「すまないな、態々こんな所まで足を運んでもらって」
「いえいえ、お気になさらず。魔理沙さんとお話ししたかったのは、私ですから」
耽美な雰囲気をその姿だけで感じさせる霍青娥は、私が出した粗茶に口をつけて寛いでいた。
「以前の宴会で随分と暗いお顔をしていたものですから、これは仙人たる私としても捨て置けないなと」
確かに悩みから暗い顔はしていたが、まさかこいつに見咎められるとは想定外だったぜ。霍青娥は常に暗い噂と共にある邪仙だ。あまり関わりたくはないのだが、態々霧雨魔法店まで訪ねられては無碍にもできない。
「聞くところによると、魔理沙さんは家を出てここで一人暮らしだそうじゃないですか。きっと悩みを打ち明ける相手も居ないのでしょう。ほら、私みたいな親しくもない半他人のような相手にこそ語れることもあるというものです。気兼ねなくどうぞ」
流麗に語った青娥は、何処からか取り出した茶菓子を卓の上に広げて話を促した。大方仙術の芸当だろう。空間を支配し世界を創造するのは仙術の初歩だと聞く。茶菓子を仕舞う程度はお茶の子さいさいというわけだ。
「う〜ん、悩みという程のことではないんだが。自分に限界を感じていてな。普段の魔法の研究も順調だし、失敗も成功も糧に出来ているし、特に問題も不満もないんだが、それが問題なんだ」
「あら、順風満帆に聞こえますが?」
「いや、何というかこう、退屈なんだぜ。もっと心躍るようなアクシデントや、予期せぬ結果や、驚くべき成果が欲しい。魔法ってのはもっとワクワクするようなもんだと思ってたんだが、得られたものが余りに想定通りでな」
「なんとまあ贅沢な悩みなことで」
どうやら呆れられてしまったようだ。自分の口で言っておいて何だが、確かに贅沢で我儘な悩みだとは私も思うぜ。
「ふむ、同じ行いは同じ結果しか生みませんから、心躍る予期せぬ結果を望むなら、心躍る予期せぬ行いをするしかありませんわ」
「へえ、つまり変なことをしろって訳か?」
「まあ、そうですわ。人は長く生きると自らに多くの『ルール』を課すようになります。あれをしてはいけない、これはしてはいけない、ああしないといけない、こうしないといけない、という風に。こうした無数のルールで自分自身を雁字搦めにして不自由を己に引き受けることで、代わりに自らの行いの結果を一意に定めることができるからです」
「成る程、無数の条件を守って実験することで常に同じ結果を得られるようにしている、みたいな話だな」
確かにそうだ。私たちは自分の行いに無数の条件をつけることで、自分たちの行いが引き起こす結果を予測可能なものとしている。
例えば私も、自分の生活に無数の条件を課している。朝何時に起きるか、朝食は何処で食べるか、食器はどう片付けるか。キノコの採取方法、博麗神社への向かい方、魔法の実験手順。いつ歯を磨くか、冬は暖房用の薪を何処から調達するか、などなどだ。
誰から強制されたわけでもなく、本来はどんな選択をしても構わないのに、私はいつも霖之助から薪をかっぱらうと決めている。
こうした無数の条件が、その結果を私に予見させているわけだ。それが退屈だというなら、変なことを、つまり条件破りで型破りな事をするしかない。
「だがこう聞くと、まるで自由と不自由を使った取引みたいだな。私の魔法の実験で例えれば、私が無数の実験手順のルールに従ってある種の不自由を己に課すことで、自分が望んだ想定通りの結果を得る訳だ」
「法と呼ばれるものもまたそうですわ。例えば魔理沙さんは、生まれながらに自由な生き物ですから、当然他の人間を殺す自由もある訳です」
「人を殺す自由? 随分と物騒な自由だな。で、私はその自由を取引に使って『人を殺せない不自由』を引き受ける事で『人から殺されない結果』を得ているって訳かい?」
「その通りですわ。人は生まれながらにあらゆる自由を有しています。だからこそ、そうした自由を通貨として取引を行う事で、互いの利益と幸福が最大になるよう社会生活を営んでいるのです」
「ふ〜ん、じゃあ、例えば私が『私は完全に自由だ、何をやったって良いんだ!』って行動したらどうなるんだ?」
「それはもちろん、他人もまた完全な自由になる訳です。取引が存在していませんので、自然状態ですわね」
「成る程、弱肉強食の世界だ」
「そして大抵の人間は人間社会よりも弱いので、社会によって食われるという訳です」
「容赦ないな」
「自由とはそういうものです」
自由を通貨として考える……奇妙な考え方だと思った。等価交換、代償と対価、それは魔法の一分野では標準的な考え方ではある。だがそれを自由に当てはめるとはな。
人間の里であくせく生きる人間達は、自由を使ってどんな取引をしているのだろうか。住処を選ぶ自由を支払って人間の里に住まう代わりに、妖怪や妖精に住処を潰されたり凍らされたりしない対価を得ている、と言った感じだろうか。
或いは、自分の体調を秘密にする自由を支払う代わりに、熱で倒れた時に隣人に助けてもらえる対価を得たり? 少し気味が悪いな。ちょっとした吐き気が、胸に来た。
じゃあ、私は? 自分の人生の道筋を選ぶ自由と引き換えに、自分の人生をよりよく設計してもらえる取引を反故にしてきたところだぜ。そう考えると、ちょっとばかし胸がスッキリした。
「なあ青娥。お前はさっき、自由を通貨とした取引について教えてくれたが、一つ疑問があるんだぜ」
「なんでしょうか?」
「この取引は、公平なのか?」
「難しい疑問ですわね」
「さっきの話で行くと、私は『人を殺す自由』を支払ってる。でも人から殺されるかもしれないだろ? 実際殺人事件なんかもよく聞くぜ。自由を通貨として支払っているのに、得られるものが確かじゃないなんて、取引として成り立っていないだろう」
あともう一つ。
「それに、取引ってのは対等な立場の者同士が交わすもんだと思ってるんだぜ。人間社会と私が対等な立場だなんてとても私には思えないね。自由を通貨とした人間社会と私の取引は極めて不公平な状態であるとしか思えない」
まあ、だから私は家族も里も捨てて魔法の森の中で半世捨て人のような生活をしているのかもしれんが。不公平について、か……。
例えばパチュリーは他人のものを盗んだりしない。それは彼女が『他人の物を盗む自由』を支払っているからだ。にも関わらず、彼女は無常にも私に魔導書を盗まれている。私の本棚にぎっしり詰まっているそれは、不公平の塊だ。
パチュリーが支払った自由を受け取った何かは、私を罰しに来るべきだ。神様仏様世間様だかなんだか知らんが、奴らは盗人の私に何もしない。人から自由を支払われておきながら、職務怠慢ではなかろうか。
「確かに、そうですね。けれど多くの人間はそれでも自分達が所属する社会との『若干不公平な』取引を交わさなければ生きていけない」
「どうしてだぜ?」
青娥は迷う素振りさえ一切なくはっきりと断言した。
「それは、弱いからです。例え不公平であると知っていても自由を差し出して社会に縋らねば生きていけない弱い人間だからです」
そしてその言葉は、私の胸にもすとんと腑に落ちてしまったのだった。確かにそうだ。
取引とは何かを得ようとして始まるものだ。盗人に抗えない弱者が、それでも自分のものを盗まれたくなければどうすればいいか。答えは簡単、社会に所属して自分の自由を切り売りして、他人から物を盗まれない取り決めに自分を組み込めば良い。
逆に言えば、盗人に抗える強者にはそんな取り決めは必要ないし、自分の自由を切り売りする必要もない。
不公平の塊と、それから得られた研究レポートが詰め込まれている本棚を見た。魔導書に仕込まれていた時限式の空間跳躍術式が、私の本棚を丸ごと公正な場所に転送していった。
流石はパチュリー、強かだ。私はさしずめ資料を貸し出された研究助手扱いだったようだ。つまり彼女は自由を支払っていた訳では無いのだろう。次はどうやって盗んで見せようか……。
「それに、社会は取引や契約だけで成り立っているわけではありませんわ。社会の中には取引や契約によるものではないもっと野蛮な関係性も存在しています。『搾取』と呼ばれる関係性です」
「搾取?」
「強いものが弱いものに自らの不自由を押し付けて自由を謳歌すること、です。極端な人はこれこそが社会の本質だというかもしれませんが、それは誤りです。搾取は自然状態に近い関係性ですし、むしろ社会はこうしたものからできる限り離れた関係性で世界を満たそうとしています。なので、社会の中には取引や契約によるものでないもっと野蛮な関係性が『残存している』と言った方が語弊がないでしょうね」
ひとしきり語った青娥は、粗茶にまた口をつけて一息ついたようだ。この間はきっと、私の言葉を待っているのだろう。
「それで青娥は、私に何を伝えたいんだぜ?」
「いえ、貴女はどっちかな、と」
どっち?
「公平で公正な取引と契約で世界を満たし、利益と幸福を最大化した楽園を創造しようとしている人間なのか。それとも、己の力であらゆる不自由を人に押し付けて自由を謳歌したいだけのケダモノなのか。ちなみに私はどちらかと言えば後者よ」
可愛らしい仕草でウインクをしながらおっそろしい話をするなよ……。そもそも答えられるような質問でさえ無いしな。
どちらでもない、それが私の答えだ。自己の全てを社会に組み込める人間はいないし、自己の全てを社会の外側に置ける人間もいない。
どんなご立派な人間だって、未成年のうちにお神酒を呑んだことぐらいはあるだろう。同じように、どんな野蛮な人間だって、あらゆる社会の外側で生きて行くことは不可能だ。私だって家を捨てて魔法の森に引きこもっているが、香霖堂や人間の里との取引なしでは生きていけない。
この質問は程度の問題なのだ。『貴女はどの程度人間で、どの程度ケダモノですか?』という質問。
「楽園には興味ないですし、私は私が好きな事をできればそれだけで幸せですわ。他人の自由は邪魔ですし、自分の不自由は我慢ならない。私のあらゆる力を尽くして不自由を人に押し付けようと思いますわ」
「他人に不自由を押し付けられる奴が最も自由って訳か。なんというか……私のなけなしの道徳感が人でなしと叫んでいるぜ」
「だからケダモノだといったじゃないですか。そして魔理沙さんもそうだと思ってますわ」
三日月に歪んだ口から、妖しげな言葉が投げかけられた。いや、是非とも否定したいところだ。仙界を創造して自分一人だけの世界を完結させられる仙人様でもない私は、ただ普通の魔法使いなのだから。
「魔理沙さんも、自分が好き勝手する為に他人に不自由を押し付けて生きてきたのでしょう。貴女の悩みは、貴女を縛るルールが上げている最後の悲鳴なのですわ。好きにしなさい。誰に構う必要もありません。貴女は自由だ。そうすれば退屈とも無縁よ。人生の一瞬一瞬が眩い輝きを放ちだしますわ」
「私は自由、か……」
「好きに生き、好きに死んで良い。誰の為でもなく自分の為にね。その為のお手伝いなら、私は喜んでいたしますわ」
成る程、今までのお話は彼女なりの仙道への勧誘だったのだろう。世俗社会から離れ、ただ強くあり万事に頓着せず自由を謳歌するように生きること、そんな彼女なりの仙道への招待、か。
「ならその自由を行使して、私はまだある程度は人間でいようと思うぜ」
「あら、それは残念」
「私には、人間としてやり遂げたい事がまだまだあるんだ。時期尚早さ、婆臭い隠居生活も仙洞に籠るのもな」
「ならば、今はまだ待ちましょう。霧雨魔理沙、貴女がその人道を踏破するまでね」
らしくもなく神妙な雰囲気を纏った青娥が私の手を握った。
「弟子入りはいつでも大歓迎ですわ。まずは雑用からスタートしてもらいますけど」
ははは、参ったな。こいつ小間使いが欲しいだけだぜ、間違いねぇ。口車に乗せられたら雑用人生がスタートじゃないか。
「怖いなぁ。危うく不自由を押し付けられるところだったぜ」
「あらあら、なんのことやら?」
全く、良い性格してるなぁ……。
「いえいえ、お気になさらず。魔理沙さんとお話ししたかったのは、私ですから」
耽美な雰囲気をその姿だけで感じさせる霍青娥は、私が出した粗茶に口をつけて寛いでいた。
「以前の宴会で随分と暗いお顔をしていたものですから、これは仙人たる私としても捨て置けないなと」
確かに悩みから暗い顔はしていたが、まさかこいつに見咎められるとは想定外だったぜ。霍青娥は常に暗い噂と共にある邪仙だ。あまり関わりたくはないのだが、態々霧雨魔法店まで訪ねられては無碍にもできない。
「聞くところによると、魔理沙さんは家を出てここで一人暮らしだそうじゃないですか。きっと悩みを打ち明ける相手も居ないのでしょう。ほら、私みたいな親しくもない半他人のような相手にこそ語れることもあるというものです。気兼ねなくどうぞ」
流麗に語った青娥は、何処からか取り出した茶菓子を卓の上に広げて話を促した。大方仙術の芸当だろう。空間を支配し世界を創造するのは仙術の初歩だと聞く。茶菓子を仕舞う程度はお茶の子さいさいというわけだ。
「う〜ん、悩みという程のことではないんだが。自分に限界を感じていてな。普段の魔法の研究も順調だし、失敗も成功も糧に出来ているし、特に問題も不満もないんだが、それが問題なんだ」
「あら、順風満帆に聞こえますが?」
「いや、何というかこう、退屈なんだぜ。もっと心躍るようなアクシデントや、予期せぬ結果や、驚くべき成果が欲しい。魔法ってのはもっとワクワクするようなもんだと思ってたんだが、得られたものが余りに想定通りでな」
「なんとまあ贅沢な悩みなことで」
どうやら呆れられてしまったようだ。自分の口で言っておいて何だが、確かに贅沢で我儘な悩みだとは私も思うぜ。
「ふむ、同じ行いは同じ結果しか生みませんから、心躍る予期せぬ結果を望むなら、心躍る予期せぬ行いをするしかありませんわ」
「へえ、つまり変なことをしろって訳か?」
「まあ、そうですわ。人は長く生きると自らに多くの『ルール』を課すようになります。あれをしてはいけない、これはしてはいけない、ああしないといけない、こうしないといけない、という風に。こうした無数のルールで自分自身を雁字搦めにして不自由を己に引き受けることで、代わりに自らの行いの結果を一意に定めることができるからです」
「成る程、無数の条件を守って実験することで常に同じ結果を得られるようにしている、みたいな話だな」
確かにそうだ。私たちは自分の行いに無数の条件をつけることで、自分たちの行いが引き起こす結果を予測可能なものとしている。
例えば私も、自分の生活に無数の条件を課している。朝何時に起きるか、朝食は何処で食べるか、食器はどう片付けるか。キノコの採取方法、博麗神社への向かい方、魔法の実験手順。いつ歯を磨くか、冬は暖房用の薪を何処から調達するか、などなどだ。
誰から強制されたわけでもなく、本来はどんな選択をしても構わないのに、私はいつも霖之助から薪をかっぱらうと決めている。
こうした無数の条件が、その結果を私に予見させているわけだ。それが退屈だというなら、変なことを、つまり条件破りで型破りな事をするしかない。
「だがこう聞くと、まるで自由と不自由を使った取引みたいだな。私の魔法の実験で例えれば、私が無数の実験手順のルールに従ってある種の不自由を己に課すことで、自分が望んだ想定通りの結果を得る訳だ」
「法と呼ばれるものもまたそうですわ。例えば魔理沙さんは、生まれながらに自由な生き物ですから、当然他の人間を殺す自由もある訳です」
「人を殺す自由? 随分と物騒な自由だな。で、私はその自由を取引に使って『人を殺せない不自由』を引き受ける事で『人から殺されない結果』を得ているって訳かい?」
「その通りですわ。人は生まれながらにあらゆる自由を有しています。だからこそ、そうした自由を通貨として取引を行う事で、互いの利益と幸福が最大になるよう社会生活を営んでいるのです」
「ふ〜ん、じゃあ、例えば私が『私は完全に自由だ、何をやったって良いんだ!』って行動したらどうなるんだ?」
「それはもちろん、他人もまた完全な自由になる訳です。取引が存在していませんので、自然状態ですわね」
「成る程、弱肉強食の世界だ」
「そして大抵の人間は人間社会よりも弱いので、社会によって食われるという訳です」
「容赦ないな」
「自由とはそういうものです」
自由を通貨として考える……奇妙な考え方だと思った。等価交換、代償と対価、それは魔法の一分野では標準的な考え方ではある。だがそれを自由に当てはめるとはな。
人間の里であくせく生きる人間達は、自由を使ってどんな取引をしているのだろうか。住処を選ぶ自由を支払って人間の里に住まう代わりに、妖怪や妖精に住処を潰されたり凍らされたりしない対価を得ている、と言った感じだろうか。
或いは、自分の体調を秘密にする自由を支払う代わりに、熱で倒れた時に隣人に助けてもらえる対価を得たり? 少し気味が悪いな。ちょっとした吐き気が、胸に来た。
じゃあ、私は? 自分の人生の道筋を選ぶ自由と引き換えに、自分の人生をよりよく設計してもらえる取引を反故にしてきたところだぜ。そう考えると、ちょっとばかし胸がスッキリした。
「なあ青娥。お前はさっき、自由を通貨とした取引について教えてくれたが、一つ疑問があるんだぜ」
「なんでしょうか?」
「この取引は、公平なのか?」
「難しい疑問ですわね」
「さっきの話で行くと、私は『人を殺す自由』を支払ってる。でも人から殺されるかもしれないだろ? 実際殺人事件なんかもよく聞くぜ。自由を通貨として支払っているのに、得られるものが確かじゃないなんて、取引として成り立っていないだろう」
あともう一つ。
「それに、取引ってのは対等な立場の者同士が交わすもんだと思ってるんだぜ。人間社会と私が対等な立場だなんてとても私には思えないね。自由を通貨とした人間社会と私の取引は極めて不公平な状態であるとしか思えない」
まあ、だから私は家族も里も捨てて魔法の森の中で半世捨て人のような生活をしているのかもしれんが。不公平について、か……。
例えばパチュリーは他人のものを盗んだりしない。それは彼女が『他人の物を盗む自由』を支払っているからだ。にも関わらず、彼女は無常にも私に魔導書を盗まれている。私の本棚にぎっしり詰まっているそれは、不公平の塊だ。
パチュリーが支払った自由を受け取った何かは、私を罰しに来るべきだ。神様仏様世間様だかなんだか知らんが、奴らは盗人の私に何もしない。人から自由を支払われておきながら、職務怠慢ではなかろうか。
「確かに、そうですね。けれど多くの人間はそれでも自分達が所属する社会との『若干不公平な』取引を交わさなければ生きていけない」
「どうしてだぜ?」
青娥は迷う素振りさえ一切なくはっきりと断言した。
「それは、弱いからです。例え不公平であると知っていても自由を差し出して社会に縋らねば生きていけない弱い人間だからです」
そしてその言葉は、私の胸にもすとんと腑に落ちてしまったのだった。確かにそうだ。
取引とは何かを得ようとして始まるものだ。盗人に抗えない弱者が、それでも自分のものを盗まれたくなければどうすればいいか。答えは簡単、社会に所属して自分の自由を切り売りして、他人から物を盗まれない取り決めに自分を組み込めば良い。
逆に言えば、盗人に抗える強者にはそんな取り決めは必要ないし、自分の自由を切り売りする必要もない。
不公平の塊と、それから得られた研究レポートが詰め込まれている本棚を見た。魔導書に仕込まれていた時限式の空間跳躍術式が、私の本棚を丸ごと公正な場所に転送していった。
流石はパチュリー、強かだ。私はさしずめ資料を貸し出された研究助手扱いだったようだ。つまり彼女は自由を支払っていた訳では無いのだろう。次はどうやって盗んで見せようか……。
「それに、社会は取引や契約だけで成り立っているわけではありませんわ。社会の中には取引や契約によるものではないもっと野蛮な関係性も存在しています。『搾取』と呼ばれる関係性です」
「搾取?」
「強いものが弱いものに自らの不自由を押し付けて自由を謳歌すること、です。極端な人はこれこそが社会の本質だというかもしれませんが、それは誤りです。搾取は自然状態に近い関係性ですし、むしろ社会はこうしたものからできる限り離れた関係性で世界を満たそうとしています。なので、社会の中には取引や契約によるものでないもっと野蛮な関係性が『残存している』と言った方が語弊がないでしょうね」
ひとしきり語った青娥は、粗茶にまた口をつけて一息ついたようだ。この間はきっと、私の言葉を待っているのだろう。
「それで青娥は、私に何を伝えたいんだぜ?」
「いえ、貴女はどっちかな、と」
どっち?
「公平で公正な取引と契約で世界を満たし、利益と幸福を最大化した楽園を創造しようとしている人間なのか。それとも、己の力であらゆる不自由を人に押し付けて自由を謳歌したいだけのケダモノなのか。ちなみに私はどちらかと言えば後者よ」
可愛らしい仕草でウインクをしながらおっそろしい話をするなよ……。そもそも答えられるような質問でさえ無いしな。
どちらでもない、それが私の答えだ。自己の全てを社会に組み込める人間はいないし、自己の全てを社会の外側に置ける人間もいない。
どんなご立派な人間だって、未成年のうちにお神酒を呑んだことぐらいはあるだろう。同じように、どんな野蛮な人間だって、あらゆる社会の外側で生きて行くことは不可能だ。私だって家を捨てて魔法の森に引きこもっているが、香霖堂や人間の里との取引なしでは生きていけない。
この質問は程度の問題なのだ。『貴女はどの程度人間で、どの程度ケダモノですか?』という質問。
「楽園には興味ないですし、私は私が好きな事をできればそれだけで幸せですわ。他人の自由は邪魔ですし、自分の不自由は我慢ならない。私のあらゆる力を尽くして不自由を人に押し付けようと思いますわ」
「他人に不自由を押し付けられる奴が最も自由って訳か。なんというか……私のなけなしの道徳感が人でなしと叫んでいるぜ」
「だからケダモノだといったじゃないですか。そして魔理沙さんもそうだと思ってますわ」
三日月に歪んだ口から、妖しげな言葉が投げかけられた。いや、是非とも否定したいところだ。仙界を創造して自分一人だけの世界を完結させられる仙人様でもない私は、ただ普通の魔法使いなのだから。
「魔理沙さんも、自分が好き勝手する為に他人に不自由を押し付けて生きてきたのでしょう。貴女の悩みは、貴女を縛るルールが上げている最後の悲鳴なのですわ。好きにしなさい。誰に構う必要もありません。貴女は自由だ。そうすれば退屈とも無縁よ。人生の一瞬一瞬が眩い輝きを放ちだしますわ」
「私は自由、か……」
「好きに生き、好きに死んで良い。誰の為でもなく自分の為にね。その為のお手伝いなら、私は喜んでいたしますわ」
成る程、今までのお話は彼女なりの仙道への勧誘だったのだろう。世俗社会から離れ、ただ強くあり万事に頓着せず自由を謳歌するように生きること、そんな彼女なりの仙道への招待、か。
「ならその自由を行使して、私はまだある程度は人間でいようと思うぜ」
「あら、それは残念」
「私には、人間としてやり遂げたい事がまだまだあるんだ。時期尚早さ、婆臭い隠居生活も仙洞に籠るのもな」
「ならば、今はまだ待ちましょう。霧雨魔理沙、貴女がその人道を踏破するまでね」
らしくもなく神妙な雰囲気を纏った青娥が私の手を握った。
「弟子入りはいつでも大歓迎ですわ。まずは雑用からスタートしてもらいますけど」
ははは、参ったな。こいつ小間使いが欲しいだけだぜ、間違いねぇ。口車に乗せられたら雑用人生がスタートじゃないか。
「怖いなぁ。危うく不自由を押し付けられるところだったぜ」
「あらあら、なんのことやら?」
全く、良い性格してるなぁ……。
自由を放棄する代わりに利益と幸福を最大化する社会を目指すか、自分の力で周りの人に不自由を押し付け自由を謳歌するか。なまじっか幻想少女たちは力を持ってる存在が多いですから、我々の現代社会の図式をそのまま当てはめられそうにないですね。