その村に疲弊した隻腕の女が現れたのは、もうじき日も暮れようとしている時分であった。この時間に独り身で、しかもこんな山奥の村に来るのは怪しいとしか言えなかったが、住人は誰もが親切であった。
里芋の味噌汁と艶やかに炊かれた米、もどして煮付けた鮎が女の前に置かれた。女は丁寧に、感謝の意をこめてお辞儀をして、それらを食べ始めた。瞬く間にきえていくそれらを見て、老婆はよく食べるものだと内心嘆息した。
「あの、お酒をいただいてもいいですか」
女は恥も外聞もなくそんなことを口にし、流石に老婆も渋ったものの、その方が治りが早いからと言われて仕方なく注いだ。
次の日には女は元気を取り戻したようで、なんと左手一本で鍬を振るっていた。もっとも、今の季節には耕す必要などないのだが。女は見た覚えのある人の営みを真似ただけだった。
しかし耕された土は村の男のそれと遜色なく、老婆は女の膂力に驚かされた。そのまましばらく女が固い土地を耕していると、老婆の息子と思わしき男が肩に猪をかついでやって来た。気づけば昼時になっていた。
猪鍋を三人でたいらげた後、老婆は女にこれからどうするのかと訊いた。女は探し物を続けると答え、その内に出て行くと伝えた。隻腕の身で辛くないか、いっそこの村で過ごすのはどうかと男が言った。女は曖昧な返事をした。
それから、男は村の中心部に女を案内した。
捕まえた狸を公民館で飼っているというので、女は男につれられるままに見に行った。それは鎖につながれ、それなりの広さの檻に入れられていた。男によるとポチという名前らしい。
「貴方はポチという名前なんですって」
男は狸に話しかける女を見て笑い、狸がその言葉に頷いた事に気づかなかった。それから女が小腹が空いたというので、蕎麦を食わせてやった。
蕎麦屋から出た女は櫛を舌で弄びながら山を見上げた。こうして山を下から見るのは何時ぶりか、と女は思った。
紅混じりの葉が山を彩っている。色がつき始めた葉は美しいとは言えないが、なかなかどうして趣がある。今にも燃えんとする葉の生命が此方に伝わるかのようだ。ひらりと一枚落ちてきて、男がすかさず手に取った。これで柿の葉寿司をつくるのだと言った。
夜はなし崩し的に件のお婆さんの家に世話になった。野宿でも構わないと言ったら、女がそんな事を言うもんじゃないと窘められたからだ。この男は少々、女に幻想を抱いているふしがある。
けして上等ではない布団に身を包み、女は考えはじめた。己のくず藁のようになった躰を抱いて。
朝の光は眩しく、鬼の目では直視できそうになかった。自分が陽に照らされるような存在ではないことを思い知らされる。
客間の障子を開けると縁側があり、その先に庭がある。雑草に混じっていくつか花が咲いていた。花には種類があるようで、いくつかの色がある。秋にも存外花が咲くものだと知る。
隣の部屋から大きなあくびの音がしたと思うと、男が髪をかき上げながらでてきた。そのまま干してあった柿を手に取り、齧る。
食べるか、ときくので受け取った。ねっとりとした甘さが長く舌に残った。
朝餉を終えたあと、今日は前夜祭があると男が言った。今は準備中だが、見に来てはどうかと誘った。どうせなので見に行くことにした。
隻腕の女がやって来ると、男共は作業を中止し、男に詰め寄った。男はしどろもどろになりながら、何処からかやって来た者で、あくまで成り行き上だと説明した。女に同意を求め、女も応じてくれたためにあらぬ誤解を受けることはなかったが、ふと男はこの女は何者なのかと疑問を抱いた。気づいているのかいないのか、女は男共の作業を気ままに見て回った。
日が傾いていくと、男衆の手も進み、少し遅れながらも前夜祭が始まった。
何処からやって来たのか、多くの子供たちが親を引き連れて駆けてきた。思い思いに露店にはしり、水飴や回転焼きを欲しがっては頬張る。それを見ると途端に露店から漂う匂いが鼻についた。とりあえず私も子供たちにならい団子を買う。
さて催し物はというと、若者たちが黒い袴に羽織を着て、面をつけた浮立だった。鬼の役の者は民衆に扮した者たちを辱め、それを英雄役の男(此方は面はつけていない)が討伐する、という内容であった。どうも身に覚えのある物語である。きいてみると、ずっと昔にあった鬼退治の話だそうだ。耳が痛い。
「鬼を退治しそこねたって話もあるが、流石になぁ」
男はかっこうの話題になったとばかりに、得意げな顔を浮かべる。
曰く、山には四匹の鬼がおり、里におりては稚児を攫っていったという。食料にしたのか、はたまた慰んだのかは判らない。少なくとも確かなのは、もはや攫われた子は人ではないだろうと。まったく、私はどんな顔をして聞けばいいのだろう。
件の浮立は溢れる力の躍動を感じさせ、なかなか感じるところがあるものであった。久しく人を食む慾が湧き上がるほどに。これではいけないと、ザクロはないかと訊いた。男は不思議そうにしながら、村の果ての婆さんなら持ってるかもしらんが、と言った。浮立が終わるとすぐにその人に逢いに行った。
「突然すみません、いらっしゃいますか」
祭りの喧騒が聴こえなくなる場所まで来ると、閑散とした小さな家があった。木の陰に隠れているような形になっていて、それがまた家を暗く見せている。
ガタガタと古い戸が開いて、腰を丸めたお婆さんが姿を見せた。私の顔を見て怪訝そうな顔をする。
「どちら様」
「少し前にこの村に来た者です。それで、突然厚かましいお願いですが、ザクロを」
お婆さんは信じられないといった表情になる。知らない顔が挨拶もほどほどにザクロを貰いに来たというのだから、そのような表情になるのは道理だ。しかし、この村の者はみな親切であった。
「上がんな」
ぶっきらぼうにそう言い、お婆さんは奥にもどった。私もつれられて裏に行く。
垂らされた紐がひかれると、丸い白熱灯が熱をはなつ。照らされた部屋には小さな卓袱台、茶箪笥、箱入りの日本人形だけが置いてあった。
「待っとけ、取ってくる」
そう言って台所の方に消える。網戸から外をみてみると、既に太陽は半身を山に沈めている。より夜に近づいていく畠道を眺めていると、籠に乗せられたザクロがやってきた。幾つか積まれた紅い実が薄暗い部屋に映える。
「人の肉でも恋しくなったか」
籠を渡しながらお婆さんはそう言った。
「うまく隠れたもんだが、昔は鬼なぞそこらにおったからな」
わしも喰うか。肉はないがな。
そんな冗談をとばして、お婆さんは本当に楽しそうに笑った。だけど私には笑えるほどの余裕なんてものはなく、思わずザクロを取り落としそうになった。
いつから、どうして、どうやって。そんな疑問が次から次に湧き出てくる。どうにかして答えを得られないかと、お婆さんへと視線を向ける。
空になりかけている骨、しわがれた皮膚、醜く凋んだ肉。そんなものが目に入る。食べようと思えば食べれるだろう。
いったい何を考えているのか。このような老婆を喰うなど。
「喰いたいなら構わんぞ」
そう言って座布団に腰掛けるお婆さん。静かに目を閉じ、胸の前で手を合わせるそれは、どこか高僧のような雰囲気を纏っている。
何度も手をのばし、その度に引っ込める。違うだろう。私は、人を喰うために逢いに来たのではないだろう。
そうだ、ザクロだ。私はそれを貰いに来たのだ。
籠をどこに置いただろうか。受け取って、どこだかに置いたはずだ。
あった。卓袱台の下に転がっている。籠は逆さになっている。
一つ手に取る。強く握りすぎて潰れる。掌が赫くなる。
血だ。私の手が、ぱっと花開いたように染まった。
細い肩を掴む。口を大きく開いて、牙をその喉笛に—
長い時間をかけて骨までしゃぶり尽くすと、まわりが汚れていることに気がついた。
掃除もせず、服に少しだけ付いていた血をおとすと、家を出た。ザクロはもういらない。
もはや見慣れた家に帰ると、男が駆け寄ってきた。大丈夫か、と口を開くまえに眉をひそめる。
「何してきた?血の臭いがするぞ」
こうも一瞬で気づかれるものか。あまり熱心に消したわけでもないし、それもそうかと納得する。変わったことはしていないとだけ言った。嘘など吐いていない。鬼が人を喰って悪いことはないだろう。そんな屑のような開き直りをした。
男はそれ以上は特に言わなかった。晩飯はいらねぇか、とだけ言った。
もしかしたら私がしてきた事に気づいているのかもしれないが、私は放心したかのような心地で、それでもいいか、などと考えていた。お婆さんも心配して出てきたが、こちらは血の臭いに気づかなかったようで、夜一人で大丈夫だったかとしきりに訊いた。
しばらくして、あんたは力があるから、薪わりについて来てくれ、と男が言った。外はもう暗いのに、今からか、と訊くと、何も答えなかった。
俺は猟師だから血の臭いにはすぐ気づいたと、藪から棒に男は言う。あのポチという名前の狸も、畑を荒らしやがるから捕まえたんだ、と自慢げに語った。
「おめぇ、何食ってきたんだ?」
唐突に訊かれ、言葉に詰まる。嘘はつけないが、本当の事を言うのも憚られる。しばらく黙っていたが、男の方からこんなことを言った。
「あんたが行ったとこの婆さん、俺は昔から知っててな。色んな話を聞いたが」
鬼に逢ったなんて話があった。信じちゃいなかったが。
「こうなると、信じらんわけにいかんくなった」
男は大きく息を吐いた。
「どうすればいいのか俺はわからん。怒りゃいいんだろうか」
どうしたもんか、どうしたもんかと呟きながら、男は薪をわる。そこから会話を交わさぬまま、薪が積まれていった。
お風呂では体を念入りに洗った。熱く焚かれたお湯の熱がいつまでも肌に沁みていた。
体を拭って居間へいくと、お婆さんと男が一緒になって作業をしていた。男が私に気づき、柿の葉寿司の拵えをしている、と言った。
「朝には食えるから、今日は寝とけ」
手伝おうと思っていたが、どうやら男はそれを望んでいないようだった。血の臭いのする手だからだろうか、などと邪推する。
昨日と同じせんべい布団に身を包んで、眠りにおちるのを待った。しかし私の目は夜が深くなるほどに冴えていき、なかなか寝付けなかった。思考を巡らすには、私は少し退廃的になりすぎていた。もうずっと忘れていた人の味を思い出してしまったから。
きっと、私はこれ以上この村に居てはいけないのだろう。いや、そもそも来てはいけなかったのかもしれない。鬼は決して人と相容れないから。
床を軋ませながら家を出ると、外は当然夜だった。柿の葉寿司は少し惜しいが、背に腹はかえられない。
少し考えて、まず村の中心部に向かった。檻の中にいるポチは私が近づくとすぐに目を覚ました。檻は鍵がかかっていたが、錠を握り潰して開けた。
「二度と捕まらないようにね」
ポチは森の中に駆け込んで、もう二度と姿を見せなかった。紅い葉の揺れる音が止んだのちに、私は村から離れた。
封印されている右腕を見つけたのは、それからすぐのことだ。
———
そんな事があった村に、私は再び行こうとしている。
山道はコンクリートで舗装され、あの時の道より幾分か歩きやすい。奇しくも季節はあの時と同じ、初秋になりかけている。
不思議なことに、私自身なぜあの村に向かっているのか判らないままに向かっている。今更何のけじめもつかない事は判りきっているのに。紅混じりの葉っぱはあの時と変わらない美しさをたたえていた。
上がっていくと、大きな川が横たわっている。淵がコンクリートで作られているから、新たに舗装されたのだろう。遠くからもドドド、という激しい流れの音が聴こえる。
もうすぐで村に着く。そう思うと、歩みが速くなると同時に重くなる。
今の私があの村に行って何になるのだろう?誰に人を喰ったことを告白すればいいのだろう?いったい私は何を望んでいるのだろう?
「…あぁ、そうか」
きっと私は、柿の葉寿司を食べたいんだ。あの時に食べ逃した柿の葉寿司を。さて、そうと決まったら急がなければいけない。俄に足が軽くなった。
村はダムの底に沈んでいた。
膨大な水のなかに、まるで時が止まったかのように、そっくりそのまま村の情景がのこっている。
よくよく目を凝らすと、私が何日か滞在していたあの家も見ることが出来た。左腕にあの時の布団の感触が思い出される。
私はしばらく村の残滓を覗き込み、そのあとで大きく溜息を吐いた。膝と肘の砂埃を払い、立ち上がると、隣から葉の揺れる音が聴こえた。
一匹の狸がこちらを見ていた。
「ポチ」
思わずそう呼びかけてしまったが、勿論その狸がポチであるはずがなかった。妖怪狸でもあるまいし、そんなに長く生きれるわけがない。案の定狸は首を振って否定した。
「でも、ポチって名は知ってる。うちの先祖にそう名乗ってる狸がいたらしい」
「…そう。あの子。ポチって名乗ってたのね」
「人間に貰った名前だって。どこまでほんとかは知らないよ」
「そうね。嘘みたいな話だわ」
でも、本当よ。
狸はどういう意味か解らなかったのか、ぽかんとしている。まぁいいか。山を下りたら、柿の葉寿司でも探そうか。
里芋の味噌汁と艶やかに炊かれた米、もどして煮付けた鮎が女の前に置かれた。女は丁寧に、感謝の意をこめてお辞儀をして、それらを食べ始めた。瞬く間にきえていくそれらを見て、老婆はよく食べるものだと内心嘆息した。
「あの、お酒をいただいてもいいですか」
女は恥も外聞もなくそんなことを口にし、流石に老婆も渋ったものの、その方が治りが早いからと言われて仕方なく注いだ。
次の日には女は元気を取り戻したようで、なんと左手一本で鍬を振るっていた。もっとも、今の季節には耕す必要などないのだが。女は見た覚えのある人の営みを真似ただけだった。
しかし耕された土は村の男のそれと遜色なく、老婆は女の膂力に驚かされた。そのまましばらく女が固い土地を耕していると、老婆の息子と思わしき男が肩に猪をかついでやって来た。気づけば昼時になっていた。
猪鍋を三人でたいらげた後、老婆は女にこれからどうするのかと訊いた。女は探し物を続けると答え、その内に出て行くと伝えた。隻腕の身で辛くないか、いっそこの村で過ごすのはどうかと男が言った。女は曖昧な返事をした。
それから、男は村の中心部に女を案内した。
捕まえた狸を公民館で飼っているというので、女は男につれられるままに見に行った。それは鎖につながれ、それなりの広さの檻に入れられていた。男によるとポチという名前らしい。
「貴方はポチという名前なんですって」
男は狸に話しかける女を見て笑い、狸がその言葉に頷いた事に気づかなかった。それから女が小腹が空いたというので、蕎麦を食わせてやった。
蕎麦屋から出た女は櫛を舌で弄びながら山を見上げた。こうして山を下から見るのは何時ぶりか、と女は思った。
紅混じりの葉が山を彩っている。色がつき始めた葉は美しいとは言えないが、なかなかどうして趣がある。今にも燃えんとする葉の生命が此方に伝わるかのようだ。ひらりと一枚落ちてきて、男がすかさず手に取った。これで柿の葉寿司をつくるのだと言った。
夜はなし崩し的に件のお婆さんの家に世話になった。野宿でも構わないと言ったら、女がそんな事を言うもんじゃないと窘められたからだ。この男は少々、女に幻想を抱いているふしがある。
けして上等ではない布団に身を包み、女は考えはじめた。己のくず藁のようになった躰を抱いて。
朝の光は眩しく、鬼の目では直視できそうになかった。自分が陽に照らされるような存在ではないことを思い知らされる。
客間の障子を開けると縁側があり、その先に庭がある。雑草に混じっていくつか花が咲いていた。花には種類があるようで、いくつかの色がある。秋にも存外花が咲くものだと知る。
隣の部屋から大きなあくびの音がしたと思うと、男が髪をかき上げながらでてきた。そのまま干してあった柿を手に取り、齧る。
食べるか、ときくので受け取った。ねっとりとした甘さが長く舌に残った。
朝餉を終えたあと、今日は前夜祭があると男が言った。今は準備中だが、見に来てはどうかと誘った。どうせなので見に行くことにした。
隻腕の女がやって来ると、男共は作業を中止し、男に詰め寄った。男はしどろもどろになりながら、何処からかやって来た者で、あくまで成り行き上だと説明した。女に同意を求め、女も応じてくれたためにあらぬ誤解を受けることはなかったが、ふと男はこの女は何者なのかと疑問を抱いた。気づいているのかいないのか、女は男共の作業を気ままに見て回った。
日が傾いていくと、男衆の手も進み、少し遅れながらも前夜祭が始まった。
何処からやって来たのか、多くの子供たちが親を引き連れて駆けてきた。思い思いに露店にはしり、水飴や回転焼きを欲しがっては頬張る。それを見ると途端に露店から漂う匂いが鼻についた。とりあえず私も子供たちにならい団子を買う。
さて催し物はというと、若者たちが黒い袴に羽織を着て、面をつけた浮立だった。鬼の役の者は民衆に扮した者たちを辱め、それを英雄役の男(此方は面はつけていない)が討伐する、という内容であった。どうも身に覚えのある物語である。きいてみると、ずっと昔にあった鬼退治の話だそうだ。耳が痛い。
「鬼を退治しそこねたって話もあるが、流石になぁ」
男はかっこうの話題になったとばかりに、得意げな顔を浮かべる。
曰く、山には四匹の鬼がおり、里におりては稚児を攫っていったという。食料にしたのか、はたまた慰んだのかは判らない。少なくとも確かなのは、もはや攫われた子は人ではないだろうと。まったく、私はどんな顔をして聞けばいいのだろう。
件の浮立は溢れる力の躍動を感じさせ、なかなか感じるところがあるものであった。久しく人を食む慾が湧き上がるほどに。これではいけないと、ザクロはないかと訊いた。男は不思議そうにしながら、村の果ての婆さんなら持ってるかもしらんが、と言った。浮立が終わるとすぐにその人に逢いに行った。
「突然すみません、いらっしゃいますか」
祭りの喧騒が聴こえなくなる場所まで来ると、閑散とした小さな家があった。木の陰に隠れているような形になっていて、それがまた家を暗く見せている。
ガタガタと古い戸が開いて、腰を丸めたお婆さんが姿を見せた。私の顔を見て怪訝そうな顔をする。
「どちら様」
「少し前にこの村に来た者です。それで、突然厚かましいお願いですが、ザクロを」
お婆さんは信じられないといった表情になる。知らない顔が挨拶もほどほどにザクロを貰いに来たというのだから、そのような表情になるのは道理だ。しかし、この村の者はみな親切であった。
「上がんな」
ぶっきらぼうにそう言い、お婆さんは奥にもどった。私もつれられて裏に行く。
垂らされた紐がひかれると、丸い白熱灯が熱をはなつ。照らされた部屋には小さな卓袱台、茶箪笥、箱入りの日本人形だけが置いてあった。
「待っとけ、取ってくる」
そう言って台所の方に消える。網戸から外をみてみると、既に太陽は半身を山に沈めている。より夜に近づいていく畠道を眺めていると、籠に乗せられたザクロがやってきた。幾つか積まれた紅い実が薄暗い部屋に映える。
「人の肉でも恋しくなったか」
籠を渡しながらお婆さんはそう言った。
「うまく隠れたもんだが、昔は鬼なぞそこらにおったからな」
わしも喰うか。肉はないがな。
そんな冗談をとばして、お婆さんは本当に楽しそうに笑った。だけど私には笑えるほどの余裕なんてものはなく、思わずザクロを取り落としそうになった。
いつから、どうして、どうやって。そんな疑問が次から次に湧き出てくる。どうにかして答えを得られないかと、お婆さんへと視線を向ける。
空になりかけている骨、しわがれた皮膚、醜く凋んだ肉。そんなものが目に入る。食べようと思えば食べれるだろう。
いったい何を考えているのか。このような老婆を喰うなど。
「喰いたいなら構わんぞ」
そう言って座布団に腰掛けるお婆さん。静かに目を閉じ、胸の前で手を合わせるそれは、どこか高僧のような雰囲気を纏っている。
何度も手をのばし、その度に引っ込める。違うだろう。私は、人を喰うために逢いに来たのではないだろう。
そうだ、ザクロだ。私はそれを貰いに来たのだ。
籠をどこに置いただろうか。受け取って、どこだかに置いたはずだ。
あった。卓袱台の下に転がっている。籠は逆さになっている。
一つ手に取る。強く握りすぎて潰れる。掌が赫くなる。
血だ。私の手が、ぱっと花開いたように染まった。
細い肩を掴む。口を大きく開いて、牙をその喉笛に—
長い時間をかけて骨までしゃぶり尽くすと、まわりが汚れていることに気がついた。
掃除もせず、服に少しだけ付いていた血をおとすと、家を出た。ザクロはもういらない。
もはや見慣れた家に帰ると、男が駆け寄ってきた。大丈夫か、と口を開くまえに眉をひそめる。
「何してきた?血の臭いがするぞ」
こうも一瞬で気づかれるものか。あまり熱心に消したわけでもないし、それもそうかと納得する。変わったことはしていないとだけ言った。嘘など吐いていない。鬼が人を喰って悪いことはないだろう。そんな屑のような開き直りをした。
男はそれ以上は特に言わなかった。晩飯はいらねぇか、とだけ言った。
もしかしたら私がしてきた事に気づいているのかもしれないが、私は放心したかのような心地で、それでもいいか、などと考えていた。お婆さんも心配して出てきたが、こちらは血の臭いに気づかなかったようで、夜一人で大丈夫だったかとしきりに訊いた。
しばらくして、あんたは力があるから、薪わりについて来てくれ、と男が言った。外はもう暗いのに、今からか、と訊くと、何も答えなかった。
俺は猟師だから血の臭いにはすぐ気づいたと、藪から棒に男は言う。あのポチという名前の狸も、畑を荒らしやがるから捕まえたんだ、と自慢げに語った。
「おめぇ、何食ってきたんだ?」
唐突に訊かれ、言葉に詰まる。嘘はつけないが、本当の事を言うのも憚られる。しばらく黙っていたが、男の方からこんなことを言った。
「あんたが行ったとこの婆さん、俺は昔から知っててな。色んな話を聞いたが」
鬼に逢ったなんて話があった。信じちゃいなかったが。
「こうなると、信じらんわけにいかんくなった」
男は大きく息を吐いた。
「どうすればいいのか俺はわからん。怒りゃいいんだろうか」
どうしたもんか、どうしたもんかと呟きながら、男は薪をわる。そこから会話を交わさぬまま、薪が積まれていった。
お風呂では体を念入りに洗った。熱く焚かれたお湯の熱がいつまでも肌に沁みていた。
体を拭って居間へいくと、お婆さんと男が一緒になって作業をしていた。男が私に気づき、柿の葉寿司の拵えをしている、と言った。
「朝には食えるから、今日は寝とけ」
手伝おうと思っていたが、どうやら男はそれを望んでいないようだった。血の臭いのする手だからだろうか、などと邪推する。
昨日と同じせんべい布団に身を包んで、眠りにおちるのを待った。しかし私の目は夜が深くなるほどに冴えていき、なかなか寝付けなかった。思考を巡らすには、私は少し退廃的になりすぎていた。もうずっと忘れていた人の味を思い出してしまったから。
きっと、私はこれ以上この村に居てはいけないのだろう。いや、そもそも来てはいけなかったのかもしれない。鬼は決して人と相容れないから。
床を軋ませながら家を出ると、外は当然夜だった。柿の葉寿司は少し惜しいが、背に腹はかえられない。
少し考えて、まず村の中心部に向かった。檻の中にいるポチは私が近づくとすぐに目を覚ました。檻は鍵がかかっていたが、錠を握り潰して開けた。
「二度と捕まらないようにね」
ポチは森の中に駆け込んで、もう二度と姿を見せなかった。紅い葉の揺れる音が止んだのちに、私は村から離れた。
封印されている右腕を見つけたのは、それからすぐのことだ。
———
そんな事があった村に、私は再び行こうとしている。
山道はコンクリートで舗装され、あの時の道より幾分か歩きやすい。奇しくも季節はあの時と同じ、初秋になりかけている。
不思議なことに、私自身なぜあの村に向かっているのか判らないままに向かっている。今更何のけじめもつかない事は判りきっているのに。紅混じりの葉っぱはあの時と変わらない美しさをたたえていた。
上がっていくと、大きな川が横たわっている。淵がコンクリートで作られているから、新たに舗装されたのだろう。遠くからもドドド、という激しい流れの音が聴こえる。
もうすぐで村に着く。そう思うと、歩みが速くなると同時に重くなる。
今の私があの村に行って何になるのだろう?誰に人を喰ったことを告白すればいいのだろう?いったい私は何を望んでいるのだろう?
「…あぁ、そうか」
きっと私は、柿の葉寿司を食べたいんだ。あの時に食べ逃した柿の葉寿司を。さて、そうと決まったら急がなければいけない。俄に足が軽くなった。
村はダムの底に沈んでいた。
膨大な水のなかに、まるで時が止まったかのように、そっくりそのまま村の情景がのこっている。
よくよく目を凝らすと、私が何日か滞在していたあの家も見ることが出来た。左腕にあの時の布団の感触が思い出される。
私はしばらく村の残滓を覗き込み、そのあとで大きく溜息を吐いた。膝と肘の砂埃を払い、立ち上がると、隣から葉の揺れる音が聴こえた。
一匹の狸がこちらを見ていた。
「ポチ」
思わずそう呼びかけてしまったが、勿論その狸がポチであるはずがなかった。妖怪狸でもあるまいし、そんなに長く生きれるわけがない。案の定狸は首を振って否定した。
「でも、ポチって名は知ってる。うちの先祖にそう名乗ってる狸がいたらしい」
「…そう。あの子。ポチって名乗ってたのね」
「人間に貰った名前だって。どこまでほんとかは知らないよ」
「そうね。嘘みたいな話だわ」
でも、本当よ。
狸はどういう意味か解らなかったのか、ぽかんとしている。まぁいいか。山を下りたら、柿の葉寿司でも探そうか。
素晴らしかったです。大好きです。大好きなので拙い文章とかいう地獄タグやめーや
華扇ちゃんどんだけ食うねん
食事を通して進行していく時間の流れに、最後の最後で柿の葉寿司をアクセントに長い時の隔たりを表現してくる様もただただ凄くて読み応えが強かったです。
ただただ強い作品で面白かったです、ご馳走様でした。
こういう作品がひょっこり出てくるからそそわはやめられない
淡々とした雰囲気で描かれる不気味な話はお見事でした
柿の葉寿司とかせんべい布団とかそういったディティールが残酷さを緩和していて、読後感がとてもよかったです。