ゴールデンウィークも最終日となり、社会がまた日常に戻ろうとしている。束の間の休みを謳歌し、明日からの日々を思い少し気鬱になりながらも、仕方ないと諦めながら最後の休みを各々過ごしている。
大学生ももちろん例外ではなく、最後の祝日を過ごす若者で街も賑わっていた。私はそういった喧騒の中で過ごすのはあまり得意ではない。忙しなく飛び込んでくる話し声や車の音、聞いているだけで頭のリソースが使われている感じがしてしんどくなってくる。
たまたま昨晩、蓮子から『見せたいものがある』と突然メールをもらい外に出たのはいいが、これでは目的の場所に着くまでに気が滅入ってしまう。姦しい喧騒から逃げるようにして大通りから外れた小さな裏路地へ向かった。道中で蓮子が言う、見せたい“もの”が何か考えながら少し足早にして目的地に急いだ。
しばらく行くと物静かで閑静な住宅街へと出た。昨日のメールでは、蓮子が住む下宿先とは全く異なる場所を指定してきたため、普段とは違う景色に少し不安を感じながらも蓮子が待っているであろう目的の場所へと向かう。
意外にも目的の場所は住宅街のすぐ近くだった。ただし、その目的地にあったのは普通だったら入るのはおろか、近寄るのすら躊躇うような廃工場だった。本当にここにいるのかしら…?と疑心暗鬼になりつつ蓮子に到着のメールを送るも、返信は一向に来ない。不安になりながら何度か電話もして見たが一向に繋がる気配がないので、諦めて中に入ることにした。
廃工場の建物の中は快晴の昼過ぎとは思えないほど暗く、澱んだ空気感を孕んでいた。普段からこのような場所を彷徨いている秘封倶楽部の一員でも僅かながら恐怖心を感じるような場所だ。
薄暗い建物内を徘徊し蓮子を探していると、工場内だろうか、奥の遠い場所からピアノの音色のようなものが聞こえてきた。
「ピアノの音…?」
僅かに聞こえる音を頼りに進んで行くと、天井が腐り落ちて屋根が無くなったのか、木漏れ日のように日が注ぐ場所が見えた。聞こえてくる音の正体を探すと、スポットライトのように太陽に照らされた場所に、ピアノとそれを弾く蓮子の姿があった。私が近寄ると、一瞬こちらを見たが演奏を止めずそのまま弾き続けた。意外なことに彼女が楽器を弾いている姿は初めて見た。その物珍しい彼女が奏でる姿をしばらく眺めていると、ちょうど曲が終わったのか、手を止めてこちらに身体を向けた。
「いらっしゃい、メリー」
「探したわよ蓮子」
「ごめんごめん」
あまり悪びれた様子もなく謝る蓮子。どうやらピアノに夢中で私の連絡に気がついていなかったようだ。呆れつつもいつも通りの蓮子を見て、先ほどまで感じていた恐怖心や心細さ消え、落ち着きを取り戻した。
蓮子の弾いていたピアノに近寄りよく見てみると、かなりの年数が経っているのだろう。野外のような場所に放置されていたからか、屋根はボロボロで黒鍵の色が剥がれている部分もある。
「よくこの状態で弾けたわね」
あまりにも酷い状態だったので、弦もかなり傷んでいただろう。何かを弾ける状態とはとても思えなかった。
「あー...実はこっそり修理していたのよ」
「まさか」
天井を開き、弦を見てみると、たしかに中は真新しい弦に張り替えられており、清掃もされている。確かにところどころに修理されたような跡もあった。
「この廃工場跡に幽霊が出るって噂を聞いてね。春休みに先行調査に来たのよ。まあそっちは空振りだったんだけど...その時にこのピアノを見つけてね」
蓮子が言うには、発見当初は手もつけられない状態だったらしいが、何故かこのピアノに惹かれてもう一度音を出して演奏してみたいという気になったらしい。春休みから数ヶ月掛かりで1人でコツコツと直したとのことだ。蓮子の努力の甲斐もあって無事先ほど私が聞いたような綺麗な音が奏でられるようにまで復活を成したようだ。
「それにしてこれを1人で...ほんと貴女は何でもできるわね」
「メリーほどでもないわ」
修理の出来を褒められて嬉しいのか、少し照れながら蓮子は笑った。
私自身もピアノには覚えがあるので弾かせてもらったが、よく1人でここまで直せたものだと感心してしまう。もう一度音を出せるようになったピアノは、今蓮子に感謝しているだろうか、そんな思いをしながら私はピアノを奏でた。
しばらくして演奏を終えると、蓮子が拍手を送ってくれた。
「さすがね、メリー」
「ありがとう蓮子」
久々に弾いたピアノの演奏で褒められるのも悪くない。私たちしかいない静かな演奏会だ。
「メリーはさ、曲ってどう思う?」
演奏後のつかの間の余韻に浸っていると、ふと蓮子から疑問を投げかけられた。質問が抽象的ですぐに答えが思い浮かばなかった。悩んだ顔で蓮子の方を見ると、彼女は私に代わりピアノチェアに座り、続けた。
「曲っていうのは、一つの文学小説だと私は思っているわ。小説と同じように音楽にも、それを紙に書き落とす作者がいる。感動、怒り、嫉妬、憎しみ、いろんな感情を、旋律を通じて表現する。そして後世になりそれを奏でる奏者や聴衆の数だけ解釈が産まれる。まさにこれは小説と同じよ」
そう言い、まるで大切な人の髪を触るかのような優しい触り方で鍵盤に手を添わせた。
「ピアノもそう。表現されるために作られて、寵愛され、修繕され、誰かのために音を奏で続ける。あのピアノで聞いたあの曲、もちろんこのピアノにも誰かの想いがあると思う。そう思うからこそ、ここで見つけた何かの縁。もう一度魂を吹き込み、メリーの記憶に残せるようなピアノにしたい」
だからメリーをここに呼んで、見てもらいたかったのよ。と蓮子は語った。
「ほんと貴女のそういう情緒的なところ、大好きよ」
「そう言ってもらえると、こんな場末のホールに招待した甲斐があったわ」
皮肉めいたように蓮子が満足げに笑った。
「それじゃあそんな演奏者様は一体どんな素晴らしい曲を私に読み聞かせてくれるのかしら」
それに応えるように私も茶化したように言ってみる。それを聞いた蓮子は笑顔でこう答えた。
「私から貴女だけに奏でる独奏曲よ、メリー」
日が傾き、夕暮れのまどろみの中、2人だけの小さな小さな箱庭であなたが聞かせてくれたピアノの音。
"夢想"の中で永遠に聞こえるその曲を私はずっと忘れない。
メリーに聞かせる瞬間を想像して数か月間ニヤニヤしながら直していたのかと思うと、とたんに蓮子がかわいく見えてきました