摂氏四十五度。人間には少々熱めのシャワーがリグル・ナイトバグを濡らしていた。ヒノキ造りの浴室には湯気がもうもうと立ち込めている。壁はしっとりと汗ばみ、天井はポタリ、ポタリと涙粒を落としてゆったりと時を刻む。
その中で、彼女は元々小柄な体躯をさらに押し縮めるように、膝小僧を抱えて座っていた。シャワーに背を向け、首筋で温水を受ける格好である。時折いたずらに跳ねた飛沫が頬や耳朶にちょっかいをかけるが、微動だにしない。リラックスとは程遠い様相は、さながら討ち入り前の侍か、はたまた何処かの寺の舞台から飛び降りんとする町娘の雰囲気をまとっている。
リグルの視線の先にあるのは、右手に握ったシャンプーのチューブだ。使うか決めかねている様子で、かれこれ二時間以上、蓋を開けようとしては辞め、溜息をつくことを繰り返している。今もまた、蓋に左手を添えて回そうというところ。全身に明らかに過剰な力が入っており、二の腕はわなわなと震えている。目を固くつぶっていよいよ蓋を開けんとしたとき、
「お客さん! また延長ですか?」
苛立ち混じりの声が、彼女を飛び上がらせた。ひえぇ、と可愛い悲鳴を上げると、慌てて扉に向かっていく。
湯を浴び続けた彼女のうなじは、ほんのりと艶やかな朱色を帯びていた。
・・・
妖怪の山温泉センター、特別個室あじさいの間。
プライベートなくつろぎ空間をテーマに、大浴場から離れて新設された貸切風呂の一つ。長屋の一軒一軒が浴室となった構造で、番台で受け取ったカギで入口を開けるシステムである。入ったところは二畳ほどの前室兼更衣室となっており、更に奥の扉を開けると四畳ほどの浴室がある。
浴室に窓が無いうえ割高な時間貸のため利用者は少なく、守矢には珍しく商売っ気が薄く感じるが、その実、面倒な客の隔離施設である。
対象は主に獣人や鳥妖といった本質的に体毛が多い種族。換毛・換羽の時期ともなれば、ひとり入浴するだけで大風呂の表面が抜け毛で覆われてしまうのだ。無論クレームの嵐であり、当人同士の弾幕ごっこへ発展することも珍しくない。施設面では排水トラブルの原因にもなる、と大変に厄介なのである。出入禁止としようにも、彼等は経営母体たる守矢神社の信仰の要。加えて妖怪の山のお膝元という立地となれば、ぞんざいに扱うことなどご法度であった。
こうしたしがらみを勘案した結果、守矢の二柱は専用浴室の建設に着手したのだった。当初は完全な赤字計画であったが、運営してみると意外に悪くなく、損益分岐点近くを堅調に飛行している。他種族への蔑視が強い天狗幹部のお忍び需要を掘り当てたのも大きく、今や建前もあながち間違いではないのである。
・・・
「ごめん、お待たせ!」
手早くタオルを身体に巻き付けたリグルが入口横の会話用の小窓を開けると、今日で見慣れてしまった河童の顔があった。
「で、どうします? また延長します?」
呆れ混じりの気だるげな声色をよそに、リグルの脳裏に財布の中身が浮かぶ。今日だけで既に結構な額が出ていっており、正直厳しい。現金その場払いでツケも利かないため、払えば払うだけ財布は軽くなる。だが、哀しきかな。彼女の目的は未達であり、このまま帰るわけにはいかないのだ。
「……うん、延長で」
少しの逡巡のうち、リグルは震える声をごまかすように、一度唾を飲み込んで答えた。
「はあ……。これ三回目ですよね。もう夜通しプランに切り替えません? 正直来るのが面倒なんですよ」
眠気を隠さず、やる気なく言う河童の肩越しには、夜の闇が広がっている。入った時分は日没近く。基本プランの二時間に、一時間の延長を二回。今や二十二時を回ったところだ。提案通りに夜通しプランにした方がいいのかもしれないが、完全に足が出てしまう。物理的には残り延長二回、懸命なら延長一回が限界である。
「でも、持ち合わせが足りなくて」
「今なら延長二回分の料金にサービスしますよ」
やる気は無くとも河童である。金銭感覚、交渉事は十八番。懐事情を的確に当ててくるところが嫌らしい。
「次の延長の時じゃダメ?」
「それでもいいですけど、また私来ちゃいますよ? 何してるのか知らないですけど、邪魔されたくないんじゃ?」
下卑た言葉が、リグルの顔をかあっと真っ赤に染め上げた。やってることは 断じて『そういうこと』ではない、全くの勘違いだ。だが、状況的に否定できない。
「で、どうします? もう待てないんですけど」
あわあわと言葉に詰まった彼女に河童が追い打ちをかける。
「ちょっと待って!」
キッと河童を睨みつけると、目を閉じて熟考する。嫌な奴だが、提案に一理あるのも確かだ。先のようにいきなり集中を乱されてはいつ終わるとも分からない。そして何より再入浴するお金がない。今日を逃せば一巻の終わりなのだ。
「分かった! お願いするわ!」
結局忌々しげに財布をひっくり返すと、中身を投げるように河童に叩きつけたのだった。
・・・
毎度あり、という言葉を待たずに小窓を閉めたリグル。直後に吐き出した大きな溜息は、河童への苛立ちと軽くなった財布への悲しみのいずれか、はたまた両方か。そんな彼女を会話で忘れていた寒気が襲った。甲虫の羽ばたきを思わせるように全身を大きく震わせると、肩を抱くようにさすりながら湯船に飛び込み、そこでようやく顔をほころばせる。しかしそれも束の間、すぐに眉を八の字にした、悩める乙女に逆戻り。視線に先の湯面には、浴室を出るときに取り落としたシャンプーのチューブが浮いていた。
シャンプーは個室に入る前、温泉センターの売店で買ったばかりのもの。注連縄の中で胡坐をかくデフォルメされたカエルが印刷されており、その表情は穏やかだ。店員の河童によると守矢神社の新マスコット『ケロスワ』であり、泰然自若な雰囲気が神々しくも愛らしいと、人里の娘連中に人気らしい。
一方、裏面に並ぶのは神聖さの欠片もない売り文句。『神々が恋した香り』だの『外の世界の最新トレンド』だの、眉唾物のキャッチコピーが踊っている。そもそも香りの名前自体が『フローラルモリヤグリーン』とよく分からない。
そんな胡散臭いデザインを、リグルはもう見飽きてしまっていた。何しろ湯浴みを始めてから優に二時間、チューブの表裏を返しながら葛藤していたのだから。
・・・
葛藤の原因は香霖堂の主人、森近霖之助にある。
初め、リグルにとって霖之助は良き商売相手であった。彼は『蟲の知らせ』サービスの常連である。依頼は常に失せ物探し。乱雑に物が積まれた香霖堂の中、物を崩さずに動き回るに蟲ほど適したものもなく、日を空けずに依頼されることも常であった。加えて、店の立地柄か働き手である蟲たちに他の利用者ほどの嫌悪感を示さなかったのもリグルにとっては好印象だった。
同胞が探し物をする間、リグルは決まってカウンターに腰かけ、霖之助の長話に付き合った。内容は探している道具の使い方について。生涯使うことのない外の世界の話であったが、知恵の足りない自分にも分かるように話しかけてくれるのが嬉しかった。時には話す時間を伸ばそうと、発見の報をわざと遅らせることもあった。
関係が商売相手以上となったのは晩秋、紅葉がすっかり色付いた頃。カウンターで霖之助の話に相槌を打っていたリグルを隙間風がからかい、くしゅん、と可愛らしいくしゃみをさせたのだ。それを見た霖之助の『無理して来る必要はない』という親切にも無神経な発言がリグルに火をつけた。朴念仁の姿を見れば、綿入りの半纏に厚手の靴下と早くも冬支度。いかにも暖かそうな格好である。無言でカウンターから降り、霖之助の膝に座り直す。頭一つ分はある身長差が功を奏したのか、それは特注の家具のようにリグルを迎え入れた。思いのほかすっぽりと収まり、居心地は格別。慌てて身じろぎする霖之助であったが、太腿を妖怪の力で押さえつけると、しばらくして諦めたのか道具の話が再開され、この日からリグルの定席は霖之助の膝となった。
時にはその心地良さと上から降ってくるちんぷんかんぷんな話がリグルを夢の世界へ誘うこともあった。そんなとき、霖之助は胸にもたれた頭を撫でながら押し戻すのだ。その手つきは優しく、ずっと味わっていたいとリグルは思うのであった。
・・・
そして今日、その幸せをぶち壊したのもまた霖之助であった。
いつも通り依頼を受け、いつも通り香霖堂に向かい、長話を聞きながらまどろみ、頭を撫でられ、身体を起こす。いつも通りなら振り向いたそこには呆れた顔があるはずだった。だが、今日そこにあったのは頭を撫でていた左手をじっと見つめている清閑な顔。どうかしたのかと開きかけた口は、しかし声を紡がず固まった。あろうことか、霖之助はそのまま手を顔に近づけ、くんくんと嗅いだのである。
驚愕し目を見開いて固まったリグル。その心中も知らず、追撃が彼女を見舞った。
霖之助は、よりによって顔をしかめたのである。
・・・
さて、においというのは古今東西種族を超えて恋愛の重要なファクターである。その傾向は原始的な動物になるほど顕著であり、フェロモンを求愛行動の要とする虫にとっては最重要なパラメータといって差し支えない。虫の世界において、自分のにおいを受け入れてもらえないことは言葉よりも明確な拒絶なのである。
即ち、霖之助の行動は甚だ深くリグルの心を抉ったのだ。
霖之助の表情を見た瞬間、リグルは弾かれたように飛びのき、香霖堂から逃げ出した。もはや失せ物の行方などどうでもよく、思考は混乱の渦中であった。
リグルは入浴が嫌いというわけではない。幼虫時代を水中で過ごす蛍の妖怪ということもあり、どちらかといえば好きなほうである。自宅のシャワーからは水しか出ないが、夏場は毎日浴びていた。冬が始まった今でも、温めた石鹸水で絞ったタオルを使い、毎日身体を拭っている。できれば毎日温泉に浸かりたいが、それには金がかかる。しっかりと収入とのバランスを取っているのだ。
だから体臭については、自信とまでは言えずとも臭くはないと思っていた。だが、髪だけは別であった。
リグルのトレードマークたる二本の触角。それは一見するとただの黒い針金であるが、その実際は極々微細な六角形の孔が無数に凝集した超々高度な構造体であり、如何なる蟲のシグナルも漏らさずキャッチするよう出来ている。加えてそれぞれの孔には微小なセンサー毛が生えており、空気の振動から音や物体の位置を読み取れる、五感を集約した高性能な器官なのである。それに石鹸が付くともなれば、阿鼻叫喚。このため、髪は水で流すのみとしているのであった。
よくある種族間のすれ違い。だがそれを、無意識にも霖之助に突かれたことが悲しかった。一方で、これを試練と考える自分もいた。さながら蛹からの羽化。少女から女への第一歩。お洒落は自分との戦いなのだ。
そして、気付けばリグルは温泉センターにいた。河童に言われるがまま初めてのシャンプーを買い、高い個室にこもり、一人孤独な戦いを始め、数時間が経過しているのである。
・・・
湯船に入ってから三十分は経っただろうか。のぼせ始めた顔を両手で叩いて喝を入れると、リグルはようやく立ち上がった。
シャワーを背に、肩口にお湯がかかるようにして洗い場に座り込む。正座から足を崩すと意を決してチューブの蓋を開き、中身を手のひらに絞り出す。とろりとした白液がゆっくりと出てきて、自然のものとは違う濃密な香りが花より先に触角に届いた。普段使いの石鹸とは明らかに違う媚びた香りに不思議と気分が高揚する。いよいよ勝負の時。シャンプーを泡立てた手を、まずは後頭部にあてがった。
指先に走ったごわついた感触は、日ごろの不義理を訴えるものであろうか。その不平と対話するように、頭皮を揉むようにして慌てずゆっくりと丁寧に髪をほぐしていく。そうすると次第に、指が通った場所にじんわりとした温かさが広がってきた。リグルにとって生まれて初めての感覚だったが、それが気持ちよさに変わるのはすぐであった。本人が知らぬとも、張り詰めていた緊張感はすっかりほぐれていた。
後頭部を洗い終えると一度念入りにシャンプーを洗い流す。たとえ微量であっても、触角に付いたらたまらないからだ。
一息つくと、今度はこめかみに手を添え、同じように洗っていく。すると段々、洗っていない部分が痒みを帯びるようになってきた。これまで味わったことのない快楽を味わいたいと、未洗浄の部分がせがんでいるのだ。疼きに同調して、呼吸は浅く早く、指使いは雑になる。紅潮した頬は湯のせいではないだろう。かきむしるように前頭部まで一気に洗い終え、リグルは再度シャンプーを洗い流した。残すは触角の生え際、頭頂部のみ。
リグルが自身の変調に気付いたのは、この時であった。一過性と思っていた頭の疼きは依然取れず、呼吸も落ち着かない。何しろあれほど嫌っていた洗髪が、今はしたくてたまらない。自分はどうしてしまったのか。気を落ち着かせるため、シャンプーを落とした手で頭頂部を引っ搔いてみても、全然足りない。初めて知った享楽が食虫花の蜜のように彼女の心を捉えていた。
乱暴にシャンプーを絞り出すと、泡立てもぞんざいに手を頭に持っていく。前頭部から触角の生え際に向け、じわりじわり。新たな快感を楽しむようににじり寄る。一方、触角に異物を近づけまいとする本能か、はたまた恍惚への条件反射か、指が触角寄るたび、自然と首は上を向き背中は海老反りになっていく。
そして悲劇は起こった。
触角まで爪一枚、悦楽の中心に触れんとしたとき、限界まで反られた背中を支えていた桃尻が摩擦をぬるりと手放したのだ。
消えた重力。遠くなる天井。両手は上がったまま、受け身は取れない。ずれた右手は触角を根元から曲げている。
ずん。
絶望の音がリグルの脳内にこだました。右の触角が後頭部と床に挟みつぶされたのだ。
刹那の後悔の中、やだ、やだ、と呟いたリグルを残酷な感覚の奔流が襲う。それは熱であり、痛みであり、悪臭であった。
受容できない感覚の暴走は、強烈な吐き気となり胃袋からあふれ出た。たまらず暴れそうになるが、湯船の縁を掴んで踏みとどまる。掴んだ部分がメキメキと音を立ててひしゃげたが、気にする余裕はない。こうなってしまうと波が過ぎ去るまで耐えるほかない。時に呻きつつ大きく呼吸を続けるリグルの顔は、哀れにもすっかり青ざめていた。
・・・
しばしの後、拷問めいた時間から解放されたリグルを支配していたのは、やり場のない怒りであった。
リグルにとって触角は逆鱗である。過去、いたずら心で二本とも後ろから握りしめた氷精は、都合三回分の『一回休み』をもってその浅はかさを後悔することとなった。万物おしなべて逆鱗があり、リグルもその例外ではない。
しかし今回この場面、怒りをぶつけられる下手人はいなかった。強いて言えばリグル自身であり、それはリグルも承知している。だが、そこで我慢し留飲を下げられるほど大人でもないのであった。
吐瀉物の残滓が臭う浴室を見渡した時、リグルの目に止まったのは床に転がったシャンプーのチューブであった。正確にはチューブに描かれたマスコット『ケロスワ』と目が合ったのだ。そしてその全てを見透かすような柔和な表情が、リグルの心の逆鱗に触れた。
思うより先に『ケロスワ』めがけて拳を叩きつけると、空気の入ったチューブはばいんと弾んで壁で跳ね返り、リグルの肩を叩いて落ちた。
これが決定打となった。
どいつもこいつも、ばかにしやがって。
容赦はなかった。左手でチューブを床に押さえつけ、右拳を叩きつける。一度、二度。三度目にして『ケロスワ』はぶぴぃと無様な断末魔を上げて果て、白液が無残に飛び散った。
無論、この程度で冷める怒りではない。次の矛先は元凶たる唐変木に向けられた。
誰のためにこんな苦労をしていると思っているのか。信頼していたのに髪の香り一つで裏切るのか。あの心地良い時間は嘘だったのか。そもそもあいつは私のなんなのか。
そして冷静さを欠いた短絡な思考は、素面では至らない結論に着地した。
『霖之助に髪を洗わせればいい』
思うが早いか、リグルは浴室から飛び出した。身体を拭くのも服を着るのも億劫とばかり、マントだけ羽織ると冬の夜空に舞い上がる。厳寒の北風がたちまち睫毛を凍らせるが、怯むことは無い。今やリグルの胸中は、愛と憎、二色の炎が螺旋を描いて爆ぜている。寒風など恐るるに足らず。今宵今晩この時に、恋する少女の激情を阻める者はいないのだ。
そして見えたは香霖堂。窓から漏れる弱光は、主人が起きている証拠。降り立ちざまに玄関扉の中央へ、ノックには些か重たい一撃を他意も交えて叩きこむ。響くは闇を切り裂く衝撃音。返事も待たず、間髪入れず引き開ける。
はたして霖之助はそこにいた。いつもの位置に腰かけて呆気に取られている様子。その口が何かを紡ぐより先に、跳躍一閃、カウンターに飛び乗ると、片手で両唇を引っ掴み、ぐっと手前に引き寄せる。驚き、恐れ、少しの怒り。混乱に大きく開いた釣り目に向けて、愉悦を込めて吹きかける。
「―、――――」
【 了 】
その中で、彼女は元々小柄な体躯をさらに押し縮めるように、膝小僧を抱えて座っていた。シャワーに背を向け、首筋で温水を受ける格好である。時折いたずらに跳ねた飛沫が頬や耳朶にちょっかいをかけるが、微動だにしない。リラックスとは程遠い様相は、さながら討ち入り前の侍か、はたまた何処かの寺の舞台から飛び降りんとする町娘の雰囲気をまとっている。
リグルの視線の先にあるのは、右手に握ったシャンプーのチューブだ。使うか決めかねている様子で、かれこれ二時間以上、蓋を開けようとしては辞め、溜息をつくことを繰り返している。今もまた、蓋に左手を添えて回そうというところ。全身に明らかに過剰な力が入っており、二の腕はわなわなと震えている。目を固くつぶっていよいよ蓋を開けんとしたとき、
「お客さん! また延長ですか?」
苛立ち混じりの声が、彼女を飛び上がらせた。ひえぇ、と可愛い悲鳴を上げると、慌てて扉に向かっていく。
湯を浴び続けた彼女のうなじは、ほんのりと艶やかな朱色を帯びていた。
・・・
妖怪の山温泉センター、特別個室あじさいの間。
プライベートなくつろぎ空間をテーマに、大浴場から離れて新設された貸切風呂の一つ。長屋の一軒一軒が浴室となった構造で、番台で受け取ったカギで入口を開けるシステムである。入ったところは二畳ほどの前室兼更衣室となっており、更に奥の扉を開けると四畳ほどの浴室がある。
浴室に窓が無いうえ割高な時間貸のため利用者は少なく、守矢には珍しく商売っ気が薄く感じるが、その実、面倒な客の隔離施設である。
対象は主に獣人や鳥妖といった本質的に体毛が多い種族。換毛・換羽の時期ともなれば、ひとり入浴するだけで大風呂の表面が抜け毛で覆われてしまうのだ。無論クレームの嵐であり、当人同士の弾幕ごっこへ発展することも珍しくない。施設面では排水トラブルの原因にもなる、と大変に厄介なのである。出入禁止としようにも、彼等は経営母体たる守矢神社の信仰の要。加えて妖怪の山のお膝元という立地となれば、ぞんざいに扱うことなどご法度であった。
こうしたしがらみを勘案した結果、守矢の二柱は専用浴室の建設に着手したのだった。当初は完全な赤字計画であったが、運営してみると意外に悪くなく、損益分岐点近くを堅調に飛行している。他種族への蔑視が強い天狗幹部のお忍び需要を掘り当てたのも大きく、今や建前もあながち間違いではないのである。
・・・
「ごめん、お待たせ!」
手早くタオルを身体に巻き付けたリグルが入口横の会話用の小窓を開けると、今日で見慣れてしまった河童の顔があった。
「で、どうします? また延長します?」
呆れ混じりの気だるげな声色をよそに、リグルの脳裏に財布の中身が浮かぶ。今日だけで既に結構な額が出ていっており、正直厳しい。現金その場払いでツケも利かないため、払えば払うだけ財布は軽くなる。だが、哀しきかな。彼女の目的は未達であり、このまま帰るわけにはいかないのだ。
「……うん、延長で」
少しの逡巡のうち、リグルは震える声をごまかすように、一度唾を飲み込んで答えた。
「はあ……。これ三回目ですよね。もう夜通しプランに切り替えません? 正直来るのが面倒なんですよ」
眠気を隠さず、やる気なく言う河童の肩越しには、夜の闇が広がっている。入った時分は日没近く。基本プランの二時間に、一時間の延長を二回。今や二十二時を回ったところだ。提案通りに夜通しプランにした方がいいのかもしれないが、完全に足が出てしまう。物理的には残り延長二回、懸命なら延長一回が限界である。
「でも、持ち合わせが足りなくて」
「今なら延長二回分の料金にサービスしますよ」
やる気は無くとも河童である。金銭感覚、交渉事は十八番。懐事情を的確に当ててくるところが嫌らしい。
「次の延長の時じゃダメ?」
「それでもいいですけど、また私来ちゃいますよ? 何してるのか知らないですけど、邪魔されたくないんじゃ?」
下卑た言葉が、リグルの顔をかあっと真っ赤に染め上げた。やってることは 断じて『そういうこと』ではない、全くの勘違いだ。だが、状況的に否定できない。
「で、どうします? もう待てないんですけど」
あわあわと言葉に詰まった彼女に河童が追い打ちをかける。
「ちょっと待って!」
キッと河童を睨みつけると、目を閉じて熟考する。嫌な奴だが、提案に一理あるのも確かだ。先のようにいきなり集中を乱されてはいつ終わるとも分からない。そして何より再入浴するお金がない。今日を逃せば一巻の終わりなのだ。
「分かった! お願いするわ!」
結局忌々しげに財布をひっくり返すと、中身を投げるように河童に叩きつけたのだった。
・・・
毎度あり、という言葉を待たずに小窓を閉めたリグル。直後に吐き出した大きな溜息は、河童への苛立ちと軽くなった財布への悲しみのいずれか、はたまた両方か。そんな彼女を会話で忘れていた寒気が襲った。甲虫の羽ばたきを思わせるように全身を大きく震わせると、肩を抱くようにさすりながら湯船に飛び込み、そこでようやく顔をほころばせる。しかしそれも束の間、すぐに眉を八の字にした、悩める乙女に逆戻り。視線に先の湯面には、浴室を出るときに取り落としたシャンプーのチューブが浮いていた。
シャンプーは個室に入る前、温泉センターの売店で買ったばかりのもの。注連縄の中で胡坐をかくデフォルメされたカエルが印刷されており、その表情は穏やかだ。店員の河童によると守矢神社の新マスコット『ケロスワ』であり、泰然自若な雰囲気が神々しくも愛らしいと、人里の娘連中に人気らしい。
一方、裏面に並ぶのは神聖さの欠片もない売り文句。『神々が恋した香り』だの『外の世界の最新トレンド』だの、眉唾物のキャッチコピーが踊っている。そもそも香りの名前自体が『フローラルモリヤグリーン』とよく分からない。
そんな胡散臭いデザインを、リグルはもう見飽きてしまっていた。何しろ湯浴みを始めてから優に二時間、チューブの表裏を返しながら葛藤していたのだから。
・・・
葛藤の原因は香霖堂の主人、森近霖之助にある。
初め、リグルにとって霖之助は良き商売相手であった。彼は『蟲の知らせ』サービスの常連である。依頼は常に失せ物探し。乱雑に物が積まれた香霖堂の中、物を崩さずに動き回るに蟲ほど適したものもなく、日を空けずに依頼されることも常であった。加えて、店の立地柄か働き手である蟲たちに他の利用者ほどの嫌悪感を示さなかったのもリグルにとっては好印象だった。
同胞が探し物をする間、リグルは決まってカウンターに腰かけ、霖之助の長話に付き合った。内容は探している道具の使い方について。生涯使うことのない外の世界の話であったが、知恵の足りない自分にも分かるように話しかけてくれるのが嬉しかった。時には話す時間を伸ばそうと、発見の報をわざと遅らせることもあった。
関係が商売相手以上となったのは晩秋、紅葉がすっかり色付いた頃。カウンターで霖之助の話に相槌を打っていたリグルを隙間風がからかい、くしゅん、と可愛らしいくしゃみをさせたのだ。それを見た霖之助の『無理して来る必要はない』という親切にも無神経な発言がリグルに火をつけた。朴念仁の姿を見れば、綿入りの半纏に厚手の靴下と早くも冬支度。いかにも暖かそうな格好である。無言でカウンターから降り、霖之助の膝に座り直す。頭一つ分はある身長差が功を奏したのか、それは特注の家具のようにリグルを迎え入れた。思いのほかすっぽりと収まり、居心地は格別。慌てて身じろぎする霖之助であったが、太腿を妖怪の力で押さえつけると、しばらくして諦めたのか道具の話が再開され、この日からリグルの定席は霖之助の膝となった。
時にはその心地良さと上から降ってくるちんぷんかんぷんな話がリグルを夢の世界へ誘うこともあった。そんなとき、霖之助は胸にもたれた頭を撫でながら押し戻すのだ。その手つきは優しく、ずっと味わっていたいとリグルは思うのであった。
・・・
そして今日、その幸せをぶち壊したのもまた霖之助であった。
いつも通り依頼を受け、いつも通り香霖堂に向かい、長話を聞きながらまどろみ、頭を撫でられ、身体を起こす。いつも通りなら振り向いたそこには呆れた顔があるはずだった。だが、今日そこにあったのは頭を撫でていた左手をじっと見つめている清閑な顔。どうかしたのかと開きかけた口は、しかし声を紡がず固まった。あろうことか、霖之助はそのまま手を顔に近づけ、くんくんと嗅いだのである。
驚愕し目を見開いて固まったリグル。その心中も知らず、追撃が彼女を見舞った。
霖之助は、よりによって顔をしかめたのである。
・・・
さて、においというのは古今東西種族を超えて恋愛の重要なファクターである。その傾向は原始的な動物になるほど顕著であり、フェロモンを求愛行動の要とする虫にとっては最重要なパラメータといって差し支えない。虫の世界において、自分のにおいを受け入れてもらえないことは言葉よりも明確な拒絶なのである。
即ち、霖之助の行動は甚だ深くリグルの心を抉ったのだ。
霖之助の表情を見た瞬間、リグルは弾かれたように飛びのき、香霖堂から逃げ出した。もはや失せ物の行方などどうでもよく、思考は混乱の渦中であった。
リグルは入浴が嫌いというわけではない。幼虫時代を水中で過ごす蛍の妖怪ということもあり、どちらかといえば好きなほうである。自宅のシャワーからは水しか出ないが、夏場は毎日浴びていた。冬が始まった今でも、温めた石鹸水で絞ったタオルを使い、毎日身体を拭っている。できれば毎日温泉に浸かりたいが、それには金がかかる。しっかりと収入とのバランスを取っているのだ。
だから体臭については、自信とまでは言えずとも臭くはないと思っていた。だが、髪だけは別であった。
リグルのトレードマークたる二本の触角。それは一見するとただの黒い針金であるが、その実際は極々微細な六角形の孔が無数に凝集した超々高度な構造体であり、如何なる蟲のシグナルも漏らさずキャッチするよう出来ている。加えてそれぞれの孔には微小なセンサー毛が生えており、空気の振動から音や物体の位置を読み取れる、五感を集約した高性能な器官なのである。それに石鹸が付くともなれば、阿鼻叫喚。このため、髪は水で流すのみとしているのであった。
よくある種族間のすれ違い。だがそれを、無意識にも霖之助に突かれたことが悲しかった。一方で、これを試練と考える自分もいた。さながら蛹からの羽化。少女から女への第一歩。お洒落は自分との戦いなのだ。
そして、気付けばリグルは温泉センターにいた。河童に言われるがまま初めてのシャンプーを買い、高い個室にこもり、一人孤独な戦いを始め、数時間が経過しているのである。
・・・
湯船に入ってから三十分は経っただろうか。のぼせ始めた顔を両手で叩いて喝を入れると、リグルはようやく立ち上がった。
シャワーを背に、肩口にお湯がかかるようにして洗い場に座り込む。正座から足を崩すと意を決してチューブの蓋を開き、中身を手のひらに絞り出す。とろりとした白液がゆっくりと出てきて、自然のものとは違う濃密な香りが花より先に触角に届いた。普段使いの石鹸とは明らかに違う媚びた香りに不思議と気分が高揚する。いよいよ勝負の時。シャンプーを泡立てた手を、まずは後頭部にあてがった。
指先に走ったごわついた感触は、日ごろの不義理を訴えるものであろうか。その不平と対話するように、頭皮を揉むようにして慌てずゆっくりと丁寧に髪をほぐしていく。そうすると次第に、指が通った場所にじんわりとした温かさが広がってきた。リグルにとって生まれて初めての感覚だったが、それが気持ちよさに変わるのはすぐであった。本人が知らぬとも、張り詰めていた緊張感はすっかりほぐれていた。
後頭部を洗い終えると一度念入りにシャンプーを洗い流す。たとえ微量であっても、触角に付いたらたまらないからだ。
一息つくと、今度はこめかみに手を添え、同じように洗っていく。すると段々、洗っていない部分が痒みを帯びるようになってきた。これまで味わったことのない快楽を味わいたいと、未洗浄の部分がせがんでいるのだ。疼きに同調して、呼吸は浅く早く、指使いは雑になる。紅潮した頬は湯のせいではないだろう。かきむしるように前頭部まで一気に洗い終え、リグルは再度シャンプーを洗い流した。残すは触角の生え際、頭頂部のみ。
リグルが自身の変調に気付いたのは、この時であった。一過性と思っていた頭の疼きは依然取れず、呼吸も落ち着かない。何しろあれほど嫌っていた洗髪が、今はしたくてたまらない。自分はどうしてしまったのか。気を落ち着かせるため、シャンプーを落とした手で頭頂部を引っ搔いてみても、全然足りない。初めて知った享楽が食虫花の蜜のように彼女の心を捉えていた。
乱暴にシャンプーを絞り出すと、泡立てもぞんざいに手を頭に持っていく。前頭部から触角の生え際に向け、じわりじわり。新たな快感を楽しむようににじり寄る。一方、触角に異物を近づけまいとする本能か、はたまた恍惚への条件反射か、指が触角寄るたび、自然と首は上を向き背中は海老反りになっていく。
そして悲劇は起こった。
触角まで爪一枚、悦楽の中心に触れんとしたとき、限界まで反られた背中を支えていた桃尻が摩擦をぬるりと手放したのだ。
消えた重力。遠くなる天井。両手は上がったまま、受け身は取れない。ずれた右手は触角を根元から曲げている。
ずん。
絶望の音がリグルの脳内にこだました。右の触角が後頭部と床に挟みつぶされたのだ。
刹那の後悔の中、やだ、やだ、と呟いたリグルを残酷な感覚の奔流が襲う。それは熱であり、痛みであり、悪臭であった。
受容できない感覚の暴走は、強烈な吐き気となり胃袋からあふれ出た。たまらず暴れそうになるが、湯船の縁を掴んで踏みとどまる。掴んだ部分がメキメキと音を立ててひしゃげたが、気にする余裕はない。こうなってしまうと波が過ぎ去るまで耐えるほかない。時に呻きつつ大きく呼吸を続けるリグルの顔は、哀れにもすっかり青ざめていた。
・・・
しばしの後、拷問めいた時間から解放されたリグルを支配していたのは、やり場のない怒りであった。
リグルにとって触角は逆鱗である。過去、いたずら心で二本とも後ろから握りしめた氷精は、都合三回分の『一回休み』をもってその浅はかさを後悔することとなった。万物おしなべて逆鱗があり、リグルもその例外ではない。
しかし今回この場面、怒りをぶつけられる下手人はいなかった。強いて言えばリグル自身であり、それはリグルも承知している。だが、そこで我慢し留飲を下げられるほど大人でもないのであった。
吐瀉物の残滓が臭う浴室を見渡した時、リグルの目に止まったのは床に転がったシャンプーのチューブであった。正確にはチューブに描かれたマスコット『ケロスワ』と目が合ったのだ。そしてその全てを見透かすような柔和な表情が、リグルの心の逆鱗に触れた。
思うより先に『ケロスワ』めがけて拳を叩きつけると、空気の入ったチューブはばいんと弾んで壁で跳ね返り、リグルの肩を叩いて落ちた。
これが決定打となった。
どいつもこいつも、ばかにしやがって。
容赦はなかった。左手でチューブを床に押さえつけ、右拳を叩きつける。一度、二度。三度目にして『ケロスワ』はぶぴぃと無様な断末魔を上げて果て、白液が無残に飛び散った。
無論、この程度で冷める怒りではない。次の矛先は元凶たる唐変木に向けられた。
誰のためにこんな苦労をしていると思っているのか。信頼していたのに髪の香り一つで裏切るのか。あの心地良い時間は嘘だったのか。そもそもあいつは私のなんなのか。
そして冷静さを欠いた短絡な思考は、素面では至らない結論に着地した。
『霖之助に髪を洗わせればいい』
思うが早いか、リグルは浴室から飛び出した。身体を拭くのも服を着るのも億劫とばかり、マントだけ羽織ると冬の夜空に舞い上がる。厳寒の北風がたちまち睫毛を凍らせるが、怯むことは無い。今やリグルの胸中は、愛と憎、二色の炎が螺旋を描いて爆ぜている。寒風など恐るるに足らず。今宵今晩この時に、恋する少女の激情を阻める者はいないのだ。
そして見えたは香霖堂。窓から漏れる弱光は、主人が起きている証拠。降り立ちざまに玄関扉の中央へ、ノックには些か重たい一撃を他意も交えて叩きこむ。響くは闇を切り裂く衝撃音。返事も待たず、間髪入れず引き開ける。
はたして霖之助はそこにいた。いつもの位置に腰かけて呆気に取られている様子。その口が何かを紡ぐより先に、跳躍一閃、カウンターに飛び乗ると、片手で両唇を引っ掴み、ぐっと手前に引き寄せる。驚き、恐れ、少しの怒り。混乱に大きく開いた釣り目に向けて、愉悦を込めて吹きかける。
「―、――――」
【 了 】
恋に燃え上がる蟲娘、最後はまごうことなく暴走ですが、どこまでも真剣そのもので可愛かったです。そして、その真剣っぷりが切実に伝わってくる描写が素晴らしかったです。
リグルがここまで恋に全力だというのに、霖之助の反応が安定の霖之助っぷりだなぁ。
リグルの煩悶の具合がとても丁寧に書かれていて説得力があってとてもよかったです
物にあたるところもマント一丁で飛び出して行ってしまうところも素晴らしかったです
そこに至るまでの守矢の温泉施設の描写も良い味で面白かったです。
描写も丁寧で好きです。
一つ一つの描写が丁寧で、細かい設定やアイテムが散りばめられているせいか、短いながらもしっかりとした世界観が構築できていて、読んでいて楽しい。
このあとどうなるのかもとても気になりますね。どのタイミングでリグルが我に帰るのか。