「退屈?」
「そう、退屈。ああ、最近は女苑のおかげであまり退屈しませんけど」
「そりゃどーも」
血の池地獄に沈むのが趣味だと聞いて、何が楽しくてそんな馬鹿げたことをするのか、興味本位で尋ねてみた。するとそいつは、退屈だからですよ、と臆面も無く言い放った。
「聖がいて、仲間がいて、穏やかな暮らし。それで十分幸せなはずなのに、すぐに物足りなくなってしまうの」
灯籠に腰掛けながら、ムラサは自嘲気味に笑った。そこ座っていいのか。怒られるんじゃないか。
「だから定期的に血の池地獄に行って、自分が人殺しの罪人であることを確認するんです。自分のような存在が、平穏で長閑な暮らしを送れる。それがどれだけ有難いことか、思い出すために」
「難儀なやつね。まあ、こんな娯楽の少ない暮らしをしていたら、退屈するのも仕方ないけれど」
苦しみから逃れるための修行が、そんな不毛な行動に結びつくなら、それは本末転倒なのではないだろうか。
「やっぱ修行なんてクソだわ。私はアンタみたいには絶対ならない」
「いいえ」
ムラサはやけに明確に否定した。朗らかな笑みを浮かべている。
「あなたは私に似ています」
命蓮寺での暮らしにも、なんだかんだで慣れてきた。
質素で慎ましやかな暮らしは、まあ、なんだ。悪くないよ、うん。
ただそれは、生活そのものの話だ。修行とか仏教の教えには、正直納得いっていない。
仏陀の入滅から二千年以上かけて、何百万人もの人間が手を変え品を変え修行をしても、涅槃に至れたのはそのうち1パーセントにも満たないというのは、どうなんだ。修行自体に根本的な欠陥があるんじゃないだろうか。多分。知らんけど。
「その欠陥がきっと、アンタみたいなやつを作り出してしまうのよ」
わざと嫌味っぽく言ったのだが、ムラサは怒りもしない。特に興味が無さそうだった。
「そんなの聖か星に言ってくださいな」
ごもっとも。だが私は宗教議論をしたいわけではないので、その提案は却下だ。
「私自身は、ただの修行不足だと認識していますけど」
「そう言う割には修行に不真面目よね」
こいつが自発的に修行しているところなんて見たことが無い。大体ぼーっとしているかフラフラしているかだ。
先週は丸々一週間ろくに睡眠も摂らずに、延々さとり妖怪の妹の方と花札をしていた。狂気を感じた。
「だって、別に悟りを開きたい訳ではないもの」
言い切った。いいのかそれで。私は思わず周囲を見回した。誰かに聞かれたらどうすんの。
「言ったでしょう?私は今の暮らしで十分幸福なんです。たまにそれを忘れてしまうだけ。これ以上なんて求めてない」
ほんのちょっと前まで辛気臭い顔をしていたのが嘘みたいに、その目は確信に満ちていた。
「あなただってきっと同じ。だから私達は似ているの」
それから暫く経って、私は寺から逃げ出した。飽きたのだ。結局最後まで修行や教義に納得いかなかったのも要因だ。
慣れて、物足りなくなって、別のものに手を出す。これまで何度も繰り返してきたことだ。結局あの寺も、そのサイクルの一部でしかなかったのかもしれない。
私は以前と同じように、カモから金を巻き上げる暮らしを始めた。久々の散財は楽しかった。生きる実感を得られた。
カモを探し、金を巻き上げる。金を使う喜びを味わう。しかし、何度も繰り返しているうちに、物足りなくなってくる。
だから、もっと金のあるカモを探す。そしてもっと金を使う。だが、それにも物足りなくなってくる。
もっともっと金のあるカモを探す。もっともっと金を使う。そして物足りなくなる。
もっともっともっと金のあるカモを探す。そんなカモはそうそう居ない。でも欲しい。でも見つからない。欲しい。見つからない。欲しいのに、手に入らない苦しみ。胃が圧迫されているような不快感。脳に火が付いているかのような焦燥感。もうずっと昔から、何万回も味わってきた感覚だ。
この苦しみから、私はいつも、どうやって抜け出してきたんだったっけか。忘れた。長い間普段のルーティンから外れていたせいで、分からなくなってしまった。
適当に目に入った飲み屋に飛び込んで、手元に残っていた金を全て酒と飯に変えた。それでも足らず、店に居た客の財布を一つ残らず空にした。店主を含め全員がしたたかに泥酔した後、店を出た。ただただ虚しさと気分の悪さが残った。
──何かを追い求める心こそが渇愛であり、苦の原因です。渇愛を止め、喜怒哀楽や欲求が浮かんでは消えることをただあるがままに眺め、受け入れること。それこそ修行の目的であり、涅槃の境地なのです。
寺で聞かされた白蓮の説法が脳裏に反響する。説かれるまでもなく、私はとっくの昔に知っていた。欲望こそが苦しみだと。
だが、苦しみから逃れる方法も、私は知っていたはずだ。修行などに依らずとも。
道端に倒れ込んで、夜が明けるのを待った。
憎らしくなるほどの晴天の中、人里を歩く。次なるカモを見つけるためか、単に気晴らしのためか。分からない。私はどこに向かっているんだ。
「お、妹」
妙に気安い声が頭上から降ってきた。
「…アンタか」
顔を上げると屋根の上に、夏空みたいに青い髪の女がいた。なんで屋根の上に居るんだ。そこ人ん家だろ。
「そう、私だ。敬え」
女は腕を組んでふんぞり返った。傲岸不遜を絵に描いたようなやつだな。
「姉さんは?」
そういえば随分長い間会っていない。今の今まで存在を忘れていた。いや、思い出さないようにしていたのかもしれない。
「さあ。昨日は一緒に居たけど、今日は見てないな」
女の声はどこまでも軽く、チリチリと静電気のように私の意識を炙った。
「どこ行ったの」
「いちいち行き先まで知らないよ」
「ああ、そう」
無責任だ、と思った。
姉さんがこの女に着いて行くのは、別に構わなかった。姉さんの自由だ。姉さんが自分で選んだ、信頼できる相手だ。それなのに。
「オマエ、姉さんを何だと思ってる」
青髪高慢女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。その顔すらも癇に障った。
「面白いやつだと思ってるけど」
「ああ、そう」
面白いやつ。そうか。その程度の認識で、連れ回していたわけか。
ああそう。そうか。そうですか。
殴り掛かったら返り討ちにあった。
私の隣には姉さんがいた。ずっと。
いつも辛気臭い顔をして。
何一つ満たされない暮らしをして。
ほんのちっぽけな幸運で、極上の喜びを感じられるやつが。
あいつのせいで、どれだけの不運に見舞われたか知れない。
どれだけの金を集めても、あいつの傍にいるだけで、全てが無に帰す。どん底に落ちる。
そうしてまた一から、喜びを味わい直すことができるようになる。
私が欲望の苦しみから抜け出すことができていたのは、姉さんがいたからだ。
ムラサが血の池地獄に沈んで、日常の幸福を再確認するように。
私は姉さんの力でどん底に落ちて、小さな喜びを再発見する。
「確かに、似てるかもね」
だが。しかしだ。
「私は、アンタみたいにはならないよ。ムラサ」
なってたまるか。
私は自分を変えるために寺に居たのだから。
不毛なサイクルは、ここで終わりにするんだ。
足は家に向かっていた。しばらく帰っていなかったけど、足は道を覚えていた。あそこが私の帰る場所だと教えるようだった。そんなこと、教わらなくても知ってんだよ。気付けば足は駆け出していた。
「ただいま」
がたついた扉を開けると、斯くして姉さんは家にいた。そんな気はしていた。認めたくはないが、分かるのだ。何故か。
「女苑」
久々に会った姉さんは、最後に見た時と何も変わらない辛気臭い顔をして、仰向けに寝転んでいた。天人パワーで浄化されたりはしていなかった。あいつにそんな能力は無いか。
「おみやげ」
帰宅後一秒で物乞いを始めた。寝そべったまま床を叩いて催促してくる。ぶれないやつだ。ポケットを漁ったら飴が出てきたので放り投げた。飛びついて食べ始めた。野鳥か何かか。思わず苦笑してしまった。
私の片割れ。半身。生活の一部。切っても切っても切り離せない。きっと、死ぬ時まで、私は姉さんと一緒に居る。
ならば、共に堕ちるだけなのか。否だ。
「やってやろうじゃないの」
疫病神だから、貧乏神だから、何だって言うんだ。
私は、この姉と共に、幸せになってやる。
きょとんとした顔で私を見上げる姉は、何も知らないくせに、へらりと笑った。
「そう、退屈。ああ、最近は女苑のおかげであまり退屈しませんけど」
「そりゃどーも」
血の池地獄に沈むのが趣味だと聞いて、何が楽しくてそんな馬鹿げたことをするのか、興味本位で尋ねてみた。するとそいつは、退屈だからですよ、と臆面も無く言い放った。
「聖がいて、仲間がいて、穏やかな暮らし。それで十分幸せなはずなのに、すぐに物足りなくなってしまうの」
灯籠に腰掛けながら、ムラサは自嘲気味に笑った。そこ座っていいのか。怒られるんじゃないか。
「だから定期的に血の池地獄に行って、自分が人殺しの罪人であることを確認するんです。自分のような存在が、平穏で長閑な暮らしを送れる。それがどれだけ有難いことか、思い出すために」
「難儀なやつね。まあ、こんな娯楽の少ない暮らしをしていたら、退屈するのも仕方ないけれど」
苦しみから逃れるための修行が、そんな不毛な行動に結びつくなら、それは本末転倒なのではないだろうか。
「やっぱ修行なんてクソだわ。私はアンタみたいには絶対ならない」
「いいえ」
ムラサはやけに明確に否定した。朗らかな笑みを浮かべている。
「あなたは私に似ています」
命蓮寺での暮らしにも、なんだかんだで慣れてきた。
質素で慎ましやかな暮らしは、まあ、なんだ。悪くないよ、うん。
ただそれは、生活そのものの話だ。修行とか仏教の教えには、正直納得いっていない。
仏陀の入滅から二千年以上かけて、何百万人もの人間が手を変え品を変え修行をしても、涅槃に至れたのはそのうち1パーセントにも満たないというのは、どうなんだ。修行自体に根本的な欠陥があるんじゃないだろうか。多分。知らんけど。
「その欠陥がきっと、アンタみたいなやつを作り出してしまうのよ」
わざと嫌味っぽく言ったのだが、ムラサは怒りもしない。特に興味が無さそうだった。
「そんなの聖か星に言ってくださいな」
ごもっとも。だが私は宗教議論をしたいわけではないので、その提案は却下だ。
「私自身は、ただの修行不足だと認識していますけど」
「そう言う割には修行に不真面目よね」
こいつが自発的に修行しているところなんて見たことが無い。大体ぼーっとしているかフラフラしているかだ。
先週は丸々一週間ろくに睡眠も摂らずに、延々さとり妖怪の妹の方と花札をしていた。狂気を感じた。
「だって、別に悟りを開きたい訳ではないもの」
言い切った。いいのかそれで。私は思わず周囲を見回した。誰かに聞かれたらどうすんの。
「言ったでしょう?私は今の暮らしで十分幸福なんです。たまにそれを忘れてしまうだけ。これ以上なんて求めてない」
ほんのちょっと前まで辛気臭い顔をしていたのが嘘みたいに、その目は確信に満ちていた。
「あなただってきっと同じ。だから私達は似ているの」
それから暫く経って、私は寺から逃げ出した。飽きたのだ。結局最後まで修行や教義に納得いかなかったのも要因だ。
慣れて、物足りなくなって、別のものに手を出す。これまで何度も繰り返してきたことだ。結局あの寺も、そのサイクルの一部でしかなかったのかもしれない。
私は以前と同じように、カモから金を巻き上げる暮らしを始めた。久々の散財は楽しかった。生きる実感を得られた。
カモを探し、金を巻き上げる。金を使う喜びを味わう。しかし、何度も繰り返しているうちに、物足りなくなってくる。
だから、もっと金のあるカモを探す。そしてもっと金を使う。だが、それにも物足りなくなってくる。
もっともっと金のあるカモを探す。もっともっと金を使う。そして物足りなくなる。
もっともっともっと金のあるカモを探す。そんなカモはそうそう居ない。でも欲しい。でも見つからない。欲しい。見つからない。欲しいのに、手に入らない苦しみ。胃が圧迫されているような不快感。脳に火が付いているかのような焦燥感。もうずっと昔から、何万回も味わってきた感覚だ。
この苦しみから、私はいつも、どうやって抜け出してきたんだったっけか。忘れた。長い間普段のルーティンから外れていたせいで、分からなくなってしまった。
適当に目に入った飲み屋に飛び込んで、手元に残っていた金を全て酒と飯に変えた。それでも足らず、店に居た客の財布を一つ残らず空にした。店主を含め全員がしたたかに泥酔した後、店を出た。ただただ虚しさと気分の悪さが残った。
──何かを追い求める心こそが渇愛であり、苦の原因です。渇愛を止め、喜怒哀楽や欲求が浮かんでは消えることをただあるがままに眺め、受け入れること。それこそ修行の目的であり、涅槃の境地なのです。
寺で聞かされた白蓮の説法が脳裏に反響する。説かれるまでもなく、私はとっくの昔に知っていた。欲望こそが苦しみだと。
だが、苦しみから逃れる方法も、私は知っていたはずだ。修行などに依らずとも。
道端に倒れ込んで、夜が明けるのを待った。
憎らしくなるほどの晴天の中、人里を歩く。次なるカモを見つけるためか、単に気晴らしのためか。分からない。私はどこに向かっているんだ。
「お、妹」
妙に気安い声が頭上から降ってきた。
「…アンタか」
顔を上げると屋根の上に、夏空みたいに青い髪の女がいた。なんで屋根の上に居るんだ。そこ人ん家だろ。
「そう、私だ。敬え」
女は腕を組んでふんぞり返った。傲岸不遜を絵に描いたようなやつだな。
「姉さんは?」
そういえば随分長い間会っていない。今の今まで存在を忘れていた。いや、思い出さないようにしていたのかもしれない。
「さあ。昨日は一緒に居たけど、今日は見てないな」
女の声はどこまでも軽く、チリチリと静電気のように私の意識を炙った。
「どこ行ったの」
「いちいち行き先まで知らないよ」
「ああ、そう」
無責任だ、と思った。
姉さんがこの女に着いて行くのは、別に構わなかった。姉さんの自由だ。姉さんが自分で選んだ、信頼できる相手だ。それなのに。
「オマエ、姉さんを何だと思ってる」
青髪高慢女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。その顔すらも癇に障った。
「面白いやつだと思ってるけど」
「ああ、そう」
面白いやつ。そうか。その程度の認識で、連れ回していたわけか。
ああそう。そうか。そうですか。
殴り掛かったら返り討ちにあった。
私の隣には姉さんがいた。ずっと。
いつも辛気臭い顔をして。
何一つ満たされない暮らしをして。
ほんのちっぽけな幸運で、極上の喜びを感じられるやつが。
あいつのせいで、どれだけの不運に見舞われたか知れない。
どれだけの金を集めても、あいつの傍にいるだけで、全てが無に帰す。どん底に落ちる。
そうしてまた一から、喜びを味わい直すことができるようになる。
私が欲望の苦しみから抜け出すことができていたのは、姉さんがいたからだ。
ムラサが血の池地獄に沈んで、日常の幸福を再確認するように。
私は姉さんの力でどん底に落ちて、小さな喜びを再発見する。
「確かに、似てるかもね」
だが。しかしだ。
「私は、アンタみたいにはならないよ。ムラサ」
なってたまるか。
私は自分を変えるために寺に居たのだから。
不毛なサイクルは、ここで終わりにするんだ。
足は家に向かっていた。しばらく帰っていなかったけど、足は道を覚えていた。あそこが私の帰る場所だと教えるようだった。そんなこと、教わらなくても知ってんだよ。気付けば足は駆け出していた。
「ただいま」
がたついた扉を開けると、斯くして姉さんは家にいた。そんな気はしていた。認めたくはないが、分かるのだ。何故か。
「女苑」
久々に会った姉さんは、最後に見た時と何も変わらない辛気臭い顔をして、仰向けに寝転んでいた。天人パワーで浄化されたりはしていなかった。あいつにそんな能力は無いか。
「おみやげ」
帰宅後一秒で物乞いを始めた。寝そべったまま床を叩いて催促してくる。ぶれないやつだ。ポケットを漁ったら飴が出てきたので放り投げた。飛びついて食べ始めた。野鳥か何かか。思わず苦笑してしまった。
私の片割れ。半身。生活の一部。切っても切っても切り離せない。きっと、死ぬ時まで、私は姉さんと一緒に居る。
ならば、共に堕ちるだけなのか。否だ。
「やってやろうじゃないの」
疫病神だから、貧乏神だから、何だって言うんだ。
私は、この姉と共に、幸せになってやる。
きょとんとした顔で私を見上げる姉は、何も知らないくせに、へらりと笑った。
女苑の苦しみと姉への覚悟がとてもよかったです