Coolier - 新生・東方創想話

そんな村

2021/02/13 16:44:24
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 蕎麦を啜っているときにうどんのことを考えるのは、失礼にあたるのだろうか。そんな事を考えながら、目の前に盛られた蕎麦の山を崩していった。
「ありがとうございます。どうぞこれからもご贔屓に」
 大盛りのざる蕎麦を完食したにも関わらず、私の胸からは何かが足りていない気がしてならない。それの正体は判っている。
 うどんだ。この幻想郷では、うどんを啜ることが出来ないのだ。人里には蕎麦屋は数多くあり、鎬を削りあっているが、うどんを出す店は一つとしてない。最後にうどんを食べたのは何時だったか、もはや覚えていないくらいだ。
昼時の喧騒がやかましい人里のなかで、私一人ぽつんと物を考えた。


「で、私に訊きに。いえいいのですけど」
 阿求さんは失笑する。私だって少し恥ずかしい。“うどんを食べたいのだが、人里には存在しない。どうしたものか”なんて訊くのは。
「そもそも人里にうどんが無いのは何故か、からお話ししましょうか」
 彼女のすこし速い語りに苦戦しながら、メモ帳にペンを走らせる。およそ十分後に彼女は長く息を吐き、語り疲れたことを知らせた。その頃には私の右手はインクで汚れ、メモ帳の上には殴り書きが散乱していた。
 曰く、うどんを作るのに欠かせない小麦や塩は貴重品であるため、簡単には手を出せない。では自分で小麦を育てればいいのかというとそうでなく、そも幻想郷は小麦が育つような風土ではないという。
「ん?では、人里で流通している小麦や塩は何処から?」
「賢者様が持ってきたり、人里外から商いが来たり、といった具合ですね」
 とりあえず、うどんは簡単には食べられないということだ。がっかりしながら阿求さんにお礼を言い、人里に戻った。
 今の人里では食べられないことが判ったので、逆に諦めがついた。うどんのことは頭から消し、ネタ探しに集中しよう。しかし困ったことに、ハレの日は程遠く、これといった事件も起こっていない。
 であれば安易に店の紹介などを書くしかないのだが、塩梅が難しい。一つの店を持ち上げるだけでは公平ではない。どこぞの妖怪の「蟲の知らせサービス」などならいざしらず、奇抜かつ独創的なものでなければ紹介するのも難しい。
「新聞とは、かくも難しいものであった…」
 再確認。仕事は辛いものだった。
 じゃあもう適当にそこらの店を取材して小さい枠で紹介すればいいやとか、そんな考えが頭を支配した。人里の中心部から離れた此処らは、通好みの店が並んだ親不孝通りだ。とはいえ中には唐傘が営む鍛冶屋やまっとうな甘味処もあるので、一概には言えないか。
 黒い塗装が剥げかけた店に狙いを定め、突撃取材を敢行した。
「いらっしゃいませ」
 うやうやしく声をかけたのは、若い男の人だった。店の外観からは想像できなかった出迎えに、少々びっくりする。店には他の影はなかった。
「どこでも、お好きなところへ」
 そう言って台所に戻る男の人。どうやらこの店は彼一人で経営しているらしい。
 これは外れか、と思った。長い経験から、面白いものを嗅ぎつける能力にはそれなりに自信があった。しかし今回はうまく働いてくれなかったようだ。何か一つ小さなものを頼んで、お暇することにしよう。そう考えておしながきを手に取った。
 山菜うどんとかごぼ天うどんとか、うどんばっかり載っていた。
「……」
 私のお腹は大盛りざる蕎麦で満ち々ちて、もう入るとは思えない。しかしそれでも食べなければいけない。
「すみませーん」
「はい」
「ミニのしょうゆおろしうどんをお願いします」
 注文を受けた男の人は台所に戻る。すぐにおろし大根の匂いがしてきた。そして釜から湯気があがる。つやつやとしたうどん麺がざるにあげられ、冷水でしめられる。
「お待たせしました」
 そう言って、私の前にしょうゆおろしうどんを置く。私以外に客はいないから、待ったということはないのだけれど。
「いただきます」
 箸を手に取り、久しぶりに見たうどんを啜る。蕎麦とは違う歯ごたえ。すこし辛い大根おろしの風味が鼻に抜ける。総じてとても美味しい。知らなかったことを後悔するほどだ。
「なのに」
 どうしてここまで客が少ないのだろうか。今は昼時を少し外れたくらいで、そこまで客足が少ないわけではない。立地の影響もあるだろうか。周りは飲み屋ばかりだし。そんな事を考えていると、いつの間にか食べ終わってしまった。それなりにお腹が重い。
「ごちそう様でした」
 私が食べ終わったのを見て、男の人がお椀を下げにくる。私の前を通る腕は細く締まり、よく日に焼けている。もしかしたら普段は別の仕事をしているのかもしれない。
「美味しかったです。ご馳走様でした」
「幸いです」
 うどんを食べたいという欲求は綺麗に消え去り、あとには充実感とお腹の重さだけが残った。こうも美味しいなら、もっと頻繁に来てみてもいいかもしれない。うどんを食べれるし。
「それじゃあお代ですね。少々お待ちを」
「いえ、結構です」
「あ?いえ、そういう訳には」
「いえ、要りません」
 頑として受け取りは拒まれる。やった儲かった、とか思わないでもないが、流石に常識は弁えているつもりだ。
「どうしてそんなに嫌がるんです?まさか道楽でやってるとか言わないでしょうね」
「いえ、そうではなくて…この店は今日で閉めるのです」
 ガガン、とわりと大きな音が頭の中で鳴った。せっかくうどんを食べられるお店を見つけたというのに、即日閉店とは。悲しいやら釈然としないやら。
「ちょちょ、ちょっと…お話伺ってもいいですか?一応こういう者なんです」
「はぁ、ルポライター」




 儲かっていない、ということは無いですね。少ないけどお客さんも来てくれますし。たまたま今日は来てなかっただけです。いつも昼時はわりと来るんですよ。
 閉める理由ですか。表向きは経営不振、ということになっています。実際には計画倒産のようなものです。実のところ、この店は長く続けようとは思っていませんでした。いうなれば練習だったんです。接客やら配膳やら、帳簿づけやら。
とある宿屋があるんですよ。人里の中にはではないんですが。私がいた村からここまでは遠いので、その宿屋をつかうのです。そこを継ごうと思っているのです。ばあさんが長いこと一人でやってるので。
 はぁ、うどんを作れる理由。土地柄とでもいいましょうか。元居たところではよく作っていたので、自然と作れるようになりました。海に近いのでしょうかね。近くに川が流れているのですが、下流はひどく塩っ辛いのです。汽水というそうで。それで飲むことは出来ないのですが、かわりに塩が作れるのです。それに土地が渇いているので、米のかわりに麦や大豆を育てているのです。
 なんと、取材に向かいたいと。いえ、女性ではとてもとても行けません。私が一晩歩き通してもまだ着かないほどですから。




 そして、取材の次の日。
 朝早くに人里を出ていく影を見つけて、そっと近づく。
「お早うございます。こんな朝方から出発ですか」
「…呆れたお人だ。連れては行きませんよ」
「大丈夫ですよ。ついて行くので」
 彼は頭をかかえ、耐えきれないというように大きく息を吐いた。背負子には水筒や頭巾、一つ歯下駄などが見える。男の人はしれっと黙って歩き出す。とうぜん私もついて行くが、もはや彼は何も言わなかった。ちょうど雲を割って朝陽が射し、彼の背負子を照らした。
 魔法の森はわりと人里に近い。すこし里外を歩くだけでも着いてしまう。いま私たちの目の前にはそんな身近な森が茂っていた。
 森に近づくと彼は右に曲がった。ちょうど森に沿うような形で歩くことになる。妖怪が森に近づかないことを利用して、森の縁を歩いているのだ。確かに安全ではあるが、なるほど時間がかかるわけだと思った。森を通れたらいくらか楽だろうに。
 時々漏れ出してくる瘴気を別にすれば、とくに危険なことはない。互いに咳き込みながら進んでいく。陽が高くなっていき、照りが強くなってくると彼が止まった。
「休憩しましょう」
 石に腰掛け、水筒を取り出し一口あおる。もう一つ用意していたのか、空いている手で私に差し出す。
「ありがとうございます」
 竹で作られた水筒からちゃぷんと音が鳴る。すこし爽やかな香りがした。飲んでみると、どうやらこれは橘の香りであるらしい。皮片が底に沈んでいる。
「今夜は言っていた宿屋に泊まるので、急ぎます。気張ってください」
「了解です」
 そういえば、その宿屋についての細かい話を聞いていなかったことを思い出す。
「いったいどういった経緯でそんなところに?泊まる客も少ないでしょうに」
「それは、向かいながら話しましょう」
 そう言ってまた歩き始める。地面は湿気でぬかるんでおり、ひどく歩きにくい。


 その村はずっと昔から小麦や塩を人里に流していて、彼の家はその商いを担っている家系だった。しかしその道中で妖怪、とりわけ山に住む猿の経立に悩まされていた。人里へ行くにはどうしても山を越える必要があるため、避けては通れない。
 ほとほと困りはてたが、結局どうすることも出来ないようだった。しかし誰かがこう言った。山頂を通ろう、彼奴らは山の上までは登らないから、さっさと上まで登って、さっさと下ってしまおうと。
 しかしそれでも問題がある。なにしろ、一々頂上まで登る破目になる。それでは運ぶのに時間がかかりすぎるのだ。出発してから人里に着くまで、優に二日三日はかかる。
 その間の飯はどうする。懐中物の干物だけで旅路を乗り越えれるだろうか。うんうんと悩み、それなら頂上に飲み食いできるような休憩所を作ろうという運びとなった。
 当然こんな試みが簡単に進むわけもなく、幾多もの困難があった。
 まずは頂を切り拓く必要があった。質の悪い斧をいくつも担いで登って行った。悪路に足を滑らせながら一行は進む。その道中で経立どもの襲撃があった。槍で突き、刀で薙ぎ、脂と血で粗布の服を汚しながら、山道を駆け抜けた。幾つの命がなくなったのか、今となっては知る者はいない。
 山頂から天を望んだ影に、傷のない者はなかった。顔を下げる者もまた、なかった。
 ただ、蒼に塗り潰された空を見上げた。


「こんな所に建ててもいいのだろうか」
 誰からともなくそんな言葉がとび出た。それほどまでに、ここからの眺めは―奇妙なほど人の心を掌握する。
「いや、建てなければ。でないと報われん」
 そう言われて、そうだと誰しも得心がいく。何のために此処まで来たのか忘れるところだった。各々担いでいた斧を振るい、樹木を切り倒しにかかる。
 しかし、経立に減らされた者が多すぎたのか、作業が思うように進まない。ようやく少し拓けてきたかと思うと、空が微暗くなりはじめている。夜に成る前に作業を止めさせる。しかし、作業を終えたところで、降りるのも憚られた。先程のいざこざで、完全に経立と敵対してしまっている。それに衆は満身創痍で、下手を打てば全滅してしまうだろう。
 話し合い、不安ながらも此処で一夜を過ごすことに決めた。不幸中の幸いというべきか、頭数が減ったことで食料には余裕がある。斧を小脇にかかえ、背中を預け合うようにして眠った。
 その夜のことだ。
 ふと、目を覚ました者がいた。何かが動く気配を感じ取ったからだ。月が少々欠けながらも明るく辺りを照らしている。
 羽衣をまとった女がその光に照らし出された。
「起こしてしまい申し訳ありません。ですが、急を要する用件です。お聞きを」
 男は困惑したが、どうやらただならぬ事であると察し、衆を起こしてまわった。そうして誰もが目を覚ましたことを確認し、改めて女から話を聞いた。
「此処は龍神様の休まれる土地なのです」
 衆は身構えた。もしかしたら、建設を止めろ、など云われるかもしれん。しかし、女は裏腹に、私は手伝いに来たのだと言った。
「龍神様は楽しまれています。もし本当に宿ができるのなら、私も泊りに行く、と」
 なんとも畏れ多い話であるが、本当に龍神が泊まるというのなら、頼もしい限りである。眠りも程々に、食料を取らせに何人かを村に戻し、残った衆は作業を始めた。
 空が明るみ始めている。


「壮大な話ですね。やっと宿を作り始めたくらいじゃないですか」
 何かを踏み潰したと思ったら、茸だった。
 湿気のせいで靴が蒸れる。陽が昇っているせいで汗もかくので、ひたすらに服が鬱陶しい。しかし先導する彼はというとまるでへたった様子を見せない。これでは天狗の名折れである。プライドを杖にして歩を進めると、手ぬぐいが差し出された。
「見ていて暑くなります。だから女性では辛いと言ったのに」
「…心配無用です」
 あたりの涼風を集めて纏う。これなら暑さは感じない。
 問題は、なぜか進まない足だ。魔法の森を離れ、山に登り始めたあたりから、歩が重い。
 体力が尽きてきた、わけではない。まだ余裕がある。足が重いのだ。しかも進む毎に重さが増していく。このような現象は初めてである。
「この山を登りきれば、言っていた宿があります。もう少し頑張ってください」
「例の、龍神様が泊る宿ですか」
 果たしてどこまで本当なのか。そう易々と信じられる類の話ではない。
 しかし、頂から大きな力を感じるのも―事実なのだ。
 夏の山は湿気が多く、茸が多く生えている。その内に魔法使いでも飛んできそうな場所だ。というより、既に持って行かれた後なのかもしれない。所々に採られた跡がある。道のりではそんな跡が幾つか見えた。
 時々休憩を挟みながら、ゆっくりと進んでいく。相変わらず足は上がらず、やっと頂上が見える所まで登って来たかと思うと、すでに空は微暗い。気温も下がりはじめ、かいた汗が冷たくなってきた。
「もうすぐ、ですよね」
「もうすぐです」
 少し安心する。まだまだ歩かないといけない、などと言われたら少し絶望するところだった。不意に、木々の間に赤い光を見つける。
―経立か。
 すぐに気づいた。コイツ等は臭いくせに群れを成すから、迷惑極まりない。
 さてどうしようか。撃退することなど造作もないが、せっかく人間だと偽ってきた―もっとも、自分は人間だ、などとは言っていないが―苦労が無に帰す。妖怪だとバレると口を噤まれる可能性もあるので、それは避けたい。
「あの、気づいてます?」
「勿論です。急ぎましょう」
 そう言って駆け足で登る。経立は山の頂上までは登らないので、確かに有効な手段、だが。
「置いてかないで下さいよー」
 未だ足が不自由な私には、とても追いつけるべくもない。登り始めたときには全く気にならなかったものが、今では足を縛っているかのように強くなっている。彼の背中が遠い。
 痺れを切らした一頭の経立が、茂みから飛び出す。それを皮切りに、続々と猿共がわきでる。おっ勃てている個体までいる始末だ。だから猿の経立は嫌いなんだ。
「後から追いつくので、先に行っててくださーい」
「わかりましたー」
 そこでこう返すあたり、彼もどこかズレている。勝手について来ただけだし、勝手に死んでくれても構わないということだろうか。しかし確かに、経立に襲われて死ぬような足手まといは要らないだろう。


―もういいや、飛んじゃえ。どうせ見られないだろうし。
 こうして上から見てみると、思っていたより高い山であることに気づく。そして、その頂上には微かな灯りと、大きな威圧感。
「なるほど、龍神様が泊る宿。嘘じゃないみたい」
 近づく事すら躊躇われる程。登り始めから今なお体に纏わりつくこれは、龍神様の力によるものだったか。じゃあとっとと行こう。宿まで一気に飛ぶ。
 それで着いた宿は、マジで粗末な宿だった。木の骨組みは危なっかしいし、屋根に穴が空いてるのが見えるし、割れた窓は割れたままにしてある。あと全体的に傾いてる。もしかして私が感じたあの威圧感は、此処に来ても面白いものなどないぞ、と云ってくれてたのかもしれない。
「…まぁ、入るけど」
 妙に抵抗してくる引き戸をやっとこさ開けると、寛いでいる彼とお婆さんがいた。お婆さんのほうは少し驚いたような顔をしている。
 だが、此方はより驚いた。この威圧は、他ならぬお婆さんが放っていたから。
「アンタがついて来た人ね。女でよく登ったもんだわ」
 まずは風呂に入って汗を流しなさいと、優しくお婆さんは言った。そんな気遣いはとてもその威圧に似つかわしくない。どうにもちぐはぐな人だ。
 とりあえず言われた通りにお風呂に入って来ると、彼が大きな卓袱台を出そうとしているところだった。
「もうすぐ晩めしです。そこのやつから選んで、ばあさんに伝えてください」
 顎で示された先には、いくつかの料理が書かれた紙が落ちていた。拾って見てみると、やはりというかうどんの項があった。でもお米はない。あとは山菜漬けとか、茸の包み焼などがある。もしかして茸が採られた跡ってお婆さんのものだったのだろうか。
 とりあえず山菜うどんと茸のしょうゆ焼きを頼む。とんとんと包丁を鳴らすときまで威圧感が絶えないものだから、心労が大きい。いったいお婆さんの正体は何なのか。まさか龍神様が化けた姿とは云うまい。
 それにしても此所のご飯は美味しい。しょうゆがふんだんに使われているからか。なかなか里ではお目にかかれない。


 歯磨きを済ませ、寝る折になって気づく。蒲団が二つしかない。するとお婆さんが外で寝るから使ってくれていいと言った。
「待ってくれ、ばあさん。そしたら俺が外で寝るよ」
「いいよ。夏だからどうってことないよ」
 しかし彼は譲らない。結局お婆さんと私が蒲団をつかうことになった。
「すいません、私はただついて来ただけなのに」
「別にいいが、それよりも理由が気になるね」
「はぁ、ルポライターという、物書きの業に就いてまして。彼の村を訪れようと」
「じゃあつまり、私の地元ってことかい」
 お婆さんも彼の村の出身で、ずっとこの宿をやってきたらしい。この人のお母さんがこの宿の役目を引き受けて、亡くなってから継いだという。
「そうだ、どうせだからこの話を聞いておくれよ。もっと沢山の人に自慢したいんだ」


 まだ若い、店を継いですぐのこと。浅黒い肌の大男が泊りに来たことがあった。村では見たことが無い男だった。
 ちょうど村から里へ行く者を送ったあとだったので、宿には空きがあった。こころよく迎え入れ、泊らせることにした。その日のこと。
 風呂に入った男が、何時まで経ってもあがってこない。長風呂と云うには少し長すぎる。心配になって見に行くと、男はのぼせて茹で上がっていた。
 慌てて風呂場から出し、氷嚢代わりの布巾を頭にのせた。暫くして男は目を覚まし、体調も取り戻したようだった。
 しかし、男は自らの痴態を思い出し、頭を抱えた。そして意を決したようにこう言った。
「私は龍神である。初めて風呂に入ったので、具合がわからなかった」
 少し力を遣るから、この醜態は忘れてはくれないかと。果たしてそれは承諾された。それから、妖怪に襲われることはなくなったということだ。


「…これは、話してはいけない話なのでは?」
「それが、前にあの子に話したんだよ。でも妖怪に襲われないからさぁ」
 きっと龍神様も忘れてるんじゃないか。
 そう言ってお婆さんは笑った。確かに威圧感はどこまでも大きく、襲う気になんてならない。あの子というのは、今は外で寝ている彼のことだろう。
 話を聞いて、果たしてこれはどこまで記事にしていいのかと悩んだ。龍神様の失態を載せるなど、そんな事が出来るわけがない。まぁ、そこらは追々考えるとして、今はとにかく寝てしまおう。


 目を覚ましたとき、既に彼は身支度を整えていた。朝ご飯も既に食べ終わっているらしい。起きなければ置いたままにしておくつもりだった、という言葉はきっと冗談ではないのだろう。急いで食べ終わり、当初の目的である村まで向かう。
 すこし靄が出ているが、歩くのに支障はない。危険要素の経立は夜行性なので、こんな朝っぱらからは出てこないだろう。それに、山から下りるときには例の威圧感に悩まされることはなかった。まさに快調快歩というものだ。
 ふと彼の背負子を見ると、すっ空かんだ。何も乗っていない。
「持ってきてた荷物はどうしたんですか?」
「宿に置いてきました。これからはあそこが家になるので」
「なるほど」
 しかし、彼にあの宿が継げるだろうか。あのお婆さんだからこそ、と思えて不安になる。まぁ何かと器用そうではあるから、何とでも出来るだろうが。
 陽がようやく本腰を入れて照らし始めたとき、村が見えた。近くには大きな川が流れている。しかし川の近くには家は建っておらず、すこし離れたあたりに建ててある。言っていたように、塩害でもあるのだろう。
 広い畑は緑に染まり、豊作を予感させる。これが育てているという小麦畑か。日本では見れないと思っていたが、いざ見てみると壮観である。所々に井戸があるのは、川が可飲でないからか。幻想郷離れした景色に浮足立つ。
「もうすぐですので、そう焦らないでください」
 興奮が伝わったか、釘を刺された。しかし、新聞記者にこんな景色を前にして急いではいけない、というのも酷ではないか。どうも彼にはそこらの配慮が足りていないようだ。
 着実に山を下りていき、天頂に陽が頂いたときに村に着いた。こうして地面から見るとまた別様に見える。
「おかえり」
 村に入っていくや否や、色んな人が彼を出迎える。人口は決して多くはない。若い人もいるが、それ以上に年老いた人が目につく。いつの日か消失してしまいそうな村だが、聞くところによるとこの村が塩と小麦の流通源らしい。是非とも頑張ってもらわなければ。
 雑踏の中、聞き耳を立てると、彼の話し声が聴こえてきた。
「これからはお前が卸すわけだ。里への道は判るな」
「勿論」
 弟だろうか、似た顔立ちの人と話している。仕事の引き継ぎの話のようだ。こうして代々役割が受け継がれ、塩や小麦を里に卸してきたのだろう。そう思うと、何となく少し刹那い。今はその郷愁は置いておくけれど。
 何を始めるにも腹拵えから。とりあえずうどん食べよう。


「着替え、何日分だ…?とりあえず一週間…」
 誰も見てないところで飛び立つ。一旦帰り、準備を整えてまた来よう。
 村の場所は覚えた。泊てくれそうな所も見つけた。今度の新聞はもしかしたら一番の売り上げを見せてくれるかもしれない。そう思うと非常にいい気分だ。彼には感謝しなければいけないだろう。
 今は、宿に帰ったあたりだろうか。ちょうど下を見るとあの宿がある。何度見ても粗末だ。さすがにまた泊ろうとは思えなかった。
「ん」
 誰か、山に近づいていく影が見える。先ほど卸し役を継いだ人かと思ったけど、違った。
 その影は背丈が大きく、肌が浅黒かった。
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コメント



0.300簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
答えもなく淡々と進む不思議なお話で夢を見ているような気分になりました
3.100名前が無い程度の能力削除
良い!
6.80名前が無い程度の能力削除
面白かったです。
オチが弱いのと、文は流石にそんなに軟弱ではないと思ったところが気になりましたが、それ以外は全体的に雰囲気も良く面白く読み進められました。
7.80夏後冬前削除
ところどころ気になるところはありましたが、幻想郷が広がっていくような話でワクワクしました。
8.100Actadust削除
人間が再起しているところをどこか冷めた目で、でも決して目も背けず追い続けている文が物寂しくも素敵でした。
情景描写も美しくてよかったです。
9.100南条削除
面白かったです
終始記者としての立場を徹底している文がよかったです
10.100めそふらん削除
面白かったです。龍神さまおっちょこちょいでかわいいですね
11.100水十九石削除
幻想郷のどことなく妖しげな世界観事情にやんわり切り込みつつも物語に必要の無い部分は上手くぼかされている加減が丁度の塩梅で、とても楽しく読ませて戴きました。
文の視点描写に時折混じる他の五感の情報と言い舌鼓と言いテンポの良い物語と言い読んでて本当に気分が良く面白い。ご馳走様でした。