湖に抱きしめられた(Blue Approach)
かつて住んでいたところには水場があった
そこで子供たちが泳いでいた
ミサンガを右足に通している、褐色の元気な子供たちだ
私は体が弱かったから、ほとりで本を読んでいた
ハンス・クリスチャン・アンデルセンの小説だ
それが人魚姫だった
魔女はできそこないの足の代わりに声を奪う
いじわるで卑劣な魔女!
もし私がその魔女だったら、絶対にそんなことはしないだろう
なぜなら私は体が弱くて、好きに動けないことの歯がゆさを知っているからだ
だから私に“おねだり”しなさい!
私は“ただ”で足を創り、ついでに本もくれてやろう!
一
レミリア・スカーレットは不意に本を膝へ置いて、パチュリー・ノーレッジのほうを見た。彼女は研究に没頭していた。
パチュリーはフラスコや鍋を相手に眉間へ皺を寄せて、むらさきの瞳をぎらぎらと血ばしらせていた。この陰気な親友がそう言うふうに振るまうのは、別に珍しいわけではない。
しかし今回はさすがに───厄介そうだな───とレミリアは思った。狂気も“すれすれ”だ。そして彼女が本に目を戻してからしばらくすると、その“すれすれ”が限界を越えた。
パチュリーは急にフラスコを壁に投げつけた。彼女は噴火したばかりの火山のような顔だった。本棚に投げなかったのは最後の理性だろう。
「フラスコの費用を誰が払うと思っているの?」
「何が!」
「私だよ」
とレミリアは本を机に置くとさらに言った。
「厄介そうね」
「厄介よ!」 パチュリーは吠える 「厄介なのよ。そう……そのとおり……厄介なのよ」
落ちついてきたのだろう。パチュリーの声は尻がすぼんでいった。
「なんの薬を創っていたの」
「その……」 パチュリーは言葉を噛んでいる 「体が弱いのを……直そうと」
「ふん」
とレミリアは頷いた。
パチュリーが自分の虚弱体質を治そうと腐心しているのは紅魔館の周知である。ひとなみのコンプレックスと言うやつだ。あまり表面にだすことはないけれども。
「千回目の失敗よ」
「千回」
とレミリアは返すだけにした。
同情で慰めるのは互いにみじめなだけだ。
「失敗したよ……」
とパチュリーはうなだれた。陰気な顔へさらに陰が落ちるので、まるで幽鬼のたぐいである。
これは相当にまいっているな。とレミリアは思った。
仮にパチュリーが百歳だとしても恐ろしいほどの損失だ。心労としても時間としても。
「コーヒーでも飲む?」
「要らない」
とパチュリーは気づかいにすげなかった。
「分からないね。天才さまのおまえがそんなにも失敗するなんて。
それより難しいことは山ほど……解決してきたのに。私の無茶とか」
パチュリーが急に咳をした。いかにも軽度の喘息わずらいの咳だった。
彼女は机の上の雑巾を持つとそこに痰を吐いていた。
「機会があれば」 パチュリーは自分をあやすように言う 「あと一歩のはずなのよ。材料でも発想でも別になんでもかまわない。でも何がたりないのかも分からなくて、私は本当は馬鹿なのかもしれない」
パチュリーがぶつぶつと言うので、レミリアは体に黴がはえた。
「アプローチを変えようとは思わないかな」
レミリアは呆れていた。
「どう言うのよ」
「よくないと思うのよ。なんでも魔法で解決しようとしてさ」
「……」
「吸血鬼にしてやるよ。とても頑丈で健康だ」
「いやよ」
「どうして?」
「その……とにかく、いやなの」
「言えよ」
とレミリアはにらんだわけではないけれども、すこし強迫的に言った。
なのでパチュリーはしぶしぶと心中を吐露することにした。まるではずかしいことでも言うように。彼女は自分の胸の内を明かすのが非常にきらいだった。
「そんなの逃げるのと同じよ。自分の実力を信じずに諦めているだけじゃない。それは美しくないし、ロマンティックじゃない」
「吸血鬼は文学的でロマンティックの現象だよ。現象の生きものさ」
「そう言うことじゃない、こだわりの話よ!」
「冗談だって! ふざけたのよ」
「しないで、二度とね」
「ごめん」
「ふん……」
「究極の負けずぎらいよね」
レミリアの知るかぎり、天下一の負けずぎらいだった。
しかも他者ではなく、自分の至らなさに負けたくない。そんな部類の負けずぎらいだ。
もし魔法の才能を取りあげるとパチュリーは即座に自殺してしまうだろう。とレミリアは思った。
話しているうちに気がまぎれたのか、パチュリーの目にわずかの闘志が戻っていた。すでに頭の中では千一回目の算段がくりひろげらているにちがいない。
しかし自分の虚弱体質に関するかぎり、そのやりかたはあまりに不毛だった。すくなくともレミリアはそんなふうに考えていた。
「まじめなはなし」 レミリアは不意に言う 「おまえに必要なのは適度な外出だと思うよ? それに食事と睡眠だ」
「私は食べなくても平気な体よ」
「栄養にはなるでしょう」
「それは……まあ」
「不健康だよ!」 レミリアは芝居のように言う 「不健康すぎるよ、パチュリー・ノーレッジ! 根本的にさ。どこかのことわざで“百人の医者を呼ぶより、不健康を已めよ”だ! おまえは自分の体調が季節の最初にわるくなることも知らないだろう。季節感がなさすぎて」
パチュリーは目を丸くする。
「そうなの? いや……たしかに……周期は……ある」
「引きこもりめ」
この親友の生活は模範的な探求者のそれだった。
本が好きなので文学的な情緒は残っていたけれども、世間への関心は埃にまみれていた。レミリアは親友が外に目を向けないことを残念に思っている。
それは余計な御世話ではない。単に一緒に散歩をしたいだけだった。
「アプローチだよ」
だから───ときにはこう言うふうにけしかけたりもするのである。
「久しぶりに散歩でもしなよ。今は残雪がきれいだよ」
「……一緒に来てくれる?」
「冬はいや、寒いから」
二
───次の日。
午前中に外へ出た。
紅門番と適度にじゃれあってから、パチュリーは道のほうを見た。道は霧の湖へつながっていた。
何年ぶりの散歩だろう。と急に実感が伴った。準備は万端だった。マフラーと長靴を身につけていた。
もちろん外出は稀にする。
しかし、それは空歩だった。とても散歩とは呼べなかった。
歩きだすとすぐに息があがりはじめた。
すぐに帰りたくなってしまった。
引きかえすべきだろうか? とパチュリーは思った。
ロマンティックにしなよ。と架空のレミリアが心中でにやついた。
「うるさい」
残雪は浅かったけれども、パチュリーの足には鬱陶しいほどだ。
虚弱体質よりも筋肉のなさが原因かもしれない。
雪はずるがしこい、雪はずるがしこい。とパチュリーは二度も頭の中で唱えた。
空は晴れでも曇りでもあった。雲は切れ々れで、その隙間に天上の光を通していた。
天使の道だ。とパチュリーはロマンティックになる。
やがて自分の足にしたしみと侮蔑がしみこんだころ───ついに湖へ辿りついた。
この湖はいつも霧が蔓延していた。それが湖の特性なのか、それとも作意なのか───パチュリーは興味がなかった。
単に湖の瞼なのだと思っている。
霧は───今日は皮膜のように淡かった。景色もそれなりに見えていた。
「アプローチ」
とパチュリーは呟いた。湖を眺めながら───馬鹿っぽい。とパチュリーは思ってしまった。
パチュリーはすでにつかれきっていた。
つかれたので近くの木の根へ座りこんだ。
目をとじた。
思考でも空想でも耽こむのは好きだった。
頭の中は愛用の椅子と同じくらいに気分がよい。
唐突に───自分は運がよすぎるな───とパチュリーは考えた。
外世で世わたりの下手な魔女が生きるのは、ほとんど不可能だった。
そんな時代の産まれだった。
それでもパチュリーはへつらうのがだいきらいだった。そしてレミリアはへつらうやつがだいきらいだった。だから友達になれたのである。
もしレミリアに会っていなかったら、自分はどこかでのたれじんでいて、うさぎとからすの餌だろう。とパチュリーは思った。
なぜなら歩くだけでこうもつかれてしまうからだ。
目をひらいた。
立ちあがると尻の土をはたいて、湖の傍に寄った。
不用心だった。パチュリーは不用心のきわみだった。
今の自分は不用心だ。とパチュリーも思っていた。
パチュリーは世の中を知らなかったので、自分で信じているよりも警戒心がなかった。それにしても幻想郷の屋外で回想に耽るのは、あまり賢いことではない。
自分は本当に“ついて”いる。とパチュリーは苦笑した。
湖の砂浜を踏むとしゃらしゃらと鳴った。この湖には浜も岸もあるのだ。
しゃがみこんだ。湖の肌に触れるとその温度は拒絶や断絶のように鋭かった。
長靴が水でひえると足もつめたい。かちかちのゴムになったような気分だった。
冷気は体の芯へ駆けあがり、その感覚はパチュリーをやさしくした。
また昔のできごとが泡のように心中で浮かびあがってくる。
水だからだ。とパチュリーは思った。
それは水に関することだ。
昔───まだ独りのとき───まだ食事が必要だったころだ。
食べるのに困ってしまい、川魚を捕まえたことがある。
未熟な魔法で捕まえた、貧弱な魚だ。
その帰りは運がよかった。油缶を拾ったので、それに魚の切身をひたして、なまでがつがつと食べた。
味は最悪だった。ねずみ色の味がした。しかし生涯で最高の一瞬だった。なんでもできると思った。
それから油を飲みほすと、これからへの不安が一気に消えた。
代わりに信念がみなぎった。そして誰よりも魔法に詳しくなろうと決心した。
───今の自分にあのがつがつの野心があるのだろうか? とパチュリーは思った。
“勢いや流れ”と言うやつがある。統計では説明できない、急成長と大成功への蜘蛛の糸だ。そしてレミリアが言うところの“運命”と言うやつもそれに含まれるのだろう。
それを掴むには野心が要るのだ。とパチュリーは信じていた。
あのころは野心があった。それは野卑でがさつだった。しかし熱と壮大だった。
今の自分にはあれがないのかもしれない。とパチュリーは思った。
だから薬も創れないのだ───とパチュリーはさらに陰気を深めようとした。
しかし不意にそれを已めた。
パチュリーは水中に陰を見つけた。すこし離れたところだった。
その陰は急に濃くなった───とパチュリーが思ったころには───もう爆音がして、人魚が宙へ跳びあがっていた。
まさに神秘的な光景だった───人魚が陸に打ちつけられるまでは。
パチュリーは呆然とした。人魚は陸に倒れていた。
それがアプローチだった。
三
「水切ってあるでしょう? 妖精たちが湖に石を投げるあれですよ。おもしろいですよね、蛙が跳ねるようで。
それを眺めていると思ったんです。水切ができるのなら、陸切もできるのかもって。陸と水の関係は鏡ですからね。同じことくらいはできそうでしょう。
でも私は石は使いませんよ。石は好きだし……」
「だから?」
「陸は切れませんでしたね……はい」
この子は馬鹿なんだ。とパチュリーは思った。
何が“はい”だ。とも思った。
“はい”ではない。
あの呆然のあと───人魚を抱きおこした。さすがに無関心ではいられない。パチュリーは他者につめたいけれども、ひとなみに良心くらいはある。
人魚は抱きおこされたとき、おかしそうに笑っていた。
頭を打ったのだろうか? とパチュリーはそのときに困惑してしまった。
人魚は自分を“わかさぎ姫”と呼んでいた。
その名前は湖のわかさぎたちに呼ばれはじめたと教えられた。
「泡語でね」
パチュリーは疑問を噛みころした。
手話があるのだ。泡語くらいはあるのだろう。そうにちがいなかった。
泡の数と間隔で文字を書くのだ。とパチュリーは無理に納得した。
「そう言えば」 わささぎ姫は思いつく 「名前を聞いていませんでしたね」
「パチュリー・ノーレッジ……」
「なんだか聞いたことがありますよ。そう……メイドさんだわ、あのヘンな館の。湖の前を通るときがあるから、話すこともあるの。あなたのことも言っていたわ……です」
「引きこもりがどうとかでしょう」
「動かないから、茸のようですって! です」
「そのヘンな敬語は已めて」
「そう? なら普通にするわ」
ふたりは今───浜に座していた。砂は風に流されてゆく。空は完璧に晴れてきていた。
冬の空気と太陽の光。その熱の差はあざやかだった。
「魔女さん、なのよね」
その人魚に関するかぎり、何もかもがヘンだった。
どうして人魚なのに和装なのか───どこにわかさぎの要素があるのか───泡語は本当に存在しているのか。まるで疑問にいとまがない。
「それに山ほどの本を持っているらしいじゃない」
人魚伝はさまざまの国で散見されるので、別に和装でもおかしくないのかもしれないけれども。
「ねえ」
ただ“足”は美しかった。それだけはヘンではなかった。
鱗は銀のにぶさ。鰭は柔軟なオール。それは魚のころも。
その足に関するかぎり、何もかもが美しかった。
「本は水の中で読めるのかしら?」
人魚姫だ。とパチュリーは思った。
四
「人魚姫だね」
───その日の夜。
レミリアと酒を飲みながら、散歩のときのことを話した。
わかさぎ姫のはなしをすると、レミリアは“人魚姫だね”と即座に言ってきたのだった。
それはそうだろう。
魔女と人魚なのだ。これで連想しないはずがない。
「次に会ったら、キスしてやれ! ……あれ? ちがう。白雪のほうかな」
「私は声を奪うほうでしょう?」
「おまえがそんなことをするわけない……王子さまもいないしね」
レミリアは上等のウヰスキーをがばがばと飲んでいた。
蝙蝠よりも蛇のようだ。とパチュリーは呆れた。
パチュリーはウヰスキーを一対九で飲んでいた。それでも彼女の胃は充分にアルコールの熱を感じた。
まえにレミリアに飲ませると彼女はそれを“水じゃん”と言った。
「蝙蝠なみに」 レミリアの顔は赤らんでいる 「昔は王子さまに憧れたことがあるよ。おためごかしさ」
「乙女心」
「知ってた! 私はこの国の言葉に詳しいんだ! 馬鹿め」
とレミリアは弁解した。
「私は魔女のほうよ」
「何が」
「昔の憧れ」 パチュリーは不敵に笑う 「できそこないの足を与えて、声を奪って……いかにも魔女でしょう。魔女は悪党と相場が決まっているのよ」
「その読みかたはサイコだ。さすがにサイコ! ……最高!」
「アハハハ、ハハ!」
パチュリーはレミリアの反応で爆笑していた。すこし酔っていた。
「サイコ・ガール。それで……水の中で本は読めるの?」
「読める」
「どうやって?」
「防水をするだけよ」
「まあ……それはそうか……たしかに」
レミリアはきょろきょろと周囲を見た。
そこには本棚どもが天を貫くような勢いでそびえている。
その本棚どもの中身と言えば、星と数を競っているようでもある。
考えてみるとすさまじい。とレミリアは自宅に感心していた。
「この本どもは防水なの?」
「自分の家でしょう」
「おまえの室だ」
パチュリーはにやにやと笑った。
「レミリアちゃん?」 パチュリーはあやすように言う 「幻想郷に館を移したでしょう」
「うん」
「魔法の噛みあわせがわるくてね……転移のときに防水が“剥げた”のよ」
「ごめん……」
「言わないでいてあげたのに」
「治さないの?」
「また同じことで二年も無駄にするのはね……」 パチュリーは微笑する 「まあ……壊れやすいほうが大切に使うでしょう」
レミリアは目を丸くした。この親友がそんなふうに言うとは考えたこともなかった。すくなくとも昔はそうだった。本の“きちがい”だったからである。
「いつの間にか……青さが抜けたよね」
レミリアはグラスを揺らして、ウヰスキーの小波を眺めた。
そこに昔の自分を見ているのだろうか? とパチュリーは思った。
しかし見えているとしても、その自分は小波で“くしゃくしゃ”になっているのだろう。
「昔はロック・アンド・ロールだったね。でも……ほとんどきちがいのように見えた。ぎりぎりの音楽だよ。キャロル・キングのレコードを肴に魔法陣を書いていたのはおぼえているの?」
「どうかしら」
「今のほうがめん“ど”いや」
めん“こ”いと訂正するのはさすがのパチュリーもはずかしかった。
ふたりのあいだで過去が現在の代わりをしていた。
しばらく黙りあった。そこに静謐で誠実な空間があった。
散歩も意外とわるくない。とパチュリーは思っていた。
散歩も意外とわるくないだろう。とレミリアは思っていた。
「スカイ・オイルを創るわ」 パチュリーが静寂をやぶる 「まだ創ったことがないから、試そうと思うの」
「何よそれ」
「スカイ・オイルにひたすと万物は水をはじく。まさに水と油」
「鱗薬と意訳しよう」
「スケイル。なるほど」
その意訳は人魚姫のことを加味すると、妙な洒落が効いていた。
「何がたりない?」
「馬油(バーユ)と泡の化石」
「分かった」 レミリアの声は天使のようにやさしい 「見つけておくよ」
「ありがとう」
最高の親友だ。とパチュリーは思った。
五
「どうして水の中で読みたいの」
とパチュリーは聞いた。
これは邂逅の日の続き───レミリアに話しそびれたことだ。
尤も───話さなくてよかった───とパチュリーは思ってもいた。
それを話すとからかわれそうだ。パチュリーとわかさぎ姫には肉体的なシンパシーがあったからである。
「陸は息がつらくなる」 わかさぎ姫は胸元に手を当てる 「完璧に陸で息ができるようにできていないのよ。私の半分は魚だから……さいわい死にはしないけどね」
「ふん?」
「あと五分くらいかしら」 わささぎ姫は時計を見るように太陽を見る 「朦朧とするの。体が泡になったように。そうなると私は何もかもがいやになる。考えることも動くことも……とても本は読めないわ」
似ているな。とパチュリーは思った。
互いに事情はちがっていても、胸が面倒に変わりはない。
「私は体が弱い。同じように胸もね」
「そう……一緒ね」
とわかさぎ姫は共感的に言った。
しかしパチュリーは───じつは自分の持病が不便ではなかった───昔とちがって。なぜなら彼女のコンプレックスはいつも“自分は馬鹿なのかもしれない”ことに終着した。
もちろんパチュリーも失敗くらいはする。探求職に失敗の百や二百は当然だ。しかし千回は許せない。さすがにそれは度が過ぎる。
それはあまりに巨大な“無力”の証拠として、パチュリーの胸を貫いていたのだ。彼女は肉体が劣っているから、魔法と知恵がすべてだった。膨大な失敗はそれを侵害していたのである。
パチュリーは持病を“治したい”のではない。単に“探求を決着したい”だけだ。
それが魔法へロマンティックに挑むと言うことだった。
「息がつらいのは魔女のわるさかしら」
パチュリーはおどろいた。
人魚姫だ。その発言はまったくの人魚姫なのである。
「読めてるじゃない。まあ……陸でも読めるか。短いし」
「知っているだけよ」
「どうして?」
「知らない。でも妖怪ってそうでしょう? 言葉も知っている、文字も知っている。そして私はこの世に現れたときから、人魚姫を知っていたのよ。それだけのこと」
「人魚姫を持ってきてほしい?」
「陸で読むのはいやよ」 わかさぎ姫はすげない 「そんなの魚らしくないわ」
わかさぎ姫は妖怪の中でも若いほうだった。世の中で人魚姫が流行したあとに現れたのだろう。だから人魚姫は彼女のプリミティヴの一部なのだ。妖怪とは文学的な現象なのである。
「もう帰るわ」
とわかさぎ姫は鰭を立てた。
「魔女と話せてよかった。それで充分」
「水の中の本は」
とパチュリーは“勢いや流れ”で言った。
「頼めません」 鱗は渇きのために光を失いかけている 「私はノーレッジさんに何も返せませんから」
───そのうち大図書館にレミリアが馬油と泡の化石を持ってきた。
「外世の競走馬のだよ」 レミリアは今夜の馬肉をたのしみに言う 「高級品だ。二千八百八万円」
「へえ? 馬の名前は」
「パチュリー」
「……」
「嘘だって。ロイヤル・フレアよ」
「助かるわ」
「泡の化石は余る?」
「何? 欲しいの」
「買いものでコレクションが減ったからさ。物を売るなんて……貧困国の王さまでもあるまいし」
「そのうち宝石でも創るわよ」
「馬鹿! 私は乞食か!」
「親友よ」
「いやに素直ね。まさにそのとおり!」
レミリアは上機嫌で図書館を出た。
パチュリーのほうはと言うと───このまえのようにマフラーと長靴を身につけた。
そして館を出ると湖に飛んでいった。散歩のためではないので、足は使わない。
浜に降りるとパチュリーは叫ぶ。
「おーーい!」
その姿を知りあいが見たら、おどろくにちがいない。
しかし明確な理由があれば、彼女も大声くらいはだす。ついでに咳も出たけれども。
すこし経つとわかさぎ姫が湖を跳びだして、浜へ優雅に着地した。
「やるわね」
「表情を変えてよ、そう言うなら」
「とぼしいほうよ」
感心したのは本当だ。
パチュリーはしゃがみこんで、わかさぎ姫に目線を合わせた。
「鱗薬を創る」
「鱗……何?」
「鱗薬にひたすと万物は水をはじく。まさに魚の鱗」
急に───体がつめたくなった。それに締めつけられてもいた。
パチュリーは抱きしめられていた。湖に抱きしめられていたのだ。
「どうして?」 わかさぎ姫の声はふるえている 「私は何も返せない」
わかさぎ姫の和装はいつも濡れているので、密着されるとパチュリーもびしゃびしゃになってしまった。
しかし、いやではなかった。気分は無風の湖のように穏やかだった。
「地獄に落ちたくないだけよ」
パチュリーはおためごかしの逆を行った。
「私は生きていると運がよすぎる」 パチュリーの声は天使のようにやさしい 「誰かに分けないと“ばち”が当たると思ったのよ」
「あなたの身内でもないのに」
「そのほうが」 パチュリーは苦笑する 「善行でしょう?」
「人魚姫が読みたい!」
湖は抱きつくのを已めると、パチュリーに叫んでいた。
「湖の中で人魚姫が読みたい」
「あなたは生涯で最高の体験をするだろう」
アプローチだ。とパチュリーは思った。
そして“勢いや流れ”に任せて、わかさぎ姫の下の砂に指を向けた。
「PIC-TIL-OMAS-FIS(場よ すみやかに 恒常性を 失え)……! KO-AB-ME-MN(柔らかく 乱れ はじけるために 変異しろ)……!」
ソーサリー・ファニー・ジョーク・ワード(微弱な悪霊の力を借りる 滑稽で 馬鹿っぽい 呪文)───米国の魔術師がいたずらをするためだけに普及させた───をつなげると急にわかさぎ姫が跳ねはじめた。下の砂がスプリングのような性質を得ていたのだ。
わかさぎ姫はおどろいた。そして笑う。
「陸……切った!」
六
「キスはしてきたの?」
「しばくわよ」
「すりこぎで?」
「うん」
───その夜。
すりこぎで泡の化石とゴムの木の葉とハリセンボンの乾皮をつぶしていると乞食が来た。
レミリアは近くの椅子に座るとパチュリーの作業をにやにやと眺めた。
からかうつもりだ。とパチュリーは察した。
パチュリーはしぶしぶと手を止めた。
「そんなに眺めなくても私が好きなのは知っている」
馬油と泡の化石の恩を白状で返すつもりはない。ふたりの仲に遠慮は要らないからだ。
「どうしてスメルトを助けるの」
「なんとなくよ」
「そんなはずないよね?」 レミリアの声は悪魔のように助平だ 「おまえはとざまにつめたいやつだ。これまではそうであり、これからもそうだ。そう簡単に性格は変わらない。気になるね……人魚なんかに。乙女心か? おためごかしか?」
「ふん」
こうなると強情なのは知っていた。表情がそれを語っていた。
パチュリーは観念するしかなかった。
「館を幻想郷へ移すころには」 パチュリーは椅子に背中をあずける 「本は……誰でも読めるようになっていたわ」
「先進国はそうね」
「本当に安くなった」 パチュリーはしみじみと言う 「昔は本を買うためにタイプ・ライターで芥のような文章を量産していたのに」
「ニューヨーク・タイムズは残してある」 レミリアもしみじみとしている 「あれで運命を感じたのよ。そう……おまえは政治屋の悪評を書いていた」
「金が欲しかった。私は嘘を書きたくなかった。でも我慢した。米国にいるのも我慢した」
パチュリーは懺悔しているようだった。それはレミリアにではない。彼女は自分のプリヴィティヴィズムにこうべを垂れているのだ。
「おまえの文章は怒りに満ちていた。世の中の至らなさと自分に対して。あれには“ぴん”と来たね」
「魔法の本は値段が高すぎた」
「そうだとも」
「フェアじゃない」 パチュリーの声は怒りに満ちている 「本は誰でも読めるべきよ、水の中で読めないのはフェアじゃない。あの子にもアプローチの権利がある。誰にも読めないことでつらくはさせない。それが人魚でも金髪の馬鹿な若造でもよ」
「ロマンティックね」
レミリアは両手を広げた。
「傍にこい」
「うん」
パチュリーは従順だった。レミリアの傍に寄ると痛いくらいに抱きしめられた。
「おまえはやさしい。それに最高よ」
「あなたに拾ってもらったとき」 レミリアの体温をパチュリーは氷のように思う 「恋をしたと思った。でも……あとで誤解だと気がついた。私は愛と信奉を誤解していたの。若すぎた」
「知っていたよ」
パチュリーは目元が熱くなった。
「ありがとう。私を助けてくれた」
「おまえは人魚を助けられるよ」
プリミティヴだ。とレミリアは思った。
レミリアは根源的な身内への愛情を味わっていた。
「世の中そうでなくてはね」
七
鍋の中で鱗薬が煮えていた。あと十六時間で完成するだろう。
パチュリーは余りの馬油をコーヒー・カップで飲みほした。すると体に力がみなぎった。彼女は───体が弱かった。それは産まれながらに魔法の力が強すぎるからだ。はちきれんばかりの才覚だったけれども、それは尋常の器では制御できなかった。器とは彼女の体のことだ。彼女は氷のように砕けやすい。しかし目にはいつも不屈の闘志をみなぎらせていた。
「魚が食べたい」
とパチュリーは急に立ちあがった。彼女は原体験をなぞりたかった。紅門番に釣りの道具と刃物を借りると彼女は湖の岸側に向かった。
パチュリーは釣りをしたことがなかった。針へ不器用に餌を取りつけると、湖に糸を垂らした。
湖は日の光で波に銀の線をえがいている。その日は───世の中のすべてが美しかった。
すくなくともパチュリーにはそうだった。
「釣れますか?」
「あなたが釣れた」
「私は自分で来たのよ。糸にはいつも馬鹿な魚が喰らいつく。目がわるいのもね……でも湖の魚は賢いほうよ」
不意にわかさぎ姫が現れてもパチュリーは驚かなかった。彼女と話すことを当然のように受けいれられた。
「明日の朝には薬ができる。そのまえに……」
パチュリーは───言葉を切った。
わかさぎ姫は何も言わずにパチュリーが勇気をだすのを待っていた。
「私は……なんと言うのか……独りごとを話しにきた。あなたはそれに返事をしても、しなくてもかまわない」
「誰かに話してしまうかもしれないわ」
「人魚姫は」 パチュリーは糸を巻きあげる 「声が出ないから」
「まあ!」
それに独りごとを聞かれても、それは水の中に持ちかえられる。そうなると誰も気がつきはしない。水の中では───誰も音は聞こえない。それは図書館の空気のように誠実だ。
糸の先には馬鹿な魚が喰らいついていた。
「私はヨーロッパの水の都で産まれついた」
わかさぎ姫は“ヨーロッパ”を国の名前だと解釈した。
パチュリーは話しながらも魚の首を刃物で斬りおとし、その身へ刃をすべらせた。
「水のきれいなところだった。でも私は体が弱くて、泳ぐことできなかった」
「つらかった?」
「悔しかった」 パチュリーは本音を言う 「若いころの私は……なんと言うのか……親友が言ったように、怒りに満ちていた」
「若者ってそうよ」
と若者が言った。
「私は何もかもをぶちのめしたかった。自分の環境やすべての嘲笑を人魚姫の魔女のように手のひらの上で転がしてやりたかった。そのために魔法を学ぼうとしたの。才能があったから……でも実力が伴ったころには、もう魔法が好きになりすぎていた。そんな動機には使えないくらいに」
独りごとは終わった。パチュリーは魚の切身へなまで噛みつきはじめた。食べきると血まみれの手を舐めつくした。それは何かの儀式のようだった。
わかさぎ姫は誠実に言う。
「あなたが魔法を学んでくれたから、私は本を読めるようになる」
あと十分くらいだろうか? とパチュリーは思った。
わかさぎ姫の息を気にしていた。まだ彼女と話していたかった。
すこし水中に戻りさえすれば、すぐに話せるようになるのだろうか?
「話してくれてよかった」
「どうして?」
「私も」 わかさぎ姫の声は天使のようにやさしい 「あなたに何かを返せることが分かったの」
わかさぎ姫は水中に姿をけそうとする。
「待っていて」
そして湖に潜っていった。
きれいな石でもくれるのだろうか? とパチュリーは思った。
本当は貝殻がよかったけれども。
わかさぎ姫は───しばらく戻らなかった。十分───二十分───三十分───そしてパチュリーがさすがに心配しはじめたころ、急に湖の中へ球体の陰が浮かんできた。
それは水面を越えて、パチュリーの眼前に現れた。
「泡……」
とパチュリーは呆然と呟いた。それは彼女がはいれるくらいに大きく、割れずに水面を漂っていた。
「泡の化石を水中で砕くと」 わかさぎ姫も水面に戻ってきている 「頑丈な泡が出る。それは水中に空白を創る。まさに水の中の陸」
「知っている! 本に書いてある! でも……これは! 大きすぎる!」
「幻想郷には歴史があるわ」 わかさぎ姫は知的に言う 「そして歴史は山ほどの化石になる」
わかさぎ姫は山ほどの泡の化石を粉砕して、それをひとつにしたのだろう。湖に山ほどの泡の化石がある。それを魚たちだけが知っていた。
「送りましょう。水の中へ」
水泳だ! とパチュリーは興奮した。
もちろん普通の水泳ではない。
しかし、それでも水泳だ。
まったくの水泳なのである。
八
パチュリーが泡にはいりこむとわかさぎ姫はそれを水中へ押していった。すこしの不安はあった。急にその殻へ罅がはいりはしないだろうか? ───しかし今はときめきのほうが胸を支配していた。
あまり深すぎないところで、わかさぎ姫は泡の下部を砂へうずめた。浮きあがらないように固定したのだ。
「どうかしら?」
とわかさぎ姫は泡の中にはいってきた。彼女の顎の“きれめ”から、水が流れだしていた。
パチュリーは質問に答えられない。
誰も───泡の中で───水中の景色を見たことはない。これは未踏の光景なのだ。日の光で泡のレンズは屈折して、それが景色を抽象的にしていた。
魚眼だ。とパチュリーは思う。
その屈折は魚たちの景色を見せるのだった。
わかさぎ姫はくすくすと笑った。そして泡の外に出た。彼女は泡の周りで泳ぎはじめた。彼女は自分を見せつけていた。
ときには穏やかに。ときには鋭く。
今───わかさぎ姫が速度をあげると───銛のように一匹の魚へ喰らいついて───飲みこんだ。
熟練の漁だった。水の中では誰も人魚に勝つことはできない。わかさぎ姫は水の“勢いや流れ”を支配していた。湖は彼女に従っていた。
わかさぎ姫は泡の前に戻ってくる。そして泡を吐きだしはじめた。
パチュリーはその行為の意図が即座に分かった。泡を観察しはじめる。観察は彼女の特技だった。
泡が数や間隔を変える───一拍ごとに吐きだされ───それには五十回の周期があった。
「五十音ね」
とパチュリーは呟いた。そして彼女はすぐに泡語を記憶していった。何度も───完璧におぼえられるまで。
そのうちパチュリーが指を振った。完了の合図だった。
わかさぎ姫は五十音を取りやめる。
しかし、まだ泡を吐きだしてはいた。
「この私に試験をするつもり?」
パチュリーは苦笑した。彼女は泡語を解読していった。
ありがとう
わたしの ために がんばって くれて ありがとう
わたしは ともだちが すくないから
「だれかに じぶんのために がんばって もらうことは すくないの。
おおかみ だけは べつとして。
……どうして急に赤頭巾?」
あかずきんの ことでは ないわよ
ともだちの はなしよ
いや それは いま かんけい ないわね
「だから わたしは だれかに じぶんのために がんばって もらうと しぬほど しあわせ。
……がんばっているわ」
あなたは さいこう
さいこうよ
「あなたは充分にがんばっているわ」
ねえ
「何?」
すき
パチュリーは目を丸くした。
本当に───本当に突然の告白だった。
こんなに みじかい あいだの なかで ふしだらと おもうかしら
でも すきに なるのも しかたが ないわ
だって まじょは にんぎょひめを たぶらかしてしまうから
わたしは じぶんの ために がんばって くれる あなたが すきになる
だから わたしも あなたの ために がんばりたくなる
じかんの ながさは かんけい ないわ
あなたが すばらしいのが わるいの
わたしが あなたを すきなとき
あなたも わたしが すき
そうで あって ほしくなった
すき
「……」
だいすき
───その日の夜。
パチュリーは徹夜で小説の翻訳をした。
九
○×○××○
×××××○
××○○*
○××○×○
××××○××○
××○○×○
とノートの表紙には書いてあった。
普通はそれを記号の集まりと思うだろうけれども、わかさぎ姫には読めていた。
もちろん泡語に文字はない。しかし泡語は音ではなく───水中に実体として───絵のように表現されるのだ。だから紙に一定の数と間隔で丸をえがけば、それは文字の機能を持つ。
間隔をえがくのは大変だった。
実体の泡語は泡の間隔を時間差で吐くことのみでしか、表現することができないからである。
紙の上に時間はない。しかし読むためには時間が要る。丸を読むときに───空白で距離が開けられている───次の丸を読むまでの時間の感覚。それを実体の泡語の感覚と噛みあわせれば、泡語は紙の上でも息をするはずだった。
もちろん訳者のパチュリーには読めていた。その文字の間隔は、彼女の感覚だからである。そして彼女へ泡語を伝えたのは───わかさぎ姫だ。
ふたりは泡語の間隔と感覚を共有していた。
わかさぎ姫は泣いていた。
表紙には“に ん ぎ よ ひ め”と書いてあった。
「濁点は泡の速さで表現するから、変わりにマークを入れておいた。アスタリスクと言うのよ」
鱗薬にひたされた、宇宙にひとつの泡語本だ。それにわかさぎ姫だけのための本だった。それは非常の感動だった。彼女は生涯で最高の体験をしていた。
涙が表紙に落ちた。本は涙をひじきかえす。その本は水にむしばまれない。対抗薬へひたされるまで───永久に。
わかさぎ姫は心臓がやぶれて、泡になってしまいそうだった。巨大なときめきで心を満たされていた。
「昨日のことは……その……うれしかったわ」
わかさぎ姫はパチュリーと目を合わせた。
「なら」
「でも待ってほしい。私は……その……愛を説かれるのは……慣れてない。
私たちは数日前に知りあったばかりよ。だから整理をしないと。心の整理よ」
「時間が欲しい?」
パチュリーは頷いた。
「また会いにくる」
「必ずよ」 わかさぎ姫は乙女心で言う 「必ず」
パチュリーは約束できなかった。いたずらにくるしめたくはなかった。自分が期待に応えたいのかも分からなかったからである。
「ミスター・ヘルター・スケルター」
「ミスよ」
パチュリーは鬱陶しそうに返した。
「ミス・ヘルター・スケルター。何をそわついているの」
───ミス・ヘルター・スケルターに図書館での日常が戻ってきた。
わかさぎ姫に本を渡してから、七日も過ぎてしまっていた。あれからパチュリーは一度も湖へ行っていない。臆病風に吹かれていたのだ。
パチュリーは本を読んだ。研究をした。それが心を整理してくれると思った。日常の反復は気分を平常に導くはずだからである。
しかしパチュリーは今のところ───駄目だった。彼女は千一回目の実験をしていたけれども、頭の中は塵箱の中身をぶちまけたようにごちゃごちゃとしていた。
これは失敗するな。とレミリアはパチュリーを眺めた。
「人魚が怖いのよ」 パチュリーは泣きたくなる 「あの子のは愛なのか、それとも信奉なのか」
「何を言っているの?」
「私が好きだって……」
「……嘘!、!、?、?」
レミリアは生涯で一番の大声をだした。
「いつだよ!」
「七日前」
「言えよ!」
「からかうじゃない」
「逃げるようなやつはからかわれるべきよ!」
もちろんレミリアはパチュリーがきらいではないけれども、さすがにそれは失望を隠せなかった。あまりにロマンティックではなさすぎた。
「なら……なんだ? おまえは数日の散歩で人魚を引っかけてきて? ……好きと言われて? ……なのに相手を待たせて? ……鍋とフラスコの相手をするのか」
「ふん」
「あーーあ! くだらない。本当にくだらない。返せよ! 二千八百八万円を!」
「うるさい」
「馬鹿め! おまえがするべきなのは薬の相手じゃない。キスしてやることでしょうが?」
「まだ一緒になったわけじゃない」
「気がないのなら、ことわってこい」
「……」
「相手に恥を晒させるまえに」
「うるさい!」
パチュリーは顔を怒りで染めた。言われっぱなしは趣味ではなかった。
「自分も家族とうまくいっていないのに!」
「妹のことはなしだろうが! それに恋愛と家族愛はちがうだろう!」
「そんなの“むじな”よ!」
「ぶちころすぞ!」
「くたばれ!」
ふたりは同時に立ちあがった。
一触即発だった。特にパチュリーは七日も心に膿があったので、その表情も尋常ではない。
しかし、ふたりの頭の隅には妙な冷静さも残っていた。ふたりの喧嘩は何か───必然のようだった。一種の劇のようだった。パチュリーは暴言を引きだしてもらうことで、心の膿を吐きだしているように感じていた。まるでレミリアにあやつられているようだった。
茶番だ。とパチュリーは思った。
それから互いにさまざまの言葉を存分に吐きちらかすと───そのうち互いにつかれはてた。
私たちは馬鹿だ。とふたりは思った。
「……ごめんなさい」
「いや。私こそ……でも妹のことはなしだよ。本当にさ……おまえじゃないと……」
「おまえじゃないと?」
「やつざきだ」
「それは恐いわね」
「でしょう?」
「しないわ、二度とね」
ふたりは椅子に座りなおした。
「なんだかショックだわ」
「何が」
「自分のことを好いていたやつが誰かに好かれることよ」
「私が好きなわけではないでしょう。その……そう言うので」
「独占欲ってやつよ。親友が取られるのは悲しいね」
「だから一緒になってないって!」
まだやるのか。とパチュリーは思った。
「どう、どう」
と言うとレミリアは不意に図書館の扉のほうを見た。
「その人魚は本当におまえが好きなんだと思うよ」
「何よ。会ったこともないのに」
「私ってさ」 レミリアはにやつく 「耳が優秀なのよ」
「まあ……蝙蝠だし」
パチュリーは急な自慢の意味が分からなかった。
「おまえと喧嘩をしているとき、じつは足音が聞こえていた」 レミリアは笑顔になる 「足音は……はねていた。二本足の音じゃない。足音は必死にはねていたんだよ」
衝撃を受けた。パチュリーは首が曲がるような勢いで扉を見た。それからレミリアに向きなおると───また妹のことでなじりたくなった。
「言ってよ!」
「開けてきなよ」
「ちくしょう!」
パチュリーは立ちあがった。その拍子にフラスコに右手が当たり、千一回目が右袖を濡らした。
別にどうでもよかった。パチュリーは五十二年ぶりに全力で走った。飛ぶことも忘れていた。
扉の前に辿りつくと即座に開けて───“ピャーー”と奇声を発した。
扉の向こうでわかさぎ姫が倒れていたからである。
「水ーー!」
「うるさいな!」
とレミリアは叱りながらも薬罐を持ってきてくれた。千一回目には水が欲しかったので、机の上に用意していたのが幸いした。
パチュリーは薬罐を受けとると、その先をわかさぎ姫の口に突きさした。
「口でやれよ」
「しばくわよ!」
わかさぎ姫の鰓から、どばどばと水が流れていた。
十
「会いたかったのよ」
水の中の空気を堪能して、わかさぎ姫の頭が冴えたころ、ふたりは机をあいだに向きあった。
ふたりは向きあっていた。互いに向きあっていたのである。
レミリアは───すこし離れたところで座っていたけれども、その目と耳は野次馬も同然だった。
「飛ぶのは苦手なの」 わかさぎ姫は呑気に言う 「だから……はねてきた。門番さんに声をかけると“はこんであげる”と言われたわ」
「それから?」
「でも自分で歩きたかった。私の足は立派だから……図書館の場所を聞くだけにしたの」
この子は馬鹿だ。とパチュリーは思った。
そして一途だ。とも思った。
その行動は人魚姫だ。まったくの人魚姫なのである。
「私は」 パチュリーの声はふるえている 「だから わたしは だれかに じぶんのために がんばって もらうと しぬほど しあわせ……」
「はい」
パチュリーは───わかさぎ姫の言葉を痛いほどに実感していた。
心臓がやぶれて、泡になってしまいそうだった。
ときめいていた。さすがにときめいていた。
自分が本を渡したとき、この子もこの気分になったのだろうか? とパチュリーは思った。
パチュリーは何度もレミリアから、自分のためにがんばってもらったことがある。それは彼女のほうも同じだった。
しかし、それは互いが益をもたらすからである。
ふたりは親友だった。しかしレミリアは単に雇用主でもあったのだ。昔───それだけがパチュリーの愛を隔てた。
湖が向けてくれているのは無償の愛だった。
パチュリーは表情に苦悶を浮かべた。
分からなかった。怖かった。逃げだしたかった。
うれしかった。
「パチュリー!」
急に声をかけられたので、パチュリーの肩がはねあがった。レミリアのほうを見ると真剣な表情をしていた。そして表情の中に心配の色も浮かんでいた。彼女は親友を本当に大切だと思っている。
「アプローチだろ!」 年輩が言う 「すべてはアプローチなんだ」
わかさぎ姫は英語の意味が分からなかった。単にパチュリーの返事が欲しかった。
「どちらが青い?」 若輩が聞く 「私とこの子は……どちらのアプローチが青い?」
「青いのもわるくないよ。青色極星ってのは……月よりも巨大だ。それにごうごうと燃えているらしい」
「……分かった」
世の中は“勢いや流れ”だ。とパチュリーは決めた。
パチュリーは立ちあがるとわかさぎ姫の傍に行った。しゃがみこんで目線を合わせた。
目をとじた。
目をひらいた。
「……よろしく」
とパチュリーは照れた。
わかさぎ姫の目に涙が浮かんだ。
二回も泣かせた。とパチュリーは思った。
しかし両方ともよろこびの象徴だった。
右袖を使って、その涙をぬぐった。
そして湖を抱きしめた。
わかさぎ姫は大雨のように泣いていた。
そのとき───ふたりの耳に叫ぶような声が聞こえる。
「パチュリー!」
レミリアの声だった。パチュリーは彼女をにらみつけた。
「何よ! さすがに無頼だわ」
「馬鹿! 右袖を見ろ!」
パチュリーはしぶしぶとわかさぎ姫を解放して、自分の右袖を眺めてみた。そこは銀色にひかっていた。
一瞬───理解が遅れた。
しかし思いかえすと───自分は薬をこぼしていた。それは右袖を濡らしていた。そして人魚の涙を拭いていた───人魚の涙を!
人魚の涙! とパチュリーは答えを得た。
雷で打たれたように驚愕していた。
それは直感的な感覚だった。
完成している! とパチュリーは思った。
「何?」
とわかさぎ姫は急にふたりの様子がおかしくなったので、さすがに涙が引っこんでしまっていた。
「できすぎている!」
「いや……さすがに……おどろきだよ」
「だって……そうでしょう? 私は人魚の涙が最後の鍵だとは知らなかった!
でも私は……。
偶然にも人魚としたしくなって? ……それから人魚が家に来て? ……そのときに右袖へ薬をこぼして? ……告白に応えて? ……泣かせて? …右袖が涙を拭いて? ……それで!」
「いやはや。天文学的だ」
「三文小説よ!」
とパチュリーは生涯で一番の笑顔で言った。
「私は運がよすぎる。世の中はおかしいのかもしれない!」
「三文小説でけっこう」 レミリアは祝福する 「それで親友が幸福を得たんだ。まったく、まったく。世の中こうでなくてはね」
「私」 わかさぎ姫は困惑している 「何がなんだか」
それはそうだろう。
わかさぎ姫は事情を知らないので、ふたりがヘンになったと見えた。彼女は気分をまぎらわすために水を飲むしかなかった。また鰓が水を垂らしていった。そこには水の“勢いや流れ”がある。
「陸でも暮らせるようにしましょう!」
とパチュリーは叫んだ。
「すぐにはできないと思う。でも私には見える。
私には“勢いや流れ”が来ている。風が吹いている!
私は……」
わかさぎ姫は最高だ! とパチュリーは思った。
「私はなんでもできそうだわ!」
「キスしてやれ!」
とレミリアがけしかけた。
わかさぎ姫はいまだに───何がなんだかだ。しかし気にするほどのことでもない。彼女は目的を果たしてはいるのだ。
すでにわかさぎ姫がパチュリーを好きなとき。
魔女は人魚にキスをしてくれた。
それで満足。それで充分。
パチュリーは人魚を抱きしめた。
わかさぎ姫も魔女を抱きしめた。
湖に抱きしめられた。とパチュリーは思った。
わたしは だれかに じぶんのために がんばっ
て もらうと しぬほど しあわせ
だから わたしも あなたの ために がんばり
たくなる
わたしが あなたを すきなとき
あなたも わたしが すき
湖に抱きしめられた(Blue Approach) 終わり
かつて住んでいたところには水場があった
そこで子供たちが泳いでいた
ミサンガを右足に通している、褐色の元気な子供たちだ
私は体が弱かったから、ほとりで本を読んでいた
ハンス・クリスチャン・アンデルセンの小説だ
それが人魚姫だった
魔女はできそこないの足の代わりに声を奪う
いじわるで卑劣な魔女!
もし私がその魔女だったら、絶対にそんなことはしないだろう
なぜなら私は体が弱くて、好きに動けないことの歯がゆさを知っているからだ
だから私に“おねだり”しなさい!
私は“ただ”で足を創り、ついでに本もくれてやろう!
一
レミリア・スカーレットは不意に本を膝へ置いて、パチュリー・ノーレッジのほうを見た。彼女は研究に没頭していた。
パチュリーはフラスコや鍋を相手に眉間へ皺を寄せて、むらさきの瞳をぎらぎらと血ばしらせていた。この陰気な親友がそう言うふうに振るまうのは、別に珍しいわけではない。
しかし今回はさすがに───厄介そうだな───とレミリアは思った。狂気も“すれすれ”だ。そして彼女が本に目を戻してからしばらくすると、その“すれすれ”が限界を越えた。
パチュリーは急にフラスコを壁に投げつけた。彼女は噴火したばかりの火山のような顔だった。本棚に投げなかったのは最後の理性だろう。
「フラスコの費用を誰が払うと思っているの?」
「何が!」
「私だよ」
とレミリアは本を机に置くとさらに言った。
「厄介そうね」
「厄介よ!」 パチュリーは吠える 「厄介なのよ。そう……そのとおり……厄介なのよ」
落ちついてきたのだろう。パチュリーの声は尻がすぼんでいった。
「なんの薬を創っていたの」
「その……」 パチュリーは言葉を噛んでいる 「体が弱いのを……直そうと」
「ふん」
とレミリアは頷いた。
パチュリーが自分の虚弱体質を治そうと腐心しているのは紅魔館の周知である。ひとなみのコンプレックスと言うやつだ。あまり表面にだすことはないけれども。
「千回目の失敗よ」
「千回」
とレミリアは返すだけにした。
同情で慰めるのは互いにみじめなだけだ。
「失敗したよ……」
とパチュリーはうなだれた。陰気な顔へさらに陰が落ちるので、まるで幽鬼のたぐいである。
これは相当にまいっているな。とレミリアは思った。
仮にパチュリーが百歳だとしても恐ろしいほどの損失だ。心労としても時間としても。
「コーヒーでも飲む?」
「要らない」
とパチュリーは気づかいにすげなかった。
「分からないね。天才さまのおまえがそんなにも失敗するなんて。
それより難しいことは山ほど……解決してきたのに。私の無茶とか」
パチュリーが急に咳をした。いかにも軽度の喘息わずらいの咳だった。
彼女は机の上の雑巾を持つとそこに痰を吐いていた。
「機会があれば」 パチュリーは自分をあやすように言う 「あと一歩のはずなのよ。材料でも発想でも別になんでもかまわない。でも何がたりないのかも分からなくて、私は本当は馬鹿なのかもしれない」
パチュリーがぶつぶつと言うので、レミリアは体に黴がはえた。
「アプローチを変えようとは思わないかな」
レミリアは呆れていた。
「どう言うのよ」
「よくないと思うのよ。なんでも魔法で解決しようとしてさ」
「……」
「吸血鬼にしてやるよ。とても頑丈で健康だ」
「いやよ」
「どうして?」
「その……とにかく、いやなの」
「言えよ」
とレミリアはにらんだわけではないけれども、すこし強迫的に言った。
なのでパチュリーはしぶしぶと心中を吐露することにした。まるではずかしいことでも言うように。彼女は自分の胸の内を明かすのが非常にきらいだった。
「そんなの逃げるのと同じよ。自分の実力を信じずに諦めているだけじゃない。それは美しくないし、ロマンティックじゃない」
「吸血鬼は文学的でロマンティックの現象だよ。現象の生きものさ」
「そう言うことじゃない、こだわりの話よ!」
「冗談だって! ふざけたのよ」
「しないで、二度とね」
「ごめん」
「ふん……」
「究極の負けずぎらいよね」
レミリアの知るかぎり、天下一の負けずぎらいだった。
しかも他者ではなく、自分の至らなさに負けたくない。そんな部類の負けずぎらいだ。
もし魔法の才能を取りあげるとパチュリーは即座に自殺してしまうだろう。とレミリアは思った。
話しているうちに気がまぎれたのか、パチュリーの目にわずかの闘志が戻っていた。すでに頭の中では千一回目の算段がくりひろげらているにちがいない。
しかし自分の虚弱体質に関するかぎり、そのやりかたはあまりに不毛だった。すくなくともレミリアはそんなふうに考えていた。
「まじめなはなし」 レミリアは不意に言う 「おまえに必要なのは適度な外出だと思うよ? それに食事と睡眠だ」
「私は食べなくても平気な体よ」
「栄養にはなるでしょう」
「それは……まあ」
「不健康だよ!」 レミリアは芝居のように言う 「不健康すぎるよ、パチュリー・ノーレッジ! 根本的にさ。どこかのことわざで“百人の医者を呼ぶより、不健康を已めよ”だ! おまえは自分の体調が季節の最初にわるくなることも知らないだろう。季節感がなさすぎて」
パチュリーは目を丸くする。
「そうなの? いや……たしかに……周期は……ある」
「引きこもりめ」
この親友の生活は模範的な探求者のそれだった。
本が好きなので文学的な情緒は残っていたけれども、世間への関心は埃にまみれていた。レミリアは親友が外に目を向けないことを残念に思っている。
それは余計な御世話ではない。単に一緒に散歩をしたいだけだった。
「アプローチだよ」
だから───ときにはこう言うふうにけしかけたりもするのである。
「久しぶりに散歩でもしなよ。今は残雪がきれいだよ」
「……一緒に来てくれる?」
「冬はいや、寒いから」
二
───次の日。
午前中に外へ出た。
紅門番と適度にじゃれあってから、パチュリーは道のほうを見た。道は霧の湖へつながっていた。
何年ぶりの散歩だろう。と急に実感が伴った。準備は万端だった。マフラーと長靴を身につけていた。
もちろん外出は稀にする。
しかし、それは空歩だった。とても散歩とは呼べなかった。
歩きだすとすぐに息があがりはじめた。
すぐに帰りたくなってしまった。
引きかえすべきだろうか? とパチュリーは思った。
ロマンティックにしなよ。と架空のレミリアが心中でにやついた。
「うるさい」
残雪は浅かったけれども、パチュリーの足には鬱陶しいほどだ。
虚弱体質よりも筋肉のなさが原因かもしれない。
雪はずるがしこい、雪はずるがしこい。とパチュリーは二度も頭の中で唱えた。
空は晴れでも曇りでもあった。雲は切れ々れで、その隙間に天上の光を通していた。
天使の道だ。とパチュリーはロマンティックになる。
やがて自分の足にしたしみと侮蔑がしみこんだころ───ついに湖へ辿りついた。
この湖はいつも霧が蔓延していた。それが湖の特性なのか、それとも作意なのか───パチュリーは興味がなかった。
単に湖の瞼なのだと思っている。
霧は───今日は皮膜のように淡かった。景色もそれなりに見えていた。
「アプローチ」
とパチュリーは呟いた。湖を眺めながら───馬鹿っぽい。とパチュリーは思ってしまった。
パチュリーはすでにつかれきっていた。
つかれたので近くの木の根へ座りこんだ。
目をとじた。
思考でも空想でも耽こむのは好きだった。
頭の中は愛用の椅子と同じくらいに気分がよい。
唐突に───自分は運がよすぎるな───とパチュリーは考えた。
外世で世わたりの下手な魔女が生きるのは、ほとんど不可能だった。
そんな時代の産まれだった。
それでもパチュリーはへつらうのがだいきらいだった。そしてレミリアはへつらうやつがだいきらいだった。だから友達になれたのである。
もしレミリアに会っていなかったら、自分はどこかでのたれじんでいて、うさぎとからすの餌だろう。とパチュリーは思った。
なぜなら歩くだけでこうもつかれてしまうからだ。
目をひらいた。
立ちあがると尻の土をはたいて、湖の傍に寄った。
不用心だった。パチュリーは不用心のきわみだった。
今の自分は不用心だ。とパチュリーも思っていた。
パチュリーは世の中を知らなかったので、自分で信じているよりも警戒心がなかった。それにしても幻想郷の屋外で回想に耽るのは、あまり賢いことではない。
自分は本当に“ついて”いる。とパチュリーは苦笑した。
湖の砂浜を踏むとしゃらしゃらと鳴った。この湖には浜も岸もあるのだ。
しゃがみこんだ。湖の肌に触れるとその温度は拒絶や断絶のように鋭かった。
長靴が水でひえると足もつめたい。かちかちのゴムになったような気分だった。
冷気は体の芯へ駆けあがり、その感覚はパチュリーをやさしくした。
また昔のできごとが泡のように心中で浮かびあがってくる。
水だからだ。とパチュリーは思った。
それは水に関することだ。
昔───まだ独りのとき───まだ食事が必要だったころだ。
食べるのに困ってしまい、川魚を捕まえたことがある。
未熟な魔法で捕まえた、貧弱な魚だ。
その帰りは運がよかった。油缶を拾ったので、それに魚の切身をひたして、なまでがつがつと食べた。
味は最悪だった。ねずみ色の味がした。しかし生涯で最高の一瞬だった。なんでもできると思った。
それから油を飲みほすと、これからへの不安が一気に消えた。
代わりに信念がみなぎった。そして誰よりも魔法に詳しくなろうと決心した。
───今の自分にあのがつがつの野心があるのだろうか? とパチュリーは思った。
“勢いや流れ”と言うやつがある。統計では説明できない、急成長と大成功への蜘蛛の糸だ。そしてレミリアが言うところの“運命”と言うやつもそれに含まれるのだろう。
それを掴むには野心が要るのだ。とパチュリーは信じていた。
あのころは野心があった。それは野卑でがさつだった。しかし熱と壮大だった。
今の自分にはあれがないのかもしれない。とパチュリーは思った。
だから薬も創れないのだ───とパチュリーはさらに陰気を深めようとした。
しかし不意にそれを已めた。
パチュリーは水中に陰を見つけた。すこし離れたところだった。
その陰は急に濃くなった───とパチュリーが思ったころには───もう爆音がして、人魚が宙へ跳びあがっていた。
まさに神秘的な光景だった───人魚が陸に打ちつけられるまでは。
パチュリーは呆然とした。人魚は陸に倒れていた。
それがアプローチだった。
三
「水切ってあるでしょう? 妖精たちが湖に石を投げるあれですよ。おもしろいですよね、蛙が跳ねるようで。
それを眺めていると思ったんです。水切ができるのなら、陸切もできるのかもって。陸と水の関係は鏡ですからね。同じことくらいはできそうでしょう。
でも私は石は使いませんよ。石は好きだし……」
「だから?」
「陸は切れませんでしたね……はい」
この子は馬鹿なんだ。とパチュリーは思った。
何が“はい”だ。とも思った。
“はい”ではない。
あの呆然のあと───人魚を抱きおこした。さすがに無関心ではいられない。パチュリーは他者につめたいけれども、ひとなみに良心くらいはある。
人魚は抱きおこされたとき、おかしそうに笑っていた。
頭を打ったのだろうか? とパチュリーはそのときに困惑してしまった。
人魚は自分を“わかさぎ姫”と呼んでいた。
その名前は湖のわかさぎたちに呼ばれはじめたと教えられた。
「泡語でね」
パチュリーは疑問を噛みころした。
手話があるのだ。泡語くらいはあるのだろう。そうにちがいなかった。
泡の数と間隔で文字を書くのだ。とパチュリーは無理に納得した。
「そう言えば」 わささぎ姫は思いつく 「名前を聞いていませんでしたね」
「パチュリー・ノーレッジ……」
「なんだか聞いたことがありますよ。そう……メイドさんだわ、あのヘンな館の。湖の前を通るときがあるから、話すこともあるの。あなたのことも言っていたわ……です」
「引きこもりがどうとかでしょう」
「動かないから、茸のようですって! です」
「そのヘンな敬語は已めて」
「そう? なら普通にするわ」
ふたりは今───浜に座していた。砂は風に流されてゆく。空は完璧に晴れてきていた。
冬の空気と太陽の光。その熱の差はあざやかだった。
「魔女さん、なのよね」
その人魚に関するかぎり、何もかもがヘンだった。
どうして人魚なのに和装なのか───どこにわかさぎの要素があるのか───泡語は本当に存在しているのか。まるで疑問にいとまがない。
「それに山ほどの本を持っているらしいじゃない」
人魚伝はさまざまの国で散見されるので、別に和装でもおかしくないのかもしれないけれども。
「ねえ」
ただ“足”は美しかった。それだけはヘンではなかった。
鱗は銀のにぶさ。鰭は柔軟なオール。それは魚のころも。
その足に関するかぎり、何もかもが美しかった。
「本は水の中で読めるのかしら?」
人魚姫だ。とパチュリーは思った。
四
「人魚姫だね」
───その日の夜。
レミリアと酒を飲みながら、散歩のときのことを話した。
わかさぎ姫のはなしをすると、レミリアは“人魚姫だね”と即座に言ってきたのだった。
それはそうだろう。
魔女と人魚なのだ。これで連想しないはずがない。
「次に会ったら、キスしてやれ! ……あれ? ちがう。白雪のほうかな」
「私は声を奪うほうでしょう?」
「おまえがそんなことをするわけない……王子さまもいないしね」
レミリアは上等のウヰスキーをがばがばと飲んでいた。
蝙蝠よりも蛇のようだ。とパチュリーは呆れた。
パチュリーはウヰスキーを一対九で飲んでいた。それでも彼女の胃は充分にアルコールの熱を感じた。
まえにレミリアに飲ませると彼女はそれを“水じゃん”と言った。
「蝙蝠なみに」 レミリアの顔は赤らんでいる 「昔は王子さまに憧れたことがあるよ。おためごかしさ」
「乙女心」
「知ってた! 私はこの国の言葉に詳しいんだ! 馬鹿め」
とレミリアは弁解した。
「私は魔女のほうよ」
「何が」
「昔の憧れ」 パチュリーは不敵に笑う 「できそこないの足を与えて、声を奪って……いかにも魔女でしょう。魔女は悪党と相場が決まっているのよ」
「その読みかたはサイコだ。さすがにサイコ! ……最高!」
「アハハハ、ハハ!」
パチュリーはレミリアの反応で爆笑していた。すこし酔っていた。
「サイコ・ガール。それで……水の中で本は読めるの?」
「読める」
「どうやって?」
「防水をするだけよ」
「まあ……それはそうか……たしかに」
レミリアはきょろきょろと周囲を見た。
そこには本棚どもが天を貫くような勢いでそびえている。
その本棚どもの中身と言えば、星と数を競っているようでもある。
考えてみるとすさまじい。とレミリアは自宅に感心していた。
「この本どもは防水なの?」
「自分の家でしょう」
「おまえの室だ」
パチュリーはにやにやと笑った。
「レミリアちゃん?」 パチュリーはあやすように言う 「幻想郷に館を移したでしょう」
「うん」
「魔法の噛みあわせがわるくてね……転移のときに防水が“剥げた”のよ」
「ごめん……」
「言わないでいてあげたのに」
「治さないの?」
「また同じことで二年も無駄にするのはね……」 パチュリーは微笑する 「まあ……壊れやすいほうが大切に使うでしょう」
レミリアは目を丸くした。この親友がそんなふうに言うとは考えたこともなかった。すくなくとも昔はそうだった。本の“きちがい”だったからである。
「いつの間にか……青さが抜けたよね」
レミリアはグラスを揺らして、ウヰスキーの小波を眺めた。
そこに昔の自分を見ているのだろうか? とパチュリーは思った。
しかし見えているとしても、その自分は小波で“くしゃくしゃ”になっているのだろう。
「昔はロック・アンド・ロールだったね。でも……ほとんどきちがいのように見えた。ぎりぎりの音楽だよ。キャロル・キングのレコードを肴に魔法陣を書いていたのはおぼえているの?」
「どうかしら」
「今のほうがめん“ど”いや」
めん“こ”いと訂正するのはさすがのパチュリーもはずかしかった。
ふたりのあいだで過去が現在の代わりをしていた。
しばらく黙りあった。そこに静謐で誠実な空間があった。
散歩も意外とわるくない。とパチュリーは思っていた。
散歩も意外とわるくないだろう。とレミリアは思っていた。
「スカイ・オイルを創るわ」 パチュリーが静寂をやぶる 「まだ創ったことがないから、試そうと思うの」
「何よそれ」
「スカイ・オイルにひたすと万物は水をはじく。まさに水と油」
「鱗薬と意訳しよう」
「スケイル。なるほど」
その意訳は人魚姫のことを加味すると、妙な洒落が効いていた。
「何がたりない?」
「馬油(バーユ)と泡の化石」
「分かった」 レミリアの声は天使のようにやさしい 「見つけておくよ」
「ありがとう」
最高の親友だ。とパチュリーは思った。
五
「どうして水の中で読みたいの」
とパチュリーは聞いた。
これは邂逅の日の続き───レミリアに話しそびれたことだ。
尤も───話さなくてよかった───とパチュリーは思ってもいた。
それを話すとからかわれそうだ。パチュリーとわかさぎ姫には肉体的なシンパシーがあったからである。
「陸は息がつらくなる」 わかさぎ姫は胸元に手を当てる 「完璧に陸で息ができるようにできていないのよ。私の半分は魚だから……さいわい死にはしないけどね」
「ふん?」
「あと五分くらいかしら」 わささぎ姫は時計を見るように太陽を見る 「朦朧とするの。体が泡になったように。そうなると私は何もかもがいやになる。考えることも動くことも……とても本は読めないわ」
似ているな。とパチュリーは思った。
互いに事情はちがっていても、胸が面倒に変わりはない。
「私は体が弱い。同じように胸もね」
「そう……一緒ね」
とわかさぎ姫は共感的に言った。
しかしパチュリーは───じつは自分の持病が不便ではなかった───昔とちがって。なぜなら彼女のコンプレックスはいつも“自分は馬鹿なのかもしれない”ことに終着した。
もちろんパチュリーも失敗くらいはする。探求職に失敗の百や二百は当然だ。しかし千回は許せない。さすがにそれは度が過ぎる。
それはあまりに巨大な“無力”の証拠として、パチュリーの胸を貫いていたのだ。彼女は肉体が劣っているから、魔法と知恵がすべてだった。膨大な失敗はそれを侵害していたのである。
パチュリーは持病を“治したい”のではない。単に“探求を決着したい”だけだ。
それが魔法へロマンティックに挑むと言うことだった。
「息がつらいのは魔女のわるさかしら」
パチュリーはおどろいた。
人魚姫だ。その発言はまったくの人魚姫なのである。
「読めてるじゃない。まあ……陸でも読めるか。短いし」
「知っているだけよ」
「どうして?」
「知らない。でも妖怪ってそうでしょう? 言葉も知っている、文字も知っている。そして私はこの世に現れたときから、人魚姫を知っていたのよ。それだけのこと」
「人魚姫を持ってきてほしい?」
「陸で読むのはいやよ」 わかさぎ姫はすげない 「そんなの魚らしくないわ」
わかさぎ姫は妖怪の中でも若いほうだった。世の中で人魚姫が流行したあとに現れたのだろう。だから人魚姫は彼女のプリミティヴの一部なのだ。妖怪とは文学的な現象なのである。
「もう帰るわ」
とわかさぎ姫は鰭を立てた。
「魔女と話せてよかった。それで充分」
「水の中の本は」
とパチュリーは“勢いや流れ”で言った。
「頼めません」 鱗は渇きのために光を失いかけている 「私はノーレッジさんに何も返せませんから」
───そのうち大図書館にレミリアが馬油と泡の化石を持ってきた。
「外世の競走馬のだよ」 レミリアは今夜の馬肉をたのしみに言う 「高級品だ。二千八百八万円」
「へえ? 馬の名前は」
「パチュリー」
「……」
「嘘だって。ロイヤル・フレアよ」
「助かるわ」
「泡の化石は余る?」
「何? 欲しいの」
「買いものでコレクションが減ったからさ。物を売るなんて……貧困国の王さまでもあるまいし」
「そのうち宝石でも創るわよ」
「馬鹿! 私は乞食か!」
「親友よ」
「いやに素直ね。まさにそのとおり!」
レミリアは上機嫌で図書館を出た。
パチュリーのほうはと言うと───このまえのようにマフラーと長靴を身につけた。
そして館を出ると湖に飛んでいった。散歩のためではないので、足は使わない。
浜に降りるとパチュリーは叫ぶ。
「おーーい!」
その姿を知りあいが見たら、おどろくにちがいない。
しかし明確な理由があれば、彼女も大声くらいはだす。ついでに咳も出たけれども。
すこし経つとわかさぎ姫が湖を跳びだして、浜へ優雅に着地した。
「やるわね」
「表情を変えてよ、そう言うなら」
「とぼしいほうよ」
感心したのは本当だ。
パチュリーはしゃがみこんで、わかさぎ姫に目線を合わせた。
「鱗薬を創る」
「鱗……何?」
「鱗薬にひたすと万物は水をはじく。まさに魚の鱗」
急に───体がつめたくなった。それに締めつけられてもいた。
パチュリーは抱きしめられていた。湖に抱きしめられていたのだ。
「どうして?」 わかさぎ姫の声はふるえている 「私は何も返せない」
わかさぎ姫の和装はいつも濡れているので、密着されるとパチュリーもびしゃびしゃになってしまった。
しかし、いやではなかった。気分は無風の湖のように穏やかだった。
「地獄に落ちたくないだけよ」
パチュリーはおためごかしの逆を行った。
「私は生きていると運がよすぎる」 パチュリーの声は天使のようにやさしい 「誰かに分けないと“ばち”が当たると思ったのよ」
「あなたの身内でもないのに」
「そのほうが」 パチュリーは苦笑する 「善行でしょう?」
「人魚姫が読みたい!」
湖は抱きつくのを已めると、パチュリーに叫んでいた。
「湖の中で人魚姫が読みたい」
「あなたは生涯で最高の体験をするだろう」
アプローチだ。とパチュリーは思った。
そして“勢いや流れ”に任せて、わかさぎ姫の下の砂に指を向けた。
「PIC-TIL-OMAS-FIS(場よ すみやかに 恒常性を 失え)……! KO-AB-ME-MN(柔らかく 乱れ はじけるために 変異しろ)……!」
ソーサリー・ファニー・ジョーク・ワード(微弱な悪霊の力を借りる 滑稽で 馬鹿っぽい 呪文)───米国の魔術師がいたずらをするためだけに普及させた───をつなげると急にわかさぎ姫が跳ねはじめた。下の砂がスプリングのような性質を得ていたのだ。
わかさぎ姫はおどろいた。そして笑う。
「陸……切った!」
六
「キスはしてきたの?」
「しばくわよ」
「すりこぎで?」
「うん」
───その夜。
すりこぎで泡の化石とゴムの木の葉とハリセンボンの乾皮をつぶしていると乞食が来た。
レミリアは近くの椅子に座るとパチュリーの作業をにやにやと眺めた。
からかうつもりだ。とパチュリーは察した。
パチュリーはしぶしぶと手を止めた。
「そんなに眺めなくても私が好きなのは知っている」
馬油と泡の化石の恩を白状で返すつもりはない。ふたりの仲に遠慮は要らないからだ。
「どうしてスメルトを助けるの」
「なんとなくよ」
「そんなはずないよね?」 レミリアの声は悪魔のように助平だ 「おまえはとざまにつめたいやつだ。これまではそうであり、これからもそうだ。そう簡単に性格は変わらない。気になるね……人魚なんかに。乙女心か? おためごかしか?」
「ふん」
こうなると強情なのは知っていた。表情がそれを語っていた。
パチュリーは観念するしかなかった。
「館を幻想郷へ移すころには」 パチュリーは椅子に背中をあずける 「本は……誰でも読めるようになっていたわ」
「先進国はそうね」
「本当に安くなった」 パチュリーはしみじみと言う 「昔は本を買うためにタイプ・ライターで芥のような文章を量産していたのに」
「ニューヨーク・タイムズは残してある」 レミリアもしみじみとしている 「あれで運命を感じたのよ。そう……おまえは政治屋の悪評を書いていた」
「金が欲しかった。私は嘘を書きたくなかった。でも我慢した。米国にいるのも我慢した」
パチュリーは懺悔しているようだった。それはレミリアにではない。彼女は自分のプリヴィティヴィズムにこうべを垂れているのだ。
「おまえの文章は怒りに満ちていた。世の中の至らなさと自分に対して。あれには“ぴん”と来たね」
「魔法の本は値段が高すぎた」
「そうだとも」
「フェアじゃない」 パチュリーの声は怒りに満ちている 「本は誰でも読めるべきよ、水の中で読めないのはフェアじゃない。あの子にもアプローチの権利がある。誰にも読めないことでつらくはさせない。それが人魚でも金髪の馬鹿な若造でもよ」
「ロマンティックね」
レミリアは両手を広げた。
「傍にこい」
「うん」
パチュリーは従順だった。レミリアの傍に寄ると痛いくらいに抱きしめられた。
「おまえはやさしい。それに最高よ」
「あなたに拾ってもらったとき」 レミリアの体温をパチュリーは氷のように思う 「恋をしたと思った。でも……あとで誤解だと気がついた。私は愛と信奉を誤解していたの。若すぎた」
「知っていたよ」
パチュリーは目元が熱くなった。
「ありがとう。私を助けてくれた」
「おまえは人魚を助けられるよ」
プリミティヴだ。とレミリアは思った。
レミリアは根源的な身内への愛情を味わっていた。
「世の中そうでなくてはね」
七
鍋の中で鱗薬が煮えていた。あと十六時間で完成するだろう。
パチュリーは余りの馬油をコーヒー・カップで飲みほした。すると体に力がみなぎった。彼女は───体が弱かった。それは産まれながらに魔法の力が強すぎるからだ。はちきれんばかりの才覚だったけれども、それは尋常の器では制御できなかった。器とは彼女の体のことだ。彼女は氷のように砕けやすい。しかし目にはいつも不屈の闘志をみなぎらせていた。
「魚が食べたい」
とパチュリーは急に立ちあがった。彼女は原体験をなぞりたかった。紅門番に釣りの道具と刃物を借りると彼女は湖の岸側に向かった。
パチュリーは釣りをしたことがなかった。針へ不器用に餌を取りつけると、湖に糸を垂らした。
湖は日の光で波に銀の線をえがいている。その日は───世の中のすべてが美しかった。
すくなくともパチュリーにはそうだった。
「釣れますか?」
「あなたが釣れた」
「私は自分で来たのよ。糸にはいつも馬鹿な魚が喰らいつく。目がわるいのもね……でも湖の魚は賢いほうよ」
不意にわかさぎ姫が現れてもパチュリーは驚かなかった。彼女と話すことを当然のように受けいれられた。
「明日の朝には薬ができる。そのまえに……」
パチュリーは───言葉を切った。
わかさぎ姫は何も言わずにパチュリーが勇気をだすのを待っていた。
「私は……なんと言うのか……独りごとを話しにきた。あなたはそれに返事をしても、しなくてもかまわない」
「誰かに話してしまうかもしれないわ」
「人魚姫は」 パチュリーは糸を巻きあげる 「声が出ないから」
「まあ!」
それに独りごとを聞かれても、それは水の中に持ちかえられる。そうなると誰も気がつきはしない。水の中では───誰も音は聞こえない。それは図書館の空気のように誠実だ。
糸の先には馬鹿な魚が喰らいついていた。
「私はヨーロッパの水の都で産まれついた」
わかさぎ姫は“ヨーロッパ”を国の名前だと解釈した。
パチュリーは話しながらも魚の首を刃物で斬りおとし、その身へ刃をすべらせた。
「水のきれいなところだった。でも私は体が弱くて、泳ぐことできなかった」
「つらかった?」
「悔しかった」 パチュリーは本音を言う 「若いころの私は……なんと言うのか……親友が言ったように、怒りに満ちていた」
「若者ってそうよ」
と若者が言った。
「私は何もかもをぶちのめしたかった。自分の環境やすべての嘲笑を人魚姫の魔女のように手のひらの上で転がしてやりたかった。そのために魔法を学ぼうとしたの。才能があったから……でも実力が伴ったころには、もう魔法が好きになりすぎていた。そんな動機には使えないくらいに」
独りごとは終わった。パチュリーは魚の切身へなまで噛みつきはじめた。食べきると血まみれの手を舐めつくした。それは何かの儀式のようだった。
わかさぎ姫は誠実に言う。
「あなたが魔法を学んでくれたから、私は本を読めるようになる」
あと十分くらいだろうか? とパチュリーは思った。
わかさぎ姫の息を気にしていた。まだ彼女と話していたかった。
すこし水中に戻りさえすれば、すぐに話せるようになるのだろうか?
「話してくれてよかった」
「どうして?」
「私も」 わかさぎ姫の声は天使のようにやさしい 「あなたに何かを返せることが分かったの」
わかさぎ姫は水中に姿をけそうとする。
「待っていて」
そして湖に潜っていった。
きれいな石でもくれるのだろうか? とパチュリーは思った。
本当は貝殻がよかったけれども。
わかさぎ姫は───しばらく戻らなかった。十分───二十分───三十分───そしてパチュリーがさすがに心配しはじめたころ、急に湖の中へ球体の陰が浮かんできた。
それは水面を越えて、パチュリーの眼前に現れた。
「泡……」
とパチュリーは呆然と呟いた。それは彼女がはいれるくらいに大きく、割れずに水面を漂っていた。
「泡の化石を水中で砕くと」 わかさぎ姫も水面に戻ってきている 「頑丈な泡が出る。それは水中に空白を創る。まさに水の中の陸」
「知っている! 本に書いてある! でも……これは! 大きすぎる!」
「幻想郷には歴史があるわ」 わかさぎ姫は知的に言う 「そして歴史は山ほどの化石になる」
わかさぎ姫は山ほどの泡の化石を粉砕して、それをひとつにしたのだろう。湖に山ほどの泡の化石がある。それを魚たちだけが知っていた。
「送りましょう。水の中へ」
水泳だ! とパチュリーは興奮した。
もちろん普通の水泳ではない。
しかし、それでも水泳だ。
まったくの水泳なのである。
八
パチュリーが泡にはいりこむとわかさぎ姫はそれを水中へ押していった。すこしの不安はあった。急にその殻へ罅がはいりはしないだろうか? ───しかし今はときめきのほうが胸を支配していた。
あまり深すぎないところで、わかさぎ姫は泡の下部を砂へうずめた。浮きあがらないように固定したのだ。
「どうかしら?」
とわかさぎ姫は泡の中にはいってきた。彼女の顎の“きれめ”から、水が流れだしていた。
パチュリーは質問に答えられない。
誰も───泡の中で───水中の景色を見たことはない。これは未踏の光景なのだ。日の光で泡のレンズは屈折して、それが景色を抽象的にしていた。
魚眼だ。とパチュリーは思う。
その屈折は魚たちの景色を見せるのだった。
わかさぎ姫はくすくすと笑った。そして泡の外に出た。彼女は泡の周りで泳ぎはじめた。彼女は自分を見せつけていた。
ときには穏やかに。ときには鋭く。
今───わかさぎ姫が速度をあげると───銛のように一匹の魚へ喰らいついて───飲みこんだ。
熟練の漁だった。水の中では誰も人魚に勝つことはできない。わかさぎ姫は水の“勢いや流れ”を支配していた。湖は彼女に従っていた。
わかさぎ姫は泡の前に戻ってくる。そして泡を吐きだしはじめた。
パチュリーはその行為の意図が即座に分かった。泡を観察しはじめる。観察は彼女の特技だった。
泡が数や間隔を変える───一拍ごとに吐きだされ───それには五十回の周期があった。
「五十音ね」
とパチュリーは呟いた。そして彼女はすぐに泡語を記憶していった。何度も───完璧におぼえられるまで。
そのうちパチュリーが指を振った。完了の合図だった。
わかさぎ姫は五十音を取りやめる。
しかし、まだ泡を吐きだしてはいた。
「この私に試験をするつもり?」
パチュリーは苦笑した。彼女は泡語を解読していった。
ありがとう
わたしの ために がんばって くれて ありがとう
わたしは ともだちが すくないから
「だれかに じぶんのために がんばって もらうことは すくないの。
おおかみ だけは べつとして。
……どうして急に赤頭巾?」
あかずきんの ことでは ないわよ
ともだちの はなしよ
いや それは いま かんけい ないわね
「だから わたしは だれかに じぶんのために がんばって もらうと しぬほど しあわせ。
……がんばっているわ」
あなたは さいこう
さいこうよ
「あなたは充分にがんばっているわ」
ねえ
「何?」
すき
パチュリーは目を丸くした。
本当に───本当に突然の告白だった。
こんなに みじかい あいだの なかで ふしだらと おもうかしら
でも すきに なるのも しかたが ないわ
だって まじょは にんぎょひめを たぶらかしてしまうから
わたしは じぶんの ために がんばって くれる あなたが すきになる
だから わたしも あなたの ために がんばりたくなる
じかんの ながさは かんけい ないわ
あなたが すばらしいのが わるいの
わたしが あなたを すきなとき
あなたも わたしが すき
そうで あって ほしくなった
すき
「……」
だいすき
───その日の夜。
パチュリーは徹夜で小説の翻訳をした。
九
○×○××○
×××××○
××○○*
○××○×○
××××○××○
××○○×○
とノートの表紙には書いてあった。
普通はそれを記号の集まりと思うだろうけれども、わかさぎ姫には読めていた。
もちろん泡語に文字はない。しかし泡語は音ではなく───水中に実体として───絵のように表現されるのだ。だから紙に一定の数と間隔で丸をえがけば、それは文字の機能を持つ。
間隔をえがくのは大変だった。
実体の泡語は泡の間隔を時間差で吐くことのみでしか、表現することができないからである。
紙の上に時間はない。しかし読むためには時間が要る。丸を読むときに───空白で距離が開けられている───次の丸を読むまでの時間の感覚。それを実体の泡語の感覚と噛みあわせれば、泡語は紙の上でも息をするはずだった。
もちろん訳者のパチュリーには読めていた。その文字の間隔は、彼女の感覚だからである。そして彼女へ泡語を伝えたのは───わかさぎ姫だ。
ふたりは泡語の間隔と感覚を共有していた。
わかさぎ姫は泣いていた。
表紙には“に ん ぎ よ ひ め”と書いてあった。
「濁点は泡の速さで表現するから、変わりにマークを入れておいた。アスタリスクと言うのよ」
鱗薬にひたされた、宇宙にひとつの泡語本だ。それにわかさぎ姫だけのための本だった。それは非常の感動だった。彼女は生涯で最高の体験をしていた。
涙が表紙に落ちた。本は涙をひじきかえす。その本は水にむしばまれない。対抗薬へひたされるまで───永久に。
わかさぎ姫は心臓がやぶれて、泡になってしまいそうだった。巨大なときめきで心を満たされていた。
「昨日のことは……その……うれしかったわ」
わかさぎ姫はパチュリーと目を合わせた。
「なら」
「でも待ってほしい。私は……その……愛を説かれるのは……慣れてない。
私たちは数日前に知りあったばかりよ。だから整理をしないと。心の整理よ」
「時間が欲しい?」
パチュリーは頷いた。
「また会いにくる」
「必ずよ」 わかさぎ姫は乙女心で言う 「必ず」
パチュリーは約束できなかった。いたずらにくるしめたくはなかった。自分が期待に応えたいのかも分からなかったからである。
「ミスター・ヘルター・スケルター」
「ミスよ」
パチュリーは鬱陶しそうに返した。
「ミス・ヘルター・スケルター。何をそわついているの」
───ミス・ヘルター・スケルターに図書館での日常が戻ってきた。
わかさぎ姫に本を渡してから、七日も過ぎてしまっていた。あれからパチュリーは一度も湖へ行っていない。臆病風に吹かれていたのだ。
パチュリーは本を読んだ。研究をした。それが心を整理してくれると思った。日常の反復は気分を平常に導くはずだからである。
しかしパチュリーは今のところ───駄目だった。彼女は千一回目の実験をしていたけれども、頭の中は塵箱の中身をぶちまけたようにごちゃごちゃとしていた。
これは失敗するな。とレミリアはパチュリーを眺めた。
「人魚が怖いのよ」 パチュリーは泣きたくなる 「あの子のは愛なのか、それとも信奉なのか」
「何を言っているの?」
「私が好きだって……」
「……嘘!、!、?、?」
レミリアは生涯で一番の大声をだした。
「いつだよ!」
「七日前」
「言えよ!」
「からかうじゃない」
「逃げるようなやつはからかわれるべきよ!」
もちろんレミリアはパチュリーがきらいではないけれども、さすがにそれは失望を隠せなかった。あまりにロマンティックではなさすぎた。
「なら……なんだ? おまえは数日の散歩で人魚を引っかけてきて? ……好きと言われて? ……なのに相手を待たせて? ……鍋とフラスコの相手をするのか」
「ふん」
「あーーあ! くだらない。本当にくだらない。返せよ! 二千八百八万円を!」
「うるさい」
「馬鹿め! おまえがするべきなのは薬の相手じゃない。キスしてやることでしょうが?」
「まだ一緒になったわけじゃない」
「気がないのなら、ことわってこい」
「……」
「相手に恥を晒させるまえに」
「うるさい!」
パチュリーは顔を怒りで染めた。言われっぱなしは趣味ではなかった。
「自分も家族とうまくいっていないのに!」
「妹のことはなしだろうが! それに恋愛と家族愛はちがうだろう!」
「そんなの“むじな”よ!」
「ぶちころすぞ!」
「くたばれ!」
ふたりは同時に立ちあがった。
一触即発だった。特にパチュリーは七日も心に膿があったので、その表情も尋常ではない。
しかし、ふたりの頭の隅には妙な冷静さも残っていた。ふたりの喧嘩は何か───必然のようだった。一種の劇のようだった。パチュリーは暴言を引きだしてもらうことで、心の膿を吐きだしているように感じていた。まるでレミリアにあやつられているようだった。
茶番だ。とパチュリーは思った。
それから互いにさまざまの言葉を存分に吐きちらかすと───そのうち互いにつかれはてた。
私たちは馬鹿だ。とふたりは思った。
「……ごめんなさい」
「いや。私こそ……でも妹のことはなしだよ。本当にさ……おまえじゃないと……」
「おまえじゃないと?」
「やつざきだ」
「それは恐いわね」
「でしょう?」
「しないわ、二度とね」
ふたりは椅子に座りなおした。
「なんだかショックだわ」
「何が」
「自分のことを好いていたやつが誰かに好かれることよ」
「私が好きなわけではないでしょう。その……そう言うので」
「独占欲ってやつよ。親友が取られるのは悲しいね」
「だから一緒になってないって!」
まだやるのか。とパチュリーは思った。
「どう、どう」
と言うとレミリアは不意に図書館の扉のほうを見た。
「その人魚は本当におまえが好きなんだと思うよ」
「何よ。会ったこともないのに」
「私ってさ」 レミリアはにやつく 「耳が優秀なのよ」
「まあ……蝙蝠だし」
パチュリーは急な自慢の意味が分からなかった。
「おまえと喧嘩をしているとき、じつは足音が聞こえていた」 レミリアは笑顔になる 「足音は……はねていた。二本足の音じゃない。足音は必死にはねていたんだよ」
衝撃を受けた。パチュリーは首が曲がるような勢いで扉を見た。それからレミリアに向きなおると───また妹のことでなじりたくなった。
「言ってよ!」
「開けてきなよ」
「ちくしょう!」
パチュリーは立ちあがった。その拍子にフラスコに右手が当たり、千一回目が右袖を濡らした。
別にどうでもよかった。パチュリーは五十二年ぶりに全力で走った。飛ぶことも忘れていた。
扉の前に辿りつくと即座に開けて───“ピャーー”と奇声を発した。
扉の向こうでわかさぎ姫が倒れていたからである。
「水ーー!」
「うるさいな!」
とレミリアは叱りながらも薬罐を持ってきてくれた。千一回目には水が欲しかったので、机の上に用意していたのが幸いした。
パチュリーは薬罐を受けとると、その先をわかさぎ姫の口に突きさした。
「口でやれよ」
「しばくわよ!」
わかさぎ姫の鰓から、どばどばと水が流れていた。
十
「会いたかったのよ」
水の中の空気を堪能して、わかさぎ姫の頭が冴えたころ、ふたりは机をあいだに向きあった。
ふたりは向きあっていた。互いに向きあっていたのである。
レミリアは───すこし離れたところで座っていたけれども、その目と耳は野次馬も同然だった。
「飛ぶのは苦手なの」 わかさぎ姫は呑気に言う 「だから……はねてきた。門番さんに声をかけると“はこんであげる”と言われたわ」
「それから?」
「でも自分で歩きたかった。私の足は立派だから……図書館の場所を聞くだけにしたの」
この子は馬鹿だ。とパチュリーは思った。
そして一途だ。とも思った。
その行動は人魚姫だ。まったくの人魚姫なのである。
「私は」 パチュリーの声はふるえている 「だから わたしは だれかに じぶんのために がんばって もらうと しぬほど しあわせ……」
「はい」
パチュリーは───わかさぎ姫の言葉を痛いほどに実感していた。
心臓がやぶれて、泡になってしまいそうだった。
ときめいていた。さすがにときめいていた。
自分が本を渡したとき、この子もこの気分になったのだろうか? とパチュリーは思った。
パチュリーは何度もレミリアから、自分のためにがんばってもらったことがある。それは彼女のほうも同じだった。
しかし、それは互いが益をもたらすからである。
ふたりは親友だった。しかしレミリアは単に雇用主でもあったのだ。昔───それだけがパチュリーの愛を隔てた。
湖が向けてくれているのは無償の愛だった。
パチュリーは表情に苦悶を浮かべた。
分からなかった。怖かった。逃げだしたかった。
うれしかった。
「パチュリー!」
急に声をかけられたので、パチュリーの肩がはねあがった。レミリアのほうを見ると真剣な表情をしていた。そして表情の中に心配の色も浮かんでいた。彼女は親友を本当に大切だと思っている。
「アプローチだろ!」 年輩が言う 「すべてはアプローチなんだ」
わかさぎ姫は英語の意味が分からなかった。単にパチュリーの返事が欲しかった。
「どちらが青い?」 若輩が聞く 「私とこの子は……どちらのアプローチが青い?」
「青いのもわるくないよ。青色極星ってのは……月よりも巨大だ。それにごうごうと燃えているらしい」
「……分かった」
世の中は“勢いや流れ”だ。とパチュリーは決めた。
パチュリーは立ちあがるとわかさぎ姫の傍に行った。しゃがみこんで目線を合わせた。
目をとじた。
目をひらいた。
「……よろしく」
とパチュリーは照れた。
わかさぎ姫の目に涙が浮かんだ。
二回も泣かせた。とパチュリーは思った。
しかし両方ともよろこびの象徴だった。
右袖を使って、その涙をぬぐった。
そして湖を抱きしめた。
わかさぎ姫は大雨のように泣いていた。
そのとき───ふたりの耳に叫ぶような声が聞こえる。
「パチュリー!」
レミリアの声だった。パチュリーは彼女をにらみつけた。
「何よ! さすがに無頼だわ」
「馬鹿! 右袖を見ろ!」
パチュリーはしぶしぶとわかさぎ姫を解放して、自分の右袖を眺めてみた。そこは銀色にひかっていた。
一瞬───理解が遅れた。
しかし思いかえすと───自分は薬をこぼしていた。それは右袖を濡らしていた。そして人魚の涙を拭いていた───人魚の涙を!
人魚の涙! とパチュリーは答えを得た。
雷で打たれたように驚愕していた。
それは直感的な感覚だった。
完成している! とパチュリーは思った。
「何?」
とわかさぎ姫は急にふたりの様子がおかしくなったので、さすがに涙が引っこんでしまっていた。
「できすぎている!」
「いや……さすがに……おどろきだよ」
「だって……そうでしょう? 私は人魚の涙が最後の鍵だとは知らなかった!
でも私は……。
偶然にも人魚としたしくなって? ……それから人魚が家に来て? ……そのときに右袖へ薬をこぼして? ……告白に応えて? ……泣かせて? …右袖が涙を拭いて? ……それで!」
「いやはや。天文学的だ」
「三文小説よ!」
とパチュリーは生涯で一番の笑顔で言った。
「私は運がよすぎる。世の中はおかしいのかもしれない!」
「三文小説でけっこう」 レミリアは祝福する 「それで親友が幸福を得たんだ。まったく、まったく。世の中こうでなくてはね」
「私」 わかさぎ姫は困惑している 「何がなんだか」
それはそうだろう。
わかさぎ姫は事情を知らないので、ふたりがヘンになったと見えた。彼女は気分をまぎらわすために水を飲むしかなかった。また鰓が水を垂らしていった。そこには水の“勢いや流れ”がある。
「陸でも暮らせるようにしましょう!」
とパチュリーは叫んだ。
「すぐにはできないと思う。でも私には見える。
私には“勢いや流れ”が来ている。風が吹いている!
私は……」
わかさぎ姫は最高だ! とパチュリーは思った。
「私はなんでもできそうだわ!」
「キスしてやれ!」
とレミリアがけしかけた。
わかさぎ姫はいまだに───何がなんだかだ。しかし気にするほどのことでもない。彼女は目的を果たしてはいるのだ。
すでにわかさぎ姫がパチュリーを好きなとき。
魔女は人魚にキスをしてくれた。
それで満足。それで充分。
パチュリーは人魚を抱きしめた。
わかさぎ姫も魔女を抱きしめた。
湖に抱きしめられた。とパチュリーは思った。
わたしは だれかに じぶんのために がんばっ
て もらうと しぬほど しあわせ
だから わたしも あなたの ために がんばり
たくなる
わたしが あなたを すきなとき
あなたも わたしが すき
湖に抱きしめられた(Blue Approach) 終わり
レミィがすごくいい感じなんだけど泡姫のキャラも好き
あとレミリアとのコミカルな掛け合いが素敵。
会話文が洋画みたいでテンポが良かったです
本は誰しもが読めるべきだとかつての情熱を取り戻して燃え上がるパチュリーがよかったです
癖のある文体ながらも読みにくさどころかすんなりと情景や動きが入ってきて、それでいて文全体に柔らかい雰囲気を感じられて、とても心地よく読めました。
今作ではパチュリーの苦悩をかなり書き込まれていたと思います。歳を経るにつれての自身の悩みの変貌具合、そしてわかさぎ姫という身体機能に対する共通の理解者を得た事でパチュリーがどう突き動かされていくか。物語に耽ることができる、読み応えのある話だったと思います。また、レミリアによる助けや熱のこもったぶつかり合いによる感情の揺さぶり具合も心地良く、それもまたこの物語に耽る事のできる要因であったと個人的には思いました。
一つ書かせてもらいたいのが、読み進めていく内に、わかさぎ姫による告白の場面があったと思います。あまりにも唐突の告白により、一瞬耽っていた状態から引き戻されてしまったような感覚を覚えました。この話を読みおわったすぐには、途中までパチュリーとわかさぎ姫による友人エンドの流れだったのに、と少し納得いかなかったものです。ただ、もう一度この話を吟味してみると、この告白は自然なものだったのかもしれないという結論に至りました。
わかさぎ姫にとって尽くしてくれる者が少ないからこそ、尽くしてくれた相手には大きな恩を感じるのでしょう。多大な信頼も寄せるのだと思います。しかし、パチュリーと出会う前の友人たちでは、水の中で本を読むという夢を叶えることは出来なかった筈です。自分にとって最も大きなことを、叶えることは出来なかった。でもパチュリーはそれを叶えることが出来た。出来てしまったから、彼女は恩や信頼以上に大切なものを感じたのでしょう。
勿論、唐突な告白は本当に驚愕しました。しかしそれはパチュリーも同じ訳です。この話はパチュリーが焦点に当てられて書かれているわけですから、パチュリーの視点で考えれば、兆しも感じることなく突然なされたという、読者としての自分と全く同じ驚愕を感じる筈です。そう考えると、わかさぎ姫による告白と、その流れは自然なものであったのかなという考えに至りました。勿論自分の勝手な想像ですし、このように考えて書かれたのではないと思っていますが、それでも、こうやって何度も吟味出来るような作品を書いてくれた事に本当に感謝しています。
面白かったです。ありがとうございました。
泡語の本もとてもいいですね
自分ももっと小説を書きたくなりました。
最高でした。
それでも、キャラクターを表現する上でその性格をただただ文字に起こしダシに使って終わるという事無く、色々な出来事や多種多様な側面から連綿と切り出していくという、一種の技法としてこの物語に影響し続けていた様はそれだけに留まらず。エピソードを連ねて性格を演出するというその一点において、抜きん出た魅力が存在していたのだと思います。
一方で、何を言おうが主演二人以上にこの話の功労者はレミリアだった事に相違は無いと思えました。
パチュリーとツーカーの仲とも言いたげに言葉遊びを展開し、裡に打算を隠す事も無く、気が知れているからこそ互いの内面にズケズケと踏み込めて、二人の間柄はまるで洋画における格調や気品の高さを匂わされます。
だと言うのに、芝居掛かった表現と思わされないのはレミリアというキャラの妙でもあり、戯曲の格言を抜き出しただけとは言わせんとばかりに展開される地の文の妙でもありましょう。一人称で語られるそれらは牙を立てるかのようにぎらついて、熱を帯びているようで。それはその熱、パチュリーが怒りや不屈と称するそれらこそがこの作品におけるパチュリーの根底に巣食う全てなのだと毎度思わされる程でした。
タグにもある通り、この作品は『百合』のジャンルの一角に位置付けられる物語です。無論、恋に落ちる二人の情緒が描かれた物語が百合じゃない訳が無いでしょう。
けれどもこの物語を一介の百合と評するには余りにも物語が上手いのです。『誰かに分けないと“ばち”が当たると思ったのよ』とまで言ってのけるパチュリーと、その恩恵を多分に受けるわかさぎ姫の構図はまさしく人魚姫よりも傲慢で温和な関係性。そして、恩を返せると知った時の運命の番狂わせ。
人魚姫がわかさぎ姫で救世主がパチュリーだったからこそ、恩義のやり取りが彼女達の思う以上にジグソーパズルとして成立し得たからこその告白は、互いの種族に刻み込まれたプリミティブで、互いが互いの未踏の領域に踏み込める素晴らしさの共有で、恋と呼ぶには宿命的が過ぎる崇高ささえ兼ね備えていたとも言えました。
であるからして。『──その日の夜。パチュリーは徹夜で小説の翻訳をした。』この僅か三十文字にも至らぬこの描写。
告白という前の地の文の流れからの切り返しとして本当に愛おしい以外の感想がありましょうか。その晩の様子をレミリアを交えて語る事無くただ只管に黙々と、この短いながらもここまでこの作品を読んできた人間ならその裏に何があったのか否応無しに夢想させられるこの感触はまさしく、山場の一つとしての最高級の演出を目にしたソレだったと表現しても過言にはならないでしょう。
しかし、ここまで踏み込んでも、まだ恩義の返し先が互いに残っていたのだからつくづく運命の赤い糸を感じずにはいられません。三文小説と誰が揶揄しようが、出来過ぎたデキた関係性。パチュリーの抱いていた悩みを全て払拭せんが如く押し寄せる事実の潮流がラストの展開まで映えさせていたからこそ、最後の最後までどっぷりと物語に耽ることが出来たのです。
本当に恐ろしいぐらいに面白い物語でした。パチュリーの一人称で紡がれた溢れんばかりの気勢が物語のテーマを薪として凄まじく燃え盛っており、最早羨慕さえ覚えそうです。
沸騰してしまいかねない程の熱い恋をありがとうございました。
アプローチ!