近頃、鈴仙は観照に熱中していた。これは彼女の師匠に教えてもらったもので、様々なものを崇高なものとして捉える一つのテクニックである。例えば散歩道に落ちている木の枝を観照の対象としてみよう。まず、一部分を眺めてみる。段々と離れていき、枝の端から端まで全体像を眺めてみる。次にその周りの光景も含めて見てみる。これを絵にしたら楽しいだろうな、そう思えるような構図を考えてみる。そして段々と物と物、物とその景色との境界を頭の中で曖昧にしていき、その辺にあるものから美しいものだけを抽出してやろうという試みである。
出不精の輝夜を外に連れていくという口実で、時々永遠亭全員で旅行に向かう。それは紅葉狩りだったり、雪見だったり、登山だったり、地底に湧いた温泉だったり。しかし、その旅を心の底から楽しんでいるのは永琳とてゐのみで蓬莱山輝夜は言わずもがな、鈴仙も鈴仙で輝夜や永琳の手前、さも自然の美しい風景に囲まれてはしゃいでいるように振る舞っていたが、内心ひどく退屈していた。『外からの刺激で興奮するなんてまるで動物じゃないか』そのような心持ちだったので、旅行先では輝夜の後ろにぴたりと張り付いていた。
「姫様、ほら見てください! 魚が泳いでますよ!」
そんな思ってもいないことをケロリとした顔で言いながら
「魚なんて魚屋で嫌というほど見られるじゃない。それにパノラマなんて絵葉書の方がもっと綺麗だわ」などという次に飛んでくるであろう輝夜の文句を心待ちにしていた。尊敬する主に代弁させることによって自らの溜飲を下げていたのである。
一泊二日の旅行ならそれでよかった。しかし、二泊三泊と長引いてくると事情が変わってくる。段々と輝夜が持ち前の好奇心を発揮し、その旅行を楽しみ始めるのである。
「鈴仙。見て! 何て大きな建物なの! ほら、入ってみましょ!」
こうなってくると鈴仙にはもう一人である。あっちへこっちへと輝夜に腕を引っ張られる。輝夜の嬉しそうな姿は見ていて嬉しかったが、同時に鈴仙は彼女に嫉妬の念を覚えていた。孤立無援の鈴仙はそれにひたすら耐え続けた。
その内に鈴仙はこれではいけないと思い始める。『このままいくと私はおかしくなってしまう。きっと私には何かが足りないに違いない。一体どうやったら景色で感動できるんだろう。お師匠さまや姫さまだって、とうに見飽きてるに違いないのに』そこで教わったのが観照だった。
子供が買って貰ったばかりの双眼鏡を覗くように、鈴仙はありとあらゆるところでこの観照を試しては喜んでいた。永遠亭、竹藪、人里の街並み、そして神社。以前はなんとも思わなかったものが途端にその存在感が増してくように思え、それが鈴仙にとってひどく嬉しかった。特に気に入っていたのが、薬売りで出歩く際に見かけることが出来る、立派なソテツである。煉瓦造りのひと際目立つ洋食店の入り口に、ぽつんと置かれたそのソテツは、遠くから見ても明らかに異様であり、街並みや店の外観ともそぐわないものだった。しかしひとたび鈴仙が立ち止まり、教わった観照を試してみると、急激に当たりの情景へ溶け込み、刺身のつまのように必要不可欠なものへと変貌する。するともうソテツ以外の植物は考えられないように鈴仙には思えてくる。
『この里の人々はあのソテツを、里の外観を崩すと疎ましく思っているに違いない。しかし私とこの店の店主だけがこのソテツの真価を知っているんだ』毎日この植物を見ている内に鈴仙は、この奇妙な優越感を洋食屋の店主と共有したいと感じ始めた。
鈴仙は一人では絶対に外食はしない。本人曰く、理由は夕飯が食べられず作ってくれた人に申し訳ないから。勿論それは建前で、本音は一人でご飯を食べるのが恐ろしくて仕方が無いから。一体こいつは私をどう思っているのだろう。ちゃんと帽子は被れているだろうか。身だしなみは大丈夫だろうか。耳はちゃんと隠れているだろうか。うわ、何かあの人にじっと見られている気がするけど何をみてるのだろう。そんな考えても仕方がないことが、写真のコマ送りの如く恐ろしい速さで連想されていき、食事に全く集中できなってしまう。
しかし、日に日に鈴仙はあの洋食屋に行きたくて仕方が無ってくる。夜、床に就いて真っ先にぼんやりと頭に浮かぶのがソテツの影とあの洋食店の亡霊。『一体あの中はどうなってるんだろう。きっと中も素敵なところなんだろう。心地の良い音楽が流れ、ピカピカの銀食器が並んでいる。だけど気の毒な里の人たちはその素晴らしさを理解できないに違いない。だから店の中は昼時にもがらんとしているだろう。そこに、ひょいと私が登場したら? ひょっとしたら店のマスターと友達になれるかも』毎晩毎晩頭の中で、光り輝く幻の店内を想像しながら、鈴仙は眠りの中へ沈んでいった。
ある日、鈴仙は食卓で永琳に言われた。
「ねえ、あなた今日誕生日でしょ? ほら、だから、今日一日は休みってことで好きに満喫するといいわ。姫様に時々おこずかいもらってるんだし…… だからそれでおいしいものを食べたり…… とにかく遊んできなさい」
永琳は言い終わると肩をすくめて少し笑った。鈴仙は頷いた。彼女の決心はこの時固まった。
さて、鈴仙は件の洋食屋の前までやって来ると懐中時計を取り出して時間を確認する。現在十一時五十五分。五分間たっぷり、鈴仙はソテツを鑑賞すると、満足したように時計を懐にしまった。今度は輝夜に借りた手鏡を取り出して身なりを確認してみる。シャツ、ブレザー、ネクタイ、スカート。そして帽子。この日の為に調達したココア色の大きなハンチングから耳が上手く隠れていることを確認すると、鈴仙は小さく息を吐いて中に入った。
店内は鈴仙の予想に反してとても混雑していた。狭い店の喧騒の中を銀色のトレーを持ったウエイトレスが忙しそうにあっちへこっちへと行き来している。待合席も人で埋まっており、しきりに何かを話し合っていた。鈴仙は早くも家に帰りたくなった。『案内とかはないのかな。それとも店員さんが気づいてないだけ?』動転しかけた気分のまま、鈴仙は辺りを見渡すと、小さな机の上に名前の書かれた古びた帳面とその上に緑の鉛筆が載っている。鈴仙は胸を撫でおろして、そこに名前を書く。テーブル席かカウンター席か尋ねる項目では両方に丸を付けた。外で待とうと鈴仙は入口扉に体を向けかけたが、結局窮屈な待合席に座り、黙ってじっとしていた。
かなりの時間が経った。鈴仙の名前は中々呼ばれない。そもそも他の客も一向に呼ばれている気配が無かった。それだというのに、何も気にしてなさそうな客の顔を見ていると鈴仙は無性に腹が立った。脇に置かれた柱時計の神経質な秒針の音が懐の時計と共に、鈴仙の不安を煽っていく。『退屈だ。退屈だ。こんなことならてゐを誘えば良かった。そうだ! 私には観照があるじゃないか!』鈴仙は再び小さく息を吐くと席から立ち上がり、店内の様子を眺めて気を紛らわそうとした。
古めかしいシャンデリア、染み一つない白いテーブルクロス、テーブルや椅子との隙間を危なげもなく行き来するウエイトレス。こうして眺めてみると店全体が一つのダンス会場のように思え、鈴仙は嬉しくなった。キラキラと光る硝子の貼られた木製の棚、そして焦げ茶色のカウンター席。
そこで鈴仙はあること気が付く。一番手前のカウンター席が空いていたのである。鈴仙は大慌てで辺りを見渡した。ウエイトレスの一人と目が合った。鈴仙は何だか耐えきれなくなり、帽子を深くかぶると速足で店の外へと出た。ウエイトレスは首を捻りながら厨房へ戻った。
殆ど走るような勢いで鈴仙は人里をずんずんと進んでいた。『なにが観照だ! なにがソテツだ! なにが洋食だ!』鈴仙足元の小石を思いっきり蹴っ飛ばした。しかし小石は大して飛ばずに、ただ這うように地面の上を移動しただけだった。途中で煙草屋を見つけた。鈴仙は人を突き飛ばすように乱暴に暖簾を手で押しやって中に入る。
「煙草ひとつ」
「何にします?」
「じゃああの青いやつでお願いします」
「青といいますと…… どれになりますかね?」
「……やっぱりそっちの赤いので」
鈴仙は軒先で煙草の箱をびりびりと雑に裂いて開けていく。その内に火種が無い事に気がつき、再び店に戻って燐寸を買う。唇で挟んで恐る恐る一本吸ってみる。煙草の先から細い煙が立ち上りやがて消えてしまう。再び火を付け直す。一息に吸ったせいか、肺に煙が勢いよく入り、鈴仙は激しく咳き込んだ。火のついた煙草をそのまま灰皿に捨てると、残りの煙草をブレザーのポケットにねじ込んで鈴仙は店を後にした。
鈴仙は目的もなく人里の中をぐるぐると回っていた。景色は全く目に入らない。只々体を疲れさせる為の作業。鈴仙は全てを恨んでいた。とにかく無駄なことをしていたかった。それが彼女なりの世間に対する復讐だった。一時間程そんなことを続けると虚しさで今度は一杯になってくる。家が恋しくなってくる。『そうだ! 何か美味しいものを買って帰ろう。永遠亭の皆にはいつもお世話になっているわけだし』それはひょんな思いつきだったが、考えれば考える程鈴仙にはそのアイデアが素晴らしいもののように思えた。
色々な案があったが、最終的に和菓子の詰め合わせに落ち着いた。輝夜も永琳もてゐも甘いものに目がない事を鈴仙は知っていた。『とびきりの高級和菓子を買ってこよう』鈴仙は人里を歩き回って、試食を繰り返しやっと納得のできるものを見つけると、綺麗な紫色の風呂敷に包んでもらい、落とさないように両手で持って帰路についた。
長い竹林を抜け、やっとの思いで鈴仙は永遠亭につく。鈴仙は毎回この道を通る際に、人里に部屋を借りて悠々自適な生活を送る自分の姿を思い浮かべる。辺りは人里と比べるとしんとしており、風の音と、遠くから僅かに聞こえてくる鳥の鳴き声のみ。鈴仙がふと足元を見てみると、消しゴム大の土くれが転がっている。鈴仙は一旦立ち止まり、つま先で優しくそれを潰した。
門塀から庭へ入ると、扉が開いて、家から輝夜が部屋着のまま外に飛び出してきた。
「お誕生日おめでとー、いなば!」
「わ! 姫様、わざわざありがとうございます。ほら見てください、お土産ですよ」
鈴仙はにこにこしながら持っていた風呂敷を、トロフィーをかざすように高々と上げた。
「あら、あなたの誕生日なのだから、別に気を遣う必要なんてなかったのよ。……でもありがと。重かったでしょう、私が持ってあげるわ。……ねえ、いなば。皆からプレゼントがあるのよ。すごいと思わない?」
「本当ですか!」
「私のプレゼントなんて特にすごいのよ。あなたの喜ぶ姿が目に浮かぶようだわ。だってこの為にわざわざ手引きして、あなたを今日一日、人里へ追いやったのよ、ほらこっちに来て!」
輝夜に手を引かれて鈴仙は庭の端に連れてこられる。
「フフフ、これ何だと思う?」
鈴仙は震えを隠すように、ポケットの中に両手を入れた。「さあ、ちょっと辺りが暗くて見えませんね」
「じゃん! 貴方の大好きなソテツの木よ。業者に頼んで植えてもらったの。高かったんだから。いつも熱心に眺めてたでしょ?」
「そうですね、ありがとうございます、姫様」
出不精の輝夜を外に連れていくという口実で、時々永遠亭全員で旅行に向かう。それは紅葉狩りだったり、雪見だったり、登山だったり、地底に湧いた温泉だったり。しかし、その旅を心の底から楽しんでいるのは永琳とてゐのみで蓬莱山輝夜は言わずもがな、鈴仙も鈴仙で輝夜や永琳の手前、さも自然の美しい風景に囲まれてはしゃいでいるように振る舞っていたが、内心ひどく退屈していた。『外からの刺激で興奮するなんてまるで動物じゃないか』そのような心持ちだったので、旅行先では輝夜の後ろにぴたりと張り付いていた。
「姫様、ほら見てください! 魚が泳いでますよ!」
そんな思ってもいないことをケロリとした顔で言いながら
「魚なんて魚屋で嫌というほど見られるじゃない。それにパノラマなんて絵葉書の方がもっと綺麗だわ」などという次に飛んでくるであろう輝夜の文句を心待ちにしていた。尊敬する主に代弁させることによって自らの溜飲を下げていたのである。
一泊二日の旅行ならそれでよかった。しかし、二泊三泊と長引いてくると事情が変わってくる。段々と輝夜が持ち前の好奇心を発揮し、その旅行を楽しみ始めるのである。
「鈴仙。見て! 何て大きな建物なの! ほら、入ってみましょ!」
こうなってくると鈴仙にはもう一人である。あっちへこっちへと輝夜に腕を引っ張られる。輝夜の嬉しそうな姿は見ていて嬉しかったが、同時に鈴仙は彼女に嫉妬の念を覚えていた。孤立無援の鈴仙はそれにひたすら耐え続けた。
その内に鈴仙はこれではいけないと思い始める。『このままいくと私はおかしくなってしまう。きっと私には何かが足りないに違いない。一体どうやったら景色で感動できるんだろう。お師匠さまや姫さまだって、とうに見飽きてるに違いないのに』そこで教わったのが観照だった。
子供が買って貰ったばかりの双眼鏡を覗くように、鈴仙はありとあらゆるところでこの観照を試しては喜んでいた。永遠亭、竹藪、人里の街並み、そして神社。以前はなんとも思わなかったものが途端にその存在感が増してくように思え、それが鈴仙にとってひどく嬉しかった。特に気に入っていたのが、薬売りで出歩く際に見かけることが出来る、立派なソテツである。煉瓦造りのひと際目立つ洋食店の入り口に、ぽつんと置かれたそのソテツは、遠くから見ても明らかに異様であり、街並みや店の外観ともそぐわないものだった。しかしひとたび鈴仙が立ち止まり、教わった観照を試してみると、急激に当たりの情景へ溶け込み、刺身のつまのように必要不可欠なものへと変貌する。するともうソテツ以外の植物は考えられないように鈴仙には思えてくる。
『この里の人々はあのソテツを、里の外観を崩すと疎ましく思っているに違いない。しかし私とこの店の店主だけがこのソテツの真価を知っているんだ』毎日この植物を見ている内に鈴仙は、この奇妙な優越感を洋食屋の店主と共有したいと感じ始めた。
鈴仙は一人では絶対に外食はしない。本人曰く、理由は夕飯が食べられず作ってくれた人に申し訳ないから。勿論それは建前で、本音は一人でご飯を食べるのが恐ろしくて仕方が無いから。一体こいつは私をどう思っているのだろう。ちゃんと帽子は被れているだろうか。身だしなみは大丈夫だろうか。耳はちゃんと隠れているだろうか。うわ、何かあの人にじっと見られている気がするけど何をみてるのだろう。そんな考えても仕方がないことが、写真のコマ送りの如く恐ろしい速さで連想されていき、食事に全く集中できなってしまう。
しかし、日に日に鈴仙はあの洋食屋に行きたくて仕方が無ってくる。夜、床に就いて真っ先にぼんやりと頭に浮かぶのがソテツの影とあの洋食店の亡霊。『一体あの中はどうなってるんだろう。きっと中も素敵なところなんだろう。心地の良い音楽が流れ、ピカピカの銀食器が並んでいる。だけど気の毒な里の人たちはその素晴らしさを理解できないに違いない。だから店の中は昼時にもがらんとしているだろう。そこに、ひょいと私が登場したら? ひょっとしたら店のマスターと友達になれるかも』毎晩毎晩頭の中で、光り輝く幻の店内を想像しながら、鈴仙は眠りの中へ沈んでいった。
ある日、鈴仙は食卓で永琳に言われた。
「ねえ、あなた今日誕生日でしょ? ほら、だから、今日一日は休みってことで好きに満喫するといいわ。姫様に時々おこずかいもらってるんだし…… だからそれでおいしいものを食べたり…… とにかく遊んできなさい」
永琳は言い終わると肩をすくめて少し笑った。鈴仙は頷いた。彼女の決心はこの時固まった。
さて、鈴仙は件の洋食屋の前までやって来ると懐中時計を取り出して時間を確認する。現在十一時五十五分。五分間たっぷり、鈴仙はソテツを鑑賞すると、満足したように時計を懐にしまった。今度は輝夜に借りた手鏡を取り出して身なりを確認してみる。シャツ、ブレザー、ネクタイ、スカート。そして帽子。この日の為に調達したココア色の大きなハンチングから耳が上手く隠れていることを確認すると、鈴仙は小さく息を吐いて中に入った。
店内は鈴仙の予想に反してとても混雑していた。狭い店の喧騒の中を銀色のトレーを持ったウエイトレスが忙しそうにあっちへこっちへと行き来している。待合席も人で埋まっており、しきりに何かを話し合っていた。鈴仙は早くも家に帰りたくなった。『案内とかはないのかな。それとも店員さんが気づいてないだけ?』動転しかけた気分のまま、鈴仙は辺りを見渡すと、小さな机の上に名前の書かれた古びた帳面とその上に緑の鉛筆が載っている。鈴仙は胸を撫でおろして、そこに名前を書く。テーブル席かカウンター席か尋ねる項目では両方に丸を付けた。外で待とうと鈴仙は入口扉に体を向けかけたが、結局窮屈な待合席に座り、黙ってじっとしていた。
かなりの時間が経った。鈴仙の名前は中々呼ばれない。そもそも他の客も一向に呼ばれている気配が無かった。それだというのに、何も気にしてなさそうな客の顔を見ていると鈴仙は無性に腹が立った。脇に置かれた柱時計の神経質な秒針の音が懐の時計と共に、鈴仙の不安を煽っていく。『退屈だ。退屈だ。こんなことならてゐを誘えば良かった。そうだ! 私には観照があるじゃないか!』鈴仙は再び小さく息を吐くと席から立ち上がり、店内の様子を眺めて気を紛らわそうとした。
古めかしいシャンデリア、染み一つない白いテーブルクロス、テーブルや椅子との隙間を危なげもなく行き来するウエイトレス。こうして眺めてみると店全体が一つのダンス会場のように思え、鈴仙は嬉しくなった。キラキラと光る硝子の貼られた木製の棚、そして焦げ茶色のカウンター席。
そこで鈴仙はあること気が付く。一番手前のカウンター席が空いていたのである。鈴仙は大慌てで辺りを見渡した。ウエイトレスの一人と目が合った。鈴仙は何だか耐えきれなくなり、帽子を深くかぶると速足で店の外へと出た。ウエイトレスは首を捻りながら厨房へ戻った。
殆ど走るような勢いで鈴仙は人里をずんずんと進んでいた。『なにが観照だ! なにがソテツだ! なにが洋食だ!』鈴仙足元の小石を思いっきり蹴っ飛ばした。しかし小石は大して飛ばずに、ただ這うように地面の上を移動しただけだった。途中で煙草屋を見つけた。鈴仙は人を突き飛ばすように乱暴に暖簾を手で押しやって中に入る。
「煙草ひとつ」
「何にします?」
「じゃああの青いやつでお願いします」
「青といいますと…… どれになりますかね?」
「……やっぱりそっちの赤いので」
鈴仙は軒先で煙草の箱をびりびりと雑に裂いて開けていく。その内に火種が無い事に気がつき、再び店に戻って燐寸を買う。唇で挟んで恐る恐る一本吸ってみる。煙草の先から細い煙が立ち上りやがて消えてしまう。再び火を付け直す。一息に吸ったせいか、肺に煙が勢いよく入り、鈴仙は激しく咳き込んだ。火のついた煙草をそのまま灰皿に捨てると、残りの煙草をブレザーのポケットにねじ込んで鈴仙は店を後にした。
鈴仙は目的もなく人里の中をぐるぐると回っていた。景色は全く目に入らない。只々体を疲れさせる為の作業。鈴仙は全てを恨んでいた。とにかく無駄なことをしていたかった。それが彼女なりの世間に対する復讐だった。一時間程そんなことを続けると虚しさで今度は一杯になってくる。家が恋しくなってくる。『そうだ! 何か美味しいものを買って帰ろう。永遠亭の皆にはいつもお世話になっているわけだし』それはひょんな思いつきだったが、考えれば考える程鈴仙にはそのアイデアが素晴らしいもののように思えた。
色々な案があったが、最終的に和菓子の詰め合わせに落ち着いた。輝夜も永琳もてゐも甘いものに目がない事を鈴仙は知っていた。『とびきりの高級和菓子を買ってこよう』鈴仙は人里を歩き回って、試食を繰り返しやっと納得のできるものを見つけると、綺麗な紫色の風呂敷に包んでもらい、落とさないように両手で持って帰路についた。
長い竹林を抜け、やっとの思いで鈴仙は永遠亭につく。鈴仙は毎回この道を通る際に、人里に部屋を借りて悠々自適な生活を送る自分の姿を思い浮かべる。辺りは人里と比べるとしんとしており、風の音と、遠くから僅かに聞こえてくる鳥の鳴き声のみ。鈴仙がふと足元を見てみると、消しゴム大の土くれが転がっている。鈴仙は一旦立ち止まり、つま先で優しくそれを潰した。
門塀から庭へ入ると、扉が開いて、家から輝夜が部屋着のまま外に飛び出してきた。
「お誕生日おめでとー、いなば!」
「わ! 姫様、わざわざありがとうございます。ほら見てください、お土産ですよ」
鈴仙はにこにこしながら持っていた風呂敷を、トロフィーをかざすように高々と上げた。
「あら、あなたの誕生日なのだから、別に気を遣う必要なんてなかったのよ。……でもありがと。重かったでしょう、私が持ってあげるわ。……ねえ、いなば。皆からプレゼントがあるのよ。すごいと思わない?」
「本当ですか!」
「私のプレゼントなんて特にすごいのよ。あなたの喜ぶ姿が目に浮かぶようだわ。だってこの為にわざわざ手引きして、あなたを今日一日、人里へ追いやったのよ、ほらこっちに来て!」
輝夜に手を引かれて鈴仙は庭の端に連れてこられる。
「フフフ、これ何だと思う?」
鈴仙は震えを隠すように、ポケットの中に両手を入れた。「さあ、ちょっと辺りが暗くて見えませんね」
「じゃん! 貴方の大好きなソテツの木よ。業者に頼んで植えてもらったの。高かったんだから。いつも熱心に眺めてたでしょ?」
「そうですね、ありがとうございます、姫様」
なんというか不遇
捨てる事もできず、庭で毎日仕方なく水やってる所を姫様が見てて頷いてそう
もらったソテツを早々にズタズタに引き裂いてしまいそうな危うさがありました
でも他の人から見れば、何ら変わりのない姿で過ごしているし、誕生日だからと気を遣ってもらったにしても、それが全て不利益を被っているのが本当に可哀想で仕方がない。
なんで鈴仙はこういうのが似合うのだろう。
面白かったです。
何か後ろ髪引かれる作品でした。
でも家族からはとても愛されている、そんな鈴仙が素敵な作品でした。