大切なものは、いつまでも大切なものだと思っていた。
毎日身体を預けるベッドも、身体を覆うお布団も、苦労して編んだ花のリースも、いつだって大切な生活の一部だった。
昨日の夜だって、暖かい家で眠れることに感謝しながら床に就いたし。
明日もきっと、幸せな生活が続くと信じていた。そしてこの生活が、永遠に続けばいいのにと思いもしたのだ。
――それになにより、毎日でも会いたいあの人は、いつもすてきであるのだし。
……だけど、
「……どうしよう」
今の私の眼に映るのは、どうしようもなく要らないものばかりだった。
昨日までは大切だったもの。だけどそれらの全ては、ガラクタと化していて。
ベッドは足が砕けて横転しているし、お布団は泥まみれのぐしゃぐしゃで、花飾りに至ってはただのゴミになっていた。
朝焼けの晴天が空しく頭上に広がって、周囲の惨状を照らし出す。大嵐が通り過ぎた鈴蘭畑は荒れ果てて、とても何かが住める場所ではなくなっていた。
動物も、妖精も。そしてもちろん、妖怪も。
――ああ、つまるところ――。
「スーさん、私どうしたらいいのかな」
昨日までは確かにあった我が家は、一晩のうちに失われてしまったのだった。
☆☆☆
八意永琳は急いでいた。
理由は単純で、それ故に天才たる永琳をもってしても容易には解決できないものだった。
……早くあの子のところに行かないと……。
「よりにもよってどうして今日だったのかしら。いえ誰も悪くはないのだけど。でもこんな大手術の日じゃなくてもいいじゃない。ああいえ私が失敗するわけはないのだけど、というか成功はしたのだけど、焦って失敗してないか何度も確認してしまったわ。ああ……」
「……いやお師匠様、何ぶつぶつ言いながら歩いてるのさ」
どこからか現れた因幡てゐが、何故か半目を向けてそんなことを言ってくる。どうして彼女がここにいるかはわからないが、今の永琳に構っている暇はなかった。
「あらてゐ、残念だけど私は見ての通り急いでるの話ならまた今度にして頂戴」
「あの八意永琳をここまで焦らせるなんて何があったんだろうねーと言いたいところだけど、メディスンが寝てる病室はそこの廊下を右だよ」
「む」
言われた通りに交差路を曲がる。元々は入院患者向けの大部屋に向かっていたが、てゐが示したのは個室へと続く道だった。
あそこは死蔵気味だった離れを有効活用した病室で、いつ患者が来てもいいように内装も整えてある。しかしこれまで一度も使用されていないのが現状だ。ちょっとだけお値段高めだけど、環境は良いはずなのに何故。
「いやうちいつも人いないし。個室を選ぶうま味が無いからじゃないかなあ」
長い付き合いとはいえ、この兎は人の心を読んではいけないという常識を知らないらしい。後でお仕置きが必要かもしれない。
「いやさっきから顔に出過ぎだって」
永琳は無視した。
ともあれ、あの子を個室に寝かせているのは良い判断だと永琳は思う。あの子の身体は特殊で、下手をすると毒が垂れ流しになっている可能性もある。力の弱いものならば、命にかかわる毒だ。少ない例外を除けば近づくことさえ危ないだろう。
そう考えていると、その数少ない例外が視界に入って来たのを永琳は認識した。
「お、永琳じゃないか。勝手に入ってるぞ」
「あら妹紅。貴方が良いなら私から言うことは無いわよ」
「ああそれでいい、こっちに向ける言葉があるならあの子に声をかけてやれ」
「……ああ、なるほど」
廊下の向こうから歩いて来たのは、藤原妹紅だった。
「いつもズタズタでみすぼらしい服装がさらにボロボロになってる。つまり貴方があの子を連れて来たのね、毒にまみれながら」
「前から思ってたが、たまに輝夜の奴より辛辣だよなーお前……」
妹紅が何を言っているのかわからないが、とにかく急ぐ必要がある。
「焦ってるみたいだが、あの子の容体は落ち着いてるみたいだぞ。急ぐ必要は無いが……まあ気持ちの問題か。それじゃあな」
ひらひらと手を振りながら、自分たちが来た道を妹紅は歩いていく。
「貸し一つね。今度姫様とのお茶会に招待してあげましょうか」
「いーんじゃない? 二人とも喜ぶよ、内心は。手配しとこうか?」
「え、ああ、そうね。うんなんか適当にやっといて頂戴」
「余裕ないねえ」
などと言っているうちに病室の前まで来た。
冷静に考えると何故てゐが一緒に来ているのかわからないが、熟慮をしている時間は無い。
目の前には襖があって。
部屋の中には布団が敷かれていて。
そこにはあの子が――メディスン・メランコリーが眠っているのだから。
息を整え深呼吸。吸って吐いてをツーセット。胸に手を当て鼓動を確かめたら、部屋に入る準備はできている。
「よし。開けましょうか」
「ねえお師匠様お師匠様、なんか呼吸荒くない?」
自覚はあるのでそういうことは言わないで貰いたい。
◆◆◆
メディスンは微睡んでいた。
意識があるような気もするし、無いような気もする。そう思っていること自体が意識なのだろうけれど、意志が身体を動かしてくれないのもまた事実だ。
身体が動かせないのか、それとも本心では動かしたくないのか。重く体を支配する淀みが、何もかもをわからなくさせている。
今がとても気持ちよくて。
今がとても気怠くて。
ずっとこうしていたいと思うのは、ここが特別な場所だからだろうか。
いつも過ごしている、鈴蘭畑では無くて。
大切な誰かのいる――。
「メディスン、メディスン。入るわよ」
「ふぇ?」
自分のことながら、間の抜けた声がでたなと思う。
口に出した声を認識してしまえば、先ほどまでの微睡みはどこかに消えてしまっていた。
代わりに、
「……永琳、なの? じゃあここは永遠亭?」
頭の中に浮かんでいた姿が、現実としてそこにいた。
「覚えてないのね。貴方、今朝運び込まれたのよ」
「そうなんだ」
まるで記憶が無い。思い出そうとしても、頭がぼやけてはっきりとしない。痛む頭で集中しても、ぼんやりとしたイメージが浮かび上がるだけだった。
……確か、朝起きたら周りがひどいことになっていて、なんとか誰かに助けてもらおうと思って、それで……。
「無理に思い出そうとしなくていいわ。安心して」
「うん。ありがと」
……ああ、永琳はいつも通りすてきね。
声には出さず、心で呟く。
凛とした佇まいの永琳は、記憶の通りの美しさを持っていた。
「……ついさっきのことは思い出せないのに、へんなの」
「なにが?」
「えっと……永琳は、すてきだなって」
「――――」
結局言ってしまった、とメディスンは思う。
何故か言葉を失った永琳を見て、こうも思った。
……私、安心しちゃってるわねー。
人間は自分の敵で。
永琳だって、例外ではないはずなのに。
いつの間にか、すっかりと自分の隣人になっている。
自分の歴史なんてそんなに長くはないのに、それがいつからだったかは思い出せない。どうして永琳は特別なのだろうと思うのだけれど、メディスンはいつも答えを出せないのだった。
「こほん。えーあー、よし。それで、身体はどう?」
「からだ」
言われて気が付く。確か朝は身体が痛かったような気がするのだけど、今はなんの痛みも感じてはなかった。まるで、最初から傷なんて無かったかのように。
「ちょっとだけ、身体に触ってもいいかしら。嫌なら言って頂戴」
「平気よ。ほかの人間には触られたくないけど……永琳になら良いから」
「――もう」
言って、永琳が身体に触れる。
ぽんぽんと頭の上に手が置かれて、髪を撫でられた。安心したような吐息が聴こえたのは、髪が痛んでいなかったからだろうか。そして永琳はポケットから櫛を取り出して、ゆっくりと髪を梳かし始める。
それが終わった後は、頬を撫でられて肌を確かめられた。そのまま首元まで手が下がって、胸元まで辿りついたら一旦停止。
胸板と背中を触られた後に、両手を確かめられた。永琳の手を握れるかなと思ったけれど、直ぐに引っ込んでお腹と足の付け根に行ってしまった。残念。
「……なるほど。元々、外傷は無かったみたいね」
「そうなの?」
「私の手がかぶれなかったということは、そういうことね。既に傷が再生していたとしても、少しは毒が染み出してしまうはずだもの」
自分の身体は人形で、しかし妖怪化している。妖怪ともなれば自然に傷が治ることもあるし、腕や足が丸ごと再生することもある。
永琳の言っていることは、そういうことだろう。だけど、
「うー」
「どうしたの?」
「もし身体から毒が漏れていたら、永琳が痛かったじゃない」
「私なら平気よ。蓬莱人だもの」
「でも、痛いのは、痛いわ」
「……そうね。有り難う」
こちらの言っていることが通じているのかどうなのか。
永琳のこういうところだけは嫌いだ。
同時に、逆の感情を持ちもするのだけど。
「もう。ずるいよね、永琳は」
そこで仕方がなさそうに笑うのも、何を言ったらよいかわからなくなるのでやめて欲しい。
「ああ、もう、誤魔化さないで。もっと自分を大事にしてよね」
その言葉が自分に帰ってくるのはわかっていたけれど。
メディスンは、どうしてもそう言わずにはいられないのだった。
……きっと、こんなに自分を大事にしない人なんて、永琳くらいなんでしょうね。
「とにかく、しっかりと休めば大丈夫そうね。部屋は空いているから、いつまでも寝ていていいわ」
「いつまでも……」
永琳の笑い方が変わって、ぎこちなさの取れた自然なものになる。
きっと心からそう言ってくれているのだろう。そして言葉のあやではなく、本当にいつまでもここにいてよいということなのだろう。
ああ、だけど。
「大丈夫よ、永琳。明日には出ていくから。迷惑はかけないわ」
「でも……」
「いいの、いいのよ」
永琳の表情は変わらなくて、ずっとこちらを笑顔で見つめてくれていた。そのことに胸が痛みはしたけれど、だからといって永琳の言葉を受けれ入れるわけにはいかなかった。
――きっと永琳だって、その感情は永遠に続かないんだから。
だからメディスンは布団をかぶって、永琳の姿が見えないようにした。
……永琳に、ずっと愛される人たちが羨ましいわ。
と、そう思いながら。
◆◆◆
「お、そこにいるのは鈴仙ちゃんじゃないか。元気?」
鈴仙は己の主人に膝枕をされながら、日向の廊下で声をかけられていた。
視線の先にいる白髪の少女――妹紅は、やけに爽やかな笑顔を浮かべており、
「あ、どうも。もう帰るところ?」
「そんなところだ。で、なんで鈴仙ちゃんは輝夜に膝枕されてるんだ?」
「……なにかしら妹紅。私はイナバと戯れるのに忙しいのだけど」
「ゆっくりしてたところなら邪魔して悪いな。ちょっと輝夜の奴をからかいに来ただけだから構わないでくれ」
「へえ、本人を無視するとはいい度胸ね」
「はあ……」
と、吐息しながら鈴仙は項垂れた。
貴重な休日の使い道として、姫のお誘いで日向ぼっこをしていたのは正しい選択だったように思う。しかしどうやらそれも終わりを告げそうだ。数分後には片づけをしなければならないのだろう――この二人が会うということは、そういうことだった。
二人が交わす言葉は剣呑なようにも思える。後に続く結果を想像すれば尚更だ。しかし一方で、鈴仙は不思議と言葉の棘を感じ取ることができなかった。
……なんというか、変わったわよねーこの二人も。
今の二人を見ていると、昔は殺し合いをしていたことが嘘のように思えた。
正直なところ、無意味なことをよくするわと思ったことが無いと言えば嘘になる。それでも、そんな時間を過ごしてきたからこその今なのだろう。
そんなことを鈴仙が思っていると、見上げた先の姫が妹紅へと言葉を返す。
「妹紅貴方ね。わざわざちょっかいを出しに来るなんて、見上げた根性してるじゃない。鈴仙をなでなでして幸せいっぱい夢いっぱいの私を動揺させられるとでも思ったの?」
「永琳があの人形の子に御熱心なんだってな」
「……………………うん。そうみたいね」
「あの輝夜様、マジトーンで落ち込むのやめません?」
言うが通じない。姫はこちらの身体を持ち上げるように抱えて、本気かどうかわからない鳴き声を出す。
「うー、だって永琳ったら酷いのよ? これで二回目よ? 私というものがありながらー」
「二回目って……ああ、なるほど」
半眼になった妹紅がこちらを見てくるが、何のことだかわからない。
……私から見たら、お師匠様と輝夜様は昔から変わらず仲が良いようにしか見えないんだけど。
よくわからないが、本人にしか感じ取れない何かがあるのだろう。たぶん。
「はあ……永琳……」
「……いや悪かったって。ほら、機嫌治せって。一回私殺しとくか? いっとく? な?」
「血がしぶくのでやめてください」
こんなところで殺人が起こったら、血を拭きとるのも、死体を片付けるのも、自分がやらなくてはならないのでとても困る。最近は自動で燃え尽きてくれるので血が垂れないこともあるが、それはそれで後処理が手間なのだ。
「……それで、どうなのよ」
「どうって?」
「人形の子。大丈夫なの?」
今朝方、妹紅がメディスンを運び込んだらしいと兎たちから聞いていたが、どうやら本当だったようだ。
「心配はいらないよ。竹藪の入り口で拾ったときはどうなることかと焦ったけどね。精神が弱ってたのか毒が漏れ出してたけど、身体は無事だ。漏れ出した分は私がおっかぶったから、もう触っても平気だろうさ」
「へえ、案外弱い毒なのね。折角だから一回殺してくれればよかったのに」
「それが思ったより強力な毒でな。ここに来る途中で一回身体を乗り換えてきた。いやーオカルトがまだ使えて助かるな、自分で燃やす手間が省ける」
「あーそれ廊下が焦げ付くのでやめて欲しいんだけど―」
まあまあと妹紅が言って誤魔化すが、仕事が増えたという事実に変わりはない。
……あー、やっぱり今日も働かないと駄目かなー。
「ま、あの子は無事だが……暫くはここに泊めてやったほうがいいだろうな」
「あら、それはどうして?」
「うわごとで言っていたんだけどな、家が無くなってしまったんだと」
いつかの異変で会った頃のメディスンは、どこにも属さない野良妖怪だったはずだ。どこかに定住してるという話も聞かない以上、家も何も持っていないものだと思っていたが、
「小屋でも見つけて住み込んでたのかなー」
「かもな。で、昨日の嵐で何もかも吹っ飛んじゃったってことらしい」
「なるほど」
昨晩は幻想郷でも珍しいほどの大嵐だった。雨風と雷の音を聞きながら、立派なお屋敷がこんなにも頼もしいとはと感じたことが記憶に新しい。
「少しは心配だが、まあ大丈夫だろう。永琳が診るなら尚更な」
「メディスンも災難ねー。野良妖怪は大変だわ」
「そうねー。一緒に暮らしましょうか」
……おや。
「なあ輝夜、今なんか二段階くらい飛ばさなかったか?」
「そうですよ輝夜様。まずはメディスンを一時的に泊めてあげようって話では?」
揃えて疑問を口にする。しかし姫は、
「いいの、いいの。だって私、永遠亭の主だもの。私がいいと言ったらいいのよ」
「それはまあ、そうだろうが……」
……こっちに困惑の眼を向けられても困るのよねー。
鈴仙は妹紅の視線を見なかったことにした。姫様のことは好きだけれど、だからといって内心を推し量るほど通じてはいないのだ。残念なことに。
「いい妹紅? 私は前から思っていたのよ、永琳はもっと素直になるべきってね」
「はあ」
「愛情表現の仕方というか、行動力はあるのに思いを伝えるのが下手っていうか、そういうところがあるのよ」
「あー、まあ、そうだな」
「……輝夜様、それに妹紅も、どうしてこっちを見てるので?」
言えば二人は視線を交わして、申し合わせたように溜息をつく。
「ああ、輝夜の言いたいことはわかったよ。お前の言う通りだ」
「でしょー? 私が思うに、永琳はあの人形の子がお気に入りなのよ。色々気を遣ってるから言い出せないだけで、きっと一緒に暮らしたいはずだわ」
「話が見えないですけど、お師匠様に気に入られるなんてメディスンが羨ましいわ。……だからその溜息はなんなんですか!?」
……もー、なんなのよー。
「うーん。あの人形の子は大丈夫なのか? 二の舞を踏む永琳ではないだろうが、流石に不安になって来たぞ」
「うーん。あの子もあの子で不安なのよねー」
「乗りかかった船だし、何か手伝ってやろうか?」
「ダメダメ、私に懐く前に妹紅に懐いたら大変だもの」
「はいはい」
相変わらず仲が良いのか悪いのかわからない二人を尻目に、鈴仙はただ思う。永遠亭の住民が増えるのは良いけれど、どうせ自分の仕事が減ることはないのだろうと。それを思うと、自然に溜息が出てきてしまう。
「……はあ。でも輝夜様いいんですか? なんというかその、さっきまでメディスンのことで落ち込んでましたけど」
「いいのよいいの。永琳が私から離れてしまうのは寂しいけれど、新しい出会いは歓迎すべきよそうなのよ。よよよ」
「なーにがよよよだ、嘘泣きは似合わないぞ」
「嘘泣きじゃーなーいーわー」
「うーんちょっとイラッと来た。よーしやるか」
「上等よー」
「なんだかなあ」
再び項垂れると同時、鈴仙は自分の身が解放されたことを悟る。
なんだかんだと喧嘩を始めた二人を見ながら、鈴仙は片付け時間の算出に入ったのだった。
◆◆◆
「……メディスンと一緒に暮らす、ね」
永琳は暗闇の中、蝋燭の火を頼りに診療録を書いていた。
月を技術を持ち出すまでもなく、文明の灯りを用意することはできる。しかし気分を出したいときは、やはり自然の火に限る。今朝行った手術の結果を記述しながら、永琳はただ手を進めた。
思考をしなくても作業は進む。複雑な手術だった故時間がかかると思っていたが、一刻とかからず書き上がってしまった。
「うん、ミスはないわね」
二度見直して作業終了。診療録をファイリングしてしまえば、今日の予定は全て完了だ。
仕事の終わった永琳の思考は、瞬く間にプライベートへと切り替わる。
……さて、どうしたものかしら。
夕食の席で輝夜から提案されたのは、メディスンを永遠亭に住まわせようという話であった。
いつのまにかウドンゲやてゐにも話は伝わっていて、知らないのは自分だけのようだった。確かに自分は夕食の直前までメディスンの様子を見ていたが、自分の与り知らぬところで手が回りすぎだとは思う。
輝夜の提案にウドンゲが恨めしそうな顔を浮かべていたが、あれはなんだったのだろう。気が緩んでいるとしたらいけない、今度厳しく注意しなければ。
「勿論私としては大歓迎なんだけど」
気にかかるのは、先刻のメディスンの様子だ。一緒に暮らすならばともかく、怪我が治るまで此処にいてよいという提案すら受け入れないとは予想外だった。
ふと時計を見てみれば、既に日が変わってから大きく時間が経っていることに気が付く。
……ええと、これを書くのにそんなに時間はかかってないわよね。
日付が変わる頃に書き始めた事実を考慮すれば、如何に自分がぼうっとしていたかが浮かび上がってくる。作業を始めるまでが長い人はいるものだが、これは我ながら度が過ぎる。
「それだけ、あの子のことが気になってしまっているのかしらね」
あと数刻もしないうちに決断をして、メディスンに告げなければならない。
気が重いわけではない。提案を蹴られたからといって、それで自分たちの関係が壊れるわけではない。これからも友人として――向こうがそう思ってくれているかはわからないが――の関係が続くだけなのだから。
しかし一方で、メディスンの言葉に胸が苦しさを覚えたのは事実だ。嫌なことが待っているかもしれないという可能性を恐れて行動が鈍るほど、永琳は子供ではない。それでもどこか、心にまとわりつく何かがあるのは無視できない現実だった。
重ねて永琳は思う。どうしたものかしらと。
――と。
「あれ、お師匠様。まだ起きてたんだ」
てゐだった。部屋から漏れる光を気に留めたのだろう。半開きのドアを僅かに開いて、彼女は軽くそう言った。
「ええ、今日は事務処理を後に回してしまったから」
「ふーん。まあしょうがないか、別のことで頭がいっぱいだったもんね」
「メディスンのことは関係ないでしょう――あ」
「うんうん。私、まだメディスンのことだって言ってないよ?」
くすり、とてゐは音を立てる。
悪戯兎の彼女にして、嫌味の無い笑いだった。
「お師匠様のことだから、それで仕事に支障をきたすってことはないだろうけどさ。それでも周りから見たらおかしいってわかるから、もう少し気を付けたら?」
「……私、そんなにおかしかった?」
「うん。いつもより二回は鈴仙への注意が少なかったし、姫様への受け答えに関しては三秒も遅くなってたからね。さすがにわかるよ」
「そ、そう」
自覚は全くなかったが、果たして本当だろうか。てゐは意味のある嘘も無い嘘も吐くタイプなので、真偽は解らない。ひょっとすると、てゐなりに元気づける為の冗談なのかもしれない。
「まあ、メディスンにはちゃんと伝えた方がいいんじゃない? 例の提案」
「それはそうなのだけどね。昼間あの子に断られちゃった後だから、言いにくいのよ」
「……そんなこと言ってたっけ? ずっと寝てていいとか、そんなことしか言ってなかったような」
「……盗み聞きしてたわけ?」
「おっと藪蛇。そろそろ私は寝るから、もう一度メディスンの様子でも見てきたら? じゃあねー」
言うだけ言って、てゐは姿をくらましてしまった。ドアを開いてみても、既にそこには誰もいなかった。
……全く。
蝋燭の炎を吹き消して、月明かりを頼りに廊下を歩く。行先はてゐの部屋――ではなく、メディスンの寝ている離れだった。
てゐの言葉に感化されたわけではないが、メディスンの様子は一度見ておく必要があるように思えた。決して自分がメディスンのことばかり考えているということはないのだが、てゐの忠言を無碍にするのは憚られるように思えたのだ。
木張りの廊下を踏む音だけが耳に届く。深夜の冷たい空気が肌を震わせ、思考を明敏に変えていく。
――メディスンがあんなことを言ったのは、何故だろうか。確かにメディスンの敵は人間で、必要以上の馴れ合いを避けているのは確かだ。
だけど一方でこうも思う。あの花の異変で出会ったとき、メディスンが自分に懐いてくれたのは事実だろう、とも。
それとも鈴仙の言う通り彼女は危険な妖怪で、こちらに取り入っていただけだったのだろうか。しかしメディスンはこうして自分を頼ってきてくれて――。
「……駄目ね。心の領域だけは、未だ解き明かせないわ」
思い返して見れば、ウドンゲを受け入れたときだって自分は何もしなかった。ウドンゲから頼み込んで来たことと、輝夜が即座に了承したことで、自分が介入する余地が無かったこともある。今ではウドンゲも自分に懐いてくれているものの、こちらの気持ちが伝わるまで時間がかかりすぎたとも思う。
メディスンに対しては、さて――。
「あ」
考えを巡らすうちに、いつの間にか部屋の前に着いていた。月光は冷たく襖を照らしていて、当然ながら自動で空いてはくれない。
襖を開くのに躊躇をする必要はない。彼女はぐっすりと寝ているはずで、今この時間は、単に様子を確かめるだけのものなのだから。そこに会話は発生しないし、決断することは何もない。ただ開いて、姿を見ればいいだけだった。
にもかかわらず、永琳の手は動かなかった。どうしてと疑問する余地もない。メディスンから拒絶を――そう、あれは拒絶と呼ぶべきものだ――を受けた記憶が、想起されたからに違いなかった。
「はあ、何やってるのかしら私」
部屋に入るにしろ、踵を返すにしろ、呆けている時間はただ無駄な時間だ。そのことがわかっているのに、永琳にはどちらの選択もすることができないでいた。
ひとまず襖に手をかけてみる。それでもやはり、それ以上は動けない。だが、
……あら?
近づいて、気が付いたことがある。襖が、半開きになっているのだ。
夕方部屋を出たときには、しっかりと襖を閉めたはず。隙間風が吹かないようにしなくてはと、意識的に閉めた記憶が確かにある。なら――。
「――まさか」
もはや躊躇もなく、永琳は襖をあけ放った。
そうして目に入った部屋の中には一式の布団が――布団だけが置かれていた。
「――――」
部屋の中に畳んであった、メディスンの洋服も無くなっていた。彼女が自分の意志でここを抜け出したのは、明らかだった。
思考よりも早く身体が動いていた。メディスンの行先は解っている。間違いなく、彼女の家があった鈴蘭畑だ。数度しか行ったことがないが、場所は覚えている。暗闇の中でも問題なく辿りつけるはずだ。
一瞬で上空に躍り出て、方角を確認して空を翔ける。そうなれば、後は飛び続けるだけ。そうして余裕のできた頭に、自答が響く。
どうして――自分は何か、彼女に悪いことをしてしまったのか。
身を切る大気が身体の熱を奪っていく。それでも心の冷え方に比べたら、幾分とマシなように思えた。
永遠のように思える時間とはこういうことを言うのかと、頭の冷静な部分が分析をしていた。
鈴蘭畑は遠くて、すぐには姿を現さないようだった。
◆◆◆
「ほんとう、ひどいありさまね」
メディスンは壊れた家の前に佇んでいた。
雲一つない空は月の光をよく通す。とはいえ、照らすものがこんなものでは、月も報われないと思う。
今朝、呆然とここに突っ立っていたことを思い出す。当然ながらそのときから何も状況は変わっていなかった。屋根はどこかへ吹き飛び、部屋の中は一日経ってなお水浸しだ。
到底人の住める場所ではなかったし、妖怪だとしても棲み家に選択する者はいないだろう。それはメディスンも例外ではない。ほんの少し前までは野ざらしで生活していたことを考えれば、贅沢な話だった。
家屋自体は勿論のこと、家具も何もかも使い物にはならないだろう。それは、棄てなければならないということで――その事実は、メディスンの心に暗い影を落とす。
明日から――否、今日からどこに住むかはまだ決めてはいない。それでもこの残骸たちは、自分の手で埋葬しなければならないように思えた。
土葬か火葬か。どちらにせよ手のかかるのは間違いがない。一人で行っていたら、今日中に終わるかは怪しいところだ。
それでも、メディスンは一人でやるしかなかった。だって、
……永琳のところを抜け出してきちゃったもんね。
どうしてそんなことをしてしまったのだろう。別に日が昇ってから、永琳に挨拶してから帰ってきてもよかったのに。
メディスンは、そう心の中で問う。しかしその答えは、既に察しがついていた。
「永琳とずっといると、人間を好きになってしまいそうだもの」
勝手な言葉だな、とメディスンは思う。永琳に近づいたのは自分からなのに。昨日だって自分で永琳のところに行ったのに。
閻魔様に言われて、知見を広げる為に永琳と交友を持とうと思った。そして自分の味方を作って、目標の為の糧になればいいと、そう思いもした。
にも関わらず、メディスンは心にざわつきを覚えていた。これ以上永琳と一緒にいたら、自分が自分でなくなってしまうようだと。
「……もし永琳が、ずっと私のことを……」
言葉の後は続けられなかった。それを言ったら、きっと心の底から望んでしまいそうだったから。
――と。
「あら、こんなところにいたのね」
「――え」
背後から声がかけられた。
永琳かな、とメディスンは思った。それは何の根拠もない、反射的な思考だった。
けれどもそこにいたのは、
「あ、ええと、貴方は……」
「そういえば、ちゃんと挨拶したことなかったわね」
彼女が笑いをこぼしたことが、気配でわかった。
その彼女は、月を背後に地上に降り立って、
「私は輝夜。蓬莱山輝夜。――ええ、永遠亭の主人よ」
永琳から、永遠亭には主人たるお姫様がいると聞いたことがあった。そしてメディスンは知っている。この人が、永琳の大切な人であることも。
「貴方が永遠亭を出ていくのが見えてね。つい、ついてきちゃったの。お隣いいかしら?」
「う、うん」
輝夜は着物の裾が大地に擦れるのにも構わず、自分の隣に並び立った。
何が物珍しいのか、鈴蘭畑を見渡して、興味深そうにしていた。
……へんだけど、きれいな人。
「あの、輝夜さん」
「呼び捨てでいいわ。永琳にもそうしているのでしょう?」
「じゃ、じゃあ輝夜」
「なあに?」
「こんなに遅い時間なのに、どうして私のことを見つけられたの?」
時計こそ見ていなかったが、既に日が変わっていることくらいはメディスンにもわかっている。この人がお姫様なのならば、とっくに寝ていてもおかしくはない時間だった。
「貴方のことを皆から聞いていてね。前から一度会いたいと思っていたから、お布団から抜け出して、お忍びで来ちゃったのよ」
「みんなが、私のことを?」
「ええ。心配だとか、気になるとか……可愛いとかってね」
「……ほんと?」
「勿論。あ、最後のは永琳が言ってたのよ」
それは前にも言われたことがある。最初に出会ったとき、こう言われたのだ。
……こんな可愛いお人形をって……。
「永琳、まだそう思ってくれてたんだ」
「それはそうよ。私から見ても、貴方は可愛いもの」
「そう、なのかな――って」
輝夜は尚も笑いながら、何も言わずにこちらの頭に手を伸ばす。
……だ、駄目っ。
「輝夜っ、私に触ると――」
「大丈夫よ。私、永琳と同じだもの」
輝夜の動きは止まらず、そのまま頭に触れて髪を撫でる。今朝と比べて毒は出ていないはずだけれど、それでも鈴蘭畑の毒を補充したことで、少しは人間の身体に有害な影響がでるはずだ。
だけど輝夜は気にしたふうもなく、ゆっくりと手を動かしていた。
……もしかして輝夜も、蓬莱人なのかな。
「良かった。嵐に巻き込まれたと聞いていたけど、髪は傷んでないのね」
「ええと……私は妖怪だから、身体も髪も少しくらいは再生するのよ。それに……」
「それに?」
「永琳に、梳かして貰ったから」
「もしかして照れてる? 貴方聞いてた通り可愛いのねー」
「わわっ」
そのまま輝夜は抱きしめるように、こちらの身体を腕で包んだ。その綺麗な衣が、毒に濡れるのもどうでもいいことかのように。
「これ以上は駄目よ、輝夜。痛みが大きくなるわ」
「でも、永琳もこうしていたでしょう?」
「永琳は、痛いけど、平気だって言ってたわ。でも――」
「そう、だから大丈夫よ。――言ったでしょう? 私も、永琳と同じだものって」
とんとんと、輝夜に小さな背中を叩かれた。
「痛いのなんて、全然気にならないわ。だってそれより、貴方が永琳の元を出ていってしまったことの方が気になるもの」
「――――」
輝夜はこう言ったのだ。永遠亭を出ていってしまったのではなく、永琳の元を出ていってしまった、と。
「……話してくれる?」
「……だって永琳が優しすぎるんだもの」
メディスンは思う。人間は自分の敵で、永琳も誰も人間であれば敵なのだと。永琳に近づいたのだって、仲間を増やす以上の理由は無かった。
だけどこうも思うのだ。永琳と一緒にいると暖かいし、自分は――ひょっとすると永琳だって、二人で一緒にいたいと思っているのかもしれないと。
「あら、優しすぎるのは駄目?」
「駄目よ駄目、駄目なのよ。だってそうしたら、本当に永琳を――好きになってしまうもの」
言葉を聞いた輝夜が、軽く笑いをこぼす。それは嫌味のない軽く息を落とすような笑いで、
「いいのよ、好きになっても。だって永琳は素敵だもの」
「駄目なの、それだけは」
「どうして?」
「だって――」
妖怪になる前のことはぼんやりとしか覚えていない。でもきっと昔の自分は、自分の持ち主のことを好きでいたはずだ。
それでも今自分が人間を嫌いな人形でいるということは、
「――いつか永琳も私のことを、嫌いになってしまうかもしれないもの。そうしたら私、耐えられないわ」
そんなことはない、と心は言う。永琳は優しくてすてきで、きっといつまで経っても、好きでいることができるはずだ。
それでも――それでも、どうしても頭が納得してくれないのだ。
「だから、だからね。もう少しだけ距離を取りたいの。もう少しだけ心が落ち着いたら――」
「ふふ。それこそ駄目よ」
「え?」
「だって、私達の命は不滅だけど、貴方は常命だもの。一秒でも永く一緒にいなければ、損してしまうわ?」
ウインクさえして、輝夜は言った。
……一秒でも、永くいたいって。
「いい? 貴方は永琳に嫌われることはないの。ずっと、ずっとね」
「……どうして、そんなことが言えるの?」
そうねえ、と輝夜は唇に指を当てて、
「千三百年前。ううん、もっと前からだったかしら」
「え?」
「そのくらいからずっとね、私は――永琳に愛されているの」
「ずっと、って」
意味が解らなかった。蓬莱人は死なないと聞いていたけれど、そんなにも生きていけるなんて。それに、そんなにも永い時間続いていく関係性が、メディスンには想像がつかなかった。
「でも、別の物が好きになって、飽きられたり……しないかな?」
「ないない。大丈夫よ」
言い切られた。それは確信しているというよりも、当然の事実を述べているかのような口調だった。
そして輝夜は、
「永琳も私も、好きなものは増えるけど、好きなものはずっと好きだもの。二人とも昔からずっとそうだから、今では永遠亭も賑やかだわ」
「……じゃあ」
「ええ。貴方はこれから、死ぬまで愛されるの――永遠の姫が、保証するわ」
まん丸の月を背した輝夜は、どこまでも穏やかな表情だった。
それは純粋で、疑うことを知らないかのような、無垢な表情にも見える。でもきっと違うのだろう。この姫は、
……永い時間を生きて、経験して、その上で、そう思っているんだよね。
「私――」
「さあ、私がなにかを言えるのはここまでね。これ以上話していたら、盗み聞きしようとしている誰かさんに嫉妬されてしまうもの」
「え?」
困惑していると、背後の小屋の残骸から僅かに物音が鳴った。
きゃ、という声が聞こえたのははたしてメディスンの気のせいだろうか。
数瞬の間が空いて、時間が流れた。そうした後にゆっくりと物陰から姿を現したのは、
「え、永琳。来てたの……?」
◆◆◆
永琳は戸惑っていた。
……どうして輝夜がここに?
数百年ぶりに全力で空を飛び、やっとの思いで辿りついた鈴蘭畑には先客がいた。風の音に紛れて何を話しているのかはわからなかったが、輝夜が笑っている様子だけは雰囲気でわかった。そして、メディスンが戸惑いの感情を得ていることも。
そうして永琳自身さえも戸惑っているうちに、輝夜からせっつかれるようにして物陰から出る羽目になったのだ。
「ほらほら永琳、なにぼーっとしてるのよ。言うべき言葉があるでしょう?」
笑顔の輝夜に急かされて、おずおずとメディスンの前に躍り出た。
誰かに急かされるまでもなく、メディスンには言いたいことが沢山ある。そのためにここにやってきたのだし、ここに来るまでに気持ちの整理はしてきたつもりだった。
どうして永遠亭を出ていってしまったの、だとか。
まだ治りきっていないのだから安静にしなくちゃ駄目よ、だとか。
……メディスンが良ければうちで暮らさない、とかね。
でもそれでは駄目だと、今のメディスンを見て直感した。そんな言い方では、昼間のリフレインになるだけだ。
そもそも、医者の観点から言えば、メディスンの好きなようにさせてあげるのも、悪いことではない。例え最終的にメディスンと一緒に暮らすことになろうとも、気持ちの整理がつくまで放っておくこともメンタルケアには必要なことだ。
そして個人の立場で言えば――メディスンの心の中においそれと踏み込んでよいものなのか、永琳には判断をつけることができずにいた。
ふとメディスンを見てみれば、彼女はこちらのことを見上げていた。固く、そして不安げな表情で。
永琳は口を開いて、しかしすぐに閉じ、また開いてを繰り返す。言いたいことが沢山あるはずなのに、何から言っていいのかわからないのも事実だった。
……だけど。
言わなくてはならない。そのためにここまで来たのだから。
否。そうではないのだ。言わなくてはならないことがあるのではない。
自分は、
……言いたいことが、あるのよね。
ふと輝夜を見ていると、彼女は穏やかに目を弓にして微笑んでいた。
どこかで見た顔だと思い、しかし永琳はすぐに思い出す。この表情は、いつかウドンゲを迎え入れた日にも見たわよね、と。
その笑みの意味を自分は知っている。輝夜は嬉しいのだ。これから、自分達の世界が賑やかになることが。
ならば自分はどうだろう。そう永琳が自問すると、なんだか馬鹿らしさが心の中から浮かび上がってきた。
「……頭を使いすぎるのも良くないわね」
「永琳?」
首をかしげて、メディスンが上目遣いで永琳の様子を窺う。
未だ不安げな顔。何かを期待するような、それでいて何が欲しいのかわからないような、幼い子供のような顔。
だったらそんな彼女に言うべき言葉は、これしかない。
「メディスン、よく聞いて頂戴」
「う、うん」
こくり、とメディスンの小さな顔が上下する。
永琳の胸に、かつて花の異変で出会ったときと同じ感情が去来する。でも今伝えるべきは、それではない。
今、彼女に言いたい言葉は――。
「ねえ、メディスン。メディスン・メランコリー」
「…………」
「私は――私は、貴方のことが好きよ」
「――――」
「だから私達と、暮らしてくれないかしら」
メディスン口が半開きになって、呆けたように表情を失った。
やっぱり拒絶されるかもしれない、と今更心が冷えるのを感じる。そんなことはないとわかっているのに、数千年を超える知恵と経験がそう言っているのに、目の前の結果が出力されることに恐怖を覚える。
――永い時間を生きてきたと言っても、今のような人格が確定したのは随分と最近のことだ。それも、人間や妖怪の基準で言えば途方もない時間ではあるが。
そんな記憶を辿ってみれば、一つのことがわかる。
自分は、自分が好きだと思ったものに、嫌われたことがないのだ。
遥か昔は、知恵を授けてばかりだった。
つい最近には、自分が一番と思った相手から、一番だと思ってもらうことができた。
地上に住み始めてからは家族が増える一方で、事件を起こしたり巻き込まれたりはしたけれど、それでも永遠亭は平和だったのだ。
ああ、だから、もしこの相手に、本当に拒否されてしまったら――。
「……ぁ」
「え、メディスン?」
喉から湧くような声に――メディスンの嗚咽に、はたと我に返る。
「ご、ごめんなさいメディスン。そんなに嫌だった? あ、その」
「ちがうの。ちがうの、永琳」
ぼすん、と膝に衝撃を受ける。気が付けばメディスンが足に抱き着いていて、
「輝夜が言ってたの。永琳は、ずっと私のことを、好きでいてくれるって」
「そ、そんなことを……」
「――ほんとう?」
上目遣いの瞳は、透明に潤んでいた。
後は咄嗟の動きだった。彼女の両脇を救い上げるように抱きしめて、音が出るくらい腕を寄せた。
瞳から零れようとしていたものも、理由の解らない嗚咽も何もかも、胸の中に押し付けるように。
「――本当よ。ずっとずっと、一緒にいましょうね」
「ぁ――」
くぐもった鳴き声は小さくならずにその音量を増して、それでも永琳は暖かいものを感じていた。
そして永琳は改めて周りを見る。この全ての残骸は、きっとメディスンに取って大切なものだったのだろう。彼女も、このままここを去ることは望まないはずだ。
だったら何かの形で供養をしよう。大切なものを、大切だと思ったまま終わらせられるように、彼女の望むように埋葬をしようと永琳は思った。
明け方までには片づけ終わるかしら、と永琳は思考する。それでも心は淀むことはなく、見上げた空のように澄み渡っていた。
◆◆◆
「――というわけで、今日は一日ここで過ごしていってよ。夜は皆で宴会にするからさ」
「私はお茶会と聞いていたんだけどね。夕飯前に帰るつもりだったし」
「しょうがないじゃん? お師匠様もお姫様も小さなお姫様も、みんな寝ちゃってるんだから」
「ふうん。まあ、丸く収まったならそれでいいけどさ」
東から昇る太陽が、永遠亭を照らしていた。
小柄な少女と、少しだけ長身の少女が、静かな廊下を歩いている。
「おかしいと思ったよ。朝食昼寝付きお茶会にご招待、だなんてさ」
「まあまあ。朝ご飯食べたら、兎たちを湯たんぽにしていくらでも寝てていいよ」
「……悪くないな、それ」
「うんうん。姫様もよくやってるからねー」
発した言葉に、長身の少女――妹紅が露骨に眉をひそめたのがわかった。
片方の少女、てゐは、苦笑しながら話を戻す。
「帰る?」
「いや、いい。ああ、輝夜の寝顔を見てやってもいいな。今度話のタネにしてやれるし」
「……うーん、ちょっと本気でやめておいた方がいいかもね」
「そうなのか?」
お前の様な悪戯兎が止めるとは珍しいじゃないか。てゐは、そう言われているような気がした。
「一応私たちのご主人様だからね。泥だらけの姿は見せられないさ」
「ふーん。つまりあれだ、その事実をネタにするだけで、直接拝むのは勘弁してほしいわけだ」
「話が早いと助かるねー」
三人が永遠亭に帰って来たのは、太陽が地上に姿を現して間もない時間だった。
たまたま偶然幸運にも早起きをしていたてゐが玄関で目にしたのは、服も身体も汚れきった三人の姿だった。
供養だとか、埋葬していたとか、お炊き上げって大変なのねとか、要領を得ない回答であったが、つまりは全て解決したらしい。
……めんどうなものだよねー、みんなさ。
「意外と、あんたと姫様の関係が一番シンプルだったりして」
「……どうだろうな。ま、おいおい解決するよ」
根拠はなかったが、その言葉に嘘はないように思えた。
……そう言うからには、まだ解決はしてないってことなのね。
「永い因縁がそう簡単に解れるわけもないか」
「そうそうあっちと違ってな。思うに私も輝夜もめんどくさい奴だが、永琳はもっと面倒だな?」
「あーうん。アレはお師匠様が十割悪いからねー」
などと言っていると、薬剤室の方から床に金属をぶちまけたような音が響いた。数瞬後には足音が廊下に木霊して、てゐと妹紅の鼓膜に届くことになった。
「あー噂をすれば」
「――ちょっとてゐ! なんかお師匠様が変よ!? 突然抱き着かれて頭ぽんぽんされて今まで御免なさいだとかいや別に悪いことはしてないのだけどとか改まって言うのもどうかと思うけど前から貴方のことがとか言い出して嗚呼なんてことお師匠様は精神を病んでしまったんだわ! 言うだけ言って寝に戻ってしまったしやっぱり永遠亭は私がいないと駄目ね!」
「夢でも見たんじゃない?」
「そうよね。お師匠様があんなに優しいわけないわよね。ああよかったじゃあ私今日は人里回りの日だからー」
「薬箱忘れないようにしなよー」
すんと冷静になった鈴仙は鼻歌交じりで外に出かけて行った。どう考えても躁病の気があるが、病を治すのは一般兎たる自分の役目ではないからどうしようもない。
「……やっぱりこっちも時間がかかりそうだねー」
「なんとかしてやったら?」
「いやーアレはアレで見てて面白いからさ」
とんでもないものを見たかのような表情を妹紅が浮かべるが、もはやてゐは気にしないことにした。
……まったくもう。
「みんなもっと素直になればいいのにね、私みたいにさ」
☆☆☆
メディスンは微睡んでいた。
意識はある。それでも身体を起こせないのは、全身が疲労感に支配されているからだ。
昨晩――今朝は随分と身体を使った。永琳も輝夜も手伝ってくれたけれど、二人とも身体が汚れるのを気にすることもなく、我が家だったものを供養してくれた。
二人はどうしているかなと思考を紡いだら、次の瞬間には不思議と瞼が開いていた
「えーっと」
遠くからばたばたと足音が重なり聞こえて、近くからは鳥の囀る声が聞こえる。朝の喧騒を聞き、それでもメディスンはこう思う。静かだな、と。
永琳も輝夜もここにはいなかった。周りを見てみれば、ここが昨日自分が寝かされていた部屋であることに気が付く。
全ては昨日と同じ状況だった。
……ううん。
そうじゃないよね、と心が自然に思う。そしてそのことを心から受け入れていることに、言い知れぬ安堵を覚えた。
ふと外の空気を吸いたくなって、布団から這い出て襖を開けた。太陽の明るさに目が眩みそうになったけれど、それよりもメディスンの気を惹くものがあった。
からん、と襖を開けたとき響く音があったのだ。それは器用にも襖の木枠に取り付けられた、一枚のプレートだった。
そこには、こう書かれていた。
「……“メディスン・メランコリーのおへや”って……」
かわいらしい字体で書かれたそれには、鈴蘭のイラストまで付いていた。
一体誰がいつ書いたのだろう。まさか永琳だろうか。綺麗で落ち着きのあるあの人が、こんなかわいい文字を?
永琳がこれを書いているところを想像したら、思わず笑ってしまった。
これからの生活で、きっと自分はこんな経験を何度もしていくのだろう。永琳の知らない面を知って、その度に笑うことになるのだ。
そんな日々を想像したら、やっぱり笑いが湧き上がってきて、無性に面白かった。
輝夜の言う通り、いつかは自分も死んで永琳とは離れ離れになるのだろう。死んでも閻魔様のところに行けない自分は、きっと永琳とはそれまでだ。
だからそれまでは、精一杯みんなと一緒にいよう。不要になって棄てられて、無言で人間と別れていた時代とは違うのだ。毎日を笑顔で積み重ねて、そうして最期を迎えたら、ちゃんとお別れを言いたいと、メディスンはそう思った。
だからそれまでは、
「――ずっとずっと、一緒にいようね、永琳」
呟いた言葉は朝に消えて。
だけど口元に浮かんだ笑みは、いつまでも消えることはなかった。
毎日身体を預けるベッドも、身体を覆うお布団も、苦労して編んだ花のリースも、いつだって大切な生活の一部だった。
昨日の夜だって、暖かい家で眠れることに感謝しながら床に就いたし。
明日もきっと、幸せな生活が続くと信じていた。そしてこの生活が、永遠に続けばいいのにと思いもしたのだ。
――それになにより、毎日でも会いたいあの人は、いつもすてきであるのだし。
……だけど、
「……どうしよう」
今の私の眼に映るのは、どうしようもなく要らないものばかりだった。
昨日までは大切だったもの。だけどそれらの全ては、ガラクタと化していて。
ベッドは足が砕けて横転しているし、お布団は泥まみれのぐしゃぐしゃで、花飾りに至ってはただのゴミになっていた。
朝焼けの晴天が空しく頭上に広がって、周囲の惨状を照らし出す。大嵐が通り過ぎた鈴蘭畑は荒れ果てて、とても何かが住める場所ではなくなっていた。
動物も、妖精も。そしてもちろん、妖怪も。
――ああ、つまるところ――。
「スーさん、私どうしたらいいのかな」
昨日までは確かにあった我が家は、一晩のうちに失われてしまったのだった。
☆☆☆
八意永琳は急いでいた。
理由は単純で、それ故に天才たる永琳をもってしても容易には解決できないものだった。
……早くあの子のところに行かないと……。
「よりにもよってどうして今日だったのかしら。いえ誰も悪くはないのだけど。でもこんな大手術の日じゃなくてもいいじゃない。ああいえ私が失敗するわけはないのだけど、というか成功はしたのだけど、焦って失敗してないか何度も確認してしまったわ。ああ……」
「……いやお師匠様、何ぶつぶつ言いながら歩いてるのさ」
どこからか現れた因幡てゐが、何故か半目を向けてそんなことを言ってくる。どうして彼女がここにいるかはわからないが、今の永琳に構っている暇はなかった。
「あらてゐ、残念だけど私は見ての通り急いでるの話ならまた今度にして頂戴」
「あの八意永琳をここまで焦らせるなんて何があったんだろうねーと言いたいところだけど、メディスンが寝てる病室はそこの廊下を右だよ」
「む」
言われた通りに交差路を曲がる。元々は入院患者向けの大部屋に向かっていたが、てゐが示したのは個室へと続く道だった。
あそこは死蔵気味だった離れを有効活用した病室で、いつ患者が来てもいいように内装も整えてある。しかしこれまで一度も使用されていないのが現状だ。ちょっとだけお値段高めだけど、環境は良いはずなのに何故。
「いやうちいつも人いないし。個室を選ぶうま味が無いからじゃないかなあ」
長い付き合いとはいえ、この兎は人の心を読んではいけないという常識を知らないらしい。後でお仕置きが必要かもしれない。
「いやさっきから顔に出過ぎだって」
永琳は無視した。
ともあれ、あの子を個室に寝かせているのは良い判断だと永琳は思う。あの子の身体は特殊で、下手をすると毒が垂れ流しになっている可能性もある。力の弱いものならば、命にかかわる毒だ。少ない例外を除けば近づくことさえ危ないだろう。
そう考えていると、その数少ない例外が視界に入って来たのを永琳は認識した。
「お、永琳じゃないか。勝手に入ってるぞ」
「あら妹紅。貴方が良いなら私から言うことは無いわよ」
「ああそれでいい、こっちに向ける言葉があるならあの子に声をかけてやれ」
「……ああ、なるほど」
廊下の向こうから歩いて来たのは、藤原妹紅だった。
「いつもズタズタでみすぼらしい服装がさらにボロボロになってる。つまり貴方があの子を連れて来たのね、毒にまみれながら」
「前から思ってたが、たまに輝夜の奴より辛辣だよなーお前……」
妹紅が何を言っているのかわからないが、とにかく急ぐ必要がある。
「焦ってるみたいだが、あの子の容体は落ち着いてるみたいだぞ。急ぐ必要は無いが……まあ気持ちの問題か。それじゃあな」
ひらひらと手を振りながら、自分たちが来た道を妹紅は歩いていく。
「貸し一つね。今度姫様とのお茶会に招待してあげましょうか」
「いーんじゃない? 二人とも喜ぶよ、内心は。手配しとこうか?」
「え、ああ、そうね。うんなんか適当にやっといて頂戴」
「余裕ないねえ」
などと言っているうちに病室の前まで来た。
冷静に考えると何故てゐが一緒に来ているのかわからないが、熟慮をしている時間は無い。
目の前には襖があって。
部屋の中には布団が敷かれていて。
そこにはあの子が――メディスン・メランコリーが眠っているのだから。
息を整え深呼吸。吸って吐いてをツーセット。胸に手を当て鼓動を確かめたら、部屋に入る準備はできている。
「よし。開けましょうか」
「ねえお師匠様お師匠様、なんか呼吸荒くない?」
自覚はあるのでそういうことは言わないで貰いたい。
◆◆◆
メディスンは微睡んでいた。
意識があるような気もするし、無いような気もする。そう思っていること自体が意識なのだろうけれど、意志が身体を動かしてくれないのもまた事実だ。
身体が動かせないのか、それとも本心では動かしたくないのか。重く体を支配する淀みが、何もかもをわからなくさせている。
今がとても気持ちよくて。
今がとても気怠くて。
ずっとこうしていたいと思うのは、ここが特別な場所だからだろうか。
いつも過ごしている、鈴蘭畑では無くて。
大切な誰かのいる――。
「メディスン、メディスン。入るわよ」
「ふぇ?」
自分のことながら、間の抜けた声がでたなと思う。
口に出した声を認識してしまえば、先ほどまでの微睡みはどこかに消えてしまっていた。
代わりに、
「……永琳、なの? じゃあここは永遠亭?」
頭の中に浮かんでいた姿が、現実としてそこにいた。
「覚えてないのね。貴方、今朝運び込まれたのよ」
「そうなんだ」
まるで記憶が無い。思い出そうとしても、頭がぼやけてはっきりとしない。痛む頭で集中しても、ぼんやりとしたイメージが浮かび上がるだけだった。
……確か、朝起きたら周りがひどいことになっていて、なんとか誰かに助けてもらおうと思って、それで……。
「無理に思い出そうとしなくていいわ。安心して」
「うん。ありがと」
……ああ、永琳はいつも通りすてきね。
声には出さず、心で呟く。
凛とした佇まいの永琳は、記憶の通りの美しさを持っていた。
「……ついさっきのことは思い出せないのに、へんなの」
「なにが?」
「えっと……永琳は、すてきだなって」
「――――」
結局言ってしまった、とメディスンは思う。
何故か言葉を失った永琳を見て、こうも思った。
……私、安心しちゃってるわねー。
人間は自分の敵で。
永琳だって、例外ではないはずなのに。
いつの間にか、すっかりと自分の隣人になっている。
自分の歴史なんてそんなに長くはないのに、それがいつからだったかは思い出せない。どうして永琳は特別なのだろうと思うのだけれど、メディスンはいつも答えを出せないのだった。
「こほん。えーあー、よし。それで、身体はどう?」
「からだ」
言われて気が付く。確か朝は身体が痛かったような気がするのだけど、今はなんの痛みも感じてはなかった。まるで、最初から傷なんて無かったかのように。
「ちょっとだけ、身体に触ってもいいかしら。嫌なら言って頂戴」
「平気よ。ほかの人間には触られたくないけど……永琳になら良いから」
「――もう」
言って、永琳が身体に触れる。
ぽんぽんと頭の上に手が置かれて、髪を撫でられた。安心したような吐息が聴こえたのは、髪が痛んでいなかったからだろうか。そして永琳はポケットから櫛を取り出して、ゆっくりと髪を梳かし始める。
それが終わった後は、頬を撫でられて肌を確かめられた。そのまま首元まで手が下がって、胸元まで辿りついたら一旦停止。
胸板と背中を触られた後に、両手を確かめられた。永琳の手を握れるかなと思ったけれど、直ぐに引っ込んでお腹と足の付け根に行ってしまった。残念。
「……なるほど。元々、外傷は無かったみたいね」
「そうなの?」
「私の手がかぶれなかったということは、そういうことね。既に傷が再生していたとしても、少しは毒が染み出してしまうはずだもの」
自分の身体は人形で、しかし妖怪化している。妖怪ともなれば自然に傷が治ることもあるし、腕や足が丸ごと再生することもある。
永琳の言っていることは、そういうことだろう。だけど、
「うー」
「どうしたの?」
「もし身体から毒が漏れていたら、永琳が痛かったじゃない」
「私なら平気よ。蓬莱人だもの」
「でも、痛いのは、痛いわ」
「……そうね。有り難う」
こちらの言っていることが通じているのかどうなのか。
永琳のこういうところだけは嫌いだ。
同時に、逆の感情を持ちもするのだけど。
「もう。ずるいよね、永琳は」
そこで仕方がなさそうに笑うのも、何を言ったらよいかわからなくなるのでやめて欲しい。
「ああ、もう、誤魔化さないで。もっと自分を大事にしてよね」
その言葉が自分に帰ってくるのはわかっていたけれど。
メディスンは、どうしてもそう言わずにはいられないのだった。
……きっと、こんなに自分を大事にしない人なんて、永琳くらいなんでしょうね。
「とにかく、しっかりと休めば大丈夫そうね。部屋は空いているから、いつまでも寝ていていいわ」
「いつまでも……」
永琳の笑い方が変わって、ぎこちなさの取れた自然なものになる。
きっと心からそう言ってくれているのだろう。そして言葉のあやではなく、本当にいつまでもここにいてよいということなのだろう。
ああ、だけど。
「大丈夫よ、永琳。明日には出ていくから。迷惑はかけないわ」
「でも……」
「いいの、いいのよ」
永琳の表情は変わらなくて、ずっとこちらを笑顔で見つめてくれていた。そのことに胸が痛みはしたけれど、だからといって永琳の言葉を受けれ入れるわけにはいかなかった。
――きっと永琳だって、その感情は永遠に続かないんだから。
だからメディスンは布団をかぶって、永琳の姿が見えないようにした。
……永琳に、ずっと愛される人たちが羨ましいわ。
と、そう思いながら。
◆◆◆
「お、そこにいるのは鈴仙ちゃんじゃないか。元気?」
鈴仙は己の主人に膝枕をされながら、日向の廊下で声をかけられていた。
視線の先にいる白髪の少女――妹紅は、やけに爽やかな笑顔を浮かべており、
「あ、どうも。もう帰るところ?」
「そんなところだ。で、なんで鈴仙ちゃんは輝夜に膝枕されてるんだ?」
「……なにかしら妹紅。私はイナバと戯れるのに忙しいのだけど」
「ゆっくりしてたところなら邪魔して悪いな。ちょっと輝夜の奴をからかいに来ただけだから構わないでくれ」
「へえ、本人を無視するとはいい度胸ね」
「はあ……」
と、吐息しながら鈴仙は項垂れた。
貴重な休日の使い道として、姫のお誘いで日向ぼっこをしていたのは正しい選択だったように思う。しかしどうやらそれも終わりを告げそうだ。数分後には片づけをしなければならないのだろう――この二人が会うということは、そういうことだった。
二人が交わす言葉は剣呑なようにも思える。後に続く結果を想像すれば尚更だ。しかし一方で、鈴仙は不思議と言葉の棘を感じ取ることができなかった。
……なんというか、変わったわよねーこの二人も。
今の二人を見ていると、昔は殺し合いをしていたことが嘘のように思えた。
正直なところ、無意味なことをよくするわと思ったことが無いと言えば嘘になる。それでも、そんな時間を過ごしてきたからこその今なのだろう。
そんなことを鈴仙が思っていると、見上げた先の姫が妹紅へと言葉を返す。
「妹紅貴方ね。わざわざちょっかいを出しに来るなんて、見上げた根性してるじゃない。鈴仙をなでなでして幸せいっぱい夢いっぱいの私を動揺させられるとでも思ったの?」
「永琳があの人形の子に御熱心なんだってな」
「……………………うん。そうみたいね」
「あの輝夜様、マジトーンで落ち込むのやめません?」
言うが通じない。姫はこちらの身体を持ち上げるように抱えて、本気かどうかわからない鳴き声を出す。
「うー、だって永琳ったら酷いのよ? これで二回目よ? 私というものがありながらー」
「二回目って……ああ、なるほど」
半眼になった妹紅がこちらを見てくるが、何のことだかわからない。
……私から見たら、お師匠様と輝夜様は昔から変わらず仲が良いようにしか見えないんだけど。
よくわからないが、本人にしか感じ取れない何かがあるのだろう。たぶん。
「はあ……永琳……」
「……いや悪かったって。ほら、機嫌治せって。一回私殺しとくか? いっとく? な?」
「血がしぶくのでやめてください」
こんなところで殺人が起こったら、血を拭きとるのも、死体を片付けるのも、自分がやらなくてはならないのでとても困る。最近は自動で燃え尽きてくれるので血が垂れないこともあるが、それはそれで後処理が手間なのだ。
「……それで、どうなのよ」
「どうって?」
「人形の子。大丈夫なの?」
今朝方、妹紅がメディスンを運び込んだらしいと兎たちから聞いていたが、どうやら本当だったようだ。
「心配はいらないよ。竹藪の入り口で拾ったときはどうなることかと焦ったけどね。精神が弱ってたのか毒が漏れ出してたけど、身体は無事だ。漏れ出した分は私がおっかぶったから、もう触っても平気だろうさ」
「へえ、案外弱い毒なのね。折角だから一回殺してくれればよかったのに」
「それが思ったより強力な毒でな。ここに来る途中で一回身体を乗り換えてきた。いやーオカルトがまだ使えて助かるな、自分で燃やす手間が省ける」
「あーそれ廊下が焦げ付くのでやめて欲しいんだけど―」
まあまあと妹紅が言って誤魔化すが、仕事が増えたという事実に変わりはない。
……あー、やっぱり今日も働かないと駄目かなー。
「ま、あの子は無事だが……暫くはここに泊めてやったほうがいいだろうな」
「あら、それはどうして?」
「うわごとで言っていたんだけどな、家が無くなってしまったんだと」
いつかの異変で会った頃のメディスンは、どこにも属さない野良妖怪だったはずだ。どこかに定住してるという話も聞かない以上、家も何も持っていないものだと思っていたが、
「小屋でも見つけて住み込んでたのかなー」
「かもな。で、昨日の嵐で何もかも吹っ飛んじゃったってことらしい」
「なるほど」
昨晩は幻想郷でも珍しいほどの大嵐だった。雨風と雷の音を聞きながら、立派なお屋敷がこんなにも頼もしいとはと感じたことが記憶に新しい。
「少しは心配だが、まあ大丈夫だろう。永琳が診るなら尚更な」
「メディスンも災難ねー。野良妖怪は大変だわ」
「そうねー。一緒に暮らしましょうか」
……おや。
「なあ輝夜、今なんか二段階くらい飛ばさなかったか?」
「そうですよ輝夜様。まずはメディスンを一時的に泊めてあげようって話では?」
揃えて疑問を口にする。しかし姫は、
「いいの、いいの。だって私、永遠亭の主だもの。私がいいと言ったらいいのよ」
「それはまあ、そうだろうが……」
……こっちに困惑の眼を向けられても困るのよねー。
鈴仙は妹紅の視線を見なかったことにした。姫様のことは好きだけれど、だからといって内心を推し量るほど通じてはいないのだ。残念なことに。
「いい妹紅? 私は前から思っていたのよ、永琳はもっと素直になるべきってね」
「はあ」
「愛情表現の仕方というか、行動力はあるのに思いを伝えるのが下手っていうか、そういうところがあるのよ」
「あー、まあ、そうだな」
「……輝夜様、それに妹紅も、どうしてこっちを見てるので?」
言えば二人は視線を交わして、申し合わせたように溜息をつく。
「ああ、輝夜の言いたいことはわかったよ。お前の言う通りだ」
「でしょー? 私が思うに、永琳はあの人形の子がお気に入りなのよ。色々気を遣ってるから言い出せないだけで、きっと一緒に暮らしたいはずだわ」
「話が見えないですけど、お師匠様に気に入られるなんてメディスンが羨ましいわ。……だからその溜息はなんなんですか!?」
……もー、なんなのよー。
「うーん。あの人形の子は大丈夫なのか? 二の舞を踏む永琳ではないだろうが、流石に不安になって来たぞ」
「うーん。あの子もあの子で不安なのよねー」
「乗りかかった船だし、何か手伝ってやろうか?」
「ダメダメ、私に懐く前に妹紅に懐いたら大変だもの」
「はいはい」
相変わらず仲が良いのか悪いのかわからない二人を尻目に、鈴仙はただ思う。永遠亭の住民が増えるのは良いけれど、どうせ自分の仕事が減ることはないのだろうと。それを思うと、自然に溜息が出てきてしまう。
「……はあ。でも輝夜様いいんですか? なんというかその、さっきまでメディスンのことで落ち込んでましたけど」
「いいのよいいの。永琳が私から離れてしまうのは寂しいけれど、新しい出会いは歓迎すべきよそうなのよ。よよよ」
「なーにがよよよだ、嘘泣きは似合わないぞ」
「嘘泣きじゃーなーいーわー」
「うーんちょっとイラッと来た。よーしやるか」
「上等よー」
「なんだかなあ」
再び項垂れると同時、鈴仙は自分の身が解放されたことを悟る。
なんだかんだと喧嘩を始めた二人を見ながら、鈴仙は片付け時間の算出に入ったのだった。
◆◆◆
「……メディスンと一緒に暮らす、ね」
永琳は暗闇の中、蝋燭の火を頼りに診療録を書いていた。
月を技術を持ち出すまでもなく、文明の灯りを用意することはできる。しかし気分を出したいときは、やはり自然の火に限る。今朝行った手術の結果を記述しながら、永琳はただ手を進めた。
思考をしなくても作業は進む。複雑な手術だった故時間がかかると思っていたが、一刻とかからず書き上がってしまった。
「うん、ミスはないわね」
二度見直して作業終了。診療録をファイリングしてしまえば、今日の予定は全て完了だ。
仕事の終わった永琳の思考は、瞬く間にプライベートへと切り替わる。
……さて、どうしたものかしら。
夕食の席で輝夜から提案されたのは、メディスンを永遠亭に住まわせようという話であった。
いつのまにかウドンゲやてゐにも話は伝わっていて、知らないのは自分だけのようだった。確かに自分は夕食の直前までメディスンの様子を見ていたが、自分の与り知らぬところで手が回りすぎだとは思う。
輝夜の提案にウドンゲが恨めしそうな顔を浮かべていたが、あれはなんだったのだろう。気が緩んでいるとしたらいけない、今度厳しく注意しなければ。
「勿論私としては大歓迎なんだけど」
気にかかるのは、先刻のメディスンの様子だ。一緒に暮らすならばともかく、怪我が治るまで此処にいてよいという提案すら受け入れないとは予想外だった。
ふと時計を見てみれば、既に日が変わってから大きく時間が経っていることに気が付く。
……ええと、これを書くのにそんなに時間はかかってないわよね。
日付が変わる頃に書き始めた事実を考慮すれば、如何に自分がぼうっとしていたかが浮かび上がってくる。作業を始めるまでが長い人はいるものだが、これは我ながら度が過ぎる。
「それだけ、あの子のことが気になってしまっているのかしらね」
あと数刻もしないうちに決断をして、メディスンに告げなければならない。
気が重いわけではない。提案を蹴られたからといって、それで自分たちの関係が壊れるわけではない。これからも友人として――向こうがそう思ってくれているかはわからないが――の関係が続くだけなのだから。
しかし一方で、メディスンの言葉に胸が苦しさを覚えたのは事実だ。嫌なことが待っているかもしれないという可能性を恐れて行動が鈍るほど、永琳は子供ではない。それでもどこか、心にまとわりつく何かがあるのは無視できない現実だった。
重ねて永琳は思う。どうしたものかしらと。
――と。
「あれ、お師匠様。まだ起きてたんだ」
てゐだった。部屋から漏れる光を気に留めたのだろう。半開きのドアを僅かに開いて、彼女は軽くそう言った。
「ええ、今日は事務処理を後に回してしまったから」
「ふーん。まあしょうがないか、別のことで頭がいっぱいだったもんね」
「メディスンのことは関係ないでしょう――あ」
「うんうん。私、まだメディスンのことだって言ってないよ?」
くすり、とてゐは音を立てる。
悪戯兎の彼女にして、嫌味の無い笑いだった。
「お師匠様のことだから、それで仕事に支障をきたすってことはないだろうけどさ。それでも周りから見たらおかしいってわかるから、もう少し気を付けたら?」
「……私、そんなにおかしかった?」
「うん。いつもより二回は鈴仙への注意が少なかったし、姫様への受け答えに関しては三秒も遅くなってたからね。さすがにわかるよ」
「そ、そう」
自覚は全くなかったが、果たして本当だろうか。てゐは意味のある嘘も無い嘘も吐くタイプなので、真偽は解らない。ひょっとすると、てゐなりに元気づける為の冗談なのかもしれない。
「まあ、メディスンにはちゃんと伝えた方がいいんじゃない? 例の提案」
「それはそうなのだけどね。昼間あの子に断られちゃった後だから、言いにくいのよ」
「……そんなこと言ってたっけ? ずっと寝てていいとか、そんなことしか言ってなかったような」
「……盗み聞きしてたわけ?」
「おっと藪蛇。そろそろ私は寝るから、もう一度メディスンの様子でも見てきたら? じゃあねー」
言うだけ言って、てゐは姿をくらましてしまった。ドアを開いてみても、既にそこには誰もいなかった。
……全く。
蝋燭の炎を吹き消して、月明かりを頼りに廊下を歩く。行先はてゐの部屋――ではなく、メディスンの寝ている離れだった。
てゐの言葉に感化されたわけではないが、メディスンの様子は一度見ておく必要があるように思えた。決して自分がメディスンのことばかり考えているということはないのだが、てゐの忠言を無碍にするのは憚られるように思えたのだ。
木張りの廊下を踏む音だけが耳に届く。深夜の冷たい空気が肌を震わせ、思考を明敏に変えていく。
――メディスンがあんなことを言ったのは、何故だろうか。確かにメディスンの敵は人間で、必要以上の馴れ合いを避けているのは確かだ。
だけど一方でこうも思う。あの花の異変で出会ったとき、メディスンが自分に懐いてくれたのは事実だろう、とも。
それとも鈴仙の言う通り彼女は危険な妖怪で、こちらに取り入っていただけだったのだろうか。しかしメディスンはこうして自分を頼ってきてくれて――。
「……駄目ね。心の領域だけは、未だ解き明かせないわ」
思い返して見れば、ウドンゲを受け入れたときだって自分は何もしなかった。ウドンゲから頼み込んで来たことと、輝夜が即座に了承したことで、自分が介入する余地が無かったこともある。今ではウドンゲも自分に懐いてくれているものの、こちらの気持ちが伝わるまで時間がかかりすぎたとも思う。
メディスンに対しては、さて――。
「あ」
考えを巡らすうちに、いつの間にか部屋の前に着いていた。月光は冷たく襖を照らしていて、当然ながら自動で空いてはくれない。
襖を開くのに躊躇をする必要はない。彼女はぐっすりと寝ているはずで、今この時間は、単に様子を確かめるだけのものなのだから。そこに会話は発生しないし、決断することは何もない。ただ開いて、姿を見ればいいだけだった。
にもかかわらず、永琳の手は動かなかった。どうしてと疑問する余地もない。メディスンから拒絶を――そう、あれは拒絶と呼ぶべきものだ――を受けた記憶が、想起されたからに違いなかった。
「はあ、何やってるのかしら私」
部屋に入るにしろ、踵を返すにしろ、呆けている時間はただ無駄な時間だ。そのことがわかっているのに、永琳にはどちらの選択もすることができないでいた。
ひとまず襖に手をかけてみる。それでもやはり、それ以上は動けない。だが、
……あら?
近づいて、気が付いたことがある。襖が、半開きになっているのだ。
夕方部屋を出たときには、しっかりと襖を閉めたはず。隙間風が吹かないようにしなくてはと、意識的に閉めた記憶が確かにある。なら――。
「――まさか」
もはや躊躇もなく、永琳は襖をあけ放った。
そうして目に入った部屋の中には一式の布団が――布団だけが置かれていた。
「――――」
部屋の中に畳んであった、メディスンの洋服も無くなっていた。彼女が自分の意志でここを抜け出したのは、明らかだった。
思考よりも早く身体が動いていた。メディスンの行先は解っている。間違いなく、彼女の家があった鈴蘭畑だ。数度しか行ったことがないが、場所は覚えている。暗闇の中でも問題なく辿りつけるはずだ。
一瞬で上空に躍り出て、方角を確認して空を翔ける。そうなれば、後は飛び続けるだけ。そうして余裕のできた頭に、自答が響く。
どうして――自分は何か、彼女に悪いことをしてしまったのか。
身を切る大気が身体の熱を奪っていく。それでも心の冷え方に比べたら、幾分とマシなように思えた。
永遠のように思える時間とはこういうことを言うのかと、頭の冷静な部分が分析をしていた。
鈴蘭畑は遠くて、すぐには姿を現さないようだった。
◆◆◆
「ほんとう、ひどいありさまね」
メディスンは壊れた家の前に佇んでいた。
雲一つない空は月の光をよく通す。とはいえ、照らすものがこんなものでは、月も報われないと思う。
今朝、呆然とここに突っ立っていたことを思い出す。当然ながらそのときから何も状況は変わっていなかった。屋根はどこかへ吹き飛び、部屋の中は一日経ってなお水浸しだ。
到底人の住める場所ではなかったし、妖怪だとしても棲み家に選択する者はいないだろう。それはメディスンも例外ではない。ほんの少し前までは野ざらしで生活していたことを考えれば、贅沢な話だった。
家屋自体は勿論のこと、家具も何もかも使い物にはならないだろう。それは、棄てなければならないということで――その事実は、メディスンの心に暗い影を落とす。
明日から――否、今日からどこに住むかはまだ決めてはいない。それでもこの残骸たちは、自分の手で埋葬しなければならないように思えた。
土葬か火葬か。どちらにせよ手のかかるのは間違いがない。一人で行っていたら、今日中に終わるかは怪しいところだ。
それでも、メディスンは一人でやるしかなかった。だって、
……永琳のところを抜け出してきちゃったもんね。
どうしてそんなことをしてしまったのだろう。別に日が昇ってから、永琳に挨拶してから帰ってきてもよかったのに。
メディスンは、そう心の中で問う。しかしその答えは、既に察しがついていた。
「永琳とずっといると、人間を好きになってしまいそうだもの」
勝手な言葉だな、とメディスンは思う。永琳に近づいたのは自分からなのに。昨日だって自分で永琳のところに行ったのに。
閻魔様に言われて、知見を広げる為に永琳と交友を持とうと思った。そして自分の味方を作って、目標の為の糧になればいいと、そう思いもした。
にも関わらず、メディスンは心にざわつきを覚えていた。これ以上永琳と一緒にいたら、自分が自分でなくなってしまうようだと。
「……もし永琳が、ずっと私のことを……」
言葉の後は続けられなかった。それを言ったら、きっと心の底から望んでしまいそうだったから。
――と。
「あら、こんなところにいたのね」
「――え」
背後から声がかけられた。
永琳かな、とメディスンは思った。それは何の根拠もない、反射的な思考だった。
けれどもそこにいたのは、
「あ、ええと、貴方は……」
「そういえば、ちゃんと挨拶したことなかったわね」
彼女が笑いをこぼしたことが、気配でわかった。
その彼女は、月を背後に地上に降り立って、
「私は輝夜。蓬莱山輝夜。――ええ、永遠亭の主人よ」
永琳から、永遠亭には主人たるお姫様がいると聞いたことがあった。そしてメディスンは知っている。この人が、永琳の大切な人であることも。
「貴方が永遠亭を出ていくのが見えてね。つい、ついてきちゃったの。お隣いいかしら?」
「う、うん」
輝夜は着物の裾が大地に擦れるのにも構わず、自分の隣に並び立った。
何が物珍しいのか、鈴蘭畑を見渡して、興味深そうにしていた。
……へんだけど、きれいな人。
「あの、輝夜さん」
「呼び捨てでいいわ。永琳にもそうしているのでしょう?」
「じゃ、じゃあ輝夜」
「なあに?」
「こんなに遅い時間なのに、どうして私のことを見つけられたの?」
時計こそ見ていなかったが、既に日が変わっていることくらいはメディスンにもわかっている。この人がお姫様なのならば、とっくに寝ていてもおかしくはない時間だった。
「貴方のことを皆から聞いていてね。前から一度会いたいと思っていたから、お布団から抜け出して、お忍びで来ちゃったのよ」
「みんなが、私のことを?」
「ええ。心配だとか、気になるとか……可愛いとかってね」
「……ほんと?」
「勿論。あ、最後のは永琳が言ってたのよ」
それは前にも言われたことがある。最初に出会ったとき、こう言われたのだ。
……こんな可愛いお人形をって……。
「永琳、まだそう思ってくれてたんだ」
「それはそうよ。私から見ても、貴方は可愛いもの」
「そう、なのかな――って」
輝夜は尚も笑いながら、何も言わずにこちらの頭に手を伸ばす。
……だ、駄目っ。
「輝夜っ、私に触ると――」
「大丈夫よ。私、永琳と同じだもの」
輝夜の動きは止まらず、そのまま頭に触れて髪を撫でる。今朝と比べて毒は出ていないはずだけれど、それでも鈴蘭畑の毒を補充したことで、少しは人間の身体に有害な影響がでるはずだ。
だけど輝夜は気にしたふうもなく、ゆっくりと手を動かしていた。
……もしかして輝夜も、蓬莱人なのかな。
「良かった。嵐に巻き込まれたと聞いていたけど、髪は傷んでないのね」
「ええと……私は妖怪だから、身体も髪も少しくらいは再生するのよ。それに……」
「それに?」
「永琳に、梳かして貰ったから」
「もしかして照れてる? 貴方聞いてた通り可愛いのねー」
「わわっ」
そのまま輝夜は抱きしめるように、こちらの身体を腕で包んだ。その綺麗な衣が、毒に濡れるのもどうでもいいことかのように。
「これ以上は駄目よ、輝夜。痛みが大きくなるわ」
「でも、永琳もこうしていたでしょう?」
「永琳は、痛いけど、平気だって言ってたわ。でも――」
「そう、だから大丈夫よ。――言ったでしょう? 私も、永琳と同じだものって」
とんとんと、輝夜に小さな背中を叩かれた。
「痛いのなんて、全然気にならないわ。だってそれより、貴方が永琳の元を出ていってしまったことの方が気になるもの」
「――――」
輝夜はこう言ったのだ。永遠亭を出ていってしまったのではなく、永琳の元を出ていってしまった、と。
「……話してくれる?」
「……だって永琳が優しすぎるんだもの」
メディスンは思う。人間は自分の敵で、永琳も誰も人間であれば敵なのだと。永琳に近づいたのだって、仲間を増やす以上の理由は無かった。
だけどこうも思うのだ。永琳と一緒にいると暖かいし、自分は――ひょっとすると永琳だって、二人で一緒にいたいと思っているのかもしれないと。
「あら、優しすぎるのは駄目?」
「駄目よ駄目、駄目なのよ。だってそうしたら、本当に永琳を――好きになってしまうもの」
言葉を聞いた輝夜が、軽く笑いをこぼす。それは嫌味のない軽く息を落とすような笑いで、
「いいのよ、好きになっても。だって永琳は素敵だもの」
「駄目なの、それだけは」
「どうして?」
「だって――」
妖怪になる前のことはぼんやりとしか覚えていない。でもきっと昔の自分は、自分の持ち主のことを好きでいたはずだ。
それでも今自分が人間を嫌いな人形でいるということは、
「――いつか永琳も私のことを、嫌いになってしまうかもしれないもの。そうしたら私、耐えられないわ」
そんなことはない、と心は言う。永琳は優しくてすてきで、きっといつまで経っても、好きでいることができるはずだ。
それでも――それでも、どうしても頭が納得してくれないのだ。
「だから、だからね。もう少しだけ距離を取りたいの。もう少しだけ心が落ち着いたら――」
「ふふ。それこそ駄目よ」
「え?」
「だって、私達の命は不滅だけど、貴方は常命だもの。一秒でも永く一緒にいなければ、損してしまうわ?」
ウインクさえして、輝夜は言った。
……一秒でも、永くいたいって。
「いい? 貴方は永琳に嫌われることはないの。ずっと、ずっとね」
「……どうして、そんなことが言えるの?」
そうねえ、と輝夜は唇に指を当てて、
「千三百年前。ううん、もっと前からだったかしら」
「え?」
「そのくらいからずっとね、私は――永琳に愛されているの」
「ずっと、って」
意味が解らなかった。蓬莱人は死なないと聞いていたけれど、そんなにも生きていけるなんて。それに、そんなにも永い時間続いていく関係性が、メディスンには想像がつかなかった。
「でも、別の物が好きになって、飽きられたり……しないかな?」
「ないない。大丈夫よ」
言い切られた。それは確信しているというよりも、当然の事実を述べているかのような口調だった。
そして輝夜は、
「永琳も私も、好きなものは増えるけど、好きなものはずっと好きだもの。二人とも昔からずっとそうだから、今では永遠亭も賑やかだわ」
「……じゃあ」
「ええ。貴方はこれから、死ぬまで愛されるの――永遠の姫が、保証するわ」
まん丸の月を背した輝夜は、どこまでも穏やかな表情だった。
それは純粋で、疑うことを知らないかのような、無垢な表情にも見える。でもきっと違うのだろう。この姫は、
……永い時間を生きて、経験して、その上で、そう思っているんだよね。
「私――」
「さあ、私がなにかを言えるのはここまでね。これ以上話していたら、盗み聞きしようとしている誰かさんに嫉妬されてしまうもの」
「え?」
困惑していると、背後の小屋の残骸から僅かに物音が鳴った。
きゃ、という声が聞こえたのははたしてメディスンの気のせいだろうか。
数瞬の間が空いて、時間が流れた。そうした後にゆっくりと物陰から姿を現したのは、
「え、永琳。来てたの……?」
◆◆◆
永琳は戸惑っていた。
……どうして輝夜がここに?
数百年ぶりに全力で空を飛び、やっとの思いで辿りついた鈴蘭畑には先客がいた。風の音に紛れて何を話しているのかはわからなかったが、輝夜が笑っている様子だけは雰囲気でわかった。そして、メディスンが戸惑いの感情を得ていることも。
そうして永琳自身さえも戸惑っているうちに、輝夜からせっつかれるようにして物陰から出る羽目になったのだ。
「ほらほら永琳、なにぼーっとしてるのよ。言うべき言葉があるでしょう?」
笑顔の輝夜に急かされて、おずおずとメディスンの前に躍り出た。
誰かに急かされるまでもなく、メディスンには言いたいことが沢山ある。そのためにここにやってきたのだし、ここに来るまでに気持ちの整理はしてきたつもりだった。
どうして永遠亭を出ていってしまったの、だとか。
まだ治りきっていないのだから安静にしなくちゃ駄目よ、だとか。
……メディスンが良ければうちで暮らさない、とかね。
でもそれでは駄目だと、今のメディスンを見て直感した。そんな言い方では、昼間のリフレインになるだけだ。
そもそも、医者の観点から言えば、メディスンの好きなようにさせてあげるのも、悪いことではない。例え最終的にメディスンと一緒に暮らすことになろうとも、気持ちの整理がつくまで放っておくこともメンタルケアには必要なことだ。
そして個人の立場で言えば――メディスンの心の中においそれと踏み込んでよいものなのか、永琳には判断をつけることができずにいた。
ふとメディスンを見てみれば、彼女はこちらのことを見上げていた。固く、そして不安げな表情で。
永琳は口を開いて、しかしすぐに閉じ、また開いてを繰り返す。言いたいことが沢山あるはずなのに、何から言っていいのかわからないのも事実だった。
……だけど。
言わなくてはならない。そのためにここまで来たのだから。
否。そうではないのだ。言わなくてはならないことがあるのではない。
自分は、
……言いたいことが、あるのよね。
ふと輝夜を見ていると、彼女は穏やかに目を弓にして微笑んでいた。
どこかで見た顔だと思い、しかし永琳はすぐに思い出す。この表情は、いつかウドンゲを迎え入れた日にも見たわよね、と。
その笑みの意味を自分は知っている。輝夜は嬉しいのだ。これから、自分達の世界が賑やかになることが。
ならば自分はどうだろう。そう永琳が自問すると、なんだか馬鹿らしさが心の中から浮かび上がってきた。
「……頭を使いすぎるのも良くないわね」
「永琳?」
首をかしげて、メディスンが上目遣いで永琳の様子を窺う。
未だ不安げな顔。何かを期待するような、それでいて何が欲しいのかわからないような、幼い子供のような顔。
だったらそんな彼女に言うべき言葉は、これしかない。
「メディスン、よく聞いて頂戴」
「う、うん」
こくり、とメディスンの小さな顔が上下する。
永琳の胸に、かつて花の異変で出会ったときと同じ感情が去来する。でも今伝えるべきは、それではない。
今、彼女に言いたい言葉は――。
「ねえ、メディスン。メディスン・メランコリー」
「…………」
「私は――私は、貴方のことが好きよ」
「――――」
「だから私達と、暮らしてくれないかしら」
メディスン口が半開きになって、呆けたように表情を失った。
やっぱり拒絶されるかもしれない、と今更心が冷えるのを感じる。そんなことはないとわかっているのに、数千年を超える知恵と経験がそう言っているのに、目の前の結果が出力されることに恐怖を覚える。
――永い時間を生きてきたと言っても、今のような人格が確定したのは随分と最近のことだ。それも、人間や妖怪の基準で言えば途方もない時間ではあるが。
そんな記憶を辿ってみれば、一つのことがわかる。
自分は、自分が好きだと思ったものに、嫌われたことがないのだ。
遥か昔は、知恵を授けてばかりだった。
つい最近には、自分が一番と思った相手から、一番だと思ってもらうことができた。
地上に住み始めてからは家族が増える一方で、事件を起こしたり巻き込まれたりはしたけれど、それでも永遠亭は平和だったのだ。
ああ、だから、もしこの相手に、本当に拒否されてしまったら――。
「……ぁ」
「え、メディスン?」
喉から湧くような声に――メディスンの嗚咽に、はたと我に返る。
「ご、ごめんなさいメディスン。そんなに嫌だった? あ、その」
「ちがうの。ちがうの、永琳」
ぼすん、と膝に衝撃を受ける。気が付けばメディスンが足に抱き着いていて、
「輝夜が言ってたの。永琳は、ずっと私のことを、好きでいてくれるって」
「そ、そんなことを……」
「――ほんとう?」
上目遣いの瞳は、透明に潤んでいた。
後は咄嗟の動きだった。彼女の両脇を救い上げるように抱きしめて、音が出るくらい腕を寄せた。
瞳から零れようとしていたものも、理由の解らない嗚咽も何もかも、胸の中に押し付けるように。
「――本当よ。ずっとずっと、一緒にいましょうね」
「ぁ――」
くぐもった鳴き声は小さくならずにその音量を増して、それでも永琳は暖かいものを感じていた。
そして永琳は改めて周りを見る。この全ての残骸は、きっとメディスンに取って大切なものだったのだろう。彼女も、このままここを去ることは望まないはずだ。
だったら何かの形で供養をしよう。大切なものを、大切だと思ったまま終わらせられるように、彼女の望むように埋葬をしようと永琳は思った。
明け方までには片づけ終わるかしら、と永琳は思考する。それでも心は淀むことはなく、見上げた空のように澄み渡っていた。
◆◆◆
「――というわけで、今日は一日ここで過ごしていってよ。夜は皆で宴会にするからさ」
「私はお茶会と聞いていたんだけどね。夕飯前に帰るつもりだったし」
「しょうがないじゃん? お師匠様もお姫様も小さなお姫様も、みんな寝ちゃってるんだから」
「ふうん。まあ、丸く収まったならそれでいいけどさ」
東から昇る太陽が、永遠亭を照らしていた。
小柄な少女と、少しだけ長身の少女が、静かな廊下を歩いている。
「おかしいと思ったよ。朝食昼寝付きお茶会にご招待、だなんてさ」
「まあまあ。朝ご飯食べたら、兎たちを湯たんぽにしていくらでも寝てていいよ」
「……悪くないな、それ」
「うんうん。姫様もよくやってるからねー」
発した言葉に、長身の少女――妹紅が露骨に眉をひそめたのがわかった。
片方の少女、てゐは、苦笑しながら話を戻す。
「帰る?」
「いや、いい。ああ、輝夜の寝顔を見てやってもいいな。今度話のタネにしてやれるし」
「……うーん、ちょっと本気でやめておいた方がいいかもね」
「そうなのか?」
お前の様な悪戯兎が止めるとは珍しいじゃないか。てゐは、そう言われているような気がした。
「一応私たちのご主人様だからね。泥だらけの姿は見せられないさ」
「ふーん。つまりあれだ、その事実をネタにするだけで、直接拝むのは勘弁してほしいわけだ」
「話が早いと助かるねー」
三人が永遠亭に帰って来たのは、太陽が地上に姿を現して間もない時間だった。
たまたま偶然幸運にも早起きをしていたてゐが玄関で目にしたのは、服も身体も汚れきった三人の姿だった。
供養だとか、埋葬していたとか、お炊き上げって大変なのねとか、要領を得ない回答であったが、つまりは全て解決したらしい。
……めんどうなものだよねー、みんなさ。
「意外と、あんたと姫様の関係が一番シンプルだったりして」
「……どうだろうな。ま、おいおい解決するよ」
根拠はなかったが、その言葉に嘘はないように思えた。
……そう言うからには、まだ解決はしてないってことなのね。
「永い因縁がそう簡単に解れるわけもないか」
「そうそうあっちと違ってな。思うに私も輝夜もめんどくさい奴だが、永琳はもっと面倒だな?」
「あーうん。アレはお師匠様が十割悪いからねー」
などと言っていると、薬剤室の方から床に金属をぶちまけたような音が響いた。数瞬後には足音が廊下に木霊して、てゐと妹紅の鼓膜に届くことになった。
「あー噂をすれば」
「――ちょっとてゐ! なんかお師匠様が変よ!? 突然抱き着かれて頭ぽんぽんされて今まで御免なさいだとかいや別に悪いことはしてないのだけどとか改まって言うのもどうかと思うけど前から貴方のことがとか言い出して嗚呼なんてことお師匠様は精神を病んでしまったんだわ! 言うだけ言って寝に戻ってしまったしやっぱり永遠亭は私がいないと駄目ね!」
「夢でも見たんじゃない?」
「そうよね。お師匠様があんなに優しいわけないわよね。ああよかったじゃあ私今日は人里回りの日だからー」
「薬箱忘れないようにしなよー」
すんと冷静になった鈴仙は鼻歌交じりで外に出かけて行った。どう考えても躁病の気があるが、病を治すのは一般兎たる自分の役目ではないからどうしようもない。
「……やっぱりこっちも時間がかかりそうだねー」
「なんとかしてやったら?」
「いやーアレはアレで見てて面白いからさ」
とんでもないものを見たかのような表情を妹紅が浮かべるが、もはやてゐは気にしないことにした。
……まったくもう。
「みんなもっと素直になればいいのにね、私みたいにさ」
☆☆☆
メディスンは微睡んでいた。
意識はある。それでも身体を起こせないのは、全身が疲労感に支配されているからだ。
昨晩――今朝は随分と身体を使った。永琳も輝夜も手伝ってくれたけれど、二人とも身体が汚れるのを気にすることもなく、我が家だったものを供養してくれた。
二人はどうしているかなと思考を紡いだら、次の瞬間には不思議と瞼が開いていた
「えーっと」
遠くからばたばたと足音が重なり聞こえて、近くからは鳥の囀る声が聞こえる。朝の喧騒を聞き、それでもメディスンはこう思う。静かだな、と。
永琳も輝夜もここにはいなかった。周りを見てみれば、ここが昨日自分が寝かされていた部屋であることに気が付く。
全ては昨日と同じ状況だった。
……ううん。
そうじゃないよね、と心が自然に思う。そしてそのことを心から受け入れていることに、言い知れぬ安堵を覚えた。
ふと外の空気を吸いたくなって、布団から這い出て襖を開けた。太陽の明るさに目が眩みそうになったけれど、それよりもメディスンの気を惹くものがあった。
からん、と襖を開けたとき響く音があったのだ。それは器用にも襖の木枠に取り付けられた、一枚のプレートだった。
そこには、こう書かれていた。
「……“メディスン・メランコリーのおへや”って……」
かわいらしい字体で書かれたそれには、鈴蘭のイラストまで付いていた。
一体誰がいつ書いたのだろう。まさか永琳だろうか。綺麗で落ち着きのあるあの人が、こんなかわいい文字を?
永琳がこれを書いているところを想像したら、思わず笑ってしまった。
これからの生活で、きっと自分はこんな経験を何度もしていくのだろう。永琳の知らない面を知って、その度に笑うことになるのだ。
そんな日々を想像したら、やっぱり笑いが湧き上がってきて、無性に面白かった。
輝夜の言う通り、いつかは自分も死んで永琳とは離れ離れになるのだろう。死んでも閻魔様のところに行けない自分は、きっと永琳とはそれまでだ。
だからそれまでは、精一杯みんなと一緒にいよう。不要になって棄てられて、無言で人間と別れていた時代とは違うのだ。毎日を笑顔で積み重ねて、そうして最期を迎えたら、ちゃんとお別れを言いたいと、メディスンはそう思った。
だからそれまでは、
「――ずっとずっと、一緒にいようね、永琳」
呟いた言葉は朝に消えて。
だけど口元に浮かんだ笑みは、いつまでも消えることはなかった。
とてもやさしい小さな勇気を見させていただきました
とにかく丁寧な造り込みが永琳とメディスンのみならず他のキャラたちの魅力も引き出していたように感じました
もう書いてあるけど過程が書かれてるのがすごく良いと思いました キャラの行動にちゃんと命が吹き込まれてるので世界に入りやすかったです
永メディというCPの存在は知っていましたが完全に初見でして、読み始めの頃はどう話に入り込めばいいのか迷ってしまったものです。ですが、丁寧な心情描写により読み進めていく内に彼女達が抱える気持ちを理解することができ、この温かな物語に入り込むことが出来ました。優しい、そんな一言が相応しい話でした。