雪は音もなく振り続ける。しんしんという擬音は一体だれが考えたのだろうか。私の脳内にも部屋にまみれている書籍にもその語源は見つけられなかったと記憶している。外の様子は火鉢の暖かさに溢れたこの部屋で眺めるのがとても粋なのではないかと感じる。小鈴は毛布に包まりながらほぼ音読に近い形で読んでいた書籍から顔を上げる。
「ねえ阿求、次の食べたいんだけど」
「我慢しなよ、自分で決めたでしょ」
「でも食べたい」
「夜は長いわよ」
「長くしてるのは私達じゃない」
雨戸を少しだけ開けると無音と冷気が外から流れてきた。正確に時間を図るのに星や月を見る人間がいるという。私はけしてそんな事が出来ないので以前家のものにもらった懐中時計を開いた。
「次のチョコレートまであと二十三分ほど」
「長い」
「別にいいじゃない、今食べちゃえば」
「私は長く楽しみたいのー」
「じゃあ文句言わないで。集中しないなら黙るか寝るか」
お泊り会とは可愛く言ったもので、本来の言い方をするとストイックな読書会と言ったところだろうか。私と小鈴は自他共に認める本の虫であるが、そんな本の虫でも「いつか読むと決めたがいつかが決まっていない本」というのが存在する。タイミングとか、気持ちとか。例えば古い作家のフィクション有名小説がそれに当たるだろうか。本の虫は、面白いとわかっているものをわざわざ時間をとって読むよりも、なんの評価もレビューも出ていない無名の本のほうが食指が動くのだ。意味は合っている。私達は本を食事だと思っているからだ。小鈴をまとっている布団が動く。彼女はよく横になって本を読むが体は痛くならないのだろうか。私は座って読むし立っても読むし横にもなる。火鉢の上の薬缶がしゅんしゅんと鳴いていたので水を追加した。
「クラシック・ミュージック、ダンス」
「……」
「単音のピアノ、サティ」
「……」
「アーモンドチョコレートが食べたい」
「連想ゲーム?」
「読んでる本の内容」
「それは内容じゃないでしょうに。キーワードなだけ」
「アーモンドチョコレートを食べたいがために読んでいると言っても過言ではない」
「なんでよ」
「アーモンドチョコレートを食べたいから」
「もう頭きた。食べなさい。うるさいから」
兎の絵柄の座布団から腰を上げると小鈴は「ひええ」と布団に潜った。火鉢から離して置いていた横文字……英語のパッケージを押し出すと大げさすぎる装丁をされたアーモンドチョコレートの包みが現れる。残りは五個。私の分は三個。先程作った雪だるまの前に置いていたものは既に回収して小鈴が食べている。口の中でチョコレートを溶かした後にアーモンドをかじるのは下品な気もするが辞められない。左頬で溶かすのがなおよい。気がする。
「ほら、一時間後のぶん」
「食べないよー」
「食べな。うるさいから」
「薄く長く生きたいのよ。『今回の読書会はチョコレートを長く味わえました』にしたい」
「あいにく私は反対の生き方しかできないのよ。太く短く美しく」
「重い話やだー」
「あんたが言い出したんでしょうに。はいあーん」
「あーん。……がりごり」
もったいない食べ方だと思うけどいやしさを感じてしまうので言わない。これで今夜の小鈴のチョコレートは残り一つになる。私達がストイックに続けても寝てしまうまであと三時間。三時間で一つはちょっとさみしい。
「おいしい」
「そら良かったわ」
「チョコレート欲に火が付いちゃった」
「えー?」
「ずんずんずん、ずんずずん」
「なにそれ」
「ワルツ」
「ワルツってそんな踊りだっけ」
「阿求の分を、下さいな、ずんずんずん」
「自分のがまだあるでしょう」
「私のは、二時間後。ずんずんずずん」
「じゃあ踊りに免じて」
「え、まじまじ?」
「紅茶を淹れてあげましょう。愉快にカフェインを摂ってみるの」
「うへー」
部屋の湿度を保っていた薬缶を取り茶葉を急須にぶちこむ。紅茶は温度が大切だ。しかし今は気にしなくて良い。我々はそれらを気にしても脳のリソースに収まること無く流されて土に還る。要は味なんて気にするほど今我々はちゃんともしゃんともしていない。
「あっきゅん、あっきゅん」
「ねえ、その本面白くないの?」
「面白いわよ。でも退屈なの」
「どういうこと」
「阿求のチョコレートを一つ私にくれるのはどうでしょう」
「よくないでしょうね」
「あっそう。そちらの本はなんでしたっけ?」
「寄生虫の雑学に詳しくなれる恋愛小説」
「そっちのが興味わくなあ」
「興味もお湯もわいたところで、休憩にしましょ」
「そうしましょ」
部屋の悪くなった烟る空気は紅茶に満ちて肺に流れ込む。小鈴が動くたびに周りの布団から埃が舞う。換気をするならもう少しだ。それでも雪は降り止まない。外から時折聞こえてくるジョワーンの音はカードの宣言音か。よくやるものだ。足元の妖魔本をちょんと蹴る。
「ずずず、あー」
「あてにチョコレートを出しましょう。私の」
「あ、いいな。私にも」
「小鈴のはもう無くなってしまうわよ。私のはこれを食べても……あむ。あふぉひほはふ」
「あと二個ある?」
「あふぉひふぉはふ」
「それをずっこするのはいかがでしょう。半分ずっこ」
カカオの匂いを嗅いだことがない。加工されたアーモンドチョコレートは体内でとろけた液体となり舌に刺激を残す。私のチョコレートを取ろうとした小鈴の手を叩く。小鈴の匂いと紅茶の匂い、チョコレートは勝てるだろうか。気づいたら止んでいる雪は明日の昼には半分溶けているだろう。どさりと木から落ちた雪は何リットルか。小鈴の視線を外に向けるだけの力はあるが、一瞬でそれは解消される。
「私達の口に一つずつ詰め込んで寝るのはどう? 紅茶で体も温まったところだし」
「……悪くはない、気がする」
「阿求も本に飽きてたんでしょう」
「本にではなく、読書に飽きてたの」
「わっかるー。本に飽きたら違う本を開き活字をなぞればいいんだけど、読書に飽きたら私らはどれの何の文字を網膜から脳内に叩き込めば良いんだろうね」
「いっそ外に出てみればいいじゃない」
「雪だるまはこの季節にしか作れないわよ」
「夏は蛍を探しなさい。春は散った桜をつなぎ合わせて二重らせんを描くの」
「秋は?」
「いわずもがな。話は一周したわ」
「寝よっか」
「そうね。歯は大事よ」
「もちろん」
洗面台にはピンクの兎の模様の歯ブラシが置いてある。小鈴が勝手に置いたものだ。家のものには伝えているけれど、たまに私が捨てそうになる。部屋の一部に小鈴が同化してしまったらどうかしてしまいそうだったから。
「寝るために基地を作ることにするわよ阿求隊員。タオルケットをよこしなさい」
「小鈴司令官はそっち。おやすみ」
「ええ、ろうそくなんて分けてあげるから」
「明日はお雑煮の残りの汁で豚肉を茹でましょう」
「おやすみ」
アーバンな考えだろうか。小鈴は私の考えを汲んでくれている。だから私はこの私で居られ続けている。私と小鈴はこれでいい。これ以上行くとやけどをするし眠くなる。火鉢の上の薬缶に水を追加した。彼の鳴き声で眠るのは心地がよい。最後になぜこれを日記を残したか。記憶では、口頭ではダメだと思ったからだ。本居という少女の記録は、可愛さは台詞で残るものではないだろう。ひときわ大きな雪が外で鳴いた。雪だるまの頭は無事だろうか。ダメだったら次の冬にまた作ろう。今度は多くチョコレートを用意しておけば、彼女はもっと起きていて私と過ごしてくれるだろうか。いや、それよりも彼女のワルツを見るほうが価値がある。ストイックに一人五つだけ。十個入のアーモンドチョコレートでまた私達は活字をなぞり続けよう。
「小鈴、おやすみ」
「おやす、ぐー……ぜっとぜっとぜっと」
この日は大きな犬の夢を見た。体を洗うのが一人では大変なくらい大きな犬。私は彼と? 彼女と? ともかく夢の中で夢を見た。ふわふわの寝心地は良かったけれど汗をかきたくないなとも感じた。次の日は不思議と体中の疲れが取れていたように思う。雨戸を開けると眉を寄せる小鈴の顔がやっと見えた。口元の固まったチョコレートを手でなぞって舐めた。ちょっとだけ甘かった。
互いに打ち解けた二人の間にある絶妙な距離感と了解、それがあるからこそお互いが自然体でいられる空気感。それがしんしんと降る雪の中で心地よく感じられます。
最後の段落にほのかに籠められた甘みも、大きな犬と阿求と同じような、阿求と小鈴の距離を前提にして初めてその加減の良さが効いてくる感じで良かったです。
それはともかく、阿求と小鈴の、気の抜けたやり取りやゆるい会話などが心地よく、よい関係の二人だなあと微笑ましくなりました。
二人が仲良くしている情景が浮かんできました
チョコレートをくれくれ言っている小鈴がかわいらしかったです
良い空気、良い味わい。堪能させていただきました。面白かったです。
阿求隊員と小鈴司令官がひたすらに可愛かったです。