「ただいま、神霊廟は留守にしております。ピーという発信音の後に、お名前と、ご用件をどうぞ……ぴーーーーー……!」
「……やっぱり、いいです」
秦こころは後ろを向いた。留守電というシステムを知らないこころには心の準備ができなかったらしい。
「待てぇい!」
宮古芳香が時代劇めいた大げさな声で呼び止める。せっかくがんばって覚えた先の台詞を無駄にはしたくなかったので。
「用事があるから来たのではないのか。たしかお前は、えーと……ととろでしたっけ?」
「……こころです。秦こころ」
「おおそうじゃ。それそれー」
ぺろっと舌を出して間違えちゃったアピールする芳香。このキョンシーはどこまでを素で動いているのか、何度か面識があるこころも未だに測りかねている。
面霊気の秦こころは、読んで字の如くお面から生まれた妖怪、付喪神である。
そんな彼女の元となったお面を作ったのがここ、神霊廟の主たる豊聡耳神子だ。最初こそ騒動はあったが両者の仲は良好と言える。(美的センスから生まれたすれ違いを除いて)
せっかく生まれたからには人の生を謳歌したい彼女が、本日の修業件遊び場に選んだのがここだった。ただそれだけだ。
「今日は芳香だけなの? 青娥さんはどうしたの? 置いてかれたの?」
「質問は一つずつにしろ! 追い付けない!」
「ああごめん。そうだったよね、芳香って……」
「五七五で哀れむのもやめろぉー!」
芳香が噛みつくぞと言わんばかりに歯をガチガチと鳴らす。
「今日は私だけ! 青娥は屠自古と幻想郷の外へお買い物! 私は留守番を任された! 報告は以上です!!」
何だかんだこころの質問にきっちりと答えきる律儀なキョンシーであった。
「あ、はい、ご丁寧にどうも」
「私の頭脳だってあっぷでーと?はされているのだ。旧時代のコンピューター並みと言われたこともあったが、九五式ウインドウズ?くらいには」
無論こころは外の世界のオペレーションシステムなど知らないが、この様を見る限りでは古い機械なのは変わってないな、と判断した。
「神子と布都は?」
なので芳香のメモリに配慮して質問は単純に。
「知らんが、あの二人が揃って出かけたら演説かデートだろーなあ。バカ殿とアホの子でお似合いじゃわ」
「あー、そんなの言っていけないんだー。ご主人様に言ってやろー」
「…………はえ?」
芳香が、私は死体なので自分が何を言ったかなんて覚えてないし自分の意志ではありません、という表情を浮かべた。
口からくすくすと息が漏れるこころの頭に、にこやかなおかめの面が取り付く。彼女は表情が硬すぎる代わりにお面で感情を表現するのだ。表情は豊かだが体が硬すぎる芳香とは対称的だ。
「ん……でえ、今日はどうした。お面の修理ですか?」
芳香の口調はどうも安定しない。芳香本来の人格とキョンシーとしての人格が、彼女の腐った脳内でぶつかり合っているせいだろうか。
「んー……お寺のご飯が物足りなくなってきたからこっちで修行しようと思って。あっち野菜と豆腐ばっかりなんだもん」
「わかるぞーわかるぞー。精進だか何だか知らんが、人はお肉を食わんと元気にならんよなあ」
「だよねーだよねー」
こころも何となく芳香に合わせて喋ってみる。これはこれで楽しいなと思えた。
「ところでえーと、あれ? 出会ったのにやらんのか、アレ。三兄弟の団子をかけて戦えー、ってやつ?」
「……最強の称号をかけて戦え、ですか?」
「あ、はい。それです」
こころも今のは我ながらよく閃いたなと自画自賛する。幻想郷の外でもある程度歳を取った人間でないとわからないボケ方だったのだが、こころがそんな事など知る由もない。
「あれは一時の勢いでやってた事だから。今はちょっともう恥ずかしいので勘弁してください」
「そうかー……お前も大人の階段を登ってしまうのだなぁ……」
子供は羞恥心を覚えて大人になっていく。悪く言えばつまらなくなるのだ。いつまでも幼稚なままでいい芳香はちょっぴり寂しさを覚えた。
「それにいろんな人と戦って話してる内にちょっとわからなくなっちゃった。最強って何なのかなって」
「最強とは最も強いと書く。イングリッシュで言うとストロンゲスト。わかるかー?」
「スト、ロンゲ……? ううん、そういう事じゃなくて、戦っても最強って決まらないなーって思ったの。だってどんなに勝っても、自分が一番強いかなんてわからないんだもん」
アゴに手を当てて考える人のお面がこころの頭に貼り付いた。本体もお面と全く同じポーズで考え込む。
「ねえ、芳香の思う最強ってなに?」
「むむ? 青娥を想う気持ちじゃ。これだけは我こそが最強だと自信を持って言えるぞぉ」
「芳香はそうだろうね。じゃあ最強の称号が相応しいのは誰だと思う?」
「もちろん青娥に決まってるわ。青娥は誰にも負けんのじゃ」
何から何まで青娥。芳香の心は感情を読むのが得意なこころでなくとも非常にわかり易い。
「あの人、戦って勝ってる姿を見たことないよ。いっつも負けるか負けそうになったら逃げるかのどっちかじゃない?」
「ぬぁにー? お前にはわからんようじゃの。勝者とは最後まで立っていた者の事を言うのだ。だから青娥は千四百年余ずっと勝ち続けている。参ったか」
「ええとそれは……戦いでは勝っても先に寿命が来たら負け、って事ですか? そんなのずるいと思う」
「ズルではない。どれだけ立派に死んでもな、死んでは駄目なのだ。死ぬのだけはな」
芳香は目を閉じて静かに、それでいて力強く語った。目の前のこころに向けてではなく、自分自身への自戒を込めて。
こころはずっと、芳香とそれを使役する青娥の事を良く思っていなかった。もっとも死体を連れ回す人物など、こころに限らず嫌われるのは当然だ。
さりとて、話してみれば芳香はちょっと不気味だけどいい子で、青娥の事を強く慕っていると知った。大事に使われた道具は時として運命的に持ち主を救うこともある。付喪神の一種であるこころが芳香に感じた想いもそれだった。
故に、こころも邪仙だとかは『それはそれ』として、以前よりも悪い感情を抱かなくなった。それはそれとして、やっぱり邪仙は邪仙なので困らされる事も多いのだが。
「ふむー……納得いかないか? ならば他の奴らにも聞いてみたらいいんじゃないかー?」
「他の奴ら? 最強の答えなんて教えてくれるかなあ」
「わからん! だが聞かなきゃ何もわからん!」
「それは、そうかもしれない」
時として道化の方が常人よりも真理に迫るとも言うが、これに関しては当たり前の事を言っているだけである。
しかしここで芳香と話していても最強には近づけないのも明らかだ。
「覚悟はできたか? さあ行くぞぅ!」
「……え、芳香も行くの? お留守番が居なくなっちゃうよ?」
「いやぁ、私が居なくても変わらん!」
それはまあ、脳が腐った門番なんて何の役にも立たないかもしれないけれどと、こころですら身も蓋もないなと思った。
「……青娥さんから怒られても知らないよ?」
「それは……たしかに! ちょっと私のポッケにある札を我が耳に貼ってくれるかぁ?」
「ポッケ? はいはい、わかったよ」
こころは芳香のスカートから端っこが見えていたお札をつまみ上げた。その札には『手礼本』と達筆で書かれている。
「ぴぽぱっぴぷぺっ。ぷるるるるる! ぷるるるるるる! がちゃ!」
札を貼られた途端、芳香がビクンと震えながら奇声を上げた。
『もしもし、青娥でございます。どちらさまでしょうか?』
「……芳香、声真似が上手だね」
「私に話しかけるな! 回線が切れる!」
芳香が必死の形相で唾を飛ばした。よくはわからないが大変らしい。
『もしもし? 私は正真正銘の青娥娘々ですよ。その声はこころちゃんよね。芳香のテレホン機能を使ってまでどうしたの?』
どうやら芳香と札を介して青娥と声が繋がっているようだ。だったら素直にスマホでも持たせればいいじゃんという意見もあるだろうが、仙術で同様の事を可能にするのが青娥的に重要なのだ。ただ、スピーカー部分が芳香の肉声なので、いかんせん単なる頭のおかしい人にしか見えないのが難点である。
「えっと……最強を知るための勉強に行くんですけど、芳香も一緒にいいですか?」
『うん、最強を知る? ちょっと待って……うん、そういう事ね。芳香で良ければ連れてってあげてくださるかしら』
青娥は突拍子もないこころの質問を勝手に解釈してくれた。あるいはさっさとお買い物に戻りたくて深く考えずに言っているだけかもしれないが。
「ありがとうございます。それじゃあ連れていきますので」
『ちゃんと私の許可を得てから行くんだから偉いわ。お土産は肉まんと焼売のどちらがいいかしら?』
「いいんですか? じゃあ、焼売で」
『りょうかーい。キヨーケンに寄って帰るわね』
「がちゃ!」
芳香がウキウキな声で通話を終了した。お土産で心が弾んだからであるのは言うまでもない。
「許可が出て良かったなー! では、出発!」
「おー。それで、どこへ行けば……」
「ぷるるるる! ぷるるるるる!」
再び芳香がベルの音真似をする。それにしても元詩人だったおかげか、巻き舌がとても上手い。
『もしもし? 最強は良いのだけど、二人はどこに行くのか決めているのかしら?』
術者本人だから当然だが青娥からもかけられるらしい。電話に出られる相手が不確定なのでほぼ折り返し専用になってしまうが。
「あ、はい。それを今から考えるところだったんです」
『そうよねえ、どう考えても行きあたりばったりよねえ。だからね、娘々が道を示してあげようと思います』
青娥がある一つの場所の名前を挙げる。そこはまさしく最強に相応しい頂に位置する場所であった。
◇
その日、冥界の庭師・魂魄妖夢の心には、正体不明のもやもやが巣食っていた。
しかし悩む暇など無いほど妖夢の一日は忙しい。
朝目覚めては自身の身だしなみをそそくさと済ませ、朝から二合をぺろりと平らげる主の為に一日分の米を炊く。
食事が済んだら彼女らが住むだだっ広い白玉楼の掃除と庭園の手入れ。一応、妖夢以外にも亡霊の従者が居るには居るが、総動員でも午前だけでは終わらない。
そうこうやっているとまた主に食事を与える時間がやってくる。ここでも米二合、それにお嬢様の肥えた舌を満足させる程度のおかずが数種類要求される。満たさないとその日はおやつの要求頻度が増える。
食事が済んだら再び庭の掃除、そして自身の剣術の稽古も欠かさない。稽古はなるべく主から離れた場所で行うことにしている。おやつの催促や意味不明の謎かけなどで妨害されるからだ。
日が暮れたら夕餉の用意。寝てる間は食べないからと、ここでは一食で三合の米が消失する。そして満たされた主が横になった後にようやく妖夢の心休まる時間がやって来る。入浴を済ませ、積み上げた書物を寝床で読み漁り、眠気に襲われたところで一日終了だ。
そんな妖夢の胸の内にあったもやもやの元凶は、彼女が剣術の稽古でもするかと箒から刀に得物を変えた直後に訪れたのである。
「久しぶりだのう、こんにゃくホーム!!」
死者の世界に全くそぐわない馬鹿でかい声が白玉楼に響き渡る。これには妖夢も二重の理由で頭を抱えた。
「芳香、違う違う。この人はこんぱくヨームさん……で、合ってるよね?」
「……合ってるわ。でも貴方達がここに居るのは間違いなく間違いね。ううん、半分は正解かしら」
妖夢もいろいろな人妖と斬り結んできたが、若干例外気味のプリズムリバー三姉妹を除けば自分から冥界を訪れる死者は今回が初めてだ。
「そっちの死体は昔斬り捨てたわね。今日は復讐にでも来たの? だけどお前の主はもっと青かったような気がするわ」
「違います。私達はその青い人からここに行くといいって言われたんです」
「斬られた事もあったけど、我々は元気です!」
傀儡である芳香と一緒に来たとなれば保護者扱いされるのはもちろんこころだ。青娥の代わりと思われるのだけは勘弁願いたかった。
「ここは気まぐれで来るような所じゃないわね。道場破りかしら。それとも、まさかとは思うけど異変の調査?」
妖夢は正眼の構えで楼観剣を握りしめる。前者後者どちらにしても戦闘は避けられないからだ。本来は異変の調査で切り合う必要など全くないのだが。
「最強って何ですか? 教えてください」
磨き抜かれた鋭い銀の光を放つ剣先が、中段から下段にまで垂れ下がった。目を煌めかせて飛び出たその質問はあまりにも無邪気すぎて、かつ妖夢にとっても永遠の難題であったから。
・ ・ ・
「……はあ、つまり邪仙の差し金でここに来たと」
庭の隅、漆喰の壁に背中を預け、こころはこれまでの経緯を妖夢に説明した。芳香の電話機能の件はややこしくなるので伏せて。
「そうです。そういえば妖夢さんもほんのちょっとだけ青娥さんに弟子入りしてた事があるんですよね?」
「うう、思い出させないでください……」
確かに、自分に天与の才があると思い込んで付け髭などで仙人を気取った事がある。主から後で散々にからかわれて、妖夢の多感な年頃の心に消えない傷が残った。
「生きるとはぁ、己の恥との戦いだ。強くなれ、半分死体の剣士よ」
「死体じゃなくて幽霊。全部死体のお前と一緒にしないで」
太古の時代のキョンシー、すなわち死人の大先輩とはいえ、恥の概念が全く無さそうな人物にだけは言われたくなかった。
ただし、妖夢も芳香が死を恐れている事は知っている。かの神霊異変の時に『死ぬのだけはいかん』という本能の呟きを聞いたのは他でもない彼女だ。
「わからないことは斬って知れ、と私のお師匠様は言ってたわ。貴方も薙刀を使うようだし、一つ交えてみる?」
「あ、そういうのはいいです。それでわからないから来たんですし」
「そ、そう……」
聞けば霊夢、聖、神子の三人を同時に相手したほどの無謀っぷりらしいのに。妖夢はがっくりと肩を落とした。
「子供の質問だぞ。気楽に答えれば良いぞ。お前の思う最強とは誰ぞや。その師匠かぁ?」
子供っぽいくせに爺臭い芳香の言。腐った脳から絞り出される言葉を真に受けても仕方ないが、妖夢は頭の中で祖父の在りし日の姿を思い浮かべた。
「そうだなあ……おじいちゃん、じゃなくてお師匠様は今でも全く勝てる気がしないぐらい強かった。出来れば最強であってほしかったけど」
「けど、って事はもっと強い人がいるんですか? 誰だれ?」
こころは興味津々に顔を寄せる。
「幽々子様。主には絶対勝てない、従者とはそういうものなんだって」
「ふぉー、それは正しい。私も青娥が最強だと思っとるからなー!」
同志が見付かったと芳香は自慢気に胸を張る。
「だがお前。最強は誰かと問われたら自分! 師匠! 主! このどれかがパッと出ないようではまだまだじゃな。何か迷っとるんじゃないか?」
「ぐっ……」
妖夢の言葉が詰まる。迷いはある、というよりも迷いまくりだ。どれだけ修行しても化け物だらけの幻想郷では相対的に強くなった気がしないし、幽々子とその友人は何を言ってるのかさっぱりわからないし、いつぞや畜生霊に憑依されて以来自分の性格もブレだしたような。それは元からか。
「でもでも芳香ぁ、みんながそんな事言ったら最強なんて人の数だけ増えちゃうよ?」
「あー? この世界に強いヤツがどれだけ居ると思う。その中から一番なんて選べるものかー!」
「……さっきは青娥さんが一番だって言ったじゃん」
「そうだ! 考えるのがバカらしいから自分の一番が最強なのだ!」
この芳香の主張を聞いて、こころと妖夢の両名は全く同じ事を考えていた。
じゃあどうして私達(この二人)はわざわざ白玉楼にまで来たのだろうと。青娥は何を期待してここに向かわせたのだろう、と。
「ひとつはっきり言えるのはぁ、今の迷走しているお前ならば私でも勝てるということだ……たぶん!」
「はあ、そうですか」
せっかく挑発されたのに、妖夢は今ひとつ乗り切れない。というのも相手が真意を図りきれないとぼけた死体の、おまけに素手だからだ。それに一度は勝っている。どうせ戦うからには緊張感のある相手が欲しかった。
「なんじゃーその態度はあ! 刀を抜けオーム、一発勝負だあ!!」
「オウムなのはお前よ、鳥頭。まあ体を動かしたいのはこちらも同じだし、いいわ。あんたの主に針と糸の準備をしてもらいなさい!」
どうせ一人で修行をするつもりだった。ぶった切っても死なず、動いて攻撃してくるのだから巻藁を相手に竹刀を振るよりは練習になる。妖夢はそう判断した。
「いいぞー、やれやれー、血を見せろー!」
こころが無表情で雑なエールを送る。彼女の頭に付いたひょっとこ面は、薄暗くて青白い冥界の景色に飽いて鮮やかな朱を求めていた。
「いざぁ!」
いざ、勝負。
掛け声と共に芳香が目を光らせて飛びかかった。
一方で妖夢は、抜けという芳香の言葉に反し、刀の柄に手を置いたまま腰を落とした。つまり居合の構えを取ったのだ。
芳香の攻撃は単純だ。近づいて、爪で引っかき、噛み付く。それも猛獣のような荒々しさなら驚異となり得るが、彼女の場合は腕をだらしなく伸ばして襲いかかるため、ボディがガラ空きだ。芳香の強みは不死を生かした種族通りのゾンビアタックがあってこそ。今回のように一本取れば勝ちの形式ではひたすらに不利であろう。
したがって、妖夢が剣を収めたまま向き合った理由はある種のハンデだ。居合で相手を斬るのはイメージよりも遥かに難しい。しかし経験を積まねば格上の相手に成功させるなど夢のまた夢。
妖夢にとってのこれは、単純に突っ込んでくるだけの芳香の胴に的確な一太刀を叩き込めるかという自分との勝負だった。
「シュワッ!!」
「……っ!?」
しかしここで芳香が予想外の動きを取る。
腕を体にぴったり付け、頭から一直線に。さながら鮫の如く、牙を前面に出しての突進!
「ふ、しッ!!」
されど妖夢の太刀筋は変わらない。ただ攻撃対象が胴から面に変わっただけのこと。芳香はわざわざもっと痛い目に遭う体制になったに過ぎない。
タイミングは、完璧だ。妖夢の峰打ちが芳香の顔面に迫る!
ギィン! という鋭い金属の振動音が白玉楼に響き渡った。
それは芳香の頭蓋骨が砕けた音──ではない。
「し、し……!」
歯だ。
「白刃取りだぁ~!!」
こころが二枚の扇を手に、その場でやんややんやと回る。
妖夢が抜き放った白刃は、芳香の歯でがっちりと受け止められてしまったのだ。
「ふっ……まだやるか?」
芳香は唾液にまみれた刀をぺっと吐き出して妖夢を見下ろした。まだも何も、まだ一太刀目を受けられただけだ。真っ当にやり合えばいずれは芳香が負ける。だが、完全に勝てると思っていた相手にこんな奇策を成された以上、妖夢から出る言葉は一つしかなかった。
「お、お見事、です……」
一本。物理ではなく、精神的に。
不死に近い体を持つ彼女達にとって、骨よりも心をへし折られる方が何倍も辛いのだ。
妖夢はわなわなと震えながら膝を付いた。
◇
「いやー、何度も練習して良かったぞー! あれなー、未だに三回に一回くらいしか成功しないんだぞ」
「あんなの練習してるの? 芳香の所はちょっとおかしいよね。今更すぎるけど」
「私の後輩なんかなー、失敗して頭がサイコロステーキみたいになった奴もいてな? 治すのも大変だから青娥からそれはもう怒られた怒られた!」
「へー」
こころは頭の能面と同じように曖昧な表情で適当に聞き流した。
キョンシーみんなで顔面白刃取りの練習だなんて、絶対に深く考えてはいけないやつだ。こころはそう判断した。
「うぉ? おいコラァ! 元気出せ妖夢ぅ!!」
妖夢は体育座りで足元をずっと見つめていた。そんな妖夢に芳香は乱暴な慰めの言葉をかける。
こころは一つ確信したことがある。追い打ちの絶好の機会だったのに。ああ、やっぱりこのキョンシーはわざと間違えて呼んでいたのだな、と。
「私なんて、私なんて所詮は召使い。幽々子様のお口にずっとおにぎりを放り込んでるのがお似合いなんです……」
「それもどうかと思うな」
こころはそれもどうかと思った。いろいろと面倒臭くなって、思ったことがそのまま言葉になりだしている。
「心配せずともお前は強い。この芳香ちゃんが保証してやるぞ。世界一強い青娥のキョンシーのお墨付きだ。自身を持てぇ!」
「そうだよ。誰が見ても妖夢の方が強いよ。強いから格下の相手に勝たせてあげる余裕があったんだよね? そうでしょ?」
「……そうかな、そうかも」
妖夢はわりとあっさりと立ち直った。この単純さも強さの秘密なのだろうか。
「何はともあれ、お見事でした。芳香は強いし、その主である邪仙も強かった。実際に戦って打ち勝ったこの魂魄妖夢が言うんだから間違いありません。私以外にで勝てる者はそうそう現れないでしょう」
芳香と妖夢は妙な自信に満ちた顔で互いを認めあった。
こころの脳裏に一人の妖精が飛来する。ここまでを見てきた彼女が確かだと思えたことは、バカは強がる、だった。
「ちょっとぉ、面白い事を私抜きでやるなんてずるいわよー」
ふんぞり返っていた妖夢の口がへの字に曲がる。むしろ抜きでやっていたからこそ面白かったのに。
「……幽々子様、おはようございます」
「おはよう~。お二人さん、せっかく来てくれたのにお昼寝中でごめんなさいね」
「いえいえこちらこそ、急に来ちゃってすみません。秦こころといいます」
「すまんせん! 宮古芳香です!」
こころと芳香は幻想郷の作法に則って深々とお辞儀をした。
「あら、そういえばお話するのは初めてだったわね。西行寺幽々子と申します。妖夢と遊んでくれてありがとうねー」
「どういたしましてだぞー」
「……ん?」
こころは気が付いてしまった。
「西行寺? サイギョウジ……サイギョウ……」
まさか、そんな。いい年こいた大人がこんなくだらない事で人を冥界に行かせるものか。いや、あいつはいい年こいてくだらない事ばかりする駄目な大人じゃないか。
浮かび上がった疑念を晴らすにはもう本人に聞くしかない。こころは芳香のポケットからお札を乱暴に取り出して、その耳に叩きつけた。
「っつう、わっ」
ビクンと震える芳香の頭を掴み、耳元に口を寄せる。
「もしもし。もしもし? おい青娥……さん。聞こえていたら応答しやがれください」
『ッラッシャアセェエエエエエ!! ィマオヒヤオモチシマァアアアアアキィィィィィィィ!!!』
芳香が本日最高の爆音で奇声を上げた。
『おいハウってるぞ! 音量下げろ! もっ、もっ、待っへ屠自古はん、もっ、いま飲み込むから…………もしもし? 騒がしくてごめんねこころちゃん、どうしミソイッチョォオオオオ! ああもう! インプット最低にして……どうしたの?』
「……どこで何やってるんですか? ううん、そんな事はどうでもいい。青娥さんが言ってた白玉楼で見つかる最強って西行……」
「あらー? もしかして向こうに繋がってるのって外のご飯屋さんかしら?」
幽々子が話を遮ってこころの横に顔を並べた。三人の頭が三密状態である。
芳香のテレホン機能など知っているはずがないが、妙なところで察しが良い幽々子は瞬時に状態を判断したらしい。
「もしもしー? チャーシュー麺の大盛りねぎだくつゆだくのニンニクマシマシでお願いできるかしら?」
『牛丼と混ざってますわよ。うふふ、お話するのは千年ぶりぐらいでしょうか。本当にお久しぶりですね、西行寺様』
「あら、私の友人にラーメン屋はいないはずだけど」
『仙人の友人もいないでしょう? 霍青娥と申します。まずはうちのキョンシーとその友人を突然向かわせた無礼、心からお詫び申し上げます』
「それよりお腹に溜まるものがいいわ。今ってどこのお店でも乳母逸? とかお持ち帰りが主流なのよね? 紫が言ってたわ」
『かしこまりました。西行寺様の分も含めていろいろと持ち込むので隙間のお方にもよろしくとお伝えくださいましね』
「妖夢さん、理解できますか?」
「いいえ、まったく」
青娥in芳香と幽々子が二人で大盛り上がりしている様を、こころと妖夢が遠くから眺めていた。
会話が一歩、二歩飛びの空中戦すぎて追い付けない。察する能力に長けた者同士の会話は常人には早すぎたのだ。
「ただ、一つ理解できたことはあります」
「はい、どうぞ」
「理解できない人には敵わない。そういう意味であの人達は最強です」
「貴方もここで働いてみる? 最強の主と最強の友人が迎えてくれるわよ」
なるほど。こんな最強のお世話をしているから、妖夢がとりあえずぶった切る侍になってしまったんだな。
理解すると同時に、こころは全力で首を横に振った。
こころの最強への道はまだ遠い。
「……やっぱり、いいです」
秦こころは後ろを向いた。留守電というシステムを知らないこころには心の準備ができなかったらしい。
「待てぇい!」
宮古芳香が時代劇めいた大げさな声で呼び止める。せっかくがんばって覚えた先の台詞を無駄にはしたくなかったので。
「用事があるから来たのではないのか。たしかお前は、えーと……ととろでしたっけ?」
「……こころです。秦こころ」
「おおそうじゃ。それそれー」
ぺろっと舌を出して間違えちゃったアピールする芳香。このキョンシーはどこまでを素で動いているのか、何度か面識があるこころも未だに測りかねている。
面霊気の秦こころは、読んで字の如くお面から生まれた妖怪、付喪神である。
そんな彼女の元となったお面を作ったのがここ、神霊廟の主たる豊聡耳神子だ。最初こそ騒動はあったが両者の仲は良好と言える。(美的センスから生まれたすれ違いを除いて)
せっかく生まれたからには人の生を謳歌したい彼女が、本日の修業件遊び場に選んだのがここだった。ただそれだけだ。
「今日は芳香だけなの? 青娥さんはどうしたの? 置いてかれたの?」
「質問は一つずつにしろ! 追い付けない!」
「ああごめん。そうだったよね、芳香って……」
「五七五で哀れむのもやめろぉー!」
芳香が噛みつくぞと言わんばかりに歯をガチガチと鳴らす。
「今日は私だけ! 青娥は屠自古と幻想郷の外へお買い物! 私は留守番を任された! 報告は以上です!!」
何だかんだこころの質問にきっちりと答えきる律儀なキョンシーであった。
「あ、はい、ご丁寧にどうも」
「私の頭脳だってあっぷでーと?はされているのだ。旧時代のコンピューター並みと言われたこともあったが、九五式ウインドウズ?くらいには」
無論こころは外の世界のオペレーションシステムなど知らないが、この様を見る限りでは古い機械なのは変わってないな、と判断した。
「神子と布都は?」
なので芳香のメモリに配慮して質問は単純に。
「知らんが、あの二人が揃って出かけたら演説かデートだろーなあ。バカ殿とアホの子でお似合いじゃわ」
「あー、そんなの言っていけないんだー。ご主人様に言ってやろー」
「…………はえ?」
芳香が、私は死体なので自分が何を言ったかなんて覚えてないし自分の意志ではありません、という表情を浮かべた。
口からくすくすと息が漏れるこころの頭に、にこやかなおかめの面が取り付く。彼女は表情が硬すぎる代わりにお面で感情を表現するのだ。表情は豊かだが体が硬すぎる芳香とは対称的だ。
「ん……でえ、今日はどうした。お面の修理ですか?」
芳香の口調はどうも安定しない。芳香本来の人格とキョンシーとしての人格が、彼女の腐った脳内でぶつかり合っているせいだろうか。
「んー……お寺のご飯が物足りなくなってきたからこっちで修行しようと思って。あっち野菜と豆腐ばっかりなんだもん」
「わかるぞーわかるぞー。精進だか何だか知らんが、人はお肉を食わんと元気にならんよなあ」
「だよねーだよねー」
こころも何となく芳香に合わせて喋ってみる。これはこれで楽しいなと思えた。
「ところでえーと、あれ? 出会ったのにやらんのか、アレ。三兄弟の団子をかけて戦えー、ってやつ?」
「……最強の称号をかけて戦え、ですか?」
「あ、はい。それです」
こころも今のは我ながらよく閃いたなと自画自賛する。幻想郷の外でもある程度歳を取った人間でないとわからないボケ方だったのだが、こころがそんな事など知る由もない。
「あれは一時の勢いでやってた事だから。今はちょっともう恥ずかしいので勘弁してください」
「そうかー……お前も大人の階段を登ってしまうのだなぁ……」
子供は羞恥心を覚えて大人になっていく。悪く言えばつまらなくなるのだ。いつまでも幼稚なままでいい芳香はちょっぴり寂しさを覚えた。
「それにいろんな人と戦って話してる内にちょっとわからなくなっちゃった。最強って何なのかなって」
「最強とは最も強いと書く。イングリッシュで言うとストロンゲスト。わかるかー?」
「スト、ロンゲ……? ううん、そういう事じゃなくて、戦っても最強って決まらないなーって思ったの。だってどんなに勝っても、自分が一番強いかなんてわからないんだもん」
アゴに手を当てて考える人のお面がこころの頭に貼り付いた。本体もお面と全く同じポーズで考え込む。
「ねえ、芳香の思う最強ってなに?」
「むむ? 青娥を想う気持ちじゃ。これだけは我こそが最強だと自信を持って言えるぞぉ」
「芳香はそうだろうね。じゃあ最強の称号が相応しいのは誰だと思う?」
「もちろん青娥に決まってるわ。青娥は誰にも負けんのじゃ」
何から何まで青娥。芳香の心は感情を読むのが得意なこころでなくとも非常にわかり易い。
「あの人、戦って勝ってる姿を見たことないよ。いっつも負けるか負けそうになったら逃げるかのどっちかじゃない?」
「ぬぁにー? お前にはわからんようじゃの。勝者とは最後まで立っていた者の事を言うのだ。だから青娥は千四百年余ずっと勝ち続けている。参ったか」
「ええとそれは……戦いでは勝っても先に寿命が来たら負け、って事ですか? そんなのずるいと思う」
「ズルではない。どれだけ立派に死んでもな、死んでは駄目なのだ。死ぬのだけはな」
芳香は目を閉じて静かに、それでいて力強く語った。目の前のこころに向けてではなく、自分自身への自戒を込めて。
こころはずっと、芳香とそれを使役する青娥の事を良く思っていなかった。もっとも死体を連れ回す人物など、こころに限らず嫌われるのは当然だ。
さりとて、話してみれば芳香はちょっと不気味だけどいい子で、青娥の事を強く慕っていると知った。大事に使われた道具は時として運命的に持ち主を救うこともある。付喪神の一種であるこころが芳香に感じた想いもそれだった。
故に、こころも邪仙だとかは『それはそれ』として、以前よりも悪い感情を抱かなくなった。それはそれとして、やっぱり邪仙は邪仙なので困らされる事も多いのだが。
「ふむー……納得いかないか? ならば他の奴らにも聞いてみたらいいんじゃないかー?」
「他の奴ら? 最強の答えなんて教えてくれるかなあ」
「わからん! だが聞かなきゃ何もわからん!」
「それは、そうかもしれない」
時として道化の方が常人よりも真理に迫るとも言うが、これに関しては当たり前の事を言っているだけである。
しかしここで芳香と話していても最強には近づけないのも明らかだ。
「覚悟はできたか? さあ行くぞぅ!」
「……え、芳香も行くの? お留守番が居なくなっちゃうよ?」
「いやぁ、私が居なくても変わらん!」
それはまあ、脳が腐った門番なんて何の役にも立たないかもしれないけれどと、こころですら身も蓋もないなと思った。
「……青娥さんから怒られても知らないよ?」
「それは……たしかに! ちょっと私のポッケにある札を我が耳に貼ってくれるかぁ?」
「ポッケ? はいはい、わかったよ」
こころは芳香のスカートから端っこが見えていたお札をつまみ上げた。その札には『手礼本』と達筆で書かれている。
「ぴぽぱっぴぷぺっ。ぷるるるるる! ぷるるるるるる! がちゃ!」
札を貼られた途端、芳香がビクンと震えながら奇声を上げた。
『もしもし、青娥でございます。どちらさまでしょうか?』
「……芳香、声真似が上手だね」
「私に話しかけるな! 回線が切れる!」
芳香が必死の形相で唾を飛ばした。よくはわからないが大変らしい。
『もしもし? 私は正真正銘の青娥娘々ですよ。その声はこころちゃんよね。芳香のテレホン機能を使ってまでどうしたの?』
どうやら芳香と札を介して青娥と声が繋がっているようだ。だったら素直にスマホでも持たせればいいじゃんという意見もあるだろうが、仙術で同様の事を可能にするのが青娥的に重要なのだ。ただ、スピーカー部分が芳香の肉声なので、いかんせん単なる頭のおかしい人にしか見えないのが難点である。
「えっと……最強を知るための勉強に行くんですけど、芳香も一緒にいいですか?」
『うん、最強を知る? ちょっと待って……うん、そういう事ね。芳香で良ければ連れてってあげてくださるかしら』
青娥は突拍子もないこころの質問を勝手に解釈してくれた。あるいはさっさとお買い物に戻りたくて深く考えずに言っているだけかもしれないが。
「ありがとうございます。それじゃあ連れていきますので」
『ちゃんと私の許可を得てから行くんだから偉いわ。お土産は肉まんと焼売のどちらがいいかしら?』
「いいんですか? じゃあ、焼売で」
『りょうかーい。キヨーケンに寄って帰るわね』
「がちゃ!」
芳香がウキウキな声で通話を終了した。お土産で心が弾んだからであるのは言うまでもない。
「許可が出て良かったなー! では、出発!」
「おー。それで、どこへ行けば……」
「ぷるるるる! ぷるるるるる!」
再び芳香がベルの音真似をする。それにしても元詩人だったおかげか、巻き舌がとても上手い。
『もしもし? 最強は良いのだけど、二人はどこに行くのか決めているのかしら?』
術者本人だから当然だが青娥からもかけられるらしい。電話に出られる相手が不確定なのでほぼ折り返し専用になってしまうが。
「あ、はい。それを今から考えるところだったんです」
『そうよねえ、どう考えても行きあたりばったりよねえ。だからね、娘々が道を示してあげようと思います』
青娥がある一つの場所の名前を挙げる。そこはまさしく最強に相応しい頂に位置する場所であった。
◇
その日、冥界の庭師・魂魄妖夢の心には、正体不明のもやもやが巣食っていた。
しかし悩む暇など無いほど妖夢の一日は忙しい。
朝目覚めては自身の身だしなみをそそくさと済ませ、朝から二合をぺろりと平らげる主の為に一日分の米を炊く。
食事が済んだら彼女らが住むだだっ広い白玉楼の掃除と庭園の手入れ。一応、妖夢以外にも亡霊の従者が居るには居るが、総動員でも午前だけでは終わらない。
そうこうやっているとまた主に食事を与える時間がやってくる。ここでも米二合、それにお嬢様の肥えた舌を満足させる程度のおかずが数種類要求される。満たさないとその日はおやつの要求頻度が増える。
食事が済んだら再び庭の掃除、そして自身の剣術の稽古も欠かさない。稽古はなるべく主から離れた場所で行うことにしている。おやつの催促や意味不明の謎かけなどで妨害されるからだ。
日が暮れたら夕餉の用意。寝てる間は食べないからと、ここでは一食で三合の米が消失する。そして満たされた主が横になった後にようやく妖夢の心休まる時間がやって来る。入浴を済ませ、積み上げた書物を寝床で読み漁り、眠気に襲われたところで一日終了だ。
そんな妖夢の胸の内にあったもやもやの元凶は、彼女が剣術の稽古でもするかと箒から刀に得物を変えた直後に訪れたのである。
「久しぶりだのう、こんにゃくホーム!!」
死者の世界に全くそぐわない馬鹿でかい声が白玉楼に響き渡る。これには妖夢も二重の理由で頭を抱えた。
「芳香、違う違う。この人はこんぱくヨームさん……で、合ってるよね?」
「……合ってるわ。でも貴方達がここに居るのは間違いなく間違いね。ううん、半分は正解かしら」
妖夢もいろいろな人妖と斬り結んできたが、若干例外気味のプリズムリバー三姉妹を除けば自分から冥界を訪れる死者は今回が初めてだ。
「そっちの死体は昔斬り捨てたわね。今日は復讐にでも来たの? だけどお前の主はもっと青かったような気がするわ」
「違います。私達はその青い人からここに行くといいって言われたんです」
「斬られた事もあったけど、我々は元気です!」
傀儡である芳香と一緒に来たとなれば保護者扱いされるのはもちろんこころだ。青娥の代わりと思われるのだけは勘弁願いたかった。
「ここは気まぐれで来るような所じゃないわね。道場破りかしら。それとも、まさかとは思うけど異変の調査?」
妖夢は正眼の構えで楼観剣を握りしめる。前者後者どちらにしても戦闘は避けられないからだ。本来は異変の調査で切り合う必要など全くないのだが。
「最強って何ですか? 教えてください」
磨き抜かれた鋭い銀の光を放つ剣先が、中段から下段にまで垂れ下がった。目を煌めかせて飛び出たその質問はあまりにも無邪気すぎて、かつ妖夢にとっても永遠の難題であったから。
・ ・ ・
「……はあ、つまり邪仙の差し金でここに来たと」
庭の隅、漆喰の壁に背中を預け、こころはこれまでの経緯を妖夢に説明した。芳香の電話機能の件はややこしくなるので伏せて。
「そうです。そういえば妖夢さんもほんのちょっとだけ青娥さんに弟子入りしてた事があるんですよね?」
「うう、思い出させないでください……」
確かに、自分に天与の才があると思い込んで付け髭などで仙人を気取った事がある。主から後で散々にからかわれて、妖夢の多感な年頃の心に消えない傷が残った。
「生きるとはぁ、己の恥との戦いだ。強くなれ、半分死体の剣士よ」
「死体じゃなくて幽霊。全部死体のお前と一緒にしないで」
太古の時代のキョンシー、すなわち死人の大先輩とはいえ、恥の概念が全く無さそうな人物にだけは言われたくなかった。
ただし、妖夢も芳香が死を恐れている事は知っている。かの神霊異変の時に『死ぬのだけはいかん』という本能の呟きを聞いたのは他でもない彼女だ。
「わからないことは斬って知れ、と私のお師匠様は言ってたわ。貴方も薙刀を使うようだし、一つ交えてみる?」
「あ、そういうのはいいです。それでわからないから来たんですし」
「そ、そう……」
聞けば霊夢、聖、神子の三人を同時に相手したほどの無謀っぷりらしいのに。妖夢はがっくりと肩を落とした。
「子供の質問だぞ。気楽に答えれば良いぞ。お前の思う最強とは誰ぞや。その師匠かぁ?」
子供っぽいくせに爺臭い芳香の言。腐った脳から絞り出される言葉を真に受けても仕方ないが、妖夢は頭の中で祖父の在りし日の姿を思い浮かべた。
「そうだなあ……おじいちゃん、じゃなくてお師匠様は今でも全く勝てる気がしないぐらい強かった。出来れば最強であってほしかったけど」
「けど、って事はもっと強い人がいるんですか? 誰だれ?」
こころは興味津々に顔を寄せる。
「幽々子様。主には絶対勝てない、従者とはそういうものなんだって」
「ふぉー、それは正しい。私も青娥が最強だと思っとるからなー!」
同志が見付かったと芳香は自慢気に胸を張る。
「だがお前。最強は誰かと問われたら自分! 師匠! 主! このどれかがパッと出ないようではまだまだじゃな。何か迷っとるんじゃないか?」
「ぐっ……」
妖夢の言葉が詰まる。迷いはある、というよりも迷いまくりだ。どれだけ修行しても化け物だらけの幻想郷では相対的に強くなった気がしないし、幽々子とその友人は何を言ってるのかさっぱりわからないし、いつぞや畜生霊に憑依されて以来自分の性格もブレだしたような。それは元からか。
「でもでも芳香ぁ、みんながそんな事言ったら最強なんて人の数だけ増えちゃうよ?」
「あー? この世界に強いヤツがどれだけ居ると思う。その中から一番なんて選べるものかー!」
「……さっきは青娥さんが一番だって言ったじゃん」
「そうだ! 考えるのがバカらしいから自分の一番が最強なのだ!」
この芳香の主張を聞いて、こころと妖夢の両名は全く同じ事を考えていた。
じゃあどうして私達(この二人)はわざわざ白玉楼にまで来たのだろうと。青娥は何を期待してここに向かわせたのだろう、と。
「ひとつはっきり言えるのはぁ、今の迷走しているお前ならば私でも勝てるということだ……たぶん!」
「はあ、そうですか」
せっかく挑発されたのに、妖夢は今ひとつ乗り切れない。というのも相手が真意を図りきれないとぼけた死体の、おまけに素手だからだ。それに一度は勝っている。どうせ戦うからには緊張感のある相手が欲しかった。
「なんじゃーその態度はあ! 刀を抜けオーム、一発勝負だあ!!」
「オウムなのはお前よ、鳥頭。まあ体を動かしたいのはこちらも同じだし、いいわ。あんたの主に針と糸の準備をしてもらいなさい!」
どうせ一人で修行をするつもりだった。ぶった切っても死なず、動いて攻撃してくるのだから巻藁を相手に竹刀を振るよりは練習になる。妖夢はそう判断した。
「いいぞー、やれやれー、血を見せろー!」
こころが無表情で雑なエールを送る。彼女の頭に付いたひょっとこ面は、薄暗くて青白い冥界の景色に飽いて鮮やかな朱を求めていた。
「いざぁ!」
いざ、勝負。
掛け声と共に芳香が目を光らせて飛びかかった。
一方で妖夢は、抜けという芳香の言葉に反し、刀の柄に手を置いたまま腰を落とした。つまり居合の構えを取ったのだ。
芳香の攻撃は単純だ。近づいて、爪で引っかき、噛み付く。それも猛獣のような荒々しさなら驚異となり得るが、彼女の場合は腕をだらしなく伸ばして襲いかかるため、ボディがガラ空きだ。芳香の強みは不死を生かした種族通りのゾンビアタックがあってこそ。今回のように一本取れば勝ちの形式ではひたすらに不利であろう。
したがって、妖夢が剣を収めたまま向き合った理由はある種のハンデだ。居合で相手を斬るのはイメージよりも遥かに難しい。しかし経験を積まねば格上の相手に成功させるなど夢のまた夢。
妖夢にとってのこれは、単純に突っ込んでくるだけの芳香の胴に的確な一太刀を叩き込めるかという自分との勝負だった。
「シュワッ!!」
「……っ!?」
しかしここで芳香が予想外の動きを取る。
腕を体にぴったり付け、頭から一直線に。さながら鮫の如く、牙を前面に出しての突進!
「ふ、しッ!!」
されど妖夢の太刀筋は変わらない。ただ攻撃対象が胴から面に変わっただけのこと。芳香はわざわざもっと痛い目に遭う体制になったに過ぎない。
タイミングは、完璧だ。妖夢の峰打ちが芳香の顔面に迫る!
ギィン! という鋭い金属の振動音が白玉楼に響き渡った。
それは芳香の頭蓋骨が砕けた音──ではない。
「し、し……!」
歯だ。
「白刃取りだぁ~!!」
こころが二枚の扇を手に、その場でやんややんやと回る。
妖夢が抜き放った白刃は、芳香の歯でがっちりと受け止められてしまったのだ。
「ふっ……まだやるか?」
芳香は唾液にまみれた刀をぺっと吐き出して妖夢を見下ろした。まだも何も、まだ一太刀目を受けられただけだ。真っ当にやり合えばいずれは芳香が負ける。だが、完全に勝てると思っていた相手にこんな奇策を成された以上、妖夢から出る言葉は一つしかなかった。
「お、お見事、です……」
一本。物理ではなく、精神的に。
不死に近い体を持つ彼女達にとって、骨よりも心をへし折られる方が何倍も辛いのだ。
妖夢はわなわなと震えながら膝を付いた。
◇
「いやー、何度も練習して良かったぞー! あれなー、未だに三回に一回くらいしか成功しないんだぞ」
「あんなの練習してるの? 芳香の所はちょっとおかしいよね。今更すぎるけど」
「私の後輩なんかなー、失敗して頭がサイコロステーキみたいになった奴もいてな? 治すのも大変だから青娥からそれはもう怒られた怒られた!」
「へー」
こころは頭の能面と同じように曖昧な表情で適当に聞き流した。
キョンシーみんなで顔面白刃取りの練習だなんて、絶対に深く考えてはいけないやつだ。こころはそう判断した。
「うぉ? おいコラァ! 元気出せ妖夢ぅ!!」
妖夢は体育座りで足元をずっと見つめていた。そんな妖夢に芳香は乱暴な慰めの言葉をかける。
こころは一つ確信したことがある。追い打ちの絶好の機会だったのに。ああ、やっぱりこのキョンシーはわざと間違えて呼んでいたのだな、と。
「私なんて、私なんて所詮は召使い。幽々子様のお口にずっとおにぎりを放り込んでるのがお似合いなんです……」
「それもどうかと思うな」
こころはそれもどうかと思った。いろいろと面倒臭くなって、思ったことがそのまま言葉になりだしている。
「心配せずともお前は強い。この芳香ちゃんが保証してやるぞ。世界一強い青娥のキョンシーのお墨付きだ。自身を持てぇ!」
「そうだよ。誰が見ても妖夢の方が強いよ。強いから格下の相手に勝たせてあげる余裕があったんだよね? そうでしょ?」
「……そうかな、そうかも」
妖夢はわりとあっさりと立ち直った。この単純さも強さの秘密なのだろうか。
「何はともあれ、お見事でした。芳香は強いし、その主である邪仙も強かった。実際に戦って打ち勝ったこの魂魄妖夢が言うんだから間違いありません。私以外にで勝てる者はそうそう現れないでしょう」
芳香と妖夢は妙な自信に満ちた顔で互いを認めあった。
こころの脳裏に一人の妖精が飛来する。ここまでを見てきた彼女が確かだと思えたことは、バカは強がる、だった。
「ちょっとぉ、面白い事を私抜きでやるなんてずるいわよー」
ふんぞり返っていた妖夢の口がへの字に曲がる。むしろ抜きでやっていたからこそ面白かったのに。
「……幽々子様、おはようございます」
「おはよう~。お二人さん、せっかく来てくれたのにお昼寝中でごめんなさいね」
「いえいえこちらこそ、急に来ちゃってすみません。秦こころといいます」
「すまんせん! 宮古芳香です!」
こころと芳香は幻想郷の作法に則って深々とお辞儀をした。
「あら、そういえばお話するのは初めてだったわね。西行寺幽々子と申します。妖夢と遊んでくれてありがとうねー」
「どういたしましてだぞー」
「……ん?」
こころは気が付いてしまった。
「西行寺? サイギョウジ……サイギョウ……」
まさか、そんな。いい年こいた大人がこんなくだらない事で人を冥界に行かせるものか。いや、あいつはいい年こいてくだらない事ばかりする駄目な大人じゃないか。
浮かび上がった疑念を晴らすにはもう本人に聞くしかない。こころは芳香のポケットからお札を乱暴に取り出して、その耳に叩きつけた。
「っつう、わっ」
ビクンと震える芳香の頭を掴み、耳元に口を寄せる。
「もしもし。もしもし? おい青娥……さん。聞こえていたら応答しやがれください」
『ッラッシャアセェエエエエエ!! ィマオヒヤオモチシマァアアアアアキィィィィィィィ!!!』
芳香が本日最高の爆音で奇声を上げた。
『おいハウってるぞ! 音量下げろ! もっ、もっ、待っへ屠自古はん、もっ、いま飲み込むから…………もしもし? 騒がしくてごめんねこころちゃん、どうしミソイッチョォオオオオ! ああもう! インプット最低にして……どうしたの?』
「……どこで何やってるんですか? ううん、そんな事はどうでもいい。青娥さんが言ってた白玉楼で見つかる最強って西行……」
「あらー? もしかして向こうに繋がってるのって外のご飯屋さんかしら?」
幽々子が話を遮ってこころの横に顔を並べた。三人の頭が三密状態である。
芳香のテレホン機能など知っているはずがないが、妙なところで察しが良い幽々子は瞬時に状態を判断したらしい。
「もしもしー? チャーシュー麺の大盛りねぎだくつゆだくのニンニクマシマシでお願いできるかしら?」
『牛丼と混ざってますわよ。うふふ、お話するのは千年ぶりぐらいでしょうか。本当にお久しぶりですね、西行寺様』
「あら、私の友人にラーメン屋はいないはずだけど」
『仙人の友人もいないでしょう? 霍青娥と申します。まずはうちのキョンシーとその友人を突然向かわせた無礼、心からお詫び申し上げます』
「それよりお腹に溜まるものがいいわ。今ってどこのお店でも乳母逸? とかお持ち帰りが主流なのよね? 紫が言ってたわ」
『かしこまりました。西行寺様の分も含めていろいろと持ち込むので隙間のお方にもよろしくとお伝えくださいましね』
「妖夢さん、理解できますか?」
「いいえ、まったく」
青娥in芳香と幽々子が二人で大盛り上がりしている様を、こころと妖夢が遠くから眺めていた。
会話が一歩、二歩飛びの空中戦すぎて追い付けない。察する能力に長けた者同士の会話は常人には早すぎたのだ。
「ただ、一つ理解できたことはあります」
「はい、どうぞ」
「理解できない人には敵わない。そういう意味であの人達は最強です」
「貴方もここで働いてみる? 最強の主と最強の友人が迎えてくれるわよ」
なるほど。こんな最強のお世話をしているから、妖夢がとりあえずぶった切る侍になってしまったんだな。
理解すると同時に、こころは全力で首を横に振った。
こころの最強への道はまだ遠い。
やっぱり娘々は娘々だなあこいつという感じで良かったです。こころちゃんのちょっとぼけてるけど突っ込み役なポジション好きです。
芳香ちゃんも良かったです。有難う御座いました。
ハイテンションな芳香ちゃんがとても良かった
色々と考えて答えを出そうとする従者組とそれを振り回す主人組が面白かったです。
最強とは一体何なんでしょうね…
腐ってたり老獪だったり急に電話になったりする芳香が楽しかったです