行寺様は、こちらについと視線を向けた。
「わかってるじゃない」
「恐縮です」
わざわざ賽の河原の露店まで買いに行った水まんじゅうである。ぷにぷにとした舌触りは、まるで赤子の頬の如しと評判で、どこかの喋り好きな死神が現世に持ち込んで以来、リピーターが続出したのだ。買いに行って、そのまま三途の川に流された阿呆もいたとか。
西行寺様はそんな水まんじゅうを、一つ手に取り、ひょいと口に放り込み、数度咀嚼して、飲み下した。二つ目に手を伸ばす前に、私は話を切り出した。
「結界の件ですが、今年も異常はありませんでした」
「はーい、お疲れ様ー」
間延びした返事の後に、淀みない手つきで水まんじゅうを掴んだ。どこまでも自然な動作で、西行寺様はまんじゅうを食べる。亡霊なのに、所作の一つ一つに確かな熱がある。まるで人間のようだ。態度や思考は超然としているのに、不思議と自然体だ。彼女の振舞いは紫様と似ている気がする。私は月の兎ではないから、断定はできないが、おそらく似たような波長をしていて、お互いに影響し合っているに違いない。
「紫様も冬眠なされました」
「そう、あ、丁度良かった。いや良くないけど、まあいいわ。ちょっと待っててね」
そう言うと幽々子様は水まんじゅうを手にしたまま立ち上がり、隣の部屋に繋がる襖を開けた。隣の部屋の隅にあったこじんまりとした生け花を両手に持つと、しずしずとこちらに戻ってきた。いつの間にか水まんじゅうは跡形もなくなっていた。
「これなんだけど、紫に渡しておいてちょうだいな」
大きな白い花びらが美しい、それは胡蝶蘭だった。
「綺麗ですね」
「そうでしょう、そうでしょう。根っこを切られて死んでるも同然、だけど美しいでしょう。儚げで。生け花なのに、死んでいて、素敵だと思わない?」
「はあ、それは同調しかねますが」
楽し気にそう言いきった西行寺様には苦笑いで対応するしかなかった。
死そのものを素敵だと断言するのはこの方くらいだ。何百年生きても、どれだけ力を持っても、耄碌しようとも、死だけは恐ろしいはずで、それこそ亡霊や仙人みたいな精神構造を持たない限り、克服できない。ただ、死の匂いが美しいのはわかる。他人事であれば、儚げだと思える。
しかし、花は枯れた時が死だと思っているので、生け花には死を感じない。だから同調できなかった。むしろ剣山に刺さっていて、痛そうだなと思う。
「なんでよ、紫はわかってくれたわ。儚きことは美しきかな。ああ、そう言えばこの間なんだけど、紫ね、青い薔薇の造花をくれたのよ。で、なんだっけ確か、外界の技術革新と美を渇望するあくなき探求心には敬服するわ、とか言ってね。なんでも、今の外の世界だと青い薔薇は普通にあるらしくて、じゃ本物をちょうだいよって言ったら、紫なんて言ったと思う?」
「はて」
「ここに生物は持ち込めませんわ、あなた殺しちゃうでしょう、だって。それで、自然は自然のままに枯れていく様が美しいのよとかなんか御託並べられて。私ちょっと怒っちゃったのよ。だって酷くないかしら? 私たちが不自然で美しくないみたいな言い分。で、人が生みだした青い薔薇は不自然の極みね、その造花と同じ価値、いえ枯れる分出来損ないじゃないかしら、って言ったら黙っちゃって」
「はは」
愛想笑いになんとか留めたが、本当は腹を抱えて笑いたかった。紫様にそんなつもりはなかったのだろう。縁日で手に入れた金魚をすぐに死なせてしまうような、ちょっとズボラな友人をからかいたかっただけで、大した意味も考えずに言ったに違いない。紫様は回りくどい上に、相手の神経を逆なでする言動をよくしてしまうから、仕方がない。謹んでくださいと注意しても聞く耳を持たないから、そういう性分なのだろう。西行寺様もその気はあるが。
「適当に合わせてるのかわかんないけど、雰囲気でいい加減なこと言うのよ。突っ込むと黙るから意味はないのよね、きっと。澄ましているけど、真っ赤になって、知ってるかしら、紫、恥ずかしくなるとすぐ話題を切り替えるのよ。それで大抵自虐なの、月の侵略失敗のこととか」
この方には敵わない、よく見ているものだ。あまり人に関心がないのかとも思っていたが、やらしい眼を持っているようで。
「で、これは薔薇のお返しと言うか。お願いね、藍ちゃん」
「はい。確かに」
放っておけば萎びて、花は落ちてしまうだろう。冬が終わるまで枯れないように、保存方法を考えなければ。仰々しく頭を下げて、私は白玉楼を後にした。
帰り足、受け取った胡蝶蘭が揺れる姿を見て、明晰夢を見ようとしている私、だから胡蝶の藍なんて、駄洒落を思いついて、亡霊姫に見透かされている気分になった。
偶然なのだが、そう思わせてしまうほど、彼女は人の心を食って千年生きた物の怪のような、底知れない雰囲気を漂わせているのだ。今日だって、何を言われたわけでもないのに、私は委縮してしまった。言葉を間違えれば、裏で陰口を叩く程度の軽い認識で死に誘う、そんな危うさを漂わせている。人や物が崩壊する様をどうにも好んでいるようだ。
立場上、何度も酒を酌み交わしたし、紫様の悪口を言い合ったこともあった。長い付き合いだというのに、いまだに言葉を選んでしまうのは、お二人の友人関係にひびを入れてしまうことを、私が恐れているからなのだ。
4
長い木目の廊下を歩いていた。夢を見ている実感があったが、やはり足は前へ進むだけで、思うように動かせなかった。意識はぼんやりとして、かと言って千鳥足になるでもなく、几帳面に木目に沿って歩けていた。廊下はどこまでも続いていて、先は見えない。壁は藁のような色をしていて両手を横に伸ばしても触れられない。天井は低く、跳ねれば手が届きそうだが、足が言うことを聞いてくれない。
ドレミーがいつの間にか隣にいて「またですか」と言った。
「ここには何もないですよ」
「わかっているならなんで歩くんですか」
「わからないから歩くのです」
ドレミーはこれ見よがしなため息をついて、また私の旅路に同行した。ドレミーは壁紙をぺりぺりと勝手に剥がしては、口に放り込み、むしゃむしゃと頬張っていた。食べられたところは漆喰がむき出しになっていた。私の夢なのに。なんか悔しい。次に寝るときは、甘ったるい菓子の夢を見て、堕落に落としてやろう。餌付けして、煙草のように依存させてやる。いけない、余計なことを考えてしまった。
「あなたも相当熱心ですねぇ。別に咎めませんが、あまりいい趣味とは言えませんよ」
「私が何をしたいのか知っているのですか」
「あれでしょう、あなたの主の夢を覗き見したいんでしょう」
そうだった。私は目的を思い出した。どうして夢の中で忘れてしまうのか。
「執着が強いと言いますか、まるで蛇みたいですね」
「五月蠅いなぁ。夢くらい私の勝手でしょう。ん?」
私は廊下の中心でとぐろを巻いている蛇を見かけた。だが、私の足は止まらなかったので丁度、蹴飛ばすような形になってしまい、宙を一瞬舞った蛇は、廊下に落ちるとどこかへと消え去った。
「あらま、ほんとにいましたね。欲求不満なんですか」
外の学者の一説によると夢に蛇が出ることは、欲求不満を意味するらしい。確かに私は満たされていないが、あからさまなにやけ面を浮かべたドレミーに無性に腹が立ったので、私は口角を吊り上げてこう返した。
「……手籠めにしてやろうか」
「きゃあ大胆、そこまで言うなら……」
自らを抱くように腕を組んで、上目遣いでこちらを見やった。白々しい。白鷺とでも見合っていればいいのだ。私が無視すると、つまらなそうに口を尖らせた。
しばらくは無言で歩いていたが、沈黙が少し辛くなったので、私はどうにかこの単調な廊下を変えられないかと、想像力を働かせた。先ほど考えた通り、お菓子の夢でも見てやろうと想像すると、廊下はチョコレート、天井はビスケット、壁はカステラに変わった。
「なんのつもりです」
「普通の廊下だと味気ないと思って。私の奢りです」
甘い匂いが漂ってきて、ドレミーの腹がぐうと鳴いた。すると見る見るうちに赤くなり、先ほどの人を馬鹿にしたような眼が、物欲しそうな子供の眼に変わっていた。本当は一口でも食べようものなら「悪夢でもないのに、なんて浅ましい奴だ」とでも厭味をぶつけてやるつもりだったのだが、あの眼には弱い。私がどうぞと掌を上に向けると、ドレミーはお菓子の廊下をむしゃむしゃと食べ始めた。聞くと、味気のない悪夢ばかり食べているものだから、こんな甘い夢は久方ぶりらしかった。
「最近忙しくて。結構大変なんですよ。個々の夢に干渉しないように、手を加えるって難しいんですよ」
「私に干渉しているじゃないですか」
「それは、息抜きにと、夢幻回廊に迷うあなたを、ちょっとからかおうと思っただけです」
「ひどい話ですね」
ドレミーはずっと私の夢を食べていた。飄々と振舞っているようだが、彼女も相当苦労しているようで、苦労を語り合うという意味では、私たちは結構気が合った。身の上話をしながらさんざら夢を食べた後、ドレミーは腹をこすりながら言った。
「少し勘違いしていたみたいです。なにぶんあなた方は月と敵対しているものだから。珍しいですよ、美味しい夢を自分から振舞ってくれる人は。しかし、ふう、げふ。太りそうで、困りますね」
「なら食べなければいいのに。あ、違った。次はもう少し身体にいい夢を見ますよ」
夢人格とでも言うのだろうか、どうにも私の口が滑る。ドレミーは全く気にしてないようではあった。
「いえ、お誘いはありがたいのですが、本当に干渉しすぎてしまいましたので……お菓子、ごちそうさまです。じゃあ一つだけ。あなたの主は夢に不可侵の結界を張っているみたいですよ。なので私も立ち入れません。あーあ言っちゃった。私が言ったこと内緒にしてくださいね」
ドレミーはそう言うとふわりと一回転し、霧のように消え去った。人の夢にあまり干渉しないことは彼女のポリシーらしく、観測者を気取るという意味では、少し紫様に似ていると思った。
ドレミーは夢の結界と言っていた。予想が確信に変わった。本気で張った紫様の結界を破るのは不可能に近い。しかし、鍵をかけたということはつまり、何か大事なものをしまっていると宣言するようなものだ。ああ、私は悪い女狐だ。主の宝箱を、どうしても開けたくて仕方がない。やめる気はさらさらなかった。好奇心は罪悪感の代わりを務めてくれる。
方法を模索しなければならない。顎に手を当てて、考える仕草をすると夢から覚めた。
太陽はすでに頂点より西側に傾いていて、よっぽど深く眠っていたことがわかった。顔を洗ってから、紫様の様子を見に行った。
襖を開けると暖かい空気が顔に触れた。エアコンの空調管理能力には脱帽である。寝室は和室であり、紫様は最初エアコンの導入を、和の雰囲気に合わない、そもそも幻想入りしていないものを使うのは云々と嫌がって、昔のように行火や湯たんぽで冬を乗り切ろうとしたのだが、私がお湯の交換を忘れて(意図的に放置して)以来、寒さに耐えかねたのか、素直に受け入れた。頭が固いようで柔軟なところも、紫様の長所である。妖怪なのだから自分本位は決して悪ではないのだ。
紫様は部屋の中央に敷かれた布団の中で、むにゃむにゃと安らかな寝息を立てていた。少し布団を捲ると、寝間着がはだけて素足が見えてしまっていたので、温めたおしぼりで顔や胸元の汗をぬぐった後に丁寧に整えた。欲求不満と獏は言ったが、確かに客観的に見れば、無防備でなんとも艶かしいお姿である。しかし、女型の妖怪である以上、性的な昂りはさほどでもなかった。私が雄なら、襲っていたかもしれない。眠りの間は誰もが無防備だ。飢えた獣の前に裸で飛び出す方が悪いのだ。考えてみると、よく大の字でここまで深く眠れるものだ。私は尻尾が邪魔なのもあるが、動物的本能があるのか、うつ伏せで眠ることが多い。
いや、当たり前だ。こうやって無防備な姿を晒しても、何も問題ないのだから。幻想郷は基本的には穏やかだし、たとえ何かあっても、自分で言うのもなんだが優秀な式こと私がいる。そう思うと、この寝姿は平和の象徴かもしれない。紫様の口元に垂れていた涎を拭って、私は部屋を後にした。
5
各地に点在する結界の内、何か所かの点検を橙に任せたので、私は仕事の出来を確認しに行った。最近橙は反抗期らしく、私が食事に誘っても断られることが多い。親離れと言うと、少し大げさかもしれないが、成長の過程だから仕方がないと、私は思いのほかすんなりと割り切れていた。
それに反抗期のようではあるが、仕事を任せると式としての意地があるのか決して断らないのだ。結界の点検も、まじめにこなしているようで、構築は拙いが、手抜きではないことが窺い知れる。正直なところ、技術に関しては期待していない。お菓子作りのデコレーションを頼む程度で、見てくれはいくら悪くても、幻想郷の地盤が揺らぐことはないように下地は作ってあるのだ。
安心して失敗できる環境で、試練を与えてやること、それが私の教育である。紫様のように、無理難題を提示して、失敗したら傘で叩くなどという野蛮なやり方はしない。しつけのつもりなのか、なぜか紫様は、私をよく叩く。今でも叩かれる。それこそ、古いブラウン管のテレビを直す感覚で、それが当然のように叩く。基本的には力に訴えかける方法を好まないのだが、こればかりは昔からだ。妖怪としては正しい在り方だが、拳骨で思いを伝えるなんてまるで鬼のようではないか。らしくないとずっと思っている。
私は点検漏れがないか探した。思っていた以上に良くできていて、少々驚いたくらいだった。しかし、一か所だけ気になる点があった。橙のものとは全く違う妖力の残り香が、そこにあったのだ。もっと強大で、粗雑なものだった。
「ふむ」
見当はついた。これは鬼の仕業である。伊吹様が何かしら手を加えているのだ。外の世界へと渡るためだろうか。理由はわからないが、いずれ事情聴取をしよう。
家に戻るころにはすっかり陽が沈んでいた。灯りをつけていないはずの薄暗い部屋には、ぼんやりと白い光があった。光の正体は、西行寺様からいただいた胡蝶蘭であった。ツキヨタケという暗闇で光るキノコがある、とは以前宴会の席で聞いたが、光る花は初めてお目にかかる。面妖ではあるが、素直に美しいと思った。白い花は夜に映える。
「そう言えば、どうやって保管しようか」
結局、胡蝶蘭は受け取った日からずっと居間に置いたままである。今のところは変化はないが、春まで持つのだろうか。見せる前に枯らすわけにもいかない。湿度管理、空間剥離、時間の固定、方法を考えていると、紫様の夢に侵入する手段を思いついた。私は胡蝶蘭を穴が開くほど見つめ、形、色、匂い、そのすべてを記憶した。そして、そのまま眠りについた。
気がつくと私は胡蝶蘭の生け花を持って、襖の前で立ちすくんでいた。大成功である。私には境界を跨ぐための式が組み込まれている。すべてを阻むような物理障壁ではなかったのが幸いした。胡蝶蘭が枯れる前に、紫様に見せなければならないという大儀を得た私は、式を発動させ、易々と結界を飛び越えた。これは決して悪用ではなく、式として主とその友人の関係性を保つための、いわば橋渡しである。例えるなら地元で働く青年と、上京して疎遠になった彼女がいて、私は遠距離恋愛を成立させるべく健気に飛ぶ伝書鳩なのだ。役目をまっとうするために夢の扉を堂々と叩くのだ。
襖を開くと、そこには花畑があった。椿や山茶花と言った花木から、花壇に植えられているものまで様々だった。
「あら、来たの。ふふ、ようこそ」
しゃがみこんで花壇に咲くシクラメンを眺めていた紫様は、こちらに気づくと手招きしてみせた。私は傍にしゃがみこんだ。花壇には雪が薄く積もっていて、シクラメンだけでなく、パンジーやクレマチスが等間隔に咲いていた。
「綺麗でしょう」
「ええとても。そうそう、紫様、これを。西行寺様からの贈り物です」
「それは、胡蝶蘭ね。植えてあげることはできないけど、仲間の近くに飾ってあげましょうか」
胡蝶蘭の生け花を渡すと紫様は立ち上がり、隣の花壇へと歩いていった。
「ここから春の花壇なの」
よく見ると、季節ごとに花畑は仕切られていて、色とりどりの花が咲いていた。花壇にはチューリップやなでしこ、足元には名前もわからないような野草が根を張っていた。しゃがみこむとヘビイチゴの実が頼りなさげに揺れている。少し先の丘にある桜の巨木はどこまでも堂々としていた。そして、桜の木のさらに向こう側は夏になっていた。
まるで鶯浄土をいっぺんに覗き見たかのようであった。風見幽香が見たら驚くだろう、いや、彼女なら自然の風情がないと挑発するか。紫様は欲張りだから、たくさんの風情を一度に味わいたいのだ。美しく咲く花びらも、それを支える茎も、強く張り巡らせた根も、すべて平等に愛でるのだ。
紫様は胡蝶蘭の咲く花壇の中に、生け花を置いたのだが、なんだか不自然であった。
「胡蝶蘭は春の花なのよ。まあ最近はハウス栽培で、いつでも見られるけれども。なるほど、そう言うことね。これはきっと花の霊ね、春度を与えて開花した胡蝶蘭の霊。季節を選ばず、人工薔薇より本物に近い。生け花なのに死んでいるこれはいかに。幽々子も洒落たことをするじゃない」
なるほど、霊だから白く光ったのか。
「そこで相談なのですが、この死んでいる胡蝶蘭、枯らさないためには、いかがすればよろしいのでしょうか」
「簡単よ。暖かな水を与えれば良いの」
「わかりました」
暖かな水とは、きっと春度のことで、どこで手に入るのかはわからないし、どうせ聞いても教えてはくれない。紫様は一つの返答にすべてを集約したがるきらいがあるから、簡単というからには、どこかに落ちているのだろう。のんびりと探すことにしよう。
「ところで藍、一番好きな花は何かしら」
「そうですね。鳳仙花なんか好きですね。ああ、梔子とかも」
嘘である。一番好きなのは桜なのだ。誰にも教えたことがない、私の秘密である。小さな秘密や嘘が大好きで、隠すのが上手ではないから、大抵は見透かされるのだが、これだけはいまだに宝石箱の中にある。なぜ嘘をつくのかと問われれば、沈黙で返すしかない。女狐の性である、ということにしよう。
「じゃあこれを」
そうとは知らない紫様は、夏の花壇から赤い鳳仙花を一株引っこ抜いた。私が手を差し出すと、初めからそうであったかのように鳳仙花は植木鉢に植わっていた。そして、両の手に重みを感じた瞬間、目が覚めた。枕元には夢で見た植木鉢があって、思いつきの鳳仙花が凛と佇んでいた。
6
伊吹様は神出鬼没を体現したような方である。普段は霧になりそこらを漂っていて、宴会や祭りで騒がしくなると、いつの間にか姿を現している。変な言い方だが、気まぐれをモットーにしているらしく、普通に呼んでも出てきてはくれない。呑み仲間が欲しい時または喧嘩したい時、気分で誰かに声をかけるのだ。だから会うのは容易ではない。しかし、私は口約束と言う名の切り札を持っていた。
それは神無月の半ば頃だった。発端は確か、魔理沙がキノコの蘊蓄を語ったことだった。なんでもヨイツブレと言う、酒との食べ合わせが非常に悪いキノコがあるらしい。これは鬼退治に使えるな、なんて冗談を飛ばすと、そんなもん効かんと伊吹様が啖呵を切り、すると紫様があらあらまあまあとしゃしゃり出てきて、大江山の昔話を持ちだしては余計なことを言うものだから、そこからは不毛な水掛け論で、最終的には呑み比べで決着をつけると言い出した。負けたら首をはねても構わないとも。
こうして酒の勢いに任せた呑み比べが始まったが、名だたる酒豪が集まっているとはいえ、鬼には敵わず、私や紫様はと言うと、あろうことか途中で冷静になってしまい、潔く敗北を認めた。良い酒でも献上して、終わりにしたかったのだが、納得いかなかったのは伊吹様である。本気を出してないと叱咤し、いずれ決着をつけると言って、どこかに消えてしまったのだ。
私らにしてみれば面倒な酔っ払いの戯れ事だが、言い出しっぺの伊吹様にしてみれば、自身に制約を架したようなもので、つまり、私が決着をつけに来たとでも宣言すれば、どんな状態でも現れるに違いないのである。
蔵の中で眠っていた、銘柄もよくわからない酒を持って、私は妖怪の山のとある場所に向かった。天狗の監視の目もあるが、結界管理と言う大義があるので、面倒な目に合うことはない。見回りらしき哨戒天狗に一言だけ声をかけてから、雪化粧を施した山を登った。
山頂付近で参道から逸れ、西に獣道を五分ほど飛ぶと、開けた場所に出る。そこには背丈の倍もある大岩がある。岩の頂上にほんのりと積もった雪を手で払い、私は腰を下ろした。無機質に尻が冷やされて身震いしたが、すぐに慣れた。
西の空へと落ちていく太陽が美しかった。すぐ近くの滝や、守矢神社に気を取られて見逃しがちだが、ここは幻想郷が一望できる隠れた名所である。なぜか天狗の管轄外であり、この大岩の上で鬼がこっそり天狗の集落を監視している、という噂が流れているものだから、絶景だというのに、ここは不思議と静かだった。この大岩も、そのために怪力自慢の鬼がどこからか運んできたらしい。噂を信用しているわけではないが、周囲の目がないこの場所なら、間違いなく伊吹様が現れるはずである。
「決着をつけに参りました」
一升瓶を掲げてそう言うと、ほんのりと酒のにおいがする霧が立ち込め、うっすらと人の形が現れた。瞬きを一度すると、角が生え、もう一度すると霧が晴れ、伊吹様がそこにいた。
「狐じゃないか。酒の席の約束を覚えているなんて感激もんだよ。ん、紫は?」
「久方ぶりです。主が冬眠しましたので、私一人です」
「そうかい、一人で来るとは、威勢がいいね。じゃあさっそく……」
「その前に、こちらを」
私はもってきた酒を差し出した。
「なんだい、この酒。何の銘柄だい、ええと、天狗文字じゃないか。まあいいか」
天狗文字はほとんど暗号なのだから、通りで読めないわけである。思い出した、これは確か紫様が解読してみせよ、とか何とか言って私にくれた酒だった。結局は解けずじまいで蔵にしまったのだ。ならば、これを機に厄介払いできて丁度良いかもしれない。伊吹様のにやけたような表情を見る限りでは、上物ではあるのだろう。
呑み比べに移る前に、私が結界のことを尋ねると、伊吹様はこう言った。
「ああ、お宅の猫ちゃんを見かけてね。丁度外に行こうと思ってたから堂々とね、姿を見せて通ろうとしたわけよ。そしたら止められちゃってね。以外に強情でさ、あんたそっくり」
「あんまりうちの子をいじめないでやってください」
「嫌だね。立ち塞がるならぶっとばす。で、ぶっとばした。だけどあんたのとこの子猫ちゃん根性あるね。いい眼をしていた。将来有望だねこりゃ」
こっそりと抜け出すこともできるはずなのに、この小鬼は、本当に意地が悪い。性根がチンピラなのだ。呑みに付き合わされる天狗が可哀そうである。悪気があってやっているのだから、たちが悪く、また彼女を強く否定できる者などほとんどなかった。けたけた笑う彼女を睨みつけてやりたかったが、喧嘩屋の思う壺に陥るのが癪だったので、ため息だけ吐いた。あとで橙のことを存分に労ってやろう。
「そうですか、伊吹様にそう言っていただけて光栄です」
「あんた皮肉屋に成り下がっちまったのかい。ここはさ、親の強さを見せつけるとこだろうに」
「生憎、私の爪も牙も錆びてしまいましたので。ところで、その時結界を弄りませんでしたか」
「鋭いね。言わないつもりだったんだが、聞かれちゃしょうがない。小さい穴が開いてたからね、応急処置にしかならんだろうが、塞いどいたよ」
「ははぁそうでしたか。ありがとうございます」
「いやいや、ところでその穴って奴がね、丁度猫が通れるくらいだったんだよ。あんたんとこの猫ちゃんもしかして」
「そんなことはないと思いますが……まあ今度聞いてみます」
橙が勝手に外出している可能性は、おそらくない。あちらの世界でも居心地が良いと思えるには、年齢も妖怪としての格も足りていないからである。それこそ自由に結界を弄れるほど成長してから、ようやく外出の切符を手にできる。
「ままとりあえずさ、呑もう。募る話はそれからでもいいだろう」
私は頷くと、伊吹様は懐から取り出した手のひらほどの盃を投げてよこした。それを受け取ると、間髪入れず、彼女の瓢箪からなみなみと酒が注がれた。私は一気に呑み干した。熱い液体が咽を焼きながら胃に落ち、たった一杯で身体の血液に熱が伝播した。恐ろしく強い酒だ。盃を返すと、伊吹様もすぐさま一杯目を呑み干した。
にやりと笑うと、すぐさま二杯目が注がれた盃を渡してきた。またそれを呑む。粗雑な味わいは、いくら呑んでも、渇きを満たしてはくれない。体液がアルコールに置き換わり、ついには脳が意識を手放すまで、浸潤は止まらない。豪胆で、どこまでも支配欲に満ちた酒だ。私もそれなりに酒豪ではあるが、夜まで持つか、不安になってきた。このままでは幻想郷屈指の夜景を堪能できず、この岩の上で眠りこけるだろう。
十杯も呑むと、身体が熱くなり、味蕾が麻痺したのか、酒の味がほとんどわからなくなった。
「いける口だねぇ」
「それなりには」
「ぶっ潰してやるからな。裸踊りが楽しみだ。いいや、サシだから陰口合戦でもいいぞ。なんでもいい」
「そんなことしませんよ」
「お前らはいつもそうだ。お高く留まってさ、呑むのを止めちまうんだ。今日は逃がさんからな」
「お手柔らかにお願いしますよ」
「嫌だね。紫もそうだ。全然酔わないうちに白旗を上げて、逃げちまうんだ。つまらない。あいつはダメだ。さらけ出せないんだな。怖いんだな、弱いんだな。あいつと呑むのは、仮面舞踏会だな、まるで。行ったことないけど」
「む」
弱い、という雑言に不思議と苛立った。普段は軽く受け流せるような、酔っ払いの戯れ言に、胸をえぐられているような気がした。
「弱者ですか。伊吹様は弱者とはつるまないのでは?」
「そうさな。そうなんだが腐れ縁だよ、またの名を鎖縁。千切れないんだなぁなぜか。紫のこと、そんなに好きじゃないんだがなぁ。うん、あいつはたぶん強がってんだ、そこがいい。不屈の闘志、粋がる奴は嫌いじゃない」
どっちだ。いいや、聞くのは野暮である。
「わかるのですか」
「雰囲気でね。弱みを見せないように必死なんだ、かっこいいよ、粋だ。たぶんあいつは脆いとこがあって、それを出さないというか、根っこんとこを、隠匿するのがうまいんだな。花みたいだ」
「……そうですね」
お前が何を知っているのだ。危うくそう言いかけた。きっと彼女は知らない。脆さを見抜いてはいるが、実際に見たことはないのだろう。そして伊吹様は潜り込まない。隠し事を暴くのは粋じゃないと思っているからだ。わかってる、だから紫様も華々しく振舞う。いい関係だ。
そう言えば伊吹様は良く人の悪口を言って、誰彼問わず挑発するきらいがあるが、その弱いところを、赤の他人に勝手にひけらかしたりはしない。喧嘩を売っているだけだ。それはそれでたちが悪い。真実は心を抉る。鬼はそれを知っていて、わざと剥き出しの悪意でずけずけと物申し、火傷したいがために火種をばらまくのだ。
「それとこれとは別で、呑み比べは最後までやるべきだと思う。やっぱり嫌いだあいつ」
「紫様はたぶん伊吹様のことも好きですよ」
「うえ、きもちわる。嘘八百の八方美人だ。やだねぇ嘘は」
嘘ではない、はずである。しかし、伊吹様は嘘吐きに対して、次々と悪辣な言葉を並べ立てた。臆病で意気地なしのほら吹きという虚像を罵る、酒が回っているから舌も大回転である。鬼の持論を振りかざし、見えない敵を罵倒する様は見るに堪えなかった。聞いていると無性に腹が立ってきた。嘘を吐いたって良いじゃないか。鬼以外の妖怪は大抵、人間より力は強いがほとんどが嘘吐きだ。私だってそうだ。
苛立ちを感じつつも、そんな思いを口に出さないということは、まだ私の思考が生きている証拠だ。酔っ払いの口約束など、反故にしても構わないだろう。こんな湿った悪口が聞きたくて、呑んでいるわけじゃないのだ。
「酒癖が、悪い方と、呑む趣味は、ありませんので、ここいらで失礼しましょうかね」
「ええーそりゃないよ藍ちゃん。やっとあったまってきたのにさぁ」
赤ら顔で、眼をうるませて、懇願するように、伊吹様は盃を渡してきた。ここで立ち去れないのが、私の自我の弱いところだ。情けない姿を見ると、寄り添いたくなってしまう。
「しょうがないですね」
見せつけるように、ぐいと呑み干した。冷たい風が頬を撫でたが、すでに寒さは忘れていた。
そこから記憶は曖昧である。よほど深く眠ったのか夢すら見ず、気づいたときには大岩のごつごつした肌に抱き着いていた。
伊吹様はいなくなっていた。代わりに置手紙があり、乱雑な字でこう書かれていた。
「狐は下したぞ。次は紫、お前の番だからな。萃香」
あれだけ呑んでまだ足りないらしい。
「うう、頭が痛い」
吐き気がする。めまいと、腹痛も襲ってきた。仕事にかまけて、風邪をこじらせた時のような倦怠感が、水をしみ込ませた綿布団のようにまとわりついている。なぜ、苦痛が消えるまで眠らせてくれないのだろう。暖かくてふんわり軽い布団で眠りたいと切に願った。
自然を穢すようで申し訳ないが、異臭を放つほんのり温かい置き土産を岩の傍に残して、伊吹様の手紙を懐に入れ、私はその場を後にした。
「頭痛いなぁ、お腹も痛い。辛いなぁ、辛いなぁ」
そして寒い。冬の夜に眠りこけるなんて馬鹿だ。妖怪だからこの程度で風邪などひかないが、この寒さは堪える。北風に当てられた耳が冷たくて、とても辛い。
愚痴を吐きながらひたすら帰巣本能に従い、下山したつもりだったが、頭痛に加えて千鳥足なものだから、あちらこちらへとあらぬ方向へ行ってしまい、ついには迷ってしまった。ようやく頭が回り始め、空を飛ぼうという考えに至るころには、猫の鳴き声が耳に刺さり、マヨヒガに入り込んでいることに気づいた。
丁度良い、休むことにしよう。橙に醜態を見られるのは嫌だが、背に腹は代えられない。一刻も早く眠りたい。
井戸に行き、水の入った桶を口に当て、一気に飲み下した。こぼれた水で服が濡れたが、構わなかった。そして屋敷に上がり、橙を呼んだが誰も出てくる気配はなかった。どうやら留守らしい。
「ああそうだ、報告しなければ」
紫様への報告、眠る前に式の大義を得なければ。橙がお絵かきや勉強に使っている紙と鉛筆を、机から引っ張り出して、暖かな炬燵に入った。紙にはまず報告書と記入した。萃香様が結界に手を加えたことを、したためるつもりだった。頭痛を堪えながら概要を書いたところで、まどろみが吐き気や頭痛を上書きした。まだ、書き終わっていないのに。
気がつくと、色彩が白黒の海を眺めていた。地平線まで続く海は、いつか見た朧げな記憶のようで、その広大さは計り知れなかった。ふと感じるのは懐かしさだった。
「ねえ、二人で海に出てみない」
隣には紫様が立っていて、一艘の木製ボートを指さしていた。私は頷いた。報告をしなければならないのに、何も言いだせなかった。
海に浮かんだボートに乗って、少しだけ漕ぐと、波がゆっくりと私たちを海原に誘った。漕ぐのをやめても、ボートは白い砂浜から離れていった。
「懐かしいわ」
「そうですね。とても暗いです」
「闇の中にいるみたいね」
「はい」
海はなんて暗いんだ。何もかも呑み込んでしまいそうな、深い漆黒だ。無限の深さを想像させる。不可侵で、未知の領域だから、海は恐ろしくて心地よい。水の底は私たちが還る場所。私は水が嫌いなのに、ボートの上は、不思議と気持ちが良い。そして不思議と懐かしい。
「昔はゆっくり海を眺めるなんて、できなかったわ」
「多忙でしたね」
昔のことは忘れてしまったが、忙しかったのは覚えている。未熟だった、世界が慌ただしかった。具体的なことはほとんど思い出せない。だから断片的な風景を、思いつくまま言葉にしてみる。
「あの頃は……こんなに青い海は見れませんでしたね。そう、どろっとした血の海でした」
「命の残滓が、溢れていたわね。黒く染み渡り、丁度この墨染の海のように」
紫様はボートから手を垂らして、黒い海に触れた。凪の水面に、わずかな水音とともに波紋が広がった。その輪が当たると、ボートは制止した。漕ぐ手は自然と止まっていた。
私の傍に、白い色をした黄金の延べ棒がゴトリと落ちた。
「結界が完成した時は、感動しましたね」
「ええ本当に」
また一つ、重厚な音が聞こえた。
「だけど、苦労もしました。反対する者だっていましたし、あの頃の反体制側はむしろ私たちでしたね」
「変化を恐れるのが妖怪ですもの。変わらないものなど、ないというのに。どうしても、安らかな今を、この雲一つない空を、愛したくなるものです」
言葉を交わすと、白い輝きを放つ塊が、私の隣に積み上がる。甲高い叫び声のような金属が触れる音が、幾度となく繰り返される。話題が尽きることはない。目線と同じ高さまで、金が積み上がったところで、ボートが浸水していることに気づいた。
「大変です紫様。沈んでしまいます」
「まあ大変。逃げなくちゃね」
紫様はふわりと飛び上がった。私は立ち上がることができなかった。
ボートが沈んでいく。こんな本来の輝きを忘れて、白い光しか放たない黄金に何の価値があるのか、わからないのに、私は傍から離れられなかった。
「どこに行くのです。紫様」
「さて? 船がないのなら、月でも目指しましょうか」
「私も行きます。置いていかないでください」
「そんなひどいこと、したことないじゃないの」
紫様は僅かに浮いて、空気の層を踏みしめて、静かに佇んでいた。
尻尾が水を吸って、じっとりと濡れていて、気持ちが悪い。いやだ、私は水が嫌いなのだ。ああ、なのに沈んでいく。私を乗せたこの船は、海に呑み込まれてしまう。もう、胸まで海水に浸かってしまった。
鼻から塩辛い水が入り込んできた。震えながら眼を瞑り、息を止めることしかできなかった。
悪夢から目覚めてからまず私は、自分の股間をまさぐった。幸い、制御されてはいたようで、夢が現実に侵襲してはいなかったので、ほっとした。それにしても嫌な夢だった。溺れてしまった。紫様はずっと近くにいたのに。手を伸ばせばきっと救い上げてくれたはずで、その確信もあったのに、私は震えているだけだった。明晰夢と言えども、完全に思い通りに行くわけではないらしい。
自嘲気味にため息を一つ吐いた。寝汗で濡れた服を着替えようと起き上がったところで、ここがマヨヒガであることを思い出した。そして、炬燵で眠ってしまったはずなのに、布団の中にいることを、ようやく疑問に思った。
きっと橙が気を利かせてくれたのだろう。しかし、炬燵から引っ張り出されて気づかないとは、相当深く眠っていたらしい。それか、紫様の夢に入っていたから、私の身体は抜け殻同然だったか。いずれにせよ恥ずかしい姿を見せてしまった。
お礼を言おうと、橙を探したが、辺りは猫の声一つなかった。窓から差し込む光は月明かりだった。
「夜遊びは感心しないな」
間抜けな醜態を晒した主がどの口で言うのか、口に出した瞬間恥ずかしくなったが、そんな私の心情に気づく者は誰もいなかった。
仕方がないので、お礼の書き置きに、少しの小遣いで重しをして、私はマヨヒガを去った。
7
年の終わりも近づいているこの頃、人里ではある噂が飛び交っていた。なんでも、里に住まう人々が毎晩見ている夢に、ある共通した人物が出てくるらしい。どこかで聞いたことのある噂だと、私は気にも留めなかったが、その噂を広める役割に知らぬ間に加担している妖夢は、買い物の道中、興奮しながら語っていた。
「怖いですね。同一人物が夢枕に立つとは、きっと相当恨みの強い霊魂ですよ。いやだなぁ。会いたくないものです」
「腰の刀は何のためのものなんだ……」
「いやいや藍さん、そうは言っても。まあ日中なら斬れますよ、だけど夜中だと、もう考えたくもないです、仮に寝込みを襲われるのならまだいいですよ。鍛えてますからね。いや怖いですけど、だけど、夢の中じゃどうしようもないじゃないですか」
ならば忘れるまで胸の内にしまっておけば良いのに、とは流石に言えなかった。怪異というものは噂によって増長するが、人の不安もまた噂によって紛れるのである。だから噂話に狙いをつけた怪異は、ある程度賢いと言える。
しかし、噂の内容から察するに放っておいても何ら問題はなさそうだ。あまりに度が過ぎれば巫女が動くだろう。こうやって野次馬根性で噂話に花を咲かせているくらいで丁度良いのかもしれない。
妖夢と別れてから、買い物を続けてわかったのだが、どうもこの噂はまだ形が定まっていないらしかった。夢に共通する何かが現れるところまでは、妖夢から聞いた通りだが、それが人とは限らないのだ。ある者は化け物だと言い、ある者は失った家族や恋人だと言う。贔屓にしている布団屋の主人は、自分自身が出てくると言っていた。
完全に噂の概念だけが独り歩きしていた。なんとも気味の悪い現象ではあるが、噂というものは尾ひれがついて、思考の海を泳ぎ回るのが常である。いずれ収束して、像をとるだろう。形にならなければ、それは忘れられてしまったというだけだ。正体不明のまま、存在を保持できるのは、それこそ鵺くらいのものだ。
困り顔で話す魚屋の店主に、軽く同調しつつ、橙に渡す鰹節を一本買った。初めての結界管理業務に対する、ささやかなご褒美のつもりである。
「リボンもお願いします」
「あいよ」
魚屋の店主はいかつい顔つきをしてはいるが、見かけによらず指先は器用で、慣れた手つきで可愛らしいピンクのリボンをつけていた。どこかの御令嬢が飼い猫に与える用にと頼んで以来、この作法は定着していて、鰹節を買うと、こちらから言わずとも、リボンをつけるかどうか聞いてくる。猫を大切に、良い文化である。
店主が包んでくれている間、手持無沙汰に陳列された鮮魚を眺めていると、酒盗の瓶詰が目に入った。そう言えば、しばらく独りで酒を飲んでいない。大晦日、どうせ家には誰もいないから、こいつをアテに、降る雪を見ながら紫様に内緒で一杯やるのも、風情があって良いかもしれない。
「あ、これもください」
「あいよ」
どうせなら良い酒も準備しよう。
リボンのついた鰹節と、酒盗の瓶詰を受けとって、私は里の中でも評判の良い酒蔵に向かった。道中、正月用のかまぼこを買い忘れていたことに気づいたが、帰り足にもう一度寄れば良いだろうと構わず酒蔵へ行って、結局帰る頃には忘れてしまった。橙に鰹節を渡すことしか頭になく、その足はまっすぐとマヨヒガに向かっていた。
橙は完全に昼夜逆転していて、日中マヨヒガを訪ねると必ず眠っている。だから呼び鈴も押さず、唐草模様の風呂敷を担いだ泥棒さながら、音を消して玄関を開けた。
部屋で安らかに眠る橙の傍に、手紙と共に鰹節を置いて、私はそそくさとマヨヒガを後にした。本当は頭を撫でてやりたかったが、起きそうなのでやめた。
橙は間違いなくいい子で、訓練と言って呼び出すと、日中であろうと眠い目をこすりつつ、指定した時間までは来るのだが、それ以外では私を避けるようになっていた。しばらくは一緒に食卓を囲めてすらいない。せっかく外で買ってきた洋服も、箪笥の肥やしになっていて、この間なんとなくそのことを仄めかしたら、魔理沙と霊夢に盗まれたと答えていた。本人が悲しんでいるわけでもなし、特別怒りも沸かなかったが、せっかく橙のために買った服なのに、一回も着てくれなかった事実にはため息を漏らすしかなかった。
小遣いを渡すと、好きな服やアクセサリーを買ってはいるようなので、お洒落に興味がないわけではないようだが、式なのだからもう少し、私を喜ばせてくれても良いのではないか、そんな傲慢なことをどうしても考えてしまう。かといって教育者としては強制できるはずもなく、むしろ自立心が芽生えたことは喜ばしいことのはずで、詰まるところ、訓練以外は彼女の自由にさせていた。子供の成長は恐ろしく早いが、妖怪の変化は欠伸が出るほど緩慢である。長い目で見守ってやることが肝要なのだ。
8
屋敷の掃除は私の仕事なのだが、不思議なことに、何もしていない部屋にも埃は溜まるもので、毎日欠かさず行う必要があった。紫様が眠る寝室の掃除では、騒音を立てるわけにはいかず、せっかく調達した掃除機が使えないため、雑巾でやるしかない。手間を少しでも省くために、紫様の身体を清拭してから、余ったお湯で雑巾を絞り、そのまま掃除に移行するのがいつもの流れだった。
火傷せず、さりとて風呂の温度だとすぐに冷めてしまうから、少し熱めのお湯を洗面器に張り、そこでタオルを絞った。洗面器を寝室へと持っていき、もう一度温度を確認して、はじめに紫様の顔を拭いた。目頭から目じりに、額、鼻、頬、口の周りの順に拭って、首筋を拭いたあたりで、紫様の表情がふにゃりと溶けたように見えた。そのまま服をはだけさせて、胸から腹部にかけて、寒くならないようにできるだけ急いで拭く。その後、ゆっくりと寝返りを打たせて、背面を清拭する。服を整えて、布団の皺を伸ばしたら終了である。これだけしても起きないのは、よっぽど深く夢に沈み込んでいるからではあるが、私への信頼の証とも受け取れる。試したことはないが、きっと私以外が、身体に触れようものなら不機嫌そうに眼を開けるだろう。
だから私は信頼に応えるため、最上の冬眠環境を提供するのだ。温くなったお湯で雑巾を絞り、棚や床の間を拭いて掃除も完了である。
空調よし、匂いよし、完璧である。我ながら惚れ惚れする清潔さだ。
「よし、やるか」
年末にはまだ少しあるが、興が乗ったからこのまま大掃除も終わらせてしまおう。
冷たい井戸の水で顔を洗って、頬を叩いて気合を入れ直し、着物にたすき掛けをした。
屋敷はそこまで広くないとはいえ、余計な物で溢れかえっているから、あっという間に時間は過ぎた。ようやく断捨離と雑巾がけを終えて、蔵の整理をしようと外に出たところで、丁度陽が沈んだ。仕方がない、蔵は明日に回そう。
風呂を沸かして埃まみれの身体を洗い流すと、一日の疲れも一緒に流される気がした。
火照った身体で、そのまま布団に潜りこんだ。身体をくの字に丸めると、まどろみがすぐに誘いかけてきた。意識を手放そうとする最中、困ったことに、今日は夢に入るための大義を得られなかったことに気づいたが、一度手放しかけた思考を引き寄せるには、睡魔の誘いはあまりにも魅惑的だった。
またしても私は果てのない一本道を歩いていた。今度は獣道だったが、草木は私を避けるようにのけ反っていて、この先に何かがあることを暗示しているようだった。ちらと足元を見ると、草木の陰から小さな蛇が顔を覗かせていた。
「もしかして、お前か。噂の正体とやらは」
ただの勘である。以前もこの蛇は見かけたので、なんとなくそう思っただけだ。もしかすると、私の夢では蛇、誰かの夢では異形の獣、というふうに様々な形をとる怪異なのかもしれない。
蛇は怯えたようにこちらを睨めるだけで、近づいては来なかった。私もひたすら前に進むしかなかったから、蛇に触れることはできなかった。この事象は、異変なのだろうか。もしもそうなら、紫様に報告する必要がある。いや、きっとそうに違いない。異常事態になる前に、あくまで影から先手を打つ、歴とした管理者の役目である。
「あ、また会いましたね」
蛇を見失うと、今度は夢の管理者が草むらから出てきた。笑顔ではあったが、若干引きつっていて、疲労の隠れ蓑にしているかのようだった。私も似たような笑い方をするから、すぐにわかった。
「どうしたのです。随分と体調が悪そうで」
そう言うとドレミーが明るい表情になったように見えた。そう聞かれるのを待っていたといった具合で、妙に親し気に喋り始めた。
「お腹下しちゃったんです。皆同じ夢ばかり見るものだから食傷気味で、前もあったんですよ。ディスマンって知ってます?」
「さて」
「まあいいです。あなただって同じ料理を食べ続けたら飽きるでしょう」
「油揚げなら飽きませんが」
「飽きるんです。アレンジとか禁止ですからね、毎日きつねうどんだけ食べてみてください。おんなじ作り方で。絶対飽きますから。しかも私にしてみれば仕事ですからね、これ。獏は悪夢が大好物って言いますけど、そうでもないんです。魚が嫌いな猫だっていますし、骨をしゃぶらない犬だっています。個性って奴です」
「そうですか」
話を聞き流しながら、私の夢を弄って食べ物を出現させた。お菓子ではなく果物にしてみた。なんとなく、身体に良い気がする。糖分がたっぷり入っていて、結局摂りすぎれば悪影響を及ぼすが、気分の問題である。
もぎ取ったスナックパインを渡すと、ドレミーは千切って食べ始めた。食傷気味だと言っていたが、胃袋は頑丈なようだ。
「あなただけですよ。夢の中で親切にしてくれるのは。口は刺々しいのに甘くて、粋ですね。ツンデレさんですね。このパインみたい」
「良い夢をつまんだら良いのでは」
「そう言うわけにもいかないんです。お墓に備えてある饅頭をとって食べたりしないでしょう。乞食とかなら別ですが、一定のプライドがあるんです」
「私の夢は施しじゃないのですか」
「あれ、前に言いませんでしたっけ。あなたのは悪夢なんですよ。明晰夢なのに思い通りに身体が動かない、悪夢に間違いないです。試しに幸福なことを考えてみなさいな。たぶん失敗しますから」
私はいなり寿司をできるだけ鮮明に思い描いた。すると形、大きさ、質感まで完璧ないなり寿司が掌に収まった。にやりと笑ってみせたが、ドレミーは驚く様子すら見せなかった。口元に近づけても香りはなく、食べてみると何の味もしなかったので、これが悪夢だと実感した。しかめっ面を浮かべると、ドレミーは「でしょう」としたり顔で言った。
「通りで何もできないわけだ……」
「というか、だから私が来たんですけどね。結構食べたんですが、毎回望んで悪夢を見ているようで、珍しくて。しかも、お菓子をくれるまでは無味無臭でしたし。ほんと珍しくて。最近、抜け出せたと思ったら、また見てるんですもん。あーあ、また言っちゃった。私あんまり口が堅くないんです。だからイマイチお上からの信用がなくて、別に引っ掻き回すような言動をとってるわけじゃないのに。酷い話だと思いません」
「苦労されているようで」
「過干渉だっていつも怒られるんですよ。だからぼやかしてちょっと助言しているだけなのに」
「大丈夫ですよ、正直なところ、あなたは私の目的遂行の上で何の役にも立っていません。全部、自分か、もしくは現実で答えを見つけましたから。まあ息抜きにはなりましたが」
「あなた酷いですね。そうはっきり言わなくてもいいじゃないですか。私は私なりに気を遣ってですね、皆の幸福を願ってですね――」
嘘ではないのだろう。だが、彼女に大した力はないのだ。真理を伝える使命も、夢を牛耳る権限も、持ってはいない。だから、彼女なりに、助言をくれるのだ。
「わかってますよ」
私や、紫様も同じだから。
ドレミーは「そうですか」と照れくさそうに言って、泡のように消えていった。
9
橙に里の噂について調査を命じた。噂の出どころや、人妖に及ぼす影響をわかる範囲で構わないから調べて報告するよう伝えた。禁止事項は二つ、博麗が動いたら邪魔をするな、噂の原因を見つけたら逃げられても構わないから、触れずに報告すること、これだけである。保険のため逃走用の式だけを厳重に組み込んで、調査方法や報告の媒体は橙に任せた。これもまた、自律式の訓練の一環である。
要件を伝え、橙を鼓舞した。
「期待してるぞ」
「はい」
それは随分と無機質な返答だった。寂しさを感じつつ、橙を見送ってから、私は蔵の大掃除に取り掛かった。
三日もすると最初の報告書が届いた。報告書そのものに伝達の式を組みこんだらしく、私が受け取った瞬間、式は剥がれ落ちた。こんな器用なことができるようになっていたのだと感動しつつ、封を切り報告書を読んだ。
『内容:概ね蛇が夢に出現する。種類は不明、体長はおよそ三尺だが、人間の身長よりも大きいと話す者も複数人いた。出現するだけで、襲われたという事例は今のところ報告されていない。
範囲:人里全域で起こっているが、里の外でも目撃情報あり、人妖問わず出現する模様。出現条件と出どころについては不明。更なる調査を続ける』
様々なところで聞き込みを行っているようだ。人数や範囲について統計を取り、具体的な数字を記載したほうが良いとは思うのだが、初めてにしては上々である。よく見ると何度も直した跡があり、報告書と言う形でまとめるのにも苦心しただろうことが窺い知れる。先ほどの伝達の式も完全とは言い難い。だが私は心から橙の成長を実感し、目頭が熱くなった。やはり任せてみて正解だった。
これは一刻も早く紫様に報告しなければならない。私はこの冬で最も気分が高揚していた。待ちきれず、まだ昼下がりだというのに、洗濯物を放って眠りについた。
黒いスーツに身を包み、木製の豪奢な扉の前にいた。社長室と書かれたその扉を三度叩くと、中から紫様の声が聞こえていた。スーツ姿の紫様が革製の立派な椅子に座って、ガラス越しに外を眺めていた。
「ご報告いたします。橙に調査を任せたところ、このような報告があがっております」
私は報告書の内容を読み上げた。すべてを読み終えると、ようやく紫様はこちらに向かい合って、口を開いた。
「ご苦労様。ここでは狭いわ。屋上に行きましょう」
言われるがまま、私は紫様について、階段を上り、高層ビルの屋上へと出た。
屋上からは都会の景色を一望出来た。おそらくここは東京だ。日本の最も栄えている都市、建ち並ぶ灰色のビルは、高いところから見ているせいか、不思議と青い空に映えているようでもあった。紫様は指をパチンと鳴らした。すると、時間が早く流れ始めた。街が繁栄し、そして瓦解していく様を早送りで見る。地面からせり上がるようにビルが建ち、瞬きの間に崩れ落ちる。東京タワーの赤い色が剥げて、灰色に近づいていく。
人間はすぐに街を見捨てた。別の土地で、都市を再興させようと、知識だけを持ち出して去ってしまった。管理者がいなくなってから崩壊は加速した。植物が根を張るように金属に錆がつき、徐々に生命の気配が消えていく。死肉を漁る動物も居なくなった。
だが予想に反して、一番最後まで残ったのは人間だった。野良犬や烏が離れてもなお、街にしがみつく、未練を捨てきれない人間だった。
「あっという間でしたね」
観測者はいつも客観的で、時間の流れを感じ取れない。歓喜も、悲痛な叫び声も、鉄くずが吸収してしまうから、何も聞こえない。
「美しいでしょう」
「そうですね」
崩壊の瞬間に血が滾るのは妖怪の性か、それとも誰にでもある破壊衝動だろうか。荒れ果てた地には哀愁が漂っていて、桜が散るときのように儚く、美しかった。死は恐ろしいもののはずなのに、美しいと形容できてしまうのは、私が観測者の立場にいるからだ。他人事であれば、崩壊の風景は心地よく胸を打つ。
「あ」
唐突に紫様が空を仰いだので、それに倣うと、雪がはらりと降ってきた。個性豊かな結晶に光が反射して、キラキラと輝いていた。雪たちは灰色の街に、薄い化粧を施した。
「あなたはどう思うかしら。冬は厄も絶つような終末? それとも八雲立つような胎動? なんてね」
「後者でしょうか。終末はもっと唐突だと思うのです」
冬は蓄える時期だ。決して終わりではない。生命の執着心は貪欲だから、終末が来るとわかっているのであれば、叡智を結集して対処するか、逃げ去ってしまうだろう。だが、唐突な事象にすぐに対応するのは難しい。未知への恐怖が混沌を生み、すべてを呑み込んでしまう、それが終末なのだと、私は思う。
「そうね。きっと、気づいたころには手遅れね」
紫様は足元を見た。今度もそれに倣う。腐食はすぐ近くまで迫って来ていた。慌てようとしたが、心は落ち着いていて、震えているわけでもないのに、動けなかった。とうとうビルが崩れ落ちた。重力に従って自由落下している最中、錆びた鉄骨が頭に当たって、目が覚めた。
「嫌な夢を見た」
そして嫌な現実が目前にあることを、障子の隙間から差し込む冷たい風が知らせてくれた。庭には雪が腰の高さまで積もっていた。
憂鬱なため息を吐いて、私は防寒具を着込み、雪かきの準備をした。
10
結界管理に休みはなく、新しい年を迎えてもやることはいつも通りだった。師走を駆け抜ける勢いのまま、睦月も慌ただしく過ぎ去ってしまいそうだ。
寒さは強まり、ようやく雪かきのために起きるという習慣に身体が順応してきた。終わった後の水が美味い。水と言えば、あの幽霊の胡蝶蘭であるが、随分と執着の強い霊らしく、暖かい水とやらを一度も与えずとも、健気に咲いていた。これなら春まで持つかもしれない。
ちなみに夢でいただいた鳳仙花は、いつの間にやら忽然とその姿を消していた。想像が具現化することは幻想郷では珍しくないが、泡のように消えてしまうのも、また幻想的である。夢に還ったのかもしれない。
暖かい水で酒のことを思い出した。我々にほんのりとした春の陽気を想起させるのはいつだって酒である。大晦日に風情のある晩酌を、と思って買った酒だが、結局手をつけずじまいだった。
どうにも独り酒をする気分にならないのは、私がケチだからだろうか。栓を空ける瞬間もったいないという感情が先行して、手を止めてしまうのだ。私はそこそこ大酒呑みだと自覚していたが、実際は酒にあまり執着がないのかもしれない。
思い返すと、いつも酒は交渉の道具だった。ついこの間、伊吹様と呑み比べをした時もそうだ。自分が呑みたくて、誰かを誘ったことはほとんどない。酒は交渉材料にも自白剤にもなりうる恐ろしい魔薬だ。賢い者は酒に溺れないし、毒を以て毒を制すように、上手に使うべきである。とは言っても私よりも賢い紫様や、他の賢者様たちは独り酒を存分に嗜んでいるようだから、これは私の独りよがりな納得に過ぎない。おそらく、私は独り酒の情緒を噛み締めるための感受性が欠如しているのだ。
正月が過ぎてから、私はその酒を蔵にしまった。蔵は整理したので、もので溢れかえってはいるが、置き場所は確保できた。本当は断捨離をするつもりだったが、ほとんど何も捨てられなかった。大掃除の際、壊れた風車や、穴の開いた凧まで出てきた。壊れた玩具は、ずっと昔、人語がようやく話せるようになったくらいの橙と、一緒に遊んだ懐かしい記憶を想起させた。凧揚げをしていると、糸がぷつんと切れて、凧は風に流されて、運よく庭の梅の木の枝に引っ掛かったから、私は橙と一緒に木登りに興じた。
精々十数年前の出来事だというのに、その思い出は白黒だった。だが、たとえ色褪せても、消えてはいけない記憶だと、そう思ったから、これらは有益なものだと判断して捨てなかった。記憶は鍵のついた箪笥の中にあって、この玩具が鍵の代わりとなる。鍵をなくすと、たちまち忘れてしまうから、偶に取り出してみて、思い出に浸るのだ。とはいえ、長い年月を生きていると、大事なこともたくさん忘れてしまうから、あまり意味はない。紫様との出会いや、式神になった経緯すら忘れてしまった。そして今は、気にも留めていない。いずれ、橙の幼い頃の記憶も薄れていくのだろう。考えてしまうと少し寂しいが、仕方がない。
埃を丁寧に拭きとってから箱に入れて、隠すようにしまった。紫様は無駄なものを愛していて、だから咎めることもない。ただ汚らしいのは嫌いだから、整理して一定の秩序を保つことが大事なのだ。
橙の調査は順調で、報告書が届けば逐一紫様に伝えていた。多少状況に変化は生じているようで、例えば蛇が巨大化してきていること、範囲が幻想郷全土にわたり、また人妖問わず影響が出ていること、蛇を見ても特に身体や精神への異常が見られないこと、など規模が拡大してきていた。
この噂が収束したら、私は橙に八雲性を与えようと考えていた。式神とは本来、命令されたことを忠実に行うもので、単純な式であれば思考回路は存在しない。そのため、細かく指示を書き込む必要があり、例えば、噂の調査のためにほとんど意思のない烏を使役するならば、数を数える、ものを見る、音を聞く、話を取捨選択する、などいくつもの式を組み合わせてようやく使用できる。だが自律式は、目的を与えるだけで、あとは目的遂行のため自らの意思で行動する。橙が目指すべきは後者であり、ここ最近の働きはまさに自律式たる条件を満たしていた。調査してほしいという指令に対し、橙は自分なりのネットワークや能力を利用して、拙いながらも目的遂行のために動いていた。十分八雲の名を冠する資格はある、と思う。実は基準はないのだ。少なくとも、私は知らない。勿論、紫様の許可が必要だから、目覚めてから相談することになるが、おそらく「あなたが決めなさい」と言うだろう。
主のために自らの意思を持って勝手に動く、あくまで主のためが前提ではあるが、自律式とはそう言うものである。
11
報告書を片手に、私は広い空間に立ちつくしていた。
天井は白く、万華鏡のようにフラクタルの線がゆったりと移り変わる。カラカラ回る映写機のフィルムのように、狂った時計塔の針のように、ビードロの玉に映る顔のように、婦人の髪型のように。変化に規則性はあるようだが、次の形を予測できないほど多岐にわたっていた。
混沌、のような空間で、私は移り変わる線を眼で追うばかりだったが、いつの間にか隣に立っていた紫様は、ある一点を凝視していた。
「何か、あるのですか」
「中心、かしら。おそらくね」
同じ場所を穴が開くほど見つめたが、何もなく、変化する線があるだけだった。
「見えないわ、きっと。でも、たぶん、あそこにある気がするの」
「そうですか」
私にはよくわからない。巧妙に隠された中心は、私の濁った眼では捉えられない。紫様には見えているのか、いや、きっと見えてはいないのだろう。だけどこれは紫様の夢だから、何かを感じ取っているに違いない。もしくは、中心を見つめる行為そのものに何らかの意味があるのだろう。物事の本質を見極めるには、核心に触れることが肝要である。夢の世界に核が存在するかどうかは、甚だ疑問ではあるが、考えるのも億劫だ。今は移り変わる景色を、存分に眼に焼き付けよう。この混沌のような空間にも法則があるに違いない。
今、線が形どったのは生物だろうか、はたまた無機物だろうか。確かに見たことがあるのに、それを示す名称が出てこない。頭が回らない。世界はぐるぐる回っているのに、私の頭脳では追いつけない。どうしたものか、助けてください紫様。目線をやっても、紫様は変わらず一点を見つめるばかりで、何もおっしゃってはくれない。
「ここはどこなのですか」
「夢の中よ」
ここは夢の中だ。それはわかっていた。なんと聞けば良いのか、わからない。私はこんなにも言葉を選ぶのが下手だったのだろうか。
ぼんやりとしてきた。私もこの線に組み込まれていくような、そんな感覚だった。フラクタル図形のように規則的なのに、法則性が見えてこない。美しい、気がする。
12
私は夜風に春の訪れを想起できるような、豊かな感受性を持っていないから、時折、露悪的なリアリズムが欲しくなる。娯楽小説を置いて、貸本屋の暖簾を潜って外に出た。頭を使いたくないから、本ではなく、もっと視覚的なものが良い。
そうなると活動写真が良いだろう。あそこに行こう。河童が秘密裏に運営するキネマ館。まだ稼働しているかわからないが、私の足は自然と山のほうへと向かっていた。
小さなキネマ館は山のふもとにひっそりと佇んでいて、河童がすでに整備を止めていたから、建物の一部は辺りの植物に侵食されていた。それでもちらほらと客はあるようで、皆私と同じ、わかりやすい刺激を欲しているのだと思う。
このキネマ館は半年ほど前に幻想入りしたのだが、来た時にはすでに妖怪化していた。当初は映写機がカラカラと回るばかりで、スクリーンに何も映っていなかったのだが、商売に目ざとい河童が、香霖堂からフィルムを手に入れてきてからは、ずっと上映会が行われている。
フィルムはいくつか種類があったが、どれもこれも幻想入りしたものばかりで、一流と呼べる映像はほとんどない。大抵はチープなラブロマンスか、見るに堪えないエログロのスプラッタである。
当初は刺激的で真新しいと話題になり、集客も上々であったが、上映会を重ねるにつれ刺激に慣れた客たちが飽き始めた。どの映画も似たような内容で、冬が訪れてからは客足も遠のき、一部の好事家以外は来ることもなくなっていた。新しい幻想郷ならではの映画を作る者はついに現れなかった。当然と言えば当然である。外の世界に依存した娯楽は幻想郷には根づかないのだ。
集客が見込めなくなってからは河童は管理を止めた。だが映写機はずっと回り続け、堂々巡りで同じ映画を何回も映し続けている。
映画は始まっていたが、どこから見ても同じようなものだから構わない。ボロボロの椅子に腰を下ろして、スクリーンに映る鮮血やら臓物やらを眺め続けた。
映画の内容はというと、ドキュメンタリーとフィクションの狭間を意識していて、それはそれは醜い男が、売春婦をレイプし、殺して、臓物を引きずり出し、死肉を数口食べる、そんな話だった。ストーリーは別にあったが、私が見たかったのはその部分だ。
悪意が心地よい。製作者は拙い技術で、客を不快な気分にさせるよう撮影したのだろう。情熱も信念も何もない。安直で、どこまでもだらけた悪意が延々と流れ続ける。それがなぜだかリアルだと感じてしまう。
「こんなもんよね、人間なんて」
口からまろび出た言葉にはっとした。何も考えていなかった。誰も聞いてはいないが、恥ずかしくなって、意味もなくあたりを見回してしまう。あたりまえだが誰も私に注目などしていない。スクリーンに釘付けになっている者、睡魔に抗えなかった者、腕組みをして露悪さを嘲笑う者、皆自分の世界に入っていた。
その中で、私の三つ前の席に、見覚えのある緑の帽子を見つけた。入った時は薄暗さで気づかなかったが、眼を凝らしてよく見ると、その帽子の横には愛らしい小さな猫の耳があった。
橙だ。間違いなく、私の式だ。横隣りには見覚えのない、彼女の友達と思しき妖怪たちがいた。
反射的に私は男性に化けた。見つかっては不味い。そう思ったのは、この映画を見るという行為に、後ろめたさを感じているからだ。
しかし、なぜ橙がこんな映画を……いや、きっと橙も年頃で、悪意を見たかったのだ。悪い友達にそそのかされたわけでも、猟奇趣味に目覚めたわけでもない。そうに決まっている。
いけない、いけない、私はなぜそんな風に思い込もうとしているのだ。橙がどのような趣味を持っていようと、それに干渉してはいけないだろう。橙の胸の内など、完全にはわかるはずもなく、鍵をこじ開けて踏み入るつもりもない。主はあるのままを受け入れるだけだ。それが役目なのだ。
一度深呼吸して、心を落ち着けて、私は今一度スクリーンに向き直った。叫び声と、下衆な笑い声に集中する。もう二度と見なくて済むように、眼に焼き付けるつもりで、露悪的な絵面を、リアルとして落とし込む。不快にすらならない。俯瞰の立場で眺める者は、微笑を携えて佇むだけなのだから。
クライマックスのシーンに入った。発狂が連鎖し、混沌へと至る。阿鼻叫喚を視覚的に体感して、この映画は幕を下ろすのだ。
画面の中の男が鉈を振り上げた。後ずさりする女の足首を狙っている。惨憺たる現場に居合わせても、冷静な判断を失わずに逃げのびてきたこの女も、すでに混沌の一部に組み込まれていた。
いよいよだ。壁を背に、女は怯えて震えている。男は恍惚の笑みで鉈を――
キネマ館を出ると、言いようもない脱力感に襲われた。興奮も焦りも今はない。代わりに、紫様の夢を見たいという渇望が蘇ってきた。
橙のことは知らないふりをしよう。土足で踏み込むべきではない領域だ。あまり規則で縛るのもよろしくない。
今は男性に化けているが、鉢合わせたら気づかれてしまうかもしれない。早めにこの場を立ち去ったほうが良いだろう。それにしても夜風が心地良い。眼は随分と冴えている。夜の人里を一回りしていこう、そう思った。
夜の人里は静まり返っているが、ところどころ灯りがついていた。その灯りに虫のように吸い寄せられる人間も、少ないがいた。遊郭や小さな酒場は青い炎のように、小さく熱く燃えていて、夜の魔性に誘われた人間の目印になっている。
風呂にでも入ろうか。何なら風呂屋の二階にまで上がっても良い。変化を解いていないこの身体ならおあつらえ向きだろう。
ありふれた夜を流すように、私は暗い人里を歩いた。
「おや、まだやっていたのか」
この間寄った芝居小屋に灯りがついていた。この時間に客など入らないだろうに。それとも官能的な劇でもやっているのだろうか。そうだとすれば、さっき見た映画よりも生々しいかもしれない。好奇心を刺激され、私はまた芝居小屋の暖簾を潜った。
流れるように席についた。想像通り、卑猥な衣服を身につけた踊り子が舞を踊っていた。
大入りではないが、ぽつぽつと観客はいるようで、夜に魅入られた酔客たちは、それを食い入るように見ていた。しかし、頬に手を当てて、あくびをしながら、まるで鉢の中の金魚でも眺めるかのように舞を見ている客もちらほらとあり、何のためにここにいるのか疑問に思った。
木戸銭を払って、退屈そうに眺める様はなんだか滑稽である。想像してみるに、きっと彼らには居場所がないのだろう。心がどうにも冷めていて、夜の喧騒にも、静寂にも馴染めず、だらだらとするしかない。それならば星でも眺めれば良いのに。ますます謎は深まるばかりである。案外、期待して入ったら好みの踊り子じゃなかっただけかもしれない。
ついと舞台を見る。踊り子は美人ではなかったが、化粧が上手かった。そして何より、その動きがどこまでも官能的であり、欲情するに足りえないところを、演技で補っているようだった。
健気だ。艶かしさを醸し出すために、苦労した跡が見て取れる。眼が肥えていない並の男なら、間違いなく鼻の下を伸ばすだろう。
華奢な肉体、嗜虐性をわずかに刺激するような表情、そしてしなやかに動く手足はまるで――
「蛇だ!」
そう、蛇のようだ。
今の叫び声はなんだろうか。興奮した酔客か、いや、怯えが混じった声色だった。考える前に、もう一度同じ声が響いた。
「蛇だ! 助けてくれ!」
悲鳴であった。場内は静まり返っていて、皆一様に声の主を探していた。周囲の視線を辿るとどうやら声の主は、私の後ろの枡席に座っていた男のようだった。
男は目を瞑って身体をよじらせながら震えていた。短い呼吸、激しい心拍音、それが聞き取れるほどの静寂の中で、男は唐突にかっと眼を見開いて、けたたましい叫び声をあげた。そして急に立ち上がったかと思うと、そのまま前に歩き出そうとして、転んでしまった。
鈍重な音が響く。頭を打ったらしく、額の右のあたりから出血していた。
13
とうとう博麗の巫女が動いた。芝居小屋の中で、叫び声をあげて、したたかに頭を打ち付けた男は、そのまま里の診療所に搬送された。脳出血による片麻痺を患ったが、幸い命に別状はなかった。しかし、その男は夢に出没した蛇に対する恐れを、ところかまわず吐き出し続けた。普段は冷静だが、蛇の話となると錯乱したかのように語りだすらしく、それが霊夢の耳に届いたのだ。死人もなく、大した事件とも言えないが、里の中で妖怪が人を襲った事実は博麗の巫女が動くには十分な理由だった。
解決も時間の問題である。きっと山の巫女や森の魔法使いも動くだろう。この規模では歴史に残る異変になりえないので、その蛇にはもう少し頑張ってもらいたいと思うのも、妖怪心である。それにこの件を日常茶飯事として一瞬で片づけられては、散々調査を頑張ってきた橙の立つ瀬がないだろう。
相変わらず、橙の調査は難航しているようで、報告書が届く回数も明らかに減っていた。それでも昨日届いた報告書を読むと、状況が少しだけ変わったことがわかった。蛇は基本的に妖怪の夢の中には現れなくなっていた。蛇に喰われたと騒ぎ立てるのはもっぱら里の人間ではあったが、噂に対して懐疑的な者もいた。狩猟を生業とするまたぎ曰く「俺は見たことがない、そんな奴がいたなら締め上げて逆に食ってやる」とのことだった。
取材して得た情報をそのまま書くなど、まるで新聞記事のようだが、気にすることでもない。着々と調査を続けている証明になっている。
橙はこんなにも真面目だったのか、昔は呼びかけても屋根の上であくびをしているような子だったのに、いつの間にやら素晴らしい向上心と責任感が芽生えていた。主として感激である。
「頑張ってるな、橙」
悪い親心が私の中で膨らんできた。橙が仕事をしている様子を見たい。どんな手段で、調査を行っているか、非常に気になる。
放任するべきなのはわかっている。彼女なりのやり方で、失敗を重ねながら模索することが重要であり、主はどっしりと構えて結果だけを見れば良い。それが自律式の在り方だ。
だが、見たい。彼女の努力を誉めてあげたい。橙は嫌がるだろうな。恥ずかしがるか、もしくは緊張していつも通りに振舞えないかもしれない。これは私の自分勝手なエゴでしかない。
悩んだ挙句、先日の映画の件を思い出して、気づかれなければ何も問題ないという考えに至った。
さっそく変装して里へと駆り出した私は、道行く人に橙の行き先を尋ねた。耳や尻尾は隠しているかもしれないから、髪の色や背丈、服装、話し方を伝えたところ、以前取材を受けたと答えた者がちらほらといた程度で、現在の行き先を知る者はなかった。
さて、現在の居場所はどこだろう。茶屋でみたらしを頬張りながら考えているうちに、いくつか目星をつけた。西の方にある寂れた喫茶店、大通りにある酒場、宿屋……とりあえずは虱潰しに当たってみよう。
「よし、行ってみるか」
甘めのお茶で団子を胃に流して、席を立った。
のんびりと里を回っていると、夜になってしまった。あの酒場の店主が悪い。
橙は随分と熱心に取材しているらしく、酒場の店主は新聞記者の一人だと勘違いしていた。可愛らしいお嬢さんだと思ったとか、うちの娘もあんな風に育ってくれたらなぁとか、そんな話をするものだから、私はいよいよ嬉しくなって、世間話に興じてしまった。仕込みも終わっていたらしく、店主も夜になるまで暇だったのだ。
逢魔が時の酒場は穴場である。彼らにしてみれば、怱忙に備えて体力を温存しようとついついだらけてしまう、危険な時間帯である。
酒場の店主曰く、橙の眼はまるで獲物を狙う猛獣のような鋭さを持っていたそうだ。妖獣だから半分は持って生まれたものだろうが、ある程度老成した人間に伝わったということは、相当熱心にこなしているのだ。感心である。そんな話題を振られてしまっては、乗るしかないじゃないか。ちょっとお酒も呑んでしまった。たった二杯ではあるが、夜を迎えるまでには十分な量であった。
さて、目星をつけた場所はあらかた回ってしまった。どこに行こうか、夜風に当たりながら歩いていると、いつの間にか里の外れに来てしまっていた。
引き返そうと踵を返した直後、この先に賭博場があることを思い出した。妖怪が経営するその賭博場は、人里の境界線からわずかに離れており、弱肉強食の法によって成り立っているが、実はそれなりの理性が存在する。人里の裏の側面、人妖間の取引が行われる場所でもあった。
ちなみに私も紫様も、黙認している。裏も表も人妖の一部である。ただし、紫様はあまり好ましくは思ってないようで、ここの監視はほとんど私一人で担っている。
肝が据わっていれば、情報収集にはある意味うってつけの場所であり、橙が来ている可能性もありえなくはない。特に最近の橙は、どうにもこう言った裏の事情に憧れているようだから、もしかすると頻繁に訪れているかもしれない。
歩くこと数分、貧相な屋敷が見えてきた。古びた木製の壁にかやぶき屋根、窓はすべて締め切られていて、内側を覆っているらしく光はほとんど漏れてこない。立地さえ考えなければ、一見すると普通の民家のようではある。
近づくほどに喧騒が増していく気がした。
「ん?」
思わず声を出してしまった。緑色の帽子に、ピアスのついた猫の耳、橙が屋敷の外にいた。
いたのは良いが、橙は数人の得体も知れない男たちに囲まれていた。人型をとっているようだが、全員妖怪であり、熊のような見た目の男が今にも殴り掛かろうとしていた。詰めよられているようにも見える。気づいた瞬間、私は地を蹴って、男たちの間に割って入っていた。
橙に見つかってしまったが、そんなことよりも現状の理解と対処のほうがよっぽど大事だ。
あくまで丁寧に、刺激しないように言葉を選んで、熊の男に尋ねた。
「どうされましたか」
「どうもこうも、あんたこいつの保護者か。狸の親かと思ったが、狐か。ちょっとしつけがなってないんじゃねえか」
変装はしていたが、彼ら妖獣は匂いに敏感なので、私が狐だと見抜いたようだ。しかし、八雲藍だとは気づいてないらしい。私はあくまで何も知らない保護者を装った。
「どういうことでしょう」
「この猫は法を犯したのさ。けじめをつけなきゃ示しがつかねえんだよ」
橙のほうをちらと見る。右の頬と左眼に青痣があり、服もわずかな血液で汚れていた。おそらく歯も折れているだろう。惨い姿だ。あまりにもひどい。
力でねじ伏せようか、なんせこいつらは橙を傷つけた。大儀はある。隠している残りの尻尾を現出させて、妖気を少し浴びせてやれば、低級なこいつらは委縮するに決まっている。
もう一度橙を見た。橙はうつむいていた。懇願の涙でも浮かべていたら、私は拳を振り上げただろう。しかし、そうではないらしい。虐待を受け入れる子供の形相で、ただ無気力に立ちすくんでいた。
話を聞こう。すべての事情を聞いてから判断しよう。橙のためには、それしかない。
「事情を詳しく説明して欲しい。事と次第によってはそれなりの賠償をさせてもらう」
「話がわかるじゃねえか」
熊男の話を聞くと、橙はなにやら情報を探っていたらしかった。金を払えば教えてやると猿の妖怪が言ったそうだが、法外な値段を突き付けられたので、博打で決めることにした。その賭けで敗北した橙は、負けた分の金額を払い、その上情報量も支払った。そこまでは良かったのだが、狸の妖怪がその金を偽物だと見破ったのだ。
「なるほど。それはすまなかった」
私は財布ごと彼らにくれてやった。熊男が中身をあらためて、さらには狸の妖怪が偽物かどうかを鑑識した。間違いなく本物ではあるが、私が本気で偽装すれば、こいつらに見破られるはずもなかった。
そもそも彼らに金銭の純粋な価値などわかるはずがない。金銭など、いくら集めても今の幻想郷ではそれほど役に立たない。彼らは彼らのネットワークの中で、その金を回して、楽しんでいるだけなのだ。賭博という遊戯に安全な緊張感を付与するために使用されているだけ、命を削り合うような闘争をしたいのならば、賭博など必要もなく、その御大層に生やした爪や牙でえぐり合えば良いだけのこと。彼らもまた人間ごっこに興じているだけの理性ある妖怪なのである。
「すべて本物です」
「ああ、そうみたいだな。よし今日のところは帰んな」
「そうさせてもらいます。行くぞ橙」
「はい……」
うつむいたままそう言って、橙は夜に溶けて見えない私の影を踏むかのように後をついてきた。振り返ることも、顔を上げることもなかった。
賭博場が完全に視界から外れたあたりで、私は橙と横並びになった。橙は一瞬だけこちらを見たが、またうつむいてしまった。その時にわかったのだが橙の眼には濃い隈ができていた。映画館で見かけた時も、先ほど顔を見て痣を確認した時も気づかなかった。これでは主失格だな。そう思った。
「家に帰ったら、美味しい肉でも食べよう。そしてゆっくり眠るんだ」
「はい」
屋敷に戻ってから、まずは橙の身体を洗ってやった。普段は風呂を嫌がるのだが、今日ばかりは大人しかった。擦過傷を刺激しないように、優しく石鹸で洗い、ごわごわな髪の毛を丁寧に梳かしてやった。タオルで水気をふき取り、傷口に消毒薬を塗ると、染みたのかピクリと身体をこわばらせた。
こうやって、橙の世話をするのはいつ以来だろうか。懐かしい感覚、すべてを私にゆだねてほしいとそう思えた。服を着せようとすると橙は我に返ったとばかりに、その服を奪い取って自分で着始めた。ぎょっとしたが、すぐに先ほどまでが大人しすぎたのだと思い直した。赤子ではないのだから、このくらいは自分でするだろう。そもそも身体を洗うのだって自分で行えたはずで、ではなぜ、されるがままにしていたのだろうか。考えてみても、わからなかった。
「じゃあ食事の準備をしてくるからね」
ちょっといい肉を使おう。外の世界から仕入れた天然物だ。若い女性のもも肉である。妖怪にしてみればこの上ない御馳走であるが、紫様がそこまで好んで食されないので、余ってしまったものだ。育ち盛りの橙にはうってつけの食材と言えるだろう。小麦粉をつけてソテーにし、刻み玉ねぎのソースをかけた。
服を着た橙はちゃぶ台の前で正座して待っていた。
ソテーとサラダとごはんと味噌汁を二人分、ちゃぶ台の上に並べた。
「召し上がれ」
「いただきます」
箸でソテーをつまんで口へと運ぶ。なかなかにいい味だ。
橙も黙々と食べていたが、一度箸が止まったかと思うと唐突にこう呟いた。
「なんで、藍様は、殴らないんですか」
先ほどのことだろうか。それとも今までの振舞いについてだろうか。確かに私は橙が見ている前で、誰かを執拗に痛めつけたり、過剰な制裁を加えたりしたことはない。
「そうだな、私にとって暴力は手段の一つでしかない。話し合えるなら、そうした方がいいさ」
これは少し嘘だ。建前である。妖怪たるもの、力にものを言わせるのは当然であり、そちらの方が理に適っている。あえて話し合いをするのは、私が紫様の式神であるからなのだ。
「そうでは、いえ、そうですね……」
何か、納得がいかなかったらしい。だが、今すぐに理解しなくてもいい。ゆっくりと咀嚼して、いずれ自分の中で答えを見つければ良い。
食事を終えたあと、私は棚から何枚かの紙幣を取り出して、それを封筒に入れた。そしてそのまま封筒を橙に渡した。
「これは経費だ。仕事に役立ててくれ」
「あ、いや。その受け取れません」
橙は封筒を返そうとして来たので、私は説明した。
「いいかい、橙。式の役割は主の命令に従って仕事をすることだ。そして主はその式が十分に役目を全うできるように管理する責任がある。肉体の損傷があれば治す、疲労が溜まったようなら休暇を出す、この金銭もその一つなんだ。仕事を任せたのだから、必要なことは伝えてくれ」
「……はい。あの、ごめんなさい」
「なぜ謝るんだい?」
「いえ、あの本当に、迷惑ばかり……」
「迷惑なんかじゃない。仕事を全うすれば良いだけだよ」
私は封筒をちょいちょいと指で押した。橙はその封筒を大事にしまった。きっと有効活用してくれるだろう。
他の単純な式ならいざ知らず、自律式は消耗品ではない。メンテナンスを怠ればすぐに使い物にならなくなってしまう。私のように自分で自分を制御し、一から十まで管理できるようになるまでは、ある程度の支援は義務である。いや、投資といった方が良いかもしれない。この封筒には金銭だけではなく、私からの期待というプレッシャーも入っているのだ。今の橙ならきっと受け止められるはずだと、そう感じたから渡すのである。
「よし、今日はもう遅い。眠ろう」
私は布団の準備をした。その日は久しぶりにいつもの悪夢を見た。ドレミーがまたやってきて、少し仕事の愚痴を語った後、夢の隅っこだけをかじって、帰ってしまった。例の蛇は出てこなかった。やはり人間を狙っているらしいのだが、なぜだか腑に落ちなかった。
14
博麗大結界の点検があったので、ついでに神社に寄って霊夢の様子を見て行こうと思った。霊夢はここ最近では紫様が最も気に入っている人間である。執着を見せていると言っても良いくらいだ。確かに彼女には不思議な魅力はある。感受性は庶民的な豊かさを持っていて、それなのに仕草や言動が妙に浮世離れしているように感じる。博麗の巫女の特殊性だろうか、のんきな性格も相まって、あの神社には若干の血の匂いが混じった穏やかな空気が流れている。
東側から刺す光がどうにも眩しくて堪らない。異変解決に出かけていて、いないことも想定はしていたが、予想に反して霊夢は境内を掃除していたので声をかけた。
「久しぶりだな」
「ああ、あんたは。何、紫の偵察? それとも報復かしら」
報復とは一体何のことだろうか。気になったので尋ねた。
「いや紫様は冬眠しておられる。報復とは、また物騒な」
「あんたの猫のよ、え、知らなかったんだ。色々嗅ぎまわってるみたいだからね。ちょっと退いてもらったのよ」
あの傷の一部は霊夢がつけたものだったのか。どうしようか、主としてはここは報復と称して弾幕を展開するのも役目なのではないだろうか。いいや、やめておこう。争う気分ではないし、異変解決時の彼女は正当性を持ってしまう。もし報復するなら解決後が良い。
「そうだったのか。家の猫が失礼した。今日はお礼参りというわけじゃないんだ。純粋に進捗を尋ねてみようと思っただけよ」
「お礼参りはしていきなさいよ。正しい意味のね。はあ、進捗ねぇ。まあもう少しってところ。尻尾は掴んだ気がする。たぶん」
「随分自信なさげじゃないか」
「だって、あの蛇、隠れるの妙に上手いんだもん。夢の世界じゃ全然見つからないし、だから今は本体を見つけて叩こうと思ってるわけよ」
「なるほどね」
だいぶ難航しているらしい。強者の元には現れないという性質上、のこのこと巫女の夢に出てくるとも思えない。
「あんたも何か情報持ってるんでしょ。教えなさいよ」
「伝えたところで信用できるのか。仮にも八雲だ」
「ああもう、めんどくさい。紫みたい」
別に似せたつもりはなかったのだが、遠回しにはぐらかすだけの今の問答は、言われてみると紫様らしさがあるかもしれない。私は正直に答えた。
「実のところ、この件は橙に一任していてね。彼女から得られる情報以外は一切知らないんだ」
「ふうん」
それきり霊夢は黙ってしまった。口元に手を当てて、何かを考えているようだった。そして、何度か首をかしげてから「まあいいわ。ありがと」と言って、掃除を再開した。ふと彼女が行っている境内の掃除について疑問に思った。石畳の上は雪かきはされているが、他の場所には足首くらいまでの高さの雪が積もっている。落ち葉やごみの類はほとんどなく、あっても雪に埋もれてしまうだろう。
それに、藁の長靴を履いているとは言え、暖かくはなさそうな格好だ。漠然と、雪の表層と、石畳の上のわずかなごみを片付けるだけの掃除など、異変解決より優先させるべきことなのだろうか。それとも気分転換の一種だろうか。
「聞いてもいいか。なぜ掃除をしているんだ。異変解決に行かなくてもいいのか」
「え」
霊夢はキョトンとしていた。予想もしてなかったという調子である。
「どういうこと、禅問答?」
「いや、なんとなくだ」
「仕事だからよ。巫女の仕事」
「ああ、そうか」
納得はしなかったが、理解はできた。霊夢はこの惰性のような掃除も、仕事の一つだと割り切っているのだ。詳しくは知らないがおそらく、幼いころに紫様か、先代の巫女か、それとも育ての親的な何者かが、境内の掃除は仕事だと、そう教えたのだろう。何の疑問も持たずに受け入れているのは、自我が薄いというか、なんというか。
だが、考えてみれば当然のような気もしてきた。幼いころから博麗の巫女という仕事を与えられて、何の疑問も呈さずに順応したのだから、自我が薄いというよりは、己について達観しているのだ。すんなりと妖怪を受け入れ、また妖怪たちに好かれるのは、その宙に浮かんだような価値観のせいかもしれない。紫様が気に入る理由も少しわかる。純朴で寛容なところ、無知と惰性とも言い換えられるが、そこが霊夢を博麗の巫女たらしめているのだ。
霊夢は思いついたかのようにこう言った。
「あと、美しくないでしょう。庭にごみがあると気になるわ」
「なるほど」
その通りだ。私だって気になる。屋敷の掃除は私の仕事で、どうせなら塵一つ残したくないものだ。美しい方がいい。境内も、屋敷も、弾幕も、なんでもである。
「では、私はこれで失礼する。宴会を楽しみにして待っているよ、紫様も」
「あー、宴会ね。どうだろ。ま、紫によろしく」
別れを告げたのち、博麗大結界のある神社の正面へと飛んだ。
15
異変解決後の宴会に間に合うように紫様を起こさなければ。そのことを伝えるためだけに夢に潜り込んだ。この大義名分は自分でもどうかと思う。だが、いざ眠ってみると弾かれることもなく、すんなりと紫様の夢の中に入っていた。
薄暗い空間で、漂う空気はどんよりとしていた。規則的に並んでいる無機質な物体は、おそらく処刑用か拷問用の器具だ。鉄の処女やギロチンといった中世のものから算盤責や縄のついた水車など和製のものまで幅広く、所狭しと並んでおり、まるで博物館のようだ。
「悪趣味だ」
口をついて出た言葉とは裏腹に、胸が高鳴っていた。苦痛を与えるだけの感情を持たぬ道具の数々は、純粋な悪意の塊であり、妖怪的な魅惑があった。棘の生えた首輪、巨大な万力、のこぎり、木製の磔台、これは確か中世のゆりかごとか言う器具だったか。様々な器具は、沈黙を保っており、使われた形跡こそないものの、痛みを想像させる残虐性を醸し出していた。
紫様は少し離れたところにいた。傍に駆け寄って、私は口を開いた。
「そろそろ異変が解決しそうです。起きる準備をなされた方がよろしいかと」
「わかったわ」
いの一番に報告できた。いつも夢の中では私の口は堅く閉ざされて、何も言えなくなってしまうのに、今日はいくらでもお喋りができそうな気がした。
「素敵ですね。コレクションですか」
「そんなところ」
紫様は白い手袋をはめた右手で、ガラスの丸みに沿うように眼の前の巨大な砂時計に触れた。砂はさらさらと一定の速度で落ちて、積もり、山となっていく。この中に閉じ込めたら、きっと恐怖に怯えながら、圧迫されて動くこともままならず、身体はうっ血し、砂を飲めば嘔吐を繰り返し脱水に、そして最終的には窒息してしまうのだ。すべての砂が落ちるまで、身体が完全に埋まるまで、指折り数えながら打ち震えるしかない。痛みはじわじわと、気絶する機会すら与えてくれない。なんとも恐ろしい処刑方法である。
「窒息だけじゃ芸がないでしょう。水責めと同じだもの。これの新しい使い方を考えたのよ」
「と言いますと」
「ふふ、まずは広い空間を用意します。そして、対象者とこの砂時計を放置するの。ちょっと仕掛けを施してね。砂が全部落ち切ると自動的にひっくり返るような仕掛け」
「すると、どうなるのです」
「思考実験なんだけどね、何もない空間に独りきりでいることは、どんな強靭な精神力を持つ者でも耐えられないのよ。十中八九狂うわ。初めに時間間隔が麻痺して、次に幻覚を見る。そして意思を手放す。だけど、もしこの砂時計があったのなら? 正気につなぎとめる唯一の装置、しかも希望にすらなりえる代物。この砂がすべて落ちたら解放されるかも、あともう一回時計がひっくり返ったら助かるかも、そんな希望すら抱かせてくれるわ。希望に縋って、狂気と正気の狭間を綱渡り、終わることのない苦痛に違いないわ」
愉悦の笑みを浮かべて、紫様は震えるように笑っていた。ああ、素晴らしい発想です。残酷です。紫様もそんな魅惑的な表情をなされるのですね。
「妖怪には効果てきめんですね!」
「でしょう」
「ですが対象が人間の場合はどうしましょう。何せ脆弱です。精神的苦痛の前に肉体が滅びてしまうのではないでしょうか」
「そうねぇ。食料くらいは与えるとしても、管理は難しそうね」
嬉々として語ってくれる。私も同調して頭をひねる。数学の方程式に挑んでいるようで、とても楽しい。紫様は鮮血を美化するきらいがある。妖怪らしい残虐性がそこに在る。機能美を持った、悪意の側面。爪も牙も汚さず、恐怖と苦痛のみを与える。紫様らしいと思った。
そして私も同じだ。紫様ほど美しく飾れそうにもないが、私も残虐性を秘めていて、それを露出させると堪らなく心地良い。妖怪の在るべき姿に戻ったような、童心に帰ったような、無垢で真っ赤な欲望を共有できる悦びは、何物にも代えがたいものだ。
「紫様。私も考えます。もっと趣向を凝らせて、素晴らしい物にします」
「そう、でも、あくまでも合理的にね」
紫様は笑顔のまま、人差し指を立ててみせた。威勢よく返事をして、思考しようとすると、意識に靄がかかった。そして、何も想起できず起きてしまった。
起きた瞬間私は衝動的に夢日記を書き始めたが、数行したためたところで急に理性が攻撃してきた。興奮を打ち消すかのように自己嫌悪感が襲い掛かってきた。
「はあ」
情けない。犬のように興奮して、息を乱し、淫らな夢を追走するなど、恥を知れ、それでも八雲か。紫様ならおくびにも出すまい。興奮するのは本能の勝手だが、内側に固く閉じ込めておけ。私の理性がそう言い聞かせていた。
結局その日は両側性の感情を引きずったまま、だらだらと過ごしてしまった。
16
私はまたしても夜の芝居を見に来ていた。里に来て、用事を済ませてから芝居小屋に入ることが習慣になっていた。好みの劇でなくても、役者が出ていなくても、なんとなく落ち着くから来てしまうという、まるで毎朝飲む一杯の緑茶やコーヒーのような、微弱な依存性があった。
酒に溺れると生活がままならなくなるし、性や嗜虐の快感に中毒になると体力が持たない。だからそれらはたまに発散させる程度に留めることが重要であり、また危機感を持てる分、自制が効く。しかし、この芝居の鑑賞という習慣は毒にも薬にもならないような気がしてしまい、どうにも脱却できずにいる。好きな劇の時だけ見に来れば良いのに、と退屈な演技を眺めながら考えてしまっている時点で、無駄を許容してしまっている自分がいることに気づくのだ。
舞台の上ではこの前と同じ、化粧の上手な娘が、しなやかに踊っている。二度も三度も見ると、その動きが精巧すぎる故、艶かしいだけの機械なのではないかと錯覚してしまう。だけど、空虚さを感じないのは、彼女が体温を持った生身の人間だからだ。彼女にも生活があって、もしかすると家族もいるのかもしれない。実はこの芝居小屋に間借りしていて、昼間は歩みを伝って、客たちに弁当や茶を売りさばく売り子なのかもしれない。そして夜は化粧して、誰にも気づかれずに舞を踊っている。などと勝手に想像しているのだが、それが存外退屈を凌ぐ楽しみになっていた。
芝居や舞は虚構だが、内側に意識や感情を隠し持っていることを知っているから、楽しめるのだ。そう言えば秦こころという面霊気の能楽師も、表情はないが感情がある。芝居小屋に通う日々で何度も能を見たが、彼女は随分いきいきとしていた。演者たちは皆そうだ。それが魅力的で、私はついついここに来てしまう。
十分に満喫できている。だが、それにしても退屈だと感じてしまうのは、やはり通いすぎたせいだろうか。一度は欠伸を堪えたが、睡魔に抗うこと敵わず、そのまま眠ってしまった。
夢の中にはとぐろを巻いた蛇がいた。あの噂の大蛇が吼えていた。
変装をしていたからか、人間だと間違われたらしい。それとも襲う範囲を里の中に絞っただけだったのだろうか、まあどちらでも良い。調査は橙の仕事で、解決は人間の仕事だ。
大蛇は威嚇をするばかりで、こちらに近づいては来なかった。
「随分と臆病なんだな」
身の丈は三十尺はあるだろうか、私よりもはるかに大きい。胴の太さも樹木の幹のようで、人間一人が丸々収まってしまいそうだ。暗褐色の体表にはうろこがびっしりとある。見た目の特徴からすると青大将か、それとも蝮だろうか、どちらにせよ大きさが規格外ということ以外は馴染みのある外見ではあった。
蛇はしきりに吼えていた。
だというのに私に恐怖は微塵もなかった。威圧感もなければ、強い妖気も感じ取れなかった。むしろその咆哮は、まるでヒステリックに叫ぶことで、自らを守る人間のようにか弱いとすら思えた。
予感がした。この蛇は、私が何もせずとも、かすり傷すらつけられないのだ。
恐怖の色を浮かべない私にしびれを切らしたのか、蛇は大口を開けて、襲い掛かってきた。薄暗い桃色の空間が、眼の前に出現し、視界から光が消えた。蛇が口を閉じたのだ。
しかし、私は食われなかった。牙は身体をすり抜けて、ばつんという大きな音だけを立てた。痛くもなんともない。触れられたことすらわからない。空気が少し動いたような気がした。
「お前は、虚像なのだな」
肥大した虚栄心、それを守るために蛇は必死に声を荒げていた。私を食えなかった蛇はもう一度とぐろを巻いて、頭上から私の拳ほどもある黒い瞳でこちらを睨みつけていた。
察するにこの蛇は人も食えなかったのだろう。虚像だから仕方がない。それでも、恐れの味を少しは堪能できたはずだ。夢の中で、怯える人間の恐怖だけを食い、虚像だけを肥大化させていたのだ。初めの小さな姿でも、必死に飛び掛かれば腰を抜かす人間がいたはずで、それを足掛かりとして、体積を増やしていったのだろう。そう言えば、小さい姿の彼を何度か夢の中で見かけたが、あの時は品定めの最中だったのだ。物言わぬ蛇を見ただけで怯える人間を、探していたに違いない。
「良かったな。怯えてくれる人間がいて」
きっと現世の身体では小さすぎて、もしくは弱っていて、人を襲えなかったから、夢に潜り込むことで、意識の奥底にイメージを埋め込み、虚像を生み出していたのだ。よく頑張ったほうだと思う。憐れみすら覚えた。
「晴れて妖怪になれたわけだ。まだ夢の中だがな」
もっと大きくなれば、きっと実態を持って、暴れまわれるかもしれない。いや、その可能性も低いだろう。できるのならばとっくにやっているはずだ。彼はこれで精一杯、恐怖を演出しているのだ。
「だけど、夢なんて起きたら忘れてしまうんだよ」
哀れな蛇だ。
きっとどこかで恐怖の味を覚えてしまったのだろう。あれは甘美だ。中毒性がある。仕方がない。忘れられなくて、また蜜の味を味わいたくて、彼はこんなことをしたのだ。
だが里の人間を襲ったのは失策だ。巫女に眼をつけられるだけだ。はぐれ者を狙わなくちゃならない。外から来たのか、それとも山に住む蛇かはわからないが、掟を破っては生きていけないのだ。
「可哀そうに」
決着をつけてやりたくなった。
私が人間ならば、ここで剣を持って大蛇退治に臨めるのだが、そうにも行かない。ふと、この間芝居小屋で見た八岐大蛇退治を思い出した。彼もあの化け物のように神様に首を切られれば、満足して逝けるだろうに。せめて妖怪らしく散れるよう、巫女を差し向けてやろう。
17
時すでに遅し、巫女は蛇の本体を見つけ、退治してしまった。実にあっけない決着だった。伊吹様が修繕したという結界の傍にいて、ずっと冬眠していたそうだ。未熟な橙が修復し忘れた結界の穴を見つけ、外の世界から潜りこんできたは良いものの、幻想郷は冬真っ盛りである。今思うと当たり前だが、道理で人を襲えないわけである。むしろずっと夢の中にいたのだから、狙うなら悪夢を見る臆病な者に限られるのは必然だった。
一つだけ腑に落ちないことがある。夢の世界は基本的に不可侵だが、侵入する方法はいくつか思いつく。例えば紫様なら境界を飛び越えられるだろう。他には仙術や魔法によって鍵を生成する方法も、力や知識があれば可能だ。私のように一定の条件や、契約によって入り込むこともできるし、夢枕に立つなんて言い回しもあるから神格はもちろん、強い想いを持った人間でも可能である。とはいえ、あの蛇にそれほどの力があるとは思えないので、協力者がいるはずだ。
すぐにピンときたので、私は挨拶ついでに寄ってみることにした。
さて、外界の学者の説によると、蛇が夢に出ることは、すなわち性的な欲求不満なのだそうだ。蛇は男性のシンボルで、日本では煩悩の象徴としてこんな字があてられる。摩羅。くだらない連想であるが、おそらく摩多羅神が黒幕ではなかろうか。あの蛇に背中の扉を潜り、別の次元へと侵入する力を与えたのだ。これは理論や公式を用いた仮定でもなんでもなく、経験則による勘である。摩多羅神は面白半分にこういうことをする方である。
独り酒用に買った上質な日本酒を手土産に、私は後戸の世界を尋ねた。
入るとすぐに二童子が出迎えた。侵入者として対処するつもりのようだったが、八雲の名を出して、酒瓶をちらつかせるとすぐに表情を切り替えて歓迎してくれた。やはり酒は交渉の道具として非常に優れている。
「お師匠様はこの先です」
「ごゆっくりどうぞー」
そう言えば初めて会う顔だったが、ちゃんとした挨拶をしていなかった。
摩多羅神はいかにもな椅子に腰かけ、肘杖をつき、不敵に笑っていた。
「よくここまで辿り着いたな。そうだ、私が黒幕だ」
「ご無沙汰しております」
「さあ、虚栄の狂気に飲み込まれるがいい。紫よ、隠れてないで出てきたらどうだ。お前の聡明な式が無残にも……」
しまった。楽しんでおられる。せっかく醸し出している雰囲気を壊すようで、申し訳ないが、そのつもりで来たわけではないのだ。もし敵対するのならば二童子と戦ってからここに来るのが筋である。
「あの、紫様来てませんよ」
「なるほど、高笑いを決め込むつもりか。くくく」
「ホントにいませんって」
「……なんかノリが悪いなお前。ほんとに紫の式神か?」
正真正銘、紫様の式神である。それほど機知に富んではいないだけである。情熱的な問答ができないわけではないが、報告や挨拶のたびにやっていては脳が疲れてしまう。
「はい。ご挨拶に参りました。摩多羅様、私が乗り込む理由もないですし、そもそも異変は解決という形で収まってます」
そう言うと摩多羅神は眼を丸くして、椅子から身を乗り出した。
「まって、おきな予想してない。どういうこと、じゃあなんであんたがいるわけ」
「まあ、気晴らしに謎解きしていたら辿り着いたみたいな感じです。あとは、先ほども言った通りご挨拶と言いますか」
そう伝えると、今度はこれ見よがしなため息を吐いた。せっかくの昂りを棒に振ってしまったようで、申し訳ないが、私の仕事ではないのだ。
「くそ、回りくどすぎたか」
「いやあ、そう言う問題じゃないと思います。ちょっと品がないと言いますか。フロイトとか、ユングなんてわかりやすい題材はまだ外の世界で現役ですし、しかもマラて、下ネタじゃ霊夢たちが気づくはずないですよ」
「うるさいうるさい。式神風情が、神を何だと心得る! 私は後戸の神であり、障碍の神であり、能楽の神であり、宿神であり、星神であり、この幻想郷を創った賢者の一人でもあるのだぞ。様々な側面を持つのだ」
だいぶやけくそ気味になってきている。そもそもこの異変を引き起こしたのも気まぐれなのだろう。しかし、短期間のうちに何度も異変を起こすのは、違反ではないが御法度である。あまり一人の強者が目立ちすぎるのは、均衡を保つうえでよろしくない。そのことをやんわりと伝えると「知らん知らんおきな知らん、新参だもん!」とのことだった。おそらく嘘である。幻想郷創生に携わった賢者なのだから、そのあたりは理解していると思うのだが、いやむしろ理解しているからこそ、おふざけを繰り返しても問題ないと判断したのかもしれない。
摩多羅神はため息を一つ吐いて、気だるげな視線をこちらに向けた。
「あーつまらん」
「お酒でもお酌しますから」
私は手土産の酒を取り出した。隣に行き、小さなおちょこを渡して、なみなみと注いだ。摩多羅神はぐいとそれを呑み干した。
「はあー欲張りすぎたかねぇ」
摩多羅神は愚痴りながらちびりと酒を呑んだ。
私は酒を注ぎながら、あの蛇について詳しいところを尋ねた。なんでもあの蛇は二童子が偶々見つけてきたのだが、大した力を持たない割に狂気じみた執着を秘めていたらしかった。調べたところ、外の世界の小さな村で、彼は一時だけ神格を得たらしかった。山の奥にひっそりと建てられた祠が、忘れ去られ、風化し、朽ちた時に彼の神格は霧散するはずだった。狭い村で誉めそやされて、怯えを喰らったその蛇は、その味を忘れられなかった。過去の思い出を薄めて、薄めて、必死にしがみついていたが、限界が来てしまった。せめて脱皮できればよかったものを、神格に返り咲く努力も、蜜の味を忘れる努力も怠った。彼の小さな病では、幻想に至れなかった。それでも幻想郷は受け入れたのだ。
摩多羅神は丁度良いと思い、夢の世界の扉を開く力を与えたそうだ。異変を起こすことを予想して、後は好きにやらせた。自分は黒幕として、この後戸の世界で待っていたのだが、今回は秘神らしく、誰にも気づかれなかったというわけである。
「暇だったんですか」
私は思ったことを口に出してしまった。自分も話を聞きながら勧められて酒を少し呑んだせいか、口が滑りやすくなっているようだ。
「まあ、その、暇だったんだよ。というわけでだ、今回の催し物にもそろそろ決着をつけたいと思うのだが、どうだ一戦交えるか」
「いいえ、それは私の役目ではないのです。それとなく広めておきますよ。血気盛んな誰かが殴りこみかけてきますよ」
「ぜひそうしてくれ」
神様や妖怪を殺すのは退屈である。刺激を求めていろいろと画策するのは、安定した立場に居座れている強者の特権である。
「退屈は神も殺す。間違いないね。昔はもっと忙しかったな。結界の成立の前あたりが一番だった。信仰の奪い合いに、賢者の会合に、さらには部下の管理。紫のとこもそうだっただろう」
「ええ、そうですねぇ。大変でした。毎日毎日、叩かれてばかりでしたよ」
過去の話題となると私も饒舌になってしまう。怱忙の日々すら美しく思えてくるのは、我々が過去に生きた妖怪であり、今が平和で退屈な証拠だろう。摩多羅神は嬉しそうに同調し、語った。
「ああ、あいつはああ見えて結構暴力的だったな。あとは常に何か固執していて、依存的だった」
「そうでしょうか」
「今もそうだろう。この箱庭に執着している。変化に敏感だが、古い物に執着する。そこは今も変わってなかった気がするね」
なぜだか怒りを覚えた。しかし、勝手に代弁はできない。一理あるし、紫様がこの幻想郷に依存的なのは確かだ。本当のことを言われた時、苛立ってしまうのは、どうしようもない本能のようなものである。特に紫様は秘密が多いから、あたかもすべてを知ったような口調で話されることに腹を立ててしまっているだけである。お酒が入るとどうもいけない。いや酒のせいでもないが、最近私はどうも荒れている。
「あいつは昔から変わらない。時代にいつも食らいつこうと必死だ。滑稽ですらある」
「あなたのほうこそ、今回のはちょっと滑稽でしたよ」
私はくいと酒を呑み干した。摩多羅神は物珍しそうに一瞬だけこちらを凝視して、にやりと口角を吊り上げた。
「言うじゃないか。いい僕を持ったなぁ、ほんと羨ましいよ。あんたに狂気はそんなに感じないけど、いい式だ。間違いない。あんたは似ているよ、紫にさ」
どこが似ているというのか。まるで違うではないか。適当なことばかり、言わないでいただきたい。だが少し嬉しく思ってしまい「そんなこと、ないですよ」と照れたように答えてしまった。
18
摩多羅神と約束してしまったので、私は神社を訪ねた。霊夢はこの前と同じように、雪が薄く残った境内を竹ぼうきで掃除していた。とりあえず異変解決の労をねぎらうと、霊夢はこう答えた。
「なんか大々的に異変って言うほどでもなくてねぇ。宴会になる前に小さく閉じちゃった感じ」
「その蛇のことだが、摩多羅様の戯れが原因だそうだ」
「またか。あいつが黒幕なのね。とっちめてやる」
それとなく、なんて面倒なのでそのまま事情を説明した。はぐらかすのは正直面倒であった。黒幕が退治されれば、宴会にもつれ込むだろう。ここ最近、気持ちよく酒が呑めてない。伊吹様との呑み比べの時は二日酔いで酷かったし、先日摩多羅神のところで呑んだ時も、昔話で火がついたせいか、悪酔いしてしまった。酔いが強くなってからは、話した内容すら覚えていない。独り酒にと買った酒盗の瓶も開けてない。こうなれば、宴会で気持ちよく呑みたいものである。
「宴会を楽しみにしているよ。無論紫様も」
「紫も来んの? 冬なのに」
「まだ眠っておられるが、お声がけはするつもりだ」
「ふうん。あんたも大変ね。あいつ寝起き悪そうだもん。丸一日かかりそう」
この時期は特にひどいのだ。無理に起そうとすれば無意識下で反撃してくるし、たとえ眼を一瞬開いたとしても、すぐに二度寝してしまう。二度寝の際のまどろみを邪魔すると、本当にまどろんでいるのかわからなくなるほどはっきりとした言葉で罵倒される。一番安全なのは卯月の後半である。もしくは眠った直後か。長年冬眠のお世話をしているからわかることであるというのに、霊夢はなんで知っているのだ。
「なんでわかるんだ……」
「いやなんとなく」
いつもこう言うのだ。感覚的に、しかし天才的に、紫様を捉えている。私はこの少女を快く思っていないのかもしれない。私が歩いてきた道中を、一息に飛んできたかのようで、気にくわない。
19
あの後、霊夢が摩多羅神を懲らしめに行き、異変は解決した。これが幻想郷縁起に刻まれる歴史となるのかは正直、わからなかった。夢の中でしか人を襲えなかったあの蛇はきっと忘れ去られてしまうだろう。せめて最後に姿を現して、邪神の形を取れていれば少しは記憶に残っただろう。その時に例えば、夢蛇とでも名乗れば、肉体が朽ちても概念として存在できたかもしれない。しかし、摩多羅神が黒幕を名乗ったことであの蛇は神様の戯れに巻き込まれた被害者としてしか認識されなくなってしまった。有象無象の一部でしかない蛇を特別に恐れる者は、なかった。最後まで哀れな蛇だ。
臆病で、怠惰で、弱い。きっとあの蛇は幻想郷への入り口が、自分より大きな蛇が口を開けているように見えたに違いない。勇敢に飛び込んだのか、それとも停滞を恐れふらふらと迷い込んだのか、きっと後者だろう。踏みとどまることができないのは、彼が欲に生きるけだものだからだ。たとえ頭脳が優れていても、止まることはできない。
私も似たようなものだ。夢を見る時、歩みを止められない。千年の歴史が育んだ理性が、多少なりとも咎めたがそれでも突き進み、藪を突いた。そこには鬼も蛇もいなかったが、妖怪然とした紫様がいた。彼と私の違いはそこだけだ。だから同情してしまう。ほんの少しの自制心と、頭脳と、先を見通す眼と、窮地を逃れる術を持っていれば、もっとうまくやれただろうが、いろいろ足りないのは仕方のないことだ。憐れみくらいは向けてもいいだろう。
さて、異変が解決したので晴れて橙の仕事も終わりである。連絡用の式を送ったが一向に返事がなかったので、心配になった。橙の中では決着がついていないのだろうか。よくよく考えてみると、摩多羅神曰く、蛇は結界のほつれから侵入したそうだから我々の管理不足が原因とも言える。異変の全容が明らかになった今、真に責任を問われるのは私である。しかし、どうということもない。よくある話で、結果的には解決したのだから何の問題もない。反省を生かして、次に繋げれば良いのだ。
橙はもしかしたら責任を感じているのかもしれない。彼女も結界管理に携わったのだから、自分の管轄から蛇が侵入していたとすれば、その気持ちはわからないでもない。もしかすると私に叱られると思い、怯えているのだろうか。だとすれば、何の問題もないと教えてやらなければなるまい。
今日はもう遅いから明日、マヨヒガに様子を見に行くことにしよう。
眠る前にふとこの間食事をした時の橙のことを思い出した。うつむいて、何かから眼をそらしているような、怯えの混じった顔。言葉を堪えて、じっと餌を待っているような、そんな表情だった。
そう言えば一度も眼を合わせてくれなかった。今思うと、ずっと嫌な予感がしていて怯えていたのかもしれない。ずっと黙って、そうだ一度唐突に謝罪をしたんだ。私はなんと答えたのだろう。
そうだ「なぜ謝るんだい?」だ。
慰めのつもりの言葉だが、あれでは言葉足らずで、むしろ咎めているようにすら思える。謝罪をする暇があるのならその分、責任を果たせと、そう告げていると捉えることだってできる。
「主失格だな」
ごめんよ、橙。私を許してくれ。
子供だ。私は、橙の感情を理解してやれなかった。許してほしくて、怒られるのが怖くて彼女は謝ったのだ。自己を卑下して、私に叱られる前に罵って、頑張って言い訳を堪えていたようだった。叱咤を一つだけ与えて、問いかけてやるべきだった。あまりにも昔の自分に似ていて、自分を傷つけるのが怖くて……
「はあ」
過去に一度だけ紫様から向けられた、失望の眼を思い出した。世界で一番恐ろしいと思ったのだ。仕事の内容は数百年以上昔だから忘れてしまったが、ある妖怪の素性調査だとかそんな簡単な命令だった。単純なミスをして、それを取り繕うために失敗した言い訳を並べてしまい、紫様にあの嫌な眼を向けられた。諦めのような、失意のような、とにかく嫌な眼だった。
そうだ、その時、私は自分を殺そうとした。傷つけば、開放される気がしたから……最初に指を噛みちぎった。血は出たが、その程度では死ななかった。家の柱に何度も頭をぶつけた。気絶すらできなかった。死にたかったわけではないが、私はそう簡単には死なないことにも気がついた。自分で言うのも何だが九尾と言えば大妖怪だ。その程度で死ぬはずがなかった。
だから、足に石を括りつけて、私は川に飛び込んだ。嫌いな水に身体を埋めれば、苦しみが絶え間なく襲ってくると、そう思った。式が剥がれて、水を飲んで、息ができなくなって、ようやく意識を失ったのだ。
そして気がつくと紫様の声が聞こえた。涙混じりの声で何度も何度も謝っていた。
「ごめんねぇ、ごめんねぇ」
ああ情けない。人間的過ぎます。簡単に頭を下げないでください。私が全部悪いのです。なぜ謝るのですか。あなたは何も悪くない、全責任は私にある。罰を与えてください、どんな苦痛でも甘んじて受け入れます……
思い出した。あれは紫様の涙を初めて見た日だ。そう言えば、あの日以来、紫様は私をよく叩くようになった。傘で、何度も、何度もぶたれた記憶がある。今でも偶に叩かれる。この前など、良く叩かれましたねぇなんて昔話をしたら「私はそんな野蛮なことはしません」と言って傘で叩かれた。矛盾している。矛と盾の境界に立つなんて、根っからの隙間妖怪である。
「あ」
まずい。橙が、危ない。
最悪の予感がした。私は布団をはねのけて、着替えもせずにマヨヒガへ向かった。
夜のマヨヒガは閑散としていて、時折猫の声が聞こえるだけだったが、その分、自分の心臓の鼓動がやたらと強く響いているようだった。胸騒ぎが収まらない。想像通り、橙は屋敷にはいなかった。布団も敷かれておらず、食事の形跡すらない。廃墟のような寂寥感が、常にはマヨヒガには漂っている。そもそも、橙も雨露をしのぐために間借りしているだけで、八雲邸や里の屋敷のように管理しているわけではないから、それは当然なのだが、心のざわめきのせいか、はたまた夜の見せる幻想のせいか、澄み切ったはずの空気がどうにも不吉の象徴のように感じてしまう。
何か、橙の行き先を示す手掛かりはないかと、私はあちこち荒らした。襖をすべて取っ払い、箪笥を片っ端から開けて、かまどの中に潜り込んだ。当たり前だが手掛かりは何もない。橙の私物と、昔からあった古い小物が散らばっただけである。
「どうしよう……」
不安だ。眼の前に橙がいない。それだけなのに、こんなにも恐ろしい。探知型の式も組み込んでおけばよかった。自律式には不要だと、あえて切り捨てた私が間違っていた。
唯一の救いは、橙の式が剥がれていないことだ。それだけは、最優先で知らせが来るように設定したのだから。まだ、橙は大丈夫だ。だが、この胸騒ぎを鎮める理由にはならない。
「紙と、筆はどこだ……あった」
ちゃぶ台の上に、橙が報告書をしたためる際に使用していたと思しき万年筆と半紙があった。紙は貴重品ゆえ枚数は多くない。
私は探索型の式紙をいくつも作った。どれも精度はあまりよくない。数に限りがあるというのに、まともな式紙は一向に完成しなかった。
それもそのはずで、落ち着いて計算しなければ、上質な式は組み込めない。媒体が紙であるため、命令を無視することは決してないが、安否確認やら速度の上昇やら余計な式まで組み込んでしまい、結果的に無駄に難解なだけの質の悪い式ばかりができてしまう。今は焦燥がすべてを上回っていた。
「落ち着け、私」
深呼吸を何度も繰り返す。酸素を少しでも脳に送りたかった。
どうするか。紙ではなく、近くの猫に組み込むか。脳がある分、優秀になるはずだ。嗅覚や視力も初めから備わっている。いやだめだ。今の私の頭では、制御できる式を組みこむ自信がない。猫の意思の力でねじ伏せられてしまうだろう。やはり無機物だ。
「よし」
いくつも式を飛ばすうちに、合理的な解がようやく見えてきた。感情を殺して、不要な力を排除して、きわめて単純な式を組む。惑わされるな、橙を見つけるという回答以外は無駄だ。
「できた」
柱時計が唸るように鳴ったと同時に、私は最後にして合理的な式を組んだ。橙に組み込んである式を記憶し、探知して、磁石のように一直線にその場に向かう。こいつなら、ものの数秒で見つけてくれるはずだ。
式紙が北北西を向き、ふわりと飛んだ。その式の後を追いかけた。
壁や木に阻まれても、この式は真っ直ぐしか進まないから、私が障害物を壊した。これが一番冷静かつ合理的な判断だと信じ込んで、道を切り開いた。幸い私の爪は頑強だから、漆喰の壁やそこらの若木など、いともたやすく破壊できた。歩みは止めない。一直線に、それが一番合理的なのだ。
わずか数十秒で開けた場所に出た。激しい川の音が聞こえる。橙はそこにいた。激流を見つめ、うなだれている。
あまりにも、昔の私と似ていた。細胞が震えるような恐怖をかみ殺して、あの眼から逃げたい一心で、責任を投げ捨てるためにはこれしかないと、そう思い込んで、大嫌いな水に飛び込んだ私の過去を幻視した。
だめだ。川の底には痛みしかない。痛みはお前に偽りの慰みを与えるだけで、救ってはくれないのだ。
声をかけると飛び込んでしまいそうだから、私はそっと近づき、羽交い絞めにした。橙は私の顔を見てぎょっとした。口を「あ」の形に開きかけた瞬間、私は橙の頭を思いっきり殴った。橙の本心はわからない。ただ、鏡のような水面に自分を映し、黄昏ていただけかもしれない。昔の私ほど、弱くないかもしれない。だけど殴った。こうするしかないと、そう思ったから、殴ってしまった。殴ってしまったのだ。
「痛い!」
当たり前だ。そこそこ強く殴ったのだから。
「痛いか!」
「痛いです!」
「私も痛い!」
私だって痛いんだ。こんなにも痛いのは初めてだ。
「ぐす、うわああああああああ! 藍様の馬鹿ぁあああ!」
橙は泣いた。けたたましく、泣きじゃくった。抱きしめてやりたくなったが、私は仁王立ちして動かなかった。私だって泣きたかった。橙を殴ってしまったんだ。あんなに健気で、可愛らしい橙を……私だって痛いんだ。
本当は一緒に美味しいものを食べて、偶に良い服を買ってあげて、紅茶にはミルクとたくさんの砂糖を入れて、ケーキを焼いて、夜更かししたり、喧嘩をしたり、ちょっとだけ悪いことをして、その日は昼までぐっすり眠って、全部忘れて、幸せを噛み締めながら生きていきたい。
だけど橙はまだ若い。甘ったるい満足に浸るには早すぎる。辛いことはきっと彼女なりにたくさんあって、悩んで、苦しんで、それでも向き合わなくちゃいけないし、そう教えなければならない。
私が辛くても、たまには毒の一つを与えなければならない。綺麗なだけでは壊れてしまう。相当な、それこそ紫様のように固執的な精神力がなければ、耐えられない。泣いても良い。くじけた愛には一皿の毒を、薬に変じるまで与えてやる。自分で、自分なりに自分を慰める術を知るまでは、制御してやるのが主の務めだ。
私はだめな主だ。橙の苦しみを理解してやれなかった。頑張り屋で、ちょっと反抗期なだけだと決めつけて、深いところに踏み込むまいとしていたが、その実は何も見えてはいなかったのだ。暗闇の中で、真っ黒な子猫を幻視して可愛がっていただけだった。橙はもう、ずっと深いところに一人で歩いて行けたのだ。
少しすると橙は叫ぶように言葉を混ぜ始めた。
「わ、わたし、頑張るから、頑張りますからぁ! だから、だから、もう一回だけ、やらせてください!」
その小さい身体で八雲という名の責任を背負って、頑張っていたのだろう。意地を張って、平気なふりをして、紫様のように上手な笑顔ができなかったから、口先だけを尖らせて、怯えを隠し続けてきたのだろう。失敗も、それに伴う恐怖も、私に悟られまいと振舞って、自分で解決しようと必死に頑張ったのだ。
そして、もっと頑張るというのなら、橙の心が折れていないというのなら、私は許すし、何度でもチャンスを与えてやる。妖怪の時間は長いから、いくらでも待つ。
「わかった。精進するように」
拳一つで十分に伝わったはずだ。だからこれ以上は何も言うつもりはない。説教も、泣き言も、さっきの一撃に詰め込んだ。
「は、はい!」
涙混じりの威勢のいい返事が聞こえた。決意の籠った宣言だった。
自律式だから好きにやらせる。多少のことは大目に見るし、隠し事だって暴かない。そこは今まで通りだ。だが道を踏み外しそうなときだけは止めてやる。今回みたいに殴るかもしれない。いささか暴力的だが、半端な言葉よりも響くはずだ。
私はとびきりの笑顔を見せた。
「さあ今日は外食に行こう。外の寿司屋に連れてってやるぞ。紫様には内緒だからね」
「はい!」
涙で腫れた眼をこすって、橙は精一杯の作り笑顔を見せてくれた。まだ不器用だが、私はその笑みに救われた気がした。
20
今回の宴会は大々的に行われるらしく、解決直後の突発的なものではなく、屋台がいくつも出店し、三日がかりで開催する予定であった。なんでも、山の神様や河童たちが以前から計画していた春祭りと時期が重なったので、どうせだから一緒にしてしまおうという魂胆らしい。というわけで、異変解決後、一週間の準備期間が設けられた。そう言えば、正月が明けてからというもの、大規模な宴会や祭りが開催されていなかった。皆、飢えていたのだ。私もその一人である。持ち込み用の酒を買い込んでしまった。
さて、祭りの日まであと三日となった。そろそろ紫様を起こすべきだろう。まだ外は寒いが、宴会であることを伝えればきっと起きてくるに違いない。
とりあえず揺り起こそうと試してみるが、そんな程度では起きない。大声で怒鳴ったり、布団を引っぺがしても良いが、それでは目覚めが悪いかもしれない。だから夢の中から起こしてあげよう。なんて大層な理由をつけて、私はまたしても紫様の夢の中へと侵入を試みた。悪い遊びを覚えてしまったかもしれない。
「ああ、私は厭らしい女狐でございます」
眼を瞑ってそう言った。口にするだけで罪悪感が軽減された。
睡魔は一瞬で、意識を奪った。
気がつくと何もない空間に独り、私は佇んでいた。やや薄暗く、匂いもなければ音もない。足を動かせば歩けるが、周りの景色が同じだから進んでいる気がしない。こんなに無機質な夢は初めてだった。無意識の裏側に到達してしまったのだろうか。あまり居心地は良くない。
唯一の希望はこの先に紫様がいるという予感だ。もう少し歩けば、きっと見えてくるはずだ。話したいことが沢山あった。宴会のこと、橙のこと、紫様のご友人たちのこと。
「あ」
紫様はにこやかな笑みを浮かべて、ぽつんと立っていた。傍まで駆けて、私は嬉々として声をかけた。
「紫様。異変が解決しましたよ。あと三日もすると宴会です。そろそろお目覚めになられた方がよろしいのでは?」
「そうね」
表情は崩さず、紫様は答えた。感情が感じ取れない応答だった。一抹の不安を覚えたが、気にせず私は続ける。
「久しぶりですね。宴会ですよ。皆で騒いで、酔いつぶれて。美味しいものもいっぱい用意しなくちゃですし。霊夢なんかきっと今頃、ため息を吐きながら準備を進めていますよ」
「ふふ、そうでしょうね」
いつもの声色、いつもの言葉使い、だが空気と会話しているような気分だ。紫様は確かに妖怪然としているけど、これほど無機質ではなかったはずだ。
「紫様、どうされたのです」
「どうもこうも、私は私」
張り付いた笑みが、私の不安を煽った。何もない空間で、二人きり。会話する以外にはすることもない。私が黙ると紫様は一言も喋らなくなってしまう。だから早口で言葉を紡いだが、相槌ばかりが返ってきた。
虚無だ。紫様の形を模した虚像と話し続けているような、虚しさが襲ってくる。ここは夢の中のはずで、どんなことでもできるのに、変化に乏しいこの現状はまるで時間を氷漬けにされたかのようだ。苦しくて、息をしようと声を出す。その分だけ虚しさと不安が蓄積されていく。
打破しなければならないと、私は想像力を駆使した。私の知る限りの人物をイメージし、彼女らが酒を呑んでいる姿を思い描いた。それらは容易く実態化し、瞬く間に空間を喧騒で埋めていった。
「こんな感じになるでしょうね。今から楽しみです」
「そうね」
何も変わらない。何かを言わなければ、心を揺り動かすような言葉を吐きださなければと、私は思考を巡らせた。あまり口に出したくないような、下劣なことも行ってみよう。私は巨大な鉄の鍋を想起した。
「私も料理を作ったんです。見てください。水炊きですが、人肉の旨味が濃縮されたこのお鍋を。五十人分は用意しましたので、きっと皆満足してくれます。黙って出したら、霊夢や魔理沙たちも食べてしまうかもしれませんね。ま、それも面白いでしょう」
下衆な笑みを浮かべて、なるべく醜悪さを醸し出しながら言った。しかし、紫様は曖昧な相槌を打つだけだった。
「どうして、何も言ってくれないのです」
今度は、とうとう沈黙で返された。
堪らなくなった私は、赤ら顔で酒を呑んでいた霊夢の心臓を、手刀で貫いてみせた。想像の産物だから抵抗はまったくしなかったが、苦悶の表情は浮かべていた。
「新鮮な活け造りをご用意します。だから、だからどうぞ紫様も召し上がってください」
手早く捌く。一欠片だけ味見して、わざとらしく震えてみせる。なのに、紫様は嫌な顔一つ見せず、私を凝視している。混沌のような夢の中で、中心を見つめている時と同じだった。
活け造りを差し出した。だが一向に手に取る気配がない。
「ここは夢の中です。さあ遠慮なさらず。私は知っています。紫様は、きっと霊夢を食べたいはずです。それが健全な妖怪というものです。さあ、さあ」
何もしてくれない。叩いてもくれない。こんなにも興奮している私を見守るだけ。壊れ行く様を、最後まで見届ける観測者の眼をしていた。
嫌だ。そんな虚ろな眼で私を見ないで欲しい。失望のほうがまだましだ。
「ここは夢の中です。幻想の奥底です。だから出てきてください。恥ずかしがらず、さぁ。妖怪の妖怪たる所以を、ちょっとくらい見せてくれてもいいじゃないですか」
暴力でも叱咤でも嘲笑でもなんでもいいから、答えてほしかった。
しかし、主は決して、言葉を紡ぐこともなければ、肉塊に齧り付くような真似もしなかった。微笑みの皮一枚隔てて、果てしない虚無の夢が眼前に広がっていた。
「ふざけんな」
私の掌は主の心臓を貫いていた。生暖かい血液がどろりと腕を伝う。拍動は止まらず、肉はぐぬりぐぬりと修復を試みていた。自然と頬が歪み、恍惚を感じた。これが私の野性だ。幾重にも組み込まれた式により薄まってはいるが、仮にも九尾の狐である私の残虐性は消えてはいないのだ。快感だった。
「どうしたの。藍」
紫様は私を抱きしめた。優しい仕草で、温もりすら感じさせる声色で、愛を分け与えるかのように抱きしめた。なのに涙が溢れ出た。こんなに近くにいるのに、紫様の体温すら感じ取れなかったのだ。叫ぶように、言葉を羅列した。
「ため息交じりの苦労人である八雲藍を演じてきました。優秀で完璧な式であったかは、それほど自信はありませんが、それでもあなたの隣に在るに相応しい九尾の姿を、決して崩さぬよう努めてきました。嫉妬も情欲も全部隠してきました。小さな嘘を吐き続けていました。本当はあなたを殺したいほど、愛しています。誰よりも強く、幽々子や霊夢なんかよりも、よっぽど深く愛しています」
愛してる、なんて、言葉にするとこれほどまでに軽いとは思わなかった。いくらでも言える。慎み深さを放棄して、獣の咆哮のように雄々しく、言葉を以て伝えられる。
だけど紫様は応じてくれない。否定をせず、無限の包容力で飲み込んでしまうだけだ。それが辛かった。私は伝えたのに。一方通行の想いなど、無意味の類義語に等しいではないか。
私は主の背中に爪を立てながら、首筋に噛みつき、肉を食いちぎった。頸動脈から溢れ出る彼女の赤い体液が、私をオーガズムへと至らせた。
そこで目が覚めた。
耐えがたい自己嫌悪の波と不安が同時に襲いかかった。
「ああ、私は」
立ち止まれなかった。夢など覗かなければ良かった。下衆な狐の下卑た快楽のために、主をからかい、情欲を愛にすり替えて、愛してますと間抜けに叫び、挙句の果てには惨殺してしまった。あの叫びに愛など一欠片も混じってない。執着と情動の塊だ。
あんなのは私の、たとえ本性だとしても本音じゃない。断じて認めない。私は色情狂でも、猟奇趣味でもない。夢の中で狂気に当てられただけだ。汚らしい姿を晒してしまった。
なのに、なのに、紫様は罵声の一つもかけてはくれなかった。ああいう醜態は、紫様が嫌うはずなのに。空虚さしか、あそこにはなかった。
虚無が本質だなんて、信じられない。いつも紫様の夢は鮮やかで、美しかった。誰かに愛されるほどに綺麗だった。
共有した夢を思い返す。すべてが紫様の一部だ。
幽々子は崩壊の美を好んだ。
萃香は花の強さを好んだ。
隠岐奈は過去を好んだ。
霊夢は混沌を好んだ。
私は暴力を好んだ。
そして、紫様は世界を愛しているように振舞った。虚無だから、無限の包容力を持って、あらゆる美を演じきってみせた。すべては夢芝居の一幕に過ぎない。幕が下り、柏手が止めば、閑寂な空虚さだけが残る。ああ、違う。そんなはずはない。あまりにも残酷すぎるではないか。
私は空虚を抱きしめることはできそうにない。主の本質が慈愛で満ちた空虚だなんて考えたくもない。嫌だ。だとすれば私はこの爪で咽を掻っ切って、式の呪縛から逃れるしかない。主の見せる表情が、どれも作り物だなんて残酷だ。椀の中で静止した賽子を見るとき、一方からでは三面しか映らないのと同じで、だけど裏側には確実に数字が刻まれていることを知っているから、底や裏側、中身など気にも留めない。だけど私は誰も知らない紫様の一面を覗き込んでしまった。私だけが秘部に触れてしまった。
いや、違う、私だけじゃない。霊夢は感じ取っていた。あいつは混沌じゃなく、虚無を好んでいたのだ。生まれつき強くて、そして自然体、劣等感や焦りを抱くことは在れど、自身を決して偽らず、欲望に正直にまっすぐ生きていた。妖怪のようだ。そんな霊夢は異様に勘が鋭いから、紫様の虚無を感じ取っていたのだ。そうに違いない。そしてそれを心地良いと思えるほどの、狂気を持っているのだ。人間ゆえの順応、空に浮かぶ彼女ゆえの充足、底知れないものを恐怖とは思わず、居場所だと信じ込む無邪気な心。小娘のくせに、小娘のくせに。
嫉妬だ。嫉妬の感情を好奇心に挿げ替えて、私は深層を覗き込んでしまった。
結果としてどうだ。最悪の事態を招いてしまった。少しでも立ち止まって、自分の頭で考えれば、回避できたはずなのに。これではあの哀れな蛇と同じだ。間抜けな私には橙を叱る資格などない。まずは自分を制御しなければならなかったのだ。
私は恐ろしくなった。逃げ出したい。苦しい。吐き気がする。知性をすべて捨て去って、裸になって走り回りたい。夢から取り出した衝動のままに、紫様を殺して、喰らって、絶頂の果てに死んでしまいたい。
だが、それすら叶わない。心が瓦解するには、あまりにも年を重ね過ぎた。理性の檻が、野性を開放してはくれない。八雲の名を背負った時間は、あまりにも長かった。
苦しい。やめておけばよかった。刺激を恐れ、好奇心を捨てて、停滞した時の番人として、ゆったりと過ごせば良かった。
苦しい。後悔ばかりが残る。呻き声が聞こえる。
「紫様」
主は苦しそうにしていた。汗で白い寝間着はじっとりと張り付き、筋を硬直させ、苦悶の表情で唸っていた。
ああ、紫様を苦しめてしまった。せめて自傷する程度に留めれば、こんな苦しそうなお姿を晒すこともなかったというのに。
「……どういうことだ」
なぜ紫様が苦しむのだ。本質が虚無ならば、精神と肉体のつながりが希薄な睡眠中に表情が現出するはずもない。夢を見ながら寝姿のまま演技をするなんて、可能なのだろうか。第一、無意味だ。精々私くらいしか紫様の寝姿を見ていないのに、演じる必要などあるものか。きっとそうだ。私の小賢しい詮索が、紫様を苦しめているのだ。夢中で葛藤しておられるのだ。そうに違いない。だとすれば少なくとも虚無ではない。
私は宴会用の安酒を眠剤代わりに煽って、もう一度眠りについた。夢に侵入する大義など考える余裕はなかった。
またしても一本道だ。薄暗くて冷たい洞窟の中、ごつごつとした岩肌の道を気にも留めず、歩き続けていた。隣にはいつの間にかドレミーがいた。にこりと微笑んで、私に何かを伝えようとしていた。
「なぜいるのだ」
「悪夢あるところに獏ありです」
足を踏み出そうとしたところで、ドレミーは掌をこちらに向けて制止するよう促した。
「ちょっと忠告を」
「急いでいるんだ」
「焦ってはいけません。悪夢に呑み込まれますよ」
「構わない」
「構うんです。悪夢なんて覗いても良いことないですよ」
「それは私が決めることだ」
じれったい。無意味なやり取りだ。私は急がなければならないのだ。
「覗かれる方だって、気持ち良いものじゃ……」
「五月蠅い!」
ドレミーの着ている服の襟をつかんで、怒りを露わにした。だが、声を荒げた瞬間、はっとなった。ドレミーは少しだけ怯えた表情で、それを取り繕うように、人を小馬鹿にしたような眼で、私を見据えていた。
「助かりました、少し頭が冷えたと思う」
「良かったです。別に止めはしませんよ」
他人と話して少し落ち着いた。焦りも不安もまだあるが、強迫観念はなくなり、ある程度自由に思考できるようになっていた。足もいつの間にか止まっていた。
「随分親切ですね」
「まあ、あなたは結構良い人ですから。では。私はこれで」
私は良い人じゃない。主に悪夢を見せ、それを覗こうというのだから。そう言おうとした時にはすでにドレミーは消えてしまった。
代わりに、眼前には紫がかった扉があった。
紫様が準備してくれた扉だ。中心に刻まれた瞳が、こちらを凝視している。扉を開けるか、選ぶのは自分だ。紫様は選択肢を与えてくれた。
本当は立ち止まって引き返すべきだ。そうしないときっと紫様を苦しめてしまうから。だけど、それでは私が耐えられない。
深呼吸を一つした。
「大丈夫だ」
何が起きようと受け止める。毒食わば皿まで、後でどれだけ厳しいお仕置きをされても構わない。たとえ紫様に失望されても、必ず信頼を取り戻して見せる。
決意を固め、私は扉を開いた。
扉の先には先ほどと同じ、広くて薄暗い空間が広がっていた。
ただし、一つだけ違うところがあった。巨大な鉄製の檻があったのだ。
檻の前に紫様は番人のように佇んでいた。
「紫様」
「本当は見せたくないのだけれど、ねえ、全部忘れて夢から覚めない?」
「……嫌です」
「仕方ないわね」
紫様は身体を半分だけ捻って、檻に入るよう促した。
巨大な檻の中には、里の童子くらいの身長の紫様がいた。小さな紫様はブツブツと何かをつぶやいていたが、私を認識するや否や、声を張り、言葉を並べ立てた。
延々と紡がれる言葉は、魔女が呪文を暗唱する時のように、どこまでも淀みなかった。
「ふざけんな。死ね。勝手に上がり込んで、土足で荒らした挙句、唾を吐きかける盗人め。誰にも私の痛みを渡すものか。時の流れに茶化されてたまるか。エゴイズムむき出しの青二才め、粘性の甘ったるい蜜を秘部に塗りたくって股を開いてすり寄ってくる売女め。大仰にぶら下げたふぐりの中に愛など詰まっているはずもない。海と大地の贋作め。無邪気さを装ってうるんだ目で睨め上げれば万事許されると思っている悪童のくせに、快感の享受と称してマゾヒズムをちらつかせる忌み子め。歯に衣着せる物言いで言いくるめられると勘違いした虫歯まみれの出歯亀め。半導体の脳みそを蛇行する思考回路とか言う似非の個を主張して、我思うゆえに我在りなどと抜かす癖に、手に持った七色に光る金品は添加物だと断じて切り捨てる愚行、頭でっかちな免疫不全め。汚れるまいと払っていた泥、そこを居とする細菌の、大逆襲劇の始まりを察知できず、二進も三進もいかず衰弱していく己が身を呪うしかない。それでもなお、お前は清く在ろうとするのだろう。恐怖を脳の皺の片隅に追いやって、潔癖な正義感で優しさの手を差し出すが、その温もりの籠った掌は雑菌の温床でしかないのに、偽善も善と自虐的に称し、自惚れを隠匿した驕傲に浸りながら、憐憫のまなざしを矮小だと勝手に断じた者たちに向けやがって。何もない、お前の手には何もない。確かな感触に触れたのは錯覚で、お前自身が生みだした虚構の気化熱に過ぎない。しかもその熱を呑み込んで咽を火傷して、息すらままならない姿はお笑い種だ。好き嫌いせずに食う健啖家を名乗りながら、その実は味などまるで気にせず、酸いも甘いも死んだ味蕾の上を滑らせ、徒に胃袋を拡張することに躍起になる餓鬼め。いくら意地汚いふりをしようと、その蜘蛛の巣みたいな腹は満たされやしない。欲望だけがそこに在るんだ。生命賛歌の象徴のような真っ赤な果実に齧り付いて、汁を口元からこぼしているように見えても、ただただ涎を滴らせているだけなのに。やきもち焼きのお前は、もぞもぞと蠢く奴らを猛禽類のように捕らえて、食い荒らし、欲望のままに生きているつもりでも、揮発性の鉄くずに縛られたお前は間抜けそのものだ。気づけやしない、気づこうともしない。盲目だから暗闇こそが在り処だと信じて止まず、ついには光を忌み嫌うようになって、臆病な蝙蝠を嘲笑うのだ。三次元の胎の中で右往左往するしか能のない両性具有が、いくら群発性の狂気を訴えたところで、臍の緒を断ち切るなんてできやしない。むしろ首に絡まっていく様を運命だの定めだの宿命だのと呼称して小さく満足するに違いない。寂しがり屋が潔さの美学に執着する醜悪さは滑稽の一言に尽きる。お前に孤独を謳歌などできやしない。満月の夜に、独りで盃に浮かぶ月を、涙で濁し、飲み干して、咽頭を通り過ぎる熱を、愛おしく思うのだろうが、生憎お前が大嫌いな大衆もお前と同じ月を眺めているのだ。しかも、お前と同じだけの幸福を、月は分け隔てなく振舞うのだ。そして病魔に侵されたお前をやさしく見殺す。その瞬間、真の孤独を窺い知るだろう。愚鈍な感性では、黙殺に触れるまで実感できやしない。鈍感なお前はハイカラな文房具を従えて、海原を渡る船のような勇ましさで、鳥かごの小鳥を糾弾して、悦に浸る。卓越した頭脳でたとえ無間の光の質量を玉響に証明したところで、手慰みだと言いふらしながら片手間の快楽を静かに受け入れるのが関の山だ。大海原に漕ぎ出した気持ちのお前は、浅瀬でちゃぷちゃぷ遊ぶ奴らを人間のように嘲笑うが、奴らはお前が勝手に溺れて、もがいて、沈みゆく船を見てほっと安堵するのだ。克己的だと妄信している目出度い頭なのだとすれば、悟りに辿り着くまでに何億年を費やして、浄土を見出した時、瞬きの間に伸ばしっぱなしの髪の毛の隙間で孵った蚤や虱が、紫色の風に乗って門を叩くだろう。やたらと鋭い眼光がそいつらを見逃すはずもなく、丹念に丹念に潰して、ようやく太鼓の音色が止んだ頃、初めて浄土が妄想と気づく。そのくらい愚鈍で無神経、おまけに無感情、無関心。表情だけは一丁前だ。前門の虎後門の狼、四面楚歌、八方塞がりの暗がりにて八方美人に徹するに違いない。不干渉すら愛と受けとめる度量など持ってもいないくせに、まるで世界の果てを知った旅人の面構え。ありきたりの使いまわした厭世観、世界が変わらないことが前提の語り部は、暗雲と、擦過傷を丁寧に舐り合う仲間しか見えていない。興味ないわ、が口癖で、エゴを飼いならす術も知らないくせに、無敵のナルシズムの殻に籠り、内側にしか答えがないことを証明するため、結局は外の痴話喧嘩を蔑みながら、嫉妬する哀れな浮浪者め。一念発起して、バックパックに命綱と、ガス切れのライターと、聖書と、安物の大麻を詰め込んで、高山に登って、体内の酸素を入れ替えた程度で価値観を書き換え、己を土産に持ち帰ったは良いものの、お前の無事を祝う者など、厭世仲間にはなく、結局使い道がなかった命綱で首を吊れ。その時、初めて世界を呪うんだ。そんな無様な死に様がお似合いだ、声も出せず、後悔と執着を吐き出した粘着物の中に潜り込んで、大地を感じて死んでゆけ。温い雨だけが味方してくれるかもしれないが、それは生きてるやつにも届くことを知って平等の不公平さを今一度思い出せ。安楽椅子に癒着した尻にできた腫瘤がお前だ。治癒しない一生物の病魔と仲良く過ごして、その痛みに愛おしさすら覚えていくうちに、ものの見事に同一化したのだ。周りの奴らがその痛みを奪おうとしている医者のように錯覚し、頑なに椅子に座り続けているようだが、誰もお前の尻の穴に興味なんか持ってない。痛みと言う名の宝物は地平線の彼方まで行っても無価値だ。大きな犬がちらりと見えた自分の尻尾を追いかけまわし、グルグルグルグルと描いた螺旋を辿るだけのお前は、延々となだらかに曲がるその道のりの中で、偶々落ちていたその痛みに、高尚そうな意味らしきものを見出して、ほっと一息ついたのち、傷口を舐め、奮えながら眠りにつくのだ。そして朝が来る。夜を追い越す努力も、夜から逃げる努力も、知ったことかと、奴から勝手にやってくる。そしてお前はまた間抜けな犬の尻尾を追い回す旅に組み込まれるのだ。マンネリズムを打破しようとよそ見をしたところで、都合よく光を反射し、お前の阿保面を映すガラス片が落ちているはずもなく、結局目の前くらいしか見るものがないから、仕方なしに回旋を再開するのだ。誰も言わないから言ってやる。輪の中に答えは無い。少なくとも知らない。終止符を打とうとしている奴らに罵声を浴びせ続ける限りは、決して手に入らない。これぞ堕落、無精髭をどこまでも伸ばした男を罵るお前は、その黒々とした汚らしい髭の同義語だ。磨き忘れて鍵を無くした宝石箱を大事に隠し持つ、姑のように意固地で、道端の雲母の輝きに価値を見出す子供のように無知で、ケシの実の白に星のきらめきを想起するジャンキーのように無感情で、三下り半を突き付けて優位性の悦に浸りたいだけの醜女のように狡猾で、貪欲さを向上心と置き換えたがる卑しい太鼓持ちめ。下劣で、下衆で、下品で、下賤で、下卑た狸め。聞こえているか。この罵声が。聞こえぬのなら、その不必要な耳の奥のエスカルゴを引きずり出され、バターで和えて、食われてしまえ。後悔の住処に間借りした捕虜が、延々と呪詛を吐き続けることでしか生きる意味を見出せないのと同じで、お前は何かを否定することでしか、存在意義を見出せない。馬鹿め、阿保め、自分ならばこうするのにと、間抜けを間抜けと罵って、そのくせ自らはまともだと高説するその傲慢さには感服してしまう。気位の高い白拍子、寂しいくせに、寂しいくせに。肥大した像が収まる器を探す瘋癲、糸が切れた凧のようにふらふら頼りなくおどけて、人との差異など気にも留めないお前は、自分が世界の中心だと信じ込んでいるから、定住を拒むのだろう。やたら広いだけしか取り柄のない空の下にいることで、自己陶酔に浸るだけのくだらない半生を過ごせばいい。俺はまともだと、延々に懊悩から逃げ続ける仙人のように狂気を無邪気に振り回せばいい。馬鹿は馬鹿らしく。心の底から己がまともだと思い込んでいる馬鹿は脳なしだ。誰もが小さな夜を抱えて、それを愛でるのが大好きなのだ。固めた拳で恋人を殴打するかの如く、大事に大事に扱うのだ。それこそ普通、それこそ平凡。目指すは水だ。お前は水になりたいんだ。誰かの渇きを潤して、水中毒を起こさせるのが趣味の阿婆擦れ。汚らわしいわ、汚らわしいわと、汚泥を内包しながら叫び、偶に排水口の蓋を開けて臭素を嗅いで楽しむ穢れた醜女、お前の用意したコップ一杯の水など、皮脂が浮いていて、においも酷くて飲めやしない。指先から漏れ出た漿液が混入しているのが丸わかりだ。水になりたいのならば、狂気を求めて、蔑まれながら朝を生きるしかない。不可能だ、お前には。お前は何もできやしない。この出来損ないめ――」
魂の叫びと言うには老成していた。
自慰と断じるには激し過ぎた。
ピエロと嘲るにはあまりにも必死だった。
わかったのは、この小さな紫様は昔からここにいたということ。誰にも見つからず、ひっそりと匿われていたということ。
彼女なら抱きしめられる。そう思った。
だから私は精一杯、抱擁した。小さな紫様は抵抗もせず、延々と言葉を吐き出し続けていた。
すると、檻の外から紫様が言った。
「噛みつくだけよ。醜いでしょう。彼女は命のほかに爪と牙しか持っていません。玩具は取り上げましたが、どうにも言葉は難しい。私の一部だけど、私じゃない。わかるでしょう」
「はい」
「だから、忘れてあげてください」
「はい」
「嘘つき」
ばれてしまった。そうだ、忘れたくない。ずっと抱きしめて、愛してあげたかった。
「その子を離して」
「嫌です」
今度は本当の気持ちを伝えた。
「お願い。自分でできるから。愛してあげなくてもいいから」
「嫌です。私が勝手にやってることです。エゴです。渡しません」
「お願い。やめて」
「嫌だ嫌だ、私のものだ」
橙は殴ったけど、この子は抱きしめるんだ。私なら愛してあげられる。慈しみを持って、大事に大事に、傷つけることなく、抱擁できる。
「やめて、ちょうだい……」
紫様の涙混じりの声が聞こえてはっと我に返った。また、暴走してしまった。あれだけ自制すると誓ったのに、反省したはずなのに。私はどうしようもない女狐だ。現金で卑しくて、最低な式神だ。
小さな紫様を離し、私は檻の外に出た。
目が覚めた。外は暗い。障子を開けると夜風が吹き込んできた。春一番にはまだ早いが、冬の終わりを告げるような風が、私の身体を冷やした。胡蝶蘭が儚げな己を主張するかのように、弱々しく揺れていた。
廊下に出ると、紫様が縁側に腰かけて、空を眺めているのが見えた。すでに着替えておられる。声をかけようと思ったが、台詞が思いつかなかったので、とりあえず私も寝間着から着替えることにした。
服を着て、枕元に置いてある酒瓶を持ち、厠に行くついでに台所に寄って、開けてない酒盗の瓶を引っ張り出してきて、紫様の元へと向かった。時間をかけても、かける言葉は何も思いつかなかった。
先ほどと変わらず、紫様はずっと夜空を眺めていた。丸一日寝ていたのか、それともすぐに起きたのか、月を見てもわからなかった。だけど真円に近い月は、とても綺麗だった。
傍に立ち「おはようございます」とだけ言った。
すると紫様は私を見て、微笑んだ。その微笑みが、あまりにもぎこちないものだから、私の胸が締めつけられた。紫様はもっと自然な笑みができるはずで、あんな辛苦を抱え込んだ人間がおどけてみせるような笑みは、初めてだった。すべて、私のせいなのだ。
「あら、いいお酒ね。呑みましょう。お酌してくださいな」
「はい」
隣に腰かけて、盃を渡した。全然いいお酒じゃない安酒を注ぎ、酒盗の瓶を開けた。
「ほら、あなたも」
「はい、いただきます」
紫様が私の盃に酒をなみなみと注いだ。こつんとぶつけて、乾杯した。
酒は辛くて、酒盗は苦かった。呑み下すのが、苦しくて、かと言って吐き出すこともできなかった。
夜空を眺めたまま紫様が言った。
「ごめんね」
謝ることなど何もないというのに。すべて私が悪いのに。
「私が悪いんです、全部私が。ごめんなさい。だけど、だけど、寂しかったんですよう。ひぐ、ごめんなさい。えう、ごめんなさい」
とうとう押しとどめていた感情が溢れ出し、私は泣いてしまった。みっともない。こんな姿、紫様にだけは見せてはいけないというのに、情けない。同じ過ちを繰り返したというのに、言い訳ばかりが口から出てくる。小さな紫様がいるあの檻の夢を見て、私は少し救われた気分になったのだ。途端につけあがって、エゴを発散させて、散々弄んで、なのに、この期に及んで、私は許されようとしている。そんな身勝手で我儘な私を、紫様は咎めもせず、ただじっと眼を合わせて、想いを聞いてくれている。
何度も何度も、涙が滲んで何も見えなくなるまで、嗚咽交じりの声でひたすらに謝り続けた。
紫様は私が落ち着くまで何も言わないでいてくれた。今日だけは一度も私を叩かなかった。
半刻ほどもして、ようやく落ち着いた。私は涙を拭って、こう伝えた。
「忘れます。夢のことは全部忘れます」
「私もそうするわ。だけど、あなたは覚えていてもいいわ。それを望むなら」
あの夢も、このぎこちない笑みも本当は宝物にしたい。忘れたくない。大事に宝石箱にしまっておきたい。そんな私の想いなど見透かして、それでもなお慈愛を持って、それこそ獣を宥めるように接してくれる。怒り、困惑、悲しみ、失意、それらすべてを表出しないための柔和でどこかぎこちない表情。張りついたような笑顔の仮面を剥がしても、そこには変わらない優しい笑みがある。
私はどう応える。
決まっている。
「忘れてみせます。紫様は望まないでしょう。だから……」
「証明できないでしょう」
「では、一切合切口には出しません。あれは、ただの夢でした」
「それでいいわ」
これでいい。紫様がそう言ってくれるのだから。綺麗な言葉を隠れ蓑に、本当に大事なものは鍵をかけてしまっておこう。それが一番良いのだ。きっと。口に出さなければ、時が経つうちに色褪せて、忘れてしまう。鍵も錆びて、壊れてしまう。何事もそうだ。だけど失うわけじゃないから、怖くはない。
本音はすべて伝えたつもりだ。十分すぎるほど。だから何も怖くはない。言葉にはなっていなかったけど、涙以上の言葉を私は知らない。夢の中で語る愛よりも、涙の一滴のほうがずっと想いを詰め込める。だから、もうこれ以上は言わない。
今は他愛のない話がしたかった。何か、もっとくだらなくてもいいから話がしたかった。だけど、どんな話題もすぐに終わってしまう気がして、何も言えなかった。
何かを言おうとして、何も言えない沈黙を、先に破ったのは紫様だった。
「私も一つ、謝らなければならないわ。ごめんね。あなたのことが、わからなくなっていた。ずっと式神としてちゃんと扱ってきたつもりだったわ。不満があったんだと思って、いろいろ見せたんだけど。結局、意地悪しただけになったみたい」
「そんなことないです」
夢を見る日々は楽しかった。様々な側面を知って、深く理解した気分になれた。今思うと悪趣味だが、純粋に嬉しかったのだ。
「深い夜みたいに、全部わかったふりをして、最後はあなたに委ねたわ。だけどあなたのすべてを受け入れる覚悟なんて、本当はなかったの。あなたとちゃんと向き合えなかったの」
「そうだったのですか」
「これも忘れてね」
「そうします」
向き合っていないなんてとんでもない。私が勝手に粗々して、本来は隠しておくべきものを、さらけ出してしまった。それだけなのだ。受け入れる必要もないことだ。だけど、紫様にしてみればそれは、忘却してほしい事実らしかった。どこまでも深い、すべてを呑み込む海のような暗い夜を演じたい紫様は、一介の式に過ぎない私の、好ましくない一面を咀嚼できなかったことを、どうにも気にされている。
ならば忘れてみせる。そのうえで、隣に立つ。主が夜を演じるのなら、私は星に化けてみせる。
ふと、あることを思いついた。
「少しだけ戯れませんか。最近、芝居にはまっているのです。あわよくば女優になろうかと」
「いいわね。私も演技は得意よ」
嘘だけど、伝わった。芝居は好きだが見るだけで十分だ。だけど、この夜だけは、どうしても紫様と遊びたかった。一緒に夢を見たかった。独りよがりじゃない、ただ楽しくて、誰も悲しむことのない夢が欲しかった。
「初めて会った時のこと、覚えていますか」
「忘れちゃったわ」
「私もです」
とても大事な思い出だったはずなのに、記憶は徐々に色褪せる。長く生きていく限りは抗えない。それで構わない。栄枯盛衰、壊れない玩具がないように、消えない思い出も存在しない。少なくとも妖怪にとっては。
だけど、私たちよりもずっと短い寿命しか持たない人間は、思い出を忘却の彼方に渡さないように、少しでも時の流れに逆らうために、歌や言葉を残すのだ。
必死な人間の真似事をしてみよう。今からじゃ手遅れかもしれないけど、ひとときの戯れだから良しとする。
「どうでしょう。表題は『出会い』で。記憶はおぼろげですが、そこはまあ、直感的に補うということで」
「楽しそうね。いえ、楽しみましょう」
歌劇を始めよう。私も紫様も歌は大好きだ。もしかすると、劇の中に記憶の鍵が眠っているかもしれないが、そんなことよりも、楽しむことを優先に、見様見真似の大立ち回りを演じてみよう。
広い庭に出て、向かい合った。私は腕を組んで仁王立ちし、鋭い視線を浴びせながらこう言った。始まりはこんな感じが良いだろう。
「おいそこの女、何見てやがる」
紫様はにこりと余裕を持った笑みを崩さず、こう返した。
「私の式に成りませんこと」
「ふざけるな、我は九尾なり。手前のような小童が気安くものを申すでない」
「あら、私の眼がおかしいのかしら。九本も尻尾があるようには見えません」
「ぐ、うるさい、黙れ。もう一言でも喋って見ろ、手前の首を跳ね飛ばすぞ」
「恐ろしや、恐ろしや。血なまぐさいのがお好みなのね」
私も大好きなのよと、牙をむき出しに、紫様は口角を引き上げて笑った。
「こんな感じでしたっけ」
「なんか違う気がするわ。こうよ、こう」
紫様は無邪気な声でこう言った。
「素敵な尻尾の狐さん、私と一緒に遊びましょ」
打って変わって幼い雰囲気だ。私は泣く真似をした。
「えーんえーん、無理だよそんなの。だって一歩も動けないもの」
「どうして動いちゃいけないの」
「だって動けないんだもん」
「動けるじゃないほら」
「あれ、ほんとだ。封印が」
「私、八雲紫。あなたはそうね、藍って呼ぶ」
「藍、なんか素敵な響き」
一呼吸置いて、私は我に返った。
「なんですかこれ」
「あはははは」
間違いなくこんなファンシーではなかった。断言できる。
「こうですこう」
私はできるだけ腰を低くして、怯えたように話しかけた。
「あ、あの、あなたが巷で噂の八雲様でしょうか」
「はい。そうですが」
「私は名もない子狐でございます。群れもなければ、宿もない。若い根無し草です。私を雇ってくれませんか。お役に立ちます。雑用、戦闘、なんでもやります」
「ありがたい申し出ですが、お断りします。忙しいことには忙しいですが、幸い手は足りているのです」
「諦めませんよ、と来る日も来る日もその狐は紫の元に訪れて、頭を下げて懇願するのだった」
「とうとう私は根比べに負けてしまいました。はあ、仕方ないわね」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「こんなんじゃないわ。こうよ」
一呼吸おいて紫様は、ほんのわずかな狂気が混じったような黒い微笑を浮かべた。
「ふふ、ついに完成したわ。自律思考式九尾型式神、さあ、目覚めなさい!」
「オハヨウゴザイマス、ゴシュジンサマ」
「今はまだ片言ね。まあ元はそこらへんの狐だから仕方がないわ。だけど、式が馴染めば、かの白面金毛九尾の狐と同じ力を発揮できるようになる……そうなれば妖怪の時代がふたたび……」
「ハイ、ゴシュジンサマ」
「名前を決めなくちゃ。そうね。藍、にしましょう。藍はアイとも読む。最高のAIとして、私の傍で藍色の輝きを放つ存在になるの」
「おかしくないですか。AIなんて言葉、昔話にでてこないですよ」
「話の腰を折らないの。野暮でしょ」
「それに、なんか嫌です。この設定」
私の思考がすべて紫様によるプログラミングの賜物だとすれば、それはなんか嫌だ。自我は私のものであるという事実だけは譲りたくない。
「えーこれからが良いところなのに。私は不完全なあなたを従えて月に攻め込むのよ。戦いの中で進化を繰り返し、殺戮兵器だったあなたが心を手に入れる筋書きなのよ」
「なんですかそのどこかの一流の真似をした三流映画みたいな筋書き。違いますよ、もっとこうロマンチックな感じですって。大人の魅力があるような」
私は絶世の美男子に化けた。
「おい娘、俺の妾にならないか」
「まあ、素敵な殿方。これは運命ね……まって、どうやってこの後主従関係を結ぶのよ」
「それはまあ、あれですよ。何ですよ。夜の秘め事で、その屈服させられるといいますか」
「破廉恥!」
紫様は身体をよじらせてそう叫んだ。私は思わず吹き出してしまった。
「浪漫があって情熱的と言えば、こうよ」
紫様は私と相対して、わざとらしく肩で息をした。
「はあ、はあ、やるわねあなた」
「お前こそな、次で決める」
「その時、うおおおん! と凄まじい雄たけびが聞こえた」
「鬼が出たぞー! 町の人間たちが逃げ惑い始めた」
「一時休戦といきましょうか」
「ち、仕方あるまい」
お互いに渋々と、しかしどこか誇らしげに握手を交わす。そこで思わず紫様が自ら始めた物語だというのに、吹き出してしまったので、私もつられて笑ってしまった。
「流石にないわ、これは、くく」
「私もそう思います。こんな感じですって――」
とてもくだらないおふざけが、とても楽しかった。
過去を捏造した芝居を演じていると、今が現実か、夢かわからなくなってくる。夢芝居の幕が開けると、そこには夜が降りてくる。暗闇に呑み込まれ、色鮮やかな風景を幻視する。まさに夢見心地だった。
夢は夜の欠片だ。悪夢も勿論その一つで、見方によっては愛おしい。夜はたくさんのものを呑み込んでしまう。月明かりも、星空も、闇の誘惑も夜の一部だ。そう思うと月は随分と見栄っ張りだ。太陽のおかげであんなにも輝けるのに、そんなことはおくびにも出さず夜の女王様を気取ってる。厳然とした態度で、夜に生きる者を平等に照らしている。
だけど、今宵限りは私たちだけを照らして欲しい。
私は月を眺め、今までで一番、芝居がかった口調でこう言った。
「月が美しい夜は、なぜか血が滾ります」
「仕方がありません。こんなにも美しいものですから、私も魅入られた一人です」
「あなたもそうですか。気が合いますね」
「ですね……私は月を目指しております。あの輝きを掴むまで、手を伸ばすことを止めない愚かな旅人でございます。夜に焦がれた愚者ではありますが、よろしければ、あなたも同行しませんか」
「私はか弱い狐です。あなた様のお役に立てるかどうか」
「嘘はいけません。あなたはとても強い狐です。私の傍にいて欲しい」
「わかりました。御供しましょう。もし、あなたが夜となるなら、幾千の星に化けてみせましょう。千変万化はお手の物、卑しい狐ですから、偶に野暮な物言いもしてしまいます。完璧とは言い難い粗末な化生ですが、それでも傍らに立つ限り、素晴らしき従者を演じてみせます」
「期待しています」
にこりと、紫様は微笑んだ。いつものように、妖しく、優しく笑ってみせた。
いくつもの劇を繰り返しても、虚偽と理想が混じるせいで、正しい記憶が掘り起こせない。それで構わない。夜が無限の夢を見せてくれる。たとえそれが虚構だとしても、愛していきたいと思えるほどに、魅力的だ。
朝が来るまで踊りましょう。いずれは忘れる一炊の夢だとしても、このひとときを愛します。
雲の上を歩いていた。昨日は砂の上を歩いていた気がする。千里も先の光を目指して、機械的に足を動かしている。足元はふかふかの布団のようで、踏み出すと足首まで沈み込むが、真綿がまとわりついてくるような嫌な感触はない。
「止まれ」
試しに呟いてみたが、足は意思に反して止まらなかった。
「何をお探しですか」
忘れた。私は何を探していたのだろう。目の前に急に現れたのはドレミースイートで、ここはおそらく夢の中で、私は八雲藍だ。それはわかっていた。
「過去の記憶でしょうか、それとも甘い甘いお菓子とか?」
「たぶん違います」
「昨日も、一昨日も、そうやって闇雲に歩いていたんですよ」
「そうでしたか」
何か目的があったに違いない。私がずんずん歩くと、ドレミーはふよふよと妖精のようについてきた。
「お節介かもしれないのですが、アドバイスしてもいいですか」
「どうぞ」
「一つ、夢は身勝手な、なまものです。ついで言うと新鮮な夢のほうが私は好みです。勘違いされてる方が多いんですが、真理があると思われては困るんですよね。二つ、連続性があるとは限らない。耐え切れない恐怖とか、逆にとんでもない快感が刺激となって現実に引き戻されることが多いんです」
「三つ、夢の支配者たるあなたは何もできない。偉い奴らははぐらかすのが趣味なようで、どうにも、なんだ、困る」
口が勝手に動いた。大体わかっていること、もしくは予想がついていることを繰り返されたところで、私に益をもたらしてくれるはずもなく、かと言って親切に教えてくれている彼女に対し、こうもはっきりと告げてしまうほど、私は言葉を知らないわけではない。私の理性は道中置いてけぼりにされたようだ。
「……四つ、狂気が正気になりえる。夢を自覚すると言動が良心に逆らい始めますが、普通なので安心してください。今口走ったことは普通なので、私は別に怒ってはいません。ええ、よくある話です」
「申し訳ない」
歩きながら苦笑いを浮かべつつ頭を下げた。今度は言葉を選べた。夢のコントロールは容易くないらしい。無意識の領域に近いからなのだろう。
ドレミーは頬を膨らませてはいたが、本気で怒っているわけではなさそうだった。
とりとめのない話をしながらドレミーは途中までついてきたが、果てのない、目的を探すだけの流浪に退屈したようで「頑張ってください」と投げやりに言って、どこかに消えてしまった。その後も一人でしばらく歩いていたが、先の光に近づいている気がしなくて、いつの間にやら、徐々に身体が雲の中に沈み始めていた。それでも引き返すことはできず、視界がまっさらになったところで目が覚めた。
朝の陽ざしに照らされて、涼しい風が障子の隙間から入ってきているというのに、私の口からは欠伸とため息が漏れ出るばかりだった。
思い出した。私は紫様の夢に侵入を試みていたのだ。これで五度目の失敗であった。
2
最近紫様のことがよくわからない。そもそも紫様は秘密主義だから、脳の内側を暴き、彼女のすべてを理解することなど不可能だ。
それでも長年傍に寄り添ってきた私は、紫様のことをそれなりに知っている。例えば好物だ。外の世界の若者が好む流行りものが大好きで、よく外界で購入してきてはひけらかすように食べてみせる。古いものも好きだ。きゅうりのぬかの古漬けでご飯を二杯も召し上がられる。よく熟成されたチーズとか、干物とか、そういったものを喜んで食べてくれる。意外なことに人肉はそれほどでもないという。人もとい妖並みには好きなのだが、見ただけで咽を鳴らすほどではないらしい。赤飯のようなもの、と言っていた記憶がある。それ以来私は正月やお盆に、上物の人肉を出すようにしている。ちなみに私は結構好きで、紫様に隠れてしょっちゅう食べている。本当なら自分で襲って、恐怖に歪む顔を見たいくらいなのだが、これだけ長年紫様と一緒にいると、それはどうにも子供じみた真似に思えて、いまさらできなくなっていた。
他には酒だ。紫様は品種よりもその時々の雰囲気を大事にしている。その日が満月なら一人、もしくは差しで日本酒を、居間にいるなら安いウイスキーをソーダで割ってちびちびと、宴会ならビールを大ジョッキで一気飲み、小洒落たバーならみょうちきりんな名前のカクテルを、と絵画で見かけるような典型的な呑み姿を、舞台女優のように演出するのが大好きだ。
あとは、そうだ、眠るのが大好きだ。
「長い生涯のほとんどを、夢を見て過ごせたら素敵だと思わない?」
これは紫様が以前言った言葉だ。そうですねと曖昧に同調しただけだが、有言実行と言うか、主はよく眠る。年がら年中、羽化を待つさなぎのように布団にくるまり、ぬくぬくと寝顔を晒して、偶にぐう、とのんきないびきをかく。冬眠までする始末で、実は秋の紫様は食いだめしているためちょっと肥えておられる。意外と大食漢なのだ。妖怪なのに食いだめが必要なのかと問われれば、否なのだが、そこもまた雰囲気を大事にしているようで、霊夢とか西行寺様あたりに「太った?」とか言われて「失礼ね」と返すのが定番になっている。
主を肥やすカロリーを提供するのは、私の大事な役目であった。私は忠実な式であり、従者だから、紫様の好みを熟知したうえで、適度に胃袋を掴みに行くのが仕事だ。それくらいはできる。長い付き合いだから、知っている。
よくわからないというのは、そこではない。感覚的な、人間が未知に対して抱く、ぼんやりとした不安のようなものだ。微細な表情の変化、感情を表現する仕草、すべてに意味があるような、ないような、どうにも気になって仕方がない。
紫様は何を考えているのだろう、何を想い、何を憂い、そして何を楽しんでいるのだろう。そんな些細なことだ。
昔は気にも留めなかったというのに、今はなぜだか己の無知が不愉快だ。だから私は好奇心の赴くままに夢の中を東奔西走していた。ロマンチストな紫様が後ろめたさを詰め込んだ宝石を隠すなら、夢の中に決まっているからだ。そして夢は根底で繋がっていて、共有できる。夢魂を探して割れば早いのだが、その肝心の夢魂が探せど探せど見つからない。きっとどこぞの境界に隠しているのだ。現実から干渉するのはおそらく不可能である。だから二の矢として夢の中からアプローチしているのだ。
さて、紫様はそろそろ冬眠する。長い長い夢を見る。事前準備として、栄養を蓄えるための食事を作るべく、私は里に下りて買い物をしていた。里の八百屋で旬の野菜を品定めをしていると、大きく実った最後の秋茄子に向けて伸ばした手の甲が、誰かの手とぶつかった。
「おっと失礼」
「こちらこそ、ん、あ、藍さんでしたか。久しぶりです」
白玉楼の庭師、魂魄妖夢だった。私と同じ食材を狙うとは、流石いい眼を持っている。彼女の主人もよく食べるから、食料の調達は大変だろう。背中に背負った幼子一人なら入れそうな竹籠が、苦労を物語っていた。
人里に入る際は服装を変えたり、尻尾を隠したりと変装はしているが、顔を変えているわけではないので、こんなふうに知り合いには気づかれてしまう。隠しているつもりもないが、私らは線引きを行う立場上、里に入り浸るのはよろしくない。とはいえ、普通の食材や日用品が置いてあるのはここだけなので、そこは臨機応変ということで曖昧にしてある。人間らしい生活をしたいという、紫様の我儘を叶えるためには致し方ないのだ。
しばらく雑談を交わしながら、買い物を続けた。八百屋、酒屋、肉屋と回って、妖夢の籠が彼女の刀よりも重くなったところで、歩を止めた。妖夢の買い物はこれで終了のようだ。
「それでは、私はここで」
「お嬢様によろしく頼むよ。冬が来たら顔を見せますって。菓子折りを持って」
「ああ結界の件ですね。わかりました。確かに伝えておきます。菓子折りの件については確実に」
咳を隠すときのように拳を口元に当てて、私は小さく笑った。あまり期待されても困るのだが、仕方がない、最適解を導き出すことにしよう。結界の件などと大袈裟な表現をしたが、実際は幽明結界のほつれを見て、必要であれば最低限の修繕を施して、そのことを報告するだけだ。あとは紫様が冬眠したことを伝えるくらいで、いわば年賀状やお歳暮代わりのあいさつなのだ。
「そうだ、妖夢。聞いてみたいことがあるんだが。隠された真実を知るためには、何をしたらいいと思う」
「禅問答ですか。うーん、斬ればわかると思います」
なんとなくそう来ることはわかっていた。だから私はあえて意地悪く、その先を聞いた。
「その心は」
「ええ……そうですねぇ。どちらも素っ破抜くことなり」
ちょっと困った様子を見せたが、答えた後はしたり顔になっていた。
斬ればわかる、その通りだ。深い雲でも、鬱蒼とした藪でも、鎌を片手に前へ前へと切り進めば必ず答えは見えてくる。必要なのは剣を抜く技術と傷つける勇気だけ、簡単な話だ。そして不可侵の領域に、土足で踏み入る愚かさを勇気と呼ぶのだ。私はまたくすりと笑ったが、妖夢は馬鹿にされたと受け取ったらしく、いじけたように口を尖らせた。
妖夢と別れてから、魚屋に寄り、一番安い古代魚の干物を買うと、早くも私は、脳内で今日の夕餉の献立を完成させた。干物を炙って、浅漬けと、茄子の煮びたしを作って、今日は卵を使ってないから出汁を利かせた卵焼きも作って、生姜と大根をすりおろして、和食でまとめよう。和、穏やかな良い響きだ。
そんなことを考えながら里を抜けようと歩いていたが、芝居小屋が眼に入った途端、足が止まった。演目の書かれた幟に殺生石とあったからだ。興味がそちらに移った。何せ自分の出生に関わることだ。その頃の思い出はほとんど掠れてしまったが、もしかすると、懐かしさを覚えるかもしれない。
財布を開き、先ほどの釣銭を確認する。どうやら足りそうだ。私はやる気のなさそうな番人に木戸銭を支払った。
「釣りはとっておいてくれ」
剛毅な殿方のような気分で、そう言った。どのみち、食料と日用品を里で買う以外、使い道のない金銭である。こうやって羽振りよく散財することそのものが、一種の娯楽である。
数十人しか収容できない狭い場内は満員御礼とまではいかないものの、大入りと言った具合で、湿気や人の匂いで充満していた。端っこの枡席に座ると、丁度柏手が鳴り響き、舞台の幕が上がった。
役者たちがせり上がり、そのうちの一人が前口上を述べた。
いよいよ始まりだと期待したのもつかの間、私は退屈を感じてしまった。如何にもな格好、やたらと響く小鼓の音、仰々しい演技、どれもこれも高尚なものに昇華されているように思えて仕方がない。狐の精霊が高僧となにやら問答をしているが、少なくとも、私はあんな喋り方はしない。懐かしさなど微塵も感じないし、ただ退屈なだけだった。他の観客は食い入るように見ているというのに、私は言いようのない寂しさに襲われた。
欠伸を一つして、台詞を単なる音として聞き流す。意識に少しずつ霧がかかり、瞼が重くなってくる。このままでは眠ってしまいそうだ。音楽だと思うと、余計眠気が増した。
腿を抓り、現実に意識を繋ぎとめる。眠ってはいけない気がする。せっかく代金を支払ったのだ。眠るだけなら家でもできるのだから、楽しまなくては損をする。無駄遣いをしたと思いたくない。いや、金銭の問題じゃない。貧困しているわけではない。だらしない寝姿を、公衆の面前に曝したくないのだ。金を払って芝居を見る、眠るのは馬鹿のやることだ。私は馬鹿ではないのだから、眠ってはいけない。
睡魔と格闘し続けて、能が終わる頃にようやく打ち負かした。芝居小屋の外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていて、冷えた夜風が私の意識を一層冴えさせた。
3
とうとう紫様が冬眠なされた。家屋や庭の木を守るべく、雪囲いを終えた次の日だった。仰向けで堂々とした眠り姿だった。
主の眠りを妨げないよう、結界の管理のために幻想郷中を駆け巡るのが、師走の私の役目であった。初めは幽明結界を点検しに空へと昇った。以前から脆いこの結界は、精巧な継ぎ手によって組まれた建築物のように、無駄がなく構築されており、その美しい職人芸によって崩壊を免れているが、金槌で乱暴に叩き、ひびを入れようものなら、部品が零れ落ちるようにばらばらになってまうだろう。尤も、崩れたところでまた組み立て直せば良いだけなので、そこまで管理が面倒なわけではない。継ぎ目をいくつか見て回り、点検は終了である。
今回も問題なし。私は結界の穴を抜け、白玉楼に向かった。そう、少しの実力か、もしくは数式を見る眼さえあれば、この結界を抜けることは容易いのだ。
ではなぜ、こんな結界が存在しているのか、紫様曰く、障子のようなものだという。物理的に大した効力がなくとも、猫の爪や子供の指先で簡単に破られる薄っぺらな障子紙には、部屋を仕切るという大義がある。行商人とお代官様の密談が交わされている部屋が、障子に仕切られていれば、小間使いたちは聞き耳を立てるのが精一杯で、よっぽどのことがなければ襖を開きはしない。そうなれば取引の現場は誰も目撃できない。十分に役割を果たしていると言えよう。無邪気な子供なら穴をあけて覗き見るかもしれないが、それは教育が行き届いていないせいなのだ。何が言いたいのかと言うと、以前この幽明結界を壊した者たちは教育がなっていないということである。異変解決と言う大義を得た以上、仕方ないのだが、まあこれは一介の障子屋の愚痴である。
白玉楼の門を叩いた。妖夢の半霊の案内に従って、居間に上がると、屋敷の主である西行寺様が、炬燵でぬくぬくとしていた。軽く頭を下げて、私は手土産の饅頭を炬燵の天板に置いた。すると西行寺様は、無駄に怪しげな笑みを見せて、包装をびりびりに破いた。水まんじゅうと滑らかな字体が目に入った西行寺様は、こちらについと視線を向けた。
「わかってるじゃない」
「恐縮です」
わざわざ賽の河原の露店まで買いに行った水まんじゅうである。ぷにぷにとした舌触りは、まるで赤子の頬の如しと評判で、どこかの喋り好きな死神が現世に持ち込んで以来、リピーターが続出したのだ。買いに行って、そのまま三途の川に流された阿呆もいたとか。
西行寺様はそんな水まんじゅうを、一つ手に取り、ひょいと口に放り込み、数度咀嚼して、飲み下した。二つ目に手を伸ばす前に、私は話を切り出した。
「結界の件ですが、今年も異常はありませんでした」
「はーい、お疲れ様ー」
間延びした返事の後に、淀みない手つきで水まんじゅうを掴んだ。どこまでも自然な動作で、西行寺様はまんじゅうを食べる。亡霊なのに、所作の一つ一つに確かな熱がある。まるで人間のようだ。態度や思考は超然としているのに、不思議と自然体だ。彼女の振舞いは紫様と似ている気がする。私は月の兎ではないから、断定はできないが、おそらく似たような波長をしていて、お互いに影響し合っているに違いない。
「紫様も冬眠なされました」
「そう、あ、丁度良かった。いや良くないけど、まあいいわ。ちょっと待っててね」
そう言うと幽々子様は水まんじゅうを手にしたまま立ち上がり、隣の部屋に繋がる襖を開けた。隣の部屋の隅にあったこじんまりとした生け花を両手に持つと、しずしずとこちらに戻ってきた。いつの間にか水まんじゅうは跡形もなくなっていた。
「これなんだけど、紫に渡しておいてちょうだいな」
大きな白い花びらが美しい、それは胡蝶蘭だった。
「綺麗ですね」
「そうでしょう、そうでしょう。根っこを切られて死んでるも同然、だけど美しいでしょう。儚げで。生け花なのに、死んでいて、素敵だと思わない?」
「はあ、それは同調しかねますが」
楽し気にそう言いきった西行寺様には苦笑いで対応するしかなかった。
死そのものを素敵だと断言するのはこの方くらいだ。何百年生きても、どれだけ力を持っても、耄碌しようとも、死だけは恐ろしいはずで、それこそ亡霊や仙人みたいな精神構造を持たない限り、克服できない。ただ、死の匂いが美しいのはわかる。他人事であれば、儚げだと思える。
しかし、花は枯れた時が死だと思っているので、生け花には死を感じない。だから同調できなかった。むしろ剣山に刺さっていて、痛そうだなと思う。
「なんでよ、紫はわかってくれたわ。儚きことは美しきかな。ああ、そう言えばこの間なんだけど、紫ね、青い薔薇の造花をくれたのよ。で、なんだっけ確か、外界の技術革新と美を渇望するあくなき探求心には敬服するわ、とか言ってね。なんでも、今の外の世界だと青い薔薇は普通にあるらしくて、じゃ本物をちょうだいよって言ったら、紫なんて言ったと思う?」
「はて」
「ここに生物は持ち込めませんわ、あなた殺しちゃうでしょう、だって。それで、自然は自然のままに枯れていく様が美しいのよとかなんか御託並べられて。私ちょっと怒っちゃったのよ。だって酷くないかしら? 私たちが不自然で美しくないみたいな言い分。で、人が生みだした青い薔薇は不自然の極みね、その造花と同じ価値、いえ枯れる分出来損ないじゃないかしら、って言ったら黙っちゃって」
「はは」
愛想笑いになんとか留めたが、本当は腹を抱えて笑いたかった。紫様にそんなつもりはなかったのだろう。縁日で手に入れた金魚をすぐに死なせてしまうような、ちょっとズボラな友人をからかいたかっただけで、大した意味も考えずに言ったに違いない。紫様は回りくどい上に、相手の神経を逆なでする言動をよくしてしまうから、仕方がない。謹んでくださいと注意しても聞く耳を持たないから、そういう性分なのだろう。西行寺様もその気はあるが。
「適当に合わせてるのかわかんないけど、雰囲気でいい加減なこと言うのよ。突っ込むと黙るから意味はないのよね、きっと。澄ましているけど、真っ赤になって、知ってるかしら、紫、恥ずかしくなるとすぐ話題を切り替えるのよ。それで大抵自虐なの、月の侵略失敗のこととか」
この方には敵わない、よく見ているものだ。あまり人に関心がないのかとも思っていたが、やらしい眼を持っているようで。
「で、これは薔薇のお返しと言うか。お願いね、藍ちゃん」
「はい。確かに」
放っておけば萎びて、花は落ちてしまうだろう。冬が終わるまで枯れないように、保存方法を考えなければ。仰々しく頭を下げて、私は白玉楼を後にした。
帰り足、受け取った胡蝶蘭が揺れる姿を見て、明晰夢を見ようとしている私、だから胡蝶の藍なんて、駄洒落を思いついて、亡霊姫に見透かされている気分になった。
偶然なのだが、そう思わせてしまうほど、彼女は人の心を食って千年生きた物の怪のような、底知れない雰囲気を漂わせているのだ。今日だって、何を言われたわけでもないのに、私は委縮してしまった。言葉を間違えれば、裏で陰口を叩く程度の軽い認識で死に誘う、そんな危うさを漂わせている。人や物が崩壊する様をどうにも好んでいるようだ。
立場上、何度も酒を酌み交わしたし、紫様の悪口を言い合ったこともあった。長い付き合いだというのに、いまだに言葉を選んでしまうのは、お二人の友人関係にひびを入れてしまうことを、私が恐れているからなのだ。
4
長い木目の廊下を歩いていた。夢を見ている実感があったが、やはり足は前へ進むだけで、思うように動かせなかった。意識はぼんやりとして、かと言って千鳥足になるでもなく、几帳面に木目に沿って歩けていた。廊下はどこまでも続いていて、先は見えない。壁は藁のような色をしていて両手を横に伸ばしても触れられない。天井は低く、跳ねれば手が届きそうだが、足が言うことを聞いてくれない。
ドレミーがいつの間にか隣にいて「またですか」と言った。
「ここには何もないですよ」
「わかっているならなんで歩くんですか」
「わからないから歩くのです」
ドレミーはこれ見よがしなため息をついて、また私の旅路に同行した。ドレミーは壁紙をぺりぺりと勝手に剥がしては、口に放り込み、むしゃむしゃと頬張っていた。食べられたところは漆喰がむき出しになっていた。私の夢なのに。なんか悔しい。次に寝るときは、甘ったるい菓子の夢を見て、堕落に落としてやろう。餌付けして、煙草のように依存させてやる。いけない、余計なことを考えてしまった。
「あなたも相当熱心ですねぇ。別に咎めませんが、あまりいい趣味とは言えませんよ」
「私が何をしたいのか知っているのですか」
「あれでしょう、あなたの主の夢を覗き見したいんでしょう」
そうだった。私は目的を思い出した。どうして夢の中で忘れてしまうのか。
「執着が強いと言いますか、まるで蛇みたいですね」
「五月蠅いなぁ。夢くらい私の勝手でしょう。ん?」
私は廊下の中心でとぐろを巻いている蛇を見かけた。だが、私の足は止まらなかったので丁度、蹴飛ばすような形になってしまい、宙を一瞬舞った蛇は、廊下に落ちるとどこかへと消え去った。
「あらま、ほんとにいましたね。欲求不満なんですか」
外の学者の一説によると夢に蛇が出ることは、欲求不満を意味するらしい。確かに私は満たされていないが、あからさまなにやけ面を浮かべたドレミーに無性に腹が立ったので、私は口角を吊り上げてこう返した。
「……手籠めにしてやろうか」
「きゃあ大胆、そこまで言うなら……」
自らを抱くように腕を組んで、上目遣いでこちらを見やった。白々しい。白鷺とでも見合っていればいいのだ。私が無視すると、つまらなそうに口を尖らせた。
しばらくは無言で歩いていたが、沈黙が少し辛くなったので、私はどうにかこの単調な廊下を変えられないかと、想像力を働かせた。先ほど考えた通り、お菓子の夢でも見てやろうと想像すると、廊下はチョコレート、天井はビスケット、壁はカステラに変わった。
「なんのつもりです」
「普通の廊下だと味気ないと思って。私の奢りです」
甘い匂いが漂ってきて、ドレミーの腹がぐうと鳴いた。すると見る見るうちに赤くなり、先ほどの人を馬鹿にしたような眼が、物欲しそうな子供の眼に変わっていた。本当は一口でも食べようものなら「悪夢でもないのに、なんて浅ましい奴だ」とでも厭味をぶつけてやるつもりだったのだが、あの眼には弱い。私がどうぞと掌を上に向けると、ドレミーはお菓子の廊下をむしゃむしゃと食べ始めた。聞くと、味気のない悪夢ばかり食べているものだから、こんな甘い夢は久方ぶりらしかった。
「最近忙しくて。結構大変なんですよ。個々の夢に干渉しないように、手を加えるって難しいんですよ」
「私に干渉しているじゃないですか」
「それは、息抜きにと、夢幻回廊に迷うあなたを、ちょっとからかおうと思っただけです」
「ひどい話ですね」
ドレミーはずっと私の夢を食べていた。飄々と振舞っているようだが、彼女も相当苦労しているようで、苦労を語り合うという意味では、私たちは結構気が合った。身の上話をしながらさんざら夢を食べた後、ドレミーは腹をこすりながら言った。
「少し勘違いしていたみたいです。なにぶんあなた方は月と敵対しているものだから。珍しいですよ、美味しい夢を自分から振舞ってくれる人は。しかし、ふう、げふ。太りそうで、困りますね」
「なら食べなければいいのに。あ、違った。次はもう少し身体にいい夢を見ますよ」
夢人格とでも言うのだろうか、どうにも私の口が滑る。ドレミーは全く気にしてないようではあった。
「いえ、お誘いはありがたいのですが、本当に干渉しすぎてしまいましたので……お菓子、ごちそうさまです。じゃあ一つだけ。あなたの主は夢に不可侵の結界を張っているみたいですよ。なので私も立ち入れません。あーあ言っちゃった。私が言ったこと内緒にしてくださいね」
ドレミーはそう言うとふわりと一回転し、霧のように消え去った。人の夢にあまり干渉しないことは彼女のポリシーらしく、観測者を気取るという意味では、少し紫様に似ていると思った。
ドレミーは夢の結界と言っていた。予想が確信に変わった。本気で張った紫様の結界を破るのは不可能に近い。しかし、鍵をかけたということはつまり、何か大事なものをしまっていると宣言するようなものだ。ああ、私は悪い女狐だ。主の宝箱を、どうしても開けたくて仕方がない。やめる気はさらさらなかった。好奇心は罪悪感の代わりを務めてくれる。
方法を模索しなければならない。顎に手を当てて、考える仕草をすると夢から覚めた。
太陽はすでに頂点より西側に傾いていて、よっぽど深く眠っていたことがわかった。顔を洗ってから、紫様の様子を見に行った。
襖を開けると暖かい空気が顔に触れた。エアコンの空調管理能力には脱帽である。寝室は和室であり、紫様は最初エアコンの導入を、和の雰囲気に合わない、そもそも幻想入りしていないものを使うのは云々と嫌がって、昔のように行火や湯たんぽで冬を乗り切ろうとしたのだが、私がお湯の交換を忘れて(意図的に放置して)以来、寒さに耐えかねたのか、素直に受け入れた。頭が固いようで柔軟なところも、紫様の長所である。妖怪なのだから自分本位は決して悪ではないのだ。
紫様は部屋の中央に敷かれた布団の中で、むにゃむにゃと安らかな寝息を立てていた。少し布団を捲ると、寝間着がはだけて素足が見えてしまっていたので、温めたおしぼりで顔や胸元の汗をぬぐった後に丁寧に整えた。欲求不満と獏は言ったが、確かに客観的に見れば、無防備でなんとも艶かしいお姿である。しかし、女型の妖怪である以上、性的な昂りはさほどでもなかった。私が雄なら、襲っていたかもしれない。眠りの間は誰もが無防備だ。飢えた獣の前に裸で飛び出す方が悪いのだ。考えてみると、よく大の字でここまで深く眠れるものだ。私は尻尾が邪魔なのもあるが、動物的本能があるのか、うつ伏せで眠ることが多い。
いや、当たり前だ。こうやって無防備な姿を晒しても、何も問題ないのだから。幻想郷は基本的には穏やかだし、たとえ何かあっても、自分で言うのもなんだが優秀な式こと私がいる。そう思うと、この寝姿は平和の象徴かもしれない。紫様の口元に垂れていた涎を拭って、私は部屋を後にした。
5
各地に点在する結界の内、何か所かの点検を橙に任せたので、私は仕事の出来を確認しに行った。最近橙は反抗期らしく、私が食事に誘っても断られることが多い。親離れと言うと、少し大げさかもしれないが、成長の過程だから仕方がないと、私は思いのほかすんなりと割り切れていた。
それに反抗期のようではあるが、仕事を任せると式としての意地があるのか決して断らないのだ。結界の点検も、まじめにこなしているようで、構築は拙いが、手抜きではないことが窺い知れる。正直なところ、技術に関しては期待していない。お菓子作りのデコレーションを頼む程度で、見てくれはいくら悪くても、幻想郷の地盤が揺らぐことはないように下地は作ってあるのだ。
安心して失敗できる環境で、試練を与えてやること、それが私の教育である。紫様のように、無理難題を提示して、失敗したら傘で叩くなどという野蛮なやり方はしない。しつけのつもりなのか、なぜか紫様は、私をよく叩く。今でも叩かれる。それこそ、古いブラウン管のテレビを直す感覚で、それが当然のように叩く。基本的には力に訴えかける方法を好まないのだが、こればかりは昔からだ。妖怪としては正しい在り方だが、拳骨で思いを伝えるなんてまるで鬼のようではないか。らしくないとずっと思っている。
私は点検漏れがないか探した。思っていた以上に良くできていて、少々驚いたくらいだった。しかし、一か所だけ気になる点があった。橙のものとは全く違う妖力の残り香が、そこにあったのだ。もっと強大で、粗雑なものだった。
「ふむ」
見当はついた。これは鬼の仕業である。伊吹様が何かしら手を加えているのだ。外の世界へと渡るためだろうか。理由はわからないが、いずれ事情聴取をしよう。
家に戻るころにはすっかり陽が沈んでいた。灯りをつけていないはずの薄暗い部屋には、ぼんやりと白い光があった。光の正体は、西行寺様からいただいた胡蝶蘭であった。ツキヨタケという暗闇で光るキノコがある、とは以前宴会の席で聞いたが、光る花は初めてお目にかかる。面妖ではあるが、素直に美しいと思った。白い花は夜に映える。
「そう言えば、どうやって保管しようか」
結局、胡蝶蘭は受け取った日からずっと居間に置いたままである。今のところは変化はないが、春まで持つのだろうか。見せる前に枯らすわけにもいかない。湿度管理、空間剥離、時間の固定、方法を考えていると、紫様の夢に侵入する手段を思いついた。私は胡蝶蘭を穴が開くほど見つめ、形、色、匂い、そのすべてを記憶した。そして、そのまま眠りについた。
気がつくと私は胡蝶蘭の生け花を持って、襖の前で立ちすくんでいた。大成功である。私には境界を跨ぐための式が組み込まれている。すべてを阻むような物理障壁ではなかったのが幸いした。胡蝶蘭が枯れる前に、紫様に見せなければならないという大儀を得た私は、式を発動させ、易々と結界を飛び越えた。これは決して悪用ではなく、式として主とその友人の関係性を保つための、いわば橋渡しである。例えるなら地元で働く青年と、上京して疎遠になった彼女がいて、私は遠距離恋愛を成立させるべく健気に飛ぶ伝書鳩なのだ。役目をまっとうするために夢の扉を堂々と叩くのだ。
襖を開くと、そこには花畑があった。椿や山茶花と言った花木から、花壇に植えられているものまで様々だった。
「あら、来たの。ふふ、ようこそ」
しゃがみこんで花壇に咲くシクラメンを眺めていた紫様は、こちらに気づくと手招きしてみせた。私は傍にしゃがみこんだ。花壇には雪が薄く積もっていて、シクラメンだけでなく、パンジーやクレマチスが等間隔に咲いていた。
「綺麗でしょう」
「ええとても。そうそう、紫様、これを。西行寺様からの贈り物です」
「それは、胡蝶蘭ね。植えてあげることはできないけど、仲間の近くに飾ってあげましょうか」
胡蝶蘭の生け花を渡すと紫様は立ち上がり、隣の花壇へと歩いていった。
「ここから春の花壇なの」
よく見ると、季節ごとに花畑は仕切られていて、色とりどりの花が咲いていた。花壇にはチューリップやなでしこ、足元には名前もわからないような野草が根を張っていた。しゃがみこむとヘビイチゴの実が頼りなさげに揺れている。少し先の丘にある桜の巨木はどこまでも堂々としていた。そして、桜の木のさらに向こう側は夏になっていた。
まるで鶯浄土をいっぺんに覗き見たかのようであった。風見幽香が見たら驚くだろう、いや、彼女なら自然の風情がないと挑発するか。紫様は欲張りだから、たくさんの風情を一度に味わいたいのだ。美しく咲く花びらも、それを支える茎も、強く張り巡らせた根も、すべて平等に愛でるのだ。
紫様は胡蝶蘭の咲く花壇の中に、生け花を置いたのだが、なんだか不自然であった。
「胡蝶蘭は春の花なのよ。まあ最近はハウス栽培で、いつでも見られるけれども。なるほど、そう言うことね。これはきっと花の霊ね、春度を与えて開花した胡蝶蘭の霊。季節を選ばず、人工薔薇より本物に近い。生け花なのに死んでいるこれはいかに。幽々子も洒落たことをするじゃない」
なるほど、霊だから白く光ったのか。
「そこで相談なのですが、この死んでいる胡蝶蘭、枯らさないためには、いかがすればよろしいのでしょうか」
「簡単よ。暖かな水を与えれば良いの」
「わかりました」
暖かな水とは、きっと春度のことで、どこで手に入るのかはわからないし、どうせ聞いても教えてはくれない。紫様は一つの返答にすべてを集約したがるきらいがあるから、簡単というからには、どこかに落ちているのだろう。のんびりと探すことにしよう。
「ところで藍、一番好きな花は何かしら」
「そうですね。鳳仙花なんか好きですね。ああ、梔子とかも」
嘘である。一番好きなのは桜なのだ。誰にも教えたことがない、私の秘密である。小さな秘密や嘘が大好きで、隠すのが上手ではないから、大抵は見透かされるのだが、これだけはいまだに宝石箱の中にある。なぜ嘘をつくのかと問われれば、沈黙で返すしかない。女狐の性である、ということにしよう。
「じゃあこれを」
そうとは知らない紫様は、夏の花壇から赤い鳳仙花を一株引っこ抜いた。私が手を差し出すと、初めからそうであったかのように鳳仙花は植木鉢に植わっていた。そして、両の手に重みを感じた瞬間、目が覚めた。枕元には夢で見た植木鉢があって、思いつきの鳳仙花が凛と佇んでいた。
6
伊吹様は神出鬼没を体現したような方である。普段は霧になりそこらを漂っていて、宴会や祭りで騒がしくなると、いつの間にか姿を現している。変な言い方だが、気まぐれをモットーにしているらしく、普通に呼んでも出てきてはくれない。呑み仲間が欲しい時または喧嘩したい時、気分で誰かに声をかけるのだ。だから会うのは容易ではない。しかし、私は口約束と言う名の切り札を持っていた。
それは神無月の半ば頃だった。発端は確か、魔理沙がキノコの蘊蓄を語ったことだった。なんでもヨイツブレと言う、酒との食べ合わせが非常に悪いキノコがあるらしい。これは鬼退治に使えるな、なんて冗談を飛ばすと、そんなもん効かんと伊吹様が啖呵を切り、すると紫様があらあらまあまあとしゃしゃり出てきて、大江山の昔話を持ちだしては余計なことを言うものだから、そこからは不毛な水掛け論で、最終的には呑み比べで決着をつけると言い出した。負けたら首をはねても構わないとも。
こうして酒の勢いに任せた呑み比べが始まったが、名だたる酒豪が集まっているとはいえ、鬼には敵わず、私や紫様はと言うと、あろうことか途中で冷静になってしまい、潔く敗北を認めた。良い酒でも献上して、終わりにしたかったのだが、納得いかなかったのは伊吹様である。本気を出してないと叱咤し、いずれ決着をつけると言って、どこかに消えてしまったのだ。
私らにしてみれば面倒な酔っ払いの戯れ事だが、言い出しっぺの伊吹様にしてみれば、自身に制約を架したようなもので、つまり、私が決着をつけに来たとでも宣言すれば、どんな状態でも現れるに違いないのである。
蔵の中で眠っていた、銘柄もよくわからない酒を持って、私は妖怪の山のとある場所に向かった。天狗の監視の目もあるが、結界管理と言う大義があるので、面倒な目に合うことはない。見回りらしき哨戒天狗に一言だけ声をかけてから、雪化粧を施した山を登った。
山頂付近で参道から逸れ、西に獣道を五分ほど飛ぶと、開けた場所に出る。そこには背丈の倍もある大岩がある。岩の頂上にほんのりと積もった雪を手で払い、私は腰を下ろした。無機質に尻が冷やされて身震いしたが、すぐに慣れた。
西の空へと落ちていく太陽が美しかった。すぐ近くの滝や、守矢神社に気を取られて見逃しがちだが、ここは幻想郷が一望できる隠れた名所である。なぜか天狗の管轄外であり、この大岩の上で鬼がこっそり天狗の集落を監視している、という噂が流れているものだから、絶景だというのに、ここは不思議と静かだった。この大岩も、そのために怪力自慢の鬼がどこからか運んできたらしい。噂を信用しているわけではないが、周囲の目がないこの場所なら、間違いなく伊吹様が現れるはずである。
「決着をつけに参りました」
一升瓶を掲げてそう言うと、ほんのりと酒のにおいがする霧が立ち込め、うっすらと人の形が現れた。瞬きを一度すると、角が生え、もう一度すると霧が晴れ、伊吹様がそこにいた。
「狐じゃないか。酒の席の約束を覚えているなんて感激もんだよ。ん、紫は?」
「久方ぶりです。主が冬眠しましたので、私一人です」
「そうかい、一人で来るとは、威勢がいいね。じゃあさっそく……」
「その前に、こちらを」
私はもってきた酒を差し出した。
「なんだい、この酒。何の銘柄だい、ええと、天狗文字じゃないか。まあいいか」
天狗文字はほとんど暗号なのだから、通りで読めないわけである。思い出した、これは確か紫様が解読してみせよ、とか何とか言って私にくれた酒だった。結局は解けずじまいで蔵にしまったのだ。ならば、これを機に厄介払いできて丁度良いかもしれない。伊吹様のにやけたような表情を見る限りでは、上物ではあるのだろう。
呑み比べに移る前に、私が結界のことを尋ねると、伊吹様はこう言った。
「ああ、お宅の猫ちゃんを見かけてね。丁度外に行こうと思ってたから堂々とね、姿を見せて通ろうとしたわけよ。そしたら止められちゃってね。以外に強情でさ、あんたそっくり」
「あんまりうちの子をいじめないでやってください」
「嫌だね。立ち塞がるならぶっとばす。で、ぶっとばした。だけどあんたのとこの子猫ちゃん根性あるね。いい眼をしていた。将来有望だねこりゃ」
こっそりと抜け出すこともできるはずなのに、この小鬼は、本当に意地が悪い。性根がチンピラなのだ。呑みに付き合わされる天狗が可哀そうである。悪気があってやっているのだから、たちが悪く、また彼女を強く否定できる者などほとんどなかった。けたけた笑う彼女を睨みつけてやりたかったが、喧嘩屋の思う壺に陥るのが癪だったので、ため息だけ吐いた。あとで橙のことを存分に労ってやろう。
「そうですか、伊吹様にそう言っていただけて光栄です」
「あんた皮肉屋に成り下がっちまったのかい。ここはさ、親の強さを見せつけるとこだろうに」
「生憎、私の爪も牙も錆びてしまいましたので。ところで、その時結界を弄りませんでしたか」
「鋭いね。言わないつもりだったんだが、聞かれちゃしょうがない。小さい穴が開いてたからね、応急処置にしかならんだろうが、塞いどいたよ」
「ははぁそうでしたか。ありがとうございます」
「いやいや、ところでその穴って奴がね、丁度猫が通れるくらいだったんだよ。あんたんとこの猫ちゃんもしかして」
「そんなことはないと思いますが……まあ今度聞いてみます」
橙が勝手に外出している可能性は、おそらくない。あちらの世界でも居心地が良いと思えるには、年齢も妖怪としての格も足りていないからである。それこそ自由に結界を弄れるほど成長してから、ようやく外出の切符を手にできる。
「ままとりあえずさ、呑もう。募る話はそれからでもいいだろう」
私は頷くと、伊吹様は懐から取り出した手のひらほどの盃を投げてよこした。それを受け取ると、間髪入れず、彼女の瓢箪からなみなみと酒が注がれた。私は一気に呑み干した。熱い液体が咽を焼きながら胃に落ち、たった一杯で身体の血液に熱が伝播した。恐ろしく強い酒だ。盃を返すと、伊吹様もすぐさま一杯目を呑み干した。
にやりと笑うと、すぐさま二杯目が注がれた盃を渡してきた。またそれを呑む。粗雑な味わいは、いくら呑んでも、渇きを満たしてはくれない。体液がアルコールに置き換わり、ついには脳が意識を手放すまで、浸潤は止まらない。豪胆で、どこまでも支配欲に満ちた酒だ。私もそれなりに酒豪ではあるが、夜まで持つか、不安になってきた。このままでは幻想郷屈指の夜景を堪能できず、この岩の上で眠りこけるだろう。
十杯も呑むと、身体が熱くなり、味蕾が麻痺したのか、酒の味がほとんどわからなくなった。
「いける口だねぇ」
「それなりには」
「ぶっ潰してやるからな。裸踊りが楽しみだ。いいや、サシだから陰口合戦でもいいぞ。なんでもいい」
「そんなことしませんよ」
「お前らはいつもそうだ。お高く留まってさ、呑むのを止めちまうんだ。今日は逃がさんからな」
「お手柔らかにお願いしますよ」
「嫌だね。紫もそうだ。全然酔わないうちに白旗を上げて、逃げちまうんだ。つまらない。あいつはダメだ。さらけ出せないんだな。怖いんだな、弱いんだな。あいつと呑むのは、仮面舞踏会だな、まるで。行ったことないけど」
「む」
弱い、という雑言に不思議と苛立った。普段は軽く受け流せるような、酔っ払いの戯れ言に、胸をえぐられているような気がした。
「弱者ですか。伊吹様は弱者とはつるまないのでは?」
「そうさな。そうなんだが腐れ縁だよ、またの名を鎖縁。千切れないんだなぁなぜか。紫のこと、そんなに好きじゃないんだがなぁ。うん、あいつはたぶん強がってんだ、そこがいい。不屈の闘志、粋がる奴は嫌いじゃない」
どっちだ。いいや、聞くのは野暮である。
「わかるのですか」
「雰囲気でね。弱みを見せないように必死なんだ、かっこいいよ、粋だ。たぶんあいつは脆いとこがあって、それを出さないというか、根っこんとこを、隠匿するのがうまいんだな。花みたいだ」
「……そうですね」
お前が何を知っているのだ。危うくそう言いかけた。きっと彼女は知らない。脆さを見抜いてはいるが、実際に見たことはないのだろう。そして伊吹様は潜り込まない。隠し事を暴くのは粋じゃないと思っているからだ。わかってる、だから紫様も華々しく振舞う。いい関係だ。
そう言えば伊吹様は良く人の悪口を言って、誰彼問わず挑発するきらいがあるが、その弱いところを、赤の他人に勝手にひけらかしたりはしない。喧嘩を売っているだけだ。それはそれでたちが悪い。真実は心を抉る。鬼はそれを知っていて、わざと剥き出しの悪意でずけずけと物申し、火傷したいがために火種をばらまくのだ。
「それとこれとは別で、呑み比べは最後までやるべきだと思う。やっぱり嫌いだあいつ」
「紫様はたぶん伊吹様のことも好きですよ」
「うえ、きもちわる。嘘八百の八方美人だ。やだねぇ嘘は」
嘘ではない、はずである。しかし、伊吹様は嘘吐きに対して、次々と悪辣な言葉を並べ立てた。臆病で意気地なしのほら吹きという虚像を罵る、酒が回っているから舌も大回転である。鬼の持論を振りかざし、見えない敵を罵倒する様は見るに堪えなかった。聞いていると無性に腹が立ってきた。嘘を吐いたって良いじゃないか。鬼以外の妖怪は大抵、人間より力は強いがほとんどが嘘吐きだ。私だってそうだ。
苛立ちを感じつつも、そんな思いを口に出さないということは、まだ私の思考が生きている証拠だ。酔っ払いの口約束など、反故にしても構わないだろう。こんな湿った悪口が聞きたくて、呑んでいるわけじゃないのだ。
「酒癖が、悪い方と、呑む趣味は、ありませんので、ここいらで失礼しましょうかね」
「ええーそりゃないよ藍ちゃん。やっとあったまってきたのにさぁ」
赤ら顔で、眼をうるませて、懇願するように、伊吹様は盃を渡してきた。ここで立ち去れないのが、私の自我の弱いところだ。情けない姿を見ると、寄り添いたくなってしまう。
「しょうがないですね」
見せつけるように、ぐいと呑み干した。冷たい風が頬を撫でたが、すでに寒さは忘れていた。
そこから記憶は曖昧である。よほど深く眠ったのか夢すら見ず、気づいたときには大岩のごつごつした肌に抱き着いていた。
伊吹様はいなくなっていた。代わりに置手紙があり、乱雑な字でこう書かれていた。
「狐は下したぞ。次は紫、お前の番だからな。萃香」
あれだけ呑んでまだ足りないらしい。
「うう、頭が痛い」
吐き気がする。めまいと、腹痛も襲ってきた。仕事にかまけて、風邪をこじらせた時のような倦怠感が、水をしみ込ませた綿布団のようにまとわりついている。なぜ、苦痛が消えるまで眠らせてくれないのだろう。暖かくてふんわり軽い布団で眠りたいと切に願った。
自然を穢すようで申し訳ないが、異臭を放つほんのり温かい置き土産を岩の傍に残して、伊吹様の手紙を懐に入れ、私はその場を後にした。
「頭痛いなぁ、お腹も痛い。辛いなぁ、辛いなぁ」
そして寒い。冬の夜に眠りこけるなんて馬鹿だ。妖怪だからこの程度で風邪などひかないが、この寒さは堪える。北風に当てられた耳が冷たくて、とても辛い。
愚痴を吐きながらひたすら帰巣本能に従い、下山したつもりだったが、頭痛に加えて千鳥足なものだから、あちらこちらへとあらぬ方向へ行ってしまい、ついには迷ってしまった。ようやく頭が回り始め、空を飛ぼうという考えに至るころには、猫の鳴き声が耳に刺さり、マヨヒガに入り込んでいることに気づいた。
丁度良い、休むことにしよう。橙に醜態を見られるのは嫌だが、背に腹は代えられない。一刻も早く眠りたい。
井戸に行き、水の入った桶を口に当て、一気に飲み下した。こぼれた水で服が濡れたが、構わなかった。そして屋敷に上がり、橙を呼んだが誰も出てくる気配はなかった。どうやら留守らしい。
「ああそうだ、報告しなければ」
紫様への報告、眠る前に式の大義を得なければ。橙がお絵かきや勉強に使っている紙と鉛筆を、机から引っ張り出して、暖かな炬燵に入った。紙にはまず報告書と記入した。萃香様が結界に手を加えたことを、したためるつもりだった。頭痛を堪えながら概要を書いたところで、まどろみが吐き気や頭痛を上書きした。まだ、書き終わっていないのに。
気がつくと、色彩が白黒の海を眺めていた。地平線まで続く海は、いつか見た朧げな記憶のようで、その広大さは計り知れなかった。ふと感じるのは懐かしさだった。
「ねえ、二人で海に出てみない」
隣には紫様が立っていて、一艘の木製ボートを指さしていた。私は頷いた。報告をしなければならないのに、何も言いだせなかった。
海に浮かんだボートに乗って、少しだけ漕ぐと、波がゆっくりと私たちを海原に誘った。漕ぐのをやめても、ボートは白い砂浜から離れていった。
「懐かしいわ」
「そうですね。とても暗いです」
「闇の中にいるみたいね」
「はい」
海はなんて暗いんだ。何もかも呑み込んでしまいそうな、深い漆黒だ。無限の深さを想像させる。不可侵で、未知の領域だから、海は恐ろしくて心地よい。水の底は私たちが還る場所。私は水が嫌いなのに、ボートの上は、不思議と気持ちが良い。そして不思議と懐かしい。
「昔はゆっくり海を眺めるなんて、できなかったわ」
「多忙でしたね」
昔のことは忘れてしまったが、忙しかったのは覚えている。未熟だった、世界が慌ただしかった。具体的なことはほとんど思い出せない。だから断片的な風景を、思いつくまま言葉にしてみる。
「あの頃は……こんなに青い海は見れませんでしたね。そう、どろっとした血の海でした」
「命の残滓が、溢れていたわね。黒く染み渡り、丁度この墨染の海のように」
紫様はボートから手を垂らして、黒い海に触れた。凪の水面に、わずかな水音とともに波紋が広がった。その輪が当たると、ボートは制止した。漕ぐ手は自然と止まっていた。
私の傍に、白い色をした黄金の延べ棒がゴトリと落ちた。
「結界が完成した時は、感動しましたね」
「ええ本当に」
また一つ、重厚な音が聞こえた。
「だけど、苦労もしました。反対する者だっていましたし、あの頃の反体制側はむしろ私たちでしたね」
「変化を恐れるのが妖怪ですもの。変わらないものなど、ないというのに。どうしても、安らかな今を、この雲一つない空を、愛したくなるものです」
言葉を交わすと、白い輝きを放つ塊が、私の隣に積み上がる。甲高い叫び声のような金属が触れる音が、幾度となく繰り返される。話題が尽きることはない。目線と同じ高さまで、金が積み上がったところで、ボートが浸水していることに気づいた。
「大変です紫様。沈んでしまいます」
「まあ大変。逃げなくちゃね」
紫様はふわりと飛び上がった。私は立ち上がることができなかった。
ボートが沈んでいく。こんな本来の輝きを忘れて、白い光しか放たない黄金に何の価値があるのか、わからないのに、私は傍から離れられなかった。
「どこに行くのです。紫様」
「さて? 船がないのなら、月でも目指しましょうか」
「私も行きます。置いていかないでください」
「そんなひどいこと、したことないじゃないの」
紫様は僅かに浮いて、空気の層を踏みしめて、静かに佇んでいた。
尻尾が水を吸って、じっとりと濡れていて、気持ちが悪い。いやだ、私は水が嫌いなのだ。ああ、なのに沈んでいく。私を乗せたこの船は、海に呑み込まれてしまう。もう、胸まで海水に浸かってしまった。
鼻から塩辛い水が入り込んできた。震えながら眼を瞑り、息を止めることしかできなかった。
悪夢から目覚めてからまず私は、自分の股間をまさぐった。幸い、制御されてはいたようで、夢が現実に侵襲してはいなかったので、ほっとした。それにしても嫌な夢だった。溺れてしまった。紫様はずっと近くにいたのに。手を伸ばせばきっと救い上げてくれたはずで、その確信もあったのに、私は震えているだけだった。明晰夢と言えども、完全に思い通りに行くわけではないらしい。
自嘲気味にため息を一つ吐いた。寝汗で濡れた服を着替えようと起き上がったところで、ここがマヨヒガであることを思い出した。そして、炬燵で眠ってしまったはずなのに、布団の中にいることを、ようやく疑問に思った。
きっと橙が気を利かせてくれたのだろう。しかし、炬燵から引っ張り出されて気づかないとは、相当深く眠っていたらしい。それか、紫様の夢に入っていたから、私の身体は抜け殻同然だったか。いずれにせよ恥ずかしい姿を見せてしまった。
お礼を言おうと、橙を探したが、辺りは猫の声一つなかった。窓から差し込む光は月明かりだった。
「夜遊びは感心しないな」
間抜けな醜態を晒した主がどの口で言うのか、口に出した瞬間恥ずかしくなったが、そんな私の心情に気づく者は誰もいなかった。
仕方がないので、お礼の書き置きに、少しの小遣いで重しをして、私はマヨヒガを去った。
7
年の終わりも近づいているこの頃、人里ではある噂が飛び交っていた。なんでも、里に住まう人々が毎晩見ている夢に、ある共通した人物が出てくるらしい。どこかで聞いたことのある噂だと、私は気にも留めなかったが、その噂を広める役割に知らぬ間に加担している妖夢は、買い物の道中、興奮しながら語っていた。
「怖いですね。同一人物が夢枕に立つとは、きっと相当恨みの強い霊魂ですよ。いやだなぁ。会いたくないものです」
「腰の刀は何のためのものなんだ……」
「いやいや藍さん、そうは言っても。まあ日中なら斬れますよ、だけど夜中だと、もう考えたくもないです、仮に寝込みを襲われるのならまだいいですよ。鍛えてますからね。いや怖いですけど、だけど、夢の中じゃどうしようもないじゃないですか」
ならば忘れるまで胸の内にしまっておけば良いのに、とは流石に言えなかった。怪異というものは噂によって増長するが、人の不安もまた噂によって紛れるのである。だから噂話に狙いをつけた怪異は、ある程度賢いと言える。
しかし、噂の内容から察するに放っておいても何ら問題はなさそうだ。あまりに度が過ぎれば巫女が動くだろう。こうやって野次馬根性で噂話に花を咲かせているくらいで丁度良いのかもしれない。
妖夢と別れてから、買い物を続けてわかったのだが、どうもこの噂はまだ形が定まっていないらしかった。夢に共通する何かが現れるところまでは、妖夢から聞いた通りだが、それが人とは限らないのだ。ある者は化け物だと言い、ある者は失った家族や恋人だと言う。贔屓にしている布団屋の主人は、自分自身が出てくると言っていた。
完全に噂の概念だけが独り歩きしていた。なんとも気味の悪い現象ではあるが、噂というものは尾ひれがついて、思考の海を泳ぎ回るのが常である。いずれ収束して、像をとるだろう。形にならなければ、それは忘れられてしまったというだけだ。正体不明のまま、存在を保持できるのは、それこそ鵺くらいのものだ。
困り顔で話す魚屋の店主に、軽く同調しつつ、橙に渡す鰹節を一本買った。初めての結界管理業務に対する、ささやかなご褒美のつもりである。
「リボンもお願いします」
「あいよ」
魚屋の店主はいかつい顔つきをしてはいるが、見かけによらず指先は器用で、慣れた手つきで可愛らしいピンクのリボンをつけていた。どこかの御令嬢が飼い猫に与える用にと頼んで以来、この作法は定着していて、鰹節を買うと、こちらから言わずとも、リボンをつけるかどうか聞いてくる。猫を大切に、良い文化である。
店主が包んでくれている間、手持無沙汰に陳列された鮮魚を眺めていると、酒盗の瓶詰が目に入った。そう言えば、しばらく独りで酒を飲んでいない。大晦日、どうせ家には誰もいないから、こいつをアテに、降る雪を見ながら紫様に内緒で一杯やるのも、風情があって良いかもしれない。
「あ、これもください」
「あいよ」
どうせなら良い酒も準備しよう。
リボンのついた鰹節と、酒盗の瓶詰を受けとって、私は里の中でも評判の良い酒蔵に向かった。道中、正月用のかまぼこを買い忘れていたことに気づいたが、帰り足にもう一度寄れば良いだろうと構わず酒蔵へ行って、結局帰る頃には忘れてしまった。橙に鰹節を渡すことしか頭になく、その足はまっすぐとマヨヒガに向かっていた。
橙は完全に昼夜逆転していて、日中マヨヒガを訪ねると必ず眠っている。だから呼び鈴も押さず、唐草模様の風呂敷を担いだ泥棒さながら、音を消して玄関を開けた。
部屋で安らかに眠る橙の傍に、手紙と共に鰹節を置いて、私はそそくさとマヨヒガを後にした。本当は頭を撫でてやりたかったが、起きそうなのでやめた。
橙は間違いなくいい子で、訓練と言って呼び出すと、日中であろうと眠い目をこすりつつ、指定した時間までは来るのだが、それ以外では私を避けるようになっていた。しばらくは一緒に食卓を囲めてすらいない。せっかく外で買ってきた洋服も、箪笥の肥やしになっていて、この間なんとなくそのことを仄めかしたら、魔理沙と霊夢に盗まれたと答えていた。本人が悲しんでいるわけでもなし、特別怒りも沸かなかったが、せっかく橙のために買った服なのに、一回も着てくれなかった事実にはため息を漏らすしかなかった。
小遣いを渡すと、好きな服やアクセサリーを買ってはいるようなので、お洒落に興味がないわけではないようだが、式なのだからもう少し、私を喜ばせてくれても良いのではないか、そんな傲慢なことをどうしても考えてしまう。かといって教育者としては強制できるはずもなく、むしろ自立心が芽生えたことは喜ばしいことのはずで、詰まるところ、訓練以外は彼女の自由にさせていた。子供の成長は恐ろしく早いが、妖怪の変化は欠伸が出るほど緩慢である。長い目で見守ってやることが肝要なのだ。
8
屋敷の掃除は私の仕事なのだが、不思議なことに、何もしていない部屋にも埃は溜まるもので、毎日欠かさず行う必要があった。紫様が眠る寝室の掃除では、騒音を立てるわけにはいかず、せっかく調達した掃除機が使えないため、雑巾でやるしかない。手間を少しでも省くために、紫様の身体を清拭してから、余ったお湯で雑巾を絞り、そのまま掃除に移行するのがいつもの流れだった。
火傷せず、さりとて風呂の温度だとすぐに冷めてしまうから、少し熱めのお湯を洗面器に張り、そこでタオルを絞った。洗面器を寝室へと持っていき、もう一度温度を確認して、はじめに紫様の顔を拭いた。目頭から目じりに、額、鼻、頬、口の周りの順に拭って、首筋を拭いたあたりで、紫様の表情がふにゃりと溶けたように見えた。そのまま服をはだけさせて、胸から腹部にかけて、寒くならないようにできるだけ急いで拭く。その後、ゆっくりと寝返りを打たせて、背面を清拭する。服を整えて、布団の皺を伸ばしたら終了である。これだけしても起きないのは、よっぽど深く夢に沈み込んでいるからではあるが、私への信頼の証とも受け取れる。試したことはないが、きっと私以外が、身体に触れようものなら不機嫌そうに眼を開けるだろう。
だから私は信頼に応えるため、最上の冬眠環境を提供するのだ。温くなったお湯で雑巾を絞り、棚や床の間を拭いて掃除も完了である。
空調よし、匂いよし、完璧である。我ながら惚れ惚れする清潔さだ。
「よし、やるか」
年末にはまだ少しあるが、興が乗ったからこのまま大掃除も終わらせてしまおう。
冷たい井戸の水で顔を洗って、頬を叩いて気合を入れ直し、着物にたすき掛けをした。
屋敷はそこまで広くないとはいえ、余計な物で溢れかえっているから、あっという間に時間は過ぎた。ようやく断捨離と雑巾がけを終えて、蔵の整理をしようと外に出たところで、丁度陽が沈んだ。仕方がない、蔵は明日に回そう。
風呂を沸かして埃まみれの身体を洗い流すと、一日の疲れも一緒に流される気がした。
火照った身体で、そのまま布団に潜りこんだ。身体をくの字に丸めると、まどろみがすぐに誘いかけてきた。意識を手放そうとする最中、困ったことに、今日は夢に入るための大義を得られなかったことに気づいたが、一度手放しかけた思考を引き寄せるには、睡魔の誘いはあまりにも魅惑的だった。
またしても私は果てのない一本道を歩いていた。今度は獣道だったが、草木は私を避けるようにのけ反っていて、この先に何かがあることを暗示しているようだった。ちらと足元を見ると、草木の陰から小さな蛇が顔を覗かせていた。
「もしかして、お前か。噂の正体とやらは」
ただの勘である。以前もこの蛇は見かけたので、なんとなくそう思っただけだ。もしかすると、私の夢では蛇、誰かの夢では異形の獣、というふうに様々な形をとる怪異なのかもしれない。
蛇は怯えたようにこちらを睨めるだけで、近づいては来なかった。私もひたすら前に進むしかなかったから、蛇に触れることはできなかった。この事象は、異変なのだろうか。もしもそうなら、紫様に報告する必要がある。いや、きっとそうに違いない。異常事態になる前に、あくまで影から先手を打つ、歴とした管理者の役目である。
「あ、また会いましたね」
蛇を見失うと、今度は夢の管理者が草むらから出てきた。笑顔ではあったが、若干引きつっていて、疲労の隠れ蓑にしているかのようだった。私も似たような笑い方をするから、すぐにわかった。
「どうしたのです。随分と体調が悪そうで」
そう言うとドレミーが明るい表情になったように見えた。そう聞かれるのを待っていたといった具合で、妙に親し気に喋り始めた。
「お腹下しちゃったんです。皆同じ夢ばかり見るものだから食傷気味で、前もあったんですよ。ディスマンって知ってます?」
「さて」
「まあいいです。あなただって同じ料理を食べ続けたら飽きるでしょう」
「油揚げなら飽きませんが」
「飽きるんです。アレンジとか禁止ですからね、毎日きつねうどんだけ食べてみてください。おんなじ作り方で。絶対飽きますから。しかも私にしてみれば仕事ですからね、これ。獏は悪夢が大好物って言いますけど、そうでもないんです。魚が嫌いな猫だっていますし、骨をしゃぶらない犬だっています。個性って奴です」
「そうですか」
話を聞き流しながら、私の夢を弄って食べ物を出現させた。お菓子ではなく果物にしてみた。なんとなく、身体に良い気がする。糖分がたっぷり入っていて、結局摂りすぎれば悪影響を及ぼすが、気分の問題である。
もぎ取ったスナックパインを渡すと、ドレミーは千切って食べ始めた。食傷気味だと言っていたが、胃袋は頑丈なようだ。
「あなただけですよ。夢の中で親切にしてくれるのは。口は刺々しいのに甘くて、粋ですね。ツンデレさんですね。このパインみたい」
「良い夢をつまんだら良いのでは」
「そう言うわけにもいかないんです。お墓に備えてある饅頭をとって食べたりしないでしょう。乞食とかなら別ですが、一定のプライドがあるんです」
「私の夢は施しじゃないのですか」
「あれ、前に言いませんでしたっけ。あなたのは悪夢なんですよ。明晰夢なのに思い通りに身体が動かない、悪夢に間違いないです。試しに幸福なことを考えてみなさいな。たぶん失敗しますから」
私はいなり寿司をできるだけ鮮明に思い描いた。すると形、大きさ、質感まで完璧ないなり寿司が掌に収まった。にやりと笑ってみせたが、ドレミーは驚く様子すら見せなかった。口元に近づけても香りはなく、食べてみると何の味もしなかったので、これが悪夢だと実感した。しかめっ面を浮かべると、ドレミーは「でしょう」としたり顔で言った。
「通りで何もできないわけだ……」
「というか、だから私が来たんですけどね。結構食べたんですが、毎回望んで悪夢を見ているようで、珍しくて。しかも、お菓子をくれるまでは無味無臭でしたし。ほんと珍しくて。最近、抜け出せたと思ったら、また見てるんですもん。あーあ、また言っちゃった。私あんまり口が堅くないんです。だからイマイチお上からの信用がなくて、別に引っ掻き回すような言動をとってるわけじゃないのに。酷い話だと思いません」
「苦労されているようで」
「過干渉だっていつも怒られるんですよ。だからぼやかしてちょっと助言しているだけなのに」
「大丈夫ですよ、正直なところ、あなたは私の目的遂行の上で何の役にも立っていません。全部、自分か、もしくは現実で答えを見つけましたから。まあ息抜きにはなりましたが」
「あなた酷いですね。そうはっきり言わなくてもいいじゃないですか。私は私なりに気を遣ってですね、皆の幸福を願ってですね――」
嘘ではないのだろう。だが、彼女に大した力はないのだ。真理を伝える使命も、夢を牛耳る権限も、持ってはいない。だから、彼女なりに、助言をくれるのだ。
「わかってますよ」
私や、紫様も同じだから。
ドレミーは「そうですか」と照れくさそうに言って、泡のように消えていった。
9
橙に里の噂について調査を命じた。噂の出どころや、人妖に及ぼす影響をわかる範囲で構わないから調べて報告するよう伝えた。禁止事項は二つ、博麗が動いたら邪魔をするな、噂の原因を見つけたら逃げられても構わないから、触れずに報告すること、これだけである。保険のため逃走用の式だけを厳重に組み込んで、調査方法や報告の媒体は橙に任せた。これもまた、自律式の訓練の一環である。
要件を伝え、橙を鼓舞した。
「期待してるぞ」
「はい」
それは随分と無機質な返答だった。寂しさを感じつつ、橙を見送ってから、私は蔵の大掃除に取り掛かった。
三日もすると最初の報告書が届いた。報告書そのものに伝達の式を組みこんだらしく、私が受け取った瞬間、式は剥がれ落ちた。こんな器用なことができるようになっていたのだと感動しつつ、封を切り報告書を読んだ。
『内容:概ね蛇が夢に出現する。種類は不明、体長はおよそ三尺だが、人間の身長よりも大きいと話す者も複数人いた。出現するだけで、襲われたという事例は今のところ報告されていない。
範囲:人里全域で起こっているが、里の外でも目撃情報あり、人妖問わず出現する模様。出現条件と出どころについては不明。更なる調査を続ける』
様々なところで聞き込みを行っているようだ。人数や範囲について統計を取り、具体的な数字を記載したほうが良いとは思うのだが、初めてにしては上々である。よく見ると何度も直した跡があり、報告書と言う形でまとめるのにも苦心しただろうことが窺い知れる。先ほどの伝達の式も完全とは言い難い。だが私は心から橙の成長を実感し、目頭が熱くなった。やはり任せてみて正解だった。
これは一刻も早く紫様に報告しなければならない。私はこの冬で最も気分が高揚していた。待ちきれず、まだ昼下がりだというのに、洗濯物を放って眠りについた。
黒いスーツに身を包み、木製の豪奢な扉の前にいた。社長室と書かれたその扉を三度叩くと、中から紫様の声が聞こえていた。スーツ姿の紫様が革製の立派な椅子に座って、ガラス越しに外を眺めていた。
「ご報告いたします。橙に調査を任せたところ、このような報告があがっております」
私は報告書の内容を読み上げた。すべてを読み終えると、ようやく紫様はこちらに向かい合って、口を開いた。
「ご苦労様。ここでは狭いわ。屋上に行きましょう」
言われるがまま、私は紫様について、階段を上り、高層ビルの屋上へと出た。
屋上からは都会の景色を一望出来た。おそらくここは東京だ。日本の最も栄えている都市、建ち並ぶ灰色のビルは、高いところから見ているせいか、不思議と青い空に映えているようでもあった。紫様は指をパチンと鳴らした。すると、時間が早く流れ始めた。街が繁栄し、そして瓦解していく様を早送りで見る。地面からせり上がるようにビルが建ち、瞬きの間に崩れ落ちる。東京タワーの赤い色が剥げて、灰色に近づいていく。
人間はすぐに街を見捨てた。別の土地で、都市を再興させようと、知識だけを持ち出して去ってしまった。管理者がいなくなってから崩壊は加速した。植物が根を張るように金属に錆がつき、徐々に生命の気配が消えていく。死肉を漁る動物も居なくなった。
だが予想に反して、一番最後まで残ったのは人間だった。野良犬や烏が離れてもなお、街にしがみつく、未練を捨てきれない人間だった。
「あっという間でしたね」
観測者はいつも客観的で、時間の流れを感じ取れない。歓喜も、悲痛な叫び声も、鉄くずが吸収してしまうから、何も聞こえない。
「美しいでしょう」
「そうですね」
崩壊の瞬間に血が滾るのは妖怪の性か、それとも誰にでもある破壊衝動だろうか。荒れ果てた地には哀愁が漂っていて、桜が散るときのように儚く、美しかった。死は恐ろしいもののはずなのに、美しいと形容できてしまうのは、私が観測者の立場にいるからだ。他人事であれば、崩壊の風景は心地よく胸を打つ。
「あ」
唐突に紫様が空を仰いだので、それに倣うと、雪がはらりと降ってきた。個性豊かな結晶に光が反射して、キラキラと輝いていた。雪たちは灰色の街に、薄い化粧を施した。
「あなたはどう思うかしら。冬は厄も絶つような終末? それとも八雲立つような胎動? なんてね」
「後者でしょうか。終末はもっと唐突だと思うのです」
冬は蓄える時期だ。決して終わりではない。生命の執着心は貪欲だから、終末が来るとわかっているのであれば、叡智を結集して対処するか、逃げ去ってしまうだろう。だが、唐突な事象にすぐに対応するのは難しい。未知への恐怖が混沌を生み、すべてを呑み込んでしまう、それが終末なのだと、私は思う。
「そうね。きっと、気づいたころには手遅れね」
紫様は足元を見た。今度もそれに倣う。腐食はすぐ近くまで迫って来ていた。慌てようとしたが、心は落ち着いていて、震えているわけでもないのに、動けなかった。とうとうビルが崩れ落ちた。重力に従って自由落下している最中、錆びた鉄骨が頭に当たって、目が覚めた。
「嫌な夢を見た」
そして嫌な現実が目前にあることを、障子の隙間から差し込む冷たい風が知らせてくれた。庭には雪が腰の高さまで積もっていた。
憂鬱なため息を吐いて、私は防寒具を着込み、雪かきの準備をした。
10
結界管理に休みはなく、新しい年を迎えてもやることはいつも通りだった。師走を駆け抜ける勢いのまま、睦月も慌ただしく過ぎ去ってしまいそうだ。
寒さは強まり、ようやく雪かきのために起きるという習慣に身体が順応してきた。終わった後の水が美味い。水と言えば、あの幽霊の胡蝶蘭であるが、随分と執着の強い霊らしく、暖かい水とやらを一度も与えずとも、健気に咲いていた。これなら春まで持つかもしれない。
ちなみに夢でいただいた鳳仙花は、いつの間にやら忽然とその姿を消していた。想像が具現化することは幻想郷では珍しくないが、泡のように消えてしまうのも、また幻想的である。夢に還ったのかもしれない。
暖かい水で酒のことを思い出した。我々にほんのりとした春の陽気を想起させるのはいつだって酒である。大晦日に風情のある晩酌を、と思って買った酒だが、結局手をつけずじまいだった。
どうにも独り酒をする気分にならないのは、私がケチだからだろうか。栓を空ける瞬間もったいないという感情が先行して、手を止めてしまうのだ。私はそこそこ大酒呑みだと自覚していたが、実際は酒にあまり執着がないのかもしれない。
思い返すと、いつも酒は交渉の道具だった。ついこの間、伊吹様と呑み比べをした時もそうだ。自分が呑みたくて、誰かを誘ったことはほとんどない。酒は交渉材料にも自白剤にもなりうる恐ろしい魔薬だ。賢い者は酒に溺れないし、毒を以て毒を制すように、上手に使うべきである。とは言っても私よりも賢い紫様や、他の賢者様たちは独り酒を存分に嗜んでいるようだから、これは私の独りよがりな納得に過ぎない。おそらく、私は独り酒の情緒を噛み締めるための感受性が欠如しているのだ。
正月が過ぎてから、私はその酒を蔵にしまった。蔵は整理したので、もので溢れかえってはいるが、置き場所は確保できた。本当は断捨離をするつもりだったが、ほとんど何も捨てられなかった。大掃除の際、壊れた風車や、穴の開いた凧まで出てきた。壊れた玩具は、ずっと昔、人語がようやく話せるようになったくらいの橙と、一緒に遊んだ懐かしい記憶を想起させた。凧揚げをしていると、糸がぷつんと切れて、凧は風に流されて、運よく庭の梅の木の枝に引っ掛かったから、私は橙と一緒に木登りに興じた。
精々十数年前の出来事だというのに、その思い出は白黒だった。だが、たとえ色褪せても、消えてはいけない記憶だと、そう思ったから、これらは有益なものだと判断して捨てなかった。記憶は鍵のついた箪笥の中にあって、この玩具が鍵の代わりとなる。鍵をなくすと、たちまち忘れてしまうから、偶に取り出してみて、思い出に浸るのだ。とはいえ、長い年月を生きていると、大事なこともたくさん忘れてしまうから、あまり意味はない。紫様との出会いや、式神になった経緯すら忘れてしまった。そして今は、気にも留めていない。いずれ、橙の幼い頃の記憶も薄れていくのだろう。考えてしまうと少し寂しいが、仕方がない。
埃を丁寧に拭きとってから箱に入れて、隠すようにしまった。紫様は無駄なものを愛していて、だから咎めることもない。ただ汚らしいのは嫌いだから、整理して一定の秩序を保つことが大事なのだ。
橙の調査は順調で、報告書が届けば逐一紫様に伝えていた。多少状況に変化は生じているようで、例えば蛇が巨大化してきていること、範囲が幻想郷全土にわたり、また人妖問わず影響が出ていること、蛇を見ても特に身体や精神への異常が見られないこと、など規模が拡大してきていた。
この噂が収束したら、私は橙に八雲性を与えようと考えていた。式神とは本来、命令されたことを忠実に行うもので、単純な式であれば思考回路は存在しない。そのため、細かく指示を書き込む必要があり、例えば、噂の調査のためにほとんど意思のない烏を使役するならば、数を数える、ものを見る、音を聞く、話を取捨選択する、などいくつもの式を組み合わせてようやく使用できる。だが自律式は、目的を与えるだけで、あとは目的遂行のため自らの意思で行動する。橙が目指すべきは後者であり、ここ最近の働きはまさに自律式たる条件を満たしていた。調査してほしいという指令に対し、橙は自分なりのネットワークや能力を利用して、拙いながらも目的遂行のために動いていた。十分八雲の名を冠する資格はある、と思う。実は基準はないのだ。少なくとも、私は知らない。勿論、紫様の許可が必要だから、目覚めてから相談することになるが、おそらく「あなたが決めなさい」と言うだろう。
主のために自らの意思を持って勝手に動く、あくまで主のためが前提ではあるが、自律式とはそう言うものである。
11
報告書を片手に、私は広い空間に立ちつくしていた。
天井は白く、万華鏡のようにフラクタルの線がゆったりと移り変わる。カラカラ回る映写機のフィルムのように、狂った時計塔の針のように、ビードロの玉に映る顔のように、婦人の髪型のように。変化に規則性はあるようだが、次の形を予測できないほど多岐にわたっていた。
混沌、のような空間で、私は移り変わる線を眼で追うばかりだったが、いつの間にか隣に立っていた紫様は、ある一点を凝視していた。
「何か、あるのですか」
「中心、かしら。おそらくね」
同じ場所を穴が開くほど見つめたが、何もなく、変化する線があるだけだった。
「見えないわ、きっと。でも、たぶん、あそこにある気がするの」
「そうですか」
私にはよくわからない。巧妙に隠された中心は、私の濁った眼では捉えられない。紫様には見えているのか、いや、きっと見えてはいないのだろう。だけどこれは紫様の夢だから、何かを感じ取っているに違いない。もしくは、中心を見つめる行為そのものに何らかの意味があるのだろう。物事の本質を見極めるには、核心に触れることが肝要である。夢の世界に核が存在するかどうかは、甚だ疑問ではあるが、考えるのも億劫だ。今は移り変わる景色を、存分に眼に焼き付けよう。この混沌のような空間にも法則があるに違いない。
今、線が形どったのは生物だろうか、はたまた無機物だろうか。確かに見たことがあるのに、それを示す名称が出てこない。頭が回らない。世界はぐるぐる回っているのに、私の頭脳では追いつけない。どうしたものか、助けてください紫様。目線をやっても、紫様は変わらず一点を見つめるばかりで、何もおっしゃってはくれない。
「ここはどこなのですか」
「夢の中よ」
ここは夢の中だ。それはわかっていた。なんと聞けば良いのか、わからない。私はこんなにも言葉を選ぶのが下手だったのだろうか。
ぼんやりとしてきた。私もこの線に組み込まれていくような、そんな感覚だった。フラクタル図形のように規則的なのに、法則性が見えてこない。美しい、気がする。
12
私は夜風に春の訪れを想起できるような、豊かな感受性を持っていないから、時折、露悪的なリアリズムが欲しくなる。娯楽小説を置いて、貸本屋の暖簾を潜って外に出た。頭を使いたくないから、本ではなく、もっと視覚的なものが良い。
そうなると活動写真が良いだろう。あそこに行こう。河童が秘密裏に運営するキネマ館。まだ稼働しているかわからないが、私の足は自然と山のほうへと向かっていた。
小さなキネマ館は山のふもとにひっそりと佇んでいて、河童がすでに整備を止めていたから、建物の一部は辺りの植物に侵食されていた。それでもちらほらと客はあるようで、皆私と同じ、わかりやすい刺激を欲しているのだと思う。
このキネマ館は半年ほど前に幻想入りしたのだが、来た時にはすでに妖怪化していた。当初は映写機がカラカラと回るばかりで、スクリーンに何も映っていなかったのだが、商売に目ざとい河童が、香霖堂からフィルムを手に入れてきてからは、ずっと上映会が行われている。
フィルムはいくつか種類があったが、どれもこれも幻想入りしたものばかりで、一流と呼べる映像はほとんどない。大抵はチープなラブロマンスか、見るに堪えないエログロのスプラッタである。
当初は刺激的で真新しいと話題になり、集客も上々であったが、上映会を重ねるにつれ刺激に慣れた客たちが飽き始めた。どの映画も似たような内容で、冬が訪れてからは客足も遠のき、一部の好事家以外は来ることもなくなっていた。新しい幻想郷ならではの映画を作る者はついに現れなかった。当然と言えば当然である。外の世界に依存した娯楽は幻想郷には根づかないのだ。
集客が見込めなくなってからは河童は管理を止めた。だが映写機はずっと回り続け、堂々巡りで同じ映画を何回も映し続けている。
映画は始まっていたが、どこから見ても同じようなものだから構わない。ボロボロの椅子に腰を下ろして、スクリーンに映る鮮血やら臓物やらを眺め続けた。
映画の内容はというと、ドキュメンタリーとフィクションの狭間を意識していて、それはそれは醜い男が、売春婦をレイプし、殺して、臓物を引きずり出し、死肉を数口食べる、そんな話だった。ストーリーは別にあったが、私が見たかったのはその部分だ。
悪意が心地よい。製作者は拙い技術で、客を不快な気分にさせるよう撮影したのだろう。情熱も信念も何もない。安直で、どこまでもだらけた悪意が延々と流れ続ける。それがなぜだかリアルだと感じてしまう。
「こんなもんよね、人間なんて」
口からまろび出た言葉にはっとした。何も考えていなかった。誰も聞いてはいないが、恥ずかしくなって、意味もなくあたりを見回してしまう。あたりまえだが誰も私に注目などしていない。スクリーンに釘付けになっている者、睡魔に抗えなかった者、腕組みをして露悪さを嘲笑う者、皆自分の世界に入っていた。
その中で、私の三つ前の席に、見覚えのある緑の帽子を見つけた。入った時は薄暗さで気づかなかったが、眼を凝らしてよく見ると、その帽子の横には愛らしい小さな猫の耳があった。
橙だ。間違いなく、私の式だ。横隣りには見覚えのない、彼女の友達と思しき妖怪たちがいた。
反射的に私は男性に化けた。見つかっては不味い。そう思ったのは、この映画を見るという行為に、後ろめたさを感じているからだ。
しかし、なぜ橙がこんな映画を……いや、きっと橙も年頃で、悪意を見たかったのだ。悪い友達にそそのかされたわけでも、猟奇趣味に目覚めたわけでもない。そうに決まっている。
いけない、いけない、私はなぜそんな風に思い込もうとしているのだ。橙がどのような趣味を持っていようと、それに干渉してはいけないだろう。橙の胸の内など、完全にはわかるはずもなく、鍵をこじ開けて踏み入るつもりもない。主はあるのままを受け入れるだけだ。それが役目なのだ。
一度深呼吸して、心を落ち着けて、私は今一度スクリーンに向き直った。叫び声と、下衆な笑い声に集中する。もう二度と見なくて済むように、眼に焼き付けるつもりで、露悪的な絵面を、リアルとして落とし込む。不快にすらならない。俯瞰の立場で眺める者は、微笑を携えて佇むだけなのだから。
クライマックスのシーンに入った。発狂が連鎖し、混沌へと至る。阿鼻叫喚を視覚的に体感して、この映画は幕を下ろすのだ。
画面の中の男が鉈を振り上げた。後ずさりする女の足首を狙っている。惨憺たる現場に居合わせても、冷静な判断を失わずに逃げのびてきたこの女も、すでに混沌の一部に組み込まれていた。
いよいよだ。壁を背に、女は怯えて震えている。男は恍惚の笑みで鉈を――
キネマ館を出ると、言いようもない脱力感に襲われた。興奮も焦りも今はない。代わりに、紫様の夢を見たいという渇望が蘇ってきた。
橙のことは知らないふりをしよう。土足で踏み込むべきではない領域だ。あまり規則で縛るのもよろしくない。
今は男性に化けているが、鉢合わせたら気づかれてしまうかもしれない。早めにこの場を立ち去ったほうが良いだろう。それにしても夜風が心地良い。眼は随分と冴えている。夜の人里を一回りしていこう、そう思った。
夜の人里は静まり返っているが、ところどころ灯りがついていた。その灯りに虫のように吸い寄せられる人間も、少ないがいた。遊郭や小さな酒場は青い炎のように、小さく熱く燃えていて、夜の魔性に誘われた人間の目印になっている。
風呂にでも入ろうか。何なら風呂屋の二階にまで上がっても良い。変化を解いていないこの身体ならおあつらえ向きだろう。
ありふれた夜を流すように、私は暗い人里を歩いた。
「おや、まだやっていたのか」
この間寄った芝居小屋に灯りがついていた。この時間に客など入らないだろうに。それとも官能的な劇でもやっているのだろうか。そうだとすれば、さっき見た映画よりも生々しいかもしれない。好奇心を刺激され、私はまた芝居小屋の暖簾を潜った。
流れるように席についた。想像通り、卑猥な衣服を身につけた踊り子が舞を踊っていた。
大入りではないが、ぽつぽつと観客はいるようで、夜に魅入られた酔客たちは、それを食い入るように見ていた。しかし、頬に手を当てて、あくびをしながら、まるで鉢の中の金魚でも眺めるかのように舞を見ている客もちらほらとあり、何のためにここにいるのか疑問に思った。
木戸銭を払って、退屈そうに眺める様はなんだか滑稽である。想像してみるに、きっと彼らには居場所がないのだろう。心がどうにも冷めていて、夜の喧騒にも、静寂にも馴染めず、だらだらとするしかない。それならば星でも眺めれば良いのに。ますます謎は深まるばかりである。案外、期待して入ったら好みの踊り子じゃなかっただけかもしれない。
ついと舞台を見る。踊り子は美人ではなかったが、化粧が上手かった。そして何より、その動きがどこまでも官能的であり、欲情するに足りえないところを、演技で補っているようだった。
健気だ。艶かしさを醸し出すために、苦労した跡が見て取れる。眼が肥えていない並の男なら、間違いなく鼻の下を伸ばすだろう。
華奢な肉体、嗜虐性をわずかに刺激するような表情、そしてしなやかに動く手足はまるで――
「蛇だ!」
そう、蛇のようだ。
今の叫び声はなんだろうか。興奮した酔客か、いや、怯えが混じった声色だった。考える前に、もう一度同じ声が響いた。
「蛇だ! 助けてくれ!」
悲鳴であった。場内は静まり返っていて、皆一様に声の主を探していた。周囲の視線を辿るとどうやら声の主は、私の後ろの枡席に座っていた男のようだった。
男は目を瞑って身体をよじらせながら震えていた。短い呼吸、激しい心拍音、それが聞き取れるほどの静寂の中で、男は唐突にかっと眼を見開いて、けたたましい叫び声をあげた。そして急に立ち上がったかと思うと、そのまま前に歩き出そうとして、転んでしまった。
鈍重な音が響く。頭を打ったらしく、額の右のあたりから出血していた。
13
とうとう博麗の巫女が動いた。芝居小屋の中で、叫び声をあげて、したたかに頭を打ち付けた男は、そのまま里の診療所に搬送された。脳出血による片麻痺を患ったが、幸い命に別状はなかった。しかし、その男は夢に出没した蛇に対する恐れを、ところかまわず吐き出し続けた。普段は冷静だが、蛇の話となると錯乱したかのように語りだすらしく、それが霊夢の耳に届いたのだ。死人もなく、大した事件とも言えないが、里の中で妖怪が人を襲った事実は博麗の巫女が動くには十分な理由だった。
解決も時間の問題である。きっと山の巫女や森の魔法使いも動くだろう。この規模では歴史に残る異変になりえないので、その蛇にはもう少し頑張ってもらいたいと思うのも、妖怪心である。それにこの件を日常茶飯事として一瞬で片づけられては、散々調査を頑張ってきた橙の立つ瀬がないだろう。
相変わらず、橙の調査は難航しているようで、報告書が届く回数も明らかに減っていた。それでも昨日届いた報告書を読むと、状況が少しだけ変わったことがわかった。蛇は基本的に妖怪の夢の中には現れなくなっていた。蛇に喰われたと騒ぎ立てるのはもっぱら里の人間ではあったが、噂に対して懐疑的な者もいた。狩猟を生業とするまたぎ曰く「俺は見たことがない、そんな奴がいたなら締め上げて逆に食ってやる」とのことだった。
取材して得た情報をそのまま書くなど、まるで新聞記事のようだが、気にすることでもない。着々と調査を続けている証明になっている。
橙はこんなにも真面目だったのか、昔は呼びかけても屋根の上であくびをしているような子だったのに、いつの間にやら素晴らしい向上心と責任感が芽生えていた。主として感激である。
「頑張ってるな、橙」
悪い親心が私の中で膨らんできた。橙が仕事をしている様子を見たい。どんな手段で、調査を行っているか、非常に気になる。
放任するべきなのはわかっている。彼女なりのやり方で、失敗を重ねながら模索することが重要であり、主はどっしりと構えて結果だけを見れば良い。それが自律式の在り方だ。
だが、見たい。彼女の努力を誉めてあげたい。橙は嫌がるだろうな。恥ずかしがるか、もしくは緊張していつも通りに振舞えないかもしれない。これは私の自分勝手なエゴでしかない。
悩んだ挙句、先日の映画の件を思い出して、気づかれなければ何も問題ないという考えに至った。
さっそく変装して里へと駆り出した私は、道行く人に橙の行き先を尋ねた。耳や尻尾は隠しているかもしれないから、髪の色や背丈、服装、話し方を伝えたところ、以前取材を受けたと答えた者がちらほらといた程度で、現在の行き先を知る者はなかった。
さて、現在の居場所はどこだろう。茶屋でみたらしを頬張りながら考えているうちに、いくつか目星をつけた。西の方にある寂れた喫茶店、大通りにある酒場、宿屋……とりあえずは虱潰しに当たってみよう。
「よし、行ってみるか」
甘めのお茶で団子を胃に流して、席を立った。
のんびりと里を回っていると、夜になってしまった。あの酒場の店主が悪い。
橙は随分と熱心に取材しているらしく、酒場の店主は新聞記者の一人だと勘違いしていた。可愛らしいお嬢さんだと思ったとか、うちの娘もあんな風に育ってくれたらなぁとか、そんな話をするものだから、私はいよいよ嬉しくなって、世間話に興じてしまった。仕込みも終わっていたらしく、店主も夜になるまで暇だったのだ。
逢魔が時の酒場は穴場である。彼らにしてみれば、怱忙に備えて体力を温存しようとついついだらけてしまう、危険な時間帯である。
酒場の店主曰く、橙の眼はまるで獲物を狙う猛獣のような鋭さを持っていたそうだ。妖獣だから半分は持って生まれたものだろうが、ある程度老成した人間に伝わったということは、相当熱心にこなしているのだ。感心である。そんな話題を振られてしまっては、乗るしかないじゃないか。ちょっとお酒も呑んでしまった。たった二杯ではあるが、夜を迎えるまでには十分な量であった。
さて、目星をつけた場所はあらかた回ってしまった。どこに行こうか、夜風に当たりながら歩いていると、いつの間にか里の外れに来てしまっていた。
引き返そうと踵を返した直後、この先に賭博場があることを思い出した。妖怪が経営するその賭博場は、人里の境界線からわずかに離れており、弱肉強食の法によって成り立っているが、実はそれなりの理性が存在する。人里の裏の側面、人妖間の取引が行われる場所でもあった。
ちなみに私も紫様も、黙認している。裏も表も人妖の一部である。ただし、紫様はあまり好ましくは思ってないようで、ここの監視はほとんど私一人で担っている。
肝が据わっていれば、情報収集にはある意味うってつけの場所であり、橙が来ている可能性もありえなくはない。特に最近の橙は、どうにもこう言った裏の事情に憧れているようだから、もしかすると頻繁に訪れているかもしれない。
歩くこと数分、貧相な屋敷が見えてきた。古びた木製の壁にかやぶき屋根、窓はすべて締め切られていて、内側を覆っているらしく光はほとんど漏れてこない。立地さえ考えなければ、一見すると普通の民家のようではある。
近づくほどに喧騒が増していく気がした。
「ん?」
思わず声を出してしまった。緑色の帽子に、ピアスのついた猫の耳、橙が屋敷の外にいた。
いたのは良いが、橙は数人の得体も知れない男たちに囲まれていた。人型をとっているようだが、全員妖怪であり、熊のような見た目の男が今にも殴り掛かろうとしていた。詰めよられているようにも見える。気づいた瞬間、私は地を蹴って、男たちの間に割って入っていた。
橙に見つかってしまったが、そんなことよりも現状の理解と対処のほうがよっぽど大事だ。
あくまで丁寧に、刺激しないように言葉を選んで、熊の男に尋ねた。
「どうされましたか」
「どうもこうも、あんたこいつの保護者か。狸の親かと思ったが、狐か。ちょっとしつけがなってないんじゃねえか」
変装はしていたが、彼ら妖獣は匂いに敏感なので、私が狐だと見抜いたようだ。しかし、八雲藍だとは気づいてないらしい。私はあくまで何も知らない保護者を装った。
「どういうことでしょう」
「この猫は法を犯したのさ。けじめをつけなきゃ示しがつかねえんだよ」
橙のほうをちらと見る。右の頬と左眼に青痣があり、服もわずかな血液で汚れていた。おそらく歯も折れているだろう。惨い姿だ。あまりにもひどい。
力でねじ伏せようか、なんせこいつらは橙を傷つけた。大儀はある。隠している残りの尻尾を現出させて、妖気を少し浴びせてやれば、低級なこいつらは委縮するに決まっている。
もう一度橙を見た。橙はうつむいていた。懇願の涙でも浮かべていたら、私は拳を振り上げただろう。しかし、そうではないらしい。虐待を受け入れる子供の形相で、ただ無気力に立ちすくんでいた。
話を聞こう。すべての事情を聞いてから判断しよう。橙のためには、それしかない。
「事情を詳しく説明して欲しい。事と次第によってはそれなりの賠償をさせてもらう」
「話がわかるじゃねえか」
熊男の話を聞くと、橙はなにやら情報を探っていたらしかった。金を払えば教えてやると猿の妖怪が言ったそうだが、法外な値段を突き付けられたので、博打で決めることにした。その賭けで敗北した橙は、負けた分の金額を払い、その上情報量も支払った。そこまでは良かったのだが、狸の妖怪がその金を偽物だと見破ったのだ。
「なるほど。それはすまなかった」
私は財布ごと彼らにくれてやった。熊男が中身をあらためて、さらには狸の妖怪が偽物かどうかを鑑識した。間違いなく本物ではあるが、私が本気で偽装すれば、こいつらに見破られるはずもなかった。
そもそも彼らに金銭の純粋な価値などわかるはずがない。金銭など、いくら集めても今の幻想郷ではそれほど役に立たない。彼らは彼らのネットワークの中で、その金を回して、楽しんでいるだけなのだ。賭博という遊戯に安全な緊張感を付与するために使用されているだけ、命を削り合うような闘争をしたいのならば、賭博など必要もなく、その御大層に生やした爪や牙でえぐり合えば良いだけのこと。彼らもまた人間ごっこに興じているだけの理性ある妖怪なのである。
「すべて本物です」
「ああ、そうみたいだな。よし今日のところは帰んな」
「そうさせてもらいます。行くぞ橙」
「はい……」
うつむいたままそう言って、橙は夜に溶けて見えない私の影を踏むかのように後をついてきた。振り返ることも、顔を上げることもなかった。
賭博場が完全に視界から外れたあたりで、私は橙と横並びになった。橙は一瞬だけこちらを見たが、またうつむいてしまった。その時にわかったのだが橙の眼には濃い隈ができていた。映画館で見かけた時も、先ほど顔を見て痣を確認した時も気づかなかった。これでは主失格だな。そう思った。
「家に帰ったら、美味しい肉でも食べよう。そしてゆっくり眠るんだ」
「はい」
屋敷に戻ってから、まずは橙の身体を洗ってやった。普段は風呂を嫌がるのだが、今日ばかりは大人しかった。擦過傷を刺激しないように、優しく石鹸で洗い、ごわごわな髪の毛を丁寧に梳かしてやった。タオルで水気をふき取り、傷口に消毒薬を塗ると、染みたのかピクリと身体をこわばらせた。
こうやって、橙の世話をするのはいつ以来だろうか。懐かしい感覚、すべてを私にゆだねてほしいとそう思えた。服を着せようとすると橙は我に返ったとばかりに、その服を奪い取って自分で着始めた。ぎょっとしたが、すぐに先ほどまでが大人しすぎたのだと思い直した。赤子ではないのだから、このくらいは自分でするだろう。そもそも身体を洗うのだって自分で行えたはずで、ではなぜ、されるがままにしていたのだろうか。考えてみても、わからなかった。
「じゃあ食事の準備をしてくるからね」
ちょっといい肉を使おう。外の世界から仕入れた天然物だ。若い女性のもも肉である。妖怪にしてみればこの上ない御馳走であるが、紫様がそこまで好んで食されないので、余ってしまったものだ。育ち盛りの橙にはうってつけの食材と言えるだろう。小麦粉をつけてソテーにし、刻み玉ねぎのソースをかけた。
服を着た橙はちゃぶ台の前で正座して待っていた。
ソテーとサラダとごはんと味噌汁を二人分、ちゃぶ台の上に並べた。
「召し上がれ」
「いただきます」
箸でソテーをつまんで口へと運ぶ。なかなかにいい味だ。
橙も黙々と食べていたが、一度箸が止まったかと思うと唐突にこう呟いた。
「なんで、藍様は、殴らないんですか」
先ほどのことだろうか。それとも今までの振舞いについてだろうか。確かに私は橙が見ている前で、誰かを執拗に痛めつけたり、過剰な制裁を加えたりしたことはない。
「そうだな、私にとって暴力は手段の一つでしかない。話し合えるなら、そうした方がいいさ」
これは少し嘘だ。建前である。妖怪たるもの、力にものを言わせるのは当然であり、そちらの方が理に適っている。あえて話し合いをするのは、私が紫様の式神であるからなのだ。
「そうでは、いえ、そうですね……」
何か、納得がいかなかったらしい。だが、今すぐに理解しなくてもいい。ゆっくりと咀嚼して、いずれ自分の中で答えを見つければ良い。
食事を終えたあと、私は棚から何枚かの紙幣を取り出して、それを封筒に入れた。そしてそのまま封筒を橙に渡した。
「これは経費だ。仕事に役立ててくれ」
「あ、いや。その受け取れません」
橙は封筒を返そうとして来たので、私は説明した。
「いいかい、橙。式の役割は主の命令に従って仕事をすることだ。そして主はその式が十分に役目を全うできるように管理する責任がある。肉体の損傷があれば治す、疲労が溜まったようなら休暇を出す、この金銭もその一つなんだ。仕事を任せたのだから、必要なことは伝えてくれ」
「……はい。あの、ごめんなさい」
「なぜ謝るんだい?」
「いえ、あの本当に、迷惑ばかり……」
「迷惑なんかじゃない。仕事を全うすれば良いだけだよ」
私は封筒をちょいちょいと指で押した。橙はその封筒を大事にしまった。きっと有効活用してくれるだろう。
他の単純な式ならいざ知らず、自律式は消耗品ではない。メンテナンスを怠ればすぐに使い物にならなくなってしまう。私のように自分で自分を制御し、一から十まで管理できるようになるまでは、ある程度の支援は義務である。いや、投資といった方が良いかもしれない。この封筒には金銭だけではなく、私からの期待というプレッシャーも入っているのだ。今の橙ならきっと受け止められるはずだと、そう感じたから渡すのである。
「よし、今日はもう遅い。眠ろう」
私は布団の準備をした。その日は久しぶりにいつもの悪夢を見た。ドレミーがまたやってきて、少し仕事の愚痴を語った後、夢の隅っこだけをかじって、帰ってしまった。例の蛇は出てこなかった。やはり人間を狙っているらしいのだが、なぜだか腑に落ちなかった。
14
博麗大結界の点検があったので、ついでに神社に寄って霊夢の様子を見て行こうと思った。霊夢はここ最近では紫様が最も気に入っている人間である。執着を見せていると言っても良いくらいだ。確かに彼女には不思議な魅力はある。感受性は庶民的な豊かさを持っていて、それなのに仕草や言動が妙に浮世離れしているように感じる。博麗の巫女の特殊性だろうか、のんきな性格も相まって、あの神社には若干の血の匂いが混じった穏やかな空気が流れている。
東側から刺す光がどうにも眩しくて堪らない。異変解決に出かけていて、いないことも想定はしていたが、予想に反して霊夢は境内を掃除していたので声をかけた。
「久しぶりだな」
「ああ、あんたは。何、紫の偵察? それとも報復かしら」
報復とは一体何のことだろうか。気になったので尋ねた。
「いや紫様は冬眠しておられる。報復とは、また物騒な」
「あんたの猫のよ、え、知らなかったんだ。色々嗅ぎまわってるみたいだからね。ちょっと退いてもらったのよ」
あの傷の一部は霊夢がつけたものだったのか。どうしようか、主としてはここは報復と称して弾幕を展開するのも役目なのではないだろうか。いいや、やめておこう。争う気分ではないし、異変解決時の彼女は正当性を持ってしまう。もし報復するなら解決後が良い。
「そうだったのか。家の猫が失礼した。今日はお礼参りというわけじゃないんだ。純粋に進捗を尋ねてみようと思っただけよ」
「お礼参りはしていきなさいよ。正しい意味のね。はあ、進捗ねぇ。まあもう少しってところ。尻尾は掴んだ気がする。たぶん」
「随分自信なさげじゃないか」
「だって、あの蛇、隠れるの妙に上手いんだもん。夢の世界じゃ全然見つからないし、だから今は本体を見つけて叩こうと思ってるわけよ」
「なるほどね」
だいぶ難航しているらしい。強者の元には現れないという性質上、のこのこと巫女の夢に出てくるとも思えない。
「あんたも何か情報持ってるんでしょ。教えなさいよ」
「伝えたところで信用できるのか。仮にも八雲だ」
「ああもう、めんどくさい。紫みたい」
別に似せたつもりはなかったのだが、遠回しにはぐらかすだけの今の問答は、言われてみると紫様らしさがあるかもしれない。私は正直に答えた。
「実のところ、この件は橙に一任していてね。彼女から得られる情報以外は一切知らないんだ」
「ふうん」
それきり霊夢は黙ってしまった。口元に手を当てて、何かを考えているようだった。そして、何度か首をかしげてから「まあいいわ。ありがと」と言って、掃除を再開した。ふと彼女が行っている境内の掃除について疑問に思った。石畳の上は雪かきはされているが、他の場所には足首くらいまでの高さの雪が積もっている。落ち葉やごみの類はほとんどなく、あっても雪に埋もれてしまうだろう。
それに、藁の長靴を履いているとは言え、暖かくはなさそうな格好だ。漠然と、雪の表層と、石畳の上のわずかなごみを片付けるだけの掃除など、異変解決より優先させるべきことなのだろうか。それとも気分転換の一種だろうか。
「聞いてもいいか。なぜ掃除をしているんだ。異変解決に行かなくてもいいのか」
「え」
霊夢はキョトンとしていた。予想もしてなかったという調子である。
「どういうこと、禅問答?」
「いや、なんとなくだ」
「仕事だからよ。巫女の仕事」
「ああ、そうか」
納得はしなかったが、理解はできた。霊夢はこの惰性のような掃除も、仕事の一つだと割り切っているのだ。詳しくは知らないがおそらく、幼いころに紫様か、先代の巫女か、それとも育ての親的な何者かが、境内の掃除は仕事だと、そう教えたのだろう。何の疑問も持たずに受け入れているのは、自我が薄いというか、なんというか。
だが、考えてみれば当然のような気もしてきた。幼いころから博麗の巫女という仕事を与えられて、何の疑問も呈さずに順応したのだから、自我が薄いというよりは、己について達観しているのだ。すんなりと妖怪を受け入れ、また妖怪たちに好かれるのは、その宙に浮かんだような価値観のせいかもしれない。紫様が気に入る理由も少しわかる。純朴で寛容なところ、無知と惰性とも言い換えられるが、そこが霊夢を博麗の巫女たらしめているのだ。
霊夢は思いついたかのようにこう言った。
「あと、美しくないでしょう。庭にごみがあると気になるわ」
「なるほど」
その通りだ。私だって気になる。屋敷の掃除は私の仕事で、どうせなら塵一つ残したくないものだ。美しい方がいい。境内も、屋敷も、弾幕も、なんでもである。
「では、私はこれで失礼する。宴会を楽しみにして待っているよ、紫様も」
「あー、宴会ね。どうだろ。ま、紫によろしく」
別れを告げたのち、博麗大結界のある神社の正面へと飛んだ。
15
異変解決後の宴会に間に合うように紫様を起こさなければ。そのことを伝えるためだけに夢に潜り込んだ。この大義名分は自分でもどうかと思う。だが、いざ眠ってみると弾かれることもなく、すんなりと紫様の夢の中に入っていた。
薄暗い空間で、漂う空気はどんよりとしていた。規則的に並んでいる無機質な物体は、おそらく処刑用か拷問用の器具だ。鉄の処女やギロチンといった中世のものから算盤責や縄のついた水車など和製のものまで幅広く、所狭しと並んでおり、まるで博物館のようだ。
「悪趣味だ」
口をついて出た言葉とは裏腹に、胸が高鳴っていた。苦痛を与えるだけの感情を持たぬ道具の数々は、純粋な悪意の塊であり、妖怪的な魅惑があった。棘の生えた首輪、巨大な万力、のこぎり、木製の磔台、これは確か中世のゆりかごとか言う器具だったか。様々な器具は、沈黙を保っており、使われた形跡こそないものの、痛みを想像させる残虐性を醸し出していた。
紫様は少し離れたところにいた。傍に駆け寄って、私は口を開いた。
「そろそろ異変が解決しそうです。起きる準備をなされた方がよろしいかと」
「わかったわ」
いの一番に報告できた。いつも夢の中では私の口は堅く閉ざされて、何も言えなくなってしまうのに、今日はいくらでもお喋りができそうな気がした。
「素敵ですね。コレクションですか」
「そんなところ」
紫様は白い手袋をはめた右手で、ガラスの丸みに沿うように眼の前の巨大な砂時計に触れた。砂はさらさらと一定の速度で落ちて、積もり、山となっていく。この中に閉じ込めたら、きっと恐怖に怯えながら、圧迫されて動くこともままならず、身体はうっ血し、砂を飲めば嘔吐を繰り返し脱水に、そして最終的には窒息してしまうのだ。すべての砂が落ちるまで、身体が完全に埋まるまで、指折り数えながら打ち震えるしかない。痛みはじわじわと、気絶する機会すら与えてくれない。なんとも恐ろしい処刑方法である。
「窒息だけじゃ芸がないでしょう。水責めと同じだもの。これの新しい使い方を考えたのよ」
「と言いますと」
「ふふ、まずは広い空間を用意します。そして、対象者とこの砂時計を放置するの。ちょっと仕掛けを施してね。砂が全部落ち切ると自動的にひっくり返るような仕掛け」
「すると、どうなるのです」
「思考実験なんだけどね、何もない空間に独りきりでいることは、どんな強靭な精神力を持つ者でも耐えられないのよ。十中八九狂うわ。初めに時間間隔が麻痺して、次に幻覚を見る。そして意思を手放す。だけど、もしこの砂時計があったのなら? 正気につなぎとめる唯一の装置、しかも希望にすらなりえる代物。この砂がすべて落ちたら解放されるかも、あともう一回時計がひっくり返ったら助かるかも、そんな希望すら抱かせてくれるわ。希望に縋って、狂気と正気の狭間を綱渡り、終わることのない苦痛に違いないわ」
愉悦の笑みを浮かべて、紫様は震えるように笑っていた。ああ、素晴らしい発想です。残酷です。紫様もそんな魅惑的な表情をなされるのですね。
「妖怪には効果てきめんですね!」
「でしょう」
「ですが対象が人間の場合はどうしましょう。何せ脆弱です。精神的苦痛の前に肉体が滅びてしまうのではないでしょうか」
「そうねぇ。食料くらいは与えるとしても、管理は難しそうね」
嬉々として語ってくれる。私も同調して頭をひねる。数学の方程式に挑んでいるようで、とても楽しい。紫様は鮮血を美化するきらいがある。妖怪らしい残虐性がそこに在る。機能美を持った、悪意の側面。爪も牙も汚さず、恐怖と苦痛のみを与える。紫様らしいと思った。
そして私も同じだ。紫様ほど美しく飾れそうにもないが、私も残虐性を秘めていて、それを露出させると堪らなく心地良い。妖怪の在るべき姿に戻ったような、童心に帰ったような、無垢で真っ赤な欲望を共有できる悦びは、何物にも代えがたいものだ。
「紫様。私も考えます。もっと趣向を凝らせて、素晴らしい物にします」
「そう、でも、あくまでも合理的にね」
紫様は笑顔のまま、人差し指を立ててみせた。威勢よく返事をして、思考しようとすると、意識に靄がかかった。そして、何も想起できず起きてしまった。
起きた瞬間私は衝動的に夢日記を書き始めたが、数行したためたところで急に理性が攻撃してきた。興奮を打ち消すかのように自己嫌悪感が襲い掛かってきた。
「はあ」
情けない。犬のように興奮して、息を乱し、淫らな夢を追走するなど、恥を知れ、それでも八雲か。紫様ならおくびにも出すまい。興奮するのは本能の勝手だが、内側に固く閉じ込めておけ。私の理性がそう言い聞かせていた。
結局その日は両側性の感情を引きずったまま、だらだらと過ごしてしまった。
16
私はまたしても夜の芝居を見に来ていた。里に来て、用事を済ませてから芝居小屋に入ることが習慣になっていた。好みの劇でなくても、役者が出ていなくても、なんとなく落ち着くから来てしまうという、まるで毎朝飲む一杯の緑茶やコーヒーのような、微弱な依存性があった。
酒に溺れると生活がままならなくなるし、性や嗜虐の快感に中毒になると体力が持たない。だからそれらはたまに発散させる程度に留めることが重要であり、また危機感を持てる分、自制が効く。しかし、この芝居の鑑賞という習慣は毒にも薬にもならないような気がしてしまい、どうにも脱却できずにいる。好きな劇の時だけ見に来れば良いのに、と退屈な演技を眺めながら考えてしまっている時点で、無駄を許容してしまっている自分がいることに気づくのだ。
舞台の上ではこの前と同じ、化粧の上手な娘が、しなやかに踊っている。二度も三度も見ると、その動きが精巧すぎる故、艶かしいだけの機械なのではないかと錯覚してしまう。だけど、空虚さを感じないのは、彼女が体温を持った生身の人間だからだ。彼女にも生活があって、もしかすると家族もいるのかもしれない。実はこの芝居小屋に間借りしていて、昼間は歩みを伝って、客たちに弁当や茶を売りさばく売り子なのかもしれない。そして夜は化粧して、誰にも気づかれずに舞を踊っている。などと勝手に想像しているのだが、それが存外退屈を凌ぐ楽しみになっていた。
芝居や舞は虚構だが、内側に意識や感情を隠し持っていることを知っているから、楽しめるのだ。そう言えば秦こころという面霊気の能楽師も、表情はないが感情がある。芝居小屋に通う日々で何度も能を見たが、彼女は随分いきいきとしていた。演者たちは皆そうだ。それが魅力的で、私はついついここに来てしまう。
十分に満喫できている。だが、それにしても退屈だと感じてしまうのは、やはり通いすぎたせいだろうか。一度は欠伸を堪えたが、睡魔に抗うこと敵わず、そのまま眠ってしまった。
夢の中にはとぐろを巻いた蛇がいた。あの噂の大蛇が吼えていた。
変装をしていたからか、人間だと間違われたらしい。それとも襲う範囲を里の中に絞っただけだったのだろうか、まあどちらでも良い。調査は橙の仕事で、解決は人間の仕事だ。
大蛇は威嚇をするばかりで、こちらに近づいては来なかった。
「随分と臆病なんだな」
身の丈は三十尺はあるだろうか、私よりもはるかに大きい。胴の太さも樹木の幹のようで、人間一人が丸々収まってしまいそうだ。暗褐色の体表にはうろこがびっしりとある。見た目の特徴からすると青大将か、それとも蝮だろうか、どちらにせよ大きさが規格外ということ以外は馴染みのある外見ではあった。
蛇はしきりに吼えていた。
だというのに私に恐怖は微塵もなかった。威圧感もなければ、強い妖気も感じ取れなかった。むしろその咆哮は、まるでヒステリックに叫ぶことで、自らを守る人間のようにか弱いとすら思えた。
予感がした。この蛇は、私が何もせずとも、かすり傷すらつけられないのだ。
恐怖の色を浮かべない私にしびれを切らしたのか、蛇は大口を開けて、襲い掛かってきた。薄暗い桃色の空間が、眼の前に出現し、視界から光が消えた。蛇が口を閉じたのだ。
しかし、私は食われなかった。牙は身体をすり抜けて、ばつんという大きな音だけを立てた。痛くもなんともない。触れられたことすらわからない。空気が少し動いたような気がした。
「お前は、虚像なのだな」
肥大した虚栄心、それを守るために蛇は必死に声を荒げていた。私を食えなかった蛇はもう一度とぐろを巻いて、頭上から私の拳ほどもある黒い瞳でこちらを睨みつけていた。
察するにこの蛇は人も食えなかったのだろう。虚像だから仕方がない。それでも、恐れの味を少しは堪能できたはずだ。夢の中で、怯える人間の恐怖だけを食い、虚像だけを肥大化させていたのだ。初めの小さな姿でも、必死に飛び掛かれば腰を抜かす人間がいたはずで、それを足掛かりとして、体積を増やしていったのだろう。そう言えば、小さい姿の彼を何度か夢の中で見かけたが、あの時は品定めの最中だったのだ。物言わぬ蛇を見ただけで怯える人間を、探していたに違いない。
「良かったな。怯えてくれる人間がいて」
きっと現世の身体では小さすぎて、もしくは弱っていて、人を襲えなかったから、夢に潜り込むことで、意識の奥底にイメージを埋め込み、虚像を生み出していたのだ。よく頑張ったほうだと思う。憐れみすら覚えた。
「晴れて妖怪になれたわけだ。まだ夢の中だがな」
もっと大きくなれば、きっと実態を持って、暴れまわれるかもしれない。いや、その可能性も低いだろう。できるのならばとっくにやっているはずだ。彼はこれで精一杯、恐怖を演出しているのだ。
「だけど、夢なんて起きたら忘れてしまうんだよ」
哀れな蛇だ。
きっとどこかで恐怖の味を覚えてしまったのだろう。あれは甘美だ。中毒性がある。仕方がない。忘れられなくて、また蜜の味を味わいたくて、彼はこんなことをしたのだ。
だが里の人間を襲ったのは失策だ。巫女に眼をつけられるだけだ。はぐれ者を狙わなくちゃならない。外から来たのか、それとも山に住む蛇かはわからないが、掟を破っては生きていけないのだ。
「可哀そうに」
決着をつけてやりたくなった。
私が人間ならば、ここで剣を持って大蛇退治に臨めるのだが、そうにも行かない。ふと、この間芝居小屋で見た八岐大蛇退治を思い出した。彼もあの化け物のように神様に首を切られれば、満足して逝けるだろうに。せめて妖怪らしく散れるよう、巫女を差し向けてやろう。
17
時すでに遅し、巫女は蛇の本体を見つけ、退治してしまった。実にあっけない決着だった。伊吹様が修繕したという結界の傍にいて、ずっと冬眠していたそうだ。未熟な橙が修復し忘れた結界の穴を見つけ、外の世界から潜りこんできたは良いものの、幻想郷は冬真っ盛りである。今思うと当たり前だが、道理で人を襲えないわけである。むしろずっと夢の中にいたのだから、狙うなら悪夢を見る臆病な者に限られるのは必然だった。
一つだけ腑に落ちないことがある。夢の世界は基本的に不可侵だが、侵入する方法はいくつか思いつく。例えば紫様なら境界を飛び越えられるだろう。他には仙術や魔法によって鍵を生成する方法も、力や知識があれば可能だ。私のように一定の条件や、契約によって入り込むこともできるし、夢枕に立つなんて言い回しもあるから神格はもちろん、強い想いを持った人間でも可能である。とはいえ、あの蛇にそれほどの力があるとは思えないので、協力者がいるはずだ。
すぐにピンときたので、私は挨拶ついでに寄ってみることにした。
さて、外界の学者の説によると、蛇が夢に出ることは、すなわち性的な欲求不満なのだそうだ。蛇は男性のシンボルで、日本では煩悩の象徴としてこんな字があてられる。摩羅。くだらない連想であるが、おそらく摩多羅神が黒幕ではなかろうか。あの蛇に背中の扉を潜り、別の次元へと侵入する力を与えたのだ。これは理論や公式を用いた仮定でもなんでもなく、経験則による勘である。摩多羅神は面白半分にこういうことをする方である。
独り酒用に買った上質な日本酒を手土産に、私は後戸の世界を尋ねた。
入るとすぐに二童子が出迎えた。侵入者として対処するつもりのようだったが、八雲の名を出して、酒瓶をちらつかせるとすぐに表情を切り替えて歓迎してくれた。やはり酒は交渉の道具として非常に優れている。
「お師匠様はこの先です」
「ごゆっくりどうぞー」
そう言えば初めて会う顔だったが、ちゃんとした挨拶をしていなかった。
摩多羅神はいかにもな椅子に腰かけ、肘杖をつき、不敵に笑っていた。
「よくここまで辿り着いたな。そうだ、私が黒幕だ」
「ご無沙汰しております」
「さあ、虚栄の狂気に飲み込まれるがいい。紫よ、隠れてないで出てきたらどうだ。お前の聡明な式が無残にも……」
しまった。楽しんでおられる。せっかく醸し出している雰囲気を壊すようで、申し訳ないが、そのつもりで来たわけではないのだ。もし敵対するのならば二童子と戦ってからここに来るのが筋である。
「あの、紫様来てませんよ」
「なるほど、高笑いを決め込むつもりか。くくく」
「ホントにいませんって」
「……なんかノリが悪いなお前。ほんとに紫の式神か?」
正真正銘、紫様の式神である。それほど機知に富んではいないだけである。情熱的な問答ができないわけではないが、報告や挨拶のたびにやっていては脳が疲れてしまう。
「はい。ご挨拶に参りました。摩多羅様、私が乗り込む理由もないですし、そもそも異変は解決という形で収まってます」
そう言うと摩多羅神は眼を丸くして、椅子から身を乗り出した。
「まって、おきな予想してない。どういうこと、じゃあなんであんたがいるわけ」
「まあ、気晴らしに謎解きしていたら辿り着いたみたいな感じです。あとは、先ほども言った通りご挨拶と言いますか」
そう伝えると、今度はこれ見よがしなため息を吐いた。せっかくの昂りを棒に振ってしまったようで、申し訳ないが、私の仕事ではないのだ。
「くそ、回りくどすぎたか」
「いやあ、そう言う問題じゃないと思います。ちょっと品がないと言いますか。フロイトとか、ユングなんてわかりやすい題材はまだ外の世界で現役ですし、しかもマラて、下ネタじゃ霊夢たちが気づくはずないですよ」
「うるさいうるさい。式神風情が、神を何だと心得る! 私は後戸の神であり、障碍の神であり、能楽の神であり、宿神であり、星神であり、この幻想郷を創った賢者の一人でもあるのだぞ。様々な側面を持つのだ」
だいぶやけくそ気味になってきている。そもそもこの異変を引き起こしたのも気まぐれなのだろう。しかし、短期間のうちに何度も異変を起こすのは、違反ではないが御法度である。あまり一人の強者が目立ちすぎるのは、均衡を保つうえでよろしくない。そのことをやんわりと伝えると「知らん知らんおきな知らん、新参だもん!」とのことだった。おそらく嘘である。幻想郷創生に携わった賢者なのだから、そのあたりは理解していると思うのだが、いやむしろ理解しているからこそ、おふざけを繰り返しても問題ないと判断したのかもしれない。
摩多羅神はため息を一つ吐いて、気だるげな視線をこちらに向けた。
「あーつまらん」
「お酒でもお酌しますから」
私は手土産の酒を取り出した。隣に行き、小さなおちょこを渡して、なみなみと注いだ。摩多羅神はぐいとそれを呑み干した。
「はあー欲張りすぎたかねぇ」
摩多羅神は愚痴りながらちびりと酒を呑んだ。
私は酒を注ぎながら、あの蛇について詳しいところを尋ねた。なんでもあの蛇は二童子が偶々見つけてきたのだが、大した力を持たない割に狂気じみた執着を秘めていたらしかった。調べたところ、外の世界の小さな村で、彼は一時だけ神格を得たらしかった。山の奥にひっそりと建てられた祠が、忘れ去られ、風化し、朽ちた時に彼の神格は霧散するはずだった。狭い村で誉めそやされて、怯えを喰らったその蛇は、その味を忘れられなかった。過去の思い出を薄めて、薄めて、必死にしがみついていたが、限界が来てしまった。せめて脱皮できればよかったものを、神格に返り咲く努力も、蜜の味を忘れる努力も怠った。彼の小さな病では、幻想に至れなかった。それでも幻想郷は受け入れたのだ。
摩多羅神は丁度良いと思い、夢の世界の扉を開く力を与えたそうだ。異変を起こすことを予想して、後は好きにやらせた。自分は黒幕として、この後戸の世界で待っていたのだが、今回は秘神らしく、誰にも気づかれなかったというわけである。
「暇だったんですか」
私は思ったことを口に出してしまった。自分も話を聞きながら勧められて酒を少し呑んだせいか、口が滑りやすくなっているようだ。
「まあ、その、暇だったんだよ。というわけでだ、今回の催し物にもそろそろ決着をつけたいと思うのだが、どうだ一戦交えるか」
「いいえ、それは私の役目ではないのです。それとなく広めておきますよ。血気盛んな誰かが殴りこみかけてきますよ」
「ぜひそうしてくれ」
神様や妖怪を殺すのは退屈である。刺激を求めていろいろと画策するのは、安定した立場に居座れている強者の特権である。
「退屈は神も殺す。間違いないね。昔はもっと忙しかったな。結界の成立の前あたりが一番だった。信仰の奪い合いに、賢者の会合に、さらには部下の管理。紫のとこもそうだっただろう」
「ええ、そうですねぇ。大変でした。毎日毎日、叩かれてばかりでしたよ」
過去の話題となると私も饒舌になってしまう。怱忙の日々すら美しく思えてくるのは、我々が過去に生きた妖怪であり、今が平和で退屈な証拠だろう。摩多羅神は嬉しそうに同調し、語った。
「ああ、あいつはああ見えて結構暴力的だったな。あとは常に何か固執していて、依存的だった」
「そうでしょうか」
「今もそうだろう。この箱庭に執着している。変化に敏感だが、古い物に執着する。そこは今も変わってなかった気がするね」
なぜだか怒りを覚えた。しかし、勝手に代弁はできない。一理あるし、紫様がこの幻想郷に依存的なのは確かだ。本当のことを言われた時、苛立ってしまうのは、どうしようもない本能のようなものである。特に紫様は秘密が多いから、あたかもすべてを知ったような口調で話されることに腹を立ててしまっているだけである。お酒が入るとどうもいけない。いや酒のせいでもないが、最近私はどうも荒れている。
「あいつは昔から変わらない。時代にいつも食らいつこうと必死だ。滑稽ですらある」
「あなたのほうこそ、今回のはちょっと滑稽でしたよ」
私はくいと酒を呑み干した。摩多羅神は物珍しそうに一瞬だけこちらを凝視して、にやりと口角を吊り上げた。
「言うじゃないか。いい僕を持ったなぁ、ほんと羨ましいよ。あんたに狂気はそんなに感じないけど、いい式だ。間違いない。あんたは似ているよ、紫にさ」
どこが似ているというのか。まるで違うではないか。適当なことばかり、言わないでいただきたい。だが少し嬉しく思ってしまい「そんなこと、ないですよ」と照れたように答えてしまった。
18
摩多羅神と約束してしまったので、私は神社を訪ねた。霊夢はこの前と同じように、雪が薄く残った境内を竹ぼうきで掃除していた。とりあえず異変解決の労をねぎらうと、霊夢はこう答えた。
「なんか大々的に異変って言うほどでもなくてねぇ。宴会になる前に小さく閉じちゃった感じ」
「その蛇のことだが、摩多羅様の戯れが原因だそうだ」
「またか。あいつが黒幕なのね。とっちめてやる」
それとなく、なんて面倒なのでそのまま事情を説明した。はぐらかすのは正直面倒であった。黒幕が退治されれば、宴会にもつれ込むだろう。ここ最近、気持ちよく酒が呑めてない。伊吹様との呑み比べの時は二日酔いで酷かったし、先日摩多羅神のところで呑んだ時も、昔話で火がついたせいか、悪酔いしてしまった。酔いが強くなってからは、話した内容すら覚えていない。独り酒にと買った酒盗の瓶も開けてない。こうなれば、宴会で気持ちよく呑みたいものである。
「宴会を楽しみにしているよ。無論紫様も」
「紫も来んの? 冬なのに」
「まだ眠っておられるが、お声がけはするつもりだ」
「ふうん。あんたも大変ね。あいつ寝起き悪そうだもん。丸一日かかりそう」
この時期は特にひどいのだ。無理に起そうとすれば無意識下で反撃してくるし、たとえ眼を一瞬開いたとしても、すぐに二度寝してしまう。二度寝の際のまどろみを邪魔すると、本当にまどろんでいるのかわからなくなるほどはっきりとした言葉で罵倒される。一番安全なのは卯月の後半である。もしくは眠った直後か。長年冬眠のお世話をしているからわかることであるというのに、霊夢はなんで知っているのだ。
「なんでわかるんだ……」
「いやなんとなく」
いつもこう言うのだ。感覚的に、しかし天才的に、紫様を捉えている。私はこの少女を快く思っていないのかもしれない。私が歩いてきた道中を、一息に飛んできたかのようで、気にくわない。
19
あの後、霊夢が摩多羅神を懲らしめに行き、異変は解決した。これが幻想郷縁起に刻まれる歴史となるのかは正直、わからなかった。夢の中でしか人を襲えなかったあの蛇はきっと忘れ去られてしまうだろう。せめて最後に姿を現して、邪神の形を取れていれば少しは記憶に残っただろう。その時に例えば、夢蛇とでも名乗れば、肉体が朽ちても概念として存在できたかもしれない。しかし、摩多羅神が黒幕を名乗ったことであの蛇は神様の戯れに巻き込まれた被害者としてしか認識されなくなってしまった。有象無象の一部でしかない蛇を特別に恐れる者は、なかった。最後まで哀れな蛇だ。
臆病で、怠惰で、弱い。きっとあの蛇は幻想郷への入り口が、自分より大きな蛇が口を開けているように見えたに違いない。勇敢に飛び込んだのか、それとも停滞を恐れふらふらと迷い込んだのか、きっと後者だろう。踏みとどまることができないのは、彼が欲に生きるけだものだからだ。たとえ頭脳が優れていても、止まることはできない。
私も似たようなものだ。夢を見る時、歩みを止められない。千年の歴史が育んだ理性が、多少なりとも咎めたがそれでも突き進み、藪を突いた。そこには鬼も蛇もいなかったが、妖怪然とした紫様がいた。彼と私の違いはそこだけだ。だから同情してしまう。ほんの少しの自制心と、頭脳と、先を見通す眼と、窮地を逃れる術を持っていれば、もっとうまくやれただろうが、いろいろ足りないのは仕方のないことだ。憐れみくらいは向けてもいいだろう。
さて、異変が解決したので晴れて橙の仕事も終わりである。連絡用の式を送ったが一向に返事がなかったので、心配になった。橙の中では決着がついていないのだろうか。よくよく考えてみると、摩多羅神曰く、蛇は結界のほつれから侵入したそうだから我々の管理不足が原因とも言える。異変の全容が明らかになった今、真に責任を問われるのは私である。しかし、どうということもない。よくある話で、結果的には解決したのだから何の問題もない。反省を生かして、次に繋げれば良いのだ。
橙はもしかしたら責任を感じているのかもしれない。彼女も結界管理に携わったのだから、自分の管轄から蛇が侵入していたとすれば、その気持ちはわからないでもない。もしかすると私に叱られると思い、怯えているのだろうか。だとすれば、何の問題もないと教えてやらなければなるまい。
今日はもう遅いから明日、マヨヒガに様子を見に行くことにしよう。
眠る前にふとこの間食事をした時の橙のことを思い出した。うつむいて、何かから眼をそらしているような、怯えの混じった顔。言葉を堪えて、じっと餌を待っているような、そんな表情だった。
そう言えば一度も眼を合わせてくれなかった。今思うと、ずっと嫌な予感がしていて怯えていたのかもしれない。ずっと黙って、そうだ一度唐突に謝罪をしたんだ。私はなんと答えたのだろう。
そうだ「なぜ謝るんだい?」だ。
慰めのつもりの言葉だが、あれでは言葉足らずで、むしろ咎めているようにすら思える。謝罪をする暇があるのならその分、責任を果たせと、そう告げていると捉えることだってできる。
「主失格だな」
ごめんよ、橙。私を許してくれ。
子供だ。私は、橙の感情を理解してやれなかった。許してほしくて、怒られるのが怖くて彼女は謝ったのだ。自己を卑下して、私に叱られる前に罵って、頑張って言い訳を堪えていたようだった。叱咤を一つだけ与えて、問いかけてやるべきだった。あまりにも昔の自分に似ていて、自分を傷つけるのが怖くて……
「はあ」
過去に一度だけ紫様から向けられた、失望の眼を思い出した。世界で一番恐ろしいと思ったのだ。仕事の内容は数百年以上昔だから忘れてしまったが、ある妖怪の素性調査だとかそんな簡単な命令だった。単純なミスをして、それを取り繕うために失敗した言い訳を並べてしまい、紫様にあの嫌な眼を向けられた。諦めのような、失意のような、とにかく嫌な眼だった。
そうだ、その時、私は自分を殺そうとした。傷つけば、開放される気がしたから……最初に指を噛みちぎった。血は出たが、その程度では死ななかった。家の柱に何度も頭をぶつけた。気絶すらできなかった。死にたかったわけではないが、私はそう簡単には死なないことにも気がついた。自分で言うのも何だが九尾と言えば大妖怪だ。その程度で死ぬはずがなかった。
だから、足に石を括りつけて、私は川に飛び込んだ。嫌いな水に身体を埋めれば、苦しみが絶え間なく襲ってくると、そう思った。式が剥がれて、水を飲んで、息ができなくなって、ようやく意識を失ったのだ。
そして気がつくと紫様の声が聞こえた。涙混じりの声で何度も何度も謝っていた。
「ごめんねぇ、ごめんねぇ」
ああ情けない。人間的過ぎます。簡単に頭を下げないでください。私が全部悪いのです。なぜ謝るのですか。あなたは何も悪くない、全責任は私にある。罰を与えてください、どんな苦痛でも甘んじて受け入れます……
思い出した。あれは紫様の涙を初めて見た日だ。そう言えば、あの日以来、紫様は私をよく叩くようになった。傘で、何度も、何度もぶたれた記憶がある。今でも偶に叩かれる。この前など、良く叩かれましたねぇなんて昔話をしたら「私はそんな野蛮なことはしません」と言って傘で叩かれた。矛盾している。矛と盾の境界に立つなんて、根っからの隙間妖怪である。
「あ」
まずい。橙が、危ない。
最悪の予感がした。私は布団をはねのけて、着替えもせずにマヨヒガへ向かった。
夜のマヨヒガは閑散としていて、時折猫の声が聞こえるだけだったが、その分、自分の心臓の鼓動がやたらと強く響いているようだった。胸騒ぎが収まらない。想像通り、橙は屋敷にはいなかった。布団も敷かれておらず、食事の形跡すらない。廃墟のような寂寥感が、常にはマヨヒガには漂っている。そもそも、橙も雨露をしのぐために間借りしているだけで、八雲邸や里の屋敷のように管理しているわけではないから、それは当然なのだが、心のざわめきのせいか、はたまた夜の見せる幻想のせいか、澄み切ったはずの空気がどうにも不吉の象徴のように感じてしまう。
何か、橙の行き先を示す手掛かりはないかと、私はあちこち荒らした。襖をすべて取っ払い、箪笥を片っ端から開けて、かまどの中に潜り込んだ。当たり前だが手掛かりは何もない。橙の私物と、昔からあった古い小物が散らばっただけである。
「どうしよう……」
不安だ。眼の前に橙がいない。それだけなのに、こんなにも恐ろしい。探知型の式も組み込んでおけばよかった。自律式には不要だと、あえて切り捨てた私が間違っていた。
唯一の救いは、橙の式が剥がれていないことだ。それだけは、最優先で知らせが来るように設定したのだから。まだ、橙は大丈夫だ。だが、この胸騒ぎを鎮める理由にはならない。
「紙と、筆はどこだ……あった」
ちゃぶ台の上に、橙が報告書をしたためる際に使用していたと思しき万年筆と半紙があった。紙は貴重品ゆえ枚数は多くない。
私は探索型の式紙をいくつも作った。どれも精度はあまりよくない。数に限りがあるというのに、まともな式紙は一向に完成しなかった。
それもそのはずで、落ち着いて計算しなければ、上質な式は組み込めない。媒体が紙であるため、命令を無視することは決してないが、安否確認やら速度の上昇やら余計な式まで組み込んでしまい、結果的に無駄に難解なだけの質の悪い式ばかりができてしまう。今は焦燥がすべてを上回っていた。
「落ち着け、私」
深呼吸を何度も繰り返す。酸素を少しでも脳に送りたかった。
どうするか。紙ではなく、近くの猫に組み込むか。脳がある分、優秀になるはずだ。嗅覚や視力も初めから備わっている。いやだめだ。今の私の頭では、制御できる式を組みこむ自信がない。猫の意思の力でねじ伏せられてしまうだろう。やはり無機物だ。
「よし」
いくつも式を飛ばすうちに、合理的な解がようやく見えてきた。感情を殺して、不要な力を排除して、きわめて単純な式を組む。惑わされるな、橙を見つけるという回答以外は無駄だ。
「できた」
柱時計が唸るように鳴ったと同時に、私は最後にして合理的な式を組んだ。橙に組み込んである式を記憶し、探知して、磁石のように一直線にその場に向かう。こいつなら、ものの数秒で見つけてくれるはずだ。
式紙が北北西を向き、ふわりと飛んだ。その式の後を追いかけた。
壁や木に阻まれても、この式は真っ直ぐしか進まないから、私が障害物を壊した。これが一番冷静かつ合理的な判断だと信じ込んで、道を切り開いた。幸い私の爪は頑強だから、漆喰の壁やそこらの若木など、いともたやすく破壊できた。歩みは止めない。一直線に、それが一番合理的なのだ。
わずか数十秒で開けた場所に出た。激しい川の音が聞こえる。橙はそこにいた。激流を見つめ、うなだれている。
あまりにも、昔の私と似ていた。細胞が震えるような恐怖をかみ殺して、あの眼から逃げたい一心で、責任を投げ捨てるためにはこれしかないと、そう思い込んで、大嫌いな水に飛び込んだ私の過去を幻視した。
だめだ。川の底には痛みしかない。痛みはお前に偽りの慰みを与えるだけで、救ってはくれないのだ。
声をかけると飛び込んでしまいそうだから、私はそっと近づき、羽交い絞めにした。橙は私の顔を見てぎょっとした。口を「あ」の形に開きかけた瞬間、私は橙の頭を思いっきり殴った。橙の本心はわからない。ただ、鏡のような水面に自分を映し、黄昏ていただけかもしれない。昔の私ほど、弱くないかもしれない。だけど殴った。こうするしかないと、そう思ったから、殴ってしまった。殴ってしまったのだ。
「痛い!」
当たり前だ。そこそこ強く殴ったのだから。
「痛いか!」
「痛いです!」
「私も痛い!」
私だって痛いんだ。こんなにも痛いのは初めてだ。
「ぐす、うわああああああああ! 藍様の馬鹿ぁあああ!」
橙は泣いた。けたたましく、泣きじゃくった。抱きしめてやりたくなったが、私は仁王立ちして動かなかった。私だって泣きたかった。橙を殴ってしまったんだ。あんなに健気で、可愛らしい橙を……私だって痛いんだ。
本当は一緒に美味しいものを食べて、偶に良い服を買ってあげて、紅茶にはミルクとたくさんの砂糖を入れて、ケーキを焼いて、夜更かししたり、喧嘩をしたり、ちょっとだけ悪いことをして、その日は昼までぐっすり眠って、全部忘れて、幸せを噛み締めながら生きていきたい。
だけど橙はまだ若い。甘ったるい満足に浸るには早すぎる。辛いことはきっと彼女なりにたくさんあって、悩んで、苦しんで、それでも向き合わなくちゃいけないし、そう教えなければならない。
私が辛くても、たまには毒の一つを与えなければならない。綺麗なだけでは壊れてしまう。相当な、それこそ紫様のように固執的な精神力がなければ、耐えられない。泣いても良い。くじけた愛には一皿の毒を、薬に変じるまで与えてやる。自分で、自分なりに自分を慰める術を知るまでは、制御してやるのが主の務めだ。
私はだめな主だ。橙の苦しみを理解してやれなかった。頑張り屋で、ちょっと反抗期なだけだと決めつけて、深いところに踏み込むまいとしていたが、その実は何も見えてはいなかったのだ。暗闇の中で、真っ黒な子猫を幻視して可愛がっていただけだった。橙はもう、ずっと深いところに一人で歩いて行けたのだ。
少しすると橙は叫ぶように言葉を混ぜ始めた。
「わ、わたし、頑張るから、頑張りますからぁ! だから、だから、もう一回だけ、やらせてください!」
その小さい身体で八雲という名の責任を背負って、頑張っていたのだろう。意地を張って、平気なふりをして、紫様のように上手な笑顔ができなかったから、口先だけを尖らせて、怯えを隠し続けてきたのだろう。失敗も、それに伴う恐怖も、私に悟られまいと振舞って、自分で解決しようと必死に頑張ったのだ。
そして、もっと頑張るというのなら、橙の心が折れていないというのなら、私は許すし、何度でもチャンスを与えてやる。妖怪の時間は長いから、いくらでも待つ。
「わかった。精進するように」
拳一つで十分に伝わったはずだ。だからこれ以上は何も言うつもりはない。説教も、泣き言も、さっきの一撃に詰め込んだ。
「は、はい!」
涙混じりの威勢のいい返事が聞こえた。決意の籠った宣言だった。
自律式だから好きにやらせる。多少のことは大目に見るし、隠し事だって暴かない。そこは今まで通りだ。だが道を踏み外しそうなときだけは止めてやる。今回みたいに殴るかもしれない。いささか暴力的だが、半端な言葉よりも響くはずだ。
私はとびきりの笑顔を見せた。
「さあ今日は外食に行こう。外の寿司屋に連れてってやるぞ。紫様には内緒だからね」
「はい!」
涙で腫れた眼をこすって、橙は精一杯の作り笑顔を見せてくれた。まだ不器用だが、私はその笑みに救われた気がした。
20
今回の宴会は大々的に行われるらしく、解決直後の突発的なものではなく、屋台がいくつも出店し、三日がかりで開催する予定であった。なんでも、山の神様や河童たちが以前から計画していた春祭りと時期が重なったので、どうせだから一緒にしてしまおうという魂胆らしい。というわけで、異変解決後、一週間の準備期間が設けられた。そう言えば、正月が明けてからというもの、大規模な宴会や祭りが開催されていなかった。皆、飢えていたのだ。私もその一人である。持ち込み用の酒を買い込んでしまった。
さて、祭りの日まであと三日となった。そろそろ紫様を起こすべきだろう。まだ外は寒いが、宴会であることを伝えればきっと起きてくるに違いない。
とりあえず揺り起こそうと試してみるが、そんな程度では起きない。大声で怒鳴ったり、布団を引っぺがしても良いが、それでは目覚めが悪いかもしれない。だから夢の中から起こしてあげよう。なんて大層な理由をつけて、私はまたしても紫様の夢の中へと侵入を試みた。悪い遊びを覚えてしまったかもしれない。
「ああ、私は厭らしい女狐でございます」
眼を瞑ってそう言った。口にするだけで罪悪感が軽減された。
睡魔は一瞬で、意識を奪った。
気がつくと何もない空間に独り、私は佇んでいた。やや薄暗く、匂いもなければ音もない。足を動かせば歩けるが、周りの景色が同じだから進んでいる気がしない。こんなに無機質な夢は初めてだった。無意識の裏側に到達してしまったのだろうか。あまり居心地は良くない。
唯一の希望はこの先に紫様がいるという予感だ。もう少し歩けば、きっと見えてくるはずだ。話したいことが沢山あった。宴会のこと、橙のこと、紫様のご友人たちのこと。
「あ」
紫様はにこやかな笑みを浮かべて、ぽつんと立っていた。傍まで駆けて、私は嬉々として声をかけた。
「紫様。異変が解決しましたよ。あと三日もすると宴会です。そろそろお目覚めになられた方がよろしいのでは?」
「そうね」
表情は崩さず、紫様は答えた。感情が感じ取れない応答だった。一抹の不安を覚えたが、気にせず私は続ける。
「久しぶりですね。宴会ですよ。皆で騒いで、酔いつぶれて。美味しいものもいっぱい用意しなくちゃですし。霊夢なんかきっと今頃、ため息を吐きながら準備を進めていますよ」
「ふふ、そうでしょうね」
いつもの声色、いつもの言葉使い、だが空気と会話しているような気分だ。紫様は確かに妖怪然としているけど、これほど無機質ではなかったはずだ。
「紫様、どうされたのです」
「どうもこうも、私は私」
張り付いた笑みが、私の不安を煽った。何もない空間で、二人きり。会話する以外にはすることもない。私が黙ると紫様は一言も喋らなくなってしまう。だから早口で言葉を紡いだが、相槌ばかりが返ってきた。
虚無だ。紫様の形を模した虚像と話し続けているような、虚しさが襲ってくる。ここは夢の中のはずで、どんなことでもできるのに、変化に乏しいこの現状はまるで時間を氷漬けにされたかのようだ。苦しくて、息をしようと声を出す。その分だけ虚しさと不安が蓄積されていく。
打破しなければならないと、私は想像力を駆使した。私の知る限りの人物をイメージし、彼女らが酒を呑んでいる姿を思い描いた。それらは容易く実態化し、瞬く間に空間を喧騒で埋めていった。
「こんな感じになるでしょうね。今から楽しみです」
「そうね」
何も変わらない。何かを言わなければ、心を揺り動かすような言葉を吐きださなければと、私は思考を巡らせた。あまり口に出したくないような、下劣なことも行ってみよう。私は巨大な鉄の鍋を想起した。
「私も料理を作ったんです。見てください。水炊きですが、人肉の旨味が濃縮されたこのお鍋を。五十人分は用意しましたので、きっと皆満足してくれます。黙って出したら、霊夢や魔理沙たちも食べてしまうかもしれませんね。ま、それも面白いでしょう」
下衆な笑みを浮かべて、なるべく醜悪さを醸し出しながら言った。しかし、紫様は曖昧な相槌を打つだけだった。
「どうして、何も言ってくれないのです」
今度は、とうとう沈黙で返された。
堪らなくなった私は、赤ら顔で酒を呑んでいた霊夢の心臓を、手刀で貫いてみせた。想像の産物だから抵抗はまったくしなかったが、苦悶の表情は浮かべていた。
「新鮮な活け造りをご用意します。だから、だからどうぞ紫様も召し上がってください」
手早く捌く。一欠片だけ味見して、わざとらしく震えてみせる。なのに、紫様は嫌な顔一つ見せず、私を凝視している。混沌のような夢の中で、中心を見つめている時と同じだった。
活け造りを差し出した。だが一向に手に取る気配がない。
「ここは夢の中です。さあ遠慮なさらず。私は知っています。紫様は、きっと霊夢を食べたいはずです。それが健全な妖怪というものです。さあ、さあ」
何もしてくれない。叩いてもくれない。こんなにも興奮している私を見守るだけ。壊れ行く様を、最後まで見届ける観測者の眼をしていた。
嫌だ。そんな虚ろな眼で私を見ないで欲しい。失望のほうがまだましだ。
「ここは夢の中です。幻想の奥底です。だから出てきてください。恥ずかしがらず、さぁ。妖怪の妖怪たる所以を、ちょっとくらい見せてくれてもいいじゃないですか」
暴力でも叱咤でも嘲笑でもなんでもいいから、答えてほしかった。
しかし、主は決して、言葉を紡ぐこともなければ、肉塊に齧り付くような真似もしなかった。微笑みの皮一枚隔てて、果てしない虚無の夢が眼前に広がっていた。
「ふざけんな」
私の掌は主の心臓を貫いていた。生暖かい血液がどろりと腕を伝う。拍動は止まらず、肉はぐぬりぐぬりと修復を試みていた。自然と頬が歪み、恍惚を感じた。これが私の野性だ。幾重にも組み込まれた式により薄まってはいるが、仮にも九尾の狐である私の残虐性は消えてはいないのだ。快感だった。
「どうしたの。藍」
紫様は私を抱きしめた。優しい仕草で、温もりすら感じさせる声色で、愛を分け与えるかのように抱きしめた。なのに涙が溢れ出た。こんなに近くにいるのに、紫様の体温すら感じ取れなかったのだ。叫ぶように、言葉を羅列した。
「ため息交じりの苦労人である八雲藍を演じてきました。優秀で完璧な式であったかは、それほど自信はありませんが、それでもあなたの隣に在るに相応しい九尾の姿を、決して崩さぬよう努めてきました。嫉妬も情欲も全部隠してきました。小さな嘘を吐き続けていました。本当はあなたを殺したいほど、愛しています。誰よりも強く、幽々子や霊夢なんかよりも、よっぽど深く愛しています」
愛してる、なんて、言葉にするとこれほどまでに軽いとは思わなかった。いくらでも言える。慎み深さを放棄して、獣の咆哮のように雄々しく、言葉を以て伝えられる。
だけど紫様は応じてくれない。否定をせず、無限の包容力で飲み込んでしまうだけだ。それが辛かった。私は伝えたのに。一方通行の想いなど、無意味の類義語に等しいではないか。
私は主の背中に爪を立てながら、首筋に噛みつき、肉を食いちぎった。頸動脈から溢れ出る彼女の赤い体液が、私をオーガズムへと至らせた。
そこで目が覚めた。
耐えがたい自己嫌悪の波と不安が同時に襲いかかった。
「ああ、私は」
立ち止まれなかった。夢など覗かなければ良かった。下衆な狐の下卑た快楽のために、主をからかい、情欲を愛にすり替えて、愛してますと間抜けに叫び、挙句の果てには惨殺してしまった。あの叫びに愛など一欠片も混じってない。執着と情動の塊だ。
あんなのは私の、たとえ本性だとしても本音じゃない。断じて認めない。私は色情狂でも、猟奇趣味でもない。夢の中で狂気に当てられただけだ。汚らしい姿を晒してしまった。
なのに、なのに、紫様は罵声の一つもかけてはくれなかった。ああいう醜態は、紫様が嫌うはずなのに。空虚さしか、あそこにはなかった。
虚無が本質だなんて、信じられない。いつも紫様の夢は鮮やかで、美しかった。誰かに愛されるほどに綺麗だった。
共有した夢を思い返す。すべてが紫様の一部だ。
幽々子は崩壊の美を好んだ。
萃香は花の強さを好んだ。
隠岐奈は過去を好んだ。
霊夢は混沌を好んだ。
私は暴力を好んだ。
そして、紫様は世界を愛しているように振舞った。虚無だから、無限の包容力を持って、あらゆる美を演じきってみせた。すべては夢芝居の一幕に過ぎない。幕が下り、柏手が止めば、閑寂な空虚さだけが残る。ああ、違う。そんなはずはない。あまりにも残酷すぎるではないか。
私は空虚を抱きしめることはできそうにない。主の本質が慈愛で満ちた空虚だなんて考えたくもない。嫌だ。だとすれば私はこの爪で咽を掻っ切って、式の呪縛から逃れるしかない。主の見せる表情が、どれも作り物だなんて残酷だ。椀の中で静止した賽子を見るとき、一方からでは三面しか映らないのと同じで、だけど裏側には確実に数字が刻まれていることを知っているから、底や裏側、中身など気にも留めない。だけど私は誰も知らない紫様の一面を覗き込んでしまった。私だけが秘部に触れてしまった。
いや、違う、私だけじゃない。霊夢は感じ取っていた。あいつは混沌じゃなく、虚無を好んでいたのだ。生まれつき強くて、そして自然体、劣等感や焦りを抱くことは在れど、自身を決して偽らず、欲望に正直にまっすぐ生きていた。妖怪のようだ。そんな霊夢は異様に勘が鋭いから、紫様の虚無を感じ取っていたのだ。そうに違いない。そしてそれを心地良いと思えるほどの、狂気を持っているのだ。人間ゆえの順応、空に浮かぶ彼女ゆえの充足、底知れないものを恐怖とは思わず、居場所だと信じ込む無邪気な心。小娘のくせに、小娘のくせに。
嫉妬だ。嫉妬の感情を好奇心に挿げ替えて、私は深層を覗き込んでしまった。
結果としてどうだ。最悪の事態を招いてしまった。少しでも立ち止まって、自分の頭で考えれば、回避できたはずなのに。これではあの哀れな蛇と同じだ。間抜けな私には橙を叱る資格などない。まずは自分を制御しなければならなかったのだ。
私は恐ろしくなった。逃げ出したい。苦しい。吐き気がする。知性をすべて捨て去って、裸になって走り回りたい。夢から取り出した衝動のままに、紫様を殺して、喰らって、絶頂の果てに死んでしまいたい。
だが、それすら叶わない。心が瓦解するには、あまりにも年を重ね過ぎた。理性の檻が、野性を開放してはくれない。八雲の名を背負った時間は、あまりにも長かった。
苦しい。やめておけばよかった。刺激を恐れ、好奇心を捨てて、停滞した時の番人として、ゆったりと過ごせば良かった。
苦しい。後悔ばかりが残る。呻き声が聞こえる。
「紫様」
主は苦しそうにしていた。汗で白い寝間着はじっとりと張り付き、筋を硬直させ、苦悶の表情で唸っていた。
ああ、紫様を苦しめてしまった。せめて自傷する程度に留めれば、こんな苦しそうなお姿を晒すこともなかったというのに。
「……どういうことだ」
なぜ紫様が苦しむのだ。本質が虚無ならば、精神と肉体のつながりが希薄な睡眠中に表情が現出するはずもない。夢を見ながら寝姿のまま演技をするなんて、可能なのだろうか。第一、無意味だ。精々私くらいしか紫様の寝姿を見ていないのに、演じる必要などあるものか。きっとそうだ。私の小賢しい詮索が、紫様を苦しめているのだ。夢中で葛藤しておられるのだ。そうに違いない。だとすれば少なくとも虚無ではない。
私は宴会用の安酒を眠剤代わりに煽って、もう一度眠りについた。夢に侵入する大義など考える余裕はなかった。
またしても一本道だ。薄暗くて冷たい洞窟の中、ごつごつとした岩肌の道を気にも留めず、歩き続けていた。隣にはいつの間にかドレミーがいた。にこりと微笑んで、私に何かを伝えようとしていた。
「なぜいるのだ」
「悪夢あるところに獏ありです」
足を踏み出そうとしたところで、ドレミーは掌をこちらに向けて制止するよう促した。
「ちょっと忠告を」
「急いでいるんだ」
「焦ってはいけません。悪夢に呑み込まれますよ」
「構わない」
「構うんです。悪夢なんて覗いても良いことないですよ」
「それは私が決めることだ」
じれったい。無意味なやり取りだ。私は急がなければならないのだ。
「覗かれる方だって、気持ち良いものじゃ……」
「五月蠅い!」
ドレミーの着ている服の襟をつかんで、怒りを露わにした。だが、声を荒げた瞬間、はっとなった。ドレミーは少しだけ怯えた表情で、それを取り繕うように、人を小馬鹿にしたような眼で、私を見据えていた。
「助かりました、少し頭が冷えたと思う」
「良かったです。別に止めはしませんよ」
他人と話して少し落ち着いた。焦りも不安もまだあるが、強迫観念はなくなり、ある程度自由に思考できるようになっていた。足もいつの間にか止まっていた。
「随分親切ですね」
「まあ、あなたは結構良い人ですから。では。私はこれで」
私は良い人じゃない。主に悪夢を見せ、それを覗こうというのだから。そう言おうとした時にはすでにドレミーは消えてしまった。
代わりに、眼前には紫がかった扉があった。
紫様が準備してくれた扉だ。中心に刻まれた瞳が、こちらを凝視している。扉を開けるか、選ぶのは自分だ。紫様は選択肢を与えてくれた。
本当は立ち止まって引き返すべきだ。そうしないときっと紫様を苦しめてしまうから。だけど、それでは私が耐えられない。
深呼吸を一つした。
「大丈夫だ」
何が起きようと受け止める。毒食わば皿まで、後でどれだけ厳しいお仕置きをされても構わない。たとえ紫様に失望されても、必ず信頼を取り戻して見せる。
決意を固め、私は扉を開いた。
扉の先には先ほどと同じ、広くて薄暗い空間が広がっていた。
ただし、一つだけ違うところがあった。巨大な鉄製の檻があったのだ。
檻の前に紫様は番人のように佇んでいた。
「紫様」
「本当は見せたくないのだけれど、ねえ、全部忘れて夢から覚めない?」
「……嫌です」
「仕方ないわね」
紫様は身体を半分だけ捻って、檻に入るよう促した。
巨大な檻の中には、里の童子くらいの身長の紫様がいた。小さな紫様はブツブツと何かをつぶやいていたが、私を認識するや否や、声を張り、言葉を並べ立てた。
延々と紡がれる言葉は、魔女が呪文を暗唱する時のように、どこまでも淀みなかった。
「ふざけんな。死ね。勝手に上がり込んで、土足で荒らした挙句、唾を吐きかける盗人め。誰にも私の痛みを渡すものか。時の流れに茶化されてたまるか。エゴイズムむき出しの青二才め、粘性の甘ったるい蜜を秘部に塗りたくって股を開いてすり寄ってくる売女め。大仰にぶら下げたふぐりの中に愛など詰まっているはずもない。海と大地の贋作め。無邪気さを装ってうるんだ目で睨め上げれば万事許されると思っている悪童のくせに、快感の享受と称してマゾヒズムをちらつかせる忌み子め。歯に衣着せる物言いで言いくるめられると勘違いした虫歯まみれの出歯亀め。半導体の脳みそを蛇行する思考回路とか言う似非の個を主張して、我思うゆえに我在りなどと抜かす癖に、手に持った七色に光る金品は添加物だと断じて切り捨てる愚行、頭でっかちな免疫不全め。汚れるまいと払っていた泥、そこを居とする細菌の、大逆襲劇の始まりを察知できず、二進も三進もいかず衰弱していく己が身を呪うしかない。それでもなお、お前は清く在ろうとするのだろう。恐怖を脳の皺の片隅に追いやって、潔癖な正義感で優しさの手を差し出すが、その温もりの籠った掌は雑菌の温床でしかないのに、偽善も善と自虐的に称し、自惚れを隠匿した驕傲に浸りながら、憐憫のまなざしを矮小だと勝手に断じた者たちに向けやがって。何もない、お前の手には何もない。確かな感触に触れたのは錯覚で、お前自身が生みだした虚構の気化熱に過ぎない。しかもその熱を呑み込んで咽を火傷して、息すらままならない姿はお笑い種だ。好き嫌いせずに食う健啖家を名乗りながら、その実は味などまるで気にせず、酸いも甘いも死んだ味蕾の上を滑らせ、徒に胃袋を拡張することに躍起になる餓鬼め。いくら意地汚いふりをしようと、その蜘蛛の巣みたいな腹は満たされやしない。欲望だけがそこに在るんだ。生命賛歌の象徴のような真っ赤な果実に齧り付いて、汁を口元からこぼしているように見えても、ただただ涎を滴らせているだけなのに。やきもち焼きのお前は、もぞもぞと蠢く奴らを猛禽類のように捕らえて、食い荒らし、欲望のままに生きているつもりでも、揮発性の鉄くずに縛られたお前は間抜けそのものだ。気づけやしない、気づこうともしない。盲目だから暗闇こそが在り処だと信じて止まず、ついには光を忌み嫌うようになって、臆病な蝙蝠を嘲笑うのだ。三次元の胎の中で右往左往するしか能のない両性具有が、いくら群発性の狂気を訴えたところで、臍の緒を断ち切るなんてできやしない。むしろ首に絡まっていく様を運命だの定めだの宿命だのと呼称して小さく満足するに違いない。寂しがり屋が潔さの美学に執着する醜悪さは滑稽の一言に尽きる。お前に孤独を謳歌などできやしない。満月の夜に、独りで盃に浮かぶ月を、涙で濁し、飲み干して、咽頭を通り過ぎる熱を、愛おしく思うのだろうが、生憎お前が大嫌いな大衆もお前と同じ月を眺めているのだ。しかも、お前と同じだけの幸福を、月は分け隔てなく振舞うのだ。そして病魔に侵されたお前をやさしく見殺す。その瞬間、真の孤独を窺い知るだろう。愚鈍な感性では、黙殺に触れるまで実感できやしない。鈍感なお前はハイカラな文房具を従えて、海原を渡る船のような勇ましさで、鳥かごの小鳥を糾弾して、悦に浸る。卓越した頭脳でたとえ無間の光の質量を玉響に証明したところで、手慰みだと言いふらしながら片手間の快楽を静かに受け入れるのが関の山だ。大海原に漕ぎ出した気持ちのお前は、浅瀬でちゃぷちゃぷ遊ぶ奴らを人間のように嘲笑うが、奴らはお前が勝手に溺れて、もがいて、沈みゆく船を見てほっと安堵するのだ。克己的だと妄信している目出度い頭なのだとすれば、悟りに辿り着くまでに何億年を費やして、浄土を見出した時、瞬きの間に伸ばしっぱなしの髪の毛の隙間で孵った蚤や虱が、紫色の風に乗って門を叩くだろう。やたらと鋭い眼光がそいつらを見逃すはずもなく、丹念に丹念に潰して、ようやく太鼓の音色が止んだ頃、初めて浄土が妄想と気づく。そのくらい愚鈍で無神経、おまけに無感情、無関心。表情だけは一丁前だ。前門の虎後門の狼、四面楚歌、八方塞がりの暗がりにて八方美人に徹するに違いない。不干渉すら愛と受けとめる度量など持ってもいないくせに、まるで世界の果てを知った旅人の面構え。ありきたりの使いまわした厭世観、世界が変わらないことが前提の語り部は、暗雲と、擦過傷を丁寧に舐り合う仲間しか見えていない。興味ないわ、が口癖で、エゴを飼いならす術も知らないくせに、無敵のナルシズムの殻に籠り、内側にしか答えがないことを証明するため、結局は外の痴話喧嘩を蔑みながら、嫉妬する哀れな浮浪者め。一念発起して、バックパックに命綱と、ガス切れのライターと、聖書と、安物の大麻を詰め込んで、高山に登って、体内の酸素を入れ替えた程度で価値観を書き換え、己を土産に持ち帰ったは良いものの、お前の無事を祝う者など、厭世仲間にはなく、結局使い道がなかった命綱で首を吊れ。その時、初めて世界を呪うんだ。そんな無様な死に様がお似合いだ、声も出せず、後悔と執着を吐き出した粘着物の中に潜り込んで、大地を感じて死んでゆけ。温い雨だけが味方してくれるかもしれないが、それは生きてるやつにも届くことを知って平等の不公平さを今一度思い出せ。安楽椅子に癒着した尻にできた腫瘤がお前だ。治癒しない一生物の病魔と仲良く過ごして、その痛みに愛おしさすら覚えていくうちに、ものの見事に同一化したのだ。周りの奴らがその痛みを奪おうとしている医者のように錯覚し、頑なに椅子に座り続けているようだが、誰もお前の尻の穴に興味なんか持ってない。痛みと言う名の宝物は地平線の彼方まで行っても無価値だ。大きな犬がちらりと見えた自分の尻尾を追いかけまわし、グルグルグルグルと描いた螺旋を辿るだけのお前は、延々となだらかに曲がるその道のりの中で、偶々落ちていたその痛みに、高尚そうな意味らしきものを見出して、ほっと一息ついたのち、傷口を舐め、奮えながら眠りにつくのだ。そして朝が来る。夜を追い越す努力も、夜から逃げる努力も、知ったことかと、奴から勝手にやってくる。そしてお前はまた間抜けな犬の尻尾を追い回す旅に組み込まれるのだ。マンネリズムを打破しようとよそ見をしたところで、都合よく光を反射し、お前の阿保面を映すガラス片が落ちているはずもなく、結局目の前くらいしか見るものがないから、仕方なしに回旋を再開するのだ。誰も言わないから言ってやる。輪の中に答えは無い。少なくとも知らない。終止符を打とうとしている奴らに罵声を浴びせ続ける限りは、決して手に入らない。これぞ堕落、無精髭をどこまでも伸ばした男を罵るお前は、その黒々とした汚らしい髭の同義語だ。磨き忘れて鍵を無くした宝石箱を大事に隠し持つ、姑のように意固地で、道端の雲母の輝きに価値を見出す子供のように無知で、ケシの実の白に星のきらめきを想起するジャンキーのように無感情で、三下り半を突き付けて優位性の悦に浸りたいだけの醜女のように狡猾で、貪欲さを向上心と置き換えたがる卑しい太鼓持ちめ。下劣で、下衆で、下品で、下賤で、下卑た狸め。聞こえているか。この罵声が。聞こえぬのなら、その不必要な耳の奥のエスカルゴを引きずり出され、バターで和えて、食われてしまえ。後悔の住処に間借りした捕虜が、延々と呪詛を吐き続けることでしか生きる意味を見出せないのと同じで、お前は何かを否定することでしか、存在意義を見出せない。馬鹿め、阿保め、自分ならばこうするのにと、間抜けを間抜けと罵って、そのくせ自らはまともだと高説するその傲慢さには感服してしまう。気位の高い白拍子、寂しいくせに、寂しいくせに。肥大した像が収まる器を探す瘋癲、糸が切れた凧のようにふらふら頼りなくおどけて、人との差異など気にも留めないお前は、自分が世界の中心だと信じ込んでいるから、定住を拒むのだろう。やたら広いだけしか取り柄のない空の下にいることで、自己陶酔に浸るだけのくだらない半生を過ごせばいい。俺はまともだと、延々に懊悩から逃げ続ける仙人のように狂気を無邪気に振り回せばいい。馬鹿は馬鹿らしく。心の底から己がまともだと思い込んでいる馬鹿は脳なしだ。誰もが小さな夜を抱えて、それを愛でるのが大好きなのだ。固めた拳で恋人を殴打するかの如く、大事に大事に扱うのだ。それこそ普通、それこそ平凡。目指すは水だ。お前は水になりたいんだ。誰かの渇きを潤して、水中毒を起こさせるのが趣味の阿婆擦れ。汚らわしいわ、汚らわしいわと、汚泥を内包しながら叫び、偶に排水口の蓋を開けて臭素を嗅いで楽しむ穢れた醜女、お前の用意したコップ一杯の水など、皮脂が浮いていて、においも酷くて飲めやしない。指先から漏れ出た漿液が混入しているのが丸わかりだ。水になりたいのならば、狂気を求めて、蔑まれながら朝を生きるしかない。不可能だ、お前には。お前は何もできやしない。この出来損ないめ――」
魂の叫びと言うには老成していた。
自慰と断じるには激し過ぎた。
ピエロと嘲るにはあまりにも必死だった。
わかったのは、この小さな紫様は昔からここにいたということ。誰にも見つからず、ひっそりと匿われていたということ。
彼女なら抱きしめられる。そう思った。
だから私は精一杯、抱擁した。小さな紫様は抵抗もせず、延々と言葉を吐き出し続けていた。
すると、檻の外から紫様が言った。
「噛みつくだけよ。醜いでしょう。彼女は命のほかに爪と牙しか持っていません。玩具は取り上げましたが、どうにも言葉は難しい。私の一部だけど、私じゃない。わかるでしょう」
「はい」
「だから、忘れてあげてください」
「はい」
「嘘つき」
ばれてしまった。そうだ、忘れたくない。ずっと抱きしめて、愛してあげたかった。
「その子を離して」
「嫌です」
今度は本当の気持ちを伝えた。
「お願い。自分でできるから。愛してあげなくてもいいから」
「嫌です。私が勝手にやってることです。エゴです。渡しません」
「お願い。やめて」
「嫌だ嫌だ、私のものだ」
橙は殴ったけど、この子は抱きしめるんだ。私なら愛してあげられる。慈しみを持って、大事に大事に、傷つけることなく、抱擁できる。
「やめて、ちょうだい……」
紫様の涙混じりの声が聞こえてはっと我に返った。また、暴走してしまった。あれだけ自制すると誓ったのに、反省したはずなのに。私はどうしようもない女狐だ。現金で卑しくて、最低な式神だ。
小さな紫様を離し、私は檻の外に出た。
目が覚めた。外は暗い。障子を開けると夜風が吹き込んできた。春一番にはまだ早いが、冬の終わりを告げるような風が、私の身体を冷やした。胡蝶蘭が儚げな己を主張するかのように、弱々しく揺れていた。
廊下に出ると、紫様が縁側に腰かけて、空を眺めているのが見えた。すでに着替えておられる。声をかけようと思ったが、台詞が思いつかなかったので、とりあえず私も寝間着から着替えることにした。
服を着て、枕元に置いてある酒瓶を持ち、厠に行くついでに台所に寄って、開けてない酒盗の瓶を引っ張り出してきて、紫様の元へと向かった。時間をかけても、かける言葉は何も思いつかなかった。
先ほどと変わらず、紫様はずっと夜空を眺めていた。丸一日寝ていたのか、それともすぐに起きたのか、月を見てもわからなかった。だけど真円に近い月は、とても綺麗だった。
傍に立ち「おはようございます」とだけ言った。
すると紫様は私を見て、微笑んだ。その微笑みが、あまりにもぎこちないものだから、私の胸が締めつけられた。紫様はもっと自然な笑みができるはずで、あんな辛苦を抱え込んだ人間がおどけてみせるような笑みは、初めてだった。すべて、私のせいなのだ。
「あら、いいお酒ね。呑みましょう。お酌してくださいな」
「はい」
隣に腰かけて、盃を渡した。全然いいお酒じゃない安酒を注ぎ、酒盗の瓶を開けた。
「ほら、あなたも」
「はい、いただきます」
紫様が私の盃に酒をなみなみと注いだ。こつんとぶつけて、乾杯した。
酒は辛くて、酒盗は苦かった。呑み下すのが、苦しくて、かと言って吐き出すこともできなかった。
夜空を眺めたまま紫様が言った。
「ごめんね」
謝ることなど何もないというのに。すべて私が悪いのに。
「私が悪いんです、全部私が。ごめんなさい。だけど、だけど、寂しかったんですよう。ひぐ、ごめんなさい。えう、ごめんなさい」
とうとう押しとどめていた感情が溢れ出し、私は泣いてしまった。みっともない。こんな姿、紫様にだけは見せてはいけないというのに、情けない。同じ過ちを繰り返したというのに、言い訳ばかりが口から出てくる。小さな紫様がいるあの檻の夢を見て、私は少し救われた気分になったのだ。途端につけあがって、エゴを発散させて、散々弄んで、なのに、この期に及んで、私は許されようとしている。そんな身勝手で我儘な私を、紫様は咎めもせず、ただじっと眼を合わせて、想いを聞いてくれている。
何度も何度も、涙が滲んで何も見えなくなるまで、嗚咽交じりの声でひたすらに謝り続けた。
紫様は私が落ち着くまで何も言わないでいてくれた。今日だけは一度も私を叩かなかった。
半刻ほどもして、ようやく落ち着いた。私は涙を拭って、こう伝えた。
「忘れます。夢のことは全部忘れます」
「私もそうするわ。だけど、あなたは覚えていてもいいわ。それを望むなら」
あの夢も、このぎこちない笑みも本当は宝物にしたい。忘れたくない。大事に宝石箱にしまっておきたい。そんな私の想いなど見透かして、それでもなお慈愛を持って、それこそ獣を宥めるように接してくれる。怒り、困惑、悲しみ、失意、それらすべてを表出しないための柔和でどこかぎこちない表情。張りついたような笑顔の仮面を剥がしても、そこには変わらない優しい笑みがある。
私はどう応える。
決まっている。
「忘れてみせます。紫様は望まないでしょう。だから……」
「証明できないでしょう」
「では、一切合切口には出しません。あれは、ただの夢でした」
「それでいいわ」
これでいい。紫様がそう言ってくれるのだから。綺麗な言葉を隠れ蓑に、本当に大事なものは鍵をかけてしまっておこう。それが一番良いのだ。きっと。口に出さなければ、時が経つうちに色褪せて、忘れてしまう。鍵も錆びて、壊れてしまう。何事もそうだ。だけど失うわけじゃないから、怖くはない。
本音はすべて伝えたつもりだ。十分すぎるほど。だから何も怖くはない。言葉にはなっていなかったけど、涙以上の言葉を私は知らない。夢の中で語る愛よりも、涙の一滴のほうがずっと想いを詰め込める。だから、もうこれ以上は言わない。
今は他愛のない話がしたかった。何か、もっとくだらなくてもいいから話がしたかった。だけど、どんな話題もすぐに終わってしまう気がして、何も言えなかった。
何かを言おうとして、何も言えない沈黙を、先に破ったのは紫様だった。
「私も一つ、謝らなければならないわ。ごめんね。あなたのことが、わからなくなっていた。ずっと式神としてちゃんと扱ってきたつもりだったわ。不満があったんだと思って、いろいろ見せたんだけど。結局、意地悪しただけになったみたい」
「そんなことないです」
夢を見る日々は楽しかった。様々な側面を知って、深く理解した気分になれた。今思うと悪趣味だが、純粋に嬉しかったのだ。
「深い夜みたいに、全部わかったふりをして、最後はあなたに委ねたわ。だけどあなたのすべてを受け入れる覚悟なんて、本当はなかったの。あなたとちゃんと向き合えなかったの」
「そうだったのですか」
「これも忘れてね」
「そうします」
向き合っていないなんてとんでもない。私が勝手に粗々して、本来は隠しておくべきものを、さらけ出してしまった。それだけなのだ。受け入れる必要もないことだ。だけど、紫様にしてみればそれは、忘却してほしい事実らしかった。どこまでも深い、すべてを呑み込む海のような暗い夜を演じたい紫様は、一介の式に過ぎない私の、好ましくない一面を咀嚼できなかったことを、どうにも気にされている。
ならば忘れてみせる。そのうえで、隣に立つ。主が夜を演じるのなら、私は星に化けてみせる。
ふと、あることを思いついた。
「少しだけ戯れませんか。最近、芝居にはまっているのです。あわよくば女優になろうかと」
「いいわね。私も演技は得意よ」
嘘だけど、伝わった。芝居は好きだが見るだけで十分だ。だけど、この夜だけは、どうしても紫様と遊びたかった。一緒に夢を見たかった。独りよがりじゃない、ただ楽しくて、誰も悲しむことのない夢が欲しかった。
「初めて会った時のこと、覚えていますか」
「忘れちゃったわ」
「私もです」
とても大事な思い出だったはずなのに、記憶は徐々に色褪せる。長く生きていく限りは抗えない。それで構わない。栄枯盛衰、壊れない玩具がないように、消えない思い出も存在しない。少なくとも妖怪にとっては。
だけど、私たちよりもずっと短い寿命しか持たない人間は、思い出を忘却の彼方に渡さないように、少しでも時の流れに逆らうために、歌や言葉を残すのだ。
必死な人間の真似事をしてみよう。今からじゃ手遅れかもしれないけど、ひとときの戯れだから良しとする。
「どうでしょう。表題は『出会い』で。記憶はおぼろげですが、そこはまあ、直感的に補うということで」
「楽しそうね。いえ、楽しみましょう」
歌劇を始めよう。私も紫様も歌は大好きだ。もしかすると、劇の中に記憶の鍵が眠っているかもしれないが、そんなことよりも、楽しむことを優先に、見様見真似の大立ち回りを演じてみよう。
広い庭に出て、向かい合った。私は腕を組んで仁王立ちし、鋭い視線を浴びせながらこう言った。始まりはこんな感じが良いだろう。
「おいそこの女、何見てやがる」
紫様はにこりと余裕を持った笑みを崩さず、こう返した。
「私の式に成りませんこと」
「ふざけるな、我は九尾なり。手前のような小童が気安くものを申すでない」
「あら、私の眼がおかしいのかしら。九本も尻尾があるようには見えません」
「ぐ、うるさい、黙れ。もう一言でも喋って見ろ、手前の首を跳ね飛ばすぞ」
「恐ろしや、恐ろしや。血なまぐさいのがお好みなのね」
私も大好きなのよと、牙をむき出しに、紫様は口角を引き上げて笑った。
「こんな感じでしたっけ」
「なんか違う気がするわ。こうよ、こう」
紫様は無邪気な声でこう言った。
「素敵な尻尾の狐さん、私と一緒に遊びましょ」
打って変わって幼い雰囲気だ。私は泣く真似をした。
「えーんえーん、無理だよそんなの。だって一歩も動けないもの」
「どうして動いちゃいけないの」
「だって動けないんだもん」
「動けるじゃないほら」
「あれ、ほんとだ。封印が」
「私、八雲紫。あなたはそうね、藍って呼ぶ」
「藍、なんか素敵な響き」
一呼吸置いて、私は我に返った。
「なんですかこれ」
「あはははは」
間違いなくこんなファンシーではなかった。断言できる。
「こうですこう」
私はできるだけ腰を低くして、怯えたように話しかけた。
「あ、あの、あなたが巷で噂の八雲様でしょうか」
「はい。そうですが」
「私は名もない子狐でございます。群れもなければ、宿もない。若い根無し草です。私を雇ってくれませんか。お役に立ちます。雑用、戦闘、なんでもやります」
「ありがたい申し出ですが、お断りします。忙しいことには忙しいですが、幸い手は足りているのです」
「諦めませんよ、と来る日も来る日もその狐は紫の元に訪れて、頭を下げて懇願するのだった」
「とうとう私は根比べに負けてしまいました。はあ、仕方ないわね」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
「こんなんじゃないわ。こうよ」
一呼吸おいて紫様は、ほんのわずかな狂気が混じったような黒い微笑を浮かべた。
「ふふ、ついに完成したわ。自律思考式九尾型式神、さあ、目覚めなさい!」
「オハヨウゴザイマス、ゴシュジンサマ」
「今はまだ片言ね。まあ元はそこらへんの狐だから仕方がないわ。だけど、式が馴染めば、かの白面金毛九尾の狐と同じ力を発揮できるようになる……そうなれば妖怪の時代がふたたび……」
「ハイ、ゴシュジンサマ」
「名前を決めなくちゃ。そうね。藍、にしましょう。藍はアイとも読む。最高のAIとして、私の傍で藍色の輝きを放つ存在になるの」
「おかしくないですか。AIなんて言葉、昔話にでてこないですよ」
「話の腰を折らないの。野暮でしょ」
「それに、なんか嫌です。この設定」
私の思考がすべて紫様によるプログラミングの賜物だとすれば、それはなんか嫌だ。自我は私のものであるという事実だけは譲りたくない。
「えーこれからが良いところなのに。私は不完全なあなたを従えて月に攻め込むのよ。戦いの中で進化を繰り返し、殺戮兵器だったあなたが心を手に入れる筋書きなのよ」
「なんですかそのどこかの一流の真似をした三流映画みたいな筋書き。違いますよ、もっとこうロマンチックな感じですって。大人の魅力があるような」
私は絶世の美男子に化けた。
「おい娘、俺の妾にならないか」
「まあ、素敵な殿方。これは運命ね……まって、どうやってこの後主従関係を結ぶのよ」
「それはまあ、あれですよ。何ですよ。夜の秘め事で、その屈服させられるといいますか」
「破廉恥!」
紫様は身体をよじらせてそう叫んだ。私は思わず吹き出してしまった。
「浪漫があって情熱的と言えば、こうよ」
紫様は私と相対して、わざとらしく肩で息をした。
「はあ、はあ、やるわねあなた」
「お前こそな、次で決める」
「その時、うおおおん! と凄まじい雄たけびが聞こえた」
「鬼が出たぞー! 町の人間たちが逃げ惑い始めた」
「一時休戦といきましょうか」
「ち、仕方あるまい」
お互いに渋々と、しかしどこか誇らしげに握手を交わす。そこで思わず紫様が自ら始めた物語だというのに、吹き出してしまったので、私もつられて笑ってしまった。
「流石にないわ、これは、くく」
「私もそう思います。こんな感じですって――」
とてもくだらないおふざけが、とても楽しかった。
過去を捏造した芝居を演じていると、今が現実か、夢かわからなくなってくる。夢芝居の幕が開けると、そこには夜が降りてくる。暗闇に呑み込まれ、色鮮やかな風景を幻視する。まさに夢見心地だった。
夢は夜の欠片だ。悪夢も勿論その一つで、見方によっては愛おしい。夜はたくさんのものを呑み込んでしまう。月明かりも、星空も、闇の誘惑も夜の一部だ。そう思うと月は随分と見栄っ張りだ。太陽のおかげであんなにも輝けるのに、そんなことはおくびにも出さず夜の女王様を気取ってる。厳然とした態度で、夜に生きる者を平等に照らしている。
だけど、今宵限りは私たちだけを照らして欲しい。
私は月を眺め、今までで一番、芝居がかった口調でこう言った。
「月が美しい夜は、なぜか血が滾ります」
「仕方がありません。こんなにも美しいものですから、私も魅入られた一人です」
「あなたもそうですか。気が合いますね」
「ですね……私は月を目指しております。あの輝きを掴むまで、手を伸ばすことを止めない愚かな旅人でございます。夜に焦がれた愚者ではありますが、よろしければ、あなたも同行しませんか」
「私はか弱い狐です。あなた様のお役に立てるかどうか」
「嘘はいけません。あなたはとても強い狐です。私の傍にいて欲しい」
「わかりました。御供しましょう。もし、あなたが夜となるなら、幾千の星に化けてみせましょう。千変万化はお手の物、卑しい狐ですから、偶に野暮な物言いもしてしまいます。完璧とは言い難い粗末な化生ですが、それでも傍らに立つ限り、素晴らしき従者を演じてみせます」
「期待しています」
にこりと、紫様は微笑んだ。いつものように、妖しく、優しく笑ってみせた。
いくつもの劇を繰り返しても、虚偽と理想が混じるせいで、正しい記憶が掘り起こせない。それで構わない。夜が無限の夢を見せてくれる。たとえそれが虚構だとしても、愛していきたいと思えるほどに、魅力的だ。
朝が来るまで踊りましょう。いずれは忘れる一炊の夢だとしても、このひとときを愛します。
それにしてもラストの悪夢の凄まじいこと
表面上には取り繕って綺麗に魅せるが、少し掘り下げれば嫌なことばかりが浮かびがち。
そこをあえて露悪的に表現するが、しかし、それそのものは決して悪いものとして書かれたことが一度としてなかったような気がする。
誰しも嫌な部分は持っている。
自分には、そういう側面があるのだと受け入れて、それが人や妖の持つ本質として一度は書きながら、
しかし、それでも取り繕うところに、人の本性みたいなものがあるようにあったのだと。
途中で萃香は仮面舞踏会と評し、酒は仮面を暴くものであるように書かれていたように感じる。
そして、その本性を暴くことは悪い事だ。
と橙が猟奇殺人が上映されたキネマ館にあって、それは自分もされたくないが故の心配り。
所謂、橙の気持ちを汲むことを主軸に置いていし、それと同時に従者の前ではやはり取り繕いたい気持ちもあったのだと思う。
そういう気持ちがあったから、ちょいちょい紫との主従関係についても思い直したり、考え詰めたりしている気持ちがある。
藍の本質は基本的に善良。
趣味嗜好は嗜虐的で残忍ではあるが、それはそれ、仮面を被って他人を慮るのが藍の本質。
だから自分の趣味嗜好を、自虐的な表現でしか伝えることができない。
藍のしてることは秘め事に似てる。
仮面で隠した向こう側を暴きたい。
でもそれはきっと相手の恥部を見る行為であり、それを藍も自覚している。
だからこそ本質的に相手の夢を除くことに罪悪感を持ってる。
それはきっと、体の輪郭だけが見える。薄いカーテンの向こう側を見て想像し、実際に覗いていいかどうかの葛藤に似ている。
やっぱり人というものは服を着て歩く生き物であり、それが普通。それが日常。
裸の付き合いには特別な意味が込められているんですよ。
カーテンの向こう側。
仮面舞踏会で相手一人にだけ見せるように、仮面をチラリと外して見せる悪戯顔。
最初は表面的な綺麗なものだけを見せて、そして、その先にある沼にずっぷりと脚を浸かるような。
紫と藍は、そんな進展が見えた。
本来なら数年かけて行われるやり取りなのですが、
そこはまあたぶん二人の間には土壌があったように思うのです。
たぶん、きっと、こんな感じなんだろうな、と。
それでも隠すのはやはり恥部だからであり、それを晒して、受け入れるという事実に意味があることなんだと思うんです。
最終的に恥部がなんであったかなんて、どうでも良いんだろうな。と。
紫からしてみれば、一時の過ち。
熱に浮かされたみたいなものであり、でも、やっぱり、受け入れられたという事実だけが重要。
事実だけがあればいい。それ以外は全て忘れてしまっても良い。
最後の最後にめっちゃ良い関係になっていたのは、
良い感じに距離を詰められたんだろうな、と。
あのやり取り最高っすよね、めっちゃ凄かったです。
橙を通じて主従関係を思い直す。
過干渉はいけないことをしつつも、やはり踏み込まなくてはならない箇所はある。
想いを伝えるっていうのは、そういうこと。
距離を取ることも大事ではあるけども、それだけでは解決しえない問題もある。
やっぱり藍が紫に踏み込んだのは余計なお世話だし、藍が橙に踏み込んだのも余計なお世話。
でも、その余計なお世話が大事なんだろうな、と。
いや、良いっすね。良いものを読ませて貰いました。
そういえば話は変わるのですが、私、最初から最後まで一言一句を読み飛ばさずに読んだのですよ。
物語として削れるところも多々あったと思うんですよ。
それでも冗長に思うことはなかったし、日常シーンですらもずっと読み込んでいたいと思えるものだった。
本当に良かった。最高だった。
丁寧に書くというのは、こういう意味かと教えられました。
シーンとして動きは少ないはずなのに、ここまで読むのが心地良いと感じた経験は少ない。
ずっと読んでいたかってけど終わっちゃったな。この感想書いたら読書終わるんだな。悲しいな。
また読ませてほしい。本当に良かった。
ありがとうございます。
終わりましたけど、幾つもの夢を示唆されて、広大な創作の中に浸れて幸せです。
紫様、夢、このテーマの中で様々なキャラの一面や、物語、描写を多彩に繊細に折り重ねられた大作に尊敬の念を禁じ得ません。
後書きを読み、冬眠から出発した想像と推察しますが、ここまで完成させた技量と思念には私が推し量るよりもっと壮大な、キャラ或いは東方の世界観に対する愛情が見えました。
こんな世界を思い描けたら、楽しいなとも。
有難う御座いました。
複雑怪奇に本筋が絡み進みながら、そこに関わらない日常が確かに息衝いているのは、まるで箱庭のよう。
と言うかもう藍を通した霊夢観で全て語られていますね。紫が霊夢を気に入るはずだという読者への納得と共に、やはり紫は表面で箱庭全域を偏に愛せているが故に取り繕わねばならぬ物を隠しているのだとすら感じられる。
本性に流されるままに、されど本性は決して悪いものでは無いと言いたげに。それがこの作品の主題だったのでしょう。
やはり紫については、鶯浄土の夢にて語られた『すべて平等に愛でるのだ』という文章がきっとその全てなのかなとも。
逆に言えば、愛しているからこそ自らの弱みを曝け出せないのでしょうね。万華鏡の夢もそう。決して核心には触れられない、触れさせてくれない。
ある意味では、橙の内面には触れないよう心掛けていながらも紫の内面を暴こうとしている藍の姿は些か倒錯的とも言えました。
とは言っても藍も紫も内面ではエゴをひた隠しにして表面は華麗にやっているのだから、本当に隠岐奈や萃香が言う通りに主従というのは得てして似ているものです。
そういった主従の似通った部分を長文の中であれやこれやと様々に表現していたのは、気付きの連続と共に確かな読み応えを得れたように思えます。
主従の云々で言えば、従者を殴って諌めるかという点もかなり特徴的に描かれていたようにも思えました。
当事者は得てして自らの錯誤的な側面に気付かない、という事実を主人でありつつも従者である藍というキャラクターによって、実によく主張していた箇所とも。
故にそこから主失格と気付いてからの己の過ちの回顧、橙と自分の境遇を重ね蛙の子は蛙と言わんばかりの合致性が質量を帯びていたとしても不思議ではありません。
何せ橙の成長を見守る藍という構図が、橙の成長に気付かされて自らも成長していく藍という構図に変わった瞬間です。これが愛おしくないはずがないでしょう。
終盤は、先に言ってしまえば橙の成長に気付けた後の藍だからこそ、自らの視野狭窄な面を自覚した後の藍だからこそ、そうあれたのだろうという展開でした。
紫の匿い続けた小さな自尊心は有る事全てに噛み付くだけなのだ。それでも、自らのエゴを認めつつも暴走出来るその慮りの中途半端さこそが彼女の美点。
本編を通して語られた藍の本質は、相手を上に立てて自らを取り繕えるのに、曝け出してしまえる時には手が出てしまう不完全さだと自分は感じました。
けれどもそれは未熟さでは無く。一過性の毒となって自らを蝕みはすれど、曝け出す自分自身を認めてしまえばそれは美徳にも成り得る物です。
紫の必要だった物を全て持っている藍だからこその行い。藍が望んだ物を全て持っていた橙と同じ構図ですよね。
何度も押し返すように語られる、上から下へ、下から上へと流れる感情の同期が本当に読んでいて美しい物。
だから仮面は仮面のまま。相互確証の不文律によって表面を障子で覆い隠しつつも、暴かれた事実だけは依然として残り続ける。
音も立てずに静かにドロドロと関係性が進展した様は、頽廃的でありながらもやはり透徹な綺麗さがありました。
役という仮面を被って遊びに興じ、今だけはお互いの内面を忘れたいと踊る二人の光景。最後の本心のやり取りも、仮面の下という体裁のままに。
あと、作品の主軸から感想を書いていると全然触れられなかったのですが、幽々子のキャラ立てが実に良かったものです。
天空璋エンディング曲を思わされる問答に胡蝶蘭の言葉遊び、加えて花の霊という意趣返し。それだけの出番であったにも関わらず、智に裏付けられた振舞いが見事に表現されていました。
そもそもにして紫の旧友として作中で描かれた隠岐奈も萃香も等しく、強者として振舞いながら紫の弱い内面にも勘付いている。そして各々のフィルターを通して藍を見る。
生と死の境界、酔と醒の境界、それらの膜の剥けた先で藍を口々に評価するその姿は、それぞれがあまり長くない会話の中でも特に際立っていたものでした。
酔生夢死。いい言葉です。
読了と感想を書き終えると共に夢は醒めてしまうものですが、邯鄲の夢には惜し過ぎる作品でした。
ありがとうございます、どうか善い夢を。
特に、式の式という立場にある橙とのやり取りで藍のキャラクター性を綿密に構築していくという方法も面白く、そのおかげで何処か破滅的な思考を持ち合わせている藍にもすんなりと感情移入する事が出来ました。とても上手いと思います。
終盤、八雲紫の本心(幼い心を持った嘘のつけない八雲紫)が吐き出した呪詛は悲痛でありながらも、不思議とどこか懐かしさを覚えてしまいました。まるで、これまで幻想郷で出会った何処かの誰かに向かって吐いているかのような……これまでの自分の半生を描いた一種のリリックのような……何処かの誰かを想起させる言葉が多くてつい勝手に解釈してしまいましたが、見当違いなら申し訳ありません。
最後の締め方がとても良かったです。これまで蓄積した陰鬱さを洗い流してくれるような、何処までも爽やかな終わり方だと思います。
近年稀に見る大作の一つだと思います。読んでいて心から感動しました。
今後の執筆を応援しております。
心、誰もが持つ内面について描いた話であるのと同時にキャラクターの解釈を存分に描いた話だったと思います。まず、前半部分から触れますと基本的に藍の日常パートな訳です。紫が冬眠してから、藍は人里に暇をつぶしに赴いたり異変もどきのようなものの調査を橙に依頼したりなど。平穏な日常の中で最も好きな場所を挙げるとすると幽々子が青薔薇の話をして紫を言い負かした話でしょうか。幽々子と紫のキャラクター性が存分に発揮されたシーンでしたし、紫の可愛らしい一面を見る事ができて非常に満足させられた場面です。ほんのわずかな登場でありましたが、そのシーンの為に幽々子がかなり記憶に残る事となりました。
中盤辺りになると夢の中に現れる蛇についての異変、それに伴う橙にも大きく変化が出てきます。一方で藍は紫との夢を通して従者について色々と考えていたりするのですが、自身を顧みているつもりでも、当時と似た立場である橙の本心までをも完全に理解できていなかったのではないでしょうか。ずっと橙の気持ちを汲もうとして彼女が抱えている恐れや焦りなどをずっと一人抱えさせていました。まぁしかし、そうでなければ橙も成長出来ない訳で、橙自身もそれを分かって強くあろうとしたのでしょう。しかし、その為無理をしているのに焦って取り繕ろうとして失敗して、もっと悪い事態を引き起こして。結果橙の調査は散々な結果で終わってしまう訳ですが、藍は一切怒りませんでした。藍自体は橙の心境を心配して休ませてやろうと思ったのでしょうけれど、彼女はもう自立しようと、自分で責任を取ろうとしているくらいには強くありました。だから一切叱らない藍に逆に怖くなったはずです。もう諦められているのかと。叱られてる内に、なんて言われるくらいですし、僕自身叱られなくてはいけない時にそうでなかった場合は余計に恐ろしい事態なのではないかと思います。
それから先、藍がかつて抱いた自身の失態から紫の失望の視線を受けたことを思い出し、自己嫌悪に苛まれたことを思い出します。大切なものから失望されたことへの恐怖と絶望、そしてそれを招いた自分自身への憎悪、この場面の表現の仕方が本当に迫真で心に訴えかけてくるものがありました。橙の元へと向かい、ちゃんと叱る事が出来たのは最良の接し方ではないとは思いますが、それでもどちらも救われるための選択肢であることは間違いありませんでした。この場面で、藍が橙には甘ったるい満足はまだ早いと、まだ彼女には毒が必要なのだという表現が本当にお見事でした。キャラクターに成長を促すものに必要な要素が盛り込まれており、それを自然に保護者の視点から言わせるのが素晴らしいとしか言えません。
終盤、紫の最後まで隠しておきたかった、最後まで自分だけのものにしておきたかった彼女の一部を藍に見られ、そして受け入れられます。あの何とも言えない複雑な心情表現を文章に書き起こすのが凄まじくて感激しました。どんな者でも他者に見られたくない、他人に見せたら幻滅され、自分にしか愛せないと思うものがあるでしょう。それを土足で踏み荒らされた挙げ句、勝手に見られ、そして勝手に受け入れられ愛してもらった。このどう表現していいか分からない複雑な気持ちが深く刺さりました。
100kbを超えるに至って丁寧な心情表現が尽くされていて、自身の持つ内面と他者との関わり方、平穏と苦痛と後悔と懺悔、そして受容と忘却。こんなにも優しくなくて、でもやっぱり優しい、そんな話でした。ありがとうございました。
藍も橙も紫もみんなそれぞれ何かを抱えながら生きてるんだと感じました
とてもよかったです
人間臭さと妖怪臭さと真面目さと不器用さが同居していて、「ああ、私が好きな八雲藍だ」と納得させてくれる。これほどに藍の内面を表現しきった作品を、私は初めて見たと思います。
藍の周囲の人妖との交流と、現実への対処と夢の世界での体験から浮き彫りになっていく、藍の内面。そして藍視点で進む小説、その全体に散りばめられた数々の描写から表現された、八雲藍そのもの。
時に色気を増し、艶やかに、あるいは純粋に美しく、あるいはじっとりと生臭く描写される文章表現。
恥ずかしながらも、そうして表現される八雲藍の内面に、興奮しながら読んでしまっていました。
そしてその上で繰り広げられる、現実と夢、藍と橙、藍と紫それぞれの物語。それは幻想郷規模で見れば大したことではないかも知れないけれど、三人にとってはとても大切で、とても尊いものでした。
綺麗は汚い、汚いは綺麗。妖怪少女たちの未来にこれからも笑顔があらんことを。
とても美しく、胸を打つお話でした。
小さな紫の独白?は狂気と造詣と愚痴のバランスが絶妙だし、個人的に霊夢は紫の虚無に居場所を見出している、という言葉のチョイスがなぜか印象に残ってます
受け売りですが、スペルカードがアイデンティティになる幻想郷だから、自分という創作物を美しく仕上げることはきっと何も悪くありません
素敵な作品ありがとうございましたはあまりにも薄っぺらいが、本当にありがとうございました
紫が自分に対して望んでいるところは、(技量という意味ではなく)またその一つ上の段なのだということを、
橙に対するときの自身の心情をもって思い当たる、もしくは思い出すのがひとつ美しい流れでとても好きです。
また、藍と橙の精神的距離の接近に相対して追いついたと思えばまた離され、近づいたと思えば突き放される
紫と藍の描写も二人の繋がりの綺麗な醜さが垣間見えてなんというか、ほっとしました。
ただ橙と違って外面強度がお互いに強い二人だからこそ、ある種反則的な突破口として夢という劇薬を通すことで、吐露とはまた違いますがどちらかといえば普段抑えている部分の発露を垣間見ることで、ある種の妥協点に近づけたのだと思いました。
心を開いているつもりでも、どうしても生半に踏み入れない・踏み行ってほしくない領域というのはあって、寧ろそういう間柄だからこそ主従として、親は親なりに子は子なりに見栄を張りたいものなのですよね。
最後の戯曲のやりとりに、2人がたまらなく愛おしくなってしまいました。
藍も紫も橙も複雑な内面を持っていて人間臭いですね。
ただそうした(自分および他者の)感情・性質の混沌に苦悩しながらも、紫と藍の関係性と、藍と橙の関係性が、時を経てもどこか繰り返されているように感じて、それがとても愛おしい小説でした。
最高でした。ありがとうございました。