Coolier - 新生・東方創想話

かげのおおかみ

2021/03/06 03:53:01
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独自解釈多めですよ。




***********

 初めてそれを見たのは、私が3さいになったころだったろうか。同じころの記憶が、おかあさんがくれた子供用のお椀で一生けんめいお汁粉をなめて、もっと欲しいと喋って褒められている冬の日の思い出なので、喋り始めてことばで思い出を残すようになったころなのだとすれば、それくらいだろう。
 そのころ私が住んでいた長屋は人里の商店が立ち並ぶ通りの裏のあたりにあったので、雪の夜はそれらの店の明かりが降って来る雪に反射して外を歩けるほど空一面が明るかった。家の障子も外の光を受けて白くぼんやりと光り、行灯よりも明るくなったものである。そんな日に布団に入って明るい障子を見上げていると、なんだかワクワクしてきて、すごく楽しい気持ちになった。いつまでもへへへ、と笑って寝ない私に、親は早く寝なさいと言ったり、明日の朝の雪かきが大変だとぶつくさ言っていたけれど、子供の私にはそんなもの関係なかった。
 ある冬の夜、両親が寝静まってしばらくたったころ、それを見た。
 玄関の引き戸横、小窓に嵌めた明り取りの障子に、何かの影が映った。酔っ払いか誰かが通ったのかしらと思ったが、ひょこひょこと動く様子は人間とは思えなかった。一瞬だけ土間に映る雪明りの形を変えた影は、すっ、とただ通り過ぎていっただけ。
 猫でも通ったのかな。そう思って反対側の障子を見たとき、それは居た。
 雪明りを受けてうすぼんやり光る障子紙にうつる、背中を丸めたような一辺だけまるい何かの影。それはちょっとだけ動くと、あとはじっと動かなかった。
――――縁側に座ってる!障子のすぐ外に、何かいる!
 障子越しなのに、その様子はまるでこちらを見ているようで、たちまち恐ろしくなった私は悲鳴を上げて両親の布団を叩いた。両親がどうしたと寝言を言い出すころには、影はどこかへ行ってしまったあとだった。もうその晩はなんだか気味が悪くて、明るい障子もみないで母親の懐に潜り込んで朝までそうしていた。
 次の日の朝、影が見ていたほうの障子をあけて外を見てみたけれど、一晩の間に降り積もった雪のせいで足跡も何も残っていなかった。母親に昨日の晩のことを言ったら、早く寝ないからオバケが食べちゃおうかって様子を見に来たんだよと言われてしまい、大泣きしたのを覚えている。
 その日以来、私は障子の外にな何か影が映っていないか毎晩びくびくしながら怯えていたのだが、それからしばらくはその影は現れず、そのうち私も平気になってしまい普段通りの夜を過ごすようになった。

 次にその影が現れたのは、私がもうすこし大きくなった後のことだった。寺子屋に通い始めたころの春の夜。その日は満月だったので、冬の雪の日みたいに外が明るくて、同じように障子もうすぼんやり光っていた。影が来たのはこんな夜だったなと思いながら布団に入っていたら、またもやいつの間にか障子に影が映っていたのだ。
 あの時と同じように背中を丸めたような一辺だけ丸い影。じっとこちらを見ているかのように動かない。
 初めて見た時の私は大泣きしたのだが、ちょっぴり大きくなって度胸がついていたので、泣きはしなかった。泣きはしなかったけれど、やっぱり怖かった。布団を頭までかぶって、はやくいなくなれ、いなくなれとぶつぶつ唱えていたら、そのうち眠ってしまったようで、いつの間にか朝になっていた。また障子をあけて外を見てみたけれど、板塀に囲まれた猫の額くらいの狭い庭兼物干し場には、何の痕跡もなかった。今度も親に話してみたが、またオバケが様子を見に来たんじゃないかと笑いながら言われた。私は母親に私を食べようとしているのかと聞いてみたが、わからないと言われた。「きっと食べるんだったらもっと小さい時だよ」と。じゃあ友達になりに来たのかと聞いたら、それも解らないという。不満そうな私を見て、そういう相手には簡単に手を出したり思いを向けたりしないもんだ。取り込まれてしまうからなと、父ちゃんが頭を撫でてくれた。
 その時は意味が分からなかった。



 父ちゃんは何の仕事をしているのか子供の時分ではわからない人だった。本人は何でも屋だと言っていた。いつも紺色の作務衣にくたびれた襟巻を巻いていて、一日外に出かけて汗だくで帰ってきたかと思えば、あくる日はずっと家に居たり、またある日は泥まみれで帰ってきたり。夕方出かけて夜中ずっと家にいない日も多かった。母親に聞けばそれも仕事なのだという。夜にする仕事なんて、幼い私には想像もできなかった。聞いてみても何でも屋だからなとしか言わなかった。
 母親は近所の飯屋で働いていた。いつも念入りにお化粧をして、朝から夕方まで、または夕方から夜中までと日によって働く時間が変わる人だった。貧乏長屋の住人にしては肌が白くて化粧も決まっていて、近所のジジイ連中はいつも母が通り過ぎるたびに鼻の下を伸ばしていた。掃き溜めに鶴とはよく言ったものである。そんな連中にも余裕の表情でシナを作りからかってゆく母は、子供心に強くてカッコよかった。
 何でも屋の父ちゃんはおいしそうな匂いを纏って帰ってくる日もあった。そんな時は大抵お土産付きだったので、父ちゃんがどんな匂いで帰ってくるか、自然と気にするクセが付いていた。飯屋で働いている母もいつもおいしそうな匂いをさせて帰って来るのだが、お土産を持って帰ることはあまりなかった。
 3度目に影が現れたのはそんなふうに父ちゃんがいい匂いをさせて帰ってきた10歳くらいの夜のことだった。天ぷら屋からもらったと言って、売り物にならない野菜やなんやかんやの端っこをまとめて揚げたでっかいかき揚げを持ってきたのだ。茶色い紙にかさかさと包んであったソレはまだほかほかと熱を持っていて大層いい匂いで、両親と分けて一生けんめい食べた。
 うちには一人娘の私しかいなかった。大人2人に子供1人ではかき揚げはちょっと多かった。包み紙に残りのかき揚げをまた包んで、明日また食べようと台所に母親が仕舞った。私もお腹いっぱいだったので、それをつまみ食いしようとなんて思わなかった。冷えた揚げ物を食べるとき、母親は大抵卵とじにして煮てくれる。明日はかき揚げ丼が食べられると、その晩はうきうきしながら布団に入った。
 そうしたら、あの影が現れたのである。真夜中ふと目を覚ました私は、また障子にあの影が映っているのを見つけた。影はこれまでと同じように背中を丸めて、障子の外でじっと動かない。
 さすがに3回目ともなれば、不気味さと恐怖は相変わらず感じたが、好奇心が芽生えていた。布団からそっと目をのぞかせて、影を観察することができたのだ。
 初めてゆっくりと見たそれは、よく見ればわずかに動いていた。ふわふわの毛が風になびいているような、そんな感じだった。毛が生えている。そう感じた私のあたまが、障子の向こうにいるであろうその影をよりはっきりと想像させた。丸まった背中はその通り。前足が下りていて、よくみれば下の方、障子の縁に隠れていたが、尻尾のような盛り上がりもある。犬か狐か、はたまた狸か。私の好奇心はその時はっきりと恐怖心を上回っていた。障子をあけてその姿を見てみたい。でも、父親にいつか言われた言葉が頭をよぎる。―――取り込まれるぞ。 と。
 そんなとき、いい考えが浮かんだ。わたしはそっと布団を抜け出して、部屋の中に立ち上がる。影は私の気配を感じたか、かすかに身じろぎをしたが、逃げようとはしなかった。なるべく影のほうを意識しないように私は土間へ降りて台所へ向かうと、しまってあったかき揚げの包みを取り出して開ける。甘い揚げ油の匂いが鼻をくすぐった。まだ両手に抱えるくらい大きなそれの端っこを、私は指でちょっぴりむしり取って、ついでに包み紙の底にたまっていた揚げカスも手のひらに取った。そうしてそれを手に持ったままゆっくりと玄関に向かい、戸を少しだけ開けて、隙間からかき揚げを外へ置いた。そのままそっと扉を閉める。振り返れば、影が立ち上がっていた。4本の足、大きな胴体、尖った耳。太い尻尾。私は影の新しい姿に興奮しながら、こそりと玄関脇にある小さな明り取りの障子の下に隠れる。一番最初に影が通った障子だ。
 あの時、影はこの窓からあの障子に向かった。もしかしたら、帰るときは逆に通るのではなかろうか。玄関の扉は、ほんの少しだけ開けてある。もしかき揚げを食べに来たら、隙間から覗いてやろうと思っていた。
 息をひそめて待っている私の耳に、ちいさな土を踏む音が聞こえてきた。足音!あの影が、こっちに来た。とす、とす、とす、と足音がゆっくりこちらに近づいてくる。
 胸がどくどくと音を立てて弾んでいる。私は目を見開いて、影が玄関の前に来るのを待った。もうすぐ、扉の前にあらわれる。その時を、口から心臓が飛び出しそうな気がしながら、じっと待っていた。そのときだった。

「ねなさい」

 体を預けていた板壁をはさんですぐ向こうから声がした。まさか話しかけられるなんて夢にも思っていなかったので、その一言で飛び出そうとしていた心臓はあっけなく発射され、私は恥ずかしいことにおしっこを漏らして気絶してしまった。次の日の朝、土間で倒れている私を両親が見つけ、朝から大騒ぎになってしまった。
 心配されたり叱られたりしてすっかりへとへとになった私が、扉の外に置いておいたかき揚げがひとかけらも残さずに亡くなっていたのを見たのは、遅い昼のことだった。
 その日からしばらくはあの「ねなさい」という声が夜になる度私の頭にくりかえしひびき、その言葉とは裏腹に眠れない日が続いたのである。

 
 
 4度目は、寺子屋ももうすぐ終わり、いよいよ働き始めようかという15歳の秋の夕暮れ時だった。その日は母親にお使いを頼まれて、里の外れにあるお店まで出かけていた。そこは猟師の店で、塩や干し肉などの品物を受け取り、包みをもって帰り道を急いでいた時のことだった。
 晴れた日の夕暮れ時で、雲一つない空が天蓋から紫色に変わって夜に変わってゆく。その空に、真っ白な満月が自慢気に浮かんでいた。里の上に浮かぶ満月が、帰り道はこっちだよと言ってくれているようで、薄闇が覆い始めている夕暮れ時の道もあまり怖く感じていなかった。当然妖怪が出ることだって考えられるのだが、里に近いし、平気だと思っていたのだ。里までは見渡す限り稲刈りの終わった田んぼで、稲株の青臭い匂いが昼間に温められた土からまだじわじわ吹き出していた。疎らに草の生えた道は田んぼを取り巻きつつ、時折小さな林をかすめながら続いている。そんな夕暮れの人気がない道を鼻歌混じりにあるいていたときだった。
「こんばんは」
 突然背中の方から声を掛けられた。思わず振り返ろうとしたが、続く言葉に止められた。
「後ろは見ないでね‥‥たべちゃうわよ」
 食べちゃう、との言葉に私の心臓がびくりと跳ねる。妖怪が出るなんて。どんどん冷や汗が流れて、息が震えてくる。こんな道、誰もいないところで、助けてくれる人なんかいない。どうしようどうしようと目が泳ぎ始めた私に、再び声が掛けられる。
「いや、そんなにこわがらなくていいって。た、たべちゃうのは冗談だから。いや、でもこっち見たら食べちゃうかも。だから、ちょっとまってて。もうしばらくこっち見ないで、おねがい」
 人喰い妖怪は女の人の声で、しかも大層饒舌だった。なにか取り繕うような感じで、焦って喋ってる。私はそれも油断させて食べるためだと思ってしばらく震えながら歩いていたが、ふとその声が聞覚えのあるものだったと気が付いた。
 あの、「ねなさい」と言ってかきあげを食べていった、影の声だった。だとすれば、後ろにいるのは狼か。
 ――――山に行くと送り狼がでることがある。後ろに着かれてしまったら、おどろかせないように、転ばないようにゆっくり帰りなさい。そうすれば、襲われることはないよ。
 いつか母親が教えてくれた送り狼の話。ここは里に近いはずだが、こんなところにも出るのか。とにかく振り向かず転ばない事だ。そう思って、私は慎重に足元を見ながら歩いて行った。里はまだ遠い。
「こわい?」
 いつの間にか、声が横から聞こえていた。ざくざくと、私に合わせて歩いている。
「ひさしぶりね。おぼえてるよ。かき揚げご馳走様」
「!」
 下を向いて歩いているので顔を見ることはできない。視界の端に、毛むくじゃらの足がちらりと覗いた。
「大きくなったね」
 また、喋りかけられた。何かしゃべったらとり殺されてしまうような気がして、私はずっと黙っていた。いつか父ちゃんに言われたのだ。取り込まれると。
「‥‥こわいかー。仕方ないかなぁ」
「‥‥」
 影の声はしばらく黙って一緒に歩いていた。私ははやくはやく里に着けと、それだけ一心に心の中で唱えながら歩いていた。手に持った肉の包み紙を握る手が汗にまみれていた。
「つん」
「ひいっ!」
 突然、暢気な声と同時にほっぺたがつっつかれて、私は思わずそっちを見てしまった。
 長い黒髪の、同い年くらいの女の子が、よごれたほっぺを持ち上げて、にっ、と牙をはみ出させながら笑っていた。頭には狼の耳が付いていた。
「ひ、ひゃああっ!」
「あははははは!気を付けてねーっ!」
 女の子はそう言うと、しりもちをついた私を一気に追い抜いて駆け出して行った。ボロボロの服が風をはらんで揺れている。そのお尻には黒い尻尾が揺れていた。
「あおーん!」
 女の子は走りながら紫色の空に浮かぶ満月に向かって吠えた。するとたちまち服がほどけて黒いもやになり、女の子の体がちいさくなっていく。いや、4つ足で走り始めたのだ!
 いつのまにか黒い狼に姿を変えた女の子は、こっちを一度だけ振り返ってまた、わおん、と楽しそうに吠えると、そのまま里に向かって一直線にすっ飛んでいくように走っていった。
 私は呆然としながら、暗くなってゆく道の上で座りこんだままだったが、ようやく顔が見れたという喜びがじわじわと襲ってきて、気が付けば声をあげて笑っていた。
 しかし、あの女の子もちょっと抜けていたようで、変身する時の狼の遠吠えが街の人に聞かれていたため、たどり着いた里では男衆総出で狼狩りが行われていた。父ちゃんも棒をもって自警団に加わるため家を出ていた。私は私で、一人夜道で襲われていないかと母親が大層心配して待っていた。その晩は一度だけ焦ったような遠吠えが聞こえてきたが狼が捕まることはなかったようで、次の日の朝、父ちゃんがあいつうまく逃げたなぁと言って帰ってきたとき、ちょっとほっとしたものだ。
 その日の晩、布団の中で私はこれまでの思い出と今日のあの子の台詞を反復して一人にやにやしていた。3歳のころから、私を見守っていてくれた狼妖怪の女の子なのだ。食べちゃうよとは言われたけど、なんだか優しそうな声だった。大きくなったねと言ってくれたし、かき揚げも、ずいぶん前の話なのに覚えていてご馳走様とお礼も言ってくれた。私が大きくなったら食べようとしてずっと待っていて今出てきたのかとも思ったけれども、なんだか楽しそうな雰囲気の女の子だったし、そんなことはないだろうと思っていた。
 


 16になって、私は家を出た。出たと言っても、近所のお茶屋さんに住み込みで働き始めたというだけで、週の終わりにはときたま両親の暮らす長屋に帰っていた。一人で暮らす術も覚えなくては駄目だと、一人娘の私を両親は積極的に送り出した。知り合いの女の子の中には父親が厳しくて、なかなか家から出してもらえないと愚痴をこぼしていた子もいたので、私の両親の態度は意外だった。
 5回目の影は働き始めてしばらくした週末の夜に現われた。その日、私は夜遅くにお茶屋さんから長屋に向かって歩いていた。お茶屋さんから長屋までは里の外のあの猟師小屋に比べたら目と鼻の先である。アツアツのおにぎりを持って出たら、まだほんのり暖かいうちにたどり着けるくらいの距離だった。
 お茶屋を出るとき、壁掛けの振り子時計は23時を指していた。もう両親は寝ている時間である。私は仕事仲間と夕食を食べに行って話が盛り上がってしまったのだ。いつも帰っている時間より遅くなってしまったのでちょっとまずいなとは思ったが、その日も満月で夜道は明るかったし、人里の真ん中で妖怪も出るまいと考えていた。
 月明かりが照らす帰り道、まだ視界の端には酔客がぽつりぽつりと歩いてはいたが、さすがに通りの店は戸を閉めていて、人気のない夜の通りに自分の歩く音だけが響いていた。
 長屋までもう少しというところまで来た時、進む方向に妙なものを見つけた。黒い靄のような、何か。最初は人影だと思ったそれは、通りの上をすべるように、こちらに向かって漂ってきた。
 妖怪だ!
 気が付いた時には踵を返して元来たほうへ向かって走り出していた。誰か助けてもらおうとあたりを見回しても、こんな時に限って酔っ払いの一人も居ない。お茶屋のあたりには人がいたと思って、必死になってそちらへ走っていた私だったが、ふと振り返った瞬間転んでしまった。手のひらを盛大にすりむいてしまい、私の両手に激痛が走った。
 擦りむいた手をかばいながら体を起こしたら、黒い靄が目の前まで迫っていた。
 正体も何もわからない黒い靄。縁起に載っていた、るーみあとかいう妖怪とはちょっと様子が違った。向こう側見えないくらいの濃い闇ではなく、半透明の影なのだ。
 するすると靄は私に近づいてきた。ああ、食べられるのかと、なぜか冷静な私が居た。お前を食ってやるとか、いただきますとか、口上もあげないとはずいぶんあっさりとしたものだなと、ぼおっ、とその靄を見ていた時だった。
「がうっ!」
 と、うなり声と共にもう一つの影が靄に飛び掛かってきた。
 靄は影に貫通されるとゆらゆらと形を崩したが、また一つにまとまると、その陰に向かって動き始めた。影はたたたっ、と走ると、通りの真ん中に躍り出た。
 月影に照らされたのは、漆黒の狼。あの、私をからかったけど狩られかけた狼の女の子。私をかばうように立ち、胸を張って、柔らかそうな毛を夜風になびかせて、赤い目を靄に向かって向けている。その姿はとても格好良かった。
 気が付けば、私は狼に飛びついていた。尻尾がふわりと揺れた。ぐるる、と唸り声が聞こえる。狼が靄に向かって唸っている。靄はしばらくゆらゆらと頼りなげに漂っていたが、ふわりと風に漂うように消えていった。狼はそれを見ると、私の腕を振りほどいて夜の通りに向かって駆け出して行った。
「ありがとう」と、お礼を言う暇もなかった。
 何とか助かったと、胸をなでおろした私は痛む手を近くの火消し桶の水で洗うと、家に向かって走った。今日のこの出来事を話すためだった。
 おおかみが助けてくれた。ずっと前からわたしを見ていてくれた狼が助けてくれたと。
 



 その日の出来事は絶対に忘れられない。
 長屋に飛び込んだ私を待っていたのは、首のない両親の体が、ふたつ板の間に転がっているという光景で。
 寝ている時間だというのはわかっていた。
 だからこそ明かりがついていないのにも不信感は抱かなかった。
 だからと言って、首無しで転がっているなんて想像できるわけがない。
 あまりに現実感のない光景に、わたしは悲鳴も上げられずに腰を抜かして座りこんでしまった。
 その時である。
「おかえり」
 目の前に転がっているはずの母の声がした。
「おかえり」
 同じように、父の声もした。
 声は天から降ってきていた。
 私はゆっくり天井を見た。
 二人の首が浮かんでいた。父と、母の、首が。

 恐怖に憔悴しきった体はもう言うことを聞いてくれなくて。悲鳴も出せない。逃げることもできない。
 おおかみさんおおかみさんと、必死に彼女を声なき声で呼ぶ私を尻目に、二人の首は宙を舞った。
「すまんな」
「すまないね」
 そう言いながらゆっくりと両親の首は私のほうに近づいてきて、わたしの首を、体からひっこ抜いたのだった。




 ‥‥種明かしをすればどうということはない。
 両親が妖怪で、私も妖怪だったというだけだ。
 それを、私が16になるまでついぞ気づかれることなく隠し通せたというだけで。16年目にして初めてしくじったというだけで。だけ、と一言で締めるには強烈すぎる話だが。
 両親は二人ともろくろ首だという。私も寺子屋で習ったことはあった。夜な夜な障子や衝立の向こうから首を伸ばしてこちらをのぞく気持ち悪い妖怪。聞けば二人とも人里で知り合い恋に落ち、紆余曲折の末私を身ごもり、人里で人間の夫婦として生み育てることにしたのだという。もともと人の近くで生きる妖怪なので、人間の暮らしを知っておいてほしかったとのことだが、育てているうちに人間の暮らしに慣れてしまい、このまま人間として育てるか、いつかろくろ首として正体を教えるか迷っているうちに16になってしまったのだという。そして私を家から出したのも、人間の暮らしを覚えさせるためと、ひさびさに首を伸ばしたり飛ばしたかったからだというのだ。今晩も同じように首を飛ばしてゆっくりしていたら、思いがけず私が飛び込んできたので戻るに戻れず、ついに正体をばらすことにしたのだという。
 またも不本意ながら汚してしまった服を着替えたあとで、体と頭を合体させた両親から聞かされた話はにわかには信じがたいものだったが、私の首にははっきりと赤い線が浮かび上がっていた。首と胴体のつなぎ目の線。両親と同じ、ろくろ首である証。一度首を離してしまったら二度と消えることのない赤い線だと母が説明した。思えば父親はいつも襟巻を巻いていたし、母親はお化粧をしっかりやっていたが、それもこの線を隠すためだったのだ。
 しかし、仮にも16の年頃の少女である。あなたは実は妖怪です。人間ではありません、と妖怪の姿をさらした両親に言われて、ああ、そうなんだとすんなり納得できるだろうか。
 おまけに二人の完璧な偽装のおかげで、ばらされるまで全く気付くこともできなかったのである。少しぐらい匂わせたりする気遣いくらいできやしなかったのか。あまりにも突然すぎて気持ちの整理ができなくて。
 
 わたしは両親の話が一通り済むと、馬鹿と怒鳴って家を飛び出していた。





 里の水路脇、揺れる柳の枝の下に、私は膝を抱えて座っていた。
 水面に映る私の姿は、いつも通りの私なのに、赤い目が二つこちらを睨んでいた。首を引き抜かれた後から目の色が変わっていたのだ。
 もう腹立たしくてしょうがなかった。今まで女の子として育てられて皆にもそう思われていたところに、いきなりあなた男の子ですよと言われたらこんな気分になるのかもしれない。人間としての私をいきなり捨てて、妖怪として生きろというのか。これまでの人間の女の子としての思い出、両親との思い出が全部嘘だと言われたような気分がして、ひどく憂鬱で腹立たしかったのだ。
「なにしてるの」
 気が付けば隣におおかみが座っていた。私は何も言えなくて黙っていた。
「何かあったの?さっきはあぶなかったね。びっくりした?あれ、なんだろうね。怨霊かな。オバケ追っ払ったの初めてだったからさ、ちょっとドキドキしちゃった。ねえ、ほんとに大丈夫?」
 べらべらよく喋るおおかみは心配そうな声で聞いてくれたけど、私はやっぱり何も言えなくてずっと黙っていた。
「よいしょ」
 気の抜けた声がしたと思ったら、ぽんと肩に手が置かれていた。薄汚れて、爪には泥が詰まってて。顔を上げて横を振り返れば、女の子が笑っていた。いや、女の子と言っても、私と同じくらいの年の子だった。やっぱりほっぺを上げて牙を見せて笑っていた。いつかみたぼろの服を着ていた。
「友達のよしみで話してくれない?」
 おおかみの女の子が笑った。気の抜けた、妖怪の癖に暢気な笑顔。その顔になんか一言いいたくなってしまった私は、「友達というには付き合いが薄い」というようなことをぶつくさ言ったはずだ。そういわれて、彼女の耳がへたった。
 犬みたいだった。
「何回も会いに行ったのに‥‥」
 そういってスン、と鼻を鳴らす女の子。妖怪の癖に、なんだか人間臭いその仕草に私の怒りも薄れたのかもしれない。なんだか落ち着いてきた私は、私と同じように膝を抱えて耳を伏せてうなだれる彼女に、ことの顛末を話したのだ。
 彼女は想像以上にびっくりしていた。「あなた妖怪だったの!」と目をまん丸に見開いて、首筋に走る赤い線を不躾にのぞき込んだりもしてきた。私は彼女が驚いたことにびっくりしていた。妖怪から見ても私は妖怪に見えないのだから。それならなんで人間のまま過ごさせてくれなかったのだ。私はまた両親に胸の中で文句を言った。
 一通り話し終えた私に、彼女はしばらく何も言わずに一緒に座っていてくれた。そのうち、ぽつりとつぶやくように彼女が話し始めた。
「おつきさん、きれいだね」
 満月は夜空の真ん中で煌々と輝いていた。
「私もね、後から知ったんだ。妖怪だって」
 わたしは思わず彼女の顔を見た。えへへ、と笑っていた。
「満月を見るとね、私変身しちゃうんだ。いつの間にか毛むくじゃらになって、狼になっちゃうの。普段は人間と変わらないんだけどね。初めて変身したのは、ずっとずっと小さい時でさ。覚えてないんだ。夜中に目を覚まして、何かのはずみでお月さん見ちゃったんだろうね。訳も判んないうちに変身して、狼の姿で里をうろついてたみたい」
 次の日の朝、里の路地裏で裸で泣いていたところを見つけられたのだと言っておおかみの女の子は笑った。
「それからちょっと大きくなったころにお母さんに教えられたよ。あなた狼女だからねって。最初はビックリしたよ!だって、狼女って言われたってまだなんだかわかってなかったんだもん。まあ、どんなものかってのはお母さんが教えてくれたよ。うちはお母さんしかいなくてさ。お父さんは普通の人間だったんだけど、私が生まれる前に別れたんだって。お母さんがね、狼女だったの。お父さんはバケモノの子供だって言って逃げたんだってさ。最悪だよね。あ、お母さんはね、お針子の仕事してるの。服作るの上手なんだよ。私も習ってるんだ」
 ぺらぺらと喋る彼女はとても楽しそうで、しかし私にはそれが腹立たしかった。こちとら人間の世界から妖怪の世界に急に連れ込まれたというのに、人の気も知らないで身の上話をする彼女の気が知れなかったのだ。今思えば彼女なりに励ましてくれていたのだが。
「とりあえず変身するのは満月の日だけなんだけどさ。最初は嫌だったね。毛深くなるし、なんだか動物みたいなニオイするし。狼がいたぞって追いかけてくる人間もいるし。あ、そうやって追っかけられてた時にさ、懐かしいにおいだなって逃げ込んだのがあなたのおうちだったんだよ。10年位前かな?」
 2回目に会った時の話だ。あの時彼女は追われていたのだ。そう言えば彼女が里で狼狩りにあっていた時、私の父親も狩りに参加していたが、それも人間のふりをするためだったのだろう。上手く逃げたなぁ、と帰ってきたときに言っていたのはもしかしたら妖怪仲間の無事を喜んでいたのかもしれない。
「変身解きゃ抜け毛だらけで掃除も大変だし、なんかもう、おしとやかなんて全然言ってられないの」
 わたしの回想をよそに話し続けた女の子はそう言って顔をしかめて腕を払った。泥が付いた腕には、月明かりでもはっきりわかるほどに、黒い動物の毛がぱらぱらとくっ付いていた。
「すっごいでしょ」
 得意げだった。
「汚い」
「またそんなこという‥‥」
 ぶすっと呟いたら、下唇が突き出てきた。いちいち面白そうな顔をする子だった。
「まあでもさ、月に一ぺんの変身なんだけど、狼になるの楽しいんだよ。いつもと違う姿で、走り回るとなんだか癖になるんだ。森の中とか普段いけないような場所に行くの、すっごい面白くて。いつか里の外で会ったよね。その時もさ、ちょっと山を準備運動がてら走ってきたところだったんだ。そしたらなんか嗅いだことあるにおいがするんだもん。嬉しくて話しかけてみたの。あ、でも変身中は見られたくなかったからさ、食べちゃうぞって脅かしたんだ。ごめんね」
 彼女がいつも泥だらけなのはそのせいのようだ。しかしよくしゃべる子だった。
「だからさ。なあんていうかさ、あんまり、気にすることないんじゃないかな」
 そして突然慰められた。もう、何が「だからさ」なのかさっぱり分からなかったが、彼女が私に自分の話を一生懸命聞かせて慰めようとしてくれていて、その「気にするな」というセリフをどうにかして喋りたかったのはわかった。文脈なんかへったくれもなく唐突につぶやかれたせいで、かえってはっきり彼女の意思を感じられた気がした。そんなことを想像できるくらいには落ち着いていた。
「ありがとう」
 とりあえずお礼を言ったら、彼女のお尻で尻尾が揺れた。犬みたいだった。思わず笑っていた。
「やった笑った!」
 そう言って彼女は私に抱き着いてきた。野山を駆けまわった泥だらけの狼女衣装で。
 とっても犬くさかった。
 そう言ったら、涙ぐんでいた。
 取り込まれたなぁ、と、どろだらけの彼女の匂いを嗅ぎながら、父親の言葉を思い出していた。





「腐れ縁もここまで続くと不思議なもんだねえ」
「蛮ちゃんは相変わらずよねえ」
 満月が照らす人里のとある民家の屋根の上。特等席に陣取る妖怪が二人。
 私。赤蛮奇に、狼女の今泉影狼。
 今の私は妖怪の姿。真っ赤な髪に青いリボン、赤いマントに黒い上着と赤いスカート。派手と言えば派手なこの姿、実は影狼コーデである。赤蛮奇という名前も彼女がくれた、いわば芸名だ。
 「とりあえずさ、人間と妖怪どっちも取ろう。わたしみたいに変身すればいいじゃない」との一言で、衝撃の晩のあくる日、私はうきうきの影狼に彼女の家に連れ込まれて着せ替え人形にされた。
 この髪は赤く染めたカツラをかぶっている。目は妖怪モードになれば勝手に赤くなるので、カツラと目だけでかなり印象が変わる。そこに大きな襟のあるマントを付けて口元を隠せばもう別人だった。すくなくとも人間時代の友人にばれたことは今まで一度もない。
「これで立派なろくろ首っ娘の完成!」と影狼に姿見の前に立たされて、私はその時なんとなくだが、妖怪の自分を受け入れられた気がしたのだ。変身した自分を見て、人間と妖怪、二人の自分は行ったり来たりどちらにもなれるのだと思うことができたからだろう。正直彼女には感謝している。結局、小さなころからずっと、私は彼女に守ってもらったようなものなのだ。彼女にそのつもりはなかったかもしれないけれど。
「とりあえず今日のノルマはどんなもんで、ろくろ首殿」
「言うこと聞かねえ悪い子がいるとのうわさが4つ」
「あらあらそれは」
「ご飯を独り占めする。野菜を残す。いつでもヤダヤダ言う、夜遅くまで起きてる」
「最後のは昔の自分のことでしょうか」
「うっさい」
 人間の私はあれから変わらず里のお茶屋さんで働いていて。そして妖怪の私は悩めるお母さんたちの“お手伝い”をメイン活動にしていた。里に住む妖怪で共有している「妖怪通報システム」には、お母さんたちの悩みが日々届く。勝手に妖怪の耳に届くそれを勝手に共有して勝手に出向く押し売りシステム。それでベビーシッターやってるのもいるし、驚かしに行って満足している私みたいな妖怪もいる。影狼もその手伝いをしてくれている。噂では寺子屋の慧音先生も使っているとかいないとか。
「さて、それじゃあ、月が出ているうちに回るかね。わたし、やだやだと夜更かし」
「じゃあ、私は食べ物関係の子ね。終わったらウチに集合だからね。いいお酒買ってあるから、呑もう。背中にのせてってあげるから」
「おーけー」
 影狼がいつも通り牙を見せてにへらと笑う。今の彼女はお母さんを里に残して竹林に住んでいた。さすがに目立ってしまったらしい。月に一ぺん嬉しそうに吠えながら狼が通う家があるとなれば当然だろうが。
「じゃ、あとで里の入り口で」
 そういうと、影狼は狼に変身して、屋根の上を跳ね飛んでいった。月影に照らされて黒くつやのある獣毛が輝いている。その姿を見るたびに、幼いころの思い出が想起されて、なんだか胸の奥がぎゅっとするのだ。
「よろしくね。おおかみさん」
 そう、独り言ちると、わたしはマントをひるがえして、彼女と同じように屋根の上を駆けて行った。
 
 あの、かげのおおかみさんのように、どこかの誰かの思い出になるために。
 
 
 
 
赤蛮奇の衣装は人里で暮らしているには派手だなぁ&影狼さんの服が自前なら誰かに作ってあげてたりもするか
と思ったのがきっかけ。
○○が来るよ系の子供向けのお化け役をしている赤蛮奇と影狼のお話です。
お口に合えば幸いです。

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コメント



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1.100名前が無い程度の能力削除
超好きです
蛮奇の両親の首がなくなった所でギョッとしましたが、首が浮いてるという事で察しました(笑)
2.100名前が無い程度の能力削除
とてもとてもとても面白かったです
終始わくわくどきどきしながら楽しめました
4.90奇声を発する程度の能力削除
面白く楽しめました
5.100Actadust削除
二人が少しずつ仲良くなっていく過程が、可愛らしくも健気で素敵でした。
楽しませて頂きました。
7.100クソザコナメクジ削除
面白かったです、かわいい
8.100名前が無い程度の能力削除
とても楽しめました
11.100夏後冬前削除
大変重厚な読み応えで非常に楽しめました。両親の首が無くなってる描写に度肝を抜かれました。
12.100名前が無い程度の能力削除
良かったです
13.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
ほんわかした雰囲気の中、二人の馴れ初めが温かく描かれていて良かったです。
算用数字と漢数字が混ぜっていたり、……の使い方が気になったりしましたが、それを差し引いても100点な面白さでした。
有難う御座いました。
14.100南条削除
とても面白かったです
いよいよ影の正体がわかるかも……と思わせてからの「ねなさい」にドキッとしてしまいました
影狼がやさしくてよかったです
15.100めそふ削除
とても面白かったです。
淡々と語られながも、温かくなるお話でした。良かったです。
17.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです
18.100名前が無い程度の能力削除
面白かった