Coolier - 新生・東方創想話

忘却の技法

2020/12/31 22:54:36
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     1


 寺子屋の男子生徒は三種類に分けることができる。
 笑顔の慧音が好きな生徒、困り顔の慧音が好きな生徒、怒り顔の慧音が好きな生徒の三種類だ。
 その日慧音が浮かべていた困り顔は、二番目の種類の生徒を大層喜ばせるものだった。
 だが残念なことに、その表情は女子生徒に向けられたもので、そして部屋には二人以外誰もいなかった。
「こんなこと相談できるの先生しかいなくて……」
「あ、ああ……。とにかくよく相談してくれた」

 三十分ほど前に遡る。暮れなずむ夕日を浴びながら、放課後の校舎に一人残った慧音は事務仕事を片付けにかかっていた。そこに現れたのが教え子のひとりであるその少女である。
 相談という体裁をとっていたものの、少女の言葉はなかば支離滅裂だった。現実世界で何が起こったのかについて、自分で自分を説得しにかかっているかのようだった。おかげで慧音は話についていくのに苦労した。
 それでもどうにか少女の話を要約すると、次のようになった。
 里で郵便配達人をやっている若い男(慧音には心当たりがあった。きっと寺子屋の卒業生である。)がいて、少女はいつの間にかその人のことが好きになってしまった。その人がいるところにお使いで郵便物を持ち込んだ折、彼に宛てた恋文を混ぜ込んで手渡した。恋文の内容は死んでも話すことができない。口から心臓が飛び出るか心臓から口が飛び出るか分からないくらいに緊張した。しばらく経ってから少女の家に、彼から郵便物が届けられた。なんでもない品々に混じって、彼から少女への返事の手紙が入っていた。そこには、気持ちはありがたいが自分には結婚を決めた人がいる。ゆえに希望に応えることはできないという旨が、できるだけ失礼にならないような柔らかい文体で記されていた。それが昨日のことである。

「お願いです先生。先生の力で、この記憶を忘れさせてください!!!」
「そうは言うがな。折角の長くない人生、自分でさらに短くしてしまうこともなかろう」
「そういう問題じゃないんです! 昨日からずっと、頭に焼き付いて離れなくて。忘れよう忘れようと思えば思うほど忘れられなくなって」
「みんな多かれ少なかれそういう経験はするんだ。きっと乗り越えられる」
「ダメです……。このままだときっと頭がおかしくなっちゃいます私」
「もし仮に私が歴史を喰べて、それでもう一回同じことの繰り返しになったらどうするつもりなんだ」
「そんな先のこと考えられないです! もう今が耐えられないくらいつらくて……」
 少女は譲らなかった。慧音も途中までは根比べに付き合ってやろうかという気になっていた。
 だが、慧音はある時点で急に節を曲げた。
「────うーん。できればこの力は使いたくないんだがな。ただどうしてもということなら、かわいい生徒の頼みだ。引き受けないわけにはいかない」
「ありがとうございます……!!! それじゃあ早速……」
「いや、今すぐにというわけにはいかないんだ。私の歴史を喰う力は夜にしか使えないし、いろいろと準備しなければならないこともある。少しの間だけ先延ばしにさせてはくれないか。そんなに長くはかからないだろうと思う」

 その言葉に偽りはなく、慧音の行動は素早かった。生徒が夜に出歩いてもおかしくない状況をつくりだし、かつ教師に疑いの目が向かないように仕向けるという課題を、宿泊施設を使った『お泊まり会』を企画することによって達成する。急な日程であることや家庭の事情のせいで参加できない生徒たちの不満を、宿題を課さずに休日を設け、土産を約束するという方法で回避する。宿の経営者も慧音の知り合いだったので、抜かりなく支度を調えておくように指示しておくことも欠かさない。
 三日後には、わいやわいやと騒がしい声を上げながら宿泊施設へ向かう寺子屋一行が里の大通りを闊歩することになった。
 少女はその間絶えずそわそわとしていたが、望みが聞き入れられたことによって、相談に来たときほど取り乱してしまうことはなかった。
 
 だが慧音はひとつだけ少女に嘘をついていた。
 彼女の能力は、夜にしか使えないというわけではなかった。


     2


 布団が敷き詰められた広間からこっそりと起き出して、少女は慧音の客室に行く。
 約束時間ぴったりに訪問したはずだったが、どういうわけかすでに彼女の姿はなかった。
 代わりに、『準備があるから先に向かっている。竹林の中で合流しよう。上白沢』と記された書置きが机の上に残されていた。
 これは約束の場所まで彼女単独で向かわなければならないことを意味していた。
 こうなっては一も二もない。夜の闇を抜けていくのは気乗りしなかったが、失恋の記憶を引きずるのはもっと嫌だった。冷えないように重ね着をしてから少女は宿を出た。
 夜の幻想郷は人間のものではない。妖怪をはじめとする、夜に生きるものたちの手の中にある。教科書的だったその知識が、実感を伴って少女に迫ってくる。ただの畦道でさえ引き返したくなるくらいの底知れなさを醸し出していたが、竹林の入り口はそれに輪をかけて恐ろしげだった。
 だが少女の蛮勇はまだ尽きていなかった。文字通り死ぬ思いで、闇の中でもさらに暗い、竹たちが密集する林の中へと歩みを進めようとした。
「どこいくんだい、こんな夜に」
 意識外から声をかけられ、おまけに肩に触れられて、少女は間の抜けた悲鳴を上げた。
「そんなに驚かれるとちょっと傷つくな……」
 妹紅は、少女がぎこちなく振り返った先にいた。
 寺子屋(にいる慧音)を訪れる妹紅のことを、ときおり遠目に見たことはあった。だが、少女がこうして間近で彼女に接するのはこれが初めてだった。
「一応聞くけど、こんなところに何の用?」
 少女はしばらく質問に答えなかった。妹紅の奇異な出で立ちに目を奪われていたからだ。大きなリボンに、白いシャツ、サスペンダーで吊された幅広の真っ赤なズボン。膝まで届きそうな真っ白い長髪に、長い睫毛、猫科の動物めいたつぶらな瞳、つんと鋭い鼻筋。美しいことに疑いはないが、やはりどこかが非人間的だ。
 妹紅に「大丈夫?」とだめ押しされて、ようやく少女は問いに答える。
「あっ、あの。待ち合わせをしてるんです。慧音先生と。この先で」
「竹林の中でかい?」
「ええ、まあ」
「ここに入るの初めて?」
「はい」
「よし。それじゃ慧音に合流するまで一緒についてってあげよう」
「いいんですか?」
「夜の竹林は意外と危なっかしいからな。妖怪にかじられたりするの嫌だろ?」
 意外でも何でもない、と突っ込みそうになったが、少女はすんでのところでこらえた。案内を買って出てくれた人の機嫌を損ねるようなことはすべきではない。
 妹紅は首をくいとやって、ついてくるよう少女に指示した。
 勝手知ったる大股歩きの妹紅を、少女は早足で追いかける。
 それまでは足の踏み場も見つけるのが難しい鬱蒼とした緑の檻というイメージを竹林に対して持っていたが、それは少女の思い違いだった。少なくとも妹紅の後ろを歩いていく限り、人が通れそうな程度の気の利いた獣道が途絶えることはなかった。
「今日の月は居待月ってところか」
 言われてはじめて、少女は空に目をやる。思わず足を止めてしまっていた。竹林から見上げる夜空は、いつも見るそれよりも高く、そして清浄なものに感じられた。美しい。
 随行者を得て心に余裕が出てきたからか、浮かぶ月の明るさに安心したからか、少女は非日常をほんの少しだけ楽しみ始めていた。それでもやはり、あの拭いがたい苦痛の記憶は頭から離れてくれない。
「月、きれいですね」
「どうだろうな」
「お月見とか好きじゃないんですか?」
「あんまり。月も兎も見飽きてるから」
「あの、いまさらかもですけど、お名前って──」
「藤原妹紅」
「ふじわら『の』ってカッコイイ苗字ですね! なんだか歴史上の人物みたいです」
 妹紅の背中は、「ああ」とも「いや」ともつかない曖昧な発音の答えに終始する。
「もしかして歴史好きなんですか? それで慧音先生と仲良くしてるんですね」
 苗字ってのは歴史好きなんていう理由だけでいじくりまわせるものじゃないだろう。妹紅はその言葉をぐっと飲み込む。
 そして、「そうなんだよ~」とへたっぴな愛想笑いを浮かべる。


     3


 ふたりはなおも竹林の中を進み続ける。
「それにしてもあれだな、歴史には学ぶところが多いな」
 妹紅はポケットから煙草を一本取りだして、慣れた仕草で火をつける。
 指先から不意に火が現れたように見えたが、気のせいかも知れないと思いなおし、少女はそれを問いただすようなことはしなかった。
「慧音先生も同じこと言ってました。悪いことに、うちの親とも同じです」
「だろ?」妹紅は得意げだ。「悪いことに、ってのはひっかかるけど」
「別に嫌いじゃないんです。でもちょっと鬱陶しく思うときがあったりするだけで」
「いや~、あるある。あるねえ、そういうこと」
「なんでちょっと嬉しそうなんですか」
「みんなそういう時期があんのよ。そんで、ホントは歴史なんて勉強しても意味がない、もとより、人にやらされるお勉強なんて頑張ったところで甲斐がない、とか思ってるんだろ?」
 ちょっと図星を突かれたが、はいそうですと言うのが癪だったので、少女はあえて「勉強するのは大切です」と返した。その声は、聞きようによっては無機質で、聞きようによっては従順そうなものだった。
 それを聞いて、妹紅は深く煙を吸い込んだ。
 次に吐き出された煙には、多少の溜息も混じっていたかもしれない。
「歴史の勉強をしよう」
「はい?」
「読み書きのほとんどできない天涯孤独の女の子がいた。女の子が住んでた地域は悪政に苦しんでいて、民衆みんなで力を合わせて悪者連中をやっつけようって話になった。そこでみんなの連帯を証明するために、一枚の血判状を作ることになった。だが女の子は字が書けない。気を利かせた周囲が仮名文字でとりあえず名前を書いてあげるが、一人だけ漢字じゃないせいでどうにも収まりが悪かった。その後どうなったかというと、残念なことに運動はあっという間に失敗した。女の子に良くしてくれた人たちの多くは殺されたり虐げられたりした。だが少女は幸か不幸か傷ひとつ負うことなく逃げ延びることができた。少女はその原因を、血判状に自分で名前を記すことができなかったせいだと決めつけた。弱々しい結び付きしかなかったから、苦も楽も共にすることができなかったのだと。少女はその後、遠く離れた別の場所に住むことにした。このことから何が言える?」
「読み書きは大切、とか」
「他には」
「他には? えっと……。権力に刃向かうなら事前準備はしっかりする、とか」
「他には」
「うーん…………」
 しばし沈黙が続く。足音だけが竹林に響く。
「いや、いいんだ。急に悪かったな。ふたつも答えられたら上等だよ。つまりだな、事実はひとつだけど、それに対する解釈は幾通りもできてしまう。その解釈をきれいに説明できないか模索していくなかで、自分の人生でも活かすことのできる教訓を見いだすことができたりする。これが歴史の勉強の面白いところだ。さらに言うなら、この女の子が間諜だった可能性、それに気づけなかった民衆の脇の甘さってのも、解釈と教訓のひとつの可能性としてありうるんじゃないかな」
「うわあ。慧音先生みたい」
「そりゃそうさ。慧音の受け売りだもん」
 妹紅はあっけらかんと言う。
「先に言ってくださいよ。勘違いしそうになりました」少女はだんだん妹紅の性格が分かってきた。「でも、その話は初耳です。それもやっぱり慧音先生から?」
 妹紅は小声でぼそりと続ける。「これは私の話だよ」
「はい?」
「ウソ、ウソだよ! 私がどっかで聞きかじった噂だよ。これも一つの歴史ってな、あはは……」
 誤魔化しきれない決まりの悪さをどうにかうやむやにするために、妹紅はそそくさと煙草を取り出し火をつける。少女は今度こそ指から火を出しているのをはっきりと目撃したが、それに対して何か言う気にはならなかった。
 ちょっと焦った様子の妹紅が、早口で少女に煙草を勧めてくる。
「これ吸ってみる? 寺子屋でずっと良い子ちゃんでいるのもかえって毒だ。たまにはこういうのも良いんじゃないかな」



     4


 勧められるがままに煙を吸ってからというもの、少女には様々なことがおぼろげに感じられた。その感覚は熱い風呂に長い間浸かった後のそれに近いが、それよりもどこか性質が悪い。頭も身体もふらふらと支柱を失ったようだった。
 しまいには足取りがおぼつかなくなり、右手を妹紅に掴まれる。
 そこに微かだが確かな温かさを感じる。
 そして少女は、あの人とも手をつないでみたかったなあ、と思ってしまう。煙草のせいでボンヤリとしていたことも手伝っていたが、引き金は彼女がそう思ってしまったことだった。
 これまで慧音と夜中に会う理由を一切聞かなかった妹紅に対して、こともあろうに自分から、経緯をすべて打ち明けてしまったのだった。
 とぼとぼと歩きつつ、途中ちょっと泣きそうになりながらも、少女の語り口は明瞭で、慧音に相談したときよりもいくぶんか筋道だったものだった。
「乱暴に要約すれば、失恋の思い出を忘れたいわけだ」
 妹紅の足取りは竹林に分け入った当初よりもずいぶん穏やかになっていた。
「そうです」
 妹紅は繋いでいた手を離して、少女に向き直る。
「昔のことを引きずってしまうのは、真正面からそれに対峙したことがないからだ。顔を突き合わせて、喰らい尽くして消化してしまいさえすれば、そいつに煩わされることは滅多になくなる」
「それも、妹紅さんが歴史から学んだことですか?」
「違うよ。これは経験から学んだ」
 妹紅は少女から目を離して、竹林の遥か上空に広がる星月夜を見やる。
「よくある話だ。私も前に取り返しのつかない類の失敗をした。そのあとしばらくの間、似たような場面に居合わせると、頭に焼き付いたその失敗の記憶が顔を出すようになった。結果、私は代わり映えのしない失敗をひたすら積み重ねた。そしてそのたびに、似たような失敗ばかりする自分への軽蔑の思いを深くしていく。負の堂々巡りだ」
 その話しぶりは、努めて軽やかにしようとしているように感じられた。
「でもな、要領の悪い私でも、嫌になるくらい繰り返してるうちに、ひとつの考えに思い至った。『あれ。私がいま見ているのは、目の前の現実じゃなくて、それに重ね合わせられた只の過去の幻影なんじゃないか』って」
「目が悪くなってたんですか?」
「ばか、そういう意味じゃないっつの」
 少女はすこし紫煙に酔っていた。その酔いが、最初にからかわれたことの意趣返しにと、妹紅に対して冗談を飛ばさせた。
「……なんつうか、知らぬ間に引っ張られてたんだ、最初の失敗に。そんで、どうして引っ張られちゃったかといえば、それを直視しようとしてこなかったからなんだ。子細にみてみれば、最初のそれと、いま眼前にあるこれ、二つの間には色んな違いがある。だが、失敗を直視することから逃げ続けてきた私は、見比べて違いを見いだすということがずっとできないままでいたんだ」
「でも最終的に、ちゃんと直視した」
「ああ」
「それってつらくないですか?」
「つらいさ。ものすごくつらい。でもそれはきっと必要な儀式なんだと思う。負の記憶をいたずらにのさばらせておくくらいなら、頭から尻尾の先まで全部平らげて、それを自分の血肉にしてしまう方がずっといい。違うか?」
「……わからないです」少女はその答えだけで逃げようとせず、どうにか続く言葉を絞り出す。「誰もが妹紅さんみたいに強いわけじゃないから。だから平らげるなんてできなくて、それを檻のなかに閉じ込めて蓋をしてしまうのが精いっぱいだっていう人もいると思うんです。妹紅さんの言うことを間違いだといいたいわけじゃないです。だけどそれって、私みたいな人間からするとちょっと無茶な注文に聞こえたりもして」
 妹紅はひゅるりと口笛を吹いた。
「さすが慧音の教え子だ。ちっちゃいように見えて、いっぱしの口を聞くじゃないか」
「すいません」
「大切なことだと思うよ。ただ一つ訂正すべき点がある」
「どこですか?」
「私が強いってところだ。別に私は強くない。私だって、最初は嫌な記憶をただ放置しておくことしかできなかった。永い永い時間をかけて、記憶の上に大量の記憶を積み重ねて、それでようやくさっき言った風にふるまうことができた。それまでは、ほとぼりを冷ますみたいにただ寝かせておいてたんだ」
「妹紅さんの場合だと、どのくらいの時間がかかったんですか?」
「秘密」妹紅は人差し指を唇にかざす。
「そんなぁ」
「女性に年齢を聞くもんじゃない」
 妹紅はとぼける。口元には意味深な笑みが浮かんでいる。
「年齢は聞いてないです」
 少女はささやかに口をすぼめて不満の意を表明する。
「ふふ、そんな顔しなさんな。つまるところ私が言いたいのは、慧音に記憶を喰ってもらうだけじゃなく、他にやりようがあるってことだ」
「はあ……」少女はわかったようなわからないような感覚だった。うまいように煙に巻かれただけのような気がしないでもない。一方でなんとなく得心がいくような気もしていた。
 結局、妹紅の犯した失敗が何だったのかは少女には分からずじまいだった。


     5


 妹紅はそこで話すのをやめ、歩き煙草に精を出し始めた。
 自然と少女も口をつぐまざるをえなくなる。
 妹紅は一本の煙草を丁寧に根元まで吸ったかと思うと、すぐさま新しい一本に火をつけ、ふたたび振出しに戻る。歩くスピードは一定で、煙草の先に蓄積されていく灰を振り払う動作も一定。そして歩けども歩けども、夜の竹林と空に浮かぶ黄金の月はその表情を変えようとしない。
 変わらず続いていく景色と変わらず繰り返される動作のせいで、少女は自分が進んでいるのかどうか自信がなくなりそうになったりした。
 そんなさなかでのことだった。
「遅いじゃないか」
 不意に、竹が密生せず小さな広場のようになっている場所があらわれた。
 慧音はそこで腕組みをして立っていた。ずっと一点だけを凝視していたらしく、それはまるで妹紅たちが来る方角をはっきりと把握していたかのような感覚を少女に抱かせた。
「大変お待たせいたしました」妹紅は左腕を胸の前にかざして大げさに礼をした。
 夜目に慣れてきていた少女は、慧音の姿をしげしげと眺める。普段絶対に取ることのないあの帽子を被っているのは変わらなかったし、噂とは異なり角を生やしたりもしていなかった。だが、慧音の姿は日中に見るそれとどこかが決定的に違っていた。
「ここなら私たちのほかに目撃者はいない」
 慧音は淡々と続ける。
「早速だが、準備はいいか?」
 少女はおそるおそる首を縦に振ろうとする。
 直前、ふと妹紅の顔を覗き込む。
「じゃあな」
「えっ…………。どういうことですか?」
「だよな、慧音? 告白話、私は聞いちゃったし」
 慧音はうなずく。「私はこれから、お前の告白に関する歴史をすべて無かったことにする。それに付随して、いくつかの歴史も一緒に消えることになる」
「そういうこと。これで『さようなら』だ。そんで次会うときは、また『初めまして』だ」妹紅はこともなげに言う。
 その瞬間、少女はいくつかのことを考えた。走馬灯とまではいかないものの、その思考の素早さにはいささか常軌を逸したところがあった。
 まず、これは私が招いたこと。ふとした拍子にあのことを思い出すのはつらいし、できるものなら忘れてしまいたいという気持ちも変わらない。
 でも、この人と散歩してきたこの時間まで記憶から消えてしまうというのは惜しい。涼やかな瞳、綺麗な白い長髪、あやしげな煙の匂い、夜の竹林をさらさら吹き抜けていく夜風。初めてのことばかりだったけど、どれも魅力的に感じられた。
 それに何より、さっきこの人が言ったことを私は全て忘れてしまうのだ。慧音先生ではなく、私自身が歴史を喰うという発想は、正直まったく予想外だった。だけどその話に説得力を感じていることは否めないし、乗ってみても良いかもしれないと思っている私も確かに存在している。
 両方を天秤にかけてみたとしたら、どうなるだろうか…………。
「あの、ひとつ伺ってもいいですか先生」
「なんだ?」
「先生はこのあいだ、私の記憶を喰うのを先延ばしにくれるって、そうおっしゃいましたよね」
「そうだな」
「────わがままなのは承知のうえで、お願いです。記憶を喰べるの、さらに先延ばしにしてもらうことってできないでしょうか?」


     6


 妹紅と慧音は居酒屋で杯を酌み交わしていた。
 『鯨呑亭』という、妖怪やそれに関係する者たちの間で近頃話題の店だった。評判にたがわず、置いてある酒の趣味は悪くないし、料理の味も良かった。
「急な頼みだったのに、あの件では本当に世話になった。道中、永遠亭の兎たちを監視につけて妖怪どもの露払いをしてくれたというのも、後で永琳から聞いたよ。やっぱり妹紅は頼りになる」
「よしてくれ。私は散歩と雑談に付き合っただけだ。その先を考えたのはあいつ自身だし、判断したのもあいつ自身だ。とりあえずは、祝、無期限延期! ってところだな」
「なんと礼を言ったらいいか。なにしろ私が話すとどうしても説教くさくなってしまうから……」慧音はそう言って、ばつがわるそうに帽子をいじる。居酒屋の店内でも絶対に帽子を取らないのが慧音の流儀のようだった。
「それが慧音の良いとこじゃないか」
「褒めてるのか?」
「もちろん。それに私も人のことはいえないよ。ずいぶん余計な話をしちゃったから」
「最近な、あいつがまた少しさわがしいんだ」
「また失恋したのか?」
「違う違う。その逆だ。妹紅に会わせろってうるさいのなんの。お前、最近寺子屋に顔を出さないだろ? だから余計に意識してるらしくて」
「なんだ、じゃあもしかして次に告白されるのは私か? モテる女はつらいねえ」
「まあその点は心配してない。妹紅のことだからうまくやってくれると思うよ。ただ……」
「ただ?」
「恋心と憧れをどうやって区別するのか、あいつもそろそろ学ぶべき時期なのかもしれないなぁと思って。男子と一緒に無邪気に走り回っていたのが遥か昔のようだ」
 慧音が遠い目をしてそう言う。付け入る隙が生じたのを、妹紅は見逃さなかった。
「おっ。こないだまでこんなに小さかった慧音お嬢ちゃんが、言うようになったねぇ」
 そう言いながら、妹紅は手のひらを腰のあたりに持って行ってひらひらスライドさせる。
「慧音に恋愛相談されたときもあったっけ。ありゃあ楽しかったな!」
「ッ……ばか! そんな昔の話、いまさら持ち出さなくてもいいだろ!」
「慧音も大人になったけど、照れ屋なのだけは変わらないな」ふふ、と妹紅は笑う。
「さっさと忘れてくれ……」
「それは聞けない願いだな。忘却の技法を心得ている私は、ここにたっぷりゆとりがある。だから慧音との思い出は絶対に忘れないんだ」そう言いながら妹紅は人差し指でこんこんと頭をつつく。
 二人の頬が赤みを増したのは、酒のせいだけではなかったかもしれなかった。


二本目の投稿です。
よろしくお願い申し上げます。
そらみだれ
https://twitter.com/soramidare
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コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
雰囲気良く良かったです
3.100名前が無い程度の能力削除
慧音先生かわいい。
どことない秋山瑞人感がある気がします。
4.100名前が無い程度の能力削除
妹紅の描写がお綺麗でした
5.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです
6.100サク_ウマ削除
無自覚タラシもこたんいいぞ
正道の味わいでたいへんよろしかったです。好きです。
7.100マジカル☆さくやちゃんスター(左)削除
ちょうどけねもこ切らしてたので非常に助かりました
地の文とか台詞回しもすごく好きです
ちょうどけねもこ切らしてたので非常に助かりました
8.100水十九石削除
少女の記憶から始まって、妹紅の強さと記憶の保持について絡めてくる構成が良かったです。ちょっと甘酸っぱくて登場人物の優しさが溢れていて、最終的に忘却の技法を習熟させているのが妹紅だったというオチも良いものです。
そして地の文の丁寧さ、細かい部分を説明するその語りまで繊細に書かれていてスラスラと読ませてくるのもそうですが、時折ニヤけてしまうような表現も混じっているのもまた楽しかったです。面白い話でした。
9.100夏後冬前削除
妹紅ならではの含蓄もあり、とても面白く読めました。何より文章がとても綺麗。流麗。スルスルと読み進められました。素晴らしい。
10.100南条削除
面白かったです
妹紅も慧音も寺子屋の少女も全員魅力的で読んでいて楽しかったです
12.100名前が無い程度の能力削除
文章うまお
13.100石転削除
妹紅のミステリアスな魅力が感じられて良かったです
14.100名前が無い程度の能力削除
テンポよく読めました
勝手な解釈ですが、生徒は恥ずかし顔の慧音先生を知らず、妹紅だけが知ってるっぽいの、2人だけの世界が感じられて良いですね