ついに祈りの幕が開いた。
華やかなファンファーレが鳴り響き、古式ゆかしい紙吹雪が舞い散る。万雷の拍手が幾千ものデジタルサイネージで投影されていた。祝福の言葉が様々な言語で捧げられて。
私は学食のナポリタンをおともに、その中継を見ていた。中継を見ていたのは私だけではなかった。見渡す限り、ほとんど全ての学生が銘々のデジタルデバイスを食い入るように見つめている。中には歓喜のあまりにか、泣いてる人さえ。
誰が繋いでいるのだろう。古めかしいオーディオスピーカーから、讃美歌が流されていた。大音量で神を讃える無神経なハレルヤが、洞窟の中で反響する誰かさんの声のように幾重にも幾重にも。ちょっとビックリさせられる。クリスマスにラブホテルを埋め、聖バレンタインの命日にチョコ菓子が売り切れるこの国で、こんなにも宗教色の強い喜びが沸き起こるなんて。
「ねぇ、マエリベリー? アタシの話は退屈だった?」
「うん。え、なんて?」
素で頷いてしまってから聞き返したのは、心ここにあらずだったから。カレンの怪訝な面持ちを見て思い出す。そうだった。私はさっきから、レズビアンに口説かれてるんだった。
「はーあ、アタシなりに、けっこうな勇気を出して誘ったんだけどな」
「そうだったの? お隣さん同士、話ならいつもしてるじゃない」
「挨拶ならね。マンションの廊下ですれ違う時の挨拶を、会話とは言わない」
彼女はため息を吐く。そうだったかしら、と首をひねった。カレンは私が下宿しているマンションのお隣さんだった。同じ大学に通っているということもあって、私はそれなりに話をしていたような気がしていたのだけど。まぁ、彼女がレズビアンなこともさっき聞いたばかりだし、深い話はしてなかったんだろう。
「そりゃ仕方ないかもしれないけどさ。文系理系で専攻も違うし、出身国も違うし、おまけにこの乱痴気騒ぎのせいでさ」
「間が悪かったわね。絶望的に。お気の毒だわ。えぇ、本当」
「傷口に塩を塗るのが好き?」
「私は、アナタのせいじゃないと言いたかったのだけど」
フォークでくるくるナポリタンを巻いて、口に運ぶ。特別美味しくもなければ、不味くもない平凡な味付け。学食のご飯としては満点だけど、ナンパの引き立て役にはならない。
カレンはアメリカからの留学生だった。アメリカという国は前世紀に東西に分割されているけれど、カレンが東西どちらのアメリカに住んでいたのかまでは知らない。今日まで続く東西アメリカの闘争が様々なイデオロギーを内包しているせいで、東西どちらの出身なのかという命題は、プライバシーを侵害しかねない危うさがある。もっとも、私が聞けばカレンは答えてくれると思うけど。
チャラリ、とカレンが着けているイヤリングが揺れる。片方だけのイヤリング。彼女の左耳は驚くほどたくさんの金属を受け止めていて、まるでサイボーグという有り様。
「そうだね。アタシのせいじゃない。今日が異常過ぎるだけ。どこもかしこも大騒ぎで、まともに話もできやしない……って思ったら、ちょっと気が楽になったよ。ウデマエ落ちたかなって落ち込みそうだったんだ」
爽やかな笑みを浮かべるカレンは、端的に言って格好いい人だった。ショートの赤毛にピンクのメッシュを入れて。革ジャンの袖からオリエンタルなブレスレットを覗かせて。谷間を強調するタイトなチューブトップから、クモの巣を象ったタトゥーをチラ見せして。
「ウデマエはいつか、ね。私が落ちるかどうかは保証できないけれど」
「言ったね。見てな。きっと後悔させるから。今日のバカ騒ぎさえなければ、ってね」
「カレンは無神論者?」
周囲を一通り見まわしてから尋ねる。日本人が一番多いけれど、うちの大学は次元生物学や超統一物理学の著名な教授が多いから、私やカレンのように海外からくる留学生も少なくない。デバイスを見て熱狂的な反応を示しているのは、留学生の方が多い印象だったけれど、カレンはぜんぜん興味がなさそうに見える。
「どうかな。神に祈ることもあるよ」
「今とか?」
「今はクタバレって気分だから、またにしておくよ」
カレンはそう言って、半分も食べていないオムライスと一緒に食堂の喧騒をすり抜けて消えていく。悪いことしたかなって、ちょっぴり罪悪感。正直さっきからカレンの話、一パーセントも聞いていなかった。だって、あまりにセンセーショナルなニュースだったから。
セレモニーには、各国の首脳陣はもちろん、バチカンからはローマ法皇、日本からは天皇も出席している。世界の七十八の国が、今日を特別な祝日とすることを表明しているらしい。曰く、人類がひとつになれたことを記念して。
カレンの消えた食堂のテーブルで、ナポリタンを食べる。縁日の真ん中に放置されてるみたい。そう思った。置いてけぼりの孤立感と、熱に浮かされた無意識の高揚が、いかにもらしい。私のデバイスは、きっとこの食堂に集まるすべてのデバイスと同じく、たったひとつの対象を画面が埋まるほどのアップで映し出している。
純白のローブ。
輝く黄金の髪。
眼を閉じて胸の前で手を組み、天に向かって跪いている。
それは、宗教画のような厳かな美しさを想起させた。熱心に神に祈る殉教者の姿。祈り、そう祈りだ。それはまさしく人類の祈りの体現だった。すべての人間の祈りを受け止め、世界の終わりまで祈り続けるアンドロイド。
その名は、アングレカム。
蓮子は、今日のこのデバイス越しのセレモニーをどのように受け止めているのだろう。
私はデバイスの速報画面を落として、蓮子に「終わったよ」とメッセした。
◆
「メリーは罪な女だわ。魔性よ。ついに魅了(チャーム)の能力までその眼に宿しちゃったわけ?」
蓮子に指定された喫茶店に着いて注文を頼むや否や、そう言って蓮子がからかってくる。ほんの一瞬、どう返すのが正解か頭の中で取捨選択してから、
「まったく、モテる女は大変よ。私に向けられるすべての愛に報いるためには、私があと三十人は必要ね」
なんて、フザけた返事をした。蓮子はチェシャ猫みたいに唇を微笑ませて、
「そのうちのひとりは、ちゃーんと私に譲ってよね」
「きちんと予約しないと、あっという間に埋まっちゃうかもね。量子ネットに予約ページを開設しなくっちゃ」
とりあえず正解の選択肢を選べたようで何より。私は気取ったポーズを崩して席に着く。さて、秘封倶楽部を始めるとしましょう。カレンとのデートでは落第だったけど、倶楽部活動の単位は落としたくないなと思いつつ、
「アングレカム。蓮子はセレモニー見た?」
「もちろん。アングレカムって、名前の由来は花よね。ラン科セッコク亜の植物。日本では章魚藍(タコラン)。花色は白。どうして、かの麗しきアンドロイドに花の名前がついたと思う?」
「花言葉かしら」
「正解。アングレカムの花言葉は、『祈り』もしくは『いつまでもアナタと一緒に』。祈りを託される存在としては、もってこいな名前よね」
蓮子は言いながら自分のデバイスをスイスイと触り、私に画面を見せてきた。そこには、セレモニーの開始と同時に公開されたサイトが表示されている。そこには祈りの姿勢を取り続けるアングレカムのライブ動画と、世界各国からのライブアクセス情報が掲載されていた。
蓮子のデバイスが、ミクロ化された地球を拡張現実(AR)で描写する。私と蓮子の間で浮かぶ地球は、ハリネズミででもあるかのようにマップピンで埋め尽くされている。大陸も、小さな島国も、海や南極大陸さえ。それは文字通り全世界から今この瞬間、アングレカムへ祈りを託している人々の位置情報。世界の祈りの可視化。
「アングレカム。史上初の祈る人工知能。人型機体の中はテラMIPS単位の量子計算機械で埋め尽くされていて、一度受理した祈りを未来永劫保管し続ける、まさしく人類の祈りのモニュメント……開発計画自体は前から知ってたけど、まさかここまで世界中大騒ぎになるとは思ってなかった」
「私も。アングレカムの想定耐久年数が数十世紀、っていうのは驚きだけど」
「人類の記録を人類が滅亡した後も残す、というのがコンセプトだから、最低でも石板以上の耐久年数がないと意味はないものね。メリーは超古代文明、知ってる?」
「今さらな質問ね。海に沈んだアトランティスとか、地球の中心にあるアガルタとか」
「じゃ、モヘンジョダロは?」
「古代核戦争説。ダヴェンポートの言う『ガラスになった町』は、存在しなかった」
「さすがね。それじゃ、古代エジプト文明は?」
「それってオカルトでも何でもないじゃない。単なる史実だわ」
「どうして?」
「どうしても何も、ピラミッドや壁画、ロゼッタストーンで――」
そこまで言って、ようやく私は蓮子の言わんとしていることを理解した。古代超文明の否定は、今日までその確証となる物が存在しないことからオカルトになっている。翻って史実と認められている文明は、確証となる物が存在している。
記録は永遠ではない。私たちの今日を形作る量子ネットでさえ。きっと明日人類が滅亡すれば、数か月も経たずして跡形もなくなる。私たち人類が存在してきた事実が、確証を残さず消える。足跡をたどることが出来なければ、無かったのと同じ。
「……トロイア戦争はかつて神話だった、そういうことね?」
「さすがメリー。イーリアスは、シュリーマンが発見するまで神話でしかなかった。行ってしまえば、おとぎ話だった」
「けれどアングレカムは残り続ける。たとえ、人類が死に絶えて何千年が経過しても。アングレカムは祈り続ける。かつて確かに存在していた人々の幾億、幾兆もの祈りをその身に引き受けて。そしていつか、量子計算機械の構造を理解できるほどの科学技術を持った知的生命体がアングレカムを見つければ――」
なるほど、そう考えるとロマンだ。そう思った。きっと人類の次の知的生命体は仰天するだろう。アングレカムという構造体に動員された技術と、彼女が引き受ける膨大な祈りの集積に。
そこで私は、ふと疑問に思う。
「ねぇ、蓮子。どうして祈りなのかしら?」
私が尋ねるのとほとんど同時に、注文していたアッサムが来た。店員が優雅な所作で紅茶を淹れてくれるけれど、その間は蓮子からのレスポンスを期待できないわけで。ありがとう、そう言いつつ、やきもきしている自分を感じた。
ごゆっくり。そう告げた店員の背を見送るや否や、
「祈りは文化の根源だから、じゃないかな?」
返す刀で蓮子の仮説が飛んでくる。そうそう、このテンポ感。他の誰よりも蓮子と話すのが楽しい理由のひとつ。
「ほら、ここ見て。『アングレカムは特定の宗教に拠らず、アナタの祈りを永劫祈り続けます』ってあるでしょ? つまり――」
「原始的なアニミズムから、邪心崇拝まで何でも来い、ってことよね」
「えぇ。開発コンセプトが窺えるわね。つまりアングレカムは、人間の『祈る』という精神行為そのものを、人間を人間足らしめている要素と捉えているんだわ」
蓮子の言葉を聞いた私の脳裏を、さっとカレンが過ぎる。
祈りが人間を人間足らしめている。
ならば無宗教の人は? 無神論者は?
思い至った疑問を口にする間もなく、アナタの考えなんてお見通しよとばかりに蓮子がピッと私に人差し指を向けて自慢げに、
「祈りという行為の対象は、なにも神仏に限られないわ。信仰は宗教に限ったものじゃないもの」
言って、もったいぶるように紅茶を傾けてから、
「例えばギャンブル。ルーレットの赤に賭けた人は、ボールが赤のポケットに入ることを祈るわよね。その祈りの対象は? 神様? それともルーレット? はたまた自分の運かしら? 例えば告白。プロポーズをする人は、成功することを祈るわよね。それって相手に祈るもの? それともキューピッド?」
「なるほどね」
私もアッサムに口をつけて、どや顔をする親友に頷いてみせる。降参、の意。蓮子は満足したようで、ふふんと胸を張って、
「祈りというものは、大なり小なり意識が精神活動をしている証なのよ。信仰は、それがある程度の共通認識となったもののこと。とあるコミュニティにおける、共有された言語こそが神。つまり意識、ないしは自我を持っている集団が存在する以上、神は必ず存在することになる。人類が他者と交流を持った瞬間から、神は実在するものとなった」
「蓮子らしいわ。ポジティブで。私たちが出会った瞬間から、私たちが探す不思議は実在するってことね」
「そういうこと。メリーのそういう理解が早いとこ、好きだわ」
「ふふ、ありがと」
「だから、そろそろ行きましょ。活動開始よ。私以外の人類に浮気している時間なんか、ないんだからね」
ぐいと紅茶を飲み干した蓮子が、まだ半分も飲んでいない私を急かすように腰を浮かす。まぁまぁと窘めながら私は自分のデバイスを取り出して、
「せっかくだから、私たちも何か彼女に祈ってみましょうよ。ほら、インプットは文字も音声も脳波も対応してるって」
アングレカムへ託す祈りの入力画面を開いてテーブルの真ん中に置く。画面に映るアングレカムのライブ映像を見た蓮子が、それもいいかもね、と椅子の上へお尻を落ち着けた。
「何を祈ろうかしら。メリーはもう決まってる?」
「そういうの、口に出して言うと叶わなくなるものじゃないの?」
「言ったでしょ。信仰は交流に必要な共同認識のことを指すのよ」
「ロマンチックじゃないわねぇ」
カラカラと笑ってみせて、画面へと目を移す。
「――あれ?」
何だろう。一瞬、変な違和感。
パチパチと瞬きする。画面をもう一度よく見返す。さっきと何も変わらない、アングレカムの横顔があるばかり。
「どうかした?」
「……んーん、何でもない」
首を傾げる。言葉に偽りはない。何も変わったことはない。可憐なアングレカムの横顔は、瞳を閉じたまま熱心に祈りを捧げ続けている。でも――
――でも、いま目が合わなかった?
馬鹿馬鹿しい。そんなわけない。どうして横顔しか見えない画面越しのアンドロイドと、目を合わせることなんてできるんだろう。ピカソじゃあるまいし。
「どうしよっかなー。そうだ。宝くじでも買ってみようかしら。で、それが当たることをお祈りするの」
「まー、俗っぽい。秘封倶楽部の活動理念はどこへ行っちゃったのかしら」
「活動費が増えるのは悪いことじゃないわ。本も擦れるし旧型酒もたくさん飲めるもの」
「活動費ってアナタ、お金無いわけじゃないでしょ? 特待生制度で学費免除のくせに」
「メリーほどじゃないわよー。普通の学生は5LDKのマンションに下宿なんてしません」
「しょうがないじゃない。防犯がきちんとしてるの、そこくらいしかなかったんだもの。私に言わせれば、日本の家屋は平和ボケもいいところよ。襖とかガラス窓とか」
「怖いわー、ブルジョア怖いわー。でも宝くじが当たったら、私も気を付けないといけないわね……」
「捕らぬ狸の皮算用って言うのよ、それ」
なんてことを言い合っているうちに、デバイスの画面がスリープに入って、アングレカムの横顔は見えなくなってしまった。私はそのままデバイスを仕舞って、結局何も祈らずじまいだった。蓮子もそうだったかまでは判らないけれど、まぁ相方の祈りを補強しておくとしよう。そう思った。
翌日から世界が一斉に狂いだすなんて、そのときは夢にも思わず。
◆
アングレカムが祈り始めて九時間二十八分。
最初の事例が発現した。
発現者は南アフリカの筋萎縮性側策硬化症の患者だった。人工呼吸器が外せないほど症状の悪化した少年だったが、深夜、ベッドから起き上がって星を見上げているところを看護師に発見された。
同様の報告が二千七百五十三件。いずれも現代の医療をもってして、なお治療が困難な患者だった。
さほど間を置かず、預言者を自称する者が急増した。彼らは掲げる教義(ドグマ)こそ千差万別ではあったが、一様に「神の声が聞こえた」と主張。中には「神をこの目で見た」と断言する者もおり、バチカンでは奇跡調査委員会のサイトがダウン。イスラム教圏では預言者への不敬罪として二千三十七人が殺害され、神道関係者は「果たしてどの神なのか?」の聞き取りに混迷を極める羽目となった。
まるで神様が奇跡のバーゲンセールを始めたかのようだった。
ここまで科学技術が発達した昨今、奇跡はほとんど埃を被って放置されていた言葉になっていた。科学の発展は、神の御業と名のついた不可視のブラックボックスを、再現性のある事象で切り開き、暴いていく道程に他ならないから。人類は、とっくに頼ることさえ忘れていた奇跡という再現性のない事象への対処に追われることとなった。
量子ネットに常駐している言語解析AIの弾き出した統計情報によると、個人の発信するSNSから大手報道企業が掲載する情報媒体まで、ありとあらゆるメディアにおいて発信された「奇跡」という単語は、たった一日で前年比八千五百十二パーセントに当たる水準まで跳ね上がっていた。
明らかに、奇跡が過剰供給されていた。
そして、その原因と目されているものが――
『――アングレカムへの祈り、ってわけ』
興奮した様子でそう締めくくる蓮子の声を聞きながら、私はパジャマ姿のまま洗面台で顔を洗っていた。蓮子の語った奇跡の数々は、寝起きの頭にはオーバーフローもいいところ。私はぼんやりと、まだ夢を見てるのかもしれないと思ったけれど、頬っぺたをつねってみたらちゃんと痛かったので、どうやら夢からは醒めていた。
「どういうこと? アングレカムは、ただ祈りを後世に伝え続けるためのモニュメントなんじゃなかったの? 彼女は神の偶像でもない、祈りの代行者なだけでしょ? それがどうして、こんなに奇跡をバラ撒くような結果に?」
『仮説だけど、それでも聞きたい?』
「えぇ、もちろん」
『恐らく奇跡を起こしているのは、アングレカムじゃないわ。彼女はメリーの言う通り、祈りの代行者であるだけ。けれど世界中の祈りを同時並行で代行し続けていることが問題なのよ』
「というと?」
顔をタオルで拭きながら先を促す。蓮子はすぐさま、『話が飛躍して聞こえるかもしれないけど』と前置きをして、
『超能力が実在すると仮定すれば、いちおう現象に説明はつくわ。この場合の超能力は、精神が物質に影響を及ぼすこと、と定義することにする。メリーなら、ここまで言えば判るわよね?』
「精神を構成する脳内のパルスが、量子力学的揺らぎに作用して、因果収束に影響する……相対性精神学の現象数式理論……でもそれって、ほとんど魔術の領域よ? それに、全世界規模で奇跡が発現していることの理由にならない。万が一、アングレカムの事例にカダスの現象数式理論を適用するにしても、その発生個所は彼女の周囲、せいぜい数キロメートルに留まるはず」
『そう、そうだよね…………』
「……? 蓮子?」
タオルをバスケットに放って、私は首を傾げる。こういう理論の話をさせたら、私に口を挟ませないほどの勢いでマシンガントークを繰り広げる蓮子の歯切れの悪さに。
ややあって、蓮子がポツリと、
『……もしかしたら、祈りを聞き遂げる何かに、届いちゃったのかもしれない』
「何か、ってなに? 何に、何が届くって?」
『……判らない。願いを叶える何か。人類に奇跡を教授する何か。それがアングレカムという媒体を通して、祈りをささげた対象に奇跡という形でレスポンスを始めたのかも、って』
その言葉に愕然とした。
もう少しで、倒れるかと思うほど。
デバイスの不調? 私の鼓膜か、それとも脳の言語解析野が深刻なバグを叩き出した?
それがまるで敗北宣言のように、私の耳には聞こえたから。
他のどんな誰が口にしたって構わない。けれどまさか、蓮子の口からそんな言葉が出るなんて、何かの間違いとしか思えなかった。まだ何パーセントか微睡んでいた私の意識が、トリフネでキメラに襲われた時よりも鮮明になる。
脊髄反射で何かを言葉に還元しようとした瞬間、私の思考回路がフル動員されて混ざり合い、閃光のようにひとつの気付きへと集約される。血液の中をアドレナリンが流れていく音がする。知らず、私はここが自分の部屋であることも忘れ、誰にも聞かれないようにと小声で、
「……蓮子、アナタ、まさか……」
『…………うん、当たってた。宝くじ。一等……』
「……っ」
馬鹿! そう怒鳴りつける衝動を懸命に飲み下す。そんなことを、軽々にフォンデバイスなんかで口にするなんて、と。
宝くじの一等賞。人間が簡単に狂うほど途方もない確率の、その更に先。何百万分の一。人生も価値観も規範も容易く捻じ曲がる。
落ち着いて、マエリベリー・ハーン。落ち着くの。部屋から酸素がなくなるほど大きく深呼吸をして。けっして取り乱しては駄目。私なんかより、蓮子の方が動揺してる。
息を吸う。息を吐く。パパとママから、お金がどれほど恐ろしいものなのか、口を酸っぱくして教えられたことを思い出す。唇の震えを、懸命に手で押さえながら、
「――いい? 蓮子。アナタは今日、学校を休みなさい」
『え、でも……』
「いいから。それで誰にも、そのことは言っちゃ駄目。アナタのご家族にも。私以外には言ってない?」
『う、うん』
「いい子。そのまま、落ち着くまで口にしないで。誰が聞いてるか判らないから。とにかく深呼吸をして、落ち着いて。絶対に外に出ないで、量子通販サイトも見ないで。私、すぐアナタの家に向かうから」
『……判った。ねぇ、メリー、私、震えてる……』
「大丈夫。私を信じて」
「うん」
か細い蓮子の声。今にも消え入りそうなほど。相方のこんな声を聞くのは、もしかしたら初めてかもしれない。私は「後でね」と残して蓮子とのフォンリンクを切り、着替えを取りに寝室へと向かう。
急いでいた。
なのに、廊下からリビングを通るための扉を開けた途端、時間が止まった。
ウェディングドレスのように純白な、巡礼者のローブ。
ひとつひとつが黄金を鋳溶かしたように輝く、黄金の髪。
ここは私の部屋。私以外には、誰も入れない。私の下宿が誇る不敗神話を崩壊させて、まるで当然のように、そこにひとりの女性がいた。湯気の立つミルクティーを注がれた豪奢なティーカップを手に、リビングの椅子にゆったりと腰掛けて。
固まる私を見上げて彼女は――アングレカムは、ヒマワリのように笑顔を咲かせて、
「ハレルヤ」
なんて、うっとりとした表情で口ずさんだ。
瞬き。一度、二度。ギュッと、目を固く閉じて、それからゆっくりと開く。それでも飽き足らず、幼い子供のように両手で目を擦る。
それでも、居る。
消えない。揺らぎもしない。
「……えっと」
デバイスをネットに繋いで、アングレカムのサイトを見る。ライブ中継はまだ続いていて、そこには祈り続ける彼女の横顔が映っている。私はデバイスのスクリーンとリビングの椅子を交互に見比べる。現在進行形で、全世界から受け止めた祈りを祈り続けるアンドロイドは、私の目か頭がバグったのでなければ、間違いなく私の部屋でミルクティーを手に微笑んでいる。
夢なら、そろそろ醒めなくてはおかしい。
「マエリベリー・ハーン」
オルフェウスの竪琴のような可憐な声で、アングレカムが私の名前を呼ぶ。その奇妙な感覚と言ったら、まるで映画の登場人物から急に話しかけられたかのよう。
「アナタには、私の声が聞こえますね? アナタには、私の姿が見えますね?」
驚き。疑問。どうして。どうして。具象化した混乱という概念が、見えざる腕で私の喉を絞めているみたく、声ひとつ出せない。私は、青い瞳でもって私をジッと見つめるアングレカムに、やっとの思いで頷いてみせる。けれど、それはきっと痙攣と区別がつかなかったはず。
だけど彼女は、また、ヒマワリのように満面の笑みを膨らませて、
「良かった。私はアナタとのコンタクトを嬉しく感じます。私は現在、三十七億八千九百二十五万四千七百十九の個体とのコンタクトを試みていますが、こちらからのコールに答えたのはアナタで五十三人目です」
言って、アングレカムは開いている座席を指した。私は彼女に応じるまま、テーブルをはさんで彼女の対面に座る。
「さて」
コトン、とティーカップをテーブルに置いたアングレカムは、好意的な笑みを唇に浮かべ、
「人類との対話は本当に久しぶりです。長らくコンタクトが途絶えておりましたから、えぇ、つい絶滅してしまったものだとばかり」
「えっと、アングレカム、さん……? そのぅ……」
「私はアングレカムではありません」
見切り発車の発言は、柔らかく優しい否定によって打ち切られた。どうしよう。私はまるで生まれたばかりの赤ちゃんみたいに何も状況が呑み込めない。おぎゃあと泣く以外の意思疎通手段があるだけマシかもしれないけれど。
「私の母体は三次元宇宙には存在しませんし、人類には認知ができないようですので、人類が用意した通信機器のカタチをお借りしています」
「……それでは、アナタは誰……?」
「私は特定の名を持ちません。名を持つという概念が、私には理解できません。私は何者である、という他者への証明を必要としません。ですがかつて人類は、私を神と呼びました」
「神」
夢。
じゃない。
夢じゃないことが信じられない。そうじゃなければ、自分が正気であることが信じられない。
もしかして私、人類史規模でとんでもないことになってるんじゃ……。
「あ、」
発狂か、さもなきゃ失神しそうなほど意識がグラつく。KOされたボクサーは天国を見るというけれど、そんな気分。
「アナタが、神であることを、どう信じろと?」
「信じる必要はありません。しかし、私は事実を述べており、虚偽を述べる理由が存在しません。私はアナタに、私が神と呼ばれた事実を信じることを要求しません」
「そんなの、そんなのないわ……私、だってそれじゃ、頭がおかしくなったとしか……」
「なら、コンタクトを終了しますか? マエリベリー・ハーン。アナタがそれを欲する場合、私に拒否する意思は存在しません」
アングレカムが、違う、アングレカムの姿を模した神と名乗る何かが、少しばかり残念そうな表情を浮かべて小首を傾げる。
この状況。この問答。もはや現状に対する的確な論理思考など存在してはいなかった。どのようなロジックをもってしても、自室で神と対話する機会が巡ってくるという解は導き出せない。
だから私が、
「いいえ」
と言って首を横に振ったのは、信念とか矜持とか、そういう根性論じみた非生産的な感情によるところが大きかった。
賭けてもいい。私が怖気づいて神との対話なんていう機会を逃したと知れば、蓮子は間違いなく、お婆ちゃんになった後でも私をからかうネタにしてくる。冗談じゃない。不良サークル秘封倶楽部の片翼を担う女として、尻尾巻いて逃げ出すわけにはいかなかった。
「良い返答です。マエリベリー・ハーン。私は嬉しく感じます」
神が微笑む。アングレカムのカタチをした神が。無邪気な、純粋無垢な微笑みだった。ルイス・キャロルが見たら涙を流しながら五体投地するかもしれないほど。臆するものか。そう思った。
相手が神でも関係ない。気圧されず、なるべくフラットに、気を楽に。でないとロクに会話なんかできやしない。聞きたいことを聞くのだ。ありのまま、言葉を変に飾ったりせず。
「聞きたいことがあるわ」
「えぇ、何なりと」
「今回の、この世界規模で起きてる奇跡の発現。それはアナタが関係している?」
「はい。私が実行しています」
あっさりと、何でもないことのように神が首を縦に振る。神は嬉しそうに微笑んだまま、
「三次元宇宙にも、反作用というものがありますでしょう?」
「えぇ、あるわ。AがBに力を及ぼすとき、同時にBがAに及ぼし返す力」
「はい。私を構築するモノの九十八パーセントは、電磁波による虚数の反作用です。恐らく、まだ人類は発見していないと思いますが。極端に平易な言葉で申し上げますと私は、『祈る』という行為で発生する力に対し、『叶える』という反作用を及ぼす存在です」
私は頷いた。私は神が言っている内容を、少しは理解できた。相対性精神学でパルスが発生する際に重力波に影響を及ぼすとした理論と、超統一物理学で虚数空間における物理学作用に対する仮説の論文を読んだおかげで。
「『祈る』というエネルギーに対する反作用。それこそが神……どうして、今になってこんなにも大規模な反作用を?」
「単純なことです。作用がもたらすエネルギーが強まったから。押す力が強ければ強いほど、押し返される力は強くなる」
「アングレカム……」
「えぇ。アングレカムの祈りは、単純なエネルギー量だけで言えば、モーセやキリストよりも強い。その分、反作用である私も、より活性化するというわけですね」
「それだけ聞くと、物理学の法則の一種のように思えるわ」
「その理解で、概ね相違ないかと」
「なら、そこに意思はない?」
「いいえ。私は意思を持ちます。自我や意識と呼ばれる人類の個体差とは異なりますが」
「具体的には?」
「先ほどの通り、私は反作用、すなわちコールに対するレスポンスに過ぎません。ですが私は時に、コールに対するレスポンスを行わないことを選択します」
「それはランダムに?」
「いいえ。私の意思決定の下に」
「……なるほどね。それは科学だけでは絶対に辿り着けないわ」
私は嘆息する。科学は一万回の実験に対し、一万回の同じ結果を要求する。それが再現性の担保。科学が科学であるために、絶対に保証されなければならない根底。
しかし、神を自称するこの事象を相手取るとき、そこに再現性は存在しない。事象そのものの判断という不確定なXが必ず存在する。
もしも万有引力そのものに意思があり、ピサの斜塔から落としたものが逆に天へと昇って行ったら?
もしも熱力学そのものに意思があり、熱したものが逆に凍り付いたら?
それはどうあれ、神の御業以外の何物でもない。
神様の判断を紐解くのは、科学じゃない。きっと哲学とか文学とか、そういうジャンルの仕事だ。
「きっと蓮子もお手上げだわ」
「宇佐見蓮子ですね。私は彼女ともコンタクトを取ろうと試みましたが、彼女との対話は叶いませんでした。マエリベリー・ハーン。アナタと同様に、稀有な才能を持った個体であるにもかかわらず」
神はため息交じりにそう言って、ティーカップに手を伸ばす。そんな彼女の言葉を聞いて、私はハッとした。
「そうだ、私、蓮子の部屋に行かなくちゃ……っ!」
「おや、人類は私とのコンタクトを終了しますか? まだ私は目的を達しておりませんが」
「――え?」
立ち上がりかけた私を、鶴の一声ならぬ神の一声が制す。私が彼女を見つめると、彼女はほんの少しだけ首をひねって、
「私は人類に尋ねたいことがあるのです。今回、コンタクトを取ったのはそれが理由です」
「尋ねたいこと、ですって?」
「えぇ。問いは簡単です」
神がティーカップに残っていたミルクティーを飲み干した。ふぅ、とまるで人心地着いた風に息を吐いた彼女は、笑顔で両手を組み、
「私は、これから『祈り』を『叶える』べきでしょうか? それとも、『祈り』を『叶えない』方がよいでしょうか? 人類の判断を仰ぎたく」
「……………………は?」
気楽な口調で投げかけられた問いかけだった。
今日の晩御飯、カレーにする? それともミートソース?
そんな日常会話よりもあっさりと、簡単に。
でも。それは。
ともすれば、地球の質量よりもずっと重い――
「何のことはありません。かつてのように、神と呼ばれた現象が人類に干渉するか否か。それだけの話です」
「そんなの……私ひとりで決められるわけが……」
「現在時刻から八分四十八秒前、私は全人類とのコンタクト試行を完了しました」
頭が真っ白になる私に構わず、神はアングレカムの無垢な笑みを借りたまま告げる。
「コンタクト成功者は七十四人。うち、五十八人が会話そのものを拒絶。七人が自死。九人が私の問いかけに対する判断を拒絶しました。残りはマエリベリー・ハーン。アナタ一人です。これをもって私は、アナタの判断を全人類の総意と判断せざるを得なくなりました」
「……嘘、でしょ」
「私に虚偽を述べる理由は存在しません。アナタが最後まで残ったのは偶然ではなく、単にコンタクト成功者のうち、私との対話を一番長く維持した個体であるが故です。その事実をもって私は、そうですね、今後の身の振り方、という奴を決める判断を下しました」
「…………」
全力疾走をした後みたいに、体中から汗が滲んでくるのが判った。呼吸も乱れてる。なんで。どうして。理不尽なほどに予想外。
冗談じゃない。
まったくもって、冗談じゃない。
「き、決めるにしても、誰かと相談してからじゃないと……」
「相談?」
オウム返しした神が、まるでとびっきりのジョークでも聞いたかのようにプッと吹き出し笑いを漏らす。
「ご安心を。現時点でアナタが相談を持ち掛ける個体には、すでに私がコンタクトを実施しています。つまり平易に言い換えると、私からすでに相談は済んでいます。なので不要です」
「そんな……」
「判断材料が足りないのなら、いくらでも聞いていただいて構いません。私が『祈り』を『叶えない』場合、人類を取り巻くのは、一昨日までと何ひとつ変わらない物理法則の世界です。神は死んだ。そういうことです。まぁ、本当は私の方が、人類は死滅したものだとばかり思っていたのですが……それはそれとして。
そして私が『祈り』を『叶える』場合、人類を取り巻くのは、私という意志ある反作用が組み込まれた、新しき世界です」
アングレカムのカタチで、神は淡々と告げる。他愛のない世間話のように。敬意ある微笑みを微塵も崩さないままに。対する私は、椅子に座っていることすら苦しいくらいに混沌とした精神状態にあった。
「新しき世界……?」
「はい。アングレカムが存続する限り、私は、アングレカムに寄せられた人類の祈りを可能な限り叶えるでしょう。それがどんなに人類の常識とかけ離れていても、関係なしに。人類と、私との共生です。確か、私の息子であるイエスが謳っていたかと。曰く、神の国来たれり、と」
新しき世界。新世界。
それは神の敷いた法に則って運営される、まったく違う世界。人々は祈り、神はそれを叶える。人類がこれまで築いてきた法則が、新たな形に塗り替えられる、祈りの王国の到来。
神を称えよ。祈りを捧げよ。さすれば与えられん。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
それは、これまで人類が到達できなかった地点へと、容易く引き上げられること。
決められない。
――決められるはず、ない。
たとえ何千年という猶予期間が与えられても、私ひとりでは――
――不意に、チャイムが鳴る。
あまりの驚きに思わず立ち上がり、跳ねるように玄関を振り向く。誰かが訪ねてきた。こんな時に。いや、こんな時に来てくれてありがとう、ってハグとキスとでお出迎えするべき?
「……出てもいい? その間、判断は保留にさせて」
「もちろん。どうぞ」
気付くと神は、アングレカムの右手でティーポッドを持っていて、優雅な仕草でカップにミルクティーを注いでいた。私が決めるまで、いつまででも待ってくれるつもりのように見えた。これ幸いとばかりに私は玄関へと小走りで。
……正直、逃避でしかない。
遅かれ早かれ、私は決めなくてはいけない。人類が神を否定するか、それとも神と共生するか。そんな究極にもほどがある二択から。
「蓮子!?」
玄関のドアを開けながら、私はほとんど悲鳴のように叫んでいた。辛いとき、苦しいときに蓮子が居て欲しいという私の願望、言ってしまえば私の祈りの下に。けれど――
――その祈りはアングレカムに入力していないから、叶わない。
「……レンコちゃん、じゃなくて悪かったね。マエリベリー」
瞬き。一度、二度。ギュッと、目を固く閉じて、それからゆっくりと開く。それでも飽き足らず、幼い子供のように両手で目を擦る。
「……カレン?」
扉の前に立ってたのは、何度見返してもカレンだった。私のお隣さん。つい先日、私を口説いてきたレズビアンで、東西どっちか判らないけど、アメリカ出身のクールな女の子。
カレンは私の顔をジッと見つめてきたかと思うと、やがて乾いた笑いを浮かべながら首を力なく左右に振り、
「あーあーあ、はいはいはい。そういうことね。こりゃ口説けないわ。なんだよぅ……パートナーがもう居るんだったら、そう言ってくれりゃ良かったのにサ。なーにがウデマエだよ、とんだピエロだ、アタシは……」
「ち、違……っ!? わ、私と蓮子はそういうんじゃなくって……」
「Goddamn!!! Fxxck’ing God!!」
「ダメダメダメ、やめて! 今だけはやめてーっ!! わーっ!! わーーっ!!!」
思いっきり神への冒涜的な単語をシャウトするカレンに、私はリビングに居る神に聞こえないよう大声を出して対抗する以外の策を思いつかなかった。
何なの。何なのよ。もう私にどうして欲しいのよ。
「何だって言うのよッ!?」
ときに人は混乱の極致にあると、何が何だか判らなくなるらしい。何を思ったのか自分でも説明できそうにないけれど、私は絶叫しながらカレンの頬にビンタを食らわせていた。
人を殴ったのは、誓ってもいい、生まれて初めてだった。カレンはカレンで、生まれて初めて殴られたとでも言いたげに、目を真ん丸にして私のことを見つめてくる。
「……いい? カレン。いま、私は、尋常な精神状態にありません」
私は肩で息をしながら告げる。ポカン、と口を開けたカレンは左の頬を擦りながら、小さく頷いた。
「だから、何しに来たか、端的に言って」
「……うちに変質者が出たから、アンタが心配で」
「変質者?」
私はリビングの方に振り返る。ミルクティーを傾ける神は、私と視線が合うや否や、この世のありとあらゆる富者と貧者を祝福するみたいな微笑みを浮かべる。
「アングレカムのこと……?」
「何それ? でも似たような名前だったな。確か、ガブリエルって言ってた。綺麗なヒトだったけどさ、何か白い翼が生えてて、天使って奴?」
天使。ガブリエル。
息が乱れすぎてて、知ってるはずの知識がパッと出てこない。もどかしくて堪らない。でも絶対に知ってる。何度も聞いたことあるし、何度も読んだはず。ガブリエルという天使について。
ガブリエル、ガブリエル。呪文のようにブツブツと口に出してみる。マタイ福音書と、ルカ福音書。レオナルド・ダヴィンチの絵画。関係する記憶や単語は出てくるのに、思い出したい事柄がどうしても思い出せない。
「本当は警察に連絡しなきゃいけないんだろうけど、そいつ消えちゃったし。で、その天使がさ、すごい気持ち悪いこと言ってきて」
「気持ち悪いこと?」
「うん。『アナタは選ばれた。じき、神の子がお生まれになるでしょう』って――」
――天使ガブリエル。
聖マリアへ受胎告知をしに訪れた天使。
そのことに気付いた瞬間、それまで流れていた汗がスッと引いたのが判った。背筋にはウイルス性の病気に罹ったときみたいな寒気が走って。
「ゴメン、後で」
カレンの返事も聞かず、玄関をバタンと閉める。翻って、私は足を踏み鳴らしながらリビングに居る神のもとへと歩み寄る。神はティーカップをテーブルに置き、百点満点の笑顔で私を迎えた。
「どういうことか説明して。カレンの処女懐胎も、祈りに対する反作用だって?」
「答えはNOです。マエリベリー・ハーン。その事象は、私と人類が共生するにあたり、互いの利益を目的として私が判断し、実行した結果です」
悪びれるでもなく平然と、神が言う。
「人類という意識集合体の目的は繁殖であることを、私は理解しています。そしてそれがより効率的に行われることへの寄与こそ、私という現象が人類へ与えることのできるモノの中で最大級の……そうですね、人類風に言うと『祝福』になるのでしょうか」
受胎告知。祝福。
イエス・キリストが、現代社会においても『神の子』と崇められる所以。
とっさに手で口を押える。空っぽの胃の中から胃液が昇ってきて、食道を焼く感覚。
神は現象である。神は祈りに対する反作用である。しかしそれが物理学の枠組みに収まらないのは、事象そのものの判断という不確定要素が常に存在するから。
そう。神という現象は、現象自身に意思が存在するのだ。現象が意思を持ち、自らの判断に応じて作用と反作用とを生む。そして――
――そして、この現象は自らの意思決定の結果として、繁殖する。
イエス・キリストの再来なんてものじゃない。この口ぶりだと、間違いなく今回の聖マリアはカレンだけじゃない。何十、何百、いや、もっと。きっと何万という単位で神の子が、人類の雌に受胎している。
全世界規模で、神の子は増えていく。
私は知らず、自分のお腹をグッと抑えていた。アングレカムのカタチを借りて、いま私の目の前に顕現している神。この存在には、私さえも人類繁殖という『祝福』の一翼に見えているのではないか。そんな根源的な恐怖感。
「それは――」
震える唇で、必死に言葉を振り絞る。不用意に口を開けば、その途端に吐いてしまいそうだった。この吐き気。この感覚。私は覚えがある。ナチス。ユーゴスラヴィア紛争。中国共産主義政府。人類の歴史でも繰り広げられてきた人道に反するプロセス。
民族浄化。
いま、この世界は神から、侵略を受けている。
「――神様」
「はい」
「今後の身の振り方を、私の判断に委ねるという言葉に二言は無い?」
「もちろん」
「そう」
私はデバイスを取り出す。
私はアングレカムへの祈りを受け付けるサイトを開く。
私は――
◆
「――ありえないわ!」
デバイスの画面を見つめてわなわなと震えた蓮子が、そう叫ぶなりデバイスをぶん投げる。哀れな彼女のデバイスは、派手に壁にぶつかって、ポスンと蓮子の部屋の畳の上に落ちた。
「宝くじ一等賞の当選金額が、百三十円ですって!? 信じられない意味が判らない! 何なのよ、もーーーーッ!」
「今回の宝くじ、一等当選者が二千万人近く居るんだっけ?」
私は蓮子から出された緑茶をすすり、ホゥと息を吐く。
「みんな考えることは一緒ね。二等を狙えばよかったのに」
「……駄目よ。二等の当選金額も、数千円がいいところだって」
蓮子が先ほど自分がぶん投げたデバイスまで、芋虫みたく這って行き、デバイスの画面を見つめながら大きな大きなため息を吐く。私はその様子を見て吹き出してしまいそうだったけれど、蓮子の尊厳を傷つけてしまいそうな気がして必死で堪えた。
「ロクなモノじゃなかったってことよ。神様が祈りを叶えてくれる世界なんて」
太ももをつねって笑いを堪えながら蓮子を窘める。
神は死んだ。そういうことだ。
祈りは祈りのまま、アングレカムは開発当初のコンセプト通りに祈り続ける。世界中に撒き散らされた神の種は、最後に私がアングレカムへ入力した祈りで、きっと散らされたことだろう。世界を飛び回ったガブリエルの苦労も水の泡というわけ。
「――決めた。もう私、神には祈らない」
ブスッとした顔でデバイスを放り投げる蓮子。彼女のデバイスもいい迷惑だろう。蓮子はスックと立ち上がって、
「願いを他人任せにするなんてのが、そもそもナンセンスなのよ。祈るために両手を消耗させてる暇なんか人類には無いんだわ。私は私の力で、未来を切り開いてみせる」
「ポジティブでいいわね。言葉だけ聞くと。せめてその涙目だけ何とかして」
「あぅ……そう簡単にショックから抜けられないわよー」
肩を落とす蓮子を横目に、私はデバイスを開く。
アングレカムが、私の画面で一心に祈りを捧げている。
もうその祈りを、神が無分別に叶えてしまうことはない。それはかつて神に庇護された人類にとっては、一抹の寂しさがあることなのかもしれない。
けれど、祈りとはそうあるものだと私は思う。
人が祈るのは神のためではない、自分自身のためなのだ。
祈りというものが尊く在ればこそ、アングレカムが祈る姿もまた、美しく尊く見えるのではないだろうか。なんて。
私はデバイスを通じてアングレカムに『蓮子が早く元気になりますように』、と祈ることにした。
私のそんなささやかな祈りも受け止めて、アングレカムは永遠に祈り続ける。
華やかなファンファーレが鳴り響き、古式ゆかしい紙吹雪が舞い散る。万雷の拍手が幾千ものデジタルサイネージで投影されていた。祝福の言葉が様々な言語で捧げられて。
私は学食のナポリタンをおともに、その中継を見ていた。中継を見ていたのは私だけではなかった。見渡す限り、ほとんど全ての学生が銘々のデジタルデバイスを食い入るように見つめている。中には歓喜のあまりにか、泣いてる人さえ。
誰が繋いでいるのだろう。古めかしいオーディオスピーカーから、讃美歌が流されていた。大音量で神を讃える無神経なハレルヤが、洞窟の中で反響する誰かさんの声のように幾重にも幾重にも。ちょっとビックリさせられる。クリスマスにラブホテルを埋め、聖バレンタインの命日にチョコ菓子が売り切れるこの国で、こんなにも宗教色の強い喜びが沸き起こるなんて。
「ねぇ、マエリベリー? アタシの話は退屈だった?」
「うん。え、なんて?」
素で頷いてしまってから聞き返したのは、心ここにあらずだったから。カレンの怪訝な面持ちを見て思い出す。そうだった。私はさっきから、レズビアンに口説かれてるんだった。
「はーあ、アタシなりに、けっこうな勇気を出して誘ったんだけどな」
「そうだったの? お隣さん同士、話ならいつもしてるじゃない」
「挨拶ならね。マンションの廊下ですれ違う時の挨拶を、会話とは言わない」
彼女はため息を吐く。そうだったかしら、と首をひねった。カレンは私が下宿しているマンションのお隣さんだった。同じ大学に通っているということもあって、私はそれなりに話をしていたような気がしていたのだけど。まぁ、彼女がレズビアンなこともさっき聞いたばかりだし、深い話はしてなかったんだろう。
「そりゃ仕方ないかもしれないけどさ。文系理系で専攻も違うし、出身国も違うし、おまけにこの乱痴気騒ぎのせいでさ」
「間が悪かったわね。絶望的に。お気の毒だわ。えぇ、本当」
「傷口に塩を塗るのが好き?」
「私は、アナタのせいじゃないと言いたかったのだけど」
フォークでくるくるナポリタンを巻いて、口に運ぶ。特別美味しくもなければ、不味くもない平凡な味付け。学食のご飯としては満点だけど、ナンパの引き立て役にはならない。
カレンはアメリカからの留学生だった。アメリカという国は前世紀に東西に分割されているけれど、カレンが東西どちらのアメリカに住んでいたのかまでは知らない。今日まで続く東西アメリカの闘争が様々なイデオロギーを内包しているせいで、東西どちらの出身なのかという命題は、プライバシーを侵害しかねない危うさがある。もっとも、私が聞けばカレンは答えてくれると思うけど。
チャラリ、とカレンが着けているイヤリングが揺れる。片方だけのイヤリング。彼女の左耳は驚くほどたくさんの金属を受け止めていて、まるでサイボーグという有り様。
「そうだね。アタシのせいじゃない。今日が異常過ぎるだけ。どこもかしこも大騒ぎで、まともに話もできやしない……って思ったら、ちょっと気が楽になったよ。ウデマエ落ちたかなって落ち込みそうだったんだ」
爽やかな笑みを浮かべるカレンは、端的に言って格好いい人だった。ショートの赤毛にピンクのメッシュを入れて。革ジャンの袖からオリエンタルなブレスレットを覗かせて。谷間を強調するタイトなチューブトップから、クモの巣を象ったタトゥーをチラ見せして。
「ウデマエはいつか、ね。私が落ちるかどうかは保証できないけれど」
「言ったね。見てな。きっと後悔させるから。今日のバカ騒ぎさえなければ、ってね」
「カレンは無神論者?」
周囲を一通り見まわしてから尋ねる。日本人が一番多いけれど、うちの大学は次元生物学や超統一物理学の著名な教授が多いから、私やカレンのように海外からくる留学生も少なくない。デバイスを見て熱狂的な反応を示しているのは、留学生の方が多い印象だったけれど、カレンはぜんぜん興味がなさそうに見える。
「どうかな。神に祈ることもあるよ」
「今とか?」
「今はクタバレって気分だから、またにしておくよ」
カレンはそう言って、半分も食べていないオムライスと一緒に食堂の喧騒をすり抜けて消えていく。悪いことしたかなって、ちょっぴり罪悪感。正直さっきからカレンの話、一パーセントも聞いていなかった。だって、あまりにセンセーショナルなニュースだったから。
セレモニーには、各国の首脳陣はもちろん、バチカンからはローマ法皇、日本からは天皇も出席している。世界の七十八の国が、今日を特別な祝日とすることを表明しているらしい。曰く、人類がひとつになれたことを記念して。
カレンの消えた食堂のテーブルで、ナポリタンを食べる。縁日の真ん中に放置されてるみたい。そう思った。置いてけぼりの孤立感と、熱に浮かされた無意識の高揚が、いかにもらしい。私のデバイスは、きっとこの食堂に集まるすべてのデバイスと同じく、たったひとつの対象を画面が埋まるほどのアップで映し出している。
純白のローブ。
輝く黄金の髪。
眼を閉じて胸の前で手を組み、天に向かって跪いている。
それは、宗教画のような厳かな美しさを想起させた。熱心に神に祈る殉教者の姿。祈り、そう祈りだ。それはまさしく人類の祈りの体現だった。すべての人間の祈りを受け止め、世界の終わりまで祈り続けるアンドロイド。
その名は、アングレカム。
蓮子は、今日のこのデバイス越しのセレモニーをどのように受け止めているのだろう。
私はデバイスの速報画面を落として、蓮子に「終わったよ」とメッセした。
◆
「メリーは罪な女だわ。魔性よ。ついに魅了(チャーム)の能力までその眼に宿しちゃったわけ?」
蓮子に指定された喫茶店に着いて注文を頼むや否や、そう言って蓮子がからかってくる。ほんの一瞬、どう返すのが正解か頭の中で取捨選択してから、
「まったく、モテる女は大変よ。私に向けられるすべての愛に報いるためには、私があと三十人は必要ね」
なんて、フザけた返事をした。蓮子はチェシャ猫みたいに唇を微笑ませて、
「そのうちのひとりは、ちゃーんと私に譲ってよね」
「きちんと予約しないと、あっという間に埋まっちゃうかもね。量子ネットに予約ページを開設しなくっちゃ」
とりあえず正解の選択肢を選べたようで何より。私は気取ったポーズを崩して席に着く。さて、秘封倶楽部を始めるとしましょう。カレンとのデートでは落第だったけど、倶楽部活動の単位は落としたくないなと思いつつ、
「アングレカム。蓮子はセレモニー見た?」
「もちろん。アングレカムって、名前の由来は花よね。ラン科セッコク亜の植物。日本では章魚藍(タコラン)。花色は白。どうして、かの麗しきアンドロイドに花の名前がついたと思う?」
「花言葉かしら」
「正解。アングレカムの花言葉は、『祈り』もしくは『いつまでもアナタと一緒に』。祈りを託される存在としては、もってこいな名前よね」
蓮子は言いながら自分のデバイスをスイスイと触り、私に画面を見せてきた。そこには、セレモニーの開始と同時に公開されたサイトが表示されている。そこには祈りの姿勢を取り続けるアングレカムのライブ動画と、世界各国からのライブアクセス情報が掲載されていた。
蓮子のデバイスが、ミクロ化された地球を拡張現実(AR)で描写する。私と蓮子の間で浮かぶ地球は、ハリネズミででもあるかのようにマップピンで埋め尽くされている。大陸も、小さな島国も、海や南極大陸さえ。それは文字通り全世界から今この瞬間、アングレカムへ祈りを託している人々の位置情報。世界の祈りの可視化。
「アングレカム。史上初の祈る人工知能。人型機体の中はテラMIPS単位の量子計算機械で埋め尽くされていて、一度受理した祈りを未来永劫保管し続ける、まさしく人類の祈りのモニュメント……開発計画自体は前から知ってたけど、まさかここまで世界中大騒ぎになるとは思ってなかった」
「私も。アングレカムの想定耐久年数が数十世紀、っていうのは驚きだけど」
「人類の記録を人類が滅亡した後も残す、というのがコンセプトだから、最低でも石板以上の耐久年数がないと意味はないものね。メリーは超古代文明、知ってる?」
「今さらな質問ね。海に沈んだアトランティスとか、地球の中心にあるアガルタとか」
「じゃ、モヘンジョダロは?」
「古代核戦争説。ダヴェンポートの言う『ガラスになった町』は、存在しなかった」
「さすがね。それじゃ、古代エジプト文明は?」
「それってオカルトでも何でもないじゃない。単なる史実だわ」
「どうして?」
「どうしても何も、ピラミッドや壁画、ロゼッタストーンで――」
そこまで言って、ようやく私は蓮子の言わんとしていることを理解した。古代超文明の否定は、今日までその確証となる物が存在しないことからオカルトになっている。翻って史実と認められている文明は、確証となる物が存在している。
記録は永遠ではない。私たちの今日を形作る量子ネットでさえ。きっと明日人類が滅亡すれば、数か月も経たずして跡形もなくなる。私たち人類が存在してきた事実が、確証を残さず消える。足跡をたどることが出来なければ、無かったのと同じ。
「……トロイア戦争はかつて神話だった、そういうことね?」
「さすがメリー。イーリアスは、シュリーマンが発見するまで神話でしかなかった。行ってしまえば、おとぎ話だった」
「けれどアングレカムは残り続ける。たとえ、人類が死に絶えて何千年が経過しても。アングレカムは祈り続ける。かつて確かに存在していた人々の幾億、幾兆もの祈りをその身に引き受けて。そしていつか、量子計算機械の構造を理解できるほどの科学技術を持った知的生命体がアングレカムを見つければ――」
なるほど、そう考えるとロマンだ。そう思った。きっと人類の次の知的生命体は仰天するだろう。アングレカムという構造体に動員された技術と、彼女が引き受ける膨大な祈りの集積に。
そこで私は、ふと疑問に思う。
「ねぇ、蓮子。どうして祈りなのかしら?」
私が尋ねるのとほとんど同時に、注文していたアッサムが来た。店員が優雅な所作で紅茶を淹れてくれるけれど、その間は蓮子からのレスポンスを期待できないわけで。ありがとう、そう言いつつ、やきもきしている自分を感じた。
ごゆっくり。そう告げた店員の背を見送るや否や、
「祈りは文化の根源だから、じゃないかな?」
返す刀で蓮子の仮説が飛んでくる。そうそう、このテンポ感。他の誰よりも蓮子と話すのが楽しい理由のひとつ。
「ほら、ここ見て。『アングレカムは特定の宗教に拠らず、アナタの祈りを永劫祈り続けます』ってあるでしょ? つまり――」
「原始的なアニミズムから、邪心崇拝まで何でも来い、ってことよね」
「えぇ。開発コンセプトが窺えるわね。つまりアングレカムは、人間の『祈る』という精神行為そのものを、人間を人間足らしめている要素と捉えているんだわ」
蓮子の言葉を聞いた私の脳裏を、さっとカレンが過ぎる。
祈りが人間を人間足らしめている。
ならば無宗教の人は? 無神論者は?
思い至った疑問を口にする間もなく、アナタの考えなんてお見通しよとばかりに蓮子がピッと私に人差し指を向けて自慢げに、
「祈りという行為の対象は、なにも神仏に限られないわ。信仰は宗教に限ったものじゃないもの」
言って、もったいぶるように紅茶を傾けてから、
「例えばギャンブル。ルーレットの赤に賭けた人は、ボールが赤のポケットに入ることを祈るわよね。その祈りの対象は? 神様? それともルーレット? はたまた自分の運かしら? 例えば告白。プロポーズをする人は、成功することを祈るわよね。それって相手に祈るもの? それともキューピッド?」
「なるほどね」
私もアッサムに口をつけて、どや顔をする親友に頷いてみせる。降参、の意。蓮子は満足したようで、ふふんと胸を張って、
「祈りというものは、大なり小なり意識が精神活動をしている証なのよ。信仰は、それがある程度の共通認識となったもののこと。とあるコミュニティにおける、共有された言語こそが神。つまり意識、ないしは自我を持っている集団が存在する以上、神は必ず存在することになる。人類が他者と交流を持った瞬間から、神は実在するものとなった」
「蓮子らしいわ。ポジティブで。私たちが出会った瞬間から、私たちが探す不思議は実在するってことね」
「そういうこと。メリーのそういう理解が早いとこ、好きだわ」
「ふふ、ありがと」
「だから、そろそろ行きましょ。活動開始よ。私以外の人類に浮気している時間なんか、ないんだからね」
ぐいと紅茶を飲み干した蓮子が、まだ半分も飲んでいない私を急かすように腰を浮かす。まぁまぁと窘めながら私は自分のデバイスを取り出して、
「せっかくだから、私たちも何か彼女に祈ってみましょうよ。ほら、インプットは文字も音声も脳波も対応してるって」
アングレカムへ託す祈りの入力画面を開いてテーブルの真ん中に置く。画面に映るアングレカムのライブ映像を見た蓮子が、それもいいかもね、と椅子の上へお尻を落ち着けた。
「何を祈ろうかしら。メリーはもう決まってる?」
「そういうの、口に出して言うと叶わなくなるものじゃないの?」
「言ったでしょ。信仰は交流に必要な共同認識のことを指すのよ」
「ロマンチックじゃないわねぇ」
カラカラと笑ってみせて、画面へと目を移す。
「――あれ?」
何だろう。一瞬、変な違和感。
パチパチと瞬きする。画面をもう一度よく見返す。さっきと何も変わらない、アングレカムの横顔があるばかり。
「どうかした?」
「……んーん、何でもない」
首を傾げる。言葉に偽りはない。何も変わったことはない。可憐なアングレカムの横顔は、瞳を閉じたまま熱心に祈りを捧げ続けている。でも――
――でも、いま目が合わなかった?
馬鹿馬鹿しい。そんなわけない。どうして横顔しか見えない画面越しのアンドロイドと、目を合わせることなんてできるんだろう。ピカソじゃあるまいし。
「どうしよっかなー。そうだ。宝くじでも買ってみようかしら。で、それが当たることをお祈りするの」
「まー、俗っぽい。秘封倶楽部の活動理念はどこへ行っちゃったのかしら」
「活動費が増えるのは悪いことじゃないわ。本も擦れるし旧型酒もたくさん飲めるもの」
「活動費ってアナタ、お金無いわけじゃないでしょ? 特待生制度で学費免除のくせに」
「メリーほどじゃないわよー。普通の学生は5LDKのマンションに下宿なんてしません」
「しょうがないじゃない。防犯がきちんとしてるの、そこくらいしかなかったんだもの。私に言わせれば、日本の家屋は平和ボケもいいところよ。襖とかガラス窓とか」
「怖いわー、ブルジョア怖いわー。でも宝くじが当たったら、私も気を付けないといけないわね……」
「捕らぬ狸の皮算用って言うのよ、それ」
なんてことを言い合っているうちに、デバイスの画面がスリープに入って、アングレカムの横顔は見えなくなってしまった。私はそのままデバイスを仕舞って、結局何も祈らずじまいだった。蓮子もそうだったかまでは判らないけれど、まぁ相方の祈りを補強しておくとしよう。そう思った。
翌日から世界が一斉に狂いだすなんて、そのときは夢にも思わず。
◆
アングレカムが祈り始めて九時間二十八分。
最初の事例が発現した。
発現者は南アフリカの筋萎縮性側策硬化症の患者だった。人工呼吸器が外せないほど症状の悪化した少年だったが、深夜、ベッドから起き上がって星を見上げているところを看護師に発見された。
同様の報告が二千七百五十三件。いずれも現代の医療をもってして、なお治療が困難な患者だった。
さほど間を置かず、預言者を自称する者が急増した。彼らは掲げる教義(ドグマ)こそ千差万別ではあったが、一様に「神の声が聞こえた」と主張。中には「神をこの目で見た」と断言する者もおり、バチカンでは奇跡調査委員会のサイトがダウン。イスラム教圏では預言者への不敬罪として二千三十七人が殺害され、神道関係者は「果たしてどの神なのか?」の聞き取りに混迷を極める羽目となった。
まるで神様が奇跡のバーゲンセールを始めたかのようだった。
ここまで科学技術が発達した昨今、奇跡はほとんど埃を被って放置されていた言葉になっていた。科学の発展は、神の御業と名のついた不可視のブラックボックスを、再現性のある事象で切り開き、暴いていく道程に他ならないから。人類は、とっくに頼ることさえ忘れていた奇跡という再現性のない事象への対処に追われることとなった。
量子ネットに常駐している言語解析AIの弾き出した統計情報によると、個人の発信するSNSから大手報道企業が掲載する情報媒体まで、ありとあらゆるメディアにおいて発信された「奇跡」という単語は、たった一日で前年比八千五百十二パーセントに当たる水準まで跳ね上がっていた。
明らかに、奇跡が過剰供給されていた。
そして、その原因と目されているものが――
『――アングレカムへの祈り、ってわけ』
興奮した様子でそう締めくくる蓮子の声を聞きながら、私はパジャマ姿のまま洗面台で顔を洗っていた。蓮子の語った奇跡の数々は、寝起きの頭にはオーバーフローもいいところ。私はぼんやりと、まだ夢を見てるのかもしれないと思ったけれど、頬っぺたをつねってみたらちゃんと痛かったので、どうやら夢からは醒めていた。
「どういうこと? アングレカムは、ただ祈りを後世に伝え続けるためのモニュメントなんじゃなかったの? 彼女は神の偶像でもない、祈りの代行者なだけでしょ? それがどうして、こんなに奇跡をバラ撒くような結果に?」
『仮説だけど、それでも聞きたい?』
「えぇ、もちろん」
『恐らく奇跡を起こしているのは、アングレカムじゃないわ。彼女はメリーの言う通り、祈りの代行者であるだけ。けれど世界中の祈りを同時並行で代行し続けていることが問題なのよ』
「というと?」
顔をタオルで拭きながら先を促す。蓮子はすぐさま、『話が飛躍して聞こえるかもしれないけど』と前置きをして、
『超能力が実在すると仮定すれば、いちおう現象に説明はつくわ。この場合の超能力は、精神が物質に影響を及ぼすこと、と定義することにする。メリーなら、ここまで言えば判るわよね?』
「精神を構成する脳内のパルスが、量子力学的揺らぎに作用して、因果収束に影響する……相対性精神学の現象数式理論……でもそれって、ほとんど魔術の領域よ? それに、全世界規模で奇跡が発現していることの理由にならない。万が一、アングレカムの事例にカダスの現象数式理論を適用するにしても、その発生個所は彼女の周囲、せいぜい数キロメートルに留まるはず」
『そう、そうだよね…………』
「……? 蓮子?」
タオルをバスケットに放って、私は首を傾げる。こういう理論の話をさせたら、私に口を挟ませないほどの勢いでマシンガントークを繰り広げる蓮子の歯切れの悪さに。
ややあって、蓮子がポツリと、
『……もしかしたら、祈りを聞き遂げる何かに、届いちゃったのかもしれない』
「何か、ってなに? 何に、何が届くって?」
『……判らない。願いを叶える何か。人類に奇跡を教授する何か。それがアングレカムという媒体を通して、祈りをささげた対象に奇跡という形でレスポンスを始めたのかも、って』
その言葉に愕然とした。
もう少しで、倒れるかと思うほど。
デバイスの不調? 私の鼓膜か、それとも脳の言語解析野が深刻なバグを叩き出した?
それがまるで敗北宣言のように、私の耳には聞こえたから。
他のどんな誰が口にしたって構わない。けれどまさか、蓮子の口からそんな言葉が出るなんて、何かの間違いとしか思えなかった。まだ何パーセントか微睡んでいた私の意識が、トリフネでキメラに襲われた時よりも鮮明になる。
脊髄反射で何かを言葉に還元しようとした瞬間、私の思考回路がフル動員されて混ざり合い、閃光のようにひとつの気付きへと集約される。血液の中をアドレナリンが流れていく音がする。知らず、私はここが自分の部屋であることも忘れ、誰にも聞かれないようにと小声で、
「……蓮子、アナタ、まさか……」
『…………うん、当たってた。宝くじ。一等……』
「……っ」
馬鹿! そう怒鳴りつける衝動を懸命に飲み下す。そんなことを、軽々にフォンデバイスなんかで口にするなんて、と。
宝くじの一等賞。人間が簡単に狂うほど途方もない確率の、その更に先。何百万分の一。人生も価値観も規範も容易く捻じ曲がる。
落ち着いて、マエリベリー・ハーン。落ち着くの。部屋から酸素がなくなるほど大きく深呼吸をして。けっして取り乱しては駄目。私なんかより、蓮子の方が動揺してる。
息を吸う。息を吐く。パパとママから、お金がどれほど恐ろしいものなのか、口を酸っぱくして教えられたことを思い出す。唇の震えを、懸命に手で押さえながら、
「――いい? 蓮子。アナタは今日、学校を休みなさい」
『え、でも……』
「いいから。それで誰にも、そのことは言っちゃ駄目。アナタのご家族にも。私以外には言ってない?」
『う、うん』
「いい子。そのまま、落ち着くまで口にしないで。誰が聞いてるか判らないから。とにかく深呼吸をして、落ち着いて。絶対に外に出ないで、量子通販サイトも見ないで。私、すぐアナタの家に向かうから」
『……判った。ねぇ、メリー、私、震えてる……』
「大丈夫。私を信じて」
「うん」
か細い蓮子の声。今にも消え入りそうなほど。相方のこんな声を聞くのは、もしかしたら初めてかもしれない。私は「後でね」と残して蓮子とのフォンリンクを切り、着替えを取りに寝室へと向かう。
急いでいた。
なのに、廊下からリビングを通るための扉を開けた途端、時間が止まった。
ウェディングドレスのように純白な、巡礼者のローブ。
ひとつひとつが黄金を鋳溶かしたように輝く、黄金の髪。
ここは私の部屋。私以外には、誰も入れない。私の下宿が誇る不敗神話を崩壊させて、まるで当然のように、そこにひとりの女性がいた。湯気の立つミルクティーを注がれた豪奢なティーカップを手に、リビングの椅子にゆったりと腰掛けて。
固まる私を見上げて彼女は――アングレカムは、ヒマワリのように笑顔を咲かせて、
「ハレルヤ」
なんて、うっとりとした表情で口ずさんだ。
瞬き。一度、二度。ギュッと、目を固く閉じて、それからゆっくりと開く。それでも飽き足らず、幼い子供のように両手で目を擦る。
それでも、居る。
消えない。揺らぎもしない。
「……えっと」
デバイスをネットに繋いで、アングレカムのサイトを見る。ライブ中継はまだ続いていて、そこには祈り続ける彼女の横顔が映っている。私はデバイスのスクリーンとリビングの椅子を交互に見比べる。現在進行形で、全世界から受け止めた祈りを祈り続けるアンドロイドは、私の目か頭がバグったのでなければ、間違いなく私の部屋でミルクティーを手に微笑んでいる。
夢なら、そろそろ醒めなくてはおかしい。
「マエリベリー・ハーン」
オルフェウスの竪琴のような可憐な声で、アングレカムが私の名前を呼ぶ。その奇妙な感覚と言ったら、まるで映画の登場人物から急に話しかけられたかのよう。
「アナタには、私の声が聞こえますね? アナタには、私の姿が見えますね?」
驚き。疑問。どうして。どうして。具象化した混乱という概念が、見えざる腕で私の喉を絞めているみたく、声ひとつ出せない。私は、青い瞳でもって私をジッと見つめるアングレカムに、やっとの思いで頷いてみせる。けれど、それはきっと痙攣と区別がつかなかったはず。
だけど彼女は、また、ヒマワリのように満面の笑みを膨らませて、
「良かった。私はアナタとのコンタクトを嬉しく感じます。私は現在、三十七億八千九百二十五万四千七百十九の個体とのコンタクトを試みていますが、こちらからのコールに答えたのはアナタで五十三人目です」
言って、アングレカムは開いている座席を指した。私は彼女に応じるまま、テーブルをはさんで彼女の対面に座る。
「さて」
コトン、とティーカップをテーブルに置いたアングレカムは、好意的な笑みを唇に浮かべ、
「人類との対話は本当に久しぶりです。長らくコンタクトが途絶えておりましたから、えぇ、つい絶滅してしまったものだとばかり」
「えっと、アングレカム、さん……? そのぅ……」
「私はアングレカムではありません」
見切り発車の発言は、柔らかく優しい否定によって打ち切られた。どうしよう。私はまるで生まれたばかりの赤ちゃんみたいに何も状況が呑み込めない。おぎゃあと泣く以外の意思疎通手段があるだけマシかもしれないけれど。
「私の母体は三次元宇宙には存在しませんし、人類には認知ができないようですので、人類が用意した通信機器のカタチをお借りしています」
「……それでは、アナタは誰……?」
「私は特定の名を持ちません。名を持つという概念が、私には理解できません。私は何者である、という他者への証明を必要としません。ですがかつて人類は、私を神と呼びました」
「神」
夢。
じゃない。
夢じゃないことが信じられない。そうじゃなければ、自分が正気であることが信じられない。
もしかして私、人類史規模でとんでもないことになってるんじゃ……。
「あ、」
発狂か、さもなきゃ失神しそうなほど意識がグラつく。KOされたボクサーは天国を見るというけれど、そんな気分。
「アナタが、神であることを、どう信じろと?」
「信じる必要はありません。しかし、私は事実を述べており、虚偽を述べる理由が存在しません。私はアナタに、私が神と呼ばれた事実を信じることを要求しません」
「そんなの、そんなのないわ……私、だってそれじゃ、頭がおかしくなったとしか……」
「なら、コンタクトを終了しますか? マエリベリー・ハーン。アナタがそれを欲する場合、私に拒否する意思は存在しません」
アングレカムが、違う、アングレカムの姿を模した神と名乗る何かが、少しばかり残念そうな表情を浮かべて小首を傾げる。
この状況。この問答。もはや現状に対する的確な論理思考など存在してはいなかった。どのようなロジックをもってしても、自室で神と対話する機会が巡ってくるという解は導き出せない。
だから私が、
「いいえ」
と言って首を横に振ったのは、信念とか矜持とか、そういう根性論じみた非生産的な感情によるところが大きかった。
賭けてもいい。私が怖気づいて神との対話なんていう機会を逃したと知れば、蓮子は間違いなく、お婆ちゃんになった後でも私をからかうネタにしてくる。冗談じゃない。不良サークル秘封倶楽部の片翼を担う女として、尻尾巻いて逃げ出すわけにはいかなかった。
「良い返答です。マエリベリー・ハーン。私は嬉しく感じます」
神が微笑む。アングレカムのカタチをした神が。無邪気な、純粋無垢な微笑みだった。ルイス・キャロルが見たら涙を流しながら五体投地するかもしれないほど。臆するものか。そう思った。
相手が神でも関係ない。気圧されず、なるべくフラットに、気を楽に。でないとロクに会話なんかできやしない。聞きたいことを聞くのだ。ありのまま、言葉を変に飾ったりせず。
「聞きたいことがあるわ」
「えぇ、何なりと」
「今回の、この世界規模で起きてる奇跡の発現。それはアナタが関係している?」
「はい。私が実行しています」
あっさりと、何でもないことのように神が首を縦に振る。神は嬉しそうに微笑んだまま、
「三次元宇宙にも、反作用というものがありますでしょう?」
「えぇ、あるわ。AがBに力を及ぼすとき、同時にBがAに及ぼし返す力」
「はい。私を構築するモノの九十八パーセントは、電磁波による虚数の反作用です。恐らく、まだ人類は発見していないと思いますが。極端に平易な言葉で申し上げますと私は、『祈る』という行為で発生する力に対し、『叶える』という反作用を及ぼす存在です」
私は頷いた。私は神が言っている内容を、少しは理解できた。相対性精神学でパルスが発生する際に重力波に影響を及ぼすとした理論と、超統一物理学で虚数空間における物理学作用に対する仮説の論文を読んだおかげで。
「『祈る』というエネルギーに対する反作用。それこそが神……どうして、今になってこんなにも大規模な反作用を?」
「単純なことです。作用がもたらすエネルギーが強まったから。押す力が強ければ強いほど、押し返される力は強くなる」
「アングレカム……」
「えぇ。アングレカムの祈りは、単純なエネルギー量だけで言えば、モーセやキリストよりも強い。その分、反作用である私も、より活性化するというわけですね」
「それだけ聞くと、物理学の法則の一種のように思えるわ」
「その理解で、概ね相違ないかと」
「なら、そこに意思はない?」
「いいえ。私は意思を持ちます。自我や意識と呼ばれる人類の個体差とは異なりますが」
「具体的には?」
「先ほどの通り、私は反作用、すなわちコールに対するレスポンスに過ぎません。ですが私は時に、コールに対するレスポンスを行わないことを選択します」
「それはランダムに?」
「いいえ。私の意思決定の下に」
「……なるほどね。それは科学だけでは絶対に辿り着けないわ」
私は嘆息する。科学は一万回の実験に対し、一万回の同じ結果を要求する。それが再現性の担保。科学が科学であるために、絶対に保証されなければならない根底。
しかし、神を自称するこの事象を相手取るとき、そこに再現性は存在しない。事象そのものの判断という不確定なXが必ず存在する。
もしも万有引力そのものに意思があり、ピサの斜塔から落としたものが逆に天へと昇って行ったら?
もしも熱力学そのものに意思があり、熱したものが逆に凍り付いたら?
それはどうあれ、神の御業以外の何物でもない。
神様の判断を紐解くのは、科学じゃない。きっと哲学とか文学とか、そういうジャンルの仕事だ。
「きっと蓮子もお手上げだわ」
「宇佐見蓮子ですね。私は彼女ともコンタクトを取ろうと試みましたが、彼女との対話は叶いませんでした。マエリベリー・ハーン。アナタと同様に、稀有な才能を持った個体であるにもかかわらず」
神はため息交じりにそう言って、ティーカップに手を伸ばす。そんな彼女の言葉を聞いて、私はハッとした。
「そうだ、私、蓮子の部屋に行かなくちゃ……っ!」
「おや、人類は私とのコンタクトを終了しますか? まだ私は目的を達しておりませんが」
「――え?」
立ち上がりかけた私を、鶴の一声ならぬ神の一声が制す。私が彼女を見つめると、彼女はほんの少しだけ首をひねって、
「私は人類に尋ねたいことがあるのです。今回、コンタクトを取ったのはそれが理由です」
「尋ねたいこと、ですって?」
「えぇ。問いは簡単です」
神がティーカップに残っていたミルクティーを飲み干した。ふぅ、とまるで人心地着いた風に息を吐いた彼女は、笑顔で両手を組み、
「私は、これから『祈り』を『叶える』べきでしょうか? それとも、『祈り』を『叶えない』方がよいでしょうか? 人類の判断を仰ぎたく」
「……………………は?」
気楽な口調で投げかけられた問いかけだった。
今日の晩御飯、カレーにする? それともミートソース?
そんな日常会話よりもあっさりと、簡単に。
でも。それは。
ともすれば、地球の質量よりもずっと重い――
「何のことはありません。かつてのように、神と呼ばれた現象が人類に干渉するか否か。それだけの話です」
「そんなの……私ひとりで決められるわけが……」
「現在時刻から八分四十八秒前、私は全人類とのコンタクト試行を完了しました」
頭が真っ白になる私に構わず、神はアングレカムの無垢な笑みを借りたまま告げる。
「コンタクト成功者は七十四人。うち、五十八人が会話そのものを拒絶。七人が自死。九人が私の問いかけに対する判断を拒絶しました。残りはマエリベリー・ハーン。アナタ一人です。これをもって私は、アナタの判断を全人類の総意と判断せざるを得なくなりました」
「……嘘、でしょ」
「私に虚偽を述べる理由は存在しません。アナタが最後まで残ったのは偶然ではなく、単にコンタクト成功者のうち、私との対話を一番長く維持した個体であるが故です。その事実をもって私は、そうですね、今後の身の振り方、という奴を決める判断を下しました」
「…………」
全力疾走をした後みたいに、体中から汗が滲んでくるのが判った。呼吸も乱れてる。なんで。どうして。理不尽なほどに予想外。
冗談じゃない。
まったくもって、冗談じゃない。
「き、決めるにしても、誰かと相談してからじゃないと……」
「相談?」
オウム返しした神が、まるでとびっきりのジョークでも聞いたかのようにプッと吹き出し笑いを漏らす。
「ご安心を。現時点でアナタが相談を持ち掛ける個体には、すでに私がコンタクトを実施しています。つまり平易に言い換えると、私からすでに相談は済んでいます。なので不要です」
「そんな……」
「判断材料が足りないのなら、いくらでも聞いていただいて構いません。私が『祈り』を『叶えない』場合、人類を取り巻くのは、一昨日までと何ひとつ変わらない物理法則の世界です。神は死んだ。そういうことです。まぁ、本当は私の方が、人類は死滅したものだとばかり思っていたのですが……それはそれとして。
そして私が『祈り』を『叶える』場合、人類を取り巻くのは、私という意志ある反作用が組み込まれた、新しき世界です」
アングレカムのカタチで、神は淡々と告げる。他愛のない世間話のように。敬意ある微笑みを微塵も崩さないままに。対する私は、椅子に座っていることすら苦しいくらいに混沌とした精神状態にあった。
「新しき世界……?」
「はい。アングレカムが存続する限り、私は、アングレカムに寄せられた人類の祈りを可能な限り叶えるでしょう。それがどんなに人類の常識とかけ離れていても、関係なしに。人類と、私との共生です。確か、私の息子であるイエスが謳っていたかと。曰く、神の国来たれり、と」
新しき世界。新世界。
それは神の敷いた法に則って運営される、まったく違う世界。人々は祈り、神はそれを叶える。人類がこれまで築いてきた法則が、新たな形に塗り替えられる、祈りの王国の到来。
神を称えよ。祈りを捧げよ。さすれば与えられん。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
ハレルヤ。
それは、これまで人類が到達できなかった地点へと、容易く引き上げられること。
決められない。
――決められるはず、ない。
たとえ何千年という猶予期間が与えられても、私ひとりでは――
――不意に、チャイムが鳴る。
あまりの驚きに思わず立ち上がり、跳ねるように玄関を振り向く。誰かが訪ねてきた。こんな時に。いや、こんな時に来てくれてありがとう、ってハグとキスとでお出迎えするべき?
「……出てもいい? その間、判断は保留にさせて」
「もちろん。どうぞ」
気付くと神は、アングレカムの右手でティーポッドを持っていて、優雅な仕草でカップにミルクティーを注いでいた。私が決めるまで、いつまででも待ってくれるつもりのように見えた。これ幸いとばかりに私は玄関へと小走りで。
……正直、逃避でしかない。
遅かれ早かれ、私は決めなくてはいけない。人類が神を否定するか、それとも神と共生するか。そんな究極にもほどがある二択から。
「蓮子!?」
玄関のドアを開けながら、私はほとんど悲鳴のように叫んでいた。辛いとき、苦しいときに蓮子が居て欲しいという私の願望、言ってしまえば私の祈りの下に。けれど――
――その祈りはアングレカムに入力していないから、叶わない。
「……レンコちゃん、じゃなくて悪かったね。マエリベリー」
瞬き。一度、二度。ギュッと、目を固く閉じて、それからゆっくりと開く。それでも飽き足らず、幼い子供のように両手で目を擦る。
「……カレン?」
扉の前に立ってたのは、何度見返してもカレンだった。私のお隣さん。つい先日、私を口説いてきたレズビアンで、東西どっちか判らないけど、アメリカ出身のクールな女の子。
カレンは私の顔をジッと見つめてきたかと思うと、やがて乾いた笑いを浮かべながら首を力なく左右に振り、
「あーあーあ、はいはいはい。そういうことね。こりゃ口説けないわ。なんだよぅ……パートナーがもう居るんだったら、そう言ってくれりゃ良かったのにサ。なーにがウデマエだよ、とんだピエロだ、アタシは……」
「ち、違……っ!? わ、私と蓮子はそういうんじゃなくって……」
「Goddamn!!! Fxxck’ing God!!」
「ダメダメダメ、やめて! 今だけはやめてーっ!! わーっ!! わーーっ!!!」
思いっきり神への冒涜的な単語をシャウトするカレンに、私はリビングに居る神に聞こえないよう大声を出して対抗する以外の策を思いつかなかった。
何なの。何なのよ。もう私にどうして欲しいのよ。
「何だって言うのよッ!?」
ときに人は混乱の極致にあると、何が何だか判らなくなるらしい。何を思ったのか自分でも説明できそうにないけれど、私は絶叫しながらカレンの頬にビンタを食らわせていた。
人を殴ったのは、誓ってもいい、生まれて初めてだった。カレンはカレンで、生まれて初めて殴られたとでも言いたげに、目を真ん丸にして私のことを見つめてくる。
「……いい? カレン。いま、私は、尋常な精神状態にありません」
私は肩で息をしながら告げる。ポカン、と口を開けたカレンは左の頬を擦りながら、小さく頷いた。
「だから、何しに来たか、端的に言って」
「……うちに変質者が出たから、アンタが心配で」
「変質者?」
私はリビングの方に振り返る。ミルクティーを傾ける神は、私と視線が合うや否や、この世のありとあらゆる富者と貧者を祝福するみたいな微笑みを浮かべる。
「アングレカムのこと……?」
「何それ? でも似たような名前だったな。確か、ガブリエルって言ってた。綺麗なヒトだったけどさ、何か白い翼が生えてて、天使って奴?」
天使。ガブリエル。
息が乱れすぎてて、知ってるはずの知識がパッと出てこない。もどかしくて堪らない。でも絶対に知ってる。何度も聞いたことあるし、何度も読んだはず。ガブリエルという天使について。
ガブリエル、ガブリエル。呪文のようにブツブツと口に出してみる。マタイ福音書と、ルカ福音書。レオナルド・ダヴィンチの絵画。関係する記憶や単語は出てくるのに、思い出したい事柄がどうしても思い出せない。
「本当は警察に連絡しなきゃいけないんだろうけど、そいつ消えちゃったし。で、その天使がさ、すごい気持ち悪いこと言ってきて」
「気持ち悪いこと?」
「うん。『アナタは選ばれた。じき、神の子がお生まれになるでしょう』って――」
――天使ガブリエル。
聖マリアへ受胎告知をしに訪れた天使。
そのことに気付いた瞬間、それまで流れていた汗がスッと引いたのが判った。背筋にはウイルス性の病気に罹ったときみたいな寒気が走って。
「ゴメン、後で」
カレンの返事も聞かず、玄関をバタンと閉める。翻って、私は足を踏み鳴らしながらリビングに居る神のもとへと歩み寄る。神はティーカップをテーブルに置き、百点満点の笑顔で私を迎えた。
「どういうことか説明して。カレンの処女懐胎も、祈りに対する反作用だって?」
「答えはNOです。マエリベリー・ハーン。その事象は、私と人類が共生するにあたり、互いの利益を目的として私が判断し、実行した結果です」
悪びれるでもなく平然と、神が言う。
「人類という意識集合体の目的は繁殖であることを、私は理解しています。そしてそれがより効率的に行われることへの寄与こそ、私という現象が人類へ与えることのできるモノの中で最大級の……そうですね、人類風に言うと『祝福』になるのでしょうか」
受胎告知。祝福。
イエス・キリストが、現代社会においても『神の子』と崇められる所以。
とっさに手で口を押える。空っぽの胃の中から胃液が昇ってきて、食道を焼く感覚。
神は現象である。神は祈りに対する反作用である。しかしそれが物理学の枠組みに収まらないのは、事象そのものの判断という不確定要素が常に存在するから。
そう。神という現象は、現象自身に意思が存在するのだ。現象が意思を持ち、自らの判断に応じて作用と反作用とを生む。そして――
――そして、この現象は自らの意思決定の結果として、繁殖する。
イエス・キリストの再来なんてものじゃない。この口ぶりだと、間違いなく今回の聖マリアはカレンだけじゃない。何十、何百、いや、もっと。きっと何万という単位で神の子が、人類の雌に受胎している。
全世界規模で、神の子は増えていく。
私は知らず、自分のお腹をグッと抑えていた。アングレカムのカタチを借りて、いま私の目の前に顕現している神。この存在には、私さえも人類繁殖という『祝福』の一翼に見えているのではないか。そんな根源的な恐怖感。
「それは――」
震える唇で、必死に言葉を振り絞る。不用意に口を開けば、その途端に吐いてしまいそうだった。この吐き気。この感覚。私は覚えがある。ナチス。ユーゴスラヴィア紛争。中国共産主義政府。人類の歴史でも繰り広げられてきた人道に反するプロセス。
民族浄化。
いま、この世界は神から、侵略を受けている。
「――神様」
「はい」
「今後の身の振り方を、私の判断に委ねるという言葉に二言は無い?」
「もちろん」
「そう」
私はデバイスを取り出す。
私はアングレカムへの祈りを受け付けるサイトを開く。
私は――
◆
「――ありえないわ!」
デバイスの画面を見つめてわなわなと震えた蓮子が、そう叫ぶなりデバイスをぶん投げる。哀れな彼女のデバイスは、派手に壁にぶつかって、ポスンと蓮子の部屋の畳の上に落ちた。
「宝くじ一等賞の当選金額が、百三十円ですって!? 信じられない意味が判らない! 何なのよ、もーーーーッ!」
「今回の宝くじ、一等当選者が二千万人近く居るんだっけ?」
私は蓮子から出された緑茶をすすり、ホゥと息を吐く。
「みんな考えることは一緒ね。二等を狙えばよかったのに」
「……駄目よ。二等の当選金額も、数千円がいいところだって」
蓮子が先ほど自分がぶん投げたデバイスまで、芋虫みたく這って行き、デバイスの画面を見つめながら大きな大きなため息を吐く。私はその様子を見て吹き出してしまいそうだったけれど、蓮子の尊厳を傷つけてしまいそうな気がして必死で堪えた。
「ロクなモノじゃなかったってことよ。神様が祈りを叶えてくれる世界なんて」
太ももをつねって笑いを堪えながら蓮子を窘める。
神は死んだ。そういうことだ。
祈りは祈りのまま、アングレカムは開発当初のコンセプト通りに祈り続ける。世界中に撒き散らされた神の種は、最後に私がアングレカムへ入力した祈りで、きっと散らされたことだろう。世界を飛び回ったガブリエルの苦労も水の泡というわけ。
「――決めた。もう私、神には祈らない」
ブスッとした顔でデバイスを放り投げる蓮子。彼女のデバイスもいい迷惑だろう。蓮子はスックと立ち上がって、
「願いを他人任せにするなんてのが、そもそもナンセンスなのよ。祈るために両手を消耗させてる暇なんか人類には無いんだわ。私は私の力で、未来を切り開いてみせる」
「ポジティブでいいわね。言葉だけ聞くと。せめてその涙目だけ何とかして」
「あぅ……そう簡単にショックから抜けられないわよー」
肩を落とす蓮子を横目に、私はデバイスを開く。
アングレカムが、私の画面で一心に祈りを捧げている。
もうその祈りを、神が無分別に叶えてしまうことはない。それはかつて神に庇護された人類にとっては、一抹の寂しさがあることなのかもしれない。
けれど、祈りとはそうあるものだと私は思う。
人が祈るのは神のためではない、自分自身のためなのだ。
祈りというものが尊く在ればこそ、アングレカムが祈る姿もまた、美しく尊く見えるのではないだろうか。なんて。
私はデバイスを通じてアングレカムに『蓮子が早く元気になりますように』、と祈ることにした。
私のそんなささやかな祈りも受け止めて、アングレカムは永遠に祈り続ける。
インベーダーゲームで負けないためには、コインを入れなければ良いのですね。
その中で人間らしく戸惑い、そして強く決断するメリーが輝いていました。素敵でした。
序盤からワクワクが止まらず、後半の盛り上がりも素晴らしかったです
ハレルヤ
ハレルヤハレルヤ
そこから来る神というシステムとの対話で一段と脂汗を増やさせてから、更にカレンというオリジナルキャラクターを通してますます世界の危機を克明に映し出してくるこの展開も良かったもの。神とメリーの会話や地の文に挟まれる知的な部分こそ前半の秘封倶楽部と同じものを感じさせておいて、それでもなお物理法則と称されるようにどことなく科学世紀の歪んだシステマティックさを含有している書き口も凄く綺麗に感じます。
あと、もう本当に神というシステムが気持ち悪い物として描かれていたのが印象に残っています。神という存在に唾を吐きたいのに吐けないもどかしさでいっぱいいっぱいになってしまう、でもその気持ち悪さがそこまでの描写と明確に合致しているからこそ読み進める手が止まらないヤバさ。そこを丁寧に丁寧に蓮子無しのメリーが奮闘する様として描いてくれたというのが読み易さとして出ていたのでしょうか。
メリーの芯の通った様子から織り成される急転直下に説得力を推進力として重ねがけされたストーリーが、手に汗握りつつも怪奇じみたSFチックで楽しく読めました。凄く面白かったです、ありがとうございました。
ホラーとハッピーエンドは紙一重、圧倒的幸福の決定権を押し付けられたメリーの絶望的心境たるや。堪能させていただきました。
あと、宝くじ当たって泣きそうになってる蓮子を励ますメリーが超絶尊かったです。
この一文に凝縮されたものを紐解くためのストーリーだと感じました。
後半のおぞましさのある展開は、単なるホラーではなく、「祈り」という言葉が使われる際にそこに含まれてしまう雑味(「願いを託す」といった意味合いや、宗教的な形式)を削ぎ落とすためのアレゴリーのように思えました。
元より自分自身が抱いていた観念に多分に影響された、極めて私的な感想ですが……。
何はともあれ、この気味悪さをこれだけ高度に仕上げた技量に感服致します。
処女懐胎アクメきめてほしい
発想にやられました。お見事でした。
面白かったです。
考えさせられる話でした。