蘇我屠自古は怒りっぽいが情に厚い事で知られている。
それゆえに、身内であればあるほど頼みを断りきれない場合が多く、気ままな怨霊ライフを送っている屠自古にとっての数少ない悩みの一つだった。
何故このような話をしたかといえば、それは彼女が現在進行形で情に訴えかけられているからに他ならない。
つぶらな瞳が三組、合わせて六つ。自分たちの要望を何とか押し通すべく、うるうると屠自古を見つめていたのである。
「……ダメ」
「ダメじゃない!」
「じゃないぞー!」
先ほどからずっとこの調子で押し問答だ。
屠自古と向かい合っているのは物部布都、その右に頭を並べるは宮古芳香、そして白服の布都とのコントラストになっている黒毛の子犬。この布都の胸に抱かれた小動物こそが今回の騒ぎの種だ。
「私は豆腐の絹を買ってこいって行ったよな? それが帰ってきて早々拾った犬を飼わせろだぁ? 死ぬか?」
「豆腐はちゃんと買ってきたし拾ったわけではない! これは太子様の信徒からぜひと言われて引き取ったのじゃ。神霊廟とは犬の一匹も飼えぬほど懐の狭い場所だったかのう!?」
腕の中で子犬が不安そうにクン、クンと鼻を鳴らす。布都はそれを再び屠自古の顔の前に突き出して母性を刺激する。
「うっ……くっ! 皿とか割って懐を圧迫してんのはどこのどいつだよ! ダメ、絶対!」
屠自古は折れない。ただでさえうちには大きな犬や化け猫みたいな仙人が居るのに、これ以上変なペットが増えるのは御免だ。神霊廟の家事全般を取り仕切っている屠自古が余計な仕事を増やしたくないのは当然であった。
仙人である布都はちびっこい見た目からは想像できない長生きだ。そのくせにどうして今さら子犬を飼わせろだのと、女児と母親のようなやり取りをしなくてはならないのか。雷の一発でも喰らわせたいが、流石に子犬を巻き込んでしまう今やるほど、屠自古も鬼にはなりきれなかった。
「あら、ダックスフントじゃないですか! 幻想郷にもいるだなんて、どこから持ち込まれたのかしら……」
屠自古は舌打ちをした。ただでさえ面倒臭い時に例の化け猫まで戻ってきてしまったからである。
「そう露骨に嫌な顔をしないであげなさい。一応……ほら、アレなのだから」
「アレってなんですかアレって。そちらの方がよっぽど失礼なんですけど?」
無礼な弟子の背中を、アレ呼ばわりされたアレが指でぶすぶすと突っついた。
ミミズクと化け猫、もとい聖徳道士・豊聡耳神子と邪仙・霍青娥。耳の良さが自慢のこの仙人達が、言い争いの声を聞き付けて来ないはずもなく。
別に屠自古とて青娥を本気で嫌っているわけではないのだが、この状況でこの人物が何を言うかとなると。
「……なるほどなるほど。別にいいじゃないですか。ワンちゃんが一匹増えるぐらい大したことないでしょうに」
対立状況から概ね話の流れを理解して、予想通り布都の味方に付いてしまった。
「流石は青娥殿! 話がわかってらっしゃる!」
「青娥、サイコー! 青娥、バンザーイ!」
布都と芳香ら賛成派の勢いが増した。
圧倒的不利の中、屠自古は残る最後の希望、神子にすがり付くように目を向ける。神霊廟は神子を旗印にして成り立つ集団だ。彼女が駄目と言えばそれで終わりなのだ。
頼む、駄目だと言ってくれ。屠自古は目をぎゅっと閉じて強く願った。
「……駄目だ、とは言わないが」
しかし願いも虚しく。
「布都、君の口からその犬を飼いたいと思った理由を聞かせて欲しい」
神子には人の欲が読む能力があるので聞かずとも読み取れる。だがその上で、言葉を求めた。
今の状況など知る由もない子犬の頭を一撫でして、布都は口を開いた。
「私を拒絶しなかったのはこの子が初めてだからでございます」
それ以上を布都は語らなかった。誰よりも自分との付き合いが長い神子ならば、これだけで全てを理解してくれるからだ。
「ふむ、なるほどね」
神子は無邪気に布都の手の匂いを嗅ぐ子犬を一瞥すると、小さく首を縦に振って、微笑んだ。
「君に言うまでもないが、生き物を飼うとはその生涯に責任を持つ事だ。決して飼育を投げ出さず、他の者任せにしない、誓えるか?」
「はい、必ずや」
布都は真っ直ぐ神子の瞳を見つめて言葉を口にした。
「……ということだ、屠自古。私に免じて許してやってくれないか」
そもそも神子、いや聖徳太子は雪丸という名の犬を溺愛していたと記録されている。最初から屠自古にとっては負け戦だったのかもしれない。
「はあ……最初から、そういう風に言ってくれれば、私だって頭ごなしに駄目とは言わなかったんですよ。なのにこいつときたらただ飼わせろ飼わせろと……」
屠自古がばつの悪そうな顔で頭をぽりぽりとかいた。くしゃくしゃかき乱した彼女の髪が、パチパチと静電気の音を鳴らす。
「そうと決まれば早速この子の住む所を作ってあげましょう! ハウスと、餌受けと、おトイレと……ああその前に名前が先かしら。性別は……」
青娥は子犬の脚を開いて腹の部分をまじまじと見た。
「男の子ね! 布都ちゃんは何か考えてるの?」
飼い主は布都のはずなのに何故か青娥の方がノリノリである。さしもの布都も少しばかりたじろいだ。
「は、はい。色が黒なので、墨丸というのを……」
「太子様の愛犬をリスペクトしたのね、良いと思います!」
「うむ、許そう。墨丸、良い名だ」
「墨丸かー。いっぱい食べて大きくなれよー! おっきくなれよー!」
屠自古を除いた四人ですっかり大盛り上がりである。かく言う屠自古とて本当は子犬を撫で回したくて堪らなかったりするのだが、反対側だった手前素直にそうは言い出せず。
ところで、屠自古にはもう一つだけどうしても気になることがあった。
「あのさあ芳香よー、お前が賛成してた理由は何だったんよ。そんな愛犬家だったっけ?」
「んお? 大きくなってからの方がいっぱい食べられるだろぉ」
それは実に、何でも食べるのが特技だと豪語するキョンシーらしい理由であった。
「この子、小型犬だからあんまり大きくならないわよ」
「…………んぬぅぁあにぃいいいい!?」
それ故に青娥から指摘された事実はショックだったようだ。以後、芳香は犬の飼育への興味を失った。
その後、神霊廟は一日を子犬の為に費やすのである。仙人の力を使いに使って布都の部屋を改築したのだ。
部屋の位置そのものを中庭に面した所に転移させ、拡張したスペースを区切って犬専用にし、庭に直通する扉を取り付け、青娥が『外』から調達してきたワンちゃん用グッズを置き、と。
種類こそ違うがペット愛好家の神子と青娥が、揃って頭をひねり、時に言い争いもしながらの大リフォームであった。それは飼い主のはずの布都が置いてけぼりになるほどに。
◇
「屠自古、まだ起きているかな?」
扉を叩く音と、相手を慈しむような柔和な声。ノックの主は誰かなど、問うまでもない。間違えようもない。
「どうぞ、太子様。私は寝る必要もありませんから」
寝る必要はないが、毎日寝ることにはしている。なるべく生者と同じ生活をする為だ。屠自古にとっての睡眠とは、使わない時間は機械のスイッチを切っておく行為に近い。
「失礼。良い酒をいただいてね。今日は屠自古の顔を見ながらと呑もうと思ったのだけど」
神子の手にはどっしりとした太めの酒瓶があった。側面には達筆で銘が書かれているが、あまりにも達筆すぎて全く読めない。
「……ふむ、ご機嫌取りですか」
「あ、やっぱりわかる?」
神子は悪戯がバレた子供のように茶目っ気溢れる表情で笑った。
「わかりますよそりゃ。いったい誰の指図です? 猫の方ですか。それとも犬から?」
「うむ、まあ、猫の方からも言われたけど、概ね私の意志だからね?」
つまり神子は青娥から、屠自古に気を遣ってやれと言われたらしい。特に拒否はされていないと判断した神子は、机の中央に瓶と二枚の杯を置いた。
幽体の屠自古が酒を呑むのか、という疑問なら、呑む。幻想郷では亡霊が食欲のままに動くこともそう珍しくはない。
「私は別にこんなことを根に持ったりなんかしませんよ。どうせ押しきられるんだろうなと思ってましたし」
根に持ったからこそ怨霊になったのだろうと思う神子だったが、今それを口にすべきではないと賢明な判断を下した。
「いやいや、君が反対したがる気持ちはよくわかるよ。むしろ一人はその立場の者がいるべきだ。これは君がその嫌な役割を勤めてくれた感謝、かな」
神子は屠自古の手にある杯に酒を注いだ。
「私は昔からそんな役ですよ。太子様と布都がなるべく道を踏み荒らさないようにする。そうなってしまったら道を後から綺麗にする。ま、貴方に必要とされるならそれも悪くはありません」
屠自古は苦笑いしながら神子の杯に酒を注ぎ返した。
「……昔、そう昔だ。あの頃の布都を知っていたら、まさか動物が懐くなどと思わなかろう。私はもちろん、青娥もそれが嬉しかったのだろうね」
「何と言いますか、お二人も大概親バカですよね。親ではないんですけども」
「ふふ、犬とはいえ布都が何かの親代わりになろうと言うのだ。その成長への乾杯、かな」
神子と屠自古の杯の影が重なった。
◇
それから墨丸と神霊廟の面々のドタバタ生活が始まった。
ある日のお昼。
「ダメ! 布都ちゃん、人間のご飯を犬に与えない!」
「だ、だめなのですか? しかし昔の太子様もあのように……」
「昔は昔です!」
布都の足下で墨丸がぐるぐると回る。その興味は布都の手の焼き鳥串にあった。
「いい? 現代のご飯は犬には塩分が多すぎるの。それにそれ、香辛料も振ってあるでしょ。犬には刺激が強いわ。飛鳥時代の薄くてパッサパサなお料理と一緒にしちゃいけません」
「た、確かに今思えばあの頃の食事は味が薄かったような気もしますが……」
「うむ。屠自古や青娥の食事で我々もすっかり舌が肥えてしまったのだな……」
布都と神子は、当時の貴族と現代の庶民の食事を頭の中で比べて遠い目をした。そんなことなど知ったこっちゃない墨丸は、肉はまだかまだかと布都の足に前足を当ててカリカリと引っ掻いていたが。
「はいこれ、犬用のビーフジャーキー。あげすぎには注意してね。あと自分で食べちゃダメよ?」
「そうだぞ。あんまり美味しくないからなぁー」
既につまみ食い済みの芳香が意味もなく胸を張った。
またある日の朝。
「おー、イヌー。どうしたー? 私に興味があるのかぁー?」
今日の墨丸は芳香が気になるようだ。彼女の脚をくんくんと嗅いで、短い尻尾をぶんぶんと振り回している。
神子が青娥の肩を叩き、小声で耳打ちする。
「……最後に芳香を入浴させたのはいつだ?」
「んまあ失礼! 毎日ちゃんと体は綺麗にしてますよ。お風呂にも入らずお香で誤魔化してた時代の方が仰らないでくださります!?」
「いや、確かに飛鳥時代は風呂も貴重だったが私は入っていたし……」
「青娥殿の方がもっと風呂に入らぬ時代の生まれでは……あだっ!?」
布都のやぶ蛇にデコピンの天誅が下る。
「せ、青娥ー! なんか生暖かいぞぉ!」
そしてそんな言い合いは知ったこっちゃない墨丸の興奮は収まらず、芳香の脚をべろんべろん舐め回していた。
「や、やめんか墨丸! 腹を壊すぞ!」
最近は平和で使う機会も無く忘れていたが、彼女の体は毒まみれだ。感染元となる爪や歯には触らなくとも気が気でない。布都は大慌てで墨丸を引き離した。
「ねえ、青娥。やはり腐肉の匂いが漂っているのでは……?」
「そんなはずは……いえ、もしかして……防腐の術に使った材料かしら? お肌の潤いをキープするために、コラーゲンをたっぷりと」
「コラーゲン……ああ、骨を煮出すと出てくるあれか。間違いなくそれだ。即刻、術を見直すように」
それからしばらく、芳香の体からは酢の匂いが漂うようになった。墨丸は近寄らなくなったものの、他の面々からも大不評だったようである。
結局、芳香が泣いて抗議したため蚊取り線香の匂いに変更された。
またまたある日の夕暮れ。
「仙人の力を持った犬、というのを考えたのだが」
神子は、庭の隅の木陰をくんくんと嗅ぎ回る墨丸を眺めながら、思いつきを口にした。
「ふむ? 太子様は墨丸を仙人……いや、仙犬にしたいと申すのですか。しかしそのような事が出来るので?」
「私の黒駒を覚えているだろう? 私が隠れたせいであの子は絶食して死ぬほど悲しんだと聞いてね。だから動物も一緒に仙人になる方法があれば、今後仙人を志す者が同じ悲しみを生まずに済む、と思ったのだ」
「……との事ですが、青娥殿的にはどうなのですか?」
やはり仙人まで導く事に関しては一日の長があると、布都はどうせその辺に居るに違いない青娥に適当な声をかけた。
「あらあら、娘々的回答をお求めなのね?」
案の定その辺に居た青娥が神子と布都の間にささっと挟まる。
「結論から申し上げると、無理でした。比較的人間に近い哺乳類から魚類、昆虫まで試しましたけど、体の方は良いところまで到達した子はいました。ですがやはり精神がネックでして」
「ふむ……死か?」
「流石は豊聡耳様です。生きる間は追いつかれないように逃げ続ける、それが死。ですが仙人は己から死に近付き飛び越えるもの。その辺りの心構えが本能で生きる動物には難しくて。単なる魔獣に成り下がってしまうのが関の山でした」
「……青娥殿は仰っておりましたな。仙人は自然と調和する者でありながら、何より不自然でもある、と……わぶっ!?」
青娥はまさに犬を可愛がるように布都の顔をもみくちゃにした。
「布都ちゃん偉い。よく覚えてました」
生物が生きる第一の目的は子孫を残して種を繁栄させる事だ。役目を終えたら朽ちて他の生命の糧となるのが自然の定めでもある。
ただ己が為に生き、輪廻から外れて他の命を喰らい続ける。そうまでして仙人が長生きするのは何故なのだろうか。
「でも、好きな相手とずっと一緒にいたいと思う気持ち、それだって自然な願望よ。仙人から見れば墨丸は遥かに短命だけど、だからこそ生きている間はずっと大事にしてあげなさいね」
「は、はい。必ずや」
「でもまあ、何しろここは幻想郷ですからねえ。ある日いきなり変な霊魂に取り憑かれて妖怪になってても驚きませんけど。そうなったらどうする? 退治しちゃう?」
普段から霊魂を連れ回してる青娥がそれを言うと何の冗談にも聞こえない。それに神霊廟は常に怨霊が徘徊している場所でもある。
布都はその万が一、いや十が一ぐらいで起こりそうな事態を頭の中で思い描いた。
「……あのケダモノの如き巫女に見つからないようこっそり飼いましょうぞ」
「ぷっ、ふふ……そうね、それがいいわ」
あの墨丸を元に生まれた妖怪ならきっと可愛らしい良い子になるに違いない。布都に迷いなど無かった。
◇
そして、またある日の夜。
「……何じゃ、屠自古。そんな所でこそこそせんで堂々と愛でればいいじゃろうが」
布都の声に反応して屠自古の体がびくんと大きく揺れる。
庭の隅にしゃがんでいるから何かと思えば、彼女の透けた足元の間には墨丸が居た。仰向けで腹を向け、屠自古のなすがままに撫でられていたようだ。
「だってよぉ……ダメだって言った手前、お前が見ている所じゃやりにくいだろ」
「……ふっ」
「鼻で笑うだけで済ますな!」
思わず放電しそうになる屠自古であったが、現在手元にいる墨丸に嫌われまいとぐっと堪えた。
「意地を張るでない。お前の部屋が動物の小物だらけな事ぐらいとっくに知っておるわ。よいよい、とりあえずこっちに来い」
布都は墨丸をひょいと抱き上げると、縁側で自分の膝の上に優しく乗せる。布都の匂いに包まれた墨丸は、暴れることなくリラックスした様子で寝そべった。
「……ほんと、お前が動物とそんな関係になれたなんて信じられんよ」
若干不服そうだが屠自古も布都の横に座り、そっと墨丸の頭を撫でた。
「不本意なれど反論はできんな。ま、我もあの頃とは違うという事じゃ」
自嘲めいた笑みを浮かべる布都に、屠自古も少々面食らう。どうせいつものようにふんぞり返って誇るのだろうと思っていたからだ。
「お前……昔はギラついてたよなあ。動物なんか近づくだけで逃げてたし。それが今じゃ大勢の子供相手に遊んでやる余裕まであるんだもんな」
「うむ。あの頃は目に映るもの全て、太子様の命を奪わんとする仇敵に見えたものじゃ。怪しい者は我が影で葬ってきた。だから、獣は我が死臭を敏感に感じ取っていたのじゃろう」
「過剰だとは思っていたが、太子様が病に侵されてお前も平静でいられなかったのはわかってるよ。だからって私を騙し討ちする理由にはならんがな」
「……わかっておるわ」
たった一言だった。布都が尸解に用いる壺に細工をして、同士であったはずの屠自古までも葬った件を言及されても。
「……お前さあ、ペットセラピーって知ってるか?」
「せらぴい……何じゃそれは」
「要は動物と触れ合って心を癒やすっていう治療だよ。言いにくい事があっても動物相手なら言えるって奴も居るんだ。何も答えてくれなくても言うだけですっきりするってのもあるしな。とか、青娥に長々と説明されたことがある」
青娥は死体弄りをする都合上、仙術の他に医術にも通じていた。もっとも、彼女が得意なのは心療よりも外科医であるが。
「それは人形に向けて独白するのと大して変わらんのではないか?」
「生きてない相手に言うのとは流石に違うだろう。あ、だから私相手に言うのは嫌なのか」
「そうは言ってないわ馬鹿者」
冗談で済ますには皮肉が混じりすぎた台詞だ。流石に布都も強めの言葉で言い返した。
「……はあ。青娥殿が言うならある程度効き目があるのじゃろう。たまにはそのような事も悪くはない、か」
布都は墨丸の首筋から尻尾に向かって背中を撫で、ぽんぽんと軽く叩いた。墨丸が顔を上げて、布都の顔を真っ直ぐに見つめる。
「昔の私の話じゃ。少しばかり重くなるが聞いてくれ、墨丸」
墨丸はわかっているのかいないのか、布都の指に鼻先を軽く押し当てた。
「……のう墨丸、私が仙人になる前の事じゃ。あの頃の私の中にはな、二人の自分がいたのだ。物部氏の最後の一人として一族の怨嗟を背負わされた私と、単なる布都として屠自古と共に太子様の御身を護りたいと思う私。どちらが本物かではない。どちらも私なのだ」
墨丸はきょとんと布都の顔を見つめている。墨丸の代わりに、屠自古が問う。
「それで、あの時は物部の声の方が大きかったと?」
「別に我は屠自古だけを葬りたかったわけではない。我は……己が一族の滅亡に加担した自分自身も、得体の知れぬ仙人に唆されて戦争を引き起こした豊聡耳神子も、消してやりたかったのだ」
墨丸を怖がらせないように、布都の声はとても穏やかなものだった。
「屠自古が怨霊と化すであろうことはある程度折り込み済みであった。あの壺の土はな、忌まわしき宗教戦争で流れた血が染み込んでいる。蘇我、物部の血もたっぷりと、な」
「……血か、道理でな」
「あと少しじゃ、許せよ。屠自古が怨みのまま我を殺せば怨霊として完成じゃ。おそらくそのまま神子まで殺していたであろう。そうなれば青娥は屠自古を赦さず滅したに違いない。それが物部の私の狙いであったが、布都の私もそれでも良かったのだ。そうなれば……」
「あの世でも三人一緒にいられるから、か?」
「なっ……」
布都はようやく屠自古の顔をしっかりと見た。
「馬鹿言ってんじゃねえよ。三人揃って同じ地獄に行けるとでも思ってんのか」
「太子様なら地獄でも光り輝くであろうよ。我らが再び集うのは難しくあるまい」
保証は無いのに何故か屠自古は納得してしまいそうになった。それほど二人は神子に全幅の信頼を置いているのだ。
「ともかくじゃ、全てを消し去りたいという物部の願いと、皆で共にいたいという布都の願い。どちらも叶えようとして出た答えは屠自古を我が手で殺すことだったのだ。殺した相手と共にいようなどと我ながら狂っておったと思うが、しかし……壺をすり替えてお前を殺したと実感した時、同時に物部は死んだのだ。死んだ気がした。取り返しの付かぬ事をしたと恥じた心が自害を選んだのであろうか」
「……ごちゃごちゃ言ったが、つまりお前は、私だけは幽霊にならないと長生きに付き合えないと思ってたって事だな」
「誰にでも向き、不向きはある。屠自古自身も感じていたであろう」
「あーあ。酷いよなあ、お前もそう思うよなあ、墨丸」
屠自古は布都の膝から墨丸を持ち上げて自分の膝に乗せた。霊体でも今の屠自古はそれが可能なのだ。
「おい、うっかり雷は出すでないぞ」
「私が何年この体で過ごしてると思ってる。今更そんなヘマをするものかよ」
そう言われてしまうと、千年以上待たせた側である布都には何も言えない。
「あのな、もうどうでもいいんだよ」
「……何じゃと?」
「なあ墨丸。もちろん最初はお前の飼い主を殺してやろうと思ってたよ。だけど霊体になった私の面倒を見てくれてた青娥と話してちょっと踏みとどまった。それから千年以上ずっと、どうして私は殺されたのか考えてた。考えて考えて、終いには考えるのも面倒臭くなって、結局目覚めた時の布都の顔を見てどうするか決めようと思った。そしたらあいつ、心底嬉しそうな顔で私を見たんだよ。殺さなくても最低一発はぶん殴るつもりだったが、もうどうでもよくなったんだ」
「あの時の私は純粋に仙人の布都だったのであろうな。まあ、頭が冴えてきて、お前の脚を見たら、だんだんと物部の業を思い出したのじゃが……」
屠自古はあくまで墨丸を見つめながら語り続ける。
「あいつのせいでな、今の私には物部の血も入ってるんだ。私はもうこれ以上家族が死ぬのを見たくない。だから、あいつは私を殺して、私はそれをずっと怨む。それ以上はない。この話はそれで終わりにすると決めたんだ」
布都は堪らずそっぽを向いた。力を込めていないと顔がぐしゃぐしゃになる。そんなみっともない姿を、屠自古にだけは見せるわけにいかないのだ。見た屠自古の怨みが万が一でも晴れてしまったらどうする。屠自古が居なくなるなどあってはならない。
「……本当にお前は、殺す前から変わらずお人好しじゃな。この、愚か者が……」
布都の様子を察したのか、墨丸が屠自古の膝から降りて脇に体を擦り付ける。布都は無言でその体を抱き寄せた。
「変な気を使うな。お前が泣いて許しを請うたって私の怨みは消えないよ、ずっとな」
「……ああ、許さないでくれ。ずっと、私の事を怨んでいてくれよ、屠自古」
◇
その次の日の夜。
「はい、もう一度自分の罪を言ってみろ。お前達は、何をしましたか?」
「我は、晩御飯のために仕込んでいた食材を、つまみ食いしました。墨丸も、一緒です……」
『クゥン……』
布都は正座させられていた。墨丸も動けないように膝の上に固定されている。理由は言わずもがな。
「あのさあ、犬だってダメって言われたらおあずけくらいできるんだが? お前は犬以下なのか、ああ?」
「そんなこと言われても墨丸だって我慢できなかったのじゃし……」
「犬をダシにするなッ!!」
布都の体が電気を流されたかのようにビクッと震える。
「おい青娥、札と筆はあるか?」
「はいはい、どうぞ」
青娥はポケットから何も書かれていない札と筆ペンを取り出した。青くて猫っぽい者のポケットには大体何でも入っている。日本の常識である。
『私は夕食をつまみ食いしました』
屠自古はそのような文章を二枚の札に書き上げると、それを青娥のキョンシー同様に布都と墨丸の頭に貼り付けた。
「な、何じゃこれは……動けんッ……!」
布都がどれだけもがいても正座一つ崩せないのを確認し、フンと鼻を鳴らす。
「しばらくそれで大人しくしてろ! ちなみに今日はハンバーグだがお前らの分は後回しだ。もし私らで全部食べきってしまったら飯抜きだからな」
「ハン、バー、グ……!?」
布都の顔がまるでこの世の終わりのような絶望の色に染まる。何故か身動き一つ取れず、自分の置かれている状況が理解できない墨丸は思考を停止させた。
そして聞き捨てならない言葉を聞きつけた芳香が猛烈な勢いで駆けつけてきた。
「ええっ! もしかして今日は好きなだけハンバーグ食べてもいいのかー!?」
「ああ、布都の分とか気にせず好きなだけ食え。おかわりもあるぞ」
「ヤッホー! 屠自古、大好きだぞー!」
芳香の口からは涎がだらだらと溢れていた。止めなければ本当に全てを食い尽くしてしまうことだろう。
「あ~あ、布都ちゃんったらかわいそう」
「そう思うんならお前の分のハンバーグを与えてやるか、青娥」
「まさか。味方に付くメリットがどこにあるのでしょうか」
世間の悪評とは裏腹に身内には激甘の青娥も、流石にこの時ばかりは布都を見捨てる。
「精神力の修行だ。精進したまえ、布都」
いつの間にか神子もテーブルに座っていた。香るデミグラスソースへの期待で静かに胸を高鳴らせながら。
あの時とは逆に、今度は布都の味方は一人もいない。
四人が和気あいあいと食卓を囲み、いただきますと合掌する。
大好物の肉料理を頬張る芳香の顔は幸福に満ち溢れている。
気が付けば、布都の膝元が濡れていた。墨丸の涎だ。
香ばしい肉の香りを前にしておあずけさせられている現状は、人の万倍、億倍の嗅覚を持つとも言われる犬の方がさぞや生き地獄に違いない。
そして、屠自古の料理が大好物なのは布都だって同じだ。いよいよ溜まった涙に耐えきれず、布都は全力で叫ぶのであった。
「屠自古ぉおお! 我が悪かった! 許してくれぇえええ~!!」
平和というか、優し目な廟組み、良いですね
自分の本心をぶつけて、それを受け止め前を見る。素敵でした。
墨丸という犬を介して語り合う。お互いの気持ちを理解し合える良い場面だった思います。暖かい気持ちになりました。
犬に触りたくてしょうがない屠自古がかわいらしかったです
墨丸を交えたみんなの生活が面白くて、それでいて布都と屠自古の昔の様子と今の互いの関係がしっかりと語られて、とても興味深く読ませていただきました。
このお話を読めて良かったと思いました。素晴らしかったです。
あと個人的な好みの話をすると、神子と青娥の距離が近いのがとても好きです。
神霊廟組の重い過去を読みやすくて明るい文体で
描いているのがとても好きです。