愛しているよ、八千慧。
姉は八千慧が幼い頃、朝夕の挨拶かのように、いつもその言葉を伝えていました。ある時は、夢に入る前の子守唄の最後に。ある時は、両腕の中にすっぽりと収まってしまう、最愛の妹を抱き上げて。決して忘れてしまわないように。霞んで消えてしまわないように。
気を使って、生きなさい。それが私達の生きる術なんだから。
姉はまた、八千慧に新しい事を教える度に、そのような忠告を言い聞かせていました。山と川の全てから気を使われていることに感謝して、そのお返しとして自分も気を使う。気の巡りの内側で我々は生き、そして死ぬのだと。決して自分勝手に気を歪めてはならない。廻り続ける循環に反してはいけないのだと。その定められた運命の輪から外れれば、途端に全てが反転する。二度と日常に戻れる事はないのだと。
ぐるぐる、ぐるぐると、急流に身を窶した岩の陰には泡が渦を巻いています。川に入って魚を突いていた八千慧にとって、それはごく当たり前の光景でしたが、その日は不思議なことに、泡が割れるのにいつもの倍は時間がかかっていました。一体全体、これは何故だろうと思って短い角に感覚を集中してみると、普段は抵抗もなく流れる川に、とろとろと何か絡み付くものを感じたものですから、八千慧には探究心がむくむくと湧き上がっていきました。
藻や水草の中にも粘つく類のものはありましたが、八千慧はそれを蟹のあぶくのようなものだと推定しました。高地の清流に棲む蟹は、泥を吐かせなくても良いほど美味しい、と姉から聞いていたものですから。この胎から昇ってくる好奇心と、空きっぱなしの腹を満たすには、このまま上流に向かっていくのはとても良い考えのように思えました。それに、こんな川に丸ごと影響を与えるような泡を吹く蟹は、きっと見たこともないような大物に違いありません。姉と八千慧で分けても、お腹いっぱいに食べられることでしょう。
勿論、普段なら、そんな確証の無いおとぎ話はどうでもよいこと、と文字通り川に流して、八千慧はまた新たな川魚を狙って透き通った世界を見つめ直していたことでしょう。けれども、何故かその時は、その時だけは、逆らうことのできない熱い意志が、八千慧の胎の奥底で勃興してしまっていたのです。
一人であまり遠くに行ってはいけない、と姉から注意されてはいましたが、蟹味噌を全てあげてしまえば文句も言われないだろう、もし蟹どころか何も居なければそのまま黙って帰ればバレやしない、と高を括って。意気揚々と八千慧は上流へと遡っていきました。
ぶくぶくと紅い腹を無為に膨らませた実が繁る、緑深い河の脇の砂利を踏み。蔦に巻かれた茂みに分け入り、川幅が狭まるにつれて、ある匂いが八千慧の鼻腔に現れ始めました。
それは、一面の芒原のようにたっぷりと白い髭をたくわえた、栗の花の匂い。或いは、皮を剥き出しにして、存分に湿気を吸った、嗅いでいる側が痒くなってしまう位の、粉っぽい蘇鉄の香り。この匂いに当てられた肺は、もうもうと蒸気を上げるほどに熱くなってしまいました。とうとう駆け出してしまった八千慧の喉からは、川の水も煮立つような息が吐き出されました。
巨大な蟹。そして、あたり一面の木に生る栗や蘇鉄を想像して、八千慧の脚はカモシカのように、大小の転石が横たわる川岸を軽やかに跳ねてゆきました。そうして浮石を何度も踏み外しながら幾つかの岩場を越えると、そのうち水面全てを白い泡で覆い尽くした滝壺が現れ、そこで川岸の道は途絶えてしまいました。
子供の背ですから、多大に誇張が入っているのですが、八千慧にとってはその滝は背の百倍、いや、空に届くようにも感じられた巨大な滝でしたので。いくらその先が気になっても、滝を登ろうとは思いもしませんでした。そうして滝によって道も期待も途絶されると共に、思い描いていた夢も、背を駆り立てていた芳しい匂いも霧散してしまって、八千慧は途端につまらなくなってしまいました。
「ああ、損をした、馬鹿らしい。今日の御飯にする魚が数匹減っただけじゃあないか」
姉は自分の取り分を率先して減らすような人ですから、気苦労をかけない為にも帰る前になるべく腹を膨らましていかなくてはなりません。八千慧は足元に生えていた蛇苺を一つ摘んで、苛立ちに任せて噛み潰しました。
酸味も甘味もなく、ただただ少しばかりの水分が舌に広がりました。胡麻をまぶした海綿を食べているようで、八千慧の味覚には何の旨味も残りませんでした。水場にあり、獣が目を付けやすい果実でしたから、それでも残っているということはその程度の味なのでしょう。
八千慧は滝壺に顎を浸し、種の舌触りと共に残るほのかな草の匂いを、これまた妙な青臭さの残る水で流しました。道中では直上からの日光を反射していた水面が、輝きを失い、陽は大分西の山の稜線へと近付いていました。
「今日は随分と遅かったけれど、どうしたの。怪我でもした?」
黄金色の宝玉を抱いた、背景の峰と同じ色に染まった角を、ときんときんに立たせて。姉は家の前で八千慧を待っていました。
少しばかり一人で出歩いても、何の問題も無いと軽く考え、勇んで進んでいった八千慧でしたが、姉の凍てついた恐ろしい形相を見ると、途端にその判断が甘かったものだと思えてしまいました。
「あ、え、ええと。その……ね。私より大きな草魚を見つけちゃってさぁ。産卵前なもんだからそりゃもう川幅を埋めるくらい、ふくふくと肥えちゃってて」
「……で?」
「その……ついついムキになって捕まえようとしたら、気が付いたら夕方になってて……」
「……はぁ。ちょっと、背中見せてみな」
そう言って、姉は八千慧の身体をくるりと回して、腰の辺りをまさぐりました。八千慧の眼前に持ってこられた手の中には、植物の種らしき粒が幾つも握られており、それは確かに滝へ向かう茂みの中で見たものでした。
「ひっつく実の牛膝。胎によく効く薬。あんたも根っこの姿は覚えがあるでしょう」
いつかの秋だったでしょうか、八千慧の記憶には、腹の下の方が痛くなったら飲みな、という忠告が残っていました。
「う、うん」
「これ、この辺りでは上流の方でしか生えてないんだけど……」
「えッ……と……」
緑葉と水が溶け合ったような色の瞳が、八千慧を見つめました。こうして蛇に睨まれた蛙となると、もう八千慧には出来ることはありません。謝罪の言葉も、嘘を騙る舌も、何もかもが重い口に閉じ込められてしまいました。
もはや暗闇に包まれていく姉の顔を見ることも出来ず、八千慧は頰をもぐもぐさせながら俯いてしまいました。それを見ると、姉は能面の表情を崩して、溜息をつきました。
「あのね?……別に私はあんたを虐めたいわけじゃあない。一人で離れた場所に行ってしまった、理由を聞きたいだけなんだ」
いつものゆったりとした口調に戻った姉の様子を見て、八千慧は眠りから醒めた後のようなうめきをあげて、硬直を解きました。
「う、ん……あの、川の様子が変だったんだ。だから、何か起きてるのかな、って上流に向かって……」
「……ふうん。何か見つけでもした?」
「ううん。何にも」
「そっか」
鳥獣の声も聞こえない、物静かな日暮れが終わり。夜が始まった空を仰ぎ見て、姉は言いしました。
「嘘は良くなかったなぁ、八千慧」
口調は優しいけれど、何処か頑固な締まりを感じる、そんな声でした。
「いつも言っているよね、気を使いなさい、って」
それは勿論、耳に蛸が出来るほど。八千慧の身体に染みた言葉でした。
「相手が嘘をどう受け止めるか、それが分からないのは当然として。人を騙し、自分の中で真実を曲げ続けると、いつかそれは気の歪みになる。その性は一生のものとして付き合っていくしかない。そうなったらもう、おしまいなんだ」
何度も同じことを繰り返している。説教臭い。つまらない。
そういう風に、姉の言葉を感じたことも。八千慧にはあります。
「何より、嘘を吐くのは吐いてる本人が一番辛いんだ。苦しいんだ。私は八千慧にはそんな思いをして生きて欲しくないんだよ……」
それでも。言葉の奥底では必ず自分の事を想ってくれていると信じられるから。八千慧は今日も姉の言葉に頷くのです。
「うん……ごめん。嘘をついて、ごめんなさい、姉さん」
心からの素直な謝罪が出ると、八千慧の目の前にはいっぱいに姉の姿が広がりました。
「ん、わッ……ぷ。ちょ、姉さん。苦しいってば!」
先程、無造作に身体を回転させられた時とは正反対の柔らかさで、八千慧は姉に、ぎゅう、と。強く強く、包まれました。
「良かった。本ッ当に、良かった……八千慧が無事に帰ってきてくれて……てっきり、『蒼き狼』に喰われてしまったのかと……」
「……言ってなかったけど。帰るのが遅れたのも、ごめん。ただいま、姉さん」
八千慧は自分が素直ではないたちだと理解しており、どうしてこんな真っ直ぐな人と自分が姉妹なんだろう、と不思議に思うこともあります。こうしてしんみりした感情に包まれると、自分は何かの間違いで生まれたのではないだろうか、と不安に襲われることもあります。
「うん。おかえり。おかえりなさい、八千慧……」
それでも、八千慧を包む、暖かな胸の鼓動は。安堵を感じさせる匂いは。そんな暗い感情を明かりの届かない夜に捨て置いて、暖かな家の中に返してくれるのでしょう。
「……へくちゅッ!」
「ごめん、ちょっと外に長居し過ぎたかな。いくら産卵期であったかくなってきた、と言っても薄霧でも出てきそうな天気だし」
八千慧は火に手をかざして、かじかんでいた指先に血を通しました。遠出をした分の疲労も、家に着いてからどっと出て来たのか、ふくらはぎがずきずきと鈍く痛んでいました。
「今日の晩御飯は私が全部作ろう。あんたはしっかり火に当たっておいで」
「そんな。駄目だよ、姉さん。私のせいで魚が少なくなったのに、料理まで任せたら……」
「いいの、いいの。色々あった日には休むのが一番。そうして気を養って、また明日から頑張ってくれればいいんだから」
そう言って、姉は八千慧のものに加えて自分の分のむしろまで持ってきて、震える背に被せました。
帰りを待っている間、姉はこのむしろを使っていたのでしょう。先程胸の中で懐いた暖かみが、幾分か残っていました。
八千慧の手がいくらか馴染んできた頃には、竈にかかっていた鍋がくつくつと蒸気を漂わせはじめ、時折、ぷつ、ぷつと弾けた水が土壁に飛び散りました。
「いい白鰱を取ってきてくれたね、八千慧。煮物にするかい。それとも焼いて頂く?」
「何方でも。姉さんの好きなように」
「そう?……じゃあ、煮ていこうか」
脂の乗った白鰱がまな板の上にあがり、死んでおりながらもふっくらと水分を保った、大きな目玉が天井を見つめました。
「八千慧が採ってきた魚の方が何故か美味しそうなんだよね、悔しいなぁ」
「……姉さんは採った後の処理が大雑把なんだよ。上手く即死させて締めてやらないと」
脳天刺しの位置や、背骨を切断して締める魚などが話題に挙がるうちに、白鰱の鱗はみるみるうちに包丁でこそげ落とされていきました。
「ううん、やっぱりヌメるなぁこの魚。鱗落として少しはマシになったかな」
ちゃり、ちゃり、と、鱗をまな板の端に寄せる姉の背に、八千慧は何気なく語りかけました。
「……ねぇ、姉さん」
「何だい?」
「今日は、川の様子が変だったって言ったけど」
「……あぁ、さっきそう言っていたね」
「変に、粘度を持っていたんだよ、川の水がさ。ちょうどその白鰱を洗った後の水みたいに」
すどん、と刃が板に叩きつけられる音と共に、白鰱のカマがべろりと身から位置をずらしました。姉は、うっすらと口と身を繋げていた銀の皮を千切って、肛門からさくりと包丁を入れました。
「私、上流に何かいるんじゃあないかと思って、それで……」
背骨にこつんと刃先が当たり、ぎい、ぎい、と、中骨の上を舐めるように刃が滑ると、白鰱は徐々にその腹側の肉を半分に分かたれていきました。
「川が粘つくほどの粘液、か」
「姉さんは何か、心当たりはある?」
「無くは、ないけれど……」
そこで、姉は手を止めて、少し躊躇いの間を持たせてから、言いました。
「もし私が思い浮かべたものが、その正体だったら。危険だから、あんたが出会わなくて良かったよ」
「へえ。じゃあ、やっぱり、大きな魚か蟹でも居たのかなぁ」
白鰱はくるりと身を反転させ、今度は背中側から同じように切り込みが入りました。
「……玄武のような、大物が。居るんだよ、ここの上流にはさ」
「亀?……この辺では見たこと無いけれど」
「こっちに下りてくることは無いからね。とにかく、あんたが出会うにはまだまだ早いよ」
「ふうん……」
尾から入った刃により、腹と背の双方向からの切り込みが貫通し、その身はついに2枚におろされました。
薄く黄味がかった濁り汁の表面で、白鰱の余分な油が合体と分裂を繰り返しているうちに、箸にかかる抵抗が消え失せ。八千慧は最後の身を食したことを知りました。
「……今ので最後だったか。美味しかった、ありがと、姉さん」
「良かった。身体はあったまった?」
ずず、と、椀に残っていた汁を飲むと。入れられていた唐辛子の辛さが、八千慧の足裏までをぴりぴりとヒリつかせました。
「そりゃあ、もう、ね。姉さんの味付けのおかげで。ちょっと辛さが効きすぎかもしれないけど」
「うーん、そっか。もうちょっと唐辛子減らした方が良かったかな。まぁ、今日は、そうやって身体を温めて、ゆっくりと寝ると良い。それが良いよ」
そう言って、姉は竈の火を落として、椀と鍋を溜めていた桶の水で軽く洗いました。居間も寝室も台所も、一緒くたになった小さな家でしたから、ごろりと横になった八千慧には、姉の影がよく見えました。
「むしろはあったかくなったかな。あんたと一緒にずっと火鉢の側に居たんだから、今日はさぞかし暖かく眠れるだろうね」
「うん、そうだね」
いつもなら姉と一緒に竈の前で片付けを手伝っていたものですが、こうして光源の奥から見つめると、姉の姿は紅くなった炭にぼんやりと照らされていて。土壁に映る怪物のような影絵がちろちろと動くのと合わせて、なんだか随分と遠くに居るように感じられました。
「……ね、姉さん」
「なんだい?」
「今日は……姉さんは早く寝るの?」
「ん?……んー……」
そうだなー、と、返答を渋る調子が、随分と楽しそうで。
「ん。あんた、もしかして。今夜は一人で眠れないのかい。姉さんと一緒に眠りたいのかな?」
八千慧に振り返って、姉はそう言いました。
「なっ……」
まったく陳腐なからかい文句で、こんな言葉に引っかかってはいけない、と、八千慧は知っていたのですが。日暮れ時に感じた、薄ら寒いすかすかとした気持ちが肺の底に沈澱しており、ぐらぐらと心臓を揺らしました。
そうしてとくんとくんと鼓動を続けているうちに、
「……う……ん。一緒に寝たい……姉さんと一緒に……」
と、横隔膜から絞り出された空気が、蚊の鳴くような細い声を作り出して、子供の八千慧が勝ったことを告げました。
「……あれ、うん、って……八千慧?」
「……っ」
姉にとってもその返答は予想外だったようで、しばし姉妹は炭火が照らす闇に呑まれてしまいました。それでもやはり姉は、最後には相好を崩して、
「……ははは!……そっか、そうか。じゃあ、私もさっさと寝てしまおう。あんたと天秤にかけたら、水や油の管理なんぞ、なんの錘にもなりやしない!」
と、八千慧に伝えてくれました。
土壁に囲まれた暗い暗い世界で、姉が浮かべた笑顔はぴかぴかと光り輝いていました。
燃え殻がころころと重力に任せて転がり落ちると、木灰はふんわりと放射状に広がり。煮立った鍋から出る蒸気よりも粘度のある、白い煙が上がりました。
「けほっ。こほ……」
「姉さん、大丈夫?」
「灰が……ちょっと雑に捨てすぎたか。そっちは?」
「大丈夫、火は全部消えたよ」
八千慧は火鉢の下を覗き込み、火バサミで中央に空いている穴をかこん、と叩きましたが、落ちてくるのは少しばかりの残灰だけでした。
「よし、じゃあ寝ようか」
姉は空っぽになった下皿を火鉢の下に収め、八千慧の隣のむしろに潜り込みました。
明かりが消えると、この狭い小屋でさえ十分に見通せない、深い闇が夜を支配します。
むしろと衣が擦れ合う、そぞ、そぞ、という音。土壁の向こうから、木々の葉が騒いで掻き鳴らす、ざあ、ざあ、という音。それだけが、暗い世界で遊んでいました。
「……それにしても。今日のあんた、なんだかちっちゃい子供の頃みたいで可愛かったねえ」
中空を漂っていた木灰を吸い込んでしまったのか、八千慧の喉にはイガイガとしたものが残りました。
「……疲れてたの。明日になったら、忘れて、ね」
「はい、はい」
もっともっと小さい、赤子の頃はもう忘れてしまいましたが。幼い頃は、八千慧は姉の胸の中で眠っていました。木の影がどぉん、と玄関の扉を叩く時など、気を呑まれる恐怖に包まれ、姉のかいなに抱かれていないと小便にも行けないほどでした。凍った背筋では到底眠れず、ただ姉の鼓動で溶かしてもらうのを待つだけでした。
今は、共に便所に行くなど恥ずかしくて出来ないでしょう。一晩中抱きかかえていたら、きっと姉の腕は痺れて腐り落ちてしまうでしょう。成長していくということは、色々なものを置いていく、ということでもあるのです。
ふと、八千慧は、明日の朝、自分の手足がむしろから出るほどに大きくなっていたらどうしよう、と考えました。姉の角を見下ろすほどの背になっていたらどうしよう、と考えました。
そんな急に成長することなど、ありえない、とは言えるでしょう。けれども、明日以降の八千慧にとって、それは必ずしも絶対に起こり得ないことではないのです。太陽を再び迎えたとき、いつか起こり得ることかもしれないのです。
強くなったら、先程姉が言っていた、上流の大物をも狩れるようになるのでしょうか。大人になったら、一人で遠くまで出歩いても良いのでしょうか。姉の目の届かない、山を越え、川を越え、遥か向こうの遠くまで。
八千慧は、天井を見上げていた身体を姉の方へ寝返らせると、そろそろと左脚を外へ動かし始めました。八千慧のむしろ隧道を抜けると、少しばかりの肌寒い明かり区間を通り、再び脚は暖かな闇の中に潜り込みました。
「……八千慧?」
無防備に放り出されていた姉の脚を蛇のように絡め取ると、流石に気付かれてしまったようで。
「冷たいね、あんたの脚」
「姉さんの脚、あったかい」
ひかがみを柔らかな姉の脚に擦り付けると、膝裏の血管が呼吸をする度に熱を交換して。姉妹の温度は溶け合いはじめました。
「全く。ほら、そんなことしなくても……」
姉は、むしろをはだけて、八千慧よりも少し高い枕の脇に空間を作りました。長い角が引っかからないように、くい、と頭を傾けて、ぽんぽんと、夢の入り口を叩くと、
「……来な?」
そう、八千慧に呼びかけました。
夕暮れに抱き合った時よりも、家に入って、姉のむしろを渡された時よりも、ずうっと暖かく。むせかえる程の姉の香りが、八千慧を包みました。
手をお互いの腰に回して、下腹部をぐい、と押し付けあって。脚だけを絡めていた時よりも、何倍もの面積で、熱の交換が行われました。八千慧の冷たさを、姉に渡して。そうして、少し暖かくなったぬくみが、八千慧に戻ってきて。その熱の循環を何度も何度も繰り返して。ようやく、姉の胎の熱が八千慧に伝わりきりました。
「本当に、冷えた身体……又、こうやって一緒に寝る様にした方がいいかな」
「ううん。大丈夫。大丈夫だから……今夜だけで。元々、私は冷たいほうなんだから」
情報が乏しい中で、輪郭しか捉えられない影が震えました。
「それより、姉さんこそ寒いんじゃないの。こんな氷を抱きかかえて寝ていたら、風邪をひいてしまうよ」
「そんな寂しい口付きするんじゃあないよ。心配しなくていい、あんたとこうしているだけであったかいんだから……」
「……うそ」
「いいや。これは本当」
むしろの中で閉じ込められていた匂いが、冷たい空気と入れ替えられて、姉妹の鼻頭を撫ぜました。
「手先。足先。身体の表面。そういうところが冷える人っていうのはね」
言われた順番通りに、八千慧は、手を握られ、脚を絡められ。
「身体の奥底の炎に全ての薪を使ってしまうから、外に熱が回りにくいんだよ。知っている通り、八千慧の心は、ちゃあんとあったかいでしょう」
そうして最後に、頬擦りをされました。
「だから、大丈夫。こうしてきつくきつく抱きしめて、くっついていていれば、心の底から温かさが伝わっているよ。一緒に居ても、寒くなんかない……」
八千慧の肩が熱を飛ばすように振動し、その揺れを孕んだまま、
「本当?」
と、くぐもった声が発されました。
「本当。本当だよ。こんなつまらない嘘をついても、仕方がないじゃあないか」
「私。姉さんと一緒に居てもいいの?」
「何、言ってるんだい。私達、家族じゃあないか。山を育む命の水よりも重い血を、一度に分けた姉妹じゃあないか」
ずっと、一緒さ。
それはきっと、この暗い夜に、八千慧が何よりも必要としていた言葉でした。
「うん、うん。私、姉さんと一緒に居る。ずうっと、ずうっと、一緒に……」
八千慧も、姉も。お互いに握りしめていた手の力を、最大限に強めて。硬く、堅く。決して解れないように、固めてしまって。
声帯の振動が、身体の振動が、重なるくらいに。きっと、今。姉妹は一つのいきものでした。
「愛しているよ、八千慧」
合わせられていた頬が、少し傾けられて。姉の唇が、八千慧の影に触れました。
私も、愛してる、姉さん。
とは。八千慧は、恥ずかしくて言えませんでした。
山吹色に染められた白靄の合間を潜って、太陽が顔を出しました。帽子の様に薄雲を被っている彼方の峰の直下は、きっとまだ陽が当たらずに、眠りに包まれているのでしょう。
その峰から下ろしてきた風が、小さな土壁の家にぶつかり、細い狭間をすり抜けて、八千慧の髪を持ち上げました。
揺れ動く髪の根元に引っ張られて。一人分の熱しかこもってないむしろの中で、八千慧は目を開きました。
「ん……」
「起きたー?……おはよ」
竈の前に座っていた姉が振り返り、挨拶を寄越しましたが、未だ酔いが醒めず、焦点が定まらない瞳は、ぼんやりと。朝日を受けて輝きを放つ、黄金の角を写していました。
「お、あよう」
「ん、調子は普段通りみたいね。さっさと顔洗いな」
八千慧は、炭を弄っている姉の隣で、桶に溜まっていた水をぴしゃぴしゃと手酌で掬いました。
「干物と榨菜の汁にしようか。甕から持ってきてくれる?」
「ん……分かった」
家の隅、狩道具の奥に置かれている、冠を被った甕を開けると、辛味の中に少しだけ甘味を混ぜた、つんとした臭いが八千慧の鼻に広がりました。
「どう、八千慧。いつも通り、食欲が湧いてきたかい」
「……うん。二杯くらい食べられそう」
「そうか。それならもう、心配しなくて良さそうだね」
昨日の昼に炊いた米の割合が随分と少ない粟飯を、竈で煮立った湯に落とし込んで。漬かっていた榨菜を塩水で洗い、刻んだものを添えて。眠っていた身体を刺激する、優しい辛さが沁みる、美味しそうなご飯が八千慧の前に並びました。
「いただきます」
「はい、いただきます……あぁ、よく漬かってるね。八千慧が良く面倒を見てくれたお陰だ」
八千慧は、干物をちょいと粟飯のお粥に乗せて。榨菜の切れ端とともに、ずうずう、と口に掻き込みました。
「うん。美味しい」
「美味しいねえ」
質素だけれども、夢から醒めたばかりの消化器官が、俄に活気付き始めたのを感じました。
そうして、潤った喉に任せて、干物の血が固まった硬い部分を、ごり、と噛み砕いていると、
「そういえば、八千慧」
と、姉が声をかけてきました。
「何?」
「今日なんだけれど。山向こうの西の麓まで降りることにしたから、留守番を頼むよ。体調が戻ったなら問題ないだろう」
「それは……別にいいけれど。どうしたの、急に。普段なら出掛ける数日前に教えてくれるじゃない」
油も粟も足りないから、仕掛けの針が壊れそうだから、と。通常、姉の外出には予兆があったものですから、唐突に告げられた留守番に、八千慧は少し違和感を感じました。
「うん。実はね、早めに上流の方を見ておきたくって。昨日八千慧が言ってたことの確認だね。どうせなら遠出のついでに、って事でこんなに急な話になっちゃったんだけど……」
「上流。っていうと、滝の上?……大丈夫なの?」
あんな、天にも届くような鋭い滝を。姉が、苔に足掛け岩に腰掛け登っている姿を想像しただけで、八千慧は震えてしまいました。
「険しいけど、ちゃんと高巻く道筋はあるんだよ。気を付けていくから、心配しないで」
「姉さんがそう言うなら、何も言わないけど……」
八千慧が、ぐむぐむと粟を噛む口に戻すと、姉は腕で顔を覆い隠したまま、目を細めました。
「八千慧、さては、あんた。まだ寂しいんだな?」
「は?」
「八千慧が、ずっと姉さんと一緒じゃなきゃヤダ、独りじゃ寝られない〜、って言うなら。行かないけど」
「……阿呆なこと言ってないで、さっさと帰ってきて、って……」
独りじゃ寝られない。
八千慧は、姉が発したその言葉に戸惑いを覚えました。
「姉さん。もしかして、今回の外出って……泊まりなの?」
「そ。何日かかるか分からないから、あんたの方も気をつけてね。長くても三日くらいだとは思うけれど」
「う、ん……」
「なるべく早く出たいし、朝のうちから川で身体洗うから、あんたも……」
続く姉の言葉に、うん、うん、と適当に相槌を打ちながら。三日間、誰も居ない、冷たい土壁の家で、ひゅうひゅうと隙間風に吹かれて過ごす夜を思うと、八千慧は晴々とした外の天気とは対照的に、陰々滅々とした気分になりました。それでも、やっぱり図星だったので寂しい。とは、今からはとても言えませんでした。
栄養を蓄えた魚達が遡上してきて、産卵の全盛期を迎えている川。そこは、姉妹にとっても心地の良い空間でした。
雪溶けの水はほぼ下流に押し流されてしまい、谷間を流れる風は冷たいものの、水温は上っていく一方。それでいて、真夏のように天井を樹冠が覆う事もなく、視界は微かな葉が縁取るだけで空に向けて開かれており、山の青さを実感するには最高の季節でした。
ぱちゃ、と山容を潤ませた飛沫の向こうに、紅い波が浮かび上がって、
「ぷぁ……ああ、涼しい!」
八千慧の前には、川の水を全身に纏った姉の姿が現れました。
「八千慧も早くおいでよ。そんな岩の上に登ってじっとしてないで……」
「ううん、やっぱり、私はいいよ。昨日も川に入ったし……」
「意識して身体を洗っていた訳じゃないでしょう。一緒に洗ってあげるから、ほら!」
「ちょっ……と!」
川中から伸ばされた腕が細い腰に回され、精一杯抵抗したにも関わらず、八千慧の身体は軽々と水中に引き込まれてしまいました。
どぽん、と着水と共に生まれた泡が、八千慧の短い角の先でぱちぱちと弾けました。
「ごほっ……あの、ねえ、姉さん。私、服さえ脱いでないんだけど……」
「問題ない問題ない。何のために着替えを持ってきたと思ってるの。服も洗っちゃうでしょう。順番が変わっただけさ」
「もう……」
足の裏で底を掴んで、川の流れに抵抗しながら、八千慧は水を吸って重くなった衣を順に脱ぎ、丁度水面にに手を差し伸べている木の枝に干し掛けました。そうして水流への抵抗を背中側から脇腹に受け流して、振り返った先には。浴布を持っている以外は、一糸纏わぬ姉の裸体がありました。
頭上を巡る天に調和して色を変える、神々しい角。朱塗りの器よりもなお深く赤に染まり、山一面の紅葉した木々よりもきめ細かな髪。八千慧を包み込んでくれるふくよかさを保ちつつ、獣達よりもしなやかに伸び縮みする肢体。山の青にも、空の青にも、色を奪われず輝く、濡れた瞳。
自身の姉でありながら、溜息をつくほどの光景。八千慧は、どんなに素晴らしい景勝地でも、この姉の立ち姿に勝る美しさなど有りはしない、と思うほどに。その絵画のような風景に目を奪われていました。
「八千慧?……あんた、何、ぼうっとしてるの」
「あ、……ううん。体当たりしてきたミズムシにちょっと噛まれて……」
「そりゃお大事に。この辺は大きな甲虫は少ないけど、足元気をつけて」
「うん……」
姉はわしゃわしゃと浴布を川に浸し濯ぎ、
「……さぁ、八千慧。おいで?」
両手を開いて、準備万端といった風に八千慧の前に立ちはだかりました。
「また、そんな昔みたいなことを……」
「最近、八千慧は身体を清潔に保ててるかな。って確かめてあげるんだから、感謝して頂戴よ」
「……子供じゃあるまいし。ちゃんと洗ってるよ」
「本当かな。ほら、こことか……」
「ひゃっ……!」
脇の下。股ぐらを潜って、膝の裏。八千慧の全身をくすぐるように、姉の手が柔らかく肌の上を滑りました。
「あんた、私よりも色白で、綺麗な身体してるんだから……病気にならないように、丹念に手入れしないと駄目だよ?」
「んっ、姉さん、そこ、だめっ……!」
川の流れに身を委ねて浮き流れる時のように、柔肌が皮を舐めていきます。混乱する八千慧は、とにかくこの頭を侵してくる不思議なくすぐったさから逃れようと、手足を振り回してばしゃばしゃと泡をあげました。
「こら、逃げるな、逃げるな!」
「姉さん、もう、いいから……!」
流下する清水と、暴れる八千慧が押し出した水が合わさって、腕を振る八千慧の指の先に小さな渦が巻きました。
いつもいつも、姉の気遣いからずうっと多くの取り分を食べているのに。いくら栄養を取り入れても、身にならない、肉の付かない細腕。肋が浮いた、姉よりもずうっと痩せ細った胴。川の流れが早い日には、底を掴めないほどに浮いてしまう、軽い足腰。
心も、身体も。姉に抵抗することなど、出来るはずもなく。水面に出来た渦巻きに流されるまま、八千慧の棒切れのような身体は、姉の世話によって磨かれていました。
「こうやって、しっかりお手入れの仕方を覚えておかないと。あんたは、将来は、うんと美人さんになるんだから……」
美人。美人さん。
そうやって、姉に言われても、八千慧にはよく分かりません。自分が、それ、になるんだと言われても、実感など湧いたことが無いのです。水面に映る自分の顔は、毎日顔を突き合わせている自分の姉に比べて、全く特徴の無い平凡な顔であると言うしかありません。
大きくなったら、何かが劇的に変わるのでしょうか。成長する前は、姉も八千慧のような少女だったのでしょうか。それが大人になる、ということなのでしょうか。芋虫が蛹を脱ぎ捨てて美しい蝶になるように、そんなにもはっきりと、世界は確かな線引きを与えるものなのでしょうか。
その時八千慧は初めて、八千慧は、大きくなることに対して、明確に、怖い、と感じました。いえ、それは感情の上振れを掬っただけで、言い過ぎなのかもしれませんが、とにかく八千慧は、このままの生活がずうっと続けば良いと願ったのです。この山と川に挟まれて、姉と共にずうっと生きていけたら良いな、と思ったのです。
うずまきの中に、八千慧の頭はすっかりと沈んでしまいましたが、姉の言葉だけは渦の腕から腕へと放り投げられて落ちることはありませんでした。いつまでも、いつまでも、ぐるぐると回っていました。
波のさざめきに日光が遮られながらも、未だほの明るい水の底に、両手を鰭のように動かして流水に逆らうその姿。光を透かして、時折虹色に光る、ゆらゆら妖しく動く紅髪に包まれたその流線形は、まさしく八千慧の目には龍のように映りました。
「っぷあ、取れた!」
水面から顔を出して、太陽に向かって突き出された姉の拳の中には、しっかりと魚が握られていました。この水流に揉まれながら、銛無しで、文字通りの素手で魚を捕らえた姉の技術に、八千慧は心底感服しました。
「凄い!……本当、どうやったらそんなことできるの?」
「これは水の流れを良く読んで、そこから魚と自分の動きを予測しただけ。あんたもすぐに出来る様になるさ」
「そうかな……?」
「八千慧は銛でなら魚を突けるでしょう。それは、意識していないだけで今の私と殆ど同じことをやっているんだよ。後は、銛を自分の腕に変えて実践するだけさ」
「……そう言われても、全然分からないんだけど」
「はは、ま、やってみればわかるよ……さ、これで漁も十分かな。出発が遅れるし、さっさと上がろうか」
姉は水を滴らせながら、傾いた机のような岩場へと上がり、八千慧もその後を追って地上に戻りました。岩は太陽の熱を吸って、足の裏から淡い火照りを伝えていました。
「気持ちいいねえ、この瞬間って」
「……うん」
水から上がり、緊張を解いた身体。
谷に流れる風を。空高く上がったお天道様を。普段は隠されている衣の下の素肌で、八千慧は存分に味わいました。
魚の処理を終えて岩場に広げた頃には、肌に付いた水滴も、髪の毛も、すっかり乾き切ってしまって。姉は、髪を一度雑に纏め上げると、着替えとして持ってきていた外行きの衣に袖を通しました。紅髪を強調するような翡翠色を主体としたその衣は、山吹色を浴びて輝く姉に、とても良く似合っていました。
「姉さん、その衣……私、そんな綺麗なやつ、見たことないんだけど」
「……ああ、ちょっと今回は気合を入れた買い物があってね。衣装の奥底に仕舞っていたこの衣の出番かと思ってさ」
いつも山を降りる際はめかし込んで行くと言っても、こんなに綺麗な衣は八千慧は見たことが有りませんでした。生地は本物の絹でしょうか、白い繊維が木漏れ日に照らされて、ぴかぴかと光っていました。
「ああ、やっぱり普段着てないからか腕の取り回しが悪いなぁ」
慣らしとけばよかった、と言いながら、姉は髪を分けて、頬の両側に垂らす三つ編みを器用に編み始めました。
「こんな服、普段から着ている人達の気が知れないねぇ」
あっという間に二本のお下げが出来上がり、その先には飾り布として手絡が結い付けられました。
「これで、よしと」
先程まで八千慧より少し大きなだけのぼろ衣を纏っていたのに、瞬く間に山間に住むのに相応しくないような、後宮に住む后に変わってしまいましたので、八千慧はまったく戸惑いました。本当に別人になってしまったのでは無いか、という疑いを捨てられずに、ヒラキになった魚の側で、八千慧は声も上げずに座り込むしかありませんでした。
「八千慧、あんたも……あれ、八千慧?」
「え、……」
「何、してるんだい、そんな岩の端っこで。あんたの髪も編んでやるから、衣を着込んでこっちに来なさい」
八千慧に向けられた燦々と輝く笑顔は、優しさが伝わってくるあたたかな声色は。子供の頃から何一つ変わらない、土壁の中で何度も交わされたものと何一つ変わらなくて。ようやく八千慧は目の前の貴人を姉だと思い出しました。
「う、ん」
眼の加減か、川中で岩陰から戻ってきた魚達が、ちか、ちか、と八千慧に向けて紅く光りました。もう、脅威は去ったぞ、と。自分たちを捉えにくる、紅い恐ろしい捕食者はここから消えてしまったぞ、とでも言うように、誇らしげに鱗に描かれた模様を光らせていました。
八千慧の、前髪から側頭部までの髪が纏められ、姉の指が櫛として入り、三つに分割されました。
「……ねえ、姉さん」
「んー?」
姉は、髪束を一度にぴん、と伸ばすと、それぞれを交差させ始めました。八千慧は自分から髪を編みたいと思ったことはありませんが、しゅり、しゅり、と耳元で姉の手と自分の髪が交わる音を聴くのは、嫌いではありませんでした。
「なんか、今日。いつもの姉さんじゃないみたい。気合が入ってる。衣も、髪も」
「……んー、まぁね。こういう装いが必要なんだ、今の私には」
前方の髪が真ん中に、真ん中の髪が前方に。
「衣を整える。髪を編んでる。ってことは、最低限の身嗜みをしているって事だから。それは、清潔さを保っているという意味で、人前に出る際の礼儀にもなる」
「じゃあ、今日は、そんなに重要なの?……今までにないくらい」
「……うん。大事なことがあるんだ。とってもとっても大事なことがね」
後方の髪が最初に前方に位置していた髪を跨いで真ん中に。
「そっか、大変だね……私だったらこんな準備してるだけで疲れてしまうかも」
「……まぁ、そうだね。でも、やってりゃ慣れるさ。それに……」
ぐるぐる、ぐるぐると、三つの髪束が回転しながら、編み込まれていきます。そうして少し手が止まって、姉はゆっくりと言いました。
「衣を整えるのは私も苦手なんだけど。髪を編むのは、好きでやってる一面もあってね」
固定しておく髪を小指と人差し指で掴み、残りの三本の指で、もう片方の手が送ってくる髪束を、潜らせたり跨がせたりと、自由自在に受け取っていきます。
「こうして、髪を編むことに集中していると、手指と髪だけを地に残して、高い高い空に飛んでしまっていくことがあってさ」
「……空?」
耳元で動く姉の指先が、ぴ、と八千慧の耳たぶを数回かすりました。それは、先程の川中で味わったくすぐったさに似た感触がありましたが、逃げたいと思うほどの激流ではありませんでした。ずうっとこうして姉に身を委ねていたいと思えるような、優しい手でした。
「山河を巡る気と一緒になってね。木々の上を、太陽の下を縦横無尽に駆け回って。ぐるぐると、あの高い空を鷹と一緒に旋回して……それは、こうやって髪を編んでいる時にしか味わえない時間なんだ」
髪が尽き、左のお下げが出来上がると、今度はもっと早い勢いで、右の髪が編み込まれ始めました。
八千慧には、姉の話は何のことだかよく分かりませんでしたが、なんとなく、川に潜って魚を狙っている時に、同じ気持ちを抱いたような気もしました。
「……つまり、贅沢、ってこと?」
「そう。一人で黙々とするのも良い。そしてこうやってあんたと無駄話をしたり、有意義な話をしたり。ある時は、茶でも飲みながら……」
八千慧の髪は姉よりも短く、終わりはすぐに見えてきてしまいます。
もっと、もっと。姉の手に触れていたいのに、姉のあたたかさに包まれていたいのに。と、八千慧は思いましたが、急に髪が伸びることもなく、また、時間がゆっくりになることもありません。
「そういうのが、私の幸せ」
三つ編みが終わった事を告げる姉の手が、八千慧の頭を優しく撫でました。
「八千慧も、そろそろ髪の編み方を覚えてみない?……誰かに編んであげることもあるかもしれないし」
と、姉に言われても、八千慧には、自分が誰かの髪を結っているという状況が、まったく想像出来ませんでした。
「……さぁ。それじゃ、行ってくるよ。『蒼き狼』には気をつけて!」
そう言い残した姉は一張羅に籠を背負って、一人で山の向こうへと消えました。八千慧は細々と干物や漬物を食べ、川に潜っては寝るという、ハリのない生活を繰り返しましたが、三日後には、再び土壁の家に明るい会話が戻っていました。
何も、変わらず。何もかも全てが、元通りであるかのように。その粗末な家は、峰から顔を出した太陽に、明るく、明るく、照らされていました。そうして又時間が経つと、月が光を挿して、姉妹の眠りを照らします。順番に、ぐるぐると、朝と夜を繰り返して、天の道を星が通っていきます。
気付くことも出来た筈なのです。何かが、異なっていることを察することも出来た筈なのです。八千慧には、姉に声をかける機会が確かにあった筈なのです。
けれども、なんの水制を施すこともなく、ただただ流れに任せて砂粒は運ばれ。決められた定めの通り、遥か彼方へと。空をも覆うような膨大な水を蓄えた湖の奥底へ。深い深い亀裂へと飲み込まれて。
ぐるぐると、ぐるぐると。
急速な回転を繰り返す滝壺の底から溢れてくる波が揺らぎ、それに合わせて水の下の世界も網目の影と共に揺らめきます。眼に映るその世界は、水面で屈折する光によって歪められていることを、八千慧は経験から知っていました。だから、目に見えているその世界よりも。もっと、深く、深く。八千慧は気を使って、水底を泳ぐ魚を追いました。
高い岩場から足を放す時は、力を抜いて。身体の筋肉を解放して、水に成る様に。溶け込むように。八千慧は飛沫も立てないくらいに、静かに水に飛び込みました。着水する際に、眼前に飛び出てきたカワゲラを背後に置いてきたその瞬間、一気に世界が補正され、底が急に振動したかのように見えましたが、元から視界に頼っていなかった八千慧は、岩陰に隠れようとするナマズの気配を、飛び込む前から確かに追っていました。
身体が落ちた、手が伸ばされた、その先。丁度そこには、ナマズの髭がひゅろ、と伸びていました。
「ぶあっ!」
「おー、見事な飛び込みだったねー。どうだった、八千慧?」
八千慧が水面から顔を出すと、背の高い岩の向こうから姉の声が聞こえました。八千慧は、飛び込む数分前から息を止めていたかのように、大きく肩を上下させて、息を整えました。
「どうも、こうも……ほら!」
「おお、おめでとう!」
素手で魚を獲る練習を始めた八千慧は、まだまだ拙いながらも、飛び込みから入れば魚を掴めるほどに技術を上達させていました。
「よくやったね。一番危険な滝壺の水も読めるようになったなら、泳ぎながらの素手漁もすぐにできるようになると思う」
「それは未だに無理だと思うけど……」
練習の中で、八千慧は水と身体を一体化させることの難しさを身をもって知りました。八千慧と姉では体格が全く異なるため、姉からの口伝では八千慧の実情の運動とは大きな差異があり、何度身体を川に浸しても、姉のように魚を獲ることは出来なかったのです。
「あんたは飲み込みが良いから、水面の上から見た魚の追い方はもう完璧なんだよ。自信を持って。後はその応用で……」
まだまだ道は長いのだと、荒れた息を落ち着かせながら、姉から受け取った包丁でナマズを締めていると。濡れた手か、大きく上下する肩か、どちらが悪さをしたのか知りませんが、ナマズの神経を突き破くはずの刃が、八千慧の人差し指に切り込みを入れていました。
「ッつ!」
刃が通った直後は赤い線だった亀裂から、ぷく、ぷくりと赤い風船が膨らみ始めて、最後には大量の血が腕を濡らしました。元々肌を覆っていた水の通り道を伝って、流れる血は腕に網目のような紋様を描きました。
「八千慧、あんた……どしたの、八千慧!?」
「あ、あぁ、大丈夫、ちょっと指を切っただけ……」
姉は、何をそんなに慌てているのか、目に涙さえ浮かべて、八千慧の腕を取りました。
「大丈夫なもんか!……ああ、可哀想に、さぞかし痛いだろう、こんなに血を流して……」
「そんな、心配するほどじゃ……」
「今、痛みを吸い取ってやるからね」
そう言って、姉は八千慧の傍に跪き、八千慧の血塗れの手を柔らかな諸手で包みました。
「だから、心配し過ぎだっ」
ぱくり。
「て……?」
いつの間にか、姉の桜色の唇に、八千慧の人差し指は潰されていました。姉の口の中に、自分の指が含まれているのだと気が付いた瞬間、いつの日か渦の中で味わったくすぐったさが、八千慧の背筋を走りました。
「ちょっ、姉さん……!?」
「んぐ。ほとなひくひてて」
爪の先に当たる上顎の歯。指紋を滑っていく、ざらざらとした白い粒を持つ舌。姉の口腔からじわじわ漏れ出てくる唾液が、さらにぬめりを加えて、八千慧の指を包みました。
「……うッ……ッ……!!」
「ん。ほう、ひっとひててへらいね」
姉が言葉を発音すると共に暴れる口内の感触が、刹那遅れて八千慧の脳髄へと到達しました。砂糖大根を噛んだ時よりも強烈な、どろどろとした甘い刺激が思考を焦げつかせて、その炎は脳からどんどん下腹へと降っていきました。その時初めて、これ以上指を舐められてはいけないという警告が、八千慧の霞んだ脳裏に浮かびました。
「だ……駄目ッ!」
ちゅぽ、と音がして、桃色の粘膜から八千慧の指が解き放たれました。爪先からは、姉の唇に結ばれた体液がとろりと糸を引いて、八千慧の血に塗れたナマズの腹の上に垂れました。
「姉さん!……何を、何をしているの!」
「何、って……指を舐めていただけ……」
「駄目だよ、こんなことをしちゃあ」
「何が駄目なの?……血を止めようとしていただけなのに」
八千慧の心臓は、滞りなく世界は回っていると勘違いしたまま、拍動を続けました。その循環の輪が破綻していることも知らず、どくり、どくりと、外界に振り落とされてしまうであろう血を送りました。
「ッ……私は、もう大人なんだから。だから、姉さんはこういう甘やかしをしちゃあいけないの」
「これは甘やかしているわけじゃあないし。別に、大人になったって、家族の間でこういうことをするのは普通の……」
「駄目ッ!……とにかく、駄目なの!」
「……!」
八千慧は、ぎゅう、と手が赤くなるほどに拳を握りしめて、姉への断固とした拒絶を伝えました。その足下にあるナマズには、ボトボトと赤い水が垂れ落ちて、もはやナマズが流した血よりも八千慧が流した血の方がずうっとナマズを穢していました。
「姉さん、最近、変だよ……どうしちゃったの。そうやって、子供の頃みたいに妙に私を甘やかそうとして……何か、変わったことでもあった?」
「……?」
先程、八千慧が飛び込んだ際に驚いて滝壺へと飛び出してしまったカワゲラが、瀑布の落ちる底から抜け出せずにもがいていました。大量の雪崩れ落ちる水が作る、深い水深を持つ滝壺では、川が枯れない限り永遠に回り続ける渦が潜んでいます。
「……八千慧、あんた……」
その渦に呑まれてしまったら、もう生き延びられる目はありません。水面に上がろうにも空から叩き込まれる水塊に身を砕かれ、横に這い出そうとしても巻かれる渦の腕に絡め取られてしまうのです。
「……それは、あんたが……」
滝壺からの唯一の脱出手段は、一旦渦の力が弱まる最深部まで潜り、底を這うように伝って脇の岩場にへばりつくこと。けれども、カワゲラにはそんな力はもはや残されていません。ぐるぐると回る白く泡立った世界に擦り潰されて、バラバラになった身体がいつか渦の外に弾き出されるであろう事を願うだけ。最初から、カワゲラには選択肢など残されていなかったのです。
「あんたが、ふっ、と。消えて居なくなってしまうんじゃないかって……怖いんだ。だから、出来るだけ八千慧を楽にさせてやりたくて……」
私が、姉さんの元から消えて居なくなる。
そんなこと、八千慧は考えたこともありませんでした。酷い喧嘩をして、馬鹿阿保間抜けと暴言を吐きあった時だって、八千慧は決して『こんなの私の姉さんじゃない!』とは言いませんでした。八千慧の全ては姉が存在することを前提として存在していました。ずうっと、ずうっと一緒に暮らすのだと、八千慧は思っていました。ですから、姉がそんなことを思う理由は、この山に一つも転がっていない筈なのです。
「……どういうこと、私が居なくなるって」
「……恐れているんだよ。あんたが、八千慧が……いつの日か、『蒼き狼』に喰われてしまうことに」
「狼……?」
その名は姉の口からよく出ていたはずの言葉ですが、八千慧の耳にはそれが重要な単語としては残っていませんでした。その気をつけてという警告は、一種の挨拶のようなものだと、八千慧は思っていました。
「八千慧が小さい頃、子守唄代わりに、昔話を色々語ったことがあると思うけど……覚えてるかなあ、『蒼き狼』と『白き鹿』の話」
「覚えてる、覚えているけれど……この滝の向こうにある西の麓の……さらに西の山の向こうの、そのまた向こうの、草原の国のお話でしょう?」
それは、今よりも八千慧の身体が小さくて、姉の腕に抱かれてしまえば、肩を硬い床に付けることも無く眠れた時に語られたお話でした。
狩る者、狩られる者として生まれたはずの二者による婚姻譚。人、狼、鹿が辿る、狩猟生活という生業を元にした、気高くも数奇な運命。山と川、そして少しの空に閉じ込められている八千慧にとって、広い広い世界を駆けるその物語は、心躍らせるものでした。
「そう。『蒼き狼』は、西からやってくる。『白き鹿』を追って」
けれども、それは物語の筈なのです。幼き日の八千慧を、喜ばせるために語られた、姉の舌の上にしか存在しない事実だった筈なのです。
「秦人が夏鹿を。漢人が秦鹿を。……帝に献上する『白き鹿』を探すと、生け捕りにした鹿には必ずと言って良いほど、前代の王朝への供物であった証拠である銅牌が掛かっている。それほど魅力的なんだ、『白き鹿』は……。だから、『蒼き狼』も死に物狂いでやってくる」
「……つまり、凶暴だから、狼は危ないってこと?」
八千慧は、これまでこの山で生きてきて、狼はおろか、鹿さえお目にかかったことはありませんでした。大型の動物を見たことがないのです。ですから、何故、姉がそんなに狼を恐れているのか。八千慧には分かりませんでした。
「危ない……とは、またちょっと意味が違うけれど。八千慧には、『蒼き狼』に出会って欲しくはないのは確かだよ」
「一人で遠くまで出歩いてはいけない、って姉さんが言っていたのも、そういうことなの?……『蒼き狼』に襲われないように?」
「うん……」
御伽話の中の『蒼き狼』は、たしかに何よりも強い存在として話されていましたが、八千慧は、その話の中に凶暴性や残虐性を感じたことはありませんでした。もちろん、姉が物語る際に八千慧向けに表現を丸めていた可能性はあります。それでも、姉のその恐怖は、単なる獣に向けるには、いささか過大すぎる感情のように思えました。
「分からない、やっぱり分からないよ、姉さん。どうして?……どうして、そんなに『蒼き狼』を恐れるの?」
「……」
二人の脇を流れる川を、何本かの節肢が波間を縫う様に流れていきました。少し遅れてやってきた尾は、丁度魚の餌として目に止まったようで、何匹かの小魚が群がっていました。
きっと、それがカワゲラであったことを、この川の誰もが知りません。
「……ごめん、変なことを話し過ぎた。あんたが怪我しちゃって、気が動転していたみたい」
ふう、と、ため息をついた後に、今までの話が無かったかのように姉はそう切り出しました。
「この話は、ここでやめにしよう」
「え……」
「しばらく、一人で頭を冷やさせて……」
姉は、岩場に置いてあった自分の籠を背負って立ち上がりました。その顔からは、八千慧を厳しく叱っている時のように、何の感情も読み取れませんでした。
「さあ、私は降りながら薬草を採っているから、八千慧はここで休んでいるといい。血が完全に止まったら、帰ってきな」
「ちょ、ちょっと……」
「……ごめんね、八千慧」
話の糸がバッサリと切られ、八千慧には姉を追う糸口が掴めませんでした。頭がふらつくのは、別に失血のせいではありません。こんな風に、姉が八千慧をぞんざいに扱ったのは、生まれて初めてだったのです。
八千慧は、足を水に浸して、西の方向をぼうっと見つめながらただ座っていました。ナマズの処理をする気も、今は起きませんでした。
眼前には、ただただ天にまで届くような滝があるのみ。以前、一人でここまで来たことを隠した、姉に嘘を暴かれてしまった滝でした。上の方は、やはり霞んでしまって、八千慧の目には形あるものは何にも映りません。恐ろしい獣の姿も、大きな蟹も、栗の木も、蘇鉄の木も。
「……『蒼き狼』」
一体、その獣とは何なのでしょうか。『白き鹿』を追って、この滝から飛び降りてくるとでも言うのでしょうか。
八千慧の何に対して、姉は謝ったのでしょうか。ごめんね、と、頭を下げた先には、本当は何があるのでしょうか。
先程の姉の話に隠された、真に恐怖すべきものとは、何なのでしょうか。
分かりませんでした。八千慧には何も。
「本当に、姉さんとずうっと一緒に居たいなら、私は……」
八千慧もまた、成長することを恐れていました。けれども、姉に指を舐められてから、ずうっと子供のままであり続けることも恐ろしいのだと、理解しました。
ですから、八千慧は立ち上がりました。来た道を戻るために、道具を纏めて。未だに止まっていない血が滴り落ちようが、すっかり生気を失ったナマズが打ち捨てられていようが、お構い無しです。
八千慧にもやはり、姉を追うしか選択肢はありませんでした。飛び込みで魚を獲れるようになったことと歩調を合わせて、八千慧は一歩を踏み出すことを決めたのです。どんなに恐ろしいことが待ち受けていようと、その真実を知りたい、と、八千慧は思ったのです。
行きでは登りだったので通行できた狭い岩場を避けて、緩やかな瓦礫場を迂回して下り、八千慧は少し視界が開けた平らなところに出ました。ふと、背後を振り返ってみると、陽の光を受けて、遠くに見える小さい稜線が輝いていました。その光に当てられたのか、いよいよ本当に失血による立ちくらみなのかは分かりませんでしたが、頭がくらくらすると感じた八千慧は、少し休憩を取ろうと、しっとりとした湿気に覆われた岩に腰掛けました。
一息ついて、落ち着いて辺りを見回すと、岩の裏には木で編まれた籠と、鋭い刃物と、弓一式。そして、よく分からない道具が幾つかと、魚が沢山入った袋がありました。籠を見た瞬間は姉に追いついたのかと思いましたが、納められていた魚を見て、姉のものではないと判断できました。姉の手際にしては、あまりにも魚が傷付き過ぎているからです。そして、これは一体何だろう、と不思議に思って謎の道具を手に取ってみると、
「そこから動くな」
と、楢の林の向こうから音がしました。
自分と姉が交わしている会話と同じように、理解可能な鳴き声。すなわち、その音とは人間が発した声でした。八千慧は人間に出会うのは生まれて初めてでした。
今日は何やら初めて尽くしの日だ、とうんざりしながら、八千慧は声の元へと振り向きました。
「何ですか、あなたは」
「動くなと言っている」
姉の話から、麓の村の人間の話は聞いていましたが、そこから想像した人間像と比べて、この声の主はいささか粗暴な様子でした。木々が実らす堅果をも腐葉土の上に落としてしまいそうな、低く揺れる声でした。
「お前、何者だ?」
「本当、失礼な人ですね」
「……さっさと答えろ!」
「全く煩いですね、私は八千慧ですよ、や、ち、え」
ふらつく頭に、喚き声はよく響きました。目の前の人間が救いようのない馬鹿であることを考慮して、八千慧はゆっくりと自分の名を告げました。
「や……ちえだと?」
「ええ。数字の一、二……の八。十、百の千。そして、慧いの慧。その三文字で、八千慧」
「……」
何故かは分かりませんでしたが、名を聞いてからというものの、威勢の良かった人間が急に黙り込んでしまいました。八千慧はさっさと姉の後を追いたかったので、
「……もう行って良いですか?」
と立ち上がりかけましたが、
「待て!……駄目だ、そこに座ったままでいろ」
と、再び山彦を伴った大声が響きました。これには八千慧も戸惑うしかありません。八千慧には人間と関わりは無いはずです。危害を加える気も無いし、この人間の手持ちであろう道具を盗むつもりもありません。
「馬鹿な……そんな筈がねぇ」
楢の下草を、がさ、ざさ、と踏み分けてくる音が近付いてきます。八千慧よりも随分と大きな影がぼんやりと緑の闇の中に見えた時、その足音がピタリと止まりました。黒色にボヤけていて詳しくは分かりませんが、人間は毛皮を纏って、何かナタのようなものを持っているように見えました。
「その角。まさか、本当に『龍の子』の片割れなのか……?」
「は?」
「見事に……見事に、獣が人間の皮を纏っているじゃあねえか。俺はてっきり、『龍の子』が誑かされて慰み者になっているのかと……」
草影に沈んだ影は、うぅん、と唸り声を上げて、考え込んでしまいました。聞き慣れない言葉が幾つか聞こえましたが、八千慧の知ったところではありません。
「……何なんですか、さっきから。さっさと帰りたいんですが、私は」
「あ……あぁ、すまん。話が出来る吉弔に出会ったのは初めてでな…….しかし、これでは……」
角を生やした人外だからといって、八千慧の方こそ侮られていたのでしょうか。これには八千慧も唇を噛みましたが、無為に火種を拡大する事もありません。ここからさっさと逃げたい、と、それだけを思って、八千慧は会話を続けました。
「で、あの……何故、私はここで座っていなければならないのですか?」
「……それは……」
水分を多く含んだ楢の枝が、さらさらと風に揺られました。その葉擦れが織りなす影の中に、羽虫の柱が見えました。虫が嫌う楢の林にまで降りてきているということは、きっとこれから雨が降るのでしょう。
「それは……」
たっぷりとした溜めの時間を伴って、人間は言いました。
「……俺がお前を殺さなければならないからだ」
「殺……!?」
唐突。それは、あまりにも突然の宣告でした。闇の中で、ナタの刃先がギラリと白く輝きました。一体、八千慧に何の恨みつらみがあるというのでしょうか。さっぱり見当がつきませんでした。
「お前をバラして、紫稍花と弔脂を持ち帰る。それが、俺の最後の仕事だ」
西の方向からやってくる、恐ろしい獣。『蒼き狼』。それは、この人間のことだったのでしょうか。姉が言及していたのは、このような恐怖だったのでしょうか。
「くっ……」
逃げなければ。八千慧はそう思いましたが、この緊急事態に、身体が上手く動きません。よく濡れた苔に、八千慧は腰を滑らせました。
「けど、よぉ、お前……」
しかし狼は、突然襲い掛かってくるようなことはなく、闇に身を置いて間合いをとったまま、八千慧をじっと見つめていました。
「こんな、発情していないマトモな吉弔がいたまるかよ。お前、本当に、『龍の子』に大切に育てられたんだなぁ……」
今までの吉弔も、こんな奴らだったら。と、寂しそうな口振りで、人間はそう呟きました。
八千慧は、血が足りない頭で、朧げにどうやって逃げようかと精一杯考えていましたが、人間の動きは止まったままで、敵意も感じられないことから、何か妙なことを目の前の人間が述べていると気付きました。
「……八千慧よぅ。お前は、慧い子だ。見たまんま、な。悪いことは言わんから、このままさっさとこの山を降りて、ずっとずっと遠い処へ行っときな」
何故。いきなりそんなことを言われなければならないのだろう、と、八千慧は吃驚してしまいました。
「どうして。何でそんな事を、指図されなきゃいけないの」
「どうしてもこうしてもない。この山に龍神様を惑わす吉弔が居てはならねえんだ。今回は、お前が話を聞いてこの山を去ってくれるんなら、いつまでも地上に居座っている『龍の子』を天に昇らせた、そんだけで話が済むんだ」
「な、に?……なんの、話を……」
「うちの村としては、それで万々歳だ。誰が、好き好んで無駄な殺しをするかよ」
吉弔、龍神様。殺し。分からない言葉が次々に八千慧を襲い、頭の中でぐるぐると回りました。
「話はこれで終わりだ。引き止めて悪かった」
人間は、八千慧の話を何度も遮って、自分だけが満足してしまったかのように、話を終わらせました。けれども、八千慧には納得出来ません。納得など、出来るはずが無いのです。
「待って、天に昇らせたって、どういう意味……」
「……黙れ、黙れ!……さっさと去れ。お前も後を追いたいってんなら容赦はしねえぞ!」
人間は、威嚇のようにナタを何度か振りかぶり、長い下草を刈り取り、楢の木に傷を付けました。ガリガリ、ギギギ、と耳障りの悪い音が楢林に響きました。
「ひっ……!」
それを見て、八千慧は今度こそ狼に追われる恐怖に襲われて、一歩を踏み出しました。姉が居るはずの、家の方角。下流へと、足をもつれさせながら。滝壺から降りてきた時のようなしっかりとした足跡は、もう残りませんでした。
そうやって、八千慧が不恰好に駆けてゆくのを見届けた人間は、岩陰の後ろの荷を纏めて背負うと、再び楢の林立した草藪の向こうへと姿を消しました。
「何、なんなの、今日という日は……!」
ふらついた足取りで浮石を踏んで、何度も足を捻りました。それでも、八千慧は足を止めることはありません。目の前の楢木の影に、恐ろしい人間が居るような気がして。揺れる藪の向こうに『白き鹿』が居るような気がして。
楢林がだんだんと消えていって、川と砂利の他に見るものが無くなっても、八千慧は恐怖で縮んだ肺を精一杯に働かせて、頭に血を巡らせていました。ぱちゃ、ばちゃ、と、川岸を攫う飛沫がその足音に合わせるかのように揺れていました。
「何で。どうして……姉さん」
丸石に沈み込む足をなんとか引き戻しながら。八千慧は呟きました。
『龍の子』。吉弔。龍神様。うちの村。天。先程の人間が発した単語は、八千慧の頭から離れることはありません。忘れようにも、理解を放棄しようにも、もはや八千慧は慧すぎました。
「まだ、聞いてない……」
風に乗った雲のように飛んでゆきたい筈なのに、血流が十分に巡らない身体は思うように動きません。前に進みません。
「まだ、姉さんと話してない……」
いつの日か、この川を跳び登っていった時に比べたら、亀のような速さで、八千慧は歩を運んでいきました。
「ずうっと、ずうっと一緒に。居るんだから……」
川岸には、姉が歩いた痕跡が、点々と紅い跡となって残っていました。家の土壁に背を預けるようにして倒れていた姉は、まるで、ただ眠っているかのような顔をしていました。
「……姉さん?」
けれども、腕の矢傷が。そこから這い出る、見た事もないような色をした爛れた皮膚が、それが安らかなものではないことを物語っていました。
ひとまず姉に二枚重ねにしたむしろをかけて、火鉢の隣に横たわらせると、八千慧は薬草の保管箱を探ろうとしました。けれども、それは意味のない事でした。八千慧は、今姉が苦しんでいる症状など、見た事も聞いた事も無いのですから。全般に効く鎮痛の薬を調合するしか、八千慧に出来ることはありませんでした。
日が沈み、空模様が荒れてくると、姉の熱もそれに伴うように上がっていきました。土砂降りになってくると、八千慧は、何度も何度も雨の中を外に出て、桶の水を貯めては布を浸し、姉の身体を拭うのですが、それでも追いつかないくらいに、姉の身体は蒸気をもうもうと燻らせて燃えていました。
もはや、八千慧には何をどうしたら良いのか分かりませんでした。ただ、愚直なまでに姉の枕元と嵐の中を往復し、熱が下がるように願うしかありませんでした。
幾つの雲が峰に裂かれていったでしょうか。八千慧は、一昼夜の間、同じことをしているように感じました。朦朧とした意識のまま、再び嵐の中へと飛び出そうとすると、
「げほっ、ゴホ……八千慧。そこにいる……?」
一晩の間、待ち続けた声が聞こえました。
「駄目だ。……もう身体を保てない……今から……喉だけ……治すから、よく聞いておいて」
姉の耳元で、何度叫んでも、何の反応もありませんでした。
「……けほ。こんな別れ方に、なってしまって。本当に、申し訳ないと思ってる」
本当に、姉は自分へと言葉を遺すために力を振り絞っているのだと理解した時、八千慧は喚くのをやめて、枕元の側に静かに座っていました。
「……嘘はいけない、って散々言っていた私がこれじゃあ示しが付かないね」
そんな事は、八千慧にはとってはどうでもいい事でした。姉さえ居てくれさえすれば、どうでもいい事でした。
「これは全部、私のせいなんだ。あんたは何も悪くない。ずうっと、ずうっと、聞き分けの良い子で居てくれて、本当に……本当に、ありがとう」
それは、八千慧にとって素晴らしい姉だったからです。だから、八千慧は魚の糞のように、ずうっと姉の背を追っていたのです。
「こんな不出来な私を、今まで姉と慕ってくれてありがとう、八千慧。私には勿体無い家族だった……」
全くもって、逆になる筈の言葉でした。八千慧から姉に送るべき筈の言葉でした。
「思えば、生まれた時から……本当は、私達は双子で、何方が姉かも分からないのに。私だけ、産まれてくる時に八千慧から栄養を奪ってしまった。こんなに小さな身体に……重い宿命を背負わせてしまった」
八千慧にとっての家族は、姉一人しかいません。
「本当の私は、嘘だらけで……なんて、醜いいきものなんだろうね。なんで、こんなに出来た子が……八千慧が、龍に産まれなかったんだろうね」
何のことを言っているのか、八千慧は分かりたくありませんでした。
「八千慧。あんたは私よりずうっと飲み込みが良い。魚を獲るのも、締め方も、料理も……私よりも簡単に習得していって……」
分かりやすく、丁寧に教えてくれたのは一体誰だったというのでしょうか。自分一人で世界を切り拓いたのは、八千慧ではなくいつも姉の方でした。
「私、馬鹿だから……何が良かったのか、どうすれば良かったのか分からないよ。あんたが一人で滝に向かったあの日から、どうにかしようと、してみたんだけど……」
姉が馬鹿だと言うなら、八千慧は大馬鹿です。姉妹喧嘩で吐いた言葉を、何倍にして八千慧に返したって割に合いません。
「ねえ、八千慧……これで、間に合ったのかな……あんた、一人で生きていける……かな……?」
生きていけません。八千慧は、姉と共にずうっと生きていくと決めているのですから。
「……八千慧。これは、姉としての最後のお願い。山を降りなさい。そうして、私のことなんて、この山のことも川のことも、忘れてしまって」
八千慧は、最後のお願いなんて言葉は、聞きたくありませんでした。
「私たちのことなんて……誰も知らない場所に行ってしまいなさい。あんたは、あんただけは……この閉じた世界から抜け出して……広い広い空の下で……」
忘れることなどありません。姉の傍を離れることなどありません。
「……生きて、欲しい」
八千慧は、生きて欲しいのです。ただ一人の肉親に。
轟音と共に、脆い土壁が砕け飛び、横殴りの雨風が家に吹き込みました。竈の火も鉢の炭火もあっという間に消してしまって、暗闇の中にはただただ風雨を纏わせた嵐が突き抜けて行きました。
翌朝、意味をなさなくなった天井や壁から差し込む陽の光の下に、八千慧の姉の姿は何処にもありませんでした。つい先日、姉が仕込んだはずの漬物の甕は存在しているのに。姉の衣も、きっちりと畳まれて仕舞われているのに。不思議なことに、八千慧の生活に欠けてはならないものの姿がないのです。
その日から、八千慧は昼夜を分かたず、木陰の中に、流水の中に、紅髪を、あの笑顔を探しましたが。それはもう、この山の何処にもありませんでした。天に昇ってしまったのですから。
花が咲き、葉が茂り、紅に染まり、枯れ落ちて。
溶け水を流し、ぬるみを含み、凍りつき、又雪に埋もれて。
幾度の季節が巡ったでしょう。幾度の陰陽が空を廻ったでしょう。
川には、精と卵を腹一杯に孕んだ、鰱魚達の群れが溢れ。ぐるぐる、ぐるぐると、心地の良い岩の陰を取り合っては弾き出されておりました。そのふっくらとした魚を狙っていた八千慧にとって、それは極々当たり前の光景でしたが、その日その時は不可解なことに、鰱魚の鰭から生まれ出た泡が割れるのに、普段の倍は時間がかかっていました。素手で掴み取った数匹の白鰱の鱗のぬめりよりも、何か絡みつくものを流水に感じられました。そうして、意識を集中した途端に漂ってくる、青臭い匂い。八千慧には、これが何かの見当は付きませんでしたが、いつか、いつの日か、同じ様な感覚に触れたことを知っていました。
蛙の卵、トビケラの卵など、粘つく類のものは幾らでもありましたが、八千慧はこの粘つきはそのどれでも無いと思いました。どれでもあり得ないと感じました。
そうやって、この粘つきの正体を探して。匂いに煽られて。かつて、このまま上流に向かっていった八千慧は、何を見たのでしょうか。一人で遠くまで出歩いてはいけない、という姉との約束を破ってしまってまで、八千慧は何処に辿り着いたのでしょうか。蛇苺の藪を抜けて。高草の暗幕を潜り抜けて。岩山を越えて。牛漆の実を身体中に纏わり付かせて。胸と肩を弾ませて、八千慧が得たものは何だったのでしょうか。
水の表面が、酷く泡立った、明らかに普通で無い水が巡っている、滝壺の前に。八千慧は立っていました。子供だった八千慧の前に、この滝は道を見せてはくれませんでした。そして、今だって、勿論道など存在しません。
けれど、けれども。大人の背になった八千慧には。あの頃の姉よりもずうっと高くなった目線には。その滝は、天にも届く滝ではありませんでした。霞が巻いているけれど、落ちてくる水の始点が視界から捉えられ、岩場を登ることさえ出来そうな、等身大の滝でした。
登ることは、可能であるのですから、八千慧は滝を登ろうと思いました。匂いに誘われた訳でもなく、好奇心に胎を突かれた訳でもなく。ただ、一歩前に進むために、滝を登ろうと。そう、八千慧は思いました。
岩場を左手で掴んで。右手でも掴んで。四肢のうち、必ず三点で身体を保持して。一箇所に体重を集中させ過ぎないように、手と足が形作る三角形の頂点を意識して。八千慧は岩場を登りました。
上から降ってくる滝の噴霧が、岩を濡らしていましたが、たとえ滑り落ちても、滝壺に飛び込んで生還する力が、今の八千慧にはありました。
子供なら震え上がってしまうような天空の道は終わりを告げ、いよいよ道は垂直な壁から川岸の砂利道に変わります。家の近くから滝壺までに続いていたような、岩混じりの何の変哲もない岸。子供の頃なら、この道も頰を赤らめて歩を進めていたでしょうが、今の八千慧にはそんな元気はありませんでした。日に照らさられ、下と何ら変わりない、ただ泡を吹かせているだけの、つまらない川があるだけでした。
「……姉さん、ごめん」
八千慧の前には、何の夢も無い、気遣いも無い、現実があるだけでした。
けれども、八千慧はその歩みを止めません。あの人間の忠告も、姉のお願いも破って。確かめなければいけないことが、たしかにその先にあったからです。
泡が塊を作り、水草に幾層もの膜を貼って、張り付いていました。それが固まり落ちたものが、水中にごろごろと転がっていました。数え切れないほどの穴を開けた柔らかいその物体は、まるで海綿の様でした。
そして、その泡の中心には、水面の反射に混じって、見慣れた角が見え隠れていました。
「もう出せねえのか。なら、死ね、死ね、死んでしまえ、この屑が!」
「さっさと残っている紫稍花を全部吐き出せ。なんなら殺して胎を開いても良いんだぞ!」
「龍神様を惑わす化け物め。お前らみたいな不要な存在には、子孫を伝える方法なんぞ必要無いというのに」
「さあ、お前らが大好きな鹿の頭だ。さぞかし興奮するだろう、胎が泡立ってくるだろう!」
水中に沈み込んだ、八千慧と同じような短い角を持った人物の頭に、切り取られた鹿の首が押しつけられました。
「ゴ……ッ……コロ……セ……」
と、水音に紛れてしまいそうな、掠れたか弱い声がすると、水面が膨らんで、粘ついた泡がぷく、ぶく、と浮き立ちました。
「は、は、は!……こいつ、こんな状況でもまだ出しやがる。頭の中ではヤることしか考えてないんだろうぜ!」
「おお、醜い、悍ましい」
「幾ら殺しても虫のように繁茂しやがって。お前ら吉弔が生きる場所なんて、この世界の何処にも存在しねぇんだよ!」
「とうとう正体を表しやがったな、この淫売の末裔が!」
「もう二度と、龍神様の元に産まれることが無いように。てめえら薄汚ねェ吉弔どもを皆殺しにしてやる!」
「お?……これだけ鹿を突き付けても紫稍花が出て来なくなったぞ。そろそろ本当に死んじまったか?」
「なんだ、このクソ!……つまらねえな、弱っちい。まだまだ楽しみたかったのによ」
「おい、死んだらもうそれ以上痛めつけるなよ。弔脂の質が落ちる!」
はははは。
はははははは、
はははははははは!
ぐるぐると。八千慧の頭は、回転を止めることを知りません。
川、家、山、姉。かつて見た風景が、急速に色褪せながら、薄ぼんやりした錆色の光を伴って、脳裏に巡っていきます。
あの岩場で、何度飛び込みの練習をしたでしょうか。
あの樹冠の下で、何度薪を拾ったでしょうか。
あの薄暗い土壁の中で、何度餉を共にしたでしょうか。
あの暖かいむしろの中で、何度体温を伴にしたでしょうか。
その白昼夢は、いつまでも、止まることなく。
ぐるぐると、ぐるぐると。
止まることなく、廻っておりました。
肉を食べることを考えなければ、血の巡りを止めることは難しいことではありません。なにせ、血が肉に張り付いて固まることも、身が焼けることも考えずに、大きな血管を破壊するだけで良いのですから。一度大きく破れてしまえば、それだけで循環の再構築は不可能となるのです。身を下ろす手間もかからないので、それは八千慧にとってまったく簡単な仕事でした。
元の顔立ちが分からない程に歪んだその遺体を、赤黒い泡で埋め尽くされた水から引き揚げると、その手には、後生大事そうに、鹿の頭が抱えられておりました。
ウジも集り、角に蠅が飛び回るその瞳には、山を飛び回っていたであろう生命力を見出す事は出来ませんでした。
「……胎に、良い、薬が。牛漆が生えているんだ、この辺りには。間に合わなかったけれど……」
この遺体に、苦しみの元だったであろう胎によく効くその根を添えてやろうと、探してやろうと、八千慧は水を含んだ重い腰を上げようとしました。
ぬるり。
立ち上がりかけた八千慧の白い太腿を、重力に準じて水滴のようなものが伝いました。
とろり。
八千慧は股に明らかな違和感を感じました。尿の漏れでしょうか、いやしかし、八千慧はここまでの道で尿意を感じたことなど一度もありませんでした。
八千慧は下の衣を脱ぎ、念入りに絞りました。先程、遺体を引き揚げる際に、川に浸った際の粘つきが残っているのだろう、と。
そうして、下半身を露わにして、絞る為に腹に力を込めると、股ぐらから、透明な水が溢れ出てくるものですから、八千慧は困惑してしまいました。
「これは……この水は……この液体は……?」
腹が。胎がざわめきます。八千慧の胎が、知っているのだろう、と全身に向けて伝えます。それは、初めてこのぬめりに触れた日から感じていた、全身の火照り。向こうに見える栗や蘇鉄の花の楽園に、息を切らせて走った、その衝動。
「違うッ!」
違う、違う、違うのです。八千慧にとって、それは全くあり得ないことなのです。あってはならないことなのです。
けれども、八千慧はこの状況から、自身に起こっている出来事は理解していました。不運なことに、理解出来てしまいました。目を瞑ることなど、とうに出来ない段階に踏み込んでいるのです。
ただただ、心が理解出来ないのです。記憶に噛み合わないのです。巡り巡ってきた、風景の全てが拒絶するのです。
「お願い、私は……私は、違う。そうじゃないんだ、違うんだ」
股を土に付けて、蹲っていた八千慧は、恐る恐る顔を上げました。そこには、
そこには、姉の首が落ちていました。
共に眠った。共に過ごした。共に遊んだ。共に食べた。共に川に入った。共に山を歩いた。共に話した。
共に生きた。
風景の全てに溶け込む姉の角が、今は木のようなざらついた薄茶色の角に変わっていました。
「違う違う違う違うッ!」
鹿と共に眠った。鹿と共に過ごした。鹿と共に遊んだ。鹿と共に食べた。鹿と共に川に入った。鹿と共に山を歩いた。鹿と共に話した。
鹿と共に生きた。
「嘘だッ!」
白昼夢を巡る記憶には、ただ八千慧が鹿を愛した記憶が残るのみで、姉の存在など鹿の角に全て上書きされてしまいました。
「うそ……だ……」
八千慧と共に生きた姉は、もう、この山にも、八千慧の頭の中にも残っていませんでした。
「やめて……もう……わたしから、ねえさんを……もっていかないで……」
八千慧は、ただ、姉が持つ鹿に似た角を愛していただけなのです。
八千慧は、ただ、愛していると言いたかっただけなのです。
姉が自分を愛してくれたように。自分もまた、姉を愛していると。言いたかっただけなのです。
八千慧は、今までに食べてきた鰱魚を全て吐き出すかのような勢いで、川に腹の内容物を戻しました。とにかく、自分のことが気持ち悪くて仕方がありませんでした。胃を裏返して吐き出してしまいたいほどでした。
そうして、濁った墨汁のような水面が映す、その姿。
毛を逆立てて。瞳孔を開き。鼻息荒く。口から涎を垂らして。肩を震わせ。股ぐらからどろどろと得体の知れない液を垂らし。全身に青臭い匂いを纏った、その獣。
「……『蒼き狼』……」
なんと滑稽なことでしょう。その姿の醜いことでしょう。姉が散々忠告していたその獣とは、八千慧自身の事だったのですから。
「は、は……私、最低だ……」
こんなにも想っていてくれたというのに、こんなにも愛してくれていたというのに。八千慧が返していたのは、穢らわしい情欲のみ。
あれだけ気を使ってくれたというのに。八千慧の存在は、姉からただ気を奪うだけでしかなかったのです。姉から気を失わせるだけでしかなかったのです。八千慧が存在しなければ、きっと姉は、気の巡りから外れずに、幸せに生きることが出来たというのに。
滝壺の渦の中に身を委ねてしまおうか、と考えたその時、ある言葉が八千慧の心から浮き上がりました。
『……生きて、欲しい』
鹿面の、姉とは似ても似つかない化け物が、その言葉を吐いている記憶を想起して、股ぐらを濡らす自分に、八千慧はほとほと嫌気がさしました。どうしようもなくて、情けなくて、ぽろぽろと涙が溢れました。
どんなに貶されても、どんなに汚されても、それは姉の最後の願いに変わりはありません。八千慧が姉を愛していなかったという、どうしようもない事実がそこにあろうとも、それは八千慧が選んだ道なのです。姉が消えたあの日、そのまま山を降りなかったからこそ突きつけられた選択肢なのです。
やはり、この大いなる気の巡りの中で、循環する流れに揉まれて、それでも八千慧は選択するしかないのです。それが、八千慧に課せられた運命であり、吉弔として生まれた罪なのです。姉を苦しめた罰なのです。
結局、最後まで待ってみても、この山には八千慧が生きる場所などない事を知りました。そしてまた、想い出に満ちたこの山で生きることは、それを悪戯に穢すだけだということも知りました。
「……龍神様、というものが。もしおわすならば、申し訳ありません。この川に、醜い化け物を映すのも、今日が最後です」
龍。吉弔。その姉妹。知ってしまえば、八千慧が生まれてきてしまったことが全ての元凶でした。あんなに潔白な姉の心を犯してしまった、諸悪の根源が自分なのです。
「最後……ええ、最後です。最初で最後のお願いというものに、参りました」
自分が生まれなければ良かったのに。自分が存在しなければ良かったのに。八千慧は、何度も何度も思いました。
「私のせいです。姉が、あんな結末を迎えてしまったのは……全ての責任は、私という存在そのものにあります。どんな贖罪でも背負いましょう。蟹にもなりましょう。白鰱にもなりましょう。カワゲラにもなりましょう。名も知らぬ羽虫にもなりましょう。鬼子にもなりましょう。異形の獣にもなりましょう。私は、何度死の苦しみを味わっても構わないのです。ですから、どうか、どうか……」
八千慧は、信じました。信じていました。
「姉に、幸せを与えてやってはくれないでしょうか。私によって全て奪われてしまった、黒く塗り潰されてしまった、安息の日々を」
信じるしかなかったのです。
「濁ることのない広い広い清水を。不出来で欠陥だらけの化け物の代わりに、優しい家族を。空を舞って、髪を結う時間を。冷たい心に邪魔されない、あたたかな眠りを……」
信じる他になかったのです。
「どうか、どうか……」
それは、切なる願いなのです。八千慧の最後の願いなのです。精に染められていないと信じて。これまでも、そしてこれからも、嘘に塗れた道を生きるであろう八千慧の、唯一の真実であって欲しいと信じて。発された願いなのです。
「どうか…………」
けれども、その言葉に応える者は、やはりこの山の何処にも居ませんでした。
八千慧は、ゆっくりとした足取りで、下流へと歩み始めました。名も無き吉弔の遺体を、虚無の愛に生きた同胞を背負って。
「東方へ……」
西からやってくる、『蒼き狼』が、どうかこれ以上八千慧を喰い散らかさないように。この川を下った先に、自分のことなど誰も知らない土地がある事を信じて。陽の昇る方角へと、振り返る事なく、一歩前に、もう一歩前へと。
雲から顔を出した陽が煌めいたとき、八千慧の背後に聳え立つ山に、一瞬のにわか雨が走りました。その雨粒は、太陽の光を虹色に彩り、きらきらと光っていました。
それから、八千慧を見た者は誰もおりません。
残酷な話が透き通るほど美しく書かれていて読みやすかったです
姉がいかに美しい存在なのかが伝わってきました
冒頭のイラストもかわいらしくてよかったです
他の方も仰っていますが、段々と不穏な展開になっていく構成が素晴らしいと思いました。